ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

キタダケソウと大樺沢雪渓

2012-07-31 18:32:48 | Weblog
 

 7月31日

 私はまだ、夢見心地の中にいる。いい山旅だった。天気は良く、山も良く、そして無事に戻って来てこれも良かったのだ。
 今はただ、厳しくも楽しかった山歩きの日々を終えて、その山々の思い出の所々をしゃぶりながら、ぐうたらに過ごしている。私のお楽しみはまだ続いているのだ。

 先週、南アルプス北部の山々を縦走してきた。目的は、塩見岳(3052m)にあり、その姿を間近に仰ぎ見て登り、頂上から周りの山々を眺めたかったのだ。
 私の登山記録の中では、南アルプスの山々に登ったのは、北アルプスに比べればずっと少なくて、それは数日以上の縦走ばかりとはいえ、ほんの数回だけしかない。そのことがいつも気にはなってはいたのだが、ついつい華やかな峰々が立ち並ぶ北アルプスのほうへと足が向いてしまっていたのだ。
 南アルプスの山々は北アルプスと比べれば、一つ一つの山が大きく独立峰の趣(おもむき)があり、時間もかかり、山小屋も多くはない。
 そのこともあってか、北部山域の甲斐駒(かいこま)、仙丈(せんじょう)、北岳(きただけ)などを除けば、その他の山域の登山者は多くはなく、つまり北海道の静寂の山なみ、日高山脈が好きな私には、本当は一番ふさわしい山々なのかもしれないのだ。

 その南アルプスの、北端の甲斐駒ケ岳から南の聖岳(ひじりだけ)までの主要な山々の頂にはすでに登っているのだが、繰り返して言うが私は”百名山”踏破などには全く興味がなく、それゆえにあの”百名山”の一つに選ばれている南部の光岳(てかりだけ、2591m))にはあまり登りたいとも思わない。
 つまりあの山は、遠くから見ても、写真等で見ても、姿かたちがそれほど魅力的な山だとは思えないからだ。さらに、その山名の可愛さや、最南端のハイマツがある山などということを考慮に入れても、私の食指は動かないのだ。
 むしろ笊ヶ岳(ざるがたけ、2629m)や蝙蝠岳(こうもりだけ、2865m)、それに上河内岳(2803m)などのほうにひかれるくらいである。
 それとは別に、今まですでに登ったことのある南アルプス主稜線の山々の中で、私の心の中ではまだ登ったとはみなしていない山が二つある。それは、農鳥岳(3026m)と塩見岳である。
 理由は簡単だ。天気が良くなくてガス(霧)がかかっていて、この二つの山の頂上からの景色が見えなかったからだ。

 天気の良い日にその山に登って、近づく山頂部の姿を眺めまた頂上からの展望を楽しんでこそ、初めてその山の評価ができるというものだ。それでさえ、私たちが知ることができるのは、その山のほんのわずかな側面でしかないのだが、ともかくただ頂上の三角点に触れただけで景色がまるで見えなかった山は、まだ知らない山と変わりはないのだ。
 私は、その山に対してみんなの評判や写真評価だけではなく、実際に晴れた日に登って、途中の景観や頂上からの景色を見て初めて自分なりに公平な評価ができると思っている。
 天気の悪い日にただ登っただけでは、それぞれの人格ならぬ山格を持った山に対して、失礼だとさえ思うのだ。

 そして、私は計画を立てた。久しぶりの南アルプスだからと欲張って、甲斐駒や仙丈から人の少ない大好きなバカ尾根(仙塩尾根)経由で、そしてあのネコかあさんがいる両俣小屋に泊まってと考えたが、夏休みに入った学校登山による混雑が気になり、それでは北岳からということにして、二本あるメイン・ルートのなるべく人の少ないルートを選んで入ることにした。
 それは自分の体力も考えて、小屋泊まりの3泊の縦走コースだった。

 しかし、いざ出発してからすぐにもう手違いがあった。
 前回書いたように、この夏の天気が安定するのを待ってから、私は朝早く九州の家を立ち、飛行機と電車を乗り継いで甲府に着いたのだが、ネットで調べたバス時刻表には、甲府発広河原行の最終バスは午後2時になっていたのに、今年から最終の1時になったバスはすでに出た後だった。
 その日のうちに広河原の小屋に泊まれば、次の日は夜明け前から登り始めることができると思っていたのに。
 それは、いくら朝のうち晴れていても、夏山では、9時や10時くらいから稜線に雲がかかり始めるから、少なくとも午前中までには目的の山には登っていたいからなのだ。
 それはすっきりとした朝の景色を見るためにも、 午後から多くなる雷雨を避けるためにも、さらに雪渓の上り下りでは落石の危険を避けるためにも、なるべく朝早い時間に通過することが望ましいことだし、このことは夏山に限らず、冬山などで雪崩(なだれ)にあわないためにも言えることなのだ。

 出だしから予定が狂っていささか気落ちしたが、とはいっても、このバスに乗り遅れたことは悪いことばかりでもなかった。
 後で知ったのだが、当日の広河原の小屋は女子中学生団体の宿泊で大混雑だったとかで、そう話してくれた人に、AKB48ならぬHRG48の若い娘たちに囲まれて良かったじゃないですかと言ったところ、即座に若すぎると返された。
 さらに、甲府で一泊することになったおかげで、夕食にヒレカツ定食(1280円)をおいしくいただくことができたのだ。日ごろからほとんど外食をしない私には、何という高級な食事の味だったことだろう。私は幸せな気持ちで眠りについた。

 翌朝、広河原行の4時のバスに乗った。登山者は、思ったほど多くはなく20人余り。途中から夜が明けてきて、マイカー規制のゲートがある夜叉神峠(やしゃじんとうげ)でさらに数人を乗せて野呂川の谷へと下りて行くときには、待望の山々の姿が見えていた。天気は上々だった。
 バスが広河原に着いてから歩き出すと、すぐに対岸へと渡る長い吊り橋への分岐にさしかかる。そこから北岳(3192m)の姿と八本歯のコルへと突き上げる、大樺沢(おおかんばさわ)の雪渓が見えている(写真上)。いつも胸高鳴る瞬間だ。
 広河原の標高が1520mだから、頂上までは1670m余りの標高差があり、6時間ほどの行程である。
 それは、あの上高地(1505m)から、岳沢経由で奥穂高岳(3190m)に登るのとよく似ている。もちろん、南と北の山の差が明確にあって、よりアルペン的なのは、上高地からのほうであることは言うまでもないが、ちなみに北岳は富士山に次ぐ日本第2位の高さの山であり、奥穂高岳はその北岳にわずか2m低いだけの第3位の山であり、奥穂の山頂には2m余りのケルンが積まれている。

 吊り橋を渡り、例の広河原の小屋のそばからいよいよ登山道が始まる。大樺沢沿いの道をあえぎながら登って行く。同じバスで来た人や小屋泊まりの人たちと、抜きつ抜かれつを繰り返して、沢音が聞こえなくなってくる頃、いよいよ雪渓が出てくる。何といっても、雪の上は涼しいし、スプーンカット状の残雪面は歩きやすくさえある。
 すぐに二俣に着き、多くの人は右側のお花畑がある草すべりのコースへと向かって行ったが、私はそのまま大樺沢の雪渓を上がって行く。この八本歯コースにも、前後に数人の人影が見えている。
 雪渓上には踏み跡がしっかりとついていて、傾斜はそれほど急ではないし、アイゼンが必要というほどでもなかったが、私は念のため持ってきていた6本爪のアイゼンをつけた。
 下りてくる人の中には、アイゼンもストックもなしでゆっくり一歩ずつ下りている人もいたくらいだから、早朝時でも凍ってさえいなければ、そう心配することもないだろう。
 ただし、たびたび死者を出すほどの落石事故が起きているから、いつでもよけられるように右手の左岸側を歩くべきなのだが、踏み跡は雪渓の中央部についていて、私は気にしつつも、皆の登る跡をたどって行った。

