ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

幻のヤマザクラ

2017-04-24 23:22:45 | Weblog



 4月24日

 全く申し分のない、晴れた日が3日も続いた。 
 快晴の青空、日の光に照り輝く新緑の樹々、さわやかな風。
 この1週間ほどの間に、4回もの山歩きをした。
 そのすべてが、家から歩いて行ける所ばかりであるが、そのうちの一回は、いつもの裏山登山であり、往復4時間以上かかっているから、立派な登山と言えるのだけれども、あとの3回は、新緑を求めての、ハイキングであり、沢歩きであったのだが、今日行ってきたのは峠越えの山麓歩きなのだが、4時間半もかかって、かなり疲れたから、これも十分な山歩きだったと言えるだろう。
 昨日今日と、朝から快晴の空が広がっていて、とても家にじっとしてはいられなかったのだ。
 それも前から気になっていた、あのヤマザクラを探しに行こうと思ったのだ。

 数日前の、これまた快晴の日に、その日は少し風が強かったのだが、いつもの裏山に登って、咲いているアセビの花を楽しみながら下って行く途中、斜面のアセビの群落の向こう、杉林の尾根を挟んで遠くに、ヤマザクラがこれまた群れ集まって咲いているのが見えた。(写真上)
 それは、ずいぶん前から気づいてはいたのだが、この裏山の登山道からの道はなく、もし行くとすれば、クルマで反対側に大回りをして細い林道を行くしかないだろうしと、二の足を踏んでいたのだ。  
 そして今朝、2日続いた快晴の空を見て、よし行こうと思ったのだ。あのヤマザクラを見たのは数日前のことだし、明日は雨の予報だから、花が咲いているのを見られるのもこれが最後だろうし。

 いつもの裏山の登山口を出たのは、もう9時に近かった。
 数日前に見た時と比べて、このあたりのヤマザクラはもう散っていたが、クヌギ、コナラやヒメシャラなどの樹々はもうすべてに新芽が出ていた。
 杉林から、急斜面を登って台地に上がり、そこで登山道を外れて、大体の方向だけを決めて明るい林の中を歩いて行った。
 倒木は多いけれど、他に下草やササはなく、枯葉が積もっているだけで歩きやすい。鞍部の所から、植林地のヒノキ林の中をゆるやかに下って行く。
 間伐した跡が残っていて、あたりを見回しながらさらに下りて行くと、はっきりとした、古いブルドーザー道に出た。

 2万5千分の1の地図に載っている林道だ。
 通常に使われている林道ではないから、所々荒れていて、トラックや4駆のクルマでも苦労しそうだったが、歩いて行くのには問題はなかった。
 周りはヒノキや杉の植林地だが、よく手入れされていて、道との間には所々に新緑の広葉樹があって明るさをそえていた。 
 ゆるやかに登った後、今度は二度ほど大きくカーブを切ってゆるやかに下って行き、地図上に描かれている十字路に出た。
 そこを右に曲がりゆるやかに下って行くが、もうそこからは、1車線の狭い道だけれども、所々が舗装されている立派な林道になっていた。
 ただし、依然としてスギ・ヒノキの植林地が続いている。
 
 冒頭にあげた写真の杉林の向こう側になるはずだから、もうあのヤマザクラが見えてくるのかと思ったら、まだこちら側の斜面から向こう側の斜面まで、ずっと植林地の林が続いていて、とてもあの写真のヤマザクラがどこにあるのかはわからなかった。
 しかし、この二つの植林地の間は、沢水が流れる結構な谷になっていて、その谷沿いに新緑の広葉樹や一二本のヤマザクラが咲いていた。
 そして、この谷間にはシャガがいっぱいに茂っているところが多くあり、さぞや花が咲いた時にはきれいなことだろうと残念に思っていたのだが、その中に混じって、二つ三つ白い花が見える。何とうれしいことに、それはヤマシャクヤクの花だったのだ。(写真下)




 それまでは、なかなかあのヤマザクラが見える所にたどり着けずに、この道をたどってきたのは間違いだったのかと、半ば後悔しかけていたところだっただけに、うれしかった。
 このヤマシャクヤクに励まされるように、さらに植林地の間の林道を下って行ったが、一向に辺りはすっきりと展望が開けてはくれない。
 いつもの登山口から歩き始めて、もう2時間半近くになる。戻りにかかる時間を考えると、もう限度の時間だった。
 林道から支流の小さな沢に入り、ようやく杉林の向こうにすっきりと見晴らすことのできる所を見つけて、そこで腰を下ろして休んだ。
 あの写真のヤマザクラの所へは、行き着くことができなかったけれども、こうしていかにも日本の山らしい、新緑に輝く山の斜面を見ているだけでも、私は十分に幸せな気分になった。(写真下) 

 


