ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(225)

2012-04-29 16:46:57 | Weblog
 

 4月29日

 ワタシはネコである。ワタシはもう長い間、何も食べていない。水を飲むだけで、生きている。
 生きていくのは、やっかいなことだらけだ。それでも生きていくのは、いいことがあるからだ。だから、ワタシも生きていたいのだ。

 ワタシは、いつもの草むらの所に座っている。天気が良ければ、夕方までそこにいる。辺りは、新緑の若葉の香りに満ちていて、時折、やさしく風が吹き渡り、木の葉を揺らす音がする。遠くでウグイスが一声・・・。目を閉じてうつらうつら・・・。
 何も考えないことだ。今の私が、こうあること、それ以上でもないしそれ以下でもない。深く考え込んだところで何になるだろう。大切なことは、今、ワタシがこうして何事にもわずらわされずに、ただ豊かな日の光を浴びて、ゆったりと座り込んでいることだ。

 人も動物も、生きていることを実感するのは、きわどい生の刹那(せつな)の一瞬にあり、また体中の感覚を弛緩(ちかん)させたひと時にあるのだ。若い時は生の刹那に酔い、年を取ってからは生のくつろぎのひと時に酔うのだ。
 ワタシは、心の奥から聞こえてくる神の言葉のままに、今は何もせずにじっとしている。

 神のおぼしめすままに。南無阿弥陀仏、御仏(みほとけ)の心のままに。


 「ミャオが何も食べなくなって、1カ月と2週間。確かに途中で、サカナの腹の部分をほんの一口食べてみたり、ミルクをひとなめしたこともあったのだが、それはいつもの食事から見ればとても食べたとは言えないものだった。病院での1週間の点滴治療などを除いても、一カ月以上になることは確かだ。
 何という、ミャオの強靭(きょうじん)な生命力だろう。こうして、ただ無条件に生きたいと思う気持ちこそが、動物の正しい本能なのだ。
 ネコは死ぬ時には、人に見つからないような場所に行って死ぬというけれども、実はそうではなくて、ただ人の来ない静かな所へ行って、ひとりでじっとして治そうとしているだけなのだ。今まで、私は、傷ついたミャオが、遠く離れた物陰にひとり座っているのを何度も見つけてきたのだ。
 その度ごとに抱いて家に帰り、そしていつもの病院に連れて行って治してもらったのだ。

 しかし今回のミャオの病気は、もう治る見込みがない。高齢猫の腎機能不全からくる、尿毒症、多臓器不全・・・。それでもミャオは、何とか自分で治そうと、家から数十メートルほど離れた人の来ない草むらで、終日じっと座っているのだ。
 朝夕に水を飲むだけで、何も食べずに。ただ私は、すきを見つけては、二日に一度くらいは、いやがるミャオの口元に栄養補助液をほんの一滴流し込んでやり、後はミャオの体のマッサージをしてやっているだけだ。

 それでも、私はそんな毎日の思いにに耐えきれず、数日前にいつもの動物病院の先生に電話で相談してみた。しかし先生は、1週間の点滴入院だけでミャオを引き取った、私の気持ちを十分に分かってくれていて、慰めるように言ってくれたのだ。
 『もう食べなくなって一カ月以上もたちますか、すごい生命力ですね。飼い主のそばで、ストレスなく居れば、それがネコにとっては一番いいことなのですから。』
 
 私はその言葉を聞いて、少し胸にこみ上げるものがあった。ミャオに治療らしいこともせずに、日々弱っていく体を見て、このまま放っておいて良いのだろうかと、罪悪感を覚える毎日だったからだ。先生は、そんな私の気持ちを察してくれたのだ。
 先生は医者だから、飼い主が望むなら徹底検査をして、でき得る限りの治療手術をして、ミャオの命を幾らかでも長らえさせてやりたいと思ったのだろうけれど。

 ただ私は、一カ月前のあの悲嘆の時と比べれば、そう深く嘆き悲しむことはなくなってきた。毎日弱っているミャオを見ていて、少しづつ覚悟がついてきたのだ。余分な延命治療をせずに、時間をかけて死ぬことは、決して悪いことではない。自分にとっても、周りの人にとっても。
 今まで何度も取り上げてきた、あの中村医師による『大往生したけりゃ、医療とかかわるな』(幻冬舎新書)だけではなく、今回のミャオの死に行く病に際して、私は前に読んだことのある本を幾つか思い出した。

