ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ゆく冬を・・・惜しみける

2018-02-26 22:09:43 | Weblog




 2月26日

 数日前、またまた九重に行ってきた。
 前回、これでこの冬の雪の九重は終わりだろう、と書いていたのだが、その日の朝、朝食を食べながら冬期五輪競技のテレビなどを見た後、いつものようにパソコンの前に座り、牧ノ戸峠(1330m)のライブカメラを見てみると、何と快晴の空の下、雪の黒岩山(1503m)の姿が映し出され、かなりの新雪が降っているようで、道も圧雪状態で白くなっているし、すでにかなりのクルマが停まっていた。

 まさか、と私はうろたえてしまった。
 昨日、わが家の辺りでも確かに雪は降ったのだが、一時的にちらついただけの春の淡雪のようだったし。
 今日の晴れの予報は分かってはいたのだが、山にこれほどの雪が積もっているとは思わなかったから、山に行くつもりなど全くなかったのだ。
 そこで急いで支度して、クルマに乗って牧ノ戸峠へと向かった。
 家の付近の道に雪はなかったのだが、山道に入ると、半分以上が圧雪状態で、その日の気温はマイナス5度くらいだったから、所々がアイスバーンになっていて、クルマの後輪が何度か小さく滑っていた。

 そして、先ほど見たライブカメラの、その映像通りの牧ノ戸峠の駐車場に着いて、早速、登山靴に履き替えてスパッツにアイゼンを着けていった。
 アイゼンは前回書いていたように、合成ゴムのベルト部分が切れて壊れていたから、その部分をひもで何度も結びなおして、登山靴に装着できるようにしていた。

 まあ余談だけれども、都会に住んでいれば、すぐに新しいアイゼンを買い替えに行くことだろうが、こんな山の中にいれば、そのためだけに何時間もかかって、わざわざ大きな町にまで行く気にはならないから、何とか自分で直して使えないかと手立てを考えることになる。
 こうした田舎では、どんなものでもすぐ手に入るわけではないから、ものが壊れた時には、まず修理できるかどうか算段してみる所から始まるのだ。 
 もちろん、壊れた物は修理できない場合が多いのだが、新しいものが手に入るまでは、何とか他のもので代用し工夫するしかないし、まあ考えようによっては、それで様々な臨機応変の知恵がつくというものだし、物が足りなくてがまんするしかないから、新たに手に入れた時の喜びは倍加することになる。 
 田舎にいれば田舎なりの不便さがあり、都会にいれば都会なりの不都合なこともあり、互いにどちらがいいということではなく、どちらにも、利点欠点が相半ばしてあるということなのだろうが。

 さて、今回もまた11時に近い時間帯での出発になってしまったが、それは、ほとんどの山岳写真家たちにとっては最も嫌うベタ光線の時間帯なのだろうが、むしろ午後遅くの山陰の姿が好きな、素人絵葉書写真家の私としては、いつものほどよい時間だったのだ。
 白い雪に覆われた遊歩道からの歩きはじめだが、それらにはほとんど霧氷がついていなくて、ただ木々に白く雪が降り積もっているだけだったが、それでも、白い雪に青い空があれば、もうそれだけで、単純な私の頭の配色効果は十分だった。・・・まったくもう、お天気屋のお調子者なのだから。

 展望台から、雪の三俣山(1745m)がすっきりと見えている。
 春夏秋冬、何度見ても飽きることはない、私の好きな九重を代表する眺めの一つなのだ。
 そして、沓掛山の、雪の縦走路を行く。
 雪の状態も、これまでと同じ真冬の感じのまま、よく締まっていて歩きやすいし、前回に苦しめられた強風もないし、日差しには春の暖かさが感じられるし、全く申し分のない雪山歩きだった。 
 何より気になっていたアイゼンは、強くしばりつけたひもでゆるむことはなく、とうとうその日は駐車場に戻りつくまで一度もはずれることはなかったのだ。

 ゆるやかに続く尾根道の両側には、それまでの古い雪の上に、さらに10㎝余りの雪が柔らかく降り積もっていて、それが周りの雪景色をさらになごやかなものにしていたし、いくらか風紋もできていた。
 行く先はまだ決めていなかったのだが、分岐の所で、その扇ヶ鼻から下りてきている人がいて、これなら先行者のトレース(踏み跡)がついているだろうからと、何とか楽をしたがる年寄りの常で、そちらに行くことにした。 
 (もっとも、若い時には、むしろ先行者のいないまっさらの雪の上を、ラッセル気味に登って行くことが楽しみだったのだから、まあ長い間、山に登っていれば、雪道での苦楽は、相半ばして清算されてしまうことになるのだろうが。)

 少し急になった前峰(北の肩)への道は、それまでに降っていた雪が溶けて凍りついていて、その上に新雪がのっていたから、こういうところはアイゼンがないと苦労するだろう。 
 広々とした前峰の台地から、青空の下に、久住山をはじめとする九重の主峰群が立ち並んでいる。
 久しぶりにこの扇ヶ鼻に来たような気がするが、この山からの展望は、星生山や天狗ヶ城、中岳などとともに素晴らしく、特にこの冬と初夏のミヤマキリシマのころなどが素晴らしく、毎年一度は登りたい九重の山の一つでもある。
 そこに、同世代のおじさんたちが下りてきて、互いにあいさつを交わした。おそらくは彼らも同じように、最後の冬山を楽しんでいるのだろう。
 ふと、あの有名な芭蕉(ばしょう)の句になぞらえて、言葉が口をついて出た。
 ”ゆく冬を 九重の人と 惜しみける”

 今度は扇ヶ鼻の頂上へとゆるやかに登って行く。 
 振り返り見ると、離れて星生山(1762m)が高く、その前景になるこの扇ヶ鼻台地のアセビの株ごとに雪が降り積もっていて、それは、まるで打ち寄せる波のようにも見えた。(冒頭の写真)

 そして、大きな岩が集まった扇ヶ鼻の山頂へと向かうと、若い女の人が一人で降りてきてあいさつをかわした。 
 冬の時期に、メインルートから外れたこんな目立たないピークを目指すというだけでも、よほど山が好きなのだと思うし、今の中高年に大きく傾いている日本の登山人口から見ても、こうした意欲ある若い人たちが増えていくのはありがたいことだ。 
(北アルプスなどのように、営業小屋の人たちによる登山道整備がなされている所はともかくとして、地方の登山道は、地元の山岳会や営林署に頼るほかはなく、それさえも途絶えがちな今、廃道の危機にさらされている登山道も少なくはなく、そのためにもそうしたマイナーなルートも常時歩かれることが望ましいのだ。)

