ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪山憧憬

2020-02-08 22:10:56 | Weblog



2月8日

 もう長い間、山に登っていない。
 一つには、最近相次いで起きた体の異変のため、時々病院通いをしているからであり、一つには、この冬の異常な暖かさのために雪山が見られないからである。
 いつもの年ならばもう何度も雪が降っていて、雪かきに精を出していたころなのに、今までに二度ほどうっすらと雪が積もり、見る間に溶けてしまったことがあっただけなのだ。
 昔は、一晩で50㎝もの雪が積もったことがあったなどと言っても、もう年寄りの昔話でしかないのだ。
 九重の山へも、いつもなら今頃は雪山登山のかき入れ時で、あの雪山の絶景を見るために、多少ビビりながらも、牧ノ戸峠(1330m)まで雪道をクルマで上がり、そこから3,40㎝も積もっている雪をものともせずに(と言ってもほとんどはトレースがついているが)、九重連山の雪の山々を歩き回ったものだが。

 もちろん、九州の1700m程度の山々では物足りないからと、少し前までは、さらなる雪山の景観を求めて、南北中央の日本アルプスに八ヶ岳、東北の山々へと足を延ばしていたのだが、しかし最近では、もうそれらの山々に行くべく計画を立てるのも、おっくうになってきてしまった。寄る年波には勝てずに”というべきか。

 その鬱積(うっせき)した思いのためか、山の夢をよく見るようになった。
 その内容は、あの雪山の大展望というよりは、その途中の雪道や、小屋の近くの情景がほとんどなのだが、年齢のこともあるのだろうが、あのフロイトの言う欲望に裏付けされた夢、自分の思いを吐露する場としての無意識の情念というよりは、ただ様々な記憶の断片が、脳裏の中でかき回され、複雑怪奇に組み合わされた幻想物語として、大きな意味合いもないただの夢として、表れ出てくるのだろうと思うのだが。 

 さて、現実の雪山の姿はと言えば、もう今では出かけて行くことも少なくなった私は、テレビの山番組を見たり、例えば、山の雑誌「山と渓谷」の12月号や1月号の見事な表紙写真などの写真を見ることで、多少は追想の思いにふけり、楽しませてもらっているだけなのだ。
 1月号の表紙写真は、北アルプス樅沢岳(もみさわだけ、2755m)付近からの展望で、槍ヶ岳(3180m)連峰と背景遠くに南アルプスから富士山、そして秩父山塊が見える構図は、確かにおなじみのものなのだが、すぐに何かが違うと気がついた。
 つまり、双六岳(すごろくだけ、2860m)から樅沢岳を経て、西鎌(にしかま)尾根をたどり、槍ヶ岳を目指すコース上の光景とは、少し違っていて、高度感があるのだ。

 そこで気がついたのだ、最近NHK・BSで放送されていて、それがシリーズ化されているように、これは、あのドローンによる撮影だということに。
 何しろ、今まで登山道だけを歩いている私たちが見られなかった景色を、より高度を上げた目新しい位置からの光景として、見せてくれるのだ。
 それは、ヘリコプターや小型機によるものほどには、大がかりな撮影にはならずに、手軽に撮影できるということで、特に山岳撮影の分野においては、これからはさらに普及していくことになるのだろうが、もちろん、このドローンによる撮影は、様々な弊害も併せ持っていて、手放しに歓迎できない微妙な問題でもあるのだが。
 例えば私が体験しただけでも、最近私の登った山でも必ず一二度は遭遇していて、この小うるさく飛び回り、自然な山の雰囲気を壊すドローンについては、何らかの制限を設けるべきだと思うのだが。(あの『枕草子』(まくらのそうし)を書いた清少納言(せいしょうなごん)ではないけれども、・・・近ごろ、あじきなく(古語で、にがにがしく)思うものは、このドローンのうるさい音と、登山中や山頂での携帯電話の話声である。山の中まで現実社会の話を持ち込まないでほしいと思うのだが。)

 そして、さらに今回取り上げたいもう一つの写真は、その前月の12月号の表紙写真で、北アルプスの五竜岳(ごりゅうだけ、2814m)の姿である。
 それは、八方尾根から撮られたものだが、長い八方尾根のどこからなのかと調べたくて、10年前に行った時の写真を、いろいろと見直してみたが、ゴンドラとリフトを乗り継いだ終点の八方池山荘の周辺か、より見晴らしが効くそれより少し上に登った所まで、雪道を歩いて行くかもしくはスキーで上がっ行って、撮ったものだろうと思ったのだが。
 そこで、そうかと改めて気がついたのは、ロープウエイやリフトが設置されている所なら、こうして脚の弱ったじいさんでも、たやすく雪山の景観を見ることができるということだ。

