ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

春の日高山脈

2013-04-29 21:44:38 | Weblog
 

 4月28日

 昨日は、風速10数メートルにもなるだろう強い北西の風が吹き荒れていた。それでも朝のうちは、雲の多い空の下に、白い日高山脈の山々が見えていた。
 何度見てもあきることはない、早春(そうしゅん)の白雪の山々の連なりである。
 特に楽古岳(らっこだけ、1472m)から十勝岳(とかちだけ、1457m)、さらにピリカヌプリ(1631m)から神威岳(かむいだけ、1601m)にかけての南日高の山々がくっきりと姿を見せていた。(写真は楽古岳と十勝岳) 
 その後、風が強いままに雲が増えてきて山を隠し、さらに広大な十勝平野の畑のあちこちからは、春の初めの頃の風物詩でもある、大砂塵(さじん)が空高く舞い上がっていた。

 気温は10度くらいだが、吹きつける風のためにずいぶん寒く感じる。とても、外には出られない。こういう日には、風の音を聞きながら一日中、ストーヴの燃える部屋にいればいいだけのことだ。
 去年収穫して貯蔵しておいた、ジャガイモを煮てつぶし、大きなイモ団子を作る。こうして冷蔵庫に入れておけば、いつでも取り出して切り分けて、フライパンでハムや野菜とともに炒(いた)めるか、電子レンジでチンしてチーズを乗せた昼食として、あるいはこれも作っておいたアズキぜんざいに小さな団子として入れて、おやつとして食べることもできる。
 極端に言えば、ジャガイモさえあれば生きていけるのだ。インカ帝国から伝えられたジャガイモは、その昔、やせた冷涼な土地で食糧難に悩んでいた北ヨーロッパの人々を、どれほど救ったことだろうか。

 物は考えようだ。何もわざわざおいしいものを食べに外に出かけなくとも、ひとりでいれば、なんとか手軽に作れる料理を考えだすものだ。
 さらに言えば、おなかが空いていれば、何でもおいしく思えるものだ。世の中で評判の高級フランス料理などはもとより、B級グルメでさえ食べたことがないとしても、人間はお腹さえ満ち足りれば、その時々の食事だけでも十分なのだ。
 もっとも、こんなことを言うのは、貧乏人の味覚音痴ということになりそうだが、開き直ってそれがどうしたと言いたくもなる。
 人それぞれに楽しみは違うのだから、”蓼(たで)食う虫も好き好き”のたとえ通り、自分の食事に満足していればそれでいいのだし、何もこの連休のさ中に、名物料理を求めてわざわざ人の多いところに行かなくてもすむのが、私のような粗食慣れしたぐうたらな人間の楽なところだ。

 世の中には、二種類の人間がいる。
 にぎやかなところが好きな人と、きらいな人。
 町中が好きな人と、田舎が好きな人。ディズニーランドが好きな人と、別に行きたいとも思わない人。スポーツ観戦にスタジアムに足を運ぶ人と、行きたいとも思わない人。欲しいもののためには行列に並ぶことも気にならない人と、そうしてまで並びたくない人。レストランで誰かと一緒に食事をしたい人と、家でひとりで食べたい人。皆と一緒に楽しく騒ぎたい人と、ひとりで静かに家にいたい人・・・。
 それはつまり、群れたい人と、群れたくない人。まめな人と、ぐうたらな人。誰かがそばにいないとさびしい人と、ひとりでいる方が気楽な人のことなのかもしれない。

 もちろん大多数の人は前者に属するのだろうし、後者に属するのは極めて少数の人たちにすぎないのだろう。
 それは、私みたいな、変わり者の年寄りとか、心に傷を持った人とかなのだろうが。
 そして、それはもちろん、生まれながらそうだったということではないということ。つまり、その人の周りの環境によって、偶然にもそういうふうになってしまっただけのことだ。いつも心のうちでは、皆と仲良く話しては笑っている夢を見ながらも・・・。

 かといって、そうしてひとりでいることのすべてが悪いばかりではない。神様はいつも、50パーセントずつの苦しみと楽しみを用意しておいてくれるものだ。
 寂しさの代わりに、いつもどこにでも行ける自由さがあり、好きな時にいつでも味わえる愉(たの)しみもある。
 数日前、私は山に登ってきた。

 今の時期は、まだらに雪が残る残雪期というよりは、山全体に雪がついているのでまだ積雪期といった方がいいくらいだし、ましてこの日高山脈の主稜線上の主峰群は、まだ冬と同じような雪の状態だから、それなりの装備をして登らなければならない。
 ただこの積雪期には、その雪を利用して登山道もない山に登れるし、夏道があっても別なルートから登ることもできる。天気の日を選んで、そして雪崩(なだれ)や雪庇(せっぴ)にさえ注意すれば、厳冬期ほどには厳しくない爽快(そうかい)な雪山歩きを楽しむことができるのだ。

 あの春の初めに登った大山(だいせん)などはそのいい例だ。(3月12,19日の項)
 しかしこの時期に日高山脈の主峰群に登るには、残雪で林道が通行止めになっている場合が多くて、そこまでのアプローチやそれから先の数時間以上の登行を考えると、もうこの年ではひとりで挑戦する気にもならないのだ。そこで、山脈の前衛峰である低い山に登ることにした。
 今ごろはいつも、そうした低い山々に登っていて、その中でも忘れられないのは、8年前に登った野塚岳西峰から長く伸びた南尾根の途中にある1120m標高点である。そこから見た、あの南アルプスの盟主、北岳(3192m)を思わせるような十勝岳の姿が今も忘れられない。

 今回はどこにするか、2万5千分の1の地図を見ていて目をつけたのが、あのカムイエクウチカウシ山などへのルートでもある札内川沿いの道の途中、札内(さつない)ダムの手前の両岸に続いている低山帯の一つの山である。
 この地域には、今までに何度か足を踏み入れているが、今回はコイカクシュサツナイ岳からの派生尾根が長々と続くその末端付近、前に登った1263m標高点や1016m標高点(’09.4.29の項)などを経て続く、最後の高まりの759.1mの三角点がある山である。
 三角点が設置されているということは、眺めがきくということだし、もうがんばりがきかなくなった私には、これくらいの低い山が今の自分にはふさわしい所だ。

