ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

偶然のつながり

2019-08-26 22:04:56 | Weblog




 8月26日

 はっきりと冷え込んできた。
 朝の最低気温は、11℃。
 9月下旬のころの温度だということで、もうTシャツ一枚では、ムリ。
 長袖のトレーナーを着て、それでも朝夕は、その上にフリースも重ね着する。

 こうした秋の気配が感じられる日々の中に、まだ時々、夏の熱気も残っていて、気温が25℃近くになる日もある。
 上の写真は、二日前、少し暑くなった日の夕方、日高山脈上に、山々の頂きの上に連なる層雲を突き抜けて、夏の名残の積乱雲が盛り上がっていた。(写真上)
 夏の盛りのころの、わき立ち昇る入道雲とは違う、その勢いを抑えられてなだらかになった積乱雲。
 ここにも、秋の気配がひとつ。

 ところで、このくらいの涼しさになると、あの暑い気温の中で、飛び回っていたアブや蚊の動きが目立たなくなってくる。
 何度も書くことだが、あの巨大なウシアブの羽音はすさまじく、刺されると飛びあがるほど痛いし、小型のメクラアブは、気がつかないうちに体にとまりチクリと刺すからたまらない、そして、蚊の羽音はもう顔のそばを飛び回られるだけでもイヤになる。
 つまり、涼しくなってくるということは、それらの吸血昆虫が少なくなるということでもあり、外での庭仕事がやりやすくなるということなのだが、いったん”ぐうたら”の味をおぼえたこのじいさんは、なかなか立ち上がろうとはしないのだ。
 前から言っているように、庭の芝草はもう数十㎝にも伸びて、周囲の草地と同化して、さらには最近、あのブドウ科ツル性のヤブガラシの草が、周りの草地の全体を覆いつくすほどに茂っていて、何とかこれも刈り取り駆除しなければならないと思っているのだが。

 そういえば、駆除で思い出したのだが、1週間ほど前に、札幌市郊外の住宅地にヒグマが現れて、家庭菜園のトウモロコシや果樹の果実などを食い荒らして、10日あまり出没していて、周りの住人達は外にも出られず、夏休みが終わり子供たちの登下校が心配だという声も上がっていたのだが。
 市側はそれに対応して、まず捕獲罠(わな)を設置したのだが、それにはかからず、人も恐れずに歩き回るようになり、ついに札幌市では駆除することにして、夜、住宅地から離れた緑地内で、猟友会の手により駆除されたという事件だったのだが、何よりも、地元の人たちのこれから安心して歩けますという笑顔が印象的だった。
(さらに、最近もまた札幌市の別の地区で、果樹園などがヒグマによって荒らされている被害が出たそうで、まだまだ地元民の心配は絶えないだろう。)

 ところが、今回のその事件を知った全国の人から、札幌市役所に抗議の意見をする人々の電話が500件余りも寄せられていて、それはつまり、駆除するのではなく、麻酔銃で撃って眠らせて山に帰してやるべきだった、という意見が大半だったそうであり、あくまでも動物保護や、クマ性善説に立つ人々からの非難の声だったのだろうが。
 一方では、今回のヒグマ駆除に対しての市のアンケート調査では、北海道民の6割以上が賛成だと答えたそうだ。

 ヒグマに関する問題は、私が何度も山で遭遇したことも併せて、このブログ記事の中でも何度も取り上げてきているのだが(2008.11.14の項参照)、今回の札幌の住宅地での事件に関連して、またここで改めて基本的なことから書いておくことにする。

 成獣のヒグマは、体調2m以上になり、体重も400㎏を超えるものもいて(知床で捕獲記録)、とても人間がまともに戦える相手ではなく、強力なツメのついた前足のひと払いだけで、人間の頭が吹き飛ぶというほどに、上腕の力が強いとされている。 
 今回駆除された8歳になるメスのヒグマは、体長140㎝体重128㎏ということで、ヒグマの中では小さい方かもしれないが、内地に棲むツキノワグマと比べれば、大きい方になり、最近では東北地方でも多くの死傷者を出しているほどである。
 ただヒグマの場合は、子連れのクマを除いて単独行動で生活していることが多く、用心深く、人間を見れば逃げる場合がほとんどである。
 私の登山中での、数回に及ぶヒグマ遭遇でも、すべてはヒグマの方が先に逃げてくれて事なきを得たのだが、言えることは、むやみに恐れ騒ぎ立てることもないということだ。

 しかし、ヒグマによる登山者襲撃事件として有名なのは、もう50年近くも前のことになるが、あの日高山脈カムイエクウチカウシ山(1979m)で、大学山岳部の学生たちが若いメスのヒグマに襲われて、3名が死亡した事件だろうが、その後長い間、登山者が襲われた事件はなかったのに、今年7月中旬、相次いで単独行登山者が二人、同じ八ノ沢カールのテントサイトで、体調1・5mほどの若いにヒグマに襲われて負傷するという事件が起きている。

 ヒグマが、同じ場所で登山者をねらって襲ったということは、その若いヒグマがそこに行けばエサにありつけると学習していたからではないのか。
 つまり、その前にそこでテントを張っていた人たちがいて、多少とも残飯を残していたからではないのか、とも考えてしまうのだ。(ヒグマの生息地である北海道の山で、テント泊をする場合、残飯はおろかラーメンのスープなども捨てずにすべて飲んでしまうべきである。それが自分を守ることにもつながるからだ。)
 私は、カムイエクウチカウシ山にはいずれも単独行で、3度行っているが、一度目は同じように八ノ沢カールにテントを張ったのだが、どうにも昔の事件が気なって眠れず、次からは山頂直下にテントを張っていた。

