ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(221)

2012-03-31 20:58:11 | Weblog
 

 3月31日

 数日前、飼い主がワタシを迎えにきた。ワタシは、病院のオリの中で、ニャーニャーと鳴き続けていた。先生がワタシの腕につていたチューブを外して、バスケット型のネコ・ケージにワタシを入れて運び、飼い主の前に差し出した。興奮したワタシは、さらに鳴き続けたが、飼い主から体をなでられて、ようやく落ち着いてきた。
 飼い主は、しばらく先生と話した後、何度も頭を下げて、外に出た。ワタシの入っているバスケット・ケージを、外にあった車の中に運び入れた。走る車の中で、ワタシはまだ鳴いていた。飼い主が、ケージの格子戸(こうしど)の間から指を差し込んできて、ワタシはその指に頭や耳をこすりつけた。

 やがて、家に着いた。確かにワタシの家の臭いがしている。ケージから出た私は、あちこち残っているワタシの臭いをかいでまわった。何度も家と外を出入りした後、もう夕方だったので、コタツの中にもぐり込んだ。その日はそれからずっと、次の日の朝になるまでコタツの中で寝ていた。というのも、知らない所で神経が張り詰めた毎日を送っていたので、睡眠不足だったからだ。
 
 家に戻ってからは、毎日良い天気が続いていて、日ごとに暖かくなっていった。昼間はベランダで寝て過ごし、飼い主とほんの少しの散歩に出かけて、そこで春の若草をかじったりした。あとは水を飲むだけで、他には何も食べたくなかった。
 そんな状態だから、体が日ごとに弱っていくのが自分にも分かっていた。ふらつきながら歩いて、何とかトイレは外ですませて家に戻り、あとはただ体を横にして寝ているだけだった。

 ワタシの体は、どうなるのだろう。時折飼い主が、私の顔をのぞきこみ、ワタシも飼い主の顔をじっと見る。
 今にして思えば、時々飼い主が北海道に行っていなくなることもあったが、ともかく長い間を二人だけで生きてきたのだ。
 飼い主が、ワタシに何かを言っていた。その眼からは、一筋に流れ落ちるものが見えた。ワタシは視線を外して、前足の上に顔を乗せて、目を閉じた。今、確かにワタシは体が弱っている。しかし、まだ生きているのだ。それだけで、いい。


 「一週間もの間、晴れの日が続いた。気温は日増しに上がり、昨日などはついに20度にまでなって、春の盛りの暖かさだった。今年の冬の寒さから、咲くのが遅れていた梅の花がようやく数輪開き、さらに向こうでは、枝いっぱいのつぼみの中から、コブシの白い花が点々と咲き始めていた。
 それなのに、私の胸は重苦しく、たれ込めた思いの中にある。ミャオが、いよいよ危なくなってきたからだ。
 
 前回書いたように、ミャオを病院に連れて行き、そこで一週間の間、点滴をしながら様子を見てもらっていた。途中で先生に電話すると、元気になってはいるけれども、やはりまだエサを食べてはいないとのことだった。
 これまで、ミャオはこの病院で三回もの入院治療を受けていて、一度目は精神的ショックから来る拒食症であり、あとの二回は、他のノラネコから咬(か)まれた傷が、化膿したことによるものだったのだが、それぞれに数日間点滴を受けて家に戻ってきた時には、驚くほどの回復ぶりだった。しかし今回は、その目覚ましい効果が見られないのだ。

 前回病院に連れて行った時の、膀胱(ぼうこう)炎による排尿困難症状が出る前から、ミャオの腎臓(じんぞう)は少しづつ弱っていたのだ。高齢猫に良く見られる腎機能障害は、人間の場合だと、人工透析(とうせき)や腎臓移植などの治療方法もあるのだろうが、猫の場合、それも高齢の場合は、ほとんど手の打ちようがなく手おくれになる場合が多いと言われている。
 そうなる前の、もう少し若い年齢だったならば、点滴入院などで尿毒症の症状を改善させることもできたとのことだが。

 ミャオの年は、多分17歳だろうと思われるが、それは、捨て猫のシャム猫母さんから生まれたノラネコだったために、はっきりとした生まれ年や月が分からないからなのだ。ミャオが家に来たのは1996年で、そのころの写真が残っている。私よりは、はるかに記憶力の良かった亡くなった母ならば、正確に憶えていたのだろうが。
 ともかく人間でいえば、84歳にもあたるおばあちゃんネコなので、当然のことながら最近は運動能力などが目だって衰えていた。しかし、この冬のあの膀胱炎の症状が一応おさまった後には、よく食べていて少し太り気味であり、とてもよぼよぼの年寄りネコの感じなど全くなかったのに、今では見るも哀れな状態になってしまったのだ。

 ミャオを入院させてがらんとした家の中で、私は考えていた。どうするのか。このまま入院させていても、何とか点滴栄養補給で、幾らかは命を長らえることはできるのだろうが、ミャオは、あの病院のオリの中に毎日ひとりでいて幸せだろうか。それよりも、治療を打ち切って家に引き取り、たとえ命が短くなったとしても、私がずっとそばにいて最後まで看(み)取ってやった方が、ミャオにとっては安心なのではないのか。
 ただ、ミャオとは、一日でも長く一緒に暮らしていたいと思う。長い歳月を、たった二人だけで暮らしてきた大切な家族だもの。
 私の心は、大きく揺れ動いていた。治療を打ち切ることは、ミャオを見殺しにすることにならないのか。あるいは、ただひとり管につながれていても、命を長らえることの方が、ミャオにはいいのかと。

 もしミャオがいなくなったら、私は母を失った時と同じようにまたひとりになってしまう。私は今まで、ひとりでいるということを、いやというほどに味わってきた。それが、つらい哀しい意味であれ、自由で気ままな意味であれ。そしてその度ごとに、いつも一人で乗り越えてきた。
 しかし、今もう一人の家族であるミャオを失うことになれば、それはもちろん、母をなくした時ほどではないにしろ、しばらくは気が滅入ってふさぎこんでしまうことだろう。しかし、私はかならず立ち直ることができるはずだ、今までそうであったように。

 ミャオとの別れは、遅かれ早かれやってくることだ。一番大切なのは、私とミャオとの間にある今の通い合う気持ちであり、このまま互いを思う気持ちを感じながら、寿命がきた家族に別れを告げること、それがミャオへの最善の見送り方だろうと私は考えた。
 私は、こみ上げてくるものに耐えながら、そう決心した。ミャオを家に連れて帰ろう。

 ミャオの入院治療は、ちょうど一週間になっていた。まず先生に話をして、私の意向を伝えた。先生は、死期を悟った人の話をしてくれたが、それから付け加えるように、まだ点滴を続けて様子を見ることもできるし、暴れるので麻酔をして詳しい検査もできますと言った。
 今まで三度もミャオの命を救ってくれた先生だから、医者として何とか命を救いたいのだろうが、私はミャオを家で最後まで看取るつもりだと答えた。
 先生はミャオの入院費を少し安くしてくれたが、それでも仕事を辞めて主な収入源が無くなった私には、決して安い額ではなかった。しかしそれは、ミャオがもしこの先、元気になって治るならばさらに入院させて支払い続けても、惜しい金額ではなかったのだが。

