ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(49)

2009-04-30 16:41:26 | Weblog



4月30日
 拝啓 ミャオ様
 あれから、一週間になるけれど、ミャオは元気に暮らしているだろうか。毎年のこととはいえ、急な環境の変化は、年寄りネコのオマエには、こたえることだろう。
 家ネコであり、ノラネコでもあるオマエが、14歳という年よりは若く見え、元気であるということは、こうした環境の変化が、生きる上での適度な緊張を与えているからではないか、と言う人もいる。
 5ヶ月もの寒い冬の間は、私が傍にいて、その後は、暖かくなったから、もう大丈夫だろうと考えて、オマエをノラの生活に戻したわけだが・・・といっても、それは、私が北海道に行きたいがための、言い訳にもなるのだが。
 果たして、オマエが元気に、いつもどおりの環境の変化に、うまく順応してくれているどうか、今も気になっている。
 人間の場合でも、私のように、自ら望んで、異なった環境の中に身をおく場合はともかく、望みもしないのに、突然、予期しない環境の中に投げ込まれ、そこで生きていかなければならない人もいるわけで、そうした彼らの抱え込むストレスが、様々の問題を引き起こすことになる。
 ネコであるオマエは、環境の変化の中でも、単純に生きていくということだけに集中して、意識を切り替えてはいると思うのだけれど・・・実は、そのことは、私がオマエから学んだ、一つの処世訓(しょせいくん)でもあるのだが。

 ところで、前回からの続きだけれども、あの26日から27日の雪の日の後、わずか三日後の今日は、帯広では気温が26度まで上がり、平年よりも10度も高く、7月下旬の暑さになってしまった。なんという冬から夏への、劇的な変化だろう。
 詳しく、順を追って書いていこう。27日の朝起きると、辺りは昨日以上に、真っ白な銀世界になっていた。玄関のドアを開けて、外に出る。気温0度、積雪45cm。季節はずれの大雪だ。
 北海道では、平地でも、5月に入ってからも雪が降ることは珍しくないが、それにしても、私が戻った三日後に、冬のような大雪になるとは・・・しかし、雪大好き人間の私は、雪景色を見ることができて、内心、嬉しくもあったのだ。
 さすがに、今日は暑いほどの温度で、周りの雪は、ずいぶん溶けてしまったが、この数日は、しっかりと冬の名残りの雪景色を、味わわせてもらった。

 もっとも、その雪のおかげで、苦労もした。雪かきである。少しずつ溶けていく雪ではあるが、雪国の人々は、毎日の生活のために、積もった雪を除雪しなければならない。その除雪の費用が、各市町村で、一冬で何億から何十億円とかかってしまう。雪の積もらないところに住んでいる人たちには、その苦労は分からないだろう。
 さて、私の家の場合、前の道は、村や地区の人たちが除雪車を走らせてくれる。それだけでも、どれほどありがたいことか。そして、家の車庫から道路までが、約40mほどある。
 そこを、雪かき用のスコップで、掘り起こしてゆく。まず雪面に、上からスコップで30~40cm四方の切れ目を入れて、角砂糖のように切り取って、左右に放り投げる。
 真冬ならば、雪はサラサラしていて軽いのだが、春の雪は湿っていて重たい。それを、ひたすら繰り返す。クルマが通れる道幅の、2m50cm位にして、40mもの距離を、少しずつ縮めててゆく。
 朝、2時間半、午後から1時間半かかって、ようやく表の道に到達した。汗だくになる上に、腰は痛いは、肩は痛いは、ああ、年だなと思う。
 前に、冬にもここに居た時には、大雪の時、見かねた隣の農家の人が、トラクターであっという間に除雪してくれた。その時は、本当に有難かったけれども、しかし、若ぶりたい気持ちの私は、『大雪の時以外は、自分で雪かきやるから、良い運動にもなるしね』、と言ってしまったのだ。
 やっとのことで、雪かきを終えて、家の中に戻り、疲れて大の字になって、天井を見つめて思ったのだ。あーあ、余計なこと言わなきゃよかったのに。
 そんな時に、人間ってバカだなあと思う。ミャオたち動物のように素直になれないのだから。もっとも、片意地張って生きてきたのが、私ではあるけれど・・・。

 そんな、つらい代償もあったけれど、それにもまして、この数日、何と雪景色がきれいだったことだろう。私の待ち望んでいた、日高山脈の白い山なみも見ることができて・・・。(写真は、南日高の楽古岳と十勝岳)
 そして、快晴の昨日、その日高山脈の山に登ってきた。次なる、本格的な山行のための、低い山での、足慣らしの積もりでもあったのだが・・・、次回へ。
                       敬具 飼い主より
 
 


飼い主よりミャオへ(48)

2009-04-26 16:17:48 | Weblog



4月26日
拝啓 ミャオ様


 先日は、オマエに、別れの言葉も告げずに、黙って家を出て行ったことを、申し訳なく思っている。
 しかし、それは考えてみれば、私にとっては、幾らか幸いなことだったのだ。
 というのは、いつもなら、急に私に抱きかかえられて、ベランダに出されてしまい、怪訝(けげん)な顔をして、そして悲しそうに私を見る、オマエの姿を見なくてすんだからだ。
 オマエは、その10日余り前から、私の布団の中にもぐりこんできては、朝まで一緒に寝ていた。ところが、前の日の夜、真夜中にオマエは起きて、外に出て行った。
 過去の経験から言えば、そんなふうに、オマエが夜中に出て行って、朝になってもまだ帰ってこない、なんていうことは、別に珍しいことでもなかった。
 しかし気になるのは、ちょうど私が、この家を離れるその日だったからだ。オマエがひとりになり、またノラネコの暮らしになってしまう、その日に、いなくなるなんて・・・。
 年寄りネコであることに加えて、もし去年のようなことになっているとしたら(’08.4月14日~24日)と思うと、気が気ではなかったのだ。

 私が、家を締め切って出かけた後、しばらくして、オマエは帰ってきて、いつものように、ニャーと鳴いて、ベランダに上がってきただろう。
 しかし、ドアは硬く閉められている。その前に、皿いっぱいのキャットフードが置いてある。それでも、お腹がすいているから、オマエは少しは食べただろう。
 ところが、夕方まで待っても、飼い主は帰ってこない。サカナはもらえないし、仕方なく、またキャットフードを食べた後、家のベランダを離れて、どこかネグラを探しに行かなければならない。このまま、ベランダにいると、他のノラネコがやってきて危険なのだ。
 そして次の日も待って、飼い主がもう帰ってこないことが分かると、オマエは空腹に耐え切れずに、あのエサをくれるおじさんの所へと行くだろう。
 そうやって、なんとか元気でいてくれと、無責任な飼い主ながら、ただただ願うばかりだ。
 春になってからの、いつもの、オマエとの別れだが、何度繰り返しても、気楽になれることはない。そんな心の負い目を感じながら、旅立つのは、私にとっても辛いことなのだ。
 

