7月29日
もう1週間近くも、霧雨、時々雨という状態の日が続いている。
それはエゾ梅雨とも呼ばれるが、内地の、蒸し暑い梅雨という感じではない。というのは、靴下をはいて長そでシャツを着てという毎日で、気温は20度までも上がらない、肌寒い天気だからである。もっともそこが、暑がりの私には全くありがたいことなのだが。
ただそうした快適な気温の日々だから、庭の草取り草刈の仕事もはかどりそうなものだが、そこはそれ天気が悪いうえに、例のごとくに外には、私のメタボ体に満ち溢れている脂ぎった血をいただこうと、蚊たちが待ち構えているので出て行く気にもなれず、家の中にいてぐうたらな毎日を送っているのだ。
もっとも、家の庭の芝生の草取りはいつもより簡単であり、裸地に近い中で残っているカタバミやスイバ、オカヒジキなどを抜いて行けばいいだけだから簡単なのだが、それにしても夏の初めまでに見ていた、一面の青々とした芝生の頃が目に浮かぶ。
二週間前に、この北海道の家に戻ってきた時には、家の周りにはいつものように雑草が生い茂っていたが、ただ庭の芝生の辺りだけには、何も生えていなくてすっきりと空いていたのだ。
つまりそこには、あるはずの緑の芝生がなく、ただ裸地の中にちらほらと、カタバミなどの雑草が残っているだけだった。
やられたのだ。芝生の病気、葉腐(はぐされ)病、”ブラウンパッチ”。
数年前から、小さな島状にそこだけが枯れる、いわゆるブラウンパッチの初期状態にあるのはわかっていたのだが、農薬は使いたくないし、その部分だけはぎ取って他の所から芝生を移植したりして、なんとかそれ以上増えないようにしてはいたのだが。
この全体がやられてしまうという悲惨な状態になった原因はと考えると、確かに思い当たるふしが幾つかある。
まずは、すぐに薬をまいておくべきだったかもしれないが、それがいやで今までこまめに手入れをしていたわけであり、今回は夏の間に3週間も留守にしたことと、後で分かったのだがその間に何と30度を超す日が三日も続いていたこと、さらに決定的に悪かったのは、芝刈り機で刈った後の芝草を、時間がなくてそのまま芝生の上に片づけずに放置して出かけたことである。
病気にかかるべくして、そうなってしまったのだ。まさしく私の監督不行き届きに尽きるのであって、反省しきりである。
見た目には全くの灰褐色の裸地だから、すっきりしているとはいえるのだが、夏の緑の繁茂時期に、何ともまるで除草剤をまいたかのような不気味な状態は、見苦しいばかりなのだ。
かといって、この天気と蚊がいる中で、今すぐに表皮をはぎ取って土を入れ替え芝生の種をまくなんていう大工事を、このぐうたらなタヌキおやじがやるはずもなく、秋になるまで放っておくしかないのだ。
それにひきかえ、他の畑の野菜や草花たちは、雑草の中でも元気いっぱいに育っている。
イチゴは、今までもう3パック分くらいは食べたし、ミニトマトも幾つか取れたし、ネギは摘み取ってラーメン、うどんに入れているし、ジャガイモの花は咲いているし、キャベツも少しずつ大きくなっている。
生垣(いけがき)のハマナスの赤い花は、6月の半ばには咲き始めて、秋の初めまでは咲き続けてくれるだろう。
あちこちに咲いている白いフランスギクの花は、もうほとんど終わりに近く、雨で倒れてしまったし、林の中のオオウバユリの花も、頭頂部の一二輪が残るだけになってしまった。
ただキツリフネ(、’12.8.21の項参照)だけは、もうジャマなくらいにあちこちから立ち上がって花をつけている。しかし、それは毎年見あきることもない、嬉しい夏の花なのだ。(写真上)
吊り下げられた唇形の花の姿には、独特のものがあり面白いし、色は確かにあの赤紫のツリフネソウの方が目立ってきれいではあるが、この黄色の花の上弁外側と下弁内部に赤い斑点という配色も悪くはない。
恐らくは蜜を吸いに来る虫たちへの道しるべになるものだろうが、その形と色は、高山で見かけるオオバミゾホウズキやウコンウツギの花を思い出してしまう。
ああ、そろそろまた山に行きたいものだ。
しかし、今年の梅雨明けは変則的な形だし、実際のところ西日本以外はまだ梅雨が明けていない感じであり、その西日本でさえ今はまるで梅雨末期の豪雨状態にあるかのようだし、長雨が続く東北では大きな被害が出るほどであり、私の夏山計画も変更せざるを得なくなってしまった。