 ともかく、この八方尾根をたどった時の写真を見直してみて、再認識したというべきか、この時の八方尾根から唐松岳への山旅がいかに素晴らしいものだったのかと気づいて、改めて感謝したい気持ちになったのだ。
 それは、10年前の10月下旬、八方池山荘に泊まった翌朝、素晴らしいモルゲンロート(日の出の赤)に染められた白馬三山(しろうまさんざん)と五竜岳、鹿島槍ヶ岳(2889m)を見た時から始まったのだ。
 そこから、ゆるやかな尾根を登って行くと、朝早くてまだ誰もいない八方池には、まるで絵葉書写真のごとくに、白銀の白馬三山の姿が映っていた。
 さらにこの八方尾根をたどり登り詰めて行くと、ついには後立山(うしろたてやま)連峰の主稜線に上がり、目の前に唐松岳と、反対側に深い谷を隔てて五竜岳がせり上がり、そびえ立っていた。
 何という、幸せなひと時だったことだろう。(2009.11.1~5の項参照)

 そこで今回の写真は、その時の写真の中から、当時のブログ写真に載せたものとは別の3枚を選んでみた。冒頭の写真は、リフト終点にある八方池山荘より少し上がったところから写した五竜岳と鹿島槍ヶ岳。すぐ下の写真は、八方尾根最上部からの唐松岳と不帰ノ嶮(かえらずのけん)。末尾の写真は唐松岳山頂からの五竜岳と背後遠くに槍・穂高方面の眺めである。




 こうした回想の山物語は、今回はとりあえずここまでにして、残りは、今私が読み終えたばかりのあの『古今和歌集』について、若干の感想を述べてみたいと思う。

 この『古今和歌集』を最初に読んだのは、若いころだが、当時はよくは分からずに、ただなぞるように読んでいっただけであり、その後他の所で目にすることのあった有名な歌だけは憶えていても、正直な所、ほとんどの歌は憶えていなくて、再読したとはいえ、まるで初めて読んだような新鮮な驚きに満ちていたのだ。
 こうした『古今和歌集』の意義は、例えば話は飛ぶが、有名曲ぞろいのベートーヴェンの交響曲の中でも、特に第3番の「英雄」と第5番の「運命」に挟まれた、第4番は、注目されることが少ないのだが、ベートーヴェンの後の時代の作曲家ローベルト・シューマン(1810~1856)は、この第4番のことを評して・・・”北欧の二人の巨人(第3番と第5番)の間に挟まれたギリシアの清楚で可憐な乙女のようだ”、と言ったというのは有名な話だが、何も『古今和歌集』を、『万葉集』と『新古今和歌集』という日本の神話的な二人の巨人に挟まれた、平安期の乙女のような歌集だとはとても言い難いし、例えられるものでもないのだが、この『古今和歌集』を再読し終えた今、なぜかふとベートーヴェンの第4交響曲の存在意義と併せて、シューマンの言葉を思い出してしまったのだ。
(ちなみに、このベートーヴェンの第4番は、レコード盤だがあのカルロス・クライバーがミュンヘン・フィルを振ったライヴ版がベストだと思う。)

 しかし、この古典三大和歌集について調べていくと、今さらながらに気づくこともあったので、簡単ながら、その時代背景も書いておくことにした。
 最初の『万葉集』に収められているものは、聖徳太子後の奈良の大和朝廷がまだ不安定なままで、天皇の跡目を継ぐべく対立者たちの暗躍が繰り返されていた時代のころから、やがては中央集権の律令体制が整い、さらに平城遷都によって、ようやく天皇貴族政治が確立された時代であり、時代的に言えば、飛鳥時代から白鳳・天平時代にかけての、つまり古代から奈良時代にかけてのものであり(629年~759年)、そこには約4,500首もの歌が収められており、様々な階級の人々だけでなく、一部対立する人々さえも含んだ、その中立的な立ち位置での選択には感心せざるを得ない。
 同時代の古典作品としては、『古事記』(701年)や『日本書紀』(729年)があり、今さらながらに『万葉集』の文学作品としての、存在意義の大きさに気づかされるのだ。