 雪渓が終わり、あとは八本歯のコル(鞍部)に向かってのジグザグの登りが続き、その所々から、北岳東面の豪快なバットレッス(頂上を支える胸壁)が見える(写真)。



 この八本歯コースの楽しみは、雪渓の涼しさとバットレスの眺めにあるといえる。もっとも、より全体的にバランスのとれた北岳とバットレスの姿を眺めるためには、コルから池山吊り尾根を戻りボーコン沢の頭くらいまで行くと素晴らしいのだが、もちろん今の私にはその元気さはない。
 上部には急な梯子(はしご)場が連続して出てきて(昔はあんなに梯子はなかったはずだ)体力を消耗(しょうもう)させるし、途中で休んでいる人も多かったが、私は疲れた脚を引きずりながらコルまで一気に上がった。
 するとそこに待望の景色が広がっていた。野呂川支流荒川北沢の深い谷越しに、せり上がる間ノ岳の姿である。南部の千枚岳付近から見た赤石岳の姿にも似て、何度見ても素晴らしい。(写真は次回に。) 

 しかし、一休みして立ち上がった私の脚に突然激痛が走った。またしても、脚がつってしまったのだ。前回の登山でもそうだったように、最近は年のせいか繰り返し起きるようになっていた。
 前後にあまり人がいなかったからいいものの、私は小さく声をあげながら、それでも少しずつ歩き続けた。立ち止まってはいられないのだ、前に進まなければ。頭の中に、様々な思いが駆け巡った。
 頂上部にガスがかかり始めた北岳には登らないにしても、まだはるか先にある塩見岳まではとても行くことができずに、明日は即下山ということになるかもしれない、ああ私の高い山々への挑戦は、これで終わってしまうのかなどと悲観的に考えてしまうほどだった。

 私は痛む足を引きずりながら、その上に疲れも重なって、やっとの思いで山頂とトラバース・コースへの分岐点に着いた。そこには、山頂へと空身(からみ)で往復する人たちのザックが幾つか置いてあった。
 私もそうするつもりだったのに、時折辺りがガスに包まれるほどの状態では、脚の状態に関係なくても行く気にはならなかった。
 かなり長い間そこに休んでいて、私が抜いてきた人たちも先に行ってしまった。私はその間、何度も脚の曲げ伸ばしやマッサージなどをして、再び歩き始めた。
 今まで何度も登ったことのある頂上へ行かなくても、もともとこのトラバース道に咲く花々を見ることを楽しみにしていたのだから、それ程に落ち込んでいるわけでもなかった。さらにありがたいことに、脚がつる痛みが治まってきていたのだ。

 斜面のお花畑には、時折ガスが吹きつけていた。今まで三度ほどこのコースをたどったことがあるのだが、いつもガスの中だった。しかし花々はしっかりと咲いていた。 
 頂上まで行かなかったから、時間は十分にある。私は花々との出会いに嬉しくなって、脚の痛みも忘れて写真を撮り続けた。

 黄色い花は、群落を作るシナノキンバイが多い、他にもミヤマ(キタダケ)キンポウゲ、キタダケ(ヤツガタケ)タンポポ、ミヤマキンバイ、イワベンケイ、タカネスミレ、イワオトギリ、イワオウギなど。
 赤い色の花は、ミヤマシオガマ、タカネシオガマ、タカネナデシコ、イブキジャコウソウ、コイワカガミ、などであり、紫色の花では、うすい色合いのミヤマムラサキに、もう終わりの花が少しだけのオヤマノエンドウやタカネグンナイフウロもあり、そしてあの大きな花が目立つミヤマオダマキはあちこちに咲いていた。
 白い花は、ハクサンイチゲ、チョウノスケソウ、チングルマ、タカネツメクサ、ウスユキソウ、イワウメ、シコタンソウ、キタダケナズナなどであるが、もちろんここで最も有名なのは、あのキタダケソウである。

 しかしこの花の盛りは、6月下旬から7月上旬にかけてなのだ。私はかつて7月中旬に行ったことがあり、その時にまだ残っていたかなりの数の花を見つけては、興奮したものだった。
 というのも、このキタダケソウは固有種であって、この北岳の斜面の群落だけが唯一の植生地なのである。他に類似種としては、わずかに一つ、あのわが北海道は日高山脈の、アポイ岳(811m)のヒダカソウがあるだけだ。
 そのアポイ岳には二度行って、何とかヒダカソウを見つけることができたのだが、情けないことにというより怒りに近い思いなのだが、盗掘がひどく今は気息延々(きそくえんえん)の状態なのだ。
 だからこそ、このキタダケソウの群落を見た時の喜びは大きかったのだ。

 しかし今回は時期的に遅すぎる。果たして残っているだろうか。先ほど出会った人は、あの八本歯のコルにも咲いていたといっていたが、それは同じキンポウゲ科のハクサンイチゲとの見間違いだろうし、立ち入り禁止のロープの先に入った踏み跡の周りに咲いていたのも、矮小化(わいしょうか)したハクサンイチゲだった。
 あの独特の葉は見かけるのにもう花は終わってしまったのだと、あきらめかけていた時に、誰もが見落としそうな花もまばらな目の前の草の斜面に、目だたない小さな白い花が一輪、少し厚く盛り上がった黄色い花房部分に、周りにはあの細やかな葉も見えている(写真下)。小さいけれど、間違いなくあのキタダケソウだ。

 

 わずか一輪だけみんなに遅れて咲いた花。私の胸は熱くなっていた。前に早すぎたエゾハルゼミのことを書いたことがある(’09.5.24,6.3の項参照)。
 そしてそのセミとは違って、こうして遅すぎる場合もある。しかし、他の殆んどの仲間たちと一緒でなくとも、彼らは自分の生の呼び声のままに従い、精いっぱい生きているということなのだ。
 あのセミも、この一輪のキタダケソウも、少なくともこの私だけでもしっかりと見届けたのだし、そして同じように、遅れて生きている私にもいつか・・・。
 
 その昔に読んだことがあるのだが、大江健三郎の『遅れてきた青年』という小説があった。国民が一丸となって挑んだ戦争の時代には遅れて生まれてきた青年が、喪失感を味わいながらも、その代わりにぎらついた上昇思考を抱くという話だったと記憶している。今の大江の作風から考えると隔世の感がある話だが、時代は変わり人も変わっていくものなのだ。
 ただ果たして私は、遅れてきた青年なのか、それとも遅れてきた老人になろうとしているのか・・・。

 ガスの吹きつけるこのトラバース道には、人影はまれだった。
 私は、さらにあちこちで立ち止まりながら、倍の時間をかけてそのトラバース道をたどって行った。そして、ようやく先の間ノ岳との間に位置する北岳山荘に着いた。午後遅くなったが、小屋はそれほど混んでいなかった。一枚の布団に一人ずつ、楽に寝ることができた。

 小屋の前には医大の夏季診療所が開設されていて、そこで脚が気になっていた私は、その無料検診を受けてみた。若い担当学生による問診他による結果は、やはり水分、塩分、アミノ酸等の不足、さらに雪渓などで体を冷やしたことによる筋肉痙攣(けいれん)症ということだった。
 しかし、そのことは事前に分かっていたから、それらの飲料等も持ってきていたのに、十分に摂取せずにガマンして歩き続けた私が悪いのだ。
 ともかく診察を受ける前にも、すでに小屋で一本400円のスポーツドリンクを一本半も飲み、入念に足のマッサージを繰り返し、水とタオルで足を冷やしてはいたのだが。 
 思うのは、せっかくの良い天気の中、もう二度と来られないかもしれない南アルプス主稜線の縦走路をたどり、なんとしてもあの塩見岳の姿を見たいということばかり。
 後はただ、朝になって脚が治っていることを祈るばかりだった。
 
 「ジョー、立つんだジョー。」 果たして、私の明日はどっちだ・・・。

 
( 私がこの北海道に戻ってきてから数日たつけれども、連日30度前後の暑い日が続いている。今日、内地では35度を超える猛暑日の観測点が170か所もあり、この夏最多になったとのことだ。
 しかし、林の中のわが家は、今日の最高気温31度でも、窓を閉め切っておけば丸太の断熱効果で、室温23度くらい、つまり冷房が効きすぎた温度くらいなのだ。
 暑さに弱い私には、何ともありがたいことであり、これこそが私を北海道に移住させた大きな理由の一つなのだ。
 ましてこのたびの山旅から下界に下りてきた私は、あのむっとする暑さにはむしろ恐怖さえ覚えたほどであり、今さらながらに内地の人はエライと思うばかりだった。あの暑さの中で毎日学校に通い、また仕事をしているのだから。
 学生時代、団扇(うちわ)しかない都会の三畳の部屋で、パンツ一枚になってすごしていた日々。それは今や、私のもう遠い昔の思い出になってしまった・・・。)


