12月28日
朝から、雪が降っている。この五日間ほどは、曇り空や小雨の時もあったが、おおむね晴れた天気の日が続き、毎日、飼い主と一緒に散歩に出かけられたのに、今日から雪の日が続けば、また寝てるしかないのだ。
飼い主は、何やら忙しそうに動き回っている。人間たちにとって、歳末というものは、なんとか年内にいろいろな物事を片づけようとして、気ぜわしくなるものらしい。
人間は、一体どうして、止まることなく動き続ける時の流れを、区切りたがるのだろうか。過去から未来へと、ただ流れていくだけ時の中に、ただ黙って身を任せていればよいものを。
今日までに、明日までに、今週中に、そして今年中にと、自分を追い込んで走り続ける人間たち。
彼らは、羽根車の中で、回り続けるハツカネズミを見て笑うけれども、実は、自分たちもまた、そのハツカネズミの仲間だということに気づかないのだ。
ワタシたち動物は、人間ほどに無駄に発達した脳組織がない分、物事を単純に考えられる。つまり、人間たちほどに、あれこれ悩まないということだ。
ワタシにとって、晴れた日には飼い主と散歩に出て、ベランダで日向ぼっこをするし、こうした雪の日は、ただ寝るだけのことだ。
昨日?そんな昔のことなど憶えていない、明日?そんな先のことなどわからない、とか言った人間もいたそうだが。(横から飼い主の声)「それは映画『カサブランカ』の中での、ハンフリー・ボガートの名セリフだ」。
つまり、ワタシが言いたいのは、今を生きることだけが、一番大切なことだということだ。人間の世界では、考えすぎて、悩みすぎて、自らの命を絶つ人もいるという。
しかし、どんなつらい出来事も、どんな悲しい思いも、いつしか時の流れが、ほんの少しずつだが、それらを遠くの彼方へと運んでくれるものだ。
これもまた飼い主から聞いた話だが、映画『ライムライト』の中でチャップリンが言っていたそうだ、「時は偉大な作家だ。いつも完璧な、結末を用意してくれる」と。
人間たちの中には、こうして、生きることの意味を良く分かっている人たちもいるのだ。ワタシは、ストーヴの前で横になりながら、飼い主の話を聞いていて、考えたのた。
ワタシも、つらい過去の思い出はいっぱいある。しかし、それを、思い出したところで何になる。つらかったこと、悲しかったことは、その時にいっぱい悲しんでしまえばいい、後は少しずつ忘れていくようになるから。
それにしても、暖かいストーヴの炎の前で、だらーっとして寝ているのは気持ちがいい。いつしか、ウトウトと、ハツカネズミが一匹、ハツカネズミが二匹・・・。
「朝から午前中にかけて、ほんの2,3cmほど雪が降った。午後になると青空が広がったが、それもつかの間で、そのまま曇り空の寒い一日になる。気温は、朝ー5度と冷え込んで、日中もやっと1度まで上がっただけだ。
ミャオも、一日中、ストーヴの前から離れない。時々、ミルクをなめに起きて、トイレのためだけに外に出る。ほとんどは寝ている。時の過ぎゆくままに・・・。
数日前に、近くの山に登って来た。前回の、十勝岳(11月9日の項)から何と一カ月半も間が開いてしまった。平均すれば、一カ月に二回くらいの、山登りのペースが、少しずつ伸びてきている。
歳のせいだと言われれば、それまでだが、もうずっと同じ山ばかり行っているから、今一つ意欲がわかないこともあるのだが。
しばらく雪の日が続いた後、ようやくその前の日の午後から、晴れてきた。朝6時すぎに、家を出る。ミャオはコタツの中だ。気温はー6度、空にはまだ星がまたたいている。
手持ちのライトをつけて歩きだす。近くで鋭く、ピュッと、シカが警戒の鳴き声をあげている。車道を40分ほど歩いて、登山口に着く。すっかり明るくなってきた空に、曙(あけぼの)に縁取られた黒い山々の姿が見える。いくらか雲は残っているが、良い天気だ。
手入れもされずに、背たけ以上のササがかぶさる道を登って行く。それでもいつもの雪の後なら、笹に積もった雪が落ちてきて大変なのだが、昨日の午後からの天気で、ほとんどは溶け落ちたらしい。それでも歩きにくく、所々トンネル状になっていて、時には身を屈んで行かなければならない。
しかし、本来、登山道はこのくらいの方が良い。本当に山に登りたい人たちと、動物たちだけが登るための、踏みわけ道で十分なのだ。10cmほどの雪の上には、幾つもの動物たちの足跡がついている。シカ、イノシシ、タヌキ、ウサギなどだ。
やがて、しばらく登ったところで、樹林帯の中に、赤い光が差し込んできた。日の出だ。足元の雪面が赤く染まっている。もっと上の、見晴らしが開ける所で、この朝焼けの景色を見たかったのだが、少し遅れてしまった。それでも林の中に入ってくる朝の光が、ことのほか目新しく新鮮だった。
