ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

遥かなる山々

2016-05-30 21:52:23 | Weblog



 5月30日

 北海道に戻ってきて、一週間余りになるが、その間にも季節は、移りゆく春の色合いをまき散らしながら、確かな歩みで進んで行く。
 わが家の庭には、赤と黄色のチューリップの花と、桃色と白のシバザクラの花が咲いていた。
 緑の芝生の中で、ひときわ強く春の色合いを見せつけるように咲いていた。

 エゾムラサキツツジの花は、もうほとんどが散っていたが、その傍ではレンゲツツジのツボミが大きくふくらんでいた。
 庭木のリンゴの白い花が枝もたわわに咲いていたし、ライラックの紫の花のかたまりも咲こうとしていた。
 家から庭に出ると、一瞬そのリンゴの花と、シバザクラの花の香りで、むっとくるほどだった。

 そして今は、さしもの春の勢いも峠を過ぎて、草木にとっては、初夏に向かっての分厚い活力をため込む時期になっていた。
 毎日天気の日が続き、帯広では4日連続の30度超えの真夏日が続いた。今はまだ5月なのに、むしろ真夏でさえ、それほど高い気温の日が続くことはないのに。
 この北海道に来ることの楽しみの一つである、山々の眺めは、残念ながらしばらくの間は、その高温の影響もあってか、かすんだ空気の中でぼんやりと山波が見える程度でしかなかったのだが、その後風の強い日があって、空気が入れ替わったのか、いつものように残雪の日高山脈が姿を現した。

 近くの小高い丘に登れば、南は、広尾町音調津(おしらべつ)先の岬から、北は佐幌岳(1059m)に至るまでの百数十キロ以上にわたって連なる日高山脈の全貌が見えるのだ。
 とは言っても、今までは、大体一月以上前の4月半ばには戻ってきていたし、さらにはここでまるまるひと冬を越したこともあったから、真冬の全山真っ白の山波を眺めていて、それが春先になって、少し少しずつ山の尾根の形に雪が溶けていく様子を、日々つぶさに観察することができたのに、今回は戻ってくるのがすっかり遅くなってしまい、残雪があちこちに残るだけの山の姿になっていたのだ。

 それでも、十勝平野に大きな根張りをもってそびえ立つ十勝幌尻岳(とかちぽろしりだけ、1846m)を真ん中にして、左右に2000mから1900mに至る、まだ残雪豊かな日高山脈の主峰群が立ち並ぶさまは、決して見あきることのない山岳景観ではある。(写真上、中央に十勝幌尻岳、左に札内岳がのぞき、右に1967峰からピパイロ岳)
 さらに北端の佐幌岳の後ろには、まだ真っ白な大雪山と十勝岳連峰も見える。

 何度も書くことだが、私の人生の終わりには、願いがかなうことならと思い描いてみるのだ・・・日高山脈が見える十勝平野の小さな丘の上に行って、そこで横になり、その時の風の音や、遠くに聞こえる鳥の声などを聞きながら、できることなら小さく、バッハのピアノ曲でも流れてくれば申し分ないのだが、そうして、いつしか知らず知らずのうちに死への眠りに落ちてゆけたら・・・。
 それこそ、昭和ロマンの時代に生まれ育ち、夢見がちな思いのまま死に行く、このじじいにふさわしい、空想でしかないのだが、しかし現実は、多くの誰でもがそうであるように、それは思いがけなく、”デス・ストーリーは突然に”やってくるものだろうし、それが悲惨な終わり方になったとしても、今はただこの時間をいっぱいに生きることであり、併せて”妄想族(もうそうぞく、タモリの造語)”の一人として、心楽しい終りの夢も見ていたいものだ。

 いつもは、まだ山々の残雪豊かな時期に戻ってきて、時にはその冬山のころと変わらない雪山を目指して、日も置かずにすぐに山登りに行ったものだが、今では、もうそうした居ても立ってもいられないほどの、山の想いに駆られることもなくなってきてしまった。
 それは、哀しいことに、そうして山に行こうという気にならないほどの、情けない体になってしまったからだ。
 と書くと大げさだが、早く言えば、この春先からのヒザの状況が、依然として思わしくないからだ。
 特にあの春先の九重登山以降(5月16日の項参照)、悪化したヒザが十分には回復しないままであり、その原因の一つが、前回書いた、一日だけだったがあの東京滞在にあったのだ。
 それは、まず美術館での2時間半余りもの時間が、座ることのない立ちっぱなしであったことと、その美術館内を含めて、JRの駅の乗降に何度もの階段があって、それがヒザにはこたえたからである。
 その昔、若い時に東京で働いていたころには、山登りの訓練のつもりで、JR・私鉄・地下鉄の階段はすべて一段飛ばしで駆け上がり駆け下っていたものなのに・・・”昭和は遠くなりにけり”。 

 そんな感傷に浸るのはともかくとしても、ヒザに関して言えば、例のごとくコンドロイチン薬剤服用と、患部を冷やすことぐらいしかできないのだが、何とか少しずつ良くはなってきているようにも思えるのだが、普通に歩く限り問題はないが、階段の上り下りはまだ重たいかすかな痛みがあり、とても山には行けない状態だ。
 あの残雪を踏みしめて、山を歩いて行きたい、せめて1,2時間だけでもいいからと思うのだが、悲しいかな今こうして家にいるのが現実なのだ。
 そこで町の本屋さんに寄って、山の雑誌を買ってきて、もう行くことはできないかもしれない、山々の写真を眺めている。
 もう今は、”遥かなる山々の呼び声”(1953年公開の映画『シェーン』のメイン・テーマ曲)を聞くだけになってしまったのだ。

 もっとも山に行けない代わりに、家の庭仕事や、林内仕事はいくらでもあるし、林から畑の傍を通ってまた林の中に入り、見晴らしのきく丘にまで歩いて行き、そこで晴れた日の山々を眺めては楽しむことはできるのだし、そう悲観したことでもないのだ。
 その庭仕事では、タンポポなどの草取りをして、その後で芝生の刈り込みをして、花が終わったチューリップの花房を摘んでいき、小さな畑を起こして、自分で作った堆肥を入れて、トマトの苗とジャガイモを植え付け(年ごとに植え付ける野菜の種類が減っていくが)、イチゴ畑に肥料をやり、これからは、道の周りや林内の草苅りもしていかなければならないし、山に登れないぐらいであれこれ言っている場合ではないのだ。
 林内では数日前から、恐ろしい数のエゾハルゼミの声がいっせいに鳴り響き、あの”耳を聾(ろう)するばかりに”という表現の通りに、周りの物音が一切聞こえないほどなのだ。(写真下、サナギから孵(かえ)って木の幹ではなく、牧草の穂先にとまっているエゾハルゼミ)



 ところが今日は曇り時々晴れで、日差しも十分にあるのに、林内はしんとしていて、たまに一二匹が遠慮がちに鳴くだけだ。
 それもそのはず、今日の気温は最高でも15度足らずで最低気温は5度、昨日との差は10度近くもあり、一気に冷たい空気が入ってきて、さすがのセミたちも動きが取れなくなったのだろう。
 この肌寒さは、一か月前のころの気温というだけでなく、天気も明日からは崩れてきて三日間も続くとのこと、セミたちはどうするのだろう。

 さらに気がかりなことがもう一つ、庭のライラックの木には、今を盛りとばかりに、二三十房もの紫の花が咲いているのだが、なんと悲しいことに、その幹がぐるりとシカに食べられているのだ。(写真下)
 ライラックだけではなく、チシマザクラも、ハマナスも、その枝先や幹の皮が食べられてしまっているのだ。
 九州でも、近くにあった直径30cmものネムノキの幹が、ぐるりとシカに食べられて、その年は何とか花は咲いたが、次の年はほんの二枝くらいが咲いただけで、そしてその次の年には完全に枯れてしまい、今はその切り株が残るだけだ。(’12.12.27の項参照)
 せっかく、年毎に色鮮やかな紫の花を咲かせて、私の目を楽しませてくれたライラック・・・もう二年とはもたないだろう。

 前にも書いた南・北アルプスでの、シカやサルたちによる、高山植物や果てはライチョウに至るまでの被害だけでなく(5月9日の項参照)、全国至る所から報告されている里山での、農林業の被害・・・その対策はいろいろと考えられているようだが、どれも目立った効果をあげてはいないように思える。
 このわが家の周りでも、農家の畑へのシカの被害が大きく、何キロにもわたって高い牧柵が張り巡らされたのだが、私のような農家でもない所でさえこうした被害があるのだ。

