ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

すぐに溶ける雪

2018-12-31 20:42:41 | Weblog




 12月31日

 昨日の朝-6℃、一面にうっすらと雪が積もっていた。(写真上)
 庭の苔むした岩の上に、枯葉の上に、木々の枝に・・・そして見上げる曇り空から、まだ小雪が舞い下りてきていた。
 毎年繰り返される、冬の季節の中で、同じように雪が降ってきて、私は、そのうちの昨日という日の空を見上げていたのだが。
 やがてこの雪は、昼頃から差し込んできた日の光によって、すぐに溶けてしまった。
 この冬は、やはり暖かいのだと見るのか、それとも、冬本番の寒さはこれからだと思うべきなのか。

 さて、この年末にかけて、ついつい多くのテレビ番組を見てしまった。
 それらは、特別番組であったり、見逃していた番組の再放送だったりなのだが、それぞれに興味深く、面白く見させてもらった。
 もっとも、その番組について感想を書いて行けばきりがないし、ましてやいつものように、長々と続く年寄りの説教話ふうになってしまうから、やめることにしたのだが、さらにいえば、今日は大晦日(おおみそか)だから、小さいとはいえ一軒の家を構える私としても、とりあえずの大掃除と、正月を迎える支度だけはしておきたいので、いつものどうでもいいような長々と続く駄文などを、書いていく時間もないのだ。

 ところで、ふと見たテレビで今年亡くなった人たちの特集をやっていて、その中でこの秋75歳という、今の時代としてはやはり若すぎる齢で、お亡くなりになった樹木希林さんのことが放送されていて、その中で今、生前の彼女の話をまとめた本がベストセラーになっているとのことだった。
 その幾つかの言葉は、私もテレビのインタビューに答えている彼女の話として、記憶に残ってはいたのだが、ネットで調べてみると、何と「樹木希林の名言」などのサイトが幾つも出てきて、やはり皆もそう思っていたのかとうなづき感心したのだが。

 それらの言葉は、過去の哲学者や倫理思想家などの言葉に劣るものではなく、女優としての人生を歩み続けてきた、彼女が持っていた一家言とでも言うべき、ゆるぎない信念にあふれていたのだ。

 以下、ネット上のツイートのサイト「樹木希林の名言・格言」より。

” 難のある自分の人生を卑屈(ひくつ)になるのではなく、受け止め方を変える(こと)。自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として、先生として受け止める。受け止め方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないないでしょうか。”

” 人間として見栄(みえ)は必要だけれど、その張り場所(が問題)よ。見栄は他人に張らずに、置かれた環境の中で、自分自身に見栄を張ること(が大切)じゃないかしら。”

” 失ったものよりは今あるおトクを探すようにしています。人と比べずにね。”

” とにかく今一人でやってるでしょ、ここに来るのも一人、何をするのも一人。誰かに頼むと、その人の人生に責任を持てないから。”

” 人は必ず死ぬというのに、長生きをかなえる技術ばかり進化して、なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。”

 これらの言葉を考えていけば、そこには私がこのブログの中でたびたび取り上げてきた、というよりはこのブログの記事のすべてがそうなのだけれども、日本人の死生観についての、すべてのことが含まれているようにも思えるのだが。 
 すなわち、そうした日本人としての思いは、「万葉集」から「源氏物語」に「平家物語」、「方丈記」に「徒然草」、「古今集」に「新古今集」と日本の古典をたどってゆく旅になり、近松門左衛門に井原西鶴、そしては芭蕉や良寛の句に及び、さらにあげれば貝原益軒の「養生訓」に連なり、尾崎紅葉や樋口一葉の義と情の世界に悩む姿も、新渡戸稲造の「武士道」や山川菊栄の「武家の女性」などの、受け継ぐべきものを守ろうとする人々の姿もまた忘れがたいし、さらには現代に生きた小説家や随筆家からも繰り返し学ぶことになるだろうし。

 思えば、日本の古代社会にはすでに芽生えていた神道の世界観が、さらにその後大陸から入ってきた仏教や儒教、孔子の論語の倫理観に老子荘子の思想を含めて、日本という特殊な島国の中で、独特な形として醸成されていったということ、つまり、そうして作り上げられた、ものを考える礎となるものが、長い歳月を経て、今の私たちの世代にまで受け継がれてきたものだと思うし、こうした考え方は、記憶を呼び覚ましていけば、私の母や周りの年寄りたちから、いつも聞かされ続けてきたものばかりなのだということに気づくのだ。

 それだから、上にあげた樹木希林さんの言葉は、私たちの世代にとっては、多分に共感を持って受け止められる言葉ばかりなのだ。
 今の若い世代がどう受け止めているのかは、私にはわからないし、価値観が多様化した現代の世の中で生きていくためには、また今の時代に合うべく創られた新しい倫理観に従って、生きていくことになるのだろうとは思うのだが。

 順送りの、人間社会のさだめの中で、” さよならだけが人生だ”(井伏鱒二の漢詩訳より)と。
 それを、明るく言えるかどうか。
 今年のひとりごとはここまでで、果たしてまた来年も、世迷いじじいのたわごとが続いて行くのだろうか。

 


テンペスト

2018-12-24 22:49:05 | Weblog




 12月24日

 暖かい日が続いていた。
 11月中旬に九州に戻ってきて、一か月余りになる。
 普通には、九州だから暖かいだろうと思われるのだが、わが家はその九州の内陸部にあるから、冬は寒くて天気が悪く、山陰地方なみの雪の日々が続き、クルマのタイヤをスタッドレス・タイヤに換えているのは常識だが、今年はまだその出番がない。かろうじて小雪が舞っていたのを見たぐらいだから、やはり暖冬だという長期予報は当たっていることになるのだろうか。

 さてそんな中、天気の日を見計らって、庭のあちこちの植え込みなどの刈り込み作業をした。
 植え込みの高い所では、樹の高さが3mほどもあるから、ハシゴに上がっての作業は危険極まりなく、今年の春にそのハシゴから落ちて大けがをしたくらいだから、できることならやりたくはないのだが、植え込みがふぞろいなボーボー頭になっているのを放っておくこともできないし、あとは、それらの大きな植え込みの木を切り倒してしまうしかないのだが・・・。
 もっとも、この剪定(せんてい)作業は、日ごろぐうたらな私の良い運動にはなるにしても、あちこち筋肉痛にはなるし、この危険な”年寄りの冷や水”の仕事がいつまで続くことやら。

