8月26日
はっきりと冷え込んできた。
朝の最低気温は、11℃。
9月下旬のころの温度だということで、もうTシャツ一枚では、ムリ。
長袖のトレーナーを着て、それでも朝夕は、その上にフリースも重ね着する。
こうした秋の気配が感じられる日々の中に、まだ時々、夏の熱気も残っていて、気温が25℃近くになる日もある。
上の写真は、二日前、少し暑くなった日の夕方、日高山脈上に、山々の頂きの上に連なる層雲を突き抜けて、夏の名残の積乱雲が盛り上がっていた。(写真上)
夏の盛りのころの、わき立ち昇る入道雲とは違う、その勢いを抑えられてなだらかになった積乱雲。
ここにも、秋の気配がひとつ。
ところで、このくらいの涼しさになると、あの暑い気温の中で、飛び回っていたアブや蚊の動きが目立たなくなってくる。
何度も書くことだが、あの巨大なウシアブの羽音はすさまじく、刺されると飛びあがるほど痛いし、小型のメクラアブは、気がつかないうちに体にとまりチクリと刺すからたまらない、そして、蚊の羽音はもう顔のそばを飛び回られるだけでもイヤになる。
つまり、涼しくなってくるということは、それらの吸血昆虫が少なくなるということでもあり、外での庭仕事がやりやすくなるということなのだが、いったん”ぐうたら”の味をおぼえたこのじいさんは、なかなか立ち上がろうとはしないのだ。
前から言っているように、庭の芝草はもう数十㎝にも伸びて、周囲の草地と同化して、さらには最近、あのブドウ科ツル性のヤブガラシの草が、周りの草地の全体を覆いつくすほどに茂っていて、何とかこれも刈り取り駆除しなければならないと思っているのだが。
そういえば、駆除で思い出したのだが、1週間ほど前に、札幌市郊外の住宅地にヒグマが現れて、家庭菜園のトウモロコシや果樹の果実などを食い荒らして、10日あまり出没していて、周りの住人達は外にも出られず、夏休みが終わり子供たちの登下校が心配だという声も上がっていたのだが。
市側はそれに対応して、まず捕獲罠(わな)を設置したのだが、それにはかからず、人も恐れずに歩き回るようになり、ついに札幌市では駆除することにして、夜、住宅地から離れた緑地内で、猟友会の手により駆除されたという事件だったのだが、何よりも、地元の人たちのこれから安心して歩けますという笑顔が印象的だった。
(さらに、最近もまた札幌市の別の地区で、果樹園などがヒグマによって荒らされている被害が出たそうで、まだまだ地元民の心配は絶えないだろう。)
ところが、今回のその事件を知った全国の人から、札幌市役所に抗議の意見をする人々の電話が500件余りも寄せられていて、それはつまり、駆除するのではなく、麻酔銃で撃って眠らせて山に帰してやるべきだった、という意見が大半だったそうであり、あくまでも動物保護や、クマ性善説に立つ人々からの非難の声だったのだろうが。
一方では、今回のヒグマ駆除に対しての市のアンケート調査では、北海道民の6割以上が賛成だと答えたそうだ。
ヒグマに関する問題は、私が何度も山で遭遇したことも併せて、このブログ記事の中でも何度も取り上げてきているのだが(2008.11.14の項参照)、今回の札幌の住宅地での事件に関連して、またここで改めて基本的なことから書いておくことにする。
成獣のヒグマは、体調2m以上になり、体重も400㎏を超えるものもいて(知床で捕獲記録)、とても人間がまともに戦える相手ではなく、強力なツメのついた前足のひと払いだけで、人間の頭が吹き飛ぶというほどに、上腕の力が強いとされている。
今回駆除された8歳になるメスのヒグマは、体長140㎝体重128㎏ということで、ヒグマの中では小さい方かもしれないが、内地に棲むツキノワグマと比べれば、大きい方になり、最近では東北地方でも多くの死傷者を出しているほどである。
