ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(80)

2009-09-28 17:56:25 | Weblog



9月28日
 拝啓 ミャオ様

 長い間、天気の良い日が続いていたが、今日は久しぶりに、雨の一日になった。朝の気温は10度で、日中も15度位までしか上がらない。これからは、冬に向かって、少しずつ寒くなっていくのだろう。
 庭の生垣(いけがき)には、一輪の、恐らくは最後の一つだろう、ハマナスの花が咲いている。
 
 昨日は一日中、快晴の空が広がり、秋らしい爽やかな風が吹き渡っていた。山登りには、うってつけの日なのだが、私は日曜日には、どこにも出かけたくはないのだ。
 その少しうら哀しい気持ちを抑えるように、外に出て、しっかりと仕事をした。まず長い間、手入れをしていなかった、林内の仕事だ。わずかな広さの林だが、あちこちへと歩き回るための道がついている。
 その林内の下草は、大体はササだから、ほうっておくとすぐに道をふさいでしまう。少なくとも、年に、二三回のササ刈りが必要だが、それも、一仕事である。
 例えば、私たちが何気なく登っている登山道でも、ササ刈りをされているのを、見かけることがあるが、大変な作業だっただろうと思う。一年でも刈らないでおけば、道の真ん中にでも、ササが芽を出し伸びてくるからだ。
 
 さらに、この林の中には、隣地との境からいつに間にか侵入して、増えてきたセイタカアワダチソウの繁茂する一角があって、それを刈り取らなければならない。繁殖力の強いこの外来種の雑草は、ほうっておくとすぐに2mほどの高さにもなる、一大群落を作ってしまうからだ。
 できれば、その一つ一つを抜いた方が良いのだが、手間がかかるので面倒になり、最後には長いカマで刈り払ってしまう。残念なのは、その時に、せっかく伸びていた、カエデ、ミズナラ、シラカバなどの幼樹も、知らずに切ってしまうことだ。

 この林は、カラマツの植林地だったのだが、今では、その中にあった小さな広葉樹たちを、大切に手入れをしながら育てている。カラマツの新緑や黄葉も悪くはないが、今では、林内にある様々な樹々の、芽吹きや新緑、そして紅葉から落葉への、移り変わりを見るのが私の楽しみになっている。
 できることなら、もっと広い林を買いたかった。そして、なるべく自然な形の、針葉樹と広葉樹の混交林に育てて、後の時代にまで残る小さな森にしたかったのだが、最初から予算に限りのある私には、それでも分相応の、この小さな林で良かったのかもしれない。  


 さて、この二三日で、ササ刈りとセイタカアワダチソウ刈りの仕事を終えた後、次は、去年やその前に切り倒して、皮むき丸太にしていたものを、林内から運び出すという仕事がある。私の背丈より高いか少し低いか位のものだが、重くて転がしたり、チークダンスよろしく抱きかかえたりして、運ばなければならない。
  ああ、この日曜日、世間では愛し合う二人が手をつなぎ、肩を組んで楽しいデートをしているというのに、この私は、汗を流しながら、こんな、ずん胴の丸太を相手に、踊らなければならないのだ。不肖(ふしょう)、私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)は、そんな責め苦にあえぎながら、それがまた、ほんとはイヤでなかったりして・・・、オマエはM(えむ)か!とミャオの声。

 などと思いつつ、何とか、十数本の丸太を、日の当たる壁際に並び立てかけて、一仕事を終える。さらにここでしばらく乾燥させた後、チェンソーで適当に切り分けて、それを斧(おの)で割って、薪(まき)を作るのだ。まあ、今の所、冬場はミャオのいる九州に戻るから。一冬分というわけではないし、まだ楽な方なのだが。

 さて、今日も、汗だらけになった体を洗うために、ゴエモン風呂を沸かさなければ。と、その風呂小屋の方に歩いて行く時に、私は、家の傍に生えているムシトリナデシコの花に、蝶がとまっているのを見た(写真)。この辺りでは、よく見かけるウラギンスジヒョウモンだ。
 別に珍しい蝶ではない。夏の間、日本全国で見られる蝶だ。しかし、9月も終わり、ましてここは北海道だ。その上、この二匹の蝶は、それぞれに、もう羽がボロボロになっている。そんな姿を見て、はじめ私は、何と哀れな姿だろうと思った。

 しかし、その二匹の蝶は、それぞれの破れかけの金魚すくいみたいな羽で、それでもヒラヒラと飛んでは花にとまり、無心に蜜を吸っていた。
 私は、気がついた。そうなのだ。なにも、彼らにとって、今の己の姿は、恥ずべきことでも哀れなことでもないのだ。ただ、己の命のある限り、ひたすらに生きている、というだけのことなのだから。
 自分を卑下(ひげ)することもなく、誰かに哀れみを乞(こ)うこともなく、己の生の本能に従い生きること。それは、本能に生きるだけの彼らが、知性ある人間と比べて、単純であり劣っているからだとはいえない。

 先日、少し触れたことのある(9月8日の項)、あのハイデガーふうな時間の観念を考えれば、この蝶たちは、自分の死を意識しないで、ただ場当たり的に毎日を生きているだけにすぎない、ということになるのかも知れない。
 がしかし、本能としての死を、人間以上に、自然の摂理(せつり)の中で、日々強く意識している彼らが、自分の時間を意識していないとは思えない。むしろ、我々以上に、自己の生と死を強く意識しているからこそ、何としても生き続けたいと思っているのではないのか。
 あの旧約聖書、創世記の神の言葉のように、生き物たちはすべて、神から祝福されて、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」たる存在であるべきだ。ただ、地球環境を破壊し続ける、人間という恐るべき敵である生き物たちを除いて。

 悲しいことに、私でさえも、その人間の一人であるということだ。しかし、同じ生き物のひとつとして、私にもできることは、なるべくこの山の中でひっそりと、だけれどもしっかりと生きていくこと位しかないのだが。ミャオ、オマエも、あの蝶と同じ考えの仲間なのだろう。どう思う・・・。

                        飼い主より 敬具 


飼い主よりミャオへ(79)

2009-09-24 18:43:54 | Weblog

9月24日
 拝啓 ミャオ様

 昨日は、この連休中、一番の天気だった。インターネットのライブ・カメラでも、澄み切った青空の下、大雪の山々がはっきりと見えていた。その広い大雪山をめぐる紅葉の名所では、恐らく人々でにぎわったことだろう。
 私は、この天気を少し残念に思いながらも、家で庭仕事をしていた。時折、あたりの静けさを破って、ミヤマカケスとモズの鳴く声が聞こえた。木々の間から見上げる空は、もう深い秋の色だった。
 
 山に行く時には、誰しもそうであるように、私も、幾つかの小さな決断をする。前々回(9月20日の項)に書いたように、まずどの山に行くのか、初めての山か、それとも前に登ったことのある山にするかなどである。
 昨日のように、最高の天気で、紅葉が盛りの時に、それを見るために、あえて登山者で混雑する山に行くのか。今まで、私は、その山のベストの時期には少しずれたとしても、天気の良い日に(もちろん曇りや雨の日には最初から出かけないのだが)、なるべく混雑しない時を選んで、山に登るようにしてきた。
 そのために、高い確率で、人の少ない、お天気の日の、見たいと思った時期の山々に登ることができた。もちろん、それは私が、大体は、自分の好きな時に山に登れるという、世間から言えば、結構な身分ゆえでもあるのだが。