 今回は前回までの、日本の古典とは入れ替わって、西洋の古典の一つでもある、オペラを主題にしたことを書きたいと思ったのだが、それを取り上げるはなから言うのもどうかとは思うが、現在のヨーロッパでのオペラは、その古典の精神である音楽そのものには、さらなる洗練さが求められるとしても、歌手オーケストラともにまずは申し分なく異存はないのだが、その舞台表現においては、その歌芝居が作られた当時の、意図された時代のものとしての伝統を受け継ぐのではなく、自分たちが生きている今の時代へと、置き換えているものが多くみられるようになっていて、そのことについて、一言書きたくなったのだが。
 取り上げたいのは、2週間ほど前にNHK・BSの”オペラ・アワー”で放映されたオペラについてである。
 この時の、番組の時間枠は4時間余りあり、前半の多くの時間は、あの有名なヴェルディの「マクベス」に充てられていた。
 何と言っても、キャストがものすごい。マクベスを今年77歳(!)になるというプラシド・ドミンゴがつとめ、相手役のマクベス夫人はアンナ・ネトレプコで他にも次代の歌手たちがそろい、オーケストラはベルリン歌劇場管弦楽団に、指揮がダニエル・バレンボイムという、一昔前の超弩級(ちょうどきゅう)の組み合わせでそれだけでも一見の価値があったのだが。
 そして、番組の始めでそのさわりのところが紹介されていて、それを見た時にもう私の見たい「マクベス」ではないと思ってしまった。
 本来、シェイクスピアが書いた脚本の舞台は、中世のスコットランドだったはずなのに、やはりここでも現代劇化されていて、その舞台上には、第二次世界大戦のナチスの時代をイメージさせる軍服姿が並んでいたのだ。

 いつも最近の、現代劇化されたヨーロッパのオペラを見る時に思うのだが、どうしてこうまでして現代の人々に迎合(げいごう)してまで、舞台を作り変えて上演しなければならないのだろうかと思う。 
 それは、オペラ離れが進む今の時代に、若い人たちに来てもらうための、営業的な打開策なのか、それとも演出家・スタッフ・出演者を含めた演じる側が、そうしたほうが芸術的に優れていると思うからなのか。

 それに対して思ってしまうのは、わが国の伝統を受け継いで上演されている古典芸能である、歌舞伎、文楽、能・狂言などの世界である。 
 もちろん、その成立当初の姿からは、様々な面で変わってはいるのだろうが、おおもとになるその演目の時代設定や、舞台背景は時代を受け継いで、変わらないように守り続けられているようだし、役者たちの”かた”によって、多少の個性的な違いはあるのだろうが、伝統芸として大きく逸脱するものではないということだ。
 確かに故中村勘三郎などが演目の所々に、現代を思わせる遊びを入れて今の時代の観客たちを喜ばせたものだったが、(あの勘三郎という不世出の才能を失ったことが現代歌舞伎界にとっていかに大きな損失だったことか)、それは古典芸能である歌舞伎というものの、基本的な枠組みを超えるものではなかったし、いずれにせよ、オペラの舞台が現代劇化されるというような、劇的な変化を求めるものではなかったと思うのだが。

 確かに、オペラは”歌芝居”であり、歌手たちのアリアやデュエットにコーラスなどの歌の部分が変わるわけではなく、舞台や衣装だけが変わるだけなのだから、そのうえ現代劇化することにより、今生きる人により理解されやすくなるだろうからと考えてのことなのだろうが。
 しかし、芝居を見ることとは違うけれど、例えば私は、ギリシア神話やギリシア悲劇の物語などを読むときに、頭の中に浮かべるのは、当時の陶器などに描かれているギリシアの人々の姿であり、何も現代のギリシア人たちの姿を思い浮かべているわけではない。
 
 ちなみに、私は若いころヨーロッパを3か月にわたって歩き回ったことがあるのだが、その時に私が感じたのは、確かにヨーロッパは大きな一つのくくりの中にあるけれども、北欧のノルディックや中欧のゲルマン、ケルト系の人種から、南欧と呼ばれるラテン系のイタリア、スペイン、ギリシアまでには明らかな人種の違いがあり、さらにはそこに東欧のスラブ系の人たちが加わるのだから、ヨーロッパは一つでありながら、まとまりのない人種のモザイク模様からなっていて、それは都市国家的に永遠に独立する部分があって、完全にまじりあい一つの色になることなどありえないと思ったのだが。
 人類は、アフリカを起源として世界中に広がり、それぞれに独自の言語と文化をを創り出して、自分たちの地域を作り上げていったのだろうが、それらの人々が、将来は一つに還元されて、もとの一つの形にまとまっていくなどということがありうるのだろうか。

 話がそれていってしまい、門外漢(もんがいかん)の私にとっては難しすぎる、人類の将来の話にまで及んでしまったのだが、ここでもう一度オペラの話に戻ろう。 
 その日、私はNHK・BSでの”オペラ・アワー”で放送された、メインのヴェルディの「マクベス」は見ないで、その残りの時間に合わせて組み込まれたような、もう一つのオペラ、パーセルの「ミランダ」の方を見た。 
 それは何より、演奏するのが古楽器演奏団体の”ピグマリオン”だったからでもある。
 最近ではすっかり、ルネッサンス・バロックの音楽だけを聴いている私には、おあつらえ向きのオペラだったからでもある。
 まず、ヘンリー・パーセル(1659~1695)については、そのアンセムと呼ばれる英国国教会のための宗教音楽や、いくつかの器楽演奏曲などをCDで聴いていたのだが、パーセルのオペラと言えばあのローマ時代の物語に題材をとった「ディドとエアネス」を知っているだけで、「ミランダ」というオペラがあることも知らなかったのだ。
 それもそのはずで、このオペラは、現代の構成作家が作った新作オペラということであった。