 北海道では毎年、山菜取りで山に入った人たちの被害が何件かは起きていて、その中でも私の記憶に強く残るのは、9年前この十勝平野の帯広郊外の広野町で、そこは平坦な平野部の細長い防風林の中だったのだが、夫婦で山菜取りに来たご夫婦の妻の方がヒグマに襲われて、命を落としたのだ(検死は頭がい骨骨折)。 

 この事件は、私にとってもショックだった。山の中や山裾で襲われたのならまだしも、平野部の小さな林の中での出来事だったからだ。
 しかし、ヒグマがこうした平野部でも、夜陰に紛れて小さな林伝いに移動することは、それまでにも聞いていたし、現に私の家の猫の額ほどの畑にヒグマの足跡がついていたことがあったし、近くの林の中でヒグマのフンを見たこともあったくらいだから、とても他人ごとには思えなかったのだ。 

 ましてや、200万都市札幌の住宅地に現れるヒグマの動画ニュースを、住民たちはどんな思いで見ていたことだろうか。
 今回駆除されたヒグマについて、批判の意見を述べた人たちは、大半が北海道以外の人たちだとのことだが、恐らくは、彼らの家は周りにヒグマなどいない、都市部の住宅地なのではないのか、さらに言えば彼らは、大型獣への麻酔銃の効果と失敗した場合の危険性について、十分に理解したうえで批判しているのかと思ってしまう。
 最初は、札幌市が穏やかな解決策として、捕獲罠(わな)で捕まえようと3か所に設置したがうまくいかず、麻酔銃では問題があるし、そうこうしているうちに、そのヒグマが人なれして大胆にも住宅地を歩き回るようになり、札幌市としても最終的に駆除することに決めたのは、被害者が出る前にというやむを得ない決断ではなかったのか。
 批判する人たちにとって、自分がその住宅地の住民だったらと考えてほしいものだ。

 私は、なにもこうした有害鳥獣駆除にすべて賛成しているわけではない。
 私は、数十年にも及ぶ日本野鳥の会会員だし、こうして田舎の林の中の一軒家に住んでいるくらいだから、自然保護に関してはいくらかは知っているつもりなのだが、今回の場合、住民たちの不安と被害の防止について、まず最優先に考えてしまうからだ。

 昔、知床縦走の山旅を終えて、戻る途中、砂利道の林道傍でヒグマが草を食べていたのだが、3台ほどのクルマが停まっていて、外に出て、ヒグマに近づいて写真を撮っていた。
 私には、とてもそんな危険なことはできないし、速度を落としてその場を通り過ぎたのだが、そうした観光客の姿を見たのもそれだけではない、中には食べ物を差し出している人もいたくらいだ。
 動物園の柵の中にいるクマではないというのに。

 それはクマだけではない、北や南の日本アルプスなどでは、高山植物を食い荒らすサルやシカの食害が問題になっているが、その現場を見たこともあるし、九州のわが家では、集落周辺にシカの食害が及び、傍にある大木になっていたネムノキが、表皮を食べられて枯れてしまった。もう、あのきれいな虹色の花が見られなくなったのだ。
 確かに、シカたちの目はかわいいし、母子猿の姿は見ていてほほえましいし、クマ牧場で飼われているクマたちは愛嬌があって、見ていてあきないし。

 思えば、北海道に最初に棲んでいたのは、彼ら獣たちだけだったろうし、その後アイヌの人たちとは、互いに認め合いながら共に暮らしていたのだろうが、和人による移住開拓とともに、彼らの生活圏が次第に狭められていき、今あるように互いの軋轢(あつれき)が表面化してしまうようになったのだ。
 しかし、こうなった以上、ここを起点にして何とか解決策を見つけ出さなければならない。
 どちらの側が悪いという問題ではなく、まずは人間たちが、先住者である動物たちに敬意を払いつつ、両者が安住できる環境を整備していくことが必要であろう。
 それは、知恵のある人間たちにはできることだ。
 広大な面積を管理し、人的配置を整えて整備されたサンクチュアリ組織を持つような、動物保護区を創ることなど。

 さて、こうしたヒグマ遭遇事件などを見るたびに、いつも思うのは、私の場合でも、幾つかの遭遇がそうであったように、それらはすべて偶然の成り行きだったのである。
 もう少し時間的に早ければ、あるいは遅ければ、ヒグマに遭わずにすんだかもしれないし、もっと至近距離で出会っていて、抜き差しならない事態になっていたかもしれないのだ。
 つまり、過去のことをこうして話すことができるのも、それらが実は良き偶然の方へとずれていてくれたから、何事も起きないですんだのだと。
 それは、考えてみれば、自分の人生は、すべて偶然のつながりで成り立っているということだ。
 それが良かったにせよ、悪かったにせよ。
 
 私は、こうした事後の評価として納得するような、偶然論は認めるけれども、それをすべて必然的な結果だとする、必然論や運命論的な見方には、とうていくみすることはできないのだ。
 つまり、すべてを必然的なものだと決めつけるほどに、独断的な自尊心にあふれてはいないし、また、すべてを他意的に転嫁して諦めにつなげる、運命論でカタをつけるほどに、なげやりな気持ちではないからだ。

 ただ自分の前にあるのは、事実の連続であり、それが今日までつながって私を生かさせてくれたのであり、もし良くないものがあるとすれば、自分の努力で良い方向に持って行こうとすることが大切であり、それが人間たるゆえんでもあり、個人の持つ創意工夫の能力でもあると思うのだが。

 人間は誰しも、生まれ落ちてきてこの方、その環境に差はあれども、将来に待ち構えるのは半分半分の幸運と不運であり、それをころ合いの良い、ほどほどの幸せと不幸せの入り混じった人生にして、年寄りになるまで生き伸びてくることができれば、それはもう万々歳(ばんばんざい)の人生であった、ということができるのではないだろうか。 
 他人の評価がどうであろうとも、何も他人の評価のために生きているのではないのだから、気にすることはないし、
自分は、何はともあれ幸せな一生を送ることができたのだと、思い込めばいいだけの話だ。

