ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

あきらめの夏

2017-07-31 21:20:48 | Weblog



 7月31日

 7月初旬、まだ雨が降り続いていた九州に戻ってきた時には、ニイニイゼミの鳴き声だけが聞こえていたが。
 その後、今度は朝夕にヒグラシのカナカナカナという物哀しい声が聞こえてきて、さらに今では真夏のセミの声である、シーワシワシワシと鳴くクマゼミと、ジーと鳴くアブラゼミの声も聞こえるようになってきた。
 庭の柿の木には、もう青い実がしっかりとついている。(写真上)
 この次は、秋の季節が来るのだよと教えるかのように。
 
 こんなに長く、夏の九州にいたのは、久しぶりのことのような気がする。
 そこで、時間には余裕のあるはずの私も、もうこれ以上、山に行くのを先に延ばすのは無理だと、あきらめたのだ。
(昔、サザンの桑田佳祐が作って、研ナオコも歌っていた「夏をあきらめて」という歌があったが。)
 最初は東北の山にと思っていたのに、豪雨被害でダメになり、次に北アルプスに行き先を変えて、じっと待っていたのに天気は良くならない、もうこれ以上、夏山の計画を先送りにすることはできない。

 7月初旬に九州に戻ってきて、幾つかの用事をすませて、後は梅雨明け一番で飛び出そうと思っていたのに、なんという今年の夏の天気だ。
 確かに、近畿以西の西日本・九州・四国は、梅雨明け通りに晴れて暑い日が続いている。
 それでも、どこか違う、あのカラッと晴れた空に入道雲がくっきりという空ではなく、亜熱帯の鈍色(にびいろ)の空のような、晴れているのか曇っているのかわからないような、その上にただただ蒸し暑いだけの空で、夕方にはいつもにわか雨が降る不安定な空模様である。 
 昨日、あの北九州豪雨被害があったばかりの日田市では、今年全国で最高の38度を超えの気温を記録したそうだ。 

 山間部にあるわが集落では、それほどまでには気温は上がらないのだが、それでも当然のことながら、ずっと30度超えの真夏日の日が続いているのだ。
 しかも、その暑さたるや、家の中でもねっとりとまとわりつくあの蒸し暑さで、ただここにはクーラーのきいた部屋があるからいいようなものの、夏の季節が苦手な私には、ただでさえ”お天気屋”の頭の中が、もうパッパラパー状態になっていて、今は何も考えられまっしぇーん。 
 ぐうたらに朝起きて、ぐうたらに午前中を過ごし、ぐうたらに午後が過ぎて、ぐうたらに夜を迎えては、寝るだけで。
 これではいかんと、外に出て庭仕事や散歩をしてくると、もうTシャツはびしょびしょの汗だらけになってしまう。
 ただありがたいことに、あの水に不自由する北海道の家と比べて、ここでは水は豊富に使えるから、毎日風呂に入り、その残り湯で朝にも入り、さらにその二度も入った”じじい汁”が混じったねとねとの(きったねー)、生ぬるいお湯を使って洗濯をするのだ。

 だから、ここでは毎日洗濯できるから、毎日新しいパンツとTシャツに着替えることができるのだ。
 しかし、北海道の家では水が十分ではないから洗濯はできないので、どうしても三日くらいは着換えないことになるし、それらを2週間分くらいまとめては、遠く離れた町のコインランドリーまで持って行って洗濯することになる。
 もっとも、下着類をずっとはき続けることには、長い縦走山行の経験があるから、それにくらべればまだましだと思っているのだ。
 つまり、1週間にも及ぶ山行では、なるべく荷物を軽くしたいから、パンツTシャツの着替えは1、2枚で、その着替えは、山行を終えて街に降りて電車などに乗る時に、悪臭を漂わせて周りの人に迷惑をかけないように、あらかじめ着替えておくためのもので、つまり山行中は着たきりスズメの一枚だけの下着で、それを器用に前後裏表とはき換えて使っていたのだ。
 そして、今まではいていたそれらの下着靴下などはビニール袋に入れていて、やっと家に帰り着き、荷物を整理してその袋を開けた時の臭いは・・・あの浦島太郎もかくやありけんと思うほどの、ここはどこ私は誰状態になり、その下着類のおじさん汁のすえた悪臭の広がりに、慌てて袋の口をしばり、後日コインランドリーに持って行くのだが、そのすべてを水に流してくれる洗濯のありがたさよ。

 気がつけば、しょーもない話をグダグダと書いてきてしまったが、要するに、暑い九州で、山に登るべく中部東北地方の天気予報を待っていたのに、相変わらずの曇りや雨マークが続く日が多く、晴れの日がほとんどなくて、その上台風は来ているし、ついには時間切れになってしまって、つまりこれ以上日程が先に延びれば、もうお盆休みの始まりにかかり、飛行機の切符が取れなくなってしまうから、何より山の花の時期も過ぎてしまうことにもなるし、今年の夏山遠征はあきらめるしかなくなったということである。
 ただその代りに、この夏に九州にいて何かいいことはなかったかと考え、そうだ、毎日の風呂と洗濯があったのだと自分に言い聞かせたのだ。
 前回書いたように、”良いこと悪いこと半々”といつも自分に言い聞かせているから、自分で納得できるものをここに書き出しておきたかったのだ。
 前回にも、山に行けなかったぶん、家にいて何本かのいいテレビ番組を見たと書いたのだけれども、今週も昨日、二本の興味深い番組があった。

 一つは前回からの続きだが、NHK総合の「列島誕生 ジオ・ジャパン」の第2集で”奇跡の島は山国となった”である。
 この日本列島の成り立ちについて、重要な要件となったものは、前回に取り上げられたように、まず”大陸の一部が引きちぎられて海に出て行った”ことであり、次に、その西日本からなる平原状の島に、南から”火山島が次々に衝突”したことであり、今回は、さらに残りの二つの重要な出来事についてが説明されていた。
 つまり、その一つには、”地球史上最大規模の火山の噴火”があったことであり、それも、紀伊半島南端部をおおい尽くすほどの巨大カルデラの噴火であり、そのために地球上の気温が10度も下がったとされ、さらにその時の2000mにも及ぶ分厚い火山灰などによって、紀伊山地の山々が形作られたのだという。
 最後の一つは、その後、東日本が”突然の列島大隆起”によって形作られていき、北は日高山脈からさらには東日本の脊梁山地になっている奥羽山脈、越後山脈、北アルプスなどが形成されていったのだという。
 そのわけは、三つのプレートの境目にある日本列島の中央部の所で、フィリピン・プレートが大陸プレートに潜り込み、さらには太平洋プレートも潜り込み、フィリピン・プレートはその潜り込みの方向を変えられて、東北地方がしわになって盛り上がり、奥羽山脈になっていったのだという。

 それらのプレート・テクニクス理論は、各地の地層地質を実地調査して、さらには様々な要件をコンピューターで解析し構成されて、コンピューター・グラフィックス画面として見事に表現されていた。
 確かに、それらのことは、テレビ映像で見て初めて、壮大な地球史の一部として納得はできるのだが、私が高校生の地学の授業で習った時の、日本の成り立ちや山岳形成からは、もちろんのこと大きく様変わりをしていて、さらには十数年ほど前に、自ら改めて学ぶべく地学史に関する本(『日本列島の誕生』平朝彦著 岩波新書、『日本の自然2 日本の山』貝塚爽平・鎮西清高著 岩波書店)などを読んでは、多くの新しいことを知ることができたのだが、今回の番組では、さらにそこから推し進められた、最新の日本列島形成の理論を知ることができて、実に興味深い番組になっていた。