 一つは、エリザベス・キューブラー・ロス(1926~2004)の 『死ぬ瞬間』(鈴木晶訳 中公文庫)であり、もっともこの題名は、訳者があとがきで言っているように、"ON DEATH AND DYING” という原題からいえば、”死とその過程”とした方がいいのかもしれない。ともかく、著者は医師と患者の対話からの豊富な実例をあげて、その過程における死の意味を探っていくのだ。
 そこで彼女は、死に至る過程を5段階に分けて説明している。
 つまり、第一段階の“否認と孤立”から、次に来る“怒り”、さらに“取り引き“から“抑鬱(よくうつ)”そして最後の第5段階の“受容”に至るまでである。
 しかし、それはまた本人だけではなく、患者の周りのの人々にとっても、身近な人を失う過程そのものでもあるのだ。私がやがて、ミャオを失うように、今はもうその第5段階にあるのかもしれないが。

 そしてもう一つは、これも前に少し触れたことのある、『臨死体験(上下)』『証言・臨死体験』(立花隆 文春文庫)だが、著者のその精力的な取材による分析力は定評のあるところであり、この科学的には説明しきれない現象を、幾多の事例や証言をもとに、現象を越えた世界として浮かび上がらしていくのだ。
 つまり、その多くの事例が語るように、死の間際に苦痛を越えた陶酔の世界が現出するだろうことは、まだこちらにいて見送る人々にとっては、死に行く患者へのいくばくかの心慰められる思いにもつながるのだ。みんなはそうして、苦痛もなく明るい光景の中で旅立っていけるのだろうと。

 それにしても、今私の目の前で、水だけで生き延びているミャオの気力と体力については、あらためて考えざるを得ないのだ。しかし調べてみると、いろいろなことが分かってきた。
 まず、ミャオが何も食べなくなったのは、もちろん尿毒症のためでもあるのだろうが、さらに口内にはアンモニアが分泌されていて、それが食べようとする時に食べ物に移り、臭いに敏感なネコは食べられなくなってしまうこと、そうして食べないことで内臓が使われずに弱ってしまうという悪循環をたどること。(アンモニアを中和させるには、レモン汁、梅干し液などがいいとのことだが。)
 もっとも動物だけでなく、人間でさえ、水だけでも1カ月近くは生きていられるということだし、世界には恐るべき人がいるもので、4年間、水に混ぜた果物ジュースだけを飲んであとは太陽エネルギーを浴びて生きている、というドイツの医学研究者がいるとのことだし、インドには70年もの間、水だけで生きてきたという行者もいるくらいなのだ。

 とはいっても目の前の、やせ細ったミャオの姿を見ているのはつらいことだ。3.8kgもあった体重が、今や半分ほどになっているのだ。メタボ体系の自分の体重が、半分になったとしたら40kgにも満たないことになる。あり得ないことだ。
 それだけでも、ミャオの恐るべきがんばり、忍耐力が分かるというものだ。それに比べて私など、日ごろから何の努力もせずにただぐうたらに暮らしているだけなのだ。

 ともかく病みつかれたミャオを目にして、気持ちが重たくなるからこそ、少しは明るい希望も持ちたくなる。そんな時、前回書いたスマイルズの『自助論』とともに、あの『幸福論』で有名なアラン(1868~1951)の意思行動的な明るい哲学もまた、それまでうつむきかげんだった私の顔を上向きにさせてくれる。
 今回はこれまであげてきたその『幸福論』からではなく、『定義集』(神谷幹夫訳 岩波新書)からである。

 『”悲観主義” 自然的なもので、それを証(あか)しするものはいっぱいある。なぜなら、だれもみな悲しみ、苦悩、病気、死を免れ得ないから。
 悲観主義は厳密に言えば、現在は不幸ではないが、これらのことを予見している人間の判断である。
 悲観主義は自然と体系のかたちで再現されて、(そう言ってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企てあらゆる感情の悪い結末を予言する。
 悲観主義の本質は意思を信じないことである。オプティミスム(楽観主義)はまったく意思的である。』

 何という巧みな、悲観主義へのアンチテーゼ(対照的な反対の命題)なのだろう。直接その言葉を批判するのではなく、比べることで、おのずと浮かび上がるその考え方の欠陥を示唆(しさ)しているのだ。

