ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

紅葉の始まりから終わり、多幸感

2014-10-27 20:23:48 | Weblog



10月27日

 快晴の天気の日が、四日も続いた。
 ということは、山に行くにはいい時だったかもしれないが、やはり今週も土日と重なって(普通に働いている人たちには、このところ週末ごとの良い天気は、絶好のお出かけ日和になったことだろうが)、ただ気難しい年寄りの私だけは、ともかく出かける気さえしなかったのだ。
 もっとも、理由はそれだけではない。
 晴れていても、山は稜線に雲がかかっていることが多く、あるいはもやに包まれてはっきりとは見えなかったからでもあり、さらには最近、とみにひどくなってきたぐうたらグセ、つまり老人性引きこもり病にかかっているからでもあるのだが。

 つまり、子供のころから田舎や山が好きだった私は、ついには東京での生活を捨てて、自分で家を建ててまでして田舎に住み着いてしまい、もうその時点から、都会生活になじめずに田舎の自然の中に引きこもったということで、いわゆる若年性引きこもり病を帯びていたわけであり、それは思えば私の、宿業(しゅくごう)の病なのかもしれないのだが。
 さらにもう一つ、わけがある。

 家の庭から林にかけての紅葉が、余りにもきれいだったから、家にいたかったのである。
 それも、年ごとに紅葉の木々の枝葉が大きく茂り、色鮮やかになっているのだ。
 さらにありがたいことには、今年は紅葉の期間中、強い風が吹いたり大雨になったり、あるいは雪が降ったりすることもなく、長い期間、穏やかな天気のもとで、それぞれの木々の色づきを十分に楽しむことができたのだ。
 去年は、10月半ばに20cmもの湿った雪が降り積もり、これから紅葉を迎える木々の枝先や幹が幾つも折れてしまった。
 普通なら、紅葉の葉が散ってしまってからの雪になるのに、葉がいっぱいについたままの所に重たい湿った雪が積もり、枝や細い幹は耐えられなかったのだ。
 しかし今年は、そうした前年の災害にもめげずに、木々たちは元気に枝葉を伸ばし、今までで一番の紅葉を私に見せてくれたのだ。
 そうして、より美しく、より長く、より穏やかに、私の好きなものと一緒にいられたことの喜び・・・山に行けなかったことぐらい、ちいせえ、ちいせえ。

 今年の、家の林の紅葉は、もっとも早いものはもう夏の盛りのころから、シラカバやサクラなどの一部が色づき、さらには散り始めていたけれども、はっきりと紅葉が始まったと思ったのは、9月の終わりころのヤマウルシの幼木の葉が赤黒く色づき始めてからである。
 そして10月の初旬のある日、それは前回書いたあの然別(しかりべつ)の山に登ってきた、二三日後のことだったのだが、家の裏の林の手前にある、ハウチワカエデの緑の葉に、そこだけ色鮮やかな赤いサシが入っているのを見つけたのだ。(写真上)
 それは、物言わぬ木々たちの、”色鮮やかな秋の伝言”だった。 

 それからは、日ごとに赤いサシの入った葉が増えていき、他の木々も黄色く、赤く色づき始めた。
 家の林には、赤や黄色になる、ヤマモミジとハウチワカエデ、さらに明るい黄色になるイタヤカエデやミズナラなどが主体なのだが、一本だけでもきれいなのに、数本や十数本になって重なり合うと、もう見事という他はない。
 私が、特に気に入っているのが、その中に散在するシラカバの白い幹との対比であり(写真)、さらに背景が青空であれば、フランスの国旗、そうあの三色旗と同じ色合わせになるのだ。
 

 


 ところで今私は、こうして小さいながらも自分の林を持っているけれど、普通の人が田舎で土地を買うには、それはたとえ現状が耕作放棄地であっても、農地として登録してあれば農業者でない限りは買えないから、結局は山林か原野(あるいは宅地など)を購入することになる。 
 私がこの土地を買った時には、20数年経過していたカラマツの植林地だった。
 それでもそのカラマツの木々の間には、すでに落葉広葉樹であるミズナラやシラカバ、モミジ、カエデ、ナナカマド、ミズキ、ホウノキなどの幼樹が伸びてきていた。
 できるならば最初から、広葉樹だけの原野ふうの所の方が景観的には良かったのだが、他にも道の状況や、電気電話線、井戸堀り、冬の状態などいろいろなことを勘案しなければならないから、そう簡単にはこちらの希望通りにはいかないものなのだ。

 しかし今では、あちこちに移植した広葉樹や針葉樹も含めて、全体的に見て大分混交林としての体をなしてきたし、こうして秋の紅葉を楽しめるまでになってきたことを含めて、余分な木だと思っていたカラマツは、防風林になってくれただけでなく、今までちゃんとストーヴの薪(まき)としてここまで役に立ってきてくれたわけだから(油分が多くあまり薪に適しているとは言えないが)、ともかく結果的にはすべてがうまくいったことになり、物事はすべからく長い目で見ることが必要であり、全く何が幸いするかわかないものなのだ。

 この家の林の、二週間ほどの紅葉(黄葉)の時期の間、天気がいい日が多くて、私は毎日、木もれ日あふれる林の中を歩き回っては、明るい黄色の色づきを楽しみ、そして家のそばの日当たりの良い所に並んでいる、日ごとに変わる、モミジ類の色鮮やかな紅葉を、繰り返し写真に撮ってきた。
 今までにこれほど多くの紅葉の写真を撮ったことはなかった。ただ私に、写真を上手く撮る技術がないだけに、それらの写真だけでは、とても今年の家の紅葉の見事さが十分に撮れているとは思えないが、ただこれらの写真を見ていると、毎日毎日の私の、どうしてもカメラを構えたくなる興奮ぶりが伝わってくるのだ。ああ今年の紅葉は良かったなと。(写真)





 今日はまだ晴れてはいるが、雲が多く、風が強くなってきて、木々の紅葉を散らし始めた。明らかに木々の枝先の紅葉が少なくなり、葉先が縮んできたものも多く、やはり紅葉の盛りは、昨日までだったのだ。
 それに代わって、最後の秋の彩(いろどり)を締めくくるべく、十勝平野全体に見られる、カラマツ防風林の黄葉がもう始まっていて、風が吹くと、その落葉が雨粒やあられのようにぱらぱらと降りかかってくるのだ。

「近いうちにまた雪がふるだろう。
 わたしはまた去年のことを思い出す。
 わたしは暖炉の前であの寂しさを思い出す。
 あの時、誰かがわたしに”どうしたの?”とたずねたなら、
 わたしは答えただろう。
 ”ほっといてくれ、何でもないことだ”と。
 ・・・・・・。

 (『月下の一群』より フランシス・ジャム「雪のふるころ」 堀口大学訳 新潮文庫) 

「からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き、
 からまつはさびしかりけり、
 たびゆくはさびしかりけり。
 ・・・・・・。
 世の中よ、あわれなりけり。
 常なけどうれしかりけり。
 山川に山がわの音、
 からまつにからまつのかぜ。」

 (北原白秋『水墨集』より 「落葉松」 集英社版日本文学全集)
 
 ところで、先日、放送されたNHKの『クローズアップ現代』”百寿者知られざる世界”からだが、日本の百歳越えの 長寿者いわゆる”百寿者(ひゃくじゅしゃ)たちの数は、この50年で300倍にも増えているというが(戦争で若くして死んだ人たちが多かったから、今と比較しての額面通りの倍率にはならないだろうが)、そんな百寿者を含む70歳代から100歳代のお年寄りたちへの聞き取り調査で、ほとんどの人たちが、今の自分の暮しを肯定的に受け止め、自分の人生に満足している人たちが多いことが分かったというのだ。
 さらに百寿者の多くが、ありとあらゆることに幸せを感じている、いわゆる”多幸感(たこうかん)”を持っているということ。

 そのうちの一つの例として、ある105歳の男性への質問応答の模様が映し出されていた。
 彼はそれまで、毎日の散歩を楽しみにしていたのだが、3か月前に腰やひざの痛みが出て一人では歩けなくなり、今では一日の多くの時間をベッドで過ごすことになったそうだが、以下は研究者の問いに応じて答えたものだ。

 「もし戻れるとしたら何歳ぐらいに戻りたいですか。」・・・・・・「やはり現在のままで。」
 「今の自分の生活に満足していますか。」・・・・・・「はい、大満足です。」
 「若い時と比べて、今の状態はいいですか。」・・・・・「はい、今が大変幸せです。周りの方や物、一切のもののおかげを受けています。このように生かせてもらって不思議な気がします。感謝感激です。」 
 
 もちろん、そこには周りの介護してくれている人たちなどへの気遣いもあって、彼の年代ならではの遠慮やへりくだりもあるのだろうが、それにしても、この自分の今の境遇をすべて肯定的に受け止める、いわゆる”老年的超越”の思いには、考えさせられるものがある。
 つまり研究者たちによれば、70代くらいまでは、老いの不安や死の不安があり、老いつつある自分を認めたくないという思いがあるが、そこから歳を重ねるごとに、否定的感情や不安は薄れていき、穏やかで幸せな気持ちになるというのだ。
 つまり、80~90歳代を境に、それまでの価値観が転換して、老齢者たちの多くは”豊かな精神世界”へと、例の”老年的超越”の境地に入って行くらしく、これまでの”老いの弊害”の認識を変えなけねばならないようになってきているとのことだ。
 もっとも、長寿命でも、ベッドで寝たきりになる人も多く、元気で暮らすことのできる健康寿命との差も問題にはなっているが。 

 以上のこの番組を見て、私は、まだそこまでの歳になるには大分間があるし(その歳まで生きられるかどうかもわからないし)、いまだに世の中の煩悩(ぼんのう)のすべてを断ち切れずにいて、それでも同世代の人たちと比べれば、おそらくは多幸感を持っている方だとは思うが、ともかくいろいろな意味で考えさせられたのだ。
 それは、前に取り上げたあの”臨死体験”の問題(9月22日の項参照)、と合わせて考えれば、そこには何か、遠くおぼろげながらも見えてくるような気がするのだ。
 生きるという本能のままに、それでも穏やかに生きていくこと。
 そして、誰にでも、自分で作り上げることのできる天国があるということ・・・。

 
 昨日は、ここでも20度を超える季節外れの暖かさになり、薪割りをしていると汗が噴き出すほどだったが、北見地方の美幌町(びほろちょう)では、何と夏日の25度にまでなったとのことだ。
 今日もまだ朝から7度近くもあり、暖かさが残っていたが、四日も続いた快晴の空は終わり、晴れ間は少なくなり、山側から雲が空全体に広がってきた。
 そして、風が強くなり、今まで一面を覆っていた紅葉の木々は揺れ、絶え間なく葉が散り落ちている。
 明日は気温も下がり、確かに冬がまた一歩近づいて来るのだろう。

 私は、秋の名残りを、自分で撮った写真の中で懐かしむ。(写真下)
 パソコンの壁紙にして、自分の目を楽しませるのだ。ああ、あんなに鮮やかな紅葉の日々があったのだと・・・。


  

 


青空、秋の山歩き(2)とAKB賛

2014-10-20 23:49:37 | Weblog



10月20日

 秋は、少しずついつの間にか、あたりの景色を秋色に染め変えていく。
 ついこの間までは、夏の名残の気だるい暑さとともに、まだ一面の緑色だったのに、庭から林にかけての木々の葉が、見る間に、鮮やかな赤や橙色や黄色の、点描画の世界のようになってきた。
 家の窓を額縁にして、そんな秋の景色を眺めることができる。

 私はさらに外に出て、青空の下、こぼれ日に輝くそんな秋色の林の中を歩き回るのだ。
 昨日は、終日快晴の素晴らしい一日だった。
 十勝平野の彼方には、稜線がすっかり白くなった日高山脈の山々が立ち並んでいた。
 こんな登山日和(ひより)の日に、それが休日で人が多いからという理由だけで、出かけないで家にいるのは、少し哀しい気持ちにもなる。
 そこで私は、丘歩きをすることにした。
 家を出て、収穫前の裏のビート(砂糖大根)畑のそばを通り抜け、カラマツの植林地に入り、収穫の終わったジャガイモ畑やデント・コーン(飼料用トウモロコシ)畑のそばを通り、もう緑の草が枯れ始めた牧草地を抜けて、赤や黄色に色づいた奥の林の所まで歩いて行った。
 広大な青空と、うねり続く秋色の丘陵地帯、日高山脈の白い山なみが見え隠れしている・・・静かだった。 
 往復1時間余り、そうして歩き回ってきただけで、私は幸せな気分になれた。
 山に行けなくとも、それに近い丘歩きができること、それが、私がここに家を建て住んでいる理由の一つなのだ。

 さて、日にちは前後するが、前回からの山登りの話を続けることにしよう。
 本当ならば、一回で書き終えるほどの小さな山行の話なのだが、途中でふと考えついたことなどを思いつくままに書いてしまって、二回分になってしまったのだ。
 前回は、士幌高原側の登山口から入り、まずは岩石山(1070m)の頂上にたどり着いたところまでだったのだが、その後・・・。 

 岩塊(がんかい)帯を下ってコル(鞍部)に戻り、今度は一転して白雲山へと向かうエゾトドマツの森林帯の登りになる。
 木々の間から東ヌプカ方面と、振り返って岩石山が見えるくらいの、展望のない尾根道の登りだったが、静かな山登りの心地よさをしみじみと味わうことができた。
 この辺りのダケカンバの黄葉もすでに終わっていて、ただそれだけに、このエゾトドマツの木々の間にわずかに残る一本、二本の、今を最後の盛りにあるモミジの鮮やかな紅葉が目を引いた。

