ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(137)

2010-02-27 18:26:32 | Weblog


2月27日

 その後、天気は悪かったが、相変わらずの暖かい日が続き、ワタシは外に出ていることが多くなった。それは、この冬の間中ずっと部屋の中にいて、いやでも見る他はなかった、あの鬼瓦顔の飼い主の、全く面白くもない仏頂面(ぶっちょうづら)からの、ひと時の開放をも意味していたのだ。

 もう寒くもない、何ともいえない春の暖かさの中で、外にいるのはいいものだ。雨上がりだと、余計に、土の香りや草花の香りがして、特にあちこちで咲き始めた梅の香りほど、ワタシに春を感じさせてくれるものはないのだ。

 そういえば、飼い主がいつか言っていたことを思い出した。その昔、菅原道真(すがわらのみちざね)とかいう偉い人がいたそうだが、政争にからみ人にねたまれ、都から遠いこの九州へと、島流し同然の、配置換えにさせられて、そこで春を迎えて、都への望郷の念に駆られて読んだのが、あの有名な、『東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ』の歌だそうだ。

 昔の人は、今の人間たちと比べて、ずっとえらいと思う。より自然に対して敏感であり、香りや色に細やかに反応し、風の音や鳥の声を聴き、月や星の輝きを讃え、そして夜の闇の深さをよく知っていた。まるで、ワタシたちのように。
 人間が人間であったころ、ネコがネコであったころ・・・。

 なのに、飼い主といえば、今、ダラーっと横になって、尻かなんかかきながら、テレビに向かって、ニターっと笑っている。気持ちわるいー。ああ、あんな人間にはなりたくない。 


 「前回のロッシーニのオペラ『ランスへの旅』についての話しからは、少し外れることになるが、関連のあるバロック・オペラについて、それは、25日のNHK・BSHi (2月18日の再放送)で放送された”クラッシック倶楽部”『ヘンデル・オペラの名アリア・コンサート』であるが、是非ここでふれておきたい。
  この番組は、去年の11月、東京・小石川のトッパンホール(客席数408)での、演奏会を1時間足らずにまとめたものである。しかし、非常に興味深く、また楽しんで見ることができた。

 これもまた、録画しておいたものを、他に見るべき番組もない夜に、一昨日に見たのだ。つまり私は、テレビ画面の1週間分の番組表の中から、いつも、面白そうなものを録画予約しておくのだが、その中の一本だった。
 今月は、先にあげたオペラ番組やアカデミー賞の映画、さらには山中貞夫の代表的映画3作品など、チェックするべきものが多くて、まだそれらの大部分は見ていないのだが、この『ヘンデル・アリア・コンサート』だけは、時間も短いし、すぐにその夜に見てしまったのである。

 チェコの世界遺産都市、チェスキー・クルムロフのバロックオペラ劇場のメンバーによる演奏で、ソプラノのヤナ・コウツカとメゾ・ソプラノのヴェロニカ・コチコヴァの二人の女性歌手の他に、チェンバロと指揮のオンゼイ・マツェクと、チェロの他に、日本人のヴァイオリンやコントラバスなどの奏者が4人加わるという編成である。
 舞台には、長椅子とテーブルなどが置かれただけの、簡素なものであるが、そこに二人の歌手が、当時の衣装のいでたちで現れる。特にメゾ・ソプラノの方は、男役ということもあってか、独特な化粧を施している(あの映画『カストラート』の歌手たちをほうふつとさせる姿で)。そして、二人は大げさな演技ではなく、上品さを心がけた身ぶりだけで、バロック楽器の伴奏に乗って歌うのである(写真)。
 舞台照明は、当時はローソクの光だけで照らし出されていたように、舞台前からの光(フット・ライト)を当てて、その雰囲気を出そうとしていた。

 ただでさえ、バロック・オペラが好きな私には、たまらない1時間だった。家のミャオが、大好物の魚のコアジを食べている時のように、私はその間、じっと画面を見続けていたのだ。終わってから、あーあ、ごちそうさまと、そう言いたくなる舞台ではあった。
 すっかり、田舎に引っ込んでしまった私には、もう東京での生の舞台を見ることなど、むずかしくなってしまったのだが、それだけに、この鮮やかなハイビジョンの画面で見せてもらえるオペラの舞台には、ただ感謝するばかりである。
 いろいろと、日々に便利になる科学・文化の発達に対し、田舎からの自然に即した視点で、あれこれ文句をつけた所で、その一方で、こうした文明の利器の恩恵にも浴しているわけであり、まあ哀しい人間の性(さが)ではあるのだが。

 ところで、そうしてテレビで見た、コンサート形式の簡素なバロックオペラの舞台は、思わず引き込まれるほどに良かった。しかし、惜しむらくは、歌手たちの力量が今一つ、ではあったのだが。
 特に、ソプラノの歌う『クセルクセス(セルセ)』からの『オンブラ・マイ・フ(なつかしい木陰)』や、『リナルド』からの『LASCIA CH’IO PIANGA(涙の流れるままに)』などは、有名でよく知られている曲だけに、どうしても今まで聴いた歌手たちの声を思い出してしまうのだ。
 メゾの歌手の声量が大きくないのは、小さなバロック・オペラの会場を考えてか、あるいはソプラノとの釣り合いを考えてなのかもしれないが、装飾音技法は、もう少し洗練されていればと思う。
 とは言っても、二人の二重唱の場面などは、雰囲気にも合って、なかなかに良かった。

 私は今までに、このヘンデル(1685~1759)のオペラ・アリアや、コンサート・アリア集と書かれたタイトルだけにひかれて、何枚ものCDを買ってきた。しかしたまには、よく知らない歌手たちのものも買ったりして、後になって後悔したこともある。
 それらのCD中での、私にとっての大切な三点がある。

 (1)『ヘンデル イタリアン・カンタータ (エマ・カークビー、ホグウッド指揮エンシェント室内O.1985年 ポリドール、3500円)』 (レコードの時代からCDに変わりつつあるころ、まだ高くてなかなか手が出なかった頃、それでもオアゾリール・レーベルの看板スター同士の組み合わせで、思わず買ってしまった。やはり全盛期のカークビーは天使の歌声だ。)
 (2)『九つのドイツ・アリア集(クリスティーナ・ヘグマン、イ・クワトロ・テンペラメンティ、1988年、BIS、980円)』 (売れ残った輸入盤のかごの中にあり、安いので買ったのだが、何とこれが、ヘンデルの一枚といえばこれしかないというほどの、私の愛聴盤になろうとは。
 さらに、北海道の富良野の近くにある宿に、大雪山への山登りのたびによく泊まりに行っていたのだが、その宿の御夫婦が、そろって生演奏でピアノも弾いてくれるほどのクラッシク音楽演奏家であり、何とこの同じCDを持っていたのだ。その上、ある声楽家の方がこの宿にきて、ヴァイオリン伴奏つきで、このヘンデルのアリアを歌ったのだとか。ああ、聴きたかった。)
 (3)『ARIE E DUETT D’AMORE (愛のアリアと二重唱、サンドリーヌ・ピオー、ビオンディ指揮ヨーロッパ・ガランテ、1996年、Opus、2150円)』 (上記のコンサートでも歌われていた有名曲『リナルド』からの『LASCIA CH’IO PIANGA(涙の流れるままに)』が素晴らしい。他にも様々な歌手で聞いてきたが、テンポといい少しメゾがかったピオーのソプラノの声といい、私にとってのヘンデルの一曲といえば、これをおいて他にない。)

 というふうに、私は今まで、ヘンデルの有名なアリアを主にCDで聴いてきたのだが、それらを承知の上でも、やはりこのテレビで見たヘンデルのアリア・コンサ-トは、舞台での臨場感が加わって、素晴らしかったのだ。
 私とて、そんな生の舞台でのバロオク・オペラを見てみたいと思うのだが、かなわぬ夢でもある。
 若き日のヨーロッパへの長い旅の間に、何本ものいろいろなオペラを見たのだが、当時は、バロック音楽の古楽演奏がようやく脚光を浴び始めたばかりのころで、その時には、モーツァルト以前のバロック・オペラに接することはなかったのだ(アリアの幾つかを聴くことはあったが。)。
 いや、それだからこそ、今こうして、田舎の片隅に住んでいても、居ながらにして、テレビでオペラを楽しむことができるのだから、むしろ喜ぶべきなのかもしれない。もちろんそれは、画集で見る絵と、本物の絵を見るくらいの大きな違いがあるのだろうが、私は、批評家でもないし、オペラについて話し合う相手もいないから、それで十分だ。私の、ひそやかな趣味の一つとして、楽しむことができれば良いのだから。

