ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(87)

2009-10-24 16:49:54 | Weblog



10月24日
 拝啓 ミャオ様

 朝の気温は、3度だったが、終日快晴の天気で、風もなく、日中14度という気温以上に、暖かい一日だった。日高山脈には、少し雲もかかり、大気がゆるんで、霞んで見えていた。
 昨日、街に出かけて、コインランドリーで洗濯してきたものを、日向に干す。昼過ぎになって、それを、取り込むときには、暖かいお日様の匂いがする。小さな幸せだ。
 家の回りの、林の木々の紅葉は、もう盛りを過ぎようとしている。全体的に見れば、夏の天候不順の影響からか、去年ほどの鮮やかさはなかったのだが、なぜか唯一、林のはずれの所に一本立っている、ヤマモミジだけは、そこにだけ別物があるように、鮮やかな色だった(写真)。
 山の上の紅葉も、年ごとに違うけれども、日によって、場所によって、木々によって、微妙に異なるし、今年の紅葉は、と聞かれて、返答に困る時もある。いつもの無難な答えは、「まあまあです。」ということなのだろうが、人それぞれの印象は、ことほどさようにままならぬものだ。

 一昨日の夜、いつもは10時頃には寝てしまうのだが、たまたま本を読んでいて11時近くになってしまった。そこで、そういえば、オリオン座流星群が見えるとか、テレビニュースでいっていたのを思い出し、外に出てみることにした。
 もう一桁の気温になっていて、スキー用の上下服を着て外に出た。真っ暗闇で、遠くの家の明かりと、遠くの道を走るクルマのライトが見えるだけだった。
 目をならすために、ハンドライトを消して、歩き出した。目がなれてくると、星明りだけでも歩いていける。隣の牧草地の広がりの上、東の空に、一際大きく、左に傾いて、オリオン座が見えていた。
 なんという、雄大な、星空だろう。オリオン座の上には、おうし座があり、プレアデス星団(すばる)の星の集まりが見える。天頂にかけて、ぎょしゃ座のカペラやペルセウス座の星が明るい。そして、カシオペア座があり、西の方に流れる天の川の中には、ハクチョウ座の姿も見える。

 自分の手元を照らすだけの、灯りしかなかった時代、長い夜の間、人々は、夜空を眺めては、星々に憧れ、月の光を讃えていたのだ。今の時代、夜もなお満ち溢れた光の中、作り上げられたおぞましき昼の時間を、むさぼり楽しむ人々、そんな我々の時代からは、もう遠く隔たった昔のこと。そして、そこに生きていた人々が残した、歌や詩、散文の数々の中から、一つの歌を、思い出してみよう。


 天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕(こ)ぎ隠る見ゆ

 (柿本朝臣人麻呂、『万葉集』1068、角川文庫『万葉集』上巻より)

 この歌は、『万葉集』の巻第七の冒頭に載せられた名歌であり、先日、NHKのBSや教育TVの「日めくり万葉集」でも、放送されていて、嬉しく思った。新月の頃の夜空の情景を、見事に歌い上げたこの一首に、古(いにしえ)の人々の思いが今も伝わってくる。
 生きることとは、こうした場面に出会うことだよと・・・。

 私は、これから、北アルプスの山々に登るべく、ひとり旅立つ。限りある日々の中で、自分だけの情景に出会うために。それは、また天気しだいの、危険と隣り合わせの山旅でもあるのだが。
 ミャオ、分かってくれるね、私がどうしてもやらなければならないこと。それはたとえていえば、オマエが、私が帰ってきてからもらう、あの生ザカナみたいなものなのだ。
 母が元気だった頃、時間前から、ニャオニャオ鳴いてせがんでいたミャオに、少し文句を言いながら魚をやっていたが、その時に、夢中で声をあげながら食べているオマエを見て、母がいつも言っていた。
 「全く、オマエにとっての、たった一つの生きがいなんだから。」

 考えてみれば、私の山登りも、オマエのサカナとたいした変わりはないのかもしれない。
 林の中の紅葉は盛りを過ぎ、もうその周りのカラマツの黄葉が始まっている。時折、風が吹くと、サラサラとカラマツの葉が落ちてくる。
 林の向こうに、日が沈んでいく。いつしか、寒さが、忍び寄る。雪に被われた山々のことを思う・・・。

                      飼い主より 敬具



 


 


飼い主よりミャオへ(86)

2009-10-20 17:24:26 | Weblog



10月20日
 拝啓 ミャオ様

 暖かい朝だった。気温は12度、日中は17度まで上がる。それにしても、めまぐるしく変わる天気だ。曇り空から、晴れてきて、再び曇り、にわか雨が降る。それを繰り返し、さらには時折、強い風が吹きつける。まさに、もう一つの秋の空だ。

 そんな、秋の深まりを思う時・・・。夜空の色が、冷たい黒い色へと変わる時。その空が、星屑(ほしくず)でいっぱいに埋めつくされている時。朝、外に出て、身をふるわせる時。その足元が、白く霜に被われているのを見る時。
 いつもは、少し薄暗い台所が、紅葉の照り返しを受けて、明るくなって見える時。窓から日差しが長く伸びて、部屋の中に入ってきた時。薪(まき)ストーヴの炎を見つめる時。
 丸太小屋の壁を、コツコツと叩く音が聞こえる時(オオアカゲラが家の丸太をつつく音)。穏やかな日差しの中で、何匹かの雪虫が、ゆらゆらと飛んでいるのを見る時。斧(おの)を握って、ひたすらに、薪割りをする時。
 揺り椅子に座って、静かに本を読む時。そのまま、うつらうつらと居眠りをする時。同じく、揺り椅子に座って、古典音楽を聴く時・・・。
 
「 秋の日の ヴィオロンのためいきの 身にしみて、ひたぶるにうら悲し
  鐘の音に胸ふたぎ 色変えて涙ぐむ 過ぎし日の思い出や
  げに我はうらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らう落ち葉かな。
  ・・・・・・ 」