 夜中に降り出した雪が、朝からずっと降り続いている。湿った春の雪で、まだ10cm位にしかならない。
 家の周りで、ドスンドスンという音が、絶えず聞こえている。トタン屋根に積もった雪が、滑り落ちている音だ。
 
 さすがに、今の時期、九州からやって来ると、寒さがひときわ身にしみる。二日前、北海道に着いた時、道北ではもう雪が降っていたとのことだが、この曇り空の道東でも、気温は4度しかなかった。
 冬の間、留守にしていた家に入る。外よりも寒く、2度位しかない。丸太造りの家だから、逆断熱になって、いったん冷えた空気が、そのままの温度で保たれていたからだ。
 それから、次の日の昼過ぎまで、丸一日、薪ストーヴを燃やし続けて、ようやく温かい家になった。(私は元来、寒がりではないから、部屋の温度は18度もあれば十分だ、20度では暑い。)
 帰ってきたとき、家の庭には、フクジュソウとクロッカスの花が咲いていて、エゾムラサキツツジの花も、チラホラと咲き始めたところだったが、この雪では、しばらくは、他の花々が咲くのも見られないだろう。
 しかし、一日、外に出ることもなく、窓辺に座って、辺りの木々に降りかかる雪を見ているのは、いいものだ。ボロい家で、不便なことも多いけれど、一人で苦労して建てた家だもの、他に何を言うことがあるだろう・・・ただ、ミャオが傍で、丸くなって寝ていてくれたらとは、思うけれども。
 
 昼頃には、気温も3度位になり、、木々に積もっていた雪も解け落ちていたけれども、夕方にかけて、再び気温が下がってきて、朝見た時のように、辺りは霧氷のように白く覆われてきた。
 まだ降り続いている雪は、明日の朝には数十センチになっているかもしれない。雪かきするのは、明日になってからだ。
 そして、晴れてくれれば、彼方には、十勝平野の広がりを隔てて、あの日高山脈の、長々と続く白い峰々の姿が、見えるはずだ。
 私の、長年の憧れと、思い出が、両の翼になって、今も飛翔(ひしょう)し続ける、白い神々の竜の姿として・・・。

 ミャオ、そうなのだ。この山々を眺めていたいがために、私は、北海道に帰ってきたのだ。自分だけの、思いのために、オマエに不自由をさせるのは、心苦しいことだけれども、また、一ヶ月余りたったら、九州に戻るから、それまで辛抱しておくれ。
                      飼い主より  敬具


ワタシはネコである(102)

2009-04-22 16:18:17 | Weblog



4月22日
 二日前に、少し雨が降ったが、その後はまた晴れて、爽やかな春らしい良い天気が続いている。
 今では、朝のうちに、飼い主と一緒に散歩に出た後、いつの間にか、飼い主は先に帰ってしまい、ワタシは取り残されることになるが、そこはそれ、そのまま自然の春の息吹の中で、辺りの様子をうかがったり、うとうとと寝たりして、昼過ぎまで過ごす。
 日が傾きかけたころに、家に戻り、ニャーと鳴いて、飼い主から、生のコアジをもらう。フガフガ、キャフキャフと小声をあげながら、サカナを、おいしくいただく。
 一日の中で、ワタシの最大の喜びの時である。クー、これだからネコはやめられないと思う。食時の後は、しっかりと毛づくろいをすませて、さて、後は、飼い主のそばで、そのフトンの上で寝るだけだ。
 そんな毎日の繰り返しに、ワタシは、満足している。他に、なにもいらない。


 「もう10日余りになる。それまで、居間のコタツの中で寝ていたミャオが、私の部屋にやってきて、布団の上で寝るようになった。
 真夜中にかけて、少し冷えてくると、ミャオは、寝ているワタクシの耳元で鳴いては、布団の中にもぐりこんでくる。
 そうして、そのまま、朝まで寝ている。私は、よく寝がえりをうつので、そばに小さなミャオがいると、押しつぶしやしないかと心配だし、ジャマで仕方がない。動くたびに、ミャーゴと鳴かれて、私も目が覚めてしまう。
 つまり夜中に、何度も目が覚めてしまい、ぐっすりと眠ることができないのだ。かといって、ミャオを布団から追い出してしまうのも、可哀そうだし、もう、ミャオとの別れの日も迫ってきているのに・・・。

 遠い昔のことだが、私は子供の頃、親せきの家に預けられていた。その家には、他にも子供たちがいて、その他に、一匹のネコがいた。名前は、確かミャーコと呼んでいたように思う。
 いつもは、ネコなんて、いたずらを仕掛ける相手でしかなかったが、冬は、皆でそのミャーコの争奪戦になった。
 当時の、冬の暖房と言えば、火鉢(ひばち)か、練炭(れんたん)を入れたコタツくらいのものだったから、誰でも、冷たい自分の布団の中に入るのはイヤだったのだ。
 そこで、ミャーコが自分の布団の中にいると、どれほど暖かかったことか。日中でも、寒い時には、毛皮のエリマキだと言って、ミャーコの前足と後ろ足を束ねて、首に巻いたりしたものだった。
 今から思えば、あのミャーコは大したものだったと思う。そんな子供たちのやり方に、大した抵抗もせずに、身を任せていたのだから。
 ためしにと、家のミャオにしてみたところ、暴れ、泣きわめいて逃げて行ってしまった。ノラあがりだから、仕方ないけれども。 

 そんなミャオと、別れなければならない。北海道には、私の思いを込めて、一人で建てた家があるからだ。どちらが大事か、という問題ではない。
 ミャオは、今では、生活を共にする大切なパートナーであるし、かといって、北海道を見捨てる訳にもいかない。
 ただ気がかりなのは、ミャオが年寄りネコであるということと、なかなか他人になつかないということだ。なんとか、近くのおじさんから、エサをもらって食べてくれてはいるが。
 買い猫にとって、飼い主の家に誰もいないことほど、不安なことはないだろう。犬や猫を、ペットとして飼うからには、飼い主は、食と住の安心を与え、そのペットを、ひとりきりの、不安な毎日にしてはいけないのだ。
 命ある限り、責任を持って飼わなければならない。なのに、私は、その責任を・・・ということより、ただ、ミャオと別れるのがつらいのだ、ミャオは、それ以上につらいだろうが。毎年、何度となく繰り返していることだけれども。
 ミャオ、しばしの辛抱だ。元気でいてくれ。