 その扇ヶ鼻の頂上(1698m)には誰もいなくて、静かだった。
 そこから見る展望は、左手の星生山から、星生崎(1710m)、天狗ヶ城(1780m)に中岳(1791m)そして久住山(1787m)へと、九重核心部の山々が、まるで一つの山脈のように立ち並んでいた。(写真下)





 ちなみに、紅葉の頃の眺めも、また思い出してしまう。(′16,10.31 の項参照)
 すぐ先の西の肩のあたりまで行ってみると、さらに岩井川岳(1522m)方面へと雪道にトレースが続いていた。この時期に熊本県側の瀬の本方面から登ってきたのだろうか。 
 静かな頂上で十分に眺めを楽しんだ後、頂上から下りて行くと、先ほどの女の人が今度は登り返してきたのに出会い、えーっと思わず声をかけてしまった。

 彼女は、瀬の本の先にある場所にクルマを停めて、扇ヶ鼻に登ってきたとのことだった。
 ただ初めてのコースで、幸いにも先行者二人のトレースがあって助けられたが、なかったら雪で迷っていたかもしれないと言っていた。
 私も、この道は二度ほどたどったことがあり、夏に沢をさかのぼって分岐あたりの縦走路に出て、扇ヶ鼻から岩井川岳とたどって、おそらくは彼女の言っていたその駐車スペースに戻ってきたのだが、さらに途中までだが、秋にも岩井川岳付近まで往復したこともある。
 私は彼女に、日本には他にも、北アルプスや南アルプスに東北・北海道にもいい山がいろいろとあるから、一度は行ったほうがいいというと、何と夏に南アルプスの北岳(3192m)にテントを担いで登ったそうで、ただ隣の間ノ岳(3190m)までは行けなかったとのことだった。

 ほんの5分ぐらいの立ち話だったが、こうして同好の士、山好きな人々の系譜が続いて行くことは、ありがたいことだと思う。
 彼女は、私がする山の話をうらやましそうに聞いていたが、なあにこれからがある。私みたいな年寄りには、もう山に登れる時間はあまり残されてはいないけれども、若い君には、これからうんざりするほどの時間を山登りに使うことができるのだから。
 そこで、いつも例えに思い出すのは、あの映画『1900年』(ベルナルド・ベルトリッチ監督、1982年)の中で、領主のおやじがコソ泥をした若者を捕まえて、むしろ自分に言い聞かせるかのように話していた言葉だ。

 「わしには、うんざりするほどの金があるが、使う時間がない。それなのに、コソ泥のクソガキのおまえには、金がないのに、うんざりするほどの将来が、時間があるのだ。」

 何と、人間のそして人生の核心を突くような、言葉だろう。
 思い返してみれば、私が人生の哲学を学んだのは、決して学校の授業からではなく、感受性の強い若いころに手あたり次第に見た、多くの映画たちから、さらには同じように読みあさった、小説たちからだったのだ。

 余分なことだが、この度の冬季五輪を見ていて、この歳になってもまだまだいろいろと感心させられることも多かったのだが、特にフィギュア男子の羽生選手の、鬼気迫るような圧倒的な滑りはもとより、女子のロシア勢の二人のスケーティングには、感心することしきりだった。
 彼女たちの、高度な回転技術が高い評価を受けていたのは当然だとしても、私が感心したのは、彼女たち二人の、いずれもロシアのバレエ音楽『アンナ・カレーニナ』と『ドン・キホーテ』の中の、ワルツに合わせてのすべりが素晴らしかったからだ。
 それは、まごうかたなきロシア・バレエの洗練された伝統の踊りであり、他の選手たちが氷の上をダンスのように滑っていたのと比べて、二人は明らかに氷の上でそれぞれのワルツを踊っていたのだ。

 そこで思い出したのは、昔、私が東京で働いていたころ、当時かかわっていた企画ものの音楽雑誌の対談の中で、今は亡き映画評論家の淀川長治さんが話していたのだが、”子供のころ、当時評判だったロシアのバレリーナ、アンナ・パブロヴァが日本にやってきて、そのころまだ子供だった私は、両親に連れられてその舞台を見に行ったんだけれども、あの「瀕死の白鳥」のシーンで、彼女がまるで本物の白鳥が死んでいくように踊っていて、子供心に感心したことを今でも憶えている。大切なことは、若い時に、一流のものをたくさん見ておくということですよ。”

 そこで、話はまたまた前後するが、私が見た男女フィギュアの中で特に感心したのは、あの日本映画『陰陽師(おんみょうじ)』のテーマ音楽「SEIMEI」にのって鮮やかにすべりきった羽生選手はともかく、3位の銅メダルに終わったスペインのフェルナンデス選手のショート・プログラムでのすべりである。
 それは、あのチャップリンの映画『モダン・タイムス(1936年)』からの音楽に合わせて振り付けられたものであり、その映画でのチャップリンの動きを見事に取り入れたダンスが独創的であり、その時の羽生選手のショパンの「バラード第1番」での復活劇の感動に隠された感はあるが、フェルナンデスに芸術的評価として最高点を入れたくなるほどだった。

 様々な感動を与えてくれた、今回の冬季オリンピック・・・そして、現実の目の前にある世界に戻ったとしても、私たちは、人間としてこうして時々感動を覚えては励まされるからこそ、そして自分の日々の生活の中でも、そこここに小さな喜びがあるからこそ、たとえ大きな悲しみに襲われる時があり、悲嘆にくれることがあったとしても、まだまだこれからだと、しっかりと生きていこうと思うのではないのだろうか。 

 山の中で若い人と出会い、少し話をしたことから、話があちこちに飛んでしまい収拾がつかなくなったので、余談としての話はここまでにして、山の話の続きに戻ろう。 
 彼女と別れて扇ヶ鼻を下りて行き、分岐の所まで戻ってきたが、まだ十分に時間はあった。
 これからもっと先の山にまで行くには、この年寄りの足からすれば無理なことだが、例の久住山を見るために、いつものあの星生崎下の展望台になる岩場の所までは行こうと思った。 