 
 庭では、今、シャクナゲの花が満開になって咲いている。椿の花は、もう既に大半が落ちてしまった。そしてシャクナゲの花も、しばらくするとすべてが落ちてしまうだろう。しかし、そこからやがて、新しい芽がまた伸びてくるはずだ。
 そのシャクナゲの花の上に高くそびえる、梅や桜の木の花々は、もうとっくの昔に散ってしまったが、今鮮やかな新緑に輝く若葉に被われている。
 しかし、ミャオは、再び生まれ変わることのない、今あるミャオだけなのだ・・・。」

 (写真は数日前の、薄紅のつぼみが美しいころのシャクナゲ。)

ワタシはネコである(224)

2012-04-22 18:21:17 | Weblog
 

 4月22日

 ワタシは、ずっとコタツの中で寝ている。昨日は、一日中、強い風が吹きつける音が聞こえ、夕方からは屋根に叩きつける雨の音も聞こえていた。
 ワタシはあいも変わらず、何も食べる気がしない。ただ、一日に二三度、水を飲むだけだ。今、自分が生きているのは分かるけれど、何もする気がしないし、何も考えたくはない。時が過ぎていくのを、じっと見まもっているだけだ。その先にあるものへと、ワタシも一緒に、ただ身を任せてゆくだけ・・・。
 
 昨日の朝には、もう風が吹き始めていたが、まだ日も差していた。飼い主が、ずっとコタツの中にいるワタシを心配して、外に出るように誘った。
 ワタシはそれに応えて、ふらつく足取りで外に出た。生温かく少し冷たい外の空気が、ワタシを包みこむ。
 足元には、桜の花びらが散り敷いていた。見上げると、あれほど見事に咲いていた満開の桜は、今やその半分以上が散ってしまい、緑の葉が目だって増えていた。
 ワタシは、前に飼い主がつぶやいていた、一句をふと思い出した。

 「散る桜、残る桜も散る桜」


 「今日は、朝には雨も止み、午後になると昨日のあらしが嘘のように風も収まり、木々の枝葉もぴたりとそのままで動かない。ただ、庭一面に桜の花びらが散り敷いていて、椿の木の周りには、重たい花びらごとに積み重なっている。
 梅の花が終わり、桜の花が終わり、いつの間にか沈丁花(じんちょうげ)の香りも消え、椿の花は盛りを過ぎ、ただ、庭の一か所だけが、あのシャクナゲの大ぶりで鮮やかな花々の周りだけが、余りにも明るい。
 ウグイスが、のどやかに鳴いている。

 花の季節は巡り、次の季節へと受け継がれていく。命の連なりの時間は、また命が消え行く時間の連なりでもあるのだ。

 ミャオが、エサを食べなくなってもう一カ月と一週間、病院での一週間の点滴治療からミャオを引き取って、三週間、始めはほんの一口だけ食べていた魚も食べなくなり、ミルクも飲まずに、つまり水だけしか飲まなくなって一週間がたつ。
 何とか食べさせようとして、いつも食べていたサカナの、さらに腹の部分だけを細かく切って出したり、高齢猫用のパック詰めのやわらかいキャットフード、マタタビ、温めたミルク、薄めたスポーツ・ドリンク、グレイプシード・オイルなども出してみたが、全く食べようとはせず、抱え上げて無理に口に入れようとすれば死力を尽くして暴れるから、横になっているすきに、口元に栄養補助液を一滴たらすのが関の山。しかし、今ではそれも察して、コタツの中から出てこないというありさまだ。
 病院に行って、点滴を打ってもらえば、その一日だけは幾らか元気を取り戻すだろうが、たとえば前回のように、一週間入院しても、次の日からまた同じ状態に戻ってしまう。つまり、一日ごとの延命処置にしかならないのだ。
 それではと、さらに入院させて徹底検査をしてもらったところで、弱っている上に高齢の体ではとても手術どころではないだろう。

 いろいろと考えたあげく、それなら、今までここに書いてきたあの『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)の著者、中村医師の言うように、こうして家に置いたまま見守ってやるだけで、結果的に餓死(がし)させるという結果になっても仕方ないのかとも思い、しかし答えは出てこない。

