ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

青空と雪山

2017-01-30 22:31:50 | Weblog



 1月30日

 昨日は、曇り空で時おり小雨が降る天気であったにもかかわらず、さらに言えば、一年で最も寒い時期にもかかわらず、最高気温は17度にまで上がった。
 そして、今朝の気温は10度。
 日本海側で、記録的な大雪に見舞われている地域の人たちには申し訳ないが、もう明らかに暖冬だと言わざるを得ない。
 いつもの年なら、今頃は毎日雪がちらついていて、もう何日の間も雪が消えずに残っていたというのに・・・。
 庭では、この暖かさに誘われてか、もうユスラウメの花が咲いている。

 さらには、ナベヅルやマナヅルなどの越冬地で有名な、鹿児島は出水(いずみ)平野の、ツルたちの”北帰行”の第一群が、平年より一週間も早く飛び立っていったとのこと。
 もちろんいきなり、まだ凍てついた中国大陸の繁殖地へと飛んで行くわけではなく、まずは九州を北上し、途中の壱岐(いき)や対馬(つしま)を中継地にして、朝鮮半島に渡り、十分に暖かくなった春先になって、繁殖地の満州やシベリアへと帰って行くということなのだが、不熱心な”野鳥の会”会員でもある私は、まだその渡りの様子を一度も見たことはない。
 北海道の家では、晩秋のころに、上空を飛んでいくハクチョウの群れを何度も見たことがあるし、このコハクチョウやオオハクチョウたちは、南北に長い日本列島の地形を利用して、渡りのルートを決めていて、秋には大陸から渡ってきて少しずつ日本海側を南下していき、そして春先には逆に北上していき、気温がゆるんだ春先には大陸へと渡っていくのだが、いつだったか流氷を見に出かけた時に、その早春のオホーツクの海岸沿いに、長い列を作って互いに鳴きかわしながら、少しづつ高く低くなりながら飛んでいくハクチョウたちを見たことがあるが、目の前にしての、まさに感動のひと時であった。

 もっともそれにもましていつも思い出してしまうのは、もう何年も前のNHKのドキュメンタリー番組で見た、アネハヅルの渡りである。
 あの8000mもの高峰が続くヒマラヤ山脈を越えて、越冬地のインドの平野へと向かうアネハヅルの苦闘・・・人間の登山隊でさえその薄い空気に苦労する山々の上を飛んで行くのだ・・・気流の変化や、ワシ・タカなどの猛禽類の攻撃をかわして。

 強い種族として生き残るために、自らに課した試練・・・すべての動植物たちには、多かれ少なかれ、将来へと続く自分たちの種のための、そうした本能的な自己鍛錬の場があるものだが、それに引きかえ、人間という種族はと考えてしまう。
 特に、ただぐうたらに自分のためだけに、のんべんだらりと生きている、いい年をしたじじいの私めはと、心から恥じ入る次第ではあります。
 ということで、そんな自分を叱咤激励(しったげきれい)し、体を鍛(きた)えるためにもと、山に登ることにしたのであります。
 とかなんとか理由づけするほどでもなく、ただ雪山を見たいから出かけだけのことで、これまたわがままな思いからではありますが。
 
 さて、前置きの時点で話が脇にそれて長くなったが、山に行ったのは数日前のことで、その二日前から雪が降っていて、合わせて15cmくらい降り積もり、前日の天気予報でも九州全域に、あの大きなお日様マークがついていて、さらには平日だったし、これでは出かけないわけにはいかなかった。
 朝の冷え込みは-7度、道は半分以上の所で雪が残り凍りついていた。
 カーブの続く山道から、飯田高原(はんだこうげん)の広い平坦地に出ると、霧氷の木々の向こうに九重の山々が並んでいた。(写真上)
 しかし、長者原(ちょうじゃばる)から牧ノ戸峠までの山道区間は、全線圧雪アイスバーン状態だった。
 もちろん、タイヤはこの冬になる前に新しいスタッドレスに変えたばかりだし、車は古いながらも一応4WDだし、心配はないのだが、カーブの多い九州の山道だから気は抜けない。
 
 朝、寝過ごしてしまい出かけるのも遅くなったから、牧ノ戸の駐車場(1330m)に着いたのは、もう9時半にもなっていた。
 週末ほどの混雑はないにしろ、すでに30台余りの車が停まっていて、中には、クルマ全体に霜がついて凍りついたものも何台もあり、それはおそらく夕焼けや朝焼けの写真を撮るために、昨日から山に入っている人たちのクルマなのだろうが、やはり、ここが九州での一番の雪山の場所だからなのに違いない。
 途中で、そうしたカメラ・ザックに三脚をつけた人たち何人かが、山から下りてくるのに出会った。
 私は、この九重の雪山の夕焼けを見るために、何度か午後遅くになって山に入り、夕日に染まる山々を見た後、頭のライトをつけて雪道を戻ってきたことはあるのだが、まだ朝焼けを見るために入ったことはなく、何とか一度はと思ってはいるのだが、いかんせん、今ではもうそんな覇気(はき)もなく、ぐうたらの情に流さているというのが現実である。
 
 さて、いつもの遊歩道の道は、見事な霧氷に囲まれたトンネルになっていて、あまり朝早いとこの辺りは日陰になっているのだが、今ぐらいから日が当たり始めてくるので、遅くなったことが悪いことばかりでもないのだ。
 20㎝ほど積もっていた雪道は、これから先もずっと踏み固められていて、キュッキュッと鳴るほどによく締まっていて歩きやすかった。
 多くの人がアイゼンをつけていたが、私はもちろん持ってきてはいたが、いつものようにつけないで歩きとおした。
 それほどに、九重の雪山は安全なルートがほとんどなのだ。
 ただし、それだからこそ、いつも登山者の多い人気の山であり、こんな雪山の平日にもかかわらず、この日も、私の前後の遠く近くで、登山者たちの声が途切れることはなかった。

 すぐ上の展望台からは、相変わらずの光景だが、霧氷の灌木帯の向こうに、どっしりと鎮座する三俣山(みまたやま、1745m)が見えている。
 さらに一登りすると、沓掛山前峰に着き、南面が開けて、広いカルデラの中で煙を上げる中岳を中心にした阿蘇五岳が見えている。
 ここからは、霧氷の樹々に囲まれた尾根歩きになり、沓掛山本峰(1503m)に着くと、おなじみの光景ながら、縦走路の尾根を前景にした、三俣山の姿が素晴らしい。
 そして下ると、その先は、なだらかな広い尾根の縦走路が続き、左手には変わらずに三俣山が見えている。(写真下)



