ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪の山歩き

2014-11-24 22:52:06 | Weblog



11月24日

 冬型の気圧配置になって、天気の良い日が続いている。
 朝夕には、多少、稜線に雲がかかってはいても、長々と続く日高山脈の山々の姿を見ることができる。
  夏の間は、雲に閉ざされていてたまにしか見ることのできない山々を、こうして毎日見ることのできるのは幸せなことだ。 しかし、もう一月以上も山に行っていないと、私の山心(やまごころ)がうずき出す。
  数十年にわたって山に登り続けてきたから、”年だから疲れる”とは言っていても、やっぱり山を歩くことが好きなのだ。
 数日前、雪を求めて、初冬の山に行ってきた。

 もう少し前までは、初冬の雪氷の山を求めて、アプローチが簡単な、それでいてピッケルやアイゼンをガシガシと効かせて登る冬山に行っていた。遠く、十勝岳連峰(’10.10.23の項参照)や大雪山(’08.10.24,26の項参照)にまで足を伸ばしていたのだが、もう今では雪の峠道を越え、長時間をかけてまで行く元気はなくなってきた。
 しかし、雪山には登りたい。
 私の住む十勝地方で、標高が低く簡単に登れる山はと言えば、前回に登った然別の山々か、日高山脈北部の山々しかない。

 秋に白雲山に登ったから、また然別の山にというのも気がすすまない。
 それでは、日高の山だが、ペケレベツ岳(1532m)には春に登っている(5月5日の項参照)し、剣山(1205m)には何度も行っているし、残るのはオダッシュ山(1098m)か佐幌岳(さほろだけ、1060m)である。
 思えばこの二つの山には、ともにもう20年も前に登ったきりだ。
 それは前にも書いたように、そんな低い山々よりは、原始性あふれる日高山脈主稜線を形作る主峰群に、まずは行きたかったからである。
 しかし年を取った今、その年寄りのずるがしこさとものぐささで、登りごたえのある秘境性あふれる山などよりは、何より簡便手軽に自然を味わえる山へと、自分の登山への方向性を変えてきたのだ。
 さらにもう一つ、越冬前のヒグマの動静も気になるところであり、低い身近な山でもヒグマが出ないとは限らないからだ。

 そこで、いろいろと考えて日高山脈最北端の山、佐幌岳、に行くことにした。
 この山には、二度登っている。最初は、5月初旬、まだ雪がたっぷりあるころで、狩勝峠からの往復だった。もう一度も同じ道をたどったのだが、それは秋の初めのことで、次回の山行のための足慣らし登山だった。
 今回は、まだ登っていないもう一つのルート、サホロリゾート・スキー場から登ってみることにした。スキー・コースなら、昼間からヒグマが出ることはあるまいし。
 もっとも、北海道は全域がヒグマの生息地域だから、特に早朝夕暮れ時には、どこでも歩き回っているだろうことは十分に考えられる。(実際に、わが家の小さな畑にさえ、ヒグマの足跡がついていたことがあるくらいだ。)
 私はいつも一人で山に登っているから、どうしてもヒグマを気にして鈴をつけて歩かなければならない。

 できるなら、静かな山の雰囲気にひたりたいから、鈴なしで歩きたいのだが。一時期そんな思いで、日高の山でさえも、鈴なしで歩いていたことがあったのだが、例の6年前の剣山でのヒグマとの遭遇(’08.11・14の項参照)以来、今では気になるところでは、ストックを岩などにあてて音を出したり鈴を鳴らして歩くことにしているのだ。
 最近では、登山者がヒグマに襲われたということはないから、必要以上にびくつくことはないのだが、もちろん私もそうして、今までに何度かヒグマに出会ったことがあるだけに、もうあの時のような不安な気分になりたくはないし、できるなら鈴などの音に気づいて先に相手が逃げて行ってくれるよう願うばかりである。

 さて帯広から富良野方面に向かう国道を走り、あの狩勝峠への上りに差し掛かったころ、右手にサホロ・リゾートの大きな看板を見て、右折して入って行くと、すぐに林が開けてスキー場になり、青空の下に佐幌岳の頂上が見えていた。
 その頂上下から続くコースが、雪で帯のように白くなって続いている。
 このサホロスキー場はあの糠平(ぬかびら)スキー場とともに、晴天の多い十勝地方にあって雪質は言うまでもなく、ロングコースの楽しさを十分に味わうことができる。
 そこで、すぐ傍にあるサホロリゾート・ホテルのフロントに届け出を提出した後、ガイド・ブックどおりの中央コースをとれば、もうそこから歩き出していいのだが、今回は一番端にある北尾根コースを歩きたかったので、 もう少し先にあるベアマウンテン・ロッジにまで行って、そこの駐車場にクルマを停めて、歩き出した。

 雪はまだらに残っていて、日陰では凍っている所もあったが、さすがにスキー・コースだから草木が刈り払われていて、すっきりと見通しがきいて、青空の下で何とも気分の良い、久しぶりの山歩きになった。(写真上)
 本来人工的に加工されたところなどは、余り歩きたくはないのだが、この北尾根コースは、傍にリフトが見えるわけでもなく、内地の山によくある、防火線の切り分けのようにも見えた。
 斜面の勾配がきつくなり、雪も一面を覆いつくすようになってきた。積雪は10㎝~20㎝位で、まだ滑れるほどではないのだが、上の方からスキー・コース管理の人が三人、人工降雪用パイプやフェンスなどの点検をしながら下りてきた。
 少し立ち話をして、今年の雪の状態や12月初めのオープン予定のことなどを聞いたが、その一人からは小屋まで行くのかとたずねられた。

 というのも、この佐幌岳には、日高山脈では珍しく頂上下の所に小さな避難小屋があり、おそらく彼は私が首からカメラをぶら下げ、中型ザックを背にしていたのを見て、朝夕の写真を撮るために小屋に泊まるのだろうと思ったのだ。
 そうなのだ、実はこの山からの展望は位置的に恵まれていて、まずは南側縦位置になって日高山脈が連なり、さらに西側から北側には、夕張芦別(ゆうばりあしべつ)の山々から、間近に並ぶ十勝岳連峰にトムラウシ山、大雪山、石狩連峰、ニペソツ山、ウペペサンケ山と見ることのできる絶好の展望台であり、雪のある時にこその眺めがあるのだ。
 実は、今回の雪のある時期でのこの佐幌岳登山は、できることならいつか真冬の時期に、完全冬山装備をして、リフトを利用して上まで上がり、少し先にある小屋に泊まり、朝夕の眺めを迎えたいと思っていて、その下調べ登山の意味合いもあったのだが。
 もっともそれは、ずっと前から考えていた山プランの一つであって、いまだに実行していないところ見れば、すっかりぐうたらになったこの年寄りにやる気があるかどうかは、はなはだ怪しいところなのだが。 