 西千里浜まで来ると、風紋は少なかったが、柔らかく降り積もった雪を前景にした久住山の眺めが素晴らしかった。 
 その上、もう戻ってくる人もまばらで、心おきなく写真を撮ることができた。
 できるならば、風紋やシュカブラに”エビのしっぽ”などの雪氷芸術が見られれば言うことはなかったのだが、この青空の下の雪山の眺めだけでも十分だった。 
 岩塊帯をトラバース気味に登り、右に続く岩尾根をたどり、いつもの場所で腰を下ろす。風もあまりなく、正面に、ただ久住山が大きかった。(写真下)





 遅い昼食を食べ、温かいスポーツ飲料を飲んだ。 
 もう、縦走路の前後に人影は見えなかった。
 誰もいないことで、私一人が自然に対峙して相対立しているのではなく、ただ自然の中に抱え込まれ含まれているような・・・。
 30分余りをそこで過ごし、戻ることにしたが、もう周りには誰もいなくて、気兼ねなくカメラを構えられることもあって、何度も山の姿を振り返り見ては、写真に撮っていった。  
 ここ西千里浜の、前景に雪紋様を入れた久住山の写真が、いつもの私のお決まりの構図になのだ。(写真下)
 今まで、併せて何枚撮っているのだろうか、それでも同じものは決してなく、少しずつ違っているからこそ、行くたびごとに興味がわいてくるのだ。
  特に今の時間帯になると陰影が濃くなってくるし、ただこれらの雪紋様が、夕日に照り映えればと思うのだが、この時期は残念ながら夕日は山陰に入ってしまい、この辺りは全くの影の中になってしまうのだ。

 もう十分に写真を撮り終えて、後は日が傾いてきた縦走路をただ一人歩いて行くだけだったが、終日続いた快晴の空の下、まだまだ周りの眺めを楽しむことができた。 
 沓掛山に登り返し、尾根をたどり遊歩道の雪道を降りて行く。誰もいない展望台の向こうに、朝と同じように三俣山が見えていた。
 5時過ぎ、牧ノ戸峠の駐車場に着くと、もう残っているのは私のクルマだけだった。
 山道の雪もほとんど解けていて、暮れなずむ景色を眺めながら、走る車の中で、私は幸せな気分だった。
 急に思いついて出かけてきたが、十分に楽しむことのできた雪山だった。
 私だけの、小さな喜びにあふれた山歩きに、ありがとう。




老大 傷悲せん

2018-02-19 21:33:52 | Weblog




 2月19日

 昨日、一昨日と二日続いて、九州地方には快晴の空が広がっていた。
 その日差しの上に、春を思わせる暖かい空気に包まれていた。
 天気的に言えば、山登りにはうってつけの山日和(やまびより)の日だったし、土日ということもあって、牧ノ戸峠のライブカメラで見ると、駐車場はクルマでいっぱいになっていた。
 ただし、気候的に言えば、こんな時の九重は気温の高い残雪期の山になっていて、登山道はぬかるみになっているだろうし、週末の混雑を考え併せれば、とても出かける気にはならなかった。

 その代わりに、私には家での仕事がいろいろとあった。
 たまっていた洗濯をして、ベランダに干すと、暖かい日差しでもう午後には乾いていた。 
 それまでは、晴れた日でも気温が低いから、外に干すとすぐに凍りついてしまうし、うっとおしいけれども、室内干しにするしかなかったのだから、何とありがたいことだろうかと思う。
 さらに、雪の解けた庭に出て、遅くはなったけれどもウメの木の枝切りをして、去年からの落ち葉焚きの灰を、庭の木々の根元にまいた。
 家の中に戻って、出し忘れていた布団を干して、その後で揺り椅子に腰を下ろして、いつかはやらなければと思っていた、からまった長いヒモをパズルを解くように少しずつほどいていった。
 それをもう二度とからまないように、まとめて結んでは傍らに置いた。
 木々の上に青空が広がり、遠くホオジロのさえずりが聞こえていた。 
 何と言うことではないけれども、今、こうしてここにいることが、幸せに思えた。

 実は、一昨日のことだが、夜中の2時半ころに、何か息苦しくなって目が覚めた。
 暗闇の中、鼻水がじわーりと流れ落ちてきそうで、枕もとのスタンドの明かりをつけて、ティッシュの箱に手を伸ばそうとして、それが血であることに気づいた。
 それは見る間にポタポタと落ちてきて、枕とシーツが鮮血で赤くなってしまうほどだった。
 あわてて、ティッシュで鼻を抑えたが、そのティッシュさえが見る間に赤く染まっていく。
 これではだめだと、鼻の穴にティッシュを押し込んだ。
 それさえも赤くなっていき、二度目に入れ替えてようやく収まってきたのだが、今度はもう一方の鼻の穴からも血がしたたり落ちてきた。
 そこでそちら側にも、ティッシュを詰め込んで、ようやく鼻からの出血が抑えられたかと思ったら、今度はそれが鼻腔を通って口に流れてきた。
 それを、ティッシュが赤くなるほどに吐き出して、その後洗面所に行って、さらにまたシンクが赤くなるほどに吐き出した。

 ともかく、安静にして寝ているほかはない。
 いろいろなことが、頭の中をよぎっていった。
 119番通報して救急車にきてもらうのか、しかし、たかが鼻血ごときでとは言っても、このまま出血が続いて意識がなくなってしまうしまうようなことになれば、それまでにやらなければならないことはいろいろとあるし・・・。 
 とうてい、眠ることはできなかった。
 というのも、鼻がふさがれているから、口で呼吸するしかなく、すぐに喉がカラカラになってしまうからだ。 
 時々、洗面所に行ってのどと口のうがいをして、さらにトイレにも行った。

