ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

伏見岳と、やはり野に置けれんげ草

2014-05-26 22:08:53 | Weblog

 

 5月26日

 昨日の夜から霧雨が降っている。気温5度。
 久しぶりに、ストーヴの薪(まき)に火をつけた。
 おそらくは今日一日、この温度のままの寒さで推移することになるのだろう。
 もっとも、6月に入っても、たまには雪の降ることもある北海道だもの、このくらいの寒さで驚くことはない。
 ましていつも言うように、寒さよりも暑さが苦手な私にとって、この寒さは、ストーヴの薪の燃え盛る音とともに、かすかに冬の名残を感じさせて、心穏やかなひと時を与えてくれるのだ。
 
 静かに流れゆく、クープランのクラヴサン曲集・・・。
 ありがたいことだよ、こうして生きているということは。
 窓の外には、雨に濡れた木々の新緑の葉が、かすかに揺れている。

 多くを望まないこと、今あるものの中で、それでもひたむきに生きていくこと。
 年を取ることは、そう悪いことでもない。
 残りの時間が少ないことがわかるからこそ、それらの時間がきらきらと輝いて見えるのだから。
 感謝する思いが、すべて心を穏やかにしてくれる。

「・・・・
 万物は生まれ、育ち、活動するが、
 やがて元の根に帰ってゆく――
 その働きが見えてくるのだ。

 その行く先は静けさ、
 その静けさこそ自然の本性。
 水の行く先は――海
 草木の行く先は――大地
 いずれも静かなところだ。
 自分の本性に戻るとは、だから
 静けさに還(かえ)るということ。
 それを知ることが智慧(ちえ)であり
 知らずに騒ぐことが悩みや苦しみを生む。
 いずれはあの静かさに還るとなれば
 心だって広くなるじゃないか。」(第十六章)

(『伊那谷の老子』加島祥造 朝日文庫)

 
 数日前に、山に登ってきた。
 前回の登山から、もう一月近くも間が空いていたことになるが、それは昔のように、登りたい山にガツガツしなくなったからと言うべきか、あるいは、年を取りさらにぐうたらになってきたと言うべきか。
 それでも山が好きだから、細々とではあるが、やはりこうして登り続けているのだ。

 二三日前に、NHKで『グレート・トラバース』という番組が放送された。
 それは、もともと海外の鉄人レースなどにも参加している、有名なレーサーでもある若者が、動力を使わずに自分の手足だけで、一筆書きのコースをとって日本百名山すべてに登ってしまおうという、若者ならではの挑戦を描いたドキュメンタリーであった。
 その第一回目として、九州、中国、四国の山々が登られていたが、九州の屋久島から始まったその山旅は、カヌーを使って海を渡り、歩いて登山口まで行って山に登るという、過酷な行程だった。
 それは、私の山の登り方や山への思いとは全く別な、他のスポーツにしか見えなかった。

 あわせて、昨日の民放のニュース・バラエティー番組では、近頃人気の”トレイル・ラン(山道走り)”の問題点を取り上げていた。
 それも、あの年間250万人もの登山観光客が押し寄せる高尾山に、そのコースが設定されていて、そこを駆け下りてくるランナーとゆっくり登り下りしている登山者との、異常接近の危うさが指摘されていた。

 本来、競技者としてのランナーは競技場内のトラック・コースを走るか、指定警備された公道を走るかだったのだが、トレイル・ランの競技会では、一般登山者が歩いている山道が併用され使われている。
 たとえそれが、単独のランナーであったとしても、最近では登山者の誰でもが経験しているように、思わず危ないと感じたこともあるはずだ。

 競い合い記録のために走るトレイル・ランと、誰とも競わない、逍遥(しょうよう)のハイキング・登山との差異・・・。

 私が思う静かな山歩きのためには、あまり人の行かない山に、それも平日を選んで、さらに雪のある時に行けば、そうした韋駄天(いだてん)ランナーとは会わなくてすむということだ。
 そういう意味でも、山に雪のある冬から春にかけては、その残雪の織り成す景観とともに、安心して山歩きを楽しめる季節であると言えるだろう。
 もっとも、私がよく登っている日高山脈の山々は、もとより人が少ないし、トレイル・ランで走るには勾配が急すぎて、競技用の山域にはならないだろう。(ただし、あまり言いたくはないが、北端の佐幌岳やオダッシュ山などは標高も低くおあつらえ向きだが。) 

 私が今回登ったのは、北日高の伏見岳(1792m)である。(写真上、妙敷山と伏見岳、雄馬別付近より)
 この山は、日高山脈としては高い方の1700m級の山であり、主峰群を眺める絶好の展望台となっていて、さらに同じように展望が素晴らしい十勝幌尻岳とともに、私のよく登っている山でもある。
 ただし、それは厳冬期と真夏を除く、残雪期と初夏、秋、さらに初冬の季節に限られてはいるのだが。
 今回もまた、まだ雪に覆われた日高山脈の峰々を眺めるためにと、登りに来たのである。

 前回、この時期にこの山域に入ったのは、4年前のことになる。
 その時は、登山口に向かう林道が雪で途中までしか入れず、仕方なく手前の尾根に取りついて、妙敷山(おしきやま、1731m)を往復したのだが、天気も良くて雪もきれいで、なかなかにいい山行だった。(’10.5.16の項参照)
 今回は最近の暖かさからもわかるように、林道には残雪すらなくて登山口の駐車場に着いた。

 手前の伏見小屋にあった一台と合わせて、計三台の車が停まっていた。
 入林者ノートを見ると、日の出すぐの4時過ぎに出た一人の他にも、単独行の人たち二人がいて、それぞれに1時間ほど前には出発していた。

 先行者がいれば、ヒグマ対策上は、少しは安心できる。つまり、ストックを石などにぶつけて音を出しながら歩いて行けば、クマよけ用の鈴は鳴らさなくてもいいと思えるからだ。(’08.11.14の項参照)
 それにしても、雪が少なく、山腹のジグザグ道をかなり登ったところから、ようやく雪面に出た。
 残雪期でまだ雪があるからと、プラスティック・ブーツをはいてきたのだが、それだと普通の夏道は歩きにくく、ようやく本領発揮の領域に来たのだ。
  
 登ってきた雪の山腹斜面の、すぐ下の沢を隔てて正面には、大雪山系のトムラウシ山(2141m〕と同名の、トムラウシ山(1477m)がまだ高く見えていて、その山稜の間からは芽室岳(1754m)の姿がのぞいていた。
 雪面に腰を下ろして一休みした後、歩き出すと、右側には尾根になった夏道が見えているが、そのままずっと続く雪堤の上を歩いて行くことにする。

 前回は、スパッツを忘れて、靴の中に雪が入り、冷たいじゃぶじゃぶ状態で歩くというひどい目にあったのだが、今回はちゃんとスパッツをつけているうえに、あれから1か月もたっていて、雪面はおおむね固く締まっていて歩きやすく、はまり込んだのは、行き帰りを含めても数度ほどだけだった。
 あらためて思うのは、時期を考えて雪の状態を考えて、山スキー、ワカン、スノーシュー、つぼ足と使い分けるべきだということ。
 もう何十シーズンもの雪山登山をしてきているのに、前回のような失敗登山もあって、学習しないし、懲りないというべきか、情けないというべきか。

 それはともかく、今はこのすっきりと明るい雪堤の道を楽しもう。
 左手に、小さく二つに分かれた妙敷山が見え、雪堤はダケカンバの木々を境にしてずっと上まで続いている。
 青空と、残雪の白と、ダケカンバの白い幹と・・・それは、私の好きな山の配色の一つでもある。 


