ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

北国の冬を想う

2014-12-29 22:47:53 | Weblog



12月29日

 (写真 2012年11月下旬 北海道  朝日にきらめく雪面


 雪、白く積めり。
 雪、林間の路(みち)をうずめて平らかなり。
 ふめば、膝(ひざ)を没(ぼっ)して更(さら)にふかく 
 その雪、うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す。
 燐光あおくひかりて、不知火(しらぬい)に似たり。
 ・・・・。
 わずかに、杉の枯葉をひろいて
 今夕の炉辺(ろべ)に、一椀(わん)の雑炊(ぞうすい)を暖めんとす。
 敗れたるもの、かえって心平らかにして
 燐光の如(ごと)きもの、霊魂にきらめきて美しきなり。
 美しくて、ついにとらえ難(がた)きなり。

 (高村光太郎詩集 『典型』 より 「雪白く積めり」 集英社版日本文学全集第19巻)

 いつもよりは、雪が多いという北海道は十勝の平野に。
 林に囲まれたあの小さな家は、ひとりじっとたたずんでいることだろう。
 一面の雪の中、物音ひとつ聞こえない、時のしじま(静寂)の中で。
 一番大切なことは、そこにそうして在り続けることなのだよ・・・。
 高い空の上で、北風の音がしたような。
 あの北国の冬を想う。

 さてここ九州では、一週間もの間、思いがけなくも天気の良い日が続いた。
 それは、毎日快晴の日が続いたということではなく、曇りがちな日でも雨の日がなかったということだ。
 雪はその前に降ったきりで、最低気温はー5度前後で、最高気温は7,8度といったところで、昨日などは10度を超える暖かさになっていた。
 それは庭仕事を終わらしてしまうには、まさにちょうど良い一週間だった。
 もちろんここは、あの北海道の家ほどに広い庭ではないが、といって町中の家の庭ほどに狭くはなく、山間部の人里の家ならではの庭の広さがあるのだ。
 その昔、今は亡き母と二人で植え込んできた灌木(かんぼく)のたぐいや、生け垣そして周りの木々などが、年ごとに野放図(のほうず)に成長していくので、どうしても年に何度かは、刈り込んだり枝切りしたり、さらには庭中の枯れ枝枯葉を片づけたり、屋根に上がって所々にたまっている枯葉を掃除したりしなければならないのだ。

 途中で一度、買い物や用事で街に出かけた以外は、毎日、庭仕事に追われた。
 一日わずか数時間足らずの、気ままな庭仕事ではあるが、それなりに体力は使うし、高い脚立(きゃたつ)に上がっての仕事は、さすがにこの年になると、危険な作業になってくるのだが。
 夕方に仕事が終わり、部屋に戻って一息ついた後、簡単な食事を作って食べ、そしてこの後は、モー牛になったところで構いやしないからと、コタツに入ったまま横になってテレビ・ニュースやバラエティー番組を見て、半ばうつらうつらとして時は過ぎ、おっともうこんな時間かと起き上がり、食事あとを片付けて風呂に入り、上がればもう眠たくてそのまま布団の中に。
 やるべきことをやれば、それでいいのだ。

 何度もここであげている、あのギリシア時代のヘシオードスの『仕事と日(労働と日々)』(’12.3.18の項参照)やローマ時代のキケローの『老年について』(’12.6.3の項参照)、ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』(12月1日の項参照)などに書いてある通りに、人は働かなければならないし、おのずから動き出したくなり、働きたくなるようにできているのだ。
 もちろんそれが、余りにも過酷な”労働と日々”であれば、その拘束からの解放を求めたくなるだろうし、と言って解放後の自由すぎる放縦(ほうじゅう)な生活はまた、ある程度束縛される労働を望むようになるのかもしれない。

 そこでふと思い出したのは、ルネッサンス後期の16世紀オランダの画家、あのブリューゲルの一枚の絵『怠け者の天国』である。
 それはテーブルに見立てた一本の木の下で、三人の男たち(貴族、兵士、農民)が飽食(ほうしょく)の宴(うたげ)のあと、大の字になって、あるいは横を向いて寝ている姿を描いたものなのだが、周りには彼らが食べた物が散乱している。
 この絵は、誰が見ても分かるように、ぜいたくな食事への戒(いまし)め、怠惰(たいだ)な生活への戒めであることは見てとれるのだが、果たしてそれは今日まで続く戒めになっているのだろうか。
 否、否。今の時代は、グルメ・ブーム、名店レストランのランク付けなどがもてはやされ、その陰で恐るべき量の食べ残し、賞味期限切れの食べ物がゴミ扱いで処分され、その一方では飢えに苦しむ人々が世界中にいるというのに。
 ましてや華美な生活や労働しない生活が選ばれし者たちのためにあり、なおさらのことだが。
 しょせん人は、いつも書くように、群れの一頭がライオンの犠牲になって、他の自分たちは助かったと、遠くで見守るヌーたちのようなものだから。
 いつの世も、人は自分の身に及んで初めて、伝えられてきた戒律の正しさに気がつくのだが、いつも時すでに遅しだし、それでも人間の歴史は続いてきたわけだし、私たち年寄りが、何も今を盛りの愉しみの中にいる人々にあれこれというべき事柄でもないのかもしれない。

 そして、今の人の世はいろいろあれども、つまりは旧約聖書の冒頭にあるように・・・。
 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」
 ・・・という神の言葉、そのままなのかも知れない。
 もっともこの言葉こそが、実は人間そのものの、傲岸不遜(ごうがんふそん)な思いを表しているようにも思えるのだが・・・それも年寄りの繰り言(くりごと)か。
 
 元に戻れば、ただ一人のじいさんが庭仕事をしたというだけの話から、何と神をも恐れぬ聖書の話にまで及んで、我ながらこのばちあたりめがとも思うが、はいそれでもちゃんとクリスマスの夜には、毎年同じように、あのバッハの『クリスマス・オラトリオ』を、神妙にそして心楽しく聞いておりますれば、なにとぞお許しくださるように・・・。

 そこで、再び少し話は戻るのだが、飽食の話から思い出したのだが、前に書いたあの『劇的ビフォーアフター!』(12月14日の項)の続きがあって、(確かにそれは2時間番組一本では収まりきれない話だったのだが)、そこでは100万円という低予算で、あの山奥のあばら家が今時の和風別荘のように、見事にリフォームされていくのだが、その依頼主である67歳の姉の他にその弟妹の3人がそろってやってきて、出来上がった家を見て感激のあまり涙を流すのだが、その涙には、言うに言われぬ万感の思いが込められていて、どんな映画やドラマにもない真実の感情を見る思いがして、テレビを見ている私も思わずもらい泣きしてしまうほどだった(鬼の目にも涙か)。

 高知県で生まれ育ったこの三姉弟妹は、上の姉が7歳の時に両親が家を出て行って自分たち三人だけで暮らしていくことになり、それを見かねたこの山奥の家に住む叔母さん夫婦に引き取られて、そこで子供時代を過ごしたのだ。
 終戦後間もないころの、こんな山奥での暮らしがいかに大変なものであったかは想像に難(かた)くないが、食べ盛りの子供たちにとっては、食事だけでは十分に腹を満たせるはずもなく、生のサツマイモやトウモロコシを食べたことなどを話していた。

 今では62歳になる弟は、兵庫県の方で立派に林業を営んでいて、この家の改築を手伝うためにやってきて、小型重機とチェーンソーを使って周りの立ち木を切り出してくれていたのだ。
 その弟が、家の中に作られた見事な三和土(たたき)の土間に置かれた、自分がチェーンソーで作った丸太椅子に姉、妹とともに座りながら、周りにいたテレビ・スタッフから感想の言葉を求められたとき、彼は思いが込み上げてきて何も言えず、下を向き嗚咽(おえつ)をこらえながら涙を流すだけだった。
 おそらくは、、あの当時のまだ親に甘えたい盛りの、子供だったころの思い出が、走馬灯(そうまとう)のように駆けめぐっていたのだろう。
 映画やドラマのように、背後に流れる音楽もなく、とってつけたように書かれたセリフもなかった。
 姉も妹も、涙を流していた。
 他の周りにいた人々も、黙っていた。
 テレビ番組としては間が持たないほどの時間だろうが、それはしかし、小さな嗚咽が聞こえるだけの見事な”ありのままの”現実の時間だった・・・それだけで、三人の昔の苦労の思いが伝わってきたのだ。
 
