ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

暮れずともよし

2018-03-26 21:28:57 | Weblog

                    

                                     

 3月26日

 春の青空が広がっている。
 小さな雲が出たり、少し薄雲が流れたりした時があったにせよ、何と今日でもう、まる四日、快晴の天気の日が続いている。
 私の記憶の中では、この九州でも北海道にいた時でも、これほど快晴の日が続いたという経験はないのだが。さらに快晴の日は、あと二日も続くという。
 全くの所、この時期に残雪の山を縦走していればと思うのだが、もちろん今の私には、そうした計画を立てるだけの元気も、それだけの体力もないのだけれど。

 ”夢は千里を駆けめぐる”・・・青空の下、まだ冬山のように雪に彩られたられた山々が立ち並び、私はひとり足あともついていない雪の稜線をたどって行く・・・その一日の終わりの夕べの時と、次の日の始まりの早朝の時間に、真紅色に染められた山々の姿に見入ってしまうだろう。
 その神秘の時間に、対面している私がいることこそ、何よりも強く生きている自分知ることができるからだ。
 並び競い合うのは、他人とではなく、もちろんこうした山々とでもない。
 それは、いつも自分の心の中にいる、弱く狡猾で自堕落な気持ちになりたがる、もう一人の自分との、勝ち負けのないせめぎあいがあるだけなのだけれども。

 雪の後の快晴の日が、またもや週末にまたがっていたために、私は山登りにはいかなかった。
 その代わりに、近くの丘陵地帯の道なき道を歩き回っては、春まだ浅き青空の下の、枯草色の斜面やまだ冬枯れの木々のたたずまいを楽しんだ。
 2時間余りの、山麓歩きの彷徨(ほうこう)のひと時だったが、山登りの時と変わらないほど汗をかき、わが家に戻りついた時には、さすがに疲れていたが、庭に咲く梅の花の香りが、やさしく私を包んでくれた。
 山の中の樹々は、そのうちのいくつかが、ようやく枝先に新緑の若葉のつぼみをふくらませてはいたが、ほとんどはまだ冬の枯れ枝のままだった。
 しかし、山を下りてきて人家近くになると、あちこちで植え込みのアセビがいっぱいに咲いていて(冒頭の写真)、その下の黄色いスイセンの花とともに、確かな春を感じさせてくれた。

 このところの陽気で、全国各地では、桜の花が満開になっていて、花見客でにぎわっているとのことだが、わが家のヤマザクラの花が咲くのは、まだまだ先の話であり、今では、ようやく梅の花が満開になったところで(写真下)、いつもの年にまして、あの甘ずっぱい香りが周りに満ち満ちている。 
 去年は、梅の実の収穫量が少なかっただけに、”今年は頼むぞウメちゃん”と、ことあるごとにせっせと私の体内から出る肥料をかけているのだが、空の上から”馬鹿じゃないの、生肥やしが効くわけないでしょ”と母の声が聞こえてきそうで。


 

 それにしても、この青空に映える梅の花は、何とも見栄えがする。
 奈良時代、万葉の人々が、まず何よりも春に先駆けて咲くこの大陸渡来の梅の花を、春そのものの姿として讃えて、数多く歌に詠(よ)みこんだのも分かる気がする。 
 
 ”春されば まづ咲くやど(宿)の 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ”(山上憶良、やまのうえのおくら、『万葉集』巻五 818)

(『万葉集』 伊藤博訳注 角川文庫 以下同様)

 私も、同じようにベランダに出て、青空の下の梅の花を見ていた。
 一面の青空の下、温かい日差しが降り注いでいて、梅の花はその香りとともに咲き誇り、このまま同じ時間が続いて行けばいいとさえ思って、ふと”暮れずともよし”という一節が思い浮かんできた。
 それは、あの江戸時代の越後の国で、清貧の乞食修行を続けた、良寛(りょうかん)の一句である。

 ”この里に 手まりつきつつ 子どもらと遊ぶ春日(はるひ)は 暮れずともよし”

(『良寛 旅と人生』松本市壽編 角川文庫)

 春の日差しの中に、子供たちと手まりをつきながら、遊び笑う良寛和尚の姿が、目の前に浮かんでくるような。
 そしてこのままの、無心になれる時間が、ずっと続いてほしいと願う良寛の思いが伝わってくるような。

 もともと良寛の歌には、”本歌取り”とまでは言わないまでも、おそらくは深く読み込んでいたに違いない『万葉集』からの、引用句のように思われる歌が幾つも見受けられるのだが、この年下の仲間たちと一緒に遊ぶ楽しさを詠んだ歌は、例えば『万葉集』の巻十の”野遊”と題された4首の歌の一つ(1892)が思い出される。

 ”春の野に 心延(の)べむと 思うどち 来し今日の日は 暮れずもあらぬか”
 
(私なりに訳すれば、”春の野原で、仲間たちとのびのび遊ぼうと、やってきた今日の一日は、このまま続いて暮れないでほしい”)
 上記、良寛の歌に、この歌のことが頭にあったことは言うまでもないことだろう。 
 私たちから見ても、遠い昔の奈良時代にも江戸時代でもそうであったように、春の日差しを浴びて仲間と連れだち遊んでいるのは楽しいことなのだ。
 テレビ・ニュースで流さている人々のように、春、花の下で浮かれ騒ぐのは、何はともあれ、次代を超えて、誰もが春を迎える喜びで、じっとしてはいられなくなるからなのだろう。

