4月29日
ワタシはネコである。ワタシはもう長い間、何も食べていない。水を飲むだけで、生きている。
生きていくのは、やっかいなことだらけだ。それでも生きていくのは、いいことがあるからだ。だから、ワタシも生きていたいのだ。
ワタシは、いつもの草むらの所に座っている。天気が良ければ、夕方までそこにいる。辺りは、新緑の若葉の香りに満ちていて、時折、やさしく風が吹き渡り、木の葉を揺らす音がする。遠くでウグイスが一声・・・。目を閉じてうつらうつら・・・。
何も考えないことだ。今の私が、こうあること、それ以上でもないしそれ以下でもない。深く考え込んだところで何になるだろう。大切なことは、今、ワタシがこうして何事にもわずらわされずに、ただ豊かな日の光を浴びて、ゆったりと座り込んでいることだ。
人も動物も、生きていることを実感するのは、きわどい生の刹那(せつな)の一瞬にあり、また体中の感覚を弛緩(ちかん)させたひと時にあるのだ。若い時は生の刹那に酔い、年を取ってからは生のくつろぎのひと時に酔うのだ。
ワタシは、心の奥から聞こえてくる神の言葉のままに、今は何もせずにじっとしている。
神のおぼしめすままに。南無阿弥陀仏、御仏(みほとけ)の心のままに。
「ミャオが何も食べなくなって、1カ月と2週間。確かに途中で、サカナの腹の部分をほんの一口食べてみたり、ミルクをひとなめしたこともあったのだが、それはいつもの食事から見ればとても食べたとは言えないものだった。病院での1週間の点滴治療などを除いても、一カ月以上になることは確かだ。
何という、ミャオの強靭(きょうじん)な生命力だろう。こうして、ただ無条件に生きたいと思う気持ちこそが、動物の正しい本能なのだ。
ネコは死ぬ時には、人に見つからないような場所に行って死ぬというけれども、実はそうではなくて、ただ人の来ない静かな所へ行って、ひとりでじっとして治そうとしているだけなのだ。今まで、私は、傷ついたミャオが、遠く離れた物陰にひとり座っているのを何度も見つけてきたのだ。
その度ごとに抱いて家に帰り、そしていつもの病院に連れて行って治してもらったのだ。
しかし今回のミャオの病気は、もう治る見込みがない。高齢猫の腎機能不全からくる、尿毒症、多臓器不全・・・。それでもミャオは、何とか自分で治そうと、家から数十メートルほど離れた人の来ない草むらで、終日じっと座っているのだ。
朝夕に水を飲むだけで、何も食べずに。ただ私は、すきを見つけては、二日に一度くらいは、いやがるミャオの口元に栄養補助液をほんの一滴流し込んでやり、後はミャオの体のマッサージをしてやっているだけだ。
それでも、私はそんな毎日の思いにに耐えきれず、数日前にいつもの動物病院の先生に電話で相談してみた。しかし先生は、1週間の点滴入院だけでミャオを引き取った、私の気持ちを十分に分かってくれていて、慰めるように言ってくれたのだ。
『もう食べなくなって一カ月以上もたちますか、すごい生命力ですね。飼い主のそばで、ストレスなく居れば、それがネコにとっては一番いいことなのですから。』
私はその言葉を聞いて、少し胸にこみ上げるものがあった。ミャオに治療らしいこともせずに、日々弱っていく体を見て、このまま放っておいて良いのだろうかと、罪悪感を覚える毎日だったからだ。先生は、そんな私の気持ちを察してくれたのだ。
先生は医者だから、飼い主が望むなら徹底検査をして、でき得る限りの治療手術をして、ミャオの命を幾らかでも長らえさせてやりたいと思ったのだろうけれど。
ただ私は、一カ月前のあの悲嘆の時と比べれば、そう深く嘆き悲しむことはなくなってきた。毎日弱っているミャオを見ていて、少しづつ覚悟がついてきたのだ。余分な延命治療をせずに、時間をかけて死ぬことは、決して悪いことではない。自分にとっても、周りの人にとっても。
今まで何度も取り上げてきた、あの中村医師による『大往生したけりゃ、医療とかかわるな』(幻冬舎新書)だけではなく、今回のミャオの死に行く病に際して、私は前に読んだことのある本を幾つか思い出した。
一つは、エリザベス・キューブラー・ロス(1926~2004)の 『死ぬ瞬間』(鈴木晶訳 中公文庫)であり、もっともこの題名は、訳者があとがきで言っているように、"ON DEATH AND DYING” という原題からいえば、”死とその過程”とした方がいいのかもしれない。ともかく、著者は医師と患者の対話からの豊富な実例をあげて、その過程における死の意味を探っていくのだ。