 (ポール・ヴェルレーヌ詩集より「落葉」、上田敏訳『海潮音』より。この詩の原題は、”Chanson d'Automno” つまり「秋の歌」であり、堀口大学訳によるものなどもあるが、その昔、高校の教科書に載っていたものは、この上田敏によるものだった。)

 このヴィオロン(ヴァイオリン)のため息を思うには、フォーレのヴァイオリンを含む室内楽曲を聴くのがふさわしい。ガブリエル・フォーレ(1845~1924)は、詩人ヴェルレーヌ(1844~1896)と同じ時代を生きた、同じフランスの音楽家である。
 有名なのは、あの清澄(せいちょう)な響きに満ちた「レクイエム」であり、「夜想曲」などのピアノ曲や声楽曲がよく知られているが、室内楽の分野にも、数多くの名曲を残している。
 中でも、ピアノ四重奏曲やピアノ五重奏曲は、ブラームスと伴に、ロマン派室内楽としての名曲でもある。そして、私は、秋の季節になり、ふとあの詩を口ずさむ時、いつもこのフォーレのピアノ五重奏曲・第1番の、冒頭部の旋律を思い出すのだ。
 エラート・レーベルのジャン・ユボー(p)とヴィア・ノヴァSQ(弦楽四重奏団)によるものも悪くはないが、私がよく聴くのは、古い録音のシャルラン・レーベルの、ジェルメール・ティッサン・バランタン(p)とORTF.SQによる演奏のものである。
 音楽の調べは、時を越えて、変わることなく、人の心を細やかに歌い続けるのだ。

 昨日、用事があって、街に出かけた。街路樹の木の葉も、すっかり色づいていて、その幾つかは、歩道に散り敷いていた。そのまっすぐに続く通りの先に、道の上に、何かが落ちていた。
 余り大きくはないものだから、クルマの車輪の間でまたぐように、ハンドルを構えた。目の前に近づいた時に、それは、同じ方向に向いて横たわっているネコだと気づいた。
 それも、こげ茶色と淡いクリーム色のパターン、二つに立った耳がこげ茶色の・・・死んだシャム猫だった。
 ミャオ、私は思わず叫んで、バックミラーで走りすぎる後ろを確かめたが、もう次のクルマが、ネコの姿を隠していた。もちろん、今は九州にいるはずの、ミャオであるはずはないのだが。私は、ドキドキしていた。
 しかし、うちのミャオは、まずクルマが行きかう所に、急に飛び出すようなネコではない。臆病で、用心深いネコだから。

 落ち着いて考えてみると、いつものことながら、私は、ミャオに申し訳ないと思った。私のわがままだけで、ミャオを九州に残し、一人でここにいることを、そしてそれが、取り立てて意義深い毎日でもないのに。
 
 今、午後4時半だ、いつしか風も収まり、もう辺りは、薄暗くなり始めていた。窓の外を見ると、この秋、初めての、冬型の気圧配置による雲が、日高山脈の山なみに沿って、見事に連なり続いていた。冬が来るのだ。

                       飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(85)

2009-10-16 21:33:17 | Weblog


10月16日
 拝啓 ミャオ様

 まず始めに、上の写真は、2007年10月27日、12:47、北アルプスは立山連峰の、別山から見た剣岳の写真である。なぜそんな2年前の写真を、今になって、ここに載せたかについては、後で説明する。       


  実は、昨日、札幌まで行ってきた。私の数少ない友達の一人が、失明の恐れがあって、札幌の病院に入院したからである。
 彼は、一月近い入院で、少しやつれて見えたが、何より手術のかいあって、失明を免れて順調に回復しているとのことだった。ひと安心だ。
 1時間ほど彼と話をして、病院を出ると、もう3時を過ぎていた。それから、またクルマに乗って、来た道を戻り、家に着いたのは、夜の7時半だった。往復、五百数十キロ、まだ全線開通していない高速道路を使ったとはいえ、私には、いっぱいいっぱいのキツイ旅だった。
 若かりし頃には、クルマで4時間かかって登山口まで行き、8時間ほど山歩きをして、また4時間かかって家に戻るという、無茶なことをやったものだが、この年になって、そんなことをしていたら、間違いなく、死にかかわるほどの事故を起こすだろう。ああ、恐ろしや。
 ただ、途中の、日高山脈や夕張山地の山すそや谷あいを染める、今を盛りの紅葉がきれいだった。それなのに、途中でクルマを停めて、写真を撮る余裕すらなかったのだ。やはり反省すべき点は多い。一泊の旅にして、ゆっくりと紅葉を眺めて行く旅にすべきだった。
 もちろんそのことは、考えていたのだが。つまり、大雪か十勝岳連峰の雪の山に登って、近くで一晩泊まり、次の日に札幌に行って、友達を見舞ってから帰ればいいと。
 ところが、なかなか山がすっきりとは晴れてくれないのだ。唯一良い天気が続いたのは、10日からの三連休の時だけで、私が出かけたくない日だったのだ。ところがそうして、日にちがたち、山どころか、その友達の見舞いにさえ行けなくなってしまう。10日ほど先には、私の北アルプス遠征の山旅がある。
 というわけで、無理に出かけたのであるが、ともかく友達の病状が回復しつつあり、私も無事に家に帰りつくことができただけでも、良かったと思うべきなのだ。

