ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

人間一生、誠にわずかの事なり

2022-06-18 21:31:49 | Weblog



 6月18日

 ぐうたらな男にとって、月日の経つのは早いもので、前回の記事から一か月以上も、このブログを放っておいたことになる。
 もちろん、ここに書き残しておくべき事柄は、毎日何かしらあるのだが、それらがただ転がる雪だるま式に増えていき、それを傍観者のように見ているだけなのだ、自分への言い訳をしながら。
 生きているのなら、まずここに何かしらのことを書いておくことだべ、と変に訛(なま)って独り言をつぶやいてしまう。(前は半年以上北海道で暮らしていたのに、コロナ後の今では、一年のうちのほんの3週間ぐらいを過ごすぐらいになってしまったからなのか。)

 そこで私は、ムチで一叩きされたかのように、ようやく重い腰を上げるのだ。
 誤解なきように言い添えておくと、それは黒タイツ姿のおねえさんに叩かれて、アヘアへと喜ぶムチではなく、スキクワをひいて野良の畑起こしをさせられている、あの鈍重な牛たちの背中に浴びせられる、ピリリとくるムチのようなもので。
 生きていくこととは、自分の因果な思いをあれこれと背負って、時というムチを受けながら歩いて行く、農耕牛のようなもので、よだれを垂らしながらただ前に歩いて行くだけで、先に何があるかとはではなく、目の前の今があるということだけで・・・誰でも似たような一生だとは思うのですが、はい。

 この一か月の間に書くべきだったこと、自分が考えたことや世事への感想、歳時記としての移り変わりなどなどを、せめて一週間に一度ぐらいは書いておくべきだったのだが。
 しかし今となっては、それら多くの事柄の中から、適当に取捨選択をして、その幾つかだけを書きとどめておくことしかできない。
 こうして書き残さなかったいくつかのことは、何事もなかったかのような時の流れとして、私の記憶の中から消え去っていくのだろう。

 それはともかく、まずは山登りについて。
 冬の間も、何度か雪山ハイクなどに出かけて、雪景色や霧氷などを楽しんではいたのだが、さらに春になってヤマザクラや新緑の季節になると、やはり心が浮き立ち、山野歩きをしたくなるもので、もっともそれは両手を後ろ手に組んでの、年寄りのそぞろ歩きに過ぎないものであり、逐一記録に書きとどめるほどのものでもなかったからであるが。

 しかし、九州の火山系の山々にとって、一年のうちでもっとも華やぐ、初夏のミヤマキリシマツツジの花の季節がやってくると、同じ繰り返しの花のことだとは思いながらも、年ごとに微妙な違いのある美しさを見たくて、二度ほど山に行ってきた。
 ひとつは、5月下旬の別府の鶴見岳(1375m)であり、登りはロープウエイをつかわずに、御嶽権現(おんたけごんげん)社の長い石段から続く、ひんやりと涼しい林の中の登山道をたどって行く。
 途中右に正面登山道と分かれて、左に南平台方面へと向かい、九曲がりの斜面から、鞍ヶ戸(くらがと1344m、崩壊で登山禁止)に続く尾根に上がり、そこからミヤマキリシマが散在する西斜面を登って行けば、観光客で賑わう山頂に着く。
 帰りは下りでヒザを痛めないようにと、ロープウエイをつかって下りてくるという、最近ではおきまりの私の鶴見岳登山コースである。

 この登りのルートは、頂上の賑わいを除けば、意外に人が少ないのがよい。(コースタイムで2時間、私の脚で3時間。)
 何より私好みなのは、古くからのいわれのある御嶽権現火男火売(ほのおほのめ)神社と、その御神体でもある鶴見岳の山腹を囲む自然林の中を、鳥の声を聞きながら登って行き、最後に展望が開けて、ミヤマキリシマが美しい尾根道を歩いて行けることである(頂上の付近の観光客の賑わいには目をつむるとして)。
(写真上、鞍ヶ戸分岐付近より由布岳、写真下、ロープウエイ山上駅付近より、高崎山と大分方面)




 そしてもうひとつは、一週間ほど前に行ってきた、九重である。
 いつもの牧ノ戸峠(1330m)からという定番のルートだが、今回はこの時期に行くことの多い扇ヶ鼻(1698m)ではなく、久しぶりに、星生山(1762m)のミヤマキリシマを見に行ってきた。

