ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

名残りの雪山

2015-02-23 23:26:39 | Weblog



 2月23日

 この冬は、山に雪が降って天気が良くなるのに合わせて、ちょうど週末が重なってという繰り返しが続いていた。
 特に先々週の週末は、この冬一番かと思わせる終日快晴の天気で、人の多い時には出かけたくない私は、ひとりうらめし気に空を仰ぎ見ているしかなかった。
 ところが先週、そのサイクルが一日ずれて、雪が降った後の快晴の日が平日に繰り上がり、何とありがたいことに、天はわがままなじじいの私に味方してくれたのだ。
 そのうえに、今後気温は上がっていき平年より暖かくなる予報が出ているから、まともな雪山の感じはこれが最後になるかもしれないのだ。

 ”人生捨てたもんじゃないよね。あっと驚く奇跡が起きる。”
 このお調子者のじいさんは、ご機嫌になって例のAKBの「フォーチュン・クッキー」 を口ずさみながら、いそいそと支度をして出かけたのだ。

 道は心配するほどではなく、昨日降った雪はほとんど溶けていて、かわりに道にまかれていた融雪剤の塩化カルシュームで、テラテラと光っていた。
 しかし、やはり高度が高くなる長者原から上は、峠までしっかりと圧雪アイスバーン状態になっていた。
 牧ノ戸峠(1330m)の駐車場には、早くも20台余りが停まっている。
 早朝には雲が出ていて、模様見をしていたぶん遅れてしまい、登山口を出発したのは9時に近かった。
 沓掛山へと向かう遊歩道の周りは、まだ上の方に日が差し込むだけだったが、一面の霧氷林が白く青空に映えていた。
 冬の時期に、同じ道を何度も繰り返して登っているのだが、それでもあきないのは、背景の山々の姿は同じでも、前景となる霧氷やシュカブラなどの氷雪模様が、いつも少しずつ違って見えるからだろう。
 沓掛山(1503m)からは、南に今活動中の阿蘇山(1592m)の中岳の噴煙が見え、西の方には遠く雲仙岳(1486m)も見えていた。まったく見事な青色一色の空だった。

 しかしその先から、扇ヶ鼻分岐付近までの台地上の尾根歩きでは、ただ枝に積もった雪が綿菓子のように垂れているだけで、ほとんど霧氷などは見られなかった。
 ということは、昨日の風がこのあたりでは、霧氷や風紋を作るほどには強くなかったということなのだろう。 
 写真を撮りながら、それも年寄りの歩みだから、後続の人たちに次々に抜かれてしまったが、そんなことよりはこの天気を待ちかねていたのか、登山者が多いのが気になるのだが。
 実際の所、行こうと思っていた星生山(1762m)の方には、二人さらに一人と登っていたので今回はあきらめることにして、そのまま西千里浜に続く縦走路をたどって行った。
 雪は古い雪の上に新たに10㎝程積もっただけで、そのうえ何人ものトレース跡がついていて、夏道よりははるかに歩きやすいのだ。

 やがて行く手には、いつもの鋭鋒久住山(1787m)の姿が見えてきたが、やはり今回も風が弱かったためか、シュカブラ、風紋ともにあまり発達してはいなかった。(2月9日の項参照)
 しかし、その先の星生崎下の岩塊帯のコブを越えて、降り着いた久住別れの鞍部(あんぶ)辺りから、風も出てきて少し寒くなり、”エビのしっぽ”や風紋などが現われてきて、カメラを構えることが多くなった。
 前後を歩いていた登山者たちはみんな、御池から九重最高峰の中岳(1791m)へと向かっていて、天狗ヶ城(1780m)に登るのは私ひとりだけだった。
 よし、ここからがようやく、私の山なのだ。

 急斜面で息が切れるが、最近のマイ・ブームである、例の乃木坂46の「君の名は希望」を、テンポを落として口ずさみ、息継ぎをしながら登って行く。
 この曲は、あの尾崎豊の歌や”THE虎武龍(とらぶりゅう)”の「ロード」のように、リフレイン繰り返しの多い曲だから、ずっと同じメロディーを何度も繰り返して歌い継いでいくことができるのだ。
 最近は、一日に一度はテレビ録画したこの「君の名は希望」を聞いているが、それまで乃木坂46では、とびぬけて美人の白石麻衣とAKBも兼任している生駒(いこま)ちゃんぐらいしか知らなくて、メンバーは皆きれいだけれども他は同じ顔に見えていたのだが、この曲を調べていて特にYouTubeでの生田絵梨花が歌うのを見たり(2月9日の項)、繰り返し録画を見ていることもあって、メンバーたちの顔の区別がつくようになってきたのだ。