 もちろんこの番組は、2回分併せて2時間足らずという番組時間の制約もあり、まずは日本列島の形成の始まりについて触れただけのものであり、その後の氷河期におけるカールなどの氷蝕地形についてや、中央構造線(フォッサ・マグナ)の活動や、日本各地で起こった断層や火山の大噴火などによる山岳部の形成などについては、語られていなかった。 
 望むのは、その地方ごとの山岳形成について、さらなる新しい理論を含めての番組として放送してもらえるとありがたいのだが、今NHK・BSでは次世代の『にっぽん百名山』などの番組が進行中だが、『花の百名山』シリーズはもとより、さらに『地学百名山』なんてものは・・・まあ無理だろうな、地理地学ファンなんて、世にいう“オタク”属の一握りのファンたちがいるだけだから。
(書籍としては、”『山の自然学入門』小泉武栄・清水長正編 古今書院”、という地学的説明を加えての名山案内という、わかりやすい良書があったのだが、装丁・編集があまりも教科書的で見劣りするのが残念ではあった。むしろ同じ小泉氏の著書ならば、新書版で本文写真も黒白ではあるが、”『山の自然学』小泉武栄著 岩波新書”のほうが、まとまりは良いかもしれない。) 
 
 さて、山の話ですっかり長くなったが、もう一本の番組は、同じ30日にNHK・BSで放送された「MASA(マサ)と奇跡の合唱団」である。
 15年前、アメリカはユタ州のソルトレイクシティーで冬季オリンピックが開かれた時に、当時留学していた日本人学生の作った曲が、セレモニー・ソングの一つとして採用され、その歌を歌うために1600人もの地元の子供たちが集まり、その合唱団の指揮を日本人の彼が自ら行い、大歓声を浴びたのだった。
 以後彼は、ソルトレイクシティーの子供たちを集めて、”One Voice Chirdren's Choir(ワン・ボイス・チルドレンズ・クワイヤ)”という合唱団を作り、年間40回もの公演をこなしているとのことである。 
 4歳から18歳までの子供の団員は150人ほどだが(公演の時には数十人ほどで歌っている)、欠員が出るたびに多くの入団希望者が出るほどの人気があり、あのオバマ前大統領夫妻の前で歌ったことがあるほどである。
 
 彼は、子供たちのそれぞれの個性を出すために、発声法の個別練習などはあえておこなわずに、ただ歌の気持ちを込めて歌うようにと、8パートにも分かれたそれぞれの声部で自由に歌わせて、それが分厚いハーモニーとなって感動的な歌の響きになるのだ。
 みんなの声が一つになり、世界が一つになるように歌の素晴らしさを伝えていければいい、と彼は言うのだ。
 MASAと呼ばれる合唱指揮者の福田真史(41歳)、何より彼は、英語を上手に話していて、それが、それぞれの問題を抱える子供たちと向き合う時の、最重要なコミニュケーションの手段となるからだ。
 子供たちの話を聞いてそれぞれの歌声を聴いて、ジグゾーパズルのそれぞれのコマのように、そこにしかない場所に子供たちをはめ込み、あとは自由に楽しく歌わせるだけだ。
 そして、そのハーモニーは、子供たち自身だけではなく、聞いているすべての人たちの心を打つのだ。

 そんな孫のような子供たちが歌っているのを見て、このじじいは、ひとり胸が熱くなるのでありました。
 日本の山々の成り立ちの映像といい、子供たちの歌声といい、何とありがたい見ものであり聞きものであったことか、長生きはするものだ。

 夏山遠征に、二年続けて行けなくなってしまったが、天気が余り良くないのに、無理して行きたいとは思わない。
 何も見えない中、ただ歩いてただ登ったというだけでは、それが、なんぼのもんじゃいと言いたくなるのだ。
 山は、周りの景色が見えてこそ、本当の山の価値がわかるというもんや。
 わしには、幸いなことに、いい時の山の思い出がなあ、ぎょうさんあるんやさかい、今年行けなかったくらいで。
 ほうーれ、この写真見てみい。

 4年前の、北アルプス裏銀座縦走('13.8.16~26の項参照)の時、あのカールの残雪を抱えた黒部五郎岳(2840m)の素晴らしさ・・・満開のコバイケイソウの大群落のかなたに鷲羽岳(わしばだけ、2924m)があり(写真下)、右手に遠く遠く槍・穂高の山も見えていた。
 あの時の思い出のためにも・・・もう二度と行きたくはない黒部五郎、至上のひと時だったのだ・・・ありがとう。


 
 


捨てる神あれば、拾う神あり

2017-07-24 21:27:57 | Weblog



 7月24日

 暑い日が続いている。
 そんな暑い夏の時期に、この九州の家に居るのだ。
 家にいれば、連日30度を超える気温はともかく、あのねっとりじっとりと体にまとわりつ、真夏の湿度の高さにはまいってしまう。
 ああ、北海道のあのカラッとした暑さと、朝夕の涼しさが恋しくなる。

 若いころの初めての海外旅行で、中継地の香港の啓徳飛行場に降り立った私に、熱帯特有の湿度の高い暑さが、わっと体を包むように取り付いてきた。
 その暑さは、歩くごとに汗となってにじみ出てきて、こんな所にはもう二度と来るものかと思ったほどだったが、考えてみればその時から、住むならば南に行くよりは涼しい北海道にいきたいたいという思いが、予定事項として私の頭にメモされたのかもしれない。

 それでも、北海道のあばら家に比べて、まだしもこの家にはクーラーがあるからいいようなものの、さらには毎日、寝る前の風呂だけではなく、朝に昨日の生ぬるい残り湯にも入れるからいいようなものの。 

 わざわざ暑い盛りに、この九州に戻ってきたのは、幾つかの用事があったからであり、しかし一週間余りでそれらの仕事を片付けた後は、いつでも出かけていいようにと準備し待っていたのだが、肝心の本州の天気が定まらない。 
 梅雨明け発表二日ぐらいは天気が続いたけれども、その後の天気予報の、曇りや雨の多さには、数日にわたる山行の予定など組めたものではない。(それなのに、山に登る予定のない西日本の天気はずっと晴れマークが続いているのだ。)
 ともかく、今日明日の天気図を見ればわかるように、梅雨前線が日本の真ん中にあるし、南から大きく張り出すいつもの太平洋高気圧などないし、どこが梅雨明けなのだろうか。もともと梅雨入りの発表時期もおかしかったし。
 さらには、年ごとに体力の低下を自覚しているだけに、今のうちにと考えて、東北の山々に花を見に行こうと思っていたのに、それは単なる天気が悪いという予報だけではなく、あの短時間記録的豪雨による水害が、このたびの北九州の被害だけではなく、東北・北陸にまで及んできているのだ。 
 山登りなどの話どころではない。

 去年は、脚のヒザの故障で、どこにも行けずに、毎年恒例の夏山遠征を棒に振ってしまった。
 今回は、そのヒザの具合と体力を確かめるための登山で、たいした問題は見つからずに(7月3日の項参照)、それではと、東北の花の山々を目指すべく予定していたのに・・・。
 「時は流れ、私は残る・・・・」というあのアポリネールの詩の一節ではないけれども。
 「すべて(満ち)足りたその上に、立派な心を持つなんて無理というもの」というジャムの詩の一節をも思い出す。

 その上に、私は久しぶりに体調を崩してしまった。 
 昨夜、あまりの蒸し暑さに、冷房のスイッチをつけたまま寝てしまい、今朝、お腹は秋祭りの”ぴーひゃらどんどん”に、吹き出す汗で、救急車が頭をよぎり、どうなることかと思ったけれども、これまた何年も飲んでいなかった風邪薬を、それも消費期限は5年前に切れていたが(賞味期限が10年前に切れていた缶詰も食べたことがあるくらいだから)、”えーい、ままよ”と飲んでみて、それが効いて何とか今は落ち着いて回復してきたというところだ。(このブログを書いている今、その風邪薬のために、頭がボーットはしているが、まあそれもいつもの私のぐうたらな頭の中と変わりはないが。)