 

 空には、ぽつぽつと小さな雲が流れてきていた。
 山の天気予報については、前回書いたように十分に調べて、朝5時の予報を確認して家を出てきたのだが、今回は高気圧の位置が少しずれているのが気になっていて、やはり今回も終日快晴の空というわけにはいかなかった。
 まあそれでも、頂上に雲がかかるほどにはならなかっただけでも、よしとするべきだろう。

 誰かが、右側の木々の間の夏道を登っているのだろう、鈴の音がしていた。
 その先で、北西尾根の雪堤が終わり、いよいよ西側に向かっての山頂山腹斜面の登りになる。
 すると、さらに左手奥の方から別の鈴の音が聞こえてきた。
 山腹をトラバースしてきたらしい登山者がやって来た。
 私と同年代らしいが、妙敷山へと回ってきたとのことでしばらく立ち話をする。元気なものだ。

 そこで、再びそのまま急な山腹を登り続けて行くと、再び後ろから鈴の音がして、ダブルストックの男の人が私を抜いて行った。
 登り続けるスピードが、まるで違っていた。私にも、あんな時代があったのに。

 その上に悪いことには、もう今ではすっかりクセになってしまった、あの脚がつりはじめてきたのだ。
 痛てててと、つぶやきながら足を伸ばしたり叩いたりして登って行くと、右側が少し尾根らしくなってきてすっきりと開けて、芽室岳がきれいに見えてきた。

 ようやく山頂下の肩に着くと、そこから後はハイマツだけの森林限界となって、すっきりとした雪の斜面の向こうに、カール跡もくっきりとエサオマントッタベツ岳(1902m)と札内岳(1896m)が並んでいた。

  

 この伏見岳から見える山々の中でも、私の好きな二つの山だ。
 つまりは、この山々の姿を見たいがために、伏見岳に登ろうと思ったのだ。
 それは、あのカムイエク三山 (ピラミッド峰、カムイエク、1903m峰あるいは1917m峰)を見るために、十勝幌尻岳(1846m)に登るのと同じ理由だ。
 
 この雪の斜面で何枚もの写真を撮り、そして一登りするとハイマツ台地に上がり、その先にある岩が露出した頂上に着いた。
 誰もいなかった。少なくとも、私より前に、あるいは追い抜いて行った人も含めて、4人の人が先行しているはずなのだが、皆それぞれに妙敷山などへのルートに向かったのだろう。
 ただし、この日高山脈の盟主でもあるあの日高幌尻岳(2053m)を見るには、この三角点の置かれた頂上よりは、50mほど西に離れた高みにある、西の肩というべきもう一つの頂きからの方が適している。

 途中の尾根の雪道には足跡はついていなかった。やはりみんな妙敷の方に回ったのだ。
 この西の肩からは、さらに西へと尾根は伸びていて、日帰りでは強行軍となるピパイロ岳(1917m)に至り、さらには日高幌尻岳へのロング・コースと続いている。
 そしてもう一つ、この西の肩から雪の北尾根をたどれば、あの登りはじめに大きく見えていた、トムラウシ山へと回っての周遊コースとなるが、なんと言っても、この北尾根途中から振り返り見た伏見岳の姿が素晴らしいのだ。

 (ただし、トムラウシ山からはあまり利用できる残雪がなくて、古い伐採林道跡などを利用して下るしかなく、沢を渡り、伏見岳の登山口に戻るまでも少しヤブコギになってしまうが、それほどひどくはない。)

 そうした昔たどったコースの思い出にふけるよりは、今はただ、この日高山脈核心部の眺めにじっくりとひたることにしよう。
 中央にひときわ高く大きく、日高幌尻岳(2053m)があり、その手前にはカール跡がはっきりと分かる戸蔦別岳(とったべつ、1959m)の三角錐のピークがひときわ目立ち、さらに主稜線は北に、その先の北戸蔦別岳(1912m)へと続いていく。


 

 さらに北戸蔦別からは、日高第三位の1967m峰へと続き(頂がほんの少し見えるだけ)、目の前に大きく広がるピパイロ岳へと連なっている。
 その先は、北端の1700m級峰である芽室岳との間に、チロロ岳東西峰(1880m)、ペンケヌーシ山(1750m)、ルベシベ山(1740m)、1725m峰などのそれぞれに思い出のある山々が見えている。

 一方の日高幌尻岳から左側には 、戸蔦別からの主稜線は、私がまだ登っていない1803m峰から、あの日高幌尻岳への絶好の展望台である1780m峰(’09.5.17~21の項参照)とカムイ岳(1756m)へと続き、その間の後ろには、日高山脈で一番遠い所にあり、ふもとからは見えない唯一の山でもあり、私も登っていないナメワッカ岳(1800m)が見えている。
 カムイ岳からはエサオマントッタベツ岳に札内岳と続き、その間に遠くカムイエクウチカウシ山(1979m)の頂がほんの少し見えていて、あと札内岳から派生した尾根は、最後の高みとなって十勝幌尻岳(1846m)へと続いている。
 さらに天気が良ければ、南側はるか遠くに楽古岳(1472m)方面を見る事ができるし、北側には芽室岳の後ろに、十勝岳連峰からトムラウシ、大雪、ニペソツ、ウペペサンケまでの大展望に恵まれることもあるのだ。
 
 ただこれだけの雲が出てきていても、いまだにどの山頂にかかることもなくよく見えているから、十分に満足できる展望だった。 
 私はそよ風の吹く山頂にただ一人、1時間ほどもいた。それでも山々を一つ一つ眺めては写真を撮っていると、あっという間の時間だった。
 
 さすがに下りは楽だった。雪がショックを受け止めてくれるから、ひざに来ないし、足先も痛くならない。
 しかし、ずんずんと下って行くのがもったいないくらいで、何度も立ち止まっては、この雪の道とダケカンバと青空を眺めていた。
 見上げる空には、明らかに雲が増えてきていて、所々日が陰ってきた。

 最後の夏道に出る雪の斜面の所で、後ろの方から鈴の音が聞こえてきた。頂上への斜面で、私を追い抜いて行ったダブル・ストックの彼だった。
 立ち止まって、しばらく立ち話をする。
 彼も、あのトラバースしたところで出会った人と同じように、妙敷まで行ってきたそうだ。
 私より1時間以上も後に出て、先の妙敷まで行ってきて、さらに下りの私に追いついたのだ。
 まあそれが元気なころの、普通の人のペースなのかもしれないが、私も年を取ったものだ。
 彼は仕事の関係上、土日休めなくて、平日が休みだが、人が少なくていいと言っていた。

 (後で登山口に戻ってきて、入林者ノートを見たのだが、今日の登山者は8人もいて、私が会ったのは3人だけだが、8人すべてが一人だけの単独行者たちばかりだった。
 本当に山が好きで一人でも登りたい人たちと・・・前回のあのペケレベツ岳で出会った4人パーティーと。) 

 彼は先に降りて行ってしまった。
 私は雪の斜面に腰を下ろして、ゆっくりと休んだ。まだ山の中にいたかった。
 ここには雪があっても、対岸に見えるトムラウシ山の、山肌の下の方には春が来ていて、新緑の木々に彩られていた。
 重い腰を上げ、夏道に出ると、プラスティック・ブーツの足先が痛い。
 道端には、わずかにエゾイチゲ、ヒメイチゲの白い小さな花が見えるだけだった。
 沢音が聞こえる下まで降りてくると、日を透かして映える新緑の木々の葉がきれいだった。それは、何度も何度も振り返り見たくなるほどのやさしい光景だった。

