7月31日
私はまだ、夢見心地の中にいる。いい山旅だった。天気は良く、山も良く、そして無事に戻って来てこれも良かったのだ。
今はただ、厳しくも楽しかった山歩きの日々を終えて、その山々の思い出の所々をしゃぶりながら、ぐうたらに過ごしている。私のお楽しみはまだ続いているのだ。
先週、南アルプス北部の山々を縦走してきた。目的は、塩見岳(3052m)にあり、その姿を間近に仰ぎ見て登り、頂上から周りの山々を眺めたかったのだ。
私の登山記録の中では、南アルプスの山々に登ったのは、北アルプスに比べればずっと少なくて、それは数日以上の縦走ばかりとはいえ、ほんの数回だけしかない。そのことがいつも気にはなってはいたのだが、ついつい華やかな峰々が立ち並ぶ北アルプスのほうへと足が向いてしまっていたのだ。
南アルプスの山々は北アルプスと比べれば、一つ一つの山が大きく独立峰の趣(おもむき)があり、時間もかかり、山小屋も多くはない。
そのこともあってか、北部山域の甲斐駒(かいこま)、仙丈(せんじょう)、北岳(きただけ)などを除けば、その他の山域の登山者は多くはなく、つまり北海道の静寂の山なみ、日高山脈が好きな私には、本当は一番ふさわしい山々なのかもしれないのだ。
その南アルプスの、北端の甲斐駒ケ岳から南の聖岳(ひじりだけ)までの主要な山々の頂にはすでに登っているのだが、繰り返して言うが私は”百名山”踏破などには全く興味がなく、それゆえにあの”百名山”の一つに選ばれている南部の光岳(てかりだけ、2591m))にはあまり登りたいとも思わない。
つまりあの山は、遠くから見ても、写真等で見ても、姿かたちがそれほど魅力的な山だとは思えないからだ。さらに、その山名の可愛さや、最南端のハイマツがある山などということを考慮に入れても、私の食指は動かないのだ。
むしろ笊ヶ岳(ざるがたけ、2629m)や蝙蝠岳(こうもりだけ、2865m)、それに上河内岳(2803m)などのほうにひかれるくらいである。
それとは別に、今まですでに登ったことのある南アルプス主稜線の山々の中で、私の心の中ではまだ登ったとはみなしていない山が二つある。それは、農鳥岳(3026m)と塩見岳である。
理由は簡単だ。天気が良くなくてガス(霧)がかかっていて、この二つの山の頂上からの景色が見えなかったからだ。
天気の良い日にその山に登って、近づく山頂部の姿を眺めまた頂上からの展望を楽しんでこそ、初めてその山の評価ができるというものだ。それでさえ、私たちが知ることができるのは、その山のほんのわずかな側面でしかないのだが、ともかくただ頂上の三角点に触れただけで景色がまるで見えなかった山は、まだ知らない山と変わりはないのだ。
私は、その山に対してみんなの評判や写真評価だけではなく、実際に晴れた日に登って、途中の景観や頂上からの景色を見て初めて自分なりに公平な評価ができると思っている。
天気の悪い日にただ登っただけでは、それぞれの人格ならぬ山格を持った山に対して、失礼だとさえ思うのだ。
そして、私は計画を立てた。久しぶりの南アルプスだからと欲張って、甲斐駒や仙丈から人の少ない大好きなバカ尾根(仙塩尾根)経由で、そしてあのネコかあさんがいる両俣小屋に泊まってと考えたが、夏休みに入った学校登山による混雑が気になり、それでは北岳からということにして、二本あるメイン・ルートのなるべく人の少ないルートを選んで入ることにした。
それは自分の体力も考えて、小屋泊まりの3泊の縦走コースだった。
しかし、いざ出発してからすぐにもう手違いがあった。
前回書いたように、この夏の天気が安定するのを待ってから、私は朝早く九州の家を立ち、飛行機と電車を乗り継いで甲府に着いたのだが、ネットで調べたバス時刻表には、甲府発広河原行の最終バスは午後2時になっていたのに、今年から最終の1時になったバスはすでに出た後だった。
その日のうちに広河原の小屋に泊まれば、次の日は夜明け前から登り始めることができると思っていたのに。