 そうして、離れた所にまで出かけて行って、春の喜びを仲間と分かち合う人々がいるかと思えば、一方では、自分が生まれ育ったところから一度も離れずに、今の暮らしを過不足なく思いながら、暮らしている人たちもいるのだ。 
 一昨日たまたまチャンネルを変えて見た、民放の番組だけれども、そこで私は深く考えさせられたし、一方では、まだこうした人々がいるのだということで、心強い思いにもなったのだが。 
 それは前にも、何度か見たことがあるのだが、テレビ朝日系列の『ポツンと一軒家』という番組であり、今回はその2時間半にも及ぶ番組の中で、二つのエピソードを見ただけだったが、それでも十分だった。

 一つは、徳島県の山奥、というより山の尾根の頂きの辺りに、先祖伝来の畑を作って住む老夫婦がいると聞いて、番組スタッフが急な雪の山道をたどり行ってみると、確かに山の上が少し開けていて家があり、そこに90歳を超える老夫婦がいたのだ。
 そのおばあさんは40歳のころ夫に先立たれ、子供を抱えて困っていたところ、夫の弟が助けに入ってきて、そのまま一緒になり暮らしてきたが、最近ではその高齢の二人を心配して、70近い娘夫婦がやってきて、今では四人で住んでいるとのことだった。
 彼らは、急斜面にワラビ畑を作って、その山菜収穫などで生計を立てているとのことだが、生活物資は娘夫婦が下の町まで軽トラで買い物に行き、戻ってきてクルマは下に停めておいて、そこから上は、簡単な運搬用のモノレールを取り付けていて、それで荷物を運び上げ、自分たちは家まで20分もかかる斜面の山道を歩いて戻って来ていたが、なんとこの道を時には、あの90歳を超えたおばあさんまでもが往復するとのことだった。
 
 電気も来ているし、何と光ケーブルまでもひかれているとのことだが、しかし灯油などを使う暖房は使わずに、炊事の煮炊きをはじめ、すべては鉄板製の薪(まき)ストーヴ一つだけでまかなっているとのことだった。
 その薪は近くの山で出る間伐材を譲ってもらい、娘夫婦が二人で背負子(しょいこ)に20kの丸太を載せて一日6往復をして運んでいるとのことだった。
 北海道の家で50mと離れていない自分の家の林から、丸太を腕に抱えて運び出している私にとっては、他人ごとではない作業に思えた。
 ただ年寄りになって、丸太を割って薪を作るのは大変だからと、おじいさんが上手に薪割り器を使って、簡単な手仕事にしていたのには感心した。

 そして、おばあさんはようやく雪が消え始めた急斜面の畑で、ワラビの球根の周りに生えている雑草取りに精を出していた。 
 4人それぞれが、それぞれの仕事をもって、都会の便利さとはかけ離れた、山奥の一軒家で暮らしていて、それでもここにいることが幸せだと言っていた。
 
  もう一つは、長崎県の五島列島のさらに沖にある離れ小島に住む、これまた高齢の母娘の二人の話しだ。
 今でも、この島には数十軒の家があり、ちょっとした漁村集落に見えるのだが、何と母娘の暮らす一軒を除いて、他はすべて住民が出て行った後の空き家だという。
 昔は、漁業や真珠養殖などでにぎわったこの集落では、祭りの時には夜店も出るほどだったそうだが、それが水質変化などで、真珠や漁業が立ちゆかなくなり、人々が出て行ってしまって、残ったのはおばあさんひとりに、そこで娘が心配して介護を兼ねて戻って来て、今では、二人で住んでいるとのことだった。
 生活必需品は、定期的に本島から通う船に運んでもらい、あとは畑で野菜などを作って暮らしているとのことである。

 今年99歳になるおばあさんは、雪の降る今の時期はコタツで寝てばかりだというが、そのこたつの中からは、ネコがぞろぞろと十数匹あまり。昔この集落の家々で飼われていたネコが、その飼い主たちがいなくなり、いつしかこの家にすべて集まってきたそうだ。
 最後に、取材スタッフの一人がおばあさんに、何か趣味とか楽しいことはありませんかと尋ねると、おばあさんは、もう少し暖かくなったら、好きな草むしりがしたいと言っていた。

 ”山椒(さんしょう)は小粒でもピリリと辛く”、さらにそこには、たくましく生きている”一寸の虫にも五分の魂”があることを、今さらながらに思い知らされたような・・・。
 ”傲岸不遜(ごうがんふそん)”な態度であることが、自分の強さだと信じている偉い人々たちがいて、その対極にある名もなき庶民たちの、”剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)”な生き方しかできない人たちがいて、どちらが”仁”に近いのか・・・。
  