 駐車場には、他に車が一台あるだけだった。 
 登りに4時間余り(普通のコースタイム3時間)、頂上に1時間 、下りは3時間足らず(ふつうのコースタイム2時間)と、それでも年寄りの遅い足で何とか歩き、8時間も山の中にいたのだが、それほどのひどい疲れではなかった。
 周りの山腹には、今を盛りにオオサクラソウの花が咲いていた。この花は、日高山脈の山すそのあちらこちらで見られるのだが、ただ悲しいことに、その群落の中に幾つもの盗掘の跡が残っていた。

 悲しい気持で、”やはり、野に置けれんげ草” という言葉が思い浮かんだ。
 野の花は、その花が咲いている自然の中にあることこそが、彼女がそこで生きることこそが最もふさわしいのに。

 今年もまた、家の林のふちに、クロユリの花が咲いている。
 私が植えたわけでもないのに、鳥か獣たちかが運んできた種が、長年かかって大きくなって・・・ありがたいことだ。

 私のごひいきである、AKBの二人に・・・うちの娘たちに、何ということをしてくれたんだ。
 せっかく、新曲『ラブラドール』での、彼女たちの明るい歌声を楽しんでいたというのに・・・。
  


雨と風、ミヤマカラスアゲハとヤクシマザル

2014-05-19 19:53:09 | Weblog



 5月19日

 三日前に、ほぼ一月ぶりのまとまった雨が降った。それは、十勝地方の畑作農家だけでなく、小さな畑を作り、井戸の水が心配な私にとっても待望の雨だった。

 その雨で、周りの新緑の木々や草花たちが、目を見張るほどに勢いをつけてきた。
 カラマツは新緑から緑色に、シラカバやカエデはその初々しい若葉を広げ、どこまでも高い青空に映えて、春を感じさせた。

 庭のシバザクラやチューリップの鮮やかな赤色の他に、道端には春の色である黄色い色が点々と続いている。
 しかし、そうして見ている分にはきれいなのだが、その黄色はセイヨウタンポポであり、放っておくと全面がタンポポの原になってしまう。 
 そうなのだ。春の盛りのうれしい季節はまた、これから続く草取りの始まりの季節でもあるのだ。
 その他にも、庭仕事はいくらでもある。

 ダニに取り付かれながらの、ギョウジャニンニク(アイヌネギ)採りやタラノメ採りは終わったのだが、今はコゴミが盛りになっていて、さらにウドとワラビ、フキへと続いて行く。
 猫の額ほどの小さな畑には(ひとり分だけでいいから)、メークィンの種芋とネギの植え付けを終わり、後はまだ霜が怖いからまだ植えつけられないが(三日前、あちこちの峠では道が白くなるほどに雪が降っていた)、残りはキャベツとトマトという簡単な作付である。

 ということでとりあえずの仕事を終えると、やはり山に行きたくなる。前回のペケレベツ岳から、何ともう一月もたっているのだ。
 雨が降った後、それまで気温が毎日20度を超える日々が続いていたのに、一気に10度ほども下がり、峠で雪が降るほどに寒くなったが、山に行くにはそのくらいの温度でちょうどいい。

 ただあまりにも風が強すぎて、山に行くどころか、外に出るのもためらうほどの風だった(所によっては30m/sもの暴風だったとか)。
 庭には、新緑のカラマツの小枝や、シラカバの若葉などが散乱していた。

 しかし朝早くは、その雨と風でよどんでいた空気が吹き飛ばされて、春から夏にかけてはめったにないほどに空気の澄んだ状態で、山々がよく見えていた。
 それにしても今年は、雪解けが早い、と言うより冬の間の雪が少なかったのだろうか、いつもの6月初めころの残雪風景だった。
(写真上、左奥に少しだけ見える1839峰、続いてヤオロマップ岳、コイカクシュサツナイ岳、1823峰と続く中部日高山脈の山々)
 
 昨日の天気予報は晴れだったので 、それなら山に行こうと思っていたのだが、今朝5時の天気予報では同じ晴れ後曇りでも、それがネットで見る天気分布予報では微妙に変わってきていた。

 午後から平野部の方に雲が広がるのはいいとしても、昼ごろには山脈の西側(日高地方側)で雲が広がる予報になっていたのだ。
 そしてさらに決定的だったのは、NHK5時の天気予報で、北海道中央部にかけて寒気が残るということだった。それはつまり、気温上昇する平野部の暖かい空気との関係で、山間部には雲が出てくることを意味しているのだ。
 今朝起きてすぐに外に出てみると、上空に少し薄い雲があるものの、日高山脈全体は青空を背景に、澄んだ空気の中にくっきりと見えていて、風も収まり絶好の山日和(やまびより)に思えたのに・・・私は山に行かなかった。

 そして、その予報通りに、山の上での天気を案じたとおりに、つかの間の快晴の山なみが見えた後、すぐに稜線の上に雲が出てきて、昼までにはすっかり山脈全体を覆ってしまった。
 してやったり!行かなくってよかったと、ひとりほくそ笑んだのだ。
 今まで、こうして普通の平野部と山間部での違いによる天気予測を、自分なりに考えてきてはいたが、しかしそれが当たることばかりではない 。
 時には、その予測がはずれて、快晴の一日になり、行かなかったことで後悔のほぞをかむことにもあったし、さらには、その後は天気の悪い日が続き、せめてあのぐらいの天気ならば行っておけばよかったと、悔しく思うこともあったのだ。
 
 若いころには、大まかに晴れか曇りかの予報だけで出かけるかどうかの判断をしていたのだが、今やこうして理屈っぽいジジイに成り果てて、もう残り少ない命だからと、あのハイデッガーの”存在と時間”ではないけれども、妙に残りの時間を意識して行動を起こすようになってしまったのだ。
 というとなんだか哲学的に見えて、格好つけているようだが、なあにはっきり言えば、年を取ってきて単にものぐさジジイになっただけのこと。

 さて前回からの続きで、例のミヤマカラスアゲハのことだが、ちょうどうまい具合にこれまた前回写真を載せたばかりの、シベリアザクラの花にとまってくれたのだ。
 桃色の花、新緑の葉、そこに色鮮やかなミヤマカラスアゲハと、おあつらえ向きの一枚になった。

 

 実はこのカラスアゲハの名前は、昔から思っていたのだが、どうもカラスという頭の名前がよろしくない。
 見てわかるとおりに、鮮やかなるり色の後翅(うしろばね)なのだから、ミヤマルリアゲハ(カラスアゲハはルリアゲハ)と名付けてほしかった。
 もっとも、羽のルリ色が目立つのは、このミヤマカラスアゲハ以上に、何といってもあのアオスジアゲハだ。
 もう二十年近い前の話だが、南アルプスは北岳、間ノ岳、農鳥岳のいわゆる白根三山を縦走して、奈良田に下りた時、その河原で鮮やかなルリ色を見た。それは河原の水を給水していたアオスジアゲハだった。
 緑の木々と足元の土の色ばかりを見て、山道を降りてきた私にとって、あのルリ色は、近くを流れる沢水の色とともに、まさしく異次元の別世界に入ってきたような気がしたのだ。
 まるで、あの泉鏡花の幽玄の舞台に現われた、ひとりの美女がそこにいるかのような・・・。