 風も余りなく、青空の下の日差しが強くて、汗をかき始めたので、かぶっていた毛糸帽を野球帽に替え、そしてダウンの上着も脱いで、その下のフリースと下着だけで十分だったが、指先は冷たく手袋は外せなかった。
 秋には、紅葉におおわれていた星生山(ほっしょうざん、1762m)の西斜面(’16.10.31の項参照)も、今はすべて霧氷一色になっていた。
 扇ヶ鼻分岐からは、そのまま西千里浜の火口原を行き、行く手には、この九重山群の盟主ともいうべき三角錐の久住山(1787m)の姿が見えてくる。
 ただ残念なことには、雪の量が少なくそれほど強い北西の風が吹きつけなかったせいか、風紋(ふうもん)やシュカブラ(エビのしっぽ)の出来もあまりよくなくて少なかった。
 それは、このところの天気から予測していたことでもあり、だから先ほどの扇ヶ鼻分岐で、いつも風紋が見事な星生山へと向かうのをやめたわけである。
 とはいっても、それでもさすがに見事な冬山の光景になっていたし、何度も立ち止まっては、写真を撮りながら歩いて行った。
 星生崎からの岩塊斜面を登ると、目の前に久住山の姿がさえぎることなく見えてくる。
 その頂きの上にだけ、雲がまとわりついていたが、それがかえって、この九重山群の王者としての風格を高めているかのようだった。(写真下)



 その星生崎下から、すぐ下に見える避難小屋そして”久住分れ”の分岐点へとたどり着き、そこで再び毛糸帽にダウン・ジャケットを着こむ。そこから、いつもは左に回り込んで、この九重山群の最高峰である中岳(1791m)や天狗ヶ城に向かうのだが、今回は久しぶりに久住山に向かうことにした。
 一つには、このところいつも、天狗ヶ城や中岳への道をたどっているし(’16.2.2の項参照)、そうすると距離も少し遠くなり、ヒザの心配もあるから無理はしないようにと、自分に言い聞かせていたからでもあったのだが。
 正面に、久住山の巨大な白鯨(はくげい)のような山体を見ながら登って行き、このあたりからシュカブラで菊化石状になった岩や風紋を見ることができたが、特に見事だったのは、その東西に延びた長い頂上稜線の東端にある岩塊斜面であり、遠景に中岳の姿も見えていた。(写真下)

 

 そして午後1時前に、ようやく頂上にたどり着いた。
 なんと登山口から、3時間余りもかかったことになる、コースタイムは2時間くらいなのに。
 それは、足が遅い年寄りだからというよりは、写真を撮りながら歩いてきたせいでもあり、今回のわずか半日足らずの雪山歩きで250枚もの写真を撮ってしまったのだから。
 もうこんなに遅くなっては、他の山々にまで回る余裕はなかった。
 もっとも、そんなに時間がかかったということは、それだけ長く景色を眺められたわけだからと、年寄りらしい理屈も考えてみた。
 頂上には、他に数人がいたが、広い頂上のあちこちに散らばっていて、意外に静かだった。
 この久住山の頂上からは、なんといっても南面に広大に広がる久住高原を隔てて、阿蘇カルデラの山々と。祖母・傾山群を眺める展望が一番である。 
 同じ九重山群の他の山々の眺めは、位置的に見ても余りいいとは言えなくて、むしろ他の山々からこの久住山を含む山々を見たほうが、見栄えがするとでもいうべきか、それほどに、九重の核心部になる山なのである。
 
 ほんの15分ほど休んで下りて行くが、帰りには帰りでまた撮りたい光景がいくつも現れてきて、そのたびごとにカメラを構えることになる。
 前にもこのブログで書いたように、後になって記憶を呼び戻す時に、写真ほど有効な手段はないと確信しているから(もちろん動画ならなおさらのことだが)、なるべく写真は多くとるようにしているのだ。
 フィルム写真時代には、考えられなかったことであり、今日もしフィルム・カメラで撮っていたら、おそらく36枚撮りフィルム一本がいいところだったろうし、中判カメラなら120フィルムで二本30枚撮るのが関の山だったろう。

 もちろん、それらの写真は、手あたり次第、三脚につけて撮っているわけではなく、ほとんどが手持ち撮影であり、そのうちどうしても手振れが気になる場合は、いつも持っているストックに乗せて一脚として使っているだけである。
 だから私は、手振れを恐れてISO感度を200以上に上げて、画質が落ちても早いスピードでシャッターが切れるようにと、写真の教科書とは真逆の方法の、邪道の、ただの”お絵かき写真”撮りでしかないのだ。
 その写真を自分で見て、いつもニヒニヒと喜んでいるだけで、このブログに乗せている写真も誰からの批判なども受け付けないから、まさに自作自演の観客のいない舞台で、一人悦に入っているようなものであり、それでいいと思っている。

 自分の残り少ない人生の時を、いかに他人に迷惑をかけないで、自分で楽しむことができるか、個としてのエゴイズムの極北を目指すべく、若い時には思いもしなかった生き方であり、それが、自分なりの老年期の楽しみ方でもあるのだ。
 繰り返し言うけれども、あんなに青臭く生意気でそのくせ傷つきやすくただ欲望にぎらついていた、若い時代の自分なんかに戻りたくはない。
 年寄りへと向かう年になってから、すべてがありがたく思えるようになり、初めて人生の意義そのものに気がつくのではないのだろうか。
 そうした思いは、今までにここでも、例えばヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』(草思社文庫)や、アランの『幸福論』(集英社文庫)や貝原益軒の『養生訓』(岩波文庫)などなどとあげてきた、人生訓の言葉とも重なってくるのだが、さらにふと思い出したのだが、あの『人を動かす』(創元社文庫以下同様)や『道は開ける』で有名なデール・カーネギー(1888~1955、カーネギー・ホールの名前でも有名)、の夫人ドロシー・カーネギーが、夫の死後残されていた引用句などをまとめて、『名言集』として出した一冊にある言葉である。

「 青年時代は人生で最も幸福な時代であるという信念は、誤った考えの上に成り立っている。
 最も幸福な人間は、最も味わい深い考え方をする人間のことである。
 だから人間は年を取るにしたがって、ますます幸福になっていく。」
 
 (ウィリアム・ライアン・フェルプス、20世紀初頭の有名な教育者)

 もちろん、私は味わい深い考え方をしているなどとは、とても思えないないし、単純に”脳天気”な考え方で行こうと思っているだけなのだが、ともかくここであげた三行目の言葉に、あのヘルマン・ヘッセが言っていた言葉を思い出して、改めてここに書いてみることにしたのだ。
 つまり老いの行く先は、むしろ期待すべき境地へとたどり着く楽しみにあるのではないのか、と思っているのだ、見てくれはヨレヨレのじじいであるとしてもだ。 

 山の話が、大きく横道にそれてしまった。
 ともかく、歩く時間がいかにかかろうとも、年寄りになりつつある私が、好きな山登りを続けていられるだけでも、ありがたいことだし、それは何という幸福感に満ちたひと時なのだろう。
 さて、私は青空の下、雪に覆われた山々を見ながら、相変わらずにすぐに立ち止まっては、写真を撮りながら下って行った。
 そして、同じ道を通らずに、中岳方面とつながる小さな高みの道を行くことにした。
 足跡がなくなると、雪の深みが実感された。ヒザ下30cm以上はあるだろうが、それでも粉雪状だから歩きにくくはなかった。
 それ以上に、荒らされていない雪面の向こうにそびえ立つ山々の姿が素晴らしく、何枚も写真を撮った。(下の写真は星生山)