ウツボグサと「ライムライト」

2012-07-22 17:42:53 | Weblog
 

 7月22日

 雨が降ったりやんだり、薄日が差したりという毎日が続いている。九州地方は、まだ梅雨が明けていないのだ。
 一方で、関東から中国地方にかけてはすでに梅雨明け宣言が出されている。それなのに、それらの地方でも雨が降っているのだ。

 私が九州の家へは帰ってきたのは、幾つかの用事があったために、そして家の中や庭などの掃除片付けをするためだったのだが。それには1週間もあれば十分だったし、その後で、いつもの内地の山への遠征登山に行くつもりだった。
 もうミャオもいないのだから、他に気にかけるべき相手もいないし、後は自分の山の計画だけを考えていればよかったのだ。そして今年は欲張って、二つの山域への登山を計画していた。
 しかし、梅雨明けとその後の天気が一向に安定しないのだ。

 まず海の日をめぐる3連休は、山は混むだろうから出かける気はなかったのだが、天気も良くはなかったようだ。そのすぐ後の17日に梅雨明け宣言が出されて、それから三日間は天気も良く、全国的な猛暑日になっていた。しかし、長期予定で山に行くつもりの私は、まだ出かけられなかった。
 それは、梅雨明け宣言をした権威ある気象庁と、梅雨明けに疑問符をつけていた民間気象予報会社との、その後の週間予報が、特に週の半ばの三日間の予報が異なっていたからだ。
 気象庁は半分お日様マークなのに、民間会社の方は半分傘マークになっている、どちらを信用するか。

 私は、待つことにした。天気が悪くて山小屋にじっとしているのは、たとえ他にいいことがあったとしても、やはり退屈なのだ(’08.7.29~8.2の項参照)。私は、山歩きに来たのだから。
 その上に、若いころと比べれば体力が落ちてきていることを実感しているし、山は逃げないからまた次の機会になどと悠長なことは言っていられないのだ。
 今回逃せば、もう二度とその山には登ることができないかもしれない。陳腐(ちんぷ)な言葉なので余り使いたくはないが、これからの山は一期一会(いちごいちえ)の思いを込めて、それにふさわしい天気の良い日に登りたいのだ。
 最近は、そんな気構えで、私は登るべき山の計画を立てているのだ。なんというぜいたく。

 若い時には、金も時間もないから、天気はその時の運次第という山登りでよいのだろうが、年を取ってくると、プチ小金はあるし時間的余裕もあるから、それならば当然、山も天気でなければとイヤだと、ごうつくばりジジイの本性が現れてくるのだ。
 つまり、天気のいい日だけを選んで山に登ることにして、そのうえ楽なコースを選んで、行程は短かめに、荷物は軽めにして、ゆっくり周りの景色や花々を楽しんで、わがままぜいたくし放題の山歩きをしたいのだ。

 それにしても、ああ、何と強欲な浅ましい生き方だろうか。こと山登りに関する限り私は、あのシェイクスピアの『ヴェニスの商人』のシャイロックや、ディケンズの『クリスマス・キャロル』のスクルージのような、卑(いや)しい男にまでなり下がってしまったのだろうか。
 いやそうではない。私は彼らのように、ただ自分の利益だけにしがみつき、誰かを困らせ、害しようとしている訳ではない。あくまでも自分の生活圏、経済圏の中だけの可能な範囲で、少しぜいたくにやってみたいと思っているだけのことだ。

 もう、母やミャオに迷惑をかけることもない。
 二人がいなくなった今、私はあらためて二人のそれぞれの人生、猫生を振り返ってみないわけにはいかなかった。そして、私の人生のことも。
 それは、今生きていることのありがたさを感じ、あと幾ら残っているかも分からない自分の人生の時間へと思いはつながっていくのだ。

 もっとも幾ら楽をしたいとはいっても、しょせんは山登りのつらさで、息は切れぎれ、汗はだらだら、足はよたよたと苦しいことに変わりはないのだが。
 しかしそこはそれ、山の女王様にむちで叩かれて、ゼイゼイ言いながらも、やっとのことで頂上にたどり着いた時の歓喜の思いたるや・・・あへー、たまりません。
 中学生のころから始めた山登りは、「スズメ百まで踊りを忘れず」、「三つ子の魂百までも」ということなのだろうが。

 私は、初めの予定からさらに一週間以上も延ばして、この九州の家で待つことにしたが、それは決して無駄な時間ではなかった。他の仕事もできたし、ネットで新たな情報を知ることができたし、ゆっくりCDを聴いて本を読むこともできたし。
 そして、何より北海道の家と比べてこの家でありがいことは、もう何度も書くことだが、水が自由に使えるということだ。それは、普通の家庭ではごく当たり前なことに過ぎないのだろうが。

 ここにはちゃんとした水道が引かれていて、北海道の家の浅井戸のように水をチビチビとけちって使わなくっていいから、まずは水洗トイレがあり、風呂にも毎日入れるし、蒸し暑い日は二度も三度も体を洗えるし、その残り湯で毎日洗濯ができて、毎日洗ったばかりのパンツにTシャツも着られるのだ。
 ということは、北海道での生活は何だ、おまえはクマかと言われそうだが。はい、私、不肖(ふしょう)鬼瓦権三(ごんぞう)またの名を熊三(くまぞう、くまさん)でございますから。

 昔、シャワー便座が初めて売り出されたころ、”おしりだって洗ってほしい”とかいううたい文句があったが、それを借りれば、この家の心地よいアメニティーでのうたい文句は、“こんなクマだって洗ってほしい”ということになるだろうか。とはいっても、この家でも相変わらず人肌温め式便座の、旧式水洗トイレのままなのだが。

 ともかくそうして、天気が安定してくるのを待っていたのだ。ただし、今度は別の問題が起きてくる。
 つまり天気は選べるけれども、予定の日での出発が遅くれたことで、学校が夏休みに入り、山は登山者で混雑する期間に入ってしまったのだ。ああ、あちらをたてればこちらがたたずと、とかくこの世はむずかしいものだ。

 あれこれ考えても仕方ない、今はただ、夏の太平洋高気圧が張り出してきて、天気が安定してくるまで待つしかないのだ。
 幸いにも、ここは山の中で周りに木々も多いからいくらか涼しくて、気温はまだ30度まで上がったことがない。しかし北海道と比べれば、空気が蒸し暑くて、気温以上に暑く感じる。
 ミャオがいなくなったから、ひとりで散歩に出かけることも少なくなったのだが、道は昔ミャオと一緒に歩きまわった同じコースをたどって行く。そこここに、ミャオが歩いていた時の姿がよみがえってくる。

 すると道端に鮮やかなコバルトブルーの青い色が見えた。ウツボグサだ(写真)。昔は、もっと群れをなして咲いているのを見かけたものだが、今ではすっかり少なくなってしまって、それだから一輪だけ咲いていると余計に目立つのだろう。
 
 ウツボグサという名前は、どうしてもあの海の悪役、ウツボを思い出してしまうがそれとは関係なく、昔の侍が背に背負っていた、矢を束ねて入れる細長い武具から来ているとのことだ。
 名前は、靫あるいは空穂という字をあてている。つまり、う・つぼではなくて、うつ・ほ(ぼ)なのだ。さらに描かれているその武具の絵を見て、なるほど花の形に似ているところがあると納得する。

