1月28日
この三日間、朝はさすがに冷え込んでいて寒いのだが、その後、昼前までには次第に雲も取れてきて、青空が広がり、ベランダの隅には小さな陽だまりができて、ワタシはそこで横になっている。気温は朝ー5度、日中+3度くらいだそうだ。
家には飼い主がいて、CDからの音楽が流れてきたり、小さくパソコンのキーを打つ音が聞こえている。離れた道の方では、たまに車が通り過ぎるだけだ。
何という体に心地よい、穏やかな時間が過ぎていくことだろう。
ワタシは、人間ほどには、時間という枠に拘束されていないし、というよりむしろ、時間という価値観念を持ってはいないのだ。
ただ、一日の太陽の動きで大まかな時の推移を知るだけであり、そうして通り過ぎていった短い過去と、これからあるだろうほんの先のことを思い浮かべてみるだけだ。
そうすることによって、ワタシたちは、人間ほどに時間にギリギリとさいなまれることもなく、または余分に持て余すこともない。
時間はただ行き過ぎていくものであり、今が一番大事なのだから、あとは少しだけ前にあったことやこの先のことだけ考えていればよいし、それで、余計な悩みを背負い込まなくてもすむのだ。
夜、飼い主がテレビ・ニュ-スを見ていて、ふとワタシものぞき込むと、ひとり暮らしのおばあさんがインタヴューに答えていた。
『それは、心配なことはいろいろとありますよ。だけれども、できることだけはしておいて、後は、余分な心配はしないようにしているんです。心配したところでどうなるわけでもないし。』
時々飼い主が、昼頃から出かけて行き、夕方になってようやく帰って来ることがある。
その時のワタシは、心配というよりは、なぜ時間通りにサカナをくれないのか、遅すぎるのだという不満な思いに満ちているのであり、それ以上のこと、例えば飼い主の身に何かが起きたのではないのかとか、飼い主がもし帰ってこなかったらとか、余計な心配はしないのである。
飼い主が話してくれた、ハイデガーとかいう偉い哲学者が言う時間の再構成をする能力など、ワタシたち動物にはないのかもしれないが、今という一瞬をありがたく思い、その場その場に応じて強く受け取る能力は、ワタシたちの方が強いのではないかとも思う。
この暖かい日差しの中で、まどろむ心地よさ・・・ただ人間も年を取ると、余計な雑念や欲から解き放たれて、ワタシたちのように、ごく身近な目の前のことを、いとおしむようになるのだろうが。
「 晴れた日が続いて、雪も大分溶けてきたが、まだあの春先の北海道のように、まだら模様になっていて、5cm~10cmほどは積もっている。
この九州では、いつもなら雪が降っても暖かい日があり、すぐに雪は溶けてしまうのだが、今年は寒い日が続いて雪が残り、ザラメ状になってしまったから、溶けないで残っているのだ。
考えてみれば、いつもは雪の少ない九州の山は、この冬の雪でまたとない雪山になったのだから、まさに絶好のチャンスだったのに、私はずっと山に登れずにいる。
一つには、雪道を走り回るには心配な、古いスタッドレス・タイヤのためであり、もう一つは前回書いたように、不注意からの肩のケガのためである。
あの日から、もう1週間にもなるが、まだ痛むのだ。とても山どころではない。湿布薬と、寝る前の痛み止めの薬は欠かせない。
三日たった月曜日に、痛みに耐えきれずに病院に行った。母の付き添いで何度も通ったことのある顔なじみの先生は、にこやかに「お久しぶりですね。」と話しかけてくれた。
私はできるなら、「 もっと長くお久しぶりでいたかったのですが。」と言いたかったのだが。
しかし、その診断の結果は、あっけないものだった。
「軽い脱臼(だっきゅう)ですね。私も同じ所をやっています。今もその痕(あと)が、ほら出ているでしょう。そのままほっておいても、治りますよ。」
そう言って、私に自分の鎖骨の辺りを触らせてくれた。出来あがったレントゲンの写真からも、それは明らかだった。
湿布薬と、痛み止めの薬をもらって帰ってきた。何より骨折でなかったことがありがたかったし、病院に行ってその安心が得られただけでも良かった。
しかし、今、腕の上げ下げは大分できるようになったのだが、肩の上の痛みが治まらないのだ。そこでインターネットでも調べてみた。
傷病名、肩鎖関節亜脱臼(けんさかんせつあだっきゅう)。つまり鎖骨がつながる関節部分が、完全に脱臼して外れたわけではなく、力をくわえられて少し盛り上がった状態であり、痛みは2週間ほど続き、変形したまま固定してしまう。できれば事故後すぐに、固定してし、2,3カ月治療しリハビリすれば完治する。
つまり私は、病院に行くのが余りにも遅すぎたし、これでは先生が、「ほっておいても治るから。」と、明るく言ってくれたのも今となってはよく分かる。
しかし、いつまでも続くこの小さな痛みは、気になって仕方がない。ただ、もらった痛み止めの薬を夕食時に飲んでいるためか、ぐっすりと朝まで眠れるようになったのだ。それまでは、夜中に一度トイレに起きていたというのに。
まあ、ひとつくらい良いことがあってもいいだろう。
山に行くこともできずに、私はタダでもらったネットブック(ミニノート)の、いろいろなソフトの取り込み作業に夢中になり、(全くこれは大人が遊ぶおもちゃだ)、CDを聞きながら、その作業をしていたのだが、そこで、毎年恒例の私のCDベスト10を書かなければと気がついたのだ。
(ちなみに’08,1.22、’09.1.10、’10.1.30の項参照。)
正直言って、年ごとに購入するCD枚数は減ってきているし、去年は20数点、枚数では数十枚になるが、まして殆ど新譜などは買わないから、私の選択には、その年度のクラッシック音楽の、一般的傾向を示すものは何もないのだ。
(ただ、今では、もう新年号だけしか買わなくなった『レコード芸術』誌を読んでみて、オペラ部門のレコード・アカデミー賞に選ばれた、あのバルトリの歌う『カストラートのためのアリア集』だけはぜひとも買わなければと思った。)
だからベスト10と言っても、私がその年に買った安いバーゲンCDの中で、気にいったものを書き留めておくだけのことだ。
さて、以下、時代順にあげていく。
1.『トロバドールの歌』(写真下左) アン・アゼマ、ジョエル・コーエン、カメラータ・メディタレニア ERATOレーベル 3枚組 3455円
(ビンクレーやマンローのもの以来、久しぶりに聴いた中世の吟遊詩人、トロバドール達の集成もので、素晴らしい。去年最も良く聴いたCDだ。)
2.『Maestros Del Siglo De Oro』 ジョルディ・サヴァール指揮エスペリオンXX ALIA VOXレーベル 3枚組 3390円
(デ・モラレス、ゲレーロ、デ・ヴィクトリアなどの宗教曲。祭壇画を見るような見開きのジャケットに、仏・英・独・伊の他に自国スペインのカスティーリャ語とカタロニア語にまで分けて訳された豪華な解説本。)
3・『フレスコバルディ全集7,8』(写真上の二枚) モード・アンティコ、ロベルト・ロレッジアン BRILLIANTレーベル 2枚組950円、1枚物650円
(第7巻のアリエ・ムジカーリも良かったが、第8巻カプリッチオ集に一曲だけ挿入されたノンビブラートのソプラノの声が、見事にオルガンの音に同化していて絶品。)
4.『フォルクレ・ファミリーの室内楽』 マッダレーナ・マレク、クリストフ・ウルバネツ BRILLIANTレーベル 2枚組 850円