 ”・・・貧乏すれば費用を節約し、病気になると体をいたわるようになる。
 どんな心配事も喜びにならないことがあろうか。
  だから、達人といわれる人は、順境も逆境も同一視して、喜びも悲しみもともに忘れ去るのである。”

(『菜根譚(さいこんたん)後集120、湯浅邦弘訳 角川文庫)


十勝の夏

2019-08-19 21:06:34 | Weblog

 




 8月19日

 霧模様の肌寒い朝。
 気温、13℃。
 外に出て、用をすませた私は、肩をぶるっと震わせて、ひとりつぶやく。
 
 ”・・・夏ももう終わりね」おまえが言った。
 ”・・・もう秋だ」僕が答えた。

 (『ジャム詩集』より「哀歌第十四」堀口大學訳 新潮社文庫)

 東京にいた若いころ、長い夏の暑さから、ある日ふと秋の涼しさが部屋の中に入ってくるころ、それは私の一番好きな季節の変わり目の時でもあったのだが、朝寝ている枕元にさらりとした感触のそよ風が入ってくるころ、それはあのべとついた夏の湿気からは、ようやく解放されることを意味していたからだ。

 まだ部屋にクーラーがない時代、扇風機だけに頼っていた時代、いつも朝になると、首周りの不快な汗で目をさましていたものだが、しかしこうして、秋の到来の先駆けとなるこの小さなそよ風が入ってくると、私は美しい景色を目の前にしているときのような、すがすがしい気分になったものだった。
 そして、まるで映画の一シーンのように、寝ている彼女の顔に軽く唇を押し当てたりして。
 私にも、そんな若いころがあったのだが・・・。
 もっともその時期は、まだずっと先のことで、東京での残暑が終わる9月半ばのころのことだった。

 今のこの家では、夏の間、二階の窓を開けて寝ていて、そこから入ってくる、むしろ肌寒いほどの冷気に、ふと東京にいた若いころのことを思い出したのだ。
 もちろん今では、もうそのころの私の姿かたちを思わせるものは何もなく、ただ老いさらぼえた年寄りの私がいるだけなのだが。
 それでいい。私は、今さらあの頃に戻りたいとは思わない。
 なぜなら、若いころには若いころの、歓喜する楽しみと激情があり、年寄には年寄りのひそやかやかな”愉(たの)しみ”と落ち着きがあるからだ。
 人は誰でも、その自分の年相応の”たのしみ”を見つけていけばいいだけの話である。
 思い出は、記憶としての愉しみにはなれるけれども、決して今の楽しみではありえないのだから。

 ともかく、この8月の北海道十勝地方の天気には、あまりにも大きな振り幅があって、もう何十年にもわたって十勝の夏を経験している私にとっても、少しは異常ではないのかと思わせるものだった。 
 7月、私は九州にいて、その本場の暑さにあえいでいたのだが、そのころ十勝地方は曇り空で、気温の低い日が続いたとのことであり、それが私が戻って来た8月初めのころには晴れていて、内地並みの暑さになっていた。
 確かに、家は丸太づくりだから断熱効果に優れていて、外の気温が30℃を越えていても、家の中は22,3℃くらいで、ちょうどクーラーの効いた部屋にいる感じだが、それもさすがに何日もはもたずに、しだいに家も温められて、あのいやな夏の湿気が家の中に入り込んできてしまうのだ。
 そんな湿った暑さが苦手な私は、小さな扇風機に頼るほかはないのだが、ありがたいのは、気温が朝夕には15℃前後にまで下がってくれて、その冷気を家の中に取り入れては、日中は自作の二重ガラスの窓を閉めていて、さらに日差しがきつい時は、雨戸までも閉めて引きこもり状態になるのだが、元気な若者たちの高校野球でも見ていれば、何とか十勝の夏はしのげるのだ。

 しかし、今年はその寒暖のさがひどくて、30℃を超えたすぐ後に霧模様の曇り空の天気に変わり、気温は15℃くらいまでしか上がらず、その差は15℃にも及ぶのだ。
 特に、本州では40℃超えの猛暑が続いていたころ、私は毎日フリースの上着を着ていたくらいだ。
 しかし、周りの農家の人には申し訳ないが、私にとっては、この秋を思わせる涼しさがなによりなのだ。
 そこでいつもの、あの有名な西行(さいぎょう)法師の本歌取りから、つたない自作の狂歌を一首。

 ”願わくば 北の空にて 夏死なん その涼しさの 霧の中にて”

 いつも言っていることだが、やはりできるならば、厳冬のしばれる寒さの中で凍り付いたまま逝(い)くというのが、周りの人にも大きな迷惑をかけずに、一番いいとは思うのだが、この涼しい時期の空気の中でも、また悪くはないと思ってしまうのだ。

 前にも何度か書いたことがあるが、十勝地方の夏は、曇り空の日が多く、札幌や旭川ほどに青空の広がる”なつぞら”を見ることは稀なのだが、そのぶん、気温の低い日も多く、過ごしやすくはなるのだが。
 それは天気図を見ればよくわかる。北海道の北、樺太(からふと)や千島の方から、オホーツク海高気圧が舌先のように張り出してきて、その等圧線に沿って、高気圧の風が右回りに海側から吹き付けることになり、暖かい海流と冷たい空気の高気圧が触れ合って霧が発生しては、三方を山に囲まれた十勝地方に入り込んでくるというわけである。

