ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(37)

2008-03-28 18:00:50 | Weblog
3月28日 晴れて、気温は12度位まで上がるが、風があり、まだ寒さも残っている。
 今日、ワタシは外に締め出された。窓の外から見ていると、黒い着物を着た人が部屋に入り、何かを唱え、飼い主はその後ろにかしこまって座っている。毎年、この日になると、飼い主はこうしてワタシが部屋に入られぬようにして、二人で何事かをしている。あのおばあさんがいなくなってから毎年のことだ。
 40分ほどいて、その黒い着物の男の人は帰っていった。飼い主がワタシを部屋に入れてくれるが、なにやら煙のにおいがひどく、すぐに日のあたるベランダに戻った。
 やがて飼い主もベランダに出てきて、ゆり椅子に座り、ワタシを抱き上げてひざの上に乗せた。若いころは、ワタシは抱かれたり、ひざの上に乗せられたりされるのはイヤだった。子供のころ、あの酒飲みおばさんの家で、他のネコと一緒に暮らしていたころは、抱き上げられたりすることが殆んどなかった。だからこの家にきてからも、抱かれると、すぐにイヤイヤをして逃げ出していたのだ。
 しかし人もネコも、年を取ってくる、といろんなことが分かるようになってくる。若いころは、たとえ争いになっても、自分の思っていること、やりたいことをただ押し通していたが、年をとると、相手のことも考え、その相手の言いぶんもありかなと思うようになる。それは、長年の経験で寛容さやゆとりを持てるようになったからであり、無駄な争いを避けたいと思う年長者の知恵でもある。
 ワタシはいつの間にか、飼い主のひざの上にいるのが好きになってしまった。ついウトウトとしてしまうほどだ。何より床暖房のように暖かい。そして飼い主が傍にいるという安心感もある。
 若いころ、エサはこの家からもらっていたが、ワタシは一匹の独り立ちしたノラとしての誇りも持っていた。つまり飼いならされ、すべてを人間に頼るゴロニャンの家ネコではなく、野山の鳥や、野ネズミを狩する小さなライオンとしての誇りだ。だから、気安く人間の腕の中やひざの上で甘えなどはしなかったのだ。
 そのワタシが、飼い主のひざの上で目を細めているなんて・・・若い時にイヤだったことが、年をとって初めていいことだったと気づく・・・。そういえば飼い主が誰かと話しているのを聞いたことがある。
 「オレは若い時に戻りたいとは思わないな。おそらくピリピリととんがって、周りのみんなを傷つけていたかもしれない。そんな生意気な若者に戻りたいとは思わない。そういえば、そのころ付き合っていた女の子と何年かたって会った時に言われたことがある。『あなたのこと大好きだったわ。だけど一緒にいると疲れたの。そのころは一緒にいる時がうれしくて、そんなことは言えなかったんだけどね。』ってな。今はそれが良く分かるね。当時、高倉健の任侠映画が好きで、そんな昔のヤクザの義理人情に憧れ、彼女にその自分の思いを押し付けていたんだ。まったくバカだと思うよ、今にしてみればね。しかし、それが若さだったんだろうね。自分の世界しか見えなくってさ。
 だから、様々な欲望の呪縛から解き放たれた今の自分の方がいいね。いろんなものが良く見えてくる。なるほどそうだったのかと。年取るに従い、もっと学びたくなるという人の気持ちは分かるね。視野がぐんと開けて、さらによく見えるんだもの、あのアフリカのマサイ族の驚異的な視力を手に入れた気分だよ。
 若い時がダメだって言うんじゃない、むしろ青春時代は素晴らしいものだ。正しく言えば、若い時の方が良かったかもしれないが、年取ってからもいいことがいろいろあるってことよ。」
 傍で聞いていたワタシにも、そのことは良く分かります。しかし年を取るというのは、若い時の力が衰え、体が弱くなっていくということ。ワタシもそんな年なんですから、お願いです、北海道なんかに行かずに、ずっと傍にいてください。飼い主様。


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