まぼろしの影を慕いて

2018-03-19 21:56:04 | Weblog




 3月19日

 今日は、朝から雨が降っていて、予報ではこのまま終日降り続き、その後もしばらくは、こうした雨模様の日が続くとのことだ。
 その前の二日間は、少し名残の風の冷たさはあったものの、穏やかな春の日差しにあふれていた。
 そして、空気が澄み渡り、遠くの山々までがくっきりと見えていた。
 絶好の登山日和(とざんびより)だったが、私は今回もまた山に行かなかった。
 前回書いていたように、ちょうど一週間前にも、雪の後の登山の機会を逃してしまい、いささか残念な思いでいたのだが、今回の場合は、さほど悔やむようなことではなかった。

 というのは、ライブ・カメラで九重の山を見ても、もうほとんど雪や霧氷も見られず、となると今の季節はただ、早春の枯草色の景色の中を歩くだけだからである。
 そんな山登りは、”ごうつくばり”な年寄りになった、私が望むものではない。
 それは、きつい登山に何かしら見返りとして、その季節ならではの景観を楽しみたいと思っているからであり、あまり見るべきものもない今の時期に、ホイホイと喜んで出かけて行く気にはならないのである。
 九重の山では、これから咲き始めるだろうアセビやドウダンツツジに始まって、新緑の美しい季節になり、やがてミヤマキリシマが山々の斜面を染める初夏のころまでの間と、その後の真夏の時期は敬遠して間を置くとしても、すぐに紅葉が山肌を染め上げる秋になり、稜線から山裾までの錦秋の秋を楽しみ、その後の冬枯れの時期を挟んで、次は白銀の山々が青空の下にまぶしく映える冬になる、そうした季節ごとの見ものがあるからなのだ。

 つまり、年寄りが苦労して山に登るのだから、そうした四季折々の眺めが見られる時でなければ、山に行きたくはないと思い、若いころのひたすらに山に登りたいという、がむしゃらな純粋さなどはとうに無くしていて、ただ残りの人生の中で”したいように生きる”のだと、ますますかたくな心になっては、”わがまま登山”だけを目指しているからでもある。
 そして、自分の心の中でのやり取りでも、そだねーと納得しているのだ。
 しかし、あのかわいい道産子(どさんこ)たちによる”そだねーJAPAN"ならともかく、”そだねーじいさん”など、あーいやだいやだ、見たくねー。

 さらに天気予報では、この週末もまた晴れの予報が出ていて、この冬から春にかけて、週末になると天気が良くなっていて、これは明らかに神様が、ぐうたらでわがままなじいさんのためよりは、日々働いている勤労者諸君へのためにと考えてくれているからであり、そうした神様の心ある忖度(そんたく)については、私としても何ら異存はないのではありますが。
 というわけで、この年寄りは仕方なく、自分の家から往復1時間余りの山道ウォーキングに出かけているのであります。
 さわやかな青空の下、道端には、春初めての花である、いつもの小さなオオイヌノフグリの花が、一輪二輪と咲いているのを見つけては、うれしくなったりして、それはそれで、山登りとまでは言えない坂道歩きを楽しんではいるのですが。(冒頭の写真)

 さらには、この季節になると、誰もが自然と家の外に出たくなってしまうものであり、私も、庭や家の周りをあちこちを見て回り、古い家だということもあって、いつものように、修理すべき所が何カ所もあることに気づかされてしまうのだ。
 今年、登るべき山があるのと同じように、今年もなすべき仕事がいろいろとあるということだ。

 ということで、まずは家の屋根に上がって、年に三四回はしなければならない、雨どいと屋根の落ち葉掃きをする。
 冬の初めころには、それまでに散ったモミジ、カエデ、カツラなどの落葉樹の枯葉の片づけだが、今の時期はマツ、スギ、ヒノキの針葉樹の枯葉である。
 その時、屋根の上から見て、今までツボミだったウメの木に、数輪以上の花が咲いているのを見つけた。(写真下)




 今は、九州・四国・東海・東京などでサクラの開花が宣言されているが、山の中にあるわが家では、いつもそのころになって、ようやくウメの開花が見られるのだ。(前回あげた小さなユスラウメと違い、これがウメの木とも言うべき大きなブンゴウメの木で、梅雨の終わりのころにたくさんの実をつけてくれる。)
 下から見ていると、他の木の枝などとも重なり、さほど多くあるようには見えないのだが、見る方向を変えれば、これほど多くのツボミがあったのだと、今さらながらに気づかされた。
 季節はめぐり、つかの間の時、私は残る。

 昨日、たまたま他の番組の予約で、BS放送に入れ替えたところで、「古賀政男メロディー」の歌謡曲の歌番組をやっていて、しばし見入ってしまった。
 古賀政男(1904~1978)は疑いもなく、日本歌謡曲全盛の昭和の時代を代表する、偉大な作曲家である。
 有名な曲だけをおおざっぱにあげてみても、1931年の「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」に始まり、「影を慕いて(’32)」「ああそれなのに(’36)」「東京ラプソディ(’36)」「人生の並木路(’37)」「人生劇場(’38)」「誰か故郷を想わざる (’40)」「湯の町エレジー(’48)」「ゲイシャワルツ(’52)」「りんどう峠(’55)」「無法松の一生(’58)」「東京五輪音頭(’63)」「柔(’64)」「悲しい酒(’66)」(以上Wikipedia参照)。
 これらの曲名を見ただけでも、昭和歌謡史を彩ってきた、日本の歌謡曲の代表曲が並んでいることに気づくだろう。
 特に「影を慕いて」は、日本の歌謡曲一曲だけを選ぶならばと言われれば、この曲を知っている人ならば、誰でもがまず思い浮かべる曲なのではないだろうか。
 この時、私が見たBSのテレビでは、もちろん今の時代の演歌歌手たちが歌っていて、それはそれなりに良いのだろうが、私にはどうも今の演歌の”こぶし”節回し(ふしまわしが)が、果たして当時の歌には合うのだろうかと気になってしまうのだ。