 行きにゆるやかに下ってきただけに、帰りはゆるやかな上り坂でもつらく感じてしまう。
 ただ励みになるのは、あのヤマシャクヤクの花にまた会えたことと、時々、植林地の木々の間からヤマザクラが見えることだった。
(あの時のヤマザクラとは違うにしても、こうして望遠レンズで撮ると、なかなかいい感じに撮れている。写真下)

 遠くで、ツツドリの声が聞こえていた。
 カッコウと比べて、少し早めになく鳥だが、それでも初夏が近いことを思わせた。
 こんな古い林道歩きでは、車はおろか、人に会うこともなかった。
 
 そこで、あの『新古今和歌集』(鎌倉時代)にある法印幸青(ほういんこうせい、法印つまり僧正)の歌を思い出した。

 「世を厭(いと)ふ 吉野の奥の 呼子鳥(よぶこどり) 深き心の 程や知るらむ」

(『古典名歌集』”新古今和歌集”1475 窪田空穂編 河出書房)

 これも、私なりに訳すれば、”世の中が嫌になり、吉野の奥山に引きこもり住んでいる私に、呼子鳥(カッコー)の声が聞こえてくる、私の本当の心のうちを知っているのだろうか”、となるのだが。

 もともと、藤原定家に代表されるような、『新古今和歌集』の”幽玄余情”などの世界観は、奈良時代の『万葉集』や平安時代の『古今和歌集』などと比べると、技巧的だと批判されることが多く、この歌も、そうした”自分に酔っているような表面的な表現の歌にすぎない”と評されることが多いようだが。
 誰でも、それぞれに人に対して物に対して好き嫌いがあるように、この歌も、例えとしては的確ではないが、昔風に言えば”デカダンス(退廃的)”を装ったあの太宰治を三島由紀夫が嫌ったように、”自分だけが深く考えている”のにと、歌に託して言う作者のこれ見よがしな態度が我慢できないのだろうが。

 しかし、この歌を単純に受け取るだけの能力しかない私は、その言葉をそのままに理解しては、”世を厭う 吉野の奥の”のくだりで、もう、ただ静かな人もいないヤマザクラをひとり見るにつけてと、さらに呼子鳥(カッコー)の声を聞いては、山の旅愁にひと時ひたってしまうのだ。
 ”その人の心のうちは、その人にしかわからないものだ”と言ってしまえば、物事はすべて解決されずにそこでおしまいになってしまうが、それでも私は、誰に見せるでもなく、自分が自分の内なる心にあてて、一首を詠まれずにはいられなかったような歌もあるものだと思っている。

 (なお”呼子鳥”については、カッコーだというのが定説だが、他にもヒヨドリとかウグイスとかホトトギスさらにはツツドリではないかという説もあるようだが、その声と時期から私的に解釈してみれば、ヒヨドリはうるさすぎるし、ウグイスはウメの花のころからだし、ホトトギスは飛びながらはっきりと鳴きすぎるし、カッコーはもう少し遅くヤマザクラが終わったころで声も明るすぎるし、時期的に言えば、ヤマザクラの咲いているころに、今日聞いたように低く哀愁を帯びた声で鳴く、ツツドリこそがふさわしいのではないのかと思うのだが。) 

 そんなことなどを考えながら1時間かかって、ようやく先ほどの林道の十字路に戻ってきた。
 すでにかなり疲れていて、やれやれとここでも一休みするべく、倒木の上に腰を下ろしたが、さてこれからが問題だった。
 最初のうちは、整備された林道だったがすぐに荒れてきて、先にはクルマでは無理なブルドーザー道になった。
 しかし、このままブル道を下りて行けば、別な方向へ下って行ってしまう。
 地図を見て、さらに高度計の時計で高さを計測して、深い谷の対岸にある、行きにたどった登山道へ戻るべく、この谷を越えることにした。

 まずは、苔むす倒木帯を越えて河岸の高みに出ると、そこは、高さ20メートルほどの土の崖になっていた。
 どこから下りようかと、上流下流を見回して、木々の枝に捕まって下りれるような所はないかと探していたところ、この崖に斜めになって下りる細い踏み跡があるのを見つけた。たぶんシカの踏み跡道だろうが、ありがたくそれを利用させてもらい、倒木をくぐりまたいで谷の下まで降りた。
 今度は、同じく急な崖への登り返しだ。
 見回すと、60度以上の勾配がある崖が続く中、少し下った所に小さな尾根となってせり出している部分があって、そこには人の踏み跡もあり、何の問題もなく上へと登ることができた。
 後は、見覚えのある林の中を横切って、いつもの登山道に出た。

 往復4時間半ほどの、地図と高度計が頼りの山歩きで(方角は、天気の良い日は周りの地形や山の形で判断できるから、今回は一度も使わなかったが)、 道なき所を歩き抜けたりして、とてもいい歳をした”じじい”がやるべき山歩きではなかったが(逆に言えば、この年になってもまだ山への探検心があるのだということではあるが)、さらに”幻のヤマザクラ”になってはしまったが、ともかく快晴の空の下、ヤマザクラを求めての、いい山歩きの半日だったのだ。
 ありがとう、母さん、ミャオ。