 ところでこのミヤマカラスアゲハには、後翅だけでなく全体的にこのルリ色が強い個体もあって 、何とこれらの写真を撮っている時に、どこからともなくやってきて、上の写真の個体と離れたところで、シバザクラの花にとまったのだが、惜しいかな、裏側を見せる上の個体の方にピントが合ってしまい、手前のその全体がるり色の個体はかなりボケてしまったのだ。
 このあたりが、シロウト写真家の悲しいところで、普段から蝶を撮りつけていないから、ただシャッターを押しただけの写真になってしまったのだ。 

 

 しかし、毎日の田舎暮らしで何が一番楽しいかと言えば、こうした自然界の美しい生物たちや植物たちとの、偶然の出会いにあり、また、そうしたものを含む林や平原や山などの、大きな自然全体の美しい光景を見ることにある。    

 どうして、そんな自然景観にあこがれるようになったかというと、それは思うに、自分が持っている美しいものとは真逆のものへの、反感というべきか、目をそむけたいというべきか、そうした心持があって、人並みに増して強いあこがれになったのではないのか。
 自分の容貌魁偉(ようぼうかいい)な外観や、年を取るごとにさらにひねくれ、ねじ曲がっていく邪悪な心・・・そんな救いようのない今の私を助けてくれるのは、まさに何の邪心(じゃしん)もない、ただ生きることだけにひたむきなすべての生き物たちの姿や、”そこにただあるだけの山”(前回メスナーの言葉)や、林や平原や川や海や太陽や月や星空などの姿なのだ。

「神様、わたしに星をとりにやらせて下さい。
 そういたしましたら病気のわたしの心が
 少しは静まるかも知れません
 ・・・
 おお、おっしゃって下さいまし、あの星は死でしょうか?・・・
 ・・・
 神様、わたしはよろけながら歩く
 ロバのようなものです・・・。
 ・・・
 神様、わたしのために星を一つ下さる事が出来ないでしょうか、
 ・・・
 今夜わたしのこの冷たい空ろな
 黒い心臓の上に乗せて眠るために。

(『月下の一群』 堀口大学訳詩 フランシス・ジャム 新潮文庫)

 去年も書いたのだが、今年もまた家の林の中に、一匹のエゾハルセミがいた。
 まだエゾハルゼミの鳴き声を聞いていないから、他の仲間はまだ出て来ていないのだろうが、このところの暖かさに誘われて、幼虫から羽化して外に出てきたものの、外は思った以上に寒いし、仲間の声も聞こえないのだ・・・。

 彼は、モミジの幼木の小枝にとまったまま動かない。私がカメラを寄せてもじっとしたままだ。


  

  どうするのだ、おまえは。ひとりで生きていくのは、大変なことだよ。

 昨日、日曜日のNHK『ダーウィンが来た!』 「世界遺産屋久島 南限のニホンザル」で、その屋久島に棲むニホンザル(ヤクシマザル)たちの群れの生態を紹介していた。
 そこは、あの北限のサルで有名な、下北半島のニホンザルたちと比べると、一年を通して温暖でエサも豊富にあるのに、群れの間におけるテリトリー争いが絶えないという。
 つまりエサが豊富にあるから、サルの個体数が増え、群の数が増え、テリトリーを守るための縄張り争いが起きるからだといわれているのだ。

 それだけに、群の団結は強いのだが、その群れの中に、よそから強いオスが来て争いの末ボスの座に着いたら、それまでのボスザルはどうするのか。
 あの有名な九州は大分の高崎山の元ボスザル、”ベンツ”の例をあげるまでもなく、群からいなくなるのだが、ここでは元ボスザルは、新しいボスザルに対して後ろ向きになって恭順(きょうじゅん)の意を示し、自分はその下の地位に甘んじて、その群れにとどまるのだ。
 ひとりでは、生きていけないからなのか・・・。
 
 この番組でしかしそれ以上に興味深く衝撃的だったのは、同じ屋久島に棲むニホンジカ(ヤクジカ)とサルたちが一緒にいるシーンだった。
 もともと、サルたちがヤマモモの木などに登ってその実を食べていると、その幾つかが落ちてくるので、シカたちはその木の下に集まっていて、いわゆる共生の関係にあるのだが、その映し出された場面では、一頭のシカがサルの群れの中に入ると、その中の子ザルらしい一匹が、何とそのシカの鼻のあたりをなでその毛をかき分けてやっていたのだ。 

 おそらくは、サル同士でやる”毛づくろい”と同じで、ダニや虫を取ってやっていたと思うのだが・・・。
 ではサルたちにとって、シカたちは何の役に立つのか。
 そのあたりのことまでは、番組では語られていなかったのだが、もしかしたらシカたちのあの声、鋭い警戒音”キョーン”という声を、共に生きる仲間として利用しているからなのか・・・。
 (余談だが、いけないこととは知りつつ、キョーンというと、お尻をこちらに向けて叫ぶ”こまわりくん”の”八丈島のきょん”を思い出してしまう。)

 それはともかく、異種間の野生動物たちのあいだで、こうしたふれあいがあるとは・・・思わず、その画面にくぎづけになってしまう瞬間だった。 
 ヤクシカも、ひとりでは生きていけないのだ・・・。

 あの3年前の屋久島旅行の時、山の上で出会った、余り人を恐れないヤクシカのやさしい眼を思い出した。
 (’11.6.17~25の項参照)

 


新緑の林と”最期のことば”

2014-05-12 20:35:29 | Weblog



 5月12日

 昨日は快晴の天気の一日だった。
 山に行くには、絶好の日和(ひより)だったのに、こうして晴れた日になるのは分かっていたのに、私は山に行かなかった。
 一つには、それが日曜日で、多少なりともそこに行くまでの途中でクルマが多く、登山者も多いだろうと思ったからだ。

 もちろん若いころならば、そんなことはものともせず、登りたい山はいくらでもあったから、天気のチャンスは逃さずに出かけていたのだが、今や、ぐうたらでものぐさな年寄りになってしまったから、ちょっとやそっとのことでは動きたがらなくなったのだ。
 先日の新聞記事にもあったように、年を取っていけばますますわがままな性格になり、いつかは痴呆症にかかり、徘徊(はいかい)老人として、自らもどこの誰ともわからぬまま人生を終えることになるのかもしれない。
 まあそれも仕方あるまい。自分で好き勝手に、生きてきたのだもの。

 私は、とてもあの宮澤賢治のような理想主義的実践主義者ではないから、日々、あの『雨ニモマケズ』の詩のような生き方はできない。
 私が望むのは、ただ「雨の日には出かけず、風の日も家にいて、雪にも夏の暑さにもすぐ弱音をはいてしまうような毎日を送り、誰のためにもならず、また誰もあてにせずに、ただのでくのぼうと呼ばれ」て、誰にも迷惑をかけずにこの林の中で、他の生き物たちと同じように、寿命が来たらそのまま死んで行くことなのだが。 

 前にもあげたことのある、『最期のことば』(ジョナソン・グリーン 刈田元司、植松靖夫訳 社会思想社)の中から、イギリスの肖像画家ジョシュア・レイノルズ(1723~92)の言葉。 

「私は幸いにも長い間健康にも恵まれ、常に成功を手中に収めてきた。だから不平など言わぬ方がよかろう。この世では何事にも終わりがあることを私は知っている。今、私の終わりが来たのだ。」