 バロック・オペラについては、去年’09年の8月14日の項でも、テレビで見た『聖アレッシオ』のことを書いたけれども、確かに当初、主に貴族階級のものでしかなかったバロック・オペラは、その後、一般大衆を含めた商業オペラへと向かい、モーツァルト(1756~1791)やロッシーニ(1792~1868)のオペラ・ブッファにその名残をとどめて、やがて、市民社会による変革の時代とともに衰退していくようになる。
 以後イタリア・オペラは、オペラ・セリアの伝統を受け継いだドニゼッティやベッリーニから、ロマン派の一時代を画したヴェルディ(1813~1901、『椿姫』『アイーダ』)へと、さらにヴェリズモ(自然主義的な)・オペラと呼ばれるマスカーニやレオンカヴァッロ、プッチーニ(1858~1924、『ラ・ボエーム』『トスカ』)などの時代を迎えていく。
 一方ドイツでは、民族的な高揚感を伴ったオペラを、楽劇という名のもとに作り上げたワーグナー(1813~1883、『ニーベルングの指輪』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』)がいて、さらにR・シュトラウス(1864~1949、『サロメ』『ばらの騎士』1月3日の項)が、ロマン派の最後の輝きを見せた。『カルメン』で有名なビゼーのフランスはもとより、イギリス、ロシア東欧などのそれぞれの国でも、その国に根差したオペラが生まれていて、そして現代のオペラへとつながっている。

 こうして見てくると、オペラの世界は限りになく広いし、私はそのオペラ大陸の中の、幾つかを垣間見(かいまみ)ているにすぎないが、その中でも、この古めかしいバロック・オペラに、何かひかれるものを感じてしまうのだ。

 その始まりは、ひまを持て余す貴族たちへの、いにしえの時代を題材にした(つまりは、今の時代をあえて直接的に描こうとはしなかったともいえるが)、歌芝居でしかなかったオペラだが、それゆえに、後の時代の個人の感情をむき出しにして泣き叫ぶオペラと比べれば、慎み深く、優雅な立ち居振る舞いを優先した、そのスタイルにひかれるからでもある。
 (もちろん、時代のその裏に、貴族階級の下で貧困にあえぐ一般庶民がいたことを、十分に承知していても。つまり、どの時代でも、そのすべてを見て、公平に評価することなどできないし、歴史とよばれるものは、いつも、その時の一部の流れでしかないからだ。)

 と、ここまで書いてきて、なんだか自分の好きなものへの、言い訳のような気もしてきた。人間はそれぞれに、好きなもの嫌いなものが、不可思議に入り混じって、その人の性格を形づくり、またとないその人だけの個性になっているわけだから、くどくどと説明するべきではないのかもしれない。
 つまり、それは、ミャオが、イワシやサンマなどだけではなく、シャケやタイさえも食べずに、小さなアジしか食べないのと同じことで(マグロは食べるけれど高いからやれないのだが)、私が、バロック・オペラにひかれるというのも、ひょっとして・・・。」


 (参考文献は前回に同じ。)


ワタシはネコである(136)

2010-02-24 17:54:27 | Weblog


2月24日


 すっかり、春の陽気になった。昼間、ベランダで横になって寝ているには、もう日差しが暑すぎて、すぐに日陰へと逃げるくらいだ。飼い主と散歩に出て、先に帰られても、気にはならなくなった。しばらくは、のんびりと辺りの木陰などで寝ていて、サカナの時間の前になって帰ればいいのだから。
 そのサカナを食べた後は、夕暮れから夜にかけて、まだ生暖かい空気の残る外にいる。そして、他のネコや、動物たちが動き回るのに目を光らせる。その警戒と見回りの時が過ぎたら、ニャーと鳴いて、馬鹿面(ばかづら)下げてだらしなくテレビを見ている、飼い主のいる部屋に行き、コタツの傍で横になる。
 飼い主がワタシをなでてくれる。ニャーと小さく鳴きながら、まぶたが閉じていく。
 こうして、天気の良い春の一日は、過ぎていくのだ。ネコがネコであること。


 「春の盛りの頃の気温である。昨日は16度、今日は何と18度までも上がる。
 4日前の、あの山の樹氷群もすっかり溶けてしまっていることだろう。この冬の九州では、結局わずか3回しか、雪の山に登れなかったけれど、思い返せば、それでも十分に、それなりの雪の景観を見ることができたというべきだろう。こうした年ごとの季節のめぐり逢いには、いつものことながら感謝したい気持ちになる。
 時はただ、一年また一年と、過ぎていくものだから。

 そうした、年ごとの、季節ごとの、そして毎日の、小さな、あるいは思いがけない大きな喜びに出会うために、私は生きていくのだろう、たとえつらいことがあったとしても。余計なことは考えずに、ミャオから教えられたように、ただ生きるという本能の導くままに、ひたすらに年を重ねていけば良いのだ。

 そんな小さな出会いの、喜びの一つが、2月6日、NHK・BSで放送されたロッシーニのオペラ『ランスへの旅』である。ひとことで言えば、「楽しいオペラを見せてもらって、ありがとう。」ということに尽きるのだが、その他にもいろいろと考えさせられることがあったのだ。

 この2月のNHK・BSの番組表には、オペラ・ファンにとっては、実に魅力的なオペラの名前の数々が並んでいた。まず、2月1日から5日にかけて、この数年、毎年放映されて楽しませてもらっているが、あのニューヨークのメトロポリタン劇場公演のオペラ、『サロメ』(R・シュトラウス)、『タイス』(マスネ)、『つばめ』(プッチーニ)などが放映され、さらにその後、2月6日から一週間ごとに、オペラの本場といわれるミラノ・スカラ座による、この『ランスへの旅』(ロッシーニ)をはじめとして、『ドン・カルロ』(ヴェルディ)、『アイーダ』(ヴェルディ)というラインアップで放送されたのだ。
 その中の幾つかを録画して見たのだが、すっかり劇場の生オペラを見ることから遠ざかっている私にすれば、それぞれに、面白く見ることができた。ただし、その中で一つ上げれば、やはり、今まで劇場でも、映像でも見ることのなかったこのロッシーニの『ランスへの旅』である。

 時代が、レコードからCDへと移り変わろうとするころ、私がそれまで集めたレコードを横目で見ながら、しぶしぶCDを買い始めたころ、再発見されて初録音された、このロッシーニの『ランスへの旅』が話題になっていた。
 それほど熱心なオペラ・ファンでもない私だったが、あのクラウディオ・アバド指揮による、豪華キャストのロッシーニ・オペラ(1984年録音)ということで、当時、2枚組で7000円もした国内発売CDを、大枚を払って購入したのだ。輸入盤ならもっと安かったのだが、やはり知らないオペラということで、日本語の対訳解説本が欲しかったからだ。

 それは、映像がなくても(それまで殆どのオペラはそうして聴いてきたのだが)、十分にそのロッシーニ・オペラを楽しむことができた。ともかく十何人もの名うての歌手たちが素晴らしかった。
 セシリア・ガスディア、ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニ、レラ・クーベッリ、カーティア・リッチャレッリの女声陣と、ヒメネス、アライサ、ラミー、ライモンディ、ダーラ、ヌッチ等の男声陣他・・・ああ、これだけの豪華スターたちの舞台を一度見たかった。(このオールスター・キャストは、2月18日の項で取り上げた映画『オリエント急行殺人事件』の場合と同じことで、それだけでも価値があるのだ。)
 すべての歌手がそれぞれに素晴らしいのだが、中でも当時評判のルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニ(メゾ・ソプラノ)の、まさに超絶技巧的コロラトゥーラ(高音域の装飾音を歌いこなす技法、歌手)には、すっかりまいってしまった。その後も、彼女がタイトル・ロール(題名と同じ役)の同じロッシーニのオペラ『アルジェのイタリア女』(CBS輸入盤、2枚組、4700円)のCDも買ってしまったほどだ(悲しいことに彼女は、その後白血病で亡くなってしまった。1946~1998)。

 しかし、いつしかそのCDを聴かなくなって、棚の奥にしまいこんだままだったのだが、今回このオペラを映像で見て、改めて、そのCDのほこりを払い落しながら聴いてみた。それは、やはり当時の私の興奮がわかるほどの、見事な歌手たちの歌声だった。
 このアバド指揮による『ランスへの旅』は、1992年、さらにパワーアップされて、オーケストラがベルリン・フィル(前回はヨーロッパ室内管弦楽団)になり、あの豪華キャストも一部がステューダー、マクネイアーなどに変わっただけで、公演録画され、映像としても、その演奏会形式で残されているとのことである。