 さて、人間嫌いふうで実は人間に興味いっぱいの、私の思いはさらに続く。
 数日前に、日テレ系の深夜番組『アナザー・スカイ』で(録画して見たのだが)、2年前にAKBから、あのインドネシアのジャカルタにある姉妹グループのJKT(ジェイケイティ)に移籍した、仲川遥香(はるか)の現況を伝える番組があった。
 彼女は、私がAKBのことが気になり始めたころにはもういなくなっていて、彼女のことはあまりよく知らなかったのだが、今AKBのセンターにいる渡辺麻友”まゆゆ”や、”ゆきりん”などと同じAKB第3期生であり、今ではもう古株のメンバーの一人と言ってもいいくらいなのだが、2年前に彼女は、選抜総選挙で順位が大きく下がり、このままでいれば”まゆゆ”たちのようにトップで活躍することもできずに、AKBの中でくすんでいってしまうだけだと考え、そこでAKBの海外公演で行ったことのあるインドネシアに、当時作られたばかりのJKTへの移籍を、総合プロデューサーでもある秋元康に願い出たのだ。
 ただ現状を打開するために、
自分の好きな国でもあるインドネシアでの活躍を夢見て、言葉も分からない遠く離れた異国の地に行こうと、20歳になったばかりの彼女は決断したのだ。

 最初、彼女はデング熱にかかったり水が合わなかったりと苦労したけれども、”好きこそものの上手なれ”、すぐにインドネシアの国に慣れ、インドネシアのメンバーたちとも仲良くなり、インドネシア語も憶えたのだ。 
 今年の春に行われたJKT選抜総選挙では3位に入り、センターで歌うことも珍しくはないし、レギュラー出演しているテレビ番組もあり、インドネシアでのれっきとした有名人の一人になっているのだ。
 このたび来春に公演が予定されている、宮本亜門演出のミュージカル『オズ』のオーディションを受けるために、日本に一時帰国していたが、その時のインタヴューに答えて、”このままずっとJKTにいたいし、AKBに戻るくらいならもう卒業します”と言い切っていた。
 さらに、”日本に帰ってくることもできるけれど、それでは私が負けたことになるし”と強い気持ちを持っていて、さらに結婚する相手はと問われてすぐに、”外国の人”と答えていた。

 アイドル・グループであるAKBグループは、中学生からの少女たちの集団であり、彼女たちも少しずつ少女から大人になっていき、いつかは”アイドル”としての”売りごろ”の時期を終えて、AKBグループからも卒業していかなければならないのだ。
 人がすべて、この世に生まれた時から、この世の終わりである死に向かって生きているように、彼女たちもまたいつまでも”アイドル”でいることはできずに、次なる世界に一人で飛び立っていかなければならないのだ。 

 だからどうするのか。
 センターの位置で、もしくは第一列に立って、あるいは16人の選抜チームに選ばれて歌い踊ることのできるメンバーたちは、グループ総勢300人の中のほんの一握りの選ばれた女の子たちだけだ。
 他の女の子たちはどうするのか。
 それでもあきらめずに、何とか少しでも上の順位を目指してがんばるのか。それとも今自分のいる位置を理解してそれだけで満足するのか、最低限でも自分はAKBグループの一人として選ばれているのだから、という誇りを持って。
 それとも、この仲川遥香のように、一大決心をして海外グループに道を求めるのか、あるいはAKBからHKTに移った多田愛佳のように他の姉妹グループに行くのか。それとて、彼女らと同じように海外や他のグループに移り、成功した者ばかりとは言えないのだが。
 さらには、すっぱりとこのAKBを卒業して新たな道を開いていくのか。
 それも、AKBでのスターだった前田敦子や大島優子、篠田麻里子、板野友美などならまだしも、芸能界から呼び声もかかるだろうが、上位メンバー以外のあまり名前も知られていないメンバーたちにとっては、AKBという看板を外されての芸能活動はむずかしくなるだろう。
 もっとも”普通の女の子に戻ります”と言って去っていったアイドルの子もいたぐらいだから、女の幸せは、他にもあるはずなのだが。

 ともかく芸能界で生きていくことを考えれば、これから決断の時期を迎える彼女たちも、それぞれにぎりぎりの選択を迫られることになるのだ。
 ”少女たちよ。もうすぐ夜明けが来る。夢の未来はこれから始まる。
  少女たちよ。何もあきらめるな。悲しいことなんかすべて捨てて。全力で走るんだ。” 
(歌詞 秋元康。思うに彼は、プロデューサーであるだけでなく、少女たちを教える”一般社会””道徳”の先生でもあるのだろう。) 
 


シャクナゲに降る雪

2014-12-22 21:18:35 | Weblog


12月22日

 寒い日が続いている。
 十日前に雪が降って以来(初雪はその前だったそうだが)、もう何度目かの雪である。
 しかし、降るのはいつも数cm足らずくらいだから、大部分は溶けていたけれども、日陰などにはずっと雪が残っていた。
 さらに、昨夜も雪が降り、天気は回復したものの、今日も一面の銀世界である。
 風が強く寒くても、早い雲の流れの中、青空の下の雪景色はいつ見てもいいものだ。

 庭のシャクナゲの木の、丸まった厚い葉の上にも雪が降り積もっているが、その葉が分かれ出る枝の先端部には、細くとがった冬芽がある。 
雪は葉の上に積もらせて、固いツボミの方には雪は積もらせないように、空を向いて光を受けられるようにしているのだろうか。
 ちなみに、この写真で、花が咲くのは中央上の一つだけの大きな芽であり、左下の赤茶色の小さな芽は、花ではなく葉のツボミである。

 こうして雪の日が多いために、まだまだ庭の手入れは終わってはいない。
 庭木の剪定(せんてい)から、涸れた枝木の整理、 枯葉の片づけなど、このままの雪模様の日が続けば、年内にはとても終わらないだろう。
 もっとも、誰かに見せるための庭ではないのだから、多少荒れた庭でもそのままでも構わないのだが。
 思うに、年を取るということは、こんなふうに次第に人の目を気にしなくなっていく、ということなのではないだろうか。

 まず食事は、食べればいいからと、簡単なものですませるようになり、衣類なども洗濯さえしていればと、毎年変わらずに同じものを着続けていて、出かけるのもおっくうだからと、何事にも必要に迫られなければ重たい腰を上げない。
 それだから、本来のぐうたらな性格と相まって、ますます出不精(でぶしょう)になり、人と会うのさえ面倒に思えてくる。

 昔、子供のころ、用事を言いつけられて、ある田舎の知らない人の家に行ったことがある。
 開いていた玄関から声をかけると、薄暗い部屋の中から、よろよろと一人のじいさんが歩いてきて、その鬼気迫(ききせま)る姿に、思わず後ずさりしそうになったほどだった。
 それは、暑い夏の盛りのことだったのだが、やせこけた顔に目は鋭く、白髪は乱れ、上の前開きの下着はだらしなくボタンが外されていて、肋骨(ろっこつ)が浮き上がって見え、下は”ふんどし”だけで 、おまけに見てはいけないものまではみ出していたのだ。
 私は、頼まれたものを渡して、お礼の言葉を聞くのもそこそこに、逃げるようにしてその家を離れた。そして、帰りの道すがら、私は幼いながらも自分に言い聞かせたのだ、”あんな年寄りには絶対なりたくない”と。 

 それが今、私はそうしたじじいの年代に近づいてきていて、身の回りのすべてが面倒におぼえてきて、もう人の目も気にせずに、こうして毎日”のんべんだらり”と暮らしていけばいいと思うようになってきたのだ。
 それは年代こそ違うけれども、私の好きなあのAKBの歌「UZA(うざ)」の世界にも似ている気がする。(11月24日の項参照)

 ”君は君で愛せばいい。相手のことは考えなくていい。・・・うざ、うざ、うざ。自由に。うざ、うざ、うざ。勝手に。うざ、うざ、うざ。嫌われる、モノローグ(ひとりごと)。”(作詞・秋元康)

 年寄りは、年を取れば取るにつれ、”幼児帰り” するようになるというけれども、私は今、その前の段階の、この歌にあるような、生意気で自分勝手な若者の時代に戻ってきているような気もするのだが。
 やがては、さらに”幼児帰り”するようになって、あのじいさんのような姿で、”ふんどし”をヒラヒラさせながら、チョウチョウを追って、家の周りを歩き回ることになるのではないのだろうか。

 ただ、今の私の、このぐうたらで出不精な生活が、人間嫌いや、深い厭世観(えんせいかん)からきているわけではないということだ。
 人間に興味があるからこそ、前回書いたように、誰かを好きでいたいと思うし、AKBの孫娘たちのことが好きだし、友達や知人と会えばつい長話をしてしまう。
 家にいても、録画を含めれば(その全部を見ているわけではないけれども)、テレビにかける時間が数時間になることもあるし、毎日少しずつでも本は読んでいたいし、クラッシック音楽も聞きたいし、ネットの記事をあれこれ見るのも面白いし・・・つまりはすべてが、人間社会にかかわることなのだ。
 こんな田舎に隠棲(いんせい)していても、あの鴨長明(かものちょうめい)や吉田兼好(よしだけんこう)に西行(さいぎょう)や良寛(りょうかん)などの思いには及ぶべくもないとしても、さらには日々山々の思いにあこがれていたとしても、そこは人の子、人々への思いが尽きることはないのだ。
 そこで、ミーハー的で三文(三面)記事的ではあるが、私の最近気になったことどもについて、日付順に書いていけば。