 若いころ、愛する人や尊敬する人、あるいは信じることのできる人のために、生きているのだ、という強い思いがあれば、何も怖くなかったのに・・・。しかし、歳月とともに、その信じていたものへの思いが、周りの変化とともに、少しづつ揺らいでいく・・・。
 そして、考えてしまうのだ、私が今まで、自分の人生をかけてやってきたことは、間違っていたのではないのかと。一方では、ただここまでやってきたのだから、もう十分ではないのか、とも。
 すると、すべての呪縛(じゅばく)から解き放たれ、目の前に、過去へのすがすがしい地平が広がるのだ。もう、これから先には何もない、きらめいたあの昔に帰ろうと・・・。
 
 ある昔のアイドル歌手が、亡くなった。私は、その後の彼女のことを何も知らないから、それが、良かったのか、悪かったのかは分からない。ただ、彼女が今ある世界から、自分だけの思いの中へと、解き放たれたのは確かだ。


 ミャオの、生きる力を思う・・・。

 


ワタシはネコである(101)

2009-04-18 17:56:16 | Weblog



4月18日
 快晴の空が広がっている。ワタシは飼い主を促して、朝から散歩に行く。暑くも寒くもない、今の季節が、やはり一番気持ちが良い。
 風はそよそよと、新緑の梢を揺らし、青空に映えて美しい。ウグイスの声が、のどやかに、長く伸びて聞こえる。
 岩の上にあがり、高みから辺りを見下ろす。他に何かいないか、音はしていないかと耳を澄ます。さらに、青々と茂った草を、少し食べる。たまり水を、ペロペロとなめて、さて一休みだ。
 そんなワタシを待っていて、しびれを切らした飼い主は、先に帰ってしまったが、まあそれでいい。 春の日差しの中、草むらの中で、しばらくのんびりとしていよう。

 「天気の良い日は、どうして、こうも気分が良いのだろう。そして、青空の下、家の周りの新緑の色合いが、キラキラと輝き、私の瞳を通して、体中に広がっていくようだ。
 こんな日の朝には、あのやさしい音楽を、ハイドンの曲を聴くとしよう。CDをセットすると、部屋の中に、初期の交響曲の一つの、穏やかな調べが流れていく。やっぱり、ハイドンは、いいなあと思う。

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)は、神聖ローマ帝国内のハプスブルグ家・オーストリアの、小さな村の貧しい家に生まれた。少年時代は、ウィーン聖歌隊に所属し、その後、34歳の時から58歳の時までを、西ハンガリーのエステルハージ公に、宮廷楽長として仕えた。
 しかし、ニコラス・エステルハージ公の死後、楽長の職を離れてから、二度にわたりイギリスのロンドンを訪れて、著名な音楽家として大歓迎を受けた。そして、再び、請われてエステルハージ家の楽長に戻った時期もあったが、病に倒れて、76歳で亡くなっている。
 ヨーロッパ中に、その名が知られた大音楽家であったにもかかわらず、実直で飾らない人柄が誰からも愛され、”パパ”ハイドンと呼ばれていたという。彼は、同時代のモーツァルトを、最高の音楽家だと讃え、さらに、若きベートーヴェンの才能さえも認めていたのだ。


 ハイドンは、エステルハージ宮廷のために演奏する、わずか20人ほどの小さなオーケストラの、楽長として仕えていたのだが、そんな長い宮仕えの歳月の中で、書き綴ってきた交響曲は、前任地のボヘミアでの分も入れると、92番まで数えられる。その後、楽長の職を離れてからの、ロンドン交響曲と呼ばれる後期のものを加えて、彼の作曲した交響曲は、全部で104番までということになる。
 他にも、オペラから声楽曲、さらに、これまた80曲をこえる弦楽四重奏曲を含む、様々な室内楽に至るまで、実に数多くの曲を書き残している。
 天才であったモーツァルトが、36歳の若さで亡くなっていることを思えば、確かに、その倍の歳月を生きたハイドンであったからこそ、これらの音楽が作られたのだ、と言えるのかもしれない。
 後世の私たちは、あのモーツァルトの夭折(ようせつ)を嘆く一方では、ハイドンの長命であったことの幸運を喜ぶべきであろう。

 聴いていたCDは、その1番から104番までのすべてを収めた、交響曲全集(アンタル・ドラティ指揮 フィルハーモニア・フンガリカ、DECCA 33枚組 没後200年記念盤、6,990円、写真上)からの一枚である。
 このドラティ指揮のものを、昔、レコード盤で買って聞いていた。1セット、5~6枚組で、9セットもあり、とても全部買えるはずもなく、2セットだけだったが、価格は、6枚組の廉価盤もので、8,100円。今、すっかり安くなったこのCDの値段と比べれば、隔世の感がある。
 しかし、この輸入盤レコードは、当時、その素晴らしい音質で評価の高かった、イギリス・DECCAのもので、、あのボスコフスキー指揮のモーツァルトとともに、未だに手元に置いてある。

 私は、音楽評論家ではないのだから、1956年の、あのハンガリー動乱で亡命した音楽家たちで編成された、このフィルハーモニア・フンガリカの演奏(録音は1969年から1972年)について、現代のフル・オーケストラや古楽器オーケストラと比較してなど、細かいところを、あれこれ講釈しても始まらない。
 ただ、すべての曲のそれぞれが、ハイドンの職人技とも言える意匠をこらしたものであり、その見事な音の流れに身を任せるだけで、私は、幸せな気持ちになれるのだ。このCDボックス・セットが、今年の今までの中で、最高の買い物であったことは確かである。

 もうひとつあげたいのは、前にも書いたことのある(12月13日と18日の項)、ハイドンのCDセットの一点である。
 ハイドン弦楽四重奏曲 作品64,76,77 モザイク弦楽四重奏団 (naiveレーベル 5枚組、5,390円、写真下)。
 今回のCDボックスのカバー絵は、トルコ風衣装に身を包んで座る、若い男の肖像画である。前回のカバー絵(コヴェントリー伯妃 メアリー・ガニング)とは、対になるものかもしれないが、『長椅子に座る紳士』という題名が記されているだけで、詳しいことは分からない。
  中の、それぞれのCDケース・カバーは、これまた見事な、リオタールやワトー、ブーシェなどのスケッチ・デッサン集である。
 演奏は、前回書いたのと同じように、素晴らしい。それまで聴いていたタートライSQ(弦楽四重奏団)やコダーイSQ、ウェラーSQのものと比べて、ピリオド(古)楽器の響きもあってか、新鮮に聞こえてくる。
 
