ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(145)

2010-03-31 20:27:18 | Weblog



3月31日


 数日前のことだ、朝のトイレに出ていて、家に戻ってきてストーヴの前に行こうとすると、何か見慣れない黒い人影が見えた。
 ゲッ、ワタシの知らない人がいると、眼を一杯に見開いて身構えた。すると、その人間から飼い主の声がする。ワタシは反射的に、ニャーと鳴いたが、信用できない。いつもの飼い主とは違う臭いがするのだ。身構えたままぐるりと回りこむ。
 さらに飼い主の声が聞こえて、しゃがみこんだその顔から、確かに飼い主の臭いがするし、いつものように体をなでられて、少しは落ち着くが、その全身黒ずくめの服には、どうにもなじめない。
 そして飼い主が、ワタシを散歩に誘って外に出る。ワタシもついて行くが、まだまだ飼い主の変な臭いのする、黒ずくめの服装が怖くて、少し離れて歩く。
 誰でも、変に思うだろう。まるでその筋の人のような、いかつい鬼瓦顔の黒ずくめの服装の男と、余り可愛くもないネコが、連れ立って散歩しているのを見れば。

 飼い主はしばらく行ったところで、急ぎ足で先に戻って行ってしまった。それから、クルマがやってきて家の前で止まり、そこから黒い着物を着た人が下りてきて、家の中に入って行った。
 ワタシが家の庭に戻ってきて、そこで座って聴いていると、家の中から、何事か言い続けている声が聞こえ、鐘の音が一つ二つと聞こえた。

 ワタシは納得した。今まで何度もあったことだ。そうか、今日は、あのおばあさんの命日だったのだ。ワタシは、両手を組むことができないまでも、心の中で、手を合わせた。合掌。
 生きとし生けるもの、すべては、同じ所へと帰って行くのだから。



 「この数日間、晴れていたけれども、まだ冬の空気のままで肌寒かったが、今日からようやく、春らしい暖かい空気になってきた。しかし、午後からは雲が広がって、すぐに雨が降りだしてきた。

 家の庭では、さすがに、もう梅の花はすっかり散ってしまったが、今は、ジンチョウゲとツバキの花がいっぱいに咲いている。しかし、母がいつも楽しみにしていたヤマザクラは、長く続いた寒さで、まだ葉さえ開いていない。
 そういえば、いつも鮮やかな色で目を楽しませてくれるあのチューリップも、まだ緑の葉さえ見えていない。先日見た時に、周りにシカのフンが落ちていて、枯葉の下で伸びかけていた葉はもとより、球根の幾つかが掘り返されていた。
 人間たちのささやかな楽しみなどよりは、動物たちの生きることの方が優先されるかもしれないが、こと人間の生活がかかっている場合には、そんな悠長(ゆうちょう)なことなど言っていられない。いつも、駆除と保護の、堂々めぐりである。
 北海道のヒグマやエゾシカ、本州のツキノワグマやイノシシ、シカ、ニホンザル、さらにペットとして飼われていた外来種の動物や魚たちまでもいて、問題は深く、入り組んでいる・・・。

 論語にあるように、『・・・心の欲する所に従いて矩(のり)を超えず。』という心境には、人も動物も、なかなかなれるものではない。
 身近に、たやすく手に入るものがあれば、その欲望のままに、すぐに手を出してしまう。人間を含めた生き物たちの、悲しい性(さが)だ。

 そんなふうにして、私は、またも一つのものを手に入れた。流行りの、デジタル・プレイヤーである。(写真左上)
 それは、”がっきー”とか呼ばれている可愛い娘のテレビ・コマーシャルを最近見て、買う気になったという訳ではない。私は、今更、そんな”がき”に惑わされる年ではない。(ニャオーン、しょうもないオヤジ・ギャグ。)

 私は、今の若者たちのように、日頃から、耳にイヤホーンをつけてまで、音楽を聴くことはないのだけれども、たとえば長い時間をかけての旅行の時とか、慣れない山小屋や宿で眠ることができない時(顔に似合わず、旅先では眠れないタイプなのだ)など、そんな時に、音楽を聞くと(といってもクラッシク音楽がほとんどだが)、心が休まりいつしか眠りにつくこともある。
 さらにもう一つ、あわよくばと一石二鳥をもくろんで、それで英会話の勉強ができればと思ったからでもある。

 私は二回の海外旅行で、合わせて一年間近く、外国に滞在していたことになるが、その時は、いずれも本格的に英語の勉強をしたわけでもなく、いわゆるブロークンの、度胸英語の域を出ないものだった。ましてその後、余り英語を話す機会もないから、今は、さらにひどい状態になっている。
 ところが、この数年ほどの間、ずっと、あの若き日に見た、ヨーロッパ・アルプスにもう一度行かなければと思っているのだ。それも、死ぬまでには、とまで大げさに考えている。

 まして、そんな私の思いに、火に油を注ぎ、そこにカモがネギをしょってくるようなテレビ番組を見たのだ。三日前にNHK・BSで、『世界の名峰 グレートサミッツ』シリーズが始まり、なんとあのマッターホルン(4478m)とモンブラン(4810m)、さらにペルー・アンデスのワスカラン(6768m)までもの、それらの山々への登頂案内、ドキュメンタリー番組が放送されたからだ。
 それぞれ1時間半ほどの番組を、3本見たのだが、まさに息をつめて見るほどに、臨場感にあふれていて良かった。
 もっとも私でも、若い時になら、このガイド付きの登山で、頂上に立てただろうが、体力的にもとうに盛りを過ぎているし、ましてガイドの力に頼って、というスタイルが私にはなじめないから(ケチだからというより、つまりお金を払っての山登りという形に抵抗があるのだ)、今となっては、とてもこれらの山の頂に登ることはできない。

 しかし、どちらかといえば山々の鑑賞派である私は、それらの番組を見て、あのヨーロッパ・アルプスの山々へと、さらに思いをかき立てられたのである。どうしても、行かなければならない。(若い時の4か月に及ぶヨーロッパ旅行で、私はスイスに12日ほどいたのだが、山に居た10日の間、毎日晴れという幸運に恵まれたのだ。)
 だから行くからには、同じように、そんな晴れた日の山の姿を見なければ意味がない。今度もずっと天気が良いなんてことはないだろうから、期間は少なくとも一カ月以上は必要だろうし、滞在費用は、取っておいた葬式費用の一部を切り崩して(冗談)、までしなくても、安宿に泊まれば、物価の高いスイスとはいえ、なんとか安上がりにやれるはずだ。
 さらに、スイスは、ドイツ語やフランス語の国で、単語の幾つかは分かるけれども、話すことはできないが、英語は十分に通じる。長期間の滞在ともなれば、なるべく快適に過ごせるように、またいろんな国の人とも出会うことになるから、ちゃんと英語を話せるように勉強しておいた方が良いのだ。

 そんなさもしい考えで、一石二鳥を狙って買った、デジタル・プレイヤーは、評判のアイポッドではなく、国産メーカーのもの(5450円)にした。
 わずか8cmほどの長さで、重さはイヤホーンをつけても40g足らず、その上FMラジオも付いている。容量は2GBで、音質にもよるが10時間から90時間の録音量があるから、私には十分だ。
 パソコンで使うあのUSBメモリーと大して変わらない大きさに、まず感心したし、何よりも、その音質には、目からウロコの驚きだった。それまでの、今にして思えば大きく重かった、MDプレイヤーと比べてもはるかに良い音だし、ましてアナログ時代のカセット・プレイヤーとは、もう比較できないほどだ。
 知らなかった、こんなに良くなっているとは。もうとっくに使っている人にとっては、何を今さらと思うかもしれないが、いつも時代を後取りする私にとっては、何年遅れかで手にする電子機器の類は、いつも驚きと喜びに満ちあふれているのだ。

 そして、このデジタル・プレイヤーに、英会話練習用のCDと、いつも聴くルネッサンスの宗教音楽などのCD4枚、さらに同じように大好きなバッハの音楽のCD2枚を、とりあえずパソコンから取り込んで、夜寝る時に聴いてみた。

 しかし、久しぶりに聞くその音楽に聴き入ってしまい、かえって眠れなくなってしまった。それは、イングリット・ヘブラーの弾く、バッハの『フランス組曲』である。
 そのCDは、タワーレコードのヴィンテージ・コレクションと名付けられた復刻盤である(2枚組、1500円、写真右上)。私は、このヘブラーの『フランス組曲』を、レコードの時代から良く聴いていた(2枚組LP、輸入盤、4560円、写真)。

 今回はこの、ヘブラーの『フランス組曲』について、少し書いていこうと思っていたのだが、いつものように、どうでもよいことなどを書き連ねて、話が脇道にそれてしまった。次回に、併せて、バッハなどについて書いてみたいと思う。

 話を戻せば、動物と人との対立関係についてだったのだが、こうして文明の利器の誘惑に負けて、購入してばかりいては、結局、少なからずとも、地球上の環境破壊につながる、反エコ生産の行動に、私も加担(かたん)していることになるのだ。
 何と哀しい生き物なのだろう、人間とは・・・。」


   


ワタシはネコである(144)

2010-03-27 17:03:48 | Weblog


3月27日


 全く最近の天気は、少しおかしいと思う。2月に、あれほど暖かい日が続いたのに、この3月は、暖かい日と寒い日の差が大きすぎるのだ。
 この前の三日間は、雨がしとしとと降り続き、外は冬のような寒さで、一日中、ストーヴの前で寝ているしかなく、時々飼い主が、ワタシに噛みつきごっこをして遊んでくれるくらいのもので、全く、他にすることもないのだ。
 そんな中で、夕方のサカナの時間だけが、唯一の楽しみであり、一日中の退屈さも忘れてしまう。サカナをおいしく頂いて、体と心がが満足すると、元気いっぱいになり、夜にかけて、家を何度も出入りしたり、突然部屋の中をダダダーっと駆けだしたりして、少し飼い主に叱られるほどだ。

 昨日の朝は、雪も降るほどに冷え込んだけれども、ようやく今日は、朝からいっぱいに日が差してきている。もうこれからは、雨も降らずに寒くもなく、ベランダで寝たり、散歩に行ったりして、外ですごすことができるようになってほしいものだ。ワタシは、やはりノラネコあがりの半ノラネコなのだから。