 まずは、前々回に書いた『メチャ2イケてるッ!』でのAKB”たかみな”ドッキリ卒業の番組でのことが(12月8日の項参照)、何と現実になって、その番組放送二日後に、AKB劇場で当の本人が正式な卒業発表をしたことだ・・・まだ23歳なのに、早すぎると思うが。
 今のAKBグループ300人ものメンバーたちを一つにまとめているのは、なんといっても総監督”たかみな”の力によるものだと、誰もが思っているのに、その彼女が1年後には卒業していなくなるというのは、AKBファンの一人として、はたから見ていても大変な出来事だと思う。
 次期総監督に指名された、京都出身の横山結衣(ゆい)へのプレッシャーはと、今から心配になるのだが、すべて”案ずるよりは生むがやすし”のことわざどおりに、いつしかことはうまく運ぶようになるものなのだろうが・・・あのシャクナゲのツボミが、時期になればひとりでに花開くように。

 一週間前のBS・TBSでの『奇跡の絶景・霊峰富士 
色づく秋』、その冒頭部分で背後に流れていたのは、あのカントルーブ編作曲による『オーヴェルニュの歌』からの「バイレロ」だったのだが、その透き通ったソプラノの歌声に魅せられてしまった。
 しかし、
最近クラッシック音楽の新録音にもあまり注意を払わなくなっていたから、誰が歌っているのかはわからない。
 この『オーヴェルニュの歌』は、 レコード時代から好きでよく聞いていたのだが、それはあの民謡風な色合いがよく出たダヴラツが歌うものか、あるいはコンサートふうなキリ・テ・カナワのものか、それとも比較的新しいCDで、教会音楽風にデジタル効果を効かせたた”エリジュウム”でと聴いてきたのだが、やはりそこは欲張りな音楽ファンの一人であり、また違った歌声で聞きたくもなるのだ。
 確かに、この「バイレロ」は名曲であり、あのフランスのオーヴェルニュの高原で、羊飼いの娘が歌うにふさわしい歌なのだ・・・青空の下、草原の上をあの歌声が流れ渡っていく・・・。 

 次は、前回空からの眺めとして書いたあの越後駒ヶ岳(2003m)が、何とタイミングよく、BSの『日本の名峰・絶景探訪』シリーズの一つとして放送されたのだ。
 今までにこのシリーズの登山者として何度も出演している、女優の春馬ゆかりが ガイドに案内されて、晩秋の越後駒に登るという構成はともかく、そこに映し出された新雪の越後駒ヶ岳に中ノ岳(2085m)、八海山(1775m)、荒沢岳(1969m)などの山々の姿が素晴らしかった・・・あの山には、登らなければならない。
 ただし残念なのは、頂上がガスに包まれていて、全く展望がきかなかったことである。
 ”画龍点睛(がりゅうてんせい)を欠く” のたとえにある通りに、頂上で何も見えなかったというのは、視聴者から見てもその山にとっても不幸なことであり、このブログでも書いているように、私としては、そんな山は登った山の一つには入れたくないほどである。たとえば、一度目の時にはガスで何も見えず、再登頂を果たした南アルプスの塩見岳のように。(’12.8.10の項参照)
 こうした民放の番組では、タレントや俳優と一緒だと、どうしても彼らの限られた期間でのスケデュールがあり、多少の天気のくずれぐらいでは登山を強行しなければならないが、同じ山番組のNHKの『にっぽん百名山』では、計画変更が可能なガイドさんだけとの撮影だから、ほとんどの映像が晴天登山になっていて、登山の第一の目的である展望撮影が十分にできているのである。
 結局は、何を主役にしたいのかという意図の違いなのだろうが・・・。

 そしてNHK・Eテレの『日曜美術館』では、今回は”やきもの”の「古田織部(ふるたおりべ)」いわゆる”織部焼”についてであり、非常に興味深く見ることができた。
 私が昔働いていた東京の編集出版会社での担当は、音楽・映画だったのだが、そのころ別の部署に”やきもの全集”のセクションがあり、その一巻ごとの校正刷り上がりや完成した本そのものも見る機会があったのだが、何しろ若い盛りで、まして自分の好きな担当の音楽・映画だけでいっぱいだったから
、それらの”やきもの”の良しあしなどわかるはずもなかった。
 今回取り上げられた”織部焼”にしても、その風変わりな破調の形に魅力があるのだと知ってはいても、その背景にあるものまで詳しく調べることはなかったから、今回の番組で初めて知ったことも多く、千利休(せんのりきゅう)の一番弟子とも言われ、戦国時代の武将でもあった古田織部の、天才的審美眼とその悲劇については、状況こそ違え、同じ戦国の世の運命の中で生き延びてきた、あの絵師、岩佐又兵衛の生涯を思い起こさずにはいられなかった。(’09.3.28~4.8の項参照) 

 最後には、昨日の深夜帯に放送されたNHKの『ベビーメタル現象 世界が熱狂!』を録画しておいて見たのだが、面白かった。
 4年前に、13歳から10歳だったアイドル・グループの少女たち3人が、何とあの”ヘヴィーメタル”のロック音楽に乗せて激しく歌い踊るという、今までになかったスタイルを作り上げてデヴューしたのだ。
 その名も”ベビーメタル(BabyMetal)”、もちろんそれは”ヘヴィーメタル(HeavyMetal)”という言葉にかけているのだが。
 その”アイドル少女”と”ヘヴィーメタル”という意外な結びつきに、日本の漫画文化、コスプレ・ファッションさらには外国の”ロリータ”趣味も加わって、外国の若者を含むおじさん世代にまで広がる爆発的な人気になっていて、そのロンドン公演の一部が放映されたのだ。

 特筆すべき点は二つ。まずは、ボーカル担当の17歳の子の、のびやかな歌声の素晴らしさだ(私の好きなAKBにあれほどの声を出せる子はいないかもしれない)。
  さらに二つめは、同じ日本人によるバックバンドのヘビーメタル・サウンドの見事さ・・・私が、ロック音楽を聴いていたころは、日本人バンドなど論外で、外国のギタリストとは明らかなテクニックの差があったのに、という思い。(ジミー・ヘンドリックスはもとより、ロビン・トロワーにジョン・マクラフリンが当時の私のお気に入りだった。)
 他にも、掛け声とダンス担当の15歳の二人の子も可愛いし、三人の踊りもよくあっている。
 さらにありがちな、”フジヤマゲイシャ”的な、今までの日本文化代表スタイルではなく、”お稲荷(いなり)さん”のキツネの仮面をかぶり、ピースサインではなく、影絵で使うキツネの指形にしたことなどだが・・・すべては、何といっても少女3人を舞台に送り出した後ろにいる人、今の時代の世界を良く知っている、そのプロデューサーの才能を思わずにはいられなかった。

 世の中の変化には、いつも良いものと悪いものがあると分かってはいても、それでも何と面白いことが多いのだろうと思うし、また何といやなことが多い世の中だろうとも思ってしまう。
 いつの時代にも、人々は、そうした相半(あいなか)ばした思いの中で生きてきたのだろう。

 その冬芽が、シャクナゲの花になるにせよ、シャクナゲの葉になるにせよ、そうして生きてきたのだしこれからも生きていくのだろう。
 またある時には、季節外れの寒さや嵐によって、そのツボミが失われてしまうこともあるだろうが、絶望することはない、その成長が止まったかに見えた枝先も、また次の年には・・・。

   


飛行機から眺める山

2014-12-15 21:35:55 | Weblog

12月15日

 数日前、家の周りが雪や寒さに閉ざされる寸前に、北海道の家を出て九州の家に戻ってきた。
 それなのに、ここは意外に寒い。というより北海道にいた時よりは、はるかに寒く感じるのだ。朝の気温0度前後、日中5度前後と、北海道にいた時よりはだいぶん暖かいはずなのに。
 それは前にも書いたように、一つには家のつくりにあり、一つには暖房器具の差によるものなのだろうが。
 というわけで仕方なく、北海道の家にいる時よりは厚着をして、それでもいくらかは寒い思いをしながら、これからもここで暮らしていくしかない。
 年寄りになってきて、寒い北海道で暮らすのがつらくなってきたから、この九州の家に戻ってきたというのに、まったく。
 とか言って、文句たらたらだが、それでもこの家では、水道からの水が
気兼ねなく使えて、いつでも洗濯ができるし、毎日風呂にも入れるし、このありがたさは何物にも代えがたい。 