 もちろん、夏山登山道があるわけでもなく、ただ地形図を確かめながら、かた雪の上を登っていくしかないのだが、ふと調べた中札内村のネットの資料には、同じ位置の同じ高さの山に、何と瓢箪(ひょうたん)山という名前が付けられている。
 ということは、近くにある有名なピョウタン(ヒョウタンではない)の滝にちなんでつけられたのか、それとも1263m標高点などから見えたように、瓢箪を半割にしたような形から名づけられたのか。
 ともかくその山が名前のある山だと分かって、名もない藪山(やぶやま)に登るというのではなくて、一つの大義名分(たいぎめいぶん)を通して、その目的をもって山に登るというお膳立てができたのだ。もうこれは、行くしかないでしょ。

 数日前の快晴の日の朝、南札内の牧場わきの道を少し入った所に車を停めて、そこから歩き始めた。
 少し回り込んだ山影の所から浅い谷になり、一面の雪の斜面を登って行った。積雪は50cmほどだが、かた雪とやわらかい雪が入り混じっていて、時々はまり込んでしまって歩きにくい。そこで早々と持ってきたワカンを靴に取りつけた。
 確かにスノーシューの方がもぐる雪面には効果的なのだが、いかんせん急な登りでは滑りやすくなってしまうから、こうした急斜面が続く日高山脈の山では、ワカンの方が対応しやすいのだ。

 靴は、もう20年以上も使っているプラスティック・ブーツ(早く言えばスキー靴の登山靴版)である。
 去年、ある有名な登山用品店に行って、中型のザックを買ったのだが、その時に雪山の話になり、まだプラスティック・ブーツを履いていると言ったら、あきれたような顔をされ、買い替えることを促された。
 それは大分前に、冬山でプラスティック・ブーツが割れるという事故が何件も起きて、それ以降、店頭からはプラスティック・ブーツはほとんど姿を消していたからだ。
 しかし、根性の曲がったひねくれ者の私は、そうしたプラスティック・ブーツが数年前に各店舗で大処分された時に、その半額以下にもなったものをこれから先のためにと購入したのだ。
 今もまだ20数年前のものをこうして使っているし、だからその2足を古い方は短い登山の時に、新しい方は長い距離の時に(’09.05.17~21の項など)と使い分けているのだ。何といっても、こうした春先から残雪期にかけての湿った雪の時には、プラスティック・ブーツのほうが効果的なのだ。

 急な尾根の斜面には、シカやキツネの足跡が幾つかついているだけで、幸いにもヒグマの足跡はなかった。(ヒグマの足跡で山に登るのを中止しこともある。’10.5.6の項参照)
 ダケカンバの梢から、一羽のウソの声が聞こえてきた。私も、口笛で鳴き交わしてやった。

 上に青空が見えるあの尾根までと、深くなってきた雪の急斜面に何度も足を取られながらたどり着くと、そこは頂上からの稜線になっていて、相変わらずダケカンバの木々が、展望をさえぎってうるさいものの、十勝幌尻岳をはじめとする日高主稜線の山々が見えてきた。 
 その先には、待望の歩きやすいかた雪の雪堤(せきてい)が続いている。(写真)

 

 最後の一登りで、(雪の下で確かめられないが)759.1m三角点に着いた。
 登山口からの標高差420mほどを、2時間半もかかったことになるが、写真を撮りながら、ゆっくりと登ってきたので疲れはない。一休みした後、今度は南に続く雪堤をたどって、ひょうたん型のもう一つの高みの方へと向かうことにした。

 途中からは東側が大きく開けて、十勝平野から太平洋の眺めが素晴らしいのだが、肝心の西側の眺めは、日高山脈主稜線の山々がやはりダケカンバにさえぎられてしまっている。
 それでも木々の間からは十勝幌尻岳(1842m)からカムイエク(1980m)、1823峰、コイカク(1721m)、ヤオロマップ(1794m)、ルベツネ(1727m)、ペテガリ(1736m)などの山々が見えていて、特にA,B,Cカールを擁(よう)したペテガリ岳の姿が一際素晴らしかった。(写真下)
 ゆるやかに下り少し登って740数mの高みに上がるが、ここも山側の展望はよくない。そこでそのまま先に続く尾根をたどってみるが、先の方で少し展望のきくところはあったが、その先で雪堤が途切れて厚いササが横たわっている。もうこれ以上は無理だと判断して、戻ることにした。

 時間は十分にある。時々、倒木の上に腰を下ろしては休んだりした。
 風の音にまじって、ヒガラの声が聞こえていた。
 静かな雪の山の中に、ひとりでいることの心地よさ。それは林の中の一軒家に住んでる時の、静かな暮らしとはまた違う、自分の体だけが、自然の中に包まれている心地よさでもある。
 人は自然の中から生まれたのであり、その自然の胎内にいる時ほど、心安らぐことはないのかもしれない。

 さすがに、雪山の下りは早い。1時間余りで下りて来てしまった。久しぶりの登山だったが、余裕を持って山を楽しむことができたのだ。
 近くにある温泉に入って、さっぱりと汗を流し、まだ夕方前に家に帰ってきた。

 快い疲れと、風呂に入って温まった体、山に登ってきた小さな満足感・・・冷蔵庫に入れておいた、もらったばかりのシラカバの樹液を、コップ一杯飲む。
 ほの甘い冷たさが体の中に広がっていく・・・私だけの小さな幸せ、それで十分だ。

 二日間も吹き荒れて、道東オホーツク海側に雪をもたらせた北風もようやく収まってきた。青空が一面に広がり、春の日高山脈の山なみが、夕暮れの照り返しを受けながら、それぞれに立ち並んでいた。
 私は、今、ここにいるのだ。

  
 
 
 

 
 