 しかし、そうした悪いことばかりがあったわけではない。 
 いつもの夏は、この家にいる期間が短くて、十分には見られなかったクチナシの花が、今、次から次へと咲き続けてきては、その甘い香りが一日中家の周りに漂っているのだ。(写真上)
 さらには、春に植えておいたミニトマトの苗が大きくなっていて、ありがたいことに鈴なりに実をつけていて、今までに数十個余りも収穫できたことだ。
 いずれも、いつものように短い夏の滞在では、十分に味わえなかったことでもあるからだ。

 ”楽あれば苦あり、苦あれば楽あり””捨てる神あれば、拾う神あり”の例え通りに、いいことも悪いことも、いつも半分半分と考えるほうが、自分の心は楽になる。
 誰の心でもない自分の心だもの、他人や他の物事に簡単に左右されてたまるかと思い、いつも悪いことがあればいつかいいことがあるはずだと希望を持ち、いいことがあればいつか悪いことがあるかもしれないと、気持ちを引き締めて、いつも”人生は良し悪しは半々なのだ”からと思うことにしているのだ。

 山に行くことについても、今年、東北の花の山に行くことができなくなったと嘆くよりは、英語で言う”When one door shuts ,another  opens." という例え通りに、別の日に別の入り口から入ればいいだけのことなのかもしれない。

 さらには小さなことだが、家のベランダそばのアベリアの花に、ナガサキアゲハが来ていた。
 家の庭で見たのは初めてであり、少しうれしい気分になった。(写真下)




 さらに言えば、山に行かずに家にいたおかげでというべきか、何本かの良いテレビ番組を見せてもらった。(いずれもNHKのドキュメンタリーや科学バラエティー番組ではあるが。)
 
 21日(金):「逆転人生」
 7年前に秩父の両神山(1723m、険しい奇岩の山として有名な百名山の山)で遭難した人がいて、14日後に助けられたという話は憶えてはいたが、その詳しい遭難状況や救助の詳細については知らなかったし、今回のこのテレビ番組では、実際に現地でのロケをしていて、それがリアルな再現ドラマになっていた。
 (ある民放のドキュメンタリー・バラエティー番組で、冬の北アルプスの遭難のシーンを、おそらくは予算がないからだろうが、東京から近い秩父・奥多摩らしい山に行って、その薄く雪が積もった杉林の斜面を歩くシーンを撮って代用していて、思わず笑ってしまったことがあったが。)
 この遭難事件の場合、道迷いから強引に下って転落という、よく初心者にはありがちなパターンではある(私にも若いころに体験したことがある)が、何と言っても彼の場合最悪だったのは足首を骨折していたことである。
 さらには、その骨が飛び出すほどの重症を負いながらも、逆には、水のある沢から離れずにいて(足のケガもあって)、さらには増水した沢水にザックを流されてしまい、もうろうとした意識のまま死の一歩手前の14日目を迎え、一方ではその流されたザックが下流で見つかっていて、やがて救助隊がその沢の上流で彼を発見することになるのだが、その救出の時には、私も思わずもらい泣きしてしまった。 
 いろいろと批判はあるだろうが、日本の山岳遭難においては、生存可能の三日目以降に救出された人は極めて少ないということであり、ましてはこの14日目という日数が、いかに奇跡的な数字であるかがよくわかる。
 彼はその後、足を切断することなく何度もの手術に耐え、リハビリの後、前と同じように歩けるようになっていて、当時の彼女と結婚して、二人の子供とともに幸せな毎日を送っているとのことだった。
 しかし、前にもここにあげたことがあるが、ジョン・クラカワーの『荒野へ』の主人公が、アラスカの荒野で発見された結末のように、長期に及ぶ未発見の遭難者の場合、ほとんどは幸せな終わりとはならないのだが。 

 21日(金):岩合光昭の『世界のネコ歩き』津軽の四季(後編)
 2年前に放送されたものの再放送であるが、またまた画面に引き込まれて見てしまった。
 特に冒頭シーンの、紅葉の樹々を背景に映し出された半逆光の中のネコ一匹、屋根の上の月とネコのシルエット、雪の屋根と二匹のネコなど。
 すべてが、動く映像なのに、一枚の写真のような映像美にあふれているのだ。
 あらかじめネコが来る位置を予想して、アングルを決め、カメラは固定してむやみに動かさずに、そのひと時を切り取って行く見事さ。
 動物写真家として出発し、その蓄積された経験を生かしての、岩合氏の美意識と生き物に対する愛情がにじみ出るような、それぞれの時の印象的な映像シーンだった。
 秋から冬が過ぎ、そして春、櫻の下、顔に一枚の花びらをつけたネコ一匹・・・。
 私に、映画監督の素養があれば、自分の映画のカメラマンには、ぜひとも岩合氏をとお願いして、何事も起きない静かな山里の、人とネコや生き物たちの姿を描いた、映画を作ってみたいものだ。

 22日(土):『AI(人口知能)に聞いてみた どうすんのよニッポン』
 様々な社会データをコンピューターに入れて、人間の思考だけでは生み出すことのできない、今後の日本への様々な提言をコンピューターに出させているのだ。
 ”病気になりたくなければ病院を減らせ””男の人生のカギは女子中学生のぽっちゃり度にある””ラブホテルが多いと女性が活躍する””少子化を食い止めるには結婚よりもクルマを買え””40代の一人暮らしが日本を滅ぼす”と、いずれも過激な週刊誌並みの、キャッチフレーズになっているのだが、一つ一つの要因を見て行けば、きわめてまともなデータ集積によるものであることがわかるし、確かに生身の人間が発想できる領域を超えていて、実に興味深いものではある。
 しかし、大多数の意向だけによる、社会・行政の政策施行が、すべての人への正しい答えにはならないということもあるはずだし、そのあたりの人間個人個人の思いと、大多数だけを基準の判断にするコンピューターの判断の危うさとを、もっと提示してほしかったという思いが残る。
 それまでに、バラエティー番組の司会者などとして活躍するマツコ・デラックスという巨漢女装タレントを、まともには評価していなかったのだが、この番組を見てはじめて、なかなかに正直なバランス感覚を持った人なのだと理解しただけでも、この番組を見たかいがあったと思う。

 23日(日):『ジオ・ジャパン(GEO JAPAN)  奇跡の島はこうして作られた。
 40数億年前の地球誕生から、今日に至る、日本列島誕生の過程を、コンピューター・グラフィックスの画像と実写映像を交えて、最新の理論で説明していく、地理地学ファンにはたまらない番組だった。
 先週の「ブラタモリ」ではあの有名な、秩父(ちちぶ)武甲山(ぶこうさん)とその盆地周辺の、地層岩石の見て歩きがテーマになっていただけに、併せて見た人も多いことだろうから、地学ファンにはさらなる喜びになったはずだ。
 その昔、高校の教科書に載っていて初めて知った、ヴェーゲナー(1880~1930)の唱えた”大陸漂流説”が、すでに100年も前からあったことも驚きだったが、その端緒から一気に”プレート・テクニクス理論”(地球上には多くの巨大岩盤があり、それが地球表皮を動いて様々な地形を生成している)が発展し、さらに研究されて今日に至っているのだ。
 その中でも、確かに日本列島の生成過程は、劇的な変化があり、あの有名な丹沢山地や伊豆半島の衝突、富士山の噴火など、こちらもドラマにできるほど盛りだくさんの内容があった。
 来週は、日本の山々の形成ということで、これも楽しみではあるが。
 
 ついでにもう一つ、番組冒頭には内容あらすじ語りの映像が流されていたが、その中で一瞬ではあったが、冬の日高山脈、カムイエクウチカウシ山周辺の、隆起山脈の浸食彫琢(ちょうたく)された山肌が映し出されていて、これが素晴らしかった。(写真下、NHK総合『ジオ・ジャパン』より、手前から春別岳、1917m峰、左に張り出して1903m峰、中央に暗くカムイエクウチカウシ山、重なって遠く1839m峰)
 とても2000m以下の山々とは思えない、アルプス級の冬の日高山脈の美しさを、もっと映像として流してほしかったのだが。
 ”八丈島のきょん”ならぬ、”日高のクマ”は怖いのだが、山は一級品である。