さらにもう一人、19世紀のイギリス首相、パーマストン卿(1784~1865)。
 
「先生(医者に)、死ぬこと・・・それが私のする最後のことですよ。」

 私が今までやってきたことは、あくまでも自分のためだけのものであったけれど、ともかくおおむね納得できるほどにやり終えたし、周りの人にかけた迷惑もそれなりにあったのだろうが、とにもかくにも生涯通じての一個人としての、優柔不断なエゴイストとしての態度は貫けたわけだし、 もうこれ以上何を望むことがあろうか。
 こう考えてくると、残りの人生の日々は、すべてが予期しないありがたいプレゼント、生きていることへの喜びの日々に思えてくるのだ。


 雲一つない青空が広がり、彼方に雪の日高山脈が連なり、木々が新緑の季節を迎えて照り輝き、草花は色とりどりに咲き乱れ、鳥は鳴き、蝶は舞う。
 何と、ありがたいことだろう。もしかして、私は、もうこの世を離れて彼岸(ひがん)の地にやって来たのだろうか・・・。
 
 家のエゾヤマザクラとサトザクラの花は終わって、すっかり葉桜になってしまったけれども、今では、あのハナモモに似た背の低いシベリアザクラ(オヒョウモモ)の花が咲き始めている。(写真上)
 見上げれば、今年はスモモの白い花もいっぱいに咲いていて、その香りが家の中にまで入ってくるほどだ。
 庭には数十株のチューリップがあって、今年も赤と黄色の鮮やかな色の一団となって目を引く。
 そして、まだまだ補修中の芝生の一隅には、その芝生に負けまいと混生しながらシバザクラが咲き始めて、そこに蝶々が集まってきている。
 モンシロチョウにツバメシジミ、そしてミヤマカラスアゲハにキアゲハも飛んでいるが、いずれも春型で、大きさは夏型の半分ほどしかない。(写真はキアゲハ、ミヤマカラスアゲハは’08.5.28の項参照。)


  

 今年は、平年よりははるかに気温の高い日が多く、ともかく草花なども1週間以上は早く咲いているし、だから蝶が出てくるのも早くなったのだろう。
 (去年は連休明けに15cmもの雪が降り、庭にはまだ雪が残っているほどだった。’13.5.6の項参照。) 

 そして、林のふちには、白いオオバナノエンレイソウと赤いオオサクラソウが咲いている。
 そのカラマツの林の中に入って行くと、下草のササはまだ枯れたままで、やがて緑の芽や茎がいっせいに出ては、見る間にあたりをササ原に変えてしまうのだが、今は乾いた音を立てるだけだ。
 このカラマツ林は、植林されてからもう数十年たっていて、中には巨木と言っていいほどの大きな木もあるが、もともと家の薪ストーヴのための供給林でもあるから、間伐を兼ねて年に数本を切り出し、そのために木の間が十分に空いていて、そこに他の広葉樹たちが大きく育ってきているのだ。
 この林の終局的な形態としては、針葉樹、広葉樹の混交林になってほしいのだが、その完成された姿など、とても私が生きているうちに見ることはできないだろう。
 
 その木々たちは、ヤマモミジ、ハウチワカエデ、イタヤカエデ、ナナカマド、ミズキ、ハルニレ、ホウノキ、ミズナラたちであり、紅葉の時の鮮やかな色合いは言うまでもなく、新緑の時の薄緑色は、木々の生きる力をまざまざと見せつけていて、私を勇気づけてくれる。(写真)



 さらに夏の静かな木陰、冬の静かな白と黒の世界もまた見事なものだ。
 つまり春夏秋冬にわたって、私は、この小さな林の中を歩いているのだ。

 少し哀しい気持になった時、つらい思いがふくれ上がってきた時、この家の周りの林の中を歩き回り、時には少し離れたところにある見晴らしの良い牧草地や、他の大きな林の方まで足を伸ばすこともある。
 
 人間はいつも欲深く、自分の都合のいいように考える生き物だから、もちろんそれらの思いがすべてかなえられるはずもないし、ぐずぐずと考え悩むことになる。
 しかし、考えてみるがいい。そもそも、この北海道になぜに住みたいと思ったのか。
 その始まりは、簡単な望みだけだったはずだ。

 それは大草原の中の家を夢見たわけではなく、花咲く小川のほとりに立つ家を夢見たわけでもない。
 ただ木々が豊かに繁る林の中にあって、近くから日高山脈の山々が見えさえすればいいと思っていただけのこと・・・。
 そんな望みの場所を見つけて、自分ひとりの力で家を建て、今そこに住んでいるのだから、何の不満を言うことがあろうか。
 そこで、しっかりと生きていくこと、それだけで十分なのだ・・・新緑の木々たちは、かすかに若葉を揺らせながら立ち尽くしている。
 先にあげた偉人たちの言葉のように、”この世には何事にも終わりがある”から、その日が来るまで、ただ黙々と。
 
 木々の間から、日高山脈の山々が見えている。
 こんな天気のいい日に、山に行かなかったことに対する、少し悔しいような思いもあるのだが、しかし、こうして新緑の木々を楽しみ、さわやかな風に吹かれて、庭仕事をする一日もまた悪くないものだ。

 それにしても、今年の日高山脈は、それまでの季節外れの暖かい日が続いたせいだろうか、いつもよりずっと早く雪どけが進んでいて、山頂付近の岩壁や岩稜帯は、今や黒々としたその姿を見せている。2週間以上は早いだろう。
 去年は連休前の雪もあって、今の時期でもまだ稜線は真っ白だったのに。(’13.5.13の項参照) 

 しかし、こうして北海道の山に登ることに、そう積極的ではなくなったのは、年寄りのぐうたらさはもとよりあるのだが、北海道のめぼしい山にはもうほとんど登っていて、どうしても行きたいという山が余りないからでもある。
 今の残雪の時期、雪を伝っていける山々が気になるし、確かに日高山脈の幾つかのコースが思い浮かぶが、体力的にもうきついだろうし、さらにアルペン的なヴァリエーション・ルートで有名な、芦別岳本谷経由北尾根回遊のコースも、久しぶりに行ってみたい気もするが、この雪の少なさでは、もう沢水が流れているのかもしれない。

 そういえば、一度、日高の札内岳(1896m)の雪の詰まった沢を詰めて登っている時に、もろくなったブリッジに乗っかり、クレバス・シュルンドの中に落ち込んだことがある。
 だから単独行が危険だと言われるのはよく分かるし、もう何十年も、沢登りや冬山を含めていつも一人で山に登ってきて、幸運にもよく生きのびてきたものだと思う。

 だからと、おじけづいたわけではないのだが、これからはなるべく楽勝登山をしたいし、ぐうたらのんびり登山にしたいのだが・・・。
 山から足が遠のけば、その分、家にいることが多くなるから、まだまだうんざりするほどにたまっている仕事を、一つずつ片づけていけるようにはなるのだが・・・。 
 まだまだ死ぬわけにはいかないし、ひとりでもごうつくばりジジイと呼ばれても、生きていくぞ、ミャオ、母さん。 

 山に関係する話を一つ。
 先日、BS日テレで、ドイツ映画『ヒマラヤ 運命の山』(2010年)が放映され、それを録画して、久しぶりの山岳映画だと期待して見たのだが、私の好きなヨーロッパ映画なのに、正直に言えば映画的には余り納得できないものだった。
 確かに、ヒマラヤの風景やそのスケール感あふれる映像には、素晴らしいものがあるのだが、監督、脚本、出演者たちのすべてが、旧態然としたスタイルであり、その映画の主人公たる本人のあのラインホルト・メスナーが監修した割には(もっとも彼は登山中の事実の有無に関して助言しただけなのだろうが)、どう見ても芝居がかった映画くささが残っていた。
 