 ミャオは、前回書いた時と同じように、戻ってきたその日は元気だった。しかし次の日になると、点滴栄養の効果も薄れて、今までどおりに弱々しく、とぼとぼと歩き、相変わらず何にも食べずに、水を飲むだけで、ほとんどコタツの暗がりの中で寝ているだけだった。
 しかし時折思いついたように、それまでの長い習慣だった、私との散歩に出かけようとする。それは、ほんの家の前までの短い距離なのだが、その時に道端の青草を少しだけ食べていた。しかし、もうその先までは歩こうとせずに、すぐに座り込んでしまう。私は、ただじっと見守ってやるしかない・・・。(写真)
 しかし後になってみれば、あんな日々があったとひとり思い出すに違いない。そして、それで良かったのだろうかと、再び考えるかもしれないが・・・。
 
 ミャオが入院して、私がひとり考え込んでいる時に、あたかも私に決断をうながすような、高齢者医療についてのテレビ番組が幾つかあった。といってもそれは、ニュースの時間などでの小さな特集として、取り上げられていただけなのだが、一つは日本老年医学会の胃ろう(胃に管をつないで直接、水や栄養を送ること)についての指針発表の話であり、患者の状態に応じて慎重に判断し、時には家族の意向も踏まえて、さし控えたり中止したりすることもあり得るとしていた。
 その中で、寝たきりの患者が胃ろうを受けることによって、自宅介護の負担が減って良かったという家族と、逆に患者を長く苦しませないためにも、胃ろうを断って自然死を迎えさせたという家族の、二つの例があげられていた。

 さらにもう一つのワイドショーの番組では、京都にある老人ホームの診療所所長である中村仁一医師を訪ねて、高齢者医療についての話を聞いていたが、彼は最近ベストセラーになった『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)の著者でもある。
 中村氏が語るのは、以下のようなことだった。

 「人間の細胞は、毎日どこかでがん化していて、若いうちはともかく、免疫が衰えた年寄りががんにかかるのは当たり前のことであり、まだ若い40、50代では、早すぎる死を防ぐためにもがん検診を受けて治療すべきであるが、60代から70代へとしだいに衰えて繁殖年齢を過ぎた年齢の人たちががんになっていっても、それはそれで余命予測ができるし、身辺整理の時間があるということで、むしろ突然死などよりは歓迎すべきことなのだ。
 食事が食べられなくなるのは、寿命がきたからであり、水が飲めればそれだけにしておいて、飢餓(きが)状態で死を迎えるのがベストである。
 自然死とは、飲まず食わずの餓死(がし)なのであり、寿命で死ぬ時期になると、お腹がすかなくなり喉が渇かなくなり、本人にとっては自然な流れで死を迎えることになる。心配することはない、死ぬ時には、脳内ホルモンであるエンドルフィン(モルヒネの一種)が放出されて、安らかに死んでいけるのだから。
 むしろがんに対して、外科手術をしたり抗がん剤を使用したりしての攻撃的治療をすれば、その副作用で痛みが増す。何もしなければ、そのままで痛みもなく死んでいくことができる。ここではこの8年間のがんによる死者52名中、麻薬を使って痛みを取り除かなければならないようなケースは一つもなかった。」
 
 この中村先生の話を聞いて、わたくしは新たな死の世界をかいま見たような気がした。それは思えば、前に少しふれたことのある、あの臨死体験の話に似ているが。
 そして、さらに驚いたのは、今、先生自身が、あごから喉にかけて大きくふくらんだ腫瘍(しゅよう)があるというのに、検診も受けず手術をしてもらう積もりもないというのだ。自分が自然死を勧めている手前もあって、と笑いながら話していた。
 
 安楽死や尊厳死の問題は、医者の倫理や家族の同意などとかかわり、昔から論争されてきた問題だが、最近、いわゆるホスピスについてなど、緩和ケアの問題として再び多く取り上げられるようになってきている。それは一つには、今の日本で、高齢化社会による多死の現実が見え始めてきたからでもあるのだろうが。

 さらにもう一つ、昨日のニュース番組の中での小さな話題として取り上げられていたのは、一冊の写真集である。
 『恋(れん)ちゃん はじめての看取り おおばあちゃんの死と向きあう』(”いのちつぐ みとりびと”シリーズ第4巻 國森康弘著・写真 農山漁村文化協会)
 
 そこには大家族の中で育った小学5年生の恋(れん)ちゃんが、大好きだったおおばあちゃん(ひいばあちゃん)の死に対面して、その死に顔をなでてあげたり、涙を流しているシーンの写真が何枚も収められており、番組ではそんな恋ちゃんの最近の様子なども映し出されていた。 
 今の時代に、親から離れた所で自分たちだけの核家族の生活を楽しむ世代とは違って、昔は恋ちゃんのように、子供たちは大家族の中で一緒に暮らしていて、大きくなって家を出て行くまでの間に、そこでいろんなことを学んでいたのだ。
 
 そして番組の終わりに、同じ地域の子供たちへのアンケートの結果が伝えられていた。『人は死んだら生き返るか』という問いに、3割近くの生徒がハイと答え、その中でも、3回や4回は命がリセットされると答えた子供も多かったとのことだ。
 ともかくこれらの番組を見て、私は今のミャオのことを思い、さらに今の時代について、考えないわけにはいかなかった。
 
 間違いなく、ミャオの命は終わりに近づいている。私は、最後まで、ミャオのそばにいるつもりだが、もし万が一、ミャオが自然に元気になってくれれば、それほどありがたいことはない。それでも、もうこれからは、ミャオの傍を長く離れることなどできないだろう。北海道に戻ることなど、もうどうでもよいことだ。

 私の大切な仲間であり、友であり、家族であり、時には生きていく上での師でもあったミャオ・・・。」

  <子供の死なぬための祈り>

 『神さま、親たちのためにこの子供をお助け下され、嵐の中の草をお助けなさるように、
  母親が泣いておりますれば、神さま、後ほど、逃れ得ぬことのように、
  何もこの子供をお殺しにならずともよろしいではございませんか、
  もしもあなた様が、この子供を生かしておおきになれば、
  来年の春の聖体祭には、この子は花をまきにまいるでございましょう、
  あなた様はあまりに親切でございます、神さま、
  この子供のバラ色のほほの上に、青ざめた死を置く者はあなた様ではございません、
  ・・・・
  ああ!鐘が鳴り出します。神さま思い出しなされ、
  死んでいくこの子供の前で、あなた様はお母様の側で いつも生きておいでなされると。』

 (『ジャム詩集』 堀口大学訳 新潮文庫) 


 

ワタシはネコである(220)

2012-03-25 20:55:17 | Weblog
 

 3月25日

 薄暗い部屋、オリの中でワタシは寝ている。体には細長く続くチューブがついている。少し離れたもう一つのオリには若いネコが入っていて、今ではもう鳴くのをあきらめて、いつしか眠ってしまったようだ。

 静かだ。このまま夜が続いて、やがて外が明るくなり、朝になった。すると部屋の向こうで物音がして、やがてあの男の人が入ってきた。ワタシに話しかけ、体のチューブをはずして、また取りつける。ワタシはニャーと鳴いて、その人を見上げる。彼はワタシをひとなでして、また部屋の外に出て行ってしまった。
 あの若いネコが、またうるさく鳴き続けている。しかし、そのオリの中からは出られないのだ。どうにもならないとあきらめてし、ワタシのように寝ていればいいのにと思う。

 ワタシが、こうして病院に連れてこられてオリの中で過ごすのも、今回が初めてのことではない。去年の夏にも、さらにその前にも、二度三度と憶えのあることなのだ。だから無駄には騒ぎたくないし、待っていれば、いつかは飼い主が迎えに来てくれるはずなのだ。

