ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ブラウンパッチとキツリフネと山登り

2013-07-29 17:22:45 | Weblog
 

 7月29日

 もう1週間近くも、霧雨、時々雨という状態の日が続いている。
 それはエゾ梅雨とも呼ばれるが、内地の、蒸し暑い梅雨という感じではない。というのは、靴下をはいて長そでシャツを着てという毎日で、気温は20度までも上がらない、肌寒い天気だからである。もっともそこが、暑がりの私には全くありがたいことなのだが。
 ただそうした快適な気温の日々だから、庭の草取り草刈の仕事もはかどりそうなものだが、そこはそれ天気が悪いうえに、例のごとくに外には、私のメタボ体に満ち溢れている脂ぎった血をいただこうと、蚊たちが待ち構えているので出て行く気にもなれず、家の中にいてぐうたらな毎日を送っているのだ。

 もっとも、家の庭の芝生の草取りはいつもより簡単であり、裸地に近い中で残っているカタバミやスイバ、オカヒジキなどを抜いて行けばいいだけだから簡単なのだが、それにしても夏の初めまでに見ていた、一面の青々とした芝生の頃が目に浮かぶ。
 二週間前に、この北海道の家に戻ってきた時には、家の周りにはいつものように雑草が生い茂っていたが、ただ庭の芝生の辺りだけには、何も生えていなくてすっきりと空いていたのだ。
 つまりそこには、あるはずの緑の芝生がなく、ただ裸地の中にちらほらと、カタバミなどの雑草が残っているだけだった。

 やられたのだ。芝生の病気、葉腐(はぐされ)病、”ブラウンパッチ”。
 数年前から、小さな島状にそこだけが枯れる、いわゆるブラウンパッチの初期状態にあるのはわかっていたのだが、農薬は使いたくないし、その部分だけはぎ取って他の所から芝生を移植したりして、なんとかそれ以上増えないようにしてはいたのだが。

 この全体がやられてしまうという悲惨な状態になった原因はと考えると、確かに思い当たるふしが幾つかある。
 まずは、すぐに薬をまいておくべきだったかもしれないが、それがいやで今までこまめに手入れをしていたわけであり、今回は夏の間に3週間も留守にしたことと、後で分かったのだがその間に何と30度を超す日が三日も続いていたこと、さらに決定的に悪かったのは、芝刈り機で刈った後の芝草を、時間がなくてそのまま芝生の上に片づけずに放置して出かけたことである。

 病気にかかるべくして、そうなってしまったのだ。まさしく私の監督不行き届きに尽きるのであって、反省しきりである。
 見た目には全くの灰褐色の裸地だから、すっきりしているとはいえるのだが、夏の緑の繁茂時期に、何ともまるで除草剤をまいたかのような不気味な状態は、見苦しいばかりなのだ。
 かといって、この天気と蚊がいる中で、今すぐに表皮をはぎ取って土を入れ替え芝生の種をまくなんていう大工事を、このぐうたらなタヌキおやじがやるはずもなく、秋になるまで放っておくしかないのだ。

 それにひきかえ、他の畑の野菜や草花たちは、雑草の中でも元気いっぱいに育っている。
 イチゴは、今までもう3パック分くらいは食べたし、ミニトマトも幾つか取れたし、ネギは摘み取ってラーメン、うどんに入れているし、ジャガイモの花は咲いているし、キャベツも少しずつ大きくなっている。

 生垣(いけがき)のハマナスの赤い花は、6月の半ばには咲き始めて、秋の初めまでは咲き続けてくれるだろう。
 あちこちに咲いている白いフランスギクの花は、もうほとんど終わりに近く、雨で倒れてしまったし、林の中のオオウバユリの花も、頭頂部の一二輪が残るだけになってしまった。

 ただキツリフネ(、’12.8.21の項参照)だけは、もうジャマなくらいにあちこちから立ち上がって花をつけている。しかし、それは毎年見あきることもない、嬉しい夏の花なのだ。(写真上)
 吊り下げられた唇形の花の姿には、独特のものがあり面白いし、色は確かにあの赤紫のツリフネソウの方が目立ってきれいではあるが、この黄色の花の上弁外側と下弁内部に赤い斑点という配色も悪くはない。
 恐らくは蜜を吸いに来る虫たちへの道しるべになるものだろうが、その形と色は、高山で見かけるオオバミゾホウズキやウコンウツギの花を思い出してしまう。

 ああ、そろそろまた山に行きたいものだ。
 しかし、今年の梅雨明けは変則的な形だし、実際のところ西日本以外はまだ梅雨が明けていない感じであり、その西日本でさえ今はまるで梅雨末期の豪雨状態にあるかのようだし、長雨が続く東北では大きな被害が出るほどであり、私の夏山計画も変更せざるを得なくなってしまった。

 そこで、ひまにまかせてテレビで録画していた番組の幾つかを見たのだが、それぞれに興味深い作品だった。その中から二本を。

 新日本風土記『屋久島』(NHK)。風土記の名前の通りに、大いなる自然である山への思いが、人々の日々の暮らしとのかかわりという形で描かれていて、さらに私にとっても2年前に行ってきたばかりの所だから(’11.6.17~25の項参照)、それぞれの話ごとに興味深い情景だった。

 ヤマザクラがあちこちに点々としていろどり鮮やかな春、今は石垣くらいしか残っていないあの小杉谷の集落跡を訪ねる人々。かつてそこに住んでいた人たちであり、カメラはその中の一人、70歳の男の人の後を追う。
 父親が働いていた営林署の、その官舎の長屋に暮らしていた子供の頃の思い出、やがて父は伐採作業の事故で亡くなり、代わりに母親が働いて、女手一つで自分を育ててくれたこと、「働き者で、教育熱心な母親でした」と語る彼の目に涙・・・。

 山麓の棚田で、毎年山からの水を引き入れて、田んぼに苗の植え付けをする50代の男の人。周りの農家の高齢化で、田んぼが荒れていくのを見かねて、自分が代わりになって近隣の田んぼも引き受けて苗を植えているのだ。
 その永田の集落の後ろには、いつも高くギザギザの稜線を引いて、屋久島第二の高峰、永田岳(1886m)が見えている。
 「飲み水があって、農業に使える水があって、生活に使える水があって、それは全部、永田岳が私たちに与えてくれている恵みです。毎年変わらずに水が田んぼに入り、田植えができるという営みを毎年繰り返していくことができるということは、すごいことだと思います。そこを私たちは感謝しなければいけない。」

 屋久島を訪れた宿泊者に、近海の恵みであるトビウオと山の恵みであるタケノコを出している民宿の主人は、一方では、永田岳への毎年の岳参(だけまい)りへと、地区の人々を率いて山頂を目指すのだ。
 彼は話す、「自分たちが受けている豊かな恵みは、この山からきている。そこには人間が作ったものは何一つなくて、全部、自然から、神様からいただいている。」

 そして、宮之浦地区の山奥には、牛床詣所(うしどこもいしょ)という小さな祠(ほこら)があって、有志の人たちが、”山の神の日”である旧暦の正月、五月、九月の十六日に、お参りをする習わしが続いているのだ。その日は絶対山に入ってはならない日として。
 そうして、山と人間社会との境界をしっかりと定めることによって、山を崇(あが)め、または自分たちの戒(いまし)めとしてきたのだ。

 日々めまぐるしく移り変わる都会の変化に惑わされることなく、自然とともに生きる人たちの変わらぬ日々の暮らしが、いつまでも続くことを願わずにはいられない・・・。

 前二回の記事として、木曽御嶽山(おんたけさん)での山岳信仰による修験道や宗教登山について少しふれてきたのだが、ここに見られる岳参りや祠参りなどは、そうした体系だったものではない、まさしく日本人の心の原型として存在している、素朴な自然信仰としての一つの形ではないのだろうか。
 自然とともに生きてきた、日本人の心の歴史を、そこに見る思いがするのだ。山にある神と伴に生きるということ・・・。

 もう一つは、同じNHKの”ドキュメント72時間”「富士山登山口にて」。
 今年文化遺産に指定されたすぐ後の、この6月30日からの三日間を、さっそく賑わう富士吉田口5合目の先にある6合目にカメラを置いて、インタヴューとともにいわゆる定点観測を行ったドキュメンタリーである。
 そしてこの富士山にも、去年登って来たばかりの私には(’12. 9.2~7の項参照)、なおさらのこと興味深く幾らかの余裕をもって見ることができたのだ。そこを行き交う人々たちの人生模様には、まさに”人生いろいろ”の喜びや悲哀がかいま見えて・・・。

 今度で22回目になるという人や、登りはじめて13年目になるという人たちもいれば、世界遺産に指定されたので初めて登るという人もいる。イタリア、ドイツ、アメリカから来たという外国人たちもいれば、子供を夫に預けて、毎年一人で登っているという主婦もいるし、かと思えば、高山病で頭が痛くなり下りてくる人たちもいる。

 坊主頭の若者が女の子3人に囲まれてやって来た。浅間大社(せんげんたいしゃ)の一合目から登ってきたと明るい顔で答えていた彼は、大学ワンダーフォーゲル部の新人自主練で、大きなザックにはバーベルの重しが入っていた。それでも楽しそうだった。

 脚を引きずりながら下りてくる若者が一人。
 途中で脚を痛めたが、頂上までは何があっても登ると心に決めていて、やっとの思いで頂上に着いて達成感を覚えたし、今まで、何事にも中途半端に生きてきたようで、だからこその意地を通しての達成感があったと。

 派手な色のかぶり物が目立つにぎやかな美容師グループは、仕事仲間の団結を高めるために登りにきて、彼らは頂上からお鉢一周もして、速足で下ってきたのだと答えていた。

 ネットでのつながりだけで、その仲間が今日集まって一緒に登っているという人たち。
 そのうちの二組は、下の一合目から登って来たのだとか。そんな父と息子の二人は、普段は離れて暮らしていて久しぶりに会って一緒に登っているとのことだった。
 その二人が下りてきた時に、再びインタヴューすると、父親は、離婚して元妻と暮らしている息子が、高山病にふらつきながらもあの頂上までは行くと言って登りきったのを見て、知らない間に男らしくなってと目をうるませていた。

 さらに39歳になるという男が一人で登って行く。若いころに登った思い出あるからと言って。
 そして下りてきて再び話を聞くと、彼は自分の心のうちを話し始めた。実は離婚して、二人の子供とも会えない状態で、仕事も転職して今は介護の仕事をしているが、ひとりでいるからあれこれ考えてしまう。だから山に登りに来たのだと。
 それで現実が何か変わるわけではないのだけれども、少しは心が軽くなったし、これからは誰にでも優しくしていくつもりだと言いながら、五合目へと下りて行った。 