 7時過ぎに牧ノ戸峠の公共駐車場に着くと、すでに満車状態で(その日は梅雨の晴れ間だったから)、仕方なく路肩駐車をする。そして青空の下、ノリウツギやヒメシャラ、ヤシャブシなどの低木林の山腹につけられた舗装された遊歩道を登って行く。
 展望台を経て尾根道をたどり、沓掛山(1503m)に着いて、この辺りの花はもう終わりに近いが、遠くに見える星生山や扇ヶ鼻は所々桃色に染っていて、今年の咲き具合はどうなのかと気になるところだ。
 というのも、事前にネットで調べた所、今年は九重の山のあちこちで、ミヤマキリシマが虫害に遭っていて、花のつきが悪いとのことだった。特にいつも行く扇ヶ鼻の花の咲き具合は今一つだという声が多く、そこで今回は星生山に行くことにしたのだ。

 扇ヶ鼻の分岐から、さらに久住山への縦走路とも離れて、星生山南尾根へと取り付く。
(写真下、取り付き斜面付近から扇ヶ鼻方面)




 このコースは、星生山からさらに星生崎への一部岩稜帯の縦走路となり、特に雪と氷で凍てついた冬場には、北アルプスもどきの稜線となって、私たちを楽しませてくれる。

 すぐにロープつきの岩場があり、そこを越えて砂礫の斜面を上がってゆくと、ゆるやかな山腹の先に頂上が見えてくるが、まあ何と人が多いことだろう。
 梅雨空の続く天気予報の中で、今日の晴れマークの日は、花の時期には貴重な一日になると皆が知っているからだろう。(しかし、この日は予報通りに晴れていても、雲の多い一日だった。)
 頂上直下の火口壁の所では多くの人々が、カメラを構えていた。

 私もそこに座り込んで、この岩稜縦走路の先に見える、久住山本峰(1787m)にかかるガスがとれるまで待って、ようやく何枚かの写真を撮ることができた。欲を言えば、青空の背景があればと思うのだが、まあこの辺りの花はちょうど今が盛りで虫害も少なく、天気はともかく良しとするべきだろう。(写真下)




 まだまだ登ってくる人も多くて、落ち着かなくて、それでも30分近くいたことになるだろう。
 今回は天気も気がかりで、先に続く縦走はせずに、急な南斜面を西千里浜へと下り、分岐に戻り、後は朝来た道を引き返すだけだが、もうへろへろになっていて、年寄りの脚のよたよた歩きで、1時半ごろ何とか牧ノ戸に帰り着いたが、コースタイム往復3時間ぐらいのところを、休み時間も入れて、なんと6時間もかかっている。
 10年位前までには、この先の久住山や稲星山や中岳・天狗ヶ城なども回って、今回とは倍以上の距離を、さすがに疲れ果ててはいたが、それでも8時間くらいで戻ってきていたというのに。

 時の流れは、ゆっくりとではあっても確実に、自分の身体も心も共に乗せて、流れ下ってゆくものなのだ。
 何度も言うように、年をとることは、悪いことではない。確かに自分の体の衰えを教えられることはあるが、一方では、心の広がりや心の彩(いろどり)の世界を、新たに見せてくれるものでもあるからだ。
 こうして、山登りに時間がかかるようになったけれども、そこに新たに付け加えられる時間は、ゆっくりと考え感じとるための時間として、山登りによって教えてもらった時間でもあるのだ。ああ、ありがたや。

 そこで思い出すのは、同じように年を取ってきた昔の人たちの言葉である。
 今までにもここで、洋の東西を問わず、様々な先人たちの言葉をあげてきたが、今回は、江戸時代に書かれた『葉隠(はがくれ)』の中の一節から。

『葉隠』は、江戸時代の九州は佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝(つねとも、1659~1719)の言葉によるものであるが、藩主光茂が病死した後、自ら”二君に仕えず”と出家引退して、山里に隠棲していたが、そこに三代目藩主に仕えていた藩士の田代陣基(つらもと)が訪れてきて、常朝の言行録を書き留めていき、常朝の死後それらの言葉を冊子にまとめて、藩内で読み継がれていったものとのことである。