 というのも私たちは、今やハイビジョンや4Kテレビのための、高解像度カメラで映された映像で、ヒマラヤなどの世界の山々を見てきており、そんな山々に挑む登山家たちの臨場感あふれる姿も、またよく見知っているからでもある。
 それらは、NHK・BSの『グレート・サミッツ』シリーズや『8000m峰全山登頂 竹内洋岳』、『三浦雄一郎 エベレスト』などなど何本も放映されているのだ。 

 ただし、このパキスタン・ヒマラヤの難峰、ナンガ・パルバット(8125m)については、山好きな人たちなら誰でもが知っていて、 あの困難なルートを求め続けたイギリスの有名な登山家、ママリーが消息を絶った山であり、第二次大戦前から20数人もの犠牲者を出しながら、この山に挑み続けたドイツ隊にとっての、”運命の山”であり、しかし1953年、あのヘルマン・ブールの超人的な力によって、単独無酸素の初登頂がなし遂げられ、その後1970年には、世界登山史に燦然(さんぜん)とその名を輝かす、ラインホルト・メスナー(1944~)とその弟ギュンターによって、最難関の4700mにも及ぶルパール壁を経由しての登頂が成し遂げられたのだが、その帰路に、ギュンターが遭難死してしまい、しかしラインホルトは両足指7本切断の凍傷を負いながらも、奇跡的に生還した。
 この映画は、そのドイツ隊のメスナー兄弟による登頂と遭難に至る姿を描いているのである。
 映画のラスト・シーン、ドイツに戻ってのナンガ・パルバット登頂講演会でのラインホルトの言葉。
 
「皆は、ナンガ・パルバットをドイツにとっての運命の山と呼ぶのかもしれないが、
 しかし 、ナンガ・パルバットはただの山にすぎない。
 人間が感情を抱くだけだ。」

 その後、彼は弟ギュンターの遺体を見つけるまではと、10回ほどのその谷の捜索に出かけた。
 1978年、彼は単独無酸素によって、再びナンガ・パルバットの頂に立った。
 1986年、彼は登山史上初の8000m峰全14座に無酸素登頂した。
  現在彼は、生まれ故郷のイタリア・南チロル(ドイツ語圏)の古い城跡に住んでいる。(先日テレビ番組でも放送されていた。)

 (以上、ウィキペディア他、 『ラインホルト・メスナー自伝』TBSブリタニカ)


早春の北の山

2014-05-05 22:42:02 | Weblog

 

 5月5日

 もう10日余りの前のことを、それも余り良い思い出の山の話ではないのに、ここに書くのは少し気が引けるのだが、このブログはあくまでも自分の今を記録していくためのものだから、イヤなことも復唱して書いておくべきだと思っている。
 しかし、山が悪かったわけではない。山はいつも、ただそこにあるだけのものだから、まして快晴の空の下、素晴らしい残雪に覆われた見事な姿を見せてくれたのだから、山には何の文句もないのだ。
 むしろこの日のことは、 そんな山々の良き春山の思い出として書きつづるべきだったのかもしれないのに、すべては私の情けない心根の問題だったのだ。

 ところで、私が北海道に戻ってきてもう2週間ほどになるのだが、ともかく晴れた日がずっと続いて、一向に雨が降らないのだ。
 数日前に、お湿りにもならないほどの小雨がぱらぱらと降っただけで、調べてみると、私が来る前から、もう一月近くもまともな雨が降っていないのだ。
 粒子の細かい火山灰土に覆われたこの十勝平野の畑では、今ではもう水不足を心配する声が出始めている。
 家の畑や庭でも、 まだ何もしていない。それは今の水不足ととともに、いよいよにならなければやらない私のぐうたらな性分と、まだまだあるかもしれない霜や雪が怖いからでもある。

 その上に、前回書いたように、井戸ポンプが故障して、自分で何とかしようとしたり、新しいポンプを買ったりとか、その据え付けなどに手間がかかり、水が出るまでに1週間もかかってしまったこともある。 
 しかし、そうした生活するのにぜひとも必要な水の問題があったのに、それらのことがまだ何も解決していなかった時に、私は井戸をそのままにしておいて、一日山登りに行ってきたのだ。
 絶好の天気に恵まれた山日和(やまびより)の日に、目の前の大切な仕事と山登りのどちらかを選ばなければならないとしたら 、それは私にとっての究極の選択でもなくて、単純に山に行こうと思うだけのことなのだが。

 連休前の4月の終わりに、快晴の天気が三日も続いて、私は山に行かなければと思った。
 それでも、気温が高くなると、その熱気と残雪の蒸発などで山がかすんでしまうから、なるべく山がよく見える日に行くことにした。
 そうできるのが、私のぜいたくな山登りの方針なのだ。

 決まった休日にしか山に行けない人たち、働いている人たちには申し訳ないのだが、これも老い先短い年寄りに免じて、まして他に大した楽しみさえない哀れなひとりの老人のことだと思って、どうか許してくだされ。
 どのみちこの世は”順送り” 。いいことも悪いことも、いつかはめぐりめぐってあなたたちのもとにも来るものなのだから・・・はいそういうことですから。

 というわけで、朝日が昇って十分に山々の姿を確認できるようになってから、山に行くことに決めて、家を出た。
 もう今では、長い車の運転には耐えられなくなっていて、近場の山に登ることにした。
 十勝平野の果てに立ち並ぶ雪の日高山脈。そこには、日本アルプスの山々に引けを取らない、第一級の険しい稜線もあるのだが、一方では比較的手軽に雪山を楽しめる山々もある。
 北日高の中でも特に、芽室岳以北の山々は、高度も低くなり、山容も穏やかになる。

 そんな高度1000mを超えるくらいの山々の中で、ひとり1500mを超える高さとその姿から、さらには日勝峠越えの国道からすぐに取り付ける便利さから人気なのが、ペケレベツ岳(1532m)である。  

 もう一人でテントをかついで主稜線の山々に登る(’09.5.17~21の項参照)そんな元気は、今の私にはないから、去年と同じような残雪歩きの山として、北日高の山を選んだのだ。
 この日高山脈を越える国道は3本あって、そのうちの南側の一本、野塚トンネルを抜けての通称天馬街道からの山々には、今までほぼ毎年のように登ってきているし(’11.5.7の項参照)、去年からは自分の体力に合わせてと、この日勝峠越えの国道からの春山登りに変えて、まずは双珠別岳(そうじゅべつだけ、1389m)に行ってきたということになる(’13.5.20の項参照)。
 そして、もう一つ北にある狩勝国道からとともに、この日勝国道は道のそばにクルマを停めて、すぐに山に取りつくことができるという利点があるから、そこからは夏期には道がないけれども、こうして雪があるときにはヤブが隠された雪山歩きができるから、今までにもあちこちの道路沿いを起点として、幾つかの残雪期の山々に登ってきたのだ。

 このペケレベツ岳もそうして残雪期に登った山の一つであるが、前回登ったのは、何ともう20年も前のことになる。
 それはまだ日高山脈の山々に登り始めて間もないころであり、その後も次々に新たな別の山を目指して登り続けていたから、これらのなだらかな山容の北部の山々には、それほど足しげく通うことはなかった。
 しかし、年を取ってくると、こうした穏やかな山こそが、今の自分には年相応に合っているように思えてきたのだ。