そこで、ひまにまかせてテレビで録画していた番組の幾つかを見たのだが、それぞれに興味深い作品だった。その中から二本を。
新日本風土記『屋久島』(NHK)。風土記の名前の通りに、大いなる自然である山への思いが、人々の日々の暮らしとのかかわりという形で描かれていて、さらに私にとっても2年前に行ってきたばかりの所だから(’11.6.17~25の項参照)、それぞれの話ごとに興味深い情景だった。
ヤマザクラがあちこちに点々としていろどり鮮やかな春、今は石垣くらいしか残っていないあの小杉谷の集落跡を訪ねる人々。かつてそこに住んでいた人たちであり、カメラはその中の一人、70歳の男の人の後を追う。
父親が働いていた営林署の、その官舎の長屋に暮らしていた子供の頃の思い出、やがて父は伐採作業の事故で亡くなり、代わりに母親が働いて、女手一つで自分を育ててくれたこと、「働き者で、教育熱心な母親でした」と語る彼の目に涙・・・。
山麓の棚田で、毎年山からの水を引き入れて、田んぼに苗の植え付けをする50代の男の人。周りの農家の高齢化で、田んぼが荒れていくのを見かねて、自分が代わりになって近隣の田んぼも引き受けて苗を植えているのだ。
その永田の集落の後ろには、いつも高くギザギザの稜線を引いて、屋久島第二の高峰、永田岳(1886m)が見えている。
「飲み水があって、農業に使える水があって、生活に使える水があって、それは全部、永田岳が私たちに与えてくれている恵みです。毎年変わらずに水が田んぼに入り、田植えができるという営みを毎年繰り返していくことができるということは、すごいことだと思います。そこを私たちは感謝しなければいけない。」
屋久島を訪れた宿泊者に、近海の恵みであるトビウオと山の恵みであるタケノコを出している民宿の主人は、一方では、永田岳への毎年の岳参(だけまい)りへと、地区の人々を率いて山頂を目指すのだ。
彼は話す、「自分たちが受けている豊かな恵みは、この山からきている。そこには人間が作ったものは何一つなくて、全部、自然から、神様からいただいている。」
そして、宮之浦地区の山奥には、牛床詣所(うしどこもいしょ)という小さな祠(ほこら)があって、有志の人たちが、”山の神の日”である旧暦の正月、五月、九月の十六日に、お参りをする習わしが続いているのだ。その日は絶対山に入ってはならない日として。
そうして、山と人間社会との境界をしっかりと定めることによって、山を崇(あが)め、または自分たちの戒(いまし)めとしてきたのだ。
日々めまぐるしく移り変わる都会の変化に惑わされることなく、自然とともに生きる人たちの変わらぬ日々の暮らしが、いつまでも続くことを願わずにはいられない・・・。
前二回の記事として、木曽御嶽山(おんたけさん)での山岳信仰による修験道や宗教登山について少しふれてきたのだが、ここに見られる岳参りや祠参りなどは、そうした体系だったものではない、まさしく日本人の心の原型として存在している、素朴な自然信仰としての一つの形ではないのだろうか。
自然とともに生きてきた、日本人の心の歴史を、そこに見る思いがするのだ。山にある神と伴に生きるということ・・・。
もう一つは、同じNHKの”ドキュメント72時間”「富士山登山口にて」。
今年文化遺産に指定されたすぐ後の、この6月30日からの三日間を、さっそく賑わう富士吉田口5合目の先にある6合目にカメラを置いて、インタヴューとともにいわゆる定点観測を行ったドキュメンタリーである。
そしてこの富士山にも、去年登って来たばかりの私には(’12. 9.2~7の項参照)、なおさらのこと興味深く幾らかの余裕をもって見ることができたのだ。そこを行き交う人々たちの人生模様には、まさに”人生いろいろ”の喜びや悲哀がかいま見えて・・・。
今度で22回目になるという人や、登りはじめて13年目になるという人たちもいれば、世界遺産に指定されたので初めて登るという人もいる。イタリア、ドイツ、アメリカから来たという外国人たちもいれば、子供を夫に預けて、毎年一人で登っているという主婦もいるし、かと思えば、高山病で頭が痛くなり下りてくる人たちもいる。
