ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

星を得るための祈りを

2021-08-02 21:35:17 | Weblog



 8月2日

 前回の記事は、その時点で一月以上前の、九重は扇ヶ鼻のミヤマキリシマの花ことを書いたが、今回はそれから2週間後の同じ扇ヶ鼻の話しで、これもまた今の時点からは一月以上も前のことになる。
 こうして、少し前の話しばかり続けていれば、日記的なタイムリーな話からはほど遠くなり、記録としての山の話しでしかなくなってしまうのだが、それもただでさえぐうたらな上に、動作緩慢(かんまん)な年寄りの、自虐ネタの話しになってしまって。

 さて前回の記事にあるように、扇ヶ鼻のミヤマキリシマの花を見るには早すぎたので、1週間後位に再訪しようと思っていたのだが、平日の天気の良い日に巡り合えず、少し遅くなったが、ようやく晴れた2週間後のこの日に出かけることにした。
 空には好天を知らせる、薄い巻雲(すじぐも)が帯状に連なっていた。こうした雨の後の青空と、くっきりとした山肌を見ることほど、心さわやかになることはない。・・・そんな日の山に登れば、きっと誰もが山好きになってしまうだろう。  

 前回と同じように、牧ノ戸峠の駐車場(1330m)はすでにいっぱいだったので、反対側の砂利の空き地にクルマを停めた。
 やはりみんなも知っているのだろう、この時期がミヤマキリシマの盛りで、天気も良いしと。
 8時前に遊歩道をたどって行く。舗装道の山道はいささか味気ないが、ノリウツギやヤシャブシなどの、背の低い木々の林の中の冷気が何とも心地よい。
 前後ににぎやかなグループの声が聞こえ、もうほとんどの人がマスクをしてはいなかった。
 沓掛山前峰からは北側に由布岳、南側には阿蘇山とはっきり見えている。
 沓掛山頂部(1603m)の岩場を下り、高原歩きの縦走路をゆっくりとたどって行く。ミヤマキリシマの花はもう終わったものも多く、離れて見える扇ヶ鼻や星生山(ほっしょうざん、1762m)の山頂付近が、今を盛りの薄赤紫色の花で覆われているのがわかる。期待できそうだ。
 分岐から扇ヶ鼻へ、最初の小さなコブの所から見る北面は、確かに前回よりは華やかに見えるが、もちろんもう花が枯れてしまったものもあり、盛りを過ぎるころだった。

 つらい最後の登りに耐えて、広大な頂上台地に出る。
 頂上に至るまでのゆるやかに広がる高原は、盛りを過ぎかけてるとはいえ、まだまだ見事なミヤマキリシマの花に埋め尽くされていた。(冒頭の写真)
 しかしそこは、ミヤマキリシマの花の株と同じように、多くの登山者たちでにぎわっていた。
 まず手前の台地の東端まで行って、九重の主峰群を眺め、そこでは南の熊本県側の、久住高原を隔てて見える祖母・傾山連峰の姿が、山脈の形にまとまっていて素晴らしい。(写真下)



 そしてこの台地につけられた道に従って、そのまま頂上と並行に南側に向かい、ミヤマキリシマの株を前景に何枚も写真を撮って歩いて行く。阿蘇山の眺めも、花を入れるとさらに引き立つというものだ。(写真下)



 そして右に曲がり山頂に上がると、三十人余りもの人々でにぎわっていた。私は西側の肩の所まで行って、そこで腰を下ろし、あの岩井川岳方面を見下ろしながら、早目の簡単な昼食をとった。
 しかし20分余りで、やってきた女の子たちに場所を譲り、頂上を下りて行ったのだが、この高原台地はどこでもが撮影スポットであり、私もなるべく人が映りこまないような所で、何度もシャッターを押した。(写真下、九重主峰群)



 九重のミヤマキリシマの名所といえば、まず第一に、あの平治岳(ひいじだけ、1643m)の南面を広く流れ下る花の帯に勝るものはなく、次にその南隣に位置する北大船から大船山(たいせんざん、1787m)にかけての斜面も素晴らしいのだが、三つ目にあげるべきはこの扇ヶ鼻(1698m)であり、その頂上台地を埋め尽くす頂上庭園ほど見事なものはないだろう。
 今回は、決してベストの時期とは言えなかったが、それでも来るたびにいつも見とれてしまう空中庭園なのだ。
(写真下、星生山方面)