 つまり、あの有名なシェイクスピアの戯曲「テンペスト(あらし)」のその後の話を、構成作家がオペラ仕立てにして書き上げ、そこにバロック時代のイギリスの名作曲家である、パーセルの音楽を当てはめて作ったオペラだということだったのだ。
 話は、「テンペスト」のあらすじにまでさかのぼるが、ナポリ国王とミラノ大公らが乗っていた船が嵐にあい難破して、流れ着いた島には、昔、自分の弟の現ミラノ大公やナポリ王にはかられてその地位を追われた、プロスペローとその娘のミランダが住んでいて、復讐の念に燃えて魔法と学問を研究していたのだが、そこに流れ着いたのが国王と大公であり、彼らはプロスペローの復讐の矢面に立たされるが、そんな中で皇太子と娘のミランダが恋仲になってしまい、プロスペローはすべてを許して一行はナポリへと戻って行くのだが、ひとり残った彼は、舞台の幕が下りた後、観客に向かって、”されば私もそのお心にてこの身の自由を”と話しかけるのだった。
 そこで、その話の後日譚(ごじつたん)として、このオペラ「ミランダ」が書かれているのだが、もちろん時代は現代に置き換えられていて、ここでは主役になったミランダが,船の遭難事故にあって亡くなり、その葬儀が教会で行われている中、黒いマスクに白いドレスの花嫁衣裳姿で現れた(実は生きていた)ミランダが、父親に拳銃を向けて(写真上)、自分は我慢していたけれど、長い間、父親に絶対服従させられてつらい目にあってきたが、もうあなたのもとから離れて一人立ちしていくからという、現代劇によくある自立もののドラマになっていて、父親はそれを聞いて、私は死に行くだけだとつぶやいて、幕は閉じ、シェイクスピアの「テンペスト」のハッピーエンドとは違う、暗いラストになっていた。

 つまり、バロック時代の音楽を使っての現代劇オペラになっていたのだ。 
 私には聞きなれた、バロック時代の音楽であり、違和感なく聞くことができたし、最後の方でミランダが歌うアリア「あなたは男の偉大な力によって」が素晴らしかったし(別のCDでも聴いたことがあるような)、さらに言えば教会内が舞台ということもあって、天井の高さをいかしたその簡素な舞台設備が、静寂な空間を作り出していた。
 あのハマースホイの絵(2008年11月8日の項参照)に出てくるような、絵画的静寂感を再認識させられたのだ。
 教会音楽やオペラなどで伝えられる、響きの広がりと、静寂の存在感。 

 日本の舞台が横に広がり、高さ奥行の空間としては広がらない、その空間認識の違いは、逆に物語の進行を二極化してしつらえるには、必要不可欠のものなのだが。
 歌舞伎などの日本古典芸能の、時代を超えて受け継がれていく伝統は、セリフの”間”に込められた互いの阿吽(あうん)の呼吸のうちにあり、そこに、変わることなき人間の真実の想いが語り伝えられていくのだろう。

 いつも何ごとにも、それぞれに良いところと悪いところがあるものなのだ。
 ものごとの価値は、そこに見えるものだけにあるのではないし。

 暖かい日も終わり、冷え込んできた。三日後の天気予報には、雪のマークもついている。 
 さて今夜は、いつもの慣例でもあるが、バッハの「クリスマス・オラトリオ」を聴くことにしよう。

(参照文献:『夏の夜の夢・あらし』シェイクスピア 福田恆存訳 新潮文庫、作曲家レコード・コレクション2001 音楽之友社)


六道の沙汰

2018-12-17 22:19:48 | Weblog




 12月17日

 寒い日が続いて、時折日差しの暖かい日があり、再び寒い日が続く。
 こうして、冬の日々は黙々と歩みを進めていく。
 そうした月日の過ぎゆく中で、われわれ生きとし生けるものは、その大きなくくりの自然の中で、生かされ生きてゆくだけである。
 いつの時代にも、清濁併せ呑む(せいだくあわせのむ)この世の動きの中で生きてゆくしかないのだ、命ある限り・・・。

 今回も前回、前々回と同じく、少しずつ取り上げてきた『平家物語』についてであるが、おそらくはそのすべてについて書いていけば、あの『万葉集』と同じく、取り上げるべき項目が数限りなく増えてゆき、とても私の命の続く間に書き終えることはできないだろう。
 それでも今回、この一つだけは外せないと取り上げることにしたのだが。
 この『平家物語』は、時代を追って巻ごとに、平家の栄枯盛衰を描いているのだが、最後の第十二巻の末尾の章”六代被斬(ろくだいきられ)”では、平家の嫡流(ちゃくりゅう)である維盛(これもり)の子、六代(ろくだい)が、ついに鎌倉に近い田越河(たごしがわ)で処刑されて、”それよりしてこそ平家の子孫はながくたえにけれ”、となるわけであるが、それに続く別巻として設けてあるのが、以下について書く「平家灌頂(かんじょう)巻」であり、やはりこの巻があってこそ、鎮魂歌としての『平家物語』の意味があるのだろうと思う。

 あの源平最後の合戦である壇之浦(だんのうら)の戦いで、もはやこれまでと悟った二位殿(亡き清盛の妻時子)は、八歳の孫である安徳天皇を抱きかかえて海に入水し、さらにその後を追って建礼門院(けんれいもんいん、高倉天皇の中宮であり清盛の娘徳子)も続いたのだが、海の中でもがく中、源氏の船に引き上げられて一命をとりとめることになった。
 そのまま京都に連れ戻され、東山のわび住まいをする中で出家した後、周りの人々の差配もあって、京都を離れた大原の寂光院(じゃっこういん)に移り、そこに作られた庵室で、わが子安徳天皇や平家の人々の菩提(ぼだい)をとむらい、念仏の余生を送っていた。