それは、いくら朝のうち晴れていても、夏山では、9時や10時くらいから稜線に雲がかかり始めるから、少なくとも午前中までには目的の山には登っていたいからなのだ。
それはすっきりとした朝の景色を見るためにも、 午後から多くなる雷雨を避けるためにも、さらに雪渓の上り下りでは落石の危険を避けるためにも、なるべく朝早い時間に通過することが望ましいことだし、このことは夏山に限らず、冬山などで雪崩(なだれ)にあわないためにも言えることなのだ。
出だしから予定が狂っていささか気落ちしたが、とはいっても、このバスに乗り遅れたことは悪いことばかりでもなかった。
後で知ったのだが、当日の広河原の小屋は女子中学生団体の宿泊で大混雑だったとかで、そう話してくれた人に、AKB48ならぬHRG48の若い娘たちに囲まれて良かったじゃないですかと言ったところ、即座に若すぎると返された。
さらに、甲府で一泊することになったおかげで、夕食にヒレカツ定食(1280円)をおいしくいただくことができたのだ。日ごろからほとんど外食をしない私には、何という高級な食事の味だったことだろう。私は幸せな気持ちで眠りについた。
翌朝、広河原行の4時のバスに乗った。登山者は、思ったほど多くはなく20人余り。途中から夜が明けてきて、マイカー規制のゲートがある夜叉神峠(やしゃじんとうげ)でさらに数人を乗せて野呂川の谷へと下りて行くときには、待望の山々の姿が見えていた。天気は上々だった。
バスが広河原に着いてから歩き出すと、すぐに対岸へと渡る長い吊り橋への分岐にさしかかる。そこから北岳(3192m)の姿と八本歯のコルへと突き上げる、大樺沢(おおかんばさわ)の雪渓が見えている(写真上)。いつも胸高鳴る瞬間だ。
広河原の標高が1520mだから、頂上までは1670m余りの標高差があり、6時間ほどの行程である。
それは、あの上高地(1505m)から、岳沢経由で奥穂高岳(3190m)に登るのとよく似ている。もちろん、南と北の山の差が明確にあって、よりアルペン的なのは、上高地からのほうであることは言うまでもないが、ちなみに北岳は富士山に次ぐ日本第2位の高さの山であり、奥穂高岳はその北岳にわずか2m低いだけの第3位の山であり、奥穂の山頂には2m余りのケルンが積まれている。
吊り橋を渡り、例の広河原の小屋のそばからいよいよ登山道が始まる。大樺沢沿いの道をあえぎながら登って行く。同じバスで来た人や小屋泊まりの人たちと、抜きつ抜かれつを繰り返して、沢音が聞こえなくなってくる頃、いよいよ雪渓が出てくる。何といっても、雪の上は涼しいし、スプーンカット状の残雪面は歩きやすくさえある。
すぐに二俣に着き、多くの人は右側のお花畑がある草すべりのコースへと向かって行ったが、私はそのまま大樺沢の雪渓を上がって行く。この八本歯コースにも、前後に数人の人影が見えている。
雪渓上には踏み跡がしっかりとついていて、傾斜はそれほど急ではないし、アイゼンが必要というほどでもなかったが、私は念のため持ってきていた6本爪のアイゼンをつけた。
下りてくる人の中には、アイゼンもストックもなしでゆっくり一歩ずつ下りている人もいたくらいだから、早朝時でも凍ってさえいなければ、そう心配することもないだろう。
ただし、たびたび死者を出すほどの落石事故が起きているから、いつでもよけられるように右手の左岸側を歩くべきなのだが、踏み跡は雪渓の中央部についていて、私は気にしつつも、皆の登る跡をたどって行った。
雪渓が終わり、あとは八本歯のコル(鞍部)に向かってのジグザグの登りが続き、その所々から、北岳東面の豪快なバットレッス(頂上を支える胸壁)が見える(写真)。
この八本歯コースの楽しみは、雪渓の涼しさとバットレスの眺めにあるといえる。もっとも、より全体的にバランスのとれた北岳とバットレスの姿を眺めるためには、コルから池山吊り尾根を戻りボーコン沢の頭くらいまで行くと素晴らしいのだが、もちろん今の私にはその元気さはない。