 私だけが今ここで味わえる愉(たの)しみだという、喜びがふつふつと湧き上がってきた。
 今日、山に来てよかったし、何より一日中続いた快晴の青空には、ただただ感謝するばかりだった。
 久住分れに戻り、星生崎下への登り返しとなる。行きに雲がまとわりついていた久住山頂上は、その雲も取れて、掛け値なしの全天の青空が広がっていた。
 西千里浜の火口原の平坦地に降りてくると、そこはもともと風衝地(ふうしょうち)で雪が少ない所だから、表面の雪が溶けて少し水浸しになっていたが、そこ以外の登山道はほとんど朝のままのキュッとしまった雪道で歩きやすく、周りの霧氷も、多くはそのままの形で残っていた。
 ここまで霧氷と書いてきたが、あの水滴が凍り付いた、透明に近い氷状の霧氷と比べれば、白い雪片が凍り付いた、樹氷に近いものだから、むしろ樹氷と書きたいところなのだが、一般の受け止め方では、どうしても樹氷といえば、あの蔵王や八甲田の巨大な雪のモンスターを思ってしまうのだ。
 ともかく、雪があまり溶けなかったのは、今日の気温が低かったためだろう。家の気温でも5度までしか上がっていなかったから、山の気温は終日マイナスだったのだろう。
 
 下りの雪道では、少し足が痛かったが、牧ノ戸までは2時間足らずで降りてきた。
 駐車場からの道は、相変わらず長者原までが圧雪アイスバーンのままで、前の方におそるおそる走るクルマがいて車列ができていた。
 家までの道は、まだ雪が残っているところはあったが、楽に走ることができた。
 ともかく、心配していたヒザも痛くならずに、快晴の雪山の半日を十分に楽しむことができて、全く幸せな一日だった。

 さらに、翌日も快晴で、ライブカメラで見る牧ノ戸峠の駐車場は車でいっぱいだった。
 そして、昨日今日と季節外れの暖かさで、桜の咲くころの気温になり、家の周りに残っていた雪も溶けてしまった。
 せめてこの冬もう一度は、九重の雪山を楽しみたいと思っているのだが、果たして。
 
  


霧氷の丘

2017-01-23 21:18:26 | Weblog



 1月23日

 今年は雪が少ないと、山好きな私としては心寂しく、その半面、年寄りの私としてはありがたく思っていたのだが、三日前にようやく10cm余りの雪が積もり、昨日今日とまた雪が降ったりやんだりで、合わせて15㎝くらいは積もっているだろうか。
 ともかく、ここまで積もったからには、雪山を見に行かなければならない。
 しかし、めぐり合わせというべきか、去年の暮れから、これで3回続けて、雪が降った後の晴れた日が週末に重なってしまって、私は、雪山目当ての人たちでの混雑を恐れて、なかなか出かけられないでいた。
 もちろん、普通に働いている人にとっては、土日の休みがまさに願ってもない好機到来の連続で、晴れた日の雪山を楽しむことができたのだろうが。
 
 そこで、また今回も週末だったので、九州の雪山のメッカである九重に行くのをあきらめて、いつもの家から歩いていける裏山に登ることにした。
 青空の広がる下、雪をつけた樹々を見ながら、足跡もついていない道を登って行くことのできるうれしさ。 
 前回の、上の林までのロング・ウォークは、長い距離の散歩でしかなく、ちゃんと登山靴をはいた山登りではないから、正確に言えば、前回の登山はといえば、あの11月の紅葉を眺めての山歩きの時だったから、なんと2か月以上も間が空いたことになる。
 だからこそ、その日はどうしても、山に行かなければならなかったのだ。
 天気予報は、午後から曇りの予報だったが、何よりも、雪が降った次の日の、青空の下での新雪を踏みしめて歩きたかったので、空模様を確認して出かけることにした。

 朝の気温は-5度。雪はさらさらとしていて、まだ地面との間が溶け始めてはいないから、滑ることなく歩いて行ける。
 坂道になっている一部凍り付いた舗装道路をしばらく歩いて、ようやく登山口に着いたのだが、何と珍しく先行者の足跡がついていた。
 もう何十回となく、この雪の時にこの裏山には登っているのだが、先行者がいたのは初めてのことだった。

 それはまた、半ば残念なことであり、それでも半ばありがたいことでもある。
 というのも、前面に広がる新雪の中に、自分の足跡だけをつけて歩いていける楽しみはなくなってしまったのだが、それでも年寄りになって疲れやすくなった私には、10cm~20cmぐらいの雪なので、ラッセルというほどではないけれども、先行者のトレースがついているのは、その足跡をたどって行けばいいだけで、ありがたいことでもあるからだ。
 そして、いつものヒメシャラやクヌギ、コナラの林の中の道になる。
 雪のついた樹々と白い道、上空の青空・・・まったくいい気分だった。 (写真上)

 時々は、先行者の足跡をたどるのにあきて、脇の白い雪面に足を踏み入れて行く。
 確かな雪の深みと、踏み固められる雪の固さと、周りの樹々と。

 「 冬だ、冬だ、何処(どこ)もかも冬だ

  見渡すかぎり冬だ

  その中を僕はゆく

  たった一人で・・・・・・」

 (高村光太郎 『道程』 「冬の詩」より 集英社版日本文学全集)
 
 前にも何度かあげたことのある、高村光太郎(1883~1956)の詩であるが、有名な愛の詩として人気のある『智恵子抄』よりは、”孤” としての力強い歩みが描かれているこの『道程』のほうが、今の私にはより近しいものを感じて、時々ふと口をついて出てくるのだ。
 
 やがて、薄暗い杉林の中に入って行くが、いつもよりはずっと明るい雪の道が続いている。
 浅い涸れ沢を渡り、再び台地状の林の中へと上がり、ゆるやかにたどって行くと、行く手が明るくなって、ついにカヤトの斜面に出る。
 ところが残念なことに、天気予報通りに空はすっかり雲に覆われてしまい、北西の風に乗って雪さえちらつき始めていた。
 これからが、霧氷を眺めながら登って行くいい所なのに。
 そのまま、見通しのきくカヤトの斜面を大きくジグザグを切って登って行くと、先のほうで同年配の男の人が一人、岩の上に腰を下ろして休んでいた。
 私が、彼のトレースの後をたどってきた礼を言うと、彼は天気が悪くなってきたのでここから引き返すと答えた。
 確かに私も、こんな空模様ではとても山頂まで行くつもりはなかったのだが、それでもいつもの霧氷が見られる尾根道まではと、さらに登って行った。
 そこからは先行者の足跡のない、純白の道が続いていた。
 雪は深いところでも20㎝くらいで、歩きにくいというほどでもなかった。 
 見下ろすカヤトの斜面の下には、霧氷をつけた樹々が並んでいた。(写真下)