 と、ここまで書いてくれば、今回のミラノ・スカラ座による公演が、アバド指揮によるものと比べれば、明らかに見劣りするように思えるのだが、私は、この録画した2時間45分ものオペラを、一気に(途中で休んだが)見てしまった。いろいろと考えさせられて、面白かったのである。

 17世紀初頭の時代に、ギリシア神話のオルフェオとエウリディーチェの物語に基づいて書かれた、モンテヴェルディ(1567~1643)の『オルフェオ』によって、その幕開けを告げたバロック・オペラは、そのバロック時代後期に至って爛熟(らんじゅく)期を迎えて、カストラート(声変わり前の少年期の声を去勢することによって残した男性ソプラノ)歌手たちによる、ファルセットの声を交えた装飾歌唱、いわゆる技巧をこらす歌い方がもてはやされるようになった(1994年の映画『カストラート』に描かれていた)が、やがてその非人道的に作りだされていたカストラート歌手たちの衰退とともに、オペラは、本来の歌劇への道を歩んでいく。
 それまでの、主に悲劇的な題材を扱ったいわゆるオペラ・セリアの他に、ペルゴレージ(1710~1736)の『奥様女中』のような、楽しい喜劇的な題材を扱ったオペラ・ブッファも作られるようになった。その流れの中で、モーツァルト(1756~1791)は『フィガロの結婚』『魔笛』『ドン・ジョヴァンニ』等を作曲している。
 そして、奇しくもモーツァルトが亡くなった次の年に生まれ、あのベートーヴェンの後の時代の作曲家でもある、ロッシーニ(1792~1868)は、そのオペラ・ブッファの伝統を受け継ぐ、最大の作曲家であり、最後の一人でもあったのだ(他にも『セビリアの理髪師』『チェネントラ(シンデレラ)』『湖上の美人』など)。(『君は、オペラ・ブッファだけを作曲しなさい』とベートーベンにいわれたそうだが。)

 そのバロック時代からのオペラ・ブッファの楽しさと、歌手たちの歌唱技巧を楽しむには、二重唱どころか、六重唱、十四重唱(写真)までもある、このロッシーニの『ランスへの旅』こそが最もふさわしいと思われる。オペラがオペラであったころ。
 まして今回は、映像によってではあるが、舞台を見てこその、オペラの楽しさ(細かいユーモアに富んだ演技など)を、十分に味わうことができたからだ。
 オペラに詳しくない私には、確かに、パトリツィア・チオーフィ(コリンナ役)、ダニエラ・バルチェローナ(メリーベア役)、カルメラ・レミージョ(コルテーゼ夫人役)くらいしか名前を知らないし、オッタビオ・タントーネという指揮者も初めて聴く名前だった。
 明らかに、アバド指揮のものと比べれば、それほどとは思えないキャストなのに、舞台の楽しさを、映像として見ることができて、それも国際共同制作によるNHKハイビジョンの素晴らしい画像で見ることができて、その臨場感に引き込まれたこともあるのだが。

 ストーリーは、他のオペラ・ブッファがそうであるように、大した話ではない。フランス北部のランスの寺院でとり行われる、シャルル10世の戴冠式に参列するために、ヨーロッパ各国から集まった貴族たちが、最後の旅の中継宿泊地である宿で、恋のさや当てや自慢話などをしていて、翌日、出発というところで、肝心の馬車の用意ができなくなり落胆していたが、パリでも式典が行われるという知らせが入り、定期便馬車のあるパリに行こうと、宿は一同の祝賀パーティー会場になるのだ。

 実は、この楽しいオペラの他愛もない話の中に、私にとっては考えさせらる事が幾つかあったのである。話が長くなるので、続きは次回に。」

参考文献 : 『ランスへの旅』(ポリドール、解説本 石井宏他)、『名曲大辞典』(音楽の友社)、『バロック音楽』(講談社現代新書、皆川達夫)、『クラシック 最新の名演名盤』(講談社文庫、諸石幸生)、インターネット上のウィキペディア他。 


ワタシはネコである(135)

2010-02-21 19:30:53 | Weblog



2月21日

 一日中、雲ひとつなく晴れていて、暖かい日だった。
 午前中、飼い主と一緒に、散歩に出かけたのだが、途中の道に出た所で、突然クルマが走ってきて、ワタシは一目散に逃げ出した。
 日頃は年寄りネコだから、ゆったりと動いたりしているが、いざという時には、やはり、同じ仲間であるトラやヒョウのように敏捷(びんしょう)な身のこなしの本能が、ワタシを突き動かすのだ。枯れたりといえども、そこは、本来のノラ魂、周りには危険なものがあり、いつも注意しなければという気持ちを、しっかりと体が覚えているのだ。
 クルマが行ってしまった後も、ワタシは物陰に隠れていた。そして、それ以上、先に行きたがらないワタシを見て、飼い主はよしよしと言いながら、体をなでてくれた。そのまま、そこから引き返して、一緒に家に戻って来た。
 飼い主の洗濯物が干されているベランダには、春の日差しがいっぱいにあふれていた。そこで、ワタシは日がな一日を過ごした。

 そういえば、昨日のことだ。今日と同じように、晴れて良い天気だった。朝、飼い主は寝ていたワタシを横目で見て、ストーヴを消して、ひとりで出て行った。
 午後になって、戻ってきて、ワタシがニャーと鳴いて出迎え、飼い主の顔を見上げると、またあの季節外れの赤鼻のトナカイ状態だった。山登りに行ってきたのだな。まあ、他に大した趣味もない、バカな飼い主だから、山登りくらいはいいが、ともかく、ちゃんとワタシのサカナの時間を忘れずに、帰ってきさえすればいいのだ。
 それにしても、飼い主が出かけて、いない間は、いつももう帰ってこないのではないかと、気が気ではない。昔のように、あのやさしかったおばあさんでもいてくれたら、そんな心配もせずに済むのだが。やれやれ。


 「ようやく、良い天気になってくれた。今朝はー5度と冷え込んだが、日中は12度までも上がり、春の陽気だった。昨日も晴れていたのだが、まだ少し冷たい風も残っていた。
 しかし、その前の日には2cmほどの雪が積り、日向(ひなた)ではその日のうちに溶けていたが、山々の上には雲がかかっていたから、恐らく山に積もった雪は、次の日まではまだもつだろうと思った。
 昨日の朝、山々には少し雲がかかっていた。しかし、高気圧がやってきていて、天気予報も晴れマークだ。そして、この後の一週間は、気温が上がり、晴れて春のような陽気になるとのことだ。土曜日で人が多いけれど、この日に、山に行くしかない。
 思えば、前回、山に行った時(1月18日の項)も、土曜日だった。できれば、土日は避けて、静かな登山をしたいのだが。ようやく登山日和の天気になったけれど、それが休日では、余り喜んでもいられない。

 しかし、普通の会社勤めの人たちにとっては、休みの日に天気が良くなって、どれほどありがたいことだろう、高速料金も割引の日だし。つまり、物事には、いつも利害関係のある、様々な人々の思惑が入り混じっているものなのだ。
 この場合、私のような思いでいる人は、ほんのわずかだろうから、世の中の結論としては、良い天気の休日になって、喜んだ人々が殆どだろう。

 しかしものによっては、その比率が、五分五分、あるいは四分六分と拮抗(きっこう)する場合もあるし、さらには、1:2:3:4などと、意見が多岐に分かれる場合もある。
 そうした場合、少数の人たちの意見までしっかり聴いて、物事の有り様に反映させるべきなのか、あるいは物事の処理を迅速(じんそく)にするために、多数決の論理によるのか、あるいは、たったひとりの意見でも、力のある絶対者が決めてしまう方が良いのか。

 人間の歴史の中では、大まかにいえば、それはたったひとりの絶対者から、寡占(かせん)の代表者たち、さらにすべての人による多数決へ、そして小さな意見でも切り捨てにしないという方向に、漸次(ぜんじ)推移してきているように思える。地域的な差は、いつの時代にでも、どこにでも見られるとしても。
 そして、このことは、物事を見る視点として、極めて大事なことでもある。例えば、難しい哲学的なものの考え方でさえ、その第一歩の視点が、我々の思いと同じ所にあれば理解可能なのだが、またそれゆえに、それ以外の小さな視点には無頓着だったりもするということだ。
 つまりそれは、小さなことでもおろそかにしないということが、すべて社会の進歩であり、良いことなのだろうかという、逆な思いを産むことにもなるのだ。