 ハイドンは、音楽史の中では、バロックから古典派に変わった時代の、最初の偉大な一人として、記憶されているだけで、後ろにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトと続くだけに、その音楽は、あまり重要視されてはいなかった。
 しかし、今、この二つのCDセット聴きながら思うのは、ハイドンの人柄を映すような、そのたおやかな音の流れについてである。
 自分の宮仕えの音楽家としての仕事を、主人の趣向にかなうように、実直に務めあげながらも、その仕事の中に、己の喜びと、音楽の真実を見つけていくこと・・・。
 一方、モーツァルトとベートーヴェンは、宮廷音楽家としての、安定した地位を求めながらも、己の誇りと強い自負心のために、辛い境遇の中で、ひとりで闘い反抗し続けて、音楽家として生涯を終えることになった。しかし、彼らのその苦闘ゆえにこそ、数々の名曲が生み出された、ともいえるのだが。
 さらに、私の思いは、前に4回にわたって書いてきた(3月28日~4月8日の項)、あの岩佐又兵衛のところにまで、さかのぼっていく。
 つまり、そこには様々な人生があり、様々な歓喜と悲哀があったのだと、誰しも、そんなふうに・・・。


参考文献 『大作曲家の生涯』(H・ショーンバーグ、共同通信社)、『名曲大辞典』(音楽之友社)、ウィキペディア他のウェブサイト。


ワタシはネコである(100)

2009-04-15 19:34:15 | Weblog



4月15日
 昨日は、久しぶりの雨だった。気温も、朝の10度から殆んど変らなかった。
 それまでは、毎日晴れて、20度前後までも上がる、暖かい日だっただけに、余計に肌寒い感じだった。ワタシはずっと寝ていた。

 三日前のこと。夕方、飼い主と散歩に出て、一緒に帰る途中に、一台のクルマが来て近くで停まり、子供の声が聞こえ、家族連れが降りてきた。どうやら近くに生えていた、ツクシなどを取りに来たらしい。
 飼い主は、挨拶していたみたいだけれど、ワタシは用心深くて、知らない人やクルマに会うのは、イヤなのだ。飼い主がワタシを呼んだけれど、ワタシは怖くて、動けない。
 その後、家族連れは帰ってしまったが、夕暮れから夜になってしまい、とうとうワタシは、人のいない家の軒下に潜り込んで、一夜を過ごすことになった。
 一晩中、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の徘徊(はいかい)する、物音の中で、よく眠れなかった。
 朝が来て、日が十分に高くなってから、家に戻った。ニャーオと鳴いて、ベランダに上がると、キャットフードとミルクは置いてあったが、飼い主はいなかった。
 飼い主のいない時に、ベランダにいると、他のネコが来て、落ち着けないし、危険でもある。少し離れた物陰の中で、横になって過ごした。
 夕方前に家に戻ると、飼い主も帰ってきていた。ニャーニャー鳴いて、今までの心細さを訴える。それでも、オーヨシヨシとムツゴローさん可愛がりをされて、サカナをもらうと、もうみんな忘れてしまうのだ。
 しかし、その夜から、ワタシは、ずっと寝続けたのだ。気分も悪く、食欲もなく、じっと寝ているしかなかったのだ。時々起きながらも、一日半、寝続けて、ようやく今朝になって、元の体に戻った感じだった。 
 キャットフードをカリカリと食べて、ミルクを飲んでいるワタシを、飼い主がなでてくれた。それから、雨上がりの晴れた空の下、飼い主と散歩に出た。毎日変わらずに、同じことを繰り返すことが、一番ありがたいことなのだ。

 「昨日の、久しぶりの雨の後、今日は、雲はあるものの、さわやかに晴れて、春のそよ風が心地よい。
 午前中、ミャオと一緒に散歩に行ってきた。辺りの臭いをかぎまわり、元気に歩いているミャオの姿を見ているのは、心楽しいものだ。
 まる一日以上、寝続けていて心配したが、今朝になって、いつものミャオに戻っていて、一安心。なにしろ、去年は、私が北海道へ行く前に、大事件が起きて(’08.4月14日~4月24日の項)、ミャオも私も大変だったのだ。
 今回も、もしやと心配して、ミャオの体のあちこちを見てみたが、どこにも傷や痛がるところはない、とすると、やはり、心因性によるものだったのだろうか。
 イチローの、WBCの重圧による胃潰瘍(いかいよう)の場合や、私がずっと前に、ヒグマに会った後、軽い胃潰瘍になった時とは(’08.11月14日の項)、少し意味は違うけれども、ミャオもまた、それ以上に、生死にかかわる程の、心因性の拒食症になったことがあるからだ(’08.2月11日、13日の項)。
 一昨日、私は用事があって、朝早く家を出て、遠くの町まで行ってきた。ミャオが戻ってきたのは、私が帰ってきた後だった。そして、ミャオは、その夜から寝込んでしまったのだ。
 それは、ミャオが、もうそろそろ飼い主がいなくなるころだと、気づいたからなのか、と私は心苦しく思っていた。しかし、ミャオがまた元気になってくれて、それは、私の取り越し苦労だとわかったのだが、どのみち、ミャオとの別れの日は近づいてきている。

 ところで、数日前、まだ良い天気が続いていた頃、私は、久しぶりに、近くの山を歩いてきた。ほんの3時間ほどだったけれど、やはり、いつ行っても山はいいなと思う。
 家からそのまま、歩いて行く。道のない林の中に入り、急な斜面を下り、涸れた沢を渡って登りかえすと、古い林道に出る。ここからは、誰もいない道を、のんびりと歩いて行く。
 枯れたような木々の、あちこちの枝先から、小さな新緑の葉が開きかけている。そして、道を曲がると、大きなヤマザクラの木が満開だった。いっぱいの白い花と、みずみずしいアズキ色の新緑の葉が、青空に映えて美しい。
 さらに歩いて行くと、黄色いキブシの花が、垂れ下がるように、鈴なりに咲いている。道端には、小さなハルリンドウの紫の花も見える。
 道をたどると、まだ枯れたままの、ススキの丘に出る。雲ひとつない青空の下、周りの山々がよく見えて、柔らかい風が吹いている。足元には、所々に、キスミレの花が咲いていた(写真)。
 このキスミレは、環境庁の絶滅危惧種2類に指定されているけれど、ここ九州でいえば、地域的な差はあるだろうが、その心配は全くないと思う。
 それは、阿蘇山から九重の山々、そして由布、鶴見岳周辺の高原や山裾にかけて、至る所で見ることができるからだ。春に、野焼された後の、まだ灰まみれの草原には、辺り一面に、びっしりとこのキスミレが咲いている。
 北海道では、春になると、カタクリやエゾエンゴサク、そしてミズバショウの花などが、原野のあちこちに、咲いているのを良く見るけれども、このキスミレは、それをはるかにしのぐ規模である。
 普通一般に言われるスミレは、例のスミレ色、紫色のものだが、黄色いスミレは、高山性のものが多く、このキスミレも、九州では、いわゆる高原地形の所で見られる。
 高山植物のキバナノコマノツメは、高山の草原帯で見かけ、タカネスミレは、高山砂礫地に見られる。特に、タカネスミレは、北海道の大雪山系に多く、場所によっては、この九州の一大群落に匹敵するほどである。
 山で一番好きなのは、雪の季節だと言ってはみても、こうして春になれば、花が咲き、新緑が目に映えて、やはり、当然のことながら、山はいつの季節も良いものなのだ。
 あの“日本百名山”で有名な、深田久弥氏が、あなたの一番好きな山はと聞かれて、『最近登ってきたたばかりの山です』と、答えたそうだが、その気持ちはよく分かる。
 私も、数日前の、このわずか3時間ばかりの山歩きが良かったと思う、何よりも、その印象が新しいものだから。