 清水町まで来ると、ぐんと日高山脈北部の山々が近づいてくる。
 その中で、相並び立つ芽室岳(1754m)と西芽室岳(1746m)の二峰を除けば、やはり急峻な東面を見せて並び立つペケレベツ岳の姿だけが目立って魅力的である。

 近年、この日勝国道と狩勝国道の間に高速道路ができたから、札幌方面に向かう車の多くが利用するようになり、今では高い高速料金を嫌う長距離トラックだけが走っていて、高速ができる前と比べれば、クルマが少なくすっかり走りやすい道になった。
 日勝峠手前の十勝側800m付近、除雪ステーションの建物のそばにペケレベツ登山口があり、広い駐車スペースがある。
 5時くらいの日の出の時間からもう2時間もたっているのに、他にクルマはなく、今日も一日、ひとりきりで雪山を楽しめると思うといい気分だった。
 さて、北海道の山では厳冬期を除いてヒグマに注意しなければならないのだが、今の時期の稜線歩きでは、それほどヒグマの心配をすることはないからと、鈴はザックの中に入れたままだった。
 しかしその時、思いもかけずに、別の大きな不安が襲ってきた。

 いつものプラスティック・ブーツをはき、靴ひもを締め終わってから、何と私は、スパッツを忘れてきたことに気がついたのだ。
 汚れ防止用の夏山のスパッツとは違って、しっかりと作られて雪山用のスパッツは、さらに防寒も含めて作られている厳冬期用ゲーターとともに、冬山にはなくてはならぬものなのだ。
 つまり深い雪にはまって、足を雪から抜き出す時に、登山靴のベロの周りから雪が入ってきてしまうのを防ぐためのものであり、、こうしたまだ雪深い春山ではぜひとも必要なものなのだ。


 そして、その他にもはまり込みを防ぐためにワカン(日本製スノーシュー)を持ってきていたのに、どのみちずっと固雪の尾根、雪堤(せきてい)歩きだろうから、もぐりこみも余りないだろうし、ワカンも邪魔になるだけしスパッツなしでもなんとか行けるだろうと、私はその時勝手に自己判断して歩き始めてしまったのだ。

 さて、登り出すとすぐに夏道は雪に消え、尾根上の厚い雪堤が続いていた。
 そこには、昨日のものも含めた古い足跡が残っていて、その中にはスキーの跡もあった。
 登山靴がもぐることもない固雪で、青空の彼方雪尾根の向こうに白い山頂がのぞいていた。
 さらに下の林のほうから、何とあのルリビタキのさえずりが聞こえていた。
 前回の登山で、九州は鶴見岳(4月14日の項)の山腹で、ルリビタキの声を聞いて渡りにしても早いなと思っていたのに、まさかあのルリビタキが2週間ほどで北海道までやって来たわけではないだろうし、できるならその鳴いているルリビタキに、声をかけて聞いてみたい気がした。

 ゆるやかに続くダケカンバの雪道を歩いて行くのは、楽しかった。
 所々で前方が開けて、そのたびごとに雪の山頂が近づいてきた。(写真上)
 ただ尾根の北側では、強い風が音を立てて吹きつけては、木々を揺らしていた。
 しかしその時の私の不安は、その風が先の稜線や山頂付近でも強かったらどうしようかということだけで、スパッツをつけていないことへの不安は余りなかった。 
 ところが、たまに雪の柔らかいところがあって、二度三度と足がはまり込んで、引き抜くたびに靴の隙間に雪が入り込んできて、そのたびごとに、靴下との間の雪をつまみ出さなければならなかった。

 なるべく雪にはまり込まないようにと、差し足忍び足のスタイルで 歩いて行ったのだが、上の方で尾根上に大岩が出ていて、そのそばにハイマツがあり、雪の状態が悪く何度もはまり込んでしまった。

 もう体温で溶かされた雪が靴の中にしみ込んでいて、靴下がはっきりと分かるほどに冷たく濡れていた。
 何とかはまり込まない所をと、尾根の北側に行ってみると、雪が少なく所々に夏道が現れていた。
 しかし、助かったと思ったのもつかの間、その先でまたハイマツにさえぎられて雪堤に戻ると、再びはまり込み、もうどうにでもなれという思いになった。
 
 そして少し長い急な斜面を登りきると、周囲の展望がすっきり開けて1343mのコブに着いた。
 目の前に、手前のコブの斜面の後ろにペケレベツ岳の山頂が見えていた。そして沙流岳、双珠別岳をはじめとする北日高の山々があり、その後ろ遠くには、大雪・十勝連峰が春霞の中にかろうじて見えるくらいだった。
 疲れはそれほどなかったのだが、何しろ何度もはまり込んですっかり時間がかかり、何と夏のコースタイム2時間足らずのところを、3時間以上もかかっていたのだ。
 ただありがたいことに、風はすっかりおさまっていたし、問題はただ、もうベチャベチャになった靴の中だった。
 
 靴を脱いで水気を絞ろうかと思っていたところに、鈴の音がして、下から明るい挨拶の声が聞こえて、中年の女の人二人が登ってきた。途中で何度か後ろを振り向いたこともあったのだが、気づかなかったのだ。
 そして二人も近くに座り込み、大きな声でいろいろとおしゃべりをはじめ、さらに他にも連れがいるらしく、下に向かって大きな声で呼びかけていた。
 私まだ休み足りなかったし、靴も何とかしたかったが、そんなにぎやかな場所からは一刻も早く離れたかった。
 
 私はすぐにその1343mコブから下っていき、鞍部(あんぶ)にまで下りてきて、今度は最後の頂上への大斜面を登り始めた。
 ただありがたいことに、雪面は靴をけり込まなければならないほどに固く、安心して登って行くことができた。
 何より周りの景観が素晴らしくなり、何枚も写真を撮って行った。
 そんな風紋の残る斜面の彼方に見える山々の中でも、山頂部だけが一際白く覆われた、沙流岳(さるだけ、1422m。この山も残雪期に登っている)の姿が印象的だった。(写真)

 

 少し凍った最後の急な斜面でも、ピッケルが必要なほどではなく、ストックだけで十分なのだが、やはりどうしても息が続かない。
 二度三度と、立ち止まってしまう。すぐ下の所を彼女たちが登ってきていた。 
 やがて、頂上稜線の南側に張り出した雪庇(せっぴ)が見えてきた。
 やっと頂上手前のコブ斜面を登り切ると、最後の頂上へのゆるやかな斜面が残っているだけだった。(写真)

 
 

 足跡の残るルートから外れて、その雪庇側に寄って写真を撮っている私のそばを、後ろから来た彼女たちが追い越して行った。
 しかしその辺りから、先を行く彼女たちも時々雪にはまっていたが、そのまま頂上まで雪の状態が悪いはずのハイマツ帯の斜面を登っていた。
 私はどうしようかと迷った。誰もいなかったら、おそらくは雪庇に近づいて少し危険だが、はまらないようにより雪堤に近い形の稜線沿いに登って行ったのだろうが、しかし先行者の足跡があれば、その跡をたどりたくなるのが人情だ。
 私は所々で踏み抜いている彼女たちの足跡をたどり、上では北側に回り込んでようやく頂上に着いた。
 すぐ後ろには、ショート・スキーをつけた彼女たちの仲間らしい男の人が登って来ていた。
 ハイマツに囲まれた頂上は狭く、彼ら三人の声でにぎやかになり、さらにもう一人いるらしい下から上がってくる仲間に向かって大声で呼びかけていた。
 
