2月26日
数日前、またまた九重に行ってきた。
前回、これでこの冬の雪の九重は終わりだろう、と書いていたのだが、その日の朝、朝食を食べながら冬期五輪競技のテレビなどを見た後、いつものようにパソコンの前に座り、牧ノ戸峠(1330m)のライブカメラを見てみると、何と快晴の空の下、雪の黒岩山(1503m)の姿が映し出され、かなりの新雪が降っているようで、道も圧雪状態で白くなっているし、すでにかなりのクルマが停まっていた。
まさか、と私はうろたえてしまった。
昨日、わが家の辺りでも確かに雪は降ったのだが、一時的にちらついただけの春の淡雪のようだったし。
今日の晴れの予報は分かってはいたのだが、山にこれほどの雪が積もっているとは思わなかったから、山に行くつもりなど全くなかったのだ。
そこで急いで支度して、クルマに乗って牧ノ戸峠へと向かった。
家の付近の道に雪はなかったのだが、山道に入ると、半分以上が圧雪状態で、その日の気温はマイナス5度くらいだったから、所々がアイスバーンになっていて、クルマの後輪が何度か小さく滑っていた。
そして、先ほど見たライブカメラの、その映像通りの牧ノ戸峠の駐車場に着いて、早速、登山靴に履き替えてスパッツにアイゼンを着けていった。
アイゼンは前回書いていたように、合成ゴムのベルト部分が切れて壊れていたから、その部分をひもで何度も結びなおして、登山靴に装着できるようにしていた。
まあ余談だけれども、都会に住んでいれば、すぐに新しいアイゼンを買い替えに行くことだろうが、こんな山の中にいれば、そのためだけに何時間もかかって、わざわざ大きな町にまで行く気にはならないから、何とか自分で直して使えないかと手立てを考えることになる。
こうした田舎では、どんなものでもすぐ手に入るわけではないから、ものが壊れた時には、まず修理できるかどうか算段してみる所から始まるのだ。
もちろん、壊れた物は修理できない場合が多いのだが、新しいものが手に入るまでは、何とか他のもので代用し工夫するしかないし、まあ考えようによっては、それで様々な臨機応変の知恵がつくというものだし、物が足りなくてがまんするしかないから、新たに手に入れた時の喜びは倍加することになる。
田舎にいれば田舎なりの不便さがあり、都会にいれば都会なりの不都合なこともあり、互いにどちらがいいということではなく、どちらにも、利点欠点が相半ばしてあるということなのだろうが。
さて、今回もまた11時に近い時間帯での出発になってしまったが、それは、ほとんどの山岳写真家たちにとっては最も嫌うベタ光線の時間帯なのだろうが、むしろ午後遅くの山陰の姿が好きな、素人絵葉書写真家の私としては、いつものほどよい時間だったのだ。
白い雪に覆われた遊歩道からの歩きはじめだが、それらにはほとんど霧氷がついていなくて、ただ木々に白く雪が降り積もっているだけだったが、それでも、白い雪に青い空があれば、もうそれだけで、単純な私の頭の配色効果は十分だった。・・・まったくもう、お天気屋のお調子者なのだから。
展望台から、雪の三俣山(1745m)がすっきりと見えている。
春夏秋冬、何度見ても飽きることはない、私の好きな九重を代表する眺めの一つなのだ。
そして、沓掛山の、雪の縦走路を行く。
雪の状態も、これまでと同じ真冬の感じのまま、よく締まっていて歩きやすいし、前回に苦しめられた強風もないし、日差しには春の暖かさが感じられるし、全く申し分のない雪山歩きだった。
何より気になっていたアイゼンは、強くしばりつけたひもでゆるむことはなく、とうとうその日は駐車場に戻りつくまで一度もはずれることはなかったのだ。
ゆるやかに続く尾根道の両側には、それまでの古い雪の上に、さらに10㎝余りの雪が柔らかく降り積もっていて、それが周りの雪景色をさらになごやかなものにしていたし、いくらか風紋もできていた。
行く先はまだ決めていなかったのだが、分岐の所で、その扇ヶ鼻から下りてきている人がいて、これなら先行者のトレース(踏み跡)がついているだろうからと、何とか楽をしたがる年寄りの常で、そちらに行くことにした。
(もっとも、若い時には、むしろ先行者のいないまっさらの雪の上を、ラッセル気味に登って行くことが楽しみだったのだから、まあ長い間、山に登っていれば、雪道での苦楽は、相半ばして清算されてしまうことになるのだろうが。)
少し急になった前峰(北の肩)への道は、それまでに降っていた雪が溶けて凍りついていて、その上に新雪がのっていたから、こういうところはアイゼンがないと苦労するだろう。
広々とした前峰の台地から、青空の下に、久住山をはじめとする九重の主峰群が立ち並んでいる。