 私たちと似たような、そして決して同じではないそれぞれの人生の一断面が、あの時の富士山登山という、時間の切り口だけで、半ば鮮やかな人生絵巻として繰り広げられていたのだ。
 こうして、富士山へは次の日もまた次の日も、同じような人々が、それは決して同じではない自分だけの人生を背負いながら、登って行くことだろう。

 もちろん、彼らの人生模様だけがすべてではない、彼らはその日に取材スタッフが出会ったごく一部の人たちにすぎないからだ。
 都会に、地方都市に、あるいは海山の小さな集落に住む人たちの中で、ほんの少しの数えられる位に過ぎない人々が、ある日富士山に登ろうと思い、実行に移したのだ。その数は積もり積もって、ひと夏に30万、今年は40万を超えるだろうということだが。
 しかしそれも、日本の人口からすれば、ごくわずかな人々にすぎない。多くの人は富士山に登ろうとも思わないか、あるは事情があって登れないかであって、彼らの方が日本の中での絶対多数であることに違いはないのだ。

 去年、富士山に登った時に乗せてもらった地元のタクシーの運転手さんでさえ、富士山に登ったことはないと言っていたから、日本の殆んどの人にとっては、富士山は見る山であり、そこに在るだけの山かもしれない。その姿の美しさを感じてはいても、または畏敬(いけい)の念を抱きながらも。
 しかし、それでいいのだ。それでも十分に、日本人の心にある文化遺産としての存在価値があるからだ。
 富士山に登るということは、そんな思いの上に、さらにもう一つ加わったひたむきな思いの何かがあったからだろう。

 自然はいい、山登りはいいなどと今さら言ってまわるつもりはない。人それぞれに、自分だけの楽しみがあるのだから。
 ただ私は、幸か不幸か、山登りという楽しみを覚えてしまっただけのことだ。
 そしてこれからも、息を切らし汗を流して、ただ頂きからの眺めを目指して登り続けることだろう。体が動けなくなるその日まで。


 「私たちが山に登るのは、つまり山が好きだから登るのである。登らないではいられないから登るのである。一般登山者の多数はまたそうであろうと思う。
 もちろん登山に伴う困難やまれに危険は、時として大なるものがあるに相違ないが、山に登らないでいる苦痛に比較すれば、はるかに小さいと称してはばからない。
 なぜ山に登るのか、好きだから登る。答えは簡単である。しかしこれで十分ではあるまいか。」

 大正8年5月15日  木暮理太郎

(『日本アルプスと秩父巡礼』田部重治著 木暮理太郎の序文から ”近代デジタルライブラリー”より)


 

山岳信仰の山 御嶽山(2)

2013-07-22 18:16:55 | Weblog
 

 7月22日

 昨日までは、いい天気が続いていた。
 
 それは、いつもの夏の太平洋高気圧の張り出しによるものではなく、北から張り出してきたオホーツク海高気圧のためであり、朝夕は低い雲があるものの、昼間は澄み切った青空が広がり、それほどまでには暑くならず(25度位)、さわやかな風が吹いていた。 
 そろそろ、あの大雪山のお花畑を見に行くべき時なのだろうが、他にも計画があるし、土日の込み合う時に行く気はしなかった。
 私は家にいて、たまに草取りをしただけで、ぐうたらに過ごしていた。澄んだ空気の、見事な青空だったのに・・・。
 そして、少し前に行って来たばかりの、木曽御嶽山(きそおんたけさん)の青空を思い浮かべていた。

 前回からのあらましの話と、その続きである。
 前の日に、黒沢口八合目の女人堂(にょにんどう)の山小屋に泊まって、翌日、朝早く出て、吹きつける霧の中、何も見えない御嶽山、剣ヶ峰(3067m)の山頂に立った。
 そしてそのまま、お鉢(はち)をぐるりと回り、時折青空が見え隠れする中、二の池、三の池と見ながら、継子(ままこ)岳に登り、再び二の池に戻り、その傍にある山小屋に泊まった。
 しかし、その日の午後もずっとそして夜も、さらに翌日の朝にかけても霧の中という状況は変わらず、私はあきらめて山を下りることにしたのだ。

 さて、相変わらずに吹きつけるガスの中、振り返ると、もう二の池さえも乳白色の中に見えなくなっていた。
 ゆるやかにトラヴァース気味に岩礫(がんれき)の山腹を回り込むと、昨日山頂へと向かった道との分岐点に出て、少し下ると覚明(かくみょう)堂、さらに石室(いしむろ)の小屋を経て、岩塊(がんかい)帯のジグザグの下りになる。そこから、下にかけての眺望が開けてきた。
 別に天気が良くなったというわけではない。霧に包まれた山頂部から下ってきて、雲のかかっていない下の方に下りてきただけのことだ。

 それにしても、青空を背景にした、ナナカマドの白い花々と、ハイマツの薄緑の新緑が何ときれいなことだろう。
 ゆるやかになった岩礫の道に出て、両側に咲いているイワツメクサやオンタデの花の写真を撮って、ゆっくりと下りて行った。
 下の方から、一人、二人と登ってきた。ロープウエイはまだ動いていないから、女人堂に泊まったのだろう、声をかけて少しの立ち話をしたりした。

 さらに下った、女人堂手前にある金剛童子の像付近から振り返ってみると、何と青空は大きく広がり、白い雲が山頂部分に少しかかっているだけだった。(写真上)
 それは石碑群を前にして、少し上にある白い鳥居も見えていて、いかにも信仰の山、御嶽山を思わせるような光景だった。それにしても、確かに晴れ間が広がってきていたし、下るだけの私にしては、悔しいような思いだった。

 そして、前の日に泊まった女人堂に戻ってきた。もうこの後はしだいに森林帯に入って行き、展望がきかなくなる。
 振り返って、その写真を撮ろうとした時、目に飛び込んできたのは、上空に流れる雲は少し残っているものの、剣ヶ峰をはじめとする山々からなる御嶽山の全貌(ぜんぼう)が、はっきりと姿を見せている光景だった。じぇ、じぇ、じぇー。
 山の上の雲は昨日の、灰色の雲ではない。まして、上空の雲はこれからの好天を告げるかのような巻雲(すじ雲)だった。

 すでに八合目にまでも降りてきていた私は迷っていた。二の池小屋を出て1時間半余りが過ぎていた。
 どうするか。頭の中で、唇を曲げ手を広げたあの林先生の顔が思い浮かんだ。
 「やるなら、今でしょ。」

 私は、その後の予定も含めて、決断した。登り返そう。
 そして、結局は二往復することになる山道をまた登って行った。

 途中で、下りてきていた小屋で一緒だった人たちに出会った。物好きな私をあきれたように、しかし笑顔で見送ってくれた。
 石室まで戻ると、もう晴れた空は確実なものになっていた。覚明堂から最後の頂上砂礫地の道を登って行くと、風が強くなった。
 トレイル・ランの若い男が一人、元気な早足で私を追い抜いて行った。私が女人堂に下る途中で出会った、老夫婦のお二人が立ち止まり休んでいた。
 この御嶽山は、老若男女、それぞれの山なのだ。

 強い風が吹きつける中、再び、剣ヶ峰の頂に立った。昨日は何も見えなかった周囲の景色が広がっていた。
 昨日たどったカルデラ火口(写真)と二の池が見え、黒沢口から王滝口の田ノ原方面の尾根筋も良く分かり、さらに裏に回ると、まだ噴気の煙が上がっている、地獄谷のすさまじい爆裂火口も見えていた。

 

 ただ残念なのは、乗鞍や中央アルプスの山々がわずかに頭をのぞかせていただけで、遠くの山々が十分には見えなかったことだ。

 さらに、カルデラ火口の稜線の道をもう一度とも思ったが、それほどゆっくりと時間があるわけでもない。その代りに、すぐ下にある二の池を再び見に行くことにした。昨日からずっと、ガスの中にあったあの池が、青空の下、鮮やかな色で見えていたからだ。
 近づくにつれて、私は何度も立ち止まり、カメラを構えた。そして小屋の前からはもとより、湖畔の道を先にたどりながら、そのたびごとにカメラでのぞいては、残雪に縁どられた二の池の色を記録すべく、何度もシャッターを押した。(写真下)

 青空、残雪の山肌、そして池の色・・・。
 それは、この池の色の代わりに、咲き乱れる花々があってもいいのだが、そうした光景こそが私の望む絵葉書写真なのだが、ここでは花ではなくて、すがすがしい水の色だった。
 それは、海よりは山がいいと言っていた私の、実は隠れ海ファンとしての憧れの海の色なのかもしれなかった・・・。
 まして、残雪が氷塊として押し出されて、水の中に残っている姿、その色の鮮やかさ・・・前回三の池の所でも書いたように、その神秘的な色の中に、永遠なるものを見ようとしたからなのか・・・。

 私は、30分余りを池の周りをめぐって過ごし、心ゆくまで楽しんだ後、今日二度目の二の池を後にして、朝通ったばかりの山腹のトラヴァース道を登って行った。
 継子岳(ままこだけ)の方にはまだ少し雲がかかっていて、ちらりと三の池が見えていた。未練がないわけではなかったが、私はおおむね満足して、石室からの道を下りて行った。
 その途中、ロープウエイで来た人たちと何人も出会ったが、その中には、白装束(しろしょうぞく)に身を固めた一人の若い男がいた。

 背負子(しょいこ)の荷物は、簡単なものだった。頂上社務所の関係者なのか、それとも後日の登拝登山に向かっての、先達(せんだつ)としての下調べなのかは分からなかったが、ただ彼は、ひたむきな目をして登り行く先を見ていた。
 ともかく、あの若さで伝統を受け継いでいく者がいるということに、何かすがすがしい思いがした。

 前回は、昔からの山岳信仰について若干書いてみたのだが、振り返って今まで読んできた様々な山の本や山岳信仰、修験道などに関する本を思い出し、今手元にあるものだけを読み直してみても、事はそう簡単には説明できない程に奥深いものがある。
 つまりその根底にある、歴史、宗教、社会、自然科学までも含めた巨大な広がりをもとにしての話であることが分かるからだ。

 古来の自然信仰から日本神道が形成され、さらに天上にある山を思う日本的な山岳信仰が生まれ、そして仏教や道教の影響を受けて、あの密教の形式に従い厳密化された修験道が作られたが、江戸時代になって仏教の他力本願(たりきほんがん)の世界観もあってか、ご神体である山に修験者や先達たちに導かれて、一般大衆が登拝のために講(こう)を作って登るようになり、一大隆盛の時を迎えたのだ。