北国の春

2013-04-22 20:37:55 | Weblog
 

 4月22日

 数日前に、北海道に戻ってきた。その北の大地には、まさしく北国の春が訪れていた。
 ともかく、まだ寒くて、そしてなつかしい暖かさもあった。

数日前、福岡から飛行機に乗る時に、そして東京羽田で乗り換えた時にも、外の気温は20度を超える暖かさだった。
 しかし、東北上空にさしかかったあたりから、3層の窓ガラス(正確にはアクリル板)の中が凍りつき始めて、その氷の結晶が見えていた。
 もちろん、1万メートルもの高度だから気温が低い(-50度)のは当たり前だが、その前に東京羽田に駐機していた間に、機体が暖められていて、その温度差が大きくて、少し凍りついたのだろうか。
 それは、天気予報で言っていたように、冷たい空気が北日本を覆っていたからでもあるのだろう。降り立った北海道の十勝では、2時の気温は4度だった。

 ただし、いつもの年に比べて、雪解けが早く進んでいるようだった。周りの広大な畑には、もう雪は残っていなかった。わずかにカラマツの防風林沿いや、家の軒下などに少し汚れた雪が残っているだけだった。

 家に戻ってきて、やるべきことはいろいろとあった。
 まずクルマだ。北海道の田舎では、クルマがないと身動きが取れないのだ。6年使用の中古車を買って10年余り乗っているから、毎年心配なのだが、バッテリーをつなぐと一発でかかってくれた。ありがたや。

 クルマは、古いほど税金が高くなっている。つまりお金があって新しい車に次々と買い換えた方が、税金面でもさらに優遇されるのだ。
 排ガス規制の面から、そうしているのはわかるけれども、古いものを大切に使い続けることがいけないかのような、世の中の仕組みが気になるのだ。一方では一台数千万もするようなポルシェに乗って、脱法ハーブを吸いながら運転しては事故を起こし、周りに迷惑をかけている人もいるのに。

 などと、余計なことを考えても仕方がない。
 自分は、自分の世界の中で生きていくしかないし、またそのギリギリの中で耐え忍ぶ自分の姿が、まさに”おしん”的なけなげさに見えては、マゾ的な喜びにつながるのだ。
 あーあ、女王様、もっと厳しく叩いて下さい・・・おーっと、これこそ余分なことだ。

 家の中に入ると、ひえーって感じで、気温は2度、外より寒いのだ。
 つまり丸太小屋自体が、いったん冷やした空気を外に逃がすまいと、そのままに保ってくれているためなのだ。だから夏にはいいのだが、こうして冬の間に家を空けると、冷蔵庫状態になってしまうのだ。
 すぐに薪(まき)ストーヴに、薪を入れて火をつける。ゴーっといって燃え始めたストーヴを、そのまま丸一日燃やし続けて、やっと部屋は20度近い快適な気温になったのだ。
 そして一度暖まってしまえば、この家は何と暖かいのだろうか。あの九州の、小さなポータブル石油ストーヴしかない家の寒さと比べて・・・。

 だからできることなら、この北海道の家で冬を過ごしたいのだ。
 この家で二度の冬を過ごした経験からいえば、外は-20度になっていても、家の中にいればそれほど寒いとは思わなかった。
 ぬくぬくとした気分でゆり椅子に座りながら、窓の外の雪景色を見ては、音楽を聞いたり本を読んだりする毎日だったのだ。
 それは、思えば、年寄りになってからのことを先取りしたような、心穏やかないい日々だった。
(もっともいつも言うように、ちゃんと住み続けるためには、水回りを何とかしなければいけないのだが。)

 さて、小屋開けの仕事はまだまだある。打ちつけたり、閉めきっていたがんじょうな雨戸などを開けて、空気を入れ替える。部屋のあちこちでは、越冬しようとしていたハエが寒さに負けて散らばり落ちている。
 掃除機を、くまなくかける。外しておいたコンセント、ケーブルなどを取り付ける。

 そして次に、家の中に入れていた揚水(ようすい)ポンプを外の井戸の所へ運んで、取り外していた長いパイプを再び取りつける。迎え水を入れて、コンセントにつなぎ、家の中の蛇口を回すと、始めは赤さびの水がどっと出た後、良かった何とかきれいな水が出てくれたのだ。
 ここまでで、2時間余り。

 もう時間がない、急いで町の郵便局に行って、九州の家から送っておいた荷物を受け取り、プロパンガス屋さんに行って、ボンベを交換してもらい、友達の家に行って、夕食をごちそうになり、他に知り合いの家を回って、7時過ぎにようやく家に戻ってきた。
 まだ家は、十分には暖まっていない。冷たい布団を敷いて寝る。母さん、ミャオ、また北海道の家にやってきました。

 そういえば、去年のミャオが亡くなった後からそうなのだが、それまでは毎年何回も繰り返してきたミャオとの別れがつらかったのだが(’11.4.23の項参照)、もう今はさようならを言う相手もいないのだ。今年からは何のためらいもなく、ただ予定した旅行の時間に従って九州の家を後にしただけのことだった。
 それはまた、家で待ってくれている人が誰もいないという、一抹(いちまつ)の寂しさを感じることにもなるし、むつかしいものだ。
 考えてみれば、すべてが丸く収まり良かったということなど、あり得ないことなのかもしれない。

 いつも一つの出来事の前や後ろには、帳尻(ちょうじり)を合わせるような、プラスやマイナスになることが起きており、またはこれから控えているということなのかもしれない。
 運命や偶然は、誰にもわからないものだからそう呼ばれるのだろうが、その良し悪しはいつも50パーセントに50パーセントであり、その影響もまた半々なのだ。

 どっちにも転ぶことがあるものだと考えれば、そうした運命論や偶然の差配などで、自分の人生を決めつけられることはなくなるはずだ。
 つまり、いつも五分五分のことになってしまうのならば、自分の人生は、考え方次第で、いつでも自分の力だけで変えることができるはずなのだ。
 今の私は、そうして自分で決めてきたから、ここにいるのだというだけのことだ。それを、良いこととも悪いこととも考えないことだ。