 それは例えて言えば、この九重の山々は、同じような溶岩噴火丘のトロイデ状の山々の集まりだから、離れてみれば最初は見分けがつきにくいかもしれないが、何度か通ううちに、それぞれに二つとない個性ある山々の集まりだと気がつくようなものだ。

 やがて斜面には、一面に”エビのしっぽ”シュカブラで覆われるようになってきた。
 右下には、凍結した御池とその上に左右に稲星山と久住山が並び、遠くには祖母山(1756m)から傾山(1602m)の山塊が続いていた。(写真上)
 頂上には誰もいなかった。いつもの、周囲を取り囲む九重の主峰群の眺め、その中でもシュカブラの彼方に見える久住山の姿は、あの西千里浜から見た鋭鋒姿の久住山とはまた違って、いつものことながら”白鯨”を思わせる堂々とした姿だった。(写真)



 さてここまでは、完全に凍りつき氷結していた所でも、アイゼンなしで何とか登ってきたのだが、これからは下りが多くなるからと、用心のためにも10本爪のアイゼンをつけた。
 そして天狗ヶ城の急斜面を下りて行き、中岳に向かった。
 ”エビのしっぽ”が張りついた岩塊帯を回り込んで、ようやく中岳に着いたが、狭い頂上には、数は少ないけれどたえず人が入れ代わり立ち代わり登って来ていて、私は少し下った雪の溶けていた岩の上で休んだ。
 もう昼を過ぎて1時に近かったが、空には薄い筋雲がいくつか出ているだけで、遠くまで見通しのきく青空が広がっていた。
 南にたおやかに広がる稲星山(1774m)の上に、森林におおわれた濃紺の祖母山ー傾山連峰が並び、噴煙を上げる阿蘇山との間遠くには、市房山(1721m)が見え、さらに右手遠くには霧島山(1700m)が見えるはずなのだが。(家に戻って写真をモニター画面で見てみると、高千穂峰の姿があるような。)

 風も弱く、青空が広がる、雪山の景観。私が思い描いていた通りの、冬の山歩きになって、私は幸せな気持ちになった。
 後は下っていくだけだが、凍結した御池の上は十数人の登山者でにぎわっていた。
 そして帰り道になって、行きには気づかなかった、風紋の雪面の彼方に並び立つ星生崎(1720m)と星生山の姿が見事だった。右下には硫黄山噴気孔。(写真) 

 

 ただし、午後になって尾根筋の雪が溶けてあらわになってきているし、何より午後の順光で陰影に乏しいのが残念だが、できるならこの場所で朝の光に赤く照らし出された斜面として写してみたいとも思うが、山陰になるだろうし、それ以前にそんな早朝から出かけていくような、あるいは避難小屋泊まりをするような元気がもう私にはないということだ。
 西千里浜から続くゆるやかな長い下り道の途中から見ると、もう星生山の南や西斜面が、行きに見た白雪に覆われた姿ではなく、黄金色の枯れ草色の山肌をあらわにした春山の姿に変わっていた。 
 そして沓掛山の登り返しでは、南面にあたるせいか雪解けが進み、ぬかるみと化していた。
 それが九重の冬山の終わりを告げていた。
 
 往復6時間半、年寄りの私には、まさに適度ないい雪山ハイキングだった。
 もうすっかり雪の溶けた道路を通って、まだまだ続く青空の下、いい気分になってクルマを走らせた。
 もちろん、AKBの歌を口ずさみながら・・・「君は君で愛すればいい。相手のことは考えなくていい。チャーンチャン、チャンチャン」と、これらのフレーズの間に入る短い間奏音がいい。
 やはり「UZA(うざ)」はいい歌だと思う。 先日の、AKBの歌だけのリクエスト・アワー・ランキングでは、100位にも入っていないし、メンバーたちからも好きだというのは聞いたことはないのだが、それでも私は好き、”八丈島のきょん”(『こまわりくん』の意味のないかけことば)。