久しぶりにこの扇ヶ鼻に来たような気がするが、この山からの展望は、星生山や天狗ヶ城、中岳などとともに素晴らしく、特にこの冬と初夏のミヤマキリシマのころなどが素晴らしく、毎年一度は登りたい九重の山の一つでもある。
そこに、同世代のおじさんたちが下りてきて、互いにあいさつを交わした。おそらくは彼らも同じように、最後の冬山を楽しんでいるのだろう。
ふと、あの有名な芭蕉(ばしょう)の句になぞらえて、言葉が口をついて出た。
”ゆく冬を 九重の人と 惜しみける”
今度は扇ヶ鼻の頂上へとゆるやかに登って行く。
振り返り見ると、離れて星生山(1762m)が高く、その前景になるこの扇ヶ鼻台地のアセビの株ごとに雪が降り積もっていて、それは、まるで打ち寄せる波のようにも見えた。(冒頭の写真)
そして、大きな岩が集まった扇ヶ鼻の山頂へと向かうと、若い女の人が一人で降りてきてあいさつをかわした。
冬の時期に、メインルートから外れたこんな目立たないピークを目指すというだけでも、よほど山が好きなのだと思うし、今の中高年に大きく傾いている日本の登山人口から見ても、こうした意欲ある若い人たちが増えていくのはありがたいことだ。
(北アルプスなどのように、営業小屋の人たちによる登山道整備がなされている所はともかくとして、地方の登山道は、地元の山岳会や営林署に頼るほかはなく、それさえも途絶えがちな今、廃道の危機にさらされている登山道も少なくはなく、そのためにもそうしたマイナーなルートも常時歩かれることが望ましいのだ。)
その扇ヶ鼻の頂上(1698m)には誰もいなくて、静かだった。
そこから見る展望は、左手の星生山から、星生崎(1710m)、天狗ヶ城(1780m)に中岳(1791m)そして久住山(1787m)へと、九重核心部の山々が、まるで一つの山脈のように立ち並んでいた。(写真下)
ちなみに、紅葉の頃の眺めも、また思い出してしまう。(′16,10.31 の項参照)
すぐ先の西の肩のあたりまで行ってみると、さらに岩井川岳(1522m)方面へと雪道にトレースが続いていた。この時期に熊本県側の瀬の本方面から登ってきたのだろうか。
静かな頂上で十分に眺めを楽しんだ後、頂上から下りて行くと、先ほどの女の人が今度は登り返してきたのに出会い、えーっと思わず声をかけてしまった。
彼女は、瀬の本の先にある場所にクルマを停めて、扇ヶ鼻に登ってきたとのことだった。
ただ初めてのコースで、幸いにも先行者二人のトレースがあって助けられたが、なかったら雪で迷っていたかもしれないと言っていた。
私も、この道は二度ほどたどったことがあり、夏に沢をさかのぼって分岐あたりの縦走路に出て、扇ヶ鼻から岩井川岳とたどって、おそらくは彼女の言っていたその駐車スペースに戻ってきたのだが、さらに途中までだが、秋にも岩井川岳付近まで往復したこともある。
私は彼女に、日本には他にも、北アルプスや南アルプスに東北・北海道にもいい山がいろいろとあるから、一度は行ったほうがいいというと、何と夏に南アルプスの北岳(3192m)にテントを担いで登ったそうで、ただ隣の間ノ岳(3190m)までは行けなかったとのことだった。
ほんの5分ぐらいの立ち話だったが、こうして同好の士、山好きな人々の系譜が続いて行くことは、ありがたいことだと思う。
彼女は、私がする山の話をうらやましそうに聞いていたが、なあにこれからがある。私みたいな年寄りには、もう山に登れる時間はあまり残されてはいないけれども、若い君には、これからうんざりするほどの時間を山登りに使うことができるのだから。
そこで、いつも例えに思い出すのは、あの映画『1900年』(ベルナルド・ベルトリッチ監督、1982年)の中で、領主のおやじがコソ泥をした若者を捕まえて、むしろ自分に言い聞かせるかのように話していた言葉だ。
「わしには、うんざりするほどの金があるが、使う時間がない。それなのに、コソ泥のクソガキのおまえには、金がないのに、うんざりするほどの将来が、時間があるのだ。」
何と、人間のそして人生の核心を突くような、言葉だろう。
思い返してみれば、私が人生の哲学を学んだのは、決して学校の授業からではなく、感受性の強い若いころに手あたり次第に見た、多くの映画たちから、さらには同じように読みあさった、小説たちからだったのだ。
余分なことだが、この度の冬季五輪を見ていて、この歳になってもまだまだいろいろと感心させられることも多かったのだが、特にフィギュア男子の羽生選手の、鬼気迫るような圧倒的な滑りはもとより、女子のロシア勢の二人のスケーティングには、感心することしきりだった。
彼女たちの、高度な回転技術が高い評価を受けていたのは当然だとしても、私が感心したのは、彼女たち二人の、いずれもロシアのバレエ音楽『アンナ・カレーニナ』と『ドン・キホーテ』の中の、ワルツに合わせてのすべりが素晴らしかったからだ。