 「家の近くでも、ちらほらと桜の花が咲き始めたというのに、この所の寒さはどうだろう。気温は、朝の2度位から、余り上がらずに4度位の、寒い雨の日が三日間も続いた。
 さらに昨日は、-4度まで冷え込んで雪もちらついていたし、今日もー5度まで下がっていたが、今は、久しぶりの穏やかな快晴の青空が広がっている。ようやく、幾らかは暖かくなってきた。
 遠くに見える山々の頂は、白くなっている。昨日の午後から晴れてきたのだが、今日、山登りに行くには雪が解けて遅すぎるし、またも休日の日だから、クルマも人も多いだろう。
 すっきりと晴れた日に、家に居るのはつらいことだが仕方ない。すっかり間が開いてしまったブログの記事でも書くことにしよう。

 さて、そんな寒い雨の日が続いて、ミャオも私も外に出られずにいた時、家で、二本の長時間もののオペラと歌舞伎を見た。
 一本は、前にも、あのクライバーの『カルメン』の所で触れた(’09.9.5.の項)、例のデアゴスティーニの名作オペラシリーズからの一つ、ワーグナーの『ローエングリーン』である。
 このオペラについて書き始めると、また長々と、どうでもよいことばかり書いてしまうので、ここでは、一言だけ、つまり映像が昔のビデオ並みに良くなくて残念だったが、それでも十分にワーグナーを楽しむことができたということだ。
 それにしても、このデアゴスティーニのオペラシリーズは、1990円という値段なのに名演ぞろいであり、私も他に『トゥーランドット』を含めて、合わせて3作も買ってしまったほどだ。

 もう一つ見たのは、3月20日に、NHK・BSで放映された、”歌舞伎座さよなら公演”、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の後半、五段目から十一段目までである。
 これは、去年の11月に歌舞伎座での、いつもの「吉例顔見世(きちれいかおみせ)大歌舞伎」の公演で、昼夜合わせての、通し狂言(とおしきょうげん)として演じられたものである。

 昼の部としての、前半の舞台、『大序』『三段目』『四段目』『道行旅路の花婿(みちゆきたびじのはなむこ)』は、すでに1月23日に放映されていて、高師直(こうのもろなお)に中村富十郎、塩谷判官(えんやはんがん)に中村勘三郎、大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)に松本幸四郎、草野勘平(かんぺい)に尾上菊五郎、お軽(かる)に中村時蔵という、豪華キャストで、これも良かった。
 というよりも、この『仮名手本忠臣蔵』は、通し公演をすれば今回の場合でも、8時間余りもかかってしまい、普通の歌舞伎の公演では、その日の舞台として、各段のうちから一つだけを取り上げるだけで、通しとして演じられることはめったにないから、もうそれだけでも、歌舞伎界の一大イベントなのである。
 私も、通しとしての『仮名手本忠臣蔵』を見るのは、テレビでとはいえ、初めてのことであった。

 私が、初めて歌舞伎を見たのは、地方から上京して学生時代を送り始めたころのことである。その後も、そのまま東京で働くようになり、芝居好きだった今は亡き母が、年に一度は上京して、一緒に新派に新劇、歌舞伎などの舞台を見に出かけたものである。
 しかし実際にいえば、歌舞伎座でその舞台を見たのは、わずか数本くらいのものだから、あのオペラの場合と同じで、それだけ熱心なファンという訳でもなく、歌舞伎に詳しい訳でもない。
 ただ時折、テレビで面白そうな演目があれば、今でもこうして、見たくなるというたぐいのものである。しかし、オペラの場合もそうなのだが、見終わるといつも、ああ良い芝居だったなあと思う。
 それは、歌舞伎の演目が、私たち日本人の心根に、直接訴えかけてくる、哀しくいさぎよい情感に満ちあふれているからだろうか。

 その当時の、『仮名手本忠臣蔵』の幾つかの演目では、少し古くなるが、先代の松緑(しょうろく)、梅幸(ばいこう)、羽左衛門(うざえもん)などといった今にして思えば、重量級の配役の舞台を憶えているし、その後、若い海老蔵(えびぞう、今の十二代目団十郎)や孝夫(今の仁左衛門)と、玉三郎などとの組み合わせでも見ているが、それにしても久しぶりに見た忠臣蔵であり、この二回に分けて、それぞれ4時間ずつの舞台を、面白く、そして興味深く見ることができた。

 前回、1月23日放送分の大序から四段目までの話は、塩谷判官(つまりは浅野内匠頭のこと)が高師直(吉良上野介)から、辱(はずかし)めを受けて刃傷(にんじょう)に及び、切腹するまでと、その場に駆けつける大星由良之助(大石内蔵助)がその後の城明け渡しをするまでと、さらには史実にはないが、草野勘平が主君切腹の場に居なかったとして咎(とが)めを受け、腰元であったお軽との駆け落ちの道行の話しが付け加えられている。

 そして今回見たのは、次の五段目からで、勘平とお軽の話の続きになる。山崎の田舎に住むお軽の両親のもとで、猟師になって暮らしていた勘平は、夜の道すがらかつての侍仲間に会い、主君仇討(あだうち)の話を聞かされる。
 それを伝え聞いたお軽の両親は、お軽を茶屋に身売りして、その用立てたお金を仇討の資金にして、勘平も仲間に加われるようにと考え、お軽の父親の与市兵衛は京都へと行く。そして話がまとまり、半金の五十両を手に家に戻る途中に、追いはぎにあって殺され、お金を奪われてしまう。
 一方、夜明け前のイノシシを追っていた勘平は、誤ってその追いはぎを鉄砲で撃ってしまい、死んだ相手の懐(ふところ)にあった五十両を、そんな金とは知らず、手にして家へと向かう。
 そこでは、母親とお軽が父親の帰りが遅いと心配している。そこへ、勘平が帰ると、身売り先の、京都の茶屋の内儀と手代がやってきている。ここで話の次第を聞いて、自分が誤ってお軽の父親を殺し、その金を手にしたのだと誤解して、お軽が駕籠(かご)で都に連れられて行った後、自ら切腹に及ぶ。駆けつけた、侍仲間から、誤解だったことを知らされ、今はの際(きわ)に、連判状に血判を押して、死んでゆく。

 前後の話は、その登場人物たちの名前を変えてはいるが、大体赤穂浪士の仇討事件に即して描かれている。しかし、恐らくはそれだけだと、いわゆる実事(じつごと)的な話だけが続いて、色気がないからと、和事(わごと)的なものとしての勘平、お軽の話を挿入したのだろう。
 さて、続く七段目は、あの有名な大星由良之助の敵を欺くための茶屋遊びの場面であり、そこに、売られて奉公していたお軽と、その兄であり足軽奴の平右衛門との対面があり、勘平の死を知らされての、愁嘆場(しゅうたんば)になる。

 そして、八段目から十段目までは、省略されていて、そして最後の十一段目の討ち入り、引き上げ場で、目出度く幕になる。

 以上の、それぞれの段を、一度は見たことがあるのだが、上にも書いたように、通しとしての公演を見たのは初めてである。ただそうなると、どうしても一部に、つながりの悪いところが出て気になる。
 例えば今回の、あまり上演されることのない八、十段目がないのはともかくとしても、九段目の、あの由良之助の『山科閑居の場』における、二組の家族の、命をかけたやりとりの場面を見ることができなかったのは、少し残念な気もする。

 そして、最後の十一段目では、幾つもの慌ただしい場面転換の手際の良さには感心したが、それまでの各段の情感あふれる場面からすれば、私たちは他に、映画などで感動的なクライマックスを見ているだけに、どうしてもその錦絵的な終わり方には、物足りない思いが残る。

 さて、この『仮名手本忠臣蔵』について、いろいろとここで、あれこれ勝手な意見を述べるのは、たいしたなじみもない門外漢(もんがいかん)の私がするべきことではない。長い歴史を有する、歌舞伎の歴史と現在については、確かな学問の分野として、研究されているのだから、それぞれの専門書をひも解いて調べるべきことであろう。
 ただ、江戸時代から大衆芸能として愛されてきた、この歌舞伎について、今回の後半の舞台から、私の思いをひとくさり書いてみたいと思う。

 それは、上にあげた、五段目に出てくる追いはぎの斧定九郎(おのさだくろう)についてである。ほんの一場面に登場するだけの人物であるが、実はこの後の七段目に出てくる、裏切り悪役の元家老、斧九太夫(おのくだゆう)は父親であり、その父から勘当(かんどう)された身でもあるのだ。
 そんな、落ちぶれた定九郎が、稲わらの中に隠れていて、五十両を持って家路に向かうお軽の父親、与市兵衛を殺して、ぬっと現れるシーン、私ならずとも、その目にも鮮やかな無言の一場面を、待っている人も多いはずだ。

 今回の、定九郎役の、中村梅玉(ばいぎょく)が素晴らしかった。夜明け前の薄暗がりの中、稲わらの中から、色悪と呼ばれる白塗り美男の悪役が、黒羽二重(はぶたえ)の着物を着ていて、奪い取った財布を口にくわえて、現われるその立ち姿の鮮やかさ。(写真)
 まず、抜き身の刀を拭いて、それから静かに、雨に濡れた両袖を絞り、その手をからげた裾で拭いて、財布に手を入れ、「ごじゅうーりょうー」と声を上げる。三味線が怪しげに鳴り、遠くの寺の鐘が一つ聞こえる。セリフはその一言だけだ。

 この場面を、粋(いき)とか、立ち姿の美学とか、間(ま)とか、沈黙の美学とか、余計な修辞の言葉で飾り立てたくはない。一つの完結した形、一幅の絵として、黙って眺めていたいだけだ。
 さらにこの後、定九郎は、イノシシに間違われて、勘平の鉄砲で撃たれて死んでしまうのだが、その死にゆく場面の、口に含んだ血が太ももに滴り落ちてゆき、そのみえを切った姿もまた素晴らしい。

 この定九郎の役は、若手役者の登竜門(とうりゅうもん)でもあり、吉右衛門が良かったとか、海老蔵が良かったとか、いろいろとあるだろうけれども、私は、今回の凄味をきかしたわけでもなく、派手さを見せたわけでもない、梅玉の落ち着いた中庸の演技の中に、人間の哀しみさえも見た気がした。

 ちなみに、本来はボロ衣を着た、落ちぶれた侍姿の定九郎役を、今あるような形に演じたのは、1780年代、江戸時代の天明文化と呼ばれるころの名役者、中村仲蔵であるといわれている。歌舞伎はこうして、演技者の思いを込めて、少しずつ変わって来たのだろうが、本質的な、浄瑠璃(じょうるり)の語りと三味線、そして役者の演技や化粧を含めて、衣装や基本的な舞台装置など、大もとの所では、伝統を受け継いできているといえるのだろう。