 前回も書いたように、本来の私は、余り深く考えずに、アホの世界にとどまるべきなのであって、”同じアホなら、生きなきゃ、そんそん。あーえらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよーい”ということなのだろう。

 かくして、翌日の早朝、目が覚めて、また新たな景色の毎日が始まるのだと、外を見ると、そこは何と一面の銀世界だった(写真上)。
 新緑が輝かしい九州からやってきたばかりの私には、十数度もの気温差以上に、まるで冬の季節に戻ったような光景に驚いてしまった。

 この目の前の景色を、どう考えればいいのか。一つには、好き勝手に毎年、九州と北海道を行き来している私に、天上の神様が、”おまえが思っている憧れの北海道は、そんな楽な所ではないぞ”とばかりに、厳しい冬の試練を浴びせたのではないかということ。
 あるいは、”えらいやっちゃ”の神様が、ムツゴローさんのように、”おー来たか、よしよし”と言って頭をなでなでして、ごほうびに私の大好きな雪景色をプレゼントしてくれたのか。
 この五分五分の判断に、脳天気な私が選んだ答えは、後者であることは言うまでもない。 

 しかし、さすがに北国の春なのだ。雪は一日で溶けて、日当たりのよい林の中には、一面にフキノトウの花が開いていた。(写真下)
 遠くに見える日高山脈の山々は、まだすそ野までいっぱいに雪に覆われたままの冬景色である。
 これから初夏にかけて、その雪が次第に溶けていき、最後にはカール(氷河圈谷)や高い沢筋に残るだけになる。
 それまでにはさまざまの花が咲き、私はその春の季節とともに歩いて行くだろう・・・しかし、こうした麗(うるわ)しき春と一緒に歩むことができるのは、もうあと何回残っているだろうか。 
 毎年毎年の、今年限りの”北国の春”なのだ。

 前にも書いたことがあるけれど、1973年のアメリカ映画『パピヨン』のラスト・シーンを思い出してしまう。
 蝶(パピヨン)のイレズミをしたスティーヴ・マックィーン演じる主人公が、無実の罪をきせられて、孤島にある劣悪な環境の刑務所に送られてしまうのだが、その中で耐え抜いて脱獄に成功し、ただひとり漂流する小さな手作りいかだの上で、叫ぶのだ。
 ”I'm still here!"

 それは、何と生きていることを実感させる言葉だったことか。
 「おれは、まだここで生きてるぞー」。こうしてブログを書き続けるのは、そうした私自身に向けた言葉でもあるのだ。


 

  

シャクナゲとヘミングウェイのネコたち

2013-04-14 17:55:48 | Weblog
   
 
 4月14日

 前回、天気が良くて、春爛漫(らんまん)の風景になってきたと書いたのに、その後はまるで1か月前に戻ったような、寒い日が続いた。それも、小雨まじりの、風の強い毎日だった。
 何事も、すんなりと事は運ばないものだ。確かに今は冬から春へと変わってはいるのだろうが、その春の中に、寒い冬の名残があり、一方では、来たるべき夏へと向かう熱気さえも見え隠れしているのだ。

 そうして寒い日が続いた後、昨日あたりから再び晴れて暖かい日が戻ってきた。いっぱいに満ち溢れる日差しが、ある時は熱くさえ感じられるようになってきた。
 庭のヤマザクラの花は散り始めて、新緑の葉が目立つようになってきた。
 そして、今そのサクラに代わって、華やかなシャクナゲの花が咲き始めた。(写真)
 十数年前に、母と近くのシャクナゲ園を訪れた時に、買い求めた小さな苗が、母が亡くなった後も、年ごとに枝葉を伸ばしては、もう3mほどもの高さになり、今やいっぱいの花を咲かせるようになったのだ。

 こうした庭木としてのシャクナゲも、確かにきれいではあるのだが、山に登る私としては、シャクナゲと言えばやはり山に咲く野生種のものを思い浮かべてしまう。

 まずは、北アルプスなどでおなじみのハクサンシャクナゲであるが、それは霧のかかる稜線を歩いている時に、乳白色に包まれた道の傍に、一瞬信じられないようなものを見つけて、思わず見とれてしまうほどの花の美しさだった。
 次に、北海道の山々で見ることの多いキバナシャクナゲである。台地状に続くゆるやかな尾根の斜面に、明るく点々と咲いていて、そのかなたには広大な青空が広がっている、そんな光景を思い浮かべる。
 さらには九州で見た二つのシャクナゲ、九重山群の黒岳の原生林の中に、そこにだけスポット・ライトが当たったかのような、あのツクシシャクナゲの一群。
 そして二年前に訪れた、あの屋久島の山稜をいろどっていたヤクシマシャクナゲ・・・それは巨大な屋久杉と、ただひとりだけで対面することのできた思い出へとつながっていく・・・(’11.6.20の項参照)。
 私がめぐり会ってきた花々は、いつも思い出とともにあり、思い出の中に出てくる花は、いつまでたっても色あせることはない。

 そんなことを思っていては、山に行きたくなってきた。前回の、鮮やかな雪景色の大山(弥山みせん)登山から、もう1か月もたっているのだ。
 そこで数日前、晴れた日を見はからって、近くの低い山を歩いてきた。

 登り下りが繰り返す尾根道は、まだ枯葉が積み重なっていて、わずかにヤマザクラやモミジの新緑が芽吹いたばかりだった。木々の間から、遠くには九重の山々や由布岳が見えていた。誰にも会わない静かな山道には、ただシジュウカラなどの小鳥の声が聞こえるだけだった。
 登りになり、下りになり、あまり展望のきかない尾根道をただひとりで、黙々と歩いて行った。
 その単純な行動に身を任せていることの心地よさ、それは余計なことを何も考えないからだろうか。

 私が、こうして歩いて行くことに、つまり山登りに夢中になるのは、多分に本来の私の性向の一つでもある、ある種の痴呆(ちほう)的な解放感を求めているからなのかもしれない。
 ただでさえ頭の悪い私が、小生意気にも哲学だ文学だ絵画だ音楽だと、考え込んではひとりわめきちらすものだから、私の脳は許容量以上のものを押しつけられては、哀れにも疲弊(ひへい)しきっているのだ。