上部には急な梯子(はしご)場が連続して出てきて(昔はあんなに梯子はなかったはずだ)体力を消耗(しょうもう)させるし、途中で休んでいる人も多かったが、私は疲れた脚を引きずりながらコルまで一気に上がった。
するとそこに待望の景色が広がっていた。野呂川支流荒川北沢の深い谷越しに、せり上がる間ノ岳の姿である。南部の千枚岳付近から見た赤石岳の姿にも似て、何度見ても素晴らしい。(写真は次回に。)
しかし、一休みして立ち上がった私の脚に突然激痛が走った。またしても、脚がつってしまったのだ。前回の登山でもそうだったように、最近は年のせいか繰り返し起きるようになっていた。
前後にあまり人がいなかったからいいものの、私は小さく声をあげながら、それでも少しずつ歩き続けた。立ち止まってはいられないのだ、前に進まなければ。頭の中に、様々な思いが駆け巡った。
頂上部にガスがかかり始めた北岳には登らないにしても、まだはるか先にある塩見岳まではとても行くことができずに、明日は即下山ということになるかもしれない、ああ私の高い山々への挑戦は、これで終わってしまうのかなどと悲観的に考えてしまうほどだった。
私は痛む足を引きずりながら、その上に疲れも重なって、やっとの思いで山頂とトラバース・コースへの分岐点に着いた。そこには、山頂へと空身(からみ)で往復する人たちのザックが幾つか置いてあった。
私もそうするつもりだったのに、時折辺りがガスに包まれるほどの状態では、脚の状態に関係なくても行く気にはならなかった。
かなり長い間そこに休んでいて、私が抜いてきた人たちも先に行ってしまった。私はその間、何度も脚の曲げ伸ばしやマッサージなどをして、再び歩き始めた。
今まで何度も登ったことのある頂上へ行かなくても、もともとこのトラバース道に咲く花々を見ることを楽しみにしていたのだから、それ程に落ち込んでいるわけでもなかった。さらにありがたいことに、脚がつる痛みが治まってきていたのだ。
斜面のお花畑には、時折ガスが吹きつけていた。今まで三度ほどこのコースをたどったことがあるのだが、いつもガスの中だった。しかし花々はしっかりと咲いていた。
頂上まで行かなかったから、時間は十分にある。私は花々との出会いに嬉しくなって、脚の痛みも忘れて写真を撮り続けた。
黄色い花は、群落を作るシナノキンバイが多い、他にもミヤマ(キタダケ)キンポウゲ、キタダケ(ヤツガタケ)タンポポ、ミヤマキンバイ、イワベンケイ、タカネスミレ、イワオトギリ、イワオウギなど。
赤い色の花は、ミヤマシオガマ、タカネシオガマ、タカネナデシコ、イブキジャコウソウ、コイワカガミ、などであり、紫色の花では、うすい色合いのミヤマムラサキに、もう終わりの花が少しだけのオヤマノエンドウやタカネグンナイフウロもあり、そしてあの大きな花が目立つミヤマオダマキはあちこちに咲いていた。
白い花は、ハクサンイチゲ、チョウノスケソウ、チングルマ、タカネツメクサ、ウスユキソウ、イワウメ、シコタンソウ、キタダケナズナなどであるが、もちろんここで最も有名なのは、あのキタダケソウである。
しかしこの花の盛りは、6月下旬から7月上旬にかけてなのだ。私はかつて7月中旬に行ったことがあり、その時にまだ残っていたかなりの数の花を見つけては、興奮したものだった。
というのも、このキタダケソウは固有種であって、この北岳の斜面の群落だけが唯一の植生地なのである。他に類似種としては、わずかに一つ、あのわが北海道は日高山脈の、アポイ岳(811m)のヒダカソウがあるだけだ。
そのアポイ岳には二度行って、何とかヒダカソウを見つけることができたのだが、情けないことにというより怒りに近い思いなのだが、盗掘がひどく今は気息延々(きそくえんえん)の状態なのだ。
だからこそ、このキタダケソウの群落を見た時の喜びは大きかったのだ。