 それを思うと、現代のオペラが、前にも書いたように(3月10日、18日の項)、大きく現代的な演出へと変わりつつあるのが、私にはいまだに理解できないところでもある。変えるべきところと、変えてはいけないところ、いつの時代でも難しい問題ではあるのだが。

 ただ、能、狂言、歌舞伎などだけではなく、私たち日本人は、豊かな感情や心を表わす、様々な伝統芸能を受け継いできているのだ。それはもちろん、他のいくつもある伝承文化とともに、現代に生きる私たちの心の奥底に、いつしか受け継がれ、深く沈潜していたものかも知れない。ただ気がつかないだけで。

 古きを知ることは、良いことだと思う。同じ考えや思いの人々が、ずっと昔の時代にもいたということ、その彼らと、ささやかな話ができるということ・・・。
 人は弱いものだから、ある時には群れたがり、ある時にはひとりになりたいと思う。それでも、ひとりきりではいられない。仲間がいない時、それでも良く見てみれば、現在ではなくとも、古(いにしえ)の広大な世界があり、古典の世界の中には、いつも誰かが待っていてくれるのだ・・・。」


 参考文献 : 『歌舞伎の楽しさ』(文芸春秋デラックス、昭和51年)、『新編国語便覧』(秋山虔、中央図書)、ウィキペディア他のウェブ。

(追記 : 松本様、645N2処分、悪しからず。またいつか山で。)


 


ワタシはネコである(143)

2010-03-22 19:01:57 | Weblog



3月22日


 晴れた日が続いている。といっても、二日前は、強い風が吹きまくっていたし、昨日は、空が曇っているのかと思うほどの、後で飼い主が言うには、黄砂という現象だったとか。

 いろいろと、何かが違う毎日があり、しかしゆっくりと季節は変わり、さらにいつの間にか、歳月は過ぎてゆくものなのだ。
 今日は晴れて、穏やかな青空が広がっている。ワタシは、ベランダに出て寝ている。すぐ上の手すりの所にあるエサ台では、ヒヨドリが盛んに、飼い主の食い残しのリンゴをつついている。

 それでいいのだ。ワタシは、見る気もなく、目を閉じて、横になっている。耳には、ヒヨドリの食べる音が聞こえている。若いころなら、1mくらいは、楽にジャンプできたから、体を低くし、じっと目をこらして、待ち構えていたものだったのだが。
 しかしワタシは、もう年だということを自覚している。飛び上がるどころか、わずか30cmほどの、排水溝のミゾに降りた時でさえ、まず前足を上にかけ、そして後ろ足をよいしょと持ち上げてからあがるしまつだが、そうしている間に、飼い主がワタシを抱えあげて溝から上げてくれる。
 昔なら、そこで、アチャー、とか言いながら、頭をかいたりしたものだが、今では、それも年寄りの権利だと思い、ありがとねニャーと、一声鳴くだけだ。
 まあ、年をとれば、なんでも、それなりに、やっていけば良いのだ。
 それを分からぬ、家のバカ飼い主は、昨日庭の手入れで、あちこちにハシゴをかけて木の枝を切っていたが(本当は冬の間にやるべきだったのに)、それで今日は、腰が痛いとワタシにこぼすのだ。バッカじゃなかろか、どもならん。


 「朝の気温は、0度だったが、穏やかな春の日差しの中、日中は16度くらいまで上がった。ベランダの洗濯物の下に、ミャオが横になって寝ている。ヒヨドリも、エサ台のリンゴをついばんでいる。なかなかに、良い光景だった。

 いつも思うのだが、そうして、いいなあと思った一瞬の光景を、後になって、悲しみや苦しみの中にある時に、ふと思い出すものなのだ。あの頃は良かったなあと。

 私は、普通はクラッシック音楽しか聴かないし、それもほとんどがルネッサンスやバロックの時代のものばかりなのだが(1月30日の項参照)、たまには他の時代の音楽を聴くこともある。たとえば、私はそれほど熱心なオペラ・ファンという訳でもないのだが、それでも何枚かの、気にいったオペラのCD、そしてDVDを持っている。
 今ではすっかり聴くこともなくなったレコードの中にも、いまだに10点余りのオペラのレコードがある。昔よく聴いていたものを、そう簡単に手放すことができないのだ。年寄りの欲深さは、こういうところから始まるのかもしれない。

 そんなレコードの一つに、ヴェルディ(1813~1901)の『アイーダ』がある。1979年録音のカラヤン指揮ウィーン・フィル盤(EMIエレクトローラ、ドイツ輸入盤、三枚組)である。それはなんといっても、歌手陣が素晴らしい、ミレッラ・フレーニ(アイーダ)、アグネス・バルツァ(アムネリス)、ホセ・カレーラス(ラダメス)、ピエロ・カプッチルリ(アモナズロ)、ヨセ・ファン・ダム(エジプト王)、ルジェーロ・ライモンディ(祭司長)という、豪華キャストだ。
 この『アイーダ』というオペラが、大好きだという訳ではないのだが、このレコードでの演奏家たちの組み合わせにひかれて、買ってしまったのだ。
 カラヤンという指揮者は、当時はもとより、亡くなった今でさえ毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人だけど、しかしことオペラの指揮に関しては、つまり、カラヤンのオペラに駄作はない、とまで言う人もいるくらいなのだ。

 そんな古いレコードを聴いてみる気になったのは、例のごとく、NHK・BSで2月20日に放送され、録画したままになっていた、ミラノ・スカラ座日本公演(2009年9月6日)の『アイーダ』(写真)を、ようやく昨日、見たからである。
 このスカラ座の日本公演が、素晴らしかったとは聞いていたけれども、確かに、このハイビジョンの画面からもその一端が伝わってきた。

 物語は、古代エジプトの時代である。隣国エチオピアの軍隊を打ち破った若き将軍ラダメスは、王より王姫のアムネリスを与えられるが、彼は、そのアムネリスに仕える、エチオピア人奴隷のアイーダ(実はエチオピア王姫)を愛していて、二人は、エチオピアへ逃れようとするが捕まり、死に向かう地下墓地に閉じ込められることになる。

 今回の、この『アイーダ』公演で、まず始めに書くべきは、その見事な舞台衣装と舞台装置だろう。引っ越し公演というのに恥じない、壮大なエジプトの宮殿や神殿を模した舞台と、そして当時の壁画などで見ることのできるような、エジプト衣装に身を包んだ人々。
 このところ、私は、オペラの現代風演出に違和感を感じると書いていたのだけれども(3月22日の項)、ここでしっかりと伝統を守る舞台を見て、全く溜飲(りゅういん)の下がる思いがした。
 さらに、間奏曲ふうに踊られるバレーも、あの『妖精の女王』(3月10日の項)の現代バレエと比べれば、はるかに良かった。そこには、バロック・オペラの時代からの流れも感じられるし、壁画などに見られる動きをヒントにして、あえて昔風に振付をしたのだろうが、特にこのスカラ座バレー団のプリマだと思われる、女神の寓意(ぐうい)の姿の踊りには魅了された。

 そして、それらの演出を取り仕切ったのは誰あろう、あのフランコ・ゼフィレッリ(1923~)なのだ。映画監督、舞台演出で有名な彼の名前を初めて知ったのは、あの映画『ロミオとジュリエット』(1968年)であった。有名なシェイクスピアの物語を、当時無名の、若いレナード・ホワイティングとオリビア・ハッセーの二人が、ただひたむきな演じて、ニーノ・ロータの音楽が胸に響き、映画であることを忘れて涙したほどだった。
 ゼフィレッリがそこで描いた、若者の清冽(せいれつ)な思いは、さらにあの『ブラザー・サン シスター・ムーン』(1972年)へと続いて行く。
 しかしその後、アメリカに招かれて撮った映画には、余り見るべきものはなかったが、オペラの舞台衣装、演出家としての名声は不動のものであり、オペラ映画としての『椿姫』(1982年)、『オテロ』(1985年)なども作っている。さらに、彼の子供時代の回想でもある『ムッソリーニとお茶を』(1998年)では、風雲急を告げる時代の話なのに、なぜか古き良き時代に居るような、彼のやさしいまなざしがあった。
 ともあれ、映画『ロミオとジュリエット』で見た、時代を思わせる豪華な衣装姿での舞踏会の場面などに、酔いしれた私は、彼があの名匠ルキノ・ヴィスコンティの助監督であったことを知って、納得したのだった。
 ヴィスコンティの映画、『夏の嵐』(1953年)、『山猫』(1963年)、『ルードヴィヒ/神々の黄昏』(1972年)における、当時の貴族社会の豪華な館、衣装を着た人々、などの場面を思い起こせば、彼が、そのイタリアの一つの伝統を受け継ぐものの系譜にあることが分かるのだ。

 さて次に、指揮者のダニエル・バレンボイム(1942~)である。ロシア系ユダヤ人の父母のもとにアルゼンチンに生まれた彼は、子供のころからピアノの神童と呼ばれるほどで、その後、家族とともにイスラエルに移住し、今では指揮者としての名声が高い。
 若き日の、モーツァルトのピアノ協奏曲全集で有名であった彼も、もはや68歳にもなるのだ。スカラ座との極めて友好な関係から、マエストロの称号を送られるほどに、今や、オペラの名指揮者でもある。しかし、大方の、クラッシック・ファンは、今は亡きあの悲劇の名チェリスト、ジャクリーヌ・デュプレ(1945~1987)の夫であったことを忘れてはいないだろう。
 私は、あの有名なエルガーのチェロ協奏曲で共演した二人が、笑顔で写っているジャケットのレコード(ドイツCBS・SONY)を持っていたが、手放してしまった。
 バレンボイムはデュプレが亡くなった翌年、あの名ヴァイオリニスト、ギドン・クレメールの前妻であったロシア人ピアニストと再婚している。

 余分な話が続いたけれども、実はこの『アイーダ』を見て、今回私が感じたのは、今まで、主人公のラダメスとアイーダの、悲恋の物語だと思って、聴いてきたのに、実はもう一つ、テーマがあったということだ。愛する人が自分の方を向いてくれない、それでもその思いを断ち切ることができない、そのアムネリスの、つらい切々とした女の気持ちが込められている、オペラでもあることに気づいたのだ。
 若い時には、そうして自分を思ってくれる女の人がいたとしても、ただ迷惑なことでしかなかったのに、今にして、老残の年に近づいて行く身になれば、自分にもそういう人がいたのだと思い出して、ひと時の悔恨(かいこん)の情に胸がつまる思いになるのだ。