 そうして夏の天気が悪いのに、一年を通しての晴天率は高いのが、この十勝地方の特徴である。
 つまり夏以上に、冬場に晴天の日が多いからである。
 もっとも、冬の間も通してこの十勝にいたのは、いろいろと事情があってわずか4シーズンだけであり、あまり大きな口は叩けないが。
 ともかく言えるのは、寒さが好きな私には、冬の寒さがいやだと思ったことなど、一度もなかったことだけは確かである。
 すべてが雪に覆われた、青空の下の山や丘や林や畑の景観が、いかに素晴らしいことか。
 だから、十勝が好き、八丈島のきょん!(漫画「がきデカ」のこまわりくんのセリフ、意味のない感嘆詞)

 ついでに、この真夏の暑さの話題に関していえば。
 内地では、15日の日に、最高気温が40℃を超えるところが続出し、何と次の日の最低気温も30℃を下回ることがなかったという。
 夏の暑さに弱い私には、そんな気温など、ああ想像するだに怖ろしい。
 思えば9年前、あの東北の飯豊山(いいでさん)への登りで、一時意識が混濁するほどになり、やっとの思いで杁差(えぶりさし)小屋にたどり着いたことがあったが、あれは今にして思えば間違いなく熱中症になっていたのだろうが、しかし、その小屋のすぐ上にある杁差岳(1636m)からは、ニッコウキスゲの群落の彼方に遠く、飯豊本山(2109m)が見えていたのだ。(2010.7.30の項参照)

 話がすぐにわき道にそれるが、元に戻して、夏の暑さについて。
 昔は、この帯広十勝では、クーラーを入れている家など少なかったのだが、今では各家庭の常備品になっている。
 そこで、1週間ほど前、十勝の新聞チラシを見ていて気付いたのだが、その家電広告の一枚には、何とクーラーと灯油ストーブの特売が、二台並んで載っていたのだ。
 本州ではありえないことだが、北海道ではもう9月終わりにはストーヴを入れるくらいだから、さほど早い広告だとは思えないのだが。

 さらに、またしてもヘビの話だが、家にはその内外に数匹のヘビがいるだろうことは前にも書いたのだが、さらに先日テレビを置いてある部屋に、そのヘビの一匹が入り込んできて、さすがに生で捕まえる勇気はないので、タオルでつかもうと準備していたら、もうしっぽの先だけになって取り逃がしてしまった。
 そこはテレビなどの配線が並んだすき間のところで、ごちゃごちゃしていて、見つからない。
 ネットで調べると、ヘビを捕獲する器具や薬品などもあるとのことだが、無益な殺生(さっしょうを)を避けるためにも、窓を開けておいて、外に出て行ってもらうのを待つのが一番だということも書いてあった。
 ネットの書き込みは、すべてが信用できるわけではないのだが、最後のこの一言は、さすがに日本ならではの回答だと思った。

 で、その後しばらく窓を開け閉めしていたが、もう1週間たつのに、出て行ったのかどうかは分からない。 
 蛇は一二週間何も食べないでも、生きていけるとの記述もあるのだが。
 そして、これは同じヘビではないと思うのだが、いつもの玄関の小屋根で、黒っぽい蛇が日光浴をしていたのだ。
 春から初夏にかけては、よく見かけたこともあり写真に載せたこともあるのだが、今は夏の盛りで、この時期に見たのは初めてだったが、考えてみると、そのヘビの気持ちも分からないではない。
 つまり30℃前後の暑さが続いた後、今度は15℃くらいの肌寒い日が続いていて、私もフリースを着こんでいたぐらいだから、変温(冷血)動物のヘビには寒すぎて、体を温めに出てきたのだろうが。 
 まだまだ、この”蛇屋敷”のわが家では、何が起きることやら。あな、怖ろしや。

 いつもなら、この家に戻って来てから、特に涼しい朝のうちに、一週間程かけて、道沿いや庭の草刈りをしてしまうのだが、今年は、”ぐうたらもここに極(きわ)まれり”と、一向に働く気がしなくて、庭の芝草は数十センチにも伸びて、もうどうにもならない状態になり、その上に、最早シラカバの枯葉が舞い落ちて来ていた。(冒頭の写真)
 北海道の秋は、もうすぐそこまで来ているのだ。

 ところで前回前々回と2回にわたって書いた鳥海山(ちょうかいさん、2236m)についてだが、私は秋田県象潟(きさかた)の宿の人たちが言っていたように”ちょうかいさん”と記したが、日本百名山の記載も”ちょうかいさん”だったのだが、市販の地図帳には”ちようかいざん”と書かれてあるし、少し前の鳥海山のビデオに出ていた、山形県庄内平野側の人たちは”ちょうかいざん”と呼んでいた。
 ということは、山形県側の呼び名が”ちょうかいざん”なのかとも思うが、その南側にある月山は”がっさん”と呼ばれているし、調べて行くと、山を、”やま”と呼ぶところ、”さん”と呼ぶところ、そして”ざん”と呼ぶところがあり、他にも中国地方の大山(だいせん)のように”せん”と呼ぶところもあり、単なる発音のしやすさからなのか、調べて行けば、興味深いことではあるが。

 ちなみに、立山は”たてやま”で、富士山は”ふじさん”だし、北海道の羊蹄山は”ようていざん”なのだが。
 羊蹄山は、あの百名山の深田久弥氏によると、後方(しりへ)羊蹄(し)で”しりべしやま”と呼ぶのが正しい呼び名であるとのことだが、今ではその呼び名は忘れ去られているようだし、あの北アルプスの白馬岳(しろうまだけ)が、今では”はくばだけ”と呼ばれているように、時代とともに山の呼び名も変わって行くのだろうか。

                                                                                                                                         


幻の頂き(2)

2019-08-12 22:11:18 | Weblog




 8月12日

 あの日から、もう2週間近くがたってしまった。
 ガスが吹きつける霧の山の中を歩き回り、危うく遭難しかけた、今回の鳥海山(ちょうかいさん、2236m)での道迷い事故について、それを思い出しながらここに書いていくのは、どうにも気がすすまない。