 それにしても、ワタシの人生、いや猫生は、いつも待つことばかりだったような気がする。そんな思い出が走馬灯(そうまとう)のように、頭の中を駆けめぐる。
 子ネコのころ、かあさんシャム猫がいなくなり、ワタシたち兄妹三人は新しい家にもらわれていった。しかし、その家の人もいなくなり、ワタシはひとり、今の飼い主のいるこの家にやってきた。
 そこにはやさしいおばあさんがいたから、ワタシはやっと安心して住みつくことができるようになった。ところが、その家の二人も、一年に二三度、数日ほど家からいなくなることがあり、一度などは、ワタシは知らずに家の中に閉じ込められたこともあった。それでも、私は待っていた。

 さらにつらいことには、あのやさしいおばあさんがいなくなった後、バカ息子である飼い主は、ワタシを置いたままにして、長い間、北海道へと行ってしまうのだ。
 最初のうちは、何と数カ月もの間いないことがあったし、最近でも2カ月ほどの間、この年寄りネコのワタシを置いていなくなってしまうのだ。それらの日々、ワタシはただ、待つしかなかったのだ。いつかは帰ってきてくれると信じて。

 ワタシは、ノラネコ上がりだから、他の人間にはなかなかなつかず、いくらおなかがすいても知らない家に行ってまで、エサをねだったりはできないのだ。
 そこには、得体のしれない他の人間への恐怖の気持ちもあるのだが、それに加えてのワタシが家から離れない理由は、ワタシが幾らかはその血筋を受けついでいる、シャム猫としての本来の気質でもある、飼い主に対するいわば一つの忠誠心があるからなのかもしれない。
 そんなワタシのひたむきな思いを知ってか知らずか、あのバカ飼い主は、今頃何をしていることやら・・・。


 「今年は春になるのが遅い。今朝の気温はマイナスだし、晴れていても冷たい風が吹いて、気温は日中でも6度くらいまでしか上がらなかった。夕方には雪も降っていた。いつもならとっくに咲いているはずの梅の花は、まだ小さなつぼみのままだし、日当たりの良い庭先にあって、春先に一番に咲くクロッカスの花が、今ごろ咲いているのだ。(写真)
 
 そして、私とミャオの所にもまだ春が来ないのだ。
 前回書いたように、ミャオの具合が悪いままで、次の日にはいつもの動物病院に連れて行って、皮下点滴をしてもらい帰ってきた。ミャオの肩下辺りに点滴液がまだだぶついていたのだが、その効果はてきめんで、ミャオは目を大きく見開き、家の中をあちらこちら行ったり来たり、さらには外にも出るほどに元気になったのだ。
 ところが喜んだのもつかの間、翌日にはまた今までのように元気が無くなって、いつものように水は飲むものの相変わらずに全く食べずに、ストーヴの前で寝ているばかりになってしまったのだ。
 さらに次の日には、私は去年やめた仕事の残務整理などがあって、遠く離れた町にまで出かけて行って、夕方前に戻ってきたのだが、ミャオは私が朝出た時にコタツに入っていたそのままで、横になって寝ていた。そしてその元気のない状態は、翌日も変わらなった。
 
 ミャオは何も言わないけれど、いつものように鳴かないことが、体の具合の悪い証拠なのだ。もうこれ以上、そんなミャオを見てはいられなかった。再びミャオを手持ちケージに入れて、しきりに鳴くのをなだめながら動物病院に連れて行った。
 先生は、前回来た時と同じように説明し、それは高齢猫の腎機能障害の症状の一つであり、あの膀胱(ぼうこう)炎になって(1月15日の項参照)からの尿毒症なのかもしれないから、少なくとも、六日間ほどは点滴を打ちながら様子を見るとのことだった。
 私としては、今まで三度四度とミャオの命を救ってくれたこの先生に、ただお願いするほかはなかった。
 
 ひとり家に戻ってきた。家の中は静かだった。一日二日と、それは、ミャオの面倒をみるわずらわしさがなくなったことよりは、ミャオの居る気配もない誰もいない寂しさの方が、次第にふくれ上がってきた。
 一緒に暮らしていた人が急にいなくなること、そのつらさを私は母を亡くした時に十分味ってきていたのに、それと似たような荒涼たる思いが辺りに漂っていた。まだミャオが死んだというわけでもないのに・・・。
 
 ひとりであることは、それだけ自由であり、他の人に気をつかわなくてもいいから、楽なのかもしれないけれども、いざ何かのつらい悲しみにとらわれた時には、その痛みを分かち合い解決への手助けをしてくれる相手もいないということであり、自分の心の内だけでそのストレスを抱え込み対処していくしかないのだ。
 もっとも、いかに親しい人がそばにいた所で、どんな悲しみもつらさも、結局はひとりでその落とし所を考えていくほかはないのだが・・・。 

 あの芥川龍之介(1892~1927)が書いたものの中に、『孤独地獄』というごく小さな短編がある。それは作者の母が叔父から聞いた話とかいうことで、その叔父が吉原通いをしていた時に知り合った僧侶が言っていたというのだ・・・。

 『仏説によると、地獄にもさまざまあるが、およそまず、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分かつことができるらしい。・・・ただ、その中で、孤独地獄だけは、山間広野樹下空中(さんかんこうやじゅかくうちゅう)、どこへでも忽然(こつぜん)と現れる。いわば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦顕(くげん)を現前するのである。自分は二三年前から、この地獄へ堕(お)ちた。・・・そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるような生活をしてゆく。しかし、それもしまいには苦しくなるとすれば、死んでしまうより他にはない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌だった。今では・・・。』

 (『新潮文学 芥川龍之介集』 新潮社より)
 
 私がここで思ったのは、孤独を突き詰めて考えていく怖さである。実際は決してそうではないのに、周りに何もなく、すべてから見放され孤立しているのだと、自分で悲劇の王国を作り上げていき、そこに自らを追い込んでしまうことだ。
 私は、35歳という若さで自らの命を絶ったこの芥川龍之介や、あるいは三島由紀夫(1925~1970)が45歳で自死に至った理由などは理解しながらも、さらには、彼らの天才的な至高の文学作品群を高く評価しながらも、人間として生き抜くことを避けたということでは、私なりの今の倫理的な観点からは、その生き方をとても讃美する気にはなれないのだ。
 それは、同じく天才的な才能に恵まれていても、前回書いた、中島敦や樋口一葉などの様に、自らが望まぬ病に倒れて、夭折(ようせつ)した作家たちのへの、哀惜の念とは全く異なった所にあるからだ。
 つまり、死という形に向かって自分の芸術作品をまとめ上げていった作家たちと、死という障害によって自分たちの文学作品を、思うようには完成させられなかった作家たち、その間に横たわる生き方の大きな深遠を感じてしまうのだ。

 しかし、若いころには私はむしろ前者の立場にあり、今とは逆の考え方だったのだ。前にもあげた、あのアンドレ・マルロー(’11、12.8の項)などのいわゆる行動主義の作家たちが言うように、”生にしがみつき死におびえているよりは、死を意識して立ち向かうことの方が、いかに生き生きとした生に満ち溢れていることか。つまり積極的に死に向かうことこそは、積極的な生に他ならない。そこにおける死は、より明らかに生きようとした結果の一つに過ぎないのだ”。

 思えば、若さゆえのあふれる情熱は、そうした煽情(せんじょう)的なアジテーションに共感するのだ。確かにそんな若者たちの力で、社会は変わり時代は動いてきた。
 しかしその一方で、今までの歴史を振り返ってみれば分かる通り、それらの若者たちを奮い立たせる言葉によって、またいかに多くの若者たちの命が失われていったことか。
 それらはいつも、集団、群衆心理の喧騒の中でふくれ上がり、波及していったのだ。(今の若者たちが、サッカーの試合などで見せる興奮ぶりが、いかに健全なものに思えることか。)

