ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(160)

2010-11-25 21:34:47 | Weblog



11月25日

 飼い主が帰って来てから、一週間ほどになる。ワタシは、もうすっかり自分のネコ時間に戻っての毎日を送っている。
 とはいっても、それはあくまでも飼い主の、人間時間の枠に合わせてのものだが、まあ、そう深く、時間について言うのはよそう。
 またあのアホな飼い主が、ハイデガーの時間の概念だとか、永遠についてだとか、しょーもない話をしたがるからだ。もっとも、そんな雰囲気になった時は、ワタシは飼い主と眼を合わさないようにして、寝たふりをすることにしている。
 一体、ネコを相手に捕まえどころのない時間の話などして、何になるというのだ。ワタシは、自分の手足の肉球と舌先に触れるものしか、今あるものとして信じていないのだから、まさしく雲をつかむような話はごめんだ。
 
 とはいっても、元来がぐうたらな飼い主だから、歳をとってのんびりしてきたワタシとは、ある意味では、ウマが合うともいえる。
 ストーヴをつけた暖かい部屋で、ワタシが大の字になって寝ていると(写真)、一方の居間の方では、飼い主が、訳のわからないクラッシック音楽か何かを聞きながら、いつしかソファの上でうたた寝をしている。
 年寄り同士で、昼寝ばかりして、飼い主と二人、ワタシたちの老後は一体どうなるのだろうか。

 しかし、「オレは今、介護保険料をしこたま取られているから、老後も心配はない。若い介護士のねえちゃんに、やさしい言葉をかけてもらいながら、オシメを取り換えてもらうのも悪くはない。赤ちゃんごっこを楽しめるからな。」などと、脳天気にほざいている飼い主だが、そのおねえさんたちに嫌われるような、ひひジジイになるのは目に見えている。
 ああ、なげかわしい。ワタシは、そんな年寄りにはなりたくないものだ。


 「ミャオがすぐに、家のネコに戻ったのは嬉しいが、やはりもうワガママを言い始めている。
 相変わらず、一日のほとんどを寝てばかりいて、起きている時は、その度ごとに、ドアを開けてくれ、ミルク飲むから傍にいてくれ、トイレに行くからついてきてくれ、あるいは退屈だからかまってくれ、時間だからサカナをくれと、ミャーゴミャーゴ鳴くのだ。
 やはり私も人の子だから、その声がうるさくなって、思わず声を荒げたりもするが、考えてみれば、ミャオがそうして私に甘えてくるのも無理はない。

 二ヵ月もの間、毎日おじさんがエサを持ってきてはいても、ずっと一緒にいてくれるわけでもない。ミャオはノラネコあがりで、他に仲の良い友達ネコがいるわけでもないし、一日のほとんどを、ベランダにいて、じっと寝ているだけだったのだ。
 鳴き交わす相手もいなく、ただ風の音や鳥の声、たまに通る車の音に耳を傾けるだけで・・・ひたすらに、飼い主の帰りを待ちながら。

 そのころのミャオの気持ちを思うと、胸が痛くなるほどなのだが・・・。さらに思うに、果たして私は、今までの自分の人生の中で、それぞれに別れてきた人たちに対して、その気持ちを十分にくみ取って、応えてあげていただろうかと。
 例えば、今は亡き母に、そして若き日に共に過ごした彼女たちに、私は、その気持ちをよく分かってあげていただろうか・・・。
 若い頃の心の痛みは、深くつらいけれども、歳を取ってからの心の痛みはひたすらに切なくて哀しいのだ。

 こんな気持ちになるのは、恐らく今日の重たい曇り空のせいかもしれない。明日は晴れるのだろうが、こうして少し落ち込む気持ちになるような、青空の見えない日もあるのだ。
 しかし、今の私は、若き日のようにいつまでもくよくよ考え悩んだりはしない。というのも、あの頃の、きちょう面さはいつしか失われいて、面倒なことにはかかわらず、重要なもの以外は適当にあしらうようになったからだ。
 つまりそうした判断こそは、人生の経験から得られたものであり、そうして歳をとっていくことは悪いことではない。何事も相半ばして、良くもあれば悪くもあると達観しては、すべての出来事にいつしか慣れてしまうものなのだ。
 いつかは、自分自身の死についてさえも・・・。

 それらの考えは、最近の身近なところでいえば、ミャオの生き方に教わったことでもあるが、本来は、私が、日本人として生まれ、日本人として育ってきたことにある。
 しかし、現代の日本人は西欧化されてしまい、昔の日本人とは大きく様変わりして、今では、本当の日本人の良さが失われてきている、などと言われる。
 もっともその話は、何をもって日本人の良さとし、あるいは欠点とするかという問題にもなるのだが、ここでは広い意味での、日本人らしさ、東洋人らしさということから考えれば、私は、昔も今も、さほど変わってはいないのではないのかとも思うのだが。
 そのことは、私も歳をとり、自分の考え方を冷静に見られるようになって分かったことでもあるのだが、私がいかに、ど日本人であり、また東洋人であることかということである。もちろん、それは否定的な意味だけではなく、それ以上に喜ぶべきこととしてもなのだが。

 私は、今の時代の日本人がそうであるように、積極的な仏教徒ではないし、冠婚葬祭や儀式においてのみ、神道や仏教のしきたりに従う消極的な仏教徒でしかない。
 ところが、今の自分の考え方のもとになるものをたどっていけば、もちろんそこには、西欧的な考え方に影響された部分もあるけれども、そのほとんどが、中国由来の、儒教、道教、仏教などからきたものであることに気づかされるのだ。

 例えば、あの中国は明の時代の、洪自誠(または応明、~1615頃)によって書かれた『菜根譚(さいこんたん)』は、長い時を経て受け継がれてきた儒教(じゅきょう)を根幹にして、さらに道教(どうきょう)や仏教の教えが混然一体となり、人生の哲学書として分かりやすく説明されていて、当時の中国の思想を、さらに言えば、その中国に大きな影響を受けていた日本の思想の源流を知る上でも、興味深い一冊ではある。
 時に応じて、どこかのページをめくれば、今の時代にも当てはまる、なにがしかの自分への格言警句を見つけることができるだろう。

 「一の楽境界あらば、すなはち一の不楽の相対、待するものあり。・・・ただ、これ尋常(じんじょう)の家飯(かはん)、素位の風光のみ、わずかにこれ個の安楽の窩巣(かそう)なり。」
 (『菜根譚』 後集59より、中村璋八・石川力山訳注 講談社学芸文庫)