(当時あのマラン・マレと人気を二分したフォルクレのチェンバロとヴィオラ・ダ・ガンバ組曲集。)
5.『テレマン 食卓の音楽』 フライブルグ・バロック・オーケストラ harmonia mundi レーベル 4枚組 3590円
(指揮者なしだが素晴らしい切れ味の演奏。さらにハルモニア・ムンディらしい上品な箱の作り、スプーンとフォークを並べた紙ジャケットのアイデアがいい。)
6.『バッハ オルガン作品集』(写真下右) マリー=クレー・アラン ERATOレーベル 15枚組 5990円
(何枚かは持っていたのだが、徳用盤で全部を聴ける喜び。やはりあの厳しいヴァルヒャの演奏とは、ある意味で対極にある、穏やかなバッハのオルガンをたまには聴きたくなるのだ。)
7.『バッハ ロ短調ミサ曲、クリスマス・オラトリオ他』 フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮コレギウム・ヴォカーレ Virgin レーベル 5枚組 2390円
(メインの『ロ短調』と『クリスマス』の大曲二つが、大した出来ではないのだが、小ミサ曲BWV233~236,238が素晴らしい。違いは何か、独唱者がアグネス・メロンとジェラール・レーヌなのだ。)
8.『バッハ リュート作品集』 ホプキンソン・スミス naive レーベル 2枚組 2930円
(ブリームやウィリアムズのギター版も悪くないのだが、やはりリュートで聴いた方がバッハに近い気がする。しかし、曲数は少ないが、あのドンボワの演奏が忘れられない。)
9.『ベートーヴェン 弦楽四重奏曲全集』 ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団 PLATZレーベル 8枚組 2980円
(ベルリンSQやボロディンSQのものがベストだと思っているが、この柔らかい響きもまたベートーヴェンの一面なのかもしれない。評価の高いアルバン・ベルクSQなどは私にはキツすぎる。)
10.『ショパン ピアノ作品集』 ウラジミール・アシュケナージ DECCAレーベル 13枚組 4990円
(このアシュケナージのものは何枚か持っていたのだが、ショパン・イヤーの特価品で買ってしまった。もっとも、曲によっては、ルービンシュタインやペルルミュテール、あるいはポリーニやアルゲリッチなどを聴きたくなることもあるのだが、全集としてそろえておくならやはりこれだ。)
さてこの中で、ベストをあげるとすれば、一番最初に書いた『トロバドールの歌』ということになるだろうが、他のCDも、また聴いてみると、それぞれに、ああやはりいいなあと思ってしまう。
音楽とはそういうものなのだろう。」
1月23日
昨日今日と晴れていい天気だった。飼い主が言うには、朝はー7度、-6度と冷え込んだそうだが(ワタシはストーヴの前で寝ていて知らない)、昼間は5度近くまで上がって、風がないと暖かく感じるくらいだった。
昼前、暑くてストーヴから少し離れた所で横になっていたワタシに、飼い主が声をかけてきた。人間の言葉は分からなくても、もう長い間、飼い主の顔色をうかがって生きてきたワタシだから、何を言っているかは大体察しがつく。
よしきた、ホイと立ち上がって、飼い主が開けた玄関のドアの傍を一気に駆け抜ける。まだ辺りは、殆どが雪の雪原だが、舗装道路の所とか、南向きの草原などは雪が溶けている。
なるべくなら、雪の上を歩きたくないワタシのことを考えて、飼い主が、うまくワタシの散歩コースを作ってくれる。所々で、他のネコやケモノたちの臭いの跡を嗅ぎながら、先に行った飼い主を追って、ギャロップの早さで歩いて行く。
まだ、雪が多くて、春先からのように遠周りのコースには行けないし、わずか15分ほどの散歩にしかならないが、この寒い冬の間、退屈しているワタシには、良い息抜きになる。
ところで、最近、夜になると時々、オスのノラネコがやってくるのだ。こんな年寄りネコのワタシを目当てに。
しかし、注意をしないと、またあのいやな病院送りになるほどの大けがを負わないとも限らない。猫にとっては、実はこの恋の季節こそが、一番危険な時期でもあるのだ。
そういえば、この二三日、飼い主の様子がおかしい。まるでどこかをケガしているかのように顔をしかめては、変なうめき声をあげて起き上がったりしている。どうかしたのだろうか。
「 私は古い人間だから、ことわざのたぐいの言葉を、時には心ひそかに信じていることがある。前回に書いた、『良いことの後には、悪いことがある』という思いが、なんとそのとおりになってすぐに現われたのだ。
二日前、私は、前回の写真にある家の雪おろしをしていた。屋根の雪が、あのまま張り出した状態で凍りつき、ツララだけが大きくなって、玄関の出入りにも危険な状態になったので、ともかく出ている部分だけでも落としておこうと思ったのだ。
長枝切りバサミを長く伸ばして、先にあるノコギリで切れ目を入れて、その先で一か所ずつ叩き落していく。所が、雪は凍りついて固くなっており、なかなかに叩いても割れない。ついにはそのパイプの先が少し曲がってしまった。
これでは、長枝バサミとして使えなくなる。その部分を下の石に押し当て曲がりを直そうとした途端、パイプがあっけなく、真っ二つに破断してしまった。
両手で長枝バサミを握っていた私は、かばい手もできずに倒れたがとっさに頭をかばい、左肩から地面に落ちた。したたかに肩を打ち、血の気が引いて、少し気分が悪くなるほどだった。
しかし、立ち上がって、腕を動かし肩を触ったが、別に骨折などの大きなけがにはなっていないようだった。しかし痛い。すぐに、家にあった湿布薬をその肩に貼った。
しかし夜になって痛みは増してきて、左腕が上がらず、衣類を着るにも一苦労だったし、夜中には目が覚めるほどだった。さらにうかつにも、ミャオの部屋のコタツの電気を入れていなかったために、ミャオが私の部屋の外で鳴いていて、開けてやると私の布団の上に駆け上がった。
肩が痛い状態で横になっていて、さらにミャオを傍に入れて寝ることなどできない。ミャオの部屋のストーヴをつけ、コタツのスイッチを入れて、ようやくミャオを部屋に戻した。
土日は町の病院は休みだ。この二日で、腕は大分動かせるようになったが、痛みは取れないし、これでは、山に行こうにもザックもかつげない。明日は、病院に行って診てもらいたいが、もし骨折していてギプスでもつけられると、何もできずに大変なことになるし・・・。
私は古い人間だから、若い人たちが信じる占いの類を一切信じない。さらには、いい加減な統計から速断されただけにすぎない、あの血液型による性格の違いなど、全くバカバカしいとさえ思う。外国では通用しない血液型占いなどを信じているのは、この日本だけなのだろうが。
この地球上に住んでいる数十億もの人たちの性格が、わずか四つくらいの血液型の違いで大別できるものだろうか。個々の遺伝子の違いのレヴェル以上に、複雑に形づくられる人間の性格は、その顔かたちと同じように決して同じものはないというのに。
そういう私が、時には、古いことわざの言葉を信じているのだ。
今回の、きれいなおねえさんとお話をして、ネットの速度が速くなって、小さなノートパソコンをタダで手に入れて、さらにまだと、そんないいことばかりが続くはずはないのだ。
そして、良いことの後には悪いことがあるかもしれないという思いが、その通りになってしまったのだ。