 昨日雪が降って、3㎝位は積もっている。しかし、今日は久しぶりに晴れた日になったから、この一日でともかく道の雪は溶けるだろう。
 一度降ったらなかなか溶けない、北海道のサラサラ雪とは違って、すぐに溶けてくれる雪なのだ。
 数日前、私は飛行機の窓から、その雪に覆われた十勝平野を見おろしていた。
 雪が降っていなければ、冬枯れの景色の中でも、
小麦畑や牧草地などがまだ沈んだ緑色に見えるはずなのだが、今ではもう、区画割された一面がすべてうっすらと白くなっていた。
 期待していた日高山脈の山なみは、西側から押し寄せる冬型気圧配置の雲に隠されていたが、もっともこの山々の連なりがあるからこそ、そこで雲を押しとどめているために、十勝平野の冬の晴れた空があるのだ。

 飛行機は、一面に広がる太平洋の雲の波の上を飛び続けて、やがてまだ津波の影響の残る三陸沿岸がちらりと見えたかと思うと、再び東北地方の上すべてを覆う雲の海が広がっていた。
 今日の、飛行機からの眺めはダメなのかと思っていたら、少しずつ雲の切れ間が広がり、やがてすっかり雲がなくなってしまい、まず雪に覆われた那須連峰の姿が見えてきた。
 茶臼岳(1915m)から朝日岳(1896m)、三本槍岳(1917m)と続き、北端の那須旭岳(1835m)の東面は、高さ以上になかなかに迫力ある姿だった。
 そしてその那須連峰の上に、白く長々と続く山なみが見えている。それは、越後山脈あるいは三国山脈と呼ばれる上越国境に連なる山群である。
 ただ欲を言えば、せっかく晴れているのに、澄んだ空気ではなくて少しもやったような大気であり、大陸からのPM2.5などの影響かもしれないが、冬場のすっきりとした眺めではなかったのが少し残念ではあったが。
 と言ってはみても、これだけ関東平野を取り巻く山々がすべて見えているのは、私にとってもあまり記憶にないくらいのチャンスだったのだ。
 カメラのファインダーに目を押し当てたまま、近づいてくる山々の姿に向かってシャッターを押し続けた。

 雪の少ない日光の男体山(2484m)に日光白根山(2578m)、そして尾瀬の燧ケ岳(ひうちがたけ、2356m)に至仏山(2228m)、そして上越国境の山々が重なり合う中、右端に離れて、白く高く見える山二つ、越後駒ヶ岳(2003m)と中ノ岳(2085m)である。(写真上)
 この関東周辺の山々の中では、最高峰の日光白根山やあの浅間山(2568m)などと比べれば、500mも低い山なのに、飛行機の上からの視点とはいえ、さらに雪の多い越後地方の山だからということもあるのだろうが、その高さ以上に素晴らしい山容で、私の目をくぎづけにしたのだ。

 「あの山には、登らなければならない。」
 それは、『日本百名山』の中で、たびたび出てくる、作者の深田久弥が口にした言葉であるが、その気持ちがよく分かる。
 山好きな人は、遥かに離れて
そびえ立つ、まだ登っていない山を見ると、もう心のうちにその山への思いがふくれ上がってきて、どうしてもあの頂上に立ちたいと、思わず口にしてしまうのだ。
 今までに何度も言っているように、私はいわゆる”日本百名山”のすべてに登るなどという思いはないけれども、それはつまり百名山がその山の歴史などに重きを置いて選ばれていて、私がもっとも重要だと思う山の姿かたちを最優先に選ばれてはいないからだが、それでもさすがに百名山に選定された山々の多くは、誰もが納得するように、確かに名山に値する山が多く含まれていることも確かなことなのだ。
 この越後駒ヶ岳もそうした百名山の一つであって、今までに越後平野から眺めたこの山の写真を何枚も見ていて、いつかは登りたいと思っている山の一つであったのだが、今回、この飛行機の上から見て、隣の中ノ岳と併せて、どうしても登らなければと思うようになったのだ。

 実をいうと、恥ずかしながら、私はこの上信越国境の山々の多くに登ってはいないのだ。いやむしろ、登った山の方をあげる方が早いくらいだ。
 それは、若いころに登った山ばかりで、男体山、燧ケ岳、谷川岳、赤城山、四阿山(あずまやさん)、篭ノ登山、浅間山くらいであり、日光白根山、会津駒ヶ岳、至仏山、武尊(ほたか)山、巻機(まきはた)山、
 苗場山、岩菅(いわすげ)山などと一度は登りたいと思っている山がたくさんあるのだが、もうこの年では、他にも行きたい山もあるし、とても全部は登れないだろうが、その中でもこの越後駒は、今回飛行機から眺めて、さらに最優先にしたい山の一つとなったのだ。
 
越後平野側からのうずくまる巨大な山塊とは違った形で、 左右に不等辺三角形のすっきりとした稜線を伸ばした大きな山容は、何とも素晴らしい。
 冬は無理としても、残雪期にこの二つの山を縦走できたらと思う。
 
 やがて機体は、高度を下げていき、越後駒も前座の山々に囲まれて見えなくなってしまった。
 それらの山々に代わり、行く手には巨大都市東京の
広大に続くビル群が見えてきて、ほどなく飛行機は羽田空港に着いた。
 この羽田には、去年の夏、北アルプス縦走からの帰りに、キャンセル座席を待って、12時間近くを過ごしたことがあり(’13.8.26の項参照)、すべての通路や待合席などがなんとなくなつかしい気もするが、あんな経験はもう二度と味わいたくはないものだ。さて、ここで乗り換えて、今度は福岡便だ。

 まずは左側の窓から、今か今かと待っていると、箱根の山から山中湖、そしてついに富士山が見えてくる。
 ただ残念なことに、上空には高層雲が広がっていて、その雪に覆われた巨大な山塊自体がすっかり陰って色あせて見えるばかりだった。去年もその前の年もあれほどよく見えていたのに・・・。(’13.12.9、’12.12.3の項参照)
 そして、その雲が北側にも広がってないことを祈りながら右側の窓に駆け寄ると、見えてきた南アルプスの白い山なみ・・・何度見ても見あきることはない、高度1万メートルからの眺めだ。(これも去年のブログ写真参照。)
 
 ただし、気流の関係だろうか、機体はいつもよりやや南寄りに飛んでいて、すぐ下の位置に、塩見岳(3047m)がはっきりと見えていたのだ。あの2年前の南アルプス縦走の山旅で、ようやくその全容を見ることのできたあの姿が思い浮かんでくる。(’12.8.10の項参照)
 おそらく今まででは一番まともに写真に撮れた、飛行機から見た塩見岳になるだろう。(写真下)



 この写真では、中央左に塩見岳の山頂部があり、そこから下に続くのは南(北俣)尾根であり、主稜線は左手の権右衛門山へと続いている。
 そして、南尾根の右手に一気に突き上げる北俣の谷と平行に、右下の方に伸びているのが、蝙蝠
(こうもりだけ、2865m)に続く尾根であり、いつか二軒小屋へと続くこの長い尾根道を歩いてみたかったのだが、今ではかなわぬ夢となってしまった。
 ただ今回の飛行機からの眺めで気がついたのは、さらに南に連なるはずの、荒川三山、赤石、聖の3000m峰の連なりを、まだ一度も写真に撮っていないということだ。
 いつも左側の富士山を写した後、すぐに右側の窓の方に行って、南・北・中央と続く日本アルプスの山々の眺めに夢中になっていたので、また右側の窓に戻って見るのを忘れてしまっていたのだ。
 もし私が操縦席に座っていたとしたら・・・富士山を左に見た後は、やがて前方にずらりと並ぶ南アルプス全山の姿を見ることができるはずだ・・・想像しただけで、アヘー、イクー、シヌー 。
 (またしても余分な話だが、ここで”あへー ”とキーボードで打ち込み、カタカナに変換するところを間違って、ただの変換ボタンを押してしまった。すると、画面に出てきたのは、”合屁”だったのだ。思わずひとりで笑ってしまった。
パソコンも可愛いところがあるが、いったい誰とする”合わせ屁(へ)”なのだろうか・・・お粗末な一席でした。)

 さて、次はまたもおなじみの中央アルプスの山なみが、これまた縦位置に見えてきて、その上には乗鞍岳があり、さらに北アルプス南部の山も見えてはいるが、かすんだ空気でそれぞれの山の区別はできない。 
 そして最後の見ものであるあの木曽御嶽山(きそおんたけさん、3067m)だが、これまた富士山と同じように、高層雲の陰になっていて、くっきりとは見えないけれども、地獄谷の噴気孔からいくつかの噴気が立ち上っているのが見える。(写真下)



 あの日の、あの時だけの水蒸気爆発・・・わずかな時間や場所の差だけで、それは使いたくはない言葉だが、
もう運命としか言いようのない不運に見舞われた人々・・・合掌する他はないのだ。