 かといって、私が、左団扇(ひだりうちわ)のノーテンキな暮らしをしているわけでもない。時には、今かかわっている自分の仕事がイヤになって、もうやめてしまいたくなることもあるのだ。ただ、こうして自由な時間を持てるのは、自分が生きていくうえでの、様々な事柄の優先順位を、人とは違うように決めてしまっているから、というだけのことだ。
 人間、誰にでも、幸不幸があり、それはすべての人に等しく、いつも相半(あいなか)ばして訪れるものなのだと、私は思うようにしている。どんな境遇にあっても、自分だけが幸せなのではなく、自分だけが不幸せなわけでもない。
 特別に自分だけがと、誇り高ぶり、あるいは、なぜに自分だけがと、落ち込み悲しんだところで、世間には、さらに上の人がいて、またもっと悲惨な人がいるものなのだ。そう思えば、いくらか心が落ち着いてくる。
 つまり、そうした考え方というものは、私自身の、今までの、幾つかの極端な喜びや悲しみの経験の中で、いつしか自己防御(ぼうぎょ)本能のように、心のバリヤーとして形作られたものなのかもしれない。
 それは確かに、静かな暮らし、遠い声、を求める年寄り的な考え方かもしれない。もちろん、まだ老け込む歳ではないが、かといって、はしゃぎまわるほど若くない。それでいいじゃないか。今ここに、在(あ)ることが、良いと思っているのなら・・・。
 
 と、いつものくだらない自問自答をしながら、”わたしは今日まで生きてきました。そして明日からも・・・”、とかいう歌のセリフように、日々を繰り返しているだけのことだが。


 さて、前回からの山の話の続きだが、大雪山・銀泉台から黒岳への登山の後、次の日の朝も、快晴の空が広がっていた。ただ、いつもの居心地のよい宿に泊まったために、出発するのが、少し遅くなってしまった。
 国道から、砂利道の林道に入り、登山口に着く。他に車が一台、止まっている。今日は、このユニイシカリ沢から上がって、できれば音更山(1933m)まで往復するつもりだが、天気予報では午後から曇るとのことだった。
  同じコースで、前回、音更山に登ったのは、もう4年前のことになる。同じ秋のことで、一日中、晴れた気持ちの良い日で、誰にも会わなかった。

 沢沿いの道から、川を渡って、山腹に沿ってゆるやかに登って行く。すっかり色づいた林の中の道をたどり、大崩れの岩塊斜面を抜けると、対岸の山腹の斜面の紅葉がきれいだった。後は、ハイマツの中の道を上がって、十石峠(じゅっこくとうげ、1576m)に着く。
 ところが残念なことに、南側から吹き上がってきた雲が、たちまちにあたりの景色を隠してしまった。これでは音更山はおろか、目の前のユニ石狩岳(1756m)にすら登る気にもならない。
 仕方なく、あちこち歩きまわって、周りの紅葉の写真を取っていたが、そのうちにガスが取れてきて、音更山方面が見えてきた。昨日の大雪では、もう盛りを過ぎていたウラシマツツジの紅葉が、ここでは、今が見ごろになっていた。(写真)
 ともかく行けるところまで行ってみることにした。小さなコブの登り下りが続く、ミヤマハンノキやハイマツの尾根道は、次第に見晴らしが開けてきて、道の両側を、ウラシマツツジやクロマメノキが彩(いろど)る快適な尾根歩きになった。
 しかし、相変わらずに南側からの雲が吹き付けては、石狩岳の姿を隠し、ただ音更山の姿が、雲をまとわりつかせながら見えているばかりだった。

 頂上までは、あと1時間半ほどなのだが、とてもこんな天気では、十分な展望は望めないだろう。私は、山頂をあきらめて、途中の高みの所で腰をおろし、雲の間に間に見える山肌の紅葉を見ながら、ゆっくりと時を過ごした。
 誰も来なかった。風の音がして、小さく鳥の声が聞こえていた。白い雲の間には、鮮やかな青空も見えていた。
 音更山には、もう何度か登っている。何も、今日、登る必要はないのだ。それよりも、2週間ほど前に、めまいがして寝ていた時の不安さを思えば、今、私が山に登って、ここにいることだけでも、十分幸せなことなのだ。
 そして、帰りの尾根道を戻って行くと、途中で、遠くから風に乗って、ユニ石狩岳から下りてくるらしい、登山者たちの声と鈴の音が聞こえてきた。そこでまた、見晴らしの良い所で腰を下ろして、しばらくの間、時を過ごした。
 再び、山の静寂が戻ると、私は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。朝と午後では日の差し方も違い、林の木々の色合いもまた違って見える。青空の広がる高い空から、風の音が聞こえていた。

 登山口には、私のクルマがあるだけだった。着替えをして、車に乗り、途中、友達の所に立ち寄ってしばらく話した後、夕暮れの中を走り続けて、夜になって家に帰り着いた。天気は今ひとつだったけれども、連休前の二日間、しっかりと秋の山を楽しむことができたのだ。ありがとう。

 ミャオは、どうしているだろうか。この連休の間は、あんな九州の山の中の道でさえも、いつもとは違って、多くの車が通っただろうが、臆病(おくびょう)なオマエは、昼間は物陰に隠れて、じっとしていたに違いない。それでも、朝夕は、おじさんの所で、エサをもらうために、必死になって走って行ったに違いない。
 ぬくぬくとして、私の傍にいたときと比べれば、何と辛い身の上に変わったことか。許しておくれ。まあ考えてみれば、私とミャオ、二人して、何という因果(いんが)な星の下に生まれたことだろう。それでも、いつかは良いことがあるはず。ミャオ、待ってておくれ。

                         飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(78)

2009-09-22 20:33:19 | Weblog



9月22日
 拝啓 ミャオ様

 昨日の朝の気温は、一桁の5度にまで冷え込んだ。同じ道内の上川では、-1度になり、旭川では、平年よりずっと早く、初霜が降りたそうだ。
 天気は高曇りのまま、時々薄日が差した位で、日中の気温も、15度までしか上がらなかったし、今日も曇り空のままで、13度という肌寒さだ。家は丸太作りで保温性が良いから、すぐにストーヴに火を入れるほどではないが、もうそんな季節になってきたのだ。
 昨日は、午後から外に出て、夕方までの間、恐らく今年は、これで最後になるだろう草刈の仕事をした。しかし、この気温の中、まだヤブ蚊がいて、このメタボおじさんめがけて、集まってくる。フリースを着込んで、長靴をはき、頭には帽子だから、残されているのは顔の部分だけなのに。
 蚊の連中も必死なのだ。寒さが迫り、自分の寿命も後わずかばかりの日数しかないから、何とかその間に、この脂ぎったメタボオヤジから、栄養たっぷりの血を吸い取り、卵を産んで、自分の子孫を残さなければならない。
 かくて、目に頬に、首筋にと、飛びつき、針を刺してくる蚊との、一大攻防戦が繰り広げられる。もしもこの、鬼瓦顔の私の顔面を、蚊の刺すがままにしていたら、あの沖縄の民家の屋根の守り神、シーサー同然の恐ろしい顔になってしまう、ただでさえ恐いのに。
 そうはさせじと、手袋のまま、自分の顔をはたく。いてぇーとか言いながら、いつの間にか、顔には、土や草の色がつき、パプアニューギニア原住民状態になる。
  そこで草刈仕事と並行して、風呂を沸かすことにしたが、しばらく目を離していたから、何度も火が消えかかり、湧き上がるまで2時間もかかってしまった。
  それでも、夕暮れ時に、湯気の上がるゴエモン風呂に体を沈めると、もう今までのことはすべて忘れて、すっかりいい気分になる。つい先日まで、寂しいだの、哀しいだの言っていたのだが、一体それが何になるというのだ。めまいがひどくなり、いつか倒れて、死ぬ時が来るかも知れない、などと心配して、一体それが何になるというのだ。
 この穏やかな温かいお湯に包まれて、今生きている、それだけで十分なのではないのか。この思いは、人が誰でも母の胎内にあった時の、あの温かい母の羊水に包まれていた時の、記憶から来るものだろう。きっと、あの時、胎児であった私は思っていたのに違いない、ボクは今ここにいるのだと、生きていることの心地よさを感じながら。