あの日本人の心の原点とでも言うべき、長寿番組『水戸黄門』で歌われる主題歌のように、ことわざの『楽あれば苦あり』のとおりであり、『楽は苦の種』でもあったのだ。
しかしその苦の後には、再び楽があるかもしれない、つまり、『苦は楽の種』でもあり、また『人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)』でもあるのだ。
その塞翁の馬のように、いったん逃げ出した馬が別の見事な馬を連れて戻って来るかもしれないし、またその馬に乗って落馬しけがをした息子が、そのために、徴兵(ちょうへい)を免れ、命が助かることになるかもしれないのだ。
こうして、実につまらないことでケガをしたとしても、今度はまた何か良いことがあるかもしれない。それは、考え方次第でもあるが・・・。
思えば、これらの偶然の出来事や運命などと呼ばれるものについては、いずれも科学的に解明できるものではないし、かといって少し前までは哲学的な問題としてもなじまないとされていた。それだからこそ、そこには占いなどが入り込む余地があるのだろうが。
そして、私は前に一冊の本を読んだことを思い出した。それは、あのハイデガー研究者としても有名な木田元氏が書いた『偶然性と運命』である。
彼は、ハイデガーの人間存在の時間構造といった視点から、九鬼周造やショーペンハウアー、ニーチェ、ヤスパース、メルロ=ポンティなどの考え方を紹介して、”めぐり逢い”から”偶然性”“運命”とたどり、さらにドストエフスキーやトルストイの小説や森有正の論文までも例に挙げて説明しているが、その中から、少しだけ引用してみたい。
『 過去と未来は、私がそれらへ向って自己を押し広げる時に湧出するのである。私自身にとって私は、今のこの時間に存在しているのではなく、今日の朝にも、来るべき夜に対しても存在している・・・。(メルロ=ポンティ)
私自身が時間なのだから、私の過去の経験を私の現在の経験の中で捉えなおし、その統一を形成することができる。
意識することは、何々のもとに存在することであり、実存するということは、私の意識が現実の知覚として溶けあって世界へと抜け出していること、つまり“世界内在”していることである。
人間は生まれた時からすでに社会的動物であり、その存在の仕方は、何々とともにあるのだ。
だから他者の経験を私の経験の中で捉えなおし、その統一を形成することもできる。“運命”もまたこうして立ち現われてくる、ある意味では相互主観的な、一つの強い意味であるともいえる。』
まあ難しい話になるけれども、過去、現在、未来と、自分を時間化して生きることのできる人間は、偶然や運命までも、自分の時間の中で理解できるのではないのか、ということなのだろうが・・・。」
まったく、人間はどうしてこうも理屈をこねたがるのだろう。ワタシたち動物には、過去と未来の意識がないというのだろうか。
もちろん、ワタシにも時間の観念はある。ただ、人間ほどに、過去と未来にこだわらないだけだ。現在に、生きているのだから、生き物としてただ生きること、それで十分ではないのか。
人間は考えすぎなのだ。ただあるのは、今を強く生きることだけなのに。(写真 : ワタシの目は今を見ている。)
参考文献: 『偶然性と運命』 木田元著 岩波新書
1月19日
ワタシは、生まれてこの方16年目にもなるのだが、それは自分では手の肉球を折り曲げて数えられないので、飼い主から聞いたワタシの年なのだが、それにしても、これほど雪と寒さで外に出られなかった冬は記憶にない。
飼い主が言うには、特にこの数日の最低気温は、-10度、-10度、-6度と冷え込み、最高気温もプラスになるかならないくらいで、そのために降った雪は溶けないし、雪が残っているから余計に寒いということだ。
外に出られないから、家の中のストーヴの前で寝ているしかなく、いやがおうでも、鬼瓦(おにがわら)顔の飼い主を見ている他はない。そして、べったり一日一緒にいれば、もう傍にいることが当たり前になるから、いなくなると不安になる。
飼い主は時々、午後になると、ストーヴもコタツの電気も切って、ワタシを残してクルマでどこかに出かけて行く。やがて次第に暗くなってきて、冷え込んでいく部屋の中で、ひとりで待っているのはつらい、いろいろ考えてしまうからだ。
真っ暗な夜になる前に、やっと飼い主が帰ってくる。ワタシは、今までの不安な思いから解放された気持ちと、いつものサカナ欲しさが一緒になって、ニャオニャオと鳴き続ける。そして飼い主が細かく切った生ザカナを出してくれ、それを食べてから、やっと落ち着いた気分になるのだ。
夜、風呂から上がった飼い主が、寝ているワタシの前のストーヴの火を消して、コタツのスイッチを入れて、部屋を出て行く。ワタシは、しばらくして、部屋の温度が低くなり冷えてくると、コタツにもぐり込んで朝までそこで寝るのだ。
しかし時には、人肌恋しくなって飼い主の布団に入りたくなる。飼い主が風呂に入っている間に、ワタシはストーヴの前から起き上がり、飼い主の部屋に入って行って、その布団の上に座りこむ。
風呂から上がってきた飼い主が、そんなワタシを見つけて驚いたように何かを言ったが、そのままストーヴの部屋に行って戻ってこない。テレビを見ているようだ。
ワタシは、寒い飼い主の部屋の、布団の上にいるのにガマンができなくなって、自分の部屋に戻る。
飼い主は、オーヨシヨシと言ってワタシをなで、ワタシはいつものようにまたストーヴの前に座る。しばらくすると、本当に眠たくなってくる。飼い主が、ストーヴの火を消し、部屋の明りを消して出て行くようだ。
まったく、飼い主はワタシと一緒に寝ないようにするために、手の込んだ芝居をしてとは思うが・・・あーあ、眠たいのだ、今は・・・。
「 ミャオが、時々私の部屋に来て、一緒に寝ようとする。猫肌ならぬ人肌が恋しいのは分かるが、狭い布団の中にミャオがいると、私はどうしても気になって、ぐっすりと眠られなくなる。
長身で、80kg近くもある私が寝返りを打ったら、小さなミャオの体はどうなる。考えるだに恐ろしい。
もっとも、今までに何度となく私の布団に入ってきて、仕方なく一緒に寝たことはあるのだが、どうしても夜中に何度も目が覚めて、安眠することはできないのだ。
だからといって、無理にミャオを布団の上から抱え上げ部屋に戻すのは、余りにも可哀そうだからと、ともかく賑やかなテレビをつけては、ミャオが戻ってくるまで待つことにしたのだ。
まあ、私もミャオも、お互い一緒に暮らしていく上では、いろいろと気を使うことがあるのだ。
さて話は変わるが、先日12月21日の項目で、家のインターネット接続が、ダイヤルアップによる極めて遅いスピードであり、それでも納得して使っていると書いたばかりなのだが、数日前から、その64kbs(キロビット)の速度が、一転、何と20倍以上の1.5Mbs(メガビット)になったのだ。ヒャッホー。
私は、自分の家のパソコンで、初めて動画を見た。それまでコマ送り映像で、さらに途切れてしまい、とても見る気にもならなかったのに、さっそくYouTubeで見た投稿画像では、一匹のネコが小さな箱に入ろうとしていた。動いているのだ。感動した。
さらに他にも、検索画面が現われるのが早いこと、山などの中継ライヴ画像の現われるのが早いこと、写真ソフトなどのバージョンアップのダウンロードの速いこと、今までは何時間単位だったのに、何分単位ですむようになったのだ。