 次の『古今和歌集』は、平安京に遷都された(794年)ころから、平安時代前期と呼ばれる頃(905年)までの、藤原一族の時代が始まったころであり、勅命(ちょくめい)による勅撰和歌集として1,100首余りの歌が収められている。
 この時代の文学作品としては、『竹取物語』や『伊勢物語』『土佐日記』などがあり、『枕草子』(1012年)や『源氏物語』(1021年)が書かれたのは、そのずっと後の時代になる。

 三つ目の『新古今和歌集』は、『古今和歌集』から数えると8番目の勅撰和歌集になるが、平安時代後期から鎌倉時代初頭にあたるころの歌、約1,900首余りが収められており、鎌倉幕府が成立した1192年の後の、1205年に成立したと言われている。
 時代背景としては、保元・平治の乱後、政治の実権は武家へと移行していき、平清盛が頂点に立ったが、やがては壇ノ浦でその平氏が滅亡し、新たに鎌倉幕府が開かれたころである。
 文学作品としては『平家物語』(1219年)や鴨長明の『方丈記』(1213年)などがある。(吉田兼好の『徒然草(つれづれぐさ)』が書かれたのは、その100年後のことである。)

 私のように、日本の歴史にさほど詳しくはない人間でさえ、これらの古典文学を読み進んでいけば、同じ日本人の、というよりは同じ人間としての、喜怒哀楽の感情に心動かされてしまい、遠い古典の時代へと思いをはせるようになるのだろう。
 しかし、この偉大な日本の古典三大和歌集のについて、その基本的な説明でさえ、とても浅学な私の手に負えるものではないのだが、いくらかはその理解の手助けになるかと考えて、初心者の自分に言い聞かせるべく、その時代背景を書き出してみたということなのだ。

 ただここでは、ようやく読み終えた『古今和歌集』全体の深追いはせずに、ただその中から、有名ではない”よみ人知らず”の歌を、四つほど書き出してみた。(併せて、自分なりに解釈してみた訳文も書いておくことにする。)

”世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ”
(世の中は夢と現実とからなっているものなのか。どちらとも実体がなくてわからないものだから。)

”世の中に いづらわが身の 有りてなし あわれとやいはん あな憂(う)とやいはむ”
(いったい、この世の中に私はいていないようなものだし、それはしみじみとした思いになるというべきか、何と憂うべきことかというべきか。)

 こうして、この時代に、哲学的な存在論を自問自答していたとは。
 次の二つの歌は、今まさに、高齢者たちの国民的番組になっている、あの『ポツンと一軒家』の住民たちの声でもあるような歌なのだが、時代は変われども人の思いは変わらぬものだと思う。(訳する必要もない平易な歌だが。)

”山里は 物のわびしき 事こそあれ 世の憂(う)きよりは 住みよかりけり”

”白雲の 絶えずたなびく 峯にだに 住めば住みぬる 世にこそありけれ”

 実は、この『古今和歌集』にも、ましてやその前の『万葉集』にも、優れた恋歌が多いのだが、私はあえて今まで、それらの歌をここにあげないできたのだが、というのも、それはあまりにも情念のエネルギーが強くあふれていて、自分の若いころへの悔恨と歓喜の思いがないまぜになり、とてもそれらの歌を整理して、冷静になって自分なりの思いを付託して、論じていく自信がないからでもあるが、言えることは、”恋は神代(かみよ)の昔から”、生きること生きていくことへの、情念の源であったということだ。
 そのことがわかるようになる、この年まで生きてきて、私は本当に良かったし、ありがたいことだと思っている。
 
 庭のユスラウメも咲き始めて、すぐに満開になってしまった。
 昨日は一日、小雪にみぞれが降っていたが、積もることはなかった。
 今年は、冬のさ中に、もう春がのぞいている。

 ルナールの「博物誌」の中の、例の”蛇”の項目を借りて言えば・・・”冬、あたたかすぎる。”

(前回の記事を載せてから、何ともう3週間もたっている。調べてみると、それでも毎日数十人近い人々が、この間もブログを見てくれていて、初めて申し訳ない思いになってしまった。こんなじじいの世迷いごとのブログなのに。今後はせめて2週間に一度を目標に更新していきたいと思います。)

(参考文献:『新編国語便覧』秋山虔編 中央図書、『古今和歌集』佐伯梅友校注 岩波文庫)