 私が、その思いに似た安らぎを感じることができるのは、他にもある。それは、自然の中にいる時だ。例えば、誰もいない森の中で、誰もいない山の中で・・・。だから、私は山に登るのだろう。


 前回からの続きだが、5日前のこと、私は、大雪山の銀泉台登山口(1517m)から、まず赤岳(2078m)に登り、次に白雲岳(2230m)へと向かった。
 しかし、小泉岳(2158m)を越える頃から、上空の青空は少なくなり、行く手に見える白雲岳の上には、いっぱいに暗い雲が広がっていて、その一部が山にかかり始めていた。
 そこで、私は予定を変更することにした。ガスに包まれた白雲岳に登っても意味がない。それなら青空がのぞいている、北海岳方面に向かい、黒岳まで行こう、そして層雲峡に下りれば良いのだ。

 その白雲分岐の十字路を右に曲がり、赤石川左股源頭へと降りて行く。夏でも分厚い残雪が残っている所だが、今は灰色の古い雪の上に、新しい白い雪がまだら模様に残っていた。
 そして、ゆるやかに広がる北海平に出る。行きかう人は少なく、一人、二人と会っただけだった。そして、彼方には、雲に包まれながらも、新雪の旭岳(2290m)が見えてきた。しかし、左手の白雲岳の頂き辺りには、やはり雲がまとわりついている。
 コースを変えて良かったのだ。この辺りだけには、時々日が差しているし、まわりのチングルマの紅葉などもきれいだった。
 しかし、北海岳(2149m)の頂上に着いても、ゆっくりとはしていられない。層雲峡から、クルマを停めている、レイクサイトのターミナルまで行く、連絡バスの時間があるからだ。
 ところが、そこから黒岳石室までの道のりの紅葉が、また何度も立ち止まりたいほどに、きれいだった。お鉢(はち)平の源頭へと続く赤石川の谷を隔てて、頂きに5日前の新雪が残る、北鎮(ほくちん)岳(2244m)と凌雲(りょううん)岳(2125m)が並んで見えている。(写真)
 そして、登り返した黒岳(1984m)の頂上は、ガスの中だった。層雲峡側から登ってきた人たちは、何の景色も見えずに、寒そうに肩を寄せ合って座っていた。
 ここでもゆっくりしている暇はない。すぐに、七合目にあるリフト乗り場へと急いだ。昔と比べれば、大分道も整備されて、歩きやすくなったし、人も少なかったから、大またで飛ばし下ることができた。
 30分足らずで着いて、そこからリフト、ロープウェイと乗り継いで、層雲峡駅に降り立つ。しかし、そのレイクサイトに向かう最終バスは、10分前に出たばかりだった。
 バスに乗れば400円ですんだのに、タクシーで行けば、数千円はかかるだろう。よしと心に決めて、ロープウェイの駐車場から出て行く車を、待つことにした。
 しかし殆どが、反対方向の札幌、旭川ナンバーのクルマばかりだ。同じ方向でも、北見ナンバーでは途中で分かれるのでダメだ。私と同じ帯広ナンバーでなければ。そして、見つけた。
 帯広ナンバーで、立派なトヨタ・クラウンだ。黒岳に登ってきただけという、私と同じ世代のご夫婦は、快く、この鬼瓦熊三を乗せてくれた。ああ、ありがたや、にしきごい、ゲットン!
 
 思えば、海外旅行の時を含めて、私は、何度となくヒッチハイクをしてきた。そして、思い返せば、その時々の、様子をはっきりと覚えているのだ。さすがに、そのすべてのドライバーの顔までは思い出せないが。
 人間の記憶は、より強い喜びや悲しみの思い出については、いつでも容易(たやす)く、心のうちに呼び起こせるものなのかもしれない。それは、たいしたことでもない、小さな出来事にすぎないものが、何かの拍子にふと思い出されるのとは違って。
 
 私は、いい気分のまま、自分の車に乗って層雲峡に戻り、温泉に入り、山での汗を流して、それから、なじみの宿に向かった。明日天気が良ければ、もう一つ、どこかの山に行こうと思っていた。
 そして、次の日の朝も、快晴だった。続きは、さらに次回へ・・・。

                           飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(77)

2009-09-20 17:47:54 | Weblog

9月20日
 拝啓 ミャオ様

 少し雲が多いけれども、晴れた天気の日が続いている。 朝は、11度位で、日中も20度までには上がらない。暑くも寒くもなく、何をするにも良い日和(ひより)だ。
 この秋の大型連休の間は、買い物に出る以外は、街にさえ出かけたくはない。ここは人の少ない北海道だけれども、休みの日に混む所は、やはり混むからだ。私は、三日前に、もう紅葉の山は見てきたし、それだから、この穏やかな天気の日が続く間に、色々と家の仕事をやっておこうと思った。

 まず、家の畑の、ジャガイモ(メークイン)の収穫だ。ダンボール箱一杯くらいだが、一人で食べるには十分だ。さらに、キャベツを一個、切り取る。ミニトマトは、今年はあまり良くなかったし、ネギの収穫も終わりだ。
 次に、家の林の中を歩き回って、キノコのラクヨウタケ(ハナイグチ)を五つほど見つける。これは、水につけて虫出しをした後、軽くお湯を通し、カツオ酢醤油につけて、一晩置いて、明日の夜、温かいご飯の上に乗せて食べる。ああ、思っただけで、もうたまらん。

 さらに、今日は、ゴエモン風呂の排水用の栓(せん)を作り変えた。カラマツの木で作った栓だが、さすがに、長い間使っていてボロボロになってきた。直径5cmほどの枝木を、15cmほどの長さに切る。それは、引き抜くときに、握れる長さである。そして先の方を、排水溝の大きさに合わせて、なだらかに削っていく。なるべく、円錐形になるように、細かく作業する。
 そして、その木の栓を被(おお)うように、ポリ袋で二度三度と巻きつける。それを排水溝の穴の部分にあてがい、木槌(きづち)で叩いて打ち込む。それから、その風呂釜に水をいれ、しばらくしても水が漏れていないか確かめる。
 これで、夕方には、カラマツの薪(まき)に火をつけて、1時間ほどかかってお湯を沸かし、やっと風呂に入れるというわけだ。九州の家に居た時と比べれば、不便なばかりの家で、ミャオも傍にはいない。しかし、今の季節の、日ごとに少しずつ寒くなっていく大気の気配と、自然の彩(いろどり)の劇的な変化に出会うために、私は、ここにいるのだ。そしてそのために、早速、山にも行ってきた。