 そこで、ふと気づいたのだが、サルの餌付(えづ)けによって野生のサルを観光資源にした、九州は大分高崎山のように、ひと山まるごとの自然そのままが彼らの生活圏になり、しかし大半のエサはエサ場で人間から与えられるものに頼っていて、それだからこそ近隣農家のサルの被害が少ないのだろうが。
 つまり、これからの野生生物に対しては、そのまま自然の中で自力で生活するのが本来の姿ではあろうが、例えばそのままの手つかずの原生林と、人間の手によって植林され育てられてきた植林造林地があるように、被害の少ない保護すべき地域と、被害の多い地域とに分けて、人間側が餌付けをして、一定の地域に、ゆるやかに閉じ込めることはできないだろうか。
 あのイギリス歴史上で有名な二度目のenclosure(エンクロージャー、囲い込み)が農業革命と言われたように、双方の利益になるようにできないものだろうか、そして、その動物たちの姿を見せることで新たな観光資源にはできないものだろうか、大分高崎山や宮崎幸島、瀬戸内海小豆島そしてスノー・モンキーで有名な志賀高原地獄谷のサルたちのように、あるいは奈良公園のシカたちのように・・・と思ってはみるのだが。

 そのためには、多額の費用がかかることだろうが、しかしこれからは、野生生物に対しては、お金をかけて人間の側で保護していかなければならない時代になったのだし、他人事に見える野生動植物の存亡の危機は、同じ地球上の生き物である私たち人間にも、いつかは同じようにかかわってくるものなのだ。
 地球上の自然が作り上げた環境は、何も人間だけが勝手に使い乱していいというものではないし、これからは同じ生き物同士として、お互いの利益を守るためにと、考えていくことが必要になるのだろう。

 もっともこの世の中にはさまざまな考えの人がいて、熊本地震の時に書いたように、”古い木造家屋に住む年寄り9人が死んだくらいで何”と、ネットに書き込む若者がいるくらいだし(4月18日の項参照)、戦争はだめだとみんなが思っていてもいつも戦争は起きてしまうし、人間の世の中というものは、いくら世界の歴史を繰り返し見直したところで、同じことを繰り返している、懲(こ)りない人々の集まりだとも思えてくるのだが。
 かくいう私も、同じ過ちを繰り返しては、学ぶこともなく、へらへら薄笑いを浮かべて生きている、どうしようもない年寄りの一人ではあるが。

「こうして生きてはいる木の芽や草の芽や」
 
「どうしようもないわたしが歩いている」
 
(『山頭火句集』より ダイソー文庫)


  

  


船の跡なきごとし

2016-05-23 21:34:53 | Weblog



 5月23日

 数日前に、北海道に戻って来た。
 家の庭も周りの草木も、もうすでに春の盛りの中にあった。
 やるべき仕事がいろいろとありすぎて、まだ頭も体も慣れていなくて、時々”ここはどこ、ワタシは誰”状態になってしまうほどだ。
 ともかくは、これまでのことを、時間をさかのぼってたどって行くことにしよう。

 晴れた日の朝早く、九州の家を離れて、まずは東京に行って、そこで一晩泊まることにした。
 最近は、山に登るために、あるいはその帰りに東京に立ち寄ることはあっても、東京に泊まることはなかったのだが、それは近年の東京の宿泊状況が、とみに厳しくなっていて、簡単にホテル予約などできなくなっているからだ。
 まして、安いビジネスホテルの部屋を探す私には、もう運任せに、それぞれの宿にあたってみるしかないのだ。
 ネットで調べていくが、軒並みに満室の表示が出ていて、それでは少し高めなところまでと当たってみたのだが、状況は変わらない。
 そこでふと目に入った、カプセル・ホテルを調べてみると、やっと空きがあって予約することができたのだが、料金は、地方のビジネスホテルと変わらないほどだった。
 
 それまでに、私は一度だけカプセル・ホテルに泊まったことがある。
 十数年も前のことだが、そのハチの巣のような狭い空間に、居心地の悪さを感じたからというよりは、入口がシェード一枚で外部と区切られているだけで、周りの客の出入りや話し声が筒抜けで、とても十分には眠ることができなかったからである。
 今回泊まった所は、小さなビルながらも、比較的きれいであり、カプセル本体のスペースも一畳以上の広さがあって十分だし、隣の物音もほとんど聞こえなかったが、やはり真夜中に帰ってきた男たちの声で目が覚めてしまった。

 これは比較にはならないのかもしれないが、二食付きで料金はカプセル・ホテルの倍近くになる、北アルプスなどの山小屋のことを思ってしまう。
 夜7時くらいまでには、皆がいっせいに寝てしまう山小屋、しかし狭い布団にマグロ状に寝かされ、運が悪いと、怪獣かけめぐるいびきの修羅場(しゅらば)にもなるが、それに比べて、自分のスペースが箱として確保されてはいても、生活時間の違う客たちが出入りする、カプセルホテル。
 そんな話も、どこかの国の知事のように、一泊16万もするようなホテルに泊まる人には、理解されないのかもしれないが。
 さらに、生来のケチな私としては、そんな高級ホテルの10分の1の料金でさえ、とても出す気はしないだろう。
 さて、話が最初からお金の話、費用のことになってしまったが、もっともそれは、いつも費用対効果のことを気にしている私ならではのことであって、とは言っても出すべき所では高価な買い物もしてはいるのだが。

 福岡からの東京までの飛行機では、幸いにも翼に近い所ながら窓側に座ることができた。
 何度も繰り返し言うことだが、晴れた日の飛行機の窓からの眺めほど、心楽しいものはない。
 もっともわざわざ窓側の席に座っているのに、シェードを下ろして寝ている人もいて、人それぞれなのだと思う。
 つまり、飛行機の運賃分だけは楽しもうと、カメラを持って窓にへばりついている、私のようにケチな根性の男と、昨日は深夜まで大切な付き合いがあり、今日はまた午後から重要な会議が組まれていて、唯一飛行機の時間だけが休息のひと時になるという人もいるように・・・二百人余りの乗客それぞれの様々な思いを乗せて、飛行機は飛んで行くのだ。

 もう何度となく見ている、いつもの光景だが、決して見あきることはない飛行機からの眺め。
 九州は国東(くにさき)半島の、放射状に別れ広がる耕作地、谷あい模様、瀬戸内海の島々、大阪、奈良、京都と三角形の枠内に収まる日本の古都の位置関係、紀伊半島を横断する中央構造線の地溝帯などがはっきりとわかり、そして”北に離れて雪白き山あり”、まだ豊かな残雪に覆われた白山が見えてくる。
 その右手には北アルプスも見えているが、大部分は雲に包まれていた。

 そして、意外に、雪が少ない南アルプスの山波が続き、やがて群山から離れてひとり高くそびえ立つ富士山の姿。
 結局は、この山さえ見えれば良いのだという思いになるほどに、際立った大きさなのだ。
 面白いのは北側の山梨側と静岡の南側とでははっきりと残雪の量が違うことだ。そして南西の山腹には雲がまとわりついている。
 三保の松原の砂嘴(さし)の姿を真下に見下ろし、駿河湾から伊豆半島を越え相模湾に出ると、太平洋に向かって進む一隻の船が見え、かなりの大型船で、その後ろには白い航跡が続いている。
 富士山はひとり高くそびえ、船は太平洋の大海原へと進んで行くのだ。(写真上)
 
 前にも何度か取り上げたことのある、あの万葉集の中の一首を思い出してしまう。

 「世の中を 何にたとへむ 朝開き 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきごとし」

 (『万葉集』巻第三 沙弥満誓(さみまんぜい)が歌一首)

 確かに、人の世は、それぞれが自分だけの航跡を残して進む船のようなものであり、その生きていた証(あかし)などすぐに消え去ってしまうものなのだろうが、しかし、今眼下の大海原をひとり水しぶきをあげて進んでいる船こそ、その今を生きている自分の姿でもあるのだ。
 飛行機は伊豆大島を眼下に見て、東京湾に入り、背後にビル群が立ち並ぶ羽田空港に着陸した。

 モノレールで浜松町まで行き、山手線に乗り換えて上野駅で降りた。
 公園口の改札口を出ると、もう信じられないほどの人の波だった。あの公園内の大通りが隙間もなく、行きかう人で埋まっているのだ。
 その中で、立札を持った人が呼び掛けていた。
 立札には「若冲(じゃくちゅう)170分待ち」と書いてあった。
 そうなのだ、今この上野公園内の二つの美術館では、私が見たいと思っている『カラヴァッジョ展』の他に、生誕300年になるという、その江戸中期の日本画家、伊藤若冲の絵画展が開かれていて、この『若冲展』はテレビでも特別番組が何本か放送されたくらいで、一大ブームになっていて、中高生の団体から、中高年の人たちが押しかけての大盛況ぶりになっているのだ。 