 私なりに解釈すれば、「楽しいことが一つあれば、次にはイヤなことが一つあるものだ。・・・ただ、ふつうに家でご飯を食べている時のように、何事もない一瞬の光景の中にこそ、本当の安らぎがあるものなのだ。」 ということになるだろうか。

 そのことは、時代はそれぞれに異なるが、鴨長明が『方丈記』に書き、吉田兼好が『徒然草』に書き、さらには西行法師の和歌や良寛の漢詩に込めた思いでもあるのだ。
 こうして、俗世を離れ隠棲(いんせい)した古(いにしえ)の人たちの思いをたどっていくと、まるで尊敬する年かさの友の話を聞くような、心豊かな思いになることができるのだ。私ひとりではないのだと・・・。」


ワタシはネコである(159)

2010-11-20 20:11:55 | Weblog



11月20日

 飼い主が帰ってきた。数日前のことだ。夕日が沈んで、すっかり暗くなったころ、家の前にクルマが停まり、誰かが下りてきて、玄関のドアを開けている。それも、ニャーオニャーオと言いながらだ。
 ベランダにいて、誰だろうかと様子をうかがっていたワタシは、思わずニャーオと鳴き返した。二度三度と言い続けるその声は、まさしく飼い主の声だったからだ。
 若いころなら、そのままベランダから飛び降りて、玄関にいる飼い主のもとに飛んで行ったところだが、もう年寄りネコだから、そんな元気はない。

 飼い主が家の中に入り、ベランダ側のドアを開けてくれた。しばらくは、用心深さと久し振りのテレもあり、少し離れてニャーニャー鳴いていたが、やがて飼い主の傍に寄って行き、体をなでられて、その触り方は飼い主だと確認して一安心する。
 飼い主は、すぐに冷凍の古いサカナを出してくれたが、そんなものよりは、なんといったてミルクだ。ワタシは、できることなら、両手で皿を抱えてグイといきたいほどで、夢中になって飲んだ。

 後日のことだが、いつものようにワタシがミルクを飲んでいると、飼い主が近くに寄って来て、しげしげと見ては、感心したように話しかけてきた。

 「先日、ニュースで見たが、なんでもアメリカの大学で、犬と猫がミルクを飲む様子を高速度カメラで撮影して、初めて、両者の飲み方の違いが分かったそうだ。
 つまり、犬は、舌先をシャベル型に丸めてすくい上げるようにして、力強く飲むのに対して、ネコは、舌先を逆方向に曲げて、それでできた水柱を、パクッと飲んでいて、犬よりははるかに上品な飲み方だということだ。」

 ワタシは、ミルクを飲みながら、黙ってその話を聞いていた。心の中では、しょーもない話をして、アホちゃうかとも思っていたが、何も言わなかった。

 本当のところ、人間とは、全くどうでもいいことにまで興味を持って、あれこれと調べたがるものだ。そのことが、地球上の生きもの全体の、より効率の良い生き方に結びつく場合もあれば、逆にそれらすべてのものの滅亡へとつながる場合さえあるというのに。
 科学という錦の御旗(みはた)のもとで、探求し続けることが、良いばかりとは限らないのだ。飼い主が昔話してくれたが、尾崎一雄とかいう作家が書いていたように、『どうか、もうそっとしてほっておいてくれ。』と言いたくなる時もあり、そこまでも調べなくともいいのではないかとも思うのだが。

 今まで、犬も猫も、「ミルクをなめる」と言っていたものが、これからは「ミルクをすくいとる」あるいは、「ミルクを飲む」と変えなければならないのか。
 全く、そのぐらいのことを、頭の良い人たちだけが集まる大学とかで、調べるべきものだろうか。今、世界中で困っている人や生き物たちが、たくさんいるというのに。

 ワタシは、思うのだ。何も知らないということが、はたしていつも心貧しく、哀れなことだろうかと。
 今の時代と比べれば、十分には科学の進歩の恩恵を受けなかった、百年前二百年前、あるいはもっと前の万葉の時代などの人達が、すべて不幸せだったのだろうか。
 いや、ワタシが思うには、人間の不幸は、あのパンドラの箱(ギリシア神話)を開いた後、残った希望だけを信じて、誰もが本気で、その箱から出て行ったものを、再び閉じ込めようとしなかったことにあるのではないのか。
 相変わらず、ワタシたち他の生きものをも巻き込んでの、いがみ合い、殺し合いを続けている、この地球上の人間社会とは・・・。

 ワタシは、そんな人間たちのように、頭が良くなりたいとは思わない。いつも言うことだが、安全な場所と食べるもの、そしてやさしい飼い主がいれば、あとは何も望まない。
 立派なふかふかのペット用寝室もいらないし、高級カンヅメ・フードもいらない、ましてペット用のシャネルやエルメスの服、首輪、リードなど一体何の足しになるというのだ。
 飼い主がずっとそばにいてくれて、ちゃんと毎日のエサさえくれれば、他に何も必要なものはない。
 
 飼い主はこちらに帰って来てから、時々どこかへ出かけて行くが、夕方には戻って来て、ちゃんとワタシにサカナを出してくれる。 昨日は一日中家にいて、せっせと庭掃除をしていた。ワタシは、飼い主が傍にいるのが嬉しいから、ニャーニャー鳴きながら、庭に下りてついて回った。
 そのうちに飼い主は、うずたかく積まれた枯葉に火をつけて燃やし始めた。ワタシは、慣れているから、その焚火(たきび)の傍に寄って行って、座り込んだ。うーん、いい暖かさだ。(写真)

 ここは九州の山の中だから、日中は12度くらいまで気温が上がるが、朝は0度くらいまで下がって、霜が降りる寒さに冷え込む。飼い主が戻る、1週間ほど前には、マイナスまで下がる日が三日も続いて、ワタシは寒さで良く眠ることもできなかった。
 それだから、暖かい所に飢えていたワタシは、一日の大半をストーヴの前やコタツの中で寝て過ごしている。それだけで、年寄りネコのワタソは、十分に幸せなのだ。


 「ミャオが元気だった。それも丸々と太っていた。
 今までは、帰って来ても、家にミャオはいなく、それから探しに行くのが大変だった。他のノラネコが来ないような所や、暖かいポンプ小屋にいて、連れて帰ってくるのにも一苦労だった。二日もたって、ようやく一緒に家に戻ったということもあった。(’08.11.21の項参照)