 この『平家物語』最後の巻が「平家灌頂巻」と名付けられているのは、本来”灌頂(かんじょう)”とは”香水を頭上にそそぐ”ことであり、仏教用語で弟子が師から法を受けるときの儀式を意味しているとのことであるが、作者がこの『平家物語』の締めくくりとして、この別巻を付け加えたことには、平家盛衰史としての物語だけではなく、そもそも、この物語の初めに掲げた有名な一節、”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”と呼応する形で書かれていて、この世の無常観が大きな主題であることを、改めて意識させるためだったとも思えるのだが。

 都を離れた大原の里、その寂光院の庵室で念仏をあげながら、日々質素な生活を送っているる建礼門院のもとに、話を伝え聞いた後白河法皇がお忍びの御幸(ごこう)で大原を訪れる。
 建礼門院徳子にとって、後白河法皇は自分が嫁いだ高倉天皇の父親であり、二人は舅(しゅうと)と息子の嫁という間柄であり、なおかつ最後の平家追討の院宣を下したのも、他ならぬこの後白河法皇である。
 その後白河法皇が、出かけているという建礼門院の帰りを待っていると、山の方から、濃い墨(すみ)染めの衣を着た尼が二人、崖路を伝って下りてくる。
 やがて、その女院も法皇一行に気づいて足を止めた。
 見つめ合う、法皇と女院・・・二人の眼に涙があふれてくる。

 女院は、落ちぶれたわが身をさらすことをためらいながらも、涙ながらに法皇と対面し、これまでの自分の栄枯盛衰の体験を六道の沙汰(ろくどうのさた)になぞらえて語った。
 法王は、天人五衰(てんにんごすい、三島由紀夫『豊饒の海』の第四巻)の悲しみは、人間誰にでもある悲しみであり、人間は六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅(しゅら)、人間、天道の六道)の輪廻(りんね)の中で無限に生き続けるほかはないのに、ひとときの間にそれを経験したのはありがたいことでもあるのだからと、この女院を慰めるのだ。

 やがて、寂光院の鐘が日暮れの時を告げ、名残り尽きない二人は涙をおさえて別れを告げ、女院はその法皇一行をいつまでも見送っていた。
 しばらくたって、女院は病床に伏し、ともに暮らす局(つぼね)と内侍(ないし)の二人の女房に看取られながら息を引き取った。
 建久二年(1191)如月(きさらぎ)中旬のことである。

 (以上、日本古典文学大系『平家物語』高木市之助、小沢正夫他校注 岩波書店、『平家物語』角川書店編)

 ・・・と、『平家物語』には書いてあるが、彼女が生まれたのは久寿二年(1155)とされているから、17歳で高倉天皇の中宮になり、壇ノ浦の入水の時が30歳であり、翌年大原の寂光院に隠棲(いんせい)することになり、それから数年後の36歳の時にこの世を去ったことになる(最近ではその22年後の1213年に亡くなったのではないかという説が有力とのことである)。
 ともかく、わずか30年ほどの間に、極端な栄枯盛衰の時々を味わった、彼女の人生こそ、まさに波乱万丈の一生だったと言うにふさわしいだろう。
 
 前回も書いたように、私はこの『平家物語』が、当時の琵琶法師(びわほうし)の語りによって、広く日本人全体に親しまれては浸透していき、後年言われるような日本人の特質の一つである、”義”と”情”に従いがちな性向をはぐくみ、普遍化させていったのではないのかと思っているのだが、さらにそれを支えてきた感情が、もののあわれに対する想いであり、大きな四季の変化がある日本の中で、常に変わりゆくものの姿を見てきた日本人の、誰でもが持つ、か弱き者に対する同情の想いではなかったのだろうか・・・。
 今回取り上げた、この『平家物語』の「平家灌頂巻」こそ、つまり栄華を極めた建礼門院の落ちぶれ零落(れいらく)した姿こそ、昔を知る後鳥羽上皇が抱く思いと、同じ目線で今の私たちが見る思いであり、その憐れみと哀しみこそが、この場面に如実に表れていると思うのだが。
 特に、山道を戻って下りてくる、粗末な墨染め衣姿の建礼門院と、豪華な法衣をまとった後白河法皇の互いの視線が合い、そこに流れる沈黙の時間のひととき、かすかに風の音がして遠くに鳥の声が聞こえてくる・・・。
 そんな、映画の一シーンになるような情景・・・。

 話しは変わるが、先週のいつもの「ポツンと一軒家」(テレビ朝日系列)でのことだが、今回は福島県の山奥にある一軒家に二人で住んでいる高齢者夫婦の話であり、夫は87歳で妻は83歳にもなるという。
 そのおばあさんが言うには、19歳の時にこの家に嫁に来たが、米を作っていた兼業農家だったから、食いっぱぐれることはないと思っていたと、あっけらかんに笑っていた。 
 確かに、山の中でも6反(6たん、約1800坪)もの田んぼがあってというのは、兼業農家としては十分なほうであり、夫は農家仕事の合間に林業作業にも出ていたというから、それほど苦しい家計ではなかっただろうが、よそから嫁に来ればどこの農家の嫁でも同じことで、大変なことに変わりはなかったのだろうが、その明るいおばあさんは、今ではひざが悪くてあまり歩けないと言っていた。 
 それにもまして、87歳の夫の元気なこと、腰は少し曲がってはいるが、山道をすたすた歩き、いまだに現役で林業作業に精を出していた。(下にはいている雨具のズボンはあちこちガムテープで補強しつくろってあった、私もそうだが。)
 そして、取材陣の目の前で、ちょうど仕事の途中だったという間伐(かんばつ)作業を見せてくれた。
 裏山の手入れされたヒノキ林の中で、チェーンソーで20㎝くらいの木を切り倒し、その木が他の木の枝に引っ掛かってしまい、いつものことだからと慣れた手つきで、上のほうにロープをひっかけては引き倒していたが、このおやじさんよりははるかに若い私が、北海道の家の林で同じことをやっていて(もっとも木の大きさが違うが)、ともかく弱音をあげて、もう年だと言っている場合ではないとさえ思った。 
 マキ割りの時も腰の入った斧の振り下ろし方で、とても90歳近いおじいさんとは思えなかった。
 私があの年になった時に、はたして同じことができるだろうかと思うが、というよりはあの年まで生きることができるかどうかのほうが問題なのだが。
 こうして、まだまだ私が励まされることの多い、田舎暮らし山暮らしの人たちがいて、ありがたい人生の先達(せんだつ)たちがいるということだ。 
 そして、二人は言っていた、下の町に降りてマッチ箱のような家に住むくらいなら、ここにいたほうがいい、なんたってのんきでいいし、車も走っていないから安心して歩けるし、どちらかが、倒れるまで、ここで暮らすつもりだと。
 