 しかし、明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動による影響は、今までの神仏習合(しんぶつしゅうごう)によって成り立っていた山岳寺社そのものだけでなく、修験道者たちやお山参りの一般の人々にまで及んでいき、山岳信仰そのものまでが次第に衰退の時を歩んでいくようになるのだ。
 その実感は、今年3月に登った伯耆大山(ほうきだいせん)の門前町である、大山寺の街並みを見ても感じられるものだった。

 もちろん、その山岳信仰の歴史は今も細々とではあるが続いていて、いまだに各地の霊山では修験道の”お山がけ”が行われているし、白装束を着て仲間とともにお山に詣(もう)でる人たちもいるのだ。
 私が泊まった女人堂の山小屋には、登拝記念の日付、団体名が書かれたさらし布が何枚も奉納されていた。

 ただ考えてみたいのは、それらの現代の信仰登山者たちが、昔から続く”六根清浄(ろっこんしょうじょう)”の思いだけで登っているのかということである。
 いや今の時代だけではなく、江戸時代に栄えたお山詣でや講登山にしろ、それはいつしか”お伊勢参り”などのように、宗教的な巡礼行というだけではなく、半ば物見遊山(ものみゆさん)的な興味も含まれていたのではないのか。
 つまりそこには、今日の山を楽しむ、ハイキングやトレッキング的な思いもあったのではないだろうか。
 宗教的な思いからお山参りしたものの、下界とはあまりにも違う山上の景観に心打たれて、山に登ること自体が好きになっていったのではないのか。

 私が、中学生の時に初めて山に連れて行ってもらって、初めて見た自然界の広大な景色と、夏でも寒いほどの良い意味での環境の変化に驚かされて、その時以来の山好きになったように。

 日本の近代登山は、日本山岳会が設立された明治38年(1905年)前後に始まるとされ、あのウェストン、小島烏水(うすい)、田部(たなべ)重治、小暮(こぐれ)理太郎などによる、日本アルプスをはじめとする山々の開拓史時代から、大学山岳部などのアルパン・クライミングによる初登攀(はつとうはん)、ルート開拓の時代へと移り、それはやがてスイス・アルプスやヒマラヤなどの高度な登山技術による初登頂争いへと移っていくのだ。
 しかしそれは、信仰登山の時代からひそかに脈打っていた、物見遊山的な登山、あるいは昔のワンダラー(山野逍遥)的な登山や今日のトレッキングで山歩きを楽しむ登山と、これらのスポーツ的な登山、記録を求める先鋭的な登山との分岐点にもなったのだ。

 そして登山史としては、当然初登頂初登攀の記録を書いてゆくことになり、大衆登山の動向は、傾向としてわずかに書き加えられるだけになったのだ。
 それは例えば、今までに書かれてきた歴史書が、支配者側からの国家の興亡の事実だけが羅列してあり、実際は圧倒的大多数であった被支配者側にいた一般大衆の、戦乱による被害状況や平和な時の日々の暮らしぶりなどは、一顧(いっこ)だにされることなく、歴史の時代の中に埋もれていったのと同じように、登山史の記述でも、それと似たようなことになり、一般登山愛好家たちの真摯(しんし)に山を愛する思いなどは、十分には描かれてこなかったといえるだろう。

 そして、今や日本での登山の意味は、もう広範囲に広がっていて、8000m峰無酸素登山、8000m峰冬季登攀などの先鋭的なものから、ほとんど森林浴とでもいうべき簡単な山歩きまでを、すべてをひとくくりの登山と呼ぶのは、どう考えてもムリな気がするのだ。
 それでなくとも、山に行く目的として、健康運動のため、高山植物を見に、日常生活から離れ、友達との語らいのため、さらに写真、スケッチに名山ツアー、あるいは”百名山”などと人それぞれの思いがあり、多岐に分かれているのだから、またそれほどに山登りは何でも受け入れてくれて、多くのものを含んでいるともいえるのだが。

 私の山登りは、そのほとんどが単独行によるトレッキングや沢登り、冬山雪山歩きであり、それも最近は年のせいでもう無理な山行はしなくなったから、ハイキング程度の山歩きだけになりつつあるのだが、それでも付随するシロウトとしての楽しみは、樹木や草花、昆虫から動物、地形や地質、気象に至るまでもがあり、さらにそれらの幾つかを写真に収めて、後で家に戻ってじっくり眺める楽しみもあるのだ。

 その最初のきっかけはどうであれ、今も昔も変わらない宗教的な登拝登山であれ、訓練的な集団登山であれ、好奇心冒険心からの登山であれ、その大自然の頂点にある山だけが持っている、混じり気のない広潤闊達(こうじゅんかったつ)な環境こそが、それぞれに苦労して登ってきたからこその、対効果的な喜びを与えてくれるからであろう。
 つきるところは、今まで多くの登山家が言ってきたように、”山が好きだから、山に登る”それだけのことなのだろうが・・・。

 私は、白装束姿の若者を見て、そんなことを考えていた。
 そしてほどなく、今日二度目になる、八合目の女人堂に着いた。ナナカマドの白い花がまぶしく群がり咲く向こう側に、青空の下、御嶽山全山の姿が見えていた。
 三の池から継子岳にかけても、この青空の下で歩きたかったという思いはあったが、ともかく今日山頂に登りなおして青空の下のあの二の池の色を見られただけで、もう十分に満足だった。

 ロープウエイ乗り場までの、森林帯の下りでは、一昨日に登る時あれほどうるさかったコバエが、何とわずかばかりしかいなかったし、顔の周りを払うことなく、時々汗をぬぐうだけで歩いて行けたのだ。
 何だったのだろう、登る時に私に群がり集まってきたコバエたちは・・・。

 そして、ロープウエイに乗って下まで降りてきた。12時を過ぎている。さて、ここからが問題だ。
 バスはなく、タクシーを呼ぶと40分近くかかり、おまけに行きと同じように、大枚一枚を払わなければならない。
 ヒッチハイクをしようと決めていた。

 私は、そもそもは、若いころトラックの荷台に乗せてもらったのが始まりで(当時は荷台に人を乗せることができた)、この年になるまで、通りがかりのクルマに乗せてもらう、いわゆるヒッチハイクを度々やって来た。
 その中でも、忘れられないのは、十数年前のことだが、あの南アルプスの聖岳や光岳登山口になる便ヶ島(たよりがしま)から、殆んどクルマの通らない道を延々と遠山郷まで、1時間あまりもクルマに乗せてもらったことだ。
 それはたまたま調査に来ていた、当時の村役場のクルマだったのだが、何と幸運だったことだろう。

 さて、今ロープウエイ乗り場前の駐車場には、20台余りのクルマが停まっている。ただ、その車の中で、ちょうどこれから下りて行く車があるかどうかだ。
 駐車場の出入り口の所で待っていると、すぐに一台の車が来て停まってくれたが、残念ながら途中で他の所へ行くからと断られた。しかしそれにしても、山から下りてきたばかりのむさいかっこうをした私の前で、停まってくれただけでもありがたいことだ。
 そしてすぐに次のクルマが来て、停まって窓を開けて話を聞いてくれた。そして気軽に、いいですよとの返事。やったぜ、ヒャッホーの気分だった。

 私よりは少し年上らしいご夫婦が乗っていて、今日は開田高原からこのロープウエイへと回ってこれから、伊那谷にある家に戻るとのことだった。そのまま車に乗せてもらい、木曽福島に下り、そこで一緒にソバ屋で昼食を共にするまで、途切れることなくいろいろなお話をさせていただいた。

 地元の大きな会社を経営していたが、今は引退して、こうして二人で時々クルマで出かけたりしているとのことだった。
 さらに嬉しいことには、御主人といろいろ話が合ったことだ。
 山の見えるところでなければいやだというほどに山が好きで、今は腰を痛めて登れないが、地元の南アルプスはじめいろんな山に登って来たとのことで、私の隣の席には三脚とカメラがあり、デジカメ以前はペンタックスの645だったと私と二人で声をそろえて言うほどだったし、さらに大のネコ好きであり、ミャオを1年前に亡くしたこともありひときわその話で盛り上がり、たばこは30代半ばでやめて酒も飲ないと全く私と同じなのだ。

 違うのは、責任ある地位にいて、仕事をまっとうされたことであり、そこが無責任にぐうたらに、”ふーてんのクマ”として過ごしてきた私とはえらく違うところだった。
 そして、食事の後、お二人ともガンとして、ここでの昼食代を払いたいという私の思いを受け入れてはくれなかった。クルマに乗せてあげたことと、昼食をご一緒したことは別ですからと。
 その後、木曽福島の駅近くまで送ってもらい、私は、お二人の顔を見ながら、何度も頭を下げた。

 ヒッチハイクで金銭的に助かったのはもとよりのこと、この見も知らぬよそ者の私をクルマに乗せてもらい、その上に楽しいお話をさせていただいて、人の情けとやさしさが身に染みたひとときだった。

 私は、木曽福島から中央西線で塩尻に向かい、そこで今度は中央東線に乗り換えて、車窓に甲斐駒ケ岳の雄姿を見ながら、甲府に着き、何とその日は38度もの暑さになっていて(同じ勝沼では40度近くに)、涼しい山の上にいた私には、まして北海道の夏に体が慣れている私には、もう言葉にできないほどの暑さで、ともかくその甲府のビジネス・ホテルに泊まって(クーラーを一晩中つけっぱなしで)、翌日朝一番で東京に向かい、飛行機に乗って北海道に戻ってきたのだ。

 黄緑色から黄金色へと変わり始めた小麦畑に、小さな花が咲きそろったジャガイモ畑、そしてビートや豆類の緑の畑が織りなす、パッチ・ワーク模様を見ながら、家に戻ってきた。
 道や庭のあちこちには、雑草が茂り、白いフランス菊の花がいっぱいに咲き乱れていた。
 ドアを開けて家の中に入ると、ひんやりとした空気が漂っていた。部屋の温度は21度だった。

 腰を下ろすとわずか三日間のことが、走馬灯(そうまとう)のように頭をよぎっていった。
 御嶽山、女人堂からの石碑仏像の数々、剣ヶ峰の頂き、二の池、三の池の色、継子岳のコマクサ、小屋で出会った人々、車に乗せてもらったご夫婦などなど・・・。