 もう、4時半になっていた。
 そこから、さすがに眠り込んでしまったらしく、目が覚めたのは8時過ぎだった。
 明かりをつけて、部屋を見回すと、枕からシーツに大きな赤い血の跡が残り、周りには血まみれのティッシュが散乱していて、まるでドラマで見る事件現場のようだった。
 のどの奥までカラカラになっていて、すぐに洗面所に行ってうがいをした後、水を飲んだ。体にしみいる感じだった。
 おそるおそる、まず片方の鼻のティッシュを取ると、先端が赤黒い血になって、出血は止まっていた。 
 そして時間をおいて片方の鼻のティッシュを取ってみると、こちら側も同じ様子で、もう血は止まっているようだった。何より、普通に呼吸できるのがありがたい。 
 朝食の時間だったが、いつものパンではなくて、乾燥果物グラノーラをミルクで柔らかくして食べただけで、あとは一日をおとなしく過ごした。

 そして、この突然の鼻血について調べてみると、いろいろなことががわかってきた。 
 まず鼻血の処置について、止血するには、横になったり、鼻にティシュを詰めたりするべきではなく、まして昔から言われている首の後ろを手で叩くなどと言うのはもってのほかだそうであり、まずやるべきことは、むしろ上半身は起こして、小鼻の上あたりを指で押さえていれば10分ほどで止まるとのことであり、さらに鼻にティッシュを詰めるのは、傷口にその残片を残す恐れがあるから避けるべきであり、詰め物は脱脂綿かガーゼにするべきだということ。 
 つまり、今まで私がやっていたことは、すべて間違っていたのだ。 
 次に、これほどのひどい鼻血は初めてだったので、原因を調べてみると、高血圧症や鼻腔付近の悪性腫瘍などなど恐ろしい言葉が続く、確かに私は明らかに高血圧であるしと、不安な思いになったが、さらにピーナッツの食べ過ぎだとも書いてあった。

 思い当たる節があった。実は一週間ほど前に見たテレビ番組で、ピーナッツが不足分の栄養素などを補い体にいいと聞いていたので、さっそく買い求めては、この二日で一袋の半分余りものピーナッツを食べてしまっていたのだ。 
 診断・・・本来の高血圧症のところ、そのことを意識せず、食い意地の張ったいやしさから、ピーナッツをむさぼり食ったためだと結論。

 しかし深夜、ひとりで寝ていた時に起きた出血であり、さすがに生まれてこのかた病気らしい病気ひとつしたこともない私だけに、頭の中は混乱してしまった。 
 昔、あの有名な刑事もののドラマで、松田優作ふんする刑事が犯人に打たれて、腹部から流れ出る血を手で触り見て、”なんじゃ、こりゃ!”と叫んで死んでいった場面が有名になって、その後も、たびたびそのシーンだけが繰り返しプレイバックされていたのだが。

 もちろん、それとは比較にもならないけれど、私の鼻から生温かい血が流れ落ち続けるのを見て、テレビでのそのシーンを思い出してしまったのだ。
 おそらく、事故や事件に巻き込まれて、大きな出血性のケガを負ったった人たちは誰でも、その経験したことのない自分の体の状態にうろたえ、理解できないまま死んでいったのではないのだろうか。
 
 人は、母の胎内から外界へと生まれ落ちた時から、毎日、目覚めと眠りを繰り返すことで、生と死の世界を行き来しては、来るべき時のために訓練しているのだろうか。
 さらに、それは大きな病気やケガで意識が遠のいていくことによっても、生の世界からの隔離、死の世界への接近状態を経験することにもなるのだろうか。
 外界との接触感がない無意識の中では、自分の体の意識感覚もなくなるから、痛みも感じることなく、死の扉の先に現れる、幻視としての花園に囲まれた天国の城郭(じょうかく)を遥拝(ようはい)することもできるのだろう。(参考文献:『臨死体験』(上下)立花隆 文春文庫、『死ぬ瞬間』E・キューブラー・ロス 中公文庫)
 そう考えてくると、行きつく先の死の世界は、それほど怖れることもないのだろうか。
 私は、この思いがけない出血事件で、また一つ教えられたような気がするのだが・・・さりとて長年続けてきた悪弊(あくへい)でもあるぐうたらな生活を今さら変えることもできずに、つまり今後とも、常々覚悟だけはしておく他はないのだが、今回のことは、神様からのありがたいお達しがあったのだと、理解するべきなのだろう。

 さて、だらだらと”くたばりぞこない”年寄りの話を書いてしまったが、ここで冒頭にあげた写真についての話に戻ろう。
 実は数日前に、またまたこの冬4度目の九重山に、それもいつものお手軽コースの牧ノ戸峠(1330m)から登ってきたのだが、どうも天気が今一つ良くなくて、今年の九重は二度の晴天と二度の悪天候という結果に終わってしまった。
 もちろんその日は、最初から最後まで曇り空のモノトーンの世界の中を歩くことになった、最初の悪天候の時(1月15日の項)ほどではなかったのだが、今回は朝のうちは、全体に青空が広がっていて、ただ九重連山の上にだけ雲がまとわりついているという状態だったのが、その後、風が強くなり”春一番”となって吹き荒れたうえに、次第に上空の層積雲が降りてきて、山の上全部がすっかり曇り空になってしまったのだ。
 その日の天気予報は、全九州的に晴れマークが出ていたのだが、詳しく見ると、例の天気分布予報のメッシュ図では、九重の辺りが時々曇り空になると出ていたし、風が強くなるという予報もあったのだ。
 
 朝いつものように、空模様を眺めながら出発するのをためらっていたのだが、これからはもう強い寒波も来なくなるだろうし、とすると、冬山の厳しい姿を見るのは、この日が最後かもしれないという焦りも加わって、まだ九重方面に雲があったものの、前回よりは1時間も早くも家を出てきたのだが。
 しかし、牧ノ戸峠の両側にある沓掛山も黒岩山も雲に覆われていて、何より風が強かった。 
 しばらく外に出ないで、クルマの中で待っていたが、隣にクルマを停めて空模様をうかがっていた人はあきらめて戻って行った。(結果的に彼が正しかったのだが.)
 30分余り待って、切れ切れの青空が見え、沓掛山に至る霧氷の斜面が現れてきたので、思い切って出かけることにした。
 最近は、いつもこうして11時くらいの出発になってしまう。

 霧氷の遊歩道から展望台まで上がると、少し雲がかかりながらも、三俣山(1745m)が青空の下に見えていた。
 沓掛山前峰に上がり、そこからの稜線でも風が強く、ただありがたいことに、先の沓掛山本峰(1503m)からは、三俣山、星生山(1762m)と青空の下に見えていた。
 そこから少し岩場を下ると、いつものなだらかな縦走路になり、風も落ち着いてきた。
 もう戻ってくる人たちが何人もいて、その中の同年配の人に声をかけると、”風が強くて、御池にまで行ってきて、頂上には登らずに戻ってきたが、ほとんどの人が引き返したようですよ”と答えてくれた。