 それが、ミャオも年寄りネコになり、活動範囲が狭まり、いつも家か家の周りにいることが多くなった。それで、いちいち探しに出歩かなくても良くなったのだ。
 それはまた、いかつい顔と体の私が、ニャオニャオと鳴き声をあげながら歩くさまは、あの内田百?(ひゃっけん)の名作『ノラや』ほどに、哀れではないにしても、異様な姿であるに違いないから、そんなことをしなくて良くなったことがありがたいのだ。

 私が戻ってきたその日の夜から、ミャオはすぐに今までどおりに、家のミャオになり、何事もなかったかのように暮らしている。
 ただ、良く鳴くし、私の傍に居たがるのは仕方ないにしても、長い間ひとりにされていた恨みつらみをくどくどと言うわけでもなく、全くえらいものだと思う。わが家のネコながら、できたネコだ。

 エサをやってくれていた、近くのおじさんの家に行って、ミャオが太って元気だったからと礼を言った時に、話を聞けば、何とミャオが、朝のエサだけでは足りずに、夕方におじさんの家にまで来ていたので、大体は、朝だけでなく、夕方にもエサをやりに行っていたとのことで、全くそのおかげだと感謝するばかりだった。
 お礼に持って行った鮭のトバ(切り身の干物)と、花畑牧場の生クリーム・キャラメルぐらいでは、とても足りなかったかもしれない。ともかく、ありがたいことだ。

 さらに北海道の、あの開拓小屋と比べれば、こちらの生活は至って快適である。といっても、普通のことなのだろうが、まず、水を気兼ねなく使えて、毎日洗濯できるし、毎日風呂にも入れるし、さらにトイレも水洗だし、その度ごとに外に出なくてすむのだ。おまけに、話し相手のミャオも傍にいる。ああ、なんとありがたいことだろう。
 さて、とは言っても、これからも良いことばかり続くわけではないし、悪い時もあるのだろうが、そんなミャオとの、長い冬の暮らしが始まるのだ。」 


 


飼い主よりミャオへ(130)

2010-11-14 21:33:49 | Weblog



11月14日

 拝啓 ミャオ様

 冷たい雨が降り、強い風が吹いて、林の中の紅葉はすべて落ちてしまった。
 毎日、雪のように降り落ちるカラマツの黄葉は、道に、家の屋根に、庭に畑に、降り積もり、あたり一面が、黄金色に被われてしまった。
 昨日は、快晴の空が広がる一日だった。すっかり見通しの良くなったカラマツ林の間から、白くなった日高山脈の山々が見えた。
 いつもの冬型の気圧配置だから、山々の稜線には雲がついていたが、午後にかけて、中部から南部にかけての山なみを見ることができた。
 その中でも、一際目を引いたのは、ヤオロマップ岳(1794m)である。名峰が立ち並ぶ、日高の山の中では余り有名でもない山だが、昨日はちょうどその辺りだけが、スポットライトを浴びたように白く輝いて見えていた。
 左奥に1839峰の鋭鋒がそびえ立ち、その手前に、南峰、本峰、北峰と長い山体が続いている。(写真)
 本峰から東に伸びる、ペテガリ岳へと続く従走路の尾根の両側には、カール(氷河圏谷)状に開析された、急斜面の谷ひだまでもがよく見える。

 そのヤオロマップ岳には、二度、登ったことがある。いずれも沢歩きからまずコイカクシュサツナイ岳に取り付き、ヤオロマップ岳、そして1839峰へとの縦走の時である。
 最初の時は、まだ雪の多い5月で、ヤオロマップ南峰まで行って、そこから見た細い尾根上に続く、崩れかかった雪被(せっぴ)に恐れをなして、1839峰に向かうのをあきらめてしまった。
 しかし数年後、今度は、7月の初めに再度同じコースをたどり、念願の1839峰に立つことができた。
 快晴の空の下、他の日高の山々を眺めながら、ひとりだけの頂上に1時間近くもいたが、去りがたい気持ちだった。(前回の時には、誰にも会わず、今回も、戻る途中で一人に出会っただけだった。)
 テントを張ったのは、その時は本峰だったが、その前の時は南峰だった。日高の山に登って、山頂にテントを張るのは、私の大きな楽しみの一つでもある。(前回のテント泊は、カムイ岳。’09.5.17~21の項参照)

 風の吹きさらしになることを覚悟し、水の確保にめどがつけば、あれほど素晴らしい場所はない。山頂は、ヒグマの通り道にはなっていない場合が多いから、むしろ水場に近いコル(鞍部)にテントを張るよりは安全な気がする。
 ただし、たった一人で、風がばたばたと吹き付けられるテントの中では、とてもぐっすりと寝ることなどできないけれども、頂上から見る朝夕の赤く染まる山々の景観は、それらの不便さに換えて余りあるほどだ。
 
 大自然の朝夕に繰り返される、光と闇の交代の儀式に、ただ一人参列することのできる喜び・・・。その時に、私はほんの少しだけだが、永遠へと近づけたような気がするのだ。
 生きることとは、そこへと歩み寄って行くことなのかもしれない。何ものも変わることのない永遠、自分の来るべき死に向かってへと・・・。

 そんなことを、今になって思ったのは、またしてもめまいがして、少し気分が悪くなり、朝遅くまで寝ていたからである。私は、別に何も恐れてはいないが、今の体の具合が悪いことが、いやなだけだ。何もできずただ寝ているだけということが。
 しかし、頭も痛いから、風邪かもしれないと、前にも書いたように、薬を飲まずに、例の首筋後頭部のカイロ貼りハチマキ・スタイルでいたら、昼前には、直ってしまった。
 そして、いつものように動けるようになって気づくのは、その普通に行動してぐうたらにすごし、何事もなかった毎日のありがたさである。

 今年はとうとう、初冬の雪山には、あの美瑛岳(10月23日の項)に登ったきりになってしまった。しかし、今こうして少し体調を崩し、思うのは、どこにも出かけられなくても、ただ普通に家に居て、静かに暮らすことができれば、それだけでも十分だということだ。
 家の窓から見える、青空と雲、雪の日高山脈の山々、すっかり葉を落とし細くなってしまった林の木立・・・あとは雪が降り、辺りをすべて白く被い尽くすのを待つだけの、光景。
 私が好きなのは、それからの季節だ。