 他にも同じ名前で気になるのは、平安時代に書かれた『宇津保物語』(著者は源順(みなもとのしたごう)とも言われている)である。
 あの偉大なる『源氏物語』に先立って書かれた長編物語だが、私は昔その冒頭部分を少し読んだだけで(角川文庫)、その伝奇的な出だしくらいしか憶えていなくて、調べてみると、貴族社会における琴の名手の三代記であり、“うつほ(ぼ)”という名前は、その武具の靫からではなく、主人公の母子が貧しさから木の空洞(うつほ)に隠れ住んでいて、そこからとられたものだということであった。
 他人ごとではない。その昔、母とまだ子供だった私は、長い間、あちこちでの一間暮らしの間借り生活だったのだ。
 
 話がすっかりそれてしまったが、その咲き始めたばかりのウツボグサの鮮やかな色合いを見ると、併せて思うのはのはマツムシソウである。
 その花は夏の終わりのころ、ここよりはもう少し高い山や高原で咲き始めるのだが、九重の牧ノ戸峠周辺には、何度も母を連れて行ったことがあり、そこでウツボグサよりは浅い色合いだけれど形がきれいなマツムシソウを見つけて、母が声をあげていたのを思い出す。

 母もミャオもいないこの家で、ひとりで過ごしてもう2週間にもなる。最初は、日々ミャオや母のことを思い出してはつらくて、早くこの家から離れたいと思っていたのに、日がたつにつれて、それも収まりいつしかひとりでいることに慣れてきてしまった。
 もう今まで何度も、このブログに書いてきた言葉だが、あのチャップリンの映画『ライムライト』(1952年)でのセリフの通りなのだ。

 『時は偉大な作家だ。つねに完璧な結末を書きあげる。』

 『死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。』

 『人生に必要なものは、勇気と創造力、それにほんの少しのお金だ。』

 どんなに苦しくつらいことでも、時がたてば少しずつその悲しみを和らげ、忘れさせてくれるものなのだ。また、どんなにうれしく楽しかった思い出も、時がたてば、古い写真のように色あせてしまい、いつしかそれを語り合う相手さえいなくなってしまうものなのだ。

 だからこそ、私たちは、新たな情景が待っているはずの明日を目指して、ひとりでも生きていくのだ。
 そして、いつの日か終わりの日が来るだろう。しかし、それがどんなものかは誰も知らぬことだから、むやみに恐れる必要もない。まして彼岸の国に、死者たちが待っているとすればそれはそれで楽しみことではないか。

 『・・・しかしともかく、もう立ち去るべきときである。私は死ぬために、諸君は生きるために。しかしわれわれのいずれがより大きい幸福へとおもむくことになるか。それは誰にもわからない。神様よりほかには。』

 (『ソクラテスの弁明』プラトン著 山本光男訳 角川文庫より、裁判の場で死を覚悟したソクラテスの言葉であるが、諸君とは死刑の判決を下したアテネ市民である裁判官、評議員を指している。)
 
 
 

 

ウメとヴィヴァルディ

2012-07-15 20:47:26 | Weblog
 

 7月15日
 
 一週間前に、私はこの九州の家に帰ってきた。誰も迎えてはくれなかった。母もいないし、ミャオの鳴き声も聞こえなかった。
 もう二人ともいないのだ。母の部屋に母はいなくて、ベランダにもミャオはいないのだ。

 そして、わがままに生きてきた私だけが、今こうしてひとり家にいるのだ。二人の思い出のあとが余りにも多すぎる。
 そんな耐えがたい気持ちで、私は春に九州を離れて北海道に行ったのだ。しかし、今回幾つかの用事があって戻ってきてみると、そのつらい思いは幾分やわらいではきていたが、折に触れて自責の念とともに、今もよみがえってくるのだ・・・。
 ごめんね母さん、ごめんねミャオ。

 そんな思いのまま、用事をすませ家の仕事をすませて数日が過ぎた。そこで、大雨になったのだ。
 すさまじいほどの雨の降り方だった。テレビ・ニュースでは、九州中部から北部にかけて甚大(じんだい)な被害が出たと報じていた。
 ただ我が家は、その同じ山の中にあるとはいえ、なだらかな山裾の所にあって川からは離れているし、今回も幸いながら何の被害もなかったのだが。それにしても確かに、この三日間の雨の降り方は異常だった。

 ただ私は、それまでに草刈りや植木の剪定(せんてい)などの外での仕事を終わらせていたから、雨が降っていた時は一歩も外に出ずに、家の中での仕事をしていた。その一つは、ウメ・ジャム作りである。
 それは、今回この家に戻ってくる楽しみの一つでもあった。しかし残念ながら、ウメの実は、去年のあのおびただしい数の収穫から比べれば、今年は大変な不作であり、枝になっている実を見つけるにも苦労したくらいだ。
 それも考えてみれば当然のことであり、何も私の立ちションなどの肥料が少なかったというわけではなく、果実などの木によくある裏作(うらさく)の年だっただけのことなのだ。
 上の写真にあるように(傍には雨上がりのカタツムリが一匹)、今年は小さなザルかごに一杯だけの量しかなく、それに比べれば去年は大ザルに3回分ものジャムを作ったし(’11.7.7,12の項)、それでも捨てた量は、その倍くらいもあったのだから、まさに道の駅で売りに出しても良いほどだった。
 
 しかし、ありがたいことに今年のウメの実は大きさも去年と変わらず、アンズの色のような熟れ具合もちょうどいいころあいだった。
 まず、大きな鍋に水を入れ梅をそのまま煮る。そのやわらくなったウメを裏ごしして、それを今度はホーロー鍋に入れて、砂糖をたっぷり入れて煮る。できれば、甘さを抑えたいところだが、甘く煮詰めれば防腐効果にもなるのだ。
 そしてアクを取った後、煮沸(しゃふつ)消毒したビンに入れて固くふたを閉じれば、数年以上は持つだろう。

 ところでそれから、先ほど裏ごしして残ったタネの周りについた実と皮の部分は、捨てるには惜しい。だいたい果物類は、皮のすぐ下の辺りが栄養部分が豊富でおいしいのだ。
 そこでまだ熱さの残る、そのタネを一つずつ皮も一緒に手につかんで握り、ここで私の大きな鬼の手が役に立つ、にゅるりとタネだけを出して、残りの実と皮の部分を再びホーロー鍋に入れて、同じように砂糖で煮詰める。
 先ほどのオレンジ色のきれいなジャムとは別の、皮などでまだら色になった少しあやしげなジャムができる。しかし、こちらの方が、いかにも素材そのままのジャムという感じがするのだ。あわせて四つのビンに。
 どうだ、ワイルドだろう。鬼ちゃん製のジャムだぜー。

 それまでの、北海道での秋のコケモモやコクワのジャム作りを最近はしなくなって、代わりに我が工房では、去年から始めたこのウメ・ジャムにシフトしてしまったのだ。
 理由は二つ。一つには、秋の素材は、その場所にまで採りに行く手間がかかるのに、この梅の実は我が家の庭にあるのだ。そしてもう一つは、このウメ・ジャム自体が気に入ったからだ。
 最初は、クセがあるので使い道が分からず、お湯で薄めてホット・ウメジュース位にするしかないと思っていたのだが、朝食がパンの私は、余りあいそうもないそのジャムをつけて食べているうちに、すっかりその甘酸っぱい味に慣れてしまったのだ。
 
 そして、もともと母がいた時に通販で取り寄せていた南高梅のパンフレットには、風邪への抵抗力がつくとか書いてあったのだが、その通りにこのウメ・ジャムを一年を通して食べているせいか、私はまったく風邪をひかなくなったのだ。
 もっとも、それはもともとひどい風邪をひいたことのない、私の体質から来るものかもしれないのだが。それは俗に言う”バカと何とかは風邪をひかない”という言葉の通りでもあるのだが。
 都会に住んで、テレビに出てうそぶいているよりは、私の方がよほどワイルドな生活なのだ。

 ここまでずっと、私は音楽CDを聞きながらこの文章を書いている。それは、今回帰ってくる途中で、大きな町に立ち寄って買ってきた、例の廉価盤(れんかばん)CDである。

 「ヴィヴァルディ全集 10枚組 メンブラン・レーベル 1,775円」

 この箱物は、一年前くらい前から見かけてはいたのだが、何だヴィヴァルディかと思い余り買う気にもならなかったのだが、今回このセットものの裏の演奏者たちや録音年月を見て、聴いてみる気になったのだ。
 ビオンディにアレッサンドリーニ、コンチェルト・イタリアーノにイ・フィラルモニチなどだが、初めて見る名前も多い。しかし、録音が90年代から00年代にかけての、比較的新しいものばかりだし、ということは、現在ではもう当たり前になっている古楽器演奏によるものだろう。
 