 なぜ今回、こんなことを話題にしたかというと、昨日登った登山道に、余りにもあちこちに、多いところでは20mくらいの間隔で、木の幹や枝に、鮮やかな赤いビニール・テープが巻き付けられていたからである。
 それを、道に迷わずにすむ、ありがたい目印だととるか、景観破壊や環境破壊だととるか、さらにどうでもよいことで、何とも思わないかであるが・・・。

 さてその日は、実に一カ月ぶりに山登りだったが、というのは今年は暖冬で、雪の日が少なく、さらに雪が積もった次の日の天気も良くなかったからである。九州の冬山を楽しむには、雪の降った翌日に登るしかないのだから、とうとうこんなに長く、登山の間隔が伸びてしまったのだ。
 それは、私にとって、山に行きたいという思いの精神的な意味からも、定期的な運動という健康的な意味からも、決して良いことではなかった。(そのために、軽めの登山にしたのに、今、私の脚は、筋肉痛になっている。情けないことだ、このくらいで。それは、いかに私が、日頃ぐうたらに過ごしていたかということでもあるが。)

 昨日の朝、九重の山の上には雲があったし、由布岳・鶴見岳方面にも雲がある。どちらにするか迷ったが、土曜日ということも考えて、人の少ない所へと、鶴見岳の裏側に行ってみようと思った。
 この鶴見岳(1375m)は、別府や大分の市街地からも良く見えて、海からそのまま前山なしに、1300mほどの高さで立ち上がる姿は、なかなか立派なものである。ただ惜しいかな、ロープウエイが頂上直下まで来ているし(逆にいえば、普通の観光客でも、手軽に冬の霧氷を見ることができるのだ)、さらにテレビ電波送信などの鉄塔が幾つも立ち並んでいて、いわゆる登山対象にはなりにくいのだが、しかしそこから、北に鞍ヶ戸(1344m)、内山(1275m)へとつながる、切れ込んだ山稜は素晴らしいし、他に四つほどあるルートの登山道も、余り登られてはいないのだ。

 そこで、まず由布岳と鶴見岳の間の、猪ノ瀬戸まで行ってみる。そこは由布岳の東登山口でもあるのだが、残念ながら、どう見ても、鶴見岳稜線付近の霧氷が少ないのだ。そんな時に登ってもつまらない。しかし反対側の由布岳は、上の方が真っ白になっている。それは家を出る前から、もしもの場合はと考えていたコースでもあり、ここから登ることにした。この東登山口からの由布岳へは、今までに三度ほど登っているが、上部に少し危ない岩場があって、一般的ではなくあくまでも裏コースである。

 朝、天気模様を見ていて、家を出たのが遅かったから、歩き始めたのは9時に近かった。それでも、静かな林の中の、誰もいない雪の道を歩いて行くのは、やはり心楽しかった。南側の、正面登山口では、あの広い駐車場もいっぱいだろうし、たくさんの人が相前後して登っていることだろう。
 ジグザグの山腹の道をたどり、樹林帯を抜けると、東岳の山頂から剣が峰にかけての、見事な樹氷(枝葉に雪が吹き付け固まったもので、水滴が吹き付けて凍りついた半透明の霧氷とは区別)の斜面が広がっていた。
 その時、カメラを構えていた私の傍を、後から来た二人が抜いて行った。しかしこのコースで出会った登山者は、その彼らと、下る時に三人、さらに登って来た他の二人だけで、あわせて3パーティーだけの静かな登山道だった。

 雪は5cm~10cmくらいで、思ったほどではなかった。鎖場や固定ロープのある岩場を登り、お鉢(はち)と呼ばれている火口壁に上がり、そこから、まず剣が峰(1550m)まで行って、そこでしばらく休んだ。双耳峰(そうじほう)である東岳(東峰、1582m)と西岳(西峰、1584m)、その間のお鉢すべてが樹氷に被われていて、素晴らしい眺めだった(写真は東岳)。去年(’09.2月3日の項)よりも、全体がずっと白く見えた。二つの頂上の方からは、あちこちで人の声が聞こえていた。
 いつもなら、そこからぐるりとお鉢巡り(1時間余り)をするのだが、久しぶりの登山で少し疲れていたし、その上、休日で人が多い中を歩いて行くのもイヤだった。
 それでも、一応頂上までは行っておこうと思い、分岐まで戻って東岳に登る。やはり、30人位もの人々で賑わっていた。写真を撮っただけで、頂上を後にする。
 再び静かな雪道に戻り、岩場を慎重に下って行く。樹氷の斜面は、まだ雪が落ちていなくてきれいだった。さらに、明るい樹林帯に下って来て、度々足をとめては休んだ。シカの鳴く声が聞こえていた。木々の枝の上には鮮やかな青空が広がっていた。静かだった。

 久しぶりに、冬の山を歩き、雪の眺めを楽しむことがができた。5時間ほどの軽い山登りだったが、間が一カ月も開いたから、この位でちょうど良かったのかもしれない。家に帰ると、ミャオが迎えてくれた。
 おーよしよしミャオ、しかし、そんなに鳴いたって、サカナの時間にはまだ早いぞ。」

 (昨日、山に登ったので、そのことをまず記録しておくことにした。オペラ『ランスへの旅』については、再度延期して、次回に書くことにしたい。)


 


ワタシはネコである(134)

2010-02-18 21:06:29 | Weblog


2月18日

  今日は、朝から雪が降っていた。しかし時々日も差していて、その合間に飼い主と散歩に出かけたのだが、すぐにまた雪になってしまい、途中で戻ってきた。
 退屈なまま寝ていたのだが、午後になって、青空が広がってきて、再び、飼い主を促して散歩に出た。まだ風は冷たかったが、いつもの30分ほどのコースを、ひと回りして一緒に戻って来た。そして、日の当たるベランダで横になっていた。
 久しぶりに毛皮を干して、しっかり手入れをしておかななければならない。今はもう、ワタシたちネコたちの、鳴き交わす季節になったからだ。この期間は、寝てばかりはいられない。絶えず出入りを繰り返し、忙しいことになるからだ。

 年寄りネコのワタシとはいえ、頭の中には、遠くから呼びかける野生の声がして、何か落ち着かない気になるのだ。数日前の夜、ベランダから窓辺へと何かが駆けあがる物音がした。飼い主が、すぐにベランダへのドアを開けてみた。すると、飼い主の後ろについてきた私にも、一匹の猫が逃げ出して行くのが見えた。あいつだ。
 数年の間、微妙な関係にあり、さらには恐るべき宿敵でもあった、あのマイケルがいなくなって(12月1日の項)から、ワタシは、安心して家のベランダで寝ることができるようになったのに、またその後を継ぐように現れた、あのネコのために、これからは油断なく、警戒しなければならない。まあ、傍には、飼い主がいるから、今はいいようなものの。
 穏やかな、寒い冬の季節の向こうに、慌ただしい春が、もう近くまでやってきているのだ。


 「もう一週間近くも、寒い曇り空の日が続いている。雨も降り、雪の降る日もあるのだが、その雪も積もるほどではない。
 あのユスラウメの花も、そのままで、他の蕾(つぼみ)はまだ開かない。庭の一角を占める、大きなブンゴウメの木の枝先にある蕾も、まだ大きくはなっていない。

 いつも、今の季節には、複雑な思いになってしまう。去りゆく冬には、まだまだもっと雪を降らせて、一面の銀世界を見せてほしいという思いがあり(今年は、雪が少なかったから)、一方では、あの体を包み込むような、暖かい空気の中で、木々や草花の花が開く、浮き立つ思いの春になってほしい、と思う気持ちもあるからだ。
 窓の外では、冷たい風の吹く音が聞こえていた。そんな日々の中で、私は、録画していたTV番組の幾つかを見た。それぞれに、人様々であるように、様々なその番組たちの思いが伝わって来た、良くも悪しくも。

 まず、『オリエント急行殺人事件(英・米 1974年)』(2月10日、NHK・BS)。若い時に場末の名画座で見て以来、久しぶりに見直したのだけれども、当時も面白かったという記憶はあるのだが、それは、あの有名なアガサ・クリスティーの原作の力が大きいからだろうが(少し映画用に変えているところもあるが)、何しろ監督が、名匠シドニー・ルメット(『十二人の怒れる男、1957年』『質屋、1964年』『狼たちの午後、1975年』等名作が多い)であり、さらにこの映画のために、よくも集めてきて共演させたものだと感心するほどの、イギリス、アメリカの十数人ものスターたちの豪華キャストなのだ。
 アルバート・フィニー(『トム・ジョーンズの華麗なる冒険』)、ローレン・バコール(『百万長者と結婚する方法』)、イングリッド・バーグマン(『カサブランカ』)、リチャード・ウィドマーク(『アラモ』、ショーン・コネリー(『007シリーズ』)、アンソニー・パーキンス(『サイコ』)、ジャクリーヌ・ビセット(『アメリカの夜』)、まだまだ他にも、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョン・ギルグッド、マーティン・バルサム等、ひとりひとりの出演映画についても色々と書きたいくらいだ。
 この監督と俳優たちだ、アガサ・クリスティーの小説ならずとも、見事に仕上がる映画になるはずだ。