 私は、目的の国立西洋美術館の方を見て、行列ができていないのを確かめて、まずその前にと、大きなイチョウの木の日陰で、みんなが同じように座っている縁石に腰を下ろして、駅構内の売店で売っていたサンドイッチを食べた。1時半だった。
 後から隣に、同年配のおじさんが腰を下ろしてきて、その手には『カラヴァッジョ展』のパンフレットが握られていた。
 声をかけて、館内の混み具合を尋ねると、それほどでもないとの返事で一安心して、その後は絵の話から続いて、日本の古文古典文学の話になり、彼も中高年の古文研究サークルに入っていて、毎週講師に来てもらっての講義を受けているとのことで、今は『吾妻鏡』の所で、鎌倉幕府の時の執権、北条泰時らが定めた”御成敗式目(ごせいばいしきもく)”成立に際しての話であり、法律を勉強してきたものとしては実に興味深く聞かせてもらったし、さらにクラッシック音楽も好きで、先日はあの女性指揮者の西本知美が指揮するチャイコフスキーの第5番を聞いてきたとも言っていた。
 年を取ってくると、こうして好きなものまでが似てくるのだろうか。
 ただ違うところは、彼は文化的芸術的催し物がいつもどこかで開かれている東京に住んでいて、私は、それらの催し物のさわりの部分だけを、テレビ新聞などで知るしかない、田舎に住んでいるということなのだが。
 
 東京で働いていた私が、東京を離れて田舎で暮らしていくことを決断した時、はっきりと自分に言い聞かせたことは、収入が格段に減って貧乏生活になることと、コンサート、美術展、封切映画などを見られなくなるということだった。
 しかし、そうして失うもの以上に、田舎には、それに見合うだけの大きな喜びがあるということ。
 大自然の息吹の中に包まれて、生きるということだけでも・・・。

 さて、その国立西洋美術館へと向かう。
 そこには、チケット売り場に並ぶでもない人たちが多くいた。前日、世界遺産に申請されたばかりだというニュースを聞いただろう人たちが集まってきていて、その美術館外観の写真を撮っていた。
 売り場の方には、少し行列ができてはいたが、すぐに中に入ることができた。
 明るい日差しの下、熱気と人々であふれていた、大通りの光景と比べて、一転して館内は、絵に当てられるライトの影になって、見学者たちの人影がゆるやかに動いていた。
 私が、最近は立ち寄ることもなかった、東京に一泊してまでも、そのホテル探しに苦労してまでも、ぜひ見たかった『カラヴァッジョ展』。

 その昔、若かった私が、それまでに通り一遍の知識しかなかった西洋絵画の世界に、大きく目を開かれるきっかけになった絵が二点ある。
 若き日のヨーロッパ4か月の旅の目的の一つは、その二つの絵を見ることにあった。
 一つはフェルメール(1632~1675)の『牛乳を注ぐ女』であり、もう一つはカラヴァッジョ(1571~1610)の『聖マタイのお召し』の絵である。
 フェルメールの方は、アムステルダムの国立美術館で、あまり他の観覧者もいなくて、多くの時間をこの絵と私だけが対峙する形で、二日にわたって十分に見ることができた。 
 しかし、カラヴァッジョの方は前にも書いたように、運悪く教会が閉まっていて、見ることができなかったのだ。
 もちろん、他の美術館でカラヴァッジョの作品の何点かを見ることができたのだが、あの劇的な光のドラマを描いた絵を見られなかったことは、ずっと長い間、私の胸に小さなつらい思い出として残っていたのだ。

 それでも、もう一度あのヨーロッパ・アルプスの山々を眺めに行くために、さらにはローマにあるあのカラヴァッジョの絵を見るために、ヨーロッパへ行こうとの決心はつかなかったのだが、昨年、何と驚くべきことに、カラヴァッジョの真筆になるという絵が発見されたとのニュースが世界をかけめぐり、さらにまた何ということか、その絵が日本で世界初公開されるというのだ。
 今までの私の思いの代わりになるべき、その絵を見ることができるようになるのだ。これだけは、是が非でも、万難を排しても見に行くほかはない。(2月8日の項参照)

 そこには、カラヴァッジョの絵だけでも11点、併せてカラヴァッジョの画風様式美に影響を受けたとされるカラヴァジェスキと呼ばれる、画家たちの絵も40点余り(その中には、あのローソクの炎の絵で有名なラ・トゥールもあり)、全く申し分のない陳列絵画の数々だった。
 カラヴァッジョ初期のころの、やや拙(つたな)さを感じる絵から、それでも十分にカラヴァッジョらしさは表れているのだが、その後の「エマオの晩餐(ばんさん)」は、もう一つ別の情景を描いたものもあるのだが、私にはこちらのほうがより静謐(せいひつ)なドラマのように見えた。 

 そして驚いたのは、あのギリシア神話に出てくる、頭髪にヘビが混じっている彼女の顔を見たものは石に変えられてしまうという、メデューサの斬首(ざんしゅ)された頭部の絵であり、画集では何度も見ていたのだが、それは、丸い形の実戦防御用の盾(たて)に実際に描かれているものであり、今で言う3D的な立体感にあふれていて、カラヴァッジョのもう一つの特徴である、恐るべき写実性の実体を今さらながらに見せつけられたような気がした。
 
 そして、この『カラヴァッジョ展』での、というより、私がわざわざ東京に立ち寄ったその目的でもあった、あの絵、「法悦(ほうえつ)のマグダラのマリア」・・・人々が取り囲む間から、その絵が見えた瞬間、私は一瞬感極まって涙ぐんでしまった。

 全く似た様な思いをしたことが、何度かある。
 若き日に見たフェルメールの絵に、あるいはこの冬に見た映画「ピロスマニ」(1月19日の項参照)に、そして初めて十勝幌尻岳(1846m)に登り、初めて日高山脈主峰群が立ち並ぶ姿を見た時などなど・・・。
 
 新約聖書に出てくるマグダラのマリアは、性的不品行の娼婦的な女であったが、キリストと出会い改悛(かいしゅん)して、キリストの教えに従うようになり、その後キリストが磔刑(たっけい)に処された後も、埋葬に至るまでを見届けて、さらに再びキリストが復活した時に、最初に対面したのも彼女だったのである。
 さらに、彼女は結婚しているともされていて、絵の中で、彼女の腹部がふくらんで描かれているのはそのためだとも言われているが。

 私は、密集の人々の中で少しづつ前に出ては、大きな体を少しかがめてはじっくりと見つめ、今度は離れて人々の頭の向こうにその絵を眺めた。
 同じことを二度繰り返し見たものの、それでも離れがたかった。
 画面の左上半分は暗く、右下半分に、光を浴びて後ろに寄りかかるマリア、ひじの下にはキリストを暗示するドクロがのぞいていて、失神する寸前のような、薄く開かれた白目ががちな彼女の目からは、一筋の涙が流れ落ちていて、その半ば開けられた唇は紫色に変色している。
 私にはこの絵が、表題にある宗教的な法悦(エクスタシー)のマグダラのマリアというよりは、むしろ、悔恨の思いに駆られながらも、満ち足りた思いで死にゆく人の姿にさえ見えたのだ。
 そこからは、悔いいる人の思いが、痛いほどに伝わってきた。それは、もちろんこの絵のマリアの姿からであり、この絵を描いたカラヴァッジョ自身の思いからであり、そして他ならぬ私自身の姿でもあったからである。(写真下、『カラヴァッジョ展』ホームページより、絵の下半分)



 それまでに、紹介されていたテレビ映像などで見ていて、全体像は分かっていたのだが、絵を前にして初めて気がついたのは、絵の斜め左上半分を区切る黒い背景の中に、よく見ると洞窟らしき影があり左上のぼーっとした明かりが、実はその下にかすかに描かれた十字架のためであったということだ。
 それは、悔恨の思いから悔い改めた者への、天上からのかすかな救いの光ではないのだろうか。

 カラヴァッジョ、若いころから天才画家の名をほしいままにして、一方では無頼(ぶらい)、悪行狼藉(あくぎょうろうぜき)の限りを尽くしてお尋ね者になり、イタリア各地を逃げ回っていて、30代半ばにしてそんな自分の現在に嫌気がさし、初めて深く後悔しては、マグダラのマリアの姿に借りて、己の今の姿を赤裸々に表現したのではないのか。
 言われているように、この絵が、ローマ法王に自分の罪の許しを願い出るために、携えていた3枚の絵の一点であったというよりは、ダヴィンチがあの「モナリザ」の絵を終生手放さなかったように、これはカラヴァッジョの”モナリザ”ではなかったのか、そしてここに描かれている若い女は、彼が昔愛して捨てた娘の姿ではないのか・・・様々に押し寄せる青春時代の思い出の中で、彼は遅すぎる懺悔(ざんげ)の思いをこめて、この絵を描きあげたのではないのかと、私は自分の中での想像をふくらませ考えてみた。

 記録の伝えるところによれば、何かの手違いによって、その3枚の絵を乗せた船に置き去りにされて、彼はその船を求めて海岸沿いに歩き続け、行き倒れになって、38歳という若さでこの世を去ったのだという。
 何という惜しみて余りある、天才画家の生涯だったことだろう。
 