 そして道の勾配が見上げるほどに急になったころ、ふと後ろからの物音に気づいて振り向くと、ひとりの女の人が登ってきていた。
 あいさつを交わして、道を譲ると彼女は大きなスライドの早い足で登って行き、すぐに見えなくなってしまった。
 人それぞれに、年相応に登っていけばいいだけのことだ。 
 私は、あたりの木々のたたずまいに目を配りながら、ゆっくりと登って行った。
 大きな道標が現われて、然別(しかりべつ)湖側からの道と一緒になり、さらに少し登ると岩石山と同じ明るい岩塊帯に出て、大岩が折り重なる白雲山頂上(1187m)に着いた。
 
 この頂上は何と二十年ぶりほどになるが、すでに何度も登っていて見慣れた光景ではあるし、といってもこの頂上からの眺めは素晴らしいものだ。
 青い然別湖と、奥に連なるウペペサンケ山(1848m)の姿が、一枚の絵のように見える。(写真上)
 ただ惜しむらくは、紅葉の時期にしては少し遅すぎて、すぐ近くのダケカンバの黄色やナナカマドの赤の色を、この絵の中に見られたなかったこと、さらに言えば新雪に覆われたウペペサンケの姿を見られなかったことも、少し残念ではあった。
 しかし、嘆くほどのことではない。青空の下、風も穏やかな頂上にひとり、この光景を前にしているだけでも十分に幸せな気持ちになれるからだ。

 そしてさらに周りの展望を楽しむ。ウペペサンケの左には鋭くとがったニペソツ山(2013m)の頂がのぞいている。左にベトゥトル山群がポコポコと頭を出し、続いて西ヌプカウシヌプリ(1254m)との間には、遠く白い雪に覆われた十勝連峰の山々を見ることができる。
 ただこの日は、岩石山の所でもそうであったように、気温が高く大気もかすんでいて、白い十勝連峰でさえやっとそれと分かるくらいであり、まして東ヌプカウシヌプリ(1252m)から左に長々と続いて見えるはずの日高山脈は、いくら目を凝(こ)らしても見えなかった。
 しばらくして、にぎやかな女性たち声が聞こえてきて、私はそれを機に頂上を後にすることにした。

 来た道を戻るだけのことだが、樹林帯のたたずまいや、わずかに残ったモミジの赤との対比などを、下り道の別の角度から見ていくのも悪くはない。
 コルに出るあたりで、ひとりの若者と出会い挨拶を交わした。
 私が、この山歩きで出会ったのは、頂上でのグループを除けば、この士幌高原口からは、先ほどの女の人と合わせて二人だけであり、私を含めていずれも一人だけで山に来ていた。
 みんな、山が好きなのだ。
 
 私はなぜか少しうれしい気分になって、コルからの岩石帯を降りて行き、急な樹林帯の山腹を下り、東ヌプカとの間の平坦地に出てそこで少しばかりの休みを取った。まだ12時になったばかりだった。
 そして士幌高原道路開削跡(かいさくあと)の、山腹を水平にたどる道を歩いて行った。山腹の上斜面と下斜面に分かれて、ミズナラなどの黄葉が、行きとは違った角度の光を受けてきれいに見えた。
 そして分岐になり、登山口に向かう道は右下へと降りて行くのだが。
 時間はまだ早い。私は、登山道から外れて、その士幌高原道路跡をそのままたどることにした。草や木が茂ったその道路跡には、細々と続く人の通った踏み跡が続いているのが見えたからだ。 

 少し歩くと、明るくなり周りの見通しが開けて、青空の下、黄葉の木々の向こうに、東ヌプカへの姿が見え、のびやかに山裾が続いていた。
 今日の行程の中で初めての、秋の山歩きにふさわしい光景だった。
 それからも、草が茂って少し歩きにくいところなどもあったが、開削されて明るく開けた道跡がゆるやかに続いていて、もう口笛でも吹きたい気分だった。 
 なかでも南に面した、緑のササの山腹に広がる、シラカバの林は見事だった。(写真) 



  北国の象徴であるシラカバ林と言えば、北海道の各地で見ることができるが、なかでも帯広から三国峠を越えて旭川に抜ける国道沿いに広がるシラカバ林は素晴らしい。
  特にあの十勝三股周辺の道の左右に、広大に広がるシラカバの群生林は、何度見ても思わず車を停めたくなるほどだ。
 木々の新緑のころに残雪の石狩連峰を背景にした姿、黄葉の頃にクマネシリ山群を背景にして、あるいは冬の時期でも、周りの雪景色の中から生まれ出てきたかのような、シラカバの幹の白さが青空にくっきりと描き出されていて、これまた見事な光景になる。
 北国だからこそのシラカバと、その高山種であるダケカンバ・・・私が北の山々を好きになったのも、あるいは高い山々に行きたくなるのも、こうしたシラカバやダケカンバの木を見るのが好きだからかもしれない。(’13.11.18の項参照)
 家の林の中には、もともと何本かのシラカバがあったのだが、それでも家のそばからも見えるようにと、小さなシラカバの苗を植えたのだが、今ではもう見上げるほどの大きな木になっている。

 私は、ササの斜面を登って、このシラカバ林の写真を何枚も撮った。
 好きなものを写真に収めること、それが私の山に登る楽しみの一つなのだ。
 他人に見せるために写真を撮っているのではないから、このブログに乗せている写真でも分かるとおりに、構図も光線の具合も、深く考えずに、”あっ、きれい” と思っただけで、シャッターを押しているから、いつまでたっても風景写真としての完成度は高まらないし、つまり下手なアマチュア写真家の域を出ないのだが、考えてみればそれが芸術作品として意図したものではないからこそ、自分のその時の正直な感想の記録として、役に立っているのではないのかとも思うのだが。

 と書いてくると、前回書いた歌詞の話にもつながることだが、最近の若い歌手たちが作った歌詞が、その時々の感情を言葉にしただけの即物的な表現でしかなく、いわゆる詩的な言葉になっていないとも思うのだが、それはそのまま、私のつたない美的基準に従って撮っている、下手な写真にも言えることだと思う。
 ただCDやコンサートで歌う彼ら彼女らは、プロの歌手であり、私は、ただの写真が好きな一般人にすぎないということではあるが。

 ここでついでに、私の好きなあのAKBの歌の歌詞について少し書いてみたいのだが。(8月25日の項からの続き)
 AKBグループの歌のすべては、総合プロデューサーでもあるあの秋元康がひとりで作詞している。
 それだけでも信じられないほどに、超人的なことであり、ほとほと感心する他はないのだが、それゆえに反面では粗製乱造のそしりを受けかねないし、甘すぎる言葉の歌詞が見受けられなくもない。
 それでもすべての作詞家の作った歌詞が、すべて完ぺきで見事な出来というわけではないから、中にはやはりあまり上出来だとは思えないものもあるだろうし、曲調や歌手と合わせてのヒット曲になるものは、きわめて厳しい確率の中から生まれることになるのだろう。
 だからその確率から言えば、絶妙なポップス感覚を持った作詞家、作曲家の面々と、アイドル・グループという人気集団の歌い手によって、次から次に生み出されるヒット曲の数々が、ずっと100万枚を越えているというのは、この音楽CD不況の時代に、これまた信じられないことでもあるのだ。