 もういつも年なら、とっくに北海道の家に戻っていて、まだ雪に覆われた日高山脈を眺めながら、家の内外の片づけにに忙しい毎日を送っているころなのだが、しかし、今では北海道の家に戻ることが、それほどまでの愉(たの)しみではなくなってきたのだ。
 それは、なんといっても水に不自由し、風呂にも入れず、溜め置き式のトイレが外にあるということが、私の気持ちを引かせてしまうのだ。
 若いころには、それが少しも苦ではなく、むしろ野趣あふれる田舎暮らしだとさえ思っていたのに、年寄りになった今では、とても耐えがたく思われてきたのだ。
 だから今、私はここ九州にいて、まだぐずぐずとしているのだ。私の後半生に深くかかわってきた、あの大好きな北海道なのに・・・。


 


百花繚乱

2017-04-17 21:44:30 | Weblog



 4月17日

 暖かい天気の日が続いて、木々の花々がいっせいに咲き始め、わが家の庭はまさに”百花繚乱(ひゃっかりょうらん)”の季節を迎えたのだ。
 まず最初に、華やかな春の幕開けを伝えてくれた、ウメの花は今ではもう若葉の伸びる時期になっていて、次に暗い日陰の庭で明るく照り映えてくれた白いコブシの花も、まだ残ってはいるが、こちらも花の間からの若葉が目立つようになってきた。
 そして遅れていた、庭のヤマザクラは一週間ほど前にようやく花開き、この陽気の中で一気に満開を迎えて(写真上)、今日のこの雨であわただしくも散り始めている。
 そのヤマザクラの隣に咲いている、大きなツバキの木にも赤い花が点々と咲いていて、もうその幾つかが地面に落ちている。
 それでも、まだあたりに漂うあのジンチョウゲの香りの中で、わが家の庭では最大の見ものになっている、シャクナゲのあでやかな花びらが開き始めたのだ。
 そして、このシャクナゲこそは、その花が開いた時も当然に見栄えがするのだが、むしろ花弁の紅色がより鮮やかな、まだ花開く前のツボミのころの色が素晴らしく、全体的には三分咲きくらいの今ごろこそが、一番いい時期なのかもしれない。(写真下)



 さらには、他の樹々もようやく新緑の芽吹きが始まり、それぞれの枝先には初々しい小さな若葉をつけている。
 その小さな葉の色も様々で、すでに濃い緑のものから、薄緑さらには薄赤いものまでさまざまである。
 その中でも、カツラの木の若葉は、ずいぶん高くなった枝先を下のほうから見上げると、それは春の芽吹きの色と言われる、いわゆる黄緑の萌黄色(もえぎいろ)というよりは、それは光の加減もあったのだろうが、むしろ黄色に近い菜の花色の鮮やかさで見えていた。(写真下)




 今の時代には、こうした菜の花色とか萌黄色とかは、あまり使われなくなり、英語由来の色の名前か、あるいは、単純な赤黄青に黒白を加えたぐらいの色名しか使われていないようだが、できれば昔から使われていた色の名前をもっと使ってほしいとも思う。
 様々な化学合成による、あふれんばかりの色彩の混濁の中にいる現代の人々と比べれば、その昔、自然にある動植物などから名付けた、微妙な違いを持つ色は、日本人の豊かな感性ゆえの色名だとも思うのだが。

 例えば、単純に青といっても、浅葱(あさぎ)色から縹(はなだ)色、江戸紫に古代紫、葡萄(えび)色、蘇芳(すおう)色と紫に近づき、赤みが強くなってゆく赤色は、紅色、紅梅色、朱色とあり、それが黄色に近づいて黄はだ色に朽葉(くちば)色、山吹色や鬱金(うこん)色があり、緑色に近づいては、若菜色から萌黄色、さらには古代青などの色の呼び名があり、さらに着物を襲(かさ)ねて着ていた時代だからこそ、その襲着(かさねぎ)の色合いで、例えば、古代紫と古代青の組み合わせで、早蕨(さわらび)のころの季節感を表したものだとか、ともかく昔のものの本にはそうした色の組み合わせのことがいろいろと書かれていて、数少ない色味の着物のなかでも、十分に工夫され季節感を表そうとしていたことがよくわかる。

 そうして見てくると、今の時代は、まさに色があふれかえっている時代だけに、その色彩だけではなく、様々なデザインとの複雑な組み合わせが可能なだけに、今日のこの膨大な規模の、ファッション社会が成り立っているのかもしれない。
 もっとも思うのは、今も昔も若い人たちは、”ああでないと、こうでないと”という、自分の身を飾り身に着けるものの”コーディネイト”に腐心しているということなのだろう。年寄りの言うダジャレで、すみません。