坊主頭の若者が女の子3人に囲まれてやって来た。浅間大社(せんげんたいしゃ)の一合目から登ってきたと明るい顔で答えていた彼は、大学ワンダーフォーゲル部の新人自主練で、大きなザックにはバーベルの重しが入っていた。それでも楽しそうだった。
脚を引きずりながら下りてくる若者が一人。
途中で脚を痛めたが、頂上までは何があっても登ると心に決めていて、やっとの思いで頂上に着いて達成感を覚えたし、今まで、何事にも中途半端に生きてきたようで、だからこその意地を通しての達成感があったと。
派手な色のかぶり物が目立つにぎやかな美容師グループは、仕事仲間の団結を高めるために登りにきて、彼らは頂上からお鉢一周もして、速足で下ってきたのだと答えていた。
ネットでのつながりだけで、その仲間が今日集まって一緒に登っているという人たち。
そのうちの二組は、下の一合目から登って来たのだとか。そんな父と息子の二人は、普段は離れて暮らしていて久しぶりに会って一緒に登っているとのことだった。
その二人が下りてきた時に、再びインタヴューすると、父親は、離婚して元妻と暮らしている息子が、高山病にふらつきながらもあの頂上までは行くと言って登りきったのを見て、知らない間に男らしくなってと目をうるませていた。
さらに39歳になるという男が一人で登って行く。若いころに登った思い出あるからと言って。
そして下りてきて再び話を聞くと、彼は自分の心のうちを話し始めた。実は離婚して、二人の子供とも会えない状態で、仕事も転職して今は介護の仕事をしているが、ひとりでいるからあれこれ考えてしまう。だから山に登りに来たのだと。
それで現実が何か変わるわけではないのだけれども、少しは心が軽くなったし、これからは誰にでも優しくしていくつもりだと言いながら、五合目へと下りて行った。
私たちと似たような、そして決して同じではないそれぞれの人生の一断面が、あの時の富士山登山という、時間の切り口だけで、半ば鮮やかな人生絵巻として繰り広げられていたのだ。
こうして、富士山へは次の日もまた次の日も、同じような人々が、それは決して同じではない自分だけの人生を背負いながら、登って行くことだろう。
もちろん、彼らの人生模様だけがすべてではない、彼らはその日に取材スタッフが出会ったごく一部の人たちにすぎないからだ。
都会に、地方都市に、あるいは海山の小さな集落に住む人たちの中で、ほんの少しの数えられる位に過ぎない人々が、ある日富士山に登ろうと思い、実行に移したのだ。その数は積もり積もって、ひと夏に30万、今年は40万を超えるだろうということだが。
しかしそれも、日本の人口からすれば、ごくわずかな人々にすぎない。多くの人は富士山に登ろうとも思わないか、あるは事情があって登れないかであって、彼らの方が日本の中での絶対多数であることに違いはないのだ。
去年、富士山に登った時に乗せてもらった地元のタクシーの運転手さんでさえ、富士山に登ったことはないと言っていたから、日本の殆んどの人にとっては、富士山は見る山であり、そこに在るだけの山かもしれない。その姿の美しさを感じてはいても、または畏敬(いけい)の念を抱きながらも。
しかし、それでいいのだ。それでも十分に、日本人の心にある文化遺産としての存在価値があるからだ。
富士山に登るということは、そんな思いの上に、さらにもう一つ加わったひたむきな思いの何かがあったからだろう。
自然はいい、山登りはいいなどと今さら言ってまわるつもりはない。人それぞれに、自分だけの楽しみがあるのだから。
ただ私は、幸か不幸か、山登りという楽しみを覚えてしまっただけのことだ。
そしてこれからも、息を切らし汗を流して、ただ頂きからの眺めを目指して登り続けることだろう。体が動けなくなるその日まで。
「私たちが山に登るのは、つまり山が好きだから登るのである。登らないではいられないから登るのである。一般登山者の多数はまたそうであろうと思う。
もちろん登山に伴う困難やまれに危険は、時として大なるものがあるに相違ないが、山に登らないでいる苦痛に比較すれば、はるかに小さいと称してはばからない。
なぜ山に登るのか、好きだから登る。答えは簡単である。しかしこれで十分ではあるまいか。」
大正8年5月15日 木暮理太郎
(『日本アルプスと秩父巡礼』田部重治著 木暮理太郎の序文から ”近代デジタルライブラリー”より)