ただヒグマの場合は、子連れのクマを除いて単独行動で生活していることが多く、用心深く、人間を見れば逃げる場合がほとんどである。
私の登山中での、数回に及ぶヒグマ遭遇でも、すべてはヒグマの方が先に逃げてくれて事なきを得たのだが、言えることは、むやみに恐れ騒ぎ立てることもないということだ。
しかし、ヒグマによる登山者襲撃事件として有名なのは、もう50年近くも前のことになるが、あの日高山脈カムイエクウチカウシ山(1979m)で、大学山岳部の学生たちが若いメスのヒグマに襲われて、3名が死亡した事件だろうが、その後長い間、登山者が襲われた事件はなかったのに、今年7月中旬、相次いで単独行登山者が二人、同じ八ノ沢カールのテントサイトで、体調1・5mほどの若いにヒグマに襲われて負傷するという事件が起きている。
ヒグマが、同じ場所で登山者をねらって襲ったということは、その若いヒグマがそこに行けばエサにありつけると学習していたからではないのか。
つまり、その前にそこでテントを張っていた人たちがいて、多少とも残飯を残していたからではないのか、とも考えてしまうのだ。(ヒグマの生息地である北海道の山で、テント泊をする場合、残飯はおろかラーメンのスープなども捨てずにすべて飲んでしまうべきである。それが自分を守ることにもつながるからだ。)
私は、カムイエクウチカウシ山にはいずれも単独行で、3度行っているが、一度目は同じように八ノ沢カールにテントを張ったのだが、どうにも昔の事件が気なって眠れず、次からは山頂直下にテントを張っていた。
北海道では毎年、山菜取りで山に入った人たちの被害が何件かは起きていて、その中でも私の記憶に強く残るのは、9年前この十勝平野の帯広郊外の広野町で、そこは平坦な平野部の細長い防風林の中だったのだが、夫婦で山菜取りに来たご夫婦の妻の方がヒグマに襲われて、命を落としたのだ(検死は頭がい骨骨折)。
この事件は、私にとってもショックだった。山の中や山裾で襲われたのならまだしも、平野部の小さな林の中での出来事だったからだ。
しかし、ヒグマがこうした平野部でも、夜陰に紛れて小さな林伝いに移動することは、それまでにも聞いていたし、現に私の家の猫の額ほどの畑にヒグマの足跡がついていたことがあったし、近くの林の中でヒグマのフンを見たこともあったくらいだから、とても他人ごとには思えなかったのだ。
ましてや、200万都市札幌の住宅地に現れるヒグマの動画ニュースを、住民たちはどんな思いで見ていたことだろうか。
今回駆除されたヒグマについて、批判の意見を述べた人たちは、大半が北海道以外の人たちだとのことだが、恐らくは、彼らの家は周りにヒグマなどいない、都市部の住宅地なのではないのか、さらに言えば彼らは、大型獣への麻酔銃の効果と失敗した場合の危険性について、十分に理解したうえで批判しているのかと思ってしまう。
最初は、札幌市が穏やかな解決策として、捕獲罠(わな)で捕まえようと3か所に設置したがうまくいかず、麻酔銃では問題があるし、そうこうしているうちに、そのヒグマが人なれして大胆にも住宅地を歩き回るようになり、札幌市としても最終的に駆除することに決めたのは、被害者が出る前にというやむを得ない決断ではなかったのか。
批判する人たちにとって、自分がその住宅地の住民だったらと考えてほしいものだ。
私は、なにもこうした有害鳥獣駆除にすべて賛成しているわけではない。
私は、数十年にも及ぶ日本野鳥の会会員だし、こうして田舎の林の中の一軒家に住んでいるくらいだから、自然保護に関してはいくらかは知っているつもりなのだが、今回の場合、住民たちの不安と被害の防止について、まず最優先に考えてしまうからだ。
昔、知床縦走の山旅を終えて、戻る途中、砂利道の林道傍でヒグマが草を食べていたのだが、3台ほどのクルマが停まっていて、外に出て、ヒグマに近づいて写真を撮っていた。