 2時間半立ち続けていて、ひざを痛めている年寄りの私には、もう限界だった。
 たとえ、あの『若冲展』が空いていたとしても、さらには六本木の国立新美術館では『ルノアール展』も開かれていたのだが、もう私には、今日のカラヴァッジョだけで十分だった。

 そして再び電車に乗って、銀座に行き、街並み建物はさして変わらないのに、中国人観光客ばかりが”銀ブラ”していて、すっかり変わった感じになった銀座通りを歩いて、カメラ・サービスセンターに行き、カメラのセンサー清掃をしてもらい、そしてカプセル・ホテルにチェックインして、近くでロースカツ定食700円を食べて、再び宿に戻り、共同浴場で1日歩きまわって疲れた体の汗を流して、7時半には自分のカプセル・スペースに収まって、ようやくゆっくりと横になることができた。

 翌日、再び浜松町から、AKBグループのHKT指原莉乃のポスターに導かれて、モノレールに乗って羽田に向かい、今日も空は晴れていて、飛行機からの眺めを楽しむことができた。もっとも、東北の飯豊連峰や朝日連峰が見えた後は、ずっと雲の下になって他の山々は見えなかったのだが。
 そして、降り立った北海道の大地には、緑一面の牧草地が広がり、ビート(砂糖大根)の緑の苗が並び、ジャガイモの畝(うね)が続いていた。
 すっかり、周り一面に春が広がっていた。どこもかしこもすべて、春になっていた。
 

  

  


静かなること山の如し

2016-05-16 21:32:50 | Weblog



 5月16日

 春というよりは、初夏の日差しが暑いほどの、九重の山に登ってきた。
 その前に山に登ったのは、いずれも、家の近くにあるいつもの小さな草山だったから、クルマで出かけて行って山に登るのは久しぶりのことになる。
 もっとも、家からクルマで1時間足らず走れば登ることのできる山は、幾つもあるのだが、年寄りになってますますぐうたらになり、動きたがらなくなってしまい、まるで”動かざること山の如し”であったこのワタクシめも、さわやかな五月晴れの朝の空を見ると、たまらずに九重の山に向かったというわけであります。

 今の季節は、木々の新緑がきれいな時期ではあるが、しばらくすると九重全山を鮮やかな赤に染める、あのミヤマキリシマの時期(5月下旬から6月中旬ころ)になるし、その前に咲くあでやかなツクシシャクナゲの花は、もう今がぎりぎりの時期だと思い、その群生で有名な黒岳に行くことも考えたが、先日じん帯を痛めてまだ十分に回復していないひざでは、とても長距離の周遊コースは無理だろうし、それならば三俣山の火口一周コースにでも行くかと思っていたのだが、途中に通る硫黄採掘のための硫黄山道路には、例の地震のために登山自粛注意報が出されていて、ネットの写真で見ると、巨大な岩があちこちで崩れ落ちていて、誰でもあの写真を見れば行く気はしなくなるだろう。

 というわけで、いつもの九重に、いつものようにすぐに取りつける牧ノ戸峠経由で登ってきたというわけなのだが、それにしても春夏秋冬、それぞれの姿で登山者を楽しませてくれて、なおかつ高山環境を持つ山容でありながらも、その登山路は誰にも登れるほどにゆるやかな道であり、最近年を取るにつれ、この九重山群は実にいい山だと思えるようになってきた。
 そして二つの故郷を持つ私には、そのもう一方の北海道には、あの大雪山系の山々があるのだが、家からその登山口に着くまでには結構な時間がかかり、さらに九重とは比べられないほどの厳しい高山環境にあるから、九重ほどに手軽に行くというわけにはいかないが、私にとってはそれぞれに欠くべからざる、かけがえのない山域なのだ。
 この二つの山に共通するのは、もちろん火山が作り上げた山域であり、その高原性のたおやかで広々とした山容にもあるが、特筆するべきは、やはりここだけというべき花にある。
 初夏の時期に、九重全山の山肌を薄赤く染め上げるあのミヤマキリシマ一大群落と、大雪山のなだらかな溶岩火砕流尾根道の左右に広がる、日本最大級のスケールのお花畑の見事さにあるだろう。
 それぞれの山域に、数十年近く、それぞれに数十回以上は登っているのだろうが、いまだにあきることがないのだ。
 
 さらに言えば、この二つの山域に加えて、その次によく登っている山々、火山系ではない褶曲(しゅうきょく)や隆起といった造山運動によってできた高峻な山々、北アルプスや南アルプスそして日高山脈という、高山帯トレッキングを楽しむにふさわしい山域があったことが、私の山人生にどれほど豊かな彩(いろど)りを添えてくれたことか。
 もちろん、その他にも屋久島や富士山、白山や飯豊山、樹氷の蔵王や八甲田、それに若き日のヨーロッパ・アルプスの山々と、それぞれ一度しか登ってはいないが、いまだに鮮やかな印象で思い返すことのできる山々があり、私は、何と幸せな山人生を送ることができたのかと、この年になってしみじみと思うのだ。

 私からこうした山々を取り除けば、もうそこには何も残らない、”私は何を残しただろう”と問いかけられるまでもなく、この世に何の痕跡(こんせき)も残さず消えていくだけの、ただの年寄りの一人でしかないのだが、ただ心の内では、”一寸の虫にも五分の魂”があるように、よく例えにあげる一匹のアリや、あるいは集団から離れて襲われる一頭のヌー必死さで、つまり一つの生き物として、生きるべく生きてきたのだから、ここまでいい人生だったのだ思うことにしているのだ。
 今さらのことだが、元AKBの高橋みなみが若い子たちを前に言う、”努力は必ず報われる”とか、「恋するフォーチュン・クッキー」の中の言葉、”あっと驚く奇跡が起きる”のを待つほどに私は若くはないし、この年になれば、何事もなるようにしかならない”人間、万事、塞翁(さいおう)が馬”だと考え、これからの残り少ない人生を、その日暮らしに、能天気ではなく脳天気なままに生きていければいいと思ってはいるのだが。
 
 というわけで、雲一つない澄みきった五月の空に誘われて、ただ脳天気なだけのじじいは、喜々として出かけて行ったのであります。
 途中の道路沿いの、ミズキの白い花の盛りに目を奪われながらも、しかし長者原からの道には、路肩崩落や亀裂による長い一方通行区間もあって、やはりというべきか地震の影響を感じながら、牧ノ戸峠の駐車場に着いたのだが。
 さすがに、この大地震後ということもあって、さらにはミヤマキリシマの花の前ということもあってか、これほどに全九州的に晴れわたっている日に、そこに停められていたクルマはわずか十台余り。
 しかし、日ごろから人の少ない時の山歩きを好む、このじじいにとって、それは願ってもないことなのだ。

 登り始めの遊歩道の両側を覆う、リョウブ、ノリウツギ、ヤマハンノキなどは新緑の葉がようやく出始めたばかりで、まだ冬枯れ色と半々といった感じだった。
 尾根道に上がった沓掛山前峰からは、阿蘇の山(1592m)が見え、中岳からの噴煙も立ち昇っているが、あの向こうがこのたびの地震で大きな被害を受けた南阿蘇村辺りになるのだ。合掌(がっしょう)。
 この一か月前の大地震で家をなくして、避難所やクルマ泊まりの人がいまだに1万何千人もいるとのことで、私が北海道の家で水に不自由し不便なトイレを嘆いているのとはわけが違うし、その不便さはもとよりのこと、まずは何よりもわが家でゆっくり眠りたいだけなのだろうが。

 二三日前、ふと見たあのロシアはチェルノブイリ原発事故のその後を写したドキュメンタリー番組の中で、滅びゆく村で一人牛を飼って生活している80歳余りの白髪のおじいさんがインタヴューを受けていて、放射能汚染がひどいこんな所にどうしてあなたは住んでいるのですかと尋ねられて、彼はあばら家のようなわが家を前に、白いひげをなでながら当然のように答えていた。
 「ここでずっと暮らしてきたし、ここから離れたくないんだ。」 
 一度目の地震があった後、年寄りが9人死んだくらいでと、ネットに投稿していた(4月18日の項参照)、おそらくは都会のビル、マンションに住むだろう彼には、この熊本大地震でさえ、同時期に起きたはるか海の向こうのエクアドルの大地震と何ら変わらない、たいしたことではないのだろう。 
 
 さて、登山路に戻ろう。
 沓掛山三角点山頂(1503m)までの途中に、やはりあった、早咲きのミヤマキリシマの株が二つ三つ。
 まだ咲き初めの、これだけの花を見ただけでも、盛りのころの山肌斜面がさわやかに染められる眺めが目に浮かんでくるようだ。(’09.6.10~17の項参照)
 そして、何よりの見ものだったのは、この沓掛山の山頂直下にある数株ほどのツクシシャクナゲである。(写真上、背景は扇ヶ鼻)
 数株ほどの群落だが、先に行って少し離れて山頂部を振り返り見ると、はっきりとピンク色に染められているのがわかるほどだ。
 この花を見ただけでも、今回の九重登山の目的は達成されたようなもので、ここまででひざの状態がひどければ戻ってもいいとさえ思っていたくらいなのだが、ほとんど痛みはなく、そして何よりこの青空だ、先に行くしかない。 