 今朝の気温は2度と冷え込み、霜も降りいる。晴れた空の下には、日高山脈の山々も見えているが、前回の写真の時のように、すっきりと全山が見えているわけではない。さらに、いつも昼前には、稜線の辺りには、雲がかかってきて、やがて、山々の姿も隠れてしまうのだ。
 そんな天気なので、なかなか山に出かける気にならない。私の山に登る第一の条件は、晴れた日に、それもできるなら、一日中快晴の空が続く、平日の日に行きたい。
 休みの日にしか山に登れない人にとっては(ほとんどの人にとってはそうなのだろうが)、余りにもぜいたくな条件かもしれない。しかし、いつも言うように、物事には必ず二面性があるものだ。
 いつも我々は、月を見る時に、余り意識することもなく、餅つきウサギの見える表側だけを見ているけれども、その月にも、実は見慣れない裏側の姿がある。
 それと同じように、そのゼイタクに見える私の思いの裏には、今にいたるまでの、幾つもの哀しみの堆積物が隠されいるのだが、そんなことは、誰にしもあることで、いまさらここで言うべきことでもない。
 ただ、そんなふうに山登りに出かける日の条件を限ったからこそ、私は、確かに、極上と言える山の景観を、度々、目にすることができたのであり、ありがたいことなのだ。

 ともかく、このところ、北海道の天気が落ち着かない。いつもなら、一日二日と、秋の高気圧にすっぽりと被われた快晴の日があるのに。ただし、数日前のあの連休の時のように、その気になれば、山登りに出かけられる日もあったのだが。
 その日は、日ごろの辛い仕事に耐えて、休日に山を楽しむ人たちへの、神の恵みであり、日ごろからぐうたらに過ごして、ゼイタクを言っている私への、神の見せしめ、お仕置きであったのかもしれない。ごめんなさい。
  しかし、そうして、私の思う快晴登山の条件から外れた日ばかりが続くと、なおさらに、あの白銀に被われた山の姿を見たい、という思いはつのってくる。
 そこで、パソコンにため込んでいる、山の写真を見ては、素晴らしかった山々の姿を思うのだ。上の写真は、その一枚である。

 深く記憶に残る山旅だった。最初の日の午後から晴れてきて、二日間快晴の日が続いた。私は、ひとり、会う人もまれな、初冬の立山連峰の山々を心ゆくまで楽しむことができた。
 雪は、ひざ下位で、アイゼンはつけていたが、持っていったピッケルを使うほどではなかった。
 みくりが池温泉小屋を基地として、一日目は、午後晴れてから、雄山(3003m)を往復し、二日目は、剣岳(2998m)の姿を見るために、剣御前(2777m)と別山(2874m)を歩き回り、三日目は、浄土山(2831m)から竜王岳(2872m)に登り、そして雄山から大汝山(3015m)、富士ノ折立、真砂岳(2861m)へと縦走した。
 ああ何と、幸せな山歩きの日々であったろうか。一面の青空の下に、いつも、雪に彩られた山々の姿が遠くに近くにあり、私はその中を、ひとり歩いていたのだ。

 そんな単純明快な山の姿を好む私だから、私が撮る山の写真は、私の思い出として繰り返し見て楽しむだけのもので、決して芸術的な写真にはならない。雲ひとつない、快晴の空の下の昼間に、写真を撮るものだから、プロの山岳写真家が見れば、光線の陰影に乏しく、遠近感もなく、べったりとした面白みに欠ける写真、いわゆる絵はがき写真、お子様お絵かき写真の類にしかならないのだ。
 しかしそれは、自分で楽しむためのものだから、それで良いのだとかたくなに思うことこそ、近づきつつある、老人の頑迷(がんめい)さの現われなのかもしれない。前に書いた(10月11日の項)、ラ・ロシュフコーの箴言(しんげん)集の言葉を、少し入れ替えるべきだろう、「人は年をとるにつれて、いっそう物狂おしくなり、またいっそう頑迷になる」と。
 それにしても、私もいつかは、どもならん、ジジイだわ、と言われるようになるだろう。あーあ。

 ところで、幕末の時代、北陸地方の福井に、橘曙覧(たちばなのあけみ、1812~1868))という歌人がいた。清貧の生活に甘んじながらも、家族を愛し、多くの優れた歌を残した。
 有名な歌の一つに、後になってまとめられた、52首からなる独楽吟(どくらくぎん)という歌集がある。出だしはすべて、「たのしみは・・・」から始まる歌である。そのすべての歌が素晴らしいが、今回は、その中から、自然にかかわりのある二首をあげておく。

 「たのしみは 空暖かにうち晴れし 春秋の日に 出でありく時」
 
 「たのしみは 意にかなう 山水のあたり しずかに見てありく時」
 
 (『独楽吟』橘曙覧 岩波文庫)

 この歌から私が思い浮かべたのは、前回にもふれたあの『方丈記』や『徒然草』の世界にも共通している、日本的な静かなる山野の情景であり、さらに作者の、鴨長明(かものちょうめい)や吉田兼好(よしだけんこう)のような、独居する世捨て人の姿、あるいは法師姿である。
 ところが、この歌の作者、橘曙覧の現実は、妻子とともに五人家族で、あばら家に、肩寄せあって暮らす毎日であったのだ。そして、彼はその生活を、厭(いと)うどころから、妻や子供たちともども、心から愛していた。この『独楽吟』の歌集のすべての歌を読むと、その思いが痛いほどに伝わってくる。そこには、古き日本の、あたたかい家族の姿が見えてくるのだ。
 そんな家族に囲まれて暮らしていても、いや、それだからこそ、彼はひとりになりたい時もあったのだ。その散歩に出かけるひと時こそ、家族の安らぎとは別の、自然が与えてくれる安らぎの時間であったに違いない。
 
 ゼイタクに、時間を使うことのできる今の私には、それゆえに、あたりまえの、慣れきった安らぎがあるだけだ。他人をうらやんでも仕方がない。ただこの静かな時間が続いているだけで、私には十分なのだ。そして、ミャオと・・・。

                        飼い主より 敬具 
 


飼い主よりミャオへ(84)