 もう長い間、私もぐっすりと眠れない日々が続いている。時々、ミャオが夢に出てくる。というよりは、昔そうであったように、ミャオを探し歩いている夢だ。ミャオ、ミャオー。周りに人がいれば、大きな声は出せない。あちこちの物陰をのぞいて歩く。
 ミャーゴ・・・確かに聞こえた声は、起きてみると、隣の部屋のコタツの中で鳴いているミャオの声だったのだ・・・。
 
 気持はふさぎこんでしまい、何もする気にならない。パソコンでウェブの情報を見たり、今までの山の写真を見たり、録画していた番組を見たり、ぐうたらに一日を過ごしてしまう。庭仕事も、遠出の散歩も長続きしない。

 こんなことではだめだと、自分の励ましにもなるような本を開いてみる。『自助論』(サミュエル・スマイルズ 竹内均訳 三笠書房文庫)。
 『天は自ら助くる者を助く』という出だしで有名なこの本は、明治時代に『西国立志編』という和訳名で出版されたものの原本であり、あの『ニュートン』誌の編集長であり、有名な地球物理学者でもある竹内均氏のやさしい語り口と同じような、分かりやすい訳文で、これまたあの『大往生したけりゃ・・・』と同じく読みやすい本である。
 
 『・・・外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間を励まし元気づける。人のために良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性をも忘れるだろう。保護や抑制も度が過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである。・・・』

 そして思い出したのは、前にもあげたことのある『ささやかながら、徳について』(アンドレ・コント=スポンヴィル 中村昇他訳 紀伊国屋書店)の一節である。

 『・・・私たちの徳の大部分は人間だけに向けられる。それがこれらの徳の大きさであり限界でもある。
 これに対して同情は、苦痛を感じるすべてのものに普遍的に共感する。
 私はそう信じているが、私たちが動物に対して幾つもの義務を負うとすれば、それは何よりもまず同情によってであり、同情においてであろうし、まさにそれゆえに同情は、私たちもろもろの徳のうちでおそらくもっとも普遍的なのだ。動物を愛することも動物に誠実さや尊敬の念を示すこともできよう。・・・』

 しかし、私がミャオに対していかに誠実に対処した処で、それがミャオの命を縮めたのだという結果になったとしたら・・・再び私は、母が亡くなった時のように、またつらい思いを持ち続けることになるだろう。
 どのみち、人生では生きることも死ぬこともつらいのだ。それだけの喜びがあるとしても・・・。」

 『・・・天空は永遠に青く、大地はいつまでもゆらぐことなく、春になれば花が咲きほこる。
  だが人間よ、おまえはどれだけ生きられるのか。百年もない期間、この世のはかないことを楽しむのにすぎない。
  ・・・。
  生は暗く、死も暗い。』

 (グスタフ・マーラー 交響曲『大地の歌』第一楽章より 李白(りはく)の漢詩に基づく、音楽の友社刊『名曲解説全集』より) 

ワタシはネコである(223)

2012-04-15 18:16:13 | Weblog
 
 
 4月15日

 ワタシは、一日のうちのほとんどの時間を寝ている。そして、いつも夢を見ていた。

 ・・・天気のいい日だった。飼い主と一緒に散歩に行った。今と違って、若いころには、飼い主と一緒にずいぶん遠くまで行ったものだ。所々で立ち止まっては、他のノラネコや、獣たちの臭いをかぎながら、飼い主の後を追い、時にはワタシが先になって、急な坂道を下りて行った。下りきった先には、今ではもう誰も住んでいない家があって、辺りは藪におおわれていた。
 小さな庭先には、赤い花が咲いている大きな椿の木があって、その下には飼い主が座るにはちょうど良い岩があった。ワタシはその藪の辺りの臭いをかいで回り、しばらくして戻ると、飼い主の姿がない。
 ひとしきり鳴いて飼い主を呼ぶが、いつもの呼び返す声も聞こえない。その時、藪の後ろの方で、ガサリと音がした。素早く振り返り身構えると、そこには何匹かのネコたちがいて、ワタシに鳴きかけている。母さんネコや兄弟ネコ、あまり会うこともなかった父さんネコ、それに飼い主がいなかった冬の間を地区のポンプ小屋でともに過ごした、ノラネコ仲間たち・・・。

 ワタシが小さく鳴きかわしてそちらの方へ行こうとすると、後ろで飼い主の呼ぶ声が聞こえた。
 「ミャオ、ミャオ出ておいで。ほらサカナだよ。」
 ワタシは、ニャーオと鳴いてコタツの中から出ていく。しばらくはボーっとして座ったまま思い返す。何という夢だったのだろうか。あのまま、みんなの呼ぶ声にこたえて、行っていたとしたら・・・。