 さらにこの番組の前にあった別の番組でも、移住者の田舎暮らしの特集をやっていて、少しばかり見たのだが、都会から移り住んできた若者たち20人ほどが、自分たちだけの集落を作っていて、これは、なかなか将来に向かって楽しみなことだし、あの昔のカリフォルニア一帯で広がったフラワー・チルドレンのことを思い出すのだが、ともかく新しい田舎志向の生き方だと思って見ていたのだが、この番組の時もそうだったし、この後の「ポツンと一軒家」でもそうだったのが、毎回こうした番組を見ていて思うことだが、録画ビデオを見た後での、スタジオ出演者たちのどうでもいいようなコメント話には違和感を憶えてしまうのだ。
 早く言えば、その番組をスタジオで見て、何の興味もなく茶々を入れているだけのタレントたちについてだ。
 テレビに出るだけで、普通のサラリーマンがとてももらえないようなギャラをもらい、豊かで便利な都会生活を送っている人たちの場違いな発言に、本当にこんな暮らしに興味があるから出演しているのだろうかと思ってしまう。
 スタジオで収録番組に出演している都会に住む芸能人たちと、現実に不便な田舎暮らしをしている人たちとの間の、大きな意識の乖離(かいり)。
 まあ、どこでもどの時代にも、そうしたことはよくあることなのだが。
 ともかく、テレビ局側の制作スタッフが(ナレーターを含めて)真摯(しんし)な態度で臨んでいるから、視聴者の私たちにも両者の気持ちが伝わってきて、時にはあたたかい気持ちになり、時には感動するほどだから、この番組を楽しみにしているのだが・・・この番組を録画する時には、現地ロケの所だけで十分だから、スタジオ出演者の部分はカットしたいくらいだ。

 上の写真は、赤い実をつけているセンリョウなのだが、植えたわけでもないのに、今では庭のあちこちから芽を出して、それぞれに少しずつ大きくなってきている。
 これからは、今のトゲのあるピラカンサよりは、このセンリョウで生垣を作ってみたいと思うほどだ。
 ところで、この赤い実をつけたセンリョウの絵をどこかで見たことがあるのだが、日本画なのは確かだが誰の絵だったのか・・・。 

祇園社

2018-12-10 22:16:39 | Weblog




 12月10日

 数日ほど前、九州各地では、25℃を超える夏日になったところが多くあり、その中でも大分県国東市(くにさきし)国見では27℃を記録したというが、山の中にあるわが家でも、とても12月の気温とは思えない22℃近くまで上がっていた。
 それが、わずか数日ほどたった一昨日から昨日今日と、打って変わっての陰鬱(いんうつ)な空模様になり、雪がちらつき、気温は-3度まで下がり、一気に真冬へと季節が進んだのだ。
 そして、北海道十勝地方の陸別では、昨日今日とダイヤモンド・ダストが見られるほどに、気温が-23℃まで下がったとのことで、数日前の九州は国東での最高気温と比べると、日本列島内で、何と50度を超える寒暖差となったのだ。

 もし私が九州の国東に住んでいて、北海道の陸別に行ったとしたら、もう負け犬がおびえたような眼をして、しっぽを股の間に引き込んで、キャイーンキャイーンと哀しい声をあげることだろう。
 雪に覆われた山々を見る楽しみはあるが。 
 南北に長い日本だから、そこに寒暖の差があるのは当然にせよ、この数日の気候の変わり方には、この後に来るかもしれない、何か大きな変化の予兆ではないのかとも思ってしまうのだ。

「ヨハネの黙示録」

 ”イエス・キリストの黙示”である。
 誤った道を歩む教会や人々に、神の御使いがいましめの言葉を与える。
 神の御座にある巻物には七つの封印があって、その封印を解くことができるのは、白い子羊だけであった。
 そして、その封印の一つ一つが解かれていくたびに、戦争や飢饉(ききん)が起きて、さらには地震と天災も続く。
 次に七人の天使たちが現れて、それぞれにラッパを吹き鳴らすと、さらに大きな天変地異(てんぺんちい)が起きて、地球上に幾つもの災難が降りかかり、歓楽の都バビロンも崩れ落ちてしまう。
 さらには、神の怒りに満ちた七つの鉢(はち)を、七人の天使が受け取り、空に傾けると、地球上に様々な疫病や災いが起きて、地球上の島や山々も消え果てしまう。
 そしてすべてが収まった後、キリストの再降臨があり、生き残った人々は、神を賛美するのだ。

(以上『聖書』の中にある「ヨハネの黙示録」よるが、Wikipediaも併せて参照)

 そこで思い出すのは、二つの映画。
 『第七の封印』 イングマール・ベルイマン監督 1957年のスウェーデン映画 聖書の「ヨハネの黙示録」での話をもとに、舞台を中世の十字軍時代の北欧に移して、人間の生と死の根源的問題を、初期のキリスト教と原始宗教との対立としてもとらえ、幻想的な風景の中で描き上げた、まさに映画史的に記念碑的な一本であり、最近は、もう十数年以上も新しい映画を見ていないから、あくまでも昔の映画の中からという但し書きはつくとして、ともかく私の好きな映画の中でも、昔から変わらずにベスト5の一本であり続けた映画である。
 もう一本は、『地獄の黙示録』 フランシス・フォード・コッポラ監督 1980年アメリカ映画(2001年同監督編集による完全版公開) 同じく聖書の「ヨハネの黙示録」を、その戦争状況の底辺に暗示させて、ベトナム戦争時の戦地のただなかにあるアメリカ兵たちの追い詰められた状況を、現実的な生と死の問題として取り上げた名作であり、ヘリコプター部隊が編成を組んで飛んでいくときに背景に流された、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』の序夜に続く第一日の上演「ワルキューレ」、その中で演奏される「ワルキューレの騎行」の音楽が、今でも頭の中に響いてくる。
 さらに言えば、全編を通じて、いかにもアメリカ的な、人間のひたむきさと猥雑(わいざつ)さとやり切れない悲哀とを感じさせてくれたこの映画は、同じアメリカの作家、ノーマン・メイラーが書いた小説『裸者と死者』の世界を思い起こさせるものだった。