 というのも、道に迷ったことを、これも山の勉強だったのだからと考えるには、私は年を取りすぎているからだ。
 それは、命に危険が及ぶほどの領域に入り込んでしまったということなのだが、今にして思えば、私の数十年にもなる登山歴をもってしても防ぎきれなかった、”逢魔が時(おうまがとき)”のひと時だったと言う他はないのだ。 

 今までに、日本全国で山に登って行方不明になり、いまだに発見されていない遭難者が何人もいるとのことだが、それは捜索隊が探す普通に考えられるルートとは全く別の、考えもつかないような方向へと、迷い込んだからではないのだろうか。
 記憶にも新しい、あの瀬戸内海の島で行方不明になった子供を探すのに、地元の捜索隊では見つけられず、ボランティアで駆け付けた大分のおじいさんが見つけ出したように、どうしてそんなところへ迷い込んだのかと思うのだが、本人には本人なりの考えがあって、自分の決めた方向へと歩いて行っただけなのだろうが。

 今回の私の道迷いも、そうした事例と同じく、自分自身の勘違い判断ミスにあったのだが、さらに大きな理由は、周りの状況が見えない霧の中の雪渓(せっけい)という場所が、私の判断力を混乱させてしまったのだ。
 あれほど、晴天登山を心掛けていた私が、まだ天気の定まらない東北地方の山へ、もうこの歳になれば”山は待ってくれない”からと、さらに交通が混雑する時期を考えての、ぎりぎりの時期を選ぶしかなかったことにも問題はあったのだが。 
 こうして物事がうまくいかなかった時には、人は思い出すことのできる限りの原因を並べたがるものだが、天気の良い日に山に登っていれば、今回の雪渓道迷いなど起きるはずもなく、青空の下の山々と花々の眺めに、すべてはうまくいっていただろうに。

 さて、前回書いたように、私は秋田県南部の象潟(きさたかた)から乗り合いタクシーで鳥海山中腹の鉾立(ほこたて)まで行ったのだが、すでにそこから見る行く手の山頂部には雲がかかり全体を覆っていたが、今さら戻るわけにもいかずに歩き始めたのだ。
 強いガスが吹きつける中、御浜小屋に着き、そこでもどうするか考えたのだが、時間的に早すぎるからとそのまま稜線を七五三掛(しめかけ)までたどり、そこから稜線の道をあきらめて千蛇谷へと下り、雪渓を越えて、頂上下の神社参篭所(さんろうしょ)の御室(おむろ)小屋まであと1時間余りでたどり着く所まで来ていいた。
 そこで、もう一度雪渓をたどり、ペンキ印が付けられた岩を見つけて、その雪の上には足跡がついているのも見て、左に入る小さな雪渓をたどって上がって行ったのだが、この時、そこから右上に行くべきだったのだが、深い霧で5m先が見えないくらいで、手掛かりを見つけられずに直上してしまったのだ。雪渓が終わり、そのままペンキ印も見つけられないまま、雪が消えた後の枯れ草と岩礫の斜面を、強引にたどって行った。

 なぜ、左側に上がって行ったかというと、5万分の1縮尺の市販の登山地図には、雪渓の左上斜面に登山道がついていたからだ。(やはり詳しい2万5千分の1の地図を用意するべきだった。)
 そして、長年、日高山脈の沢から稜線へと上がって行くヤブこぎを何度も経験していたから、ペンキ印を見つけられなくても、上に向かえば斜上する登山道に出会うだろうと思っていたのだ。

 そこから岩塊斜面をたどり、灌木斜面に苦労しながら上がって行った、もうすぐに左から登って来た登山道があるはずだと。
 しかし、この灌木斜面は最悪だった。スゲなどの草が生えているところはまだいいが、ハンノキやハイマツ、シャクナゲなどの灌木が生えているところは、上からは見えないが大きな岩塊帯になっていて、踏み外すと、その岩と岩の間に落ち込んで、またそこから這い上がらなければならないし、間違えば脚を骨折してしまう危険もあったのだ。
 苦闘1時間近く、一瞬霧が薄くなり辺りの様子が見えてきた。
 何と私は、地図上に荒神ヶ岳と書いてある外輪山下の斜面のところにまで来ていたのだ、左手に遠く雪渓らしい所が見えていた。

 腕につけてい高度計コンパス付きの時計で方角を定めて、行きにたどって来た雪渓へと戻ることに決めた。
 しかし、灌木の藪は危険で歩きにくく、私はそこで、これらの灌木などの高さが谷側にそろっているのを見て、その上に体を横たえてゆっくり滑り降りて行くことにした。
 用心深く少しずつ下りてきて、ようやく灌木帯が終わり、雪渓跡の岩稜帯から、雪渓に出て一安心したが、さらにそこで下から3人づれの男の人たちが登ってくるのに出会った。 
 彼らは雪渓上のロープの終わる所から、右の雪の消えた小高い斜面を登って行った。
 道に迷った私としては、彼らが行くその道も信じられなくて、ともかく、二度目の雪渓に入るあの分岐点まで戻って来て、そこからあらためて雪渓を登り始めることにした。
 すると確かに、右側に張られたロープの後には、彼らが登って行った道の所に、幾つもの白いペンキ印がついていて、それはさらに本道の登山道となって上に続いていた。

 そこで、私はやっと理解したのだ。
 ふつう大きな雪渓は、アメーバ状に幾つも小沢に枝分かれをしていて、私はさらに右手にあるその本谷ではなく、左側の小沢に入り込んでしまい、さらに、地図に載っている道は左上にあるはずだからと信じこんでいて、強引に斜面を登って行ったことが間違いだったのだ。 
 しかし解せないのは、左の小沢に入りこんでいくところで岩にペンキ印がついていたことだ。
 もっとも天気さえよければ、人がいなくても、周りを見回せば、右手には下から登って来た道へのペンキ印が見つかったはずなのだ。 
 深い霧の中、辺りに登山者はいなくて、自分のカンだけで登って行った私が悪いのだが。