 三日前、快晴の日の朝、まだ薄暗い中、家を出て、2時間ほどかかって、シャトルバス(紅葉期間中はマイカー禁止)のターミナルに着く。駐車場に車は少なく、今の時期、いつもは混み合う大雪山・銀泉台行きのバスも、楽に座れるほどだった。
 銀泉台の登山口(1517m)から歩き出して、20分程で、右手の視界が開けて、銀泉台の上の、第一花園の斜面を流れ下る、幾筋もの紅葉の帯が見えてきた。さらに、少し雲が出ていたが、背景となるニセイカウシュペ山(1879m)から平山(1711m)に続く山並みも、はっきりと見えている(写真)。
 良かった。去年は、久々の不作の年だっただけに心配したけれども、ともかく例年並みの、あでやかさだ。
 この大雪一とも言える、紅葉のパノラマ展望台である銀泉台へ、さらにそれから続く、赤岳や白雲岳への道を、もう何回たどったことになるのだろう。飽きもせずに、毎年毎年、同じような景色なのに。


 山に行くとして、それでは、どの山に登りに行くのか、二通りの選び方があるだろう。つまり、新たなる素晴らしき景観を求めて、まだ登ったことのない初めての山に行く場合と、しかし、そんな未知の山への不安と準備に煩(わずら)わされるくらいなら、むしろ、あのきれいな景色を見ようと、いつも登っている山に行く場合とがあるだろう。

 それは、同じ山ばかり登らずに、知らない山を目指すべきだとかいうことではなく、ただその時々の、山に登る自分の心を反映しているように思えるからである。私にも、こうして同じ山に、繰り返し登る場合と、この夏の白山登山(7月31日、8月2日、4日の項)のように、新しい山を目指す場合があるからだ。
 ただし、秋から、初冬の山登りで、私は、いつも同じような山に登っているということだ。何か新たなるものを、目指さなければと思いつつ・・・。 
 
 さて、その第一花園のウラジロナナカマドの紅葉の間を抜けて、登ってゆく。気がかりなのは、いつのまにか、上空に広がってきた雲だ。次の、第二花園には、遅い雪解けの後に、今頃、エゾコザクラやチングルマの花が咲いていたが、さすがにもう寒さで元気がなかった。
 コマクサ平を過ぎる、行く手の東岳(2067m)、赤岳(2078m)の頂き辺りには、5日ほど前に降った初雪が、まだ点々と残っていた。そして、古い雪が残る第三雪渓の斜面には、今頃になってアオノツガザクラの群落が、一面に花を咲かせていた。
 登り切って、ゆるやかにたどると、赤岳の頂上だ。いつもより人が少なく、10人余りがいるだけだった。待望の展望は、新雪が筋模様になって見えている、旭岳(2290m)の姿が素晴らしいが、湧き上がる周りの雲に隠されそうだった。
 その旭岳の、残雪と紅葉の織り成す姿を見るために、どうしても、白雲岳(2230m)まで行きたかった。私は、ひとり、小泉岳の緩やかな斜面を登っていった。上空の雲が行き来して、道端の紅葉したチングルマを鮮やかに照らし出し、次の瞬間には、あたり一面を暗く沈んだ色に変えていた。

 この続きは次回に・・・。


                       飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(76)

2009-09-16 17:41:35 | Weblog



9月16日
 拝啓 ミャオ様

 昨日の雨も上がり、朝の霧が取れて、青空が広がってきた。朝の気温は13度、九州にいた時と、さほど気温の差はないけれども、空気のすがすがしさは、やはり北海道だと思う。

 ミャオは元気でいるだろうか。二日前のこと、私が朝から、小ザカナを二匹やったら、オマエは私を見上げてニャーと鳴いた。
 今まで、朝からサカナをやったことはないから、頭の良いオマエは、何かを察したのに違いない。食べた後には、朝のトイレや散歩のために外に出て行くのに、オマエはその日に限って、いつも寝ている、押入れの陰においてある座布団の上に、すぐに戻っていった。
 私は、部屋の戸締りなどをした後、オマエを呼んだ。三度目くらいに、ようやくオマエは押入れの陰から出てきて、朝の散歩についてきた。
 しばらく歩いた所で、オマエは座り込んでしまった。それを期に、私は先に家に戻り、部屋の電気を切って、玄関の鍵をかけ、急いで外に出た。オマエのいた所とは、反対の方へ、歩いて20分ほどの所にあるバス停へと向かった。
 空は晴れて、朝の空気もすがすがしかった。しかし、私の心は重く、下を向いて、ただ歩き続けるばかりだった。
 
 そして、北海道の家に戻ってきた。庭には、いつもの、オニユリの花が今を盛りと咲いていた(写真)。去年と比べると、夏場の天候不順のためか、ずっと遅くなっての満開だった(’08.8.19の写真参照)。
 そして、3週間も留守にしたために、周りの草ぐさも、すっかり伸びきっていた。しかし、私は、何もする気が起きなかった。昨日は、昼間、雨が降ったこともあって、ただ、だらだらと一日を過ごしてしまった。
 今まで生活を伴にして、鳴き交し合った仲間がいなくなるということは、どれほど空しい思いになることか。私は、ひとりだと思った。寂しいと思った。ミャオ・・・。


   することもなく、テレビを見ていたら、パワー・リフティング(重量挙げ)の記録を塗り替えているという、おじいさんが映っていた。
 81歳にもなるというのに、顔も若々しく、体の筋肉もすごい。ジムで100キロものバーベルを挙げていて、練習仲間の若い人も、舌を巻いていた。
 定年後になってから、練習を始め、今では高齢者の世界大会でもメダルを取るほどになったとか。これからも、毎年、自分の年齢での記録を作っていきたいと、明るい顔で話していた。


 そういえば、こんなこともあったのだ。二日前の、空港に向かうバスの中、私の前の座席には、一人の小柄なお年寄りが座っていた。私が、座席に腰を下ろして、すぐのこと、私は何気なく、軽い空セキをしたのだが、その人は、何かもぞもぞとしていたが、マスクを取り出して、顔にかけた。
 バスの中は、数人ほどだけだったが、誰もセキなどしていなかった。私は、もちろん、風邪などひてはいなかったが、そこまで用心するお年寄りを見て、少しおかしくなったし、そして、申し訳ない気もした。
 しばらくして、彼は再び体を動かし、カバンから何かの書類を取り出していた。二つ並んだ席の間から、彼の広げた書類が見えた。
 何とそれは、あのヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)のカノンに関する、ドイツ語の文献だった。(カノンとは、簡単に言えば、同じメロディーをずらして演奏する輪唱のようなもので、例えばあのパッヘルベルのカノンなどが有名である。)
 私も昔、少しドイツ語をかじったことがあるとはいえ、とても、一行たりとて、読むなどできないのに、そのお年寄りは、何事もなく、そのコピーらしいドイツ語の原文を読んでいて、次のページには、三声部らしい楽譜が見えてきた。
 そのカノンが、「音楽の捧げもの」や「フーガの技法]の中のものか、あるいは新しく見つかった資料によるものなのかは分からなかった。

 その時、私は、気がついた。彼は、あの有名な鍵盤(けんばん)楽器奏者であり、バッハ研究の権威でもある、A氏だったのだ。(鍵盤楽器とはピアノやチェンバロのこと。)
 とすれば、演奏家でもある彼が、新型インフルエンザにかからないように、日ごろから健康に留意しているのも当然のことなのだ。
 まして、確か70代半ばだと思われるそのA氏が、バッハの音楽の研究に、時間を惜しんで没頭されている姿と比べれば、一方の我が身を省みて、私は、ただ恥じ入るばかりだった。1時間半ものバスの時間の間、私は、ただぼんやりと外の景色を見て、時々居眠りをしていただけだったからだ。
 もちろん、演奏会で二三度、彼の生の演奏を聴いたこともあるし、彼と親しい私の知人を通じても、度々お話をうかがっている人でもある。
 その後で、彼が車内トイレに行くときに、初めてお顔を拝見したのだが、A氏に間違いなかった。
 彼は楽譜を見終わった後、今度はウォークマンを取り出して何かを(恐らくはバッハの音楽を)聞いていた。
 空港が近づいてきて、身支度をされている時に、話しかけようかとも思ったが、彼にとっては、私の話など無益のこと、むしろ、偶然にもバスの中で、彼のバッハの楽譜を読む姿を拝見できただけでも、私にとっては、ありがたい巡り合わせだったのだ。
 