 昔は、主に若い娘たちに声をかけていたのだが、今では同年配の年寄りたちだけに声をかけるようになってしまった。
 確か『枕草子』の中で清少納言が言っていたと思うのだが、したり顔で若い人たちの話に入り込もうとする年寄りほど、はたから見ても、場違いで情けないものはないと思うし、そのことを自らの肝に銘じて、山歩きの時にもし声をかけるとすれば、最近はもっぱら、身構えすることなく話ができる年寄りにしているのだが。
 ということは、もうすっかり元気がなくなってしまって・・・ご愁傷さまです、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)チーン。
 さて冗談はそのぐらいにして、ゆるやかな縦走路をたどって行くと、今まではあまり見ることがなかった雪による”風紋”が少しばかりできていた。(写真下)



 

 これならば、先の西千里浜や久住山(1787m)や中岳(1791m)などの下の方でもさらに大きな風紋ができているかもしれないと思った。
 しかし、問題はこの天気だ。
 かろうじて、今は星生山西斜面が見えてはいるが、その先の九重核心部の山々方面には分厚い雲がかかっている。
 せっかく、こうして雪に彩られた縦走路が素晴らしいのに、全く残念ではある。(写真下)

 扇ヶ鼻分岐から西千里ヶ浜へとたどって行くが、さらにはガスに包まれてしまい、いつもの久住山さえ見えない。
 それでも、この冬最初の時と同じように、岩塊斜面をトラバースして、星生崎下の岩峰(1710m)の所まで行く。
 すさまじい風だが、前回が北風であったのと比べると、今回は南西の風を避けることになる。
 そこで30分余り待ってみたが、青空のかけらすら見ることができずに、体は冷えるばかりで、あきらめて戻ることにした。
 肥前ヶ城との間から、熊本県側の久住高原が見えてはいるのだが、そのすぐ上から層積雲が垂れ込めていて、とても晴れる見込みはなかった。
 帰りはただただ戻るだけで、その上、前回外れたアイゼンが今回はもう完全に壊れてしまい、片足だけの歩行になってしまった。
 ゆるやかな道では問題ないのだが、急勾配になると、やはり片足の踏ん張りが効かなくて、前回書いたように、よく片足アイゼンでヒマラヤの後方から下りてきたものだと思う。
 沓掛山の稜線でも、その下のナベ谷から吹き上がってきた風がすさまじい音を立てていた。
 すっかり車の少なくなった駐車場に戻り、そこから、もう雪がほとんどとけていた山道を下って行って、夕方前に家に帰り着いた。

 その後雨が降り、晴れた日も続いたが、それはもう雪の残る山でしかなく、九重の厳しい雪山の姿は、もうあの時が終わりだったのかもしれない。
 山登りで、その度ごとの山の優劣など余りつけたくはないが、この冬の4回の雪山で、十分に楽しめたのは2回(1月29日、2月12日の項)だけだったのだ。
 さて、去年も行かなかった本州への冬の遠征登山、いくつか候補の山はあるのだが、その計画に、天気、宿、飛行機のことなど考えると、おっくうになってしまう。
 大多数の日本国民の皆様と同じように、家にいてテレビで冬季五輪の試合を見ているほうがいいのかもしれない。

 羽生、小平の金メダルはともかく、その二人にまつわる話には泣かされることばかりで、23歳、31歳であれほど確かな話ができるとは、同じころ私は一体何をしていたというのだろうかと思う。そして、そのままじじいになり果ててしまって・・・。


「少壮 努力せずんば 老大 徒(いたずら)に 傷悲(しょうひ)せん」

(若い時にしっかり努力しておかないと、年寄りになってからわけもなく嘆き悲しむことになる。)

(漢代の『文選』より)


 


 
 


雪の紋様

2018-02-12 22:05:14 | Weblog




 2月12日

 昨日、雪ではなく、珍しく雨が降った。
 それでも、先月下旬から降り積もっていた雪を、すべて融かすほどではなかった。
 そして今日は、また北西の風に乗って、さらさらとした雪が降り続いている。
 三連休の昨日今日、ライブカメラで見ると、悪天候にもかかわらず、九重・牧ノ戸峠の駐車場はクルマでいっぱいになっていた。

 雪山は好きだけれど、天気のいい時でなければ行く気がしないと、ぜいたくを言っている、私のような年寄りがいるかと思えば、大多数の人がそうなのだろうが、せっかくの休みの日なのだから、こうして雪が降っていても、冷たい強い風に吹かれながらでも、雪山で過ごしたいという人もいるのだ。

 いささか、考えさせられてしまう。 
 もちろん、それはどちらが正しいとか言うような、単純な比較の対象ではなくて、つまりそれぞれの人の、山に登るということの考え方の違いであり、簡単に言えば、山歩きの仕方や好みの違いがあるからなのだろうが。 
 さらに言えば、山登りが好きだとか言う人の割合は、世界の中でも登山人口が多いと思われる、日本でのことと考えたとしても、多くの日本人の中で見れば、ごく一部の少数派の人たちの、趣味の世界にしか過ぎないのだろうし、ましては山登りなどに興味がない者からすれば、つまりは、今流行りの様々な”オタク文化”の中の一つに過ぎない、というだけのことなのかもしれない。

 趣味や好みの世界は、いわゆる”蓼(たで)食う虫も好きずき”(虫の中には人間が見向きもしない苦い蓼の葉を食べる虫もいるぐらい)であり、ひとたびある物事に興味がひかれて好きになると、”病(やまい)膏冐(こうもう)に入る”(病気が悪化するように)までにのめり込むものなのかもしれない。
 実は数日前に、雪降り後の好天の日を待って、この冬三度目の九重山に行ってきたのだが、今回もまた、空が晴れてきてからの出発になって遅くなり、そのために夕方近くに戻ってくるという、毎回同じような時間帯での雪山歩きになってしまうのだが。
 そして今回もまた、これから夕日の山を撮りに行くという、同年代の人たちに出会ったのだが、彼らは、それぞれに立派なカメラを携え、しっかりとした三脚を持っていて、自分の意図した風景を撮るべく準備しているセミプロ級の人たちだったのだが、その彼らと併せて、そうした趣味に生きる人たちのことについて、上に書いたように、天気の悪い日にも登る人たちについても考えてみたのだ。 
 もっとも私は、それほどまでに徹底して考えてから、写真を撮っているわけではないのだが、はた目から見れば、私もそんな”オタク”たち仲間の一人であることに違いはないのだろう。

