ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

クチナシの白い花と色あせた花

2015-07-27 20:55:25 | Weblog



 7月27日

 いまだに家にいて、ただじりじりとした思いで、待っているのだが。 
 本当の天気の続く夏空と、ヒザの痛みの回復を待って。
 しかし、いずれとも思わしくはない。

 関東、甲信に続いて、さらにはその後の北陸地方も含めての梅雨明け宣言だったのに、下界では猛暑日が続いても、山上の天気は晴れた日ばかりではないのだ。
 その上に、先週に続いてまた台風がやってきて、直撃したわけではないが、その余波で天気もまた影響を受けることになり、まだまだ安定した太平洋高気圧の下の青空ということにはなりそうにもないし。
 こうした、短い周期の天気変化に、今一歩の踏ん切りがつかずにいるのだ。
 私が、夏に遠征登山に登山に出かけるのは、何よりも梅雨明け後の”梅雨明け十日”といわれる、天気の安定した日々をねらってのことなのだ。
 何よりも静かな山旅を好む私が、こんな夏山シーズンのさ中に、縦走路や小屋が登山者で混雑する時に、あえて出かけて行くのは、ただただ晴れた日の山々を見たいがためなのだ。
 さらに言えば、その上に寄る年波で体のあちこちに心配なところが出てくる、今ならばなおさらのこと、今回で、もうこの山の見納めになるかもしれないという思いが強くなってきて、年寄りの疑り深い慎重さで、何事も決められないまま、今回も、ぐずぐずと時間だけが過ぎていくというパターンになっているのだ。
 
 去年の今頃は、腰を痛めていて、長い間続けてきた夏の遠征登山を止めてしまう羽目になり、山登りが好きな私としてみれば、どこにも行かなかった夏山シーズンは、まさに屈辱の”一敗地にまみれた”年になったのだが(’14.7.28の項参照)、今年もまた同じように、ヒザと天気のために山をあきらめることになれば、いよいよ”ダルマさんが転んだ”の世界と同じ、手も足も出ない状態で山にも登れずに、これから先も生きていかなければならないのかとさえ思ってしまうのだ。
 まだまだ、日本各地には登りたい山見たい山が幾つも残っているというのに・・・。
 しかし、今から嘆くのも馬鹿げているし、まあそうなった時に考えればいいだけの話で、むしろここまで長年にわたって、わがままいっぱいに様々な山に登ってこられただけでも幸せなことだったし、むしろそうした自分の幸運に感謝すべきなのだろう。

 ところで先日、何気なく見ていたテレビのバラエティー番組の中で、最近近隣住民に大きな迷惑をかけては問題になっている、あのいわゆる”ゴミ屋敷”について、その当の本人は罪の意識などなく、心理学的に言えば、”喪失感や孤独感を埋めるために行っている代替(だいたい)行為”だとコメントされていたのだが、それを聞いて他人事ならずに、少しドキリとした。
 もちろん私は、きれい好きな方であり、部屋の中が散らかっていることはもちろんのこと、食事後の食器が洗い場に残っていることさえ嫌なくらいだから、そうした”ゴミ屋敷”になる心配はないのだろうが、足りないものを埋めるための収集癖という言葉が浮かんできて、それには少なからず思いあたるふしがあったからだ。

 思えば、若いころの身勝手な思いや振る舞いで、周りの人たちに特に彼女たちにどれほど多くの迷惑をかけてきたことだろうか、結局今になってそれらはすべて報いとなって自分の身にふりかかってきているようなものだが、特に3年前にミャオに死なれててしまって以降、ひとりになった私が、今まで以上に自分の趣味に熱を入れるようになったのは、ひとえにそのなくしたものの大きさに気づき、飢餓(きが)感をまぎらわせるために、それらの代替物で何とか満たされたような気分になっていたのかもしれない。
 山登り、写真、本、絵画、クラッシック音楽、様々な分野のテレビ録画、そして思えばミャオがいなくなったころから始まったAKB熱、そのテレビ出演を録画記録したブルーレイ・ディスクの数々・・・。
 そういうことなのだ、私の心の奥深くにあるものの”代替物”としての、私だけの”コレクション”を作り上げてきたのだ。
 もちろんそれらは、誰かに迷惑をかけて集めたものではなく、ただ自分のできる範囲内で、少しずつ集めてきたものであり、他人にとってはあまり意味のないものであり、私の死とともに、それらの”コレクション”は意味を失い、瓦解(がかい)し雲散霧消(うんさんむしょう)していくだけのものにすぎないのだろうが。

 考えるに、人は自分が求めていたものが得られない時には、あきらめるか、それともその代わりになるものを探し出し、そこにかなえられなかった分だけの思いを注ぐことになるのだろう。
 それは、今までにもこのブログで、自己心理分析を試みる際に何度も取り上げてきたことなのだが、つまりはあのフロイトの精神分析における”転移感情”そのものであり、 さらに言い換えれば、これまたアドラーの心理学における”代償行為”、つまり”劣等性の補償そのものの行動”と同じことを意味しているのかもしれない。
 さらに詳しくと、ネットで調べてみると、いわゆる”ゴミ屋敷”問題を引き起こす人たちは、強迫性貯蔵症(ホーディング)やストレスによって引き起こされた統合失調症などの、精神疾患にかかっているのだとされていた。

 こうした人々を単純に、精神的な病だと決めつけてしまうのもまた危険な気もするが、それはつまり普通の生活を送っているように見える私たちでさえ、それぞれに思い通りにならない様々なストレスを抱えながらも、自分なりに代替物となるべきものへの転移感情を持ち、あるいは代償行為によって切り抜けているのであって、誰もが体の中に、大なり小なりのがん細胞を知らず知らずのうちに抱えているように、私たちはいつも幾つもの精神疾患の種になるものを持っているものなのだ。

 ただその中の一つが、今の時代に顕在化(けんざいか)しただけのことであり、近隣住民を巻き込んでの”ゴミ屋敷”問題も、それもまた私たち社会が作り上げてきたものに内在する”ひずみ”への、警告のサインなのかもしれない。
 それは、いわゆる”ごみ屋敷”があるのは町中だけであって、一戸一戸が離れた田舎にはないということでもあるのだが。
 つまり田舎に住む私の家は、私の性格もあって、おそらく”ゴミ屋敷”化することはないだろうが、 しかし何と言っても”じじいのわび住まい”、ゴミ以前に、誰もが近づきがたい”じじむさい”たたずまいであることは言うまでもないことだが。

 そのじじいが、最近、前にもましてはまっているのが、ネット上のAKBファンたちの情報サイトを見ることであり、今やこの私めが、まさに”病膏盲(やまいこうもう)に入る”というほどに夢中になっているのだ。書き込みなどはしないし、ただ見るだけなのだが。
 それらのサイトを見ることによって、テレビの歌番組やネットのニュース記事だけでは分からない、AKBグループ・メンバーたちの最近の動向を知ることができるし、さらにはそこに書き込まれた、”おたく”ファンたちの様々な意見が面白く、よく言えば百家争鳴(ひゃっかそうめい)、悪く言えば玉(ぎょく)の少ない石ころだらけの、玉石混交(ぎょくせきこんこう)のありさまなのだが、AKBファンにとっては、ひとときの無聊(ぶりょう)を慰めるには、またとないサイトであると言えるだろう。

 その中から最近のエピソードを二点。
 一つは、先日の東京は隅田川での花火大会で、AKB選抜他の16人の面々が(多くはゆかた姿で)、チャーターした船の後部デッキで集合して写っている写真であり、さらにメンバーそれぞれのツィッターなどでは、他の写真と一緒に楽しかったという言葉が書き込まれていた。
 それは、私にとっては今ではもう顔なじみのようなAKBの娘さんたちが、みんなで楽しそうに笑って写っている写真であり、もちろんこれもまた何かの撮影の合間のひとときに撮られたものだろうが、テレビの歌番組などで見せる笑顔とは違ったほほえましい気持ちにさせてくれるいい雰囲気の写真であり、思わずその写真を自分のパソコンに取り込んで保存したほどなのだ。