 私たちの世代は、今とは違って現代楽器による演奏でバロック音楽を知ったのだ。イ・ムジチ合奏団、パイヤール室内O、アカデミー室内O、イ・ソリスティ・ヴェネティそれに半古楽のコレギウム・アウレウムなどである。
 しかしやがて、アーノンクール、ホグウッド、ピノック、レオンハルト、クィケン、ブリュッヘンなどの優れた古楽器指揮者たちが台頭してきて、その古い時代にふさわしい古楽器つまりピリオド楽器演奏の波は、この20年ほどでまたたく間に現代楽器によるバロック音楽演奏を駆逐(くちく)してしまったのだ。
 私たちは、今やその古楽器の音に、その半音低いピッチを守った演奏法にすっかり慣れてしまった。つまり昔よく聴いたヴィヴァルディを、今さら現代楽器演奏のレコードで聴きたいとは思わなくなったのだ。
 
 そしてこの10枚組の一枚200円にもならないセットもの(別の通販店では1,180円だとか!)だが、聴いてみて十分に満足できるものばかりだったのだ。このメンブラン・レーベルのプロデューサーはエライ。盤権が切れて安く買える良い演奏を選んで、このセットものを作ったのだ。
 他にも、同じメンブランの10枚セットものは、グレゴリオ聖歌集やシュナーベルのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集など数点持っている。
 世の中には、二通りの人間がいる。安くて良いものを買って喜ぶ人間と、高いものを買って喜ぶ人間だ。
 
 さてイタリアのバロック時代の作曲家、ヴィヴァルディ(1678~1741)は、俗名”赤毛の司祭”と呼ばれ、ヴェネツィア(ヴェニス)のピエタ養育院(救貧院)付属女子音楽院の院長として、生徒である彼女たちに音楽を教え、さらに上流社会のサロンなどで演奏させては、自分たちの学校の運営資金としていたのだが、それはまた、彼女たちがそうして演奏していくことで、職業として将来も食べていけるようにと意図されていたのだろう。

 そんな彼女たちの演奏のために作曲されたヴィヴァルディの曲は、ぼう大な数にのぼり、恐らくいまだに完全なヴィヴァルディ全集は演奏録音されていないはずだ。
 つまりヴィヴァルディは、すて子やみなし子として育ってきた彼女たちに、分かりやすいやさしい楽曲を次から次へと作曲してきたのだが、それはもちろん当時の貴族社会でも喜ばれる様な曲でもあったのだ。
 そんな若い娘たちによるきらびやかな演奏会のさまを、あのジャン・ジャック・ルソーが『告白録』の中にも書いているほどである。
 しかしそんな彼の末路は確かではないが、零落(れいらく)して教え子の一人を連れてアルプスを越え、北に向かう旅の地で亡くなったとも言われている。
 
 しかしこのCDにあるのは、彼がその彼女たちの演奏のために書いたいずれも、鮮やかな演奏効果のあるものばかりであり、そこからは、音楽は楽しむためのものという、彼の生きた時代の音楽の響きが聞こえてきそうである。その裏に幾多の悲哀を込めて。
 (話はそれるけれども、去年の夏、ある人に例の屋久島登山(’11.6.17,20,25の項)の写真を見たいと言われて、バックにこのヴィヴァルディの曲を入れたスライド・ショーのDVDにして渡したのだが・・・。)

 ヴィヴァルディといえば、『四季』だけが余りにも有名だが、このセットには、他にも彼の数多くの楽器のための協奏曲が収められていて、初めて聴いた曲もあり、実に興味深かった。
 ただこのセットを全集と呼ぶには気になる所で、上にも書いたとおりに、余りにも彼の作品が多岐にわたりぼう大なために、要約集でさえも中途半端になりかねないほどであり、ただここに収められている協奏曲集や声楽集の他に、私としてはせめて室内楽のソナタ集の幾つかを入れてほしかった。

 それはヴィヴァルディというと、私がいつも最初に思う曲があるからだ。恐らくそれは、私がクラッシク音楽により深く興味を持ち始めたころに聴いた曲の一つで、それによって私のクラッシック音楽の趣味は決定的になったのだ。

 ”フルートと通奏低音のためのソナタ OP,13 『忠実な羊飼い』、ランパル(fl)、V・ラクロワ(hpsi)、エラート・レーベルの輸入盤レコード”

 残念ながらこの曲は後年、ヴィヴァルディの偽作(ぎさく)になってしまったのだが、そんなことはもうどうでもよいことだ。
 さらにこの演奏は現代楽器によるものなのだが、デジタル化されたCDの鋭い響きを聞くよりは、豊かな音響空間を実感できる輸入盤レコードで、その音色を心ゆくまで味わいたい。忠実な羊飼いの羊が、一匹、二匹・・・。


 それにしても、夜までかかってここまで書いてきたのだが、大雨の後なのに、何とむし暑いことだろう。
 今日の、JWOWのハンナではないけれど、ムシアツイと言いたくなるところだ。
 しかし、ここでは北海道と違って、ありがたいことに毎日風呂に入れるし、夜はクーラーをつけて寝ることもできるのだ。
 ハンナの笑顔を思い浮かべながら、ムシアツクナイ、スズシイカゼガ、フイテイル・・・、眠たくなってきた。

 (参考文献:『バロック音楽』皆川達夫 講談社現代新書、『名曲の森世界音楽全集』第1巻 ヴィヴァルディ 集英社)
 

イワウメと白雲岳

2012-07-09 18:27:48 | Weblog
 

 7月9日

 前回からの続きである。といっても山に行った時からすでに2週間近くたっているから、その時の新鮮な感じのままというよりは、思い返しながら書いていくことになる。
 すべての出来事は、時の流れとともに、少しずつ断片化されていき、さらに無意識の中で取捨選択され、いくつかのものだけが思い出として残るのだろう。  
 あの時の眼前の風景と、それを見て感じた思いが連続して形作る出来事が、確かに事実としてあったのに、過ぎ去って行く月日や歳月は、その時の思いの映像フィルムの流れをズタズタに切って、わずかなコマ数の思い出だけしか残してはくれないのだ。
 
 亡くなった母への思い出、ミャオへの思い出、若き日の彼女たちへの思い出、今まで登ってきた山々への思い出・・・数多くの断片化されたそれらの思い出には、実はその背後にさらにおびただしい数にのぼる情景が、無意識下のうちにひそんでいるものなのだ。
 その一つは、日常の何でもない一瞬に、思いが途切れたその時に、全く関係ない情景が目の前に浮かびあがってきたりする。それは、外国の町の細い路地道だったり、東京の雑踏の一角だったり、沢登りの流れの中の岩の上だったり、岸から遠く離れた海の中に浮かんでいたり・・・。
 
 つまり、その出来事自体が、すでに偶然的なもののつながりであり、ある人はそれを運命的なものとか宿命的なものとして意識するのかもしれないが、さらに時がたてば、その出来事さえも色あせたレッテルを貼られた思い出の一つになっているだけなのだ。
 そう考えてくると、思い出は、時の残滓(ざんし)にすぎないのだけれども、しかし、それが幸せなひと時の思い出であったとしたら、寂しい人々は、その思い出を繰り返し咀嚼(そしゃく)しながらその時の情景を思い浮かべることだろう。自分が生き生きとしていたあのころを・・・。

 そして、その思い出をよみがえらせる確かな手段として、一枚の写真ほど有効なものはないだろう。(それは一枚の絵画、一編の映像にも言えることだが。)
 2週間ほど前の私の山旅も、今は思い出として思い返すものになってしまったが、語るべきことは前回と今回の合わせて6枚の写真だけで、もう十分なのかもしれない。青空と残雪と花々と・・・。