2009-10-11 16:46:48 | Weblog



10月11日
 拝啓 ミャオ様

 昨日の朝、台風の後の青空が広がり、新雪に被われた日高山脈の山々の姿が見えた(写真、左から、ヤオロマップ岳、コイカクシュサツナイ岳、1826m峰、カムイエクウチカウシ山、1903m峰)。気温2度、初霜がおり、日高山脈の初冠雪の日でもあった。いずれも平年よりは、遅い。
 大雪山の初冠雪が、すでに1ヶ月も前であったことを思うと、今年の日高山脈の雪は、いつになるのだろうかと思っていた所、一気に、標高1000m付近にまで雪が積もったのだ。
 台風が外れて、たいした風も吹かなくて良かったのだが、その台風が南側にそれたために、南からの生暖かい風ではなく、北からの冷たい風が流れ込み、高い山では雪になったのだろう。
 北海道内の国道の高い峠でも、雪になり、十勝から大雪山へと抜ける三国峠(1140m)では、14cmもの積雪があり、除雪車も出たとのことだ。

 こんな時こそ、山に行きたかった。しかし、天気予報では午後は良くなかったし、その上に油断していて、クルマのタイヤは夏タイヤのままだった。(私は、その日のうちに、街に出かけて行って、スタッドレスの冬タイヤにかえてもらったのだが、あくまでも峠越えをする人たちだけで、一般的に皆が冬タイヤに交換するのは、平地に初雪が降る11月頃のことだ。)
 
 さらに、その日は、これも平年よりはずっと遅く、この秋の、我が家での薪(まき)ストーヴの火入れ、初日の日でもあった。それまでは、少しガマンして、部屋の電気コタツを、朝夕ほんの少しの時間だけつけていただけだったが、さすがに、居間の気温が15度を下回ると、薪ストーヴの出番になる。
 薪に火をつけて、しばらくすると、今までの冷たい部屋の空気が変わってくる。鋳物(いもの)製ストーヴの暖かさが、ゆっくりと、吹き抜けになっている居間の空間、全体を暖めてくれる。この薪(まき)ストーヴがある限り、ここで生きていくことはできるし、冬の季節も、また楽しいものになるのだ。

 そのためには、必要な煙突掃除を、今年は暖かい秋だったので、すっかり忘れていて、掃除したのは、つい三日前のことだった。居間の吹き抜けの壁面に沿って、4mほどの長さで立ち上がらせている煙突を取り外して、掃除するのは一苦労だ。ハシゴをかけて登るので危険だし、どうしても取り外す時に、ススなどがこぼれ落ちてしまう。
 
 そして、その外した煙突は、外で掃除することになるのだが、何しろ、前回書いたように、燃やす薪がストーヴには良くないとされる、針葉樹のカラマツだから、面倒なことになる。
 カラマツは、マツヤニ成分を多量に含み、燃やすとススが出て、さらにタールも出てくる。このタールが、冷やされて、煙突内部にこびりつくことになる。まるで黒曜石(こくようせき)のような固いタールで、その厚さは、2cmほどにもなるくらいだから、これをはがすのは大変だ。びっしりと薄くこびりついたものは、取れないから、そのままにしておくしかない。冬にもここにいる時は、真冬の間に、もう一、二度は掃除しなければならない。

 そんな手間をかけないようにするのは、実は、そう難しいことではない。つまり、薪を広葉樹のものに換え、さらに煙突も、断熱材入りの二重になったものに換えるか、あるいは、掃除のしやすい、そしてサンタクロースの出入りがしやすい、しっかりとしたレンガ造りの煙突にすれば良いだけのことだ。
 もちろんいずれにしても、結構なお金がかかる。つまり、この薪ストーヴと煙突は、いかにも小汚いこの丸太小屋と、そこに住むオヤジ、不肖(ふしょう)、私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)にとっては、まあ、分相応に似つかわしいものだと言えるのだが・・・。

 考えてみれば、林の中での伐採(ばっさい)作業からはじまって、運搬、切断、薪割り、煙突掃除と、猫の手も借りたいくらいなのに、ミャオが手伝ってくれるはずもなく(北海道につれてきたところで)、このまま、ひとり年老いて、じいさんになり、薪運びもできずに、ヨイヨイになっても、近所の人は、ああまた、鬼瓦のじいさんが猫踊りをしているくらいにしか思ってくれないだろうし、薪がなくなり仕方ないから、家の中の丸太の仕切りの壁をノコギリで切る、その音が夜更けに響いて、ガラス戸には、じいさんの影が・・・ああ、思うだに恐ろしい、自分の将来の姿。

 いかん、それではいかんと、自ら首を振る。もっと日ごろから、健康に留意して、山登りと家の仕事だけではなく、常に体を動かして、脱メタボを図らねばと思う。
 かといって、長年ぐうたらに過ごしてきた日常生活が、急に改められるわけでもない。哀しいかな、人は、後に危険が迫って初めて、自分の残された時間を知るだけなのだ。まして一ヶ月前には、めまいがして倒れたというのに。

 そんな私だから、余計に思うのだ。「この世の名残(なごり)、夜も名残」(『曽根崎心中』より)にと、本州への遠征の山旅を計画しているわけであり、このところ、毎年、年に2回、夏山と初冬の山を見に出かけている。
 今年の夏は、あの白山(7月31日、8月2日、4日の項)であり、そしてこの秋には、世評に高い北アルプスの穂高連峰は涸沢(からさわ)、さらには槍沢(やりさわ)の紅葉を見に行くべく計画していた。
 しかし、行くことができなかった。今年の涸沢の紅葉は、いつもより早く、二ヶ月前に購入した安い航空券での一週間の予定と、ずれた上に、例の台風までやってきたのだ。泣く泣く、半額の解約料を払い、キャンセルした。
 しかし、あきらめないぞ。それならば、いつものように、初冬の雪の北アルプスを見に行こう。去年の常念岳から蝶ヶ岳(11月1日、3日の項)、その前の年の、立山から剣御前への思い出がよみがえってくる。