 

 


夏の盛りの山に

2017-07-17 22:16:46 | Weblog



 7月17日

 数日前に、山に行ってきた。
 それは、例の九州北部の豪雨被害をもたらした、梅雨前線の活動がようやく弱まり北上して、それまでのぐずついた空模様から一気に青空が広がり、梅雨が明けたような天気の日になったからだった。
 夏の山登りは、なるべく朝早くから登り始めたほうがいいと分かってはいても、やはりそこは、ぐうたらじじいの性分で、いつものように日が昇ってから目が覚め、朝食をすませてクルマに乗り、いつもの九重の牧ノ戸の登山口に着いたのは、もう8時に近かった。
(今の日の出は5時過ぎくらいだから、せめて6時くらいには登り始めたいし、そうすれば、暑さが盛りになる午後を避けて、午前中には戻って来られるのだが。)

 駐車場には、梅雨明けしていない時期の平日ということもあってか、クルマが10台ほど停まっていただけで、人影もまばらだった。
 登り始めの遊歩道の両側には、ずっと鮮やかな紫のアザミの花が咲いていた。 
 その一つの花に、アザミにはおなじみのイチモンジセセリがとまっていて、さらにもう一つのアザミの花の上では、マルハナバチが動き回っていた。(写真下)




 それも、最近北海道でマルハナバチを見ると、頭にセイヨウと名前のついたオオマルハナバチであることが多くて(大雪山でも見たことがあるくらいで)、彼らの強い繁殖力を前に、在来種のオオマルハナバチは駆逐(くちく)されてしまう怖れもあって、駆除対象外来種にもなっているのだが、そうした事情があるだけに、マルハナバチを見るとつい識別のためにじっと見たくなるのだ。
 しかし、ここにいたのは在来種のトラマルハナバチだった。 
 気がかりなのは、輸入牧草の関係で北海道に侵入し、繁殖範囲を広げ続けているセイヨウオオマルハナバチが、同じような酪農牧草地帯でもある、九重や阿蘇の高原でも繁殖し始めてはいないかということである。
 もっとも、その他の本州各地でも酪農業は盛んに営まれており、牧草地も広がり、輸入牧草も入ってきているのに、まだセイヨウオオマルハナバチが繁殖していないということは、北海道だけで繁殖していることからも分かるように、高温に弱いのだからそれほど心配することではないのかもしれない。

 と考える一方で、地球の高温化は少しずつだが進みつつあるようにも思える。
 今いる九州の家でも、連日32度くらいにまで気温が上がり、クーラーをつけてやっとしのいでいるというのに、北海道帯広では、なんと三日間続けての35度以上の猛暑日になり、それも37度にまでなったということだし、昔は十勝帯広ではクーラーをつけている家など余りなかったのに、今ではもうクーラーをつけていない家はないくらいにまでなっているのだ。
 そんな中でも、数少ないクーラーのない家である北海道のわが家では、10年前にやっと扇風機を買って何とか暑さをしのいでたのだが、さらに最近では、朝夕はともかく日中気温が上がった時には、やはりクーラーが欲しいと思うようになってきた、年のせいでもあるのだろうが。

 そして、北海道の農林漁業にも少しずつ影響が出てきているようであり、北海道近海では海水温が上昇し、それまでの北の魚が取れなくなり、逆に北海道でうまい米は作れないと言われていたのに、今ではその道産米である”ゆめぴりか”が、国内最高とされてきた、新潟魚沼産の”コシヒカリ”と同等の評価を受けるようになってきたのだ。 
 今、日本各地で発見されて話題になっている”ヒアリ”は、北海道では寒すぎて繁殖できないだろうとされてはいるが、一方でこのセイヨウオオマルハナバチのように北海道だから繁殖できる種もいるし。
 さらには、北海道ではほとんど見ることができなかったゴキブリが、今ではあちこちの道内都市圏で、一部ではあるが繁殖しているとのことだし、ともかくこうして、気温上昇に伴い悲喜こもごものニュースがさらに増えていくことになるのだろう。

 それは世界規模で見ても、アルプスやヒマラヤの氷河の著しい縮小後退ぶりは、周りに与える影響を考えると、暗然(あんぜん)とした思いにならざるを得ないし、昨日、放送されていたNHKの南極海のドキュメンタリー番組では、基地の前に立っている人々が雨に濡れていて、足元には水たまりさえもできていた。
 さらにしばらく前に放送されていた、北極のドキュメンタリー番組では、氷が融けてしまいアザラシを狩ることができずに、やせ細った体でさまようシロクマの映像が映し出されていて哀れだった。
 誰が悪いのだろか。 
 言うまでもないことだが。 
 傲岸不遜(ごうがんふそん)に自らの力を誇った者たちは、いつしか時とともに自ら滅んでいくものだが、恐るべきことには、その時に周りのすべてのものさえも巻き添えにしてしまうということだ。
 そうした中でも、残された日々を生きること。

 私は考えをまとめることができないまま、今、緑濃いこの九重の山の景色をひとり愉(たの)しみながら登っているだけなのだ。
 まだまだ続く、鮮やかなアザミの花とヒョウモンチョウだらけ(各種の区別がつかない)の道を登って行く、濃い紫のウツボグサに、白い小さな花の穂先を幾つも伸ばしたヤマブキショウマ、低いササの中から一本だけ立ち上がったシライトソウ。
 遊歩道が終わる沓掛山(くつかけやま)前峰からは、南に盛り上がる扇ヶ鼻(1698m)との間一面に、緑のナベ谷の景観が広がっていた。
 ゆるやかな縦走路を行く。 
 夏の日差しは強いけれども、風もあり、まだ午前中だということもあって、そう暑くはなかった。
 しかし、もう戻ってくる人たちに、一人、二人と出会った。朝早く登山口を出て、午後の暑い中での歩きを避ける彼らのほうが正解なのだ。
 
 やがて、尾根の下の谷を挟んで、星生山(ほっしょうざん、1762m)が姿を現し、秋は紅葉に彩られる西斜面(’16.10.31の項参照)の、さすがに夏らしく盛り上がる緑のうねりが素晴らしかった。(写真上)
 扇ヶ鼻分岐から、平らな西千里浜をたどって行くと、久住山(1787m)が見えてきた。
 今までに何度も見てきた姿だが、その度ごとにどうしても写真に撮りたくなる。一二分ごとに立ち止まってはシャッターを押してしまう。 
 岩塊帯を登って星生崎下の鞍部(あんぶ)に着き、そこでもまた一枚。(写真下)



 冬、雪に覆われるころの姿とはまた違って、緑鮮やかに夏の強い光を浴びてそびえ立つその姿、高さでは中岳に少し劣るとはいえ、九重山群の中の盟主たるべき山であることは間違いのないところだ。 
 一度、眼下の避難小屋のある平坦地に降り(上の写真の左下)、それからゆるやかに久住山から北に張り出した山腹をたどり、そして御池への道と分かれて、天狗ヶ城(てんぐがじょう、1780m)への急な登りとなる。
 右下に見えてきた御池の色に励まされ、何度も立ち止まり大きな息をつきながら、やっと天狗ヶ城の頂上に着いた。 
 この九重山群の中で、私の最も好きな頂上だ。 
 何度も言ってきたことだが、何よりも人が少ない静かな山頂であることがありがたいし、普通の登山者たちは久住山か最高峰の中岳(1791m)を目指すから、この天狗は見逃されることが多く、ついでに登る山だと思われているようだが、私にとってはこの天狗だけが目的の時もあるくらいなのだ。
 さらに、周りの山々を見ることから言えば、この天狗と中岳が最も最適な位置にあり、他の山々、久住、星生、稲星、三俣、大船などの頂からの展望も、もちろんそれぞれに独立峰として悪くはないのだが、何と言っても、この二つの山の頂からこそが、久住山群主峰群を眺めるには最適の場所だと私は思っている。