 それは、私の残りの人生のある一時を、楽しくいろどった出来事として、私だけの思い出として残り、私とともに消えていくもの、それだけになおさらのこと、それらのひと時が何とうるわしく輝いて見えることか・・・。
 私はその時に、そこにいたのだ・・・。


(参考文献:前回ともに、『登山の誕生』小泉武栄 中公新書、『日本百名山』深田久弥 新潮文庫、山と高原地図『御嶽山』 昭文社、ネット上のウエブサイト他)


 

 

 

山岳信仰の山 御嶽山(1)

2013-07-16 21:49:48 | Weblog
 

 7月16日

 数日前に、北海道に戻ってきた。

 やはり、ここは涼しいのだ。
 朝の気温は13度くらいで、Tシャツ一枚では寒いほどだし、日中は25度前後で、道の周りに茂った草刈りをして、汗だらけになった体で家に戻れば、室内は21度くらいで冷房の効きすぎた部屋のようだし、たちどころに汗も引いてしまう。
 それが、暑がりの私には一番ありがたいことだ。

 内地の夏は、昼間の汗が夜になってもべったりと残っていて、とても風呂に入らないとやっていけないが、北海道では肌がさらっと乾いていて、一日二日風呂に入らなくても夜の涼しい気温の中、気持ちよく眠りにつくことができるのだ。
 私が人生半ばで、都会を離れて北海道に移り住んだのは、あの蒸し暑い熱帯夜の暑さにもうがまんできずにいたからでもある。こちらでの、冬の-20度の寒さには耐えられても。

 しかし、思えば、夏と冬を比べれば、夏が好きな人の方が圧倒的に多いだろうし、海と山を比べれば、これまた海の好きな人の方がほとんどだろう。
 近年、沖縄が好きになって移住してくる人が多いそうで、人口も増え続けているというが、逆に北の北海道に移住してくる人は少なく、人口も大きく減り続けているのだ。

 そうした実例をあげるまでもなく、何においても私がいつも少数派の方にいるのは、我ながらのひねくれた性格ゆえであり、群れたがらない性情ゆえかもしれないが、こうして年を取ってくると、そんな自分の意地っ張りや頑固さを今さら変えられるわけでもなく、ひとりで生きていくのだからと返って開き直って、日々ふてぶてしくなるばかりなのだ。
 そんな私なのに、海で泳ぐのは得意であり、何キロでも泳ぐことができるほどなのだが、もう何年も泳いでいないし、もし今、海に行ったとしても、こんなメタボな体でうまく泳げるかどうか、”昔取ったきねづか”だからと沖に出ても、脚がつって溺れる羽目になるのが目に見えているし、ここは今まで通りに、山に登っているのが賢明なところだろう。

 というわけで、今年の夏も、北海道に戻る際に立ち寄りをして、遠征の山旅に行ってきた。
 目的は、木曽の御嶽山(おんたけさん、3067m)である。

 私は今まで何度も、ここに書いてきたように、いわゆる”百名山”にこだわっているわけではなく、その中のいくつかの山にはこれからも登るつもりもないのだが、昔から民謡にもに歌われてきた木曽の御嶽山は、ずっと気になっていた山の一つであり、あの昭和54年の有史以来の噴火が起きてからはもうずいぶんたっていて、今ではすっかり落ち着いているだろうから、そろそろ登りたいと思っていたのだ。
 今年、歴史的宗教的な意味から世界文化遺産として認定された、あの富士山が人々で賑わうだろうことは間違いのないところであり、それならばなおさらのこと、もう一つの宗教登山で有名な御嶽山には、それほどの注目が集まることもないだろうから、行くなら今だと決めていたのだ。

 梅雨の晴れ間を待って登るつもりでいたのだが、雨が続いた後に急に梅雨が明けてしまい、週間予報でも晴れのマークがならんでいた。
 私はともかく九州から、名古屋小牧空港へと降り立ち(暑い!)、さらに名古屋駅からJRの電車に乗って木曽福島に向かった。
 同じ車両の中でイギリス風なアクセントで話していた数人の登山姿の若者たちは、恵那山(えなさん、2191m)の見える中津川で下りて行った。
 もし彼らが恵那山に登るのであるとすれば、相当に日本の山に詳しいのだろうし、いやむしろ宗教的な関心なのかとも思われるのだが・・・。

 この中央西線が走る木曽谷は、その中を流れる木曽川に向かって両側からの山の尾根が迫る狭い谷なのだが、意外と電車からも山々が良く見えるのだ。
 今日は、先ほどの中津川からの恵那山に続いて中央アルプスの盟主木曽駒ヶ岳(2956m)が見え、さらに反対側には、これから登る木曽御嶽山の残雪鮮やかな姿も見えていた。もう昼過ぎにもなるというのに、いい天気のまま雲がそれほど出ていなかったのだ。

 木曽福島から御嶽山への三つの登山口に向けては、シーズン期間だけのバスがあるのだが、まだ早すぎて運行されていないから、私はまわりに相乗り客がいないかを確かめて、仕方なく一人でタクシーに乗った。
 決して安くはないタクシー代であり、北アルプスの大糸線の駅のように登山者が多く、誰か同じ方向に行く人がいれば、相乗りで半額、三分の一、いや四分の一にさえなるのだが、やむを得ない。
 バスのある時期は人が多くなり山も小屋も混むからいやだし、それならお金が余計にかかっても人の少ない時にと、こうして大枚をはたいてまでもタクシーで行くのは、年寄りになりつつある私の、誰に迷惑をかけるわけでもないわがままなぜいたくなのだ。
 去年の富士山でもそうだったのだが。(’12.9.2~9.の項参照)

 ともかく最近の登山者の多くは、電車やバスの公共交通手段に頼るのではなく、マイカーで登山口まで行くというのが主流になっていて、この御嶽山の場合でも、登山口まで自分のクルマで行って、山頂往復して戻って来るだけの日帰り登山の山になっているのだ。

 しかし私は、こんな遠くまで自分のクルマで来るわけにもいかないし、タクシー代を払ってまでもと遠征登山を続けているのだが、それは残り少ない自分の人生を考えての、今だけのぜいたくでもあるのだ。
 周りに迷惑はかけぬように、葬式代だけは残しておいて、後は”びた一文”も残さず使い切って、お迎えを待つだけにしたいのだ。
 そうした自分だけのためにというケチな根性の私を、あの『クリスマス・キャロル』のスクルージのような強欲ジジイになりつつある私を、ああ、亡き母とミャオは何と思うだろうか。

 若いころには、夜行鈍行列車に乗って通路寝台を利用して、あるいは駅のコンクリート土間で寝たりと、お金がないなりの工夫をしてまでも山に行ったものだが、老い先短い今の私には、あーゴホゴホ、せめてもの今の自分の楽しみにだけ金を使いたいのだ。
 なんとごうつくばりなジジイになったことか、あー恐ろしや。

 運転手さんにいろいろと話を聞きながら、40分足らずで黒沢口のロープウエイ・ゴンドラ乗り場に着いた。鮮やかな色の花壇の向こうに、御嶽山を形づくる山々の頂が並んで見えている。
 こんな晴れた日の空の下、明日明後日と三日にわたってゆったりと楽しむ御嶽山周遊の山歩きを思うと、思わず含み笑いがこぼれてくるほどだった。

 「おぬしも悪よのう、鬼瓦(おにがわら)屋。ひとり金にまかせてとは。」
 「いえいえ、それも”魚心あれば水心”の例えのとおりで。それもこれまでずっと”爪に燈(ひ)をともす”暮らしを続けてきたからこそのこと、今はこうして時間も小金もある人並みの年寄りになれて、そんな私へのお恵みかと、ありがたいことでございます。」

 そして、一人で乗り込んだゴンドラからは、北にこれまた残雪紋様の乗鞍岳(3026m)と、さらにその後ろには吊り尾根を挟んで前穂(3090m)と奥穂(3190m)の姿まで見えていた。その左手に見えるはずの槍ヶ岳は残念ながら雲に隠れていたが。

 ロープウエイ終点(2150m)からは、木材チップを敷き詰めた遊歩道が木々の中をゆるやかに続いていて、その先の七合目の小屋からやっとはっきりとした登りの山道になってきた。
 そこは手入れされた丸太階段の道で、歩きやすいのはいいのだが、問題は異常発生したかとも思えるコバエの多さだ。汗をかいた体中に、顔に首にうるさく飛んでくるコバエの群れ・・・。
 時々下りてくる人たちにも出会うが、彼らもやはり顔の前を手や小さなうちわで払ったりしていた。
 そのコバエたちは、登山道の石や丸太にとまって体を温めていて、人が近づくと飛び立って、人間の汗をなめるために群がり集まってくるという具合だ。

 やがて道はシラビソなどの高い針葉樹林帯から、ミヤマハンノキやナナカマドなどの低い木々の間を登って行くようになり、辺りが開けて、八合目の小屋、女人堂(にょにんどう、2480m)に着く。
 その昔、頂上へは女人禁制になっていて、ここで足止めにされていたためにその名がついたとのことであり、そのためにか金剛堂と呼ばれる小さな社(やしろ)と鳥居があり、周りには寄進された多くの石碑、霊神碑が立ち並んでいた。(写真上)
 石碑の中には、もう掘られた文字が読めないほどに月日がたったものから、平成20年などと新しく刻んであるものまでもあり、今に続く信仰登山の伝統を知らされる思いだった。

 ここまでまだ1時間15分ほどしか歩いていなくて、今も頂上が見えているほどに天気はいいし、さらに1時間ほどで上の九合目の小屋まで行けるのだが、もう4時前でありこの小屋に泊めてもらうことにした。
 他に宿泊者はなく、無理を言って風呂にも入れてもらい、広い部屋に一人だけで、あの大山寺の民宿に泊まった時のように(3月12日の項)、静かな旅館にでも泊まっているかのようだった。
 窓から見える中央アルプスの山々の上には、湧き上がった雲が並んでいて茜(あかね)色に染まっていた。

 翌日は、4時過ぎに起きた。小屋を出て少し行ったところから、雲間からの御来光が見えたのだが、気がかりなのは山々の上に流れている、いくつかの雲のうねりである。
 ミヤマハンノキなどの灌木(かんぼく)帯を抜けると、森林限界の岩塊帯になり、雲がかかり始めた頂上を見ながらジグザグに登ると九合目の石室小屋から、さらに少し上にある覚明堂(かくみょうどう、この黒沢口の登拝道を開いたとされる行者が入滅したとされる地にある社)にと着いたのだが、もう辺りは吹きつける風と、白いガスの中に包まれていた。