 もちろん私は、私が生まれる前の、昭和前期の時代に活躍していた歌手たちなどは知らなかったのだけれども、前にも書いたように、東京で編集者として働いていたころ、私の担当が映画や歌のセクションであり、その時々の企画で、様々な世界や日本の歌を聞くことができたからでもあるのだが、中でも新鮮な驚きだったのが、日本の昔の歌であり、中には針音の聞こえる古い録音盤もあったのだが、その音質とは関係なく、その時の一発録音にかけた歌手たちの思いが伝わってくるような、見事な歌声の数々に思わず聴き入ってしまったのだ。 
 例えばこの「影を慕いて」は、当初、1930年に佐藤千夜子によってレコードに吹き込まれていて、それはまたあの竹久夢二ふうの楚々(そそ)たる美女の歌う姿を思わせて、なかなかに情緒あふれてはいたのだが、その後1932年に、旧芸大卒の正統派ハイ・バリトン歌手である藤山一郎によって再録音され、格調高く歌われていて、これが当時大ヒットしたのである。
 この歌を歌った歌手は多いけれども(その中には古賀政男の自作自演のものもあるが)、今の時代の感情過多に思える演歌歌手たちの歌声よりは、私は、この藤山一郎の、ひとり感情を胸に秘めて高まりゆく思いを歌い上げたものが、当時の時代にふさわしく、日本人の感情に沿ったものだと思えるのだが。

 こうした日本の歌の中で、私には、歌い出すと感情が高ぶってきてこみ上げるものがあり、それ以上歌えなくなるものがいくつかあるのだが、もちろんそれで、私のようないかつい顔のじじいが、ひとり涙ぐんで、どら声で歌っている所などを想像してほしくはないのだが、ともあれ、そうして自分の感傷におぼれるてしまうのは、これまた日本人の感性の特徴なのかもしれないのだ。 
 そうした歌の一つが、この古賀メロディーの歌番組の中で歌われていたのだが、それは十人ほどの出演歌手たちによって、一節二節ずつ歌い継がれていて、私は思わず”違うだろう”と言いたくなったのだ。
 それは、「人生の並木路(みち)」である。
 あのディック・ミネによって歌われていた元歌は、1937年の映画『検事とその妹』(出演 岡譲司・原節子)の、主題歌だったということだが、私はこの映画を見てはいないし、戦後に再映画化されテレビドラマ化もされたことも知らなかった。
 ストーリーは幼くして父親を失った兄妹だが、兄は苦学して念願の検事になり、妹も結婚するが、ある事件の担当になった検事の兄が、妹の夫を逮捕するということになるというストーリーらしいのだが。

 ジャズ歌手あがりのディック・ミネは、決して歌がうまいというわけではなく、とてもこの歌が合っているようには思えないが、いつものように体を動かして語るように歌う歌声にいつしか引き込まれてしまうのだ。
 私がこの歌を聞いていて、いつも感情が高まり胸がいっぱいになるのは、かつて母から聞いた話を思い浮かべるからである。

 母は、田舎の大きな農家の兄妹の下から2番目として生まれ、すぐ上の兄と仲が良かったのだが、その兄は東京に出たものの、当時死の病といわれた結核にかかって、故郷に戻ってきて、家族は馬小屋に隔離して看病していたのだが、ほどなく兄は亡くなってしまい、兄の病気から妹の私の母もまた結核に侵されて、それを知った母の母つまり私の祖母は、これ以上家族に病気が広がらないようにと、家族の中で一番かわいがっていた娘である私の母に、泣く泣くお金を渡して、これで家から出て行ってくれと言ったそうである。時は、戦争さ中の時代・・・。 
 私は、その先に続く、波乱万丈の母の人生のいくらかだけを知っているだけであるが、母の苦労がいかに大変なものであったかは、今さらにして気づくこともあるくらいであり、私は、この歌を聞くと、いつも哀しい気持ちになってしまうのだ・・・こうした話は、私の母だけではなく、私たちの親世代の人たちは皆、戦争によって大きく人生を狂わされてきたのだ。
 そして、そうした人々の苦労は、時代とともにいつしか忘れ去られてゆき、個人の人生は、いつもその人ひとりで完結するほかはないのだ、哀しいことに・・・。

 私の手元には、まだ幼い私が母に抱かれている写真と、若いころの母の写真、東京にいたころの母の兄の写真、そして母の母、上品な着物姿の祖母の写真がある。 
 そして私が死んでしまえば、これらの写真も処分され、私だけの思い出とともにすべては消え去ってしまい、そこで終わってしまうのだ。
 今、私にだけ、それぞれの人たちの人生の思い出が残されていて、この歌を聞くと、私は、当時の母の思いの中に入って行くようで、あまりにも辛くなる・・・。

「泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば 幼いふたりして 故郷を捨てた甲斐がない・・・。」(「人生の並木路」佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 ディック・ミネ歌)

 そして「影を慕いて」(古賀政男作詞作曲 藤山一郎歌)から。

「まぼろしの影を慕いて 雨に日に 月にやるせぬ この思い つつめば燃ゆる 胸の火に・・・」というだけの、私の人生であったのかもしれない。

 学校での最終講義の日に、先生が黒板に書いた一節が、いつもことあるごとに思い浮かんでくるのだ。

「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生さ」

(唐詩選より、井伏鱒二(いぶせますじ)による詩)


裏側から見た山

2018-03-12 21:02:38 | Weblog




 3月12日

 二日間、快晴の天気が続いた後、さすがに今日は薄雲が広がって、薄日が差すだけの天気になってしまった。
 しかし、明日の天気予報でも晴れのマークがついているし、こういう時こそ、残雪の縦走山歩きには最適なのだが。
 三日前に、雨まじりの風が吹き荒れた後に小雪が舞い、うっすらと雪が積もるほどったのだが、次の日の朝には、一転、快晴の空が広がっていた。
 その日は、まさに最後の雪山を楽しむには、絶好の登山日和(とざんびより)だったのに・・・私は、山に行くことができなかった。
 というのも、その日は他に、どうしても出かけなければならない用事があったからだ。

 そこで、”転んでもただでは起きない”、石ころの一つでも手に握って起き上がるようにしている私は、考えて、山の中を通って行く何本かの道の中から、まず由布院に行ってその町の北側の高原地帯にある集落、塚原を通って行く、いわゆる”塚原越え”の道を選ぶことにした。
 いつも正面登山口から登り、その南側から見ることの多い由布岳(’17.11.1の項参照)を、いつもと違う裏側の道を通って行けば、あまり見ることのない、由布岳の西面と北面の姿を間近に見ることができるからである。

 由布岳(1583m)は、確かに九州の名山である、というよりは”日本百名山”の中に含まれていても何の遜色(そんしょく)もないほどの、有名な山であり、歴史的に見ても、奈良時代の『古事記』や『風土記』にもその名が出てくるほどあり、さらには、なんといってもその個性的な双耳峰(そうじほう)の姿と、なおかつ風格のある山容が素晴らしいのだ。
 今でこそ、山麓の盆地にある由布院は、行きたい温泉地の1位に選ばれるほどの人気だが、もし背後にそびえる由布岳の姿がなかったら、その魅力は半減してしまうことだろう。

 私が九州で登っている山で、その回数が圧倒的に多いのは、九重の山々だが、それに次いで多いのは由布岳である。 
 暑い真夏に登ったことはないのだが、その他の季節ごとに登っていて、その中でも、冬の時期が一番多いのは、霧氷を楽しめるだけでなく、雪のお鉢一周の岩稜歩きで、ささやかなアルペン岩稜気分を味わえるからだ。
 しかし、その冬のお鉢一周も、年を取ってからはもう長い間行っていないし、今年の雪山の締めくくりとしてその由布岳にでも行こうかと思っていたのに、その最適のタイミングを逃してしまうことになったのだ。
 一日先に延ばせば、この晴れた天気で九州の山だから、雪はほとんどが消えてしまうだろうし、残念なことだ。 
 そこで、せめても雪の由布岳の姿を見て楽しもうと思って、たまにしか通らない塚原越えの道を選んだのだ。

 そして、この塚原高原からの、青空の下の由布岳の姿は素晴らしかった。(写真上)
 まるで、数年前に行った、あの大山(だいせん、1729m)の姿をほうふつとさせるものだった。(’13.3.12~17の項参照)
 もちろん、大山とは高さも違い、そのスケール感にもとうてい及ばないけれども、青空の下の火山独立峰の雪山の姿としては、どこか似通ったところがあると思った。
 写真中央部に見える”大崩れ”と呼ばれる浸食崩壊の沢は(その下部ではいくつもの砂防ダムが作られているが)、今後地質学的な長い時間を経ていけば、さらに上流部の開析が進んで、あの大山北壁のような壮絶な崩壊面が姿を見せるようになるのかもしれないのだ。
 その何万年という数字は、まさに私たち人類の生存の、はるか彼方にあるのだろうが、こうして地球上のあちこちにある、造山運動や火山噴出や浸食作用などの、地形変化の過程の途中にある風景を、自分たちへの被害の及ばない限りで見て行けば、いろいろと地球の歴史について想像し思いをはせることができるのだ。(だから地形地質の話が出てくるあのNHKの『ブラタモリ』は面白いのだ。)

 さて、離れた町で用事をすませて、帰りにもう一度あの雪の山々の眺めを見たくて、同じ道を戻ることにした。
 もう昼に近かったが、まだ快晴の空は続いていて、枯草色の塚原高原の彼方には、由布岳と相対するように、鶴見岳火山群の山々が並んでいた。行きには逆光気味だったのだが、今ではその霧氷に覆われた山肌が、上からの光を浴びて、白い毛におおわれた生き物のように見えていた。(写真下)