 私はテレビで、あの老齢のパワー・リフターの姿を見て、そういえばと、前の日に出会った、高名な演奏家のたゆまぬ研究の姿を思い出したのだ。
 昨日はさらに、大リーグのイチロー選手が、たゆまざる努力の果てに、9年連続200本安打の、記録を達成した日でもあった。

 それなのに、私は、自分で選んだ、これほど恵まれた環境にいながら、たかが飼い猫と別れたくらいで、すっかり滅入ってしまって、何もする気が起きないなんて・・・ただただ、情けないばかりだ。
 よし、今日は天気も良く、22度まで気温も上がり、家でじっとしているわけにもいかない。部屋の掃除をして、あちこち片付けて、布団なども干して、そろそろ紅葉の山に行く用意もしなければ、やるべきことは、色々と他にもあるのだ。


 ミャオ、いつものことで申し訳ないけれど、どうかまた、あのおじさんの所へ行って、エサをもらうようにして、元気でいてくれ。秋の終わりには、必ず戻るから。


                     飼い主より 敬具  


ワタシはネコである(112)

2009-09-12 17:30:48 | Weblog

9月12日

 雨の降る音が聞こえている。ワタシは、部屋の隅にある、押し入れの座布団の上で寝ている。
 飼い主がこの家に戻ってきてからは、ずっと天気が良くて、ほんの少しだけのにわか雨が降ったことはあったが、こうして降り続く雨は、久しぶりのことだ。
 飼い主が言うには、今朝は18度もあったのに、日中の気温は、雨の中、15度までに下がり、昨日の気温との差は13度もあるとのこと。そして、遠い北海道の山では、もう初雪が降ったそうだ。
 今までは、風通しの良い、ベランダの上で、日陰の所を選んで寝ていたのに、今日は、部屋の中で、丸くなって寝ているのだ。
 ワタシには、暑い夏もキツイが、それ以上に、これから少しずつ気温が下がり、秋からそして、おおブルブル、冬に向かう時期の寒さも、また気がかりではある。そのころは、飼い主がいなくなるからだ。
 もしかしたら、最近、飼い主が、今まで以上にワタシにやさしくなり、朝にも、小魚を一匹くれたりするのは、その前兆かもしれない。何も、朝からサカナをくれなくてもいいし、ワタシに必要以上にやさしくしなくてもいいから、ずっとこのまま、一緒にいてくれさえすれば良いのに。
 と思っても、どうなるわけじゃなし、その時はその時のこと、またおじさんところでエサをもらって、飼い主が帰ってくるのを、待つ他はないのだ。ああ、中途半端な飼いネコはつらいよ。

 
 「ちょうど昨日までには、庭仕事を終わらせていた。植木の刈り込みに、庭の雑草取りをして、伸びきった芝生などを草刈りガマで刈っていき、最後に、切った枝木や枯れ葉などを燃やして、数日かかった仕事が、やっと一件落着したところで、全く久しぶりの、この雨だった。
 その私が、庭仕事をしている間、ミャオも下に降りてきて、私の傍から離れず、すきあらば可愛がってもらおうと、ミャーミャー鳴きかけてきた。
 草刈りガマが危ないからと、ミャオを近寄らせなかったけれど、もうすぐ、北海道へ戻らなければならない私の心境は、複雑な思いだった。
 平年より早く、大雪山の紅葉、初雪、初冠雪の便りが聞かれ、毎年見ている光景とはいえ、その知らせだけで、私の心は浮足立ってしまうのだ。ミャオをひとり残して行くことに、後ろめたさを感じながらも。

 ところで、前回書いためまいで倒れた後のことであるが、幸いにも今のところ、再発はしていない。
 それでも心配だから、いろいろと調べて見た。めまいには、周りのものがぐるぐる回って見える回転性のもの、ふわふわとした感じの浮動性のもの、そして目の前が暗くなり気が遠くなる、といった三種類のものがあって、今回の私の場合のように、急に頭の位置を変えた時などに、回転性のめまいが起きるものは、良性のものである場合が多く、早いうちに治るとのことであった。
 それでも、病院に行って、診察を受けた方が良いのだが、私は、90歳で亡くなったあの母に似て、なるべくならば病院などに行きたくはないのだ。待たされたあげくに、偉い先生から病名のご託宣(たくせん)を受けたひには、それだけでもう寿命が縮まった気がする。
 いざその時には、あの良寛和尚(りょうかんおしょう)のように、『死ぬ時節には、死ぬがよく候(そうろう)』(良寛の山田杜皐宛ての書状より)といった、自分の天命を知れば良いのだとも思っている。
 もっとも、それは、今回の症状が軽く、すぐに回復したから、そんな悠長(ゆうちょう)なことを言っていられるのだ。あの気分が悪くてベッドに寝ていた時は、救急車を呼ばなければとまで考えていたのに、全く、『喉もと過ぎれば熱さを忘れ』のことわざ通り、性懲(しょうこ)りもない男だと、我ながら思うのだ。


 そんな私だから、めまいで寝込んだ次の日まではおとなしくしていたが、もうなんともないことが分かると、その翌日には、さっそく山に登って来たのだ。
 前回、山に登ったのは、もう一月も前になる(8月8日、10日の項)。九州に帰ってきてからも、山に行きたいとは思っていたのだが、それまでの暑さとミャオのことが気になって、なかなかその気にはならなかったのだ。
 夏の九州の山といえば、沢登りしかない。特に、祖母・傾(そぼかたむき)山群や大崩山(おおくえやま)などには、なかなか魅力的な沢が幾つもある。もちろん、私は、大した技術もないし無理もしないから、中級者か初級者用のやさしい沢にしか行かないが、それでも十分楽しめる。
 そんな沢に行きたかったのだが、家から時間もかかるし、めまいで倒れた病後ということもあってあきらめ、家から歩いて行ける、近場のいつも登っている山にしたのだ。
 家から登山口まで車でも行けるのだが、歩いても30分ほどだ。まだ寝ていたミャオを残したまま、日の出前に家を出る。人影の見えない、まだ薄暗い車道を歩いて行く。登るにつれて、快晴の空が次第に明るくなり、朝日に照らされ始めて、周りの山々がくっきりと見えてくる。 
 登山道に入り、朝露に濡れたササをかき分けて、急斜面を登っていく。息に乱れはなく、体は大丈夫だが、何しろ一カ月も間があいたから、足が少し疲れてきた。
 中腹からススキの尾根道になり、谷から吹き上げてきた風が、銀髪のような、ススキの穂をいっせいになびかせる(写真)。快晴の、澄み切った空に、吹き渡る風の音、確かに、もう秋だった。
 家から、2時間ほどで頂上に着き、ゆっくりした後、さらに、しばらくあたりの尾根をさまよい歩き、さらに2時間余りかかって家に戻った。
 誰にも会わない、静かな、初秋の山のハイキングを楽しむことができた。山は、いいよなあ、山は。