 腰を下ろして一休みしながら、予報はずっと晴れだったのにと、この山の上での天気(下界は晴れ)の不運さを嘆いた。昨日はロープウエイからの山々を見て、含み笑いさえして喜んでいたのに。
 神様は、皆が汗して働いている平日に、ぜいたくな山登りをしている私にだけ、そう簡単には最高の山の姿を見せてくれはしないのだ。
 さらにその吹きつけるガスの中、何もない火山礫の尾根道をたどっていくと、一人二人と下りてくる人にも出会った。

 頂上小屋から鳥居をくぐり立派な長い石の階段を上ると、その山頂部は御嶽神社奥社になっていて社務所があり、大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)が祭られているが、主神は修験道ゆかりの蔵王(座王)権現ということであり、他にもいくつかの仏像銅像などもあった。礼拝を終えて、頂上の端にある三角点のそばで腰を下ろした。
 吹きつける強い風と、白いガス、時折少し明るくなって青空の気配もあるのだが、15分ほど待っても変わるとは思えなかった。今日は山上の小屋に泊まるのだし、頂上へはまた明日登ればいいのだと、ともかく今はあきらめて予定のコースをたどることにした。

 頂上から西に最高点の岩の上にあがり、そして急な岩場を下り、カルデラ火口を半周する稜線の道をたどることにした。
 しかし、その途中も西側から吹き付ける風は強く、体がよろけるほどだった。その上、楽しみにしていた展望もなかったが、ただその所々には、何々童子(どうじ)と刻まれた石碑が道しるべのように安置されていて、道に迷うことはなかった。

 そして嬉しいことには、山の展望のなさを補うかのように、多くの高山植物の花々が風をよけるようにあちこちに咲いていて、写真を撮りながら楽しんで歩いて行くことができた。アオノツガザクラ、イワウメ、コメバツガザクラ、ミネズオウ、イワカガミ、イワツメクサなどである。
 下りきると少しガスが薄くなり、下の方にかすんで二の池が現れてきた。西側にたっぷりの残雪をつけたその姿は、霧の中で幻想的に見えた。
 さらに二の池から北へと、賽(さい)の河原の鞍部(あんぶ)へと降り立つ。霧の中に石積みの塚が並ぶ様は、まるでこの世と彼岸とをつなぐ場所のようでもあった。

 この山岳宗教で有名な御嶽山は、山体そのものがご神体とされていて、その教派神道の御嶽教(おんたけきょう)の由来については、まず飛鳥時代終わりの702年に、あの”役の小角(えんのおづね)”によって開山されたといわれていて、以来、鎌倉時代には修験道の山として発展し、さらに江戸時代にかけて、日本の名だたる霊山として、富士山、白山、立山とともにこの御嶽山も、広く一般の人々に信仰される山になって、お山参り、御嶽講(おんたけこう)として賑わったのである。
 さらに、昭和21年には新たな宗教法人、”木曽御嶽教”として、山の本部はこの木曽福島に、そして奈良に教団本部が設けられて現在に至っているとのことである。

 その御嶽教の説くところによれば、”死後我が神霊はお山に帰る”ということであり、黒沢口とともに今も賑わう、王滝口からの登拝道を開いた普寛(ふかん)行者の辞世の句とされている、「なきがらはいくつの里に埋むとも心御嶽の有明の」という思いにも通じるところがあり、今までたどってきた登山道のあちこちで見てきた、いくつもの石碑や仏像、さらにこの賽の河原の石塚の数々も、そのためのものだろう。

 日本人は、なぜにその昔からかくもこぞって山々に登り、先祖の御霊を思い、あるいは自らの死後の霊の落ち着く場所を用意しようとしてきたのか。
 それは古来あった自然信仰的な祈りが、日本神道の形で併合され、一般庶民の間に広まっていったものだろうが、後から入ってきた他の宗教、仏教や儒教との関係なども含めて、いわゆる神仏習合(しんぶつしゅうごう)として形成されていったためでもあり、特に考えるべきなのは、なぜ日本で、世界に例を見ない山岳信仰がかくも広まったのかという点である。  
 それは日本の成り立ちや、日本人はどこから来たのかという問題とも合わせて、実に興味深いことでもあり、なぜ私がこうも山にひかれているのかを、解き明かしてくれる一助となるのかもしれないのだ。

 かつて、あの有名な宗教学者、山折哲雄氏(最近、皇室問題発言で騒がれている)の書いた山岳信仰に関する本を読んだ憶えがあるのだが、今手元になくて、代わりにネットで調べた『世界遺産シンポジュウム』での基調講演での話からの要点をあげると以下のようになる。

 「この世から過ぎ行くものが山に登って神となるのであって、それが神仏習合の原点ともなっている。」
 「日本人にとって、高山そのものが神であり祖霊が宿る聖地だったのであり、そんな山への畏敬(いけい)の念がその後の日本人の信仰、美意識、世界観、人間観に大きな影響を与えてきた。これが山岳信仰の原点の一つである。」

 思えば、私が子供時代を過ごした故郷の町には、離れた小山の上にお社があって、正月にそこへお参りするのがその町の人々の習わしになっていた。
 そうした子供のころからの山岳信仰への刷り込み習慣が、私の山に対する畏敬の念の根底にあるのかもしれないが、しかし、信仰というよりは、単なる憧憬(どうけい)として、いつも渇仰(かつごう)し続けている私の山への思いは、いったいどこから来たものなのだろうか・・・。
 その個人的な美意識は、日本人としての山への畏敬の念から来たものだけだとは言えないと思うからだ。

 世界中の人々は誰でも、高い山を見てきれいだと思い、またはすごいと畏怖(いふ)の念を覚えるのだろうが、中にはその山により一層強くひかれて、もっと近くで見たい、あの頂に立ちたいと思うようになる人たちもいるのだ。
 つまり、日本人としてではなく人間として、世界中の人々の中で、ある特定の人々だけが、特に強く山岳景観にひかれているということなのだろうが、彼らに共通するものは何か・・・。

 ・・・と、目の前の霧が晴れてきて青空が広がり、西側に派生する残雪模様の尾根が見え、摩利支天(まりしてん、2959m)の頂が見えた。
 それは、ああ神様、仏様と手を合わせたい一瞬だった。しかし次の瞬間、再び西側から吹き付ける霧に覆われてしまった。

 私はまた、その乳白色の霧の中を歩いて行った。摩利支天への分岐までゆるやかに登り、そこから五の池に向かって下っていくと、再び霧が取れて、眼下に、鮮やかな残雪をつけた三の池が見えた。
 御嶽山頂部の五つの池の中で、最大の広さと深さを持つ池であり、その水は御神水と呼ばれている。
 小さな噴火口のカルデラ壁に囲まれて、青い湖面がキラキラと輝き、何といっても湖岸の残雪が池の中にまで残っていて、エメラルドグリーンに見えるその美しさは、もうこの世のものとも思えなかった。(写真)

 

 そこは、自分の御霊が清らかになって帰って行くべきところ、と昔の人が考えたのもわかる気がした。

 そうして、晴れたりガスがかかったりする中を、五の池小屋、飛騨側頂上社と過ぎ、継子岳(ままこだけ、2859m)に登り、さらに咲き始めたばかりのコマクサを眺めながら、継子二峰へとたどり、そこからは岩稜を下って、まるで桃源郷のような花が咲き小川が流れる四の池のカルデラ内に下り、ずっと誰にも会わないひとりきりの、静かな山を楽しむことができた。

 そこから三の池カルデラに登り始めるころから、再びすっかりガスの中になってしまった。道の真ん中にいたライチョウの親子が、突然現れた私を見て、低い鳴き声をあげて逃げまどっていた。
 そして三の池からの賽の河原への登り返しの道は、たびたび立ち止まるほどの急坂だった。
 賽の河原では、崩れた石塚の一つを積みなおして、母とミャオを思い手を合わせた。
 最後のゆるやかな登りで、二の池小屋に着いたのは、昼の1時を過ぎていた。今日の行程は9時間近くになり、それほど急な登りが続いたわけでもなかったのだが、もう私の限界だった。

 小屋には、地元の中学生たちが泊まっていて幾らかは賑やかだったが、感心したのは、先生の指導がいいのか、統率がとれていて、都会の子供たちほどの大騒ぎはしていなかったし、聞くと落伍者や体調を崩している子もいないということだった。(学校にはスクールバスがなくて、すべて徒歩か自転車通学とのことだった。)

 部屋は私と同年輩のご夫婦と、もう一人の男の四人だけで、広々と布団を広げて寝ることができたし、その前にみんなで山の話で盛り上がった。それこそが、町中にいては、おそらく会うことも話すこともない人たちとの、一夜の宿で話し合うことの面白さなのだろうが。
 そして何よりも、風呂に入れたこと、環境保全のために石鹸などは使えないのはもちろんのことだが、汗まみれの体をお湯で洗い流せただけでも、そしてお湯につかれただけでもどれほどありがたいことか。
 ただ残念だったのは、今日の天気であり、さらに明日の天気も期待できそうにはなかった。事前の週間天気予報はあれほどよかったのに・・・。

 眠れない夜の窓の外では、一晩中風が吹き荒れていた。

 翌日、御来光を期待してみんなが4時過ぎには起きたのに、外は変わらず一面の乳白色の中で、後になってわずかに霧が吹き払われて湖面が見え、昨日はなかった小さな流氷が二つ水面(みなも)に浮いていた。(写真下)
 私は昨夜、布団の中で考えていた。おそらくこの天気が回復することはないだろう。早目に下って、下でゆっくりすることにしよう。何も見えなかった山頂では、私としては登ったうちには入れないことにしているし、もう一度、出直して来いということだろうから、また秋の紅葉の時期にでも登りなおすことにしようと。

 私は珍しく小屋で朝食を食べて(いつもは、前日の小屋のように日の出前に出てしまうのだが)、6時過ぎにザックを背に二の池を後にして、頂上へ行かずに九合目の覚明堂に向かって、霧の中の道をゆるやかに登って行った。

 (以下、次回に続く。)

 

ウメジャムとピアノ・トリオと戒めと

2013-07-07 20:35:45 | Weblog
 

 7月7日

 一昨日あたりから、どうも天気の様子が変わり始めたようだ。
 風が強くなり、急に蒸し暑くなってきた。帰ってきたばかりのころは比較的快適に過ごせたのに、それが風呂上りにうちわを使うようになり、ついには扇風機の風に当たるようになってきた。
 しかし、まだクーラーをつけるほどではないと思っていたのに、昨夜はついにがまんできないほどの蒸し暑さになり、クーラーのスイッチを入れてしまった。