 ここで、その昔、平安時代の宮中風景の中のひと時を、あの清少納言(966~1025)が書いた『枕草子』の一節から見てみよう。

「・・・。
 御簾(みす)のうちに、女房、櫻の唐衣(からぎぬ)どもくつろかにぬぎたれて、藤・山吹(やまぶき)など色このましうして、あまた小半蔀(こはじとみ)の御簾よりもおしいでたるほど、昼の御座(おまし)のかたには、御膳(おもの)まいる足音たかし。・・・。」

(清少納言『枕草子』第二十三段より 池田亀鑑・岸上慎二校注「日本古典文学大系19」岩波書店)
 
 以上私なりに訳してみると、”部屋のすだれがかかった内側の、女房(女官)たちがくつろいで座っているところから、その桜色の(一番上に着る)打ち掛け着などが、流れ出るようにはみ出していて、その下の重ね着の藤(表は蘇芳”すおう”、裏は青)や山吹(表は朽葉、裏は紅梅)などの好ましい色合いが、すだれよりも高い跳ね上げ戸の所からいくつも見えているなかで、宮廷のお昼のお食事の支度をする係りの者たちの足音が聞こえてくる。(もうお昼なのだ)”

 全く、何という観察眼に表現力なのだろうと思う。
 それまでの白黒の絵が、色彩の画像に変わったような、あの”源氏物語絵巻”よりもさらに鮮やかに、現実の目の前にある光景のように、お昼前の宮廷女官たちのくつろいだ姿を見せてくれるのだ。

 確かに、日本の文学は、その場面ごとの情景の色合いの妙と、さらには微妙に移り変わる、人間感情の機微(きび)を丹念に描き表し続けてきたのだ。
 江戸時代に至るまではもとよりのこと、明治の時代に入っても、尾崎紅葉に幸田露伴、樋口一葉そして泉鏡花へとその伝統は受け継がれていたのだが、やがて永井荷風に谷崎潤一郎をもって次第に細くなり、その流れは消え入るように、川端康成の名前を最後になくなってしまったようにも思えるのだが。

 もちろんそのことで、日本文学が途絶えるはずもなく、むしろ、西洋文学の流れを受けた”自我の目覚め”による個人主義の葛藤(かっとう)という観点から、現代文化の発展の中で生きる人々の、より人間的な内面性を描いた文学が生み出されていったのだから、むしろ新しい時代を迎えた喜ばしい変化ではあったのだが。
 ただ、日本文学に対しては、保守的な”守旧派”である私は、今では、こうして時代に逆らい、古典の世界に思いをはせることで、自分の思いとつながる人々への対話を楽しんでいるのだ。
 もっとも、若いころ一時的にせよ、日本の文学にかかわりたいと考えていた私なのに、今では恥ずかしながら、その日本文学の時代の最先端の表現者たちだともいえる、あの芥川賞受賞作品を、最近話題になった「花火」はおろか、もう何十年もの間、一編たりとも読んではいないのだ。
 しかし、それで、どうしたと開き直り、もう自分の文学観は変えたくはないと思っている年寄りのかたくな心・・・。

 ”はい、これは、山の中に住む、じじいの独り言でしかないことは、十分にわかっておりますだ。
 んだども、代官様、もしそれで、お仕置きを受けることになるのなら、できれますれば、ぜいたく言って申し訳ないのですが。
 これは、テレビで見たことがあるのですが、黒タイツをはいた、都会の若いねえちゃんに来てもらって、ムチで叩いてもらえないでしょうか。
 さらに、その彼女の黒いハイヒールでぐりぐりと踏んづけてもらえないでしょか。
 それでも、私は、白状せずに、転向もしないでしょうが。
 ただ最後に、遠のく意識の中、黒タイツのねえちゃんを視界に入れて、ああ、”万葉集、源氏物語、枕草子、古今和歌集、方丈記、徒然草”などと唱えながら息絶えれば、本望でごぜえやす。”
 (それにしても、あの一世を風靡(ふうび)した”にしおかすみこ”さんは、得難いキャラだっただけに、今テレビで見かけなくなったのは残念ではありますが。)

 最初は、古来の日本人の色の感覚の話から、いつしか変なところに行ってしまい、こうして冗談妄想の”おち”をつけたのは、もうそろそろ疲れてきて、今日の書き込みを終わらせたかったからでもあるのだが、もともと年寄りというものは、真剣な話と妄想のバカ話を行き来することによって、いつしか立派な”妄想族”の一人になってゆき、やがてはあの世の妄想世界へと旅立って行くことになるのだろうが、この世への警笛をパッパラパーと鳴らしては。 

 今回は、今の時期に北海道にいたころの話で、前に書いた残雪期の山への、再挑戦の模様について書くつもりでいたのだが、ちょうど家の周りは、今が百花繚乱の花々の盛りの時であり、どうしてもそのことを先に書いておきたいと思って、主題変更したのだが、それが色味の話から、次第にあらぬところへとそれて行ってしまい、この辺りで終わらざるを得なくなったのだ。