 そのジグザグの何曲り目かに、ようやく道がゆるやかになって、頂上へと続く尾根に出た。
 雲の流れの中に太陽が見え隠れして、時折薄日が差してはいたが、とても晴れてくれそうな空模様ではなかった。
 ただ、ありがたいことに風はそれほど強くはなく、両側斜面に並ぶ霧氷を眺めながら歩いて行くことができた。
 さらに先へと道は続き、頂上まではあと20分ほどで行き着く地点にまで来ていたのだが、頂上は雲の中にあり、上空に広がる雲の流れも暗い色をしていた。
 その時、遠く離れた下の町のほうから、正午のサイレンの音が聞こえてきて、引き返そうかという私の気持ちを後押した。
 もう何十回も登っている、地元の小さな山だから、別に頂上に、それも展望のきかない頂上にこだわるつもりもなかった。
 そうして、引き返すと決めると気が楽になる。
 尾根の南側の、アセビやミヤマキリシマの樹々、そして北斜面のリョウブなどの低木林の霧氷の写真を撮りながら尾根を戻って行った。(写真下)




 もちろん、晴れていれば、青空に映える霧氷の輝きやが、まるで自然の氷のオブジェの展覧会のようできれいなのだが(’15.1.5の項参照)、それもこの天気ではとあきらめるほかはなかった。
 久しぶりの登山なのに、まして天気を選んで山に行く私なのに・・・、まあそれでも、雪山の楽しさをつかの間だけでも、味わうことができたのだから、そしてこのぐうたらおやじには、ちょうど良い運動にもなったのだから。

 下りの斜面は、程よい雪のクッションもあって、ずんずんと下って行くことができるが、それにつれて例のごとくヒザの痛みも気になってきた。
 林の中に入り、沢を渡って杉林の中を下り、いつものヒメシャラの林の道まで降りてきたころ、またも日が差してきた。
 もう午後の日差しが、木々の影となって伸びていた。(写真下)
 振り向いて見上げる頂上のほうも、今頃になって少し青空が見えていた。

 私は、前回書いた、あのシェイクスピアの舞台劇のセリフを思い出していた。

「 人の一生は、良い糸も悪い糸も一緒くたに織り込んだ網だ。」(『終わりよければすべてよし』より) 

 私たちは、その網で、自分だけの時間をすくい取ろうとしているのかもしれない。
 良い糸の所には、何か良いものが引っ掛かってきて、悪い糸の破けた所からは、何か良いものが逃げていったような気がするのかもしれないが、それらすべてが、自分の人生という網だということなのだろう。
 そして、良きところの恩恵に感謝し、悪(あ)しきところからの失敗を学ぶことこそが、自分の人生という網の価値を高めることになるのだろう。

 前にもここで何度も取り上げたことのある、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中から一つ。

 「 おおよそ、よき事あ(悪)しき事、みな習いより起こる。

 養生のつつしみ、つとめもまたしかり。

 つとめ行いておこたざるも、欲をつつしみこらゆる事も、つとめて習えば、後にはよき事になれて、つねとなり、くるしからず。

 またつつしまずして、あしき事になれ、習いくせとなりては、つつしみつとめんとすれども、くるしみてこらえがたし。」
 
 (貝原益軒 『養生訓』 巻第二総論下より 岩波文庫) 


 

  


  


良い糸も悪い糸も

2017-01-16 22:02:55 | Weblog



 1月16日

  前回、暖冬気味だと書いたばかりなのに、この数日、この冬一番の寒波が襲来して、各地で大雪になった(広島のような大都市で19cm)というニュース画面が流れていた。
 そうした大雪と比べれば、九州の雪はちらついたほどであり、二日続けての雪であたり一面白くなっていたが、積もるというほどではなくすぐに溶けてしまい、日陰に残るくらいのものだった。
 今日は、朝から雲は多少あったもの晴れていて、山に行こうかとも思ったが、風があって雲の流れも早く、さらに予報通りに昼過ぎからはすっかり曇ってしまい、また雪も降ってきた。
 その雪が、少し降り続いて、夕方前には3㎝ほどの積雪になっていた。(写真上) 

 この数日は、気温も下がって、一日のうちで、0度を境に5度の範囲で上下する毎日である。
 ただ外が寒いのは、その覚悟をして外に出るからいいのだけれども、家の中が寒いのは、年寄りにはこたえる。
 小さな家だけれど、古くてすきま風が多いから、ポータブルの灯油ストーヴのそばから離れられないし、それでなくとも部屋ごとに寒くて、朝は5度くらいにまで下がっていて、窓ガラスは凍り付き、厚着をして小さな電気ストーヴをつけているくらいでは、足元から冷えてきて、いつしか”貧乏ゆすり”状態になってしまう。

 それに比べると、同じように小さいながらも北海道の丸太小屋の家の中は、真冬でもそれほど寒くはないのだ。
 暖房力の差である。 
 何しろ、この北海道の家を建てる時には、もう設計図の時点から、その暖房力で評価の高い、ある海外メーカーのクラッシック・薪(まき)ストーヴを置くことに決めていて、ちゃんとその位置を書き込んでいたほどなのだ。
 それは、実際に基礎を作る時から、地中の凍結深度を考えての1m70㎝ほどの、独立基礎ではない全部を取り囲む布基礎(ぬのぎそ)のための根掘りには、さすがに業者に頼んで重機を使って掘ってもらったのだが、そこにコンパネと根太で型枠(かたわく)作りをして、ミキサー車から生コンを流し込んでもらい、型枠を外して、ようやく布基礎部分ヶ出来上がることになる。
 その後で、ストーヴの部分だけは別基礎としていたから、自分で50㎝ほど掘り下げて、そこに割栗石(わりぐりいし)などを入れて突き固め、その上にコンクリートを流し込んでモルタルで仕上げて、さらにその上部はレンガ敷きにして、100㎏もあるストーヴの重さにも耐えられるようにしたのだ。

 で、その効果は・・・マイナス25度にもなる冬の時期にも、通してこの北海道の家にいたことはあるのだが、家の中では15度から20度くらいになるように薪を燃やしていて、その温かさが、夜に火を落として朝になった頃にも残っていて、家の中は、10度以上はあって、この九州の家のように、朝から震え上がるようなことはなかったのだ。 
 それだからいつもの繰り言(くりごと)になるが、あの温かい薪ストーヴのある家が、窓の外にいつも雪景色の見える家が恋しくなってくるのだ。(写真下)




 あの薪ストーヴの温もりのある家に、一日中いて、朝夕には、完全装備の服で外に出て行って、あかね色に染まる雪面を眺める楽しみがあって・・・しかし一方では、生活面で考えてみれば、時々井戸水が枯れることがあり水には不自由するし、風呂には入れないし、夜中に外にあるトイレに行く辛さは、何度もここに書いてきたとおりであり、まして年寄りになった今、とても冬はあの家では暮らせないだろう。
 まあ、ともかくぼろい家にしろ、二軒も家を持っていること自体が、いかに金のかからない家であっても、ぜいたくな話であり、神様はいつも均衡をとった試練を考えて、そうやすやすと私の思い通りにはしてくれないのだろう。当たり前のことだが。
 だから私は、冬にはあの薪ストーヴのある北海道の家にあこがれ、夏には水栓トイレと風呂のある、この九州の家にあこがれているということなのだ。