 相変わらず食欲はなく、水を飲んで生きているだけなのだが、それでも死にたくはない。飼い主ともっと一緒にいたいのだ。


 「このところ、天気の悪い日と良い日が交互に繰り返す、春らしい空模様の日が続いていて、ひと雨ごとに目に見えて緑の色が増えてきた。何よりもすっかり春の暖かさになってきた。
 庭先には、沈丁花(じんちょうげ)の甘い香りが漂い、水仙の花が咲き、椿の花が鈴なりになって咲き始め(写真)、白いコブシの花は満開になり、またシャクナゲの大きなつぼみも赤くふくらんできた。毎年気になる家のヤマザクラの木は、平年よりも遅く昨日ようやく開花したばかりだ。
 まだ枯葉が散り敷いている足元からは、いち早く咲くハコベやオオイヌノフグリに混じって、ヒゴスミレの花も咲き始めた。それもシロバナではなく、ベニバナヒゴスミレだ。そういえばおそらく今頃、阿蘇・九重・由布などの火山性の高原や裾野では、辺り一面が黄色いキスミレの花に被われていることだろう。

 もうずいぶんの間、山に行っていない。2カ月近くも山登りから離れたことは、私としてはきわめて稀なことだ。どこか体が悪かったわけではないし、山への思いが薄れたわけでもない。
 ただ、いつものぐうたらな中年オヤジの性癖(せいへき)が表れただけに過ぎないのだが、もっとも今の時期の九州の山歩きには、ふもとのヤマザクラや黄色いマンサクの花を見に行くぐらいしか楽しみがないからでもあるが。
 あの北海道や本州の山々には、これからが楽しみの残雪の山歩きがあるというのに・・・。
 そしておそらくは、この春の北海道での残雪の山歩きは、あきらめるしかなさそうだ。いつもなら今頃九州を離れて、北海道へと戻っているころなのに。あのぼろい、しかし愛着のある私の丸太小屋は、今どうしているだろうか、まだこの冬からの雪に囲まれたままで・・・。

 しかし今、私にはミャオがいる。それも、よれよれに年老いたネコだ。しかし、輝く残雪の山よりも、薪ストーヴの煙が上がる丸太小屋よりも、今私が居るべきなのは、ミャオのそばなのだ。
 思えば、実に好き勝手に生きてきた私、自分だけの時間を良きにつけ悪しきにつけ味わい尽くしてきた私が、それ以外のために、たとえば母のためにあるいは今のミャオのために、そばに居てともに過ごしてきた時間など、取るに足りない短さでしかなく、何の親孝行にも、何の恩返しにもなってはいないのだ。
 極端に言えば、母は私を育てるために死んでいったのであり、ミャオは私を見守る役目を終えて、これから死のうとしているのだ。しかし、私はいまだにひとり立ちできない情けない男であり、ミャオにはまだまだここにいて、私を見守っていてほしいのだ。
 
 そのミャオは、今、驚異的な生命力で生き続けているのだ。エサを食べなくなってもう1カ月にもなる。それまでは、夕方に出してやる10cmほどのコアジを一匹、さらに一日でキャットフードを大さじ一二杯、そしてミルクを少々というメニューだったのに。
 当時の体重は3.8キロもあったのに、今は2.5キロしかない。顔の周りはそれほどやせたとは見えないのだが、何といっても体周りの激やせぶりは見るも哀れであり、その姿のままでもう1カ月近くにもなるのだ。食べるものは、散歩に出た時の草と、夕方のナマザカナをなめて、その中の一切れ1cmくらいをやっと食べるだけ。

 それだけではやはり心配なので、横になって寝ている時に、前に動物病院の先生にもらった栄養補助液を一滴、ミャオの口元に垂らす。ミャオはなんだと頭をあげて、ぺろりと自分の口の周りをなめるというネライなのだが、半分くらいはうまくいかずにこぼれたり、ミャオがいやがり起き上がって、コタツの中に潜り込んだりしてしまうだけなのだ。
 ミルクは少しなめたり、全然見向きもしなかったり、水はしっかり一日3回ほど飲んでいる。そしてちゃんと歩いて、外でシッコもしているが、ウンチの方は完全な便秘で、固く乾燥したものが1週間に一度出るか出ないか。