 それでも、最後にもう一つ、この晴れの日が続いた中で、相変わらず山には行かずに家にいたのだが、それでも時々むしょうに歩きたくはなるから、往復2時間もかかる遠出の山麓歩きに出かけて、沢を渡り対岸の尾根筋を登り、ぐるっと回って家に戻ってきて、いい汗をかいたのだが、その時に、久しぶりに立派なキブシの花が咲いているのを見つけて、これだけでも、今日遠歩きに出かけてきたかいがあったと思ったくらいだった。
 下の写真は、その沢筋に咲いていたキブシの一本である。(併せて近くにもう二本)

(参考文献:「新編国語便覧」秋山虔編 中央図書、「古語辞典」旺文社) 

 

 




コブシとヤマザクラ

2017-04-10 21:42:54 | Weblog



 4月10日

 一週間前に、三日も続いた快晴の日の後は、今度はしばらくの間、曇り空や小雨の降る日々が続いた。
 それは、菜種梅雨(なたねづゆ)という言葉通りの、暖かい春の雨だった。
 遠くの町まで行く途中に見る景色も、また、日本の春の風物詩の光景そのものだった。
 ナタネの黄色い花が点在する中に、白いサクラの花や赤いハナモモに紫のシモクレンにハクモクレンと、まさに”見渡せば菜種桜をこきまぜて田舎ぞ春の錦(にしき)なりけり”というにふさわしい眺めだった。(参照:古今和歌集の素性法師(そせいほうし)の有名な一首「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」にあやかって。)

 しかし、今日は一転し、昨日までのまだ暖かい曇り空から急に冷え込んできて、気温が前日と比べて5度以上も下がり、冷たい雨がしとしとと降る、もう一つの”花冷え”のする”菜種梅雨”のようだった。
 そんな雨降りの日の、薄暗いわが家の庭の景色の中でも、ひときわ明るく照り映えて、コブシの花が咲いていた。(写真上)
 こうした人家の庭先に植えられているものの多くは、ハクモクレンかコブシだろうが、一方で山中でよく見かけるタムシバとの差は、遠くから見れば区別がつきにくいし、言われている花の根元の葉の有無というよりは、見上げる木ではよくわからなくて、むしろ葉の形で見分けるしかないとも思うのだが。

 北海道では、同種のキタコブシの花をよく見かけるから、あの千昌夫の名曲「北国の春」で歌われる”コブシ咲くあの丘、北国の春・・・”ではないけれども、どうしても私の感覚の中では、コブシは北日本に行くほど多くなり、一方の中国原産の植栽樹であるシモクレン(紫木蓮)とハクモクレン(白木蓮)は 西日本に多いように思われるのだが。
 以前にも書いたことだが、コブシよりはモクレンのほうが花房が滑らかで大きく、もちろんその花びらもはるかに大きいから見栄えがするし、家から遠く離れた町にある、大木のシモクレンが満開の花を咲かせた時の、あのあでやかさと言ったら、もしそばに桜の花の大木があったとしても、見劣りすることはないだろう。
 確かに、街中や家の庭先に植えられたモクレンのほうが目立つのだけれども、それは植栽されたソメイヨシノと、山の中でただ一本咲いているヤマザクラとを比較するようなもので、周りのまだ芽吹き前の木々の中で咲いている、一本のコブシやタムシバの明るい花の色は、周りの景色を明るくしてくれるし、ましてその時の背景が青空であれば、その対比はなおさらのことだ。(’16.4.25の項参照)

 わが家の庭に咲くコブシの木は、もう何十年にもなるのだが、水はけのあまりよくない日陰の粘土状の土壌ということもあってか、(集中的に”立ちション”してはいるのだが、その生肥やし効果はあまりなく)、なかなか大きくはならないのだが、それでも年ごとに花数を増やしてくれているようだ。
 ともかく、そんな環境の中でも、毎年花を咲かせてくれるわが家のコブシ、みんなそれぞれに、文句も言わずに、与えられた場所で自分なりにがんばっているのだ。それに引きかえ・・・。

 家の周りを散歩していると、もうあちこちで、そうした春の花を見かけることが多くなった。
 足元の小石の間からは、小さなオオイヌノフグリの紫の花が見えるし、民家の庭先には、びっしりと植え込まれたスイセンの黄色い花が列をなして風に揺れているし、白いユキヤナギや黄色いレンギョウの花も、温かい春の空気の中で見てこそ絵になるものだ。

 そして、モクレンにコブシ、そしてサクラはソメイヨシノがあちこちで咲いてはいるが、ヤマザクラのほうはわが家の庭でもそうなのだが、ようやくつぼみがふくらみ始めたところである。
 その、まだ花の咲いていないヤマザクラの中で、ふと目に留まった一本の木。
 その古びた太い幹の周りは、白いウメノキゴケに覆われていたが、そんな所から、いくつものまだ若い小さな枝葉が伸びていて(ヤマザクラは花より先に葉が出る)、なんとそこだけに花が咲いていたのだ。(写真下)