 私は2年ほど前に、AKBのことが気になり始めた。それまでにAKBには、すでに「フライング・ゲット」や「ヘビー・ローテンション」などの大ヒット曲があり、レコード大賞を受け紅白にも出場していたのにもかかわらず、今どきのお子様ランチふうのアイドル・グループかと、冷めた目で見ていただけだったのだ。
 ある時、歌番組に出ていたそのAKBの歌を聞いて、何かが私の胸に伝わってきたのだ。
 それは、篠田麻里子が初センターで歌っていた「上からマリコ」だったのだが、もともと彼女は、AKBでは最年長の”お姉さま”だった上に、私の心の内でどこか気になる網タイツ姿の”女王様”キャラを思わせるところがあって(繰り返し言うけれども、私にそんな趣味はありません)、その”マリコ様”の歌う姿にひきつけられたのだが、さらに”上から目線”の年上の女の子のことを歌う歌詞にも、感心してしまったのだ。
 人々で混雑する街角で、年上の彼女がキスをせがんだ時に、相手の年下の男の子は思ったのだ、”まるで、愛の踏み絵みたい”だと。
 あの江戸時代のキリシタン弾圧の時代の、キリストが描かれた”踏み絵”になぞらえて、何と今どきの愛の検証として、人前でのキスを求めるなんて。

 それは作詞家自身が、その時初めて書いたフレーズではなく、どこかで目にしていた言葉だったのかもしれないが、この歌の中にあてはめようとしたのは、明らかに彼の感覚才能によるものなのだ。(作詞家の盗作問題については前にも、あの名曲「昴(すばる)」の所でも書いたとおりだが、あくまでも文章としてつなげていくのは作詞家自身の文才によるものなのだ。)
 思うに芸術家が生み出したすべてのものは、彼が全く初めてだというものは何もないはずだ。
 そのすべては、誰かの物まねから始まったものなのだ、とさえ言うことができるだろう。 

 さらにAKBの歌を続ければ、次に好きになったのが渡辺”まゆゆ”がセンターで歌った学園ものの歌、「So Long(ソーロング、さようなら)」である。
 学園卒業を控えた彼女たちが歌うのだ。
 ”枝にいくつかの固い蕾(つぼみ) 桜前線まだ来ないのに 私たちの春は暦(こよみ)通り 希望の道に花を咲かせる ”
 ”思い出が味方になる 明日から強く生きようよ”
 桜の木って・・・、”やがて咲いて やがて散って 見上げたのは花の砂時計” (この”花の砂時計”という表現にもしびれます。)

 前にも、この「So Long」についてはこのブログで書いたことがあるが、スローテンポの曲調がまた素晴らしく、山に登るときにひとり口ずさんでいたほどだ。
 さらに、あの「フォーチュン・クッキー」についても、人生応援歌としての”人生捨てたもんじゃないよね”とか、”ツキを呼ぶには笑顔を見せること”などの言葉に励まされると書いたが(’13.11.11の項参照)、今でもその思いは変わらない。

 もちろん、私はすべてのAKBの歌を知っているわけではないし、おそらくはその何分の一かの歌を聞いたことがあるだけにすぎないだろうけれども、それらの中でも他にも幾つかいいと思う歌詞の曲もあるが、長くなるので最後に一つだけあげたいと思う。
 それは名古屋のSKEが歌う「美しい稲妻(いなずま)」である。
 その前半部分の歌詞は今一つだとしても、素晴らしいのは後半部分だ。 

 ”君は美しい稲妻さ この胸を横切って 愛しさがギザギザと 心に刺さる
  美しい稲妻さ すぐ後に響くのは 近すぎる思い 両手を広げて 愛に打たれよう”
 
 愛の思いを稲妻にたとえて、比喩(ひゆ)と隠喩(いんゆ)の言葉で、主に五音に区切って音調を整えていく見事な歌詞であり、またそれにふさわしい手慣れた作曲家の曲調と相まって、AKBグループの中での名曲の一つにはなるだろう。

 つまりそれまでに様々の困難があったとしても、首尾一貫して、一人のプロデューサー兼作詞家による歌詞と、多彩な顔ぶれの作曲家たちが一致して作り上げた”らしさ”あふれる曲の魅力と、個性的なアイドル・グループとしての、少女たちの歌声と元気な踊り、明るい笑顔によって、今のAKBグループの人気があるのだろう。
 それは、もし美少女ぞろいならば、あの”乃木坂46”になるだろうし、ダンスなら”Eガールズ”だろうし、ソロ歌手として歌えるほどに歌のうまい子は、一人二人と数えられるくらいしかいないのに、それなのに、そこには少女集団としての今を盛りの輝かしさに満ちているのだ。
 あの宝塚歌劇団のハイレベルな世界とは、とうてい比べ物にならないが、もっと身近なところで輝いている若い娘たちを見るような、楽しさに満ち溢れているのだ。

 以上が恥ずかしながら、彼女たちからすればおじいちゃん世代になる、私の”AKB賛”の言葉ではあります。
 特別な誰かだけのファンとか、いわゆる特定な推(お)しメンバーの娘はいなくても、ただ歌に踊りに、バラエティー番組でのおふざけ芝居などにと一生懸命に頑張っている、AKBグループのすべての娘たちがそれぞれに可愛いと思うのだ。
 そんな孫娘たちが、一年また一年と成長していくのが、はい、このジイの何よりの楽しみでして。

 ところで、山の話をしていて、いつの間にか話は大きくそれて、全く関係のないAKBの話になってしまった、いつものことだが。
 ともかく山に戻れば・・・登山道から分かれて、士幌高原道路跡をたどって下りて行ったのだが、途中で見事なシラカバ林や、カエデやカシワの紅葉に、ダケカンバやミズナラの黄葉(写真)などを見ながら、誰もいない道を歩いて行くのは、やはり何とも言えず楽しい気分だった。



 上空には風が出てきて、枝葉が揺れていた。
 やがて道は、ガードレール付の立派な二車線の舗装道路になったが、工事中止の後、長い間放置されたままらしく、道の継ぎ目には伸び放題の雑草が並んでいた。
 ほどなく大きなゲートのある登山口に戻り着いた。帰りは、こうして道路跡の道を遠回りして歩いてきたので、時間は余分にかかってしまったけれど、それでも合わせて5時間足らずの、年寄りにはちょうどいい、秋の山歩きになったのだ。
 これからも細々とでも、本格的な山登りができなくなっても、山歩きだけは続けていきたいものだ。
 