 ただし、私はその行動主義的な言葉に酔いながらも、決して集団の中に加わろうとはしなかった。いつも『群衆から遠く離れて』ひとりいたのであり、目指したのはひとりで行く遥かな世界だったのだ。
 私はバイクにまたがり、砂漠の中の道を地平線のかなたを目指していた・・・蒼穹(そうきゅう)の空の下、オーストラリア大陸が広がっていた・・・。

 人は誰でも、自分がひとりで何かを成し遂げた時の思い出を、心ひそかに持っているものだ。それこそが、これからひとりでいる時に、新たな困難に陥った時に、大きな心のよりどころになるだろう。
 若き日の冒険は、死を賭(と)してまですることではないかもしれないが、死に隣り合う困難を乗り越えてこそ、高みに向かう自分が見えてくるはずだ。そして思うだろう、生きていることは、素晴らしいと・・・。

 ここまで書いてきたのは、ミャオが病院に行ってこの家からいなくなり、数年前に母が亡くなった時のあのつらい思い出がよみがえってきたからであり、さらにそのことで、すっかり気が滅入ってしまい、これではいけないと自分を励ますためでもあったのだが。
 そこで思い出したのは、前に読んだことのある本の一節である。

 『人間がこれまで考え出したり、、作り出してきた遊びや文学の多くは孤独の産物であり、同時に“孤独地獄”から逃れるための試みであったと言うこともできるのである。』

 (『孤独の研究』 木原武一 PHP研究所)

 

ワタシはネコである(219)

2012-03-18 20:15:08 | Weblog


3月18日

 寝る、寝る、寝る・・・ひたすら寝ている。体の具合が良くないのだ。何も食べたくないし、時々吐き気がする。たまに水を飲むくらいで、何も食べずにもう数日になる。ワタシが今年で17歳になる年寄りネコであることは、自分でも分かっている。
 誰だって年をとれば、体のあちこちの調子が悪くなるものだ。その中でも食欲がないのが一番困ることだ。体の元気の素であるエネルギーを補給できないからだ。もうあとはただじっとして寝ているほかはないのだ。
 ワタシが子ネコだったころ、母さんネコからよく言い聞かされていた。

 「体の具合が悪くなったならば、どこか誰も来ない所に行って、ひとりで静かに寝ていなさい。体の中で悪さをする悪霊たちは、ワタシたちとともに生きているのだから、こちらがじっとしていればヤツらもおとなしくしているほかはなく、そのうちに、ここにいるのは退屈で嫌だと言って逃げ出してくれるからね。」

 傷は自分でなめて治し、病気は寝て治す、これがワタシたちネコ族の昔から伝わる伝統の教えなのだ。
 この冬になって、食っちゃ寝ばかりで少し太り気味な体だったから、その分まだ体力は残っていて、昼間には、飼い主と一緒にいつものトイレ散歩に出かけることもあるのだが、トイレをすませた後の、少し遠くまでの散歩には、とても体がだるくて行く気がしない。
 ところが少し前までは、その散歩の途中で、倒れかかった木の幹に上るほど元気だったのに(写真)。もっともそれを言えば、数年前までは立ち木にさえ、ダダーッと一気にかけ上がったくらいだったのに。

その昔、若いころ、けがや病気になった時は、母さんの教え通りに家から遠く離れたところに隠れていて、そこで治そうとしたこともあったのだが、今はすっかり年寄りになってそんな遠くへ行く元気もないし、むしろ飼い主がそばにいてあれこれと面倒を見てくれることの方がありがたいのだ。
 ともかく今は、体力がまだあるうちに何とかこの病気を治さなければならない。せっかく、このところ暖かくなって、春めいてきたのだから。


 「ミャオの食欲がないのが気がかりだ。10日ほど前から、それまで食べていたキャットフードや細かく切って出した生魚を、ほんの少ししか食べなくなり、数日前からは全く食べなくなった。水は飲んでいるし、トイレにもひとりで外に出てしているし、そうつらそうでもないし、ひどく弱った状態でもないのだが、今までの時折見せていた元気の良さが無くなったのが心配なのだ。
 いつもお世話になっている動物病院の先生に電話で聞いてみても、当然のことながら病名を特定はできないとの答えで、私としてももう少し様子を見るほかはないと思っているのだが。
 
 ともかく考えられるのは、去年の暮れにかけてのあの入院騒動にもなった、しっこが出ない膀胱炎(ぼうこうえん)の影響からの腎臓病関係の症状の悪化だろうが、これ以上食べないようであれば再び病院に連れて行くしかないだろう。
 ミャオがこんな状態のままでは、私はとても北海道へ行けるわけはないし、去年の夏にかけての入院の時のように、しばらくは傍にいて面倒を見てやらなければならないだろう。
 ミャオの命と比べれば、取るに足りないことだが、割引で買える飛行機の切符は一か月前までだし、いろいろと考えてしまう。
 
 ミャオとすれば、唯一の頼りである飼い主の私に、いつも傍にいてもらいたいのは当然のことだし、私とすれば残りの人生を考えて今のうちに好きな山に登っておきたいし、行きたい所には行っておきたいという思いがある。難しい選択だ。
 それは、母をこの家に置いて北海道へ行っていた時と同じように、誰でも、残した者のことを考えてしまうだろう。そのひとり残された者にしても、その人がまた戻ってくるという、確実な望みやあてがあればまだいいのだが。

 先日の東日本大震災一周年のある特別番組の中で、自分の住んでいた所から遠く離れた所にある、被災者用のプレハブ長屋住宅に住む60代の男の人が、ひとりコタツに入って少し酒に酔った顔で番組の担当者に話していた。

 『周りに話し相手もおらんし、こうして酒飲んで、死ぬのを待っているようなものだ。』

 それは酒を飲んでいたからこその、目の前の今の話し相手(担当者)に対するだけのグチだったかもしれないし、いやそれ以上に、長らく会っていない周りの家族や知り合いたちに対する本音の言葉だったのかもしれない。

 今、毎日の会社勤めがあること、働く場があること、あるいは退職後にも、他の仕事があること、好奇心の向うべき学びの場があることなどなど、つまり、人は死ぬまで、働くことにかかわりあって生きていかなければならないのだ。それが人間の性(さが)であり、喜びでもあるのだから。

 それは、古代ギリシアの神々のいた時代にも言われていたことだ。

 「お前がどのような運に生まれついているにせよ、働くにしくはない、・・・仕事をせよ。」(『仕事と日』ヘーシオドス、松平千秋訳 岩波文庫、あるいは『労働と日々』と訳されることもある。)


 ところで、私は去年の夏に、自分の職業からは完全に身を引いて辞めてしまった。それによって、大きな収入源を失うことになり、今では何とかやりくりをして生きていくほかはない、いわゆる背水の陣にも等しい生活を送ることになった。
 しかし、一方では、ようやく念願の、私だけの神の固き砦(とりで)に入ることができて、青空に囲まれているような安ど感に満たされた気持ちにもなれたのだ。

 それでも、今の私には、他にやるべき仕事がいろいろとある。それは、会社勤めなどの義務を負わされた仕事ではないからまだ楽であり、あくまでも個人的な思い入れによる、自分のためにやらなければならない仕事でしかないのだが。
 ただ、このひたむきに思い続けることこそは、他人の眼から見れば、ある時にはひとりよがりなだけの強情なわがままな振る舞いとしか映らないだろう。しかし 、この一途さこそが、その人の人生を、善し悪しはともかくとしても、個性的なものとして強く意味づけすることにもなる、つまり自分の意に沿った人生を生きたことになるのだ。