 さらにミャオは、天気の良い日は外の草地でじっと寝て過ごし、天気の悪い日はコタツの中で寝て過ごして、夕方には少しサカナを食べた後しばらくして、私が体をマッサージしてやると、目を細めて小さく鳴くのだ。それが終わると、黙って私をじっと見る。

 最後まで看取(みと)ることとは、無理な医療を施さず、こうしてミャオを安心させて傍にいてやることなのだろう。

 先日、買い物のついでに本屋に寄って、前々回から書いてきた中村仁一医師(1940~)の著書、『大往生したけりゃ医療とかかわるな・・・自然死のすすめ』(幻冬舎新書)を買ってきて、次の日に一気に読み終えてしまった。
 その中で彼は、私たち中高年世代が、常日頃から疑い考えあぐねていたことに対して、医者としての経験による見事な切り口で、明確な答えを与えてくれたのだ。
 そこに書かれているのは、テレビ番組で見た時と同じ話なのだが、時にはユーモアたっぷりに(私は何度も声をあげて笑ってしまったが)、老人たちの死に逝(ゆ)く現実を目の当たりに見せてくれる。
 死を恐れるな、死に逝くことに慣れておけ、死ぬ時はガンにかかり、延命治療を拒否して、餓死(がし)という自然死の形が最も良いという彼の主張には、まるで残りの人生を悟ったような潔(いさぎよ)さと、たとえば今の若い研究者や著作者たちにありがちな打算や気負いのない、年寄りのすがすがしい思いが見られるのだ。 
 
 つまりそこには、日本人だからこそ強く共感できるような、仏教・神道・儒教の思想を併せ持った死生観があり、西洋人に訴えるために書かれたあの新渡戸稲造(にとべいなぞう、1862~1933)の『武士道』にも通じる思いがあるのだ。
 誤解されないように言えば、これはあくまでも中高年者たちの死に逝く時のための覚悟を喚起した本であり、今の若い人たちにすすめるべき本ではないということだ。なぜなら、若い人たちこそはこれからの長い人生のために、病気の早期発見に留意し、医学の進歩を良く理解して、その最新治療の恩恵を受けるべきだからである。

 それにしても、常日頃から死に逝くことを考えてきた私だが、この中村医師の話には、新たな地平を見た思いがしたのだ。そうだったのかと。
 しかし併せて考えてみれば、日ごろからひとりで行動することの多い私には、傍にいるミャオの生き方と相まって、それはあらためて得心するほどのものではないとも言えるのだ。ただ、彼の医学的な見識によって、さらなる追認をしたのは確かである。
 
 それでも、そうして自分の行く末に何らかの光明を見出したことで、後は後顧(こうこ)の憂いなく、自分の時間をさらに味わい尽くすことができるというものだ。

 ミャオが、今の病にかかった時、私は予期していなかったミャオの死が近いことに愕然(がくぜん)として慌てふためいていたのだ。しかし、ミャオは急に死んでしまうことはなかった。私に心の準備を与えるために、ゆっくりと時間をかけて私に死に逝く姿を見せているのかもしれない。
 私は今は、ミャオを病院に連れて行った時ほどには、思い悩まなくなってきた。それは、死に逝くだろうミャオを傍でずっと見ているからだ。ミャオの最後の教えとして受け取るべく・・・。

 それに比べて、わずか半日足らずで逝ってしまったあの母の突然の死が、いかに私にとって大きな衝撃となって残ったことか・・・。

 夕方になって、ミャオが外から帰ってきた。ニャーオ。おーよしよし、帰ってきたか。サカナをあげるからね。」

ワタシはネコである(222)

2012-04-08 18:29:21 | Weblog
 

 4月8日

 辺り一面に、暖かい日差しが降りそそいでいる。ワタシは、生垣(いけがき)のそばの草地で横になっている。時々、風が通り過ぎる。朝にはあちこちで鳴いていた小鳥たちの声も、今は聞こえない。
 たまに、道を走る車の音が聞こえ、ワタシはうつらうつらしていた頭を持ち上げる。周りに動くものの気配はない。目を閉じ、再び頭を横にして寝る。