 さて、前回からの続きだが、私は山では、それが山小屋であろうが、ひとりっきりのテントの中であろうが、ぐっすりと眠れたためしがないのだ。私は、大きな図体をして怖ろしげな顔つきなのに、こと外で寝ることに関しては、耳がダンボ状態になり周りの音が気になって眠れないのだ。情けない。
 その夜もそうだった。久しぶりの登山なのに自分の脚力の限界まで歩き(といっても8時間位のものだったが)、その無理がたたって足がつり、痛みをこらえて眠るどころではなかったのだ。そうこうしているうちに、仕事熱心なテレビ・クルーの連中は、夜中にさらに未明にも小屋を出入りしていた。

 私は結局、2,3時間は眠っただろうが、それで十分だった。夜明け少し前に起きて、外に出た。快晴の空が広がっているが、昨日の下界での暑さ(旭川29度)のためだろうか、少し空気がよどんだ感じだった。
 気温は7度くらい。上にウインド・ブレーカーを着て手袋をして、昨日の大雪渓斜面の所まで行って、そこでちょうど4時ごろの日の出を待つことにした。
 雪面は所々固く凍っていて、その広い雪渓から吹き下ろしてくる冷気に、足踏みするほどだった。
 そして、見つめる先のトムラウシ方面の残雪の山々は、残念ながら期待したほどの朝日の赤い光にはならず、ほんのりと薄赤くなっただけだった。

 小屋に戻って朝食を作って食べ、荷物をまとめてザックを背に小屋を出た。すっかり日が高くなり、キバナシャクナゲとエゾコザクラがまばらに咲いている斜面の彼方に、いつものトムラウシ山が見えていた(写真上)。
 山では、晴れた日の朝ほど、心浮き立ち嬉しいことはない。昨日つった脚の痛みも、大したことはなく、すがすがしい朝の大気を吸いながら、斜面を登って行く。この辺りの雪渓が溶けると、いくつもの小さなお花畑ができるのだが、今はまだ雪の下だった。

 分岐点のコル(鞍部)にザックを置いて白雲岳(2230m)に向かう。誰もいない道を、それも全天の青空の下、ひとりで歩いて行くのは気持ちがいい。火口原の平坦地から、大きな岩塊斜面を斜め上に登って行く。
 ただいつものルートがすぐ上の残雪に被われていて、回り込んで登ると、最後は急な岩塊斜面になってしまい、息を切らして頂上に着いた。
 いつものことながら、旭岳(2290m)から間宮岳(2185m)、北海岳(2149m)に至る支尾根の残雪の縞模様が見事である(写真)。

 

 大雪山の中で、もっとも展望が素晴らしい山頂はといえば、やはりこの旭岳の姿を望む白雲岳の山頂だろう。他に旭岳を見るには当麻岳(2076m)から安足間岳(あんたろまだけ、2194m)などもいいし、さらにこの表大雪の山々とトムラウシの中間にある化雲岳(1954m)の岩塔の上からも絶景である。さらに雪に被われた晩秋から冬にかけては、あの旭岳のすぐ傍にある後旭岳(2216m)の頂からの眺めも忘れがたい。

 しばらくすると、小屋で一緒だった二人も登ってきた。退職後、北海道に移り住んできたという人と、子育てが終わりこれからはもっと山に登りたいという人で、そんな山好きな中高年3人で、周りの山々の話で盛り上がった。
 山頂は風もなく、素晴らしい快晴の空の下、ただ少しだけかすんでいて、芦別岳や日高山脈、阿寒の山々は目を凝らしてやっと分かる程度だったが、目の前にはいつも変わらずに、残雪縞模様の旭岳の姿があった。
 何と1時間半余りも頂上に居て、一足先に、今度は雪稜(せつりょう)を伝って下に降りた。
 振り返り、まだ頂上にいる二人の人影を見ながら、私は思った。できれば、ひとりっきりの方が良かったのだけれども、こうしてそれぞれ一人で来た山好きな人たちと話しながら頂上にいた時間も悪くはなかったのだと、それぞれの山へのスタンスがあり生き方があるのだから。

 分岐点に戻り、ザックを背に小泉岳へとゆるやかに登り返す。上からは、銀泉台や高原温泉を早立ちした人たちがやってくる。これでもう三日も続く快晴の日だもの、みんな天気のいい日に山に登りたいのだ。
 時間に余裕がある私は、途中で何度も立ち止まり写真を撮りながら下りて行った。途中の雪渓では、得意の尻セードで一気に滑り降りる。ヒャッホー。
 そして奥の平の登山道を歩いていた時、行きに見逃していた花を見つけた。それは岩のすき間に咲いたイワウメである(写真下)。

 それは、昨日も今日も、高根ヶ原や白雲岳への道の途中で一番良く見かけてきた花でもある。しかしそのほとんどは、稜線の砂礫地帯に多く、あの白雲岳分岐付近の周氷河地形の構造土には、見事な縞模様となって一株ごとに並んでいるのを見ることができる。
 それなのに、風衝(ふうしょう)地でもないこんな所の岩のすき間に一株だけで咲いているなんて。このイワウメは一見カーペット状のコケのようにも見えるが、びっしりと生えた葉の下には幹から伸びた枝がある。花は1,2cmほどで梅の花に似ているから名づけられたのだろう。
 昔からよく親しまれている梅の花にちなんで名づけられたものは、他にもいろいろあって、例えば水の中で咲くバイカモ(梅花藻)とか、ツルウメモドキとかをすぐに思いつく。
 ところで、このイワウメには桃色がかった花もあって、遠目には本来薄桃色のミネズオウと見間違えてしまうほどだ。

 さらに昨日スキーをしていた下の雪渓でも、尻セードで一気に滑り降り、コマクサ平ではわずか一日で、コマクサの花が大分開いていた。同じ道を往復しても、見どころは幾つもある。その度ごとに立ち止まってはカメラのシャッターを押した。

 デジカメのありがたいところは、私みたいな下手の横好きアマチュア・カメラマンが、芸術写真的な意図など一切考えずに、むやみやたらにシャッターを押して写真を撮り続けられることである。高いフィルム時代にはそうはいかなかった。
 今や8GのSDカードが1000円以下の値段で買えて、それでRAW画像でも約268枚、フルサイズのコンパクト・フラッシュでは少し値段は高くなるがそれでも200枚以上は撮れるし、画像を消してしまえば繰り返し使える。フィルム時代には考えられなかったことだ。
 まったく、カメラ、写真愛好家にとってはいい時代になってきたものだ。
 私は、死ぬまで山の写真を撮り続けたい。他にもきれいなものを撮りたいという思いはあるのだが、しょせん私には夢の写真。私には、高嶺の花ではない、こうした高山植物の花を撮っているのが似合っているのだ。年をとってからは、分相応に生きていることを楽しむこと、それでいいのだ。
 
 しかし若い時には、あえて冒険をして、限界を超える努力をしなければ、望むところへは行けない。それが低い可能性であっても、そのレートを上げることができるのは、99%の自分の意志の力と1%の幸運だけだ。
 そして結果、目指す所へたどり着けなかったとしても、そのために全力を出し切ったという矜持(きょうじ)だけは残るのだ。確かに私はそうして生きてきたのだという思いこそが、その心意気こそが・・・。

 「私の生涯は、時に争いもしたが、しり込みはしなかった。負けるのを承知でも、私は闘うのだ。・・・そして今、私は神の国に向かうだろう。すべてのものが奪われていく。しかし、私はただ一つ持っていくものがある。・・・それは、私の心意気だ。」

 シラノは策略のために深手を負い、報われることなく生涯愛し続けた従妹(いとこ)のロクサーヌの胸に抱かれて、今はの際(きわ)の言葉を伝えるのだ。
 余りにも不細工に大きな鼻のために、自分の好意を告げることもできずに、あふれる思いを感興豊かな詩として綴(つづ)っては、一転して我が身を戦場に投げ入れて戦ったあのシラノ・ド・ベルジュラック。彼は実在した(1619~1655)人物であり、当時のルイ王朝時代の剣の名手であり、詩人でもあり、哲学者でもあり物理学者でもあった。
 ただし、巨大な鼻とロクサーヌとの恋物語は、1899年に発表されたエドモン・ロスタンの五幕ものの戯曲(岩波文庫、光文社文庫)として、作られたものとのことである。
 その見た目にも奇妙な鼻の意味するところは、実は人間誰にしもある、自分の欠点、弱点を象徴化したものだろうが。
 他人ごとではないのだ。私は1カ月ほど前にNHK・BSで放映されたその映画を録画して見たのだ。