 ところで、今日わが北海道の日本ハム・ファイターズは負けてしまった。ただよくここまで来たと、道民のみんなは思っていることだろうが。
 今、夜遅く、雨が降り出してきた。
 明日、明後日にかけての天気予報では、道北などでは雪のマークがついている。
 家の林の紅葉も、今が盛りになるのかもしれない、次回はその家の紅葉の話を。 

 
 


青空、秋の山歩き(1)

2014-10-14 17:27:53 | Weblog



10月14日

 朝は霜が降りるほどの冷え込みだが、日中は15度から20度近くにまで上がって、まだまだ暖かい日々が続いている。
 ただし、天気予報で晴れのマークがついている日でも、風や寒気の影響で山には雲がかかるというような時があるから、時間ごとの天気分布予報なども調べてからでないと、山に行くことはできない。
 最近の私の山登りは、年を取っていくにしたがい、ますますわがままに、ますます用心深くなっているように思える。
 それはそれで悪いことではないのだが、余りに慎重に考えすぎて、山に行く機会をむざむざと逃しているような時もあるのだ。
 何事も、”過ぎたるは、及ばざるがごとし”というたとえの通り。

 そんなある日、数日前のことだが、私は久しぶりに山に行ってきた。
 前回の、大雪山黒岳への登山からは(9月16日の項参照)、4週間近くも間が空いたことになる。
 若いころは、といってもたかだか10年くらい前までのことだが、9月10月の2カ月だけで、毎年10回ほども、一番多いときには12回もの山行を重ねていたのにと思うと、もう隔世(かくせい)の感がするほどである。
 私も、年を取ったものだ。

 そこで、風呂にも入らず伸びたあごひげをなでながら、意味もなく”うーむ、マンダム”。
 そんな昔流行(はや)った、今は亡きチャールズ・ブロンスンのコマーシャルのまねをするくらいだから、古いと言われるんだ。
 それではと、比較的新しい(と言っても4年前の曲だが)、あのAKBの歌からの一節(秋元康作詞)。

 ”風は止んだ。見たことのない光が差すよ。今が時だ。君は生まれ変わったBeginner(ビギナー)・・・"
 
 私は、山に行くことにした。それも最近の病み上がりの年寄りの我が身を考えて、初心者向きの短い時間で登れる山に。
 私が住んでいる十勝地方は、きわめて大まかに言えば直角三角形の形をしていて、直角の一方の辺、つまり西側には日高山脈が連なり、もう一つの北側になる直角の辺には、東大雪と呼ばれる山域があり、三つ目の辺は、南東の斜めに続く太平洋に接した海岸線になる。
 この地形から見ただけでも、冬場は二つの山域が北西風の雪雲を止めて晴れた日が多くなり、逆に夏場は、南から流れ込む雲や霧の影響を受けて、曇り空の日が多くなるというのがわかるだろう。

 西側に延々と連なる日高山脈については、私の十勝移住のきっかけとなり憧れた山々であり、また別な機会にそれぞれの山々について詳しく書いてみたいと思うが、さらに十勝平野の北側にはもう一つの山域、東大雪の山々があり、それは文字通り表大雪と呼ばれる北海道最高峰の旭岳(2290m)を中心とした大雪火山群とは離れた東側にあって、幾つかの小火山群や褶曲山脈などを含めた総称なのだが、それらの山々の一番外側、つまり十勝平野と一番最初に接する所にあるのが、今回私が行った然別(しかりべつ)火山群である。
 それは、カルデラ湖とも言われている然別湖を中心して、何度もの噴火時期を経て形成された多くの溶岩円頂丘の集まりであり、遠く離れて見ると、それぞれの山の区別がつきかねるほどである。(参照『十勝の自然を歩く』北海道大学図書刊行会)

 この山域の山に登るには、有名観光地でもある然別湖側から五つほどの登山道があり、白雲山(1187m)、天望山(1174m)、東ヌプカウシヌプリ(1252m)、西ヌプカウシヌプリ(1254m)、南ベトゥトル山(1348m)などに登ることができる。
 一方南東面に広がる士幌高原側からも、登山道がひらかれていて、岩石山(1070m)を経て白雲山にも登ることができる。

 そして、私は、然別湖側からは何度かそれぞれの山に登ってはいるのだが、思えばこの士幌高原側からは初めてのことになるのだ。
 というのも、私が北海道の山に憑(つ)かれたように登っていたころ、この然別の山々のような標高の低い簡単に登れる山などは眼中になくて、他の標高の高い難度の高い山々ばかりを目指して登っていたからでもある。

 かつて、あの”山と渓谷”誌には、”百低山”シリーズなるものが掲載されていて、当時の若い私は、そんな低い山のどこがいいのかと目もくれなかったのだが、今になってみれば、なるほど年を取ってきて、静かな低山歩きを楽しむことこそ、老年登山の醍醐味(だいごみ)ではないのかと、ようやく理解できるようになったのだ。
 つまり山登りとは、自分の足で登ることができる限り、いつまでもそれぞれの難易度に応じた山を選んでの、山歩きができるということなのだ・・・当たり前のことだが、ありがたいことだ。
 右足を上げて左足を上げれば、登れる、あたりまえ登山。(”あたりまえ体操”のパロディ)

 さて国道から分かれて、士幌(しほろ)の街を抜け西に道道(北海道管轄の道路、つまり各県の県道と同じ)を走って行くと、やがて士幌高原と呼ばれる牧場地帯の中をゆるやかに上る道になり、然別の山々が目の前に現われてくる。
 大きくすそ野を広げた東ヌプカウシヌプリと、それに続いて岩石山(写真上)から天望山と、いわゆる溶岩円頂丘と呼ばれる山々がポコポコと盛り上がって連なっている。
 ちなみに、アイヌ語の山名であるヌプカウシヌプリとは、知里真志保著「地名アイヌ語辞典」によれば、ヌプカ(原野)-ウシ(群生する所)-ヌプリ(山)ということになり、見事に十勝平野の果てに群立する山々の姿を言い表している。

 山々の上の方のダケカンバなどの黄葉やカエデの紅葉などはとっくに終わっていて、今は中腹のミズナラやカシワ、ダケカンバなどが黄色から橙色に色づいているだけだった。
 前回にも書いたように、今年の北海道の山の紅葉は早かったのだが、調べてみると東北地方の山々は言うに及ばず、あの北アルプスの涸沢の紅葉も、9月下旬が盛りだったとのことだ。

 だから、この然別の山の紅葉も、盛りはとっくに過ぎていると思っていたし、あてにはしていなかった。ただ、無性に山歩きがしたくなったから、天気のいい日を選んで出かけてきただけのことだ。
 いつも秋の山に行く時に考えることだが、紅葉が真っ盛りの時の天気が悪い日と、紅葉にはまだ早いかあるいは終わっているけれど天気の良い日のどちらかをと言われれば、私は何の迷いもなく天気のいい日だけを選ぶだろう。ヒマな年寄りのありがたいところだが。