 この『葉隠』の中であまりにも有名な言葉が「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」(聞書第一)であるが、昭和の軍国主義の時代の中で、”大和魂の書”として賛美されてきたゆえに、敗戦後のアメリカ自由主義思想の中では否定され、時代の中に埋没していったのだが。
 しかし、平和な今の時代に、そうした昔の身分関係を守る書としてではなく、幅広い人間関係の心の書として読むと、新たなしかし変わらぬ日本人の心の真実が見えてくる。

 私が、今回あげたかった言葉は、「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」という一節とは、まるで反語の位置にあるような、次の一節である。

 「人間一生、誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦を見て暮らすは愚かなることなり。・・・。」
(『葉隠』名言抄 聞書第二 笠原伸夫訳、三島由紀夫『葉隠れ入門』より 新潮文庫)

 もちろん、彼はこれを快楽主義のすすめとして語ったわけではなく、あくまでも自分のように早く引退して、これから老後を送るような人々におくる、心構えの言葉として伝えたのだ。
 地位だ名誉だ金だ財産だと、年寄りになっても見苦しく立ち回る人々にあてた、警告の言葉でもあるのだ。
 この言葉の後、彼はちゃんと付け加えて言っている。「・・・この言葉は、若者には悪く取ると害になるから伝えてはならない」と。

 面白いのは、ここでも何度もあげてきた、あの貝原益軒(1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』でも、同じようなことが言われているということだ。
 
 「老いての後は・・・常に楽しみて日を送るべし。人をうらみ、いかり、身をうれいなげきて、心をくるしめ、楽しまずして、はかなく年月を過ぎなん事、おしむべし。かくおしむべき月日なるを、一日もたのしまずして、むなしく過ぎぬれば、愚かなりと云うべし。・・・。」(『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)

 興味深いのは、福岡黒田藩に勤めた藩医、儒学者でもあった貝原益軒と、先にあげた佐賀鍋島藩の御側役(おそばやく)を勤めていた『葉隠』の山本常元との類似点である。
 歳の差が二十歳もあって、二人の間に接点があったのかどうかは分からないけれども、同じ九州の隣藩に位置していて、同じ元禄の時代を生きてきた二人が、当時の社会の華美に傾く風潮にあがらうかのように、あるべき武士としての姿、その矜持(きょうじ)あるたたずまいを提示していたということに、少なからず考えさせられるし、もし私に才能があるならば、二人の主人公を主役にした、サムライ映画を作ってみたいとさえ思わせるのだが。
 ただ大きな違いは、当時としては極めて長寿(84歳)を全うした貝原益軒と、当時の寿命に近い61歳で亡くなっている山本常朝の差である。

 もちろん、長く生きたほうが良いとかいう問題ではないのだが、ただ言えるのは、自分で書き表した『養生訓』にある通りの長寿法を自ら実践していたであろう益軒と、そうではなかった常朝との生き方の差にあったのではないのかと思われるのだが。
 というのも、上にあげた、常朝の『葉隠』聞書第二にある「人間一生・・・」には続きがあって、
 「・・・我は寝ることが好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮らすべしと思うなり。」と言っているのだ。 
 一方の益軒の方はといえば、「・・・老人はつねに盤座(ばんざ、あぐら座り)して、凭几(しょうぎ、腰掛)をうしろにおきて、よりかかり坐すべし、平臥(へいが、横になる)を好むべからず。」とあるからだ。

 といって私はといえば、ささやかな夕食をすませた後、横になって、鼻をほじりながら、テレビを見ているのであります。どもならん。

 他にも書きたいことは、「ベニスに死す」のマーラーの5番や「鎌倉殿の十三人」、エンジェルスのトラウタニ、ウクライナ、テレビのドキュメンタリーに、天然水のCM(北アルプス白馬三山)、いつもの「ブラタモリ」に「ポツンと一軒家」などなどと興味は尽きないが、もうここまでで十分に長くなってしまった。
 もう、ぼくはこれ以上、書けまっしぇーん、風呂入って寝ます。

(参考文献:『葉隠』山本常朝著 和辻哲郎・古川哲史校訂 岩波文庫、『葉隠入門』三島由紀夫 新潮文庫、『続葉隠』山本常朝構述 神子侃編 徳間書店(たちばな出版より再版)、『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)