 そんなことを考えていると、ストーヴの薪のことや、自分のぐうたら生活の反省など、どうでもよく思えてきた。人は、走り出している時には、目の前に下げられたニンジンだけしか見えないものだ。
 もちろんそれは、自分の好きなことだけをやるというような、刹那(せつな)主義に陥っているわけでなく、まして、あのギリシアのエピキュロス学派の唱えるような、今を生きるために、神を恐れず、死を恐れず、生を楽しめ(一部理解できるものの)、というような快楽主義に走っているわけでもない。
 その反対に、むしろひとりであるがゆえに、『方丈記』や『徒然草』などに書かれているような、日本的な無常観の世界、達観の境地にこそ、多分に心惹(ひ)かれるものがあるくらいなのだから。


 思うに、人はいつもこうした相反する二つの世界に、心揺れ動いて、生きているのではないのだろうか。そうして生き続けていくことで、いつかは、何かが見えてくるかもしれない、と信じながら・・・。

 「人は年をとるにつれて、いっそう物狂おしくなり、またいっそう賢明になる。」
 『ラ・ロシュフコー 箴言(しんげん)集』 二宮フサ訳 岩波文庫より

                          飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(83)

2009-10-08 17:47:28 | Weblog

10月8日
 拝啓 ミャオ様


 朝6度、日中も8度までしか上がらない。昼頃から、台風の影響によると思われる、強い雨が降り出してきた。

 6年前、同じように北海道にまで来た台風によって、家の林に大きな被害が出た。カラマツの木が、数十本も倒れたり傾いたりしたのだ。直接、家に倒れ掛からなかっただけでも、幸いだったのかもしれないが、いまだにその傾いたカラマツの木のすべてを、処理し終えてはいない。
 もともと、北海道の木々は、余り台風のような強い風に襲われたことがないし、まして、地元の在来種でもない植林用のカラマツ(長野県原産)には、特に被害が大きかったようである。

 そのカラマツを、私は、薪ストーヴの燃料にしている。薪ストーヴで燃やす木としては、広葉樹の、特にミズナラやカシワなどの、ナラ類などが良いと言われているけれど、家の林の中にあるものを切るわけにはいかないから、よそから買わなければならない。
 それは、北海道の一般的な暖房器具である、灯油ストーヴによる燃料代よりは、はるかに安いし、環境にかける負荷も少ない。ただ、薪割りの作業をしなければならないが、それも、自分の運動になり、楽しみでもあると考えれば、問題にはならない。
 ところが、私が使うカラマツの木の場合、費用はさらに安上がりになる。家の林の木を、切ればよいだけだから、チェーンソーを使うための費用や燃料代がかかるだけだ。
 しかし、問題は、薪用に短く切られて売られている木を、薪割りするだけと比べれば、手間がかかることであり、危険なことだ。まず、林の中にある木を、切り倒すことから始めなければならない。
 他の木々もある中で、間伐(かんばつ、植林地での間引き伐採)のため、あるいは、傾いたりしているものを選んで、その45年生にもなるカラマツの木だけを、切り倒さなければならない。
 この伐採(ばっさい)作業は、毎年、どこかで死者が出るほどに危険な作業なのだが、今後も安全に、私ひとりでやっていけるかどうかは分からない。今の所、毎年、10本ほどのカラマツの木を、切り倒してはきたのだが。
 さらに、その切り倒した20mほどもある木の、枝を切り払い、薪以外にも使用できるように、大体6尺(180cm)区切りの長さで、切っていく。
 そしてそれらの木を、何箇所かにまとめて並べて置き、できればその時に皮むきもしておいた方が良いのだが、殆どは次の年などに皮むきをして、さらにもう1年たって、前に書いたように(9月28日の項)、林の中から、抱きかかえたり、チークダンスをしたりして、運び出すというわけだ。
 あーやれやれ、書いているだけで疲れてしまう。つまり、物事には、すべて、一面的だけではない、様々な成り立ちの過程が含まれているということだ。

 長々と、こんなことを書いてきたのは、昨日、家の駐車スペースにしている空き地の所に、一本のキノコが出ているのを見つけたからだ(写真)。まん丸に肥え太った、いかにもおいしそうなキノコだった。
 しかし、すぐに気がついた。まず、よくこんな所に生えている、あのハタケシメジ(食用)とは、明らかに違うこと、さらに、北海道ではボリボリと呼ばれるナラタケ(食用)とも、全く違うこと。
 ただ一本だけ、こんな所に。それは、間違いなく、毒キノコの、あの猛毒のイッポンシメジだったのだ。
 初めて目にした、このキノコを確認するために、図鑑を持ってきて調べ、写真も撮った。その後、このままにしておくのも薄気味悪く、引き抜いて、向こうの植林地の中に穴を掘って埋めてしまった。

 考えてみれば、このイッポンシメジにとっては、哀れなことになったものだ。せっかく、長い間、地下の菌糸(キノコの胞子が発芽し伸びたもの)としてあったものが、もう一つの菌糸と結びつき、ようやく子実体と呼ばれる、我々が普通目にする、茎とカサからなるキノコになったのに、そして次の世代を残すべく、胞子(ほうし)を出す準備をしていたというのに。
 しかし、どうして、毒キノコと食べられるキノコがあるのだろうか。確かに、人間だけでなく、虫や動物たちも食べているようなキノコは、ポツンと一つだけ生えているのではなくて、数がまとまって生えているか、一つずつでも、あちこちに生えている場合が多い。
 しかし、このイッポンシメジは、私も初めて目にしたくらいだから、あたりに同じキノコはなく、その一本きりなのだ。つまり、自分の子孫を残すためには、誰からも食べられてはいけないキノコなのだ。めったに、地上には出てこないからこそ、出現した時には、絶対に、次の世代を残していかなければならないのだ。
 そのために、イッポンシメジは、自分の体に毒を仕込んだのではないのだろうか。なんという、生き方だろう。こうした例は、何もこのキノコだけではない。他の植物や、動物たちにも見られることなのだ。
 それほどまでに、自分の個体を意識して、次の世代を残すことに執心(しゅうしん)すること、つまりは生きのびることにひたむきな生き物たち、ということになるのだろうか。