 ともかく、やっと本道に戻って来られて一安心だったが、体の上半身はパーカーを着込んでいたから、吹きつけるガスにさほど濡れてはいなかったが、先ほどの灌木帯で、靴は中まで水が入り込んでいて、音がするほどにびしょぬれだった。
 そして、そこから御室小屋までの斜面の登りは、道迷いで疲れた体にはこたえた。
 霧の中、小屋にたどり着いたのは、もう4時にもなっていた。
 朝、登山口の鉾立を出たのは7時過ぎだから、何と今日は9時間近くを歩いたことになる。
 コースタイムは4時間半ぐらいだから、私はその倍の時間がかかったのだ。
 普通の人には、このルートは日帰りコースであり、この日も戻ってくる人たちに多く出会った。
 夕暮れ時には、時々日が差してきて、外に出れば頂上稜線が見えたかもしれないが、私には出て行くだけの元気もなくて、小屋で横になっていた。

 翌日も、ガスが吹きつける天気に変わりはなかった。
 私は、あと20分ほどだという山頂に行くのはあきらめた。
 これほど風が強く、ガスの中で展望もきかない山頂に上がったところで、私にはそれでは本当に山に登ったことにはならないと思っているからだ。
 初めての山で、もう登ることもないかもしれないが、何も百名山などを目指してこの山に来たのではないし、鳥海山という山の姿と咲き誇る花の姿を見に来たのだから、それらがかなわなければ、ここですっぱりとあきらめるしかないと思った。
 あのひどい道迷いの後、こうしてケガひとつなく戻って来られただけでもありがたいことなのだから。
 
 私は深い霧の中、昨日疲れ果てて登って来た山腹斜面の道を、所々で岩が濡れているのに注意しながら下りて行き、雪渓に出て、気持ち良く下って対岸に渡り、七五三掛(しめかけ)下の急斜面を何度か休みながら登り切り、相変わらずガスが吹きつけるなだらかなお花畑の稜線に出た。

 晴れていれば、青空の下、咲き誇る花々がきれいだろうに、今はすべてが風になびいて遠くは霧に隠れていた。 
 ただ一つ山陰にまとまった株になって咲いていた、ヤマハハコの群落がきれいで、思わずザックからカメラを出して撮ったのだが(写真下)、結局は二日間の鳥海山登山で写真を写したのは数十枚ほどでしかなかったが、晴れていれば少なくともその数倍は撮っただろうに。



 御浜小屋(1700m)を過ぎると、ようやく湿原地帯に入って行って、吹きつけるガスはだいぶん収まってきたが、もう年寄りの足はヘロヘロになっていて、時々休まなければならなかった。 
 昨日と同じように、ゆるやかな小尾根をたどるころから、雲の中を抜けてきて、行く手には日本海の海岸線が見えていた。
 出発点の鉾立の広い駐車場に着いたころには、日も差していた。下りは、5時間足らずだったが、それでもコースタイムは3時間半だから、昨日余分な脚力を使ったとはいえ、やはりじじいの遅い足に変わりはないということだ。

 予約バスに乗って象潟に戻り、そこで電車に乗り換え秋田に行き、バスに乗り換えて秋田空港に向かい、飛行機に乗って東京羽田空港へ(東北海道から東北へは直通便がない)、前回載せた写真はその飛行機から見た鳥海山なのだが、そう、私が鳥海山を離れた後から、山は晴れてきて以後1週間くらいは天気の日が続いたとのこと。 
 なんてこった、ナンダコット(6768m、戦前日本人がヒマラヤに登った最初の山)、ナタデココ。

 その日は、東京のビジネスホテルに泊まり、翌日の朝一番の便で帯広に戻って来たというわけなのだが、そのころ十勝地方はちょうど蒸し暑くなってきたところで、やっと涼しい所に帰って来たというのに、内地並みの32℃、33℃という日が続いていた。
 今回の山旅は、私の登山史上に残る失敗登山になっただけでなく、それから1週間は湿度の高い暑さにまとわりつかれ(家にクーラーなし)、山の筋肉痛で三日ほどはまともに歩けないありさまで、これでは悪いことだらけで、とても私の持論である、”すべては五分五分”だし”イーブン”になるようになっている、ということにはならなかったのだが。
 まあこれだけのことがあって、体に異変があったわけでもなく元気に戻って来られたわけだから、それが”イーブン”ということなのかもしれない。

 ただ今回のつらい山旅で出会った、どうしても書いておきたい、楽しい事柄を一つ。 
 私は、空の旅ではJALを使うことが多く、今回は便の都合から、福岡ー東京ー秋田と久しぶりにANA便を使ったのだが、離陸前の機内安全ビデオで、映し出された映像に思わず見入ってしまったのだ。 
 あのJALの固苦しい事務的な画面と比べて、何と面白いことか、数名の歌舞伎役者たちが乗客になって安全行動を演じていて、歌舞伎ファンである私ならずとも、楽しめる画面になっていたのだ。
 たとえば、あの隈取(くまどり)をした梅王丸(『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の主人公の一人)ふんする役者が、通路にはみ出ている手荷物にあたり、よろけて六方(ろっぽう)を踏んだり(写真下)、緊急避難時に女形(おやま)の役者がスマホで自撮りしていたりと、思わず吹き出してしまうほどの演技だったし、それに日本語の説明の後で繰り返される、あまりうまいとはいいがたい日本人のCA(キャビンアテンダント)の英語ではなく、ネイティヴの声優さんが、ジョージー・クルーニーみたいな渋い声で、実に分かりやすい英語で話していて、(普段英語とはかけ離れた生活をしている私にもわかるようなやさしい英語を使って)、全く申し分のない機内安全ビデオのメッセージになっていて、私は思わず拍手をしたくなるほどだったのだが。