 まあ、これもぜいたくな悩みではあるのだが、ここに至るまでは、誰でもがそうであるように、様々なものをあきらめ断ち切った果てに、ようやくたどり着いたものであり、思うに、人はこれだけはという一つのものがありさえすれば、あとはがまんできるものだし、何とかやりくりできるのではないだろうか。
 その時には、どんな深刻な悩みでも、生きてさえいれば、時間が過ぎていきさえすれば、”時は偉大な作家である。いつも完璧な結末を書いてくれる。”(映画『ライムライト』1952年 )ものなのだから、今はただ、がまんしていればいいのだ。

 そして、時が過ぎたずっと後になって振り返り見れば、昔の思い出は、苦しく辛かったことよりも、楽しくうれしかった時のことのほうが、多かったような気がしてくるのだ。
 それは、自分の脳の働きが、自然に、いやな思い出のストレスを弱めようとしている、自己防衛本能なのかもしれないのだが。
 だから、なるべく”脳内チョウチョウ”の”脳天気”な状態にすることが、今の私の日常的な思いなのだ。
 たとえ、その日に心配なことがあって、少し考え込んだとしても、寝る前には、”それで、今すぐ自分が死ぬというわけではないのだから”と、考えを終わらせることにしている。
 もともと、そうした考えではあったのだが、何度も書いているように、この前の秋の、誰もいない山の紅葉の下にいて、私は改めて深く感じ入ることがあったのだ。(’16.11.27の項参照)

 もちろん誰しも、いつの日にか絶望の舞台に立たなければならない日が来るだろうし、それは悲劇へと暗転していく場合もあるのだろうが、冷静に見れば、暗闇の観客席には誰もいないのかもしれないのだ。
 つまり本人が思うほどに、自分の舞台は誰からも見られていないし、ひとりよがりの筋書きを、ひとり芝居していただけかもしれないのだ。
 ただ若くある時ほど、舞台の上の輝かしき主人公でありたがるし、また一方では、悲劇の主人公になりたがるものなのだ。

「 全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない。
 それぞれに出があり、引っ込みがあり、しかも一人一人が生涯にいろいろな役を演じ分けるのだ。」(第二幕7場)

( シェイクスピア『お気に召すまま』  福田恆存訳 新潮文庫)
 
 公爵ともども追放された貴族の一人、ジェイキスが、公爵と互いの失意・逆境を語り合っている時の言葉であり、シェイクスピアの他の作品の中にも、数多くこうした舞台、役者にたとえて、人生模様が描かれている。
 そこでもう一つ、有名な『ハムレット』の中での、狂ったふりを装うハムレットが、学友であった友達と話し合う場面の言葉である。

「 では君たちにはそうではないのだろう。
 ものの善悪なんて考えようひとつだからな。それ自体としては善も悪もない。
 おれには、この国は牢屋(ろうや)だ。」 (第二幕2場)

( シェイクスピア 『ハムレット』 三神勲訳 河出書房新社版 世界文学全集)

 別な訳としては、「 物事に良いも悪いもない。考え方によって良くも悪くもなる。」 というものもあり、こちらのほうがわかりやすいのかもしれない。
 
 ネットで調べていたら、さらに気になる言葉があった。
 下にあげる、シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』は、まだ読んでいなくて、ネット上の言葉のままあげることにする。

「 人の一生は、良い糸も悪い糸もいっしょくたに織り込んだ網だ。」 
 
 世の中の天才をあげていけば、という問いに答え出したらきりがないだろうが、それでもシェイクスピア(1564~1616、日本の秀吉・家康の時代)ほど、名言や名セリフを数多く生み出した劇作家はいないだろう。
 いつの時代も、温故知新(おんこちしん)、”故(古)きを温(訪)ねて、新しきを知る”ような思いが必要なのだろうか。

 


  


恥知らず

2017-01-10 22:43:30 | Weblog



 (この記事は昨日1月9日に書いたものだが、なぜかこのGOO・BLOGに投稿できずに。それまでに追加して書いた部分までもが瞬時に消えてしまった。繰り返し失敗すること2回。今日になってようやく回復したようで、改めて、昨日書いて保存していた部分をもとに、おおよそ同じ様な文章を書くことができたので、日付は昨日のままで掲載することにした。)

 1月9日

 相変わらずに、暖かい日が続いている。
 昨日の夜にかけて、久しぶりにまとまった雨が降った。
 いつもの年ならば、この雨は雪になっているはずなのに、今の時期に雨の音を聞くのは、どことなく違和感がある。
 もっとも、その雨も東日本では雪に変わり、長野から関東の山沿いにかけてはかなりの雪が降ったとのことで、この冬に雪の日が少ないのは,九州四国だけなのかもしれない。

 さらに、ロシアには寒波が押し寄せているそうで、モスクワから少し離れた所では、クリスマスに-38度という記録に残る寒さだったとかで、さらに北極海の大氷床の一部に大きな亀裂が見つかり、今後それが割れて流れ出していけば、海面上昇につながる恐れもあると、テレビ・ニュースが報じていた。
 もちろん、何もかもを、地球温暖化に結びつけるべきではないのかもしれないが、日本でも、去年の東北・北海道への台風上陸のことなども考え合わせると、こうした世界的な異変こそは、ただでさえ地球の環境破壊に敏感になっている、多くの科学者や各種研究保護団体にとっては、さらには実際に海面上昇の被害を受けている、太平洋の島国国家などにとっては、決して看過できない、愁眉の急(しゅうびのきゅう)を要する一大事であるに違いない。

 しかし、それ以外の世界のほとんどの人々にとっては、そんな遠い先の心配よりは、目先の今をいかに生きていくかという思いだけでいっぱいなのだろうし、たとえ記録的な大雨が降ったり、大雪が降ったぐらいでは、単なる一時的な天災だとしか思わないのだろう。
 まあ、すべての物事には、絶対的信奉者と絶対的反対派がいて、それ以上に圧倒的多数を占めるのが、あの欅坂(けやきざか)46のデビュー・ヒット曲 「サイレント・マジョリッティー」ではないけれども、”物言わぬ大多数”、つまりそんなことには関心もない人たちなのだろう。

 それでいいのか。それでいいのだ。
 何事も起きなければそれでいいし、もし現代の科学的預言者たちの予測通りに、地球大異変の事態になれば、すべての人々が”七つの大罪”(邪淫、貪食、貪欲、怠惰、憤怒、羨望、高慢)を犯した罪への後悔の言葉をつぶやきながら、ダンテ『新曲』にある、地球に空いた深い穴の”地獄”に落ちていくしかないのだから。(ダンテ『新曲』 寿岳文章訳 集英社)
 まあ、もともと人間そのものが、罪深い業(ごう)を背負って生まれてきたものだから、そうなったとしても、本来の”人間の性(さが)”ゆえに、報いを受けるのだと言えないこともないし、それならば、同じように自分の思うままに生きてきて、”利己としての死”(日高敏孝著 弘文堂)に至るまで、あくまでも個としての本能に従い生きるべく運命づけられた、動物たちとの違いはどこにあるのだろうか。
 それはただ一つ、神の領域を侵(おか)したか、それとも神の領域に従い生きてきたかの違いだけでしかないのだが、それにしても、何という決定的な一線であることか。