 主人公であるフランス語なまりの英語を話すベルギー人、名探偵ポアロ役として、イギリスの名優アルバート・フィニーは、まさしく熱演しているのだが、そのアクの強い演技が、やや感情的に過ぎると言えなくもない。
 もちろん、そんな彼の演技に、異議があるわけではない。思えば、あの『土曜の夜と日曜の朝(1960年)』でニュー・シネマの旗手たる俳優としてデヴューした彼が、さらに『トム・ジョーンズの華麗なる冒険(1963年)』から、『ドレッサー(1983年)』などと、それぞれに見事な演技を見せているからだ。
 アルバート・フィニーは、あの、アンソニー・ホプキンス(『羊たちの沈黙』、『日の名残り』等)とともに、イギリスが生んだ稀代の個性的名優の一人だと思っている。

 さて、物語は、トルコのイスタンブールから、ヨーロッパ大陸を横断してフランスのカレーに向かう国際列車、オリエント急行がその舞台である。列車は、ユーゴスラヴィアの山中で、雪崩にあい、立ち往生するが、その車内の中で、殺人事件が起きる。それをたまたま乗り合わせた、ベルギーの名探偵ポアロが解決してゆくというストーリーだ。
 12人の乗客たちすべてに嫌疑がかかる。(この12という数字は、キリスト教徒にとっては重要な意味を持つ。つまりキリストの13人目の弟子が、ユダであるからだ。)その一人一人を、ポアロが尋問(じんもん)していく。彼らが乗り合わせた列車は、まさにヨーロッパの縮図としての光景でもあったのだ。
 殺されたアメリカ人富豪(実は元マフィア)とその秘書、イギリス人大佐、イギリス人女教師、スウェーデン人の女宣教師、ロシア亡命貴族夫人とそのドイツ人召使、ハンガリー貴族の外交官とその妻、アメリカ人女性、アメリカ人探偵、イタリア人カーディーラー、フランス人車掌、ギリシア人医師等である。ちなみに、監督のシドニー・ルメットは、アメリカ生まれのポーランド系ユダヤ人である。

 イギリス人のアガサ・クリスティー(1870~1976)は、当時話題になった、あのリンドバーグ愛児誘拐事件にヒントを得て、ヨーロッパ大陸横断の国際列車、オリエント急行の車内という、限られた密室空間での、ミステリー殺人事件として、巧みな構成の話を作り上げたのである(1934年作)。
 それだけではなく、そこに乗っていたそれぞれの人の思惑と、そしてヨーロッパという多民族からなる地域を、(それはとりもなおさず、移民の国、アメリカの成り立ちを示すものでもあるのだが)、一つの運命共同体として、描こうとしたのではないのだろうか。
 そのことが、現在のEU(欧州連合)の出現を予言していたのかは、ともかくとして、彼女のヨーロッパを見る視点は、別に特別的なものではなく、つまりは一般的なヨーロッパ人の心の底流にあるものなのだ。

 実は今回、2月6日のNHK・BS放送のロッシーニのオペラ『ランスへの旅』(写真)について、そのオペラのヨーロッパ的な視点をテーマに、書く予定だったったのだが、前置きのつもりの、映画『オリエント急行殺人事件』のことですっかり長くなってしまい、それは次回に、回さざるを得なくなった。
 後先を考えずに、だらだらと思いつくまま書いてしまう私の悪い癖だ。(反省してまーす。)

 ところで、私にとって、この『オリエント急行殺人事件』は、一つの映画としては面白いと思うけれども、私の好みの映画という訳ではではない。ルメットの代表作をと言われるなら、やはりあの『十二人の怒れる男』(ここでも12という数字)だと思う。
 同じように、この映画でポワロ役を演じたアルバート・フィニーは、前にも書いたことのある『ドレッサー』(’09、1.31.の項)での演技を、やはり第一にあげたい。

 さて、話は変わるけれども、そのヨーロッパの人々だけではなくて、世界の人々がバンクーバーに集まって、今、冬季オリンピックが開かれている。私も、日本人の活躍に、そのメダルの獲得に、一喜一憂している毎日だが、昨日、新聞の第一面に、そしてスポーツ欄の両面見開きを使って、そんな日本人選手のメダル獲得の活躍を知らせる記事が載っていた。
 一方、社会面の隅には、囲み記事で、『線路転落 気転の救助』という見出しで、東京のある駅で、線路に転落した見知らぬ若い女性を助けた、若者の話が載っていた。私は、翌日、その若者がその駅のホームに立って話しているのを、テレビのニュースでも見た。
 彼は、インタヴューにこたえて、電車が彼女の上を行き過ぎて停まり、その後声をかけて彼女が元気だと分かった時が、一番うれしかったと言っていた。その事故が起きた昨夜のこと、彼は、その時自分が何をしたかはよく覚えていないと言っていた。
 自分の一身を顧(かえり)みず、とっさに線路に飛び降り、彼女を救い、自分もきわどいところ所で助かったのだ。
 
 私は、オリンピック・メダルの記事の数十分の一の大きさでしかなかったその記事が、実は、逆に数十倍の価値ある記事であり、むしろ与えるべき金メダルは、人間として、彼にこそふさわしいものだと思った。彼は、しかし、はにかみながらその申し出を断るだろうが。
 どんなに悪い時代であり、どんなに悪い世界に見えても、いつの世もどこかで、人間を信じることはできるのだ。ありがとう。」


 


ワタシはネコである(133)

2010-02-13 21:53:10 | Weblog


2月13日


 あれほど暖かい日が続いたのに、また冬の季節に戻った。それでも、いつもの年と比べれば、まだ暖かい方だが。

 天気が良ければもとより、少し日が差すくらいの天気なら、飼い主と散歩に行く。メイン・コースは大まかにいえば二つあるが、それは日替わりという訳ではなく、ワタシと飼い主の、その時の都合によって決められている。このところは、もうずっと同じ道である。
 それは、クルマも余り走らない田舎道だから、車道でもいいのだが、飼い主が、人も車も嫌いなワタシのことを思い、その裏にある山道や、普通の道をつないで考えたコースであり、今では私もすっかり気に入って、通いなれたコースになっている。

 途中には、日当たりが良くて見晴らしの良い所や、薄暗い藪の傍、大きな木が並んでいるところなど、変化に富んでいる。そんな道を、ワタシが毎日飽きないで、それも楽しみにして歩いて行くのは、いつもそのたびごとに辺りの気配や様子が違うからである。
 他のネコや獣たちのマーキングの臭い、ノラネコの時にはエサにもなる、小動物たちの臭い、そしてかすかな物音など、飼い主と一緒に歩いていても、外に出ると、ワタシの感覚は研ぎ澄まされてくるのだ。
 そうして20分ほど歩いたところで、いつもの往復点の辺りで、ワタシが座り込んでいると、飼い主はさっさと先に帰ってしまう。
 もう少し春らしい暖かい日ならば、あるいはまだワタシが若かったころなら、そのままサカナの時間の夕方近くまで、日当たりのよい所で寝ていたり、他の動物たちの気配をうかがったりと、半日でもそこで過ごすことができたのだが。
 ワタシも年をとったのだ。寒い外に、ひとりでいるのはイヤになった。ワタシは、間をおかず、すぐに飼い主の後を追って家に帰る。
 飼い主は、わずか30分足らずで戻って来たワタシを見て、「オーヨシヨシ、帰って来たか」、と迎え入れてはくれるものの、内心はあまり嬉しそうでもなく、すぐにワタシをコタツの中に入れてしまうのだ。それならば、散歩の時には、飼い主も最後まで一緒に付き合って欲しいのだ。ワタシの好奇心を満足させるに十分な時間の間は。

 この季節の変わり目にというよりは、気温の差が10度ほどもあるような、春の陽気と寒波の繰り返しが、年寄りネコにはこたえるのだ。あー、ゴホゴホ。もっと、ワタシをいたわってほしい。
 『孝行したい時に親はなし』のことわざと同じことだ。ワタシだっていつ死ぬかわからないのだ、ゴホゴホ。『可愛がりたい時にミャオはなし』にならないように、しっかり今のうちから、ネコ可愛がりをしてほしい。いくら可愛がっても、可愛がりすぎということはないのだから。