 さて、雪に覆われた斜面の勾配はさらにきつくなったが、ただ彼らが下りてきた足跡があるので、それをたどればいちいち踏み込まなくてもよくて、登りのステップの助けになった。
 ただ残念なことに、今や西側からの雲が山脈の稜線上を覆ってしまい、すっかり曇り空になっていた。楽しみにしていた東大雪の山々にも雲がかかってきて、さらには風に運ばれた雪さえも舞っていた。
 出かける前に、山向こうの旭川方面の天気予報と、高気圧がやってくる気圧配置も確認してきたのに、そうして今日まで慎重に登る日をうかがってきたのに・・・何ということだ。

 やがて、左から上がってきたリフト終点の建物がある平地に着き、そこから先に続くコースの上に佐幌岳の頂上が見えていた。(写真)

 

 ただありがたいのは、ここから途中まで、雪上車の跡がついていたことで、その跡をたどるだけでまだ勾配もゆるやかだから、鼻歌気分だった。
 最近は、山に登るときふと小さく口をついて出るのは、例のAKBの曲になることが多いのだが、今回は、「ギンガムチェック」と「UZA(うざ)」 の二つだった。
 というのも、実はついに、AKBのCD・DVDを買ってしまったのだ。

 私がクラッシック以外のCDを買ったのは、10年ほど前に買った『ケルティック・ウーマン』(東芝EMI)以来である。
 それは母が亡くなった後のことで、あのトリノ五輪フィギュア金メダルを取った荒川静香が、その後のエキジビジョンで滑った時に流れた曲であり、私にも聞き取れるほどのやさしい英語で、彼女の銀盤での美しい滑りを見ながら、思わず涙してしまったのだ。
 ケルティック・ウーマンが歌うその曲名は、「You Raise Me Up(ユー・レイズ・ミー・アップ)」 ・・・大まかに訳すれば、”私が落ちこんでいるときに、あなたはやって来てそばに寄り添ってくれる。あなたが励ましてくれるから、私は高い山にも登れるし、荒れる海でも渡っていける。あなたが励ましてくれるから、私は今以上の自分になることができる”・・・。
 ここで言う”あなた”は、おそらくは宗教的な意味での”あなた”つまりキリストを意味するのかもしれないが、私は天にいる亡き人のことを、私を見守ってくれている人のことを思ったのだ。

 また話がそれてしまったが、AKBに戻れば、最近ここでも何度か書いたことのあるリサイクル・ショップ(古本・中古品店)で、何とこのAKBのDVD付きのCDが、税込み108円で売られているのを見つけたのだ。
 2年前のものとはいえ、中身もケースもきれいで、定価1600円のものだ。
 ワオーン、ワンワンと一声鳴いて、すぐに買ったのは言うまでもない。
 2点、『Beginner(ビギナー)』と『UZA(うざ)』である。
 
 この2曲は、今までテレビから録画したものの中にも入っていなくて、私がAKBを好きになる以前のもので、もちろんYouTubeで見ることはできるが画像が小さいし、何とかテレビで放送されないものかと待ち望んでいたのだが、その気配はないし、そんな時にこの安いDVD付きCDを見つけて、思わず狂喜乱舞(きょうきらんぶ)したのも無理はないのだ。
 一方では、いい年をしたオヤジが情けないとも思うけれども、いつかNHKの『鶴瓶に乾杯』の中で、73か4になるという田舎のじいさんが出てきて、AKBのCDをずっと買っていて、次の新曲が出るのが楽しみだと言っていたのを見て、私よりずっと年上の人でもそうなのだから、私も世間に向かって、AKBファンであることをカミング・アウトしてもいいのだとさえ思ったのだ。
 もっとも私の周りの友人たちは、みんな私がAKB狂いだということを知っていて、いささか冷たい目で見られてはいるのだが・・・。
 とはいえ、この年になって、夢中になれるものがあることはいいことだと、自分に言い聞かせてはいる。
 
 ところで、この2012年10月31日発売の「UZA」について書いていくと、長くなってしまうのだが、手短に言えば、私は全盛期メンバーによるAKBのベストの曲の一つであると信じて疑わない。
 というより、AKBのすべての曲を知っているわけではないが、今現在では、私の一番好きな曲であり、一番好きなダンス映像(ミュージック・ビデオ)である。
 つまり音楽そのもの、作曲・編曲・録音ミキシングそして歌詞も時代にそって書かれているし、AKB曲の中では最も難しいといわれる見事なダンスの振り付けに、グラミー賞受賞常連だったという韓国二世のアメリカ人、ジョセフ・カーン監督の、音楽に合った衣装と映像の見事さ、そしてツートップの大島優子と松井珠理奈(じゅりな)の迫力ある踊りと、その二人の間の後ろにいる板野友美の髪が波打つ踊りの切れのよさ、さらに後ろに控えた篠田麻里子と小嶋陽菜(はるな)のおねえさまキャラ二人の存在感・・・これは、全盛期AKBのすべてがうまく出会った時の、見事な記録的映像である。 
 
 しかし、この曲は、似た雰囲気である「Beginner(ビギナー)」や「River(リバー)」などとも違って、さらに先鋭的な表現で、時代の流れを切り取っているかに見えるし、他の曲と比べればあきらかに一つ離れた存在であり、その後もう二度と、こうした時代のとげとげしい敏感さと退廃の匂いのする曲は作られていないのだ。 

 それは最近の曲での、センターに選ばれた子たちが示しているように、彼女たちの人気に従って、運営サイドが明るく楽しいアイドル・グループAKBへの道を、さらに強く推し進めてるからだろう。
 もっともそれはそれでいいと思う、「フォーチュン・クッキー」はいい曲だし「ラブラドール」も「プラカード」も悪い曲だとは思わないし、こうしたアイドル王道としての曲作りには、ファンとしての安心感もある。
 ただ、AKBグループは、何といっても個性あふれる女の子たちの集団だから、ファン層も子供から私のようなじいさんに至るまでと幅広いし、そのファンもまたそれぞれに個性ある女の子たちが好きなのだ。