 今にして知る、その思い。実は、この『アイーダ』はアムネリスの思いを知るべきオペラでもあると、あのバレンボイムが語っていたのを、今回ウェブで調べてみて、初めて知ったのだ。
 付け加えれば、あのホロコースト(大虐殺)の被害者であるユダヤ人国家のイスラエルで、彼は、音楽に国境はないと、ナチス翼賛(よくさん)音楽だとされている、ワーグナーの楽劇の一部を演奏しているのだ。

 という訳で、話があちこちにそれてしまったが、そういう意味を含めて、今回見た『アイーダ』は、なかなかに興味深かった。最後になるが、歌手陣は、どうしても主役二人の外見、つまり体形が気になったが、ただ、アムネリスを熱演したエカテリーナ・グバノワと、エジプト王役のマルコ・スポッティの声が印象に残っている。
 つまり、それならばその主人公二人の声を聴こうと思い、フレーニとカレーラスの歌う、昔のレコードを取り出したというわけだ。

 また今回も、オペラの話になってしまった。まだまだ録画したオペラは、いろいろとあるけれども、このあたりでしばらく、オペラから離れなければと思う。もう、北海道へと向かうべき日も近づいてきているのだから。」


 


ワタシはネコである(142)

2010-03-18 20:48:48 | Weblog


3月18日


 春だからこそなのか、まだまだ天気は落ち着かない。晴れて暖かくなったかと思うと、冷たい風が吹いて、雨が降り、またストーヴの前で寝ているしかないほど、寒くなったりする。
 その上に、このところ飼い主が、出かけていくことが多くて、それだけでも気が休まらないというのに。つまり、ワタシとしては、ちゃんと、今日のサカナにありつけるだろうか、もしかして旅に出て帰ってこないのではないのかなどと、心配することになるからだ。

 そんな、ある日のことだった。出かけていて、少し遅くなって帰って来た飼い主から、やっとサカナをもらい、ようやく安心して、ストーヴの前で寝ていた時、飼い主が突然、ワタシを抱えあげてテレビの画面に向かわせた。
 ゲッ、そこにいたのは、なんとワタシの知らないネコだった。これは、大変なことだ。家の中に、よそのネコが来るなんて。
 ワタシは、飼い主の手を振りほどき、テレビ台の上の画面に見入った。顔を上下して見ても、画面の裏側を覗きこんでも、そのネコはいない。
 後ろで、飼い主のクックッと笑う声が聞こえていた。画面からは、そのネコの姿が消えていた。画面の反対側に回り込んでも、もうその姿は見えなかった。まるでひと時の、”春の日の夢”のように。

 元来、ワタシはテレビの音には慣れているから、画面から他の人の声が聞こえたり、騒々しい物音が聞こえても、余り気にはしていなかった。ただ、どうしても、身近なワタシの敵である、ネコやイヌの声がそこから聞こえると、思わず聞き耳を立てていたのだが、それでも、テレビ画面を見上げることはあまりなかったのだ。
 今回、抱えあげられて、まともに他のネコの姿を見せられて、驚いたのだ。しかし、時がたてば、何のことはない。ワタシの記憶から、忘れ去られてしまうのだ。つまり、大事なことは、その相手の動き、その臭い、鳴き声や動く音などが総合的に、判断されて一つのその時の記憶になり、積み重ねられて経験となるのだ。

 あの画面の中には、ネコの臭いがなかった。つまり、ニセモノは、忘れて良いということなのだ。
 飼い主が、後で話してくれたが、もうすぐテレビは3Dとか言う立体画面になり、そのうち匂いまでも出てくるようになるそうだ。ワタシは、何のためにと思う。大事なことは、実際に体験することなのに。


 「最近いろいろと用事があって、忙しく出歩いていた。遠くまで出かけると、周りでは、もうサクラの花も咲き始めていた。
 それ以上に、コブシやハクモクレンが枝いっぱいに白い花をつけ、ハナモモの赤い花と隣り合わせに咲いていて、その根元に黄色い菜の花の一群があったりすれば、それはもう、絵にかいたような、日本の春の景色だった。

 その鮮やかな、色の対比による風景は、私の心に、何か似たある光景を呼び起こす。目に鮮やかに残る色合い、明確に色の輪郭をかたどった舞台風景、日本の誇るべき伝統芸能、歌舞伎の舞台である。
 しかしここで、その歌舞伎の舞台について、今詳しく述べるだけの知識も余裕もない。ただ、最近、テレビやDVDなどで、オペラを見る機会が多く、その比較としての歌舞伎の舞台を思い出したという訳である。

 オペラについては、前々回(3月10日)にも少しふれていたように、その後、ワーグナーの大作、あの『神々の黄昏(たそがれ)』(3月13日、NHK・BS)が放映された。私は、その4時間半もの番組ををしっかり録画して、3回ほどに分けて見た。

 ワーグナーは、全部通しての演奏時間が15時間にも及ぶ、四部作からなる楽劇、『ニーベルングの指環(ゆびわ)』を、35歳の時から61歳の時までの、足かけ26年にわたって完成させたといわれている。序夜『ラインの黄金』、1日目『ワルキューレ』、2日目『ジークフリート』、そして3日目がこの『神々の黄昏』である。

 その昔、東京で働いていた時に、音楽や映画の担当であった私は、ある時この『ニーベルングの指環』の解説、訳文の校正作業を手伝ったことがある。当時は、うんざりするほどの仕事だと思っていたが、後になって思えば、全くこの『指環』を幾らかでも理解できる、ありがたい機会を与えられたようなものだったのだ。
 その時、同じように延々と続くレコードを聴くのにも、少なからずうんざりとしたものだが、今にして思えばそのことも良い経験だった。その後、この『指環』の、ハイライト盤や、序曲集(何と言っても、カラヤンの壮麗な演奏は分かりやすい)などを聴いてはいたが、舞台として、すべてを見たことは一度もなかったのだ。

 ワーグナー(1813~1883)の書いた物語は、エッダとサガなどの北欧神話と、13世紀ころ成立したといわれている『ニーベルングの歌』を基にしたといわれている。物語は、ヴォータンが支配する神々の国ワルハラと、地上の人間の国、そして地下に住むニーベルング族の国があって、そこに英雄ジークフリートが現われて、竜を退治して、秘宝の指環を得る。その指環は、世界を支配する力があるとともに、呪われてもいるのだが、以後その指環をめぐって、争いが繰り広げられることになるのだ。

 そして今回の公演は、確かに、見るに値する舞台だった。何より、オーケストラの素晴らしさ、それはしっかりしたオーディオ音響を通してではなく、テレビの貧弱なスピーカーから聞こえてくる音だったけれども、明らかに聞きわけることのできるほどの、見事に洗練された音の響きだった。
 フル・オーケストラでピットに収まっていたのは、あの天下の、ベルリン・フィルなのだ。ドイツの作曲家、ワーグナーの楽劇を、具現化するのには、最もふさわしいオーケストラだと言えるだろう。この『神々の黄昏』は、もうこのオーケストラが演奏するという時点で、その成功を約束されたようなものだ。

 そして、指揮者はサイモン・ラトル(1955~)である。カラヤン、アバドの時代のベルリン・フィルを聴いてきた私たちにとっては、次なるラトルという指揮者が、当時は、いささか軽く思えたのも事実である。しかし、彼がベルリン・フィルの常任指揮者になってから、なんともう8年もたつのだ。
 オーケストラを前に指揮する姿にも、自信と余裕が感じられ、ある種の風格さえも感じられた。(それはあの、トレードマークのカーリーヘアの後頭部が少し薄くなっていることからも・・・余計なお世話か。)

 歌手陣も、それぞれに良かったと思う、(ジークフリート役の体形は少し気になったが)。そして、私は初めて聴いたのだが、あのブリュンヒルデ役のカタリーナ・ダライマンも、ワーグナー歌手として十分だと思うし、終幕の死を決意してからのアリアは、思わず胸に迫るものがあった。
 しかし、何と言っても、特筆すべきは、あのアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが出ていたことである。ブリュンヒルデの姉妹の一人であり、女戦闘士ワルキューレの仲間の一人でもある、ワルトラウト役として、わずか一場面だけではあったけれども、その声、演技は、さすがだと思わされた。
 リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』(1月3日の項)や、モーツァルトの『フィガロの結婚』などのお小姓役とか、バロックや宗教曲にふさわしいと思っていたのに、このワーグナーで歌うなんて、全く予想外の喜びだった。

 ただし、相変わらず保守的な見方しかできない私だから、舞台には満足できなかった。それは舞台の装置に問題があったわけではない。ベッドが一つとか、広い階段状のバルコニーとかの、簡潔な舞台に文句はないし、水や炎を巧みに表した照明も良かったと思う。(舞台は、あの2月27日の項でふれたバロック・オペラの時と同じだ。)
 ただ、どうも違和感を感じてしまうのは、その衣装だ。昔の剣や盾(たて)、兜(かぶと)に角笛などがあるのに、どうして猟銃がずらりと並ぶのだ、さらにどうして、男たちはトレンチ・コートや背広服姿なのだ、と思わずにはいられない。私が求める舞台は、なるべく時代考証をした上での衣装であり、舞台装置であって欲しいのだ。
 例えば、ルートヴィッヒ王の依頼で、ノイシュヴァンシュタイン城に描かれていた『ニーベルングの歌』の、フレスコ画のように(写真、ユリウス・カロルスフェルト画『ジークフリートを殺そうとするハーゲン』)。(それにしても、1980年に公開された、あのルキノ・ヴィスコンティの映画『ルートヴィッヒ、神々の黄昏』は忘れられない。)

 ともかく、それらの衣装は、今の時代の観客が、より身近な物語として感じられるように、現代の服装にしたのだろうが、上にあげた小道具や、あるいは狩りで仕留めた熊などは、時代に即してリアルな姿なのに、なぜに背広姿なのかは、私には分からない。
 日本の歌舞伎、あるいは大相撲の、伝統を受け継いだ今の舞台姿と、比べてみたくなるのだ。私が、このところオペラの舞台について、その現代的な演出について、感じる違和感は、この『神々の黄昏』でも同じだった。そのために、他が良かったのに、今ひとつもろ手を挙げて、拍手という訳にはいかなかったのだ。
 しかし、一般的にはヨーロッパでもアメリカでも、この現代的な演出が観客に受け入れられているからこそ、今では普通に組み入れられて公演されているということなのだろう。