それは、まごうかたなきロシア・バレエの洗練された伝統の踊りであり、他の選手たちが氷の上をダンスのように滑っていたのと比べて、二人は明らかに氷の上でそれぞれのワルツを踊っていたのだ。
そこで思い出したのは、昔、私が東京で働いていたころ、当時かかわっていた企画ものの音楽雑誌の対談の中で、今は亡き映画評論家の淀川長治さんが話していたのだが、”子供のころ、当時評判だったロシアのバレリーナ、アンナ・パブロヴァが日本にやってきて、そのころまだ子供だった私は、両親に連れられてその舞台を見に行ったんだけれども、あの「瀕死の白鳥」のシーンで、彼女がまるで本物の白鳥が死んでいくように踊っていて、子供心に感心したことを今でも憶えている。大切なことは、若い時に、一流のものをたくさん見ておくということですよ。”
そこで、話はまたまた前後するが、私が見た男女フィギュアの中で特に感心したのは、あの日本映画『陰陽師(おんみょうじ)』のテーマ音楽「SEIMEI」にのって鮮やかにすべりきった羽生選手はともかく、3位の銅メダルに終わったスペインのフェルナンデス選手のショート・プログラムでのすべりである。
それは、あのチャップリンの映画『モダン・タイムス(1936年)』からの音楽に合わせて振り付けられたものであり、その映画でのチャップリンの動きを見事に取り入れたダンスが独創的であり、その時の羽生選手のショパンの「バラード第1番」での復活劇の感動に隠された感はあるが、フェルナンデスに芸術的評価として最高点を入れたくなるほどだった。
様々な感動を与えてくれた、今回の冬季オリンピック・・・そして、現実の目の前にある世界に戻ったとしても、私たちは、人間としてこうして時々感動を覚えては励まされるからこそ、そして自分の日々の生活の中でも、そこここに小さな喜びがあるからこそ、たとえ大きな悲しみに襲われる時があり、悲嘆にくれることがあったとしても、まだまだこれからだと、しっかりと生きていこうと思うのではないのだろうか。
山の中で若い人と出会い、少し話をしたことから、話があちこちに飛んでしまい収拾がつかなくなったので、余談としての話はここまでにして、山の話の続きに戻ろう。
彼女と別れて扇ヶ鼻を下りて行き、分岐の所まで戻ってきたが、まだ十分に時間はあった。
これからもっと先の山にまで行くには、この年寄りの足からすれば無理なことだが、例の久住山を見るために、いつものあの星生崎下の展望台になる岩場の所までは行こうと思った。
西千里浜まで来ると、風紋は少なかったが、柔らかく降り積もった雪を前景にした久住山の眺めが素晴らしかった。
その上、もう戻ってくる人もまばらで、心おきなく写真を撮ることができた。
できるならば、風紋やシュカブラに”エビのしっぽ”などの雪氷芸術が見られれば言うことはなかったのだが、この青空の下の雪山の眺めだけでも十分だった。
岩塊帯をトラバース気味に登り、右に続く岩尾根をたどり、いつもの場所で腰を下ろす。風もあまりなく、正面に、ただ久住山が大きかった。(写真下)
遅い昼食を食べ、温かいスポーツ飲料を飲んだ。
もう、縦走路の前後に人影は見えなかった。
誰もいないことで、私一人が自然に対峙して相対立しているのではなく、ただ自然の中に抱え込まれ含まれているような・・・。
30分余りをそこで過ごし、戻ることにしたが、もう周りには誰もいなくて、気兼ねなくカメラを構えられることもあって、何度も山の姿を振り返り見ては、写真に撮っていった。
ここ西千里浜の、前景に雪紋様を入れた久住山の写真が、いつもの私のお決まりの構図になのだ。(写真下)
今まで、併せて何枚撮っているのだろうか、それでも同じものは決してなく、少しずつ違っているからこそ、行くたびごとに興味がわいてくるのだ。
特に今の時間帯になると陰影が濃くなってくるし、ただこれらの雪紋様が、夕日に照り映えればと思うのだが、この時期は残念ながら夕日は山陰に入ってしまい、この辺りは全くの影の中になってしまうのだ。
もう十分に写真を撮り終えて、後は日が傾いてきた縦走路をただ一人歩いて行くだけだったが、終日続いた快晴の空の下、まだまだ周りの眺めを楽しむことができた。
沓掛山に登り返し、尾根をたどり遊歩道の雪道を降りて行く。誰もいない展望台の向こうに、朝と同じように三俣山が見えていた。
5時過ぎ、牧ノ戸峠の駐車場に着くと、もう残っているのは私のクルマだけだった。
山道の雪もほとんど解けていて、暮れなずむ景色を眺めながら、走る車の中で、私は幸せな気分だった。
急に思いついて出かけてきたが、十分に楽しむことのできた雪山だった。
私だけの、小さな喜びにあふれた山歩きに、ありがとう。