 そのことを分かっているのだろうか、ニャーオ。ああ、知らん顔して、タヌキ寝入りなんかして、まあ、このメタボおやじめが、とぼけたアザラシそっくりの顔して、まったく。



 「気温が5度までも上がらない、いつもの寒い日に戻ってしまった。それでも、雪は降らないし、暖かい方なのだが。
 数日前の春の暖かさで、平年より早く、庭のユスラウメ(ゆすら梅)の花が開いていたが(写真)、この寒さでは、少しかわいそうな気もする。
 家の庭では、一番先に咲くこのユスラウメの花を、亡くなった母は、毎年楽しみに待っていた。この季節になるといつも、嬉しそうな顔をして、そんなことには無頓着だった私に、花が咲いたよと教えてくれたものだった。今日は、そんな母の誕生日だった。南無阿弥陀仏。

 しかし、今では私も、暖かくなってくると、木の梢(こずえ)の蕾(つぼみ)や足元の草むらを、注意して見るようになった。雪の降り積む景色が好きな私だけれども、やはり、春の訪れを知ることのできる、木々や草花を見るのは、心楽しいものだ。
 季節は、知らぬ間に、しかし少しずつ移り変わっていく。真冬の凍てつく景色の中にこそ、来るべき春が隠されている。しかし私たちは、来るべきものと去りゆくものの中にあって、いつも自分がいる今しか、知ることはできないのだ。

 その今は、しかし、止まるところを知らず移り変わっていくものであるから、決して、正しい今の世の中全体を見ているとはいえない。それはまた、それぞれの人によっても、見方は変わってくるものなのだから、併せて考えれば、この世界というものは、いかに小さな齟齬(そご)の積み重ねの上に、成り立っているのかが分かる。
 そこに、小さな日常の争いがあり、大きな殺戮(さつりく)にまで発展する争いも生まれる。それを憂うる人々が、争いのない理想なるものへと近づくくために、物事の真理を考え、哲学することを始めたのだ。
 誤解を恐れずに言えば、今までの哲学思想こそは、常に理想の規範を求め続けてきた、人間たちの思考の軌跡だったのだ。少なくとも、私がそれまでに学んできた、ギリシア哲学から、実存主義と呼ばれる近世までの哲学思想は、そうであったように思う。

 しかし、ひとたび学校を離れ社会に出ると、自分の行くべき道に必死だった私には、そんな私とは無縁の世界の、哲学思想などにまで思いが及ぶこともなかった。
 ただし、その後、夢中になってやっていた自分のための仕事に一段落がつくと、今までの自分を振り返り、周りの世界を見る余裕が出てきた。そんな時に、ふと読む気になったのが、あの世界的なベストセラーになった『ソフィーの世界』(ヨースタイン・コルデル著、NHK出版、1995年)である。
 その内容や、少女を相手に語るやさしい哲学入門書ということから、まるで『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)を下敷きにした簡略哲学史の本だと、軽視する人もいたが、しかし青少年たちのためだけではなく、哲学などとは縁遠い一般の私たち大人にとっても、自分たちの日常だけの世の中を、見直すきっかけを作ってくれた本でもあり、そこに世界的ベストセラーの意味もあるのだ。

 ちなみに、去年北海道にいる時に、もう一度読みたくなり、手元にないので、例の古本ショップに行ったら、余り読まれた跡もないキレイなその本が、105円で売られていた。ニシキゴイ、ゲットン!

 その少し前から、私は、いわゆる実存主義以降の哲学思想について、知りたいと思い、幾つかの本を読んでいた。特に、ハイデガー(’09年9月8日の項)、サルトルから、まだ私の知らなかった構造主義のレヴィ=ストロ-スに移る辺りが、一番興味を持ったところである。
 断わっておくが、私は何も、彼らの難しい哲学書をそのまま読んだわけではないし、もとより読むだけの知識力もない。つまりは主に、彼らの解説本を読んだだけのことなのだ。

 1月30日の項で、私は、去年購入して聴いた、CDのベスト10を書き出してみたのだが、それと同じように、去年購入して読んだ本のベストもと考えた見た。しかし、残念ながら、私が購入した本は、日本の古典文学関係や、昔読んだことのある日本文学、外国文学の再読ものばかりで、いわゆる、新刊本など数えるほどしかないのに気がついた。
 ある意味、私は時代からすっかり遅れをとっているのだ。もう何年も、芥川賞や直木賞などの本を読んだことがないし、まして巷(ちまた)で評判の、日本の最新ベストセラーでさえ、手に取って見たこともないのだ。そんな私に、ベスト10の本をあげることなどできるわけがない。

 ただし、そんな乏しい読書の中でも印象に残っている一冊があった。『闘うレヴィ=ストロース』(渡辺公三著、平凡社新書)である。レヴィ=ストロースの思想の迫力はもとより、著者自身の熱意が伝わってくる、見事な一冊であった。これほどの内容のある本が、新書版とはもったいないくらいである。
 もっともそれは、私が、レヴィ=ストロースの思想をもっと詳しく知りたいと思っていた時でもあったし、まして彼が亡くなったばかりの時(1908~2009.10.30)だったから、それらのタイミングが重なって、興味深く読んだという訳なのだ。

 その内容については、別に改めて考えてみたいと思うが、私個人として、急に、哲学かぶれになったわけではない。いつも言うように、私にそれほどの理解力があるはずはないし、それが自分の教養の一部になるなどと、思いあがった考えを持ったこともない。
 ただいつも思うのは、知識はないよりはあった方が良い、そこにまた新たな別な世界が見えてくるからだ。それは、自分の人生にとっては、得なことなのだ。

 例えは違うけれども、私の好きなフランスの映画監督、エリック・ロメール(1920~2010、残念なことに彼も今年の1月に亡くなってしまった。)、その彼の映画『モード家の一夜』(1960年)の中で、主人公の男(ジャン=ルイ・トランティニャン)が言っていた。『(自分の仕事とは関係のない)数学をするのは、数学には自分の欲望を抑制する力があるから』。
 つまり、私が、自分なりのプチ・哲学を学ぼうとするのは、何も学問的教養を目指すためではなく、数学の遊びと同じように、ものを考えるための遊びを楽しんでいるだけのことなのだ。

 傍にいたミャオが、私を見て一声鳴く。『ニャーオ、そんなこと考えて、ヒマだにゃー。』
 ミャオ、それを言っちゃおしまいよ。」 


ワタシはネコである(132)

2010-02-09 18:53:45 | Weblog



2月10日

 晴れた日が長く続いた。初めのうちはまだ寒かったが、その後急に暖かくなってきた。このところ、毎日気温が上がり、すっかり春の暖かさだ。

 さてさて、日々の暮らしの有様は、朝の間は、おとなしく、いまだコタツの傍に居て、ただただ、眠り居るばかり。その後、飼い主連れ立ちて、日課の散歩にい出るなり。外で過ごせし長き午後、とはいえ日もはや西に傾きて、ニャーと鳴いては、飼い主に、サカナを所望(しょもう)するばかり。皿の上にぞ置かれける、小魚二匹を食すれば、ああ、快なるかな、ネコに生まれたる喜びは、ここにぞ極まりにける。
 食した後の毛づくろい、体の中に活力が、いつしか満ち溢れくる、冬の季節にあるまじき、春かと思う暖かき、風に誘われ、ふらふらと、何やら心浮き立ちて、飛び跳ねたる思いにて、家から出たり入ったり、飼い主ただただ、あきれはて、見守るばかりになりにけり。
 今しも夜の闇の中、何かが出るか、面白き、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界とて、歩き回りているうちに、気がかりなのは、屋敷にて、共に暮らせるあの鬼め、いかでいるかと、外と内、行ったり来たりとまたにかけ、これが世に言うネコマタの、歩きとかやいわれなむ。

 というふうに、飼い主の古典文学かぶれに合わせて、五七調で真似てはみたものの、ああ疲れる。慣れないことはするものではない。やはり、ワタシは、九州のど田舎に住む、今を生きる、ただのドラネコなのだから。


 「何という暖かさだろう。一番寒い時期なのに、朝から気温は10度もあり、日中は17度までも上がる。これは桜の咲く、4月頃の気温だ。
 遠くに見える九重の山々には、数日前まで、わずかに小さな残雪が見えていたが、それもこの暖かさと雨で、なくなってしまうだろう。もう雪山シーズンは、あの1月(18日の項)だけで終わりなのだろうか。

 大雪と寒波に見舞われている、北国の人には申し訳ないが、雪のある冬が大好きな私は、まだ雪を見たいと思う。
 冬の間も北海道に居たころ、いつも雪の平原の彼方には、厳冬期の氷雪に被われた、荘厳な姿の山々が見えていた。そんな雪の山の幾つかにも登り、さらに覚えたばかりのスキー場にも通っていた。