 士幌高原”ヌプカの里”の整備された園地やロッジ群を右手に見て、そのまま走って行くと、大きなゲートで終点になり、その手前の所にクルマを停めて歩き出す。
 時間はもう8時半近くにもなるのに、他にクルマもなく、これから一人だけの山歩きができるかと思うだけでも、なんだか気楽な幸せな気分になれる。
 ましてこの然別湖周辺の山々では、あまりヒグマ出没の話は聞かないし、こうして一人の時でも鈴をつけて歩かなくてもすむだけでもありがたい。
 (人の多い北アルプスの山々でも、時々鈴をつけて歩いている人を見かけるが、ましてケイタイで話しながら、あるいはラジオをつけながら歩いている人もいて、せっかく静かな大自然の山の中にいるのに、もったいないと思ってしまうのだが。)
 その代りと言っては何だが、私は北海道の山では、時々手に持ったストックをわざと石などに当てて音を出すようにはしているのだが。もっともそれぐらいのことでも、人がいることをヒグマに知らせる手段の一つにはなると思うからだ。(’08.11.14の項参照) 

 ゆるやかに広がる牧草地には、まだ放牧されたままの牛が何頭か群れている。そのそばに沿って、登山道が続いていた。
 シラカバの疎林の中の道を、ひとり歩いて行くのは気持ちがいい。
 こうした静かな自然の中にいるのが好きな私は、それが高邁(こうまい)な精神と相まって、哲学的な思索にふけるとかになればいいのだろうが、あいにくそんな思いなんぞ持ち合わせてはいないし、むしろ逆にきわめてミーハー的な歌謡曲的な思いがあふれてくるのだ。 

 「白樺林の細い道 名前を刻んだ木をさがす 心でどんなに叫んでも 今ではとどかぬ遠い人 ・・・」

 (『白樺日記』 阿久悠作詞 遠藤実作曲 森昌子歌)
 
 山口百恵、桜田淳子とともに、いわゆる”中三トリオ”のアイドルとして一世を風靡(ふうび)した森昌子が、後年『哀しみ本線日本海』や『越冬つばめ』などの演歌路線へと行く前の、セーラー服姿で歌う『せんせい』などと同じ”女学生もの”シリーズの一曲である。
 こうした昔の曲が思わず口をついて出るということは、年寄りの私が今、AKBを好きになっているのもうなづけることで、若いころからの”アイドル好き”な性向があったからかもしれない。
 とは言っても、ポスターを貼ったり、レコードやCDを買ったりするほどのファンなのではなく、ただテレビを見ていい子だなと思っていただけのことなのだが。
 当時、私はむしろ、アメリカのポップスの方が好きだったし、やがてロック、ジャズに入って行き、そしてついにはクラッシック音楽の世界にのめり込んでしまうことになって、日本の歌謡曲や演歌の世界からは離れてしまう一方になっていくのだ。

 それなのに今、昔子供のころに聞いた流行歌、歌謡曲の一節が、ふと口をついて出るとは、やはり”氏より育ち”とか”三つ子の魂百までも”という、たとえ通りだからなのだろうか。
 そういえば、先日NHK・BSで、『昭和歌謡黄金時代~春日八郎と三橋美智也』の再放送をやっていて、録画しておいて見たのだが、出てくる歌出てくる歌のすべてが、子供のころどこかで聞いたことのある曲ばかりで、1時間半もの番組を一気に見てしまったのだ。

 それはまさに、昭和30年代の歌謡曲の世界の人気を二分した、二人の名歌手の歌声を堪能(たんのう)することができたひと時だった。
 今の時代の、個性的であろうとして技巧を尽くしたマニエリスム的な、いわゆる”厚塗りの演歌”ではなく(その歌い方がいい場合もあるが)、昔からの居ずまいを正した日本の歌謡曲として、あるいは民謡の伝統を受け継ぐ者としての、それぞれの二人の歌い方に、今さらながらに感心させられたのだ。
 さらに素晴らしいのは、その日本的な曲調を書いた作曲者はもとより、なるほどと納得させられることが多い、その歌詞を書いた作詞者たちにある。

 今の若い歌手たちの多くは、自分で作詞作曲をしたりするいわゆる”シンガー・ソングライター”であり、つまり専門的に文学的な詩を書いているわけではなく、ただその時の自分の感情を言葉にしただけのもので、つまり刹那(せつな)的な言葉の羅列(られつ)にすぎず(それが曲の内容にふさわしい場合もあるが)、ともかく昔、歌の歌詞を書いていたのは専業の作詞家たちであり、彼らの中には名のある詩人もいたし、ほとんどの人が詩作の素養を持った人たちばかりだったのだ。
 だから、それぞれの言葉の語感に、歌のリズムが合い、さらには一つの歌が見事な一つの話として、ショート・ストーリーとしてまとまっていたのだ。
 (私が、AKBの歌にひかれる理由の一つには、作詞家である秋元康の、そうした昔の作詞家の流れにつながるような、詩的な言葉の使い方にあるからだ。このことは、いずれまたAKBについて書くときに改めて説明したいと思う。)

 ところで二人の歌に戻れば、春日八郎の『お富さん』は、作詞家に歌舞伎の知識があってこその歌だし、『別れの一本杉』や『山のつり橋』などの、故郷の情感あふれる歌には誰もが泣かされるだろうし、一方の三橋美智也にも、たとえば『古城』には、昔の栄枯盛衰(えいこせいすい)の世界を思わせる情景が描かれていて、そこには作詞家の漢文の素養さえも感じられるし、『おんな船頭歌』や『リンゴ村から』 には、当時の誰にもあった故郷への哀しく懐かしい思いに溢れている。

 ともかくにも”歌は世につれ、世は歌につれ” 、人々は自分の今と昔を思い出すのだろう。
 
 然別の秋の山について書いているところで、大きく話がそれてしまった。
 これもまたなげかわしくも、何事にも長くは集中できない、移り気な私の性格のなせる所なのだ。反省。

 山の話を続けよう。そして、山腹の道を少し登ると、右から来た車道跡らしい道と一緒になる。
 これがあの有名な士幌高原道路跡で、然別湖岸に出る観光道路として計画されたのだが、ナキウサギが生息し高山植物も多い所を通り、自然破壊につながるから反対され、中止の憂き目にあって、今はその途中までの跡が残っているのだ。
 今の時代ならば、こうした計画そのものが作られことはないだろうが、あの大雪山銀泉台道路とともに、さらには内地の尾瀬ヶ原ダム計画や霧ヶ峰観光道路計画などとともに、自然保護団体等の反対によって後世に伝えるべき自然が残されることになったのは、きわめて有意義なことだったのだ。
 もっともその代わりに、計画通りに実行に移され完成して、今では普通に供用されている観光道路は他に幾つもあるのだが・・・。