 体を休めて寝ることで、何としても自分の病気を治そうとするミャオのやり方も、それが本能的なものに過ぎず、人間のような科学的な結果を予期しての行動ではないとしても、そこには飼い主の助力にも耳を貸さずに、自分だけでやり遂げようとするがんとした意思を感じるのだ。
 そうなのだ、本能というよりは、ミャオいう動物が持っている、生きることへの誇りというか・・・、決して、自分から死んでいくとか死を待っているようなものだとは言うはずももない、生きることへの強き意思・・・。
 
 人間にとっても大切な、それらの生きていく上での矜持(きょうじ)は、今でも私たちの間に残されているだろうか。
 思い出すのは、あの中島敦(1909~1942)の名作短編『李陵(りりょう)』であり、その中の一シーンが目に浮かんでくる。

 中国は武帝統治下の漢の時代、李陵は、北方の脅威であった匈奴(きょうど)との戦いに敗れて降伏し、そのことを誤解した武帝の怒りにふれ、残してきた自分の家族を処刑されてしまい、敵方に請われて匈奴の将軍になった。
 しかし、その前に同じように捕囚になっていた、李陵の友人でもあった蘇武(そぶ)は、母国への義を曲げることなく、敵地での貧窮(ひんきゅう)の暮らしに甘んじていた。そこで、今や敵味方となった二人が再会するのだ、万感の思いとともに。そして李陵は感じたのだ。

 『繿縷(らんる、ぼろ布)をまとうた蘇武の目の中に、時として浮かぶかすかな憐愍(れんびん、あわれみ)の色を、豪奢(ごうしゃ)な貂裘(てんきゅう、テンの毛皮)をまとうた右校王(うこうおう)李陵は何よりも恐れた。』
 (学習研究社版 『現代日本の文学』より)
  
 目に浮かんでくるような素晴らしい一シーンである。このような名作を残した中島敦は、わずか33歳という若さでこの世を去ったのだ。日本文学でも、早逝(そうせい)した作家たちは少なくないが、あの樋口一葉とともにまことに惜しまれる才能の一人であった。
 
 この『李陵』は、若いころに読んだ小説の中でも、強く心ひかれた作品の一つである。
 当時、巷(ちまた)の若い人たちの間では、任侠ものの映画、つまりヤクザ映画がはやっていて、私も映画が終わった後、肩を怒らせて映画館を出てきたくちの一人だが、もちろん映画の本質は、最後の男一人だけでのなぐり込みという決着のつけ方にあるのではなく、この世の義理と人情のだんだら格子紋様の世界を描くことにあったわけであり、日本人の心として共感できるものを多く含んでいたからでもある。
 それは思えば、江戸時代の近松門左衛門(もんざえもん)や井原西鶴(さいかく)などから、明治の尾崎紅葉(こうよう)、幸田露伴(ろはん)、森鴎外(おうがい)、樋口一葉(いちよう)などへと続いていった、日本文学が受け継いできたもの、日本人の心根にある義への信奉心と情への熱き思いの葛藤(かっとう)、が描かれていたからでもある。
 私の思う、最も好ましい日本文学の時代でもある、これらの作家たちとその作品については、またいつか一人ずつ振り返り思いながらここに書いてみたいのだが。

 今まで人間が積み重ねてきた文化の世界は、私が目を向けているものでさえ、世界文学、日本文学、哲学、宗教、絵画、音楽、映画などなど、余りにも多岐にわたっているし、それは、日ごろからぐうたらな私が何度生まれ変わって挑んだところで、とても到底知りつくせないほどの広大な世界なのだ。

 その広大無辺に広がる星空の中で、たとえ、神様に星をとりに行かせてくださいと頼んで(2月12日の項参照)、もし行けたところで・・・、私は、今まで、ひとつかみの星でも手にしただろうか・・・否。」
 
 

ワタシはネコである(218)

2012-03-12 20:13:16 | Weblog


3月12日

 全く、いつまでこう寒い日が続くのだろう。朝、飼い主が起きてきて、ワタシもコタツの中から出てくる。ニャーと鳴いて、少しエサを食べたり水を飲んだりする。時には、外に出てトイレをすませてきたりする。
 さらに昼間に一度、飼い主との短いトイレ散歩に出た後は、ただ、夕方のサカナの時間までひたすら寝ている。時々寝ている位置を変えたり、あるいは部屋に入ってきた飼い主に気づいて起きたりするだけで、ともかくずっと寝ているのだ。

 しかし、夕方に魚を食べた後はなんだか目がさえてきて、夜遅くなって飼い主が私の部屋から出て行くまでは、しっかりと起きていて、飼い主が食べているうまそうのものをねだったり、遊び相手になってくれるようにとか、さらにはあの少し乱暴なマッサージをしてくれるようにと、ニャーニャー鳴きかけるのだ。
 そんな時、飼い主の声が少し高くなってワタシに文句を言っているらしいのが分かるので、ワタシのニャーの声もつぶやくように小さくなる。

 ただでさえ余り見たくもない、飼い主の目のつりあがった顔など怖ろしいから目をそらして、仕方なく寝るしかないのだ。あーあ、他に仲間のネコもいなくて家族が少ない家に飼われているネコは、飼い主が言っていたように、人間の家族のひとりっ子のようなものだ。
 エサなどはひとりでゆっくりと食べられるし、自分だけの面倒も見てくれるからいいように見えるが、やはり、さびしいのだ。ひとりネコはつらいよ。


 「朝の気温はマイナス5度、日中も5度くらいまでしか上がらず、風は冷たくまだ冬の季節のままだ。ライブカメラで見る山には、雪が積もっていて、昨日は風も強かったから霧氷の花が咲いてるだろうが、あまり行く気にもならなかった。

 それはいつもながらの、日ごろからのぐうたらな根性なしのせいでもあるのだが、この一週間に放送された東日本大震災関連の番組を見て、特に昨日は震災後一年目にあたるということで、各放送局が意を尽くしての番組を制作していたので、それぞれの番組を見てしまい、すっかり疲れては気持ちが滅入ってしまったからである。
 とてもそんな日に、私個人の備忘録でしかない、このブログを書く気にはならなかった。そのうえ、他の重要な情報や、個人的に大切な報告などが、ネットを通じてやり取りされている時に、私とネコの話などで、無駄な回線を使いたくはなかったのだ。

 一夜明けて、今朝の新聞TV欄には、もう特別な震災関連の番組は見当たらなかった。もちろん、昨日で被災地のことを忘れてしまったわけではないのだろうが、あまりの放送番組編成の落差に何か割り切れぬものを感じてしまう。
 しかし被災地以外の人々にとっては、これからも自分たちの毎日がある訳なのだから、いつまでも関りあっているわけにはいかないのだ。
 平穏な自分たちの日常の中に、放射能汚染の恐れのある被災地のガレキなど受け入れられるわけがないし、莫大なお金がかかる復興費を捻出するために、それがすべての国民の税金負担ということでしか解決できないとは分かっていても、まわりまわっての消費税率上げなどとは許せないと、不満続出するのも無理はない。
 つまり、絆(きずな)という流行りの言葉に酔うのはいいが、自分たちには何よりも差し迫った今の生活の方が大切なのだという言い分も、分からなくはない。

 しかし、いつもよく例えにあげることだけども、小指一本をケガしても、日常生活に大きな不便を感じてしまうように、それはケガをした本人でしか分からないことであり、他の人たちにとっては同情こそすれ、大した出来事ではないのだ。
 さらに言えば、ヌーの大群がライオンに襲われ、その中の一頭だけが犠牲になると、他のヌー達は遠巻きにして、仲間の一頭が食べられているのを見ているだけだ。ああ、自分でなくてよかった、これからも注意しようと。