 とは言っても、北海道のスキー場は、道東の数カ所しか知らないのだけれど、その中でも帯広から1時間ほどで行ける糠平(ぬかびら)温泉スキー場(写真、背景はウペペサンケ山)は、私のお気に入りだった。
 そこは、まず人が少なく、コースが長く、初心者の私でも全コース滑れて(上級者用コースは、必死の思いでゆっくり下りてくるだけだったが)、粉雪の雪質が素晴らしく、そしていつも晴れていて、マイナス10何度という寒さが、マゾ趣味のある(冗談)私には最高だった。
 九州でミャオと一緒に冬を過ごすようになってからも、もちろん、近くのスキー場にも行ってみたのだが、やはり北海道のスキー場を知っている私には物足りなくて、すっかり足も遠のいてしまった。他にも理由があったのだが・・・。

 2日前に、冬季オリンピックにちなんで、NHKスペシャルの『ミラクル・ボディ』シリーズの(1)が放送された。スキー競技、アルペン・ダウンヒル(滑降)の選手たちの限界まで鍛えられた肉体を調べるべく、最新撮影技術や脳科学技術を駆使して、その謎を解き明かしていくのだ。分野は違えども、前回(2月4日の項)に続き、これまた、見事なドキュメンタリー番組だった。

 男子大回転競技、つまりアルペン・ダウンヒルの選手たちは、常に、その高速レースでの危険に対面しなければならない。途中のジャンプの時には、最高で、時速160キロにも達するレースでは、一瞬のミスが、大きな事故につながるのだ。
 コース・アウトやジャンプの失敗で、大ケガをして競技から身を引くようになった選手たちも多い。ノルウェーのアクセル・スヴィンダルも、ジャンプを失敗して、顔面骨折、脚部裂傷の大けがを負ってしまった。

 どんな選手でも、何度もの転倒や失敗を経験してきており、次のレースに臨むためには、例えその体の傷が癒(い)えたとしても、脳の記憶に残されたその失敗の恐怖に打ち勝たなければならないのだ。

 ある選手などは、転倒による全身負傷のために、何カ月もの入院生活を余儀なくされていたが、転倒の前後のことは全く覚えていないという。この話で思い出したのが、ある知人のことで、若いころに自動車事故で、意識不明になり病院に担ぎ込まれ、数日後に意識が戻ったけれども、彼もまた、その事故の前後のことは、憶えていないということだった。
 この話は、あのキューブラー・ロスの『死の瞬間』(中公文庫)や、立花隆の『臨死体験』(文春文庫)とともに、いつかは考えてみたい私の課題の一つではある。

 話を戻そう、そのダウン・ヒルのレースで、大けがをしたスヴィンドルだが、彼は不屈の闘志で、その恐怖を乗り越えようとする。そして、前回転倒した同じ場所で、その時以上のスピードを上げて、ジャンプ・着地してさらに滑走し、トップのタイムでゴールする。何という強い意志の力だろう。
 そしてカメラは、そのレースに反応する、彼の肉体と精神の秘密に科学的に迫っていく。

 コースの旗門ギリギリに、最短距離をとってすべる他の選手に後れをとっても、彼は後半の滑降で、見事にスピードに乗った姿勢を保ち、逆転してしまうのだ。その時の、筋肉の使い方と姿勢が明らかにされる。
 さらに、恐怖を克服した脳の働きを調べると、確かに恐怖の記憶は残っているのだが、それを脳のある部分の働きを使い高めることによって、カバーしているのが分かる。
 そして興味深いのは、レース中のまばたきの回数だ。1分30秒ほどの、レースの間、普通の人でも数回以上はまばたきをするのに、彼は初めの30秒ほどで、一度まばたきをした後は、その後の、一分間は全くまばたきをしなかったのだ。
 つまり、100分の何秒かの、まばたきによる周りの状況の見落としが、一つの小さなミスにつながるから、また同じような転倒を繰り返さないために、何一つ見逃さないように、眼を見開いていたということなのだろう。

 日頃から意識して、自らを鍛え上げたアスリートたちの、すさまじいまでの意思力、それとともに、極限のスポーツを、科学的実証を元に追求した番組スタッフの熱意が、それぞれに、ひしひしと伝わってくる見事なドキュメンタリー番組だった。前回、ドキュメンタリー番組について、あれこれ疑義(ぎぎ)をさしはさんだけれども、こうして実証提示されると、もう脱帽する他はないのだ。

 ちなみに、私の下手なスキーでは、まあ50キロくらいがいいところだろうし、スヴィンドル選手と私とでは、プロの選手と歩き始めたばかりの子供くらいの差があるのだが、それでも見ていて、自分で滑り理解したような気分になれた。
 私がその後、余りスキーに行っていないのは、その九州のスキー場で転んで後頭部を打ち、一瞬、ここはどこ、わたしだれ状態になりかけたからである。私は、いまだに、スヴィンドル選手ほどに恐怖を克服してはいないのだ。

 自分が出したスピードとしても、若き日のあのオーストラリアでの旅で、バイクで130キロ出したのが最高だ。今クルマで、高速道路を走っても、110キロ出せばよい方だ。それだから、スキーで160キロというのは、もう私の想像をはるかに超えたスピードなのだ。
 年をとれば、自分の歩く速度は遅くなり、そのぶん自分の傍(かたわ)らを、時間だけが早く過ぎ去っていくのだ。

 それにしても、この番組はいろいろなものを私に思い出させてくれた。あの『臨死体験』はもとより、自分の単独行の山登りや、若き日の冒険旅行、さらには今まで読んできた、数々の優れた冒険ノンフィクションの本、そしてそれらがもとになった幾つかの体験等である。
 これらのことについては、改めて、また機会を見つけて考えてみたいと思う。

 その昔、熱き思いのままに行動していた時代、私にも、若き日のひと時があったのだ。静かな今と、慌(あわ)ただしい昔、繰り返し味わうことのできる人生と、生きることと・・・。」


ワタシはネコである(131)

2010-02-04 16:52:46 | Weblog



2月4日


 外にも出られない二日間の雨の後も、寒い曇り空が続いていたが、ようやく昨日、今日と晴れの天気になった。飼い主が、洗濯物をベランダに干しているときに、ワタシもニャーと鳴いて、出てきた。
 まだ外の気温は低いけれども、長い間いっちょうらの毛皮を干していなかったから、ともかく陽の当たるところに出て日光浴をしなければならない。体のあちこちを、後ろ足でかいた後、毛皮をなめまわして、太陽の光で殺菌消毒するのだ。
 ああ、いい気分だ。後でまた飼い主と散歩に行くことにしよう。


 「三日間ほど、天気の悪い日が続いた。それもこの寒い時期には、いつもなら雪が降っているはずなのに、かなりの量の雨が降った。
 気温は余り上がらずに、朝の0度前後から5度前後までと、肌寒い毎日だ。昨日、今日とようやく晴れてくれたが、朝はー5度まで冷え込んでいた。
 ところで、今朝の北海道では、何とあの占冠(しむかっぷ)で-34度、十勝管内各地でもー30度前後とのことだ。つまり、ここのー5度の冷え込みは、北海道の春先の気温にしかならないのだ。

 庭の片隅には、マンリョウの赤い実がなっている(写真)。亡くなった母が、冬には花がないからと、植えていたものだ。他にも、庭のあちこちには、同じように冬にも実がついているピラカンサやナンテン、アオキ、ヒイラギなどの、小さな木が幾つもあるのだが、なんといっても目だつのは、このマンリョウのたわわになった赤い実である。

 実の数から言うと、びっしりと房状になるピラカンサが一番なのだが、鳥たちの好物でもあり、すぐになくなってしまうし、アオキ、ヒイラギ、センリョウなどは、実の数が少ない。
 ナンテンは、そのなよたけのようなやさしい葉と、上品な実の姿が素晴らしいが、家の庭にあるのは、おそらく鳥が運んで来て自然に生えたらしいもので、まだ背丈が低い。
 というわけで、今の時期に庭ですぐに目につくつのは、その名前の通りに、センリョウ(千両)以上の万両の価値がある、このマンリョウである。

 狭い庭だけれど、私と母で植えた木々の他に、母がひとりで山の中から運んで来た小さな苗木が、今ではあちらこちらで大きなものになっている。

 母が亡くなってから、もう6年になる。しかし、母が家に残した衣類やその他のものを、大した量ではないのだが、いまだに処分することができずにいる。ミャオと二人でいる限りは、邪魔にもならないから、そのままにしておいてもよいのだが。