 一方では、こうして飛行機からの眺めを楽しみながら、老躯(ろうく)をもてあましわがまま言いたい放題に生きている私・・・誰が善し悪しというのではないけれど、今わが身にある生の本能そのままに、日一日とありがたく生きてていくだけのことなのだが・・・。
 ”幸せなのだよ、おまえは。”という声が聞こえてくるようだ。
 確かに、日々切り詰めた暮らしをしてはいるが、それは決して不自由さを嘆くほどのものではなく、何よりもこうして北海道と、九州を行き来しているだけでもぜいたくなことなのだ。
 まあ北海道は確かに、内地の夏が嫌いな私の”避暑地”にはなっているが、この冬場の九州の山奥では、少しも”避寒地”にはなっていないのだ。むしろ家のつくりと暖房が行き届かないせいで、北海道にいるよりも寒いくらいなのだが、何度でも言うが、それを補って余りあるここでの水回り完備による便利さは、前回に書いた”ビフォア・アフター”のおばあさんではないけれども、何よりもこの年寄りにはありがたいことなのだ。
 だから、北海道も九州も、どちらかだけを選ぶことはできないのだ。

 私は、これまでの人生の中で、何度も大きな計画を実行に移してはきたのだけれども、また一方では、どちらかに決められないという優柔不断(ゆうじゅうふだん)な”やわ”な性格も持ち合わせているのだ。
 もっとも、それは誰にでもあることであり、それこそがまさに個性の差になっていて、人生を左右する物事の判断をすることになるのだろう。

 私は、若いころ、二人の女の人を同時に愛することはできないと思っていた。
 純粋な愛はただ一人の相手にだけに向けられるべきものであり、同時に二人以上の女を愛するなどということは、己の欲望のままにふるまうための言い訳であり、不純な愛でしかないのだと自分に言い聞かせていた。
 だから、そんな若い私は、彼女が結婚にまでは至らない相手だと思った時には、そのままだらだらと都合のいい相手として付き合い続けるのではなく、はっきりと決別を告げることにしていたのだ。そして間が空いたにせよ、その後でまた別な相手を探しに向かったのであり、二人の相手が交差することなく、その時ごとに区切るのが私の愛の誠実さだと思っていた。
 今にして思えば、それは、
冷酷さとは紙一重のひとりよがりな厳格な愛の規範であり、相手にとっては、自分の立場だけしか考えない移り気で残酷な愛にすぎなかったのだ。

 本当に自分が好きになった相手に。一生の愛を貫くことが、確かにあるべき愛の姿なのだろうが、そう事は教義的にうまくは運ばない。
 ほとんどの場合、新たに現われた相手と思わず比べてしまうことになり、次の相手に気が移ったとしても、そこで冷酷な別れを宣告するよりは、もっと長い時間をかけるつもりで、同時に二人にやさしく愛を注ぐこともできるのだ。
 そうした後でまた元の相手に戻るにせよ、次第に愛の思いの差は出てくるし、そして離れるべく決めた彼女とは、やさしくしながらも少しずつ距離を取っていくようにすることが、そう簡単なことではないにしても、彼女を深く傷つけない一つの思いやりの愛になるのかもしれないのだ。
 もちろん、それは二人の愛の過程にもよるし、また相手の性格にもよるのだろうが。

 当時そういうふうにして、どんな相手にでもやさしくして何人もの女を手玉にとっている、ヒモ生活の男の話を聞いたことがあり、当時の若い正義感にあふれる私は、女をたぶらかすだけの男の風上(かざかみ)にも置けぬヒモ男だと軽蔑していたのだが・・・今になって思えば、その時その女たちがみんな愛されて幸せだと思っていたのなら、それもありということだし、より多くの女たちを幸せにしていた彼の愛の形も、またそれなりに正しいのではないのだろうかと・・・。
 それなのに、当時の若い私は、別れるつもりの相手に、そのまま正直に告げることが、正しい愛の終わり方だと思っていた。
 もちろんそれは、その時の私の、自分勝手な一方的な突然の宣告であり、正直さを正義とはき違えていた、情けない愛の教条主義者のわがままにすぎなかったのだ。
 その時、彼女たちはどれほど深く傷ついたことだろう。 今になって彼女たちの気持ちを思うのだが・・・。
 
 つまり、今分かることは、やさしい気持ちから、同時に二人の相手になるべく等しく、愛の思いをかけることはできるのだということ・・・先はどうなるにせよ、それがその場しのぎの一時的なものでしかないことだとしても、それで救われる相手もいるのだということ、もちろん相手の性格にもよるだろうが・・・と、ジジイになった私は考えてみるのであります。

 私の最も敬愛する映画監督は三人、ひとりはイングマール・ベルイマン(1918~2007)であり、残りの二人は、エリック・ロメール(1920~2010)とフランソワ・トリュフォー(1932~84)である。
 そのトリュフォーの名作の中に、『突然炎のごとく』(1961年)と『恋のエチュード』(1971年)があり、それぞれ日本公開からしばらくたって名作座などの二番館で見たのだが、当時まだ小生意気な若い正義感に凝り固まっていた私は、ひとりの女が二人の男を愛するなんて、また一人の男が二人の姉妹を同時に愛するなんてと、そのストーリー自体に最初から同感することができずに、映画としても十分に楽しむことができなかったのである。
 その後、私がトリュフォーの映画をしっかりと見ることができるようになったのは、当時の彼女たちとの何度かの出会いと別れを繰り返し、様々な経験を積んで、自分のふがいなさを思い知るようになってきてからのことだ。

 そうして再び見たこの二つの映画は、なんと美しい映像美にあふれていたことだろう。
 やさしくてもろく、強くて傷つきやすい、若き日のひと時の記録が、あの華やぐ明るさと不安の予兆にあふれて、なんと痛ましく心に残る思い出として綴(つづ)られていたことだろう。

 かくして、私の人間界への没落が始まったのだ。私の中の、ツァラトゥストラが没落していったのだ。 (ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より)

 私が映画にまで話を広げて言いたかったことは、二人の女の人を同時に愛することができるのだということではなく、北海道の家も、九州の家も同じように好きであるということだけだったのだが・・・それにしても、この床から冷えてくる寒さは、とても九州とは思えない。さて、明日は、クルマのタイヤを冬用のスタッドレスに換えなければ。 


  


真冬の季節

2014-12-08 21:05:47 | Weblog



12月8日

 三日前から、ついに朝の気温は-10度以下になり、今朝は-13度だった。そして、日中の気温もマイナスのままの真冬日が続いている。 とうとう、真冬の季節になってしまった。
 ただし雪は、うっすらと2,3㎝積もっているだけで、それも気温が低くサラサラの雪だから、足跡の所は何とか溶けているが、他はそのまま表面だけが凍りついている。

 そこで、今の時期の山登りに思いをはせた。
 青空の下、冷たい空気の中、体は温かく、白い息を吐きながら、急な尾根筋をたどって行く。
 表面はパリパリだが、その下の数十cmはサラサラ、ふかふかの雪で、さらにその下の表土辺りはすでにガチガチに凍っていて、急斜面の登りでは足元が見えずに、地面の凹凸に足を取られてすべりやすく苦労する所だ。
 もっとも内地の山では、湿気のある重い雪をラッセルして行くしかなく、稜線に上がるまでに、すっかり体力を使ってしまうのだけれども、それを思えば少しは楽にも思えるが、同じように稜線出るまでは足元が気になってしまうし、さらに稜線歩きでは、新雪の雪庇(せっぴ)が待ち構えていることになるのだが。
 まあ、それぞれに一長一短があるということか。といって、私にはもう今の時期に深い新雪の中、ひとりで登って行く元気はないのだ。

 というのも、この1月並みの寒波の襲来で、中国四国地方の山間部では、大雪に見舞われて、主要道路でも車が動けなくなり、そのままで長い車列ができていたし、さらに木の重みで立木が道路をふさぎ、は孤立して死者まで出ているとのテレビ・ニュースを見たからだ。
 それらは、いずれも気温0度前後の時の湿った重い雪のせいらしい。
 この季節外れの(というより少し大雪になるのが早すぎたのだろうが)、湿った大雪の被害は、去年北海道でもあって、この家の林の中だけでも、十数本の樹が折れたり曲がったりしているし(’13.10.21の項参照)、自然災害とはいえ、あらかじめ対策を取るのが難しく、全く始末に負えないものだと実感しているからだ。

 それでも、そうした被害を受けても、何といっても、この冬の雪景色は素晴らしい。
 何度も言うことだが、めぐりくるそれぞれの季節の中で、私はこの十勝地方での冬が一番好きなのだ。
 -20度まで冷え込むと、さすがに寒く痛く感じるけれども、十分な服装をして外を歩けば、そこには青空の下、冬という季節の名のもとに、すべてが等しく白雪に覆われ凍りついた、静かな光景が広がっているからだ・・・。
 その序章としての、三日前から続く真冬日の寒さなのだ。
 