 しかし、多くの乗客達はこのビデをを見ていなかったし、もっともANAでは去年の11月から機内で流されているのだそうだから、初めて見る私ほどの物珍しさは薄れていて、もう見あきているのかもしれない。
 調べてみると、こうしたビデオは、イギリスの航空会社の機内安全ビデオが先鞭(せんべん)をつけたらしくて、最近ではニュ-ジーランド航空の、あのオールブラックス(世界最強のラグビーティーム)の選手たちが出演してのビデをが好評とのことだが、いずれもyoutubeなどで見ることができる。
 ともかく、離陸前の飛行機で、多少の緊張の中で見る機内安全ビデオに、こうしたウイットのある映像で乗客たちの心を和ませてくれるのは、実に歓迎すべきことである。

 奇しくも今日は、34年前に、あの上州の御巣鷹山にJAL機が衝突して、尊い520人もの命が失われた日なのだ。合掌。

 今日は、夜のテレビ、NHKの『ファミリーヒストリー』を見ていて、興味深く最後まで見てしまった。
 あの世界的指揮者小澤征爾(せいじ)の息子で映画俳優の小澤征悦(ゆきよし)、先日話題になった小泉進次郎の結婚相手滝川クリステルの元彼でもあったのだが、その彼にまつわる祖先の話である。山梨県の農家の出ながら満州に渡り歯科医師になった祖父の家系も、ロシアの血を引く母親美樹さんの家系も、それぞれに曰(いわ)く因縁があり、大きな歴史の中で抗(あらが)い流される人々の運命、誰にしもあるものだろうが、考えさせられることが多かった。母の家系、そして父の家系、私が生きているということ・・・。


幻の頂き(1)

2019-08-05 20:53:58 | Weblog




 8月5日

 上の写真は、数日前の秋田から羽田に向かうANA便からの、雲の上に姿を見せた鳥海山(ちょうかいさん、2236m)のその山頂付近の光景である。
 数日前、東北の名山、鳥海山に行ってきた。

 しかし、天気を選んで山に登っている私にとって、今回は、明らかな失敗登山だった。
 それも、危うく遭難しかけたほどの、完膚(かんぷ)なきまでに打ちのめされ、自分の力を知らされた失敗登山だった。
 数十年近い登山経験のある私でさえ陥ってしまった、大自然の中の陥穽(かんせい)にはまったのだ。
 本当は、この数行だけの結果を書いて、今回のブログ記事を終わりたいほどのみじめな心境なのだが、しかし、これは自分のもう一つの日記であり、ありのままの記録として残しておくべきだと思い、このまま書き続けていくことにした。

 今年は、例年になく日本各地の梅雨明けが遅れていて、九州から近畿そして中部へと、その梅雨明け宣言が出される中で、私は東北地方の梅雨明けを、九州の家でヤキモキとした思いで待っていた。
 これほどまで梅雨の期間が長引いたために、最初に計画していた他の山域への縦走の山旅はあきらめて、長い間気にかけていながら、なかなか登る機会をつくれなかった山の一つであり、東北一の名山との世評に高い、あの鳥海山に登ることにしたのだ。

 私は、それまでに、この鳥海山の姿を何度となく目にしていた。
 昔、何度か行き来したことのある、九州と北海道を結ぶ直行便の福岡ー千歳便は、日本海沿いに鳥海山のすぐそばを飛んで行き、特に春先の雪に覆われた大きな広がりには、いつも驚かされたものだった。
(ちなみに、この直行便に乗れば、今の羽田で乗り換え帯広に行く時の無駄な待ち時間がなく、運賃も一便分だけで安上がりになっていいのだが、なにぶん千歳空港から南千歳、そして石勝線乗り換えでの帯広まで行き、さらにバスに乗り換えなければならず、時間的にも余計にかかるので最近ではめったに使ってはいないのだが。)
 ともかくこの鳥海山は、飛行機から眺めただけでなく、近くの山からも何度もたことがあり、その中でも冬の蔵王から眺めた独立峰らしい姿は、隣の月山(がっさん)の印象的な姿とともに、忘れられない。

 さらに、花の山としても評判高く、固有種のチョウカイフスマとチョウカイアザミなどがあるだけでなく、いたるところにお花畑があるとのことだから、私としては、これはどうしても生きているうちに見ておきたくなる山だったのだ。
 ただし、私の好きなヒナウスユキソウが咲くころに合わせるためには、7月上旬に行きたかったのだが、そのつかの間の天気が続いたのは、私が九州に戻って来てすぐのことで、まだ用事がある中で出かけるわけにもいかず、そうこうしているうちに、梅雨は長引いてだらだらと九州にいる羽目になり、前回書いたように、もうあきらめようと思っていたのだ。
 
 それは、一つには、余りにも細かく区切られた計画を実行できるかどうかわからなくなったからである。
 まず夏休みに入り、飛行機の便が混んできて、空席のある便を見つけることが難しくなってきたことがあるが、ともかくバスに乗って福岡まで行って、福岡空港から羽田乗り換えで荘内か秋田の空港まで行き、その空港からの連絡バスで駅まで行って電車に乗り換え、そうして一日目は、着いたその駅のそばにある予約していた宿に泊まることにして、次の日は、朝に登山口まで行くバスの便も予約が必要だし、上の山小屋も予約がいるし、三日目の帰りも同じ道をたどるとしても、それぞれに予約が必要だし、東京に戻って次の日には、北海道に帰るための飛行機の便の込み具合が気になるし、ともかく、もしそれがだめだった場合の代替案も考えて、細かい計画を立てるだけでも二日はかかってしまったし、などなどのわずらわしさがあり天気の心配も重なって、もうこの年寄りには無理な山だと、あきらめかけていたのだが。