 そんな今の時代の感覚に、大した知識もなくついて行けずに、違和感を感じて、十分にオペラを楽しめない自分自身が、実は一番哀しいことなのだ。いよいよ私は、本当に、古典の世界だけに引きこもって行ってしまうのだろうか。
 年をとれば、いろんなことが良く見えてくると思っているけれど、こうして新しいものについて行けなくなるという、ガンコおやじの哀れな一面を、露呈することにもなるのだ。」

参考文献: 『名曲大事典』(音楽之友社)、『エッダとサガ』(谷口幸男 新潮選書)、ウェブ上のウィキペディア他


ワタシはネコである(141)

2010-03-14 20:16:26 | Weblog



3月14日

 どうやら、寒い日々は過ぎたようだ。昨日、今日と、天気はすっきりしないけれど、あの雪の降った後の四日前くらいから、10度を超える暖かい日々が続いている。

 ワタシも動き回りたくなって、この二日間は、夜中に外に出ていく。家の周りにやって来た他のネコたちと、鳴き交わすためだ。ワタシはもう年だし、その上、子供の時に、最初の飼い主であった、あの酒飲みおばさんから、病院に連れて行かれて、そこで手術を受けているから、いわゆるオスとメスの問題にはならないはずなのだが、時期になるとこうして、他のオス猫がやってくるのだ。

 今までの顔なじみの、マイケルがいなくなった後、先日も来ていた、あのヒマラヤンふうの、若いネコちゃんが相手である。しかし、飼い主から、くれぐれも注意するように言われている。二年前の、例の事件があったからだ(’08.4.14~4.23の項)。
 ワタシとしては、そんな刃傷沙汰(にんじょうざた)になる前に、引き下がりたいのだが、この年になっても、まだ自分のどこにそんな気持ちがあったのだろうかと思うほどの、激しいネコ魂があって、どうしても外に出て行き、鳴き交わしの相手をしたくなるのだ。

 その夜のために、今は眠たいのだ。今日の昼間、飼い主と一緒に少し散歩に出た後は、再びコタツの中に潜り込んで、ぐっすりと寝ている。夕方、サカナをもらって、元気になってからの、夜の活動のために。


 「四日前に雪が降って、10cmほど積もったのだが、その翌日の朝には、また積もっていて、20cmほどの積雪になった。しかし天気は回復して晴れている。
 この機を逃さずに、山登りに行きたかった。いつも言うことだが、九州の山では、雪の降った翌日だけが、雪山を楽しめる時なのだ。
 空は晴れているが、遠くに見える山々には、少し雲がかかっている。しばらく待つことにした。しかし、なかなか雲はとれない。前回の登山の時もそうだった(2月21日の項)から、予報通りに、やがて雲も取れて晴れてくれるはずだ。

 しかし、九重の山を歩き回るにはもう遅すぎる。それなら、簡単に登れる山にしようと思った。幸い、九重から、由布岳、鶴見岳にかけては、その間に、手頃な山が幾つもある。
 鶴見岳周辺については、その前回の登山の時に書いたけれど、この由布岳の近くには、南に倉木山(くらきやま、1160m)、城ヶ岳(1168m)、西に福万山(1236m)、そして九重との間にも、花牟礼山(はなむれやま、1170m)、崩平山(くえのひらやま、1288m)などがあって、いずれも九重や由布岳を望むことのできる、見晴らしの良い草地の頂上がある。

 ところで、家を出て、山に向かう途中の道では、雪のために動けなくなった若い人たちの車が、何台も路肩に停まっていた。
 その辺りから分かれて、牧場への狭い道を上がって行く、私のクルマは、冬の間からずっとスタッドレッス・タイヤをつけているから、山道の20cmほどの雪でも何とか登って行けたのだが、普通のタイヤでは到底無理である。 
 この九州の中央部の、阿蘇・九重・由布などの山間部の一帯は、あの四国の中央部と同じように、南国とはいえども度々雪が積もり、冬の季節には、冬タイヤもしくはチェーンが必要なのだ、雪のない時の方が多いとはいえ。

 さて、家を出たのが11時過ぎと遅く、倉木山の登山口に着いた時には、もうお昼に近かった。クルマを停めて、牧場わきの道を登っていく。晴れた青空の下、もう雪が溶けだしているが、それでも10cmほどはあるだろう。
 すぐに、尾根の分岐点に着く、左は急な尾根の登りであり、右は山腹をぐるりと巡るコースになる。もちろん、そんなに知られた山でもないから、足跡一つ付いていない。
 それ以上に嬉しかったのは、辺りの景観である。周りの木々のすべてに、(雪が吹き付けてできた)樹氷や(細かい霧粒による)霧氷、そして(水滴による透明の)雨氷が付いていて、青空の下に映えて、何ときれいなことか。ここは山の北面だから、辺り一面にまだ十分に日差しが当たっていなくて、南面ならすぐに溶け落ちてしまう雪や氷が、まだ解けずに残ってくれていたのだ。

 ゆるやかな山腹沿いの道をたどっていく。ああ来て良かった、と思わず言ってしまうほどの、素晴らしい雪の道だった(写真)。雪は10~20cmで、北側斜面の冷え冷えした空気の中、すべての木々に雪や氷の花が咲いているのだ。
 それは、前回に書いたあの『夏の夜の夢』の、冬の季節の情景のようで、まるで”妖精たちの国”へとたどる道のようにも思えた。何と幸せな、ひと時の“冬の日の夢”なのだろう・・・。

 しかし、それは先へと長く続いていくと、もう喜びではなくなってきた。つまり、写真のような道ばかりではないからだ。
 両側から、木々の枝などが、雪の重みで傾き曲がっては、道をふさいでいた。その度ごとに腰をかがめて、あるいは、ぐるりと回りこんでという繰り返しになってきたからだ。さらに、枝に触れては、上から雪や氷jがばらばらと落ちかかるのだ。
 それでも、頭上を振り仰げば、青空を背景に、入り組んだ木々の枝模様に、雪や氷がキラキラと光っている。

 ようやく、その樹林帯の山腹の道を抜け、見晴らしが開けてきて、急な頂上への斜面の登って行く。途中で、写真をとるために何度も立ち止まっていたから、結局2時間近くもかかって頂上に着いた。
 しかし、先ほどまで由布岳(1584m)にかかっていた雲も、今は取れて、見事な雪の双耳峰(そうじほう)の姿を見せていた。ここは、絶好の由布岳の展望台なのだ。
 岩の上に腰を下して、周りの展望を楽しんだ。正面の由布岳の隣には、鶴見岳(1375m)の山稜が連なっている。南に少しかすんで、九重連山があり、その左にはさらにかすんで、ようやく祖母・傾山群が見えていた。

 下りは、先ほどの分岐の急斜面コースをたどる。しかし、道は同じように、いやさらにひどく、両側のササやススキに積もった雪が道をふさぎ、膝上のラッセル状態になり、ズボンはもとより、スパッツも効果なく、靴の中までびっしょりと濡れてしまった。その上どこが道かわからないほどの、滑りやすい急斜面の下りだ。
 わずか10cmほどしか積もっていない、柔らかな雪は、すぐにめくれてあがり、下の湿った地肌がむき出しになる。ようやくのことで分岐点まで下りてきた。そして、泥だらけの姿のまま、牧場の傍に出た。暖かい光が降りそそいでいて、誰もいなかった。

 この山に登ったは、これで三度目なのだが、その度ごとに道が分かりにくくなってきているし、人に勧められたものではない。もうこの時期に、同じコースをたどる気にはならないほどだった。
 しかし、何よりもこの山は展望が良いし、今回は北斜面の霧氷群が素晴らしかったし、わずか、4時間の雪山ハイキングだったが、行って良かったと思う。恐らく、もう九州の雪山シーズンは、これで終わりだろうし、そして、春山の季節になっていくのだ。
 しかし、あの北海道の山では、5月までは、まだ雪山の季節が続くのだ。ああ、日高の山々、大雪の山々・・・。

 前々回(3月7日の項で)、少しふれたダンテの『神曲』についてだが、二日前、丁度タイミング良く、NHK教育でその舞台劇が放映された。

 あのフランスの、”アヴィニョン演劇祭”におけるもので、『地獄篇』と、『煉獄編』『天国編』に分けての舞台だった。このアヴィニョンは、歴史上の”アヴィニョンの捕囚”として有名な町で、1309年から1377年の間(ちなみにダンテが生きたのは1265年~1321年)、一時的に法王庁が置かれていて、その旧法王庁の建物の広い前庭での、野外公演だったのだ。

 イタリア現代劇の鬼才といわれている、ロメオ・カステルッチ演出による、ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ(劇団)による現代劇の舞台は、後で、彼自身が説明しているように、人間関係にそのテーマが置かれていて、私の思いとは別なところにあった。もちろん、この劇には、ちゃんと『神曲』に着想を得てという前置きがあったのだが。
 何も、私は、ダンテの意図したような、現世の罪による地獄での罰という舞台の具現化を望んだのではない。それは、現代社会においては、歴史上のかつて信じられていた宗教的な倫理観でしかないからだ。
 ただ、現代の、宗教感が薄れゆき、個人の自由の権利が広がる中で、罪と罰は、何なのだろうか・・・といった、問いかけなどを、私が、勝手に期待していただけなのだ。

 しかしそれ以前に、残念ながら、私には、その舞台から感じ取る能力にも、知識にも欠けていたのだ。正直に言えば、良く分からなかったのだ。哀しいかな、もう今の時代が良く見えない、年寄りになりつつあるのだろうか・・・。

 むしろ、その舞台を見ながら思い出していたのは、あのアンドレイ・タルコフスキー(1932~1986)の映画、『ノスタルジア(1983年)』と、『サクリファイス(1986年)』であった。」


ワタシはネコである(140)