 真冬の晴れた日には、しっかりと着込んで、長靴を履いて外に出る。-20度の寒さの中、軽い雪を踏み分けながら裏山まで歩いて行く。深い藍色の空の下、白雪の日高山脈が並んでいる。
 私の登ったそれらの山々と、一人きりで向かい合うひと時・・・。
 あれがポロシリ、あれがカムイエク、あれがペテガリ、あれがピリカヌプリ・・・美しい響きのアイヌ語で名づけられた山々。

 雪の降る日は、薪(まき)ストーヴの燃える暖かい部屋の揺り椅子に座り、小さく音楽を流しながら、本のページをめくる。いつの間にかウトウトとしてしまう・・・夢見心地は永遠との境目・・・。

 あの良寛和尚(りょうかん、1758~1831)の有名な漢詩の一編。

 「生涯 身を立つるにものうく
  とうとうとして 天真に任(まか)す
  嚢(のう)中 三升の米
  炉辺 一束の薪
  誰か問わん 迷悟(めいご)の跡
  何ぞ知らん 名利の塵(ちり)
  夜雨 草庵の裡(うち)
  双脚(そうきゃく) 等間に伸ばす」
 
 これを私なりに訳すれば、「私は、これまで立身出世をする気にもならず、ただ天運に任せて生きてきた。袋の中に3升の米があり、囲炉裏(いろり)の傍に一束の薪(まき)があるだけだ。世の中で言われる迷いや悟りにとらわれて、名利を追い求めるなど、結局はチリのようなものなのに。夜、雨が降っている。みすぼらしい家だが、ひとり体を伸ばして休めることのありがたさ。」 ということになるだろうか。

 しかし、九州ではミャオが待っている。私も、ミャオに会いたいし、ミャオのニャーと鳴く声を聞きたい。
 そして、九州では、冬中には、片付けてしまわなければならない、大きな区切りの一仕事もある。

 それらは、私の義務でもなければ、負担でもない、ただやるべきことである。私は、北海道を離れて九州に行く。それだけのことだ。また春になれば、ミャオと別れて、北海道に向かう・・・。
 繰り返されることは、いつしか永遠へと向かう道にもなる。

 ミャオ、もうすぐ行くからね。元気でいておくれ。

                      飼い主より 敬具

 


飼い主よりミャオへ(129)

2010-11-10 20:45:14 | Weblog



11月10日

 拝啓 ミャオ様

 久しぶりに快晴の空が広がっている。冬型の気圧配置になって風が強くなり、山側には帯状に雲が張りついている。もう、林の紅葉は殆んど終わり、秋の終わりを告げる、カラマツの黄葉が盛りを迎えた。
 林の中の落ち葉の道を歩いて行くと、黄金色の葉が雪のように降ってくる。見上げると、私を囲むように、カラマツの樹々が立ち並んでいる。(写真)

 もう、3週間も山登りに行っていないのだ。その上、天気予報も、ここ十勝地方の平野部では、これからも時々晴れの日があるのだが、日本海側の札幌、旭川などでは、ずっと雨か雪の毎日である。つまり山に登ろうにも、冬型の気圧配置では、この十勝方面の山にも雲が張りついたままになるのだ。

 今年は、夏以降、登山の回数が少なくなり、月にやっと一度という有様だった。山歩きの基本は、慣れであり、習慣化することであるから、自分の脚力を保つためにも、せめて月に二回は出かけたいのだが。
 それが、今年の、この私のていたらくはどうだろう。それには、もちろん生来のぐうたらさもあるのだが、人のいない平日の快晴の日にしか出かけないなどという、ゼイタクな基準を自分で設けているからでもある。
 ところが、あの快晴の美瑛岳(10月23日の項)に登った10日後に、またも快晴の日がめぐってきた。再び、初冬の美しい雪山に登れるチャンスだったのに、その日は日曜日だった。

 何ということだ、神様は、平日に仕事に携(たずさ)わり、思い通りの休日に恵まれていない者たちにも、まさしく平等になるようにと、ようやくめぐってきた快晴の日の休日を、彼らにお与えになったのだ。
 日ごろから、職場で忙しく働く者たちには、その日にこそ、青空の下で厳(おごそ)かに光り輝く山々を眺め楽しむべく、あるいは山登りを楽しむべく、ひと時のお恵みをお与えになったのだ。
 そして一方、ぐうたらに日々を過ごしている私には、出かけてはならぬという強いおふれを下し、雷の一撃をお与えになったのだ。
 
 昨日今日と、冷たい雨が降り続き、神様のお告げでもある大きな雷鳴も混じって、殆んど外にも出られなかった。ただでさえ、お天気屋の私は、いろいろと考え込んだりして、気持ちが落ち込んでしまった。
 そのうちに、ウトウトと部屋の中でうたた寝をして、はっと目覚めた。ここは、いつも寝て起きる屋根裏部屋ではない、と一瞬とまどった後、雨の降る音が聞こえる薄暗い中で、下の部屋にいることに気づいて、私は、そうだ夕食の支度をしなければと思った。
 腕時計で時間を確かめると、まだお昼前の11時だった。私はその時、例の”こここはどこわたしはだれ症候群”にかかっていたのだ。
 私は、居間に行って燃えているストーヴの火を確かめてから、揺り椅子の上に腰をおろした。窓の外では雨が降り続き、軒先から雨水が滴(したた)り落ちていた。
 
 「どうしようもないわたしが歩いている」

 という、種田山頭火(さんとうか、1882~1940)の句を思い出した。大地主の家に生まれたが、自らの事業に失敗し、妻子と別れ、さらに酒やお金での失敗を重ね、ついには禅寺に入り、出家得度(しゅっけとくど)した後の、放浪行乞(ほうろうぎょうこつ)の旅に出た時に書いた、俳句の一つである。
 ひたすらに山野を歩き旅することで、忘れようとしていた自分の過去の過ちが、人里の中に下りてくると、再びわが身を攻めるのだ、その余りにも情けないふがいなさに。

 人は誰しも、自分の人生の中では、いつも成功することは少なく、失敗の方が多いことを知っている。問題は、その失敗による心の葛藤(かっとう)を癒(いや)し補い、次なる目的へと向かうべく、苦境をどう乗り越えていくかなのだろうが。
 成功の甘い蜜の味だけを知っている者は、しかし、失敗の連続には打ちのめされてしまう。
 私たちは、仲間がいて順調にことが運んでいる時には、なにも気づかないが、いったん自分が挫折(ざせつ)して落ち込み考えるようになると、ひとりでいることの弱さに気づき、同じ傷を持った仲間に会いたくなり、話を聞いてもらいたくなる。
 ある人は、そこで山頭火の句集を開くのだ。
 余りにも、弱い自分をさらけ出し続ける、彼という人間に対する嫌悪感と親近感は、誰しもある自分の心の表裏であるのだが。