 この山なみは、登山者たちからはあまり注目を浴びてはいないが、それだけに、秋の紅葉時期も静かな山として楽しめるし('17.11.10の項参照 ) 、こうした冬の時期に、霧氷に覆われた山の姿として見てもま、またいい山域だと思う。
 もっとも、そうした山としての魅力に気づくのも、すべては、背景に青空があるからなのだが。
 ただ残念なことに、2年前の地震によって、鶴見岳(1375m)、鞍ヶ戸(1344m)、内山(1275m)、伽藍岳(がらんだけ1045m、=硫黄山)を結ぶ稜線のあちこちで、山体崩壊が起きていて、昔のように縦走することはできなくなっている。 
 こうして北西側から見れば、穏やかな山体の火山群に見えるのだが、反対側に広がる別府市街地から見ると、ぐるりと取り囲んだこの鶴見山群の東面は、いまだに浸食開析されていて、その険しい稜線の姿から、”鶴見アルプス”と呼ばれているほどである。 
 さらにあちこちでクルマを停めて、この鶴見山群と由布岳の姿を楽しみ、塚原越えの道を下りて行く、その途中からの、霧氷に覆われた由布岳西面の姿が素晴らしくて、ここでもクルマを停めて写真を撮った。(写真下)



 ところで、この私と同じように、先ほどから私と相前後して、クルマを停めては写真を撮っている人がいて、お互いに目が合って一声二声とあいさつをかわした。
 こうして山に登らなくても、きれいな山の姿に出会うと、どうしても写真に撮りたくなる人がいるものなのだ。
 山に登りながら、その写真を撮っていくのは、当然山が好きだからなのだが、こうして山に登るのではなく、クルマで走っていても、途中でクルマを停めてまでしても山の写真を撮りたくなるのは、やはり美しい風景を見るのが好きなのだろうし、山が好きだということなのかもしれない。

 そのことと併せて思い出したのだが、あるテレビ番組を見ていて、司会者の芸人が、タレントの女の子に、男の子にきれいな海の見える所とか、夕焼け空の見える所に連れて行ってもらったらどう思う、と尋ねて、その子は、面白く答えたつもりで、笑顔で”別に、何とも思わない”と答えていたが。 
 それが、”つっこみ”に対する”ボケ”の答えだったとしても、本心のところ、都会の女の子としては、おいしい食べ物やファッションのお店などと比べれば、自然の風景などには、あまり関心がないのかもしれない。
 そういうことなのだと思う、世の中は。 
 ある人にとっては非常に興味のある事でも、別な人にとっては全くの関心外のことだったりして、それらの関心の大小だけで、世の中のつながりが幾通りにもできあがっていくものなのかもしれない。

 ある人が美しいと思うものでも、ある人にとってはさほど美しいものではないのかもしれないし、そこで単純な例をあげれば、美男美女の基準は、大方の所で一致するものなのかもしれないが、仔細に調べれば、そこには様々な異なった見方があり、好き嫌いがあり、さらには、お互いに相いれないほどの差があったりもするのだ。
 ”蓼(たで)食う虫も好き好き”の例えのように、他の虫たちが見向きもしない、にがくすっぱい蓼の葉が好きな虫もいるのだから。
 なんでも”十把(じゅっぱ)ひとからげ”にして、物事はひとまとめにはできないということだ。

 最近ニュースで、”独り暮らしの孤独死”について、ある大学の研究班が、様々な統計からこういうことにもっと注意すべきだと勧告していたのが、今までにも似たような警告が毎年のように出されていて、またかと思うほどだが、考えてみれば、いまだその状況に身を置いたことのない若い人たちが、統計上の推論だけですべてこうあるべきだと結論づけていいものだろうかと思う、たかだか十数パーセントの割合で上下する結果など、様々な人の様々な人生の今からすれば、たいして変わらない誤差でしかないのかもしれないし、ほとんどの人々は、それぞれの状況の中で、それぞれの形で現在を受け入れているのだから。

「少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい。」

(『虫も樹も』尾崎一雄 講談社文芸文庫)

 こうして、その日は日ごろあまり通ることのない道を通って山の眺めを楽しみ、家に戻ってきたのだが、翌日ネットで調べてみると、昨日の登山報告が幾つもあって、この冬一番かと思われるほどの澄み切った青空の下で、九重の雪山写真が何枚も載せられていて、そこには百数十キロ余りも離れた、あの霧島は新燃岳の噴煙を写したものさえあったのだ。 
 その日の、九重の霧氷樹氷などはあらかた午前中に落ちてしまい、帰りの道はぬかるみになっていたというけれども、早朝の白雪に覆われた山々と、遠くの山々の展望を思うと、私自身でさえ、やはり内心、忸怩(じくじ)たる思いにならざるをえなかった。 
 その代わりに、めったに見ることのない由布岳北面の姿を見せてもらえたのだし、希少価値から言えばこのほうがよほど価値ある見ものであり、雪の九重の写真はもうおびただしいほどあるのだからと、負け惜しみを自分に言い聞かせたのだった。

「・・・自由な行動のなかでこそ、人は幸福なのだ。自分にあたえる規律によってこそ、人は幸福なのだ。
 ・・・幸福とは、報酬を求めなかった人々のところへくる報酬なのだ。」