 今の時期、北海道は知床の自然河川では、サケやカラフトマスが、群れをなして川をさかのぼり、それぞれの子孫を残すための、争いを繰り広げているところだ。そして、そのサカナたちを捕まえようと、ヒグマたちが集まってくる。
 ヒグマたちにとっては、厳しい冬を冬眠という形で迎えるために、まして、メスのヒグマにとっては、その冬眠の穴の中で出産を迎えるために、ぜひとも栄養を蓄えておかねばならないからだ。

 私は時々、思うことがある。私たち人間は、今まで、何をしてきたというのだ。そして、これらから、何をしようというのだ。
 同じように思うのだ、私は、今まで、何をしてきたというのだ。そして、これから・・・。 

 雨は、風をまじえて降り続いている。北海道への、台風の直撃は、なんとかまぬかれそうだが、それでも、雨戸は閉めておかねばならない。安上がりに、自分で作った窓だから、出来合いのサッシの窓ほどの防水効果もなく、吹き付ける雨が部屋に入ってくることもあるからだ。
 しかし、嵐の後には、必ずいつか、晴れた青空の日が、来るはずだ。ミャオ、オマエのいる九州では、余り台風の影響はなかったようだが、元気にしているだろうか。会いたい、ミャオ。

                         飼い主より 敬具
 


飼い主よりミャオへ(82)

2009-10-04 18:05:58 | Weblog


10月4日
 拝啓 ミャオ様

 さて、前回からの続きだが、数日前のこと、私は、天馬街道の野塚トンネル付近の、日高側の湧き水公園から、ニオベツ川の上二股の沢に入り、さらに分かれて、オムシャヌプリ(1379m)に向かう、涸れ沢をたどっていた。
 今まで伏流となって流れていた沢に、水が現れ、さらに登っていくと、所々に秋の花々が咲いていた。黄色のコガネギク、紫色のエゾオヤマノリンドウとエゾトリカブト、さらに何と、まだオオイワツメクサの小さな白い花が、点々と咲いていた。
 このあたりの沢には、夏の間に何度か登っていて、このオオイワツメクサを良く見かけたものだが、今は、もう9月も終わりなのだ。

 北海道では、今年もまた、いつもとは少し違う夏だった。7月の天候不順、8月の冷夏、9月の晴天続きと、まあそのぐらいのことは、平年並みと比べた場合の、ありうる変動なのかもしれないのだが。
 昨日の気温は23度、今日も20度まで上がり、今の時期としては高すぎる。まだ初霜も降りていない。もっとも、農作物の収穫のためにはそれが良いのだが。ただ、この時期にはぐっと冷え込む日があって、山々の頂も白くなる頃なのに、あの大雪山でさえ、9月初めの初雪以来、山が白くはなっていないのだ。
 この暖かさのせいで、ここのオオイワツメクサの花も、まだ寒さにもやられずに咲いていたのだろう。もっとも、中には、今頃としては当然のことながら、その葉さえも枯れ果ててしまっているものもあるから、個体差なのかもしれないが。

 さて、今までの谷あいの沢が開けて、一気に明るくなった。大崩れの、一大岩屑(がんせつ)、岩塊斜面に出たのだ。水は、ここでは再び伏流になり、岩塊の下を音を立てて流れている。
 この岩屑、岩塊斜面は、単なるがけ崩れではなく、地形学的によく言われる、周氷河作用(寒冷地での土壌凍結等による現象)によるものではないだろうか。北海道の山では、よく見られる地形であり(9月24日の項の、十石峠途中の大崩れも、同じ岩塊斜面)、またそれらは、あのナキウサギの生息地になっていることが多い。
 北海道のナキウサギについては、希少動物としての保護が叫ばれているけれども、この日高山脈では、標高600mくらいの岩塊地帯にでさえ、その鳴き声を聞くことができるのだ。
 もっともそれは、日高山脈での氷河地形が、このあたりにも残っていると言うわけではない。日高山脈最南端のカール(氷蝕圏谷)は、このオムシャヌプリの北隣にある野塚岳(1353m)の、さらにもう一つ先にあるトヨニ岳(1493m)の北東面に残されている。

 その、キチッキチッと鳴くナキウサギの声を聞きながら、歩きにくい岩塊帯を抜けると、沢幅は狭くなり、やがて細い流れが続く、急な岩溝を這い登って行くようになる。
 そして、勾配がゆるやかな草の斜面になり、低いハイマツやミヤマハンノキが生えている源流部に出る。さらにひと登りで、吹きさらしの風衝(ふうしょう)地になっている東峰と西峰のコル(鞍部)、いわゆるオムシャ平に着く。
 振り返ると、このオムシャヌプリから続く尾根の紅葉の斜面の向こうに、細かく谷を刻んで、十勝岳(1457m)が大きく盛り上がり、その横には、楽古岳(1472m)も見えている。(写真)

 この十勝岳は、南日高の中でも私の好きな山の一つであり、南北いずれ側から見ても、とても1500mに満たない山とは思えない程の迫力がある。あの南アルプスの、一つ一つがスケールの大きい、3000m級の山々を思い起こさせるほどだ。
 この山の、雪に被われた姿を見るために、まだ道が半分凍結している3月に、野塚トンネル傍にクルマを停め、そこからニオベツ川の反対側、右岸側の尾根に取り付き、それも二度目の挑戦で、雪まみれになりながら、ようやく稜線に上がり、念願の、雪の十勝岳の姿を眺めて、思わず涙したことがある。
 それほどまでに、雪の十勝岳の姿は、立派だった。ニオベツ川の谷をはさんで、聳(そび)え立つ姿は、あの南アルプスは鳳凰三山(ほうおうさんざん)から、眼下に早川(野呂川)の谷を隔ててせり上がる、北岳(3193m)の姿さえもほうふつとさせるものだった。
 