 しばらく休んで、岩塊の下り道からゆるやかになり、そこから御池とそれを囲む御池山の向こうに、先ほどの鋭角的な姿とは違うゆったりと山体を横たえた久住山の姿が見えている。ここでもいつものようにカメラを構えてしまう。(写真下)




 まして、御池の色がいつもとは違うエメラルド・グリーンになっていたから、その鮮やかな色を見ただけでも来たかいがあるというものだ。 
 前に一二度はこの色を見たことはあるが、いつもは普通の浅い緑か濃い緑色であり、今回の色は、火山山群であるこの九重一帯の火山活動によりというよりは、このたびの記録的豪雨により、周りの硫黄などの火山成分が流れ込んだためと考えるべきだろうか。
 
 さらに、ゆるやかな鞍部から中岳への短い急な登りになって、ほどなく中岳頂上に着く。 
 ここで、今まで見えなかった東側が大きく開けて、眼下に小さな箱庭のような坊ガツル湿原の広がりが見え、取り囲むようにミヤマキリシマで有名な平治岳(1643m)と大船山(だいせんざん、1786m)が見えている。しかしどうしても、反対側の西側に目がいってしまう。 
 先ほどの、御池を懐に抱くように見える久住山の両側に南に稲星山(1774m)、西から北にかけて手前に今登ってきた天狗、そして向こうに星生山、遠くコニーデ富士山形の涌蓋山(わいたさん、1500m)があり、北側にひとり離れてうずくまるように三俣山(1745m)が見えている。
 11時になるのに、小さな雲がいくつかあるだけで、ほとんど快晴の夏の空、他に誰もいない静かな山頂。
 それ以上に、まるで初めて見るかのように、夏の強い日差しにくっきりと浮かび上がるかのような、濃い緑にあふれる山々の姿。

 思えば、真夏の九重に登ったのは久しぶりのことであり、10年から10数年前に、真夏の縦走路は暑いからと避けて、沢登りで二度ほど扇ヶ鼻に登ったことはあるが、中心部の主峰群に登ったのは、中高校生の頃に三度ほど登って以来のことであり、あれから数十年もの歳月が流れていて、モノクロ写真からは当時の山肌の色までは思い出すことができず、こうして初めて見たような夏山の姿に、新鮮な驚きを感じたほどなのだ。 
 その後、九重へは、ミヤマキリシマの咲く6月か雪の降った冬の時期(’17.1.30の項参照)にしか登らずに、秋の紅葉の時期さえも今までに少ししか知らなかったくらいなのだ。
 山は、一回登ったくらいで、その山のすべてについて語れるものではなく、春夏秋冬、さらに日の出から夕日に照らし出されるすべての情景を見てこそ、ようやくその山について少しずつ話すことができるようになるものなのだろう。 
 私は、この九重の山に、おそらく100回ほどは登っているのだろうが、最近登り始めた紅葉の時期と併せて、このたびの真夏の山に登って、まだまだこの九重の山について知らないことが幾つもあるのだと教えられたのだ。この年になって。

 かと言って、若いころにもっといろんな山に登っておけばよかったのにとは思わないし、それは若いころには他にもやるべきことがいろいろとあったからであり、今になって、昔の記憶の中にある山だけを懐かしみたいとも思わない。 
 大切なのは今であって、記憶にあるだけの若いころなんぞに戻りたいとは思わない。 
 年寄りになってからの今こそ、長い経験に基づくいろいろな視点からの観賞力が蓄えられていて、その観能力こそを大切にしていきたいと思うのだ。
 これからいつまで続けられるかもわからない、一つ一つの山旅が、すべて私には大切なものになるのだろう。
 生きて年を取って行くということは、そういうものだと思う。 
 若いころの激情の発露こそは、確かにその時に若さのただなかにいた証(あかし)であり、それと同じように、いやそれ以上に年を取ってからの、余分な感情に左右されない、静寂の中の確かな動きこそが、残り少ない生のきらめきの鑑賞力を高めてくれるのだろう。

 帰りは、御池に向かい湖岸いっぱいになった水辺を眺めながら、エメラルド・グリーンの色合いを心おきなく楽しんだ。
 しかし、沓掛山に向かうなだらかな縦走路では、夏の午後の光が強く照りつけていて、早立ちして山に登り、午前中までには下りてくる人たちの思いがよくわかった。 
 それでも、まだ登ってくる人たちがいたし、学校の集団登山の列も続いていた。
 まあ、人それぞれの考えや予定もあることだろうから。

 往復6時間足らずの、適度な山歩きだった。(前回の登山から2週間ほどしか間が空いておらず、翌日以降の筋肉痛もなかった。) 
 家に戻って、まずは昨日の残り湯に入って汗を流し、ついでに汗まみれの登山着なども洗濯して、冷房の効いた部屋で、ノンアルコール・ビールを飲んで、うーんたまらん喉ごしの感じ、そしてデジカメをテレビにつないで、とってきたばかりの写真を見る。なんという幸せな時間だ。

 ところで暑い夏に九州の家に戻ってきたのは、様々な用事が重なってのことなのだが、その他の理由の一つに、庭のウメの木になる大きなウメの実でウメジャムを作ることがあり、大げさなようだが、このウメジャムこそが、今の私の健康を支えてくれているのだと思っているからでもある・・・信じる者は幸いなるかな。
 ただし、毎年少しずつウメの実の数が少なくなってはいるのだが、今年も何とか大びん1、中びん1個と作ることができたし、さらには近くにあるヤマモモの実(写真下)からもジャムを作り、これも大びん1個に小びん3個と作ることができた。
 いずれも暑い中、大汗をかいての二日にわたる作業だったが、ともかくなすべき季節の仕事をすませることができて、その後で、またもノンアルコール・ビールを一杯、うまい。(私はビール業界の回し者ではありません。念のため。)

 虫は虫なりに、動物たちは動物たちなりに、じじいはじじいなりに、それぞれに生きる道があるものなのであります・・・。


 


空の雲と下界の景色

2017-07-10 22:40:57 | Weblog



 7月10日

 数日前に、九州に戻ってきた。
 豪雨災害もさることながら、幾つかの用事もあって、毎年この時期には一度家に戻る必要があるからだ。

 北海道十勝地方は、梅雨前線による豪雨が続く北部九州地方とは違って、南からの高気圧に覆われて、連日35度を超える猛暑日が続いていた。
 確かに外は暑いのだが、窓を閉めて家の中に閉じこもっていれば、丸太小屋の断熱効果で22度くらいまでしか上がらないし、逆に夜になれば窓を開けて、15度くらいにまで下がる外気を取り入れて、涼しい夜を過ごせるというわけだ。
 生来の北海道の人にとっては、それは当たり前のことなのだろうが、内地の蒸し暑さを知っている私たち移住者たちにとっては、この涼しさこそが北海道にいる大きな理由の一つでもあのだ。

 国内における移住者たちの動向についていえば、相変わらず、沖縄奄美などの南の島が圧倒的人気であり、次いで東京から近い山間部の里山や海辺の地域ということになるらしく、昔は断トツの人気だった、この北海道への移住は相対的に減少しているのだろうが。
 まあ、明るい暑い夏に穏やかな冬の南の島が好きなのか、それとも、涼しい夏に明るく厳しい冬の北海道がいいのか、どうも南のほうがが8:2くらいの割合で、どうしても北海道のほうが分が悪いようだが、それでも私は広い北海道が好き!八丈島のきょん!(昔のマンガ「こまわりくん」の意味のない感嘆詞。)