もっとも、ぜいたくを言えばきりがない。今の1.5Mbsの速度は、ADSLの速度、47Mbs~1Mbsの下限に近い速度でしかないし、光ケーブル回線の速度は、実に100Mbsにもなり、もう私の使うインターネットの想像をはるか越えた所にあるのだ。
さすがに私には、もうそんなスピードの必要性はないのだが、果たして日進月歩の科学技術の成果を知れば、また・・・。
その昨年末に書いたことは、ネットの速度が遅くて、いろいろとウェブを利用できないけれど、自分にはその方がかえっていいといったことなのだが、今となっては、それがただの負け惜しみのセリフだったと認めざるを得ないのだ。
ああ、私は理性ある人間のはずなのに、どうしてこうも、目の前にぶら下がった果実に弱いのだろうか。あのアダムとイヴが、目の前にある木からリンゴを取った時から、私たち人間は、欲望というごうつくばりの罪を背負うことになったのだ。
しかし、いくら反省しても、もうあのリンゴなしにはすまされないのだ。
実は少し前に、近くに住む同じ地区の人から、高速通信に変えたということを聞いていたのだ。
私の住んでいる所は山間部にあり、ADSLはもとより、光ケーブルが引かれることはないだろうといわれている所で、それで、ともかく電話回線でつながるダイアルアップのISDNを使っていたのだ。
その後、新しい会社によるモバイル通信が普及してきたのは知っていたが、動作が不安定だと聞いていた。しかし、今回彼から聞いたのは、なんと、あのドコモによる携帯電話回線を使ってのモバイル通信だった。つまり、ドコモの携帯がつながる所ならどこでもOKだというのだ。
正月すぎに、近くのショップや取扱店を回って話を聞いた。
三つ目の店で、きれいなおねえさんが応対してくれた。条件は2年間解約しないことで、月額の使用料金は一年目は安く、二年目からはそれでも6千円ほどで、今まで私が、ISDNで東西二つの会社(九州と北海道)に支払っている金額よりも安くなり、さらに、特典として、そのモバイル通信のルーター(携帯電話本体のようなもの)の代金が無料になり、3万円相当のネット・ブック(小型ノート・パソコン)までついてくるというのだ。
もうそれは、生ザカナを前にしたミャオの喜びどころの騒ぎではない。
強面(こわもて)のおじさん相手に、その話を、やさしく分かりやすく説明してくれる、係の若くてきれいなおねえさんの顔をうっとりと見つめながら、私は、精一杯の笑みを浮かべて、何度もうなづいたのだった。『今すぐ、契約します』と。
ともかく、そうして私は、早い速度のインターネットを使うことができるようになったのだが、かといってその喜びから、新しい分野にまで広げて、今まで以上にパソコンにのめり込む、ということのないように気を引き締めなければならない。
私のパソコン使用の目的は、写真であり、様々な検索であり、日記代わりのこのブログだけなのだから。
それにしても、あのきれいなおねえさんと、早くなったインターネット、新しいもう一つのノート・パソコンと、こんないいことばかり続けば、これから何か良くないことが起こりそうだ。
なるべく、今までどおりに、こともなく穏やかに質素に暮らすことを、わが身に言い聞かせなければならない。
窓の外には、屋根に積もった雪がせり出してきて、溶けながらも毎日の冷え込みで、1mほどもの大きなツララになって並んでいる。(写真)
昼過ぎになると、その窓の外で、ドサリと大きな音がした。あのの張り出した雪とツララが、重さに耐えきれずに落ちたのだ。
その雪と氷を見て、私は、あの寒い東北は岩手の地で、ひとり熱い思いを胸に抱き、質朴な暮らしを旨(むね)として、その短い生涯を終えた宮沢賢治(1896~1933)のことを思った。」
『 今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです
ひるすぎてから わたくしのうちのまわりを
大きな重いあしおとが 幾度ともなく行きすぎました
私はそのたびごとに
もう一年も返事を書かないあなたがたずねて来たのだと
じぶんでじぶんに教えたのです
そしてまったく それはあなたの またわれわれの足音でした
なぜならそれは
いっぱいに積んだ梢(こずえ)の雪が 地面の雪に落ちるのでしたから 』
(『宮沢賢治詩集』天沢退二郎編 新潮文庫より)
1月15日
一昨日、昨日と久しぶりに晴れの日が続いた。外はまだ雪が残っていて寒かったが、日差しは暖かく感じられた。
ワタシは、この数日出せなかった鳴き声がようやく戻り始めていて、そのダミ声で飼い主を誘って散歩に出た。恐らくは一週間ぶりくらいではないだろうか。
道に雪の残っている所は、巧みに避けて、トットットと歩いて行く。いいなあ、この風を切って行く感じがたまらない。
飼い主が、ワタシのことを考えて、雪のない所へと回り道をして先導してくれる。久しぶりの散歩道で、他のネコや獣たちの臭いが気になり、ワタシは、あちこち立ちどまっては臭いをかぎまわる。
飼い主は、しびれを切らして先に帰ってしまった。まあ、それはそれでいい、ワタシはもうしばらく外の雰囲気を味わおう。
そんな昨日から、今日は、またもや朝から雪が降っている。ようやく普通の鳴き声に戻ってきたというのに、今日は、外にも出られずまた寝て過ごす他はないのだ。
窓の外では、吹き付ける雪の中、体に点々と雪をつけて、ヒヨドリがせっせと、飼い主が出した食べ残しのリンゴをついばんでいた。(写真)
全くこの寒い中で、ご苦労なことだ。
人間の世界では、「翼をください」なんていう歌もあるとかで、鳥たちのように翼を持っていることが、さも自由である象徴かのように言われているけれども、決してそうではない。翼を持つがゆえの苦労もあるのだ。
先日、飼い主が見ていたテレビ(確か『ダーウインが来た』とかいう番組だった)を、ワタシも傍で一緒に見ていたのだが、北海道にいるヒヨドリたちは、冬、雪でエサを見つけられなくなるので、秋になると大集団になって、津軽海峡を越えて、冬でも緑の残る本州へと渡って行くのだ。
その途中、彼らを待ち構えていた試練には、ワタシも思わず手の肉球を握りしめるほどに、ハラハラしたものだ。
冬型の気圧配置による、強い北西の風が吹きつける中、上空からハヤブサがヒヨドリの群れに襲いかかり、それを避けて海面低く飛んで行けば、今度は高波のしぶきをかぶってしまう。
ハヤブサの餌食(えじき)となって、一羽また一羽と犠牲になっていくが、それでも彼らはひと固まりとなって、ひたすらに対岸を目指すのだ。
そうしてまでも、北海道と本州の渡りを続けるヒヨドリ。それは北海道の夏が、エサが豊富で子育てに適した環境であること、さらに渡りを繰り返すことによって、強い種が残されていくという無意識の自然淘汰(とうた)本能によるものだろうと、飼い主がワタシに話してくれた。
それは、なんとなく飼い主が、自分が北海道を行ったり来たりしていることの言い訳のようにも聞こえた。
しかし、ここで何もヒヨドリのことくらいで事を荒立てることはない、とワタシは考えた。春になると、このワタシをほっておいてひとりで行ってしまうくせに、という思いをぐっと飲み込んで、小さくニャーと鳴いただけだった。
ただ言えることは、翼のあるヒヨドリも、飼い猫であるワタシにも、その時々で様々な苦労があるということだ、生きていくためには・・・。
「二日ほど天気の良い日が続いたが、雪山登りには行かなかった。昨日のように、朝の気温がー8度にまでなっているのに、古くなって余り効かないスタッドレス・タイヤで、とても曲がりくねった坂道を走る気にはならないからだ。