 さて、最近、NHK・BSで見た映画の話である。
 彼は、それまで、国家保安省の名うての取調官として、自分の職務に忠実であった。しかし、職務上、盗聴をして知った、ある進歩的舞台劇グループの一人の男の秘密に、それがまた別な意味で国のことを思う気持ちからのものだと分かり、一転して、それまでの自分の仕事に忠実ではなくなるのだ。
 陰ながら助けようとするその男だけではなく、自分の身さえ危険にさらされると知りながら、彼はその秘密を隠し続け、反体制派の彼らを何とか守ってやることができたのだが、犠牲者も・・・。

 しかし当然のことながら、彼は左遷(させん)されてしまい、以後4年にわたって地下での、私信開封という単純作業をさせられることになる。しかし、その時、東西を隔てていたベルリンの壁が開放され、共産主義国家、東ドイツは崩壊したのだ。
 とはいっても、孤独な彼の身の上に大きな変化は起きなかった。ただ、しがない郵便物配達の仕事を続ける毎日だった。
 ある日、彼は書店に掲げられた新刊書の広告に目がいった。それは、彼が助けた劇作家が書いた、体制側のひとりであった彼への感謝を捧(ささ)げる本であった。
 彼は、その書店の中に入って行った。そして、レジにいた店員の前にその本を差し出した。その最後のセリフの後、画面は彼の表情を映したままのストップ・モーションになり、終わる。
 何と見事な、話の結末だろう。今まで数々の、忘れられない映画のラスト・シーンを見てきたが、この映画もその一つに加えられるのかもしれない。
 
 それらの名ラスト・シーンに共通しているのは、いつも同じテーマである。無垢(むく)の無償の愛が報われる、その真実の瞬間・・・つまり、それまでの艱難辛苦(かんなんしんく)の時を経て、最後の一瞬に凝縮された、成就(じょうじゅ)の喜びであり、観客である私たちもそこで、すべてに納得し心満たされるのである。
 (もっとも、まったく逆に、壮絶な悲劇の結末で終わる場合もあり、それらもまた、情感を残しながらの忘れられない名ラスト・シーンになるのだが。)
 
 ともかく、この2時間18分にも及ぶ映画、『善き人のためのソナタ』(2006年、ドイツ)を、一気に見続けさせたのは、その緊張感に満ちたストーリー、脚本を書き、監督も手がけたフローリアン・フォン・ドナースマルクの力によるものだろう。

 もちろん気になる幾つかのこともある。一つあげれば、あれほど厳格な、ナチス時代のゲシュタポ(秘密警察)にも例えられる、旧東ドイツ、シュタージ(国家保安省)の反体制派取調官であった彼が、そうも簡単に、寝返ることができるものか、それも、映画の題名にもなった「善き人のためのソナタ」を、盗聴の際に聴いたくらいで、涙を流すものかと。
 しかし、あの『戦場のピアニスト』(2002年)でも、ピアノを愛するナチス軍の将校が、ユダヤ人のピアニストの弾くショパンを聴いて、立ち去る彼を見逃がしたように、極限の状態でも、私たち人間が持っているヒューマニスティックな感情は湧き出てくるし、誰しも本来は善き人なのだと訴えかけているのだ。今の時代だからこそ・・・。
 ベルリンの壁の崩壊前の東ドイツ・・・私は、若き日のヨーロッパ旅行の時に、当時のソ連(ロシア)から、ポーランドを経て、東ドイツのベルリン、ドレスデンなどに数日滞在したことがある。その時の、厳格な手荷物検査や、夜の街の不気味な静けさを思い出した。
 (さらにチェコ入り、そしてようやく西側の、オーストリアのウィーンに入った時の、自由に溢れた国へ着いた喜びは、今でも忘れられない。)
 ともかく、そんな意味からも、私には全く知らない国での出来事とは思えなかった。

 しかし映画で見ると、ホーネッカー国家評議会議長(党書記長)の支配による、旧東ドイツ共産主義国家が崩壊しただけで、その時、体制側にいて甘い汁を吸っていた上層部は、厳罰を受けることなく、生き残っていたのだ。
 今日、合併されてからもう20年近くにもなるが、旧東西ドイツ間の経済格差は、未だに縮まらず、東ドイツを懐かしむ声えさえあるという。
 
 さらに、取調室での尋問(じんもん)風景は、最近話題になっているどこかの国の検察官の証拠捏造(ねつぞう)、我田引水(がでんいんすい)論理を髣髴(ほうふつ)とさせるものだった。
 あのカフカの小説、『審判』などで描き出されているように、国家権力による強制的な取調べの前では、一個人でしかない者が、どれほど孤立無援(こりつむえん)の弱い存在でしかないか。
 民主主義社会にある、今日でもなお、検察、裁判所による誤審が繰り返されていて、あのアメリカ映画の名作、『十二人の怒れる男』(1957年)のような正義感溢れる結末が訪れることは、やはりある種の理想でしかないのだろうか。

 さらにもう一つ、映画の中で話されていたのだが、あのロシア革命を成し遂げたレーニンが、言ったという言葉。「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『熱情』を、本気で聞いてしまうような人は、悪人になりきることができない。」
 そこから、「善き人のためのソナタ」という曲が生まれたのだろうか。ちなみに、映画のドイツ語原題は、”Das Leben der Anderen (他人の生活)”である。

 ともかく、いろいろなことを考えさせてくれる映画ではあったが、もちろん、幾つか少し気になるところもあって、私にとってのベストの映画ではないにしても、秀作映画であることに間違いはない。それも久しぶりに見た、見事なドイツ映画の一本として。
 
 こうしてブログの一編を書いている窓の外に、カラマツの葉が散っているのが見える。後で外に出ると、庭も一面に、黄色く被われてしまっていた。
 葉を落としたカラマツ林に、初雪が降るのもそう遠くはないだろう。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(128)