 ところで、この三日ほどの間に、テレビで幾つか良い番組を見ることができた。今まで書いてきた、岩佐又兵衛のことと関連してもいるので、簡単に書き記しておく。
 4月13日 NHK教育 『心の時代 桜を守る・命を伝える』(再放送 あの桜守で有名な、京都の佐野藤右衛門さんの心にしみるお話。)
 4月12日 NHK・HI 『ハイビジョン特集 幻の色・よみがえる浮世絵』(浮世絵復元の色刷りの鮮やかさ、ましてそれがあの”奇想の系譜”の一人、歌川国芳だからたまりません。)
 4月12日 NHK教育 『日曜美術館 曽我蕭白(しょうはく)』(再放送 さらに”奇想の系譜”の絵師の一人、蕭白の絵を、テレビ画面で見ることのできる喜び。)

 断わっておくけれども、私はNHKとは、何の関係もない一個人だけれども、良い番組を制作してもらい、いつも感謝しているのだ。中高年の人々に近いNHKは、年寄りたちに近く、ひいては天国に近く、はい、そう言うことで、神の御恵みがありますように。
 
 


ワタシはネコである(99)

2009-04-11 18:49:52 | Weblog



4月11日
 もう一週間、これほど長く、快晴の日が続いたのは、ワタシが生まれて、14年もの間、他に記憶がない。
 気温は毎日、20度前後まで上がり、朝や夕方は、まだ少し冷えるが、日中は、もう暑くて、日向は避けたいくらいだ。つい、この前までは、暖かい日だまりを探していたというのに。
 他のネコたちも来なくなったし、エサ場の鳥たちも少なくなった。夕方前に、飼い主からサカナをもらい、その後、一緒に散歩に出かけるまで、ワタシはぐうたらに寝て過ごす。
 年寄りネコだもの、静かなところで、のんびりと暮すのが、一番なのだ。飼い主は、その年の割には、あちこち出かけたり、庭で仕事をしたりと、まあご苦労様だこと。

 「暖かすぎるほどの、春の日の中で、満開のヤマザクラの花が、風もないのに、はらはらと散り落ちている。
 『ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ』(紀友則、『古今集』より)
 花といえば桜の花であった、そのいにしえの人たちの思いは、今の時代に生きる、私の心にも伝わってくる。私たちが、日本人であることを、知らないままに受け継いできた、小さな、かそけき声の響きを、この歌の中に、聴く思いがするのだ。

 前回まで、安土桃山の時代から、江戸時代初めに生きた大和絵師、岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち、1578~1650)について書いてきたのだが、その後、この日本人の心を映す、一つの鏡でもある日本の絵画は、どのように、変化発展していったのだろうか。


 岩佐又兵衛の絵には、一つには狩野派や土佐派に代表される障壁画(しょうへきが、屏風、ふすま絵など)の技法から学んだものが、さらに平安時代からの絵巻物の伝統を受け継いだもの、さらには室町時代からの水墨画の要素も含まれている。
 平安時代の唐絵から、大和絵へと変化を遂げた、狩野永徳(えいとく)や狩野探幽(たんゆう)に代表される、障壁画は、その後、俵谷宗達(そうたつ)や尾形光琳(こうりん)に受け継がれ、日本画の代表的な流れの一つになる。

 一方、江戸時代初めに生まれ、その後の二百年を越えて隆盛をみた浮世絵は、その始まりを、”浮世又兵衛”の呼び名を与えられた岩佐又兵衛とする考え方もある。
 しかし、一般的には、後に浮世絵の諸流に分かれたその大元の絵師として、『見返り美人』の絵で有名な、あの菱川師宣(ひしかわもろのぶ、1615~1694)の名があげられている。
 その浮世絵は、鈴木晴信(はるのぶ、1725~1770)、勝川春章(しゅんしょう、1726~1792)、鳥居清長(きよなが、1752~1815)から、ついに、あの浮世絵の代名詞ともなった喜多川歌麿(うたまろ、1753~1806)、役者大首絵(おおくびえ)の東洲斎写楽(しゃらく、~1794前後~)、『富嶽三十六景』の葛飾北斎(ほくさい、1760~1849)、歌川豊国(とよくに、1769~1825)、『東海道五拾三次』の安藤(歌川)広重(ひろしげ、1797~1858)へと続いて、絶頂を迎えて、明治時代の文明開化の幕開きとともに、終息していくことになる。

 肉筆による屏風、ふすま絵が、いわゆる高位の武家や寺社、そして富裕な商人たちだけのものであったのに比べて、浮世絵は、版画技術の発達によって、大量に印刷され、だれでも安く手に入れて楽しむことができる、まさに庶民のためのポスター絵であったのだ。
 逆にいえば、数多くの人たちに支持された大衆芸術であったがゆえに、絵画芸術としての限界もあった。それは、西洋絵画に比べて、厳密な写実性には欠け、陰影がなく、色調が単純であるという欠点を、そう簡単には克服できなかったからである。
 しかしその反面、明確な図柄と紋様化により、さらに大胆な構図を用いて、誰にでもわかりやすく、時代の求めに応じて、描くことができたのだ。

 一方、遠く離れたヨーロッパでは、ルネッサンスからバロックをへて、新古典、ロマン派へと、その写実の表現方法は、すでに遠近法による三次元的手法へと、きわめ尽くされていた。それゆえに、印象派の時代の西洋絵画にとって、日本の浮世絵の、二次元的平面での、大胆な構図と意匠化こそが、新たな時代を切り開く手掛かりになったのだ。
 極端にいえば、ゴッホ、マネ、セザンヌだけでなく、フォービズム、キュビズムなどの現代の抽象画につながるものを、その一因を、日本の浮世絵が与えたということにもなるのだ。