 さて今回の登山だが、前回と同じように朝のうちは雲が多かったので出かけるのをためらい、青空が広がってくるのを待って家を出た。
 牧ノ戸峠(1330m)の駐車場に着いたのは、11時前にもなっていたが、ずらりと並んだクルマの列の中に空きを見つけて、何とか停めることができた。 
 遊歩道の周りの樹々や灌木も、雪に覆われてはいたが、上の方に行っても、今回はほとんど霧氷が見られず、昨夜は強風も吹いていたのにと不思議に思ったのだが、今回、霧氷樹氷ができていないのは、おそらくは風がない時に雪が上から積もっただけで、その後の風には、雪も水蒸気も含んでいなかったからということだろう。 
 ただ、それだけに興味深いのは、ただ積もった雪が一か月前に行った時のように(1月15日の項参照)、雪枝紋様として見られるのかと思っていたら、そうではなくて、木の枝の所々に雪玉の形として点々と残っているのだ。 
 それが背後の青空に映えて、霧氷とは違った、また別のにぎやかな景色になっていて。(冒頭の写真)
 確か北国のどこだったか、何かの行事の時に、木の小枝に雪玉形の小餅(こもち)を刺して、お飾りとして供えているのを見たことがあるが、何と言ったか、あの光景を思い出したのだ。

 沓掛山(1503m)から、いつもの三俣山(1745m)や星生山(ほっしょうざん1762m)の眺めを楽しんだ後、広くゆるやかな雪の尾根道をたどって行く。
 右手扇ヶ鼻側には、浸食されてそこだけが残っている草の株に、雪が降り積もり、まるで白いイルカたちの群れが流れ下って行くようにも見えた。(写真下)





 もっとも地形的に見れば、ここはおそらく、昔の火山による火砕流が流れ下って行った跡の地形なのだろうから、むしろ想像するとすれば、まだ赤くくすぶり続ける溶岩火砕流が流れ下っているさまを、思い浮かべるべきなのかもしれないが。
 この牧ノ戸から久住山(1787m)や中岳(1791m)に続くメイン・ルートは、こうして30㎝ぐらいの雪が積もっていても、登山者が多い分、しっかりと踏み固められていて歩きやすく、アイゼンなしで歩いている人も多く見かけるほどだ。
 私もつい少し前までは、このぐらいの雪道ではと、アイゼンを用意してはいても使用することは余りなかったのだが、寄る年波には勝てず、この冬からはもう駐車場の歩き出しの時からずっとアイゼンをつけているのだ。

 さて、扇ヶ鼻分岐の所から、そのメイン・ルートを離れて、左に星生山への踏み跡をたどる。 
 そこには、二三人が通った踏み跡だけがあるが、その踏み跡があるだけでも、それも下りの足跡なのだが、この深くなる雪の中ではありがたい。
(昔は、この雪の南尾根など、通る人が少なく、むしろ新雪をラッセル気味に登って行くのが、ささやかな楽しみでもあったのだが、あれから何十年・・・今じゃ誰かのトレース跡がないと行く気がしなくなっているのだ・・・。)
 ところで、この星生山南尾根は、その火口壁への登り始めからきつく、少し岩場にもなっていて、凍りついている時には注意する必要がある。 
 しかし、上の稜線に上がり灌木帯を抜けると、火山特有の擬高山帯(ぎこうざんたい)のすっきりした展望が広がってくる。
 ここで、腰を下ろして一休みとった。ところが、足元を見ると、なんと左足にあるはずのアイゼンがない。 
 あの下の岩場の所で、ガリガリときしむ音がしていたから、あのあたりで脱げてしまったのかもしれない。 

 今からまたあの場所まで下って行って、見つかったとしても、さらに登り返して改めて星生山に向かうのは、二度手間になるし。 
 ともかく、このまま右足についているアイゼンだけでも歩いては行けるのだが、ただ頂上まで行って、予定ではさらに星生崎までの稜線歩きを楽しむつもりだったから、アイゼンなしでのこの先の雪の岩稜帯の縦走は気になるし(前に何度かアイゼンなしで歩いたことはあるが)、あきらめて、頂上からこの南尾根を引き返すしかないと思った。
 もちろん今まで、北海道や八ヶ岳や北アルプスの雪山では、アイゼンがゆるむことはあっても、途中で脱げて気づかなかったなどという経験はないが、それは12本爪のベルト式のものであって、今回のものは10本爪のワンタッチ式のものであり、着脱が簡単なだけに、また脱げやすいという一面もあるのだ。 
 それに関連してのことだが、残雪の日高山脈で、ハイマツ混じりの尾根を縦走中に、どこかでアイゼンが脱げて見つからなかったことがあったが、あれもワンタッチ式の6本爪軽アイゼンだった。 
 確かヒマラヤの登山記録だったと思うが、アイゼンをなくしたもう一人に片方のアイゼンをはかせて、お互いに片方だけで歩いてきて、奇跡の生還を遂げたという映像を見たことがあるが、氷壁斜面の続くヒマラヤのことを思えば、その困難さは想像に難くない。
 まあ私のように、こうして小高い雪の丘の散歩しているのとは、次元の違う話ではあるが。

 さてここからは、南尾根の中腹部の登りになって、風の強い風衝地(ふうしょうち)だからと期待していたのだが、残念なことに、お目当ての”シュカブラ”や”えびのしっぽ”に”風紋”などの雪氷芸術は、あまりできてはいなかった。

 それでも、所々立ち止まって写真を撮って行く。
 西の肩からは、ゆるやかになだらかな星生山の頂上へと向かう。 
 ちょうど、3人パーティが星生崎への尾根へと下って行くところで、他には誰もいなかった。
 やはり何度見ても、この星生山からの九重核心部の山々(写真下、久住山、稲星山、天狗ヶ城、中岳)と後ろに控えて木々に覆われた大船山(1786m)と平治岳(1643m)、そして眼下に噴気が上がる硫黄山火口と、その左に大きく鎮座する三俣山の眺めは素晴らしいものだと思う。