一休みした後、登っていくと、樹林帯を抜けて、アセビやミヤマキリシマの大きなカブが点在する、カヤ(ススキ)の尾根になる。周りの山々が、青空の下に立ち並んでいる。
しかし、尾根の上部に上がるに従って、風が強く吹きつけ、頭にかぶっていた毛糸の帽子の、汗でぬれている部分が凍るほどだった。雪は20~30cmほどで、たいしたことはないのだが、その風のために、身が縮むほどに寒かった。
ともかく、あの西側の方が背の高い灌木帯になっている、頂上稜線まで行ったら、風が少しさえぎられるだろうと登り続けた。
その時にふと考えたのだ。人は、生命の危機にさらされた時に、本能的に強く生きたいと思い、必死になってその危地から抜け出そうとするのだ、と。他の動物たちがそうであるように。
例えば、地面を歩いている一匹のアリがいる。そのアリに、手を伸ばして捕まえようとすると、そのアリは必死になって逃げ回るだろう。得体のしれない巨大な生き物が、自分を殺そうとしているのだと思って。
つまり、人間は、人間社会という、動物たちの世界から比べれば、極めて安全な社会の仕組みの中に居続けると、いつしか本能的な死の恐怖から離れて、死というものを別な意味でとらえるようになるのではないのか。
死は、自己の存在を断つものであり、本来、動物本能的には、絶対に避けるべきものであったはずだが、今日では、いつしかその本能の思いから外れて、ごく少数の人たちにとっては、逆の意図として、自己の存在否定への目的となっているのだ。
最近のニュースで知ったのだが、日本の自殺者の数が、何と12年連続して、3万人を超えているという。もちろんそれぞれの場合に、それぞれの理由があるだろうから、一概に、なぜに自殺をとは、問いかけられないだろうが。
そのことを、私は、寒さに震えながら山に登り続けている時に、ふと考えたのだ。というのは、私も、何度も命の危機にさらされた事があるからだ。
それは、ひとりでいた時に起きた。まず子供のころ川で溺れたこと、オーストラリアの砂漠の中で途方に暮れたこと、冬の山で吹きすさぶ風雪の中、必死に下山ルートを探し続けたこと、沢登りの途中、足を踏み外したこと、などなどと脳裏に浮かんでくる。
しかし、それらのいずれの時も、私は、当然のことながら、絶対に死にたくない、なんとかして生きるんだと強く思ったのだ。
私は何も、自ら命を断とうと考えるくらいなら、その前に命の危機にさらされるような経験をしてみるべきだと、単純に言っているのではない。ただ、人間である前に、人もまた動物であって、本能的に生きるべく創られたものなのだということだ。
さらに、もう2カ月ほど前のことだが、NHKの”クローズ・アップ現代”で『助けてと言えない~いま30代に何が~』が放送されて、大きな反響を呼んでいたが、それは、職を失った39歳の男が、アパートの一室で餓死していた、というショッキングなニュースを取り上げたものだった。
さすがに、あの”クローズ・アップ現代”の番組だけあって、現代の一断面である社会問題を、見事な切り口でまとめていた。
しかしここで、私ごときが改めてこの問題について、論評するなどということはできるはずもないが、ただ思うことが一つ二つある。
それは、自殺者が、男女半々とかではなく、男性にはるかに多く、さらに30代よりも40代や50代の方に多いということ。つまり”助けてと言えない”のは、何も30代ばかりでないということ。
そして、次に思うのは、もしひとりっきりの彼が、死に至る前までに、多くの本を読んでいたら、あるいは良き映画をたくさん見ていたらということだ。同じ悩みを持つ人が、本の中で語り合い(12月20日の項)、あるいは映画の中で語り合えることによって、自分の悩みが軽減され、さらにそこで、将来への道の何かしらのヒントを、見つけられたかもしれないと思うからだ。
しかし時代は、本を読まない、良い映画を見ないという風潮になってしまった。ただすぐに結果が分かる、単純な刺激を求めるだけになってしまった。
刺激を求めて今だけを生きることと、本能を畏(おそ)れて今を生きるということは、相反するくらいに意味が違うことだ。
などと、私は、雪の山道を登りながら考えていた。そして、頂上に着いた。空は晴れ渡り、周りの山々がきれいだった。しかし相変わらず風が強く、汗ばんだ体には寒すぎた。すぐに山頂を後にして、途中からもう一つのコースへと回って、下りて行った。
動物たちの足跡だけがある道をたどり、尾根から再び樹林帯の中に入って行った。見上げると、白い雪のついた木々の枝がきれいだった(前回写真)。
今回は、4時間半ほどの、軽い雪山ハイクだった。家に帰ると、ベランダで日向ぼっこをしていたミャオが、ニャーと鳴いて、私を迎えてくれた。」