 そしてそれに続く、”おたく”ファンたちの書き込みも、”楽しんでいる皆がかわいいし、見ていてこちらもいやされる”と、あたたかい反応の言葉が多くて、それを読んでいる私もまた楽しい気分になっていたのだが、途中から、例の”アンチ”と呼ばれる、特定の子だけを推す”おたく”ファンたちからの、他の子に対する悪口の書き込みが始まって、またそれに対する応酬があって、もうそこからは不快な気分にさせられるだけになってしまったのだ。
 前にも、こうした行き過ぎた”おたく”ファンたちの書き込みが、余りにもひどすぎるとここでも書いたことがあるのだが、相変わらず後を絶たないのが現状なのだ。
 ここはAKBファンの情報サイトであり、特定の子だけをほめたたえ、他の子をけなし悪口を書きたてるというサイトではないし、そうしたAKBファンではない者への書き込みができないようにできないものかとも思うが、そこは現代の民主主義国家の日本であり、言論の自由は守られるべきものなのだろうが・・・。 
 
 もう一枚は、楽屋でメンバー同士がふざけ合っている写真をもう一人のメンバーが写したもので、さながら若い娘たちの教室でのおふざけ遊びのようで、思わず吹き出してしまった。
 一番年上の加藤玲奈(れな)が、後輩のバラエティー・キャラの西野未姫(みき)をつかまえて、両手で変顔にさせて笑い、それを向井地美音(むかいちみおん)が3枚続けて撮っているのだが、それは写真的に見ても見事なスナップ・ショットだった。
 ちなみに”かとれな”は歌番組などで選抜にも選ばれる、次世代候補の一人であり、”みき”はお笑いキャラとはじけたダンスで人気の子であり、”みーおん”は大島優子の後継者と言われるほどの、これまた次世代候補の一人である。
 しかしこの西野は、そのキャラが注目されて、先々週の”AKB48SHOW” では、特別にそのダンスを披露するコーナーまでもが設けられていて、今回の総選挙ではランクインできなかった”みき”だが、どこに幸運が潜んでいるのかはわからないものだ。

 そして、この時の”AKB48SHOW”では、AKBの7人とNMBの4人がそれぞれスタジオで歌っていたのだが、余りにも歴然とした歌唱力の差があることを思い知らされたのだ。
 今までこの”AKB48SHOW”では、様々なユニット組み合わせでのスタジオ・ライブが収録されていて、その中には、さすがの私が録画するのを中断するほどにひどい歌の時もあって、特に若いメンバーによるものが多かったのだが、今回のAKBユニットでは、AKBから新しく作られる新潟のNGTに、新キャプテンとして移籍する北原里英を送別する意味も含めて、「Choose me!(私を選んで)」という歌にしたのだろうが、ともかく出だしから、彼女たちの歌のキーが、演奏されている音楽のキーに合っていなくて、最後までそのまま調子はずれの歌を聞かされて、私でさえ、あの”おたく”たちがよく使う”放送事故”ではないのかと思ったほどだ。
 この時のメンバーは、北原の他には、1期の峯岸、次期総監督の横山にAKB次世代を代表する、高橋、小嶋、向井地、大和田という、上位ランクインのメンバーたちによる組み合わせだっただけに、確かに一般人が”AKBは歌が下手だから”と言うのも否定できないと思ったくらいだ。

 この歌い方を、リハーサルの時に気づかなかったのだろうか。AKBのボイス・トレーニングや歌唱指導する体制はどうなっているのだろうか。
 せっかく有能なプロデューサー兼作詞家の秋元康がいて、取り揃えた作曲家陣の顔ぶれに、衣装の”しのぶ”総支配人など舞台裏のスタッフたちがいるのに、極端に言えばなんら進歩のないAKBの歌唱力に、ファンである私でさえ、アイドルだから許されるというレベルではないと思ってしまうのだ。
 
 その一方で、眼を開かれた思いがしたのは、この時の最後に歌われたMNBの4人ユニットによる、「この世界が雪の中に埋もれる前に」 である。
 私は、この歌も知らなかったし、一人を除いて、その名前も顔も分からなかったし、唯一見覚えのある顔の子も、画面にその名前が出てようやく思い出したほどである。
 しかしその子、岸野里香がソロで歌いだした瞬間、その声量のあるなめらかな歌声に魅了されてしまった。
 その彼女の歌う一節が終わった後は、他のメンバーたちそれぞれにソロで歌い継いでいって、その中では何とちゃんとハモっている所もあって、私は、NMBでは前列で歌っている何人かしか知らないのにと、その彼女たちの歌唱力にあらためて感心したのだった。
 本店AKBと大阪支店のNMBとの差を、考えないわけにはいかなかった。
 
 さて話を元に戻して、私がこれらの情報サイトを見たくなるのは、確かに見るのも嫌な悪口の書き込みがある反面、時にはきらりと光るユーモアや、なるほどと思わせる知識あふれた書き込みがあるからである。(6月15日追記2の項参照)
 たとえば、今度のNMBの新曲「ドリアン少年」で、センターに選ばれた須藤凛々花(りりか)は高校時代全校一の成績だったというほどの才女だったらしくて、愛読書はあのニーチェの『悲劇の誕生』だと答えて、将来の夢は哲学者だとさえ言っているほどだが、それはキャッチコピーにすぎないとしても、今までにはなかったAKBの知識キャラであり、結構な知識人のおじさんが多いAKBの”おたく”ファンがほっておくはずもなく、これらのサイト上で、ニーチェについてなどの論争が書き込まれたほどだった。
 このことについては、また別の機会に改めて書くことにして、ともかく最初は、余りにも”おたく”同士のののしり合い的な書き込みが多く、多少とも辟易(へきえき)していた私だが、こうして実りの多い情報や論争などを知ることができることもあって、石ころだけの中の玉(ぎょく)を見つける喜びがあることも知ったのだ。
 

 晴れた日が二日続いた後、台風の影響による雨や曇り空が続いているが、この後の天気はどうなるのだろうか。
 庭には、いつもこの時期に咲く白いクチナシの花が、あたりにかぐわしい香りを漂わせながら、次々に咲いては、色あせ枯れ落ちていく、その対照的な二輪・・・。(写真上)
 


草山に吹く風

2015-07-20 20:43:16 | Weblog



 7月20日

 数日前、それは台風が来る前のことだったのだけれども、こちらに戻ってきてようやく初めて、朝から快晴の空が広がっていた。
 朝の青空、緑の林、風吹きわたる稜線・・・と思いをめぐらせると、もう、山に行かないわけにはいかないのだ。
 かと言って、クルマに乗ってまで出かけて行くほどではないし、何より午後からは町に出かける用事もあり、だから午前中までには戻ってきたいし、そこでいつものように、家から歩いて登れる山に行くことにした。
 今までに、数十回は登っているだろう、この小さな草山・・・下に広がる、スギの植林地と照葉樹の森林帯を抜ければ、頂上付近の稜線だけがカヤとススキの草山になっていて、展望が開けているのだ。

 今までに何度も書いてきたように、私が山に登るのは頂上からの眺めを楽しみたいからであり、だから頂上が木々に覆われて展望のきかない山には登りたくないし、さらには頂上に電波塔などの建築物があるだけでも、大切な自然環境が損なわれるようで、これまた余り登りたくはないのだ。
 さらに付け加えれば、登山者が少ないこと、できるならば誰とも出会わないことの方が望ましいくらいなのだ。
 と言うのも、あのモリエールの『人間ぎらい』の中で描かれているような、人づきあいのわずらわしさがイヤになってとか言うのではなくて、むしろ人と話すのは好きな方なのだが、それでも自然の中にいるときには、その人気(ひとけ)のない静謐(せいひつ)なたたずまいを、目と耳で静かに楽しみたいと思っているからだ。