 ただ今は、残念なことに、その山々の上には雲が広がり始めていた。その雲が頂にかからぬうちにと、オムシャヌプリの本峰である西峰に向かう。この稜線には、はっきりとした踏み分け道がついているが、なにぶん手入れなどされているわけではなく、人や動物たちが通った跡が、道になっただけのことだから、まさに踏み跡なのだ。
 両側からかぶさるハイマツが、逆目になっていて、それを掻き分け、つかみながら登っていくのは、一苦労だ。それでも、ようやくのことで、見覚えのある頂上にたどり着いた。登山口から、3時間半、まあそんなところだろう。

 頂上では、すっきりと周りの展望が開けるが、やはり、上空には雲が広がってきている。それでも、野塚岳、トヨニ岳、ピリカヌプリ(1631m)、神威岳(1601m)と、北に連なる日高山脈の山々が見えている。隣の東峰の向こうには、十勝の海岸線があり、さらに南側の十勝岳、楽古岳へと続く山並みをはさんで、日高側の海岸線も見えている。
 そこでは、風の音だけが聞こえていた。恐らくは、こんな時に山に登りに来ている人は誰もいないだろう。まして、今ここから見える山々の中で、登山道があるのは、神威岳と楽古岳だけなのだ。
 実は今回、最初は、久しぶりにその楽古岳に登ろうと思っていた。しかし、ネットで調べてみると、日高側からの登山道は手前の林道が崩壊して、車両も人も通行止めとのことだった。十勝側からの登山道もあるのだが、途中の長いササ被りの道のわずらわしさを思うと、気が進まなかった。そこで、簡単な沢登りで行けるオムシャヌプリにしたというわけだ。

 さて、雲行きも気になって、30分ほどで頂上を後にする。登りには、逆目のハイマツで苦労した所も、下りは楽だ。コルに着いて、この天気でわざわざ東峰(1363m)に登ることはないと、そのまま源頭の沢に降りて行く。細い流れの岩溝の所を慎重に下り、後は、ずっと岩伝いの沢歩きになる。
 ただ、フェルト底の沢登り用の靴は、流れの中ではともかく、乾いた岩の上では登山靴に比べれば、滑りやすくなる。何もあわてることはないのだ。ひとりきりなのだから、その分、十分に注意して降りなければならない。
 途中で写真を撮ったりして、何度も休んだ。昼間、こんなガラガラの沢に、クマが下りてくることもないだろう。座り込んでは、谷間の紅葉と、水の流れを眺めていた。
 その時にふと、あの放浪の俳人、山頭火(さんとうか)の詩の一節を思い出した。

 「 のんびり生きたい
   ゆっくり歩こう
   おいしそうな草の実
   一ついただくよ、ありがとう 」

 私はできるだけ、そうして生きてきた。そして、そうすることができたことに、感謝している。私の母に、そして私を助けてくれ、関わりあったすべての人に、そして今、私の周りにある、水の流れや、草花や、樹々に・・・私を待ってくれている、ミャオに、ただ感謝するばかりだ。

 私はゆっくりと沢を下り、途中では、上二股の沢を少しさかのぼってみたりして、帰りは4時間もかかって、登山口に戻ってきた。上空はすっかり曇り空になっていたが、トンネルを抜けて、十勝の平野に下りてくると、快晴の空が広がっていた。振り返って見ると、日高山脈の山なみの上にだけ雲が連なっていた。
 途中の温泉に立ち寄り、山での汗を流してから、家に帰った。日が沈む頃には、山の雲も取れてきて、シルエットになった日高山脈が見えていた。ありがとう、オムシャヌプリ・・・。


                         飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(81)

2009-10-02 17:29:35 | Weblog
 

10月2日
 拝啓 ミャオ様

 一昨日、昨日と、快晴の日が続いた。家からも、日高山脈全山の姿が見えて、絶好の山登り日和だった。しかし、結果的には、午後になると、山側に雲が広がり、雲ひとつない終日快晴の天気、とはいかなかったのだが。
 それでも、前日の天気予報で、北海道中がお天気マーク一色になっていれば、どうしても山に行きたくなる。あの大雪山の山の上の紅葉は、もうとっくに終わり(9月20日、22日の項)、今では、紅葉前線は北海道の山々の、1000m以下のあたりにまで、降りてきているだろう。

 そこで久しぶりに、日高山脈の山に登ることにした。前回の、あの残雪のカムイ岳・1780m峰(5月17,19,21日の項)に行って以来だから、今年は、まだ三度目にしかならない。
 しばらく前までは、一年の登山のうちの、半分以上は、日高の山だったのに、近年、自らの気力、体力の衰えを自覚するようになってから、少し足が遠のきがちになっている。目の前に見える山々なのに。
 それは、もう日高のめぼしい山々を登りつくしたから、などという不遜(ふそん)な思いからではない。山や自然は、いかに繰り返し登ろうが、幾たび分け入って行こうが、決してすべてを知り尽くしたことにはならないからだ。
 われわれがたどる道筋に、どれほど様々なコースがあるにせよ、所詮(しょせん)は、ただの線の連なりに過ぎない。広大な面積の山や自然からいえば、例えば草原があって、その中の草の何本かをた見た位にしかならないということだ。
 まして、四季折々に、さらに日ごとに姿を変える山や自然については、完全に知り尽くすことなど不可能なことだ。それは、私が日高の山では、一番よく登っている十勝幌尻岳(とかちぽろしりだけ、1846m)についてもいえることだ。真冬を除く季節に、四つのルートから、恐らく十数回は登っている山なのだが、この山のすべてを知っているなどとはいえない。ただ数多く登っているだけのことなのだ。
 この十勝幌尻岳について、もし人から尋ねられれば、私は、「天気の良い日に行けば、素晴らしい展望の山です」とだけしか答えられない。他の細かいことは、あくまでもその時々の個人的な経験に過ぎず、このブログに山のことを書く時のように、私の、その日時での、単なる記録にしか過ぎないからだ。