2010-03-10 18:57:47 | Weblog


3月10日


 コタツの中で寝ていて、朝になり、飼い主が起きてきて、ストーヴの火をつけた。しばらくしてから、ワタシは、トイレに行きたくなった。
 飼い主に、玄関のドアを開けてくれるようにと、ニャーと鳴く。しかし、突然、雪混じりの強い風が吹き付けてきて、目の前には一夜にして、白銀の世界が広がっていた。なんじゃ、こりゃー、と思わず言いたくなるほどの風景だった。
 雪が積もったのは、何と三週間ぶりくらいだろう。それも、2月はあんなに暖かかったのに。もっとも、このところ寒い日が続いて、ワタシも冬の間の、ストーヴの前で、寝て過ごす日が続いていたから、そう驚くことでもないのだが、ただ、一面の雪景色で、吹雪のように吹き荒れている中に、出て行く気はしなかった。
 ワタシが、そのまま外に出ずに、そさくさと部屋に戻ったのを見て、飼い主が笑っていた。それは仕方のないことだ。いくら分厚い毛皮を着こんでるとはいえ、その下は生の肌だけだ。暖かい部屋の温度に慣れた、ワタシが、急に寒い中に飛び出していけるわけがない。

 それでも、昼前になって、ようやく少し日が差してきて、風も幾らか収まってきたようだったから、急いで外に出てトイレをすませて、戻って来た。それでも、体のあちこちが雪に濡れている。ニャーと鳴いて、飼い主にタオルで体をふいてもらい、ストーヴの傍に駆け寄る。前の手をもみながら、ひとりごとを言う。あーあ、寒い時は、やっぱストーヴの前が一番だで。
 そんなワタシを横目で見て、飼い主が言う。「オマエは人間かっ。」

 『夢を長い間見つめる者は、彼自身の影に似てくる。』(マラバールの諺、マルロー『王道』より)


 「ミャオが寒がるのも、ムリはない。朝ー4度で、日中もマイナスのままだった。雪は、5cm~10cmくらいだが、まだ風が強く、木々の枝葉に積もった雪が地吹雪のように吹き飛ばされている。
 かわいそうなのは、もう七分咲きになっっていた梅の花や、咲き始めたばかりの、ツバキやジンチョウゲなどの花だ。春先のこのくらいの寒さは、厳しい冬を過ごしてきた木々にとっては、大したことでもないだろうが、寒さで花が痛めば、実のつきが悪くなるし、つまり次の世代への、十分な橋渡しができなくなるということだ。

 彼らにとっては、自分が繁り栄えることは、とりもなおさず、自分のためではなく次の世代へ、より大きな可能性を託すためでもあるのだ。植物たちはそうして、過酷な環境に耐えしのんだものだけを、自分たちの、よりたくましい後継者として送り出していったのだ。他の生物たち、動物たちにせよ昆虫たちにせよ同じことだ。
 その限りでは、今では古い学説かもしれないが、ファーブルのすでに埋め込まれている本能ということも理解できる。つまり進化とは、ある種の学習、変化にすぎないのではないのかと。
 それを人間に当てはめることは、難しい。いやむしろ、本能や進化を越えて、学習と破棄を際限なく繰り返してきたのが、人間ではなかったのか。それは、もちろん、今ある肉体的な進化、思考力の発達の意味ではなく、心の問題としてだが・・・。

 さてそこで、そんな人間たちの、文化的創造物の一つである、歌芝居、オペラについて、少し考えてみた。
 というのは、先月に続いて(2月24日の項)、今月もまた、名作オペラの数々がNHK・BSで放映されたからである。
 まず、3月1日から5日までは五日連続で、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ公演で、『オルフェオ』(グルック)、『ランメルモールのルチア』(ドニゼッティ)、『蝶々夫人』(プッチーニ)、『夢遊病の女』(ベルリーニ)、『シンデレラ(チェネレントラ)』(ロッシーニ)といった、華々しいライン・アップだった。
 さらに、3月6日には、あのドイツのバイロイト音楽祭からの、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、堂々4時間45分の大作。そして、3月8日には、イギリスのグラインドボーン音楽祭からの、『妖精の女王』(パーセル)と続いた。
 さらにこれからまだ、『神々の黄昏(たそがれ)』(ワーグナー)、『カヴァレリア・ルスティカーナ』(マスカーニ)、『道化師』(レオンカヴァッロ)が予定されている。

 お願いだから、せめて一週間に一本にしてくれ、と言いたいくらいだった。しかし、そんなことを言っても仕方ないから、せっせと録画してため込んだ。しかし、HD(ハードディスク)にも限度があるから、チェックして、出だしを見て良くなければ早送りをして、所々見て、後は消してしまう。見たいものだけを残しておくためだ。
 その基準は簡単だ。ワタシの好みに合うかどうかだけである。消されてしまったそれぞれのオペラも、決して悪かったわけではない。あくまでも、私がもう一度見たいと思うかどうかだけの、条件だったのだから。以下は、あくまでも、オペラ大ファンでもない私の、偏見による判断である。

 『オルフェオ』、グルック(1714~87)のバロックから古典派へとつながるオペラであり、楽しみにしていたのに、あのレヴァインの指揮で、CDで音として聞くだけなら良かったのだろうが、またも現代的な衣装と、舞台として見るには少しつらい配役もあり、途中早送りして見て、十分には楽しめなかった。
 『ランメルモールのルチア』、もうルチア役のアンナ・ネトレブコというだけで、満足。まだ全部は見ていないが、後でゆっくり見たい。
 『蝶々夫人』、歌手はともかく、場違いな着物姿と、黄色く干からびたような東洋人の子供の人形に、がっかりさせられた。せめて、文楽の人形ならまだしも。
 『夢遊病の女』、現代の舞台であっても、ナタリー・デセイとフアン・ディエゴ・フローレスの組み合わせに、細かい文句などつけられない。さすが、メトのオペラ。これも全部は見ていないし、後で見るつもりだ。
 『シンデレラ』、私の好きなロッシーニのオペラなのに、シンデレラをはじめとして、脇役たちも良かったのに、ただ余りにも王子役が場違いな感じで・・・、一応全部見たのだが。
 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、オペラの舞台を見るには保守的な私は、ワーグナー帝国の古色蒼然(こしょくそうぜん)たるドイツ・オペラを見たかったのに、時代はすっかり変わってしまっていた。
 ワーグナー家の継承者であるカタリーナ・ワーグナーの演出は、余りにも、自分がワーグナー家の末裔(まつえい)であることに、とらわれすぎているように思えた。反ワーグナーであることが、ワーグナー伝統意識から解き放たれている自分であるかのように。
 現代劇としての舞台上で、大きな張りぼてをかぶった、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、リスト、ワーグナーなどの一群(12人という数字)が、裸の三人の踊り子(一人は女装の男)と、ふざけじゃれあう様は、このオペラ(楽劇)で、ではなくて、別な新作の舞台でにしてくれと言いたくなった。歌手たちが良かっただけに、残念である。もちろん、途中早送りしながら見ただけだから、正しい評価とは言えないだろうが。


 そして、『妖精の女王』である。途中で休んだものの、一気に、3時間24分の舞台を見てしまった。面白かったし、考えさせられた。オペラであり、舞台劇であり、バレエ劇である、統合された形の舞台として。

 原作は、もちろんあのシェイクスピア(1564~1616)の『夏の夜の夢』である。この有名な喜劇は、他にも、メンデルスゾーン(1809~1847)によって、あの有名な『結婚行進曲』を含む劇音楽『真夏の夜の夢』として、さらにトマ(1811~46)によって、同名のオペラとして、そして題名を変えて、このパーセルのオペラとして、さらにウェーバー(1786~1826)によって『オベロン』というオペラも作られている。

 あらすじは、ギリシアのアテネにある領主が結婚することになり、そのお祝いのために、町の田舎役者たちが集まり一つの劇を演じることになった。そこに二組の若い恋人たちと、森の妖精たちの女王ティターニアに率いられた一団と、その王であるオーベロンが加わって、夏の夜の夢のような、ドタバタ劇のひと時が、繰り広げられることになるのだ。
 さて、このパーセル(1659~95)によるバロック・オペラ『妖精の女王』は、当時、マスクと呼ばれた、独唱やコーラスに器楽合奏などの音楽と、バレエを適宜まじえて構成した、舞台劇であったと言われている。

 ここでは、あの古楽演奏界の名匠クリスティー指揮による、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の音楽はもちろん良かったし、ソロ歌手たちもそれぞれに時代に合わせた衣装で出てくるが、演劇の俳優や現代バレエの踊り手たちは、現代的な衣装である。演出家は、あくまでも今の観客たちに見せるためにと、考えたのだろうが。
 しかし、時にはそれが、例えば、ウサギたちの四十八手を尽くした繁殖期の姿を見せる場面など、少しウケを狙った演出過剰なところもあったが、なにより観客たちが、オペラというよりは、楽しい大人のための童話、喜劇として、心から楽しんでいるように見えた。 
 私としては、例えばあのジョゼフ・ペイトンの描いた絵(『オーベロンとティターニアの口げんか』1849年、写真)のように、全員が本来の、当時の時代衣装をまとっていて、その時代の舞曲にならった整然とした踊りをして、それにふさわしい演技であってほしかったのだが、しかし、私は、見ていていつの間にか、舞台の楽しさに引き込まれていたのだ。
 それまで私が、原作を読んで知っていたシェイクスピア『夏の夜の夢』とは、違う、生き生きとした楽しさに、その舞台は満ちあふれていた。私は、もちろん原文ではない訳文で読んでいたのだが、一体その時、何を読み取っていたのだろうか。
 この舞台を見て、新たに目が開かれる思いがした。オペラの歌手たちの歌を楽しみに見た私だったが、いつしか舞台の楽しさに引き込まれていってしまったのだ。
 しかしここで、私は、舞台が面白く新しいものであれば、何でも良いというのではない。むしろ逆に、オペラの本分は歌手たちの歌を聴くことにあり、たとえ舞台や演技力が多少劣ろうとも、私は歌手たちの、見事な歌声を聴きたいと思っている。
 その昔、ヨーロッパ旅行で見たオペラの一つ、それは、確かチェコのプラハで見た、意味もわからないチェコ語による(あらすじは知っていたが)、プッチーニの『ラ・ボエーム』だった。私は、そのプッチーニの音楽に、そして名前も知らない歌手たちの歌声に、思わず涙してしまったのだ。

 あれが私の、オペラへの思いの原点にあるのかもしれない。歌い手だけに目が行く舞台であってほしいという、私の偏屈(へんくつ)な思いは、もうこれからも変わりそうにもない。それを、この年になって、良いか悪いかと考えるのは、もうやめよう・・・。」