 このところ天気のいい日が続いていて、ワタシは朝から夕方まで、ここで横になってじっとしている。家から少し離れた所にある、今は誰も住んでいない家の庭の片隅である。ここには誰も来ないし、他のノラネコや鳥たちでさえ来ない、静かなワタシだけの場所だ。
 相変わらず、ワタシは何も食べないで、水だけを飲んで生きている。夕方になって、日が陰り肌寒くなってくると、飼い主に迎えられて家に戻り、ストーヴの前で横になる。夜には温かいコタツの中に潜り込んで、朝までそこで寝ている。

 確かに、今ワタシは、やっと生きている感じだ。しかし、こうして体が弱った時には、誰も来ない隠れ場でただじっとして、体の回復を待つことが何よりも大切なことであり、それはワタシが子供のころに母さんネコから教わったことであり、またワタシたちネコ族の防御(ぼうぎょ)本能の一つでもあるのだ。
 それでも回復しなければ、その時はもうじたばたしても始まらない。結局は時の流れの中に、私の命が消えていくように、静かにその時を待つだけのことだ。そうして今まで、多くのネコたちは最後を迎えたのだ。
 母さんネコや兄弟ネコたち、そしてワタシをこの家に迎え入れ可愛がってくれたおばあさん・・・みんなそうして、向こうの国へと逝(い)ってしまったのだ。ワタシも順送りに、その道を歩いて行くだけのことだ。

 そして、こんなワタシを、今になってもじっと見守っていてくれる、やさしい飼い主が傍にいるのは、どれほどありがたいことか。長い歳月を、互いに歩んできた多くの思い出とともに。 
 ただ気がかりなのは、私が逝ってしまったら、飼い主がひとりで残されることだ。昔はその鬼瓦(おにがわら)顔が怖ろしくもあったが、今ではめっきりと涙もろくなってしまい、体のあちこちに老いの影が忍び寄ってきているからだ。

 ただそれも、人の世の、生きものの世の理(ことわり)であり、残されたものは悲しみ、そしてまた自分も同じ道をたどって行くだけのことだ。ワタシがそうして死んでいくことは、後に残る者たちへ一つの死に方を見せることにもなるだろう。いつかは来る、この世との別れの時のために・・・。
 ワタシは夢を見る・・・時の流れのように穏やかな小川が流れていて、その緑豊かな岸辺には、色鮮やかな様々な草花が咲き乱れている。その後ろには母さんネコや、おばあさんがいてワタシを呼んでいるような・・・。


 「庭の梅の花がようやく満開になったが、その上に伸びる桜の枝はまだ固いつぼみのままだ(写真)。今年の春は、やや気温が低めだけれども、天気の良い日が続いている。この2週間、雨が降ったのは二日、それも午前中までには上がってしまうにわか雨だった。
 それならば、できる仕事もいろいろとあっただろうが、私がやったのは、すでに枝葉を切り落としていた直径30cmほどもある古い木を切り倒して、その幹を切り分けてベランダの下に運び入れ、倉庫にあった1年分の新聞紙や雑誌などをまとめてかたづけ、ペンキ塗り替えのために倉庫の屋根の上にあがり掃除をしたくらいのものだ。

 ミャオがそんな状態だから、買い物以外にはどこにも出かける気にもならないし、落ち着いて本を読む気にもならない。こんな時には単純な作業をするにかぎる。私は、前に書いたフィルムのスキャン作業、つまり昔、中判カメラや一眼レフで撮ったポジ・フィルムをデジタル・データに変換させるという、機械的な作業に没頭していた。
 そして、その九州での山の写真の100本分ほどのデータをパソコンに取り込み、またDVDに録画した。昔プリントした写真に比べて、変換の時に画像の明暗などの手も加えられるし、何よりもはるかに大きな液晶画面でくっきりと見ることができるのだ。今さらながらに、科学技術の進歩の恩恵をありがたく感じている。
 
 これで、北海道の家に置いてある、北海道や南北アルプスなどの山々の、数百本ものフィルムのデジタル・スキャンが楽しみになってきた。
 まずはミャオの病状次第なのだが、今年もまた北海道の家に戻るのは、もう何度も登ってきた北海道の山々にまた登るためにというよりは、こうした昔の山の思い出に会うために帰るような気もしてきた。
 若者は思い出をつくるために生きていき、老人は思い出にすがるために生きていくのだ。
 