 ミャオは、ベランダに出て待っていた。お互いに鳴き交わし、体をなでてやり、新しいミルクに入れ替えてやった。それを、ミャオはピチャピチャと、音を立てて飲んでくれた。

 ミャオ、もう私は北海道に戻らなければならない。またしばしの別れだ。いつものおじさんの所で、エサをもらって、どうか元気でいておくれ。ゴメンね。冬になる前には、必ず帰ってくるから。」


ワタシはネコである(111)

2009-09-08 21:55:39 | Weblog



9月8日

 昼間はまだ暑いけれども、今日あたりから、今までのベタついた夏の空気に代わって、涼しい秋の空気が入ってきたようだ。今朝の気温は、14度まで下がったと、長袖に腕を通しながら、飼い主が言っていた。
 その後、しばらくたって、いつもの朝の散歩に出ようと、ワタシが飼い主を呼びに行ったところ、なんとテレビ・ニュースを見ているはずの飼い主が、自分の部屋のベッドの上で寝ていて、弱々しくワタシに鳴き返した。
 これは、行く気がないのだと察したワタシは、仕方なくベランダに出て、そこで寝て過ごした。

 昼ごろになって、ようやく飼い主の歩きまわる足音がして、何かを食べている音が聞こえ、その後、ベランダにいるワタシの所へやってきた。
 手には、ヘアブラシが握られている。ワタシは甘えた声を出して、ゴロンと横になった。体中をブラッシングしてもらう。小さくニャーと鳴きながら目を細める。特に、首のまわりは、いつまでもやってもらいたいくらいだ。
 飼い主は、ブラッシングを終えて、そのブラシから一握りほどになった毛玉をとって、この毛を集めて、冬用のワタシ用のベスト位は作れそうだなあと言った。
 飼い主に連れられ、自分の毛で織ったベストを着て、東京の高級住宅街を散歩するワタシの姿。それを見て、ご当地の、ヴィトンやシャネルを着た他のお猫様、お犬様方は一体何と思うだろうか、あのクリバン(有名なクリバン・キャットのネコ・カレンダー)ならどう描いてくれるだろうか、と想像して、思わずワタシはおかしくなり、飼い主の顔を見上げて、ニャーと鳴いた。


 「朝食の後、めまいがして、気分が悪くなり、ようやくのことで、隣のベッドのある自分の部屋までたどり着いた。そして数時間、うつらうつらしたりして、そのまま寝ていた。
 頭の中に、様々な病名が浮かんだ。脳炎(のうえん)、脳腫瘍(のうしゅよう)、脳閉塞(のうへいそく)・・・、そして、いざとなれば、救急車を呼ばなければならない、自分で電話できるのか、この家のこと、ミャオのこと、北海道の家のことなどなど。
 さらには、私の周りの死んでいった人たちのこと、自分の今までのこと、彼女たち・・・、うつらうつらと。


 途中で、二三度起きあがろうとしたが、めまいと気持ちの悪さはなおっていない。すぐにまた、ベッドに横になる。昼ごろになって、浅い眠りから目覚めて、ようやく起き上がることができた。
 用心深く、そろりと立ち上がり、ゆっくりと一歩を踏み出す。歩いて行ける。良かった。
 腹が空いていて、買っておいた菓子パンを食べた。これだけ食べることができるから、もう大丈夫だ。


 それにしても、一過性のめまいだとはいえ、こんなことは初めての経験だった。そして、老齢へと向かおうとしている自分のことを思った。
 前回、書いたように、自分のためのレクイエム(鎮魂曲)を用意しなければ、それを枕元で聞けるようにしておかなければ、とさえ考えたのだ。さらに、他人から見れば、まるで私の人生のような、ガラクタばかりにすぎない持ち物の数々も、その日のために、整理処分しておかなければならないと思った。
 人は、死に近づいて、初めて、過去、現在、未来への、自分の持ち時間に気づくことができるのだ。

 若いころ、私は、生意気にも、哲学書の数々に手を出し、いずれも中途半端なまま、読み終えることができなかったのだが、そんな中の一冊に、ハイデガー(1889~1976)の『存在と時間』がある。
 当時流行(はや)っていた、サルトルらの実存主義哲学の、先駆者のひとりであるハイデガーを、まず知ろうと思って読み始めたのだが、とても、たんなる文学思想かぶれの、青二才の手に負えるものではなかった。
 そのまま歳月が流れ、つい二三年前に、『偶然性と運命』(木田元、岩波新書)を読んだ時に、その『存在と時間』の一節が、分かりやすく説明されていた。そのことを、今回、ふと思い出したのだ。


 そこに書いたあったものを、さらに簡単に言えば、・・・人間は、日常的には、自分自身の死から目をそむけ、目の前に毎日現れてくる事に対応しながら生きている。
 そこでは、将来は、いつか来るかもしれない可能性としてあり、次に、すでにあったことは、もはや忘れ去るべき過ぎ去ってしまったものとしてあり、現在は、それだけが、今あるものとして存在し、それぞれの結びつきの中では、現在だけが大きい。
 しかしそれは、自分にとっては、目の前のことに対処するだけの、与えられた時間、世界的に共通する時間に、生きているにすぎない。
 それならば、本来あるべきはずの、自分の時間を生きるにはどうするのか。
 それには、誰にも代わってもらうことのできない、いつか来るはずの自分の死、何の可能性も残されていない、終局の死に至る自己を見つめ、あらかじめ自覚しておいて、その思いを意識して繰り返し、それによって、初めて、本当の自分の時間を知ることができる・・・。

 といったように、自分流に解釈してみた。もちろん、こんなふうに考えることにも、ハイデガーの考え方にも、幾つもの異論があるだろうけれども、まあ、それほど深く考えないで(哲学的ではなくなってしまうが)、人生の考え方の一つだとすれば、納得できないこともない。
 ハイデガーの意図する所からは外れるが、簡単に言えば、人は、死を意識して初めて、今までの、そしてこれからの、自分の持ち時間を知るのだ。
 つまり、そのことが、今回、私がベッドに伏して気がついた、一番大きなことである。そして、そんなふうに私が考えたことは、なにも今回が初めてではない。人は、繰り返し、しょう懲(こ)りもなく、学ぶこともなく、今ある日常が、同じように続くのだろうと漠然(ばくぜん)と思い、自分の時間について、深く考えようともしないのだ。

 少し前に、本屋で『オー・ヘンリー短編集 DVD BOOK』(宝島社 780円、写真)を買った。
 ひとつには、このオー・ヘンリー短編小説集の映画化である、『人生模様』(O・Henry’s Full House 1953年、ヘンリー・ハサウェイ、ハワード・ホークス監督らによるオムニバス映画)をまだ見ていなかったし、本として、それらの短編の幾つかが、英語の原文と、訳文で掲載されていたからでもある。
 というような、一石三鳥のさもしい根性から買ったのであるが、結果として言えば、まあ、それなりのものではあったというところだ。

 まず映画は、小説の映画化として、映像に見合うべく脚本化され、変えられていて、小説ほどの切れ味はない。ただ、チャールズ・ロートン、マリリン・モンロー、リチャード・ウィドマーク、アン・バクスターなどの俳優陣が素晴らしい。
 さらに、驚いたのは、あの『怒りの葡萄(ぶどう)』『赤い仔馬』などで有名なノーベル賞作家の、ジョン・スタインベックが各巻のナレーターとして登場していたことだ。