 

 もちろん、この太い幹の上のほうに伸びる枝は、まだツボミのままで、花は咲いていない。
 よく見ると、この小さな枝が伸びて花が咲いているのは、ちょうど二股に分かれた幹のこちら側だけで、向こう側のもう一つに分かれたほうの幹からは出ていない。
 ヤマザクラは、家の庭にある木もそうなのだが、幹が二つに分かれたところから、裂け目ができて、そこから腐りやすくなり、早めに手当てをする必要があるのだが、おそらくこのヤマザクラも分かれた幹の境目の所に、断裂傷が見えて黒くなっているから、もう一つの幹のほうが腐り始めていて、さらには、樹勢の弱った木に生えるコケがついていることからもわかるように、このヤマザクラの木は、何とか成長するべき方向を見つけようと、そこから芽吹いたものと思われる。

 そんな木々の、あくことなき成長志向は、切った木の根元近くに残った幹のそばから、幾つもの小さな枝が芽吹くことでもわかるが、それも針葉樹ではなく広葉樹に多く、特に北海道のわが家の林にある、カシワやミズナラの木などでは、いつも目にすることなのだ。
 そういえば、前にも何度か書いたことがある、この九州のわが家の近くに立っていた大きなネムノキが、冬の時期に、シカたちによって、ぐるりと幹回りの皮を食べられ、はぎ取られてしまい、その年の夏まではまだ何とかあの美しい虹色の花を咲かせてくれていたのだが、翌年には葉も出なくなり、枯れてしまった。
 その前には、幹からいくつかの新しい枝を伸ばして、必死に生きようとしていたのに・・・。

 この世に生を受けたるもの、地球上のすべての生きものは、まさしく”生きる”ために生まれてきたのであり、誰でも若くして自ら死を求めるものはいないし(集団死する小動物たちの例は生きる衝動の結果なのだと思うし)、その生きようと向かう心こそが、生きものとしての最大の正義なのだと思うのだが。
 それだから、国家規則や社会規則を作って、それに従うべき決められた人間はともかくとして、他の生物たちの争いには、私たち人間がうかつにも間に入って、口をはさむべきものではないとも思えるのだが・・・前回書いたNHK・BSの『グレートネイチャー2』における、卵からかえったばかりのイグアナの子供とヘビたちとの、脱出・捕食のドラマように。 

 そう考えていくと、私たち一人一人が、一度きりの筋書きしかない、神聖なる”生の舞台”に立たされている主人公なのだ思えてくる、どう演じるかはその人次第だけれども・・・。
 前にも書いたことだが、どうしてもあのシェイクスピアの舞台劇『お気に召すまま』第二幕第七場の、ジェイキスの有名な独白(どくはく)ふうな一節が思い出される。

 弟によって追放された公爵とその部下たちが、森の中で自分たちの不幸を嘆いている時、その廷臣の一人、ジェイキスが話し出す・・・。

「全世界が一つの舞台。そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない。
 それぞれ出があり、引っ込みあり、しかも一人一人が生涯にいろいろな役を演じ分けるのだ。その筋は全場七つの時代に分かたれる・・・まず第一に幼年期、・・・(以下長い中略)
 ・・・さて最後の幕切れ、波乱に富める怪(あや)しの一代記に締めくくりをつけるのは、第二の幼年時代、つまり、全き忘却、歯なし、目なし、味なし、何もなし。」

(『お気に召すまま』シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫)

 笑えない深刻で悲観的な人生観に、笑える自虐(じぎゃく)的人生論があい混じり、舞台的な明るい結末へと導く、シェイクスピアの才能には、その脚本を読み返すたびにいつも驚かされる。

  シェイクスピアの生きた時代(1564~1616)は、エリザベス1世(1558~1603)統治の時代と重なり、あのスペイン無敵艦隊を打ち破り、東インド会社が設立されて、世界進出に向かってイギリスの国力が躍進する時代だったのだ。
 もちろん、逆に言えば、スペインはその敗戦によって、それまでのヨーロッパの覇権国家としての地位を次第に失っていき、さらにイギリスに進出されたインドのムガール帝国は、この後次第にヨーロッパ列強の侵略の波を受けることになるのだが。
 その時代の日本はと言えば、織田信長から豊臣秀吉の時代を経て、徳川幕府が始まったころであり、文化的に言えばあの出雲阿国(いずものおくに)から始まる歌舞伎が舞台劇として成立したころでもあったのだ。
 そうして、シェイクスピアの舞台劇と日本の歌舞伎の舞台を、比較文化論として考えるのは、素人目から見てもまた興味深いことに思えるのだが。
 