 参考文献:『シェイクスピア』(福田恒存訳、世界文学全集、河出書房)、『名曲大辞典』(音楽之友社)、『バロック音楽』(皆川達夫、講談社現代新書)、ウィキペディア他


 


ワタシはネコである(139)

2010-03-07 18:41:28 | Weblog


3月7日


 もうこれで一週間も、曇りか雨の重苦しい天気が続いている。それでも雨が降っていなければ、飼い主と散歩に出たりするのだが、この二日はしとしとと降り続く雨で、外にも出られない。
 気温もずっと10度位で、今日などは4度までしか上がらない。全く、ワタシでさえ、春は名のみのと、口ずさみ、いや、ニャーと鳴きたくなる天気なのだ。あーあー。

 仕方なく、ストーヴの前で一日を過ごす。お昼前に一度トイレに出て、夕方、唯一の楽しみであるサカナの時間を、飼い主に催促して、ニャオニャオ鳴き続けて、ようやく、コアジ一匹をもらう。
 それも最近は、ワタシも年をとり、前のように頭からガリガリと食べられないので、飼い主が、ちゃんと、料理ばさみで斜めに四等分して切ってくれたものを、食べている。顔が鬼瓦(おにがわら)の割には、よう気がつくやっちゃ、ほんま、このアザラシ男は。


 ともかくそうしてサカナを食べると、体に生気がみなぎってきて、じっとしてるわけにもいかず、ベランダに出て警戒の目を光らせ、物音がすると、雨の降っている庭に駆け下りたりもする。
 そうしてしばらく動き回り、寒くなってくると、家に戻りニャーと鳴いて飼い主に知らせて、濡れた体を拭いてもらう。そして、ストーヴの前で毛づくろいをする。
 9時過ぎになると、飼い主がストーヴを消して、自分の部屋に行ってしまう。ワタシは、コタツの中にもぐり込んで、寝るだけだ。夜中に何度か起きて、水を飲んだり、エサ(キャットフード)を食べたりする。そして飼い主が起きてくる、朝を待つのだ。

 こんな毎日で良いのか、ネコはもっとネコらしく、ネコとしての自分のことを考えるべきではないのか。しかし、もしワタシたちが本気なって、哲学的に物事を考えるようになれば、それはダーウィンの進化論にそっての話になるし、かといって、ファーブルが言うような、昆虫たちのすでに埋め込まれた本能だけだという主張も、ワタシたちネコはそれだけではないと言いたいし、難しいことになってしまう。
 だから、ここは、ただ暖かい春の日が来るのを、待つしかないのだ。果報は寝て待て、という人間たちの世界のことわざもある。じたばたしても、どうにもならぬ時もある、ということなのだ。


 「毎日毎日続く、この天気の悪さはどうだろう。青空はどこに行ったのだろうか。晴れている日の山々を、眺めていたい私には、辛い日々である。
 だけれども、こうして家にいるしかない私には、逆に天気が悪いことが、好都合だったのかもしれない。というのは、この一週間は腰を痛めてしまい、余り出歩かずに、家で横になっていることが多かったからだ、ミャオも隣で寝ていたし、大きなマグロと子マグロになって。

 ずいぶん昔の話になるが、今の北海道の家を、一人で建てた時に、重たい丸太を抱えての仕事で、ひどく腰を痛めてしまった。その時も、医者にも行かずに、一週間ほど寝ていてなおしたことがあったから、大した怪我だとは思っていなかった。しかし、その後も年に一回くらいは、その後遺症で、同じように痛める癖がついてしまっていた。それでも、一日二日寝ていればなおるくらいのものだったのだが、今回は、痛めてなおりかけの所で無理をして、長引かせてしまったのだ。
 腰痛にはいろいろな種類があるそうだが、大まかにいえば、老人性の骨粗鬆症(こつそしょうしょう)を別にすれば、椎間板(ついかんばん)ヘルニア(骨と骨の間のクッションが外に出て神経に触れる)と、脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう、神経を囲んでいる骨の管が狭まって神経に触る)の二つが、多いとのことだ。
 私の場合は、重たい荷物を持つことで起きた、いわゆるぎっくり腰系の原因によるものだから、前者であることに間違いはないのだろうが、北海道の友達の一人は、最近、その後者の原因による腰痛になったとか言っていた。しかし、いずれの場合でも、外科手術の後、一カ月で治るとのことだが・・・。

 まあ年をとればとるほど、長年使い続けている体に、不具合が起きるのも当然のことかもしれない。そして、じっと寝ているしかなかった私は、それはそれでまた、ツライことばかりでもなかった。つまり、じっくりと本を読むことができたし、録画していたオペラの幾つかも見ることができた。まあ、何事もすべてが悪いことばかりではないのだ。


 読み始めた本は、ダンテの『神曲』である。若い時に、なんとか抄訳(しょうやく)で読み終えたという記憶があるだけで、詳しい内容はおぼろげになっていた。さらに、最近、西洋の思想について、ギリシア・ローマの時代から調べなおしていたところ、中世からルネッサンスの辺りで、自分の知識が乏しいことに気づいた。そういうわけで、そのころの大きな、著作物の一つ、ダンテ(1265~1321)による詩編『神曲』を読みなおそうと思ったのである。
 それはまだ、ようやく『地獄篇』を読み終えたばかりで、全体的な感想を書くほどではないのだけれど、ある一つのことに思い当って、とりあえずここでふれておくことにした。

 それは、第十三歌の一場面である。ダンテはウェリギリウス(ローマ時代の詩人)の案内で、地獄の第七の谷へと降りていく。そこで、かつて放蕩(ほうとう)者であった男二人が、この地獄に送られ、裸のまま逃げてきて、その後を狂ったように追いかけてきた猟犬に食いちぎられる、という光景に出くわすことになる。
 そして、その『地獄篇』(河出文庫『神曲』 平川祐弘訳)を読み終えた末尾の解説には、”ボッカッチョ(1313~1375)は、『デカメロン(十日物語)』の第五日第八話に、それと同じ題材ながら別な話として書いている。それは、ある男につれなくして男を自殺に追いやった女が、その後、自分も死んで二人とも亡霊になった後、いつまでもその男に追われ、残酷な猟犬に食われることになったという話である”、との記述があった。

 この『デカメロン』も、同じように若いころに、抄訳として読んだのだが、この話のことは憶えていなかった。それより先に、私が思い出したのは、一枚のボッティチェルリ(1444~1510)の絵(写真)である。それは、確かあのスペインはマドリードの、プラド美術館で見た絵に違いなかった。
 フィレンツェのウフィツィ美術館にある有名な『春』や『ヴィーナスの誕生』以上に、その鮮やかな彩色と図形的人物群が、その時の印象として残っていたからである。それは、『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』(三枚組、1483年頃)と題された絵で、いわゆる教訓的な絵画として、個人の家の部屋の壁に書かれていたものだとされている。
 つまりこの絵の右側では、その亡霊の男と女の残酷な情景があり、左側では、だからこうならないように私の求愛を受け入れたほうがいいと、娘たちに話しかける男の姿が描かれている。
 
 そして、このつれない娘のために死んだ男の話として、私はまた、ある歌を思い出した。時代は大きく変わって今の時代になるが、あの”サイモンとガーファンクル”の一人、アート・ガーファンクルの、当時の初ソロ・アルバムであった、『天使の歌声/エンジェル・クレア』(CBS・SONY、1973年、2300円レコード)の中の一曲、『BARBARA ALLEN (バーバラ・アレン)』である。
 スコットランドの民謡が原曲だとされていて、多くの異版があるとのことだが、ここでは、巧みな編曲によるアート・ガーファンクルの歌声が素晴らしい。歌の意味は、恋をして死にかけた男の所へ呼ばれて行った彼女だが、しかし、つれないそぶりをして帰り、そのまま彼は死んでしまった。その後、余りに冷たい仕打ちだと、彼女はかげぐちを言われるようになり、耐えきれずに彼女もまた死んでしまう。そして、同じ村の墓地に埋葬され、その二人の墓石の傍から伸びてきたバラのつるが、やがて一緒に絡み合い二人は結ばれた、という泣ける話である。

 しかし、この歌が、その元をたどれば、あの『デカメロン』に、そして『神曲』にまでたどり着くのではないか、などと単純に考たわけではない。私はただ、この人の世は、いつも同じように繰り返すものだ、いつの世も変わらずに・・・ということを思っただけなのだ。

 さて最後に、ボッティチェルリは、さらに、この『デカメロン』だけではなく、先にあげた『神曲』の挿絵(さしえ)も描いているのだ。それらは、1480年から1503年ころに描かれた線描画と彩色画であり、未完成のまま残されているとのことであるが。ちなみに、今読んでいる河出文庫の『神曲』の挿絵は、1861~8年頃に描かれたギュスターヴ・ドレによる見事な石版画である。

 このダンテの『神曲』について、またボッティチェルリについても、他にいろいろと考えたこともあるのだが、また改めて別の機会に書いてみたい。それにしても、年をとるにつれて、物事がいろいろと、ほんの少しずつでも見えてくるのはありがたいことだ。私にとって、何の役にも立たず、まして他人にとってはただの無用の長物でしかないものでも。」


参考文献:『神曲 地獄篇』(ダンテ、平川祐弘訳、河出文庫)、『ダンテ』(寿岳文章訳、集英社 世界文学全集)、『デカメロン物語』(野上素一訳編、教養文庫)、『ボッティチェルリ』(世界の大画家、鈴木杜幾子解説、中央公論社)他


ワタシはネコである(138)

2010-03-03 19:31:43 | Weblog



3月3日

  三日前に、一日晴れただけで、後はずっとすっきりしない天気が続いている。気温もそれにつれて、少し下がってきた。
 それまでは、気温の高い日が続き、飼い主はストーヴを消したままだった。しかし、昨日から少し寒くなってきて、その消されたストーヴの前で、ワタシがじっと座っていると、飼い主が不憫(ふびん)に思ったのだろう、またストーヴをつけてくれた。それで、冬の間と同じように、今、ワタシはまたストーヴの前で寝ている。
 あれほど暖かい2月だったのに、3月に入って寒くなるなんて、「春は名のみの風の寒さや・・・」と、まさに『早春賦(そうしゅんふ)』の歌の通りだと思う。それは、昨日いつもの散歩している時に、飼い主が小声で口ずさんでいた歌だった。
 その時、ワタシは聞きなれない、まるで地獄の淵からから聞こえるタヌキの鳴き声のような、変な声がするので、思わず頭上を見上げたのだ。するとそこにワタシが見たのは、遠くの山に視線をやりながら、何かを小声でがなりたてている鬼瓦顔の飼い主の、真面目くさった顔だった。
 ワタシがニャーと鳴くと、飼い主は少し照れながら、歌の名前を教えてくれたのだ。