それに、今までもう何度も、九重の冬山景色は写真に撮ってきているので、それほどまでしても、出かけて行くという気にはならなかったのだ。そして、それ以上に、私にはやらなければならないことがいろいろとあった。
まず、気になっていたミャオの声だが、二日前は最悪で、口をニャーと開いても声は出てこなくて、哀れだった。動物たちが、お互いの呼びかけ合いや威嚇(いかく)のために使う鳴き声が出ないということは、もし自然の中で生きていれば、致命的なことにもなるだろう。
ただ幸いにも、ミャオはいつも通りに食欲もあったし、元気に歩き回っていた。しかし、口を開けても声の出ないミャオは自分でも分かっているのだろうが、私が声をかけても、ただ口を少し開けた後、目を閉じるだけだった。
先日、例の「ネズミとり事件」(12月12日、16日の項)で相談したあの動物病院の先生に、また電話で聞くのも悪い気がして、まずインターネット上で調べてみた。
すると、「すぐに病院に連れて行くべきだ」という意見から、「様子を見ていたら10日ほどで治った」というものまでさまざまだったが、その中で、「薬を飲ませたら治った」という書き込みもあった。
そういう時もあろうかと、前回、ミャオが病院で傷の切開手術を受けた時に(’08.4.23、25の項)もらっていた薬が残っている。カプセルに書かれた番号を、ネットで調べると、細菌感染のための抗生物質だった。
それを、ミャオの好きなカツオブシに混ぜて与えた。すると、翌朝、薬によるかどうかは分からないが、効果てきめん、再びミャオがかすれた声で鳴いていた。そして今日は、まだ少しダミ声ながら、いつもと同じように鳴いている。
ひと安心すると同時に、この二三日の間、ミャオの鳴かない静かな日を少し惜しむ気にもなった。
もう一つの仕事は、お湯配管の補修作業だ。運の悪いことに、年末に配管の一部が凍結してしまったのだ。家の中の蛇口に、何回もお湯をかけてみたのだが、全く溶けずに凍りついたままだった。
わが家の配管は、1年半前に、一部水漏れているということで、業者に来てもらい、かなりのお金をかけて配管しなおしてもらったばかりである。それなのにまたも凍結とは。
実は、工事をしてすぐのその冬にも凍りついていて、予防策としては、一晩中蛇口を小さく開けたまま出し続けてと言われていたのだが、それはやっていなかった、というより、せっかく保温対策も考えて配管工事をやってもらったのに・・・。
ともかく風呂に入れぬまま、仕方なくそのまま年を越して、これもまたネット上で調べてみると、何件目かに、見事な処置方法が書いてあった。
それを、自分でやるしかない。まず一日目は、家の外側に1mほどの高さで立ち上げられた配管の、コーキングまでされていた金属カバーを取り外し、さらに厚い保温材も取り外し、出てきた鉛管パイプを温めるべくカイロを貼って、それを古着でくるんでおいた。半日たって見てみたが、だめだった。
次の日に、その外側のパイプにお湯をかけてみることにした。沸騰(ふっとう)した熱いお湯は、凍った鉛管が破裂するのでダメだし、他の塩ビパイプなども変形するのでダメだとのことだった。
そして、注意深く少しお湯をかけた瞬間、小さくピリッと音がして、管全体に伝わり広がって行った。家の中に入り、蛇口をひねるとあふれ出る水、やがてお湯に・・・。やったぜ。
私は、思い出した。あの北海道の家を一人で建てた時に、こうした問題が次から次に起きて、何度も考え込んだのだが、いろいろと試みて何度目かにそれが成功して、やっと目の前の問題が解決されたという喜び・・・思えば、その小さな感動があったからこそ、最後まで一人でやり続けられたのではないのかと。
さてその後は、その配管部分を分厚い古着でグルグル巻きにしておいて、離れた町のホームセンターに出かけて行って、いろいろと材料を買ってきた。
ともかくは、あの鉛管に冷たいすきま風が入り込まないようにすることだ。今まで凍ったのは、鉛管と保温材、さらに金属カバーとそれぞれの間にすき間があったからだと考えた。
まず、鉛管に直接、ウレタン・テープをグルグル巻きにして仮止めして、その上にぴったり重ねるように保温材を重ねて、それらをすべてガムテープで巻いて、最後に金属カバーで覆うが、今までと比べて分厚くなったので、きちんと合わずにすき間ができる、そこはコーキングし直すしかない。
そして昨日は、-8度まで冷え込んだのに大丈夫だった。凍りついた時はー4度だったので、これでひと安心だ。
しかし、さらにもう一つ、同じような問題が待ち構えているのだ。今度は、メーター検針の時に知らされた水道の水漏れだ。もう古くなった家だから、いろいろと問題が起きる。
業者に頼めば、また前回のお湯の配管工事と同じくらいかかるとのことだ。
とりあえず床下にもぐり込んで、地上部分の配管を調べるが漏れている所はない。ということは、やっかいな地下部分ということになる。
再びネットで調べるが、やはりこれは大がかりな掘り返し作業になるし、玄関前の土間のコンクリート部分も壊さなければならない。ただ水漏れの個所は、曲がったジョイント部分に多いとのことだから、それは基礎部分周囲で屈曲されているはずだから見つけやすいのだろうが、それにしても手間のかかる掘り返し作業になる。
ともかく今は、水道を使う時だけ戸外の元栓を開け閉めしている。不便だけれども、それで水漏れ量は抑えられる。ともかくこの雪では何もできないし、寒い季節が過ぎるまでの辛抱だ。
暖かくなってから、まずは外の水漏れ個所を探してみよう。そこが見つかれば、水道配管部品はホームセンターにそろえてあるし、交換するのは難しくはないはずだ。
そう考えて、次に私は、離れた町の大きな本屋に行った。確か少し前にブームになったはずだが、まだ置いてあるかどうか。
見つけた。『聴診器ブック』だ。医師用のものと同じで、2300円、思ったほどに高くはなかった。これで、直接、鉛管に耳を当てるようにして水漏れ個所を探っていくことができるはずだ。
何事も、すべてお金を出せば、簡単に処理してもらえる世の中だが、まずは自分でできる所までやってみてからでも遅くはない。うまく自分でできれば、小さな自己満足の喜びがある。できなければ、他人にやってもらっても、その難しさを、その原因を知ることができる。
・・・どうして私はそういう物事に興味を持ち、そう考えるようになったのか。まあ、ひとつには生来の貧乏性からくるものだろうが・・・。
ギリシア時代のソクラテスは、哲学の始まりの命題でもある「私は、自分が知らないというたったひとつのことを知っている」と話し、中世から近世へとつながる哲学の足がかりとなったデカルトは、「すべてのことを疑い続けた先に、そう考えている自分が存在するはずだ」と理解した。
しかしここで何も、さらに現代へと続く、ハイデガーの『存在と時間』の話や、それ以降の反哲学の思考までもを頭に入れる必要はない。
単純に考えて、私はただ、私の知らない物事を知りたいと思い、解明できるかもしれない物事の仕組みを解き明かしたいと思うだけのことだ。
どうして、地上のお湯の配管パイプが凍りつくのか、どうして地中の水道配管の水が漏れだすのかと、まずそのわけを、その真実を知りたいのだ。」
あーあ、私の飼い主は何と理屈っぽいことか。傍で聞いていてうんざりするくらいだが、まあこんなアホな飼い主と一緒にいられるのは、ワタシくらいのものだろう。