 『シラノ・ド・ベルジュラック』1990年、フランス映画。制作ルネ・クレマン(『禁じられた遊び』’52、『太陽がいっぱい』’60など)、監督ジャン・ポール・ラブノー(『プロバンスの恋』’95など)、主演のシラノにあのジェラール・ドパルデュー(『隣の女』『終電車』’81など多数)とロクサーヌ役にアンヌ・ブロシェ、『めぐり逢う朝』’91)。
 映画としては、時代衣装・背景が見事であり、とにかくドバルデューの独壇場(どくだんじょう)の熱演で見せてくれるが、ロクサーヌと恋人クリスチャン役がいまひとつであり、テンポの軽快さは今の若者が見るにはいいのだろうが、時代の重厚さは失われるのだ。しかし随所にちりばめられた、シラノの見事な詩の言葉、セリフに酔うべき映画だろう。

 話がすっかりそれてしまった。
 元に戻して、私は、写真を撮りながら、あの第一花苑(かえん)の雪渓のトラヴァース道を下りてきて、前回の写真と同じ、ニセイカ連峰を望む地点に戻ってきた。

 昨日の朝と同じように、青空が広がり、残雪の山なみが続き、新緑の木々が映えていた。
 恐らくこれからも、同じ道をたどって大雪の山々に登り続けることだろう。私の、小さな心意気として・・・。

 (参考:「ウィキペディア」他)


 

 


ホソバウルップソウと高根ヶ原

2012-07-02 16:53:36 | Weblog
 

 7月1日(2日)

 この1週間は、それまでのストーヴを燃やすほどの、肌寒い曇り空の日々から一転して、毎日青空が広がり、急に暑くなってきた。北海道にも、夏がやって来たのだ。
 昨日などは、内陸部の名寄(なよろ)や富良野では33.7度を記録して、あの梅雨明けした沖縄よりも気温が高くなったとのことだ。(名寄は26日から1日まで、毎日30度を超える真夏日が続いている。)

 この6月になってから、内地の梅雨を避ける形で、梅雨のない北海道を目指して旅行に来た人たちも多くいるだろう。国道をクルマで走っていると、よく内地ナンバーのバイクやクルマを見かけるようになってきたからだ。
 そして、そのうちの6月初旬、中旬に来た人たちは、寒いうえに梅雨と変わらぬ天気の悪さに残念な思いをしたことだろうが、一方で下旬に来た人たちは、連日の晴れ渡った空に恵まれて、さわやかな北海道の初夏を満喫できたに違いない。

 景色を楽しむ旅はどうしても天気次第になるけれども、運が良ければ毎日青空の下で楽しく旅を続けることができるし、運が悪ければ曇りか雨の毎日で終わってしまうことになる。しかしそれを一度限りの不運に終わらせないためには、長期間の旅にするか、あるいは何回も再訪するしかないだろう。
 そうすれば、いつしか旅先での天気の比率は五分に近づき、旅の良さも悪さもあわせて知ることができるようになる。天気の良い日だけを知っている人より、あるいは天気の悪い日だけしか知らない人よりも、より深くその地方の環境を知ることにもなるのだ。

 人生とて同じことだ。日の当たる所だけを歩いてきた人よりも、あるいは日陰の人生を送ってきた人たちよりも、その両方の時を経験してきた人たちのほうが、より深く人生の意味を知っていることになるだろうし、その時々に応じて臨機応変に対応することもできるようになる。
 満足しているだけではなく、不満だらけでもないということ、心の持ち方としては、そうでありたいものだ。
 しかし、年を取り経験を積み、他人と競い合うことから次第に離れて行くようになれば、あとはゆったりとして穏やかな自分の時間を求めたくなる。
 山に登るのも同じことだ。年を取れば、若い時に目指した変化のある困難なルートよりは、のんびりと時間をかけて周りを見回す余裕のあるルートを選ぶようになる。それも、天気の良い日だけを選んで行くようにして。

 そんな山登りのためには、この1週間はおあつらえ向きの天気だった。
 あの人気ある住宅リフォーム番組の、ナレーターのセリフではないけれども、「まあ、なんということでしょう。天の匠(たくみ)は、山の好きな人たちのために、極上の天気を用意しておいてくれていたのです。」

 全く、信じられないほどの天気が続いたのだ。月曜日から土曜日まで、毎日快晴の空が広がっていたのだ。さすがに後半になると、空は高温のためにもやった感じになり、山はかすんでやっと見えるくらいになってしまったのだが。
 私はそのうちの二日を選んで、大雪山に行ってきた。

 大雪山の東側にある四つの登山口のうちの一つである、銀泉台(ぎんせんだい)より赤岳に登り、小泉岳を経て白雲岳避難小屋に泊まり、翌日白雲岳に登って銀泉台に戻るという、まさにお花見遊覧コースである。
 つい2、3年前までは、一日で往復して家まで帰るくらいのコースだったのに、私は今やすっかりぐうたらな登山者に成り下がってしまい、良く言えば余裕ある登り方へと変わってしまったのだ。
 ”これでいいのだー。ばーか、ぼんぼん。”と、本来の脳天気な私には、ふさわしい登り方になっただけのことだ。

 もう少し若いころの私なら、未知のハードなコースを求めて、テント一式を背負い、日高山脈の縦走に汗を流していたのに。ましてこう1週間もの天気が続くなら、日高の山々に登るにはふさわしい日々だったのに。
 しかし、あの重たいザックを背負い、あたりにひそむヒグマに気をつけながら、きつい勾配の尾根道を登り続けるしかない日高の山々よりは、ザックも軽くてすむし、登山者が多いからヒグマの心配もそれほどではなく、なだらかな山をハイキング気分で歩ける、そんな大雪の山々のほうに足を向けたくなるのは、私みたいなオヤジ登山者には当然のことなのかも知れない。

 そして実際に行ってみて、期待通りの青空のもと、咲き始めた山の花々を眺め、ひとりで気ままに歩く高原のワンダリング(逍遥、しょうよう)を楽しむことができたのだ。今でもその数日前の山歩きのことを思い返すと、ニヒニヒと満足の笑みが浮かんでくるほどだ。
 (まあその様子は、例の鬼瓦、おにがわらオヤジのひとり笑いだから気持ち悪いものがあり、とても人様にお見せできるものではありませんが、ともかくこうして鬼瓦島の鬼は、幾つかの良き思い出を糧(かて)に生きているのでございますよ。)

 
 さて、山の上で泊まるわけだから、そう急いで夜明け前から家を出ていく必要もない。いつものように日が昇る頃に目をさまし、ゆっくり朝食をとって支度してから家を出た。
 平原の彼方には、日高山脈も東大切の山々も見えていて、その上には朝霧もなく晴れ渡った空が続いていた。
 大雪国道から、銀泉台へと上がる砂利道に入り、登山口の駐車場に着いたのは、もう8時過ぎにもなっていた。すでにクルマが40台ほども止まっている。みんな天気が良くなるのを待ちかねていたのだろう。

 しかし、そうした彼らは朝早くとっくに出発しているから、前後には誰もいなくて、いつもの静かなひとり歩きを楽しむことができた。
 何より、さわやかな空気の快晴の空の下に見える、残雪と新緑の山々の素晴らしさ。
 第一花苑の残雪斜面の背後には、ニセイカウシュッペ(1879m)の山なみが連なっている。(写真上)ここは秋になると、紅葉風景('11.9.24の項参照)を撮るために三脚のカメラが立ち並ぶ所だが、今はその道に人影はなく、私は何度も立ち止まっては少しずつ変わるその景色を見ては楽しんだ。