(『幸福論』アラン  白井健三郎訳 集英社文庫)


春の息吹き

2018-03-05 21:03:26 | Weblog




 3月5日

 昨日、晴れた朝、庭に梅の花の香りが漂ってきて、目をやると、ウスラウメの花が咲いていた。(写真上)
 早い時には、2月の初めには咲くのだが、今年はその時期に、繰り返し寒波が押し寄せていたから、気温の上がり下がりに敏感な花芽たちは、確かな春の息吹きを感じられる今になって、ようやく花開かせたのだろう。
 家の庭には、もう一つウメの木があって、そこには毎年、私にとっては大切なジャムの原料となる、あの大きなブンゴウメの実がなるのだが、花が咲くのはまだ先のことだ。 
 もちろん、このユスラウメにも実がなるのだが、いつもその時期には北海道にいることが多くて、あまりこのユスラウメの実の記憶はがないくらいなのだが、確か一度、サクランボのような小さい実がなっているのを見たことがあったが、木が小さいうえにその実の数も少なく、とてもジャムの材料として使えるほどではなかった。

 昨日は、春本番を思わせるほどに気温が上がって、風も収まってきて、穏やかな春の一日になっていた。 
 この九州では、25度を超える夏日になったところもあったそうだが、山の中のわが家でも20度近くまで気温が上がり、午前中に洗濯したものが、午後にはもうからからに乾いていた。
 ただし、なるべく外を歩き回らないようにしていたのだが、それは実は、去年あたりからこのじじいの私にさえ、あの花粉症らしき症状がはっきりと出始めていて、今さらながらのにわか対策で、なるべく外には出ないようにして、洗濯物などは良くはたいてしまいこむようにはしているのだが。

 私たちの年代の人間は、その昔の子供時代、今にして思えば、きわめて非衛生的な日常を送っていたのだ。
 地面に落とした食べ物は一ぬぐいしただけで口に入れ、外で遊んでいて大きいほうをしたくなったらそのあたりの草むらですませて、草の葉っぱでお尻を拭いて、ほとんど手を洗うこともなく、腹をこわせば正露丸一粒飲まされてなおっていたし、大体が風邪などひいて熱が出て寝込むことになると、それまで怒鳴り散らしていた母親が急に猫なで声になり、桃の缶詰などを食べさせてくれたから、むしろ病気になるのはうれしくさえもあったぐらいだ。
 そして、数日に一度、親に連れられて銭湯に行き、小学生のころまでは、仕切り壁の所につけられたくぐり戸を開けて、自由に男湯と女湯の間を行き来して、男湯のいかにも武骨な眺めと比べれば、女湯の全体的に柔らかい光景を、子供心にも楽しんでいたのだが、後年”ああ、あれが天国の日々だったのだ”と気づくのだ。
 
 この子供時代から、若き日の東京での下宿時代に至るまで、幾たび銭湯の浴槽に浸かったことだろうか。
 昔、確か『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』というベストセラーになった本があったと思うが(読んではいないが)、その見事なキャッチコピーのようなタイトルに名前を借りるわけではないけれども、私も言わせてもらえるならば、”人生で大事なことはすべて風呂屋で学んだ”といっても過言ではないくらいであり、周りの大人たちから、様々な人生の機微(きび)を教えてもらったような気がする。
 風呂に入る際の最低限の礼儀マナーから、周りの人への気遣いなどを、時には大人たちに怒鳴りつけられ、時には世間一般の”与太話(よたばなし)”として面白く聞かされ、教えられていたのだ。そんな話だけでも、私にしても一編の”銭湯話し”が書けそうなくらいはあるのだ。

 ところで、もはや今の時代ではあまり顧(かえり)みられることもなくなった、江戸時代の娯楽本である、洒落本(しゃれぼん)や滑稽本(こっけいぼん)人情本の中にも、この風呂屋そのものでの話を題名にした、式亭三馬(しきていさんば、1776~1822)の名作『おどけ話 浮世風呂(全四編)』(『新日本古典文学大系』86 岩波書店)があり、それは、当時の江戸前の言葉で書かれていて、まるでその場にいるかのような、落語を話すかのような名調子であり、あの十辺舎一九(じっぺんしゃいっく、1765~1831)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』などとともに、私はこれらの作品もまた日本古典文学の第一級の作品だと思っているのだが。

 ともかく、再び私の子供時代の話に戻るが、そうした銭湯の風呂場で、ようやく何日かに一度、しっかりと手足を洗っていたぐらいの衛生状態だから、今の子供のお母さんたちから見れば、”後進国の子供かっ!”とマジギレされそうな日常を送っていたのだ。
 しかし、そうした非衛生的な、雑菌がうようよしている状況の中で育ってきたからこそ、その間に抵抗力がついて、滅多なことでは体をこわさないつくりになっていたのかもしれない。
 最近では、2年前の賞味期限切れの缶詰を食べたり、2か月前に賞味期限切れになっていたヨーグルトを食べたこともあるのだが、平気だった。
 もっとも、新しい医療としては、子供たちに、あらかじめ毒素を弱めたワクチンを打つようなこともあるようだが・・・。 