 今回、登ることにしたオムシャヌプリ(1379m)は、ルートを変えて、今までに三回登っている。前回は、4年前のまだ雪深い4月に、南西尾根をたどって、頂上を往復した。
 しっかりした固雪になる前の雪だから、足を取られながら登り、さらに下りでは、行きには見なかった、冬眠明けらしい真新しいクマの足跡に、身がすくむ思いがしたものだった。それでも、頂上にたどり着き、そこから眺めた、青空の下の、雪に被われた山々の姿は素晴らしかった。
 オムシャヌプリという名前は、北海道の殆どの山の名前がそうであるように、アイヌの言葉からきている。ただし、北海道の山の多くは、初めから、山の名前として、アイヌの人たちによって名づけられていた訳ではない。後に入ってきた和人(わじん)たちが、それまでに、アイヌの人たちが、必要上つけていた川や、沢の名前からとって、その源流にある山の名前として名づけたものである。
 アイヌの人たちが、直接に山の名前としてつけたものは、彼らの狩や収穫などの、日々の暮らしや旅行のために、目立つ道しるべ(ランドマーク)になったものだけである。
 確かに、それらのすべてが、立派な山ばかりであり、そして美しい響きの名前を持っている。ポロシリ(大きな山)、カムイヌプリ(神様、あるいはクマのいる山)、ピリカヌプリ(美しい山)等である。
 そんな数少ない、アイヌの人たちによって名前をつけられた、山の一つが、このオムシャヌプリなのだ。意味は、双子(ふたご)の山ということだが、殆ど同じ高さの東峰(1363m)と、西峰(1379m)が競い並んでいて、その理由が分かる。
 しかし、この山については、事実はそう簡単ではない。日高南部のこの辺りには、同じような高さの、同じようなピラミダルな形をした山が、幾つも並んでいるからだ。すぐ北にある野塚岳(1353m)も、殆ど同じ形の東西峰に分かれている。
 さらに、南側に続く、南日高の名山、十勝岳(大雪山から続く十勝岳連峰の盟主、十勝岳とは別の日高山脈の山、1457m)と楽古岳(1472m)の二つの山も、かつては、いわゆる双子山と呼ばれていたという。

 ちなみに、双耳峰(そうじほう)として、有名なのは、信越の雨飾山(あまかざりやま)や北アルプスの鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)、それに九州の由布岳(ゆふだけ)などであるが、いずれも名山と呼ばれるのにふさわしい、個性的な山だ。


 ところで、このオムシャヌプリには、登山道はない。つまり、冬から春にかけての雪がある時期の縦走や、下から尾根に取り付いて登るか、あるいは、春から秋にかけて、沢登りで行くかしかない。
 沢登りのコースは、四つほどある。十勝側、広尾の野塚川をさかのぼり、左股から東峰に上がるものと、その右股からその東西峰のコル、オムシャ平に達するもの。日高側からは、国道の天馬街道(てんまかいどう)は野塚トンネル手前の、湧き水公園の所から、ニオベツ川の右股、上二股(かみふたまた)の沢(十勝岳へのルートでもある)へと分かれるすぐ上の所から入って、北東へと向かう沢をつめていくもの、そして上二股の沢の林道跡をしばらくたどって、左に涸れ沢をつめてコルに上がるものである。
 一番楽なのは、最後の涸れ沢のコースである。水の少ない時で、最初の本流の、三度ほどの渡渉をうまくしのげれば、登山靴でも登れるだろう。つまり沢登りと言っても、ごく初心者的な沢である。
 
 今回は、無理をしないように、その一番楽なコースをとることにした。とは言っても、恐らく誰もいないだろう沢に一人で行って、怪我をしたりして歩けなくなったら、もうその時点で遭難ということになりかねない。つまり、ケイタイなど持って行っても、見通しのきく山頂以外は圏外だし、次の登山者が登ってくるかどうかも分からない山なのだ。
 しかし心配すればキリがない。今まで、ずっとそんな山にばかり、ひとりで登ってきたのだから、いまさら急に怖気(おじけ)づくことでもない。この沢は、二度通っているし、天気の良い日に、無理をしないでゆっくりと登れば、ひとりでも危険なことはないはずだ。

 
 さて少しゆっくりめに家を出て、天馬街道を走り、湧き水公園の傍にクルマを停めて、午前7時に出発する。流れを渡り、上二股の沢の林道跡をたどって行く。この紅葉が始まったばかりの、ヤマブドウやコクワの実る川沿いの林は、ヒグマのエサ場にもなるだろう。特に、霧のかかる朝早くや、夕方などは気をつけたいところだ。
 ましてひとりだからと、鈴をつけて歩いて行く。去年、あの剣山でヒグマと出会った時のことは(11月14日の項)、今でも頭から離れることはなく、それまでの、私の山慣れした態度への大きな反省点ともなったのだ。北海道の山では、ヒグマに気をつけることだ、当然のことながら。

 さて、林道跡が終わり、本流をさらに渡り返して(写真は、その分岐付近の本流の流れ)、そこから左に分かれる涸れ沢に入る。もう少し先まで行って、林の中をたどる踏み跡もあるのだが、確かに岩だらけの、涸れた沢をたどるのは面白くはない。
 しかしやがて、伏流の部分は終わり、再び水の流れる音がして、沢らしくなってくる。岩をたどっても行けるのだが、むしろ流れる水に足をつけて歩いた方が、気持ちが良い。しばらく登った所で、一休みする。標高は、まだ700m余りの所だ。
 この沢のV字に切り取られた景色の向こうに、まばらに紅葉した十勝岳の西尾根が続いている。あの長い尾根を、雪の時期に歩いたことを思い出した。今、その上には青空が広がっている。そしてただ、沢水の流れる音だけが聞こえていた。(次回へと続く・・・。)
 
 ミャオ、オマエの毎日も、私以上に、冒険だろうとは思うけれど、しっかりがんばっておくれ。

                         飼い主より 敬具