 だからこそ、それぞれのメンバーたちの個性を発揮できるように、歌に、ダンスに、コントに、ミュージカルなどに振り分けて、ふさわしい舞台や活動の場を作ってやる必要があるのではないのだろうか。
 運営サイドとしては、今でさえ手一杯なのに、さらに余分な手間ひまと人材に費用をかけることになって大変なのだろうが、しかしそうすることが、ここまでの大所帯に広げてきたメンバーたちの今後を考えて取るべき方向の一つになるだろうし、このままでは埋もれゆく多くのメンバーたちを救うことにもなるのでは、とも思うのだが、もちろんすべては安定経営がなければできないことだし、はやりすたれの多いアイドル業界でのことだとすればなおさらのこと・・・。
 大きなくくりで言えば、AKBグループと同じような女性歌舞演劇集団である宝塚歌劇が成り立つのは、もちろん確かな経営母体があり、長年にわたってつちかってきた歌や踊りのしっかりとした伝統があり、さらに抱える団員・メンバーの数は両者ともに400人と同じくらいなのに、AKB劇場は場末の小劇場なみの座席145立ち見席105しかなく、SKE、NMB、HKT併せても1000足らずなのに(それが会いに行けるアイドルの原点だという人もいるが)、この宝塚は2550席ものあれほど立派な専用劇場を持っているからだとも思えるのだが。 

 YouTubeを見ていたら、その年のAKBメンバーだけによる紅白歌合戦で、あの「UZA」のメイン・メンバーだった板野友美と松井珠理奈の二人だけで、「UZA」を歌い踊っていた。
 ダンスでは定評のある二人だったが、板野は1年前にAKBを卒業して、いまだに大きな舞台には立ってはいないし、実績十分な”じゅりな”でさえも、今度のAKBの新曲ではツートップ下の後ろにいて、SKEの新曲でも不動のセンターの位置を下げられてはいるが・・・。 

 さて長々とAKBのことについて書いてきてしまったが、まあ年寄りになっても夢中になるものがあることは、ボケ防止にもなるのだろうし、ともかく安上りのいい気晴らし趣味になるのだ。
 と言うわけで、今回の山登りの時に小さく口ずさむ歌としては、「UZA」はリズムが合うところが少ないからと、同じDVDに入っていた明るい弾むような「ギンガムチェック」の方を口にすることが多かった。周りに誰もいなくていいようなものの・・・いい年寄りが、若い娘の歌を歌いながらなんて・・・あー、寒っ!
 
 雪上車の跡が消え、最後のゴンドラ終点駅舎への登りが続き、登りきるとその裏手からようやく登山道が始まる。ミヤマハンノキにササの下草の斜面に、ジグザグにつけられた雪道をたどると、15分ほどで岩が露出した山頂に着いた。
 コースタイムよりは少し多く2時間半ほどかかってはいるが、雪道歩きと久しぶりの登山ということを考えれば十分だった。
 山脈の上には相変わらず雲が広がっていて、手前のオダッシュ山から双珠別(そうじゅべつ)岳、ペケレベツ岳辺りまでが分かるくらいで芽室岳方面は見えなかったし、さらに芦別や十勝連峰、大雪の山々もすっかり雲に包まれていた。
 日を選んできても、こういう時があるものなのだ。ただ目的の一つでもあった雪山歩きと、この寒さを体感できただけでも、その上に40日もの間が空いての登山だったのに、何とかバテずに足も痛くならずに登れただけでも良しとしよう。

 ただ、この頂上の周りには新しい足跡がぐるぐる回ってついていて、おそらく誰かが狩勝峠側から登ったのだろうと、そのまま西側に道をたどり、小屋に入ると、明るい声であいさつしてくる若い男がいた。
 ともかく、小屋の中にいるだけでも寒さはしのげると、腰を下ろしてしばらく彼と山の話をした後立ち上がると、彼もクルマは峠の方にあるがスキー場の方へ降りたいというので、一緒になって今度は南尾根コースを下って行った。
 最初は斜度30数度という勾配で、スキーで滑るときには少しビビりそうな斜面だったが後はゆるやかになり、二人でいろいろと話しながら下って行った。
 青空が出てきて、反対側には行きに登ってきた北尾根の向こうに、少しかすんで石狩連峰からニペソツ山、丸山、ウペペサンケ山の姿を見ることができた。(写真はニペソツと丸山に東丸山)

  

 これは何としても、空気の澄んだ厳冬期にもう一度来なければと思わせるような光景だった。
 まだまだ北海道にも、春夏秋冬、見ていない景色がいくつもあるのだ。
 
 クルマを停めていたベアマウンテン・ロッジまで、わずか1時間15分ほどで下りてきた。私よりはずっと若い40代の彼と一緒に下ってきたことで、それもずっと話しながらだったので、あっという間の時間だった。
 往復で4時間足らず、頂上と小屋での休みを入れても5時間足らずの、雪山ハイキングだった。天気が良くなかったことが残念ではあったが。
 峠まで彼を送ってあげた後、いつもの芽室嵐山の風呂(入浴料270円)にゆったりとつかり、薄赤いシルエットの中に消えていく日高山脈を見ながら家に戻った。やれやれ、小さなことだが、やっと懸案の事項を一つやり遂げたような・・・。
 
 そして昨日の日曜日は、見事に晴れ渡り山もよく見えていて、絶好の山日和(やまびより)になった。
 神様はいつもぜいたくにわがままを言って山に登っている、このジジイのためではなく、日ごろから一生懸命に働いている勤労者諸君のためにお恵みをお与えになったのだ。当然のことだが。

 夜、外に出てみると、カラマツの林越しに東の空から雄大なオリオン座が昇ってきていて、さらに上を見るとプレアデス星団、いわゆる”すばる”の星の群れがあり、天頂にかけてはカシオペアがまたたき、西の空の天の川に沿って、ハクチョウ座が沈んでいこうとしていた。
 小さい、小さいものでしかない私。星の方からは見ることもできないような存在でしかない、私ひとり。
 しかし、その遥か彼方の宇宙にある、想像もできないような巨大な星々を、そんな小さな私が見ているのだ。

 何という、生きて在ることの、ありがたさだろう。


(追記) 最近AKBのことについて書くことが多くなった(10月20の項参照)が、おそらくは熱しやすく冷めやすいところもある私のこと、もう1年か2年たったら、その熱は冷めているのかもしれない。
 それは記録としての意味合いが大きい私のブログ記事として、ごく当然な成り行きであり、たとえば、そのジャンルは違うが、5年ほど前に夢中になって、いろいろ文献を読みあさり自分なりに理解しようとして、あの一休禅師(’09.2.25~3.10)や、岩佐又兵衛(’09.3.28~4.8)についての記事を書いたことが、もう遠い昔のことのように思えるのだ。
 もちろん、二人の思いへの一番大切なことについては憶えてはいるが、それぞれにどうして書き進めて行ったのか、今になって読みなおさないと分からないほどで。
 歳月が私から切り捨てていったものの多さを、あらためて思わずにはいられない。  


初雪のころ

2014-11-17 22:40:23 | Weblog



11月17日

 数日前、初雪が降った。
 その日は、発達した低気圧が通り、夜になってさらに風が強くなり、林の木々がうなり声を上げるほどで、私は外に出て雨戸を閉めて回った。暗闇の中、風に混じった雪が吹きつけてきた。
 しばらくはその風が吹き荒れ、ようやくおさまったころに外に出てみると、夜目にもはっきりと、辺りが一変して白くなっていた。
 そこには、うっすらとではあったが、今年の初雪が積もっていたのだ。