 その昔、アメリカの地理学者センプルが言ったように、”私たちは地球を母として生まれたその子供である”から、時には自分たちが作り上げてきた、このごたごたとした物に溢れた世界から離れて、限りなく豊かに広がる母の胸の中に帰り、そこで憩うべきなのだろうと思うのだ。自分の本性の出自(しゅつじ)を知るためにも。 

 と、まあごたいそうな理屈を書いては見たもの、本当のところは、持って生まれた性情と子供のころからのさまざまな自然体験が、私を山好きにしただけのことで、それはたとえば、”何代も続く江戸っ子の家に生まれてここにずっと住んでいるから、東京から離れた田舎で暮らすなんて考えられないし、祭りが近づくと、無性に御輿(みこし)をかつぎたくなるんだ”、と言う人の思いと何ら変わることはないのだろう。

 そういえば、前回書いたAKBの”まゆゆ”渡辺麻友を取り上げたドキュメンタリー番組『情熱大陸』の一場面で、彼女が道を歩いている時に、一匹の虫が飛んできて、”まゆゆ”はキャーと叫んで手で払いのけて、”わたし虫がキライなんです”と言っていた。
 都会育ちの彼女にとって、田舎や自然などは、落ち着いて日々暮らすことのできる町中とは違う、慣れていない別の世界なのだ。
 といって、このシーンを見て、私は”まゆゆ”を嫌いになったわけではない。
 AKBの中でも、変わらずに孤高のアイドル・スタイルを通し続けている、”まゆゆ”の姿勢は立派だし、歌声もすずやかで、顔つきも最近は大人の美人風になってきたし、ただ総選挙で3位に下がり、初主演のテレビドラマの評判がいまいちだったからと言っても、AKBの中では他に代えがたい大切なメンバーの一人であることに変わりはないのだ。 

 つまり、ことほど左様に人間の好みとその思いは様々であり、それらをすべてひとまとめにして成り立っているのが、今の社会であり、国家であり、この世界ということなのだろう。
 昔のように、一個人の独裁者的な考え方や価値観だけに、すべての人々がなびき従うことなどありえない時代なのだし、すべての異質なものを含めての妥協点を見つけることで、今の現代社会は成り立っているということなのだろう。(狂気のイスラム原理主義の台頭は、また別の問題として。) 
 そういうことで今思うのは、最近のギリシア債務危機に対して、EC、ヨーロッパ議会参加諸国が互いに粘り強く討議を重ねて、不十分ではあるが、ともかくの妥協点を見出したことである。もちろん、まだこれから先にも難問が山積みではあるが。
 (同じことが、イラン核開発問題についての長期にわたる国際会議においても言えることなのだが。)

 今回のギリシア問題については、もとより多民族からなるヨーロッパの国々は、さらに一つの国の中にさえ、本来の都市国家的地域割りがあり、それらの二重三重にも及ぶ複合集合体でからできていて、一見、統合不可能的なモザイク民族集団なのに、何としてもユーロ圏内の経済的混乱を避けるためにという共通益をもとに、最大の債務国ドイツの不満を抑えつつも、ギリシア援助の方針を打ち出したのだが、その長期の交渉会議の過程における、それぞれの国の忍耐強い努力を見ていると、”ヨーロッパという旗のもとに”という思いを強く感じるのだ。

 もちろんそこに至るまでには、ヨーロッパ諸国間での何度もの戦争が繰り返され、いやと言うほどに破壊と混乱の辛酸(しんさん)な経験をなめ尽くしてきているがゆえに、そうした長い歴史からの教訓を学び取ってきたのだろうが・・・あの昔の映画『会議は踊る』(1934年)では、ある意味華やかな貴族社会のルールに従って、第1次大戦後の各国間の処理交渉が描かれていたのだが、そこでは、ダンスと食事のパーティーに打ち興じての、”会議は踊る”だけのように見えて、実はそれぞれの国が適当な”落としどころ”を探りつつ、時間をかけたうえでの合意点を見つけるべく、それぞれに画策していたのだろう。

 その時代において大切なことは、お互いに紳士としての威厳を保ちつつ、ルールにのっとって信頼して話し合うことだったのだろう。
 今の世界における、さまざまな国同士での敵対関係と混乱は、昔は単純な特権階級同士の話し合いですんだことが、今ではすべての階層を代表する国々から成り立っているから、なかなかまとまるはずもなく、昔あったような最低限度の信頼よりはお互いの疑いの方が先に立っていて、これ以上話し合っても無意味だと打ち切られることになるのか・・・。
 それでも、昔に比べれば、今では多くの人が世界の国々をひんぱんに行き交うようになっているから、その意味からも”世界は一つ”の理想へと近づいているのだという気もするのだが。
 そこに、たとえ根深い対立や、誤解と憎しみが限りなく残っていたとしても、未来への小さな光が見えるような・・・。 

 山に登る時には誰とも会わない方がいいという話から、またも横道に大きくそれてしまったが、ともかく、世界の大多数の人々が都会に住む生活を好むとしても、私は、今さら町の中に住むことはできないし、こうして田舎に住んでいても、なおかつ時には、大自然そのものである山の、内ふところに包まれていたいと思うのだ。

 さてそうして、いつもの山に登ることにしたのだが、最近ではすっかり私のメイン・ルートになってしまったと言うよりは、今ではもうここだけしか残っていない北尾根への道をたどることにした。
 というのも、この山には、かつて下のそれぞれの集落から3本の道がつけられていたのだが、そのうちの一つは、もう道を探すのが困難なくらいに草に埋もれた廃道になっているし、もう一つの正面道も、今では所によってはササが両側から生い茂り、ヤブこぎかき分けて行かなければならないほどで、早晩、同じような廃道になるのだろう。

 そんな中で、残された一本の登山道だが、もっとも、冬にたどった時には降り積もった雪で道から外れてしまい、最後はやぶの斜面を登ることになったのだが、もともと低い山だし地形も十分に分かっているし、天気のいい日にしか登らない私だから、心配するほどでもなく、むしろそこには予想外の素晴らしい雪の景観が待っていたのだ。(1月5日の項参照)
 ともかく、今は、夏の緑濃い森林帯をゆるやかに登って行くだけなのだが、木々の間をたどる道には、鮮やかな光と影の陰影が映し出されていた。
 下草のササが草のように低く生えていて、ここではどこでも歩いて行けるほどだ。
 ひと登りして、カヤとススキの草原の稜線に出ると、ここからは、気持ちの良い尾根歩きになる。
 ただ残念なことに、朝早く下にたなびいていた雲が上がってきて、時々周りの景色を隠したけれども、もちろん一時的なものでしかなく、それ以上に尾根歩きの涼しい風が心地よかった。
 2時間余りで頂上に着いたが、周りは半ばガスにつつまれていて、午後からの用事もあることだし、わずか5分ほど休んだだけで頂上を後にした。

 夏色の鮮やかな草尾根が、風に揺れていた。(写真上)
 山にいることの喜びを味わう一瞬だ。
 さらに下っていくと、行きに見逃していた紫のノハナショウブが一輪だけ、周りのササのやぶの中から伸び上がり、太陽の光をいっぱいに浴びるように咲いていた。(写真下)
 




 周りに他の花があるわけでもなく、ただ一輪だけ咲いている花。
 風に吹き飛ばされて、あるいは鳥や獣たちによってこんな山の上にまで運ばれてきた種子が、そこで根を下ろし、ひとり花をつけたのだ。
 周りに交配できる同じ仲間の花粉もなく、それでも営々と続いてきた花の本能で、ただひとりでも生きていくたくましさ・・・何かにつけて、教えられることが多い自然の世界、それを見習うことができるのかどうかは、別として。 

 さらには、行きに見ていたアザミの花に、チョウが二匹とまっていた。
 別に珍しくもないウラギンヒョウモンなのだが、緑の草の中にひときわ目立つアザミの花があり、そこに鮮やかなだいだい色のチョウの羽があって、思わず足を止めたのだ。(写真下)
 