実は、ワタシが飼い猫として飼われているのではなく、ワタシがそんなうっとしい飼い主の面倒を見てやっているのかも・・・。
1月10日
全く、何という冬なのだろう。もう2週間以上、辺りは雪が積もったままである。その間、毎日雪が降って、晴れてくれたのはほんの二日だけだ。
寒がりのワタシだから、外に出ないのは当然としても、今までの冬は、雪が降ってもせいぜい4、5日たてばあらかた溶けていたのだが、今年は、いつまでも雪が残り、そのために寒いのだ。
北海道が寒いわけの一つには、積もった雪が溶けずに、そのまま氷を入れた冷蔵庫みたいになっているからだ、と飼い主が言っていたが、今年の冬はまさしくそれだ。
そんなワタシだが、それでも今までの冬ならば雪もわずかに残るだけで、天気の良い日には飼い主と散歩に出たり、近くの草地に少し出ている青草を食べたりしていたのだが、今年はそれもできないのだ。
そうして、ストーヴの傍にばかりいるものだから、抵抗力がなくなり、どうも風邪をひいたみたいだ。
小さなくしゃみが出て、声が少し低く濁るようになっていたのだが、今日はとうとう、さらにひどいダミ声しか出せなくなった。グァーゴ。
それも飼い主が、昨日は夕方遅くなって帰って来たし、その前の日は、まだ暗い朝からいなくなったし、ワタシは今か今かと、寒い外で待っていたために、その風邪がひどくなったのかもしれない。
飼い主が、心配そうにワタシの顔をのぞき込んで言った。
「まさか、悪性の腫瘍(しゅよう)かなんかではないと思うけれども、もうしばらく様子を見て、長引くようだったら、いつもの先生の所へ行って見てもらおうね。」
冗談じゃない、また狭い箱に閉じ込められてあんな所に連れて行かれ、痛い思いをするのはごめんだ。
というのは、二年前、ワタシは食事も取れず、声も出せずに日に日に弱っていて、それを心配した飼い主が、無理やりにワタシを動物病院へと連れて行ったのだ。
もっともそこで、他のネコから咬まれたあご下の化膿した傷を、先生が見つけてくれて、すぐに切開手術をしてもらい、元気になったといういきさつもあるのだが。(’08.4.13~23参照)
「いつもは、うるさいくらいによく鳴くネコだと思っていたのだが、こうして弱々しい濁った声で鳴かれると、心配になってくる。
相変わらず寝てばかりいるが、食欲もあるし、毛づやも良いし、そうひどく弱った様子もない。ただ、鳴き声を出せないだけだ。
ミャオも私も、お互い歳を取ってくると、体のあちこちが気になってくる。特にこうして、私にべったりの年寄りネコのミャオを見ていると、まだ先の話だが、北海道に行くことを含めていろいろと心配になってしまう。
最近、何かと批判の多いどこかの国の政府のように、その場しのぎの場当たり的な対策で良いのか、あるいはずっと長い先のことまで見据えて準備するべきなのか。
自分のことは棚に上げておいて、上に対しては誰でも文句をつけたがるものだ。しかし、我が身に置き換えてみれば、それはいつも半々がいいところだ、つまり、先のことも少しは考えてはいるが、いつもは物事が起きてから、その時々に対応してきただけではないのか。
しかし、それこそがまさに、日々を生きるということであり、先のことばかりを考えていたら、大切な今を見過ごしてしまうことにもなるのだから。
さて、今そんな目の前にある、冬山の光景を求めて、二日前に、何と2カ月半ぶりの山に登ってきた。(前回は、去年の10月23日の項参照)
前日の予報で、全く一ヵ月ぶり位で、九州近県そろっての晴れのマークが出ていた。例のごとく、九州でも冬山の景観が素晴らしい九重に行こうかと思ったが、先日書いたように、少し古いスタッドレス・タイヤで、夜明け前の凍った雪道を、1300mの高さの牧ノ戸峠まで行くのは心配だ。
まあ、この所ずっと雪の日が続いていて、どの山の雪も多いようだし、近くの山でも十分に雪景色を楽しめるだろうからと、家から歩いて行けるいつもの山に登ることにした。
朝の6時半、コタツの中で寝ているミャオが起きてこないようにと、静かにドアを開け閉めして、家を出る。外はまだ薄暗く、-7度位もある寒さに身が引き締まる。歩いて行くと、次第に体は温まってくるが、毛糸帽子をかぶっていても耳が、手袋をしていても指先が冷たい。
足には、いつもの往復1時間の散歩の時と同じように、長靴をはいてきた。寒さに備えて暑い靴下二枚重ねで。
30分ほど歩いて、山道に入る。今までのクルマのタイヤ跡に変わって、ケモノたちの足跡が点々とついている。
雪は20cmくらいで、長靴でも歩けるのだが、両側の低いササが雪の重みに倒れ隠れていて、どこが道か判然としなくなり、ヤブを覆う雪の深みをさけて右に左に回り込み、ケモノたちの足跡をたどったりですっかり時間がかかってしまった。
再び見覚えのある斜面の道に出た時には、もう朝日が昇ってくるところだった。さらに上の見晴らしの良い所で、日の出を見ようと思っていたのだが、予想以上の雪に時間がかかってしまったのだ。
それでも、斜面の木々を通して、白い雪面に差しこんでくる赤い光は素晴らしい。この朝と夕べの、紫から赤へと変わって行く色彩の饗宴(きょうえん)こそが、山々の景色の醍醐味(だいごみ)の一つでもあるのだ。
急斜面を登り切って、その見晴らし台に出る。全くの快晴の空の下に、雪の九重連山が立ち並び、由布・鶴見の山々や、テーブル型の万年山(はねやま)の姿も見えている。
そこから雪が深くなってきた。30cmほどだが、さらに何頭ものシカやイノシシの足跡がついていて、人の足跡とはいわないまでも、ずいぶんと助かるのだ。
樹林帯を抜けて、ミヤマキリシマやアセビの灌木が点在する明るい斜面に出た。上空には、白一色の雪面を浮き立たせるように深い藍色の空が広がっている。
霧氷に彩られた木々の上に、鮮やかに九重の山々が立ち並んでいた(写真)。これほど空気が澄んでいれば、無理しても九重の山に行くべきだったかと思わせるほどの天気だった。
しかし吹きつける風は冷たく、長靴を越える雪は、下は凍っていても、上はサラサラの雪で、まるで北海道の冬山のようだった。
殆ど人に会うこともない、この地元の山には、冬に登る時は雪の降ったすぐ後に行くようにしているが、これほどの量と、べたつかない雪は初めてだった。
そして、上の斜面からはついにケモノたちの足跡もなくなった。彼らは別に頂上を目指していたわけではないのだから、当然なのだが、少し寂しい気もする。
つまり、後はもう自分の力だけで道をつけて登って行くしかないのだが、さらに上部の尾根ではひざ上のラッセル状態になり、一歩一歩の抜き差しが大変になってきた。
頂上まで、いつもならばあと15分ほどの距離だが、さらに頂上稜線の吹きだまりを考えると、腰までもあるだろうから、1時間いやそれ以上の時間がかかるだろう。
長靴を通してしみ込み溶けた水で足も冷たかったし、久し振りの登山でそう無理をすることもない。もう何回となく登った山だけれども、頂上にまで行かないで戻るのは初めてだった。
しかし、周りの雪景色は期待通りに素晴らしく、もう十分に楽しめたので、引き返すことに迷いはなかった。
ただ明らかに、地元の山ということで、雪山なのに少し油断をしていた。ちゃんと、厚い登山靴と冬山用スパッツ、そしてアイゼンさえも用意すべきだった。この雪に長靴とは、私の情けない選択だったのだ。
下りは楽だった。ゆっくりと雪景色を楽しみながら写真を取っていると、林の斜面でビューという鋭い声がして、シカが二頭、駆け下って行った。