 そういえば、先日たまたま見た民放のバラエティー番組で、東大の名物先生たちを集めての短い授業をやっていて、その時ひな壇に並んでいた出演者タレントの中には、AKBの高城亜樹(たかじょうあき)がいて、何と講義する教授の一人が彼女の大ファンであり、そのメロメロぶりが面白く、”同病相哀れむ”仲間の一人に見えてしまった。
 というのも、彼が彼女を公認のニックネーム”あきちゃ”と呼んでいたから、その”おしメン(推しメンバー)”ぶりもわかるというもの。
 私は、彼女のファンというわけではないのだが、AKBファン歴2年にもなれば、彼女のことについてもいくらかは知っているのだ。

 いつも書いているように私は、AKBグループのみんながそれぞれに可愛いと思っているのであり、それは私が北アルプスや南アルプスそして日高山脈などの数十もの峰々を集める山域の中から、たった一つだけを選ぶことができないのと同じことなのだ。
 確かに、北アルプスでは剣(2999m)、穂高(3190m)の二つを筆頭にあげたいけれど、あの黒部五郎岳(2840m)や鹿島槍ヶ岳(2889m)は言うに及ばず、赤牛岳(2864m)や唐沢岳(2632m)も除外するには忍びないし、日高山脈で言えば、日高幌尻岳(2052m)とカムイエクウチカウシ山(1979m)の二つは絶対かもしれないが、他にも1967峰や1839峰はもちろんのこと、ニシュオマナイ岳(1493m)やピロロ岳(1269m)さえも、私の好きな山のリストからは外したくはないのだ。
 つまり、その山域全体の山々の一つ一つが好きなのだ。”神が作りたもうた自然景観に無駄なものとてあるはずもない”からだ。

 そうしたことを踏まえて、”あきちゃ”の話に戻れば、今の古いAKBのメンバーに対しての、いわゆる”肩叩き”などはないのだろうが、それでも”あきちゃ”のように”古参メンバー”と言われる子たちの去就(きょしゅう)が、いろいろと取りざたされるようになってきているのだ。
 中学生や高校生でAKBに加入してきた子が、アイドルとして舞台に立ち脚光を浴びていても、数年から10年くらいでアイドルとしての短い活躍の時を終えて、次なる人生のステップへと踏み出さなければならなくなる。 
 それが若い娘たちの、”アイドル”としての当然のさだめなのだ。

 そこで、それまでにいわゆる”神セブン”などとして名前の売れた子たちならば、AKBから卒業して芸能界へ、タレントや歌手や女優として新たなチャンスをつかめるかもしれないが(それも成功するかどうかは分からないが)。
 あるいは前にも書いた(’14.12.29の項参照)JKTの仲川遙香やHKTの多田愛佳のように、思い切ってほかのグループへと移籍すれば、そこで自分の活躍の場を見つけることができれるかもしれないが、前にも「キタリエの涙」で書いたように(’14.11.10の項参照)、少し前までは選抜にいても、今ではもう若くはないし、その選にももれるようになった彼女らは、下から上がってくる若いメンバーたちの勢いを感じていて、それだけによりつらい思いになるだろう。
 しかし、AKBがアイドル・グループである限り、内部での競争は当然のことであり、常に若いメンバーへと変容循環が続いていくことが、目移りしやすいファンのためには必要なのだ。
 それだから、メンバーとしては、20歳を幾つか過ぎて大人になった彼女たちは、当然のこととして、次なる人生の行く手を自らで決めなければならなくなる。
 同じ世代の若者たちが、上の学校を卒業して、就職活動に向かう時のように。

 もっとも、私みたいなじじいから見れば、まだ若い盛りの20代半ばくらいで、「キタリエの涙」のように、そんなことで悩み悲しむなんてと思ってしまうのだ。
 ”人生は、これからじゃん”。体も心も、脂がのってきて思慮あるいい大人の女になっていくのは、これからだよ。
 AKBにいたことは、選ばれた君たちだけの青春の思い出の勲章であり、それだけでも十分すぎるほどだよ、他の人たちと比べても。
 いいなあ君たちは。これから自分の人生のドラマを作り、ある時は楽しみある時は悲しみいろいろ味わうための時間が、たっぷりと残されているんだもの・・・と、じいさんはついつい説教をしたくなるのであります。 
 
 いつもあげる例えだが、あのベルナルド・ベルトリッチ(1941~)監督の映画『1900年』(1976年)で、年寄りの地主が、盗みをした小作人の若者のせがれを捕まえて、思わず吐いた言葉だ。

 「このクソタレのガキめが。
 ただくやしいのは、今の俺には何でもあるが、ただ一つないものがある。未来だ。
 おまえには、それなのにうんざりするほどの未来があるのだ。」 

 そういえば、ネットでAKBの所を見ていたら、新しいニュースが