 しかし物事はそう単純ではない。浮世絵が、単純な線と色彩の木版画であったことが、大量生産され、一般化された利点を持つと共に、限界として、大衆迎合的な芸術に終わってしまったことをも意味している。つまり、それは、写真の出現によって、まさにあっけなく消え去ったからである。
 浮世絵の大衆化は、一方では、絵画史の流れから見れば、同時代の人には理解されずとも、人間の内面に深く迫る絵画芸術へと、昇華していくような作品の萌芽(ほうが)を、阻むことになったとも言えるのではないだろうか。

 もちろん、私は浮世絵の芸術性をを否定するつもりなど、全くない。あくまでも、西洋絵画との比較で、考えたまでのことだ。むしろ、浮世絵の作品を見るたびに、その洗練された線描画と、考えつくされた構図、紋様、色づかいに、見入ってしまい、いつしか、日本人の心を、桜の花びらの心を、思ってしまうのだ。
 それらの浮世絵の中で、私が特筆したいものは、勝川春章の描いた数少ない肉筆浮世絵の、『雪月花美人三幅対』(各93cm×32・2cm)と『婦女風俗十二ヶ月図』(各115cm×25,7cm)である。
 特に、『十二ヶ月図』の方は、一月と二月の絵が欠けていて、三月から十二月までの、9点だけであるが、いずれも素晴らしい作品である。(写真は、『三月 蹴鞠(けまり)』の一部分、MOA美術館蔵。)
 この春章の描く、理想化された、品のある日本女性の美しさは、後年さらに、昭和初期の美人画の典型として、あの上村松園(うえむらしょうえん、1875~1949)や鏑木清方(かぶらききよかた、1878~1972)へと受け継がれていくのだ。
 
 ところで、私は、その昔の若いころの、ヨーロッパ旅行の時に、確かプラハでだったと思うが、12ヵ月のセットになった、ミュシャのポストカードを、買ってしまった。まだまだ、長期間の旅行の途中だったので、余計なものは買うまいと心に決めていたのに、どうしても手に入れたくなったのだ。
 アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)は、チェコスロヴァキア出身の、アール・ヌーヴォーを代表する画家の一人で、リトグラフ版画による、ポスターや挿絵(さしえ)画家として活躍した。
 今、私の手元にある、その12枚のカードを取り出して見て、次いで、勝川春章の『十二ヶ月図』を見る。ヨーロッパと日本の絵、いずれも素晴らしい。和の心、洋の心・・・。

 ・・・ニャオ、ニャーオ。おお、ミャオか。オマエは、とても美人ネコとはいえないけれど、しっかりと、和の心は持っているからな。
 オレがこうして、絵を見ているのは、まあ、かなわぬことだからこそ、せめて絵を見ていたいだけなんだがね。」


参考文献 『浮世絵大系・全17巻』(集英社)、『日本の名画・全26巻』(中央公論社)、ウィキペディア他のウェブサイト。
 


ワタシはネコである(98)

2009-04-08 17:48:38 | Weblog



4月8日
 すっきりと晴れ渡り、20度近くもある暖かい日が続いている。一週間前に、雪が降ったのが信じられないくらいだ。
 こうした、ネコ日和(びより)の良い日には、ワタシは家から少し離れて、といっても飼い主の動静は分かるくらいの所にいて、日向ぼっこをしたり、うたた寝をしたりして過ごす。
 お日様の加減で、大体の時間が分かるから、そろそろだなと、体を起こして、家に帰る。ニャーオ、ニャーオと鳴いて、飼い主に知らせて、サカナを催促する。
 しっかり、サカナを食べた後、顔の周りの毛づくろいをして、飼い主を見て、ニャーゴと鳴く。そして一緒に散歩して回り、家に戻る。毎日は、その繰り返しで良いのだ。あーニャン、ニャンと。

 「家のヤマザクラが、ようやく満開になった。全く、毎年のことながら、青空を背景にして、鮮やかな一幅の絵を見るようだ。その下のシャクナゲの木も、桃色の大きな花を咲かせ始めた。
 ウメの木は、花もすっかり終わり、小さな緑の葉が開き始めた。重たげな赤い椿の花が、幾つも地面に落ちている。春は、すこしづつ動いているのだ。

 さて、前回は、岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえ・かつもち、1578~1650)の『山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻』について、幾つかの資料をもとに、ささやかな私見を述べてみたのだが、まだまだ、この又兵衛については、書きたいことがいろいろとある。
 まず、彼の残した画業の中でも、その膨大な量に圧倒される絵巻物については、前に書いたように(3月31日の項)、『堀江物語絵巻』、『上瑠璃(じょうるり)物語絵巻』、『小栗判官(おぐりはんがん)物語絵巻』などがあるが、これらもまた、『山中常盤』と同じように、当時の仇討物語の人形浄瑠璃芝居をもとにしたものであり、いずれも、あの『新日曜美術館・岩佐又兵衛』の番組のサブ・タイトルどおりに、まさに“驚異の極彩絵巻”と呼ぶにふさわしいものばかりである。
 それは、印刷技術もなく、ましては映写フィルムもなかった当時の人々にとっては、他では見ることのできない、唯一のオール・カラーの、連続して完結する、物語絵巻だったのだ。
 ただ、そこに描かれた、金箔に赤や緑の原色の色合いは、現代人の我々の目から見ると、ややけばけばしく、なじみにくい気もする。しかし逆にいえば、我々は、日常的に余りにも、あふれる色彩の中にいて、色彩の刺激に慣れ過ぎていて、さらにはその配色にさえうるさくなっている、とも言えるのだが。

 次に、又兵衛の描く美人美男図には、特徴的な、ぽっちゃりした頬に長い顎(あご)の、いわゆる”豊頬長頤”(ほうきょうちょうい)と呼ばれる顔の描き方がある。(前回の常盤の絵を参照)
 さかのぼれば、それ以前に描かれた平安、鎌倉時代の大和絵や絵巻物(『源氏物語絵巻』など)に特徴的に見られる、あの”引目鉤鼻”(ひきめかぎばな、下ぶくれの顔に細い眼と”く”の字型の鼻)の発展形と見られなくもない。
 しかし、たとえば名品といわれている、『伊勢物語・梓弓図』や『楊貴妃(ようきひ)図』などは、これもまた、現代人の我々から見れば、余りにも下あごの部分が誇張され、長すぎて、とても美男美女には見えない。悪く言えば、近頃はやりの、趣味の悪い女装の男性に見えてしまうほどである。 