行きと比べれば、さすがに九州だから少し雪がべたついてきていて、長靴の中はもうびしょ濡れだった。
家に戻ると、昼前で、往復5時間ほどかかっていたが、私には適度な雪山歩きだった。ミャオが家の中から鳴いて、迎えてくれた。
濡れた衣類を着かえて、寝ているミャオの傍に座り、例のごとく録画番組の整理にかかった。
前回書いたものの他に、NHK・BSでは、今年はイタリア特集番組が数多く組まれていて、録画するのに大変だった。
総集編番組には、去年のスペイン特集でもそうだったのだが、親しみやすい番組にするために起用したのだろうが、時代劇スターや宝塚スターなどを、案内人に仕立てて、せっかくのスペインやイタリアの雰囲気を壊していた。
前にも書いたように、奈良時代の特集番組でもそうだったのだが、NHKまでもが、教養番組を総バラエティー化するのかと思ってしまうほどだ。
視聴者に媚(こ)びた番組を見ることほど、後味の悪いものはない。もっと確かな意図を持って、番組を作り上げてほしいものだ。あのイギリスはBBC放送の、自らの誇りを持って番組にかける意気を見習ってほしい。
とはいっても、本格的にハイビジョン番組を録画し始めてまだ2年目になったばかりだから、それまで放送されたものも含めて、見るべきものは多かった。
美術では、あのもう一枚のモナ・リザと言われている『レオナルド・ダ・ヴィンチ チェチリアに捧ぐ』や、『カラヴァッジオ』の他にも、『美術四都シリーズ』、『黄金のイタリア芸術』など興味深いものばかりであり、現地を訪れたことのある私にとっても、見逃せないものばかりであった。
特に、あのフェルメールとともに、私の好きなバロックの画家である、カラヴァッジオについては、是非いつか日を改めて書いてみたいものだ。
さらに、ミラノ・スカラ座のオペラ『椿姫(つばきひめ)』と『リゴレット』は、まだ見ていないけれども楽しみである。
さらに、山岳関係では、世界の8000m級の山14座を初めて完全制覇(せいは)した、あの超人ラインホルト・メスナーに案内されてのドロミテ・トレッキングなど、山好きにはたまらない企画番組もあった。
私の若き日の長期ヨーロッパ旅行の際、シャモニー、ツェルマット、グリンデルワルトのそれぞれに滞在しては、トレッキングを楽しんだのだが、ドロミテだけには行っていなかった。
死ぬまでには何としてでも、そのドロミテを含めて、もう一度ヨーロッパ・アルプスを見に行かねばならない。ああ、モンブラン、マッターホルン、ユングフラウの峰々よ・・・。
付け加えるに、これは最近のイタリアの街シリーズだけではないのだけれども、あのNHK・BSの『世界ふれあい街歩き』は、どれもが素晴らしい。自然な流れるようなカメラワークに従い、まるで自分が歩き回っているような感じにさえなるのだ。
昔は、カメラはブレて落ち着きのない画面になっていたのだが、もっともその揺れる画面をいかして、見事な映画を作り上げたゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)などが思い出されるが、それはともかく、ステディカム(防振激減装置)、つまりスタビライザーをつけて、カメラを動かせられるようになったからなのだ。
ナレーションも、変におどけたりふざけたりしなくて、適度なやさしい口調が番組の雰囲気にふさわしいものだ。
この年末年始にかけて、余り本も読むこともなく、CDを聴いたのも少しだけで、すっかりテレビ人間になってしまったが、取り込むメディアが違うだけで、興味ある分野が変わってしまったわけでもない。
まあ、若い時に恋に夢中になるように、歳を取っても何かにひたむきになることはあるものだ。老いらくの恋ならぬ、老いらくのテレビと言うべきか・・・。」
1月5日
今日も、まだ雪がちらついている。さすがに毎日寝てばかりいると、退屈してくるし、体を動かしたくなってくる。
雪はもう10日余りも積もったままだが、今は降っていない。外に出て、あちこち歩き回っては、トイレをしたり、少しでも日が差せば、ベランダに出て毛皮干しのために横になったりする。
手すりの上のエサ台には、毎日、飼い主が食べ残しのリンゴを置いている。感心するのは、いつもはリンゴの芯(しん)まで食べる飼い主が、その芯の周りを厚めに残していることだ。
そのリンゴを出すと、すぐに待ち構えていた大食漢のヒヨドリが来て、それをついばんでいく。
若いころなら、そのヒヨドリをねらって、ベランダを抜き足差し足で近づき、折あらばと時をうかがっていたものだが、今ではそんなジャンプ力もないし、飛びかかる元気もない。
そのヒヨドリが、ほんの2m先でリンゴをついばんでいる音が聞こえているが、ワタシはちらりと一度見ただけで、そのまま寝ている。
若い頃できていたことが今はできないということ、それは決して負け犬、いや負け猫的な恥ずかしいことではない。歳を取って、こうして冬の日のぬくもりのありがたさをしみじみと感じることなど、若い時には思いもしなかったことだ。
ヒヨドリよ、おまえはおまえで、エサにありついた喜びで、ひたすらに今を生きていけばいい。ワタシは、穏やかな光の中に、私の命が息づいているのを感じている。
とその時、ピヨーという甲高い声がして、ワタシもヒヨドリも、声の聞こえた梅の木の方を見た。見慣れない大きな鳥が、一羽とまっている。白黒の縞(しま)の袴(はかま)に緑の羽織、頭にはたいそうな赤い冠をつけている。
おいおい、正月だからといって、誰か三河万歳(みかわまんざい)を呼んだのかいと思っていたら、その音を聞きつけた飼い主がやってきて、教えてくれた。
なんでも、それはアオゲラとかいうキツツキの仲間で、この九州から本州ではよく見かけるが、北海道にはいなくて、その代わり白の袴をはいている、別種のヤマゲラというキツツキがいるそうだ。
鳥の仲間には、こうして地域によって多少姿かたちの異なる種があって、亜種(あしゅ)と呼ばれているそうだが、もっともそれは動物や植物全体にも見られる地域的な変種なのだが、ワタシのような雑種のネコは、この日本全土に住みついていて、殆ど地域的な差はない。
つまり、ワタシたちには、何代たっても訳のわからない色が混じり合った毛色の違うネコが生まれてくるだけで、何の動物学的な個性もない。
しかし、ワタシはネコ科のイエネコのうちのニホンネコであり、それもちゃんとミャオと名前を付けられた、一匹の飼い猫であることに、誇りを持って生きているのだ。
今年もまた、あの『アサヒカメラ』の1月号付録の、岩合光昭『猫にまた旅2011』カレンダーを、飼い主から見せてもらった。いいなー、いずれもワタシと同じ、日本猫と呼ばれる雑種のたくましいネコちゃんたちばかりだ。
特に、あの表紙にもなっている、小さな漁村の防波堤の上を、悠然と歩くネコちゃんの風格はどうだ。
飼い主から聞いたことのある、あの宮沢賢治の有名な詩を思い出した。
『 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテイカラズ
イツモシズカニワラッテイル
・・・・・・
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
ソウイウモノニ ワタシハナリタイ 』
「朝、今までの雪の上にさらにうっすらと雪が積もっていた。今日も、曇り時々雪の空模様だが、この三日ほど、日中の気温は4度位まで上がり、大分雪も解けてきたが、まだ一面の雪景色であることに変わりはない。