2010-11-05 22:40:06 | Weblog



11月5日

 晴れた日が続いている。いつもの冬型の気圧配置の天気模様で、私のいる十勝地方などの道東は晴れているのに、日本海側の道北、道央などは天気が悪いのだ。
 もう一度、大雪山、十勝岳方面の雪山に登りたいと思っていて、天気になる日を待っていたのだが、予報を見ても天気は回復せずに、二三日してまた雪の日になるようだ。
 ということは、もう圧雪、アイスバーンの峠道になるということだから、そんな峠越えをしてまで行きたいとは思わない。
 それならば、まだ雪の少ない日高山脈のどこか低い山にでも登るしかないのだが、果たしてどうなるか。

 今年はどうも、大満足できた山登りの後は、計画倒れで終わることが多かった。
 まあ世の中、そう自分の思い通りには行かないものだから、むしろたいした事故もなく、これまでの山登りができたことに、感謝すべきなのだろう。
 
 まあそのためにというほどではないのだが、ずっと家にいて、毎日少しずつ変わっていく、家の林の紅葉を見ることができた。
 いつもの年よりは、真っ赤になった色が少なかったが(写真)、その分全体に黄色が多く、紅葉の期間もずいぶんと長かった。

 思えば、このカラマツの植林地を、切り開いて家を建て、生活するようになってから、もう二十年以上にもなる。
 そして、林の手入れをしながら、その中で芽を出し育ってきた落葉広葉樹が、それぞれに大きくなってきた。まだまだ、カラマツが多すぎるのだが、それでもいくらかは混交林(こんこうりん)のイメージも出てきた。
 特に、あちこちに赤く色づく、カエデ類の樹々が大きくなり、秋にはいつも私の目を楽しませてくれるようになった。
 さらにその、樹の周りには、種から芽を出した幼樹が増えてきている。ササ刈りなどをして、手入れしてやれば、それぞれに大きくなり、先には、全体が大きな紅葉の林になるかも知れない。
 その頃までも、私は生きてはいないだろうが、想像するのは楽しいものだ。

 人は何も、今日のためだけに生きているのではない。自分では見ることはできない明日のためにも、今日を生きるのだ。それが自分のためであるにせよ、誰かのためであるにせよ・・・。
 つまり、我々人間が他の生き物たちと違うことは、死に際して自分では知ることのできない明日に思い託すこと、さらにいえば、永遠を夢見ることではないのだろうか。
   死の恐怖から逃れるために、あるいは死にたくないという思いから、人は、あるかもしれない永遠へと思いをはせるのだ。

 
 前回からの続きであるが、私は、マーラーの交響曲を聴いて、いろいろと考えてみた。
 1ヶ月ほど前に、NHK・BShiで放送された「バーンスタイン没後20周年記念」番組から、その第3夜のプログラムである、リハーサル風景つきの「交響曲第5番」と「交響曲第9番」を見た。
 これらの映像は、ユニテルによる1975年制作のもので、当時からLD(レザーディスク)やビデオで発売されていて、話題になったものであり、今さら門外漢(もんがいかん)の私ごときが、評価の定まったものを、とやかくいうべきではないのだろうが、このところ気にかかっていたひとつの問題、永遠ということについて、あらためて考えてみたからでもある。

 有名な指揮者であり、作曲家でもあったユダヤ系オーストリア人のグスタフ・マーラー(1860~1911)は、九つの番号入り交響曲と、番号のつかない「大地の歌」交響曲、さらに未完成の第10番交響曲などの他に、多くの歌曲なども残した。
 その中でも、この一連の交響曲は、大いなる自然に対する賛美や、喜びと哀しみに満ちた人間社会での闘い、そして誰にでも訪れる終末の死という、当時の世紀末の不安を象徴するような問題が、テーマになっているといわれている。

 ここで、その二つの交響曲を指揮しているレナード・バーンスタイン(1918~1990)は、マーラーと同じくユダヤ系の血を引く、アメリカ人の指揮者であり、「ウエストサイド物語」などで有名な作曲家でもある。
 彼は、あのブルーノ・ワルターの代役で、ニューヨーク・フィルにデヴューして以来、十数年に渡ってその指揮者を務めてきたが、1969年に、主な活動の場をヨーロッパへと移し、特に名門ウィーン・フィルとは長きに渡って良好な関係を続け、「ベートーヴェン交響曲全集」(1977~79、DG)などの数多くの名録音を残している。
 そして、今回私が見たウィーン・フィルとの交響曲「第5番」(1972年録画)と「第9番」(1971年録画)は、まさしく、その両者の関係が深まっていく頃のものである。

 まず「第5番」のリハーサル風景である。彼は第1楽章冒頭のトランペットの入りの音に、細かい指示を出す。そしてその指示通りに演奏された音の、音楽として流れの何と納得のいくことか。
 バーンスタインは言う。「マーラーは、自分の楽譜に何度も手を入れ、付け加えた。それは彼が指揮者だったからでもあるだろうが(自分もそうだし)、楽譜をなぞるだけでなく、気持ちをこめて演奏することが大切なのだ。」
 「マーラーの音楽は、退廃(たいはい)的、通俗的だといわれているが、当時の人はそこに世紀末の匂いを嗅(か)ぎ取ったに違いない。」
 
 この「第5番」は、その出だしの「葬送行進曲」第1楽章よりは、あの第4楽章「アダージェット」の、美しい旋律が有名である。
 ドイツの作家トーマス・マンの『ヴェニスに死す』(1912年)を映画化した、イタリアの名匠、ルキノ・ヴィスコンティ(1906~1976)は、老作家の主人公を老作曲家に置き換えて、船でヴェニスの運河を行く時に、たゆとうような水のうねりを背景にして、この「第5番」の「アダージェット」を流したのだ。何という、情景にふさわしい音楽だったことだろう・・・。
 映画は、まさしくヴィスコンティの『ヴェニスに死す』(1971年)になっていたのだ。
 
 マーラーはこの「第5番」の作曲当時、41歳であり、ユダヤ人排斥(はいせき)問題もあってウィーン・フィルを辞任していたが、それまでの自作交響曲演奏の好評もあり、さらに、才色兼備の誉(ほま)れ高いアルマと婚約し、ついで結婚したばかりだった。
 人生の絶頂期にありながらも、理想を掲げ苦闘する彼の思いが溢れているような「第5番」であるが、その第4楽章アダージェットには、後に見られるような、あの救いようのないような死の思いはまだなく、愛するものへの、溢れるばかりの切ない思いが広がっている。
 