 ゆるやかに、縦走路を歩いて行くと、日当たりのよい草の少ない所には、うす紫のハルリンドウが群れになって咲いているし、小さなササの間には紅色のイワカガミの花も咲いている。
 先ほど、一人の同年配のおじさんに会っただけで、その他に人影はなく、何より人々の大声での話声が聞こえないのが良い。
 何よりも、自然界の中にいる時は、その風景の中にあるがままに、静かであるのが良い。
 あの武田信玄の”風林火山”になぞらえて、ふと口に出して言って見た。
  "静かなること山の如し、そして動かざること、年寄りの如し”。 
 ひとりで、けけけと笑う。周りに誰もいないからいいものの。それにしても、人気のないこの山上の道、空は晴れて、まったくいい気分だ。

 扇ヶ鼻分岐から、新緑の色がつき始めた星生山(1762m)を横に見て、しばらくすると行く手に三角錐の鋭鋒姿の久住山(1787m)が見えてくる。
 何度見ても、見あきることのない九重の盟主の姿だ。
 星生崎の岩塊帯を上りそして下ると、十字路に分かれる久住分かれにきで、後から来た若者と先ほどのおじさんも久住山のほうへと登って行く。
 私も最初はそのつもりだったが、思い直して誰もいない中岳のほうへ向かうことにした。
 ゆるやかに山体を回り込み、そこから御池へと登って行く。ずっと上の方に一人の登山者が見えるだけで、登り着いた御池は、まったく誰もいない静けさだった。
 これほどに人のいない、御池は実に久しぶりのことだ。コバルトブルーの水面の向こうに中岳(1791m)が半分ほど見え、左手にはこれもまた新緑の色を見せ始めたばかりの、天狗ヶ城(1780m)がそびえ立っている。(写真下)
 


 向こうからくる人に一人会っただけで、御池を半周ほど回り、小さな尾根をたどって岩塊帯の中岳頂上部へと向かうが、地震で岩崩れを起こしているような所は見当たらかった。
 登山口から、このひざを痛めていて写真撮りながらの年寄りの足で、2時間半余り、申し分のない所だ。 (コースタイムでは2時10分ほど。)
 頂上三角点から離れて一人、さらに離れた所に二人がいるだけだった。
 九重山群の中で、最も展望が優れているのは、この中岳と天狗ヶ城の二つだろう。もっともこれら中央部の主峰群を、坊ガツルの湿原帯を隔てて見ることのできる、あの大船山(1787m)の展望もまた素晴らしいのだが。

 風も余りない、快晴の中岳山頂の岩の上に腰を下ろして、その九州本土一の高さからの眺めを楽しんだ。
 西側に大きく開けた向こうには、先ほどの御池の青い湖面が見え左手に大きなクジラのごとき山体の久住山があり、湖面の右手には天狗ヶ城がそびえ、その二つの山の間遠くに離れて台形状の扇ヶ鼻(1698m)が見える。その右手遠くには、もう何年も行っていない釈迦岳などの津江の山々があり、左手さらに遠く雲仙の頂き辺りが見えている。
 大きな久住山の左手後ろには、巨大なカルデラの中にある阿蘇山の姿がよくわかるし、そして南側の目の前には、この中岳と南千里浜を隔ててゆったりと横たわる稲星山(1774m)があり、その後ろ遠くに、大きな広がりの久住高原を隔てて対峙(たいじ)するもう一つの山群、祖母山(1756m)から傾山(1602m)の山なみが連なり、さらには今度の地震で一部登山道の崩壊が心配される大崩山(おおくえやま、1643m)の高みも見えている。

 さらに、そのまま左手の東の方へと目を向けると、めったに人に会うこともない静かな山、白口岳(1720m)があり、その後ろには木々に覆われた大船山と、何といってもミヤマキリシマの最大の景観地である平治岳(1643m)が見え、その後ろ遠くには、見まがうことなき日本の名峰の一つである、顕著な双耳峰の由布岳(1583m)の姿が見えている。
 そこから左の北側には、三俣山(1745m)のふくらしまんじゅうのような山体がでんと座り、北千里浜をはさんで噴煙を上げる硫黄岳と星生山があり、西の彼方に一人離れて優雅な裾野を引く湧蓋山(わいたやま、1500m)があり、さらに星生山の手前には天狗ヶ城が続いては、ぐるりと一周の展望である。 

 早めの軽い昼食をとって、この中岳の南側斜面を降りて行く。この急な斜面も、行く前には地震の影響が気にはなっていたが、目立って大きな変化はなかった。
 南千里浜に下ると、学生らしい若者が一人、花が咲く前のミヤマキリシマの株を観察記入していた。
 こうした地道なフィールド・ワークの積み重ねの数字こそが、実際の自然保護へのどれほど大きな実証や証拠になることか。
 あの車寅次郎ではないが、「日本の学生諸君、将来は君たちにある。頑張りたまえ」と声をかけたくなるほどだ。 
 砂と礫(れき)のジグザグの斜面を登って、稲星山に着く。ここでも離れて一人がいるだけだった。
 何より、この稲星からは広大な久住高原や竹田の盆地を隔てて連なる、祖母から傾山群の姿が素晴らしい。
 そして振り返った北側には、今登ってきたばかりの中岳の横に、白口岳から大船山、平治岳、さらに遠くに由布岳と、すべてが一直線上に並んで見えている。(写真下)



 さて稲星からは、久住山との鞍部に下って、また登りなおさなければならないが、今回はその急坂の登りに弱気になって行かないことにして、何度も通ったことのある久住山と御池山の間の鞍部を抜けて、縦走路に戻る道を選んだ。しかしこれは失敗だった。
 この道は、古い地図に載っているくらいの廃道に近く、年ごとに荒れてきていて、踏み跡さえ分かりづらくなっていたのだが、もうその荒廃ぶりはひどく二度三度と行く手を間違えて方向転換をするほどで、もう完全な北海道の藪こぎの山と変わらないくらいで、背をかがめ這いつくばりハンノキなどの灌木の枝をかき分けて、ようやくのことで御池から久住山への縦走路に出て、一安心するが、これなら多少きつくとも稲星から久住への道をたどるべきだったと、後悔しきり。
 ただ、その縦走路から少し入った草原の小さな丘での、休息のひと時は、ともかく、あの緊張の中での藪こぎのわずらわしさから解き放たれての、何とも言えない気分だった。
 思い出したのは、北海道は日高山脈での沢登りからの最後の藪こぎの後の、山頂近くの稜線にたどり着いた時であり、そんなやすらぎの時に似て。

 そして、元来た縦走路をたどり、沓掛山のあのツクシシャクナゲの花を楽しみ、さらには行きよりは花が開いているのではないのかと思って、大きな岩のそばのミヤマキリシマの一株を見てみた。もちろん、そう急に花が開くわけはないのだが、背後のアセビの赤い若葉と併せて、なかなかに春を思わせるいい光景だった。(写真下)



 この日は、九州各地で25度を超える夏日になっていて、帰りの尾根道では、照りつける日差しがこたえるほどだった。
 往復6時間余りの歩行は、今の私にはちょうど良い時間だった。ともかく、ひざが痛くならなかったことが何よりで、これなら今年の遠征登山にも行けそうだと思ったが、そううまく事は運ばないもので、翌日になって痛くなってきたのだ。
 山に行く前までは、指定されたコンドロイチン剤を服用し、患部を冷やしていた効果があってか、もうほとんど痛みを感じてはいなかったのだが、山に登った次の日から、また再び前のような痛みが出てきて、踏ん張りがきかず”元の木阿弥(もとのもくあみ)” になってしまったのだ。
 ということは、軽い日帰り登山はできても、何日間もの縦走登山はもうできないということだろうか。
 せっかくの、晴れ渡った日の静かな山の登山の楽しみを満喫(まんきつ)したというのに、その代償もまた応分にかかるということなのか。
 というふうに、悪く考えても仕方がない。歩けないわけではないのだから、今後も、それなりに歩いて行ける山に行けばいいのだ。
 さあ、いつも年中、春の季節の頭の中を飛び回っている、あの蝶々を追って行けばいいのだから。

 そういえば、牧ノ戸の遊歩道を下ってくるときに、これまた久しぶりにコムラサキが飛んでいるのを見た。いつも以上に青い前羽と茶色の後羽の対比が鮮やかだった。
 これも今回の登山の、いい見ものの一つだったし、そして遠くから、何とあの夏を告げるカッコウの仲間である、ツツドリの声も聞こえていた。