そこで彼女は、死に至る過程を5段階に分けて説明している。
つまり、第一段階の“否認と孤立”から、次に来る“怒り”、さらに“取り引き“から“抑鬱(よくうつ)”そして最後の第5段階の“受容”に至るまでである。
しかし、それはまた本人だけではなく、患者の周りのの人々にとっても、身近な人を失う過程そのものでもあるのだ。私がやがて、ミャオを失うように、今はもうその第5段階にあるのかもしれないが。
そしてもう一つは、これも前に少し触れたことのある、『臨死体験(上下)』『証言・臨死体験』(立花隆 文春文庫)だが、著者のその精力的な取材による分析力は定評のあるところであり、この科学的には説明しきれない現象を、幾多の事例や証言をもとに、現象を越えた世界として浮かび上がらしていくのだ。
つまり、その多くの事例が語るように、死の間際に苦痛を越えた陶酔の世界が現出するだろうことは、まだこちらにいて見送る人々にとっては、死に行く患者へのいくばくかの心慰められる思いにもつながるのだ。みんなはそうして、苦痛もなく明るい光景の中で旅立っていけるのだろうと。
それにしても、今私の目の前で、水だけで生き延びているミャオの気力と体力については、あらためて考えざるを得ないのだ。しかし調べてみると、いろいろなことが分かってきた。
まず、ミャオが何も食べなくなったのは、もちろん尿毒症のためでもあるのだろうが、さらに口内にはアンモニアが分泌されていて、それが食べようとする時に食べ物に移り、臭いに敏感なネコは食べられなくなってしまうこと、そうして食べないことで内臓が使われずに弱ってしまうという悪循環をたどること。(アンモニアを中和させるには、レモン汁、梅干し液などがいいとのことだが。)
もっとも動物だけでなく、人間でさえ、水だけでも1カ月近くは生きていられるということだし、世界には恐るべき人がいるもので、4年間、水に混ぜた果物ジュースだけを飲んであとは太陽エネルギーを浴びて生きている、というドイツの医学研究者がいるとのことだし、インドには70年もの間、水だけで生きてきたという行者もいるくらいなのだ。
とはいっても目の前の、やせ細ったミャオの姿を見ているのはつらいことだ。3.8kgもあった体重が、今や半分ほどになっているのだ。メタボ体系の自分の体重が、半分になったとしたら40kgにも満たないことになる。あり得ないことだ。
それだけでも、ミャオの恐るべきがんばり、忍耐力が分かるというものだ。それに比べて私など、日ごろから何の努力もせずにただぐうたらに暮らしているだけなのだ。
ともかく病みつかれたミャオを目にして、気持ちが重たくなるからこそ、少しは明るい希望も持ちたくなる。そんな時、前回書いたスマイルズの『自助論』とともに、あの『幸福論』で有名なアラン(1868~1951)の意思行動的な明るい哲学もまた、それまでうつむきかげんだった私の顔を上向きにさせてくれる。
今回はこれまであげてきたその『幸福論』からではなく、『定義集』(神谷幹夫訳 岩波新書)からである。
『”悲観主義” 自然的なもので、それを証(あか)しするものはいっぱいある。なぜなら、だれもみな悲しみ、苦悩、病気、死を免れ得ないから。
悲観主義は厳密に言えば、現在は不幸ではないが、これらのことを予見している人間の判断である。
悲観主義は自然と体系のかたちで再現されて、(そう言ってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企てあらゆる感情の悪い結末を予言する。
悲観主義の本質は意思を信じないことである。オプティミスム(楽観主義)はまったく意思的である。』
何という巧みな、悲観主義へのアンチテーゼ(対照的な反対の命題)なのだろう。直接その言葉を批判するのではなく、比べることで、おのずと浮かび上がるその考え方の欠陥を示唆(しさ)しているのだ。
庭では、今、シャクナゲの花が満開になって咲いている。椿の花は、もう既に大半が落ちてしまった。そしてシャクナゲの花も、しばらくするとすべてが落ちてしまうだろう。しかし、そこからやがて、新しい芽がまた伸びてくるはずだ。
そのシャクナゲの花の上に高くそびえる、梅や桜の木の花々は、もうとっくの昔に散ってしまったが、今鮮やかな新緑に輝く若葉に被われている。
しかし、ミャオは、再び生まれ変わることのない、今あるミャオだけなのだ・・・。」
(写真は数日前の、薄紅のつぼみが美しいころのシャクナゲ。)