 相変わらず、毎日何かしらの小雨はあったのだが、このところの空模様は変わりやすく、久しぶりに日が差してきたかと思うと、急に黒雲が広がり、雷も聞こえて激しい雨が降るが、それも夕立風にざっと降り過ぎるといったぐあいだ。
 近くでは、大雨の被害も出ているようだ。
 まさしく梅雨末期の天気模様であり、やがて梅雨が明けるのだろう。

 しかし、こうも続く梅雨空の天気もいやだが、梅雨が明けて、暑い夏が来るのもいやだ。
 ともかく、私はどこかに、北国の家畜、獣たちの体質を受け継いでいるのだろうか。あの夏の日の、牛や馬、キツネやヒグマたちと同じように、熱い日差しの日には一歩たりとも外には出たくないのだ、山登りでは仕方ないとしても。

 私に似合うのは、氷点下20度の黎明(れいめい)の朝のころ、白み始めた空に赤い線が走り、暗い空に星々が最後の光を輝かせるころ、立ち並ぶ日高山脈の山々が、白々とその姿を現しはじめて・・・ひとり凍(い)てつく雪原を歩いてきた私は立ち止まり、ひと声吠えるのだ。ワオーン。
 暑くなると思い出すそんな光景は、今はなんと遠くにあることだろうか。

 相も変わらず雨の日が続く合間を縫って、梅の木になっている実を採り集めた。やっと大きなザルに一杯分だけ。
 去年は、黄色く熟れてちょうどいいころあいのものだけを選んだから少なかったのだが、当然のこと出来上がったジャムの量も少なかった。
 今回も木になった実は少なかったのだが、去年と同じようにえり好みしていると、またジャムが少しだけになってしまう。そこで見ばえはともかく(自分で食べるだけだから)、まだ青みが残るものや傷ひびが入ったものまで全部を集めて、ジャムにすることにしたのだ。
 ただ言えることは、そこいらの店で売っているものよりは明らかに大きく、上の写真あるとおりに。比較のために入れたゴルフ・ボールと比べても大きいくらいなのだ。(ちなみにこのゴルフ・ボールは、散歩していた時に拾ったものであり、私はクラブを握ったこともないし、やるつもりもない。)

 ともかく、ガスコンロの火で暑い台所で、汗だくになりながら、梅の実を煮詰めて、煮沸(しゃふつ)消毒したビン詰にして、後片付けを終えるまで3時間余り、それはぐうたらオヤジの年に一度の大奮闘だった。
 2年前までは、それまで長い間年中行事として続けてきた、北海道でのコケモモ、ガンコウラン、コクワ、ヤマブドウなどのジャムづくりを、ぴたりとやめたから余計のことで、なぜかと言えば単純にぐうたらになり面倒になってきたからだけのことなのだが、ただこのウメジャムだけは、実が大きいから作りがいがあり、なおかつその使用効能がはっきり現れるものだから、こちらに戻ってきてまでも作っているというわけなのだ。ああ、しんど。

 昨年度の分(’12.7.15の項参照)を見て気がついたのだが、去年も不作の裏年だったのだ。
 あーあ、年を取るとどうしても、自分の都合のいいように思い出してしまうのだ。もっとも逆に言えば、そうした半健忘症なところがあるから、私みたいな脳天気なオヤジは気楽に生きていけるのかもしれない。

 そこで、そんなヨイヨイ頭をさらに優しく包むようにと、録画したままになっていたクラッシック音楽番組の三本を見た。

 『ベルリン・フィル ヨーロッパ・コンサート2013 プラハ』NHK・BS
 アバドの後のベルリン・フィルの常任指揮者に、あのサイモン・ラトルがついてから、もう十年以上にもなるのだ。
 フルトヴェングラー、カラヤンと続いた絶対帝王の時代から、クラッシック音楽界に君臨してきたあのベルリン・フィルも、ラトルの時代と呼ばれる今では、その両者の和気あいあいたる関係が示すように、私の勝手な思い込みかもしれないが、よりわかりやすい響きに変わってきたようにも思える。

 私が聞いたことがあるのはカラヤン時代だけだが、それは正確な技術に裏付けられた旋律部分とそれを支える分厚い低音部の響きから成り立っていて・・・私が当時、聴いていたオーディオのスピーカーは、かつてドイツのスピーカーとして一世を風靡(ふうび)したブラウンのものだったし、どこかまたドイツの響きを思わせるものだったと、少なくとも私はそう思い込んでいた。
 そのスピーカーで聞いていたのは、ヨーロッパ輸入盤のクラッシックとジャズのレコードだった。

 あれから何年がたつことだろう。もちろん今は、そのブラウンのスピーカーは手元にないし、あったところで、デジタル録音時代には合わない古臭い響きだと感じるのかもしれない。
 (今家にあるスペンドールBCⅡは、もう30年近くも使い続けているものであり、それは、若いころの恋の遍歴を終えて、結婚して落ち着いた夫婦のような関係なのかもしれない。)

 話がそれてしまった。ラトルのベルリン・フィルのコンサートに話を戻すと、何とプログラムの最初に演奏されたのは、私の好きなイギリスの作曲家ヴォーン=ウィリアムズ(1872~1958)の「タリスの主題による幻想曲」だった。
 イギリス人のラトルにとっては、自国の十八番(おはこ)ものだろうし、なかなか情感豊かにスケール大きく演奏していた。 
 ただしどうしても、それと比べることになるが、先日にも書いたことのある、あのマリナー指揮の小編成の弦楽オーケストラによるものの方が、私にはより曲調にふさわしく思えた。(4月7日の項参照)

 そして、次の曲は公演地のプラハ、チェコにふさわしい、ドヴォルザークの「聖書物語」であり、独唱者もこれまたチェコ出身のマグダレーナ・コジェナーだった。昔の彼女のCDの声から比べると、曲にもよるのだろうが、すっかり落ち着いた響きになっていた。相変わらずのお美しいお姿ではありましたけれど。
 最後に、ベートーヴェンの「田園」が演奏され、プラハ城内のホールという場所も含めて、実にわかりやすヨーロッパ・コンサート・ツアーの演目で構成されていた。
 まさしく、ラトルの時代なのだ。

 次に見たのは、2年前の3月に来日公演された、ドミニク・ヴィスとカフェ・ツイマーマン(バッハの時代からコンサートが行われていたライプツィヒのカフェの名前にちなんで名づけられた器楽アンサンブル)による「フランス・バロック時代のカンタータ選」である。
 NHK・BSで以前にも放送されたらしいのだが、今回はその再々放送をやっと今頃になって見たのであり、話題がどうしてもずれてしまう私ならではの感想である。

 ドミニク・ヴィスは、あらためて言うまでもない現代の名カウンター・テナー(ファルセット裏声で女声パートを歌う男性歌手)の一人であり、私も彼が主催するクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのCDを何枚か持っている。
 それはルネッサンス音楽が殆どであり、こうしたグランヴァル(1676~1753)などのフランス・バロック後期のコミカルなカンタータ曲を聞いたのは初めてである。

 ともかく、面白かった。コミカルなひとりオペラと銘打たれたとおりに、彼が音色を変えて様々な役を歌い演じ分けるさまは、笑い楽しむというよりは、むしろ感心することの方が多かった。
 昔大人気だったナンセンス・ギャグ漫画『花の応援団』の中のセリフではないけど、思わず「役者じゃのー」と言いたくなるほどだ。
 後ろで演奏していた5人の古楽器奏者からなる、カフェ・ツイマーマンの響きも見事だった。
 惜しむらくは、その日のプログラムの始めにあった彼らの演奏による、あのマラン・マレーの「パリ、サント・ジュヌヴィエーヴ・デュ・モンの鐘の音」を聞いてみたかった。(私には、あのクィケンのヴァイオリンによるものが最高なのだが。)

 そして、最後に見たのは、日本は大分での今年の”アルゲリッチ音楽祭”で演奏された、チャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出のために」である。
 もし、ピアノ・トリオ(ピアノ、ヴァイオリン、チェロによる三重奏曲)の名曲三つをあげろと言われれば、即座に名前をあげたい一曲であり、他の二つはベートーヴェンの「大公」ともう一つは、ブラームスにするかドヴォルザークの「ドゥムキー」するかというところだろう。
 人気のある曲だけに、録音されたものは数多くあり、古くはオイストラフ・トリオにリヒテルやギレリス、ルービンステインなどの名ピアニストによるものから、バレンボイムやアシュケナージ、そしてこのアルゲリッチやキーシンによるものなど枚挙にいとまがない。

 もともとチャイコフスキーの尊敬する名ピアニストであり名教師でもあった、ニコライ・ルービンステインの死を悼(いた)んで書かれたものだから、ピアノの比重が大きくなるのは当然なのだが、どうしても名人ぞろいになると、曲想からは離れて、むしろ演奏者三人の丁々発止(ちょうちょうはっし)の演奏が見せ場となってしまうことが多い。
 アルゲリッチがクレメール、マイスキーといったそうそうたる名手たちと組んだ、おそらくは今日望みうる最高の組み合わせだろうCDを聴くと、確かに迫力、スリルは相当なものだが、追悼(ついとう)曲のイメージからは少し離れてしまっているような感じもする。

 アルゲリッチの今回の日本での演奏はどうだったのか。確かに相手によるのだ。
 当代きっての名ピアニストの座を保ち続けている、彼女の技術は、まだまだ確かなものであるし、当然今回のトリオの中でも、彼女がリードしていたのは確かだが、そこには、クレメールたちとの時とは違った、明らかに包み込む優しさがあった。
 中国人の女性チェリスト超静の流れるような音色も悪くはなかったが、問題はヴァイオリンの清水高師である。技術的にはともかく、録音マイクのセッティングが悪いのか、それ以前の問題なのか音が弱すぎるのだ。時々ヴァイオリンの旋律線が聞き取れなくなるのだ。

 しかし、私は最後まで聞いてしまった。一つには、アルゲリッチのピアノを聞きたかったことに加え、何にもまして、この名曲を最後まで通して聞きたかったからである。
 私の手元には、スーク・トリオによるもの(写真下)とボロディン・トリオによるものの2枚のCDがある。いずれもしみじみとした、追悼の思いに満ち溢れているのだが、惜しむらくは今一つピアノが弱い。あちらを立てればこちらが立たず、難しいものだ。