 最近の、グラフィック・コンピューターで作画された冒険アクション映画や、アニメの世界として作られた映画に、さらには、ありもしない異次元世界に入り込む映画などなど、現実感のない世界を見せつけられるだけの映画を、私は見たいとは思わない。 
 それまでの映画が、現実的な倫理観と哲学的な思想と芸術性にあふれていた時代、つまり映画の全盛期と言われる時代に、青春期、成人期を送ることができた私たちは幸せだったのかもしれない。 
 これからも、新しい映画は見ないとしても、決して後悔することはないだろう。
 今では、ただひとり、思い出の映画の大海の中、金波銀波と輝ききらめく、映画の一本一本を思い返し、気が向けば録画したDVDやブルーレイディスクをひとり見ては楽しむこともできるのだ。
 ゆらゆらと、それらの映画の思い出の波の中に漂っているだけでも、十分なのだから。
 ああ、淀川長治先生、萩昌弘先生、若いころにいろいろといいお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。

 にぎやかな所があまり好きではない私には、ひとりで見る映画やひとりで読む古典・小説、ひとりで聞くクラッシク音楽にひとりで登る山などは、まさに自分にはうってつけの趣味なのかもしれない。
 そうした人間だから、行列のできる店に長時間並んで、やっとのことで評判の料理を食べるくらいなら、家で”うまかっちゃん”のインスタント・ラーメンに、ワカメと卵にネギでも入れて、自分で作って食べたほうがましだと思う。
 以上、総額約150円也、とじじいはひとりほくそ笑んでいるのであります。

 さて先週の例のNHKの「日本人におなまえっ!」はさらに京都編が続き、銀閣寺の話ではかなり「ブラタモリ」とダブっていたし、これもまた同じ話になるところもあったのだが、あの祇園の八坂神社が昔は”祇園社”と呼ばれていて、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)神仏分離の影響で、仏教的な名前の祇園という名前を改めるようにとのお触れが出て、やむを得ず”八坂神社”と言う名前に変えたということだったのだが、そこで初めて私は気づいたのだ。
 前回あげた、「平家物語」の有名な冒頭のところ、”祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。”の一節では、今まで”祇園精舎”とは、それまで読んでいた本の解説にある通りに、その当時に釈迦と弟子たちが住んでいて信者たちも来ていた、お寺の名前からきているとのことだし、病気になった僧たちが死ぬときにひとりでに鐘が鳴ったという話から、その鐘の響きを意味しているものなのだろうが、私はもっと現実的に、当時の日本のこととして考えてみたいと思ったのだ。 
 つまり、単純に考えれば、平安時代の京都に住んでいた作者の信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)と思われる人物が、当時の祇園社と呼ばれていたころの鐘を聞いていたからではないのか、その鐘の音に平氏の全盛の時代を懐かしみ憐れんでいたからではないのかと。

 さらには沙羅の木の花が、釈迦が亡くなった時に色あせたと伝えられているが、当時日本では育たないとされていた沙羅の木であり、実は当時似た名前の木があって、それは”ナツツバキ”、つまり今にいう”ヒメシャラの木”だったともいわれていて、あのツバキの花が変色し落ちるさまは哀れなものであり(ツバキの花は、落首する如く落ちるので生け花には使われないほどであり)、この平家物語の作者はそういうツバキの花を見ていたからこそ、それを本当は知らない沙羅の木に見立てていたのではないのだろうかと。

 私が読んだ二種類の「平家物語」(岩波書店刊、角川書店刊)の解説には、この一節はいずれも釈迦が住んでいた所での話として書かれていたし、それが学説的には正しいのだろうが、ふと私は、作者が平氏全盛のころの祇園社を懐かしんで、そういう意味も含ませて、あの一節をはじめに持ってきたのではないのかと、これは何の根拠もない素人考えの妄想でしかないのだが。
 まあこうして間違った解釈をしたとしても、他に実害を与えないことが、まさに素人考えの自由気ままな所であり、そういうことがあったのかもしれないと自分で思っていればいいだけの話だ。

 もう一つの「ブラタモリ」の方は福井県の話だったが、あの有名な江戸時代の貿易港三国港の防波堤は、明治時代に外国人技師によって作られていて、それも海岸地形や堆積する砂のことを十分考えて設計されていたことを知って、初めて納得したし、私も母を連れて行ったことがあるのだが、東尋坊の柱状節理で形作られた一本の柱が、大きいものでは1m近くもあると知って、あの時はそのことに気づきもしなかったのだ。

 私の、長い人生の中で、今では様々な思い出が心の中に積み重なっているけれども、そうしたものとは別にまだまだ知識を蓄えられる場所があり、いつも思うのだが、幾つになっても、新しい世界を知ることができることは楽しいものだ。 
 そうした未知の知識に出会うことに喜びを感じること、そのいつまでも衰えない好奇心こそが、これまた人間の人間たるゆえんの一つではないのだろうか。

 今回は、前回に続いて「平家物語」にちなむ題名を考えて、そのことについて書いてみようと思っていたのだが、書いているうちに話がそれて行ってしまい、そのまま、キリスト教と仏教についての話をかいつまんで取り上げてみただけになってしまった。
 そのために、後で花の写真も差し替えることになってしまったのだが、始めに書いたように、この九州の山の中のわが家でも急に寒くなってきて、毎日-3度くらいまで冷え込んで日中も5℃まで位しか上がらないのだが、そんな中でサザンカの花が今を盛りと咲いているのだ。
 多くの花が春から秋までの暖かい季節に咲くというのに、サザンカやツバキの類は、何を好んで寒い冬に咲くのだろうかとも思うが、それは受粉のための虫たちを相手にするわけではなく、渡ってきた鳥のヒヨドリたちに受粉させてもらうために咲いているのだろうが。
 みんなそれぞれに、ゆえあって、工夫を凝らしながら生きているのだ。
 