しかし今回は時期的に遅すぎる。果たして残っているだろうか。先ほど出会った人は、あの八本歯のコルにも咲いていたといっていたが、それは同じキンポウゲ科のハクサンイチゲとの見間違いだろうし、立ち入り禁止のロープの先に入った踏み跡の周りに咲いていたのも、矮小化(わいしょうか)したハクサンイチゲだった。
あの独特の葉は見かけるのにもう花は終わってしまったのだと、あきらめかけていた時に、誰もが見落としそうな花もまばらな目の前の草の斜面に、目だたない小さな白い花が一輪、少し厚く盛り上がった黄色い花房部分に、周りにはあの細やかな葉も見えている(写真下)。小さいけれど、間違いなくあのキタダケソウだ。
わずか一輪だけみんなに遅れて咲いた花。私の胸は熱くなっていた。前に早すぎたエゾハルゼミのことを書いたことがある(’09.5.24,6.3の項参照)。
そしてそのセミとは違って、こうして遅すぎる場合もある。しかし、他の殆んどの仲間たちと一緒でなくとも、彼らは自分の生の呼び声のままに従い、精いっぱい生きているということなのだ。
あのセミも、この一輪のキタダケソウも、少なくともこの私だけでもしっかりと見届けたのだし、そして同じように、遅れて生きている私にもいつか・・・。
その昔に読んだことがあるのだが、大江健三郎の『遅れてきた青年』という小説があった。国民が一丸となって挑んだ戦争の時代には遅れて生まれてきた青年が、喪失感を味わいながらも、その代わりにぎらついた上昇思考を抱くという話だったと記憶している。今の大江の作風から考えると隔世の感がある話だが、時代は変わり人も変わっていくものなのだ。
ただ果たして私は、遅れてきた青年なのか、それとも遅れてきた老人になろうとしているのか・・・。
ガスの吹きつけるこのトラバース道には、人影はまれだった。
私は、さらにあちこちで立ち止まりながら、倍の時間をかけてそのトラバース道をたどって行った。そして、ようやく先の間ノ岳との間に位置する北岳山荘に着いた。午後遅くなったが、小屋はそれほど混んでいなかった。一枚の布団に一人ずつ、楽に寝ることができた。
小屋の前には医大の夏季診療所が開設されていて、そこで脚が気になっていた私は、その無料検診を受けてみた。若い担当学生による問診他による結果は、やはり水分、塩分、アミノ酸等の不足、さらに雪渓などで体を冷やしたことによる筋肉痙攣(けいれん)症ということだった。
しかし、そのことは事前に分かっていたから、それらの飲料等も持ってきていたのに、十分に摂取せずにガマンして歩き続けた私が悪いのだ。
ともかく診察を受ける前にも、すでに小屋で一本400円のスポーツドリンクを一本半も飲み、入念に足のマッサージを繰り返し、水とタオルで足を冷やしてはいたのだが。
思うのは、せっかくの良い天気の中、もう二度と来られないかもしれない南アルプス主稜線の縦走路をたどり、なんとしてもあの塩見岳の姿を見たいということばかり。
後はただ、朝になって脚が治っていることを祈るばかりだった。
「ジョー、立つんだジョー。」 果たして、私の明日はどっちだ・・・。
( 私がこの北海道に戻ってきてから数日たつけれども、連日30度前後の暑い日が続いている。今日、内地では35度を超える猛暑日の観測点が170か所もあり、この夏最多になったとのことだ。
しかし、林の中のわが家は、今日の最高気温31度でも、窓を閉め切っておけば丸太の断熱効果で、室温23度くらい、つまり冷房が効きすぎた温度くらいなのだ。
暑さに弱い私には、何ともありがたいことであり、これこそが私を北海道に移住させた大きな理由の一つなのだ。
ましてこのたびの山旅から下界に下りてきた私は、あのむっとする暑さにはむしろ恐怖さえ覚えたほどであり、今さらながらに内地の人はエライと思うばかりだった。あの暑さの中で毎日学校に通い、また仕事をしているのだから。
学生時代、団扇(うちわ)しかない都会の三畳の部屋で、パンツ一枚になってすごしていた日々。それは今や、私のもう遠い昔の思い出になってしまった・・・。)