 もちろん、又兵衛の描く人々の顔が、すべてこの”豊頬長頤”で描かれているわけではない。一般人の男女の姿などは、無理な誇張表現なども少なくて、むしろそれぞれに表情豊かに、生き生きと描かれているのだ。
 まして、江戸に出てきて、つとにその名声は上がり、その名を”浮世又兵衛”と、呼びはやされ、後世には、浮世絵の元祖とさえいわれるようになった名絵師の描く絵が、とてもあの不自然な“豊頬長頤”のままで終わったとは思えない。
 つまり、又兵衛の死後、浮世絵が、菱川師宣(もろのぶ)、鈴木春信(はるのぶ)、勝川春章(しゅんしょう)へと発展していく中で、あの“豊頬長頤”の絵のままでは、余りにもつながりがない。むしろ断絶しているとさえ思われるのだ。
 しかし、ここに、その間をつなげるような、又兵衛作といわれる一点がある。前にも(3月31日の項)、少しふれた、『湯女図』(写真、MOA美術館蔵)である。
 当時、町中に作られ始めていた湯屋(ゆうや、銭湯)で、客の垢(あか)すりをしたり、時には酒色の相手なども務めていた、といわれる湯女たちの姿である。
 まず気づくのは、彼女たちそれぞれの、バランスの取れた体形と立ち姿の美しさである。それはもう、殆んど現代の女性たちの姿と変わらない。昔の日本人の体形と言われた、胴長短足の面影はどこにもない。
 今までの、“豊頬長頤”の又兵衛の絵にはなかった、現代の我々が見ても違和感のない、確かな構図による美人画である。
 彼女たちそれぞれが、描き分けられていて、顔に白粉を塗ったままの者も塗っていない者も、一人一人に顔の表情も違う。さらに、それぞれのヘアー・スタイルも微妙に違うし、何よりも彼女たちの、着物の柄模様が素晴らしい。あの極彩色の又兵衛とは思えない、品のよさである。
 しかし、あの有名な又兵衛研究家の辻惟雄氏は、『岩佐又兵衛(文春新書)』の中で、この絵を、『私娼の生命力を賛美する反美人画』だと書いておられるけれども、私には、とても反美人画には見えない。老齢の又兵衛が、当時の流行(はや)りの女たちがそぞろ歩く姿を見て、美しいと思って、描いた絵ではないのかと思う。
 意味合いは違うけれども、前に書いた(3月7日の項)、一休宗純和尚が、晩年、森侍女との愛の日々に夢中になったように、この絵は、又兵衛が晩年になって、今を生きる若い女たちを見て、憧れに似た思いで、描いた絵ではないのかと。あのルノワールが、晩年に至るまで、若い女たちの、満ち溢れるような肉体に拘泥(こうでい)したように。

 私は未読だけれども、この絵について詳しく書かれた、『湯女図―視線のドラマ』(佐藤康宏、平凡社)という、優れた本があるとのことである。
 その中で、この絵は二曲一双の屏風絵で、失われたもう一つの絵には、対立するように吉原の遊女たちの姿が描かれていて、右端の女(彼女だけ地味な縞柄の着物)だけは、その吉原の仲間の一人ではないか、と推測されるとのことだ。
 なるほどと思うと同時に、失われたその片方の屏風が出てこないものかとも思う。絵画の由来は、それぞれに深いのだ。

 ともかく、この絵が又兵衛作だとすれば、浮世又兵衛の呼び名も納得できるし、江戸に出てきてからの作品の数が少ないことからいっても、風俗画ゆえに、落款(らっかん)を押していない又兵衛の絵が、実は幾つもあるのではないかとさえ思う。
 画家は、その作風が、若いころからあまり変わらない者もいるが、むしろ青年時代、中高年、晩年へと、その作風を変える人たちも多いのである。

 数回にわたって、岩佐又兵衛について書いてきたけれども、まだ書き足りない気もする。しかしこのあたりで、あくまでも私見によるだけの岩佐又兵衛の話は、終わりにすることにしよう。
 ただ、私は、確かに曽我蕭白(そがしょうはく)や河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)などは、まさに”奇想の画家”たちにふさわしいとは思うけれども、岩佐又兵衛は、”奇想の画家”の系譜に位置する一人だとは思わない。
 ただ彼は、過酷な運命の下に生まれ、過去と現実のはざまで苦しみながらも、生き抜いて、その思いを込めて、忠実に絵を描き続けた、一人の絵師だったのだと思う。」

 (参照文献等は、3月31日の項に同じ。)
 


ワタシはネコである(97)

2009-04-04 17:27:18 | Weblog



4月4日
 久しぶりに、雨の一日になった。しかし、今までの寒い雨の日と違い、どこか暖かい感じで、気温も10度を越えている。
 ところが二日前の朝は、飼い主が戸を開けてベランダに出た時に、一緒に外に出てみて驚いた。何と、一面に雪が積もっていたのだ。
 家の近くにある、ソメイヨシノのサクラの花が満開だというのに。もっとも、わずか1cmほどの積雪で、昼には溶けてしまう、春の淡雪だったけれど。
 今日は、という訳で、家の中にいるが、それでも、トイレや、家の周りの監視行動で、二回三回と外に出た。戻るたびに、ニャーと鳴いて飼い主に知らせ、雨に濡れた体をふいてもらう。
 ノラの時には、誰もそんなことはしてくれないから、雨に当たらないところで、ひとり、念入りに体の毛をなめて乾かすしかなかった。
 時には、イヤになる鬼瓦顔の飼い主だが、こうして、体を拭いてもらうと、やはり良い気分だ。ニャーオ。


 「戦国時代から江戸時代の初めにかけて、さまざまの屏風(びょうぶ)絵や絵巻物の名作を描き残した絵師、岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえ・かつもち、1578~1650)。
 前回は、簡単に、その生涯と作品を紹介したが、今回は、その中でも、特に私が衝撃を受けた、あの『山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻』について話を進めたいと思う。


 この『山中常盤』は、幅34cmの絵巻物で、全十二巻からなり、それぞれ12mほどの長さがあり、合わせて150mにも及ぶ長さになるという。
 内容は、鎌倉時代に成立したといわれている御伽草子(おとぎぞうし)の中の一編、『山中常盤』からとられていて、当時は、人形上瑠璃(浄瑠璃、じょうるり))としても、演じられていたらしい。(御伽草子は、別名、室町物語とも呼ばれ、『一寸法師』や『浦島太郎』など、その数は三百余りもある。)
 この『山中常盤』の話は、それゆえに、史実とは少し異なり、あの牛若丸伝説にもとづく、仇討(あだうち)物語になっている。
 