 次に、ここの翻訳文だが、例えば、新潮文庫の大久保康雄訳の『O・ヘンリ短編集(一~三)』とは比べるべくもない。改めて、その文庫本を取り出して、読みなおしたほどだ。
 そして若いころ、このO・ヘンリ、スタインベック、ヘミングウェイという作家たちの、それぞれの少し肌合いの違う、しかしまぎれもないアメリカの短編小説を、夢中になって読んだことを思い出した。
 そんなO・ヘンリの短編の中から一つ選べば、ヒューマニティとユーモアに溢れる、やはり『警官と讃美歌』ということになるだろうか。そして、これはもちろん、小説で読むべきである。

 そこで考えたのだが、この短編の中の主人公、ソーピーの生きている時間は、その場しのぎの、日常に対処するための与えられた時間に見えて、実はまぎれもなく、主体的な自分の時間だったのではないのだろうか、と。」


ワタシはネコである(110)

2009-09-05 17:50:48 | Weblog



9月5日

 毎日晴れて、暑い日が続いている。ここは、九州の山の中で、最高気温も、28度までくらいしか上がらないが、それでも蒸し暑さが加わるから、北海道の夏に慣れ切った飼い主には、少しこたえるようだ。
 日中は、さすがに外を歩き回るわけにもいかず、家の中でゴロゴロして、例の訳のわからない音楽なんぞを聞いたりしている。
 しかし、外に出ないのは、ワタシも同じで、だから二人して歩く、朝の散歩が大切なのだ。散歩とはいっても、ワタシにとっては、朝の見回り、臭い嗅ぎまわりの、ひと時なのだ。
 そのために、ワタシが立ち止まり、座り込んだりするから、時間はかかるし、なかなか先に進まない時もある。それでも飼い主は、先に行っていても、待っててくれて、お互いに小さく鳴きあいながら近づき、また一緒に歩き出すのだ。
 夕方涼しくなれば、それはまた別の、ワタシの散策の時間になる。ともかく、ワタシたち動物は、病気やケガで動けない以外は、毎日どんなことがあっても、歩き走り回るということだ。
 それは、もちろん、自分の健康を考えてなどという、人間たちのような、姑息(こそく)で利便的な考えからではない。本能がそうさせるだけのことだ。本能だけで行動することを、人間は軽蔑(けいべつ)するけれども、本能にもとづいた行動が必要な時もあるのだ。

 怠惰(だじょう)な時を過ごして、自らの体が膨(ふく)れ上がった人間たちが、それを元に戻そうとして、別なエネルギーを使っている。そのエネルギーや無駄な食料を、我々動物たちのために使えば、絶滅しかかっている、生き物たちの多くが助かるというのに。
 人間たちの、満足することを知らない、全く情けないその姿を見ていると、地球温暖化防止の第一歩は、まず人間ひとりひとりの、肥満化防止にあると思うのだが。そのことは、メタボ気味の、わが飼い主にも言いたい。
 その飼い主が、風呂上がりに、小さな体重計に乗って、『ゲッ、2キロも太ってしまった』と叫び、ワタシに何かを言ったが、バカバカしい、ワタシはシッポを動かしただけで、寝たふりをしていた。


 「9月とはいっても、九州ではまだ夏であり、暑い日が続いている。家の木々の手入れや剪定(せんてい)作業は終わったものの、まだ庭に生い茂る雑草や、刈り込みの仕事は、残したままだ。
 蒸し暑い中での仕事と、うるさい蚊のことを思うと、すぐにはやる気が起こらない。ついつい、家の中にいて、音楽を聴いたり、本を読んだり、テレビを見たりとぐうたらに過ごしてしまう。
 それでも、時には、遠くの町まで食料品の買い出しに行ったり、仕事や用事で出かけたりしなければならない。しかし、そんな時は、また、自分の欲しかったものが買えるチャンスでもある。


 そうして買ったものの、まず一つは、『A SECRET LABYRINTH(秘密の迷宮)』(パウル・ファン・ネーヴェル指揮ウェルガス・アンサンブル 15枚組CDボックス ソニー・ミュージック)であり、これを何と二割引きの6490円で、買ったのだ。ニシキゴイ、ゲットン!
  これは、中世からルネッサンス、バロックの時代にかけての、音楽の演奏で有名な、古楽・声楽アンサンブル、ネーヴェル率(ひき)いるウェルガス・アンサンブル、その彼らの90年代の録音を、集大成したものである。
 13世紀スペインの、ウェルガス写本による音楽に始まり、17世紀のポルトガルのレベーロに至るまでの、有名ではないけれども、音楽史では重要な作曲家たちも取り上げられていて、古楽ファンとしては見逃せない企画ものである。その15枚のうち、すでに持っていたのは1枚だけだし、いつかは聞きたいと思っていたものばかりなのだ。
 まだ、全部は聞き終わっていないけれども、これから何度も繰り返し聞くことになるだろうものも、数点ほどあり、中でも、『Utopia Triumphans(ユートピア、ルネッサンスの勝利)』では、タリス、ジョスカン・デ・プレ、オケゲムなどの、6声部から40声部に至るポリフォニー(独立的多旋律)合唱曲が、見事に歌い上げられており、そのこの世のものとも思えぬほどの歌声は、私のいつかは来る日の、レクイエムの音楽にしたいほどである。


 もう一つは、あのカルロス・クライバーがウィーン・シュタッツオーパを指揮しての、ビゼー(1838~1875)のオペラ『カルメン』のDVD(デアゴスティーニ・ジャパン 990円)である。そしてそれを知ったのは、何と、テレビ・コマーシャルとして流れていたからである(宣伝費が気になる)。
 書店に山積みされていた一つを買って帰り、さっそく見てみた。若き日のカルロス・クライバー(1930~2004)がオーケストラ・ピットに現れ、さっそうとタクトを振り下ろす、もうその姿を見ただけで、私は胸がいっぱいになってしまった。活躍した期間が短く、数少ないレコードやフィルムしか残さずに、その指揮ぶりのように、一陣の風のように去って行ったカルロス・・・。
 この『カルメン』は、やや太めの二人、カルメンのオブラスツォワと、ドン・ホセのドミンゴの歌を聴くというよりは、まさにこのカルロス・クライバーの指揮ぶりと、もうひとつ、あのフランコ・ゼフィレッリ(『ロミオとジュリエット』『ブラザーサン、シスタームーン』)による、舞台を見るだけでも十分なのだ。
 もちろん、このデアゴスティーニ社の特価990円というのも、信じがたい値段だ。今後、価格は1990円に上がるとはいえ、全65巻にも及ぶDVDオペラ全集の、各巻の内容が気になるところだ。
 つまり、比較的新しいオペラは、デジタル、BSテレビで見て(8月14日の項)、古い名作オペラは、こうして安く買って見ることができる、まったく、良い時代になったものだ。

 しかし、そうして家の中ばかりにいても身を持て余す。朝の涼しいうちに、ミャオと出かける散歩は、それだからこそ、私の健康的な気晴らしにもなる。
 毎年気にしている、家の近くの草の斜面に、今年もヒゴタイの花が咲いている(写真)。わずか二株だけど、毎年咲いて私の目を楽しませてくれる。アザミに似たその花の色は、青空にも負けない、爽やかなブルーだ。
 ヒゴタイは、本来、西日本各地の特定の場所だけに咲く、キク科多年草の花だけれども、1m以上にもなる高さが目立って、やたらと採取され、最近は野生のものが見られなくなり、環境省のレッドデータブックの絶滅危惧(きぐ)種にも指定されている。
 久住高原には、ヒゴタイ公園があり、ここでは、8月から9月にかけて、その群生する姿を見ることができる。
 写真の家の近くのヒゴタイは、幸いにも、採取者の目から逃れて、毎年花を咲かせてくれているものであり、これからも難を逃れて咲き続けてくれることを願うばかりだ。
 自然の中、他の草花も生い茂る中、ひとり咲いている花を見つけるのは、嬉しいものだ。ここにも、がんばってひとりでいたのかと、私だけでなく、ミャオだけでもないんだよ、と・・・。」