 上の写真は、近くの家の生垣として植えられているものだが、白いサザンカの花は、上の「平家物語」のところで書いたように、白いナツツバキ、ヒメシャラの花を思い浮かべるように、同じツバキ科の花としてここに載せてみた。



 


日本人の心

2018-12-03 21:06:29 | Weblog




 12月3日

 雨が降っている。
 そのせいでもあるのだろうが、朝の気温も高く10℃くらいもある。
 冬の雪の日が好きな私だけれども、雪も降らないただ寒いだけの日よりは、確かにこうして暖かい日のほうがいい。
 室温16℃、灯油ストーヴをつけなくてもすむくらいの、ちょうど境目の温度だ。 
 その温度なら、北海道の家にいたころは、薪ストーヴに火をつけているところだが。 
 少し時間はかかるが、そのストーヴの燃える炎で、あの家全体が少しずつ暖かくなっていくのを感じることができるし、居心地のよさは、何と言っても薪ストーヴが一番だと思う。

 ただしあの家では、水が出なかった。 
 井戸が枯れて、もらい水に頼る毎日だったのだ。
 何という不自由さだったことだろう。 
 この九州の家に戻ってきて、まず何よりうれしかったことは、蛇口をひねると(わが家は、今様のプッシュハンドル式ではなく、相変わらず何十年来使っている、旧式の蛇口のままである)、ともかくそこから勢いよく水が流れ出てくれたことである。 
 そんなことがわかるのは、私以外に、つい最近やっと水が出るようになった、あの周防大島の人たちだけだろう。 
 テレビのニュース映像によると、山口県本土と橋で結ばれていた、その島の人たちの生活用水は、その橋にとりつけられた水道本管に頼っていたのだが、こともあろうに外国船籍の貨物船がその本管をひっかけて破断してしまい、おかげで島の人たちは修復工事が終わるまで一か月もの間、給水車に頼る生活を強いられて、その不便さを嘆く声にあふれていたのだ。

 私の北海道の家の場合、半年もの間であり、さらに来年はどうなるのかの見通しもたっていない。
 しかし、今から心配したところで、どうなるわけでもない。

 私がいない間に、水がこんこんと湧いてきて、そのそばに光に包まれた神様が立っていて、穏やかな声で私に問いかけるのだ。
 ”おまえが井戸に落としたのは、この金の斧(おの)かそれともこの銀の斧か、どちらの斧なのか”
 ”へいへい、神様お持ちしておりやした。なにね、わっちが落としたのはその、ひとりで家を建てて、苦労して井戸まで掘ったものですから、それが大変な仕事で、その途中で大切な金の斧も銀の斧も落としてしまいまして、その二本とも返していただけるとありがたいんですけど。”

 そこで、今まで柔和(にゅうわ)な顔をしていた神様の顔色が急に変わり、怒髪(どはつ)天を衝(つ)く勢いで怒りはじめたのだ。 
 ”なにゆうてんねん、ようそんなアホなこと思いつくわ。うそつきはドロボウの始まりやで、そんな人間は、天国には入られへんで、ほな出てゆけー。” 
 そこで、おなじみのバックグラウンド・ミュージックが流れる。
 ”天国いいとこ、一度はおいでよ。酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ。”ホンワカホンワカ、ホンワカワー。”(フォーククルセイダーズ「帰ってきた酔っ払い」より)

 とか言って、夢で見ていればいいことで、来年北海道に戻ってそこで考えればいいことだ。 
 今は、この九州の家で、蛇口をひねればすぐに水が出る豊かな暮らしを、心嬉しく味わっていればいいのだ。
 何と言っても、炊事洗い物が楽だし、去年取り付けたばかりのシャワートイレは使えるし、毎日好きな風呂には入れるし、その残り湯で晴れてさえいれば毎日洗濯できるし。
 ”水のある暮らし”はいいものだ。ただでさえ小汚いじいさんの生活は、水の潤いのおかげで、いくらかは人並みになるし、外見はといえば、それだけはあきまへんなー、タヌキじじいのままで。” 
 などと、あまり面白くもない、ひとりの”のりつっこみ”を楽しんでいるのですが。

 さて、九州の家に戻ってきて、そんな具合にもう、水の心配がなくなったので、北海道にいたころにまして、グウタラな毎日を送っているわけなのだが、それだけにテレビや新聞などの一行一句の言葉が気になってくるのだ。
 相変わらず「ブラタモリ」「日本人のおなまえっ!」「ポツンと一軒家」などを見て楽しんでいるのだが、今回は「日本人のおなまえっ!」についてだが、先々週は、京都清水寺周辺の名前が取り上げられていて、そのしばらく前の「ブラタモリ」で同じ清水寺が取り上げられていたから、重複して同じテーマになってしまうのではと心配したのだが、もちろんそれは余計な取り越し苦労というものであり、NHK同一局内の制作ということもあってか、テーマの切り口が異なっていて、なるほどと思えるように、全くの違う視点で作り上げられた番組になっていた。
 さらに先週、その”京都編”の二回目で、お菓子の名前に始まって、京都の昔の貴族公家たちの名前や、茶道や生け花の家元の名前についてまで納得のいく説明がされていて、実に興味深かった。
 