 今回は、いつもの尾根別れをする表登山道から下らずに、そこは急な下りがある上にササやぶがひどく、かき分けて行かなければならないから、行きと同じ道を戻ることにした。
 というのも、今回の登山は、梅雨明け後の遠征登山を予定していて、そのための足慣らしでもあったのだが、実は前回の大雪山への登山で、黒岳からの下りを急いだために少し左ヒザを痛めてしまい(7月6日の項参照)、その痛みがいまだにあって、そんな状態で山に登れるかどうかを確かめるためでもあったのだ。
 そして、確かにこうして、山を登り下りすることはできたのだが、片方のヒザをかばいながらの下りはさすがにつらいし、こんな状態で、長時間の登り下りがある高い山になど登れるだろうかと考え込んでしまったのだ。

 そして、今日現在でも、まだ違和感が残っている。
 これでは、長期間の縦走の山旅は無理だろうし、それでも山には行きたいし、一日だけの小屋泊まりで、すぐに戻れるような山に行くしかないのかと思っているのだが。
 去年は、腰を痛めて遠征登山自体を実行に移せなかったし、今年もヒザを痛めてあきらめるしかないのか・・・とうとうこの山好きジジイも、もう終わりなのか・・・考えれば、そりゃそうだろうよ、今までさんざん身近な人たちには迷惑をかけて、自分勝手のし放題、その悪運もつきて、いよいよ年貢(ねんぐ)の納め時がきたのかとも思う。
  
 さらに、今日になって分かったことなのだが、昨日の関東甲信に続いて、今日は東海近畿などでの梅雨明けが気象庁から発表されたのだが、ライブカメラで見る限り北アルプスの山々などには、稜線に雲がかかっていて、おそらく山の上でもガスの中という天気だろうから(槍ヶ岳ライブカメラ)、とても梅雨明けだと喜んで出かける気にはならないのだ。
 そのあたりの所を、例のTBS系の情報番組「ひるおび」の気象解説のコーナーで、いつもの森気象予報士が詳しく説明してくれた。
 つまり今年の夏は、いつもの太平洋高気圧の張り出しが弱く、湿った空気が流れ込みやすく、午後にかけては、にわか雨に雷などの不安定な空模様になるところが多く、気象庁の梅雨明け発表はもっと後でもよかったのでは、と話していたのだ。

 もっとも、このことを自分の都合のいいように解釈すれば、ヒザが治るまでの休息期間を作ってくれたのだ、と思えばいいのだろうが。
 もしそうして家でおとなしくしていても、ヒザの痛みが取れずに慢性的なものになっていたとしたら、もうこの後、山には登れないことになってしまう。
 しかし、ただ転んでは起きないのがこのジジイ。
 なあに、”えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、ヨイヨイヨイヨーイ”と他人事のようにはやし立てながら、日頃からそんな時のことを思って、ちゃんと他にもやるべきことはたっぷりと用意してあるのだ。
 まずは”書斎の人”になって、今まで買いそろえてきた本が山積みになっているから、ともかくページをめくらなければならないし、CDレコードの整理だけでも一仕事だし、さらには今まで写真に撮ってきたフィルムのデジタル化という、とても生きているうちには終わらないだろう仕事もあるし、それにここ2年ほどですっかりファンになってしまったAKBの、”ジジイおたく”になるべく、ネットでの”おたく”たちの話について行けるように、まだまだ勉強しなければならないし、かといって歩けないほどひどいわけでははないのだから、いつもの林や丘への散歩などはできるだろうし、ただ山登りという自分の一つの趣味がなくなったことぐらいで、落ち込んでいられないのだ。

 不肖、鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)はこのようにひとりうそぶき、相変わらず元気なふりをしては、不気味に笑うのでした・・・あの”くまむし”ふうな顔をして、生きてやるんだからー。




 
 


梅雨と梅ジャム

2015-07-13 22:12:10 | Weblog

 7月13日

 数日前に、私は、北海道の帯広空港から飛行機に乗って九州へと旅立った。
 天気予報では、北海道と東北には晴れマークがついてはいたが、東京以西は雨のマークが並んでいた。
 いつも楽しみにしている、飛行機からの眺めも、今回は期待できそうにもなかった。
 その上に、北海道の家を出る時には、朝早くから晴れていたのだが、日高山脈上部には雲がかかっていた。

 離陸からの急角度の上昇で、またたく間に層雲(そううん)を抜けて、青空の広がる上空に出た。するとそこには、ずらりと日高山脈の山々が立ち並んでいた。
 この夏の時期に、飛行機から日高山脈全山を見たことは余りなくて、もちろん晴天の日にうまく乗り合わせるタイミングにもよるのだろうが、久しぶりに目の前に広がる大展望に興奮しては、顔を窓に押しつけて見入ってしまった。  
 中央部には、あのカール壁にくっきりと雪を残した、日高山脈最高峰の日高幌尻岳(ひだかぽろしりだけ、2052m)が大きくそびえ立ち、右側に続いて戸蔦別岳(とったべつだけ、1960m)、北戸蔦別岳(1912m)、1967峰(日高第3位の山)、チロロ岳東西峰(1880m)と並んでいて(写真上)、さらに北に伸びて芽室岳(1754m)から佐幌岳(1059m)へと高度を下げながら連なっている。
 その後ろ遠くには、十勝岳連峰と大雪山の山々も見えている。なんという山日和(やまびより)の日なのだろう、飛行機なんかに乗っている場合かとも思ってしまう。

 その間にも飛行機は飛び続け、中央部から左側には、カムイエクウチカウシ山(1979m、日高第2位)からペテガリ岳(1736m)へと続いて、その先の神威岳(かむいだけ、1600m)からピリカヌプリ(1631m)、さらに広尾町音調津(おしらべつ)の海岸へと至る主稜線は、その頂きが見え隠れしていて、日高側からの雲海の幾らかが見事な滝雲となって十勝側に流れ込んでいた。 (写真下、広尾町上空から)



 この上空からの眺めで、西高東低の気圧配置の時に、特に冬場などに、十勝地方の天気が良いことの理由がよく分かるのだ。
 つまり、偏西風などの西側から押し寄せてきた湿気を含んだ雲は、日高山脈にぶつかり上昇気流となって雲を発達させ、日高側の山沿いに雨や雪を降らせて、そのうちの幾らかの雲が十勝側に流れ込んだとしても、ほとんどは乾いた風となって、あの冬場の身を切るような烈風(れっぷう)となって、晴れ渡る十勝平野に吹き荒れるのだ。
 また夏場の今の時期に、そうした気圧配置になって西からの風が吹きつけると、十勝平野を越えて降りてくるときには、例のフェーン現象となって、平野全体の気温を上げることになるのだろう。
 ちなみに昨日の、全国の36度以上の気温のほとんどの地点は、北海道の十勝地方だったとのことだ。帯広36.3度!(今日は北陸や秋田で38度とのこと。)
 一方で、小雨模様の天気だった九州北部のわが家での気温は、26度(今日も同じ気温)で、クーラーをつけるまでもない涼しさだった。
 その気温の差は10度余りにもなり、どちらが北で南だかわからないほどだ。
 そうした、南北に連なった島々からなる、日本の自然の多様性や四季の変化を思うと、それは、”うまし国”日本のありがたい豊かさでもあると気づくのだ。

 ”・・・とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原は かもめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和(やまと)の国は”

 (『万葉集』巻一 天皇の御製歌(おほみうた)より 角川文庫)

 私は、激しい雨の降りしきる梅雨のさ中に、九州に戻って来た。
 いろいろとやるべき仕事はあったのだが、まず最初に気になったのは、今年のウメの実のなり具合だった。
 去年は、大豊作の年に当たり、腰を痛めていたにもかかわらず、(そのためにとうとう夏の遠征登山にも行けなかったのだが)、何とかここはとがんばって13個もの、瓶詰(びんづめ)ジャムに仕上げたのだが(’14.7.21の項参照)、果たして今年はと見ると。
 明らかに去年と比べれば実の数は少なく、すでに下に落ちているものもあり、その大半は痛んでいて半分は土色に変わっていたが、まだ使えるものもあった。
 しかしその前に、やるべきことが、行くべき所に行って様々な支払いをすませ、さらには家の仕事、庭木の剪定(せんてい)などもあり、すぐにはジャムづくりに取りかかれなかったのだけれど、ようやくこの二日ほどで、とりあえず大中小のビン5個ほどのジャムを作ることができたし(写真下)、まだもう一回分くらいは枝先に残っているから、友達などにあげる分もそれで十分だろう。