 私は誰が正しく、誰が間違っているなどと言える資格もなく、ましてはその判断力すらもない。
 被災地の方では被災地の方で、それぞれの立場環境があって、復興に向けての具体案でさえ、決して全員一致というわけにはいかないのだ。行政が悪いというのは簡単だが、たとえそれらがより良い形で整備されていたとしても、すべての人が痛みを伴わずに満足するという方向など、決して見い出せないだろう。

 これほどに人それぞれの思いがからみ合い、遅々として進まぬ復興を押し進める解決策は一つ、極論すれば独裁者の登場、帝国主義的強権政治の復活以外にはありえないのだ。あのナポレオンが指導したパリの都市計画などのように。
 しかし今は民主主義の世の中であり、そうしたことはできないのだから、後はその遅々とした歩みの中で、日本人的な合意形成がなされていき、いつかはそれぞれが落ち着くべきところへ落ち着くという形になるのだろうとは思うのだが。
 そのために、今すぐ誰でもができることは、ささやかながらの復興資金援助、募金に応じることぐらいだろう。男は黙って、金を出す。私も、そうしたい。

 ともかくこの1週間、私は大震災関連の番組を言葉もなく見続けるばかりで、気持ちはすっかり滅入ってしまった。すべては、もちろんドキュメンタリーの映像で構成されていたのだが、そこには各局のそれぞれの意図があって、ドラマ性を持たせて人間性に訴えかけるものか、あるいは記録的検証としての事実に訴えかけるものかだった。
 いずれの切り口が良かったのかという問題ではなく、それほど多様に、大地震、大津波、放射能汚染の事件が、被災者全員に起きていたということだ。

 子供を親を、妻を夫を亡くして、いまだに悲しみがいえない人々。私はそれをつらい思いで見ていた。
 数年前、私は一緒に暮らしていた母を亡くした。それも、突然に。

 1週間ほどは、これほどまでに涙が出るのかというほどに、ひとり母を思い出しては泣いていた。母がいないのだ。傍にいるのはミャオだけだった。
 その後、ひとり家にいて、誰とも話さず悲しみに沈んでいるのに耐えられなくなって、天気のいい日には、近くの山や谷を歩き回った。
 百か日が過ぎて、北海道に戻り、そこで何人かの友達に会い、いろいろと話すことで大分心も慰められた。その時に考えていたのは、悲しみに沈みふさぎ込んでいては、母は喜ばないだろう、喜んでいる子供の姿こそが、親の望みなのだからということだった。

 さらにミャオのいる九州との間を行き来しながら、少しずつだが、涙を流すこともなくなってきた。そして三年目を過ぎたあたりから、ようやく母の遺品などを冷静に見ることができるようになって、さらに時が過ぎ、七回忌を過ぎて、ようやく感情に流されずに、母の死を、自分の心の一か所に事実として刻印することができるようになったのだ。

 非情にも、歳月は人を待たずというけれども、また逆に歳月はやさしく人を救うこともあるのだ。
 今までも書いたことのある言葉だけれども、映画『ライムライト』(1952年)でのチャップリンのセリフだ。
 『時は、偉大な作家である。いつも見事な結末を用意してくれる。』

 悲しみに沈んでいる人に、いくらこんなことを書き連ねても余り意味のないことは分かっているのだけれども、どうしても自分の体験に重ね合わせてしまうのだ。
 さらに書き加えたいのは、この大震災で家族を失い悲しみに暮れている人たちのことばかりが、大きく取り上げられているけれども、実はその何百倍もの人々が、日本各地でそれぞれの事故や病死によって、自分の家族を失い涙を流しているということだ。ニュースとして取り上げられることもなく。
 もちろん彼らの悲しみが、大震災の被災者たちの悲しみに比べて劣る訳ではない。ただ、世の中に知られることもなく、自分だけの悲しみの中にいるだろう、今もどこかで。

 こうした人間の老病生死の別離の悲しみは、人間が地球上に現れて以来の、家族をつくり生活を営んできた人間の宿命でもある。そしてこれらの悲しみは、古来、様々な哲学・文学・芸術の主題として取り上げられ、繰り返し語られてきたのだが、しかしいくら時代を経てもなんら変わることはなく、誰も救うことなどできはしなかったのだ。
 そこで、頼るべき宗教が生まれた。

 去年9月に放送されたNHK教育の『100分で名著』の『ブッダ 真理のことば』が、この3月にアンコール再放送されている。今の時代だからこそ、日本人の信仰の中心であった仏教に対する関心が、それだけ高くなっているということなのだろうか。
 この放送については、前にも書いたことだから(’11.10.1の項)今は詳しく触れないけれども、一連の大震災の番組を見て、かつて読んだことのある中村元訳の『ブッダの真理のことば、感興のことば』(岩波文庫)に書かれていた幾つかのことを思い出したのだ。

 『愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。』

 『それゆえに愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。』

 『愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?』(以上『真理のことば』第十六章 ”愛するもの”より)

 (上の”愛するもの”の章での12の項目は、『感興のことば』ではその第五章で、さらに拡大され27項目になって書かれている。かなりの部分が重複する、この『真理のことば(ダンマパダ)』と『感興のことば(ウダーナヴァーガ)』の関係については、当該文庫本やNHKテレビテキスト3月号を参照のこと。
 いずれにしてもこれらは、私たちが学校の歴史の時間の中で学んできた、中国経由の大乗(だいじょう)仏教ではなく、南方のスリランカ、タイなどに伝わった小乗(しょうじょう)仏教の経典であり、つまり私たち日本仏教徒にとっては、知られざるブッダの原初の教えであり、もう一つの仏教経典なのである。)

 さて、これらの文章を若い時に読んだ私には、全く納得のいかないものばかりだった。つまり、そのころは若さのただ中にあり、ジョン・レノンの歌の一節”Love is all”の世界こそがまさにすべてであり、誰かを愛することにひたむきな時代だったのだから。
 当然のことながら、そんな私に“愛する人をつくるな”などという言葉は、到底受け入れられるものではなかった。それだからだろうが、その時にはこの本を最後まで読み終えることはできなかったのだ。

 それからおびただしい時が流れ、私はいつしか無駄な経験ばかりを積んだ一介の老獪(ろうかい)なオヤジになってしまった。しかしそれだからこそ、この“愛するもの”の章の意味が幾らかは分かってくるようになったのだ。

 この小乗仏教は、今ではその蔑視(べっし)的な名前に代えて、上座部(じょうざぶ)仏教と呼ばれるようになっているが、大まかに言えば、大乗仏教が一般大衆向けであったのに比べれば、こちらは戒律を守る修行僧たちのためのものであったと言えるだろう。
 つまり、上の言葉は、それらサンガ(僧団)の中の修行僧が、バラモン(司祭者)へと至るために書かれたものなのだ。と考えてくると、余分な愛欲を持つことが、修行の妨げになることは言うまでもないし、様々な煩悩(ぼんのう)を越えた所にある悟りの境地へと、その安穏(あんのん)の世界を目指すためにという、ブッダの教えの意味が少しは見えてくる。

 ただこれをそのまま、被災者たちの悲しみにあてはめて敷衍(ふえん)することなどできはしないけれども、私は思うのだ、家族との永久(とわ)の別れの悲しみを味わわないですむためには、そうした周りの愛する人たちと離れることであり、その代わりに、そこは孤独の不安に満ち満ちているということを。
 つまりサンガ集団の中にあって修行するということは、そうした不安から逃れる意味合いも含まれていたのだろう。
 前にも書いた、あの鴨長明(かものちょうめい)が『発心(ほっしん)集』を書くことを思い立ったのは、まさに一人で仏道へと向かうことへの不安の思いがあったからに違いない。(2月26日の項参照)