 こうして、じじいにはじじいなりに、ひとりで楽しめることがいろいろとあるわけであり、その後も天気の良い日が続いて、ベランダの椅子に座って庭の新緑の葉を見ているだけでもいい気分になれるし、やはりあのチェルノブイリのおじいさんではないけれど、やはり自分の家にいるのが一番であり、あまりどこにも出かけたくはないのだが、とは言って、自分の若き日に全精力をかけて一人で建てた、あの北海道の小汚い丸太小屋も放っておくわけにもいかず、もういつもよりは一か月も遅れてはいるが、何とか近々には行かなければと思っているのだが。 

 ”まわるまわるよ時代はまわる”

 (「時代」中島みゆき作詞作曲)

 
 

 
 

  


一敗地にまみれる

2016-05-09 20:13:43 | Weblog




 5月9日

 連休の間、雨が降ったのは1日だけで、春らしいさわやかな天気の毎日だった。
 おかげで、今までぐうたらに過ごしてきて、いろいろとたまっていた庭仕事などを一気に片づけることができた。

 二日にわたる草取り。確かに初めは、ちゃんと雑草の一つ一つの根の先まで掘り返して、抜き取っていたのだが、余りの数の多さに、途中からは面倒になってきて、上に出ている葉っぱの部分だけをむしり取っていくことになる。
 なるほど、それで”庭の草取り”と言ったり、”庭の草むしり”と言ったりするのかと、今頃になってひとり納得するじじいではありました。
 さらには、それこそ”ネコの額(ひたい)”ほどの小さな畑を耕し、石灰をまいて数日間土になじませ、たい肥になる肥料を入れて、野菜苗を植えていく。
 最後に、防護ネットを張って、ようやく終了というわけだ。
 シカの被害については、前にも書いたように、家の近くにあった直径30cmもあるネムノキが、その幹回りの表皮を食べられて、哀れにも枯れてしまった。(’12.12.17の項参照)
 毎年、梅雨明けのころには、あの虹色の花をいっぱいに咲かせてくれる、私の大好きな木だったのに。 
 もちろん被害は、様々な立木だけにとどまらず、この地区の家の畑は軒並みに被害を受けて、すべての家で防護ネットなどの対策をとっているほどだ。

 今では、日本中の田舎で、特にシカ、イノシシ、サル、クマなどによる、こうした食害の被害が増えていて、問題は一向に解決されそうにもない。
 自然界と耕作地範囲のバランス、自然界における動物たちの食物バランス、今まで適当な動物間引きの役割をはたしてきた狩猟人口減少のみならず、過疎地化が急激に進む山間部人口そのものの減少、手入れされない植林地の放置などなど、細かい事由を書いてゆけばきりがないほどだ。
 
 そうした中で、まだわが家の周りのシカの食害などは大したことはないのかもしれないが、一番衝撃だったのは、去年の秋の、北アルプスでのニホンザルの写真だ。
 ライチョウのひなをくわえていて、その後食べてしまったとのことだ。
 山に登るものとして、何と悲しいことだろうか。
 夏の盛りに、北や南の日本アルプスの、開けたハイマツの稜線を歩いていると、よく一羽の母親ライチョウとその後に続く何羽かの小さなヒナたちに出会うことがあって、その心なごむひと時に、さらなる山の楽しみを満喫していたのだが。 (写真下、’12.8.5の項参照)


 
 昔、こうした高山帯の稜線で出会うのは、ライチョウかその下の尾根斜面にいるカモシカぐらいのもので、しかし当時は山里の近縁にいたシカやサルたちが、近年になって山の上にまで上ってくるようになり、特にこの十年余りは、高山帯でも必ずと言っていいほどに、サルに出会うことが多くなり、それもお花畑で高山植物を食べている姿を見ていて、その食害も気になったし、さらにもしかして人間慣れしていて、警戒心の薄くなったライチョウにまで被害が及ぶのではないかと、心配はしていたのだが・・・そのライチョウのヒナを口にくわえたニホンザルの写真は衝撃だった。

 日本の天然記念物であり、個体数が減少していて、下界での増殖計画もままならず、このまま絶滅への道を歩んでいき、やがてはトキのように、日本の山から姿を消してしまうことになるのだろうか。

 こうした自然界での、動植物たちの生存競争に、その自然の神々の法則にまで踏み入って、私たちが軽々しく異論をさしはさめるわけもないのだが、一つには人間社会のせいでもあり、そうしたことも併せて、人間だけが特に大きく強い感情として持っている、いわゆるロマンティックな同情心からすれば、余りにも痛々しい自然界の情景の一つということになるだろう。
 と言いつつ私は、庭の見てくれが悪くなるという理由の一つだけで、ようやく芽吹いたばかりの、あるいは小さな花を咲かせたばかりの草々を、情け容赦(ようしゃ)もなく引き抜いているのだ。
 そして、昨日、家の軒下で、大きな羽音をさせて巣作りを始めようとしていた、二匹のスズメバチを見つけて、ハエ取りスプレーを噴射して殺してしまった。
 体長3cm以上もあるそのスズメバチは、最後の力を振り絞って、下腹部から毒針を出し入れしながら、息絶えていった。
 私は、今までに何度かスズメバチに刺されたことがあり、一度は病院で手当てをしてもらったことがあるし、さらに数年前には同じ軒先に、スズメバチが大きな巣を作り、それを取り除くのに一苦労したことがあるからだ。
 スズメバチは己の繁殖本能に従って、ただ巣づくりをしようと飛び回っていただけなのに、いわれなき人の手によってその命を奪われてしまったのだ、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。

 いつも言うように、世の中のすべては、ライオンと捕まって食べられている一頭のヌー、そしてそれを遠巻きにしてみるヌーの群れ達が作る、一つの自然界の情景になるのだろう。

 さらに前回からの、映りが悪くなったテレビのために、アンテナ方向の木の枝切り作業だが、それでも今のままNHKとBSさえ見えていれば何も困らないと、広言していたのだが、やはり民放がないと何か物足りないし、寂しい感じなのだ。
 そこで思い切って、さらに今度ははっきりと中継局方面が見えるようにと、ヒノキとモミジの木4本の上部の数か所の枝ををそれぞれに切り落とした。
 いずれの仕事も、年寄りがやるにしては高い梯子の上での危険な仕事なのだが、何とか事故なく無事にやり終えることができた。

 そして、家に戻り早速テレビの映りを確認した。
 全部の放送局が、前のように見られるようになっているだろうと思っていたのに、結果は全く変わらず、NHKしか映らない。
 さらに、アンテナの位置をあちこち代えてみたが、同じことだ。
 母が喜んでいた、あの新緑の景観を犠牲にしてまでも、テレビのためにと多くの枝を切り落としたのに、まったく変化がない。
 くたくたになるほどの体力の消耗と、何よりあの新緑の木々が、今では醜く上部の枝を切り落とされた姿になっていて、いったいこの一週間ほどの仕事は何になったのだろうかと思う。
 さらには、この一連の枝切り作業で切り落とした量は、軽トラ2台分ほどもあり、20cmほどもある太い部分から枝先の数センチの部分までを、さらに電気チェーンソーを使って、今は使わないけれどもいつか使うかもしれない、ストーヴの薪(まき)用にと切り分け、自宅軒下へと運んだ。
 それでも、テレビも映らないのにと、木を切ったことへの後悔しきりだった。

 ”一敗地にまみれる”、ふとそんな言葉が思い浮かんだ。
 昔は、大相撲やプロ野球結果のニュースの見出しとして、よくスポーツ面の頭を飾っていたものだが、最近はほとんど使われなくなってしまった。
 それは、大敗するとかひどくやられるという意味で使われていたものだが、今回の庭の木々の枝切り騒動で、私が得た結果は、結局テレビは映らず、大切な木々の景観も失ったということであり、特に樹木に関していえば。10年やそこいらで簡単に元に戻るはずもない、取り返しのつかないことであり、私の決断が間違っていただけの、情けないほどの”一敗地にまみれる”ような愚行(ぐこう)だったということだ。

 ”しゅん”として、一時はふさぎ込んだものの、元来が脳天気な私、それでもいいこともあったはずだと考えてみる。
 まず、なまっていた体の、良い鍛錬(たんれん)になったこと、細かく切り分けた薪(まき)は、いずれ何かが起きて暖もとれなくなった時には、数日分の燃料になるだろうし、このたびに学んだいろいろなことは、残り少ない人生の中でもきっと生かせることになるだろうと。 
 まあ気晴らしに、影響を受けなかったBS放送での”AKB48SHOW”でも見るかと、録画再生ボタンを押せば、まあ今回は、HKTにSKE,そしてNMBと、姉妹グループのそれぞれが元気に歌い飛び跳ねていて、それだけでも楽しい気分になった。