 さて、その広い道跡は山腹をたどる水平道のように続いていて、細いシラカバが所々に立ち並び、山腹の上下にはミズナラなどの黄葉が明るく照り映えて、気持ちのいい道だった。
 すぐに、左手の東ヌプカウシヌプリとの広いコル(鞍部)に出て、そこからは右に曲がり、エゾトドマツの樹林帯の急な登りになる。
 何度か目のジグザグを繰り返していくと、次第に明るくなってあたりが開け、大岩が続く岩塊(がんかい)斜面に出て、天望山と岩石山との間のコルに出た。

 右手に見上げる岩塊斜面は、岩石山頂上にまで続いていたが、右端に残る小さな林との間には、はっきりとした土の道の踏み跡があり、それをたどると楽に登って行くことができた。しかし、上の方で再び岩塊帯に出てゆるやかになり、標識の代わりのケルンのある頂上に着いた。
 前回の大雪山黒岳では、3カ月ものブランクで、息が続かず足も疲れてコースタイムをはるかに超える時間で、ようやくたどり着くことができたという有様で、果たして今回はと気になっていたのだが、あまり疲れることもなくコースタイムの1時間半の所を、それよりはずっと早い時間で登ることができたから、まずはひと安心でほっとしたのだ、これからも山登りを続けられると。

 さて、この山は初めてだったのだが、北海道の名だたる山のほとんどに登っている私には、もう初めての山が増えることは余りないだろうと思っていて、だからひさしぶりに新たな山名の追加になるのが、ささやかな喜びにもなったのだけれど。
 それにしても、ガイドブックなどにある岩石山とはいかにも直接的で味気のない山名だが、もっとも下のコルの標識には無名峰と書いてあったから、名前がつけられているだけでもまだましな方かもしれない。
 
 天気は、北の方に少し雲が流れていたものの、相変わらずの快晴の空が広がっていた。ただ気温が高いのか、大気はすっかりかすんでいて、長々と連なり見えるはずの日高山脈どころか、地平線まで見えるはずの十勝平野の広がりさえも、十分には見通せなかった。
 しかし西の方に続く、東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリ(写真下)、さらに白雲山から天望山にかけての然別の山々を見ることができた。
 誰もいなくて静かな頂上だったが、まだ先があるからと、10分余り休んだだけで下って行くことにした。

 余分なことを書いてしまい長くなったので、続きは次回に。


    


秋の日は 暮れずともよし

2014-10-06 20:23:53 | Weblog



10月6日
 
 「秋の日のヴィオロンのためいき ひたぶるに 身にしみてうら悲し」

 (上田敏訳 『海潮音』より 「秋の歌」 ポール・ヴェルレーヌ。他にも新潮文庫の堀口大学訳の『月下の一群』もある。)

 秋になると、いつも思い出す詩の一編であり、ここでも何度も取り上げてはいるのだが、どうしても口に出して見たくなる。
 私の頭の中に流れてくるのは、あの有名なフランクのヴァイオリン・ソナタの出だしのメロディーだ。他には、フォーレの幾つかのヴァイオリン曲も悪くはない。
 あたりにたゆとう秋の気配と、もの悲しさと気だるさが入り混じって・・・。
 私は、紅葉シーズン真っただ中にある山にも行かず、毎日何事もなく静かに、同じに様な日々を送っている。これでいいのだと思いながら・・・・。

 家の外に出て、ふと見ると、庭の片隅にある遅咲きのオオハンゴンソウの花の上に、一匹のチョウがとまっていた。
 今の時期、こうした日差しの暖かい日には、まだまだ何匹かのチョウが飛んでいるのを見かけるから、それほど足を止めて見るまでのことはないのだが、次の瞬間、私は立ちすくんでしまった。

 それは、ここまで羽がボロボロになったチョウを、今までに見たことがなかったからだ。
 それぞれのチョウたちの活動期の終わりのころには、確かに羽の一部が欠けたものを見ることはあったのだが、これほどまでにすり切れた羽を見ていると、このチョウは飛べるのだろうかとさえ思ってしまったのだ。
 これは、おそらくサトキマダラヒカゲかと思われるのだが、私が静かに近寄って見ていても、逃げようともせずにしきりに花のミツを吸っていた。
 生きること・・・こうした体になっても、命の脈動がある限り生き続けること、誰からの助けを借りることもなく、自らの意志の力だけで、本能である生を全(まっと)うすること・・・。

 私は静かにその場を離れ、家に入ってカメラを手にして戻り、そのチョウの写真を何枚も撮った。
 手の届くほどの距離で、私は最後にそっと手を伸ばして見た。
 チョウは、その花の上から逃げて、早くはないがヒラヒラと飛んで行った。
 
 今は、秋から、もう冬の季節に近づいている。
 小さな白い雪虫が舞い、朝の気温は3度にまで下がっていた。昨日、この秋初めてストーヴの薪(まき)に火をつけた。

 そんな季節の中で、何でもないようなほんのひと時の光景に、私が胸打たれたのは、とりもなおさず老い行く我が身に置き換えたからでもある。
 あの悲惨な御嶽山噴火事件と、その遭難者たち、家族友人たちとのドラマの数々に胸ふさがる思いがして、ここしばらくは、山に行く気もうすれてというわけではないのだが。
 この秋、実は紅葉の東北の山々を巡る計画を立てていたのに、行くことができなかったのだ。

 それは一つに、前回の登山である大雪山・黒岳の時にも書いたように、この秋は北海道だけではなくて、東北でも紅葉のシーズンがいつもよりずっと早く来ていて、予定していた10月初旬ではもう遅すぎたからでもある。
 これから行くにしても、さらに台風が来れば、せっかくの紅葉も散ってしまうだろうからと、早々にあきらめたのだ。

 それならば、もっと早く9月の終わりに出かければよかったのだが、せめて3日は続く天気の日がほしいからと欲張っていたために、行くタイミングを失ってしまったのだ。
 いやいや、それらは後から考えた自分への言い訳であり、前回にも書いたあの心理学者アドラーの言葉を借りて言えば、”本当に、どうしても山に行こうという気がなかったから、行かなかっただけのことだ”。

 ただでさえ、人ごみの中を歩くのがいやな出不精(でぶしょう)であり、それが年を取ってきてさらに輪をかけて、大した用事でもないのに外に出かける気にはならないから、なおさらのことだ。
 そういえば、ちらりと見た民放のバラエティー番組で、イベント(催し物やお祭りなど)などが好きな人とそうでない人に分かれて、その訳を話していたが、その理由はともかく、家に(部屋に)いた方がいいという人がこれほどいるのだと、私だけではないのだと納得してしまった。
 ちなみに、ここで言う”出不精”とは、どこにも行かずに家にいて、”食っちゃ寝”を繰り返しているから、いわゆる”デブ症”になるのだと、私自身が実感しているのだが・・・今は、若いころと比べて10㎏も太ってしまったのだ。