 朝、7時、日の出の後、ようやく太陽がすべてのものの上に明るい光を投げかけるころ、-13度の張りつめた空気の中で、凍りついた草木が白く輝き始める。彼方に日高山脈の上に連なる冬型の雲・・・頭上に広がる青空・・・。(写真上)
 それは、都会の夜をあざむく色とりどりの灯りの輝きよりも、街角にあふれる黄金(こがね)のきらめきよりも、はるかに大切な私の眺めるだけの宝物なのだ。

 それなのに、このままここに、冬の間もずっといることはできないのだ。
 まあそれは、私が年寄りになってきたことと、さらには好き嫌いがはっきりしている反面、いつでも優柔不断(ゆうじゅうふだん)で、物事の白黒を決着をつけることのできない、やわな性格の一面を併せ持っているからなのかもしれないのだが。
 一つには、この家で冬を過ごすことが、負担に思えてきたからだ。
 少し前までは、若いころには不便に思えなかったことが、むしろ都会とは違う不便さを楽しんでさえいたのに・・・例えば、トイレは外にあるから、雪の降った後など、スコップを持って道を作りながら、トイレ小屋まで行かなければならないこと、井戸水が枯れて隣の農家に水もらいに行かなければならないこと、外の五右衛門風呂を沸かすにしろ、水が心配で半分は雪を溶かしながら沸かすものだから、数時間はかかってしまうことなどが、こうして年を取ってくると苦痛にさえ思えるようになってきたからだ。 
 
 しかし、一方では、何度も書くように、峻烈(しゅんれつ)な空気の中で、青空の下、白く輝く山々などの冬景色を見ることは、私の大きな楽しみの一つでもあるし、薪(まき)ストーヴの燃える暖かい部屋で、音楽を聞き本を読む一日は、何物にも代えがたい私の人生の貴重なひと時にもなるのだが。
 九州の家に戻っても、もう母もミャオもいないし、ただ同じように静かな山里だとはいっても、北海道の家の周りのように、突き抜けて広がる風景はないし、家は古い作りで、ポータブル・ストーヴとコタツでは、北海道の丸太小屋よりははるかに寒く感じるのだ。
 ただし、水は水道があるから(当たり前のことだが)いつでも出るし、だから家で洗濯はできるし、普通の水洗トイレも使えるし、風呂も入ろうと思えばいつでも入れるから、年寄りにとってこんなありがたいことはない。

 ここで、余分な話を一つ。先日、大きな町にある大型スーパーで買い物をして、久しぶりに店のトイレに入り、便座に腰をおろして用をすませてトイレット・ペーパーを使った後、立ち上がろうとして、これがウォシュレットであることに気づいて、(外出した時に年に数回使うぐらいだから)、もう一度座りなおして、洗浄ボタンを押した・・・あへーいい気持ち、やはり、都会の文明はいいものだと思う。
 ”尻シャワー昭和は遠くなりにけり”・・・元の俳句”降る雪や明治は遠くなりにけり”・・・中村草田男先生ごめんなさい。 
 
 さらにもう一つ、水にまつわる話だが、昨日、例の建築リフォーム番組”劇的ビフォー・アフター”を見ていたのだが、四国は高知県の山奥の一軒家で、先祖の代からの思い出の詰まった古い家に、それでも愛着があって、週末に通ってきては手入れしている70に近い女の人が、できるなら老後はここに住みたいと、虎の子の100万円を出して、何とか心配なく住めるようにと、番組宛に、匠(たくみ)にお願いしてきたのだ。
 この番組のすべての回を見ているわけではないのだが、大体は町中の改築が多く、1千万円から2千万円くらいの改築リフォーム案件が多いのに、この予算でどうしてやりくりできるのだろうと思っていたら、なんと子供たち親類縁者知人までが、地盤改良や建築手伝いを引き受けていたのだ。
 その中でも、山奥だから水道が引かれていなくて、少し離れたところにまで、水汲みに通わなければならず、年寄りの彼女にはそれが大変な仕事だったのだが、あの名作ドラマ『北の国から』のまだ小さな純と蛍(ほたる)の二人が、近くの川まで行って水運びをしていたのを思い出すほどで・・・しかし、ここでの匠はそんな彼女のために、水源の小川に水をためるタンクを据え付けて、そこからパイプを引いて、家の中で水が使えるようにしてくれたのだ。
 そして彼女は、蛇口を回して水が出るのを見て、喜んでは涙を流していたが、すぐに蛇口を閉めてしまった。そんな彼女を見て、周りの人たちが「もっとどんどん出るからと出し続けて」と言ったのに、彼女は「もったいなくて」と答えたのだ。 
 同じ水に不自由する立場にある私には、この場面が胸にこたえた。
 都会のマンションの最新式のキッチンで、レバー蛇口を押し下げするだけで、何の心配もなく水を出し続けている人たちには、わからないだろう何気ない一シーンだったのだが・・・。

 そしてさらに話は変わるが、たまたま見た民放のバラエティー番組で、あるタレントの女性が認知症の母親をかかえて介護していた話が映し出されていたのだが、それは同じ立場で苦労している視聴者の方々への参考になればということなのだろうが、しかし別な立場から言えば、自分の年老いた認知症の親をテレビにさらすことにもなるしという葛藤(かっとう)もあっただろうが・・・、ただ私が気になったのはそのことではなく、その後施設に入った母親がベッドのそばに、ジャニーズ系の男たちの写真を置いていたということだ。

 まだ私の母が元気だったころ、この北海道の家には叔母と一緒に何度か来たことがあるのだが、ある時、天気が悪くて外にも連れて行ってやれずに家にいたのだが、二人はテレビを見て何やら言い合っていて、聞いてみると、それはどうやら若い男の俳優の誰が好きで誰がキライだとかという話だった。
 そこで私は、冷やかし気味に、横合いから口をはさんで言ったのだ。
 「そんな若い子が好きだと言ったって、自分の歳を考えてみなさい。」 

 二人は私の方も振り向かずに言ったのだ。
 「いいの、今の自分のことは置いといて、ともかく若くていい男はいいんだから。」 
 もう20年近くも前のことだが、私も今では、その時の母たちの年齢に近づいてきていて、ふとそのことを今になって思い出したのだ。もう二人とも、この世にはいないけれども。

 私が今、AKBに夢中になっていることも、母や叔母さんが若手の俳優たちを好きだったことも、テレビに出ていたそのタレントの認知症の母親が、ベッドのそばにジャニーズの男の子たちの写真を置いていたことも・・・すべては、同じ思いからではないのだろうか。
 ”雀(すずめ)百まで踊り忘れず”
 そうなのだ、人は人として生れてから死ぬまでの間、ずっと誰かを好きでいたいのだ・・・。
 そうして年老いてきて、周りの家族友人知人が少しずついなくなるにつれて、まして認知症にかかっていて近々のめんどうなことやイヤなことなどはすぐに忘れてしまっても、昔のことははっきりと憶えているのだろう。
 自分の若かりし頃の姿は、思い出せばキラキラと輝いていて、あのころの私は、目の前のテレビに映る若いきれいな男の子たちにふさわしいほどに可愛いかったのにと。

 それはフロイトの言う、精神分析学上での”代償行為”の意味とは異なるかもしれないけれど、人の心は、いつも誰かへの思いで満たされていなければならないのかもしれない。
 そう考えてくると、私がこんなにAKBのことを気にかけているのは、なるほどと分かったような気もしてきたのだ。
 若き日の、精神的肉体的な意味を併せ持った、強引で独占欲的な情熱のほとばしりではなく、もっと穏やかに、大きく包み込むような目で見守っているだけのやさしい思いだけれども、それは子猫や子犬を離れて見ているときのような、こちら側の心をなごませる何かがあるからなのだろう。
 つまりそれは、セラピー・ドッグならぬセラピー・AKBなのかもしれない。

 AKBから始まった、私の彼女たちへの思いは、特定の子だけがいいのではなく、みんながそれぞれに好きであって、今やAKBグループ全体にまで及んでいる。
 つまり、孫娘のような娘たちが、それぞれに一生懸命に歌い踊っていて、みんなそれぞれに個性的でかわいいと思うのだ。
 先日のテレビでの『FNS歌謡祭』を録画して、AKB、SKE、NMB、HKTが歌ったところだけを編集してまとめ、わずか13分余りだが、それを繰り返し見るのが今の楽しみになっている。
 2年前、私がAKBを好きになり始めたころには、あの篠田麻里子や板野友美、そして大島優子もいたのだが、次々に卒業していなくなってしまい、そんなクシの歯が抜けたようなAKBでは、もう物足りなく感じるのではないかとさえ思ったのだが、新曲「希望的リフレイン」を見ていると、もう今の若いメンバーだけでやっていけるし、これからもそのメンバーは日々新しくなっていくだろうし、そのいつも変わりゆく体制こそが、あきっぽいファンをつなぎとめる手立ての一つなのかもしれない。
 300人近いAKBグループ内で、上の方が抜けても、下から上を目指している子はいくらでもいるのだ。