 ともかく、歴史にはいつも、国家の存亡かけての争いとその結果だけが記されているだけで、個人が生きてきた、その一つ一つの人生の舞台が書き残されることなど、極めてまれなことであり、私たちはただ、こうして書き残された文芸作品や舞台劇・歌劇作品などから、その当時の人々の人となりや考え方を推し量るしかないのだが、しかし、そこにはいつの時代にも変わらぬ、真摯(しんし)に自分自身に向かいあって生きる、”生きもの”としての人間の姿を見ることができるのだ。

 ”もって範(はん)とすべし”、ありがたや、ありがたや。 


馬酔木

2017-04-03 22:08:34 | Weblog



 4月3日

 今日は、周りの山々がくっきりと見えるほどの、晴れ渡った快晴の空が続いた一日だった。
 朝の気温は、-1度にまで下がって、風はまだ冷たさを残していたが、日中の気温は15度近くまで上がって、日の光があたりをキラキラと輝かせ、これはもう全くの春の景色になっていた。
 庭のウメは半分ほど散って、次に咲くヤマザクラのつぼみは、まだ膨らんできたばかりだけれども。

 山に行くには最高の日和だったのだが、私はこうしてブログ書きのキーボードを叩いている。もう一月半も山に行っていないのだ。
 そのためでもあるのだろうか、このところ山の夢を三回も見てしまった。
 それは、今まで私が登ったことのある山のようだったり、登ったことはないが、テレビ番組で見ていつかは登りたいと思っている山のようだったり、さらには雪の季節のものであったり、雪のない新緑のころの山だったり。
 そしてそこでは、いつも、何かの問題が起きて、どうするかを決めなければならない場面だったりで、落ち着いて頂上からの眺めを楽しむこともできないままの、寝覚めの悪い、いささか心残りのある夢だったのだが。
 つまりそれは、いつもはぐうたらにのんべんだらりと生きている私が、その実、常日頃からいくつかの心配事を抱えている、ということの証しなのかもしれない。
 そして、夢の中でその不安が、山に登りたいという思いと重なって、深層心理としての夢の映像を作り上げたのだろう。 

 こうして、山に行かない日々が続くと、いつも書いているように、無性に歩きたくなる時があるのだ。
 数日前もそんな気持ちで、いつもの坂道遠歩きに行ってきたのだが、途中の光景のほとんどが、それまでの冬の景色とはまだ大差ないようにも見えるのだが、一方では、ところどころにウメやヒガンザクラさらにはアセビの花が咲いていたりして、それだけでも十分に春なのだと思えるし。
 上の写真、桃色の花のアセビ(馬酔木)は、民家の庭先に咲いている栽培種のものであり、もう少し後になって咲き始める山のアセビの花の色は、ほとんどが白い色のものであり、たまにもっと淡い桃色になるものがあるくらいである。

 しかし、いつも思うのは、これほど多くの小さな花を咲かせて、受粉し種を作るというは、その仕事効率があまりによくなくて無駄なようにも思えるが。
 もっとも、人間側から見れば、その鈴なりの姿こそがきれいであり、ありがたいことでもあるのだが。
 それは今咲いているウメや桜の花についてもいえることだが、植物たちの中でも、ある種では数多くの花をつけて、またある種では数少ない花だけでと、それぞれに受粉種子の形を進化させてきて今の形になったのだろうが、考えてみれば、それは今という時点にいる私たち人間の眼から見ただけのことであり、これは地球史規模で見れば、まだどうにでも対応可能な進化の半ばにある形なのかも知れないのだ。

 NHKの新しい『グレート・ネイチャー2』のシリーズは、その予告ダイジェスト編を見ただけでも、期待を持たせるものだったのだが、こうして始まったシリーズを見ていると、あのイギリスの公共放送局BBC的な洗練されたカメラワークと相まって、地球上の生き物たちのまた新たな生態を見せつけられることによって、今の時代に生きる私たちが、いろいろと考えさせられてしまうのだ。

 人類は、地球上のありとあらゆる、多種多様な生物植物体系に、取り返すことのできないほどの悪影響を与えているのではないのか、たかだか70億ぐらいの数の人間が、その数とは比較にならないくらいの、天文学的数字にのぼるほどの数が存在している、他の生き物たちに対して。
 もともと誰でもがそうであるように、若いころに一度くらいは、ダダイスム(虚無的破滅主義)ふう的な思想の影響を受けているから、頭のどこかにはその加害者としての”人間の存在そのものが悪である”という意識が残っていて、こうした自然環境・生物たちのドキュメンタリー映像を見ると、いつも考えてしまうことになるのだが。