 さらに昨日、見ているうちに引き込まれたテレビ番組があった。NHKスペシャル「足元の小宇宙」。
 82歳になる植物写真家、埴(はに)さんの撮影風景を撮ったドキュメンタリーである。
 地面に座り込み、あるいは這いつくばって、小さな草花やキノコなどを撮り続けているのだが、そのいずれもがまさに生きている草花、キノコたちの感動的なまでの生の瞬間であり、命のドラマだったのだ。
 まして前々回(6月24日の項)にも書いたように、あの『植物はそこまで知っている』を読んだ後だっただけに、その思いもひとしおのものがあった。

 小さな植物たちを見て、そこに自分の生と重ね合わせるかのような、ひたむきな生きる力・・・。
 幾つになっても生の喜びを感じて、学び取ることは多いのだ。


 始めに日付を書いていて、気がついたのだが、今日は七夕なのだ。私には、会いたい人がいる。
 しばらく前までは、いつも七夕が近づくと、それまで思いを抱いていた相手に、もしかしてと淡い期待を抱いていたのだが、現実はそれほど簡単に、自分だけの勝手なあこがれをかなえてくれるほど甘くはなかった。

 小学校1年生の時に抱いた、初めての異性に対するほのかな思い・・・それは、担任の若い女先生だったのだが、今にして思えば、町で働いていた母と別れて、田舎に預けられていた幼い私の、母恋いしさの投影された思いだったのかもしれない。
 以後それは私の、”ヰタ・セクスアリス”(森鴎外の作品)と呼ぶべきものかもしれないが、小学校5年生の時に、近所の下級生の女の子の家に遊びに行き、その部屋の大きな花瓶にいけられていたユリの香りが、あの子の笑顔と共に、子供の私の心を大きく揺さぶったのだ。
 あのユリの花の強く甘い匂いこそが、青年時代へと向かうべく用意されていた恋の芽生え、ときめく心の始まりだったのかもしれない。

 それから私は、今の情けなく老いぼれたジジイになるまで、何と多くの恋をしてきたたことだろう。
 高校生のころのひたむきな片思いから、青年時代になってかなえられた幾つかの恋、しかしそこに落ち着くことなく、いつもぎらついた眼をして、新たな恋を探し求めていたのだ。通り過ぎてきた娘たちの涙も知らずに。
 中年の声を聞きはじめたころ、そうした日々に訣別(けつべつ)をつけるべく北海道へと向かった。幾らかの懺悔(ざんげ)と戒(いまし)めの思いも込めて。

 そのまま歳月は過ぎゆき、さらに幾つかの恋をして、同じことを繰り返し、何ら悟ることなく、何の役にもたたぬ年寄りになりつつあるのだ。因果応報(いんがおうほう)そのままに、わが身に感じながら。
 そして今、そう遠くない将来にはお迎えが来るのだと感じた時、その先にちらついたのは、今は亡き母とミャオの顔であった。

 魂は不滅であり、亡くなった人たちは彼岸(ひがん)の世界にいるのだから、もし私が死んだら向こうで待っているみんなと会えるはずだ。だから死ぬのは怖くないと思い込むこと。
 しかし冷静になって、現代科学の目で見れば、霊魂の存在からしてありえないものだし、そうした昔からの言い伝えのような世界などあるはずもないのに、いまだに人々がそう信じているのはなぜか・・・。

 簡単なことだ。誰でも、究極の無でしかない死の世界にひとり向かうのは不安だから、その恐怖に打ち克つために、不安や恐れもなく安心して死んでいくために、分かりやすく見事に考え出された仮想空間を、あるかもしれないものとして思い込んでいるだけなのだ。
 若い時には、あのダンテの『新曲』に描かれた世界や、日本の古い曼荼羅(まんだら)に描かれている世界などあるはずもないと思い、それなのに死後の世界があり、天国と地獄があるなどというのは、昔の人の作り話であり、年寄りの妄想だと馬鹿にしていたのだが、いざ自分がその年齢に近づいてくると、不思議にそれらの世界が、それほどの違和感もなく、あるかもしれない死後の世界に見えてくるのだ。
 私があの世に行けば、母さんとミャオにも会えるし、また3人での毎日が始まるのだと。

 とはいっても、私はまだまだ、この世に未練はあるし、やり終えなければならないことがたくさんある。ただし、死はいつやってくるかもわからない。
(最近相次いで高速自動車道で起きたバス運転手の突然死は、とても他人事とは思えないのだ。)
 そのためにも、こうした死後の世界の担保があると思うことで、幾らかでも気がまぎれることは確かだ。
 宗教的な意味ではなく、何事にも”信じる者は救われる”ということはあるのだろう。

 上にあげた、あの高齢の植物写真家の例をあげるまでもないことだが、人それぞれに、自分の思う世界があり。他人に迷惑をかけるわけでもなく、それで幸せな思いになるのなら、それでいいじゃないかと・・・ものは考え方次第なのだと。


「老いた日に至るまで戒(いまし)めを保つことは楽しい。

 信仰が確立していることは楽しい。

 明らかな知恵を体得することは楽しい。

 もろもろの悪事をなさないことは楽しい。」

(『ブッダの真理の言葉』より 中村元訳 岩波文庫)


 

タニウツギと山の思い出

2013-07-01 20:53:18 | Weblog
 

 7月1日 
 
 雨が降っている。さらに、雨の日が続いている。
 九州の家に戻ってきて、もう2週間にもなるというのに、晴れた日は一度もない。
 薄日の差す時間帯があったり、ほんの少しの間だけ青空が見えて、太陽の光が降り注いだ時もあったのだが、ともかく、ほとんどは重たい曇り空のまま、時々小雨が降るという毎日なのだ。

 そんな中でも、雨の合間をぬって、何とか草取り草刈り、庭木の剪定(せんてい)などやるべき仕事は終わらせてしまった。
 ただこうも天気が悪いと、どうしても家の中にいることが多くなり、ひとり天下泰平(てんかたいへい)と決め込んで、ごろごろしていることにも飽きはててしまい、山を歩きたくなってきたのだ。
 数日前、その日は一日曇りのマークがついていて、夜になってから雨とのことだった。よしそれなら、山に行こうと思った。

 何度も言うように、カネはないけどヒマは十分にある私は、好きな山に登る時は晴れ以上の快晴の日に行こうと、ぜいたくな決まりを自分に言い聞かせている。残り短い登山人生を、しぶとくねちねちと自分の思い通りに楽しみたいのだ。
 だから雲におおわれて何も見えないとか、ましてや雨の日に出かけるなんて、言語道断(ごんごどうだん)だと思っている。(毎日働いて決まった休みしかない人には申し訳ないが。)

 若い時には、雨風もこれからのための経験、試練になるのだろうが、年をとった今では、何事も勉強のためだとケツを叩かれてまでして、悪天候の日に登りたくはないのだ。
 もしそのムチを持つ人が、アミタイツ姿の女王様だったら、「どひぇー、女王様、お許しください」とか叫びながらも実は喜んで、山に・・・いや、やっぱり登りたくはないなー。年寄りは、色気よりは怠けぐせと親しくなるのだ。

 こうしてひとりでいると、日々ぐうたらになってしまい、いつしかあのカフカの『変身』のように、身動きの取れない巨大なイモムシになって、部屋に閉じこもることになってしまうのだろうか。
 いやいや、まだまだ、「ボクには夢がある、希望がある、そして持病がある」。
 腰痛に歯痛、ときどき痔(じ)痛、さらに慢性の”おつむてんてん、脳天気”症候群といったありさまだから、「あとは野となれ山となれ」といった心境になり、CMの有名司会者には悪いが、医療保険なんぞには入る気もしないのだ。

 しかし、前回の山登りからもう1か月も間が空いている。いかにぐうたらな私といえども、さすがに、じっとしていられなくなってくる。
 自然が私を呼んでいるのだ。
 ”Nature calls me!" おっとこれは違った、直訳しただけで別な意味になってしまう。
 どう言えばいいのか、そこで思い出すのは、あの西部劇の名作『シェーン』(’53)の、有名なテーマ曲「遥かなる山の呼び声」(The call for far-away hills)である。こちらも意味は少し違うが、ある意味では確かに思い出の山からの声でもあるのだ。

 アラン・ラッド扮する流れ者のシェーン、実は早打ちガンマンであり、酒場で悪事を重ねるジャック・パランスとの、一瞬の決闘シーン・・・。
 初公開後何年もたったリバイバル上映で初めて見たのだが、その時は、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーが明快であり、それでよかったのだが、今になってみれば、何といっても、ジャック・パランスのあの不気味にチャラついた悪役ぶりがかっこよかったと思うのだ。
 つまり映画では、主役を引き立てるための強い個性の悪役が必要なのだ・・・そんなことに気づいたのは、ずっと後になって幾つかの悪さを重ねた大人になってから、この映画を何度も見返した時だ。(さらに、見事な恋愛心理ドラマにもなっていた事にも気づいたのだが。)

 少し前にも書いたように、この個性派俳優ジャック・パランス(1919~2006)は、あの名作映画『バグダッド・カフェ』(’87)で、ヒロインのドイツ女に恋する、昔ハリウッドで大道具の美術担当だった初老の男の役で出演していて、久しぶりにその姿を見てなつかしかった。(’12.10.29の項参照)
 『シェーン』での名悪役ぶりを知っている私たちは、そこで二重の感慨にふけることになるのだ。映画の上でも30数年という歳月が流れている、何という時の流れだろうか・・・彼にとっても私にとっても。 

 東京で働いていたころ、50~60年代に活躍したジャズ・ポピュラー歌手、ペギー・リー(1920~2006)が初来日(1975年)して、私は彼女のコンサートを聞きに行った。
 私は、彼女の立ち姿を見て、あのしみじみとした「ジャニー・ギター」の歌を聞きながら、その長い歳月を思い涙ぐんでしまった。
 彼女は映画『大砂塵(だいさじん)』(’54)の主題歌であるこの「ジャニー・ギター」の大ヒット曲でよく知られていたが、そのころ私は、ヘレン・メリル、クリス・コナー、ジョー・スタッフォード、ミリー・バーノンなどの昔の女性ジャズ・ボーカルをよく聴いていて、ペギー・リーでは、あの『ブラック・コーヒー』(’56)がお気に入りの一枚だった。