 
 ただ難しいのは、いつ作るかなのだ。つまり、梅の実は痛みやすく、下に落ちて一日もたたないうちにもう傷み具合が目立ってきて、二日もたてば半分以上変色して使えるところは少なくなってしまうのだ。
 かといって、毎日落ちてくるのは10個余りで、だからと言って高い枝の上のものをいちいち高枝切りバサミ(今回のNMB48の新曲「ドリアン少年」では、主人公の娘が欲しいもは高枝切りバサミと言っていたが)、それで一つ一つ採ってしまうわけにもいかず、なるべく完熟(かんじゅく)のものをまとめてと待っていると、一方では腐ってきてしまうし、そこが難しいところなのだ。 

 そういえば梅雨(つゆ)という言葉には、梅に雨という言葉が使われているが、確かにこの雨の時期にその実が色づく梅になぞらえてつけられたものだろうし、またもう一つの、黴(かび)の生えるような長雨の季節だからということで、黴雨(ばいう)と名付けられ、さらにその言葉の見栄えが良くないということで梅雨に変わったのだという、二通りの説があることは知っていたのだが、今回改めてネットで調べてみて、他にも幾つかの説があることを知って、なるほどと思った次第なのだ。
 それは、梅の実が色づいて地面に落ちて、すぐに痛みそして潰(つい)えてしまうような長雨のことを、潰(つ)ゆ時の雨と言いっていて、さらにこれも分かりやすい漢字に換えられて、梅雨になっということ。
 まさしく、これは梅の実の収穫に取り掛かっている私には、最も納得のいく説でもあるのだ。
 さらにもう一つ、草花に毎日、露(つゆ)が宿るほどに小雨が降り続くころのことを、露の雨と言うようになり、これもまた分かりやすい当て字をして梅雨になったのだという説もあり、ともかく主なものだけでも四つもの説があるということだ。
 
 物事の成り立ちを調べていく時に、その文献を調べていくうちにさらに興味が募り、一つずつ疑問が解き明かされ、または想像の思いがふくらんでいく楽しみ・・・それはたとえば、あの明治大正期の文豪、森鴎外(もりおうがい、1862-1922)は、後年になって陸軍軍医高官としての職を辞する前後には、古文書文献調べに没頭していて、彼の後期著作物の一大高峰群となる幾つもの伝記風歴史小説(『栗山大膳』『渋江抽斉』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』)を書き上げている。
 私たち読み手としては、ただ事実だけを書き連ねただけのような、まるで文献を読んでいるような物語の経過に、多少の味気なさを覚えるのかもしれないが、たとえば一般にもよく知られていて、同じように淡々と物語が進んでいくだけのような短編小説である、あの『阿部一族』のように、事実記載として書かれているだけの登場人物たちが、その文字の裏側では、脈々と波打つ思いにあふれていて、やがては荒々しくいきり立っていくさまを知らされることになるのだ。
 つまり、私たちはそこで初めて理解するのだ。物事を叙述する際に、いかに美辞麗句で飾り立てようとも、簡潔な事実記載の積み重ねに勝るものはないのだということを・・・。

 さらには、あの『日本百名山』で有名な深田久弥が、古文書文献を調べては、日本の山々の名前の由来を一つ一つ探し当てて行ったように、それらは、今の若者たちが夢中になって液晶画面に向かっているゲームのように、いやそれ以上に、知的興味と好奇心を満足させてくれる、”いにしえ”の年寄りたちの真実を探る謎解きゲームだったのかもしれない。

 いつもの悪いクセで、話が大きく横道にそれてしまったが、元に戻れば、梅雨時のウメの収穫とジャムづくりは難しいということだ。
 私は長年にわたって、野山に実る様々な果実類を採っては、ジャムにしてきた。
 コケモモ、ガンコウラン、クロマメノキ、ハマナス、コクワ、ヤマブドウなどなどだが、ごらんの通りに、最近は寄る年波に勝てず、さらに前にもまして外出嫌いのぐうたら病にかかってしまい、数年前からそれらのジャムづくりを止めてしまい、最近では唯一、このウメジャムを作るだけになってしまったのだ。
 なぜこのウメジャムづくりだけに、こだわっているのか。それは、今では死んだ魚の目のようにも見える、この年寄りの瞳の奥を注意深く見ればいい。
 そこに、若かりし頃の残り火のように、かすかにちょろちょろと揺らめく炎があることに気づくだろう。

 どうしてどうして、疲れたとか年だとかほざいているわりには、どっこいその裏では健康であることには気をつかい、蛇のような猜疑心(さいぎしん)と、兎のような小心者の心を持って情報を仕入れては、陰ながら日々健康であるべく自分なりに心を砕いているのだ。
 瞳の奥に見える、疑り深いじじいの、打算に満ちたこすっからい思い、何としても長生きして”いじわるじじい”として生き延びてやるという、いやらしい情炎の揺らめき・・・。

 このじじいは、自分の身に体験したものしか信じないという始末に負えない性格であり、最近では、医者にかかるのはもとより、市販されている薬でさえなるべく服用しないようにしている有様なのだ。
 というのも、亡くなった母親が時々飲むためにと作ってやっていた梅酒づくりを止めた後、ただ落ちては腐るだけの梅の実を見てもったいないと思ったからでもあり、それもテレビや雑誌からの情報もあってのことなのだが、ともかく体にいいとされる梅エキスや梅ジャムを作っては、毎朝食のパンに塗って食べてるようにしてみたのだ。
 以前から、小さな鼻風邪をひきやすく、熱やセキはあまり出ないのだが、頭痛が取れなくて、仕方なく市販の風邪薬を飲んでは抑えていたのだが、ある日、薬を多用する現代の医療などを批判する、今はやりの健康本の見出しを見たのだが、そこには”風邪を治したければ、風邪薬を飲むな”と書いてあったのだ。

 それは少し考えてみれば、すべてに納得のいく言葉であることが分かる。薬が耐性菌に慣らされて効かなくなってしまう前に、自分自身が本来持っている免疫機能を高めようという至極当然な話であり、早速それを実行することにしたのだ。
 以前にもここで何度か書いたことのある、頭の”はちまきカイロ”(最近ではこれでさえめったにすることはない)と、この抗酸化作用のあるウメジャム(おいしい味のジャムというのではないが)によって、私はすっかり風邪をひかなくなり、それまで年に2,3箱使っていた風邪薬を一切買わなくなったのだ。
 つまり、私が今の時期に九州の家に帰る理由の一つには、家の庭にこの大粒の豊後(ぶんご)梅のなる木があるからなのだ。
 そして、作ったジャムは熱いまま、これまた熱湯消毒したビンに入れて冷蔵庫保存をしているから、5年10年先までももつことだろう。
 さらに年を取り足腰が弱っても、施設などに入って若い介護士などに陰でいじめられ痛めつけられるくらいなら、這いずり回ってでも家にいて、ウンチまみれになっても生き続けていたほうがましであり、最後に冷蔵庫の前まで這って行って、腕を伸ばして”ウメジャムを”と言ってこと切れるのかもしれない。そしてENDマークが出る。
 偏屈なじじいの記録、『梅と共に去りぬ』・・・映画になんかならんよなあ。