 さらに、前の週に録画していたNHKの”ぶらタモリ”で、今回からあの桑子アナウンサーに変わって近江アナウンサーになり、久保田アナウンサーから続くNHKアナウンサーらしい、純な娘さんたちふうなキャラクターがいかにも良いし、彼も”いじり”甲斐があるというものだ。 
 そのあたりのことを、深夜番組風にまでは落とさず、少し遠回しにくるんだ表現で・・・「オレの体の上を、何人のNHK女子アナウンサーが通り過ぎて行ったことか」、とニヤつきながら言う彼に、思わず吹き出し笑いしながらも感心してしまった。
 もちろん普通には、何人もの男性遍歴をしてきた年増のおねえさんが、タバコをふかしながら”アンニュイ(ものうげ)”な気分で言うセリフであり、それをまだ若いNHKアナウンサーの前で言う、彼のきわどい才覚には、いつものことながら感心させられるし、70歳になるというタモリさんだが、ゴールデンタイムの民放バラエティー番組などには出なくてもいいから、こうした半ばマニアックな彼の才能を生かせる番組には、出続けてほしいものだ。

 そして昨日のことだ。
 テレビからHDMI接続のBRレコーダーのほうに切り替えて、録画していた番組を見た後、ふとこのレコーダー直接での映りはどうなのか、そこで減衰される前の映像の映りはどうだろうかと思って、レコーダー側のチャンネルを選んで押していたところ、何と民放の番組が映っているのだ。”ガチョーン”(あまりにも古くて若い人にはわからない谷啓のギャグ)。
 まさかと思い、テレビのほうに切り替えてみると、やはり元のままで全然映っていない。
 ということは、テレビのアンテナからの入力は、もともとこのレコーダーを経由してテレビのほうにつないでいるのだから、このレコーダー経由の線がちゃんとテレビに送られていないということになる。
 そして、テレビの裏面ごちゃごちゃした配線をたどっていくと、何とテレビに接続しているところで、ほとんどはずれかかっていたのだ。”八丈島のきょん!”(昔の漫画「こまわりくん」での意味のない感嘆符)。
 
 その配線をちゃんと接続した後、テレビ画面でそれぞれの放送局のチャンネルに合わせてみると、くっきりと映るわ、映るわ、それの入力レベルも十分で、前以上に(木の枝を切った効果もあるのだろうか)雨風に影響されることなくちゃんと映っているのだ。
 あのイタリア映画の名作『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)で、子供のころから映画好きだった少年が、やがて大人になって映画関係の人として成功するが、その子供時代に多くのことを学んだ昔の映写技師のおじさんから、形見としての映画フィルムを贈られる。
 それをスクリーンに映し出してみると、昔検閲でカットされていたラブ・シーンをつなぎ合わせた、フィルムによる名作集になっていた。
 それらのキス・シーンが流れていく、美しき感動のひと時のように、私は、しばらくぶりで画面に流れる民放それぞれの映像に、ぼうぜんとして見入ってしまった。

 他人から見れば、お笑い草に過ぎないだろうが、故障の時の基本的な第一の確認ポイントである、すべての配線がつながっているかどうか確かめるということをしていなかったための、ごく初歩的なミスだったのだ。情けない。
 ”灯台下(もと)くらし”(ろうそくをつけた手で運ぶ灯台の下だけは暗いというたとえ)。
 それは、テレビ本体の接続ではなく、今までも度々あったことのある、アンテナ方向不良や木々の繁みだけが頭にあって、肝心なところの接続という基本のことは、当然つながれているものとして、まったく注意を払っていなかったというだけのことだ。
 そして、こうしてテレビはちゃんと映るようになったのだが、当然木々の伐採による景観は失われてしまったままだし、その大きな損失と、今回のテレビ画面回復による、”アハ体験”に似た喜びの瞬間と、まあ喜び哀しみも相半ばする、私らしい出来事だったのかもしれない、”もって肝(きも)に銘(めい)ずべし”。

 さて、庭の片隅には、エビネランの花が咲いている。(冒頭の写真)
 母がずいぶん前から植えていたもので、いつもこの花の時期を楽しみにしていた。ところが私は、この時期には、北海道のほうへ行っていることが多く、こうしてゆっくりと花が咲いているのを見たのは、はじめてに近いことなのだ。
 花の時期以外は、大きなしわだらけの茶色に傷んだところもある汚い葉を広げているだけで、この花のどこがいいのだろうと思っていたが、今年初めてじっくりと見て、さすがにランの花だと思えるほどの、美しく繊細な花びらが幾つもに並んでいる形が見事であり、ようやくこの花の価値を納得した次第である。
 つまり物事は、その最上最適の時期を見逃していれば、いかに長くそれを見ていたとしても、決して正しい判断は下せないし、また最上の時だけを見ただけでは、そこに行き着くまでの長い雌伏の時間があってのことだと、理解はできないだろう。
 
 私たちはいつも、全方位全時間的に物事を見ることができないから、それだけに、いつも自分は自分だけでしかない、仮構空間の中で生きていることを自覚すべきなのかもしれない。


快晴の四日間

2016-05-02 22:10:27 | Weblog



 5月2日

 まったく、九州では、この連休は素晴らしい天気の日々だった。(北アルプスでは悪天候で7人もの遭難者が出たとのことだが。)
 快晴の天気の日が、4日も続いたなんて、私の記憶の中でも思い出せないくらいだ。もっとも、今日は午後になって、ようやく薄雲が広がってきたが。
 そして、そんな連休前半の日々を、私は、周りを歩き回った以外は、家で過ごした。
 地震はほとんど収まってきたし、仕事はいくらでもあったが、それは今までの私のぐうたらぶりで、たまりにたまっていたものばかりだった。

 まずは大好きな洗濯を、4日続けてやることができたが、この天気で洗濯ものはあっという間に乾いてくれた。
 朝の気温は10度以下に冷え込んでも、日中は20度を超えて、きょうなどはついに25度を超える夏日になっていた、
 外での仕事は、遅ればせながらの庭の草取りと、これもまた遅すぎる畑起こしの仕事など。
 そして、これが一番大変だったのだが、テレビアンテナの調整だ。
 最近、テレビの映りが悪くなって、かろうじて見られていた民放放送局がすべて見えなくなってしまったのだ。
 家は、ただでさえ電波状況の悪い、地方山間部にあり、雨や雪の時にも見られなくなることがあったのだが、今回はとうとう普通の晴れた日にさえ映らなくなってしまったのだ。

 そこで最初は、屋根に上がってアンテナ位置を調整していたのだが、ついにはNHKも画像が乱れてきてしまって。
 まずアンテナを換え、さらにはブースターを換えて試してはみたが、状況は変わらない。
 とすれば、もう残るのは、周りの木々が高くなり茂ってきたことによる障害だけなのだが。
 10数年前にも、周りの立木の上の部分を切り落として改善したことがあり、今回もそうするほかはないのだが、問題は、今では余りにも高く伸びすぎた木をどうして切り倒すかだ。 

 特に邪魔だと思われる、ポプラの木は高さ20m近くもあり、周りにも他の木々があり、そんな中で切り倒すのは一苦労だ。
 その上、このポプラの木は、昔北海道などで見てはすっかり気に入ってしまい、苗木を買ってきて庭の片隅に植えたものだが、毎年少しずつ大きくなってきて、亡くなった母がベランダから見て、「新緑の葉が風に吹かれて、いっせいにひらひらと揺れるのはいいねえ」とよく言っていたもので、その木を切るというのも、何か後ろめたい気もするが。
 それでも、他に方法がない。後できるのは、高い鉄塔を立ち上げるくらいで。
 ポプラにはしごをかけて、安定しない足場で、ノコギリで木を伐り始めた。
 直径20cmほどもあり、片手は木の枝を握りしめてという体勢で、汗は吹き出し息も続かない。
 途中で中止して、家に戻って、サイダーを飲んで一休みするほどで、さらに何度かの小休止を入れての作業の後、ようやくその木は、周りの木々も巻き込んで倒れた。
 その後、さらに木の幹や枝を幾つかに切り分けて運び、結局すべて終わるまで2時間近くもかかってしまった。
 まさしく疲労困憊(ひろうこんぱい)、年寄りにはきつい仕事だし、まかり間違えばの危険な仕事だった。
 
 さらに今日も、松の木を一本切って、それでどうやらNHKだけは安定して映るようになったが、民放放送局はまだ今一歩といった感じで、さらに周りの木の上の方を切る必要があるだろう。
 前々回に、熊本地震の最初の被害が出た時に、ネットに被害者たちを小ばかにするような投書があったことを紹介したけれども(4月18日の項参照)、彼が言うように、私は今時、木造家屋に住むような年寄りであり、彼が住んでいる高層ビルのマンションではないから、テレビを見るには、壁についているアンテナ端子につなぐだけでよいというわけにはいかないのだ。
 それは、自分で選んだ、田舎の緑の木々に囲まれた家に住むからこその苦労の一つなのであり、当然の仕事なのだが、それでも民放テレビを見るために、そこにはAKBの番組を見るためにということもあるが、それでも地震に強い耐震設計された、都会の高層ビルに住みたいとは思わない。
 