 東京で働いていた時、私が抜けたら会社に迷惑をかけると思っていたが、一時的にそうであったとしても、いつしかその穴は埋まり、代わりの人は出てくるものなのだ。
 もちろん、他に取り換えの効かない、かけがえのない重要な位置を占めている人もいる。
 今のAKBグループをまとめて統率しているのは、間違いなく”たかみな”高橋みなみだ。

 そして先日、お笑いコンビ、ナインティー・ナインのバラエティー番組『めちゃ2イケてるッ』(フジテレビ系)で、その”たかみな”が恋愛スキャンダルを起こして、写真を撮られ週刊誌に掲載される、というドッキリを仕掛けて、他のメンバーたちを巻き込んでのドタバタ劇が仕立てられていた。
 面白かったのは、グループの柱である”たかみな”が、責任を取って卒業すると宣言した時の、他のメンバーたちの表情や態度である。
 グループにはなくてはならない存在としてのリーダーだから、みんなに尊敬されているのは当然だが、若いうぶなメンバーたちと、それまでにいろいろと体験してきた古参上位メンバーたち、さらには個人的につながりのあるメンバーたちとでは、微妙な差が出てきて、まるで心理学のテストをそばで見ているようで実に面白かった。
 まして、大体のメンバーたちの顔を知っている、私たちAKBファンにとってはなおさらのことで、ドッキリだとは分かっていても、時には笑い、時にはもらい泣きほどではない涙ぐみながら、最後まで面白く見ることができた。
 
 ジャンルは違うし比較にはならないけれども、結末が分かっていても、思わず引き込まれてしまったあの名作映画『ジャッカルの日』(1973年)を、ふと思い出してしまった。
 もちろん、面白おかしく仕立てただけのバラエティー番組だから比べるまでもないのだが、それにしても、この番組製作スタッフの意図にまんまとはまったというのが正解なところだろう。
 そしてこの時の視聴率が高かったというのは、日ごろは『めちゃイケ』などを見ない、AKBファンの多くが見たからではないのだろうか。
 
 しかし、これは本当のお笑いの芸というのではない、仕掛けだけでとる笑いは、いつか飽きられてしまうだろう。
 その点、この秋から始まった深夜帯の番組 (録画して見ているが)、『ヨルタモリ』(フジテレビ系)は素晴らしい。宮沢リエとの掛け合いも息が合っているし、何よりタモリの隠し教養とブラック・ユーモアのさじ加減が絶妙であり、これこそが彼にしかできない見事なお笑いの芸なのだ。
 
 と、今回は話がそれたまま、あげくの果てはお笑い番組にまで行ってしまった。まあ、最近、とみにぐうたら度が増して、さらにはわがまま度もましてきた、認知症発症寸前のジジイのたわごとでしかないのだが・・・。
 
 上に書いたように今日もまた、-13度まで冷え込み、日中も-1度までしか上がらなかったが、一日中快晴で、日高山脈中部以南の山々はよく見えていた。
 、夕方4時前には、その山陰に夕日が沈んでいき、気温もさらに下がってきている。しかし、日本海側ではまだ雪が続いているというのに、この北海道十勝地方では、また明日の天気予報も晴れである。
 明日の朝も、今朝と同じような、しかしまた少し違う、朝焼けの日高山脈の山々が見られることだろう。

(写真は、1736mのペテガリ岳と1727mのルベツネ山)

 

  

寒菊とヘッセの言葉

2014-12-01 22:41:38 | Weblog



12月1日

 この二三日は天気が良くない。といっても曇り空で、小雨が少しといった感じで、本降りの雨が降ったり、雪になったりというわけでもないのだが、ずっと青空を見ていた日々が多かっただけに、今日は天気が悪いと思ってしまうのだ。
 しかし、こうして冬に雪が降る前には、それまで冷え込んでいた空気が生暖かく感じられるようになり、これは雪になると分かるのだ。
 今日のテレビ・ニュースでは、これから真冬並みの寒波が西日本から流れ込んでくるとのことで、その後の天気予報では、北海道の日本海側などは、この一週間、ずらりと雪マークが並んでいる。 

 さてその前にと、急いで庭木の雪囲(ゆきがこ)いというよりは、鹿(しか)囲いをした。もっともそれは、シカが冬の間に庭木の皮を食べないように、荒縄をまきつけただけのものなのだが。(今までに、何本もの庭木の表皮がシカに食べられて枯れてしまったのだ。)
 その他には、今まで咲き続けてくれた、寒菊がもう終わりに近づいていて、このあたりが区切りだとすべてを刈り取ってしまった。
 それにしても、この小菊は毎年同じように、最低気温がマイナスになるころに、他の草花はすべてしおれ凍りつき枯れてしまうころに咲き始めて、こうして12月まで咲き続けているのだ。
 この寒菊と呼ばれる冬に咲く小菊の不思議さ・・・一週間ほど前には-7度や-9度にまで冷え込んだ日があったというのに、それでもしおれることもなく花を咲かせている。
 まったく、その葉や花の構造はいったいどうなっているのだろうかと思う。

 このわずか1㎝程の花を咲かせる小菊については、今の時期になるといつもこのブログに書いているのだが、この小菊そのものは、もうずいぶん前に、今は亡くなってしまってた近くの農家のおばあさんにもらったもので、 ほんの数株だったものが、大した手入れもしていないのに、年ごとに増えていって、今では百株を越えるまでに大繁殖して、庭の一角を占めるまでに至っているのだ。
 私は、あまりこまめに庭いじりなどをするような人間ではないし、その本来はぐうたらな私の性分に合わせてか、この小菊は、放っておかれても、自分なりにたくましく生き続けているのだ。
 そして、いつもその何本かをありがたく切り取っては、母とミャオの写真が並ぶ仏壇の前に供えて、手を合わせている。

 もっともこの小菊にしてみれば、ただ己の本能のままに、根を下ろした場所で必死に生きているだけなのだろうが。
 他の草花が咲き競う、春から夏、さらに秋にかけても、まだ花のツボミをしっかり抱え込んでいて、そしていよいよ他の草花たちが霜や雪の寒さで枯れ果てた初冬になって、ようやくその小さな花を開かせるのだ。
 それは、同じようにまだ寒さの中でも生き残っている、何匹かの小蜂や蛾が飛び回っていることを知っているかのように・・・。

 前にも取り上げたことのある本だが、あのドイツの小説家のヘルマン・ヘッセ(1877~1962)がその晩年に書きまとめた詩文集『庭仕事の愉(たの)しみ』(草思社 岡田朝雄訳)には、とても素人画家とは思えない見事な作者自身の水彩画の幾つかが挿入(そうにゅう)されていて、時に触れて開きたくなる本の一冊であるが、その中の一節を思い出した。

「人生にはいろいろと苦しいことも悲しいこともあるにせよ、それでもときおり、希望の実現とか、充足によってもたらされる幸福が訪れるものである。その幸福が決して長く続かなくとも、それは(それで)多分よいことなのかかもしれない。」

 ヘッセについて言えば、私たちの世代の人間にとっては、まずあの名作『車輪の下』があり、そこからもっと読みたくなって、『郷愁』や『デミアン』そして『知と愛』などへと読み継いでいったものだった。
 そこに描かれていたのは、誰にでもある若き日の二面性的な自己矛盾に悩み、しかし真摯(しんし)に立ち向かい考えることによって、やがてはあるべき自分の魂の姿を見つけようとする若者の姿だった。
 つまり簡単に言えば、それらは、悩みや苦しみを背負いながらもそれでもまっすぐに生きようとする、真面目な若者たちの話だったのだ。
 そしてそれは、当時の昭和という時代のさ中にあって、混沌とした社会の中でもどうあるべきかと、理想と現実の乖離(かいり)に悩んでいた私たちの心にも響いてきたのだ。
 それが結局は、今の社会の仕組みに順応していくことだと分かってはいても。

 しかし、もう今の時代では、それぞれの価値観が多岐に別れてしまっていて、速いスピードで千変万化して移りゆく社会の中で生きている若者たちには、ただ愚直なまでに悩み苦しむようなヘッセの小説などは読まれないのかもしれない。

 しかしそんなヘッセが、晩年に幾つものエッセー詩文集を出していたのを知ったのは、比較的最近になってからのことであり、恥ずかしい限りだが、十数年前に新聞の書評に載っているのを見てからである。
 それは、私が若いころに読んだあのヘッセのイメージからは離れていて、庭いじりに嬉々としている好々爺(こうこうや)の姿であった。
 もちろんそこには、若き日の思い出と、今の時代への批判も巧みに織り交ぜながらの言葉になっていたのだが。
 つまり、その当時の彼と同じ世代にあり、もはや”ジジイ”になりつつある私にとっては、それだけに、よく分かり合える友人のようにさえ思えてくるのだ。
 ここが、文学書などを読むことの楽しみの一つでもある・・・世界的な知識人や有名人に、活字として書かれた言葉を通じてだが、知り合い気分に、友達気分にさえなれるのだから。