 そんな私が、まだ梅雨明け前のあのねっとりとした暑さの九州に戻らなければならないのだ。わが家の周りの豪雨被害も気になるし。

 その日も猛暑日の予報が出ていた十勝地方を後にして、飛行機に乗った。
 快晴の天気だが、このところの猛暑続きの空は、もやにおおわれ、日高山脈の山々はかすんでやっと見えるだけだった。
 他にも、わずかにちらりと、大雪方面の鮮やかな残雪模様の山々が見えたのだが、私の座っていた方向からは逆になり、その逆の窓から飛行機が離陸後旋回する時に、きれいに大雪の山々が見えていたとのことだった。

(何としても死ぬまでに一度、冬の晴れた日を選んで、旭川ー東京便かそれとも道内便の札幌ー女満別、札幌ー釧路便に乗って、心おきなく山々を眺めてみたいのだが。
 航空写真家ならばともかく、今までにこうして、飛行機の窓にかじりついて山々の眺めに夢中になっている人を、他に見たことはないし、私だけのひそやかな愉(たの)しみなのかもしれないが。
 しかし、そうしてまでもより美しい山の姿を見たいと思い、ねちねちと憧れ続けることこそ、まさに年寄りらしい、虚(むな)しくも哀れな偏執狂(へんしつきょう)マニアの姿なのだろう。)

 そして飛行機は太平洋を飛び越えて、まだまだ大津波の爪痕が残っている東北沿岸部から内陸部に入って行く。 
 夏の熱気のかすんだ空気はずっと続いていたが、それでも残雪をまだらに置いた山々が見えてきた。
 奥羽山脈上の、焼石岳(1548m)、栗駒山(1627m)、蔵王(1741m)、吾妻連峰(2035m)などであるが、それらの山々と離れて少しかすんではいるが、日本海側に面する、鳥海山(2236m)、月山(がっさん、1984m)、朝日連峰(1871m)も見えていて、明らかにわかることは、雪の量の違いであり、遠目には、まだ雪山ではないのか思うほどの残雪があった。

 冬の東北の日本海側は大雪になり、反対側の太平洋側は雪は少なく晴れた日が多い、という地域特性を如実に示しているかのような景観ではあった。
 東北には、私がまだ登っていない山が数多くあり、特に気になっている、朝日連峰が西側にたっぷりの残雪を残して、大朝日岳(1871m)から以東岳(1771m)に至る主稜線の山並みを見せていた。(写真上)
 もちろんこの朝日連峰でも、かなりの雪解けが進んでいて、青黒い稜線が続いていたが、そこではもうヒメサユリとヒナウスユキソウの花が咲き始めていることだろう。
 さらに会津磐梯山(ばんだいさん、1819m)と猪苗代湖までは見えていたが、飯豊から上信・北関東の山々は、沸き立つ夏雲の中に隠れていた。

 羽田で乗り換えて福岡行きの便に乗る。
 期待していた富士山は、同じように周りの沸き立つ雲に隠れようとしていた。




 夏の午後という時間を考えれば、無理からぬところだが、それでも富士山の斜面に沿って上昇気流が雲となって駆け上がり、こうして周りを取り囲んでいる様子がよくわかる。
 そして最高点頂上(3776m)には雲がかかり始めていたが、その他のお鉢(はち)周りは見えているから、まだ周りを囲む雲海の眺めを楽しむことができるだろう。
 ただそれにしても、富士山は雪が少ない。先ほど見たばかりの東北の山々は、高さが富士山の半分ほどしかないというのに、あの雪山のような雪の量はどうだろう。 
 つまり、日本海側の山で高度が4000m近い山があれば、おそらくヨーロッパ・アルプスにあるような氷河が存在しているはずであり、数年前に立山カルデラ砂防研究所などが発表したところによれば、今でも立山・剣岳の万年雪の谷には、少しずつ動いている氷結した雪の塊があり、日本にも氷河があることが確認されたという。
 その中でも、立山(3015m)御前沢の雪渓は、普通立ち入ることもなく、近くで見たこともないからわからないが、剣岳(2998m)東面の二つの雪渓、三ノ窓と小窓の雪渓は、仙人池方面への途中から見上げることができて、それは素人目に見ても、ヨーロッパ・アルプスの小規模な氷河を思わせる景観だから、今回それが氷河だったと認められても、やはりそうかと思った人も少なくはなかっただろう。
 ただ、あまりにも小規模すぎる。少なくとも、あの魚のうろこのような形で、密になって流れ下る姿としての氷河を日本で見るためには、この剣岳に、もう1000mの高さがあったならばとも思うのだが、それはまた、わが北海道の日高山脈があと1000m高ければ、という思いとおなじことなのだろうが。

 そして、山々が見えたのはそこまでだった。眼下に名古屋の市街地が下に広がっていた後は、梅雨前線が一部、南北に立ち上がる形なっていて、見事な雪のプラトー(高原)ならぬ、広大な雲のプラトーが広がっていた。(写真下)




 この穏やかに見える乱積雲(あま雲)の下では、おそらくは弱いながらも雨が降っていることだろう。
 そして、この前線から少し離れた瀬戸内海上空にまで来ると、積雲(わた雲)がぽつんぽつんと浮かんでいて天気も小康状態だったが、やがて、前線が下りてきていて大雨警報が出ている九州北部地域に差しかかると、積乱雲(にゅうどう雲)が幾つも立ち並んでいた。 
 飛行機は、玄界灘の海側から南下するために、その積乱雲に近づくことはなかったが、飛行機が下降中であることを考えても、そのうちの一つは、おそらくは1万mを超える巨大なもので、頭頂部分が巻雲(すじ雲)のある高さにまで達していて、そこで乱れ分かれ始めていた。(写真下) 
 空港は、それらの積乱雲から、少し離れたところにあり、少しの揺れだけで滑走路に舞い降りた。

 こうして、東京ー福岡間は、山や島や海岸線などほとんど見ることはできなかったが、前線による大雨警報が出ている中での、わかりやすい上空の雲の状態を見ることができて、実に興味深いひと時だった。もちろん、今はそれどころではない、豪雨被害を受けている皆様方には、他人事のような物見遊山の空の旅で申し訳ないとは思うけれども。

 実は、これから戻る九州の実家は、今回の福岡・大分豪雨被害地域とさほど離れてはいない所にあり、心配したのだが、その集落の周りで雨は降ったけれども、被害は出ていないとのことで、一安心はしていたのだが、ともかく家を見るまではと気がかりだったことは言うまでもない。
 そして、バスの車窓から見る、生々しい災害跡、緑の山肌が引っ掛かれたようにはがされ、土色がむき出しになり、その流れ下った先は黄濁色にまみれ、幾つもの生木が乱雑に積み重なり、道も田んぼもそして車でさえもその泥の中に埋まっていた。
 そんな状況の中で、何とか道を確保すべく数台の重機が一か所に集中して動いていた。
 さらに、あちこちの支流をたどって奥に入って行けば、また幾つもの惨憺(さんたん)被害状況を見ることになるのだろうが、走るバスから見た、ほんの一部でしかない幾つかの光景だけでも、胸ふさがれる思いだった。
 小学生の子供を残し妻は行方不明のまま亡くなった43歳の消防団員、幼い子供を連れてさらにおなかにもう一人を宿しながら、出産のため戻っていた実家で母とともに災害に遭い亡くなった26歳若い母親・・・他にも、親や子や、友人知人、住む家までもなくし、あるいは、もう立ち上がれないほどの大きな被害を受けた人々がいて。 
 一つ小さな山を越えた別の支流では、何ら変わることない、緑の山里の風景が広がっているというのに・・・。

 そうして、被災地でのつらい時を過ごしてきた人々と、同じ時を何事もなく普通の毎日を送ってきた私たち・・・。
 しょせんは、仲間の一頭がライオンに食べられている所を、他の仲間たちと遠巻きにして見るほかはない、あのヌーの群れと何ら変わることはないのか、私たちは・・・。 
 考えてみれば、田舎に住んでいても、都会に住んでいても、それぞれにいつも、様々な別の危険があり、それは地球上のどこに住もうとも、私たちが人間という生き物である限り、すべての生き物に課せられたものなのかもしれない・・・。
 善悪の彼岸を越えて、私たちが立ち向かう他はない、生と死の彼岸・・・。