 もっとも、この”人間悪”を認めれば、当然、自分の存在もなくなるから、理論として成り立たなくはなるのだが。
 ということは、人間の進歩がまだ自然環境などに大きな影響を及ぼさなかった時代、歴史年表的に言えば、”人類大発展”のきっかけともなった産業革命以前の世界のころのように、自然をゆるやかにほんの少しずつ浸食し食(は)んでいただけならば、人間の存在は決して”悪”の存在ではなかっということになるのではないか。
 つまり、地球上の生物や植物たちがそれぞれに、お互いの領域を犯さずに、自分の領域内だけで生きていて、無関心であるかそれとも、無駄な争いを起こさないために、無関心であることを装っていた時代こそが、地球上の生き物たちにとっては、一番平穏平和な時代であったのかもしれない。
 しかし、人間だけが、自分たちの賢(さか)しらな知力に頼り、その欲望のままに、楽しみ生きることをむさぼり始めたのだ。
 もう、元に戻れるものではない。

 そういう私も、その時代という科学の進歩の流れの中にいる人間の一人なのだ。
 ただ、なるべくならば、その時代の流れの中にある、大船団のただ中の一艘(いっそう)でありたくはない。
 彼らからは遅れていてもいいし、少しは不便でもいいから、時には野の花が咲く岸辺に流れ着き、そこはかとない時の移ろいを感じることのできるような、粗末な草船の一艘でありたいと思う。

「疲れたら憩(やす)むがよい 。彼らもまた、遠くはゆくまい。」
(尾崎一雄『痩(や)せた雄鶏(おんどり)』)

(『人生の実りの言葉』中野幸次 文春文庫より) 

 これは、十数年前に読んだ文庫本の中の一節にあった言葉だが、出典元のその前後の文章も読みたくて調べてみたが、私の持っている全集本(『新潮現代文学5』尾崎一雄)にはなく、他でも見つからなくて多少気がかりではあるが、もっともこの部分だけでも、今の私には十分に心に触れてくる言葉ではある。
 ただ、この一文は、本来ロシアのある作家が書いた言葉だそうだが、それを尾崎一雄(1899~1983)が自分の短編小説『痩せた雄鶏』の中に書いていて、それを読んだ中野孝次(1925~2004)が自分の随筆集『人生の実りの言葉』の中の一節として取り上げて、さらに、それを読んだ私がまたここに取り上げてという、また聞きの伝聞表記になっていて、いささか心もとない気もするのだ。
 
 しかし、またひとつ考えてみれば、私たちは、こうした近代文明の一大護送船団の中の一艘としてあるからこそ、ゆっくりと遅れてでも流れに乗ってついていくことができるのだ。
 それは、良かれ悪しかれ、今の時代の便利さを享受したうえでの、ぜいたくな一言であるかもしれないのだ。
 というのも、上にあげた『グレート・ネイチャー2』では、前にもその予告編での一シーンをここでも書いていたのだが、今回はその一部始終としての映像を見たのである・・・あの進化論で有名な、ガラパゴスの島の砂地の中で、卵からかえったばかりのイグアナの子供たちは、まず最大の試練の時を迎えるのだ。
 その時をとばかりに、待ち構えている何十匹ものヘビたちの襲撃。
 必死に逃げて、ヘビの来ない岩場の上まで逃げ延びたものと、ヘビたちに捕まって絞め殺され飲み込まれていくもの・・・両者ともに生きるための闘いなのだ。

 それなのに、ぐうたらにのんべんだらりと日を過ごし、”彼らもまだ遠くには行かないだろう”とほざいては、年寄りのぜいたくで、好きなものをなめまわすように眺め味わい尽くそうとしている私は、”どんだけー” いやらしい、じじいかとも思う。

 最近は、さらに万葉集が身近になって、寝る前には必ず数首の歌を読むのが習慣になっているし、古今和歌集や西行も気になるし、西鶴(さいかく)や近松(ちかまつ)の物語も好きだから人形浄瑠璃(じょうるり)の文楽や歌舞伎も見たくなるし(NHK・Eテレの歌舞伎座公演、「妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)」での名役者と若手の演技)、さらには日本の民謡に昭和歌謡と耳を傾けては(美空ひばりはやはり空前絶後の存在の歌い手だったと思うし)、今の歌も、”いきものがかり”(一時解散が残念) にAKB乃木坂が好きで(車の中ではいつも自作のCDを聞いているほどだし)、ジャズも(先日のNHK・BSの「チック・コリアとハービー・ハンコックの”ブルーノート”演奏会」は良かったし)、さらに相変わらずにクラッシック番組は聞き逃せなくて(先日NHK・Eテレでマーラーの5番)、さらに昔の映画と昔の絵画に昔の小説とくれば、もうこれは立派な、”おひとり様ヒマつぶし老人セット”になっているのであります。
 さらには捲土重来(けんどじゅうらい)を期して、何とか悪いヒザを直して(薬など余り飲みたくない私が、NHKの「ガッテン!」に影響されて、コラーゲンなるものを飲み続けているのではありますが)、日本中のまだ登り残した山々に晴れた日に登りたいと思う、”ごうつくばり”じじいの哀れな一心が、果たしていかなることに相成りまするか、本日の恥知らずブログの拙(つたな)き一文は、これにて一件落着と相成りまして御座いまする。チョーンチョンチョンチョン・・・。