 次の日の朝は、昨日の嵐がうそのように晴れていて、家の前の砂利道から、牧草地、畑にかけて白くなっていた。(写真上)
 冬の始まりだった。
 その先に見えるはずの日高山脈は、そこで見事にせき止められて連なった雪雲の中に隠れていた。
 風が冷たく、-3度という気温よりもさらに寒く感じられた。

 その日の最高気温は4度までしか上がらなかった。
 それでも家の中にいれば、ストーヴの燃えさかる部屋は暖かく、さらに二重ガラス窓越しの日の光を受けながら、揺り椅子に座って、日がな一日、本を読み音楽を聞きながら、時々居眠りをして、ゆらゆらと過ごすのも悪くはない。
 というよりも、こうした冬の季節こそが、私の大好きな時なのだ。
 さらに寒くなり、外が一面の雪に覆われたころならばもっといい。

 私は、思い出すのもいやだが、あの真夏のころの、内地の不快な暑さには耐えられないのだ。
 それと比べれば、寒さがキライな人には同じように耐えられないだろう、あの真冬の北海道の寒さが、私の性には合っているのだ。
 つまり、そこには”ムチと雪の女王”の美しさと厳しさがあり、それが私の心と体には心地よく感じられるからだ。

 つまり、真冬に戸外に出て歩き回ることが苦にはならないのだ。雪はね(雪かき)作業は大変だけれども、寒くても汗をかいていい運動になるし、その後で暖かい部屋に戻って一息つくのが楽しみにもなる。
 そして、朝日が昇るころ、夕日が沈むころ、身支度して外に出ると、雪原が赤く映えて、彼方には白い山々が赤く染まり連なっている・・・なんという至福のひと時だろう。
 しかし、特に日の出前のころには、マイナス20度にもなるほどに厳しく冷え込んでいる時もあるが、それは十分に厚着すれば何とかしのげるし、歩いている時の体は意外に寒くはなく、運動によって温まっているのだ。
 他にも、確かにスキー場に行ってスキーを滑る楽しみもあるのだが、私にはどのスキー場からも聞こえてくる、あのパチンコ屋みたいなうるさい若者音楽にがまんができないのだ。
 ”もっと静かに、滑らせてくれ”と言いたいのだが。 

 こうした冬が大好きな私の体質は、もちろん生来のものもあるだろうが、一番大きいのは、山が好きになったまだ十代のころから、ずっと続けてきた雪山登山の経験によるものだろう。
 風雪吹きすさぶ山中での、心身ともに不安な状況の経験はもとより、だからこそ一方では、穏やかな雪山での、さまざまに変化した自然の造化の美しさが、忘れられない思い出になるのだ。
 それらの、長年積み重ねられてきた記憶は、毎年、冬になると、私を美しい雪景色へと誘(いざな)うかのように、いつもの期待をふくらませてくれるのだ。

 思えば、あの晴れ渡った空のもとでの雪原歩きは、天国へと続く雪の回廊(かいろう)なのかもしれない。
 何度も書くことになるのだが、私の思いはやはり、あの西行法師の歌の中にある。
 
 「願わくば 花の下にて春死なむ その望月(もちづき)の如月(きさらぎ)のころ」

 ”願わくば 雪の中にて冬死なむ その青空の睦月(むつき)のころ” 

 こうして、かいなき無益な思いにふけりながら、残り少ない人生の時を、毎日何事もなく、穏やかに過ごしているのだが、それでいいのだと思う。
 修行僧のごとくに、無明を知り己の修練に励むほどの強い意志はないし、かといって巷間(こうかん)の享楽に身をゆだねる刹那(せつな)への思いもない。
 ただ今、在(あ)ることが大切なことであり、たとえて言えば、自分の周りにあるものだけを探しては食べて生きていく、そんな一匹の虫であればいいと思うし、その虫は虫なりに、そして私は私なりに、雨露をしのぐ四方、六尺の身を横たえるに十分なだけの、一軒のあばらやがあればいいのだと、わが身を諭(さと)してはみるのだが・・・。
 しかし、私は今を生きる人間の身であり、スーパーで食べ物を買い、ストーヴのある家でぬくぬくと過ごし、本を読みテレビを見ては、わが身をかえりみて一喜一憂し、しぶとく生きるがゆえの雑念にとらわれ、それゆえに虫けらの一念にさえ及ばずに、あれこれと考えてしまうのだ。

 たとえば、この大相撲九州場所で、いつもの楽しみの一つでもある、あの東の花道脇に座っているネットでも有名なスナックのママがいなくて・・・、どうしたのかと探せば、今場所はより見つけやすい裏正面の検査役の後ろ、砂かぶり席に座っていて、これはいい席に代わってくれたと思っていたのに、三日目から姿が見えなくなり、そこで”ウォーリー”を探せ状態の和服美人があちこちにいる中、昨日になって、何とテレビに映りにくい西の花道の端に、洋服姿で座っているのを見つけたのだが、また今日はどこにいるか分からなくなった。
 周りが、その”たにまち”筋らしい中高年のおじさんおばさんたちが多いこともあって、彼女は確かに”掃き溜めの鶴”状態にあり、楽しみにしているのに。

 私はテレビ・ドラマにはほとんど関心はないのだが、例の朝ドラ『マッサン』は、北海道が舞台になるというので時々は見ていたのだが、いつの間にかマッサンの妻役の、あの金髪の”エリー”のひたむきさに胸打たれて、それが演技であることも忘れて引き込まれ、応援したくなってしまうのだ。
 カナダ生まれの彼女、シャーロット・ケイト・フォックスという名前は、まさかあの名作『ジャッカルの日』(1973)などで有名なエドワード・フォックスとは、関係ないよね・・・。
 それにつけても、”エリー”のたどたどしい日本語と必死な演技は、あのAKBの”たかみな”が総選挙時にいつもの締めくくりとして言っている、”努力は必ず報われる”という言葉を思い出させるのだ。

 さらにAKBがらみで言えば、前回”きたえり”の涙についての話では、その追加記事として、田名部未来(たなべみく、たなみん)のことも書き加えたのだが、今回の「AKB48SHOW」の”たかみなの説教部屋”のコーナーでは、何とその”たなみん”がタイミングよく話し相手に選ばれていて(それは前回の”きたりえ”と対比させるための制作サイドの選考なのかもしれないが)、ともかく苦節8年悩んだあげくに、ようやくAKB内での自分の立ち位置を見つけて、自らを”お酒好きのアイドル”とまで言えるようになった彼女が、初めて71位に選ばれ名前を呼ばれた時の驚きと喜び・・・その映像が流れ・・・その時のことなどを”たかみな”と明るく話す今の彼女の笑顔は、テレビを見ている側の私たちとしてもうれしくなるのだ。
 他人の幸せは、蜜の味。(決して”他人の不幸は、蜜の味”などではありません。)

 土曜日から日曜日にかけて、幾つかのクラッシック音楽演奏会の放送があり、最初の一つはズービン・メータ指揮のイスラエル・フィルによるマーラーの交響曲第5番であるが(あのヴィスコンティの映画『ベニスに死す』(1971年)でこの5番の有名な”アダージョ”が流されていた)・・・それは、まだ若き日のメータがあの名門ウィーン・フィルを指揮して、DECCAレーベルにレコード録音したのが同じマーラーの2番であり、ウィーン・フィルの品格あふれる響きと若々しいメータの指揮ぶりが忘れられない名盤だったのだが(5番はロスアンジェルス・フィルで録音)、なんという歳月の流れだろう・・・これは今年の”NHK音楽祭”の時の演奏であり、メータはもう78歳になっていて、巨匠然とした風格も漂い、テンポはよりゆるやかに穏やかになり、そこからは重厚な音の響き繰り出されてくるのだ・・・歳月が、人を変えるのではなく、人は、歳月で変わるのだ。

 次には、今年4月のベルリンでの演奏会から、あのマルタ・アルゲリッチとダニエル・バレンボイムのピアノ・デュオ。
 若き日の”ショパン・コンクール第1位”の実力そのままに、男性並みの力強い打鍵(だけん)と、ほとばしる女性の情熱で、数多くの名演奏名盤を残してきた、アルゼンチン生まれのマルタ・アルゲリッチは、今年でもう73歳になるというけれど、常に今の時代の名ピアニストであり続け、近年はソロよりも、こうしたデュオや室内楽に力を入れていて、いまだに彼女の新録音が話題になるほどである。

 一方の、若き日のバレンボイムは、何といってもあの弾き振りによる「モーツアルト・ピアノ協奏曲全集」が素晴らしく、当時の定番レコードになっていたといっても過言ではないが、それ以上に、妻でもあった名チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレとの共演に名盤が多い。
 その後、デュ・プレは難病にかかってこの世を去り、彼は指揮者の方へとスタンスを広げて、今ではオペラなどでも実績を残す名指揮者の一人になりつつあるのだ。
 加えて言えば、彼はロシア系ユダヤ人としてアルゼンチンに生まれ、子供のころ家族とともににイスラエルに移住してきたという経歴を持っているのだが、後年、指揮者となってドイツのオーケストラを率いて、イスラエルで、あのユダヤ人を虐殺したナチスと関係の深いワーグナーの曲を演奏しようとして、物議をかもして演奏会場でのひと騒動になってしまったというが・・・彼はただ、音楽に国境はないという思いだけだったのだろうが。

 そうした今では老年になった同郷出身で年齢の近い二人が、肩を組んで舞台に立ち、ピアノを並べて演奏するさまは、まさに青春の光と影の時代を思わせるものだった。
 モーツアルトのデュオのきらめきとやさしさ、シューベルトの四手のからみ合い、そして私は初めて聞いた、あのストラヴィンスキーの『春の祭典』の二台のピアノ版の演奏、スリリングな雰囲気と二人の熱気あふれる勢いは、若き日の情熱の名残りを超える素晴らしさだった・・・ここでの今があるからこその、昔への思い。

 そして最後に、2年ほど前の演奏会の録画であるが、五嶋みどりのヴァイオリンにズービン・メータ指揮ミュンヘン・フィルの演奏で「ブラームスのヴァイオリン協奏曲」。
 天才少女ヴァイオリニストと言われた五嶋みどりも、もうこの演奏の時には40歳を過ぎていて、ブラームスの心の内に包みこまれた思いが、そのまま彼女のヴァイオリンの音として、しのび泣くようにあふれて広がっていく・・・生きていくということとは・・・。
 
 というように、私は相変わらず、日々耳に入り目に映る浮世のことどもに、心わずらわされているしだいであり、悟り会得(えとく)するなどという心境からはほど遠く、ただのテレビうわさ話が好きなおじさんの一人でしかないのだ。
 自分がひとりでいるだけに、そうしてテレビなどで目にする人々の動向が、あれこれと気になるものなのだ。
 差しさわりのある周りの人のうわさ話ではなく、公に知られている人たちの見内話を聞いては、心配し同感し哀れに思い、一方では冷めた目で見ているのかもしれないが・・・それは、やはり私が、”遥か群衆を離れて”(1964年の映画)いるからなのだろうか。

 毎日の夕焼けが、それぞれに違った光景になる初冬の風景。
 すっかり、黄葉が落ちてしまったカラマツ林の上に、離れ雲が少し、夕日に染まっていた。

 


  

  


見おさめの秋と23歳の涙

2014-11-10 21:19:42 | Weblog

11月10日

 数日前、私はその前の日から、久しぶりに山に行く準備をしていたのだが、結局は行かなかった。
 それはつまり、目が覚めて起きたのが、もう日の出後の6時過ぎと遅かったことと、午後に一時雲が増えるという天気予報が少し気がかりだったからである。山に行く時には、いつもベストの条件の時に行きたいという、年寄りのわがままからではあるが。
 しかし、その日はまさに山日和(やまびより)と言うにふさわしい、終日雲一つなく晴れ渡った、穏やかな秋の一日になったのだ。
 後になって、地だんだ踏んで悔しがっても、もう”あとの祭り”、”後悔先に立たず” ということなのだ。

 しかし、良く考えてみれば、前にも少し触れたことのあるあの”アドラー心理学”的な分析をすれば、それは”行けなかった”のではなく、自分の心の中のどこかに”行きたくない”という思いもあったからではないのか、つまるところ、周りの状況にかこつけて行かなかっただけの話である。(9月29日の項参照)
 だけれども、「わかりました、確かに私が悪うございました」と、心の中で自分に詫(わ)びてみたところで、この快晴の空の下、むなしく過ごす一日を思えば、その心のうさが晴れるわけでもない。

 そこで、いつもの家の近くの野山歩きをする時の身支度をととのえて、と言っても作業着を着て帽子をかぶり、長靴をはいて、手には杖兼用の長い刈り払い鎌を持ってという姿で、家を出た。
 収穫の終わった畑のそばを通り、カラマツの植林地を抜け、枯れ草色の牧草地を通って、この丘陵地の境になる急斜面の林の所まで行ってきた。
 広大に広がる秋空の下、ゆるやかにうねる牧草地と植林地、遠くに日高山脈の山なみが続いている。(写真上)

 聞こえてくるのは、私が枯葉や枯草を踏み分ける音だけで、鳥の声さえ聞こえない。
 ふと空を見上げて立ち止まると、誰もいない静けさの中にいるだけ・・・。
 何も考えてはいない。今、自分が歩くその周りのことを見て、感じているだけのことだ。
 この空の下の木々や草ぐさ、小さな虫たち、林の中に隠れ潜む鳥や獣たちと同じように、今私は生きているということだけ。

 それは、山に登る時と同じだ。
 何も考えないで、目の前に続く坂道を、ただあえぎながらひたすらに登って行く。
 時々目を上げては、周りの景観を楽しむ。
 私は、他の生き物たちと同じように、永劫(えいごう)を廻(めぐ)る世界の中の、小さな一つの命にすぎないし、ただその中で本能のひたむきさのままに生きているだけなのだが、一つの生き物としてそれでいいのだと思う。

 そして、ふと最近読んだ本の中に書かれていた、ある言葉を思い出した。
 ”草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)”・・・。
 それは、この世の中の人間や動物が成仏するのは当たり前であり、草木でさえ成仏するし、国土のすべても、”生きとし生けるもの”に含まれ、皆ことごとく成仏できるという、比叡山天台密教による天台本覚(ほんかく)思想の言葉なのだが・・・。
 (『人類哲学序説』梅原猛 岩波新書より この本についてはまた別の機会に改めて考えてみたい。) 

 その次の日も、快晴の天気が続いたが、やはり天気の変わり目に近づいてきたのだろうか、午後になって少しずつ雲が出てきた。
 家のカラマツ林の最後の黄葉の上に、一本の筋雲が、西から東へとゆっくりと流れて行った。
 今年の秋の、見おさめの景色だと伝えるかのように ・・・。(写真)



 話は変わるけれども、私はこの年で恥ずかしながら、あのアイドル・グループ、AKBのファンの一人でもあり、ただ特にひいきのオシメン(推しメンバー)がいるわけではなく、グループとしての彼女たちみんなが可愛いと思っているだけだが、その彼女たちの歌などについては、今まで何度もここで触れてきている(10月20日の項参照)。
 そして、そんなAKBグループの歌や踊りを知るには、テレビの歌番組やバラエティー番組で見るしかないのだ。

 その中でも、毎週土曜日の深夜にNHK・BSで放送される「AKB48SHOW」は、まさにファンにとっては見逃すことのできない番組であり、私もこの番組が始まった1年前から、ほぼ欠かさずに録画して(年寄りは寝ている時間だから)後で見ているのだけれども、その中でも先週の放送は、いろいろと考えさせられたところが多かった。
 以下は、あくまでも私個人としての感想ではあるが・・・。
 
 今回の番組では、まずは大阪NMBの二人によるかけ合いコントがあり、(このコント場面では、あの”横山―川栄”の名コンビや、”美少女戦士くいだおれタコ美”の回なんぞは、下手な若手芸人のコントよりはよほど面白かったほどである)、次に同じNMBの新曲が明るく歌われ、そして今回話にあげたい”たかみな総監督のお説教部屋”のコーナーへと続いて行くのだが。
 それは、”お説教部屋”と名前がつけられてはいるが、AKBグループの”総監督”の地位にある高橋みなみ(たかみな)が、グループのメンバーの一人を呼んで、その話を聞くという趣向であり、もちろん簡単な打ち合わせはあるにせよ、かなり自由に話させては、それぞれのメンバーたちの本音を聞き出していて、ファンならずともなかなかに面白いエピソードなどを聞くことができるのだ。

 そして、今回の相手は北原里英、通称”きたりえ”なのだが、指原”さっしー”などと同じAKBの5期生であり、年齢は1期生である”たかみな”などと同じ23歳になるが、まだ小学校を卒業したばかりの13歳の子からいるAKBグループ・メンバーの中では、明らかに年長組に入り、今までにはもうその年齢に差しかかるくらいから、多くのメンバーたちがAKBからの卒業を考え、実際にも卒業していっているのだ。

 ”きたりえ”はかつて、テレビなどに出演して歌う機会も多い、いわゆる16人からなる”選抜メンバー”にも選ばれていたのだが、今年の総選挙では、その枠から落ちてしまったし、さらに新曲ごとに選抜メンバーが入れ替わる、今回の拡大32人メンバーからも外されてしまったのだ。
 彼女は最初は、今回選ばれなかった他の人気ある若手メンバーたちの不憫(ふびん)さを代弁していたのだが、やがてそれは自分への口惜しさに代わって、昔を懐かしみ、卒業していったそうそうたるメンバーたちと一緒に、その後列で一緒に舞台に立てたことが良い思い出だと、涙をこぼしながら話した。
 彼女は、自分の目立たない後列での立ち位置を分かっているし、決して前列に出て歌いたいとまでは思わないが、出来るならずっと舞台に立って歌と踊りは続けたいと、あふれる涙のままひと思いに話続けた。

 思うに、AKBを目指してオーディションを受けたすべての娘たちは、大勢の観客たちが見ている前で、舞台に立って歌い踊っている自分の姿だけをイメージしているのだ。
 だからこそ、こうしてAKBのメンバーに選ばれたからには、自分の限界が分かり納得して身を引くことのできる、その日が来るまでは歌い踊り続けていたいのだ。
 競走馬が走るように、マグロが泳ぎ続けるように・・・止められない思いなのだ。

 そうして、一緒にもらい泣きの涙を流しながら、”きたりえ”の話を聞いていた”たかみな”の心は、察するに余りある。
 今日あるAKBを、ここまでの人気グループに押し上げたのは、当然のこと、作詞家兼プロデューサーの秋元康をはじめとする運営サイドの力によるものだろうが、それでも誰しもが認める通りに、”たかみな”の優れた統率力がその一つであったことに間違いはないし、そんな彼女の役割は、それぞれのメンバーたちを、叱咤激励(しったげきれい)する厳しい父親であり、またメンバーそれぞれのつらい気持ちを理解するやさしい母親でもあったからだ。 
 ただ彼女には、メンバーの選択権があるわけではなく、話を聞いてやることしかできず、また今回の”きたりえ”の思いを聞いて、自分の行く末さえも重なって見えた上での涙だったのだろうが。

 この二人の対談が終わった後の歌は、最近公演されたAKBのミニ・ミュージカルに主役として出演した若手の二人、17歳の小嶋眞子と15歳の大和田南那による、いつの日かAKBの舞台に立って歌うことを夢見る少女の歌、「ミニスカートの妖精」だった。
 歌も踊りも、まだ芸とは言えないほどの、たどたどしさの残るものではあったが、そこにはそれなりの少女たちが歌う初々しさがあった。誰もがそんな時があったような、おそるおそるの恥じらいと、期待いっぱいの思いに溢れて・・・。

 この若い二人と、”きたりえ”とを比べようというのではない。
 それぞれに、年相応の立ち位置があり、場所があり、経験として活かせる場所があるはずだということだ。
 中学では成績やスポーツなどで最上位にあった子が、そんな優秀な生徒たちが集まる高校では、他に自分より上の子がいっぱいいることに気づかされて、一度目の大きな挫折を味わうように、それは大学や、社会に出てからも、最後までつきまとうことになる、競争社会の定めでもあるのだ。
 誰もが、一番を争える上位グループにいるわけではないし、多くの人たちは、その下の地位で満足するしかないのだが、それをいやいや受け入れるのか、十分に満足して受け入れるのかは、あくまでも個人としての価値観の問題なのだ。
 いつ、競(きそ)い合うことをやめるのか、どこで、自分にふさわしい場所を見つけ、とどまるのか。

 (そこで思い出したのが、今年の第6回AKB総選挙の時に、今まで一度も64位までの順位に入ったことがなく、今回80位までにその枠が広げられたこともあって、初めて71位で名前を呼ばれた時の、田名部生来(たなべみく)の、”まさか自分が”と驚きあわてふためき涙する姿だ。
 彼女は”きたりえ”などよりも古い、3期生の今年で22歳だが、もちろん選抜メンバーなどに選ばれたこともなく、それでも自分の立ち位置を理解して、地道にAKB劇場での定期公演などを続けていたのだが、それをファンは知っていて、そうした熱心なファンたちが、彼女の長年の裏方的な努力勤勉さに対して与えた、”夏の叙勲・AKB紫綬褒章”だったのかもしれない。
 同じ涙でもこちらは、ええ話や。)

 ところで話を戻せば、人気ある若手メンバーを選び、次の世代へとつなげていこうとする、AKB全体の運営サイドの考え方は、芸能界で生きるアイドル・グループの経営を成り立たせていくための当然の方策であり、実力はあっても変わり映えのしないメンバーたちだけの舞台では、新しいもの好きのアイドル・ファンの心をつかめないことを十分に知っているからだ。
 そのやり方が非情な切り捨てだ使い捨てだと、非難することはできない。アイドル・グループとして存続させるためには、その人気を継続させ、何としてもまず十分に採算の合う経営状態にしなければならないからだ。

 芸の蓄積がものをいう、能や歌舞伎や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)といった、伝統的古典芸能の世界などとは比べものにもならないが、同じ大きなくくりで言う芸能界でも、このAKBの”きたりえ”の涙を見て、ほんの十年足らずの短い活躍期間でしかない、こうした若さと見てくれが売り物の、アイドル業界の厳しい一面をかいま見たような気がした。
 そういえば、私はまだ読んではいないが、愛人の子供を誘拐(ゆうかい)するというテーマを描いてベスト・セラー本になった、あの『八日目の蝉(せみ)』という題名を思い出したのだが、もちろんここでの”きたりえ”の話とは全く関係のないことなのだが、地上に出て一週間しか生きられない蝉の命を思いながら・・・。 
 
 しかし、今回のこの”きたりえ”の話で言えば、彼女はこれから年を重ねるごとに、あの時の涙は、自分がまだ若かったころの思い出の一つでしかなかったことに気づくだろう。
 何しろ、彼女はまだ23歳の若さなのだ。
 これから、自分の心の持ちようを変えていくこともできるし、また新たな道に進むこともできるし、私たち年寄りから見れば、うらやましいばかりの迷い悩むことのできる、その若さの盛りにいるわけだから。

 で、その私たち年寄りと言えば、そうした争いや競い合うことを、長年にわたってさんざん繰り返したあげくに、それはつまり、生まれてこの方以来のあきらめることを憶えていく人生でもあったのだから、それだからこそここまで生き延びてきたのだと、自らに言い聞かせ納得しているのだ。
 もう十分過ぎるくらいに、自分の人生を過ごしてきたのだから、これ以上のことは望まないし、今の穏やかさの中にいれば十分なのだと思い、前回にも書いたあの年寄りたちの言う”多幸感”に満たされていくようになるのだろうか。(10月27日の項参照)
 
 あきらめを知ることで得られる、静かで穏やかな世界の心地よさ・・・あー極楽、極楽・・・「お前は温泉につかった年寄りか」と言われそうだが・・・はい、それが何か・・・ベツに、とでも言えば、どこかの女優さんみたいに反感をかいそうだが。
 
 冬場にかけて天気の日が続く、この十勝地方では、それだけにこれから毎日のように、決して同じ光景にはならない夕焼けの空を見ることができるようになる。

 何という、輝かしき天の啓示(けいじ)のひと時だろう。
 その姿を、目の当たりにすることのできる幸せ。
 去りゆくものの描き出す、一瞬の極彩色の光景と、また次なる時に新たに生まれ出(いず)るために、ひと時の間、闇の中へと包みこまれていく輝かしき光と・・・。 



 

  


秋から冬への風

2014-11-03 21:15:35 | Weblog



11月3日

 朝早く、空は晴れていたが、山なみの並びに沿って、見事に冬型気圧配置の時の雲が並んでいた。
 その雲が、朝焼けに薄赤く映えていた。
 やがて、風の音が、天空いっぱいにとどろくように吹き渡り、さらに林の中を走り抜けていった。
 カラマツの針のような葉が、雨のように降りかかり、わずかに残っていた木立のモミジ葉は、見る間になくなってしまった。
 きっぱりと、何の未練もなく、こうして秋が終わってしまうのだ。

 風に乗って、山側から広がってきた雲が、いつの間にか空を覆いつくし、やがて雨がパラパラと屋根を叩いていた。
 そして、夕方にかけて、風は次第に収まってきて、気温も下がってきた。
 夜には、この秋初めての雪が、いやこの冬初めての雪が降るのかもしれない・・・。

 こうして、また一年が過ぎていく。
  しかし、今の私の頭の中には、まだ秋の盛りのあの鮮やかな色合いがよみがえってくる・・・。

 数日前の光景・・・。
 カラマツ林の中の道を歩いて行く。(写真上)
 前回にもあげた、北原白秋の詩集『水墨集』の中の「落葉松」からの一節(『日本文学全集』集英社版より)・・・。
 
 「 からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり.
  霧雨のかかる道なり。
  山風のかよう道なり。
  ・・・・。」

 ふと気づいて頭上を振り仰げば、カラマツの木立が指差す上に、黄金(こがね)色の秋の葉が、青空を背景に輝いていた。

 

 前回の登山からもう一月近くにもなるのに、私は山にも行かずに、時々買い物で街に出かける以外は、ずっと家にいた。
 そこで、家の周りの今が盛りの秋の色を楽しみ、また去りゆく秋の静けさを、ひとりしみじみと味わっていた。
 家にいても、日々の細かい仕事はいくらでもあるし、まして冬に備えての薪(まき)作りは、いくら作っておいても多すぎることはない。

 一週間から十日おきくらいに町に買い物に行くのは、ある種の気晴らしにもなる。
 日ごろから、鳥たちやシカ、キツネ、ウサギ、リスなどと、周りの農家で飼われている牛たちに、イヌやネコなどしか見ていない私にとって、町に住む人間たちを見るだけでも、それは興味深く面白い見ものになるからである。
 街に行けば、さまざまな顔をした、さまざまな体つきの、さまざまな年齢層の人間たちが、群れ集まって暮らしていて、彼らが休むことなく動き回るさまを見ることができる。
 私も、言葉を話せるから、見知った人を含めて、何人かの人と話をする。
 それはおおむね、物のやり取りの際に交わされる話だけだから、余り気をつかわなくてもいい。

 そして、コインランドリーで洗濯をして、100円ショップで安物買いを楽しみ、大型スーパーでしこたま食料品を買い込み、銭湯に行って1週間ぶりくらいで風呂に入り(家で五右衛門風呂を沸かして入るのは手間がかかりめんどうなのだ)、ともかくいい気分になって家に戻るが、その途中で、友達の家に寄って食事をごちそうになったり、他愛のない話をしていくこともある。ともかく家に戻って、その買いだめをしてきた安い食料品などを、冷蔵庫にいっぱいに詰め込む。

 これで、もうしばらくは食べるのにも困らないし、まるでぜいたくな金持ちになったような気分だ。まあなんと単純に、幸せな気分になれることだろう。
 母が元気なころ、そのころも一週間に一度は近くの大きな町へ買い物に行っていたのだが、家に戻ってきて、買ってきた食料品を冷蔵庫に詰め込みながら、母がよく言っていたものだ。
 「まるで分限者(ぶげんしゃ)になったみたいだね。」
 私は、その時の母の思いよりは、むしろまた古臭い年寄り言葉を使ってとぐらいにしか感じていなかったのだが、今にして思えば、それぞれになるほどと思い当たるのだ。

 分限者とは、昔の小説などの中にしか見られない金持ちを意味する言葉なのだが、今では日常的には使われないし、もうほとんど死語に近い言葉であり、考えてみればこの時の状況では、母が使ったこの言葉こそが全く正しい意味合いだったと言えるだろう。

 つまり、今では”一派ひとからげ”に”お金持ち”と言ってしまうところを、”にわか成金”の意味を込めて、つまり食料品をまとめ買いするくらいのお金はあるということで(それは十分に食べることさえできない時代の感覚なのだろうが)、今日のささやかな買い物の”ぜいたく”を、母はまさに的確に意味する言葉を使って表現していたのだ。
 確かに、冷蔵庫に食料品を詰め込むくらいでは、金持ちになったみたいだとは言わないだろうし、現実的に言えば、今の時代の本当のお金持ちの冷蔵庫には、簡単な飲み物と食べ物が少しあるくらいなのだろう。つまり彼らは、毎日の食事はいつも豪華なレストランでとっているのだろうから。

 さらに、今にして思うのは、昔のほとんどの人たちがそうであったように、母は旧制の尋常(じんじょう)小学校しか出ていないのに、漢字やことわざの類の知識についてはよく知っていて、とても私の及ぶところではなかった。
 上の学校にまで行かせてもらった私が言うのは、恥ずかしい限りだが、大人になってからも、母の話した言葉から初めて知った単語などが、幾つもあったくらいだ。

 たとえば、まだ私が若かった頃だが、そのころ私は気も短く、ある時のこと思わず母を怒鳴ってしまったことがあったのだが、その時母は、下を向いてつぶやくように言っていたのだ。
 「稚気(ちけ)まわして・・・」 

 その時には、意味も分からない年寄りくさい言葉をつかってとぐらいにしか思っていなかったのだが、後年ある時、古い明治時代の小説を読んでいて、あの時母が言っていた言葉が出てきて、初めてその意味が分かったのだ。

 稚気の稚(ち)は、”お稚児(ちご)さん”などで使われる、稚(おさな)い子どもの意味であり、その子供のようなわがままな気分ふるまいをさして”稚気をまわす”と言い、母は、そんな小さなことで怒鳴る私に対して、”いい年をして子供みたいに怒って”と、わが子をとがめるつもりで言ったのだろう。
 自分が年を取ってくれば分かることだが、それにしても年寄りの母を相手に怒っていた、当時の自分が何と恥ずかしく情けないことか。
 若い時には人生の盛りの活力にあふれていて、何事も自分一人の力でやり遂げているような気がするものだが、年を取るたびに少しずつ気づいていくのだ、そこにはいつも誰かの助けがあり、さらに運を手助けに不運を教訓にして、また少しずつ学び取り、やっと足元の自分の歩いて行く道がおぼろげに見えてくるのだということを。

 今日のテレビ・ニュースで、秋の褒章(ほうしょう)を受けた女優の樹木希林さん(71歳)がインタヴューを受けて答えていた。(彼女は最近、全身ガンにかかっていると公表したばかりだが。)
 「幾つもの大病を体験して、初めてものごとを俯瞰(ふかん)的に見られるようになってきて・・・。」

 さらに、安楽死が認められているアメリカはオレゴン州で、すでに脳内の末期がんに侵されて余命宣告を受け、”残りの短い人生を悔いなく楽しく過ごしたいたい”とインタヴューに答えていた29歳の女性が、自分で宣告した日に、医者から処方された薬を飲んで自らの命を絶ったというニュースが流れていた。

 いずれもあまりにも重たい話であり、個人的な事柄とはいえ、何とも論評する言葉もないのだが・・・。
 そこで、私はまた、このブログでも何度も取り上げてきた、あのハイデッガーの『存在と時間』の中の言葉を思い出すのだ。
 死を意識して初めて現れてくる時間こそが、現存在の時間、本当の時間であるということ・・・。

 上の写真にあるように、カラマツの林を歩き回った日の夕方、中空にはいっぱいに雲が広がっていて、山なみとの間の晴れた空の彼方に夕日が沈んでいき、雲は赤く染まり、何かに燃えているかのようだった。(写真下)

 そこで、宮澤賢治の童話集の中で、私の最も好きなものの一つである「よだかの星」の、最後の一節を思い出した。

 「よだかは、どこまでもどこまでも、まっすぐに空にのぼって行きました。
 ・・・・。
 これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに・・・。
 ・・・・。
 それからしばらくたって、よだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 いまでもまだ燃えつづけています。」

 (”近代日本文学全集 宮澤賢治1”  ダイソー文学シリーズより)

 やがてあかね色の空と雲は、少しずつ色あせて、夜のとばりの濃紺色の中に消えていき、空には青白く輝く星がひとつ・・・。