 生きること、死ぬこと、家族を持つこと、ひとりでいること、それぞれに余りにも重いテーマであるが、大震災一周年の放送番組を見て、私もしばし、考え込まざるを得なかったのだ。

 最後にいくつかのニュースから。

 『あのころ、才色兼備の輝くばかりの美しさの盛りにいた、有名なテレビ・キャスター、タレントだった彼女が、認知症の父親を見とった後、数年後に自宅で孤独死を迎えていた。享年51歳。その遺体のそばでは、飼っていた犬二匹が鳴いていたとのこと。』
 
 『ある作家が、自宅で首を絞められて殺されていた。犯人は今年81歳になる母親だとのこと。享年51歳。』

 『ある男が、自慢の愛車フェラーリで、40km制限の公道を120kmほどで走る姿を自分の車載カメラで撮って、ネットの動画サイトに投稿していた。そのフェラーリは3000万ほどもするクルマであり、運転していたのは50歳の医者とのこと。書類送検されただけ。』

 世の中とは、そんなものなのかもしれない。ただ私は、前回書いたように、今は、相変わらずのフィルム・スキャン作業に取り組んでいる。
 昔、登った山々が、モニター画面いっぱいに映し出される素晴らしさ。私はあの時に感じたように、同じ今を感じるのだ。ありがとう、山々。ありがとう、母さん。ありがとう、ミャオ・・・。」

 (写真は、10年ほど前の初冬のころ、中央アルプスは千畳敷カールからの朝焼けの宝剣岳。)

 

 

ワタシはネコである(217)

2012-03-04 21:01:58 | Weblog


 3月4日

 天気は悪いし、まだ春らしくもない。寒いし、毎日ストーヴの前で寝て過ごすほかはない。
 飼い主が、そんな寝てばかりいるワタシの所に来るのは、朝と昼と夜の食事の時だけで、その時は、何かうまそうなものを食べながら、しばらくはテレビを見ていたり、ワタシの相手をして少しは遊んでくれたりする。その他は、自分の部屋か居間にいて、パソコンや何かの音が聞こえ、時には大きなくしゃみやオナラの音がして、そして突然のバカ笑いの声が聞こえてきたりする。
 あーあ、あの亡くなったばあちゃんは、こんなバカ息子を持って、どれほど心配だったことだろう。それでもばあちゃんは、昔の人のけなげな一途さで、こんなどもならん(方言、どうにもならない)バカ息子になってしまったのも、すべてはあたしの育て方が悪かったからだと、傍にいたワタシをなでながらよく言っていたものだ。

 時々飼い主がワタシに、もったいぶったそぶりをしては、恩着せがましい小言を言うのが気にさわる。しかし、それで飼い主がワタシを飼って面倒を見ているつもりなのかもしれないが、ところが実は逆に、亡くなったばあちゃんの代わりにワタシがそばにいて、バカ息子がふらふら外に出歩かないように、毎日見張っているということなのだ。

 時には、じっと飼い主の顔を見る。髪には白いものが混じり、あの鬼瓦顔にもすっかり寄る年波のしわが目立ち、目はどんよりとして覇気(はき)もなく、面白くもないクソ親爺(おやじ)の顔だ。
 ばあちゃん亡きあと、ワタシがそばにいて見守ってやらなければ、誰が他に・・・ああ、何と哀れな男だろう。ワタシは、思わず目をそらして、寝ていた前足の上に頭を載せて考えるのだ。

 そんな私の心配も知らずに、飼い主はワタシとしばらくにらみ合ってワタシが目をそらすと、自分が勝ったとばかりに、薄笑いを浮かべているのだ。全く単純で、何も分かっちゃいないのに。とてもワタシは先には死ねない・・・。
 ”バカな子供ほど可愛い”という言葉もあるけれど、正確な意味は、手間のかかる子供ほど気になって、これから先のことを考えると不憫(ふびん)に思える、ということなのだろう。
 そういえば、飼い主がよく読んでいる本の中に、こういう一節があった。

 「・・・。私は見た
  両目にシミのできた一人の老いた物乞いが、
  わなわなして、尾をまたにすくめこんだ彼の哀れな犬を、虐待(ぎゃくたい)するのを。
  
  彼は犬を引きずって 縄で首を締めつけながら 言っていた
  ”わしは三度もこいつを水中に捨てた
  それなのに綱が切れて この豚め 這い上がってきやがった”と。

  縄はいよいよ引っ張った。するとこの老人の
  貧苦の伴侶(はんりょ)の老犬は 主人に向かって言うらしかった
  ”殺さずに置いてください あなたのホコリだらけの着物の裾にすがらせて下さい”と。

  それなのにこの老人は 人間でありながら 犬にも劣るか言っていた
  ”豚め!豚め!今度こそ殺してくれる・・・”と。

  さてその犬とその物乞い 鉛のような空の下を並んで歩いて遠のいた。」

 (『ジャム詩集』堀口大学訳 新潮文庫)



 「数日前に、全国的に雪だったあの時に、ここでもかなりの雪が積もった。とはいっても平年と比べれば少ない方なのだが、25cmというのは、今年一番の積雪だった。そこで今年、二回目になる雪かきをしたが、雪が湿っていて重たく、1時間ほどの仕事ですっかり汗をかいてしまった。
 それなのに、やはり春の雪で、翌日には半分が溶けてしまい、さらに次の日の雨でほとんどが消えてしまった。この10日ほどの間、晴れた日は二日だけだった。さらにこれからも、曇りや雨の日が続くという予報であるが。

 今、私は、長い間の自分の懸案の一つだった、カメラのフィルムをスキャンする作業に取りかかっている。それは、今まで一枚一枚を写真屋で大きく引き伸ばしては高くついていた写真を、自分の家でそのフィルムをスキャナーにかけてスキャンし、デジタル化することによって、パソコンやテレビなどの大型画面ですぐに見ることができるようになるからだ。
 実は去年も、まずはあの若き日の6か月にわたるオーストラリア旅行の時の、35ミリのポジ(スライド)・フィルムから始めようとしたのだが、そのうんざりするほどの手間ひまのかかり方に、最初の30枚ほどで挫折してしまい、そのままになっていたのだ。

 そこで今回は、まだ9割ほども残っているオーストラリアのスライド写真よりは、今の私の大きな楽しみの一つである山の写真の方を、それも中判カメラで撮ったポジ・フィルムから始めようと思ったのだ(それでも200本くらいはあるだろうが)。それは35ミリフィルムと比べれば、大きなサイズだから、仕上がりの画像もきれいなのだ。(他にも35ミリのネガ・ポジがごっそりと残っているが、今は考えないことにする。)

 さてとりあえず、私の記憶に強く残るものをと、初冬の八ヶ岳(硫黄岳~赤岳)縦走(写真)と、同じく初冬の中央アルプス駒ヶ岳周辺の写真から取りかかった。そしてその結果、相変わらず手間ひまはかかるものの、仕上がりは素晴らしく、今まではほんの一二枚だけの写真を四つ切か六つ切りに引き延ばしプリントしただけだったのに、今や全部の一コマ一コマの写真を大きく、22インチや37インチの画面で見ることができるようになったのだ。