 そして、「第9番」。そのリハーサルは、終楽章のアダージョである。
 バーンスタインは語る。「オーケストラを説得してでも、自分の聴きたい音楽を引き出したいのだ。指揮している時には、自己が失われていくように、作品と一体化して、まるで自分が作った曲のように思えて、それは恍惚(こうこつ)というよりは、飛翔(ひしょう)に近い感じがする。」
 「この終楽章のアダージョでは、(マーラーは自分の死が近いことを知っていて)、死への意識と怒りを含んだ生への執着が交互に表れ、あらゆるものが自分から離れていき、宇宙の一部となっていく、禅の瞑想(めいそう)に似た思いがあり、それは西洋の音楽が東洋の思想に近づいた時でもある。そして、最後の弱音が続き、人生の終わりを心静かに受け入れていく。」
 
 私たちが、それまでこの曲に漠然(ばくぜん)と抱いていたイメージを、バーンスタインが見事に説明してくれたのだ。それはもちろん、若き日に初めてこの曲を聴いた時の思いとは、ずいぶん違ってきているが。
 年齢を重ねてきたことで、自分なりに解釈したこと・・・それは、あきらめることではなく、自分の残された時間を知り、あるがままの時の推移を認めて、最後には心静かに受け入れていくこと、永遠に続くだろう時の流れを見つめながら・・・。

 前回も、この「第9番」作曲時のいきさつについて書いたけれど、併せて「大地の歌」の”EWIG(永遠に)”について、そして、あのギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスの意味する永遠について(9月5日の項)などと、思いは続いていく・・・。
 考えるべきことは、まだまだ広く深く様々な分野にまで及び、とても浅学の徒である私ごときの手におえるものではない。

 例えばその一つだが、昨日、あの99歳の現役医師、日野原重明さんの今を伝える番組が放送された。そこでは、終末医療に携わる日常の医者の姿と、あのベストセラー『葉っぱのフレディ』を基にした子供ミュージカル公演にかかわる、とてもその年には見えない元気な姿を映し出していた。
 葉っぱのフレディは枯れ落ちても、次の春には、若い緑の葉の仲間たちがいっせいに芽吹いてくる、「命はめぐる」というテーマであった。

 東洋思想の根幹にもある、命の輪廻(りんね)、生まれ変わりという思想は、別に目新しいものではないし、死後の世界を思う時には、最も受け入れやすい、我々日本人の身になじむ考え方の一つである。
 あるいは仏教に言うように、死んだ先には、彼岸の世界があり、そこでは自分の知る死者たちに会うことができる。その死者たちに会うためのお迎えの儀式が、死なのだと。

 しかしそれらはすべて、来るべき死に際して、恐れ慌てふためかぬように、あらかじめ周知徹底された予防薬としての効果上げるべく、考え出されたものなのだ。永遠というイメージを含めて、そこには、見事に作り出された架空の穏やかな王国が広がっている。 

 それは思うに、誤ったお導(みちび)きということではないのだ。余りにもすべてのものを、科学的な実証主義にもとづいて、白日の下にさらけ出すよりは、何も知らないままに信じて、あるいは真実を知ってはいても、そのままうなづいて、自分にも言い聞かせた方が、幸せなのかもしれないからだ。
 この世に、本当に信じるに値するものがないとすれば、あの世に、そして永遠にこそ、確かなものがあるかもしれないのだから。

 「信じる者は救われる。」
 それは何も、キリスト教の世界だけではなく、仏教にも、イスラム教にも、さらには原始宗教についてさえいえることなのだ。
 若い頃、『晴れた日に永遠が見える』(1970年)という映画を見たことがある。14回も生まれ変わったという女を、あのバーバラ・ストレイサンドが演じていたが、その彼女のの目には信じるものの一途さが、怖いほどに・・・。

 ミャオ、九州の山間部では0度近くまで冷え込んでいるようだが、何とかしのいで元気でいておくれ。オマエには、ありもしないバクが食べるような永遠を考えるよりは、毎日の、ほんの少しだけの、食と住の安心できる毎日があればいいのだろうが。

                      飼い主より 敬具

 参考文献: 「マーラー」(船山隆 新潮文庫)、ネット上の「ウィキペディア」他。


飼い主よりミャオへ(127)

2010-11-01 18:35:53 | Weblog



11月1日

 拝啓 ミャオ様


 朝からの雨が、一日中、降り続いている。冷たい雨だが、気温が5度くらいもあり、雪にはならないのだ。
 1週間程も天気の日が続いて、その間に薪(まき)割りも終えたから、たまには雨になってもかまわないのだけれど、ようやく盛りを迎えた、家の林の紅葉が散らないかと気になるところだ。

 写真は、窓を額縁(がくぶち)にして見える紅葉であるが、今年は、今ひとつ赤い色が少ないように思う(’09.10.24の項参照)。
 家は、丸太作りだから余り大きな窓は作られず、今風の家から比べれば、やや薄暗い家の中だが、この紅葉の時だけは、華やかに色づいた葉の照り返しを受けて明るくなる。

 そして、雪の降り積もる冬から春先にかけては、さらに家の中がライトを当てられたように明るくなる。この雪明かりと月明かりを、電気のない時代の昔の人たちは、ありがたく思い、そのことを情感をこめて歌や文章に書きとめている。
 まさに、月光値千金を知る蛍雪(けいせつ)の時代だったのだ。
 つまり、不便さの中でこそ、便利なもののありがたさを知ることになるが、便利さだけを追い求めていけば、そのことに慣れきってしまい、いざ不便な時にでくわすと、この現代文明の中にいる我々は、ただ慌(あわ)てふためくだけ・・・そうはなりたくないものだが。


  昨日の夜までは、見事な星空だった。まだそんなに寒くもなく、私は外に出て、しばらく暗い空を眺めていた。少しずつ暗闇に目が慣れてきて、冬の星座の星の位置がそれぞれに分かってくる。
 ペガススの四辺形の北に、アンドロメダの星雲がぼーっと固まって見え、おなじみのカシオペア座の西側、天の川の中に、大きく羽を広げたはくちょう座がある。
 私は、星空を見上げる時、いつもまず天の川の流れを確かめてから、はくちょう座を見つけるのだ。
 目の前を、アルタイルのわし座が横切って行っても、近くにあること座のベガの響きに導かれるように、いつも暗い夜空にただひとり、ゆったりと羽ばたいている。そのはくちょう座のデネブの輝きが失われることはないのだ。

 そうした変わらないものがあるからこそ、その永遠なるものに憧れて、私は夜空を見上げるのかもしれない。また青空の彼方に見える山々の姿に憧れるのも、同じ時気持ちからだろう、永遠なるものへ・・・。