 次の小さな雪渓を二つ上がって灌木帯を抜けると、台地状になったハイマツ砂礫帯に出る。コマクサ平である。しかし、そのコマクサの花はようやく咲き初めでちらほらという感じだったが、マニアらしいおじさん3人組がカメラを構えていた。そしてもう下りてくる人たちにも出会った。
 行く手に残雪を多くつけた東ノ岳(2067m)がそびえたち、その左手には、二ペソツ・石狩連峰も並んでいる。道はゆるやかに下り。新緑のナナカマドが美しい正面には、豊かに雪を残した第三雪渓の斜面が見えてくる。(写真中)ここも秋は素晴らしい紅葉の名所になるのだ。(同じく'11.9.24の項参照)

 

 その雪渓を登っていると、上からザラメの雪音をたてて山スキーヤーが二人滑り下りて行った。私もスキーは持っているし、いい気分だろうなとは思うのだが、とてもここまでスキーを持ち上げる気力はない。
 
 次の奥の平からキバナシャクナゲが多くなってきて、イワウメやミヤマキンバイにエゾコザクラも見かけるようになってきた。そして最後の第四雪渓を登りきると、溶岩台地の砂礫帯になり、岩塊の赤岳山頂(2078m)に着く。
 そこには、下の所で私を抜いて行った3人がいたがすぐに先へと向かい、頂上は私ひとりだけだった。人の話し声も聞こえない、風の音と、遠くの鳥の声だけが聞こえてくるだけの山頂にいることが、私には心地よかった。
 眼下の雄滝の沢を隔てて、白雲岳(2229m)、旭岳(2290m)、北鎮岳(2244m)という大雪第三位までの山々が取り囲む光景は素晴らしい。風はわずかにあるだけで、何よりも晴れ渡った青空が広がっているのだ。

 一休みした後、ゆるやかな小泉岳へと続く吹きさらしの尾根道を歩いて行く。ここから、大雪の高山植物分布の特徴の一つでもあり、周氷河地形でもある、縞模様の構造土に咲く花々を見ていくことができるのだ。
 今の時期は、花の咲き初めであり、イワウメ、ミネズオウ、イワヒゲ、タカネスミレ、ミヤマキンバイ、メアカンキンバイ、エゾオヤマノエンドウ、ポソバウルップソウ、チョウノスケソウなどである。
 数人が行きかう小泉岳の頂上(2158m)付近から見ると、旭岳の上に小さな雲が二つ三つと出ていた。この後、旭岳が雲に陰るかもしれないから、そんな旭岳を眺めるために今から白雲岳に登っても仕方がない、明日行けばいいのだ。今日は、ゆっくりとこの花々を見ていこう。
 私は、人影の見えない小泉岳から緑岳(2020m)へと至るなだらかな砂礫地の尾根を、花を見ては何度も立ち止まりながら下りて行った。

 鞍部(あんぶ)の分岐点から、右にヤンベタップ右股の沢へと降りて行く。途中にエゾノハクサンイチゲの群落があり、他にエゾコザクラやチシマアマナなどが咲いている。そして、行く手の丘の上に立つ白雲岳避難小屋の下から、こちら側まで一面の大雪渓が続いている。南の方には雪原の彼方にトムラウシ山(2141m)が見える。 
 2時ころに小屋に着いて、寝袋などを広げて自分の場所を確保した後、サブザックに水とカメラを入れて、再び外に出る。

 目的はいつもの高根ヶ原方面である。途中から登山道を離れ広い雪原斜面に出て、さらに先まで続く雪庇(せっぴ)が張り出した雪堤(せきてい)の上を歩いて行く。私の大好きな雪の上の道だ。
 涼しいうえに見晴らしが良く、ザラメの雪は登りも下りも歩きやすい。ここから高根ヶ原にかけての尾根台地の東側には、毎年冬の季節風によって高さ数十mもある巨大な雪庇が張り出している。毎年違うその形を見るのが楽しみでもあるのだが、今年は残念ながら今一つという感じだった。
 その雪堤の上を、キタキツネが一匹歩いていた。私が止まるとじっと見て、再び歩き出すと、急いで走り出して向こう側に隠れてしまった。雪堤が途切れて、右にハイマツを分けて登山道に出る。

 花は今までのイワウメやミヤマキンバイだが、もう少し後になるとエゾツツジにチシマギキョウやリシリリンドウなどが咲き出すはずだが、今はわずかにチシマキンレイカが一輪だけ咲いていた。
 そしてスレート平から高根ヶ原へと一段下りるところにある草原湿地帯には、今年も変わらずホソバウルップソウとキバナシオガナが群生していた。(写真下)しかしここも1カ月後には、今度はクモマユキノシタの一大群生地になるのだ。
 さてそのホソバウルップソウは、あの小泉岳付近の花が、咲き初めだったのと比べると、ここは標高が300m近くも低く、もう花が終わりに近づいているものもある。それにしても、このさわやかな薄青紫の小さな花の集まりは、何度見ても素晴らしい。

 内地では、北アルプスの白馬岳(2932m)から三国境(2751m)にかけての斜面に、点々と群生しているのを何度か見ているのだが、その名前はただのウルップソウである。そしてこの北海道のものだけがホソバと名付けられているのだが、しかし葉はそれほどには細くなく、むしろあの白馬岳のものをマルバウルップソウと呼びたいくらいなのだ。
 この内地のウルップソウは、あと八ヶ岳の赤岳(2899m)から横岳(2829m)への稜線でも見ることができるとのことだが、残念ながら私は、秋と冬にしか登っていなくて夏の八ヶ岳は知らないのだ。
 ちなみに、このウルップソウの仲間にはもう一種類があって、北海道の夕張岳(1668m)に咲く白い花のユウパリソウである。ずいぶん昔に、私はその花を見るために夕張岳に登ったのだが、その時には同行者がいた。
 以来、その花とその時の彼女の思い出はかすかな甘い香りとして残り、私は今もなお、あのユウバリソウを見に行く気にはならずにいる。

 さて、ヒグマ出没のために近年はほぼ通行止めになっている、三笠新道分岐点からさらに少し先まで行くと、高原沼方面を見下ろすことができる。秋の沼周辺の俯瞰(ふかん)しての眺めが素晴らしい所だ。さらにその先の、コマクサ群落地もまだちらほらという状態だった。
 そこでもう4時になっていた。はるかかなたに丘の上に立つ小屋が見えている。あそこまで戻らなければならない。いくら夏至(げし)を過ぎたばかりでまだ日が高いころだとはいえ、もう戻るには限度の時間だ。数年前までは、このさらに先にある忠別沼まで日帰りで往復したというのに。

 帰りのゆるやかな登りの道でさえ、疲れた足には耐えられず、何度か休みながら、1時間半近くかかって小屋にたどり着いた。
 部屋の中は、みんなが食事の最中で湯気が上がっていて、寒くなってきた外と比べて暑いほどだった。私も遅ればせながら食事を作って食べた。今日の宿泊者は、某テレビ局の撮影クルー数名を含めての10人と、外のテント場の2人だった。テレビ局を除けばみんなが一人で来ていた。
 食事の後は外に出て、そんな皆と言葉を交わしながら、夕日に染まるトムラウシ方面を眺めていた。
 この白雲小屋に泊まるのはもう何度目になることだろう。毎年飽きることなく来ては、周りの雪景色を眺め、花々を眺め、紅葉を眺めまた帰って行くだけのことなのだが・・・。

 そして小屋に戻り寝袋にもぐり込んだのだが、いつものようになかなか眠ることができないのだ。キツネが一匹、キツネが二匹・・・ヒグマが一頭、ヒグマが二頭・・・ああ、かえって怖くなり眠られない。寝返りを右に左に打って、すると突然足がつった。周りの人の手前、声も出せずに、あぶら汗を流し痛さをがまんして足を伸ばし、曲げるのだが・・・。
 眠れなくても目をつぶってさえいれば、それはそれでいいのだ、今夜一晩だけのことだ。ああ痛い、キツネが一匹、ヒグマが一頭・・・。
 (次回に続く。)

(と昨日ここまで書き終わったところで、何とパソコンがフリーズしてしまった。買ったばかりの最新型なのに、もう何度もフリーズしていて情けない。結局、強制シャット・ダウンで書き終わった文章の半分が消えてしまった。腹を立てても仕方のないことだが。ヒマな私は、こうしてまた半日かけて書き直したのだ。あーあ、何という人生。)