 そんなセンチメンタルな気分になったところで、いつも併せて思い出すのは、映画『バラの刺青(いれずみ)』(’55)で、ペリー・コモが歌っていた同名の主題歌である。”He wore the rose tatoo・・・”と今でも憶えているほどだ。
 映画は上の『大砂塵』と同じように、昔風なメロ・ドラマがからんだ西部劇であり、これもまたずっと後になってリバイバル上映された時に見たのだが、さして印象に残るほどのものではなかった。
 ただ『大砂塵』のジョーン・クロフォードと、『バラの刺青』のあのイタリア女優、アンナ・マニヤーニの、それぞれに年を重ねて生きてきた女性の哀しみだけが切々と伝わってきた。
 つまり、この二本の映画はその映画の内容そのものよりは、まさにその哀切に満ちた主題歌で印象に残っているといっても過言ではないだろう。
 まして私には、これらの曲を聴くと、あのころの彼女と別れたばかりのつらい思い出が、今でも切なく懐かしくよみがえってくるのだ。歌は世につれ、世は歌につれ・・・。

 話はわき道の思い出にそれてしまったが、これも長い人生を過ごしてきた思い出だけが多すぎる年寄りの、いつもの繰り言(くりごと)、口グセなのだろうか。

 山の話に戻ろう。
 いつもなら出かけることもない天気だったのだけれど、ネットやテレビなどのあちこちの天気予報を見ていると、中には午後から小さくお日様マークが出ているものもある。
 毎日の雨模様の空にうんざりしていた私は、雨が降らないだけでも十分だと思ったのだ。

 いつもの九重、牧ノ戸峠の登山口に着いたのは、昼過ぎだった。
 こんな梅雨空のさなか、この九重山群最大の見ものである、あのミヤマキリシマ大群落の花の時期ももうとっくに終わっているのに、まだかなりの車が停まっていたが、もちろん混雑期とは比べるべくもなく、らくに場所を選んで停めることができた。
 今頃から登ろうという人は他になく、戻ってくる人に出会うだけだった。それもわずか十数人余り、1時間半あまり歩いた久住分かれで3人にあったのが最後で、後は天狗が城に中岳とまわって、もと来た道を牧ノ戸峠に戻ってくるまでの3時間ほどの間、もう誰にも会わなかった。

 曇り空の下に見えていた山々も、戻りの途中からガスが下りてきて見えなくなり、そんな静寂が増す中をひとりで歩いて行くのは、何か心楽しくいい気分だった。
 もし今の時期の北海道の山ならば、こんなガスがかかる時にはなおさらのことだが、ヒグマに注意して、気を張り詰めて歩いていかなければならないし、また日本アルプスなどの山々を歩くときのように、いつも誰かに会うというわずらわしさもなかった。
 だから、北海道の山では、土日以外の晴天の日に、北アルプスなどでは時期や山域をずらして登るようにしているのだが(’12.11.8~19の項参照)、ただ花々が咲き乱れ、登りやすい天候の時期は短いから、どうしても人が集中することになり、やむを得ないことではあるのだが・・・。

 ああ、それにしても、富士山に去年登っていてよかった。(’12.9.2~9の項参照)
 ただ、雑踏が嫌で一度きりだと思っていたその富士山も、一度登ったことで、あらためて別な静かなルートからもう一度登ってみたくなり、またいつかはと思っていたのだが、このたびの世界遺産騒動で、ずっと先に延ばさざるを得なくなってしまった。

 あの知床にも、世界遺産に指定される前の年に、最後になる三度目の縦走をして以来、(その時は天気も良く花々も盛りで、他に数人に会っただけの素晴らしい山旅だったから)もうその後は行っていないし、屋久島へは世界遺産指定からしばらくたって、もう人々のほとぼりも覚めたころだろうと思って出かけたのだが、誰もいない雨上がりの薄日さす森の中で、あの縄文杉と20分余りも向かい合って、ただひとりで過ごせたことの幸せな思い出があり・・・。(’11.6.17~25の項参照)

 私は若いころに、スイス・アルプスの山々を眺めただけで、ヒマラヤにもアンデスにもカナダ・アラスカの山々にも登ったことはない。
 けれども、本当に心からの安らぎを覚え、または感動にうちふるえた山々の思い出がいくつもある。それだけでも十分ではないのか。

 世の中には、こうした山々での喜びを知らぬまま一生を終る人もいるだろう。もっともそんな人もまた、私が知らない別の喜びの世界を知っていて、そこで十分に楽しんでいるのだろう。
 人生を生きるということは、そうした自分なりの楽しみを見つけて、十分に味わうことができたならば、それでいいのだと思う。それは、もちろん貧富の差や、地位身分の差、ましてや長く生きたかどうかさえも関係はないのだ。

 この世に生まれきて、子供時代を過ごし、青春時代を送り、恋をして結婚し、子供が生まれ家族の世界が広がり、仕事に励み、その傍らで自分の趣味の楽しみも味わいながら、年を取っていき、穏やかな思いの老齢期を迎えて、静かにお迎えを待つだけのこと。
 冷静に考えれば、生きてきたうえでの幸不幸の数なんて、誰でも五十歩百歩であり、大した差はないのだ。そんな人生の中で、他人と比べて何になるというのだ。
 辛抱強く生きてやさしいあきらめを知り、自分だけの夢の楼閣(ろうかく)を、心のうちに持ち続けること、幸せな気持ちになるために・・・。

 私はそんな思いをめぐらせながら、山道をたどって行った。
 あの大群落が山肌をいろどるミヤマキリシマの花は、もうすっかり終わっていて、遅れて咲いているわずか二株の花を見ただけだった。
 その代わりに、ミヤマキリシマが盛りのころには余り見ることのなかった、あのタニウツギの赤い花が鈴なりに咲いていて、特に扇ヶ鼻分岐あたりでは群落をなしていた。(写真上)

 他にも数は少ないが、サラサドウダンやシライトソウなども見ることができた。
 そして思った程に天気は悪くなく、少し青空がのぞいているところもあり、周りの山々もよく見えていた。
 それで、私の大好きな天狗ヶ城(1780m)や中岳(1791m)からの展望を楽しむことができたし、何より、時々押し寄せては消える雲の合間に、見え隠れする山々の姿の素晴らしさに、あらためて気づかされる思いがした。

 えらい写真家の先生がたが、一様に言われるのは、「晴れ渡った日ほどつまらないものはない、雨や曇りの日こそが次なる変化をとらえることのできるチャンスの時なのだ」ということ。
 芸術写真にとんと理解のない私は、雲一つない空の下の山々の姿を撮った写真こそ一番だと、いまだに信じて疑わないし、そうしたいわゆる初心者の、”お絵かき写真”の域を出ていない写真ばかり取り続けているのだが、久しぶりにこうして天気の良くない日に山に登って、雲の間に間に見える山の姿を見て、なるほどとも思ったのだ。

 構図、遠近感、陰影、チャンスなどのどれ一つも考えに入れることなく、ただいいと思ったから写すという、幼稚な感覚だけに頼ってきた私だが、この日の雲の動きの中の山の姿を見ていると、そんな先生方の言葉を少しだけでも思わないわけにはいかなかった。
 かといって、すぐに写真的に素晴らしいものが撮れたというわけでもない。
 下の写真は、その時の中岳から見た稲星山(1774m)の姿であり、後ろには、雲海の中に祖母山(1756m)がほんの少し見えている。
 もちろん、これが芸術的な一枚などとは思っていないが、思わずシャッターを押したのは、ひとつに、前にもどこかで見た山の姿だと思ったからでもある。

 それは北アルプスの水晶岳(2986m)から尾根をたどり、行く手にあの北アルプス最深部にある、赤牛岳(2864m)の、赤みを帯びて穏やかに盛り上がる姿を見た時だったのだ。
 その時に、このコースで出会ったのは二人だけだった。私は、赤牛岳から黒部湖に下り、渡し船に乗って平の小屋に泊まり、(そこには楽しい釣り人たちがいてイワナをごちそうになり、風呂にも入ることができて、私の山小屋ベスト3に入れたいくらいの思い出になった)、そして次の日も快晴の空の下、五色ヶ原への道を登って行ったのだ。今からもう十数年も前の話だが・・・。

 つまり、私にとっての山の写真は、芸術的なフォルムとして作り上げ切り取られた瞬時の輝きではなく、その時私の目の前にあり続けた全(まった)き山の姿、さらに簡単に言えば、私の記憶に残るべく撮られたものであるべきなのだ。
 だから記念写真としての山の写真を撮り続けている私が、いくら何十万カットの写真を撮ったところで、芸術的なものにならないのは、そこに個人のアルバム写真にこだわる思いが頑(がん)として横たわっているからだ。

 山での思い出は、まさしくそのような、印象的な心地よい思い出が多く残されているような気がする。
 もちろん長い登山経験の中で、つらい悲しい思い出もたくさんしてきたはずなのに、それらは長い歳月の波に洗われて、いつしか丸く穏やかになり、今ではさほどのものではなかったようにも思われるのだ。
 前に心理学の記事を読んでいた時にか、あるいはテレビを見ていた時にだったかは定かではないが、人間の記憶は、自分の脳の中にとどめ置く際に取捨選択されて、6:3:1の割合で、楽しい思い出、中間的な思い出、悲しい思い出へと分配保存されるというような話を聞いた憶えがある。

 とすれば、私の山の思い出の中に、楽しく良かったという思い出が多いのも納得できるところだ。
 ただ、いつも不思議に思うのは、その中間的な記憶に入るのかどうかはわからないが、突然、全く関係もない山道の曲がり角や、木の立ち姿、沢の流れなどが目に浮かんできたりすることがある。
 写真に撮っている覚えもないから、写真の情景から繰り返し見て記憶化されたものではないし、かといってそこは確かに私が行ったことのある場所なのだ。
 何のために、さほど重要とも思えぬ情景が記憶され、時に脈絡もなく浮かび上がってくるのか・・・。

 ミャオとの思い出は、数多くの写真や、毎日の習慣的な行動の数々として、今も思い出すことができるのだが、何よりもはっきりと思い出すことができるのは、その顔や毛色などではなく、あのミャオの体をなでた時の、滑らかな毛の肌触りと、しなやかな体の流れ、体つきである。
 それは他のどんな猫を触っても違う、ミャオの体そのものの感覚であり、もう1年以上もたつのに、私の手はその感覚を憶えているのだ。ああ、ミャオ。
 外は今日も一日、しとしとと雨が降っていた。 


「・・・その向こうに、芳子が常に用いていた蒲団(ふとん)―― 萌黄唐草(もえぎからくさ)の敷蒲団と綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。・・・時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れた天鵞絨(びろーど)の襟(えり)に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外には風が吹き荒れていた。」

(田山花袋『蒲団』より 日本文学全集 集英社)