 ただ残念なことには、快晴の空が広がってはいるのだが、空気の透明感がなく、北の由布岳(1583m)も、南の阿蘇山(1592m)や祖母山(1756m)もかろうじてその山影を確認できるだけだった。
 一休みしただけで、風の吹きつける頂上からすぐに下りて行くことにした。 
 そして、行きに休んだ場所から、ほんの少し行った所に、踏み跡の上そのままに、私のアイゼンが落ちていた。
 なーんだ、これならここまで戻って来てもすぐだったのだから、最初の計画どおりに、星生崎まで縦走できたのにと少し残念に思った。

 そこで、この南尾根だけで今日の行程を終えるには、あまりにも物足りないからと、下まで降りてからメイン・ルートの縦走路へと戻り、あの久住山の雄姿が見える所まで行くことにした。
 しかし、近道をとって足跡道から離れると、ズボリと吹きだまりに入り込み、ふとももの上までもぐりこんでしまうほどだった。
 後は、ゆるやかにたどり、西千里浜の平坦地に出て、そこからいつもの久住山を眺めた。 
 冬の久住山、この方角から眺めるとき、いつも気になるのは、その前景となる、”風紋、シュカブラ、えびのしっぽ”などの雪氷芸術の数々などなのだが、毎年決して同じものではないから、いつもこの冬はどうだろうと楽しみにしているのだが、残念ながら、ここでもまた雪が少なく、所々地面が露出していて、不十分な光景ではあったが、それなりに冬の厳しさはうかがえる姿だと、いつものように何枚もの写真を撮った。(写真下)





 さあ後はもう戻るだけと、すっかり日の傾いた雪の縦走路を下り、駐車場に着いたのはもう5時にもなっていた。 
 日が沈むのは6時くらいだから、まだ1時間もあり、途中で前回のように山の上での夕日を待つことも考えたが、そこが私のような、中途半端な山岳写真愛好家の情けないところで、夕映え写真よりは、早く家に帰って、熱い風呂に入って、夕食を食べながらテレビを見たほうがいいと思ってしまうのだ。
 そうして、いまだ俗人世界から一歩も離れられない自分に気づき、さらには、いつまでたっても数々の煩悩(ぼんのう)から抜け出せない、自分の心の弱さとともに、口ほどでもない自分の実行力のなさを、ただただ情けなく思うのだった。 
 その一方で、あのアインシュタインの舌を出している写真のように、実は私も舌を出して、こうしてぐうたらに自分の人生を楽しんでいるのだ・・・。
 
 今日は、終日マイナス気温のままの真冬日の中、青空が出たりした時もあったのだが、大体は一日中、雪が降ったりやんだりで、夜には雪はさらに積もっていくことだろう。
 そしてその雪の後で、また青空が広がってくくればと思うのだが・・・。


 「冬が又来て天と地を清楚(せいそ)にする。
 冬が洗い出すのは万物の木地(きじ)。
 天はやっぱり高く遠く
 樹木は思いきって潔(きよ)らかだ。
 ・・・。
 この世の少しばかりの擬勢(ぎせい虚勢)とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躙(じゅうりん)する。
 冬は凩(こがらし)の喇叭(らっぱ)を吹いて宣言する、
 人間手製の価値をすてよと。
 ・・・。」

( 高村光太郎  「冬の言葉」より 日本文学全集19 集英社)

 


雪のサザンカ

2018-02-05 21:20:47 | Weblog




 2月5日

 また、寒さがぶり返してきた。
 朝の気温は、今日もまた-7度で、日中-3度の真冬日(暖房のない居間の温度は+4度で息が白い)。
 このところ朝にはいつも、窓ガラスが凍りついている。
 保温カバーをつけていない、水道管が破裂するのは、マイナス4度くらいからだそうだから、窓ガラスが凍りつくのと大体同じ位の気温だ。
 この家の水道管にはもちろん保温カバーがついているし、一部分のカバーには、さらに自分で床下にもぐり込んで取り付けたぐらいだから、それほど心配することはないのだが。

 ただし、昔はもっと寒さが厳しくて、-10数度近くにまで下がった時には、さすがに水道管が凍りついてしまい、何とか時間をかけてお湯で温め、やっと水が出るようになったこともあるくらいだから、こうして冷え込んだ日には、特に北側の水道管は吹きさらしの中にあるから、随時、水道の蛇口を開けて、水を流してやるようにはしている。
 もちろん、北海道や東北の寒冷地仕様の家ならば、十分に凍結対策が取られていて、家の中の水道蛇口のそばには、必ず止水栓(しすいせん)があり、夜寝る前には、その止水栓を上げて水道管の水を抜いてやり、凍らないようにしているのだが。
 しかし、中途半端な寒さの九州のわが家には、そんな気のきいた設備はないし、ひどく気温が下がった時には、ともかく注意するしかなのだが。

 一方で、前回書いたように、こうして冬の寒波が押し寄せてきて雪が降る季節こそが、九州の雪山を楽しめる時なのだが、残念ながらその雪が、私の好きな雪氷芸術にはならないような、ただ降り積もっただけの雪であったり、その後の天気が思わしくない時には出かけないようにしているから、結局は家でくすぶりグウタラし続けて、周りの雪道を散歩するぐらいしかなくなってしまう。 
 上の写真は、そんな散歩の折に写した、雪の中のサザンカ(山茶花)なのだが、今の時期に咲いている花の生命力に、ただ感心するほかはない。 
 そして、もう一つ感心したのは、その香りの強さだ。 
 それも、雪が降っていない普通の時には、さほどその香りの強さを意識することはないのだが、こうして周り一面が雪に覆われている時に、雪と対比して咲く赤い花の色の鮮やかさはともかく、周りに漂うこの強烈なサザンカの香りはどうだろう。 
 この写真は、先月末に撮ったものなのだが、その後、さらに雪と寒さが続き、花はすっかり色あせ、落ちてしまった。
 ということは、これは交配種の寒椿(かんつばき)なのかもしれないが。 
 どちらにしても、あの香りは、花が生きている最後の務めを果たそうと、全精力を傾けて香りを放っていたからかもしれないのだ。