 前回の記事のタイトルにあげたように、人間の保護のもとにありながらも、決して動物の本能を失うことなく生きてきた、あの”浜辺の王様”のネコは、それでいいのだろうが、悲しいかな、その依存する人間社会が崩壊すれば、彼らもともに巻き添えになって、いわれなき”七つの大罪”のために地獄に落ちていくしかないのだろうか。
 人間であることと、その他の動物であることの差は、人間だけが高度に発達し続ける脳を持ったことによるものなのか、それでは、心は・・・それもまた脳の働きに隷属(れいぞく)しているだけのものなのか・・・。 
 ただ言えることは、それはほんのささやかなことでしかないけれど、人は年をとればとるほど、”七つの大罪”からは少しづつ離れて行くのではないのか・・・。
 これは、卑近(ひきん)な例にしかならないけれど、間近で、母の死を、そしてミャオの死を見てきた私には、両者の死の区別はつけられなかったし、もとより悔恨(かいこん)すべき罪の気配さえ感じられなかった。
 ただそれぞれに、眠るがごとくに、ひとりで、自分だけの世界へと行ってしまったのだ。

 私は今、生きていたころのその二人の無欲恬淡(むよくてんたん)たる世界に、少しだけ近づいて来ている気がする。
 それは、何々したいという欲がなくなってきたとかいうことではなく、つまり私はまだまだ山にも登りたいし、本も読みたいし、音楽も聞きたいし、映画も見たいし、絵も写真も見たいし、などなどとあるけれども、衣食住に関しては、今のままで事足りていれば十分だと思っているのだ。
 衣類は、靴下下着類を除いては、もうほとんど買うことはない。2年前のバーゲンで、980円のダウンジャケットを買ったのが最後だ。
 食べ物は、基本的に家での簡単な自炊であり、外食することなど年に数回しかないし、別においしいものを食べたいとも思わないし、美食家ではなく粗食家であることが、むしろ私にとっては楽なことでもある。
 家は北海道の家ともども古くなってきて、すきま風が多く寒いけれど、がまんできないほどではないから、それで十分だ。
 クルマは15年目になるし、北海道のクルマは7年目の中古車をもう11年も乗っている。

 ここまで書いてきて思ったのは、私がいつしか”恥知らず”な人間になってきているということだ。
 それは普通言われている、不道徳な恥知らずの意味ではなく、また他人に迷惑をかける”厚顔無恥(こうがんむち)”の意味でもなく、ただ自分の身なり、住まい、食べ物に無頓着(むとんちゃく)な、恥も外聞も気にしない、”田舎のじいさん”になってきているということだ。
 パチパチパチ、おめでとうございます。この”引きこもり老人”生活こそが・・・実は、私の望みだったのだから。
 ”なんのこっちゃ” と言われそうだが、長々とここまで書き綴ってきたのは、まさに私の年頭に際しての思いを、自らに言い聞かせているようなもので、早い話が、相変わらずぐうたらなまま、こぼれイモのふんどしをひらひらさせながら、”ちょうちょちょうちょ”と言って歩き回る、じじいの生活を続けていきたいということであります。
 どや、これがあのネコの”浜辺の王様”ならぬ、”田舎の王様”の生活やで。

 と言いながらも、引きこもりの気ままな王様の生活にも飽きて、数日前、天気にも誘われて、山道のずっと上の林の所までの往復2時間の山歩きをしてきたのだ。
 さらに上まで行けば、頂上からの見晴らしがあるのだが、雪もない冬枯れの山の頂きではそれほどの魅力もなく、まだ不安なヒザのことを考えると、この林の辺りまでが妥当なところだった。
 途中で、所々で展望が開けて周りの山々の姿が見えたが、雪もなく、ただの冬枯れの山の光景が広がるばかりだった。
 九州の山は、雪が降ってすぐの晴れた日に行くのがベストであり、この冬はそんな日が二日あったのだが、いずれの日も休日で混雑を恐れて、数少ない機会の雪山に行かなかったことを、今では少し後悔している。こんな暖冬の冬には、ともかく雪が降ったらすぐに山に行くべきなのだ。

 もう前回の紅葉登山からは、2か月近くもの間が空いている。
 ともかく歩きたいと、坂道を登って来たのだ。
 新緑のころ、紅葉のころ、霧氷がつくころと、それぞれに季節を楽しむことができるのだが、今では、このヒメシャラの林の下は古い枯葉が散り敷いているだけで、静まりかえっていて、振り仰ぐ青空に樹々の枯れ枝模様だけが鮮やかだった。(写真上)
 それでも、里の静けさとは違う、山の静けさの雰囲気が居心地よかった。
 帰り道は、少し遠回りになる別の道を下って行った。
 所々に、ススキやカヤのきつね色の草原があり、青空や遠くの山との対比がきれいだった。
 
 私は、ふとあの伊豆の山々での、同じ青空ときつね色のカヤトの斜面を思い出した。もう何十年も前のことだ。
 そのころ、東京で学生生活を送っていた私は、学校の春休みを利用して、伊豆半島にある達磨山(だるまやま、981m)に登ることにした。
 その時に自分で撮った写真が数枚あるだけで、その写真に写る場所での記憶はあるのだが、その他の記憶はほとんど残っていない。
 おそらくは、当時の国鉄電車で三島まで行って、そこで伊豆箱根鉄道に乗り換えたのか、直接バスに乗ったのかは憶えていないが、ともかく修善寺(しゅぜんじ)まで行ってそこで土肥(とい)に向かうバスに乗って、船原峠に着いたところでバスを降りたのだ。 
 そこから、砂利道伝いに尾根道を登り、先はずっと展望の良いカヤトの中の登山道が続いていて、達磨山山頂では、さえぎるもののない360度の展望が広がっていた。もちろんそこからの最大の眺めは富士山だったのだが、快晴の空にもかかわらず、周りの海や山はかすんでいた。
 これでは見えないかも、と思って北側に顔を向けると、それでも信じられない高さで、雪に覆われた富士山が雲の上に浮かんでいた。
 頂上からは反対側の戸田(へた)峠に下り、バスで終点の戸田の漁港に行って、そこで民宿に一泊したのかどうかはよく憶えていないが、そこからは、波間の富士が見たくて、定期船に乗って沼津まで行ったのだ。

 この伊豆への山旅は、当時読んだばかりの、あの川端康成の『伊豆の踊子』の影響もあってか、いささか軽薄なロマンチスト気分になっていて、それでその舞台となった、天城峠からの天城山(万三郎岳、1406m)登山を計画していたのだが、距離が長いことと、そのころも展望のきく山にばかり登っていて、森林帯の歩きが多いこのコースはとためらったあげく、それよりはずっと楽で展望が素晴らしいという、この達磨山にしたのだった。
 もちろんこの山旅で、心の隅のどこかであこがれていた”私の踊子”に出会あうことなどなかったのだが、そこには小説であるいは映画で見た踊子の姿が目に浮かんでいたのかもしれない。