 しかし、そうして家にいることは、悪くないというより、むしろ今の自分にとっては心穏やかに過ごせることで、またある意味での”黄金の日々”なのだとも思っているのだ。
 私は、後になってそういえばと考えたのではなくて、若いころからその時その時で、今が”黄金の日々”だと思える瞬間が何度もあったからだ。
 そこには、ある時には自分への、ある時には愛する人への、またある時は大好きな山々への、あふれる思いに満たされたひと時があったからだ。

 今、こうした穏やかな秋の日に家にいて、それは大きな思い出にはならないのかもしれないが、やるべき仕事を少しずつやり終えていくことに、あるいは周りの何かを見つけることによって得た、その小さな達成感と満足感もまた、”黄金の日々”とまではいかなくても、ある種の小さく光り輝く”銀の日々”になるのかもしれないのだ。

 人は、生まれながらにして”銀の匙(さじ)”を口にくわえているのではなく、ただ毎日、自分の口に運べるステンレスのスプーンがあるだけでも、感謝すべきだし、それが自分にとっての”銀の匙”だと気づくべきなのだ。
 エル・ドラド”黄金郷”とは、探しに行くべきどこかにあるのではなく、その気になれば、いつも自分の心の中に見つけられるものなのだ。 

 そうして、秋の日の青空の下で、私は小さな仕事を少しずつやっている。
 公道の道路拡幅の際に伐採された大きな木を、薪(まき)用にと十数本もらいうけ(2年分はある)、その何本かを運べる長さに切り分けて、とりあえずは並べて置いておくことにした。

 今まで、家のストーヴには、自分の林のカラマツを切り倒して薪にしていたのだが、このたびもらったものは、ミズナラやカシワの落葉広葉樹であり、カラマツほどにはヤニや油を出さないし、薪としてのもちもよくてありがたいのだが、今年はともかく切り分けるだけにして、一年放置して水分が抜けるのを待って、来年は、そこから家の傍まで一本一本抱えて運ばなければならない。
 他にも林の中には、切り分けて1,2年おいたままのカラマツ丸太があり、それはストーヴに入る数十センチに切って運び、裏庭で薪割をして、薪を作っていく。
 重たい丸太を運ぶのは、年寄りには重労働だから、少しずつしかできないが、それでも腰が痛くなるし、ヒザにも負担がかかり、今も痛みが残っているほどなのだ。

 さらに庭の手入れがある。シバザクラの中に周りの芝生の草が入り込んでいて、今ではもうシバザクラが半分くらい見えなくなるほどになっている。
 そこで、蚊がいなくなってきた今の時期に、その草を一本ごと根こそぎ抜いて行くのだが、その数は無数にあり、取っても取ってもまた来年には出てくるから、無駄な仕事にも思えるのだが。

 その時、葉を落とし始めたリンゴの木に、カラの混群(こんぐん)がやってきた。シジュウカラとヒガラたちが、小さく鳴きながら枝葉の間を行きかっていた。
 そういえば前日のこと、甲高(かんだか)いキョーンという声がして家の林の中を、黒い大きな鳥が飛んで行った。
 声に聞き覚えはあるし、黒い姿の上の赤い頭の色までは確認できなかったが、クマゲラであることは明らかだった。
 もうずいぶん前のことになるが、クマゲラがこの同じ林に来て、木の幹に止まって動き回っていたのを見たことがあるが、それ以来のことであって、こうした鳥たちとの思いがけない出会いが私を幸せな気分にさせるのだ。
 
 さらに汗をかいた体を洗うために、五右衛門風呂の薪に火をつける。
 ただし目を離さないように、薪の燃え具合を時々見ておかなければならない。スイッチを入れれば、あとはブザーが湧き上がりを教えてくれるだけというわけにはいかないのだ。 
 今の時期だと、1時間余りで湧き上がるので早くていいけれど、これから寒くなると次第に時間がかかり、真冬に一度沸かした時には、何とか入れる温度になるまでには、5時間余りもかかってしまった。
 もっともそれは、途中で何度か火が消えて、さらには井戸水が枯れるのを心配していることもあって、半分ほどは雪を入れて溶かしたからでもあるのだが、さらには、家の外に作ったすき間だらけの風呂小屋だから、真冬の北海道では寒すぎて、お湯から出て体を洗うことさえできなかったほどで、以後冬の五右衛門風呂はあきらめている。

 ともかく、林の間からあかね空に暮れなずんでいく日高山脈の山々を見ながら、この狭い五右衛門風呂につかっているときほど、幸せな気分になることはない。
 ふとあの良寛和尚(りょうかんおしょう)の、有名な和歌の一つが口をついて出た。それとは、場面も意味も違うけれども。 

 「この里に 手まりつきつつ子供らと 遊ぶ春日は暮れずともよし」

 もちろんここには子供たちの声もないし、春の夕暮れの雰囲気もないが、私がこの時ふと思いついたのは、最後の”暮れずともよし”という、子供たちをやさしく眺めながら、静かに満ち足りた思いの中にあった良寛和尚の姿である。
(良寛については、このブログでも折に触れて何度も取り上げてきたが、’10.11.14、’11.3.31の項参照。)

 ささやかな一日の仕事をして、ゆったりとした気分でお湯につかり、大好きな山々の姿を眺めているということ・・・このあかね色の景色が暮れずに、ずっと続いてくれればいいのにと思う心・・・。
 しかし現実は、それほど美しい抒情的な光景であるはずもなく、外見内部ともにすすけて汚い掘立小屋(ほったてごや)の五右衛門風呂から、何日も風呂に入らずヒゲだらけになったむさくるしいジジイがひとり、ただ切り開けただけの風呂場の窓から、顔をのぞかせているだけのあまり見たくもない姿だ。
 まあそれでもいいと、本人が思っているのなら、他人の知ったことではないのだが。 

 生きることとは、あのサトキマダラヒカゲのように、ボロボロの羽になっても、自分だけで生き続けること・・・。
 最期の時を迎えようとしていたミャオは、雨の降る中ふらつく足で何度も外に出て行こうとしたのだ。自分の弱った体を治すために、ひとりだけの静かな場所で横になって。
 病院に運ばれた母は、やがて目を閉じて意識がなくなっていたのに、私の握る手をしっかりと握り返してきたのだ・・・もうこれ以上書くことはできない・・・。

 私は、あのサトキマダラヒカゲのことを思う。
 私は、ミャオのことを思う。
 私は、母のことを思う。
 私は、山で亡くなった人々のことを思う。
 私は、山のことを思う。
 私は、天国の広さを思う。
 私は、私のことを思う。

 (堀口大学訳 『ジャム詩集』新潮文庫より 「サマンに送る哀歌」にちなんで。) 

 今日は、昼前から台風の余波を受けて、雨が降り続いていた。
 朝5度の気温は、とうとう10度を超えることはなかった。
 高い山では雪になっているのかもしれない。
 私はいつ山に登るのだろうか。