 まあ、ワタシたちネコも、サカリの時期には歌うけれども、人間の歌は、ワタシたちの歌ほどには強い意味はないのかもしれないが、まあこれは、サカリを過ぎたバカな飼い主の、哀れな歌なのだろう。
 ところで、あの有名な『江差追分』の、「カモ~メ~の~鳴く~ね~に~」と、歌のフシを長くのばして歌う歌い方は、一説によると、番屋暮らしのヤンシュウ(若い漁師)たちが、夜、サカリのネコたちの声に眠れずに、そこで、ネコの声に真似て作った歌だとか。
 そんなふうに、北海道のネコたちが言っていたと、飼い主がとぼけた顔をして話してくれたことがある。ほんまかいな。

 「朝は3度、曇り空のままで、日中でも6度までしか上がらない。このところ、めっきり春めいた陽気だっただけに、肌寒く感じるが、これでいつもの春の初めの気温なのだろう。

 いつもよりは早く、一週間前に咲き始めた家の梅の花が、この肌寒い空の下、それでもいっぱいの蕾(つぼみ)を付けている(写真)。梅の花は、桜の花のようにすぐに散らないで、ずいぶん長くもつから、これからが楽しみである。
 青空の下に咲く梅の花は、香りとともに匂いたつようで、いにしえの人が春の到来を喜び、この梅の花をたたえる歌を読んだ気持ちが良く分かる。奈良時代以前は、やはり春の花といえば、この梅の花だったのだ。

 『人はいさ 心も知らず 故里(ふるさと)は 花ぞ昔の 香に匂いける』(『古今集』 紀貫之)

 香りとともにある梅の花と、あでやかに満面に咲き誇る桜の花。昔と今と。

 さて、思えば、2月18日の項で、ロッシーニのオペラ『ランスへの旅』のミラノ・スカラ座公演の写真を載せて、そのことについて書くつもりだったのだが、その時は、映画『オリエント急行殺人事件』の話になってしまい、その次は山の話、そして2月24日の項で、やっとこのオペラについて幾らか書くことができたが、前回は、話がそれてヘンデルのオペラ・アリアの方に行ってしまい、最初に私が意図していた所からは、すっかり離れてしまった。

 結論から先に言えば、実はこのオペラ『ランスへの旅』を見て、すぐに思ったのは、ロッシーニの母国のイタリア・オペラについてではなく、その後、彼が住むことにもなった、このオペラの舞台フランスについてでもなく、もっと広く、根柢の所で同じ文化意識を持つ、ヨーロッパという地域全体のことについてである。
 つまり、このオペラに出てくる人々、この宿”金の百合(ゆり)亭”に集まった人々は、実は、ヨーロッパ各地から集まってきた人々でもあったのだ。

 この”金の百合亭”のマダムからして、チロル出身のオーストリア人であり、以下の貴族や成金者たちは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシア、ポーランドから来ていて、さらにコリンナ(イタリアの桂冠詩人)とともに来たギリシアの娘もいるという具合だから、誰が見ても、ヨーロッパを意識しての配役であることが分かる。(そしてそれはあの『オリエント急行殺人事件』の配役についても同じことが言えるのだ。)

 ロッシーニは、ルイジ・パロッキの台本に合わせて、フランスのシャルル10世の戴冠(たいかん)式のために、祝賀カンタータ・オペラとして作曲したのであるが、そこには、単なるフランス一国のお祝いとしてではなく、ヨーロッパ全体の平和を願う気持ちも込められていたのだ。

 このシャルル10世が即位したのは1824年(~1830年まで在位)であるが、当時フランスは大変革の時代にあった。つまり、35年前の1789年にフランス大革命がおこり、ルイ16世とマリー・アントワネットは断頭台の露と消え、第一共和政の後、クーデターでナポレオンが現れて皇帝の地位につき、やがてヨーロッパじゅうを席巻(せっけん)し、占領していくことになる。
 しかし、ナポレオンはロシア遠征に失敗し、戦いに敗れて退位し、そこで王政復古になり、ルイ18世が国王になる(1814年)。そして、ナポレオン占領の混乱の後の、ヨーロッパに関しての全体会議がウィーンで開かれる。その模様は、あの有名な映画『会議は踊る』(1934年)の中に、皮肉をこめて描かれている。
 そして、その束の間の平穏の中、ルイ18世(在位1814年~1824年)から王位を受け継いだのが、ここでその戴冠式が話題になっているシャルル10世なのである。しかし、1830年には、あの7月革命が起きて、シャルル10世は退位して、ルイ・フィリップが国王になるが、1848年には早くも2月革命が起きて、第二共和制となり、やがてナポレオン3世の時代になっていくのだ。

 そんな、時代の荒波が押し寄せる中で、彼らは、再び訪れた平和を楽しむべく、祝賀パーティーを開くのだ。それは、この平穏な時代が長くは続かないことを、彼らが知っていたからなのか。
 ヨーロッパは、その後様々の危険な要素をはらみながら、ついに1914年に第一次世界大戦に、そして1939年には、第二次世界大戦へと突入していくのだ。

 そういった悲惨な戦争の合間のことであり、彼らの平和こそが大切なのだという思いは、この楽天的に思えるオペラの中に、そこここに見え隠れしている。それぞれ、自国の国歌を歌いながらも、皆が一緒に合唱する。民族は違えど、ヨーロッパは一つだという思いがあるからだ。(フランス国歌として有名なあの『ラ・マルセイェーズ』は、共和制の国歌であり、王政復古で廃止されていて、ここでは歌われずに別な歌になっている。)

 そんな彼らの思いは、ヨーロッパの人々に共通して、その根底にあるものなのに違いない。ギリシア・ローマを父として、キリスト教を母として、互いに栄えてきた、一つの共同文化圏なのだから。(もちろん、その繁栄は、アジア・アフリカ・アメリカ大陸などへの侵略、帝国主義的植民地政策の上に成り立っていたのだが。)
 そして、帝国主義の終焉(しゅうえん)後も、その利益と文化を守るための、共同地域としての思いは、第二次大戦後には加速されて、1950年には、欧州石炭鉄鋼共同体に、そして1957年には欧州経済共同体に発展し、1993年からはEU(欧州連合)として発足し、現在は単一通貨のユーロを発行して、加盟国を増やし続けているのは、承知の通りである。

 私がヨーロッパを旅行したのは、まだ共産圏諸国があったころだから、ずいぶん昔のことになる。当時、その共産国を含むヨーロッパを旅して回って、私が感じたのは、確かに、アジア・アフリカ・南北アメリカなどとは違う、何か大元の所でつながっているヨーロッパの姿であった。
 国境があり、民族が違い、話す言葉が違っていても、そこは地続きの大陸であり、全く異なった国だという思いを強く感じることはなかった。(むしろ、当時の共産圏と西側の国々との差、その断絶の方が大きかった。)
 日本人は、自国が海によって明確に区切られているから、自国と外国の差がはっきりとわかるけれども、ヨーロッパの基本は、貴族領主たちの領地の境界であり、そのモザイク模様の連合が国家を形成しているのである。
 幾多の革命によって、ヨーロッパの貴族階級は消滅したかに見えるが、いまだに、その存在感と伝統は厳然としてあるし、決してなくなることはないだろう。そこのことが、ヨーロッパをヨーロッパたらしめている要因の一つでもあるのだが。

 こうして、ヨーロッパのことについて書きはじめるときりがないし、例えば、当時のヨーロッパの中心であったパリについて、そのことを実感してみたいと思ったのが、その時の私の旅の目的でもあったから、他のヨーロッパの都市との比較をまじえて、ここでももう一度考えてみたかった。
 さらに当初は、現代のヨーロッパに至る道のりを、あのアンドレ・マルロー(1901~1976)や、レヴィ=ストロース(1908~2009)たちの行動とともに、考えてみたい気もしたが、やはりど素人(しろうと)の私ごときには、荷が重すぎるし、かといっていい加減なことを書くわけにもいかない。
 『ぐうたらに生きて、だらしなく横になって、尻でもかきながらテレビを見ている、バカおやじのすることではない、そんなことは、えらい先生方にまかせて置けばよい』という、ミャオの声。

 その通りなのだ。ここで私ははっと目が覚める。ともかくは、オペラ『ランスへの旅』(1825年)からの話に戻ろう。
 このオペラを見て、その時私が思ったのは、あのロッシーニ(1792~1868)の生きた時代には(おそらくはもっと前の時代から)、当時の、争いに終始していた時代背景を考え併せてみても、人々の心には、ヨーロッパを平和に、そして一つにという思いがあったに違いないということだ。そのことは、たまたま、それと相前後して見た、アガサ・クリスティー原作(1934年)の映画『オリエント急行殺人事件』への感想が重なってのものだったが。
 ともかくそれらのことは、私のヨーロッパに対する思いから来たものに違いなかった。

 日本という国そのものが、独自の優れた文化を有しながら、一方では、近世以降、ヨーロッパ文化の影響をも強く受けてきた。(今の日本では、目に余りあるほどのアメリカ文化の氾濫だが)。今の私とて同じことで、好みの音楽、映画、文学、絵画など、その多くがヨーロッパ由来のものなのだ。
 今でも、日々、日本の伝統文化(伝統芸能、古典文学、日本絵画、寺社仏閣など)の系譜をたどり学びながらも、ヨーロッパ文化にもひかれるのだ。それは、私が好きな日本の山々に登りながらも、今一度、ヨーロッパ・アルプスにも登りたいという気持ちに似ている。
 初恋の同級生の娘への3年間の思い、そしてノルウェーで三日間一緒だったあのアイルランド娘。すべては、若い時のままに過ぎ去り、年をとってゆく私だけが残る・・・。」

 『 流れる水のように恋もまた死んでゆく 命ばかりが長く 希望ばかりが大きい 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る 』 

 (『アポリネール詩集 堀口大学訳 新潮文庫)

 (参考文献) 『古典名歌集』(古今集、河出書房新社)、『ランスへの旅』(解説本 石井宏他 ポリドール社)、『私のヨーロッパ』(犬養道子 新潮選書) 『パリ物語』(宝木範義 新潮選書)他。