 


夏が来れば思い出す

2017-07-03 22:03:58 | Weblog



 7月3日

 数日前に、山に行ってきた。 
 前回の、日高山脈・剣山への登山から、まるまる一か月もの間が空いたことになる。
 それは、年ごとにぐうたらになっていく年寄りの性(さが)というべきか、いや年寄りでも元気な人はいくらでもいるのだから、あくまでも私の怠惰(たいだ)な性格からきているものではあるのだろうが。 
 ともかく、林の中にあるわが家にいて、毎日小さな仕事をしながら、四季の移ろいを感じつつ生きていければ、それで十分であり、私の人生の中で、他に何が必要だろうかとさえ思ってしまうのだ。 

 とは言っても、そこは”蛇(じゃ)の道は蛇(へび)”の例え通りに、人は誰でも日ごろから様々な葛藤(かっとう)に心乱れ、そう単純に物事を片づけられないものであり、そこが人間という生き物の複雑さであり、私の心の中にも幾つかのものがうごめいているのだ。
 その中の一つというよりは、私にとってはその強い欲求こそが、自分が生きていることの最大の証(あかし)だともいえるものがあり、それが、数十年にわたって途絶えることなく続けてきた、”山登り”なのである。
 
 子供のころの夏休みには、母の実家のある田舎で過ごすことを、何よりの楽しみにしていた私が、さらに広大な未知なる景観に出会うことのできる、山登りというものを知り、夢中になっていったのも、そうした自然に触れる環境にいたという、下地があってからこそのことなのだと思う。

 思うのだが、幼いころから、街中だけで暮らしてきた子供たちにとっては、ほとんど何も知らない自然に対峙するということは、本能的な恐怖にとらわれる危険な場所に入って行くということであり、そこでは小さな生き物たちや虫たちさえも、嫌悪すべき対象になってしまうのだろう。
 だから、そんな彼らは大人になっても、自然のもっとも典型的な姿である山へと、汗水を流しつらい思いをしてもまでも登って行くという、山登りの行為そのものが、理解できないことだろう。

 逆に言えば、山登りを好きになるのには、具体的な見返りがあるわけではなくとも、そんな苦行を乗り越えてまでも、ただ一途に未知なるものを目指すという、素朴な冒険心があるからだということにもなる。
 克己心(こっきしん)は、スポーツ全般にも言えることだが、目的を達成するまで、つらいきつい運動に耐えることが必要であり、もっともそれはいつしか、いわゆる“クライマーズ・ハイやランナーズ・ハイ”のような、”忘我の境”にまでなっていって、さらに危ういことには、それがまた自虐(じぎゃく)趣味的な”マゾヒズム”の悦びにさえ、隣接しているのではないかということにもなる。 

 けわしい坂道を息を切らし登っている時のつらさは、ムチを持った黒タイツ姿のあの”にしおかすみこ”様に、ムチで叩かれている時のようなものであり、その痛みに気を失いかける寸前に、ようやく頂上に着いて、その悦びは頂点に達するのだ・・・”キャイーン、キャンキャンキャン”と犬が鳴きわめくように、歓喜の渦は心の中を駆け回っていく・・・そのようにして多くの人は山好きになっていくのだろうか。
(いつものようにお断りしておきますが、私はいわゆるそうした”マゾ”体質なんぞではないし、ただ例え話として、黒タイツの女王様の下であえぎ喜ぶ姿が、あまりにも山登りの苦行に似ているものだから、ついつい対比してしまうのであります。)

 さて、数日前の山の記録を書き留めておこうと思ったのに、またしても独断偏見的な山登り論を口走り、長々と書き綴ってきてしまったのだが、ここで、もとに戻ろう。
 朝、家を出たのは、もう日が昇ってしばらくたった後であり、日ごろは買い物ぐらいにしか使わないクルマに乗って、長時間ドライブの後に、大雪山・緑岳への登山口である高原温泉に着いたのは、もう9時に近かった。
 それは一つには、若いころには、山に登るためにまだ暗いうちに家を出ていたものだが、年ごとにぐうたらになってきて、目覚ましなんぞで起きたくはないしと、自然に目が覚めた時に起きて、そしてライブカメラ情報で現地の空模様を確認し、さらに気象庁発表の天気分布情報を見てから出かけることにしていて、今回の予報は、”昼前には曇り空から晴れてきて夕方まで晴れるだろう”ということだったから、余計に早く出かける必要はなかったのであるが。

 登山道には、同年配の男の人と、さらに後には二人組の女の人がいたが、それぞれに私を抜いて先に行ってしまった。
 後は人の声も聞こえない、静かな山だった。
 去年、ここで痛めたヒザのこともあって、ゆっくりと登り始めたが、もっとも久しぶりの登山での、いきなりの急坂に息も切れて、40分もかかって、ようやく見晴らしのきく展望台に着いた。
 眼下には、高原温泉を囲む沼めぐりの新緑の森が広がり、その上には、まだらな残雪模様も鮮やかな、忠別岳付近の溶岩台地の稜線が見えていた。(写真上)
 そしていつものように、ルリビタキのさえずりの声が聞こえていた。 
 この眺めとルリビタキの声は、いつもセットになって、夏が来れば、私に大雪山の夏を思い出させるのだ。

 そこからは、昔はひどい泥濘(でいねい)の道だったのだが、今ではすっかり整備されて歩きやすい道になっていて、ただ今年は残雪が多くて、道のあちこちに雪が残り、水も流れていた。
 そしてひと登りで、広大な雪原が広がる、第一花畑入り口の台地上に着いた。
 行く手には、いつもの緑岳(2020m)から小泉岳(2158m)、東ノ岳(2067m)へと連なる穏やかな山体が見えている。
 上空には青空が広がっていたが、まだ山の上から東側にかけて雲が残っていて、ただ後は天気予報通りに午後にかけて、これらの雲が取れてくれることを望むばかりだった。 
 
 それはともかく、いよいよここから、私の大好きな残雪歩きが始まるのだ。
 この緑岳の雪原は、一般に言われている、雪の谷を埋める雪渓(せっけい)ではなくて、冬の北西の季節風に吹かれて、台地上の雪が飛ばされて東側の斜面に積もったものであり、むしろ雪田(せつでん)と呼ぶべきものかもしれないが、しかし、それは沼地や湿原の場所にある残雪のことを言う場合に使うのだろうから、この緑岳のゆるやかな山腹にある広大な残雪は、どうしても雪原と呼びたくなってしまうのだ。

 とまれ、そんな呼び方はどうでもいいことだ。
 今はただ、この三つに分かれた、涼しくさわやかな雪原歩きを楽しんでいこう。 
 周りの山々の上には、雲が残ってはいたが、屏風岳(1792m)から武利岳(1876m)、さらに音更山(1932m)・石狩岳(1967m)連峰から二ペソツ山(2013m)などの山々も見えていた。

 二度ほど腰を下ろしては、そうした雪原の周りの景色を楽しむために休み、そんな45分余りの心地よい雪原歩きが終わると、緑岳山腹をたどるハイマツの道となるが、毎年ここは、その雪原と岩場との境目に大きな割れ目、シュルンドができていて(のぞき込むとまだ2m近い雪の厚さがあって)、少し緊張する所ではあった。

 先日テレビ番組の予報で、有名な山好きの女優さんが、何と冬の屋久島は永田岳に登るということで、楽しみにしていたのだが、実際見てみると、途中の行程はともかく、最後の永田岳の登りで、1mほどに深くえぐれた登山道に残雪があって、彼女を案内していた若いガイドが、踏み抜いて落ちると危険だからと、そこまでで登るのをやめて引き返すことにして、それから先は、ヒマラヤ経験のあるカメラマン二人が、たいした危険もない道をたどって、頂上に着き、周囲の景色を撮って、その影像が映し出されていたのだが・・・まあそれだけのことだけど。
 私も、何度も残雪の雪を踏み抜いたことはあるし、それが登山道の残雪ならば気にはならないのだが、大きな雪渓の場合は、注意が必要だ。
 ある時、いつものように一人で日高の残雪の沢をたどっていて、2mほどのシュルンドに落ち込んでしまい、一瞬何が起きたのか分からなくなって、まあ何とか無事に這い上がることはできたのだが。