私には、とてもそんな危険なことはできないし、速度を落としてその場を通り過ぎたのだが、そうした観光客の姿を見たのもそれだけではない、中には食べ物を差し出している人もいたくらいだ。
動物園の柵の中にいるクマではないというのに。
それはクマだけではない、北や南の日本アルプスなどでは、高山植物を食い荒らすサルやシカの食害が問題になっているが、その現場を見たこともあるし、九州のわが家では、集落周辺にシカの食害が及び、傍にある大木になっていたネムノキが、表皮を食べられて枯れてしまった。もう、あのきれいな虹色の花が見られなくなったのだ。
確かに、シカたちの目はかわいいし、母子猿の姿は見ていてほほえましいし、クマ牧場で飼われているクマたちは愛嬌があって、見ていてあきないし。
思えば、北海道に最初に棲んでいたのは、彼ら獣たちだけだったろうし、その後アイヌの人たちとは、互いに認め合いながら共に暮らしていたのだろうが、和人による移住開拓とともに、彼らの生活圏が次第に狭められていき、今あるように互いの軋轢(あつれき)が表面化してしまうようになったのだ。
しかし、こうなった以上、ここを起点にして何とか解決策を見つけ出さなければならない。
どちらの側が悪いという問題ではなく、まずは人間たちが、先住者である動物たちに敬意を払いつつ、両者が安住できる環境を整備していくことが必要であろう。
それは、知恵のある人間たちにはできることだ。
広大な面積を管理し、人的配置を整えて整備されたサンクチュアリ組織を持つような、動物保護区を創ることなど。
さて、こうしたヒグマ遭遇事件などを見るたびに、いつも思うのは、私の場合でも、幾つかの遭遇がそうであったように、それらはすべて偶然の成り行きだったのである。
もう少し時間的に早ければ、あるいは遅ければ、ヒグマに遭わずにすんだかもしれないし、もっと至近距離で出会っていて、抜き差しならない事態になっていたかもしれないのだ。
つまり、過去のことをこうして話すことができるのも、それらが実は良き偶然の方へとずれていてくれたから、何事も起きないですんだのだと。
それは、考えてみれば、自分の人生は、すべて偶然のつながりで成り立っているということだ。
それが良かったにせよ、悪かったにせよ。
私は、こうした事後の評価として納得するような、偶然論は認めるけれども、それをすべて必然的な結果だとする、必然論や運命論的な見方には、とうていくみすることはできないのだ。
つまり、すべてを必然的なものだと決めつけるほどに、独断的な自尊心にあふれてはいないし、また、すべてを他意的に転嫁して諦めにつなげる、運命論でカタをつけるほどに、なげやりな気持ちではないからだ。
ただ自分の前にあるのは、事実の連続であり、それが今日までつながって私を生かさせてくれたのであり、もし良くないものがあるとすれば、自分の努力で良い方向に持って行こうとすることが大切であり、それが人間たるゆえんでもあり、個人の持つ創意工夫の能力でもあると思うのだが。
人間は誰しも、生まれ落ちてきてこの方、その環境に差はあれども、将来に待ち構えるのは半分半分の幸運と不運であり、それをころ合いの良い、ほどほどの幸せと不幸せの入り混じった人生にして、年寄りになるまで生き伸びてくることができれば、それはもう万々歳(ばんばんざい)の人生であった、ということができるのではないだろうか。
他人の評価がどうであろうとも、何も他人の評価のために生きているのではないのだから、気にすることはないし、
自分は、何はともあれ幸せな一生を送ることができたのだと、思い込めばいいだけの話だ。
”・・・貧乏すれば費用を節約し、病気になると体をいたわるようになる。
どんな心配事も喜びにならないことがあろうか。
だから、達人といわれる人は、順境も逆境も同一視して、喜びも悲しみもともに忘れ去るのである。”
(『菜根譚(さいこんたん)後集120、湯浅邦弘訳 角川文庫)