  「Ewig(エーヴィヒ、永遠に)、ewig、ewig・・・」という言葉が繰り返され、静かに小さくなって消えていく、あのマーラーの交響曲「大地の歌」の第6楽章「告別」の最終小節を思い出す。
 迷い苦しみ悩み多き人々は、自分の人生の終わりの後にも続くだろう世界に、永遠に思いをはせるのだ。

 偉大なる作曲家・指揮者として有名な、グスタフ・マーラー(1860~1911)は、チェコ生まれのユダヤ系オーストリア人であり、後に自ら、「私は、オーストリアにおけるボヘミア(チェコ)人であり、ドイツにおけるオーストリア人であり、世界におけるユダヤ人である。」と語っているように、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と、その後に忍び寄るユダヤ人迫害の歴史の中で生まれ、生きたのだ。
 38歳の時にウィーン・フィルの指揮者に迎えられ、作曲者としても名声をはせたが、その後、楽団との軋轢(あつれき)から辞任して、アメリカに渡りニューヨーク・フィルの指揮者になったが、わずか2年足らずで病に倒れ、ウィーンに戻り、51歳で亡くなっている。

 マーラーは、若き日に生徒としてウィーンの大学で音楽対位法を学んだという、アントン・ブルックナー(1824~1896)と伴に、今では”ブルックナー、マーラー”と呼び慣わされている程に、交響曲の頂点を築いた大作曲家である。
 しかしその両者伴に、交響曲は「9番」まで作り、「10番」を完成させることなく亡くなっていて、ベートーヴェン以来の”第9”の呪(のろ)われたたジンクスが続いたのである。
 この『大地の歌』も、実は9番目であったにもかかわらず、あえてナンバーをつけずに、その名前のままで発表されたのだ。
 それほどまでに、死の影におびえたマーラーの交響曲には、次第に高まりいく、彼の厭世観(えんせいかん)に伴う、死への恐れおののきと、そして東洋的無常観に伴う、静かな受容の思いまでもが描き出されている。

 有名作曲家・指揮者でありながら、そして才色兼備の妻(アルマ)がいて、二人の子供にも恵まれていたのに、なぜにと思ってしまうのだが、そこには、ウィーンの楽団との問題、新天地アメリカへの不安、まだ幼なかった長女の死、社交界の花形でもあるアルマの心が離れていったことなどが、取りざたされていた。
 しかし、ウィーンであのフロイトにも心理療法を受けたというから、個人的な精神の問題があったのかもしれない。
 それはともかく、いつも私は思うのだ、こうして悩み苦しみ、自分の精神をとぎすませて、音楽、絵画、文学などにおける偉大なる作品を作りあげた芸術家たちがいたからこそ、私たちは、彼らの作品を通じて、その思いをたどり、同じように同化し共感することができるのだと。

 繰り返し書いてきたことだが、私は、最近はルネッサンスからバロック時代の音楽を聞くことが多いし、その後の時代へと下ってきても、ハイドン、モーツァルトの音楽どまりである。
 しかしその昔、まだ血気盛んな若い頃、東京で働く一サラリーマンであった私は、そのめまぐるしい毎日の対応に疲れ果て、ある時は落ち込んでしまうこともあった。しかし、ひとり家に帰って、その頃から好きだったクラッシック音楽を聴いては、慰められたものである。
 
 人はつらく落ち込んだときには、脳天気に明るく笑う人よりは、同じつらい経験を持った人に話を聞いてもらいたいものだ。
 クラッシック音楽の中でも、特にロマン派の音楽の数々や、生と死の緊張に包まれたこのマーラーの交響曲などは、私の置かれた立場と状況をよく理解してくれ、人生はつらく哀しいものだと、一緒に嘆いてくれた。
 それだからこそ、翌日になると、私はまた新たな気持ちになって、職場へと向かうことができたのだ。
 それらの、ロマン派の作曲家たち(例えばブラームスなど)について、ここでそれぞれに取り上げていく余裕はないが、とりあえずこのマーラーについては、少し書いておきたいと思う。

 大編成のオーケストラによる交響曲は、コンサート・ホールの演奏会で聴くべきなのだが、忙しかった私には、そういつも行ける機会はなかった。
 そこで、家のレコードで聴くことが多くなる。とはいっても東京のマンションで大音量で聴くことなどできないから、ヘッドフォンを通して聴いていたのだが、それでもマーラーの曲の響きと情感の幾らかは、感じ取ることができたはずだ。
 もちろん、当時から全交響曲のレコードは持っていたし、特にワルター指揮のものが好きでよく聴いていた。あの「第2番」の印象的な低弦部による冒頭部の演奏は、今でも「大地の歌」と伴にベストだと思っている。
 ただ、「第9番」に関しては、ジュリーニとシカゴ交響楽団の新しい録音が気に入って、繰り返し聴いたものだ。

 しかし後に、CD時代に変わろうとする頃に出された、バーンスタインやカラヤンによるものは、その頃には私も若くはなくなってきていたからだろうが、演奏はもとよりのこと、その曲調自体にも深く惹(ひ)かれるようになっていた。
 東京を離れる前の頃で、その頃が一番多くマーラーを聴いていたと思う。

 ところがこんな山の中に引っ込み、はや年寄りに近づきつつある今では、私はルネッサンス・バロックの穏やかな音楽の方へと入り込み、ブルックナー、マーラーの重い交響曲などは、年に何度か聴くだけになっていた。
 そんなおり、先月、NHK・BShiで、あの指揮者・作曲家でもあったレナード・バーンスタイン(1918~1990)の没後20年記念番組があり、当時から評判の高かったユニテル制作のビデオによる、マーラーの交響曲、「第5番」と「第9番」が放送された。
 私は懐かしさも感じて、しっかりと録画して、後日見たのだが、特に「第9番」については、初めから最後まで一気に見てしまった。それは、その前に付け加えられていた、バーンスタインへのインタヴューとリハーサル演奏が、特に興味深かいものであったからだ。

 と、延々と前ふりをした後で、その話について書きたかったのだが、余りにも長くなってしまったので、次回に。

 ミャオ、こちらは毎日、ストーヴで薪を燃やしているほどに寒くなってきたが、そちらも九州とはいえ、少しは朝夕は冷えてきただろうね。もう少しだから、辛抱しておくれ。

                      飼い主より 敬具