 最近の若い人たちは、マンガは読んでも、本は読まないというが、実にもったいないことだと思う。
 古今東西、今までには、選ばれし優れた人々たちによって書かれてきた、様々な文学書があり、そこには彼らが経験してきた得難い知識や警句、教訓などにあふれていて、私たちは時代を超えて、その貴重な体験のひと時を同じように追体験できるのに、と思うからだ。
 もちろんそれは文学書だけではない、哲学、美学さらには科学、自然科学などの諸相における分野について書かれたものがあり、それぞれに意義ある貴重ものであり、もちろん私たちは、百科全書派ふうにそれらのすべての分野に目を通せるわけではないけれども、どこか一つの系統でもたどれるとすれば、必ずやそれらの人々が書いてきた、ひたすらに真実を求める思いを知って、胸打たれるだろう。

 私が、最近流行(はやり)の、ファンタジーや幻想映画、文学、マンガ等を余り見たいとは思わないのは、それが最初から、現実としてはあり得ない、例えば時間をまたいで、現在と過去未来を行き来する話などになっているからである。
 現在の科学の力をしても、決して作り得ないタイムマシーンがあったり、それによって現代人がそのままの姿で、いきなり戦国時代に放り込まれたり、自分が生まれる前のまだ若い時代の父親に会ったり、人類滅亡後の世界に一人生き残っていたりなどする作り話よりは、私は今私が生きている時代でも、昔の時代のことでも、それがそのままあったように伝えてくれて考えさせられるような、真実に近い作り話の方に興味をひかれる。
 自分なりに、それぞれにまっすぐに生きている姿・・・それは、時代を超えて変わらずに人の胸を打つものだから。

 だからそれは、今の時代に生きている可愛くて若い娘たちが、一緒になって歌い踊っている姿を見たりすれば、なおさらのこと私には好ましく映るだと、ここでも、もうお分かりのことだと思うが、我田引水的に、強引にAKBの話へと持っていくのだ・・・。

 というのも、前回土曜日の、NHK・BSの「AKB48SHOW」が、なかなかに面白かったからだ。
 冒頭のコントは、渡辺”まゆゆ”と選抜新加入の”乃木坂46”の”生駒(いこま)ちゃん”の掛け合いによるもので、二人とも可愛くていいし、次はその32人選抜メンバーによる、新曲『希望的リフレイン』 で、二か月前発表時の選抜メンバーから外されて泣いていた、あの”岡田奈々”と”西野美姫”の二人が、ここでは選ばれていて、元気に明るく踊っていた(こんなところまで分かるようになってきた私は、恥ずかしながらまさに”病こうこうに入る”状態であはあります)。
 そして今回一番うれしかったのは、あの”道頓堀(どうとんぼり)美少女ファイター、くいだおれタコ美(木下百花)”が久しぶりに登場したことだ。思わずテレビ画面に向かって拍手してしまった。彼女のセリフには大阪の人間にしかわからないキャラクターが登場していたが、それが分からなくても、あのこってりした関西キャラいっぱいの”タコ美”ちゃんは素晴らしい。
 さらには、今回のAKBの新曲のミュージック・ビデオは、”たかみな”に始まる歴代のセンターが走りながら、黄金のマイクをリレーしていくという筋立てになっていて、なかなかに面白くて良かった。
 そして最後には、AKBの派生ユニットである”ディーバ”の歌とダンスで締めくくられていた。AKB卒業生2人を含む4人とバックダンサーたちからなるグループの、解散前の最後の曲であり、今のAKBではとても出せないだろう大人の女の魅力にあふれていた。
 AKBのことについては、つい能弁(のうべん)になる私としては、いい年をして恥ずかしくもあるが、まあ一時的な若き日の恋の病のようなものだからと言い聞かせてはいるが・・・。

 次にここに書いておきたいのは、山好きな私としては、外すわけにはいかない、NHK・BSの『グレートトラバース』である。プロ・アドベンチャー・レーサーとしての若者が一人で、自分の力、人力だけで、一筆書きにたどって日本百名山を登ってしまうというドキュメンタリー・フィルムである。

 前にも、いわゆる”トレイル・ラン”として、山を走って上り下りする人について書いたことがあるが、それを今回”プロ”と名付けたのは、NHKのドキュメンタリー出演者としての、金銭的援助を受けたことによるものだろうが、それだけに私は最初に放送された第1回の時から、なんとなく、私たち登山愛好者とは違う、レースとしてスポーツとしての選手のように、少し引き気味に見ていたのだ。
 さらに一人とはいっても、常に彼を前後から写している撮影チームの数人がいるわけだから、完全な”ソロ”としての意味合いは薄れるし、何より日程に従って、天気が良かろうが悪かろうが、ともかく順に登っていくだけだという姿勢が私の登り方とは、大きく隔たっていたからでもある。
 ただし晴れた日の山々、特にまだ残雪深い南アルプスの姿は、何といっても素晴らしく、この百名山行でのハイライトだった。

 そして先日、最後の第5回東北・北海道の山々が放映されたが、その時残念なことにあの白馬村での地震速報が入り、さらに中断されてしまい、ようやく再放送がこの土曜日にあったばかりなのだ。
 しかし、それで良かったのだ。というのも、NHK放送サイドは、前回中断された放送分で大きなミスをしていたのだ。
 それは、北海道の日高”幌尻岳”(ぽろしりだけ、2052m)に向かう所で、空中撮影によって流された映像は、何と同じ日高山脈で第2位の高さにある”カムイエクウチカウシ山”(1979m)だったのだ。

(写真下、’97,7.1の山行より、1903峰よりカムイエクウチカウシ山、ちなみに私はこの山を北海道の山ベスト3の一つに挙げたいし、日本の山ベスト10を考えた時にも、ぜひその一つに入れたいとさえ思っている山であり、さらに言えば百名山に選ばれなくて幸いだったと思う山の一つでもある。)



 ともかく、今回、幌尻岳と間違えて映し出されたその映像自体は、日高核心部の勇壮なるカムイエクの姿を映していて素晴らしかったのだが、北海道の山に詳しい人ならば、すぐに気がつくほどの間違いだったのだ。
 おそらくは、視聴者の誰かが指摘して、どのみち再放送で直してくるだろうとは思っていたが、そのとおりの”怪我の功名”で、映像は正しく差し替えられていた。
 などといろいろ指摘してはみたものの、やはり短期間で全山登りつくしたことは大変なことであり、そこに至るまではそれ相応の決意と実行力が必要だし、まして最後の稚内(わっかない)から利尻島への、荒海でのカヤック横断では、傍に撮影クルーがいるにしても、思わず手に汗握る場面になっていた。

 最後に蛇足になるが、私はこうした山の登り方は、若いころでもしなかっただろうし、まして”百名山”制覇などに挑む気もなかったし、もし山の上で今回の彼にたまたま会ったとしても、他の登山者と同じように一言の挨拶は交わしただろうが、まして一緒に写真に納まったり、サインを求めたりはしていないだろう。
 とはいっても、明らかに体力の落ちてきている今、百名山どころか山は選んで登るほかはないのだが、一つには年齢による体力の減衰がというよりは、むしろ年齢からくる気力の低下といった方がいいのだろう。
 確かなことは、もう以前ほどに積極的に動き回りたいとは思わなくなってきたということだ。それよりは静かな自分家にいて、これまた静かな家の周りを歩いていれば、それが何よりと思えるようになってきたからだ。つまり、年寄り症候群病にかかっているとでもいうべきか・・・。
 
 たとえばこれから九州に戻るとしても、ついこの間までは、そのついでに東京に一二泊してでも、美術館に行ったり、クラッシックのコンサートを聞きに行ったり、映画を見に行ったりしていたのに・・・今、東京では、あのウフィツィ美術館展があり、さらにはセガンティーニとともにスイスを代表する画家である、ホドラーの回顧展が開かれているというのに、もう東京の雑踏と、美術館内の雑踏とを考えただけで、行く気がしなくなってしまうのだ。
 
 ”老兵は死なず、ただ消え去るのみ”という、あのマッカーサーの有名な言葉に、自分なりに付け加えるものがあるとすれば、”戦場から”つまり”都会から”ということだろうし、さらにその後に言うべき言葉としては、”そして緑野に、土に還るべし”ということになるのではないだろうか・・・緑のふるさとへ、土のあるところへ帰るという意味と、最後には緑野の土に埋もれて、土に戻るという意味を含めて・・・。
 若いころよく見ていた東映任侠映画路線の二人、高倉健と菅原文太に合掌。