 私は彼女たちから離れたハイマツの茂みの中で腰を下ろした。
 やはり確かに山々は少しはかすんでいたが、北日高北部の盟主芽室岳を初めとする峰々がずらりと並んで見えていた。
 芽室岳と西芽室岳が高く、手前にウエンザル岳(1576m) と右に1695m峰(写真、この二つの山には道がないので、雪の時期にと思っているのだがまだ登っていない)、そしてその尾根の先にペンケヌーシ岳(1750m)東西峰が大きく見え、その後ろには離れて、チロロ岳(1880m)のこれまた東西峰が見えている。

 

 このペンケヌーシ岳とチロロ岳には、ずいぶん前になるが、いずれも残雪期の快晴の時に、エゾノリュウキンカの黄色い花が咲き乱れる沢を詰めて登って行き、ただ一人だけの頂上に着いて、どれほど快哉(かいさい)の叫びをあげたたことか。
 もう二度とは行かないだろう、素晴らしい思い出に残る山々たちだった。 

 そんな私の思いは、同じ頂上にいる彼女たちの明るい笑い声にかき消されてしまった。
 靴を脱いで、いくらかでもと水気をふき取り、靴下も替えて、軽い昼食をすませたところで、もう一人の彼女らの仲間がスキーをつけて頂上に着き、さらににぎやかになったのを潮時に、下りて行くことにした。
 頂上にいたのはわずか10分余りだった。
 できることなら30分、1時間と静かな山頂で、山々に囲まれてひとり過ごしたかったのに。

 ただありがたいことに、下りのほうが雪を踏み抜くことは少なかった。まして登りの固い急斜面は、キックステップで気持ちよくずんずんと下って行くことができた。
 コルからは、1343mコブへの登り返しになるが、下ってきた時とは逆の雪庇のついた稜線が見事な形で見えていた。
 振り返ると、何と彼女たちも下ってきていてすぐ下の所まで来ていた。私は一休みをするのをあきらめて、そのまま尾根を下って行った。

 ところが、行きにも苦労したように、さらに午後になって雪もゆるんできていて、彼女たちよりはおそらく二倍近くも体重の重たい私は、まあ面白いように雪を踏み抜くようになり、とうとう足を曲げたまま下半身ごと雪の中に落ち込んでしまった。
 その曲がった足を上げるべく手で雪をかき分け、やっと片足を上げ、さらに一番下の所まで落ち込んで曲がって動かない足を出そうと、さらに少しずつ雪をかき出しているところに、彼女たち二人が やってきて声をかけて追い抜いて行った。

 私は、返事をしなかった。
 そしてやっとのことで、そのはまり込んだ場所から抜け出して、再び雪堤を下って行ったが、もう靴の中はグチュグチュと音がするほどの水浸しになっていた。
 この4月としては季節外れの暖かい日に(帯広で24度)、日帰りの春山登山だからいいようなものの、厳冬期の山ならば間違いなく凍傷になっているところだ。
 雪堤の途中で、彼女たちが休んでいたが、私は心も体も不愉快な気分で、何も言わずに頭を下げただけで彼女たちをよけて通り過ぎて行った。
 下の方は行きもそうだったのだが、意外に雪は安定していて余りはまり込むこともなく、そのまま、大股になってずんずんと下って行けた。

 それは、気持のよいゆるやかな雪堤の下りだったのに、心からの楽しい気分ではなかった。
 彼女たちとその仲間を含めて、一度挨拶しただけで、ろくに返事も返さなかったことが私の心に重く漂っていた。
 原因は明らかだった。
 それはこの年になっても情けないことに、すべて私の心の狭さから来たものだった。
 
 まず自分の不注意でスパッツを忘れて、この登山中ずっと足先が、体が不愉快な気分だったこと。
 それに加えて、去年の双珠別岳と同じように静かな雪山を楽しめると思っていたのに、あまりにも大きな声を上げる人たちに出会って、すっかり不機嫌になり、黙り込む私になってしまったこと。
 
 思えば、ちゃんと出発前に持っていくべきものを確認しておくべきだったし、さらには面倒くさがらずに、持ってきたワカンをつけて歩いて行くべきだったこと、あの3か月前の由布岳での失敗(1月3日の項)をまた繰り返してしまったのだ。
 情けないことに、もう私には、認知症が出始めているのだろうか。

 さらに考えてみれば、彼女たちは何も悪くない。
 山は仲間と語らい、楽しむべきものだと考えている人たちにとって、本来山登りとは、そうした仲間同士の交友団結の場なのだから。
 むしろ私のように、できるならば誰にも会わずに、ひとりで山を歩きたいという人など、ほとんどいないというべきか、それは異端としての山登りであり、遭難対策上からも危険とされる登山者ということになるのだろうが。

 しかし古来、日本には、宗教上の修行のために、自己鍛錬の場として、ただひとり、山奥に入って行く修験者(しゅげんじゃ)たちがいたのだ。
 あの富士山の開祖と言われる役の小角(えんのおづね)をはじめ、新田次郎の名著『剣岳・点の記』に見られるような、強い思いに駆られた修験者たちによって、おそらくは日本の山々のほとんどは、そうした修験者たちによって登られたのだろう。
 一方では、そこまでの強い修験者としての思いはなくとも、自らの身を省みて漂泊の旅に出た人たちも多かったのだ。
 それが芸術的にまで昇華したものの例は幾つもある。たとえばすぐに思い出すのが、和歌の真髄をきわめようとした西行や、俳句の深淵の世界をのぞいた芭蕉である。
 
 そしてもう一人、何ともふがいない自分の人生を嘆き、放浪行乞(ほうろうぎょうこつ)の世界にわが身を追い込んで、山道を歩き人里をさまいながら、あの数多くの不定形現代俳句の名句を残した、種田山頭火(たねださんとうか、1882~1940)がいる。その彼の余りにも有名な一句。
 
「どうしようもないわたしが歩いている」

 まだまだこの年になっても修行の足りない私も、こうして山を歩いているのだが・・・。


 山から下りて、クルマでそのまま芽室まで走り、そこで風呂に入って、汗を流し冷えた足を温めた。
 ここは、今どき他にはない安い値段で風呂に入れてくれるし、混んでいることもない。
 日高山脈の山々に登った後には、ここの風呂に入るのが私の楽しみなっていて、いつもは時間が早く誰もいない一番風呂のようなものなのだが、この日は珍しく相客がいた。

 今年85歳になるというおじいさんだったが、歩く姿はしゃんとしていた。
 話を聞くと、東京の生まれで、太平洋戦争でB29による爆撃がひどくなり、十勝にいる親戚を頼って疎開してきてそのまま住み着いてしまったのことだった。
 人それぞれに、さまざまの人生があり、様々の運命があるものなのだ。
 しばらくいろいろと話をした後、私は、いつも山登りの後にこの風呂に入りに来るから、またいつか会えるでしょう、元気でいてくださいと声をかけて別れてきた。
 
 この時のおじいさんと話したことで、先ほどの山歩きで出会った人々に対する、私のすさんだ気持ちが、なだめられておさまっていくようだった。
 何事にも、悪いことがあれば、いいことがあるものなのだ。
 いつも穴埋めができるように、ちゃんと帳尻が合うようになっていて・・・。 
 
 連休には、どこにも出かけるつもりはない。人で混み合う街中になんぞ行きたくはない。
 それよりは、春のいろどりで混み合ってきた、家の周りの自然の中にいたほうがいい。
 近くの沢に行って、いつものギョウジャニンニク( アイヌネギ)をたくさん採ってきた。
 これからが、私にはうれしい山菜の季節なのだ。