ワタシはネコである(109)

2009-09-01 21:36:49 | Weblog



9月1日

 すっかり、ワタシは飼い主のいる家のネコになった。飼い主から言えば、つまりは、ミャオのいる家ということなのだろうが。
 朝まで部屋で寝ていて、飼い主の朝食が終わったら(ちなみに、ワタシは朝食は食べない、年寄りネコとしての健康のためだ)、一緒に散歩に出かける。帰ってきたら、飼い主が出してくれたミルクをひとナメして、後は日がな一日、ベランダの風通しのよい日陰で、寝て過ごす。
 そして、日が少し傾いてきたころから、飼い主にニャーニャーと鳴いて、サカナをくれと催促する。大体は、おばあさんがいたころから、一年を通して、5時ということに決まっていたのだが、飼い主は、今では4時半にはサカナを出してくれる。
 それは一つには、いつもワタシを置いて北海道へ行ってしまうことへの、罪滅(つみほろ)ぼしの、意味が込められているのかもしれないが。ともかくこの30分は、ワタシには大きいのだ。
 昼間と比べれば、ずっと涼しくなってきているし、その上にまだ十分に明るいから、ワタシは野生の本能を忘れないようにと、あちこちを歩き回り、夜には、今までエサをくれていたおじさんの所に、ひょっこりと顔を出したりもする。

 そういえば、ある夕方のことだ。ワタシは、物置の裏側の所で、いい具合に一匹のトカゲと出くわした。
 瞬間、ワタシの毛は逆立って、眼の瞳孔(どうこう)はカッと開き、すぐに体を縮め息をひそめて、次の瞬間、飛びかかった。
 しっかりとワタシの前足が、トカゲの体をとらえた。爪先がその獲物の体に食い込む感覚・・・クー、この感じがたまらん。ネコに生まれてきて良かったと思う瞬間だ。さて、どうするか。

 数年前のこと、寒い冬のさ中、二カ月もの間、この山の中でひとりきりで、全くのノラネコとして、暮らしたことがある。飼い主は、ワタシのエサやりを、近くのおばさんに頼んでいたのだが、そのおばさんが年明けに、急に引っ越して行ったのだ。
 ワタシは、悲しいかな、生まれながらの半ノラの性格が災(わざわ)いして、他所の家に行ったり、他の人間にすり寄って行って、食べ物をもらうということができなかったのだ。
 だから、その時は、ワタシは、ただ生きるのに必死だった。食べられるものは何でも食べた。ネズミ、モグラ、トカゲ、バッタ、カタツムリ、ミミズ、そして、たまには運良く、キジバトなどの鳥を仕留めたこともあったのだ(’08.3.9の項、参照)。

 しかし、今は、飼い主にもらった生ザカナを食べたばかりだ。そうだ、飼い主に見せてやろう。
 口にくわえて、一目散に家に入り、テレビを見ていた飼い主に向かって、ミャーオと鳴く。が、獲物をくわえたままだから、声が少しくぐもってしまい、ンミャーゴといった声になる。
 飼い主が、いつもの声と違うとすぐに気づいて、振り返る。ワタシは、獲物のトカゲを口から離して下に置き、ニタリと笑う。
 ところが、おっととと・・・トカゲが逃げ出した。ワタシは慌てて,前足で捕まえようとする。捕まえたと思ったところで、トカゲはソファの裏へと逃げ込んだ。飼い主がすぐに、やってきて、ソファを動かしてくれたが、トカゲはさらに細かい隙間を伝って、ステレオなどの置いてある、サイドボードの裏に入り込んだらしい。
 飼い主がぶつぶつ言いながら、サイドボードの裏を、ほうきで叩いたりしていたが、トカゲは出てこない。万事休すだ。
 飼い主が、文句を言っているのがわかった。ワタシは、ベランダに出て、毛づくろいをした。良かれと思ってしたことが、うまくいかないこともあるのだ。

 ともかく、ワタシは夜も、あちこちと出歩いて、そして帰って来たと飼い主に鳴いて教えて、体を優しくなでてもらい、いつものコタツ布団の上で、おとなしく朝まで寝る。そんな毎日が続いてくれれば、ワタシはそれだけで良いのだ。

 
 「こちらに戻ってきてから、1週間になるが、すっかり、ミャオが家のネコになってくれた。今まで、半ノラでいたことを忘れたみたいに、いつもの家にいるミャオに戻ってくれた。こんないい加減な飼い主に、文句も言わずに、その上、元気でいてくれるミャオには、感謝するばかりだ。

 いつものように、朝、ミャオと一緒に散歩に出て、その道すがら、青草の中に、ただ一本のネジバナが咲いているのを見つけた(写真)。
 別に、取り立てて珍しい、野の花だというわけでもないのだが、その姿を見るたびに、いつも何かを思ってしまう。 

 ネジバナの別名は、モジズリであるが、そこで思い出すのは、あの百人一首にある有名な歌である。
 『陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆへに みだれそめにし我ならなくに』(あの陸奥の信夫もじずり模様のように、我を忘れて思い乱れるようになったのは、いったい誰のせいだろう)
 この歌は、下の句が少し変えられているが、本歌は古今集にある源融(みなもとのとおる、河原左大臣)によるものである。
 それはともかく、この歌にうたわれている、”もぢずり”のことを、長い間、私はネジバナのことを言っているものだと思っていた。身をよじって咲く花の姿が、いかにもその思いにふさわしかったからだ。
 しかし、正しくは、上の訳のように、信夫(しのぶ、福島県信夫郡)地方で作られた、もじずり模様だとされているが、一説には、忍草(しのぶぐさ)で文字を摺(す)った、という解釈もされているとか。(余談だが、昔、信夫山という技巧派の力士がいたが、そのもとになった信夫山は福島市にある。)

 難しい話はともかくとして、ネジバナは、時々道端で見つけては、こんな所にと、嬉しくなる花の一つではある。らせん状に、小さな花が巻き上がって、形づくるその独特な姿。そして薄紅色の、その色合いが、また可憐で素晴らしい。


 誰にもあるように、私も若いころに、幾つかの恋をした。片思いの恋は、ひとり思いつめては、ひたむきに燃え上がるだけのもの。しかし、いつか思いが叶(かな)い、結ばれる恋のその先には、いつも身をよじるような、抜き差しならぬ思いの時が待っていた。その思いは、私からだったのか、いやそれ以上に、彼女の方からだったのかもしれない。
 今は今だから、後悔はしないけれども、もう少しわかってあげていればと、若い日の自分を、ただ悲しく思うだけだ。

   ・・・・・・
   日が去り 月がゆき
    過ぎた時も 昔の恋も 二度とまた帰ってこない
   ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
   日も暮れよ 鐘も鳴れ
   月日は流れ わたしは残る 

  (堀口大学訳『アポリネール詩集』より)


 私、不肖(ふしょう)、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)、ひとり秋の虫の鳴く音を聞きながら、がらにもなく物思いにふけり、いつしか、あのハスキーな声の、ドリス・デイが歌うセンチメンタル・ジャーニーが、耳の奥に聞こえてまいりました、はい。