 考えてみれば、今の清潔な家庭生活環境と、さらに殺菌への配慮が行き届いた社会の中で育ってきた子供たちは、確かに世界の後進国の貧困家庭子供たちがかかることの多い、伝染病や疫病などで命を落とすことはまれなことになっているのかもしれないが、その代わりに幼い時から、私たちの子供の時代には聞いたこともなかった病名の、食物アレルギーや花粉症などにかかる子供たちが多くなっていることも確かである。

 もちろん私は、昔の非衛生的な時代のほうが良かったなどと言っているのではない。 
 もともと、地球上の一生物として生まれた私たち人間は、当然のごとく子供のころから他の生き物たちと同じように、自然の中で遊び、土にまみれて汚れて育ち成長ていくべきものなのに、今の都会の子供たちは、砂場でさえも殺菌された所でしか遊べないし、土そのものにふれる機会すらないのではないのか、アルマーニの制服を着て、コンクリートの壁に守られて。

 そうした、限られた環境の中で育っている子供たちと比べれば、私たち世代の人間は、子供時代はいつも外で遊んで、汚れて帰って来るのが当たり前だったのだ。
 極端な場合を言えば、ある時、田舎の母の実家に遊びに行った時に、畑のあぜ道のそばにあった、肥溜(こえだ)めのたまりの中に落ちて、全身ウンチまみれになって、泣きながら小川で体を洗ったものの、その臭いはとれるはずもなく、その日は周りの仲間からも、家族からも総スカンをくって、仕方なく皆から離れて一人で過ごしたものだった。
 自分でもいやになるほど、いつまでも取れないウンチの臭いを感じつつ・・・。

 そんな極端なまでの非衛生的な環境で育ってきたからこそ、いつの間にか様々な抵抗力がついていて、さらに最近では、追加対策としての梅ジャムをずっと食べているから、風邪をひくこともなく、食物アレルギーや花粉症などとは無縁のものだと思っていたのだ。 
 ところが2年ほど前から、この時期になると、外から帰ってきた後などに、目が少しかゆくなったり、目が乾燥してしょぼついたりするようになってきたのだ。 
 ゲッ、これはまぎれもなく花粉症の症状なのではないのか。
 子供のころ不衛生な所で育ってきたから、それが幸いして、アレルギーに対する抵抗力となってずっとあるものだと思っていたのに、それは何と、一生モノではなかったのだ。 
 つまり年を取ってきたということ自体からくる、抵抗力の弱体化が、この私にも起きてきているということなのだろう。

 思い返してみれば、年を取ってきてから気づくことが多いのだが、体のあちこちの小さな異変、昔から顔が悪い、頭が悪いなどということは、もう長い間の自分のことだからとあきらめはつくものの、眼鼻口、足腰手足の衰えは、今や覆い隠すべくもなく、これは神様からの、老い支度(じたく)、死の支度を日々心得ておくようにという、ありがたいお告げなのかもしれないと思うのだ。

 そういうことからも、常々、限られた残りの人生だと思っているのだが、ここで改めて、あのハイデッガーの『存在と時間』の理論を繰り返すまでもないことだが、人間は自分が生きていることで、他の物の存在を認識するし、自分の本来的な目的終着点である死を意識することで、残された時間、つまり本来の有意義な時間を知ることができるのだ。

 この冬に(1月から2月にかけて)、何度も訪れた冬景色の九重の山々、2年前の八甲田の樹氷群(’16.3.14の項参照)からさかのぼり、夏の北アルプス鹿島槍と五竜('15.8.4~17の項参照)、蔵王での雪氷芸術の数々('14.3.3~10の項参照)、夏の北アルプス裏銀座の山なみと黒部五郎岳('13.8.16~26の項参照)、初冬の燕岳から大天井岳('12.11.8~19の項参照)、夏の南アルプス北岳から塩見岳('12.7.31~8.16の項参照)などなど・・・おそらくは500回は超すだろう、私の山行歴は、誰のためでもなく、ただわがままで自分勝手な、私のためだけに登ってきた山々の記録であり・・・そんな山登りの人生を送らせてもらえて、幸せだったと思う。ありがとう。

 年を取り、体が弱ってくると、どうしても人は、残された時間が少ないことを考えるようになり、今までのことを振り返っては懐かしみ、そうした思い出をよみがえらせては、繰り返し何度も咀嚼(そしゃく)し味わうようになるのだが、それが今では、生きていくための三度の食事のようになっていて、はい、年寄りは同じ話を何度もしたがるものでありまして・・・。

 この数日、明らかに春の息吹きを感じさせるほどに、すっかり暖かくなってきて、山の中にあるわが家でも、冬の初めに咲いていたサザンカの花の後、久しぶりに咲いたのが、このユスラウメの花だったのだ。 
 何事が起きようとも起きなくても、人が死のうが生きていようが、こうして春の息吹きにふれては、梅の花が咲き、やがては他の花たちも咲き始めて、春になっていくのだ。そして夏が来て、秋になり、また冬が来て・・・人の世もまた移り変わって行くのだろう。

「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき」

(『伊勢物語』在原業平(ありはらなりひら)を主人公にした歌物語 角川文庫)