 そのことで、昔読んだ「赤い椿の花」という一編の小説があったことを思い出した。(確かこのブログでも一度書いたことがあると思うけれども。)
 作者は田宮虎彦(1911~88)で、岬をめぐるバスの運転手と車掌を主人公にして、彼らを取り巻く人々との人間模様を描いていたと記憶しているのだが、その時の私の感想としては、彼が書きたいと思ったことは分かるにしても、やや冗長に過ぎて平凡に過ぎるという感じが残っているのだが。
 しかし、若いころの一時期、この田宮虎彦の作品を夢中になって読んでいたことがあった。
 彼の名作と言われている「足摺岬(あしずりみさき)」を読んで以来、その作風にひかれて、「絵本」「異母兄弟」や時代物の「霧の中」「落城」などを読み続けていった記憶があり、今でも本棚にはその当時の古い文庫本が数冊残っている。

 例えば、あの「足摺岬」では、昭和初期の暗い時代を背景にして、漠然と死にたいと思って旅してきた青年が、岬近くの木賃宿で、その宿のおかみさんや行商人やお遍路(へんろ)の人々に出会い、話を聞いているうちに、死にたいという思いがいつしか消え去っているのに気づくのだが、最初の暗い思いの中に、やがて幾筋かの明るい光も差し込んでくるという筋立もさることながら、その平明な文章の中に、ある種の情念とそれに相反する静寂が漂っていたように、記憶している。 
 ただその中で、今でも忘れられない言葉がある。 
 老遍路がぼそりとい言った一言だ。
 
「のう、おぬし、生きることは辛い(つら)いものじゃが、生きておる方がなんぼよいことか」

 今日、昼食にラーメンを作って食べながら、ニュースの後も見るともなしに、ワイドショー・バラエティー番組を見ていたのだが、そこで”ヒナ壇(だん)”ゲストたちが、不倫騒動を引き起こした有名俳優二人への、非難を繰り返していたのだが、それを受けて最後に司会者の彼が、次第に激高(げきこう)していく口調で、”そんな二人のことより、残された家族、子供たちの気持ちを考えたことがあるのか”と吐き捨てるように言っていた。
  
 そういうことなのだと思う。
 誰でも、自分の立場でしかものは考えられないのだ。
 親が離婚して、残された子供の思いを、自分の経験として知っているからこそ、彼は、ゲスト・タレントたちが言う、不倫している当事者たちの体面だけの論点に、がまんできなくなったのだ。 
 話は「足摺岬」戻るが、かたくなに自分の心の思いにこだわっていた、その若い主人公が、田舎の宿で、自分とは違う世界に住んでいる人たちに出会い、彼ら、人生の先達(せんだつ)たちが歩んできた、その人生の経路話に耳を傾けていて、そこで初めて死ぬこと以外に、様々な人生の選択肢の世界があることに、気づくようになるのだ。

 しかし、この田宮虎彦などは、もう今の時代では顧(かえり)みられることもない作家の一人にすぎないだろうし、というよりも、この昭和初期の作家たちだけではなく、いにしえの時代、万葉の時代から営々と受け継がれ続いてきた、日本文学の心の綾を織りなす人間世界観が、今ではもう忘れ去られようとしているのだ。
 今の時代、自分の心を表すのは、ただ口をついて出た、短い言葉だけで、相手との、社会との意思疎通が簡単にすませられることで、古い日本文学の、巧みに考え作り上げられた文章の意味など、もはや若い人誰もが理解できなくなるだろうし、それ以前にまず読まれることもないだろうから。
 今では、一行短文のツイッターやメールで、ことはすんでしまうということなのだ。 
 やがて、すべてはさらに簡略簡便になり、AI(人工知能)が、今までの人間の行動のほとんどを担(にな)うようになるのだろう.
 そして、それらの行きつく先は、もう誰にも止められない・・・。私は、そんな時代まで生きていたくはない。 

 私たち世代の年寄りは、戦争や人類滅亡の時に巡り合うこともなく、本当に良い時代に生まれて、ここまでも運よく生きてこられたと思うし、良い時代の中で死んでいくことができるのだと思う。
 今朝のテレビ画面に、あのテレビ最盛期の時代に大人気だった、民放の女性アナウンサーが、わずか52歳で亡くなったというニュースが流れていた。 
 と思えば、一番頼りにするべきその親に、せっかんを受けて、幼い命を失った3歳の男の子がいたり。
 小学生のころから続くいじめで、中学3年の夏に、飛び降り自殺した女の子がいたり。 
 交通事故のあおりを受けて、16歳の若さで死んでいった、女子高生もいて。
 さらには、11人もの身寄りのない老人たちが死んでいったアパート火災も起きて。
 はたして、それらのことはすべて、自分とは関係のない、どこか遠くの出来事なのだろうか。

 そうして、日々悲惨な出来事が起きている中でも、それなのに、しぶとく、細々と、わがままに生き延びている私がいて。
 ただこうして、死者たちの話をすることができるのは、自分が生きているからのことであり。 
 ただありがたく、感謝するばかりの毎日であります。

 ”アリガトウ”
「・・・。最初は言葉どおりありえないもの、あるのが不思議なものという意味で、人間のわざを超えた神の御徳・御力たたえてそういっていたのが・・・たぶんは神仏に対して、しきりにこの言葉を口にした時代を通って、なんでもうれしい時には常にそういったのが、のちのちこれをお礼の言葉に使うようになった起こりだろうと思います。外国にもこれとよく似た例は、たとえばフランス人のメルシ、イタリア人のグラチェなどがあり、この二つの語はともに元”神の恵みよ”という意味でありました。・・・。」

(「毎日の言葉」柳田国男 角川文庫)

 ところで、神様、相変わらず欲深い私ではありますが、できることならば、この冬もう一度、前回の九重山雪山登山の時のような、青空と雪氷芸術を見たいと思っているのですが、なにとぞ天候にお恵みを・・・。
 その時には、また手を合わせて、”ありがとうございます”との感謝の言葉を口にしますれば・・・。

(写真下、前回の登山の時(1月29日の項参照)、霧氷(樹氷)越しに遠く涌蓋山(わいたやま)を望む)