そんな雪模様の天気が続く中、わざわざ町にまで出かけて行くこともないと、暮れから正月とずっと家にいた。そして、ミャオは寝ていたが、私は、年始年末のテレビ番組を見たり、録画したりして過ごした。
ただ、体は正直で、なまった体を動かしたいと、私をせかした。二日の日に、少し晴れ間がのぞいた。私は、これ幸いにと長靴をはいて外に出た。
年末年始の雪で、三度ほど雪かきをしたが、ほんの30分ずつくらいで大した運動にはならなかったのだ。
北海道で冬を過ごした時は、雪が降ると、この九州みたいにすぐに溶けてはくれないから、ともかく表の道まで雪かきをしなければならない。午前中午後、それぞれ2、3時間ずつと、くたくたになるほどの運動になっていたのだ。
そのうえ、何ということか、このところずっと山登りに出かけていないのだ。もう3カ月近くも間があいてしまった。こんなことは、もう20年以上前に、あの北海道の家を建てるために忙しかった時以来のことだ。
その理由は、大したことはなにもない。ただぐうたらになっただけのことだ。まあしいて言えば、この九州でも、北海道でも、もう十分に満足できるほどに繰り返して近くの山には登ってしまったから、よほど天気の条件が良くない限りは、あえてまたも同じ山に登りたいとは思はなくなったのだ。
自分の健康のために、目標の記録のためにと、同じ山に登り続ける人たちもいる。が、私にはそれほどの根性はないし、それよりも残り少ないだろう自分の登山人生を、いかにして有意義に過ごすかが問題であって、それにはまだ登っていない山、あるいはもうずいぶん昔に登った山々に、登るべきだと思っている。
といっても、百名山などの名前に惹(ひ)かれて登る訳ではない、ただ今までに写真や映像で見てきた幾つかの山々の姿にあこがれて、登りたいと思っているだけだ。
例えば、この九州の主な山々には若い頃に大体登っているが、遠く離れた南の屋久島、さらにいえば鳥取の大山(だいせん)、四国の石鎚(いしづち)山にはまだ登っていない。
それは、何日か日数をかけなければならないし、ミャオがいるから、家を空けるわけにはいかないのだ。
そんなことを思いながら、私は歩き始めた。山には登らなくても、時々こうして、家から続く勾配のある山道を、往復1時間余り歩いている。一番高い所に着く頃には、汗もかいているし息も切れる。
しかし何よりも、歩いて行くことそれだけで気持ち良いのだ。雪の斜面の彼方に、枯れたカシワの木々があり、雪の山が見え、雲の間に青空が広がっている。(写真)
後は、下り坂の道を少し早足に歩いて行くだけだ。そして家に戻り、汗をかいた下着を着かえて、寝ているミャオの傍で、録画した番組を見る。
前回に書いた年末番組の他に、正月にも様々な特別番組があり、容量が少なくて一杯になっているHD(ハードディスク)から、次々にBR(ブルーレイ)へと移し換えなければならない。余分な所をカットして、一枚のディスクになんとか収まるように編集しなければならないし、ともかく一仕事だ。
この正月の一番の番組は、何と言っても、文楽の通し狂言『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』である。
1月1日から三日間に渡り、都合8時間にも及ぶ、文楽人形浄瑠璃(じょうるり)の名作の全段の公演が放送されたのだ。
それは去年の春に放送された、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』通し狂言の舞台(’10.3.27の項参照)に次ぐ、一大イベントだったのだ、私にとっては。
日本版『ロミオとジュリエット』といわれる、有名な三段目の「妹山背山の段(通称、山の段)」や、四段目の『三笠山御殿の段(別名、金殿の段)』は、前にも書いたように(’10.8.31の項参照)、歌舞伎ともども良く上演されているのだが、全段を通して見たのは今回が初めてであり、今さらながらに、人形遣い、浄瑠璃語り、三味線、そして舞台と脈々と受け継がれてきた、世界に誇る日本の古典芸能の素晴らしさを実感した。
歌舞伎では、31日に京都南座・顔見世大歌舞伎で、あの荒木又右衛門の仇討を題材に作られた大作『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』の中からの「沼津の段」を、片岡我当、秀太郎、仁左衛門の三兄弟で演じるという、まさにぴったりと息の合った、上方歌舞伎ならではの醍醐味(だいごみ)を味わうことができた。
一方の東京の国立劇場では、新春歌舞伎公演として、200年ぶりの復活公演だとういう『四天王御江戸鏑(してんのうおえどのかぶらや)』が、尾上菊五郎、中村時蔵、尾上松緑、菊之助らによって演じられていたが、お正月らしい大掛かりな舞台と立ち姿を楽しむことができた。
音楽番組では、31日に、ベルリン・フィルの1年前のジルベスター・コンサートとして、サイモン・ラトル率いるベルリン・フィルとあの人気絶頂のピアニスト、ラン・ランによる、ラフマニノフのピアノ協奏曲の2番が演奏されたが、さすがにコンサート・ピアニストとしては抜群の見せ場を作る、ラン・ランの面目躍如(めんもくやくじょ)の舞台だった。
元日は、おなじみのウィーン・フィルによるニューイヤー・コンサートで、カラヤン以来という、地元オーストリア出身の、フランツ・ウェルザー=メストによる、ウィンナー・ワルツやポルカなどの数々。
この二本とも十分に楽しめたのだが、贅沢(ぜいたく)を承知で言わせてもらえれば、それももう若くはない中高年男の目から見ればなのだが、さらに細やかな嫋嫋(じょうじょう)とした情感がこもっていればとも思ったのだが。
もう一本の音楽番組は、3日の日にNHKデジタルで放送された、ドキュメンタリー『世界のマエストロ小澤征爾(おざわせいじ) 入魂の一曲』である。番組名が、仰々(ぎょうぎょう)しいのが気になったが、内容は素晴らしかった。
ウィーン・フィル退任後の、食道ガンの手術から復帰したばかりの、まだ病み上がりの体の小澤征爾が、手兵のサイトウ・キネン・オーケストラと、チャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』をリハーサルし、公演するまでの記録である。
前回書いた(12月31日の項)フルトヴェングラーやロストロポーヴィチの場合と同じことを言うことになるが、そこにあるのは、小澤征爾の、音楽にかけるすさまじいばかりの思いであり、生きていることへの讃歌である。
チャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』は、レコードの時代から、カラヤンとベルリン・フィルによる、ドヴォルザークの同じ『弦楽セレナーデ』とカップリングされた名盤があり、良く聴いていたものであるが、今回の小澤の演奏は、医者から許された短い時間での演奏であり、わずか第一楽章だけの演奏だったが、すべての人の思いは、あの時、松本のホールにいた聴衆たちの気持と同じだったのだ。なりやまぬ拍手・・・。」
『 わがこころにうつるもの いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども われはただひたすらにこれをおもう
――そはわがこころのさけびにして
またわがこころのなぐさめのいずみなれば 』
(高村光太郎 『道程』より)