 そして今、私がむきになってまで、そうした昔の思い出を甦(よみがえ)らそうとしているのは、間違いなく、ミャオとの思い出が終焉(しゅうえん)を迎えるだろうことを考え恐れているためでもある。人は怖い時に、何かにすがりたくなるものだ。
 その昔、私を暖かく、あるいは厳しく迎え入れてくれた山々・・・、また若き日の私をやさしく、時には激しく迎え入れてくれた娘たち・・・、そして、母とミャオ。
 
 ミャオはまだ、必死に生きようとしている。病院での手助けを断った今、私ができるのは、いつもそばにいてやさしくなでてあげ見守ってやることくらいだ。それでも、これでいいのだろうかと思いながら・・・。
 しかしミャオは弱ってはいるが、苦しんではいない。
 前回書いたように、病院からミャオを引き取ってきたのだが、その後も一切食べようとせず、水を飲むだけでさらに一週間がたった。点滴を受けていた期間を除けば、もう1カ月近くもこうした状態なのだ。そこで、町のホーム・センターに行って、さまざまなネコの食べ物を買ってきて目の前に置いたのだが、ミャオは顔をそむけるばかりだった。

 数日前のこと、いつも食べていた生魚のコアジの、腹の部分をさらに小さく切って、傍にはマタタビの粉を置いてやってみたところ、何とピチャピチャ音を立ててなめ始め、その一つを口に入れて噛み砕き食べたのだ。
 私は、飛び上がらんばかりに喜んだ。
 実はその傾向は、その二日前からあったのだ。つまりその日に、これも久しぶりに、ミルクを少しなめていたからだ。これで、ミルク、サカナとくれば、ミャオはきっと回復していくに違いない。
 世の中には20歳を越えて生きているネコもいるし、ミャオはまだ17歳で、人間で言えば84歳くらいだもの、せめて母が亡くなった年(それでもまだ早すぎる死だったという後悔が今も残るが)、その90歳にあたるくらいまで、もう2年くらいは生きてほしいと思う。

 しかし、その喜びもつかの間だった。それから数日たった今、やはり前のようにしっかりと食べることはないのだ。サカナは、なめた後ほんの一切れ、1cmほどの肉身をやっと食べるだけ。体は、まるで断食をしている僧のように、下腹が大きく落ちくぼんでしまい、起き上がる時には少しふらつくほどだ。それでも自分で歩いて外に行き、トイレもしてくるのだが・・・。

 しかし今、ミャオは必死に生きようとしているのだ。何とか、自然の治癒(ちゆ)力で、自分の病を治そうとしているのだ。人間のように、決してあきらめ、絶望したりはしないのだ。

 あの哲学者キルケゴール(1813~55)は、『・・・絶望者が自分の自己を失ってしまうこと・・・それが死に至る病であり・・・死は病の終局ではなく、死はどこまでも続く最後なのである。』(『死に至る病』キルケゴール 桝田啓三郎訳 ちくま学芸文庫)と“死に至る病”について説明しているが、果たして固有である自分自身だけを考え、死についての哲学的な論理を構築していくこと、そして神の救いの可能性を求めることが、今生きるものたちへの積極的な手助けになるのだろうか。

 ミャオは、決して死に至る病に取りつかれているわけではなく、あくまでも生の方へ目を向けているのだ。ただ本能的に生きたいだけであり、私にはむしろその姿にこそ、生きものとしての生の根源的な意味を見る思いがする。
 そして、前回書いたように、あの老人ホーム診療所々長の医師であり、自らも病にかかっている中村仁一氏の言葉にこそ、死にゆく者への誇りある思いが見えてくる。

 ともかく、ミャオが必死に生きている今、ワタクシはここで余り多くのことを書く気にはならない。ただ最後に、トマス・インモース氏(1918~、ドイツ文学者)の言葉だけをあげておきたい。それは私自身への思いでもあるのだが。」

 『私には、(残りの生において)たったひとつだけの願いがのこされた。私の残された生を、できるだけ意識的に経験し、そして楽しむことである。
 美しき宇宙万物、文学・美術・音楽といった人間文化の価値を感得させてくれた私の生命を、私は愛する。その生を、ゆっくりと楽しむ。死の時まで少しも急ぐつもりはない。死は、明日、突然訪れるかもしれぬ。それも構わない。今の今、生を存分に経験し、楽しんでおれば、死を恐れる必要はなかろう。』

 (『死ぬための生き方』新潮45編 新潮文庫)