 そういえば映画について、前回”ゆきりんスキャンダル事件”に関連しての、『アイドル白書』という映画企画を考えたのだが、さらにもう一つ思いついた企画がある。
 それは、北海道にいた時に録画しておいた、三つもの放送局から流されたこの夏の長時間歌番組の中から、AKBグループ関連の所だけを編集して、ブルーレイにダビングしていたものをこちらに持ってきて、それを時々見ていて気づいたものなのだが。
 まずは、そこで歌われている乃木坂やNMB、SKEの新曲、さらにはAKB総選挙後の選抜メンバーによる新曲「ハロウィン・ナイト」を含めてのことを言えば、いずれも前作に比べて、踊りの部分の振り付けは簡単になっていて(それいいのだ、Eガールズのようにダンスが売りではないのだから、アイドルふうにで十分なのだ)、歌詞も前作のようなメッセージ性がなく、ただ楽しそうなだけの表現でしかないが、それでもアイドルが歌うにふさわしい曲になっていて、多くの”おたく”ファンは納得するのかもしれない。
 その中でも皆が注目していた、テレビ初披露のAKBの新曲「ハロウィン・ナイト」は、全くあの昔の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年、ジョン・トラボルタ主演、ビージーズ歌)と、昔のモーニング娘の曲とのごった煮でしかないのだが、それでも私は、毎日一度はこのブルーレイの録画で「ハロウィン・ナイト」を見ているのだ。
 つまり、誰でも単純にディスコ調のリズムにのれて、指原莉乃”さしこ”女王様のもと、メンバーのみんなが楽しく歌い踊っているのを見れば、それでいいじゃないかと思えてきたのだ。

 さて私が、前回に書いた『アイドル白書』に続いて、さらにもう一つ映画としてのストーリーを思いついたのは、それらの新曲についてではない。
 2年前の総選挙で、”さっしー”指原莉乃が前回女王の大島優子を破って1位になり、彼女が初めてセンターで歌った時の曲が、「恋するフォーチュン・クッキー」であり、この曲は今ではAKBを代表する曲になっていて、長時間の歌番組でAKBグループが歌うメドレー曲の最後に、必ず全員で歌い踊る曲になっているくらいなのだ。
 もう2年前の曲だから、選抜メンバーたちは何度も歌い踊っていて、曲の中でのダンスの振り付けも、ところによっては、メンバーそれぞれが自分なりのアドリブ的な身振りを加えていたりして、特に今回の総選挙2位の柏木由紀”ゆきりん”と前回女王で今回3位の”まゆゆ”渡辺麻友の二人は、3期の同期生同士で仲が良く、この「フォーチュン・クッキー」でも、いつも二人そろって合わせるアドリブの身振りをしていたのだが・・・そして、今回の歌番組は”ゆきりん”事件発覚後のことであり、この曲で二人はどうするかと見ていたのだが、”ゆきりん”は前のように二人で何かしたかったのだろうが、”まゆゆ”は”ゆきりん”の方を見ようともせずに、ひとりで自分の頭の所から耳が垂れ下がっているようなしぐさをしていたのだ。
 さらに最後の方で、今度は”さっしー”が、前に”まゆゆ”と二人でしたことのある、両手を観客の方に差し出すポーズをとったのだが、”まゆゆ”は応じることなく自分だけの耳ポーズをとり、”さっしー”は一瞬けげんな顔で”まゆゆ”を見ていた。
 そして曲が終わった時のスタンディング・ポーズで、”まゆゆ”はまたひとり耳が垂れ下がっているポーズをしていた。

 あくまでも私の解釈だが、今までAKBとしての恋愛禁止の不文律に従い、清純派のアイドルの立場を貫き通してきた”まゆゆ”にとっては、一月ほど前のTBS系ドキュメンタリー番組『情熱大陸』の中で、”まじめにやってきた子が損をするのがAKB”と悔しい胸の内を語ったことがあったほどで、当然仲良しの同期生であった”ゆきりん”の事件は許せないことだったに違いないし、その本心が舞台上で出てしまったように思えるのだ。

 ”さっしー”に対しても、今度の事件後に最初に”ゆきりん”に同情して、二人の写真を撮ってネットにアップしていたのが”さっしー”だったし、もともと”さっしー”もスキャンダル事件を起こして博多に飛ばされたくせにという思いが、”まゆゆ”の中にあったのかもしれない。
 だから”まゆゆ”にとっては、今自分が信用できるのは、人間ではない”ゆるキャラ”や人形キャラクターたちだけだという思いがあったのだろうか。
 そして、少し前に発表されたばかりの、あの”サンリオ”のキャラクターたちの人気投票順位では、”まゆゆ”が”推しメン”になって投票までしていた、キャラクターの”ぽむぽむぷりん”が何と1位に選ばれていて(あの”キティ”ちゃんでさえ7位)、彼女は「フォーチュン・クッキー」の舞台で、その大きな耳をした”ぽむぽむぷりん”のまねをしていたのだ。

 この三者三様の思いを、またあの芥川龍之介の短編小説『藪の中』に、あるいは黒沢明の映画『羅生門』になぞらえて、ストーリーとしてまとめられないものかと、ヒマなじじいの妄想はまたもやいろいろとふくらんでいくのでありました。
 ちなみに、私はこのAKBの上位を争う三人のどの子も、それぞれにいいところがあって、同じようなくらいに好きなのですが・・・。

 ウメジャムの話から、結局はまたAKBの話になってしまい、今では私も、立派なAKB”おたく”の一人になってしまったのかもしれない。
 母が生きていたら、ミャオが生きていたら、ニャンと言うことだろう・・・南無阿弥陀仏、なんまいだーぶ。 


 


雪渓と藪の中

2015-07-06 21:07:01 | Weblog



 7月6日

 もう一週間以上も前のことになるが、前回からの続きである。
 初夏の青空の下、咲き始めているだろう花たちと残雪の山を見るために、私は山に行ってきた。
 層雲峡からロープウエイとリフトを使って六合目まで上がり、そこから登山道を歩いて黒岳(1984m)に登り、なだらかな雲ノ平を通って北鎮岳(2244m)への最後の登りに差しかかったところで、辺り一面がガスに包まれてしまったのだ。

  それでも、下から見上げていた時にも時々雲がかかっていたから、ガスの中ということも覚悟はしていたのだが、むしろ辺りが乳白色に包まれた中を登って行くのは、暑い日差しを避けることにもなって、それほど落胆することでもなかった。
 もっともこれが、初めて登る山だとしたら、その頂上からの眺めが何よりも大切な私にとっては、このガスを恨み悔しがったことだろうが、もう何度も登っている山だし、そこからの展望も知り尽くしているから、さほどあわてることもなかったのだ。
 年寄りの歩みで、やっとのことで北鎮岳頂上に着いた。六合目登山口から休みも入れて4時間10分と、コースタイムよりは1時間も余分にかかっているが、まあ一カ月のブランクがあってのことだから、ここまで来ることができただけでも十分なのだ。
 若いころには、さらにこの先の鋸岳(2142m)を経て、比布岳(ぴっぷだけ、2197m)や安足間岳(あんたろまだけ、2194m)にまで足を伸ばしたものだし、あるいは御鉢(おはち)縦走路に戻って、間宮岳(2185m)に北海岳(2149m)と廻って黒岳に戻り、ぐるりと一周する元気があったのだが・・・と言って今を嘆くよりは、むしろ若いころにそんな遠くにまで行っておいてよかったと思うべきだろう。

 誰もいない頂上にひとり腰を下ろして、雲がとれるのを待った。
 頭上には青空が広がり、上川地方を覆う雲海が遠くにまで続いているのだが、すぐ近くにある旭岳(2290m)や比布岳は時折チラリと見えるだけで、完全に姿を見せることはなかった。
 惜しいかな、大雪の山々の標高があと100mほど高かったら、雲海の上に突き出たこの山の頂から、まるで島のように浮かんだ周りの山々を見ることができただろうにと思ってしまう。
 再び大きな雲の塊が押し寄せてきて、私はそれを機に30分余りいた頂上を後にした。