 初めて見た『伊豆の踊子』の映画は、当時の場末の三番館でリバイバル上映されていた、鰐渕晴子が踊子を演じたもの(1960年)だったのだが、彼女は今でいうハーフ・タレントのはしりであり、あまりにも美しすぎる日本人離れした顔立ちで、相手役の津川雅彦ともどもあくが強すぎて、日本的な伊豆の風景にはどこかそぐわなかった。
 次に見たのは、これまた場末の名画座で数年後に見た、吉永小百合が踊子役(1963年、相手役は高橋英樹)のもので、当時人気絶頂の”小百合ちゃん”が演じるには、あまりにも可愛すぎたし、むしろ、さらに後年テレビで見た山口百恵(1974年、相手役は三浦友和)の日本人らしい顔立ちが、演技力はともかくとしても、時代にあって一番ふさわしかったのかもしれない。

 いずれの配役陣にしろ、この『伊豆の踊子』でのラストシーンが心に残る。
 互いに淡い想いを抱いたまま、東京に戻る学生の船を見送って、防波堤の上を必死になって走って行く踊子”かおる”の姿を見ると、いつも涙があふれてくる。
 倉本聡の名作TVドラマ『北の国から』で、それまで反発していた蛍(ほたる、中嶋朋子)は、兄の純に「母さん東京に帰っちゃうぞ。会わなくていいのか。」と言われて、突然気がついたように駆け出して、東京に帰る母親を見送って、あの空知川の堤防を走って行く・・・何度見ても泣かされてしまうシーンだ。

 そして、電車のガラス窓の向こうで、いつも涙いっぱいの眼で私を見送ってくれたあの娘・・・。


「 日が去り 月がゆき

     過ぎた時も

   昔の恋も 二度とまた帰ってこない

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
 
     日も暮れよ 鐘も鳴れ

     月日は流れ わたしは残る 」

(『アポリネール詩集』 「ミラボー橋」より 堀口大學訳 新潮文庫)
  


ビーチの王様

2017-01-02 22:18:46 | Weblog



 1月2日

 今日の午前中まで、3日以上も快晴の日が続いて、日陰にほんの少し雪が残っているだけの、穏やかな年末年始の天気だった。
 その間、1時間余りの長い坂道でのウォーキングした以外は、家にいた。
 山には2回ほど雪が降っていて、その次の日は、晴れのいい雪山日和(ひより)だったのだが、いずれも休日と重なって(一般勤労者諸君には好都合だったのだろうが)、私は混雑を恐れて、出かける気にはならなかった。
 これで、前回の秋の登山から、もう1か月半も間が空いたことになる。今は、ヒザも痛くはないのだが。

 さて、というわけで、庭仕事や家の大掃除ならぬ中掃除をしたくらいで、本や雑誌を読む時間はたっぷりとあったのだが、特に幾つかの雑誌の12月号と新年号には、付録がついていて、それを目当てに買うようにしているから、机の上には本が山積みになってしまった。
 それらは、”山と渓谷””アサヒカメラ””レコード芸術”などであり、遠くの町の本屋まで出かけて行って買うよりは便利だからと、最近はすべて、ネット通販で届けてもらっている。
 
 上の写真は、”アサヒカメラ”12月号付録の、2017年の”ネコ・カレンダー”の表紙である。
 動物写真家の岩合光昭撮影によるこの、”ネコ・カレンダー”は、今から10数年前に、”アサヒカメラ”誌の別冊付録、”ニッポンのネコ”カレンダーのシリーズとして始まったものであり、その後”猫にまた旅”という、しゃれたタイトル・ネームがつけられるようになって、それからでも、もう10年余りになる。
 もともと、私も下手な山の写真を撮っていることもあって、カメラにも興味があり、カメラ雑誌も時々買ってはいたのだが、特に付録の付く12月号や新年号は、毎年欠かさず買うようにしていたのだが、今では、この”ネコ・カレンダー”のように、それが毎年の楽しみになって買っているのだ。
 家には、ネコもいないのに。
 
 ”ミャオ”が死んでから、もう5年近くにもなるというのに、いまだに”ミャオ”のいる夢を見ることがあるし、家の周りを歩いていても、まだあちこちに”ミャオ”がいるような気がする。
 そして、あの死にゆく前後のミャオのことを思い返せば(2012.5.7の項参照)、なおさらのこと・・・だから、もうネコは飼わないことにしている。

 それだからこそ、毎年、様々な猫の姿を見せてくれる、この岩合氏の”ネコ・カレンダー”は、私の”ネコ想い”の渇(かわ)きをいやしてくれる大切な写真集なのである。
 テレビのほうでも、同じ岩合氏撮影による、NHK・BSの「世界のネコ歩き」という、ネコ・ファンには毎回が待ち遠しいシリーズがあり、そばにネコのいない私でも、この時ばかりはと楽しむことができるのだ。
 上のカレンダー表紙写真のネコは、その「世界のネコ歩き」”ブラジル編でも、紹介されていたネコであり、このリオ・デ・ジャネイロのコパカバーナの海岸に、いつも飼い主に連れられてきているそうだ。
 ”パンダ座り”が堂に入っている、このネコは、この辺りでは、”ビーチの王様”と呼ばれるほどの有名なネコだそうである。

 それにしても、私たち人間は、どうしてこうも他の生き物たちの生き方や、その生態の様子を知りたがるのだろうか。
 自分のそばに置いて、ペットとして飼うだけでなく、大きな飼育施設として動物園や水族館などを作ってまで、まじまじと見ては観察しようとする。
 他の生き物たちは、そうした趣向を持たないのに、人間だけが、なぜただ見るという目的だけで、他の生き物たちを見たがるのだろう。
 その一方で、人間は、生活のゆえや糧(かて)としてではなく、ただ興味のおもむくままに、他の生き物たちの命を奪ったりもする。
 ライオンは、無駄に他の動物たちを襲っているわけではないし、オスのライオンは、無駄にメスのライオンの子供を殺そうとしているわけでもない。
 いずれも、自分が生き延びるために、あるいは自分の子孫だけを残すためにという、生き物の世界の理(ことわり)に基づく本能にかられているだけのことだ。

 先日、NHK・BSの名物番組”グレート・ネイチャー”の新シリーズが始まるとのことで、その一部が紹介されていたが、その新たな事実の数々もさることながら、その裏で飽くことなく動物たちの生態撮影を極めようとする、イギリスBBCやNHKのプロデューサーやスタッフの思いには、ただただ感心してしまうばかりだ。
 例えば、ヒマラヤの奥地に住む”絶滅危惧種”の”ユキヒョウ”の狩りのシーンなどをとらえた新しい映像、これはまた、BS朝日でBBC制作の”地球大紀行「聖なる山ヒマラヤ神秘の大自然」”として放送されていたが、それぞれの国でその制作意図が少しずつ違って作られていて、なるほどと考えさせられた。
 さらに、あのガラパゴス諸島に棲(す)む”海イグアナ”の子供たちが、砂浜の卵から孵(かえ)って地上に出た瞬間、そこにはその時を知っていて待ち構えている、数十匹もの蛇たちに追いかけられるという修羅場(しゅらば)が待ち構えているのだ。
 逃げ延びるもの、食べられ飲み込まれてしまうもの、これほどまでにリアルな、生物界のおきての現実・・・それは、いつか私の夢の中にまで出てきそうな衝撃的なシーンだった。
 しかし、蛇たちにとってそれは、ゆえなき殺戮(さつりく)の場ではなく、数十匹もの仲間たちの命をつなぐための、大切なエサ場でしかないのだ。