 何という新たな喜びだろう。写真愛好家の中には、きれいなモデルさんやネエちゃんたちの写真を撮っては、現像し引き伸ばして見て、喜ぶ人もいるというが、その気持ちがよく分かる。
 私の場合は、何の気遣いもなく対面して、気兼ねもなくシャターを押せるのは、自然の風景であり山だけだからなのだ。
 すっきりと伸びた頂上部分、腰回りのどっしりした量感、そして谷筋の切れ込み具合・・・。うーたまらん。断わっておくがこれはあくまでも、私の好きな山のことであり、キレイなネエちゃんたちのことではないのだから。

 ところで、私もそこいらのおじさんたちと変わりなく、テレビ番組の『人生の楽園』や『家族に乾杯!』それに『新婚さんいらっしゃい』などはよく見ているのだが、それらの話が今の自分とはかけ離れていても、幸せで明るい家族を見るのは楽しいものだ。
 そんな『人生の楽園』の中で、一カ月ほど前の放送だったが、都会での仕事を辞めて、秋田内陸鉄道の小さな駅の駅長兼何でも屋になって、毎日を楽しく働いている人の話があった。大の鉄道ファンがこうじての決断だったそうであるが、彼はひとり暮らしの家の中で、自分が撮った鉄道写真を見ながら食事をとっていた。

 世の中から見れば、彼もまたたぶん変わり者の一人でしかないだろうが、好きな対象こそ違え、同じ様な人生を送っている人がいるのは心強いことだ。
 前回にも少しふれた、あの鴨長明の『発心(ほっしん)集』の意図するところと同じことだ。つまり、本来、人はひとりでは心もとないものだから、自分がひとりで歩む道への不安感は、誰にでもある。それゆえに、今の仲間ではなくとも、同じ志の人がいるということを知っただけでも、何かしらの心のよりどころになるのだ。
 他人の振るまいや言葉によって、初めて気がついてすべてが感化されるというわけではない。すでに自分の中にそういう志向性か芽生え始めていたからこそ、それがきっかけになって自分の意識上に表れ、そこではっきりと気づくということだろう。
 つまり逆に言えば、そういうことに興味のない人に、いくらその言葉を聞かせ見せたところで、反応は返ってこないのだ。

 数日前のNHKの朝のバラエティー番組に、田舎暮らしファンには有名な、あのベニシアさんが出演していた。イギリスの貴族出身で、若いころにインドを経て日本に来ていたベニシアさんは、日本人との結婚離婚の後、山岳カメラマンの今のご主人と再婚して、京都は大原の里に住み、里山暮らしを楽しんでいるのだが、そんな彼女の暮らしぶりはたびたびテレビで紹介されいて、今でもNHK・BSでは、『猫のしっぽ カエルの手』という番組で放送され続けている。
 今回は、そんなベニシアさんの、いつものハーブ・ガーデンだけではなく、彼女の半生をたどる話や彼女の生き方、考え方についても取り上げていた。
 そこで、その番組での彼女の言葉をいくつかあげてみると。

 『人生は40歳から始まる』
 『困難によって人は宝石のように輝く』
 『人生とは嵐が過ぎ去るのを待つのではなく、雨の中でダンスをするのを学ぶこと』
 『ものを見てまず感じて、感動すること、すると感謝の気持ちがわいてくる』
 
 これらの言葉は別に、ベニシアさん独自の言葉だとは思わない。言いかえれば、今まで私たちが何度も目にして聞いてきたような言葉なのだ。ただ同じように思っていても、自分の意志としての言葉が出ない時に、誰かがその通りに強く言ってくれれば納得するのだ。これが私の求めているものだと。
 (これは余分なことかもしれないが、私は、名言格言の類(たぐい)の言葉は、古代ギリシャ時代にあるいは古代中国の時代までに、すべて言われていたことだと思う。後世の人たちが、そんな昔の言葉があるのを知らなかったとしても、それを言い換えただけなのだ。つまり人間の考えていることは、昔からの時代を通して何も変わっていないし、同じことを考え悩んでいるのだと。) 

 ところで、もちろん、そうした言葉とは逆の、納得できない言葉を聞く時もある。これもまた一週間ほど前の夜のバラエティー番組の中で、最近ではCMやナレーターでも有名なある男優が、言っていたのだが。
 『歳をとっても、いいことなんか何にもないよ。』
 私はその時に、そう言ってしまった彼を、ただかわいそうだとも、自分の人生なのにもったいない考え方だとも思わなかった。人それぞれだから、そう言ったのが間違っているとはいえないし、逆にむしろ否定や悲しみの中にあるからこそ、己の傷がいやされ、新しい出発へと向かうこともあるのだからと。

 たかが、フィルムをスキャンしてのデジタル化の話から、すっかりそれてしまい余計なところへ行ってしまった。いつもその日のうちに書き上げようと、思いつくままブログ記事を書き進めていく私の悪いクセだ。

 とはいっても、写真関係の話のついでにもう一つ加えれば、前回書いたニコンのデジタル一眼レフ・カメラのフルサイズ高画素機の発表から、その一カ月後に今度はライバル社のキャノンから、同じフルサイズ機の3年ぶりのマークⅢが発表された。
 とある一眼レフ・カメラのクチコミ・サイトは、もう大騒ぎなのだ。カメラ関係者らしい技術者から、プロカメラマンらしい人にハイアマチュアの人たちが、両社サイドに入り乱れて、そりゃもう大変な興奮ぶりなのだ。

 しかし、はたからそれを見ている分には、高次元の技術的な話から低次元のののしり合いまでと、実に面白く読ませてもらっている。なにより、時々見られるユーモアたっぷりのコメントには、思わず声をあげて笑ってしまうほどだ。
 最近こうしたクチ・コミサイトでは、お金を払ってのやらせが問題になっているが、少なくとも、このカメラのサイトでは、なかなかにうるさい常連さんたちが目を光らせていて、ただ少し乱雑で”どや“顔的な書き込みがあるのは気になるが、それでも一方的に偏(かたよ)らずに進行しているように見えるし、彼らの話から多くを学ぶこともあるのだ。
 家電業界、車産業と日本企業の地盤沈下が目立ってきているけれども、どっこい、このカメラ業界だけは、ほとんど日本メーカーの独占状態なのだ。それを引っ張るニコンとキャノンのそれぞれの新製品については、私はただもう見ているだけで嬉しくなってしまうのだ。

 本当は他にもまじめに書きたいことがあって、例のフランス映画についてや『ブッダのことば』についてなどいろいろとあったのだが、長くなりすぎたので、もう一つだけ。まず昨日の新聞の一面広告に、新しいBS映画有料チャンネルが開局され、この一週間は無料放映だと掲載されていた。
 早速番組表を見て、その中の幾つかに予約録画を入れたのだが、何とそこに『去年マリエンバードにて』(1月22の項参照)があったのだ。どひぇー、この映画はもうNHK・BSでさえ放映されることもないだろうと、この前DVDを買ったばかりなのに。
 それにしてもこのチャンネルでの方針は、他にもあのドライヤーの『奇跡』なども入っているし、ハリウッド娯楽映画路線がメインの、既存の映画放送チャンネルとは少し違う気もするのだが、もし今後、有料化後に『第七の封印』や『ピロスマニ』や『火の馬』や『鏡』などが放映予定されれば、その時は・・・ああ、私もエサに食いついて釣られてしまうかも。


 雨の降る日もあれば晴れる日もある、楽あれば苦あり、苦は楽の種、楽は苦の種。人生はいつも折半、いいことがあれば必ず悪いこともあるし、悪いことばかりが続くわけでもない。人生の終わりには、ちゃんと帳尻が合うものだ。などなど・・・。
 自分を慰めることしきりでした。」