 ハイマツの中の山腹を巻いて行く道をたどると、ところどころにキバナシャクナゲの花が咲いていて、さらにたどると、黄色い花のミヤマダイコンソウとメアカンキンバイの株がいくつかある、見晴らしのきく所に出て、そこからいよいよ山頂に向かっての登りになるが、白いイソツツジの花はまだつぼみのままだった。 
 最初の大岩がある所で、いつものように休むことにするが、風が冷たく、ここからは登山着の長袖一枚の上にフリースを着込んだ。 
 いつものことながら、吹きさらしで雪がない高根が原の溶岩台地の東斜面には、秋まで溶けない雪が残り、彼方にトムラウシ山(2141m)があり、何度見てもやはり大雪らしい北の山の風景だと思う。

 そこから、岩礫(がんれき)岩塊(がんかい)帯の長いジグザグの登りが続いて、ろくに運動もしていない年寄りの身にはこたえる。それなのに、もう戻ってくる人たちに、一人二人と出会った。
 足はふらふら息も絶え絶えになったころ、先ほどの休みの所から1時間以上もかかって、ようやく山頂にたどり着いた。 
 ここで西側と北側が大きく開けて、雲が少しかかりながらも、旭岳(2290m)と白雲岳(2230m)がその姿を見せ、南に、これまた雲にまとわりつかれながらも、トムラウシ山も見えていた。 

 山頂展望派の私にとって、何よりもありがたいことだ。 
 大雪山系の山々の中では、おそらく一番多く、今までに20回ほどは登っているだろうが、この緑岳のどこがそんなにいいのか。 
 第一には、先ほどのあの広い雪原歩きがあること、二つ目にはこの眺望、三つ目には、ここから小泉岳までの所で多くの高山植物の花たちに出会えること、さらには、大雪山の山々をめぐる大切な拠点小屋である、白雲岳避難小屋(素泊まりのみ)にあと1時間ほどで着くことができること、などなどである。

 実は今回も、いつものように、白雲小屋に泊まって、花を見に高根が原へ、さらには旭岳の残雪縞模様を見に白雲岳へ(’14.6.30~7.8の項参照)と行くつもりだったのだが、いかんせん二日続けての晴れの天気予報が出なくて、仕方なく、私としては十分に晴れた天気ではなかったが、この日に日帰り登山にするしかなかったのだ。

 さて頂上には着いたものの、目的はまだ先にある。 
 一休みした後、この緑岳から北に、小泉岳へと続く風衝地(ふうしょうち)になった溶岩台地をたどって行く。
 白雲岳まで行ってきたのだろうか、戻ってくる人たちに一人二人と出会った。
 なだらかなこの砂礫地は、周氷河地形の一つである縞状線条地になっていて、そこに株になって、高山植物の小さな花たちが咲いているのだ。 
 やはり何度見ても、旭岳を背景にした、黄色いミヤマキンバイの群落の姿は様になるし(まだ十分に開いてはいなかったが)、これまた大雪山を代表する光景の一つではある。(写真下)



 ただ残念なことに、晴れてはいるが、まだまだ雲が動いていた。 
 そして、稜線には、手袋が必要なほどに冷たい風が吹いていた。
 今年は、下での雪がまだ多かったことからもわかるように、気温が十分には上がっていなくて、花々の開花が遅れているようだった。
 ホソバウルップソウ(写真下)やイワウメ、エゾオヤマノエンドウ、エゾコザクラ、ミネズオウなどがやっと咲き始めたばかりで、チョウノスケソウやエゾツツジ、コマクサ、イワブクロ、クモマユキノシタ、キスミレ、キバナシオガマなどが咲いて、この稜線の道がにぎやかになるのは、まだ先のことのようだった。



 去年と同じように、小泉岳まで行くつもりはなかった。
 途中で引き返して、緑岳に登り返したが、そこで、まだたっぷりと雪のある高原温泉沼巡りの斜面越しに遠く、雲の取れたトムラウシ山の姿が見えていた。(写真下)

 あとは下りだけになる。
 緑岳山腹の岩塊帯を慎重に下りてゆき、行きにも休んだ大岩の上でさらに休んで、ハイマツ帯を抜けて、雪原との境目が大きな割れ目のシュルンドになっている所には、行きにはなかった見事な階段状のステップが刻んであった。
 北アルプスなどでは、営業小屋のスタッフなどが登山道の補修などをやっているのだが、この大雪山系ではビジターセンターやヒグマ情報センターのレンジャーか営林署関連などの人の仕事になるのだろうが、ありがたいことだ。
 さらに、この広い雪原にも、道迷い防止のために、テープをつけたササが50mおきぐらいに刺し込んであるのだ。

 雪原の途中で、なごり惜しくて、一度二度と腰を下ろして、周りの雪の景観を楽しんだ。
 行きと比べれば、緑岳から小泉岳と続く山の上の雲は少なくなっていて、いつもの残雪期の夏山の姿になっていた。(写真下)



 後は、高原温泉の登山口に戻るだけだった。
 去年は、ヒザを痛めていて、一歩一歩に苦痛で声をあげたくらいだったのだが、今年は注意して登り下りともにゆっくりと無理をしないよう歩いてきたためか、いやそれ以上に、この3か月近く飲み続けてきたコラーゲンのサプリが効いてきたというべきか、ヒザが痛くなることはなかった。

 ようやく、4時前に登山口に戻り着いた。
 休み時間を入れて、何と7時間もかかっている(コースタイム5時間)、今の私には行動限界の時間だった。若いころには、楽にその先の白雲岳まで往復したというのに。

 帰りに、友達の所に寄ってしばらく話をしたが、あまりゆっくりもできなかった。
 年を取ってくると、暗くなってからは周りが見えずらくなり、クルマの運転が心配で、夜のドライブはしたくないからである。
 それでも汗まみれの体と、お湯の中での足のマッサージはしておかなければならない。
 途中で、町の施設の風呂に入り汗を流して、再びクルマを運転して、家に戻ったころには、もう日もとっぷりと暮れていた。
 日ごろぐうたらに過ごしている男が、この日は長時間の実働で、もう後は万年床にバタンキュー(古い言葉だなー)。 

 次の日から三日間、ひどい筋肉痛になってしまったのだが、それは日ごろから怠け者の生活を送り、山登りはもとよりたいした運動もしていない、私の自己責任の問題なのだが。
 しかし、こうして山に行ったことは良かったのだ。確かに、小屋泊まりができなかったことや、天気が私としてはイマイチだったことと、花の時期が早かったことなどを差し引いても、まずは十分に楽しめた山行だったのだ。
 こうして、この年になれば、一つ一つがありがたく思えるものなのだ。 
 ”生きてるだけで、もうけもの。”

 昨日一昨日と、どんよりとした晴れの空で、この北海道でも32度まで上がった所もあり、わが家でも、気温が30度近くにまでなって、家の屋根裏部屋では、その熱波の影響を受けて、27度くらいまで上がっていた。もっとも下の部屋は、丸太小屋の断熱効果で、22度くらいのちょうど良い涼しさだったが。
 きょうは一転、霧模様の曇り空で、日中の気温は15度くらいまでしか上がらず、前日との気温差は15度近くもある。
 昨日はTシャツ一枚だったのに、今日はその上にフリースを着込んでいる。
 この北海道の、気温の差が好き。
 ”八丈島のきょん”。(漫画『こまわりくん』の意味のない感嘆詞!)