 前にも少し書いたことがあるが、私の父は京都の出であり、いまだにお墓が東山にあり、たまには墓参りに行くくらいだから、京都についてはまんざら知らないわけでもないし、それだけに余計に興味を引いたのだが。
 中でも貴族公家たちの名前が、天皇や法皇から下賜(かし)された名前などは別にして、多くは自分の家がある通りの名前や、そばにある神社仏閣の名前をそのまま付けていたということであり、例えば、一条、三条、四条、九条などに姉小路、武者小路、油小路などもあり、さらにはお寺の名前から西園寺、徳大寺、花山院、冷泉院などもあって、枚挙にいとまがないほどである。
 つまり、”日本人のお名前”は、上位の人から下賜され名付けてもらったもの以外は、多くは自分たちが住む所のそのわかりやすい地域の名前に従って、そのままに付けたことのようであり、その通則は貴族公家たちの場合も同じことだったのだ。
 要するに、山田、山下とか川田、川上とか、あるいは田中、鈴木など、自分たちの住む地域につけられた地名を取って、そのまま自分の名前にしたものが多いということだ、
 例えばこれも有名な話だが、鹿児島南部、薩摩半島の鰻(うなぎ)池のそばにある集落は、ほとんどが鰻という姓の人ばかりで、全国でもそこだけにしかないという珍しい姓でもあるのだが。
 さらに、日本には世帯ごとの戸籍制度が整えられているから、その戸籍をさかのぼって行けば、少なくとも明治時代、いやその前の江戸時代くらいまでは遡(さかのぼ)っていくことができるのだろうが。

 もっとも、現代に生きる私たちの時代なんて、人類創世の時代から見れば、ほんのひと時の刹那(せつな)の時間にしかならないだろうし、その間に様々な人間が混交しているわけであり、自分の祖先はと考えたところで科学的に言えば、時代を遡(さかのぼ)ればのぼるほど、それはもう漠然としたつながりがあるだけのことなのかもしれない。
 つまり、今生きている自分の足元だけをしっかり見ることのほうが、確たる実体のない数百年前以上の祖先探しをするよりは、よほど大切なことなのかもしれないのだが。

 しかし、思えば人間の血筋がどうのこうのという問題よりは、むしろ本来は実体のない人間の気質性向などのほうが、よほど日本人としての血筋を納得させる事柄なのかもしれない。
 それは最近、あの有名な日本の古典文学『平家物語』を、またあらためて読み返してみて感じたことでもある。
 この『平家物語』は、あの『徒然草(つれづれぐさ)』の中で作者の吉田兼好が書いているように、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)を中心とする集団によって書かれ(口伝文学としてたびたび書き改められ)たとされていて、鎌倉時代に成立したとされるが、日本最大の軍記歴史物語でありながらも、多様な人々の哀感を描いた優れた物語文学にもなっているのだ。
 それは、あの宮廷での恋愛模様を描いた『源氏物語』とともに、日本の誇るべき二大古典物語文学の一つでもあるのだが、おそらくは日本人ならば誰でもその中の物語の一つ二つは聞いたことがあるだろうし、日本人の心の中のきわめて深いところでつながっていて影響を与え続けてきた物語であると、今さらながらに思う。
 
 言うまでもないことだが、この物語は、保元の乱、平治の乱を収束させて、頂点に上り詰めた清盛を中心とする平氏一族の、その後の滅亡に向かって進みゆくさまが、様々な挿話を入れながら描かれている。 
 誰もが知っていて涙せずにはいられない、あの”祇王(ぎおう)と仏御前(ほとけごぜん)”の物語や、”平敦盛(あつもり)の笛”における熊谷直実(くまがいなおざね)の話から、その勇猛果敢さに思わず身を乗り出す、”宇治川先陣争い”や”那須与一の神業(かみわざ)の一矢”などなど、その中からとられた演目だけで、能や歌舞伎の芝居が成り立つほどに数多くあるのだ。 
 そして、今回読み直してもまた感じたことだが、この『平家物語』については、確かに言われているように、いわゆる”無常観”をその底辺にたたえながら、没落する平安貴族たちと新興してきた武士階級やそれらを取り巻く人々について、仏教や儒教思想の観点から眺めては、時に熱く時には冷静に書き記しているのだ。

 思えば、今の時代はいざ知らず、平安時代から戦乱の長い時代を経て、江戸・明治・大正・昭和と、私たち日本人がたどってきた歴史の中に、この『平家物語』の精神性を、日本人の心の伝統として痛いほどに感じることができるのだ。 
 儒教思想的な”義”と仏教思想的な”報恩”の世界観。そして、”情”と”悲哀”が交錯する物語としての構成力。 
 それは、生仏(しょうぶつ)と呼ばれる盲目の琵琶法師の語りによって、平曲(へいきょく)として全国に広がり伝えられていったのだろうが、新聞・ラジオ・テレビ・インターネットのないはるか昔の時代、彼ら琵琶法師の弾き語りによる物語こそが、日本人の本質とも思われる”義”と”情”の土台となる気質を作り上げていったのではないのだろうか。
 その影響力たるや、他に大衆伝達手段としてのメディアがなかった時代、深く広く浸透していっては、日本人の気質性向の大元となるものを作っていったのではないのだろうか。 
 古墳時代から、平安時代までの日本人の想いが、あの国民的詩歌集『万葉集』によって伝えられているとすれば、鎌倉時代から昭和の初期に至るまでの日本人の想いを代表してきたものは、まさにこの『平家物語』であったのだとさえ言いたくなるのだ。
 そして、私たちが生まれた時代以降今日に至るまで、さらに将来に至るまでの思想的背景となるものは、混濁した現代の思想があふれる中で、見えてくるのは”アメリカ”という文字である。
 それがどこに向かうのか、もう私たち年寄り世代のあずかり知らぬところであり、ただ後は、若い君たちの世代が決めることではあるのだが。

 またまた何度も繰り返し、このブログに書くことになるのだが、どうしてもこの名調子の一節を書いておかずにはいられない。
 
 ”祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
 沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりををあらわす。
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
 たけき者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ。”

 (『平家物語』高木市之助、小沢正夫他校注 岩波書店)

 前回掲載した紅葉の写真は、散りゆくものの一枚だったのだが、今回は、私がこの九州の家に帰り着いたころ、その一本だけ残っていたモミジの木の写真だが、ちょうどその時、盛りを迎えるころだった。 
 緑の葉と黄色のにじみと真新しい赤色がともにあって、すべてが赤くなる前のこれからがまだあるという紅葉の鮮やかさ(写真上)・・・。
 美しきものは、これからそこへと向かうものたちにこそ強く表れてくるものであり、そこを通り過ぎてきた私たちには、今にして見えてくるものもあるのだが。