 さて大晦日には、NHKの紅白を見たのだが、その歌手選考基準のあいまいさや、演出構成の良否はともかくとしても、日本の今の音楽や歌の世界を、このひと時でかいま見ることができるのはありがたいことだ。
 さらには、今回の目玉企画の一つとなった、視聴者によるAKB紅白代表選挙についてだが、もちろん私は投票しなかった。
 すべてのかわいい孫娘たちに、順位をつけることなどできるだろうか。
 そして思うのは、私たち中高年のおじさんたちがAKBファンだというと、”ロリコン”扱いされて白い目で見られるのに、解散したあのSMAPのファンだという中高年のおばさんたちが、同じような白い目で見られないのはなぜだろうかと思うのだ・・・男女均等雇用法案が施行されている世の中だというのに、これは関係ないか。
 ”われら、おじさんやじいさんのAKBファンに、もっと明るい光を!” 
 
 ともかく、その日は大体において紅白を見ていたのだが(途中で一度風呂にも入って)、それにしても、ニュースの時間帯から数時間近くもテレビを見るのは、年寄りには疲れる仕事だった。
 翌日、元旦は、いつものようなお正月バラエティー番組ばかりであまり見る気にもならず、そこは年寄りらしく、録画していたNHK・Eテレ(教育)の”新春能舞台”を見た。
 演目は、世阿弥(ぜあみ、1364~1443)のあの『西行桜(さいぎょうざくら)~観世流(かんぜりゅう)』 であり、シテ(主役)の”老桜の精”を人間国宝の野村四郎、ワキ(相手役脇役)の西行上人(さいぎょうしょうにん)を福王茂十郎ほかの配役での、1時間ほどの能舞台だった。

 筋立ては、京都西山のいわゆる”西行庵”に隠棲(いんせい)している西行上人(1118~1190)のもとに、都から多くの人がやってきて、庭にある大きな老木の桜を見せてほしいと願い出る。
 西行は無碍(むげ)に断るわけにもいかず、枝折り戸を開けて一同を招き入れることになる。

 その夜、西行は夢を見て、その中に”桜の老木の精”だという老人が現れてきて、西行が昼間に詠んだ歌について尋ねてくる。
 それはまさに、あの世とこの世が混然となった幽玄の世界の話になっているのだ。

 もちろん、作者の世阿弥の意図は、あの有名な西行の辞世の句とされている、
 「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ」
 の歌を念頭に入れてのことだろうが。 
 
 この能舞台の、謡(うたい)、詞(ことば)の一つ一つを取り上げていきたいところだが、長くなるので、それはまた本やネットのサイトで読み直すとして、ここでは大切だと思われる部分だけを書き抜いてみた。

 都からの客人たちが、桜を見てほめそやしているのを見て、西行は、
 「われはまた 心ことなる花のもと 飛花落葉(ひからくよう)を観じつつ ひとり心を澄ますときに」と嘆じた後、さらに、
 「花見んと 群れつつ 人の来るのみぞ あたら桜の 咎(とが)にありける」との一首を詠む。 
 (花見をしようとして、みんなが一緒になってくるだけのことだ。何も桜の木に責任があるわけでもないし。)

 さらに続けて、西行は詠じる・・・。
 「捨てて住む 世の友とては 花ひとりなる 木のもとに 身には待たれぬ 花の友 少し心の外なれば」

 そして夜、西行が眠るところへ、”桜の老木の精”が現れて、西行の歌について問いかけては、その老人が言うのだ。
 「浮世と見るも 山と見るも ただその人の心にあり 非情無心の草木の 花は浮世の咎(とが)にあらじ」 

 さらに、あの『古今和歌集』の素性法師(そせいほうし、841?~910?)の有名な一首。
 「見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」に続けて、都の桜の名所をあげていき、
 最後に、あの有名な”序の舞”を静かに舞って、”桜の精”の老人は消えていき、夜が明けるのだ。
 
 何という閑静深淵なる趣味の世界であり、時を超えた幽玄世界だろううか。
 私は、1か月半前の、あの紅葉の山でのひと時のことを思い出していた。(’16.11.21の項参照) 

 私は、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)ほどには、この能や狂言の世界には詳しくなく、生でその舞台を見たのも一度きりで、ほとんどはテレビで見るだけに過ぎないのだが、それでも見た時には、いつも日本人としての心の在りようなどを考えさせられることが多いのだ。まして、年寄りになった今の時だからこそ。
 能と狂言のはじまりといえば、いずれも日本古来から、田植え歌やその時の囃子(はやし)や舞などを含むいわゆる田楽(でんがく)や、滑稽(こっけい)な話の踊り歌としての猿楽、さらには寺社奉納の延年舞などがあったとされ、その中でも猿楽の演技者集団が職業化されていき、それが鎌倉・室町時代の観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)の時代に洗練された演劇舞台の作品として完成され、いわゆる”能”が成立したとされていて、一方では、同じころに猿楽能からの同じ舞台様式の中で、滑稽な話を洗練化し体系化したのが”狂言”だといわれている。
 (以上参照:「新編国語便覧」秋山虔編 中央図書、ネット上の”能”に関するサイト)
 
 ともかく、能にしろ狂言にしろ、いずれも深いところまでは詳しくはないので、改めて本を読んで学び、あるいはネット上のサイトなどで詳しく調べるべきなのだろうが、いずれにせよ私の知識は初心者の域を出てはいない。
 ただそれでも、こうした舞台に接するたびに思うのは、年を取ってきて、いろんなものが少しずつ見えてきたという喜びと、長い時代を経て日本という国が伝えてきた、驚くべき伝統芸能の広く深い世界についてである。
 なんという国だ。この日本という国は。

 そうした、日本の伝統たるべき文化を知るためにも、さらには日本の自然景観の中心をなす、麗しき山々の姿を見るためにも、神様、そのための幾らかの時間をもらえないでしょうか、哀れなひとりのじじいがお願いしていることですから、もう少しだけでも生かせておいてくださいませんでしょうか。
 神様、このささやかな私の願いがかなえられたならば、やがて来るそのお迎えの日には、喜んで、あの空に光る星のもとへ行くことでしょう。

 ともかく、こうしてどこに出かけなくとも、青空の広がる空が好き、”八丈島のキョン”(昔の漫画「こまわりくん」での意味のない感嘆詞)、そしてこれからも、あの”ビーチの王様”のように”脳天気”な毎日を送りたいものですが。