 そして気づいたことがある。
 民放局の番組が見られなくなって、もう2週間にもなるのだが、確かにAKBなどの番組が見られなくなって残念ではあるが、他に毎週欠かさず見ていた番組があるかというと、たいしてないのだ。
 つまり、年寄りにとっては、NHKの2局とBSが映れば、さほど困ることはないということだ。
 そんな中で、ふと見たNHKと教育の番組から、いくつかのことを。

 まずは、新しく始まった歌番組”うたコン”(もう少しまともな番組名がなかったのかとも思うが)、を何気なく見ていたのだが、今までの番組の歌謡ショーふうなものから、J・POP(じぇいぽっぷ)の若い人たちの歌う歌まで、ごちゃまぜに歌っていて、面白味と違和感があったのだが、一つだけ思わず引き込まれて聞いてしまった歌があった。
 それは、サラ・オレインの歌う「蘇州夜曲(そしゅうやきょく)」である。
 出だしから、その美しく澄み切った歌声に魅了されてしまい、あっという間の一曲だった。

 「蘇州夜曲」は、西條八十作詞服部良一作曲による、戦前から戦後にかけての日本歌謡曲の名曲の一つである。
 戦争前の1940年(昭和15年)に映画の中で、李香蘭(りこうらん、山口淑子)が歌い、その後も渡辺はま子などによっても歌い継がれて、私も後年、映像などで彼女たちが歌う姿を見てはいい曲だと思ってはいたのだが、サラ・オレインの歌声で、また新たな今の時代の名曲として再認識したのだ。
 それは、李香蘭や渡辺はま子が歌っていた、古い中国”支那”の香り漂う、当時の”水の蘇州”の風景ではなく、70数年後の今の時代の”水の蘇州”の風景が、というよりは、歌う彼女サラ・オレインの美しい姿が、ともに目に浮かんでくるのだ。

 去年は、あのインドネシアの女学生ファティマの歌声に魅了されたのだが(’15.10.5の項参照)、今年はこの彼女の歌声に注目する年になりそうだ。
 私は最近、クラッシックCDの他には、洋楽ポップ系のCDなどほとんど買うことがないのだが(AKBのCDは105円の中古品として数枚買ったけれど)、それでもどうしても聞きたくなって買ったCDが2点ある。
 一枚は、あのトリノ五輪フィギュア金メダルの荒川静香が、その後のエキジビションの演技の時に流れた曲「You Raise Me Up」には、母が亡くなった後ということもあって、思わず涙してしまったが、その曲を含むアルバム曲全部が素晴らしい「ケルティック・ウーマン」であり(’14.11.24の項参照)、もう一枚はエンヤの歌うアルバム、そして今回さらに、このサラ・オレインのCDもそこに加わることになるのかもしれない。

 言うまでもなく、いずれもイギリスはアイルランド系、スコットランド系の彼女たちの歌声である。
 サラ・オレインのことは何も知らなかったので、後でネット調べてみると、スコットランド系の父親と日本人音楽家の母との間に生まれて、オーストラリアのシドニー大学を首席で卒業していて、ヴァイオリンをあのワンダ・ウィコミルスカに学ぶほどの才能があり、声楽はその後学び始めたのだそうだが、その声域の広さと安定した透明な歌声には定評があるとのこと。
 なお、ありがたいことに、この時の番組での彼女の歌う姿を、YouTubeで見ることができる。 

 そして、NHK・BSのドキュメンタリー番組”NEXT未来のために”から「28歳ちえみの”孫ターン”」、途中からたまたま見たのだが、今どきこんな娘さんもいるのかと、感心した次第だ。つまり何度も繰り返すが、あの熊本地震での年寄りの犠牲者に対して、心ない投書をした若者がいるように、こうして年寄りのことを考えてくれる若い娘さんもいるということなのだろう。
 彼女は、大阪生まれの看護師だそうだが、田舎暮らしにあこがれていて、徳島の田舎に一人で住む87歳の祖母のもとへ、一緒に住むべく移住してきたというのだ。
 年齢差が大きくて、時には相手のことを理解できない時もあるが、彼女はおばあちゃんからいろいろなことを教えてもらえるのを楽しみにしていて、周りの人々の協力を受けながら、その地域に溶け込もうとしているのだ。
 ただ夜勤などの連続で、家を空けることも多く、それを心配して集まった身内や親戚などの勧めもあって、結局、おばあちゃんは地元のグループ・ホームに入ることになるのだが、彼女は週に一度はそのホームに祖母を迎えに行って、一日を一緒に過ごすことにしているとのこと。

 その親戚や彼女の母(つまり、おばあちゃんの娘)などが集まって、家に一人でいて何かあった時にはもう手遅れになるしと心配しているときに、おばあちゃんがぼそりと言ったのだ。
 「わしゃ、家のどこで倒れてもかまわんけどな。」 
 おばあちゃんは、今は亡きおじいちゃんと一緒に過ごしたこの家にいたかったのだが、周りの子供たちの心配もわかるし、その皆を安心せるために、仕方なくホームに入ることにしたのだろう。
 そういえば、熊本地震の時、最初の地震の後、避難所に逃げたおばあちゃんが、もう地震は収まったしおじいちゃんと一緒に暮らした家だからと戻って行って、翌日の本震で家屋が倒壊してひとり亡くなったとのこと。

 なお、これは余計なことかもしれないが、先週の週刊誌の新聞広告見出しに、熊本地震が大きく取り扱われているところは、新聞社系の週刊誌を除き一誌もなく、中には一行もの見出しがない所もあった。
 タレント・スキャンダルのスクープには、まるで鬼の首を獲ったかのような、大見出しをつけるのに・・・。
 安全なビルが立ち並ぶ、東京にいれば、熊本地震など、あのライオンに食べられている仲間のヌーを遠巻きにして見ている、他のヌーの群れの仲間たちの思いと同じことなのだろう。
 それで思い出すのは、東京でほんのわずかの積雪があると、その日のテレビ・ニュースでは各社トップ・ニュースとして大々的に取り上げられることになるが、一日で1mもの雪が積もることもある北陸・東北・北海道の人たちは、それをどういう思いで見ているのか・・・。
 まあ、人間そういうものなのだよ。”犬が西向きゃ、尾は東向く”、あーヨイヨイ、ときたもんだ。
 
 そして今日、ちょうど昼食の時間に、教育テレビでいつもの”にっぽんの芸能”で『新名人列伝』として、いずれも歌舞伎の名役者である、先代、先々代などの中村勘三郎(かんざぶろう)、松本白鸚(はくおう)、尾上松緑(おのえしょうろく)などの芸風の違いを比較しながら紹介していたが、古いカラーや白黒の荒れたフィルムからさえも、それぞれの芸の確かさが伝わってきて、実に見ごたえがあった。
 東京にいたころ、それぞれ一度は彼らの舞台を見てはいるのだが、今になって映像で見るほうが鮮烈によみがえってくるのはなぜだろうか。
 さらに、尾上梅幸(ばいこう)や中村歌右衛門などとの組み合わせの舞台もあり、あの有名な『勧進帳(かんじんちょう)』での弁慶(べんけい)と富樫(とがし)のやりとりなど、今見ても思わず引きずり込まれてしまう見事さだった。もちろんそれを解説していた、歌舞伎評論家の第一人者渡辺保さんの話の巧みさもあったのだが。
 できることなら、あの荒れた白黒フィルムでもいいから、昔のだしものを一本丸ごと放送してはくれないだろうか。 

 というわけでその他いろいろ、じいさんにとって民放が見られなくても、NHKに教育そしてBSが見られれば、まだまだテレビを見て楽しく生きていけるというわけで、はい。

 さて、私は連休で外が混むから家にいるというだけの話で、上に書いた木の伐採作業や庭仕事のほかに、いい季節だからと家の周りをあちこち散歩して、華やかな春のいろどりを楽しんだ。
 ちょうど今は、フジの花の季節で、うす紫や時には白い花がつる性に伸び幹から、たくさんの花房を下げていて、その香りとともに、何ともうれしい見ものになっているのだ。
 冒頭にあげた写真は、コナラなどの木に巻きついたものだが、濃い緑のヒノキなどにまとわりついて咲いているフジの花も、また目立ってきれいである。

 そして、その帰りに寄った山道の林のそばに、さわやかな白い花を抱えたササバギンランが三株ほど咲いていた。(写真下)
 今ではその数が減り、こうして見つけることも少なくなったのだが、北海道の家の林の中に咲く、同じ仲間のクゲヌマランのことを思い出した。
 南と北に離れて咲く、同じ仲間の花たち・・・。