 しかし、自分の年齢を考えれば、行きたい山には今行かなければもう行く時はないのかもしれないし、年を取ってくれば年毎に体力は落ちていき、間違いなく”山は逃げていく”のだからという思いがあって、そこで、月末からの天気予報では晴れのマークがついていたし、もう後は”野となれ山となれ”の心境で、思い切って出かけることにしたのだ。
 
 最初の日は、何とかそれぞれの時間通りに事は運んで、ふもとの宿に泊まり、翌朝、8人の乗り合いタクシーで登山口の鉾立(ほこたて、1160m)まで運んでもらい、いよいよそこから歩き出すことになった。
 天気予報は、少し悪くなり、今日明日ともに曇り時々晴れの予報で、出発してすぐの展望台付近から見た鳥海山山頂付近は、厚い雲に覆われていた。(写真下)





 もう東北南部まで梅雨明けが広がってきているのに、この辺りではその高気圧のへりにあたり、等圧線が少し混んでいて南西からの風が吹きつけてきて、雲に覆われているようなのだが、それでも期待したいのは、風が強ければ、その分雲が吹き飛ばされる可能性もあるわけだからなのだが。

 さて、登山道であるが、上宮としての大物忌神社(おおものいみじんじゃ)が頂上下にあるように、昔から修験道(しゅげんどう)としてだけではなく、一般の参詣(さんけい)登山が行われいたとのことで、この登山道はかなり上の方まで、時々途切れてはいるが、歩きやすい石畳の道が続いていて、当時の石工たちの苦労がしのばれる。
 まだこの辺りまでは、西側には象潟(きさかた)から吹浦(ふくら)などの海岸線が見えて日本海が広がっていたし、さらに北の方には、秋田平野を区切るように、あの大平山(1171m)の山なみが続いていた。
 そこから、まだゆるやかに山腹を回り込むように石畳の道が続き、やがて霧に包まれた湿原帯の入り口に入り、標高1500m辺りのところでもう小さな雪渓が現れてきた。
 この標高で、真夏の盛りにまだ雪が残っているのはと、この山の冬の豪雪ぶりを思わせるものだった。
 賽(さい)の河原と名づけられていても、荒れた河原ではなく、池塘(ちとう)湿原地帯で、ニッコウキスゲの黄色い花や白いチングルマの群落が散在していた。

 さらに右手に小さな残雪の帯が続いていて、先には小さな鳥居があって、霧の中から御浜小屋が現れてきた。
 辺り一面ガスの中で、楽しみにしていた鳥海湖の眺めもなく、強い風が吹きつけるばかりで、多くの人が小屋の陰で休んでいた。
 その少し先のところには、その吹きつける風に大きく揺れて薄紫のハクサンシャジンや黄色いニッコウキスゲ、明るい赤紫のヨツバシオガマ、白いヤマハハコなどが群れ咲いていた。
 ここまでコースタイムで2時間ぐらいのところだが、私は脚が遅いうえに途中で何度も休みをとり、花の写真を撮っていたせいもあってか、3時間近くもかかってしまった。
 もっとも今日は、上の山頂下の神社御室の小屋に泊まるつもりで、そこまではあと3時間余りだろうから、急ぐ必要もなかったのだが。

 しかし、その先の扇子森(せんすもり)から御田ヶ原の平坦な尾根道では、霧の雨粒を含んだ風がまともに吹きつけていて、時々体がよろけるほどだった。
 この時点で、今日は御浜小屋泊りでもよかったのだが、まだ11時くらいであまりにも早すぎて、これから夕方までの時間を思うと、天気が悪くても、今日中に上の山頂下の小屋まで行った方が、次の日のゆとりができると思ったのだ。
 しかし、風の中、この辺りにはお花畑が続いていて、晴れていれば、背景に鳥海山頂の岩稜の稜線が見え、緑の草原とお花畑の景色に何度もカメラを構えただろうに。
 七五三掛(しめかけ)への登り初めのところで、あのチョウカイアザミが群れになって登山道の両側に咲いていた。(写真下)



 こうして天気の悪い日に見ると、この背の高い大きなアザミは、暗い紫色で、あまり見映えの良いものではなく、普通に咲いているあの明るい紫色のアザミの方がはるかに見映えがした。

 さて、この七五三掛の分岐点から左に、雪渓のある千蛇谷(せんじゃたに)へと下るのだが、途中で会った人たちが口をそろえて、外輪山の尾根道を行くのはこの強風の中では危険だと言っていたが、もともとそのコースは帰り道に行くつもりだった。
 丸太で保護された急なジグザグの道を下って行くと、今までの強い風がなくなり、霧の中からルリビタキの声さえ聞こえていた。
 下りきったところで千蛇谷の雪渓に出るが、勾配が急なわけではなく、アイゼンをつける必要はなかった。
 反対側の右岸に渡り、そこから雪渓沿いの山腹をしばらくたどり、道は再び雪渓に降りる。

 雪渓上には、ロープが続いていて、この深い霧の中、そのロープをたどって登って行き、さらに上の方でロープが終わり、先には岩の上にペンキで書かれた丸印があった。
 先ほどから足の遅い私と抜いたり抜かれたりしていた3人組が、先になって霧の雪渓を登って行った。
 私は、そこで一休みをしてから、再び立ち上がり、その雪渓へと足を踏み出した。

 しかし、それからは遭難一歩前の、2時間にも及ぶ混乱と恐怖のリングワンデルング(霧の中で方向感覚がなくなり同じところをぐるぐる回ること)のひと時が待っていたのだ。

 次回に続く。