 そして、見回してみると、この家には、何と私のものばかりが多いことかと気づく。それも他人から見れば、ほとんど価値のないようなものばかりなのだ。
 例えば、若いころから長年にわたって、下手の横好きで撮って来た山の写真に、自分の写真などで何十冊ものアルバムがあり、それらの大量のネガ・ポジフィルムもある。
 さらに、本棚五つ六つ分もの本がある。それらに、古本の価値があるものはなく、二束三文の値段しかつかないだろうが、その中にはまだ読んでいない本も多い。
 それから、もう余り聞くこともないレコードやカセットの数々、そして今やCDだけでもかなりの量だ。まだまだある、たくさんの古い録画ビデオに、録画DVD、さらに個人的な書類や資料にノートなどなど・・・。

 自分が生きてきた歳月の分だけ、長生きの亀の甲羅(こうら)に付いた海藻やフジツボのように、いろいろと余分なものが私の身の回りにあるのだ。全く、今となっては、無駄としか思えないようなものばかり、よく集めてきたものだと思う。

 強面(こわもて)の鬼瓦(おにがわら)顔の外見に似ず、酒もタバコもやらない私が、その分、今までお金を有効に使ってきたかというと、否。自分の身の回りにある、これらガラクタ同然の品々を見てみればわかるように、個人の嗜好品(しこうひん)である酒やタバコにお金を使ったのと、大して違わなかったことに気づくのだ。
 つまり、自分の好きなことのために、一時的な気休めのために、お金を使ってきただけのことだ。さらに言えば、そうしてきた私という存在自体が、無駄の積み重ねで出来上がっているようなものだ。

 そんな風に考えてしまうと、あの葛飾柴又(かつしかしばまた)の寅さんなら言うだろう。『それを言っちゃ、おしまいよ。』
 そして、ミャオも言うだろう。『ワタシが、毎日、喜んでサカナを食べているのと同じこと、それでいいじゃない。』

 そういうことなのだ。人間は、ひとりの個人なのだから、まずは自分のためだけになることをする(動物行動学的な説明には、日高敏隆著『利己としての死』1989年弘文堂を参照)。しかし、実はそれと同時に、結果的には全く自分のためにはならなかった無駄も重ねている。そして、失敗の多いその積み重ねこそが、若い時代を経ての、今までの自分の人生ということになるのだ。

 さらに、最終的には誰でも、自分が生まれてきた、同じ地球上の塵芥(ちりあくた)に戻るだけのことであり、それなのに何をあくせく、無駄な物を集めてきたことか。それらは、ミャオのサカナと同じように、自分の体内を通過して、満足感が満たされ栄養となれば、あとは処分されるべきものなのに。

 『人はおのれをつづまやかにし、奢(おご)りを退けて、財(たから)を持たず、世をむさぼらざらんぞいみじかるべき。』(人は、つつましく暮らし、ぜいたくなことはせずに、財産をため込むようなこともせずに、利欲に走らないように自分を律して、生きていくべきなのだ。)『徒然草(つれづれぐさ)・第十八段』

 それなのに、人はどうして、様々なものを自分のものにしたがり、集めたがるのだろうか。生き物たちの中には、あのオーストラリアのアオアズマヤドリのように、オスがメスの気をひくために、青色のものをいろいろと集めて来ては見せる習性があるものもいるが、それは短い繁殖期だけのことだ。

 前にBSで放送された『夢の美術館スペイン』の中でも、きらびやかな衣装や宝石の上に立つ骸骨の姿を描いている絵が紹介されていたが、それら華美なる財を持つことを戒(いましめ)るための絵は、洋の東西を問わずに、例えば日本の仏教画などでも、見ることができる(’09.2.28,3.4『一休骸骨(いっきゅうがいこつ)』参照)。

 とはいっても、誰しも多かれ少なかれ、ごうつくばりのがんこ者であるのが、人間の定め。あのアッシジの聖フランチェスコや、越後の国の良寛和尚のように、なかなか、自ら甘んじて清貧の生活を送ることなどできはしない。

 とりあえずは、あの野口悠紀雄氏のベストセラー『「超」整理法』(中公新書)のような、高度な資料整理術に頼らずとも、まずは、今は使わないものから少しずつ捨てていくべきなのだろう。
 それが、後で必要になるかもしれないなどと考えないことだ。そんなずっと先までの時間が、自分に残されているかどうかも分からないのに。映画『カサブランカ』の中で、主人公リックが言っていた言葉のように。『昨日、そんな昔のことは忘れた。明日、そんな先のことはわからない。』のだから。

 それを良く分かっているからこそ、動物たちは、一日一日を一生懸命に生きている。ミャオは、毛皮に包まれた体一つでこの世に生まれてきて、やがて、その体のまま、いつかは土の中へと同化していくのだろう、自分の持ち物など何一つなくて。

 実はこうしたことを考えたのは、1月30日の、NHKスペシャル『無縁社会・3万3千人が孤独に死んだ・・・』という番組を見たからだ。
 それは、優れたドキュメンタリー番組だった。ナレーションを少なめにして、過剰な説明をやめ、事実だけを字幕として流し、カメラは関係者たちの当惑する表情を、その時の思いを巧みにとらえていた。そこには、作られたテレビ・ドラマなど足元にも及ばない、現実の緊迫感が漂っていた。

 それにしても、先日の、あのNHKのクローズ・アップ現代『助けてと言えない30代』の番組の所でも少しふれたのだが、毎年、年間3万人を超える自殺者がいるというのも驚くべきことだったが、無縁死、つまり名前も定かではない、もし身元が分かっていても引き取り手のない、いわゆる役所用語の行旅死亡人の数が、それを超えるほどにいるというのだ。

 番組では、その100件ほどを調べて、そのうちの数件の事案についての追跡取材をしていた。一人っきりになって死んで行った理由は様々だが、社会での人間関係が希薄になってきているからだろうということであり、さらに、これから生涯独身をつづける人々の数の予想が、20年後には何と女性で4人に1人、男性で3人に1人になるだろうということだった・・・。

 しかし、そんな先まで、私が生きているかどうかは分からないし、それよりも、これからは地球汚染や温暖化、核戦争などで、地球そのものの存続でさえ危ういのだから。
 やめよう、余分な考えは。私ごときが考えた所で、何の役にも立たないのに。それに、この問題はいつの世にもあったことだから(昔は、”いきだおれ”と言っていた)、それほど深刻なことではないのかもしれない。つまり、このドキュメンタリー映像というジャンル自体が、様々な問題を含んでいるともいえるから。

 というのは、番組の製作者たちは、初めから自分たちの意図を明確にして、たくさんあるものの中から、その主題に訴えることのできる事例だけを選択して映像化し、自分たちの結論へと導いて行くからだ。
 それは、警察や検事が犯人と疑われるものについて調べる時に、いったん犯人であると決めつければ、その犯人であるという証拠だけを選択して、犯人ではないという証拠を除外しようとするのと同じことだ。そこに悪意はないとしても。

 人間には、誰でもそういう性向があるものだ。我々の日常での、思いこみ勘違いについては、枚挙(まいきょ)にいとまがないほどである。そうした個人だけの段階なら良いけれど、公の問題、司法の問題、社会の問題になれば、誤った政治方針が打ち出され、冤罪(えんざい)を招き、社会不安を巻き起こすことにもなるのだ。

 もちろん、その番組の意図が正しい核心をついていて、社会を告発する有効な手段となる場合もある。というより、殆どは、そのような優れた番組であることが多く、これも同じように、有意義な番組であったことに間違いはないのだが。

 とまれ、私はことを大きくしすぎたようだ。まずは、冷静に考えてみよう。
 私は、今、ミャオと一緒にいる。そして、母が残したものに比べて、自分の身の回りのものが多すぎることに気づいた。世の中には、一人で死んで行く人も多い。片づける必要がある。私も、ミャオを見習い、なるべく身軽にしておくべきだ。今、目の前には青空に白い雲、そして遠くに山々の姿が見えている。つまり、生きていればそれで十分なのだから。

 それだけの分かり切ったことを言うために、何とくどくどと書きならべてきたことか。まあ、人間というものは、とかく自分の思いを大げさに伝えたがるものだ。あのスペインのカトリック教会の内部装飾のように、自分たちが弱いと思う時ほど、過剰なまでに飾り立てたがるものなのだ。

 つまりは、それが人間の情であり、また業(ごう)なのかもしれない。それだから、私は、生きるということだけにひたむきな、ミャオを見ているのが好きなのだ。
 ニャーオ。来たか、おー、よしよし。」