 ガスに包まれた斜面の所々には、キバナシャクナゲの他に、イワウメ、ミネズオウ、コメバツガザクラなどの小さな花たちが咲いていた。
 下りてきて、なだらかになった登山路のすぐ左手には、一面の雪渓が見えてきた。
 ただ残念なことに、まだガスがかかったままで、雪渓の先の様子が全く見えなくて、降りて行く方向がよく分からない。
 これでは、いきなりここから”尻セード”で滑り降りていくわけにはいかないし、それでも雪面に、かかとからけり込んでザクザクと降りて行くのは、これまた実に気分がいい。
 しかし、次第に勾配が急になってきて、その上に所々表面が凍って固くなった所があって、滑らないようにストックを雪面に差し込んでの三点支持で注意深く降りて行く。

 と、ガスが取れてきて、この雪渓の下に続く前景が見えてきた。方向も大体あっていたしと安心して、早速しゃがみこんで尻セードで滑って行く。
 雪の斜面もあっという間に通り過ぎ、立ち上がると、この雪渓支流末端の所から雪解け水が流れ出している水場の所で、辺りには咲き始めたばかりの色鮮やかなエゾコザクラの群落があった。(写真下)

 

 岩の上に腰を下ろして、ひと時の間、この残雪と青空とエゾコザクラの織り成す光景を楽しんだ。静かだった。
 私は、再び雪の上に立ち上がり、もう尻セードするほどの勾配もない雪面の上を歩いて行った。
 この雪渓はずっと続いていて、先の石室の小屋の下あたりに出ることができるのだが、何しろここはヒグマの通り道として知られていて、目撃例が後を絶たないし、その上もっと雪が多い時ならまだしも、雪渓からハイマツの藪をかき分けて上に出なければならないし、今の時期には高山植物も踏みつけてしまうことになるから、最後までこの雪渓をたどって降りて行くわけにはいかないのだ。
 雪渓上の足跡もすぐの所で、御鉢縦走路に戻っていて、私もその足跡に従った。
 まだまだ続くこの雪渓の先に、凌雲岳(りょううんだけ、2125m)から桂月岳(1938m)、そして黒岳と並んでいた。雲はそれらの山々の頂上辺りにかかったりとれたりしているだけで、午後になっても依然として青空が広がっていた。 (写真下)



 雪渓を利用して、山の登り下りに使うのは、歩きやすい路になって時間が短縮できるし、それ以上に雪面の開けた解放感が素晴らしいからでもあるが、しかし注意しないと、本来の登山道への出入口が分からなくなって、ハイマツやミヤマハンノキの藪につかまって、かえって時間がかかり体力を消耗することにもなる。

 そこで思い出したのは、芥川龍之介の『藪の中』という一編である。
 あの夏目漱石から激賞されるほどの、時代短編小説の名手でもあった彼は、日本の古典や漢文書籍に造詣(ぞうけい)が深く、この短編『藪の中』も、平安時代の『今昔物語』の中の一編をもとに書き上げられたものであり、他にも昔の物語に題材をとった多くの短編を残こしている。
 そして、映画史に残る名作『羅生門』(1950年)は、その『藪の中』の話をもとに、さらにもう一つの短編『羅生門』からの話を少しくわえて(本当は悲惨でおぞましい話なのだが、その部分はカットして)、黒沢明はこの映画を創り上げたのだ。

 私の敬愛する数少ない日本映画の監督の一人である、黒沢明の名作『七人の侍』(1954年)が、日本の映画史のみならず世界の映画史上にも名を残す不朽の名作であることに異論はないが、他にもう一つだけ黒沢の作品を挙げるとすれば、『羅生門』を置いて他にはない。
 ただし映画における、原作『羅生門』から取り入れた最初と最後のシーンが、少しくどくどしく思われなくもないが、ともかく中心になる映画のほとんどを占める原作『藪の中』からのシーンは、ある意味で時代を超えた本来の生々しい人間の性(さが)を見事に描き出している。
 つまり、前後に付け加えられた余分な人情表現とも思える羅生門でのシーンを除けば、というのは世界の名監督黒沢に対して、あまりにも畏(おそ)れ多い不遜(ふそん)な提言ではあるのだろうが、この映画が『藪の中』の部分だけで発表されていれば、間違いなく日本映画の、否世界の映画の中でも、私のベスト3の一つにも入れたいほどの完成度の高い作品になっていただろうにと思うのだ。

 前にもこの映画『羅生門』については、このブログでもたびたび触れたことがあるのだが、原作小説の確かな意匠を、見事に映像として具現化した映画の世界・・・三船敏郎、京マチ子、森雅之の三人の俳優の見事な演技、光と影をきらめくように画面に映し出した宮川和夫のカメラ、橋本忍と黒沢明による今の時代風に書き改められた脚本、あのラヴェルの「ボレロ」に似た単純なリズムを生かした早坂文雄による音楽、そしてそれらをまとめ上げ一編の映画にした黒沢明の驚くべき力量・・・。

 どうも好きな映画の話になると止まらなくなってしまうが、ここで取り上げたかったのは、山の雪渓のそばにあるハイマツなどの藪の話であり、そこから、小説『藪の中』そして、映画『羅生門』へとつながっていったのは、その時に口ずさんでいたAKBの歌から、ふと”ゆきりんスキャンダル事件”のことに思いが及んだからなのだ。
 この事件は、どうやら関係者の間で表ざたにされないように巧みに処理されて、当事者二人も不問のままに結局事件は”スルー”されてしまい、まさにファンたちから見れば、すべてが”藪の中”にあるような感じなのだろうと思ったからでもある。
 そこで考えついたのだが、この小説『藪の中』 あるいは映画『羅生門』になぞらえて、そして題名はあのアメリカ映画『いちご白書』(1970年)をまねて、『アイドル白書』として、映画が一本作れないだろうかと。

 それは、事件が芸能界三面記事的なものであるだけに、下手にのぞき見的な興味本位のことなどは入れずに、あくまでもインタヴューだけの映像で構成する、ドキュメンタリーふうな映画にしたい。
 まず最初に、二人の密会写真を掲載した週刊誌側の意図を聞くことから始まり、そしてそれによって事件を知った”ゆきりんオタ(おたくファン)”たちの様々な反応を取り上げていき、次に両者の事務所、AKB運営側とジャニーズ事務所の対応ぶり、そして本人たち二人へのインタヴュー、最後にはこの写真を撮った人物、あるいはその写真を週刊誌側に売った人物へのインタヴューを、黒い布に囲まれたボックスに座らせて声も変えて録音録画して、画面はそのまま次第に暗くフェードアウトしていって、終わりの文字が出る。

 あるいはこの事件を喜劇的に扱うのなら、最後にそれまでインタヴューを受けた人たちが全員、一人ずつあのアインシュタインのように舌を出した写真を、フラッシュ・バック風に(1988年の『シネマパラダイス』のラストのように)流して終わるという手もある。
 音楽は前編を通して、静かに小さく、あのハッヘルベルの「カノン」のメロディーが繰り返して流れる。
 そして、最後のクレジットロールには、インタヴューを受けてくれた人々や関係者の皆様への感謝の言葉が流れて、最後に監督の名前が・・・鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)・・・あら見てたのねー、お久しぶりね、あなたに会うなんて・・・もう何が何やら、何を書いているのやら。

 ヒマな年寄りが考える、とんだ白日夢のお話でした。
 せっかく、久しぶりに山に登って、残雪に花々の光景を心ゆくまで味わっているというのに、AKBの話なんて、このふとどき者めがと言われそうで、はいすいません。