 そこで、自然の中を歩いていると、体の動きにだけ注意をはらっていればいいだけで、深く考えなくていいから、私の脳はようやくやすらぎのひと時を得ることになるのだ。

 「ホンマは、ここがあんたのふるさとなんやで。アホになりなはれ、アホが一番や。足りない頭で、なんもそないなむずかしいこと考えることおまへん。」

 と、わけのわからない関西弁の言葉が耳元で聞こえる。私は、はっと気がつくのだ。そうだ、私は、本当はアホだったのだ。

 「あ、そーれ。えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよーいと。同じアホなら踊らにゃ、そんそん。」

 誰もいない山の中、いかつい顔をしたオヤジがひとり、何やら手をかざして踊っている様子・・・余りの長いひとりの生活に耐えきれず、とうとう気がふれてしまったか。
 これも前世からの因縁(いんねん)のたたり、これからは改心して何事も御仏(みほとけ)の教えにすがって生きていくべきなのだ。
 ただひたすらに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱(とな)えながら。

 というような思いが、一瞬私の頭の中をよぎったが、まだまだ道は先に続いていた。
 そして下の方に降りてくると、ほの暗いスギやヒノキの林を背景にして、ヤマザクラやモミジ、ミズキなどの新緑が目に鮮やかだった。(写真)

 

 往復、わずか2時間余りのハイキングだったが、ただ歩き続けることで、今までの枯葉が折り重なっているような、暗い心の思いが吹き飛ばされて、あの新緑の色によって、これから先に新たな季節があることを教えられたのだった。

 思えば、去年は、南アルプス、富士山、北アルプスなどの遠征登山があったにせよ、1年間でわずか8回しか山に行っていないのだ。つまり、一カ月に一度も行っていないことになり、数十年にも及ぶ私の登山人生の中では、会社の仕事が忙しくて、さらに北海道に家を建てていた時の、それぞれ2年ほどの空白期間を除けば、極めて少ない回数の一年だったのだ。
 かつては、年間30回近く行った年もあり、週ごとに山に向かったほどなのに、去年は一体何があったのか。

 一つは、年ごとにぐうたらになり、さらには山を選ぶようになり、冥途(めいど)の土産(みやげ)にと、まだ登っていない山やあるいは季節ごとの山に登りたくなったからである。
 そして去年は、私にとって、母の死に次ぐつらい出来事があったからだ。・・・ミャオの死。
 いまだに、この家の周りにはミャオの思い出があふれている。母の時と同じように、平静な思いに戻るまでにはまだ数年はかかるだろうが・・・。

 だから、また新たにネコを飼う気にはならないけれど、ネコを見るのは好きだ。
 前にも、ここに書いたことがあるが、動物写真家の岩合光昭氏によるNHK・BSでの『世界のネコ歩き』シリーズは素晴らしい。
 今回見たのは、アメリカはフロリダ州の最南端、キーウェストのネコちゃんたちである。

 まず驚いたのは、6本指のネコたちが多いこと。こちらに向かって歩いてくるさまは、まるで北海道のユキウサギの足と同じではないか。
 ユキウサギの足が普通のウサギより大きいのは分かる、つまり雪にもぐらないように、ワカンやスノーシューのように進化して大きくなったのだろうが、ここのネコの場合、雪も降らない暑い南国の街に住んでいるのだ。 
 ただ、周りが海だから、忍者のようにその太い足先で、海を歩いていたりして・・・いや、もちろんそんなことはない。
 事実は、近親交配による多指症であり、あのネコ好きの文豪ヘミングウェイが飼っていた時代からのネコであり、その遺伝子を受け継ぐネコたちが、今でもこの町のヘミングウェイ博物館の敷地内で飼われているとのことだ。

 (私の好きな作家の一人でもあるヘミングウェイについては、書きたいことがあまりにも多すぎるので、ここではこれ以上触れないことにするが、ネコが出てくる彼の作品の中で、ただ一つだけ選ぶとすれば、それは『雨の中の猫』である。)

 さらに町の人々とともに生きているネコちゃんたちには、それぞれ名前がつけられているのだ。
 例の足の形から、ビッグフット、そしてタイガーやグレタ・ガルボ(往年の名女優)等々。さらに驚くことは、ノラネコというべきか放し飼いというべきか、港には20歳のネコがいるし、有名なホテルのプールサイドには21歳にもなるネコが出入りしているのだ。

 ネコは13歳を過ぎれば年寄りネコであり、15歳まで生きたミャオは十分に天寿を全うしたのだ、と動物病院の先生は言っていたけれど、こうして長生きして皆に可愛いがられているネコたちを見ると、私がずっとそばにいてやれば、ミャオをもう少し長生きさせてあげられたのにと思うのだ。
 母に対して、ミャオに対して申し訳ないという気持ちはいつまでたってもなくなることはないだろう。それは、人間誰しもが負うことになる、亡くなった家族に対する十字架なのだ。

 さらに、イヌネコつながりでもう一本の番組についても、書いておきたい。
 数日前にNHKで放送された、震災関連のドキュメンタリー『21頭の犬たち― ふるさとへの旅』である。
 震災後の原発事故で、放射能に汚染されて、住み慣れた土地を離れざるを得なくなった飯館村の人々、それは動物たちも同じであり、見捨てられたものもいたのだろうが、依頼を受けた犬たちは幸いにも、岐阜県にある、要介護の犬たちが飼われているボランティアの施設に引き取られることになったのだ。
 そして2年間、それは犬たちにも、飼い主たちにもあまりにも長い時間であり、その施設の責任者は、犬たちを一度故郷に返してやり飼い主たちにも会わせてやるべく、21頭の犬をトラックに積んで、日本海側周りで一路福島を目指し、二日目に飯館村役場前に着いたのだ。
 そこには、犬たちの飼い主家族たちが待ち構えていた。
 犬たちは飼い主の臭いを忘れてはいなかった。飛びついては飼い主の顔をなめまわし、しっぽをちぎれんばかりに振りながら。