 牛若丸は、生まれ育った京の都を離れて、奥州藤原氏のもとに向かった(3月28日の項の写真、MOA美術館蔵)。一方、わが子を案じる常盤御前(ときわごぜん)は、お供の女を連れて、後を追う旅に出る。
 中仙道は、美濃の国、山中の宿(やまなかのしゅく)に泊まった時に、盗賊の群れに襲われ、二人は身ぐるみはがされてしまう。(当時の都びとの着物は、お宝である。)
 常盤は、せめて一枚の着物だけは残してくれ、さもなくば、この裸の姿で恥をさらすくらいなら、いっそ殺してと、盗賊たちに向って泣き叫ぶ。
 それを聞いた盗賊は、常盤を、そして侍女をも、刀で刺してしまう。
 盗賊たちが去った後、常盤は、駆けつけた宿の老夫婦に抱きかかえられ、今はの際(きわ)の言葉を残す(写真、MOA美術館蔵)。
 一方、牛若は母の身を案じて、京に戻る途中、偶然にも同じ山中の宿に泊まり、その夢枕に亡き母が現れて、無念の思いを語り、仇討をと頼む。
 そこで牛若は、一計を図り、盗賊たちをおびき寄せて、彼らをことごとく切り殺してしまう。(この陰惨な場面は、痛快というよりも、ほとんど劇画じみた残虐な形で描かれている。)
 再び、奥州に戻った牛若は、三年後、都に向かう軍勢を引き連れて、山中の宿に立ち寄り、母の墓に詣でる。

 そして、この絵巻物の中では、特に、常盤と侍女が盗賊に襲われ、殺されるまでの一部始終が、二巻にわたって詳しく描かれている。
 六人の盗賊たちが、鎧(よろい)までもつけた侍姿の格好で、宿に押し入り、常盤と侍女の、五枚重ねの着物をはぎ取る。下帯姿の裸のままで、泣き叫ぶ二人。その常盤を引き倒し、左手で髪を引きつかみ、刀で胸を刺しながら、憎々しげに笑う盗賊。助けに寄った侍女も、刺し殺され、盗賊は去り、駆けつけた宿の老夫婦に、抱き起こされながら、息絶え絶えの中で、後を託す常盤の姿。


 舞台劇としての形を踏まえて、何とリアルな修羅場(しゅらば)として描かれていることだろう。当時の人形浄瑠璃の囃子(はやし)の音も消えて、ただ、盗賊たちの刀や帷子(かたびら)のふれあう音がして、野太い声がいきかい、そして常盤と侍女の叫びが聞こえてくるような・・・。
 武力だけがものを言う戦国の世、か弱い存在でしかなかった女たち、どれほどの暴虐の数々があり、どれだけの人々が、理不尽(りふじん)な運命のもとで死んでいったことか。
 一国の城主の子として生まれながら、何もわからぬ乳飲み子の時に、母は殺され、自分だけはその命を救われ、こうして生きている・・・荒木の姓を棄て、侍を棄て、町絵師として絵筆を握りながら、その時、岩佐又兵衛勝以の胸に去来してたものは、何であったのか。
 
 又兵衛の母については、『信長公記』や『織田軍記』の中に、以下のように記載されている。
 ・・・(聞こえのある美人)荒木が妻、だし、二十一歳・・・。
 さらに、京都での処刑の時の、彼女の辞世の句が残されている。
 『残し置く そのみどり子の心こそ 思ひやられて 悲しかりけり』


 又兵衛にとって、物語の常盤の姿は、記憶にもない亡き母、”だし”の姿に重なったのだろう。おそらく又兵衛は、涙を流しながら、その絵を描き続けたに違いない。
 その母の無念の思いを、そして自分の心のたけを、絵に注ぎ込んだのだ。それは、母に対する鎮魂歌であり、また自分の過去への、決別でもあったのだろう。

 私は、この『山中常盤』絵巻のすべてを見たわけでもなく、ただ、本や雑誌、テレビ番組、ウェブサイトなどで、その幾つかの場面を見たにすぎないのだけれども、 それでも、この常盤の死の場面には、又兵衛の思い入れが感じられて、心打たれてしまう。
 さらに、牛若が仇討ちで、盗賊たちを切り殺す場面は、その復讐の思いが爆発するように、ある意味では舞台劇的な明快さで、残虐なまでの、一刀両断の型が発揮される。 もっとも、戦国の世に生きた又兵衛にとって、そんな殺戮(さつりく)の場面などは、何度も見てきたに違いないのだろうが。
 ともかく、そうして、又兵衛自身の思いも、締めくくりの完結へと向かうのだ。


 蛇足ながら、史実に近いとされる『平治物語』、『義経記』(いずれもウェブ上で読むことができる)等によれば、常盤御前は、美女の誉れ高く、近衛天皇の中宮、九条院に仕えていた。
 その後、源義朝(よしとも)の側室となるが、その義朝が平治の乱で、平氏に敗れて死に、今若、乙若、牛若の三人の幼い子供を連れて、大和の国に落ちのびる。
 しかし、逃げきれずに、平清盛(きよもり)のもとに出頭する。この時、常盤は23歳。そして、何とか三人の子供たちの命は救われて、常盤は清盛の愛妾になる。その後、一条長成の妻となり、子をもうける。
 しかし、平家滅亡の後、我が子、義経(牛若)は、兄の頼朝に追われて、都を落ちのびて奥州藤原氏のもとへと逃げる。常盤は、その後、縁者を頼り、大和の国の山里で余生を送ったとも、あるいは、義経の後を追って、奥州へ向かったとも言われているが、定かではない。
 彼女もまた、平氏と源氏の戦乱の世に生きて、運命の浮き沈みに翻弄(ほんろう)され、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、その無常の響きを聞いた、一人でもあったのだ。



 ともかく、できることなら、この絵巻物の全巻をつぶさに見たいものではあるが、MOA美術館でいつでも見れるわけでもないし、現在出版されているものはない。
 ただ、2004年に、あのドキュメンタリー映像作家として有名な、羽田澄子氏によって、その全巻が撮影され、浄瑠璃の音楽を加えて、映画として公開されている。
 地方に住む私たちにとっては、たとえ劇場公開が分かってはいても、おいそれと上京できるはずもなく、私も見ることができずに残念だったが、いつか、心ある放送局の取り計らいで、テレビ放送されることを願ってやまない。
 まだまだ、岩佐又兵衛の絵については、書いておきたいことが、いろいろとあるので、さらに次回へと・・・。」


参照文献などは、前回(3月31日)の末尾、前々回(3月28日の項)に同じ。