 さて縦走路に上がって、再び朝たどってきた道を戻って行く。
 同じ道でも、行きと帰りでは見え方が違っていて、あらためて写真を撮り直したりもする。
 今の時期の大雪山といえば、大体は高原温泉登山口からの、緑岳(2020m)から小泉岳(2158m)のなだらかな尾根道を歩くことが多いのだが(’14.6.30,7.8の項参照)、確かにそこは高山植物の種類も数も多いから、たとえば青や紫の花のホソバウルップソウやエゾオヤマノエンドウ、黄色のキバナシオガマ、赤いエゾツツジに白いチョウノスケソウなど、彩(いろど)りも鮮やかで、どうしてもあの花々を見るためにと足が向いてしまうのだ。
 今回は、久しぶりの登山ということもあって無理しないで、すぐに戻れるロープウエイからの道を選んだわけであり、花の種類が少ないのも分かっていたからこの程度でいいとしても、ともかくいたるところで見かけたキバナシャクナゲの群落は、確かに見ごたえのあるものだった。
 そして、他に目を引いたのが、エゾノツガザクラの小さなひと塊りだ。(写真下)



 本州の山では、同種のアオノツガザクラだけしか見られないだけに、この北海道固有のエゾノツガザクラは、お花畑にまた別の鮮やかな色彩りを加えてくれる。
 大雪の山では、他にもこの写真の数倍もあるような、大きな広がりを持ったエゾノツガザクラの群落を見ることもあるのだ。

 雲ノ平の縦走路を戻って行く所で、これからおそらくは御鉢展望台まで行くのだろう老年のご夫婦と、ドイツ語らしい言葉で話していた若い二人の外国人にすれ違った。
 昔はそれほど外国人に会うことはなかったのだが、最近では大雪の山に登るたびに、何人もの外国人と会うことが多く、実に結構なことだと思う。”若いうちに旅をすることはいいことだ”と、年寄りはひとり言するのだった。
 
 さて、もうバテバテの足でやっとのことで黒岳へと登り返しで山頂に着くころには、再び辺りはガスに包まれてしまい、休息もそこそこに山頂から降りて行くことにした。
 まだまだ三々五々に登ってくる人もいるが、何しろ朝にはなかった雪どけのぬかるみがあちこちに増えていて、それだけでも神経を使って疲れてしまう。
 ようやく、登山口のリフト乗り場に戻ってきたが、今日の行程は7時間半ほどで、年寄りにはいっぱいいっぱいの時間だった。
 
 ロープウエイに乗り継ぎ、層雲峡の駐車場に戻ってきたが、これからまだ遠い所にある家まで帰らなければならない(どこかで1泊すればよかったのだが)。
 そこで、いつものようにこの層雲峡の温泉に入ることもなく、さらに久しぶりに会うべく友達の家に寄って行くこともあきらめて、ただ途中の糠平の店で、”あずきアイスキャンディー”2本を買って、それをなめながらやっとのことで、暗くになってしまう前に家に帰り着くことができたのだ。
 というのも、最近歳のせいか夜道が少し見えにくくなったようで、夜にはあまり運転したくないのだ。年寄りは、夜はおとなしく家にいて、AKBの娘たちが歌うのを見ているに限るのだ。

 ところで、最近立て続けにそれぞれの放送局による長時間の歌番組があって、ともかく全部録画しておいて、後でAKBグループの歌っているところだけを編集してまとめ、後々繰り返し見ては楽しむことにしている。
 ワー、キャー、かわいいーと思いつつテレビを見ていると、じじいのくせに、おまえはアホかと言われるのかもしれないが。
 そして、総選挙後の新たな序列による新曲が初披露された。「ハロウィン・ナイト」。
 あきらかに、一昔前に流行って誰もが知っているようなディスコ調のダンス・ナンバーであり、AKBファンよりは一般受けを狙ったような感じで、それなりに悪くはないと思うのだが、やはり秋元康の詩には期待していた分、今回は少し物足りなく思ってしまう。
 ただし、あのゴテゴテしたハロウィンの衣装は、あの名曲「UZA(うざ)」以来のものであり、少女集団のAKBから”おねえさま”集団のAKBに変わったようで、なかなかに見栄えがするし、何よりもセンターに立つ”さしこさま”の女王然とした風格はどうだろう。
 2年前に、初めて1位になり、初センターで歌った「恋するフォーチュンクッキー」の時の、少しおどおどしていた様子と比べると、えらい違いだ。
 ”地位は、人を作る”のたとえ通りに。
 
 ところで、一方では・・・先日、フジテレビの『ザ・ノンフィクション』で”AKB48と日本人、圏外の少女たち”というタイトルで、AKBの中堅メンバーの二人に焦点を当てた、ドキュメンタリー番組が放送されていた。
 私はその後になって、ネットの書き込みでその番組を知ったのだが、何とか見てみたいと思って調べてみるとやはりYouTubeに録画されていて、パソコン画面で見たのだが、いつしか引き込まれて最後には思わず涙してしまうような、普通は見られない視点からAKBの一面をとらえた、なかなかに見事なドキュメンタリーだった。

 今度の総選挙では、再び1位に返り咲いた指原梨乃の喜びの涙はともかく、歌番組などのテレビ出演ができる、メディア選抜と呼ばれる16位までに入ることがメンバーの子たちの夢であり、さらにはその前に80位までが発表されるのだが、それぞれに名前を呼ばれてその総選挙の舞台でスピーチができるだけでも、やっとのことでランクインできた彼女たちにとっては、まさに涙、涙の瞬間なのだ。
 しかし、300名近いAKBグループのメンバーたちの中で、名前を呼ばれるのは80人まで、残りの7割の子たちは、いわゆる”圏外”となって悔し涙にくれるほかはないのだ。
 もっとも、まだ若いうちはまだ次の年があるからと夢を持てるのだろうが、20歳前後になってしまえばAKB内での自分の立ち位置も分かり、将来への大きなジャンプアップなど到底無理なことだと思うようになる。
 まして、この番組で取り上げられていた島田晴香と中村万里子の二人は、AKB9期の同期生であり(同じ同期には”ぱるる”島崎遙香と次期総監督の横山由依といういつも上位にランクされる二人がいる)、彼女たちはたまにはテレビのバラエティー番組にも出ていて、一般にも少しは知られてはいるのだが、総選挙での”圏外”のレッテルは何ともつらいことなのだ。
 思わず彼女が漏らした一言、「私は、アイドルといえるのだろうか」・・・余りにもせつない言葉だ。

 しかし、そんな彼女たちにも、ファンがついているのだ。圏外の彼女たちを、変わらずに”推しメン(メンバー)”にしているいわゆる”オタ(オタク)”たちであり、彼らはなけなしの金をつぎ込んで投票券付きのCDを何枚も買っては、何とか彼女たちをランクインさせるべく努力しているのだ。
 妻と離婚して、ひとりで働いているという40代の男の顔には、自分の決めたものに、ひたすらにかかわり続けていくのだという、むしろある種の潔(いさぎよ)い誇りの表情さえ浮かんでいた。
 一方で、ただ孫娘たちの姿をテレビで見ているだけの、ぐうたらなジジイとの何たる違い。
 それでも言わせてもらえるならば、残り少ない人生の中で、もう今ではできることの配分が決まっていて、AKBだけにそう力を入れることもできないし、他にも山登りをはじめとして、やりたいことがいろいろとあるからであり、AKBだけにそう時間を割くこともできないのだ。
 だから、今の私には、小さな息抜きと安らぎのためにもAKBは必要だし、それくらいでちょうどいいとも思っているのだ。 

 ともかく以上のように、久しぶりに山登りに行ったのに、風呂にも入らずに汗まみれの体で家に戻ったので、さっそくお湯を沸かして頭を洗い体を拭いて、幾らかさっぱりして眠りにつくことはできたのだが。
 しかし、やはり風呂に入り温かいお湯で疲れをほぐし、そこで脚マッサージをすることもなかったので、結果、翌日から、三日間、小さな段差にさえ苦労するほどの、まして階段の上り下りでは声を上げるほどの、ひどい筋肉痛に悩まされることになったのだ。
 ”年寄りの冷や水”にならぬためには、日ごろからの小さな積み重ねの鍛錬(たんれん)が必要なのだが、はたして次の山行へは・・・。

 女子サッカー”なでしこジャパン”・・・戦後間もない日本を描いたジョン・ダワー著作のタイトル、”敗北を抱きしめて”・・・前回のW杯でアメリカ・チームがそうであったように・・・。