 犬たちの思いと、避難先では犬を飼うことができない飼い主たちの思い・・・本来の犬好きである私は、目をうるませながら見続けた。
 その中の一頭の犬は、飼い主の軽トラに乗せられてなつかしいわが家に帰るのだが、そこにはもう自分の臭いも飼い主の臭いも残っていないかった。犬はそさくさと、自ら再び軽トラックの荷台に乗り込んだのだ。ここは自分の家ではないと。
 ”犬は人につき、猫は家につく”のたとえのように。

 その家に住めるようになるまでには、何年かかるかもわからない。おそらくは、消えることのない放射能がずっとついて回ることになるのだろう。
 自分たちがいた家には住めなくなり、それまでの生活を失い、家族が離れ離れになり、イヌやネコたちもまた・・・。

 誰も責任を取りはしない。そこに原発を作ったのは誰なのか。遠い昔のことに誰も口をつぐんだままだ。
 まして、あの原発から遠く離れた所に住む私たちにとっては、同情こそすれ、やはり遠い土地での出来事にすぎないのだろうか。
 人生とは、単なる、運不運だけなのだろうか。

 暖かい南国で、周りの人々に優しく見守られて長生きするネコたち・・・。
 飼い主と離れて、施設の狭いオリの犬小屋で、同じ境遇の犬たちと暮らす他はないイヌたち・・・それでも、彼らは、心あるボランティアの人たちに見守られていて幸せなのだ。
 おそらくは誰知らず死んでいったであろう、たくさんのイヌやネコたち、牛や馬たちもいただろうから・・・。
 まして人間の世界では、数々の悲劇が生まれて、いまだにその中にある人々がいること・・・。

 思えば、何と自分の小さな幸せがありがたいことか、自分の不幸が何と小さいことか・・・ともかく今は、こうして元気に生きているのだもの。

『揚げヒバリ』とカタツムリと『アリアドネ』

2013-04-07 11:42:25 | Weblog
 

 4月7日 

 花に嵐のたとえ通りに、強い南風の後は強い北風(何と雪まじり)と二日も吹き荒れて、満開になるばかりのわが家のヤマザクラも、かなりの花を散らしてしまった。
 その花びらは仕方がないとしても、哀れなのは、つぼみのまま、あるいは花の咲いたその房ごと、吹き飛ばされて地面に点々と落ちているものたちである。

 とはいえ、季節は春であり、晴れた日が続くと、日一日と次第に春の陽気に満ち溢れていくのが分かる。
 「秋の陽は、つるべ落とし」というけれど、春の日は、何に例えたらいいのだろうか。
 心地よい暖かさの中で、咲き競う花々、そよ風が吹き、鳥たちのさえずりが聞こえる・・・。
 「春の日は、揚(あ)げひばり」。ふとそんな言葉が頭に浮かんだ。

 ヴァイオリンがソロで奏でるメロディーが、空高く舞い上がっていく・・・時は、まさに春。
 その、ひばりが鳴きながら中空に舞い上がっていくところを描いた、ソロ・ヴァイオリンと管弦楽のための曲「揚げひばり」は、あのイギリスの国民的作曲家、ヴォーン=ウィリアムズ(1872~1958)による作品である。

 彼は9曲の交響曲の他にも、イギリスの古い民謡の旋律をもとに、幾つかの美しい管弦楽曲を書いているが、そのいずれもがまるでイギリスの田園風景を思わせるようである。
 人によっては、それを通俗的な標題音楽にすぎないと評する人もいるようだが、私のようなミーハー的なクラッシック音楽愛好家には、深く考えずに、ただ心地よく耳に響いてくる曲はすべてが、自分の好きな曲になってしまうのだ。
 思えばそれは、若き日のヨーロッパ旅行での、イングランドからスコットランドへとたどった数日間の旅の景色と重なり、さらに同じイギリスのあの田園風景画家、ジョン・コンスタブル(1776~1837)の幾つかの絵画も思い浮かんでくる。

 レコードの時代、この曲で私がよく聴いていたのは、マリナー指揮、アカデミー室内合奏団によるものだった。
 その輸入盤レコード(Decca,argo)のジャケットの絵が、まさに曲のイメージ通りに、コンスタブルの『とうもろこし畑』だった。(写真上)
 田舎道には群れになった羊たちがいて、その羊を追っていた少年が、小川の流れに腹ばいになって水を飲んでいる。傍では、牧羊犬のボーダーコリーが飼い主の少年の様子を見ている。高い木々の間からは、穫り入れ時を迎えたとうもろこしの畑が広がっている。、
 春の風景ではないけれども、何と心なごやかな初秋のイギリスの田園の光景だろうか。

 このレコードに収められているのは、「タリスの主題による幻想曲」「揚げひばり」「”富める人とラザロ”の五つの異版」「グリーンスリーヴスによる幻想曲」であり、いずれもが甲乙つけがたい美しい曲ばかりだが、この中で、イギリス風景を思わせる他の3曲に比べて、「富める人とラザロ」だけがその題名からして少し異質にも思えるのだが、その曲調は他の3曲に相通じるものがあり、さらにいや増して素晴らしい曲なのだ。
 あの聖書における有名なラザロの話から作られた古謡を、今によみがえるべく鮮やかに編曲していて、その美しいオーケストレイションの昂揚(こうよう)感は、いつ聴いても私の心に訴えかけてくるのだ。

 確かにあの「揚げひばり」におけるアイオナ・ブラウンのソロ・ヴァイオリンの美しさは比類のないものであり、あえて言えば、リムスキー=コルサコフの「シエラザード」でのソロ・ヴァイオリンの美しさに匹敵するものかもしれないが、ヴォーン=ウィリアムズからの一曲として選ぶなら、私は「富める人とラザロ・・・」の方を選ぶだろう。

 CDの時代になって、私は他の演奏者によるものも聴いてはみたのだが、やはり帰って行く所は、マリナーとアカデミーによる演奏のものであり、デッカ原盤のCDをあらためて買ったことは言うまでもない。 
 特に北海道の家にいて、この4曲が収められたCDを聴く時には、まさにその響きがふさわしい場所にいると実感するのだ。

 その北の家に帰る日も近いのだが、それまでに、この九州の家でもやっておかなければならないことがいろいろとある。
 冬の間に枯れたり折れたりしている枝などを、集めては燃やし、(いつもならそのたき火の傍に、ニャーと鳴いてミャオが寄って来ていたのに)、それからあちこちで目立ち始めてきた庭の草取りをして、さらに小さな畑の土起こしや植えつけ作業も残っている。
 もっとも畑の方は、いくら植えつけをしても、監視の目が行き届かずにすぐにシカに食べられてしまうから、何かシカが食べないものを植えるようにしなければと思うのだが。

 というふうに少しずつ、庭仕事を始めたのだが、その庭の一角には一本のヤマザクラの木があり、咲き始めから満開になるまで、毎日今日はどうかと見上げるのを楽しみにしていたのだが、あいにくの嵐だ。
 ところで、その数日前のことだが、暖かい日が続いて、ヤマザクラの花が咲き始めたころ、根元のあたりの、他の木々のために日陰になっている枯葉の上に、白っぽい丸いものが二つ見えた。

 近寄ってみると、何とそれは二匹のカタツムリだった。(写真)

  

 一匹のカタツムリだけなら、別に珍しくもなくいつも普通に見ているのだが、向かい合わせにいるのを見たのは初めてだった。
 なるほど、この春の暖かさの中で、彼らにも恋の季節が来たというわけなのだろう。

 そこで、小さなデジカメを持ってきて写真に撮ってみた。しかしその時に、薄暗い所で彼らを驚かせないようにと、フラッシュ禁止にしていたのが間違いだった。
 写した2枚とも、かなり大きくブレていたのだ。まさしく初歩的なミスで、私にはよくあることだ。
 記録として残すだけならそれでもいいのだが、自分だけで見るにしてもブレた写真はやはり見るにたえない。

 前にも書いたように、今、ヒマな時を見ては少しずつ、昔の中判フィルムのデジタル・スキャン作業をしているのだが、そこでも、よくブレた写真が見つかるのだ。
 というのも、初心者にはありがちな、フィルム代をケチって基本的にはワン・シーンでワン・ショットしか写していないから、最高の眺めだったのにブレた写真しかないということもあるのだ。
 しかしそれは、そうなるだろうことを承知した上でのことでもある。

 つまり、今までの長い山登りの人生の中で、私としては、まず山に登り頂きをめざすことの方が重要であり、写真はあくまでもその時の記録を残すためのものであって、はなから芸術写真などを取るつもりはないのだから、なるべく手早く写しては、急いで次の地点へ、頂きへと向かうことの方が大切だったからだ。
 そうであれば、当然面倒な三脚は使わないから、シャッター・スピードを上げて手持ちで撮るか、ストックや岩などに固定して撮っていくことになる。だからブレる写真が出てくるのは、仕方のないことなのだ。

 こうして私は長い間、写真よりはまずその山に登ることが第一という考えを、ブレずに押し通してきたのだが、今、年を取ってきて、山登りにかかる時間が、コース・タイム通りかそれ以上になってきて、はたと気づいて、その考え方を変えるべく思ったのだ。
 いつかは、長い距離の登山はできなくなってしまう。それでも山を見たいという思いは変わらないだろうから、短い時間で登れる山にするか、あるいは下から眺めるだけにして、三脚を使ってゆっくり時間をかけて写真を撮っていけばいいのだと。
 車もワゴン車にして、そこで寝泊まりして、日本中の山々を見て歩き、写真を撮っていく、そんな放浪の旅に出てみたいと・・・。

 そして、いつの日か、あの西行法師(さいぎょうほうし)の花と月への思いになぞらえて・・・”願わくば、雪の下にて冬死なむ、その如月(きさらぎ)の山白き頃”・・・とは思うのだが。

 さて、いつもの私の悪いクセで話がそれてしまったが、元に戻ろう、カタツムリの話である。
 二匹のカタツムリは、お互いの体に触れ合いじっとしていた。
 調べてみると、いろいろと面白いことが分かった。

 カタツムリ(蝸牛)は、陸生の巻貝の仲間であり、一般的に言えばナメクジとの差は、その体と一体化した殻(から)があるかないかであり、その語源は、”笠つぶり”からきているのではないかとのこと。
 カタツムリは、デンデンムシとも呼ばれ、その語源は、貝の中に閉じこもっている時に、”出て来い、出て来い”と呼びかけたからではないかと、そしてマイマイとも呼ばれる語源は、同じようなはやし言葉の”舞え、舞え”からであり、あの昆虫のマイマイカブリは、そのマイマイにかぶりつくから名づけられたのだということ。
 さらに、カタツムリは雌雄同体(しゆうどうたい)であり、互いの生殖機能を持っていて、交接相手が見つからない場合には、自己生殖を行うが、弊害が多いとのことである。(以上、ウィキペディアより)

 してみると、この二匹は、神聖なる生殖行為を行おうとしていたところなのかもしれない。
 私は写真を撮った後、そっとしておいてやるために、その場から静かに離れた。

 私は、若いころに、愛する彼女と二人でいた時のことを思い出していた。

 何をしなくても、二人でただじっとやさしく抱き合っていれば、それだけでもう十分に幸せだったこと。
 何の心配もなく、お互いの心とからだを任せられる相手がいるということ、そんな何ものにも代えがたい思いがあったこと。
 その時に、世界に異変が起きたとしても、二人に死が迫っていたとしても、何も怖くはなかった。
 数多くの小説や戯曲に書かれたり、あるいは実際の出来事としてあったこと、その死を賭けてまでの一途な恋の話は、ある時は余りにも痛々しくも感じられるのだが、年を取った今になったからこそ、思い出と相まって胸を打つのだ。

 あの心満ち足りた、二人だけでいることの安らぎの時間・・・私がもし若き日の、ある時に戻りたいとすれば、それはただむき出しの若さをひけらかしていただけの、いたずらに時間を浪費していたその青春時代にではなく、あの二人だけでいたひと時にこそ、それも一つではない幾つかのそれぞれの思い出の時々に・・・。

 ・・・と、さすがに我ながらあきれるほどの、彼女たちには申し訳ない自分勝手な思いなのだが、それも今ではこの老い先短い年寄りの、繰り言(くりごと)ゆえに、その思い出だからと許してくれるだろうか。
 そこで、最近NHK・BSで見た、あの去年のザルツブルグ音楽祭でのオペラ、リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』についていろいろと書くつもりだったのだが、またいつものようにあちこち話が飛んでしまい、ここまでに余分なことばかりを書き連ねて長くなったから、ともかく以下は簡略化して書くことにする。

 リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)は、クラッシック音楽、後期ロマン派の、というより現代音楽へと移行する時代に現れた、最後のロマン派音楽の名残りとでもいうべき作曲家であり、管弦楽曲や歌曲など、特にオペラの分野において輝かしい足跡を残している。
 そのオペラの中でも、最高との評価が高い『ばらの騎士』(’10.1.3の項参照)や『影のない女』(’11.8.23の項参照)については、すでに今までもそうして取り上げてきたのだが、さらにまたこうして別なオペラについて書きたくなるのは、つまりは、彼のオペラにひかれているからなのだろう。
 それは、弦楽のための『メタモルフォーゼン』や、歌曲の『四つの最後の歌』などを聴く時も同じように心に響いてくるのだが、『ばらの騎士』の元帥(げんすい)夫人のアリアやこの『ナクソス島のアリアドネ』のアリアドネのアリアのように、その時代の終わりの、あるいはそれぞれの人生の終わりに近い、夕映えの中のわびしいきらめきを感じるからなのだろうか。

 この『ナクソス島のアリアドネ』においても、愛する人に置き去りにされたアリアドネの嘆きが、いつしかあきらめへと変わっていく寂しさが感じられるのだ。
 しかし、深く悲しんでいるそんな彼女を見て、その劇中劇の中での道化師仲間の踊り子、ツェルビネッタは、アリアドネとは対照的にそんな一人の男にこだわらずに、何度もの恋愛をして自分の人生を楽しむべきだと語りかけるのだ。

 ホフマンスタールが書いたこの話は、観衆側から見れば二重に仕組まれていて、つまり舞台では、あの17世紀のフランスの喜劇作家モリエール(1622~73)が書いた『町人貴族』という芝居をやっているのだが、その劇の中でオペラ『ナクソス島のアリアドネ』が上演されることになり、さらに驚くべきことには、成り上がり者で町人貴族ぶるこの家のご当主の命令で、お気に入りの道化バレーの一座がそこに加わることになったのだ。

 それは、劇中劇の中のもう一つの劇ということになるのだ。つまり、この複雑な話のオペラは、モリエールの皮肉いっぱいの芝居『町人貴族』を見て笑い、一方で対照的なギリシア神話に題材をとった『ナクソス島のアリアドネ』の悲劇のオペラを見て(最後はハッピーエンドになるのだが)、その間をつなぐかのような道化師バレーも楽しむという、まさに一度見て三つ楽しいという、どこかのキャラメルのうたい文句のような、当時のオペラ界からすればまさに意欲的な出し物だったのだ。
 しかし当時は、興業的には失敗して、その後シュトラウスは仕方なく、『ナクソス島のアリアドネ』だけを切り離して単独でオペラとして上演したということであり、私が知っているのもそのオペラだけのものだったのだ。

 今回上演されたものは、初演時の原典版ということであり、第一幕の『町人貴族』の場面は、すべて俳優たちによる演技だけの舞台劇であり、歌のないオペラの違和感はあったが、演技者はそれぞれに達者であり十分に喜劇として楽しむことができた。
 そして第二幕のプロローグから『ナクソス島のアリアドネ』のオペラも始まり、悲劇のヒロイン、アリアドネ役のエミリー・マギーの抑えた深い響きの声と、そこにからめて挿入された踊り子役、ツェルビネッタのエレーナ・モシュクの超絶技巧のコロラトゥーラの歌声も見事だったのだが、何といってもそれまでの喜劇めいた舞台の雰囲気を、一気にオペラの世界に変えてしまったのは、あのバッカス役ヨナス・カウフマンの登場によってであった。

 このオペラについて、さらにリヒャルト・シュトラウスについてなどまだまだ書きたいことは幾らでもあるのだが、もうすっかり長くなってしまい、このあたりで終えることにしよう。それにしても、様々な示唆(しさ)を含んだ興味深いオペラだった。

 話をはじめに戻してまとめれば、二匹のカタツムリのめぐり会いの恋と、私の若き日の恋の安らぎのひと時の思い出と、『ナクソス島のアリアドネ』での、アリアで対比された二つの恋による生き方について・・・こうして、それぞれをただ提示しただけで終わるのも、何か決まりがつかない気持ちになるのだが。

 そこで、この年になって思うのは・・・長い短いはともかくとして、誰でもが心の青春時代を過ごしてきて、幾つかの恋をしてきて今があるわけであり、そこにはそれぞれの生き方があり、どれが良くてどれが良くなかったいうわけでもなく、そうした出会いがあったことに感謝するべきだと。
 そして、後になってそれは、誰しもの心の中に一瞬光り輝く思い出となって残り続けていくのだから、それだからこそあの青春のひと時をいとおしく思うのだろうと・・・。

「・・・もう空はたそがれはじめて、夢のように、二羽のヒバリがかすみたなびく空に昇っていく・・・」。

(リヒャルト・シュトラウス『四つの最後の歌』より「夕映えの中で」)

「いのち短し、恋せよ少女(おとめ)
 朱(あか)き唇(くちびる)、褪(あ)せぬ間に
 熱き血潮(ちしお)の、冷えぬ間に
 明日の月日はないものを・・・」

(『ゴンドラの歌』吉井勇作詞 中山晋平作曲 松井須磨子歌)