 最近は、初夏のミヤマキリシマが咲くころには(といってもコロナ禍の今は一年中)、九州の家にいるようになって、毎年欠かさずに花に会うために、九重には登っているのだが、それでも年ごとにあと何年続けられるものだろうかと思いながら、今年の花に感謝するのだ。
 前回も上げた、あの『古今和歌集』のよみ人知らずの一首が思い浮かんでくる。

 「春ごとに 花の盛りは ありなめど あいみんことは 命なりけり」(『古今和歌集』岩波文庫)

 ところが私には、もう一つ見たいものがあった。
 それは、チョウマニアでもない私が、3年前に九重は沓掛山で出会った、アサギマダラの群れである。
 その時のことは、このブログの2018.7.16の項に書いてあるのだが、そのことを思い出して、さらに今回もまたそのチョウを見るためにだけに(もう山々のミヤマキリシマは終わっているだろうから)、牧ノ戸峠から登ることにしたのだ。

 7月の初旬、さすがにこの時期になると駐車場も空いていて、もちろん登山者も少なく、心おきなく山を楽しめる。
 さらに言えば、今は快晴の空が広がっているが、午後には雷雲が広がるとのことで、最初から沓掛山までのつもりでいた。
 しかし前回は、遊歩道を歩き始めるとすぐに目についた、アサギマダラがいないのだ。
 よく見ると、遊歩道の左右の草地のコザサなどの草刈りが行なわれていて、一緒にアサギマダラの好きなアザミの花も刈り払われていたからだろう。残念。
 歩いて10分ぐらいのところにある展望台の傍の、アザミやウツボグサなどは刈り払わずに残してあったが、そこに一匹のヒョウモンチョウが止まっているだけだった。
 そこから、尾根伝いに沓掛山の岩だらけの山頂まで行って、そこで休んだ。
 8時だというのに、もう山々の後から入道雲(積乱雲)が湧き上がってきていた。(写真下)



 それはいかにも夏山らしい光景だったが、天気が悪くなるのがわかっていて、これ以上行く気はなかった。
 下って行く途中、これから登って行く人たちもいたが、雷予報のことを知っているのだろうか。
 ところで、下の展望台の辺りで、一匹のアサギマダラが飛び回っているを見たが、すぐにノリウツギの林の中に入って行って、他に見ることはなかった。
 駐車場まで下りてきて、まだ時間が早かったのであきらめきれずに、反対側の黒岩山の山裾の所にある東屋(あずまや)の先まで行ってみたが、やはり無駄なことだった。
 それでも2時間ほどの、初夏のハイキングで久しぶりにいい気分になった。
 見たかったチョウには出会えなかったけれど、大切なことは、山の中を歩くことなのだ。

 それから、また一か月ほどがたとうとしている。もちろん、この暑いさ中、山には行っていない。
 コロナ・ワクチンは2回打ち終わったが、それが終わった後で行こうと思っていた病院での検査があったりで、どのみちいつかはいろいろと覚悟を決めて、身辺整理をしておかなければならないと考えてしまった。
 今さら欲を出して言うのではないが、残された余生の中で、今読んでいる日本の古典を読み続けるための時間と、若い頃から買いためてきたレコードを聴くための時間と、登らないまでもあの憧れの山々を見に行くための時間が欲しいのだが。
 前にもこのブログで何度も書いたことのある、あのフランスの詩人、フランシス・ジャムの詩からの一節。

”神さま わたしに星をとりにやらせてください、
 そういたしましたら病気のわたしの心が
 少しは静まるかもしれません・・・
 ・・・。
 わたしの病気の心を治すことが出来るとお思いでしたら
 神さま わたしのために星を一つ下さる事が出来ないでしょうか
 わたしにはそれが必要なのでございます、
 今夜わたしのこの冷たい空ろの
 黒い心臓の上に乗せて眠るために。"

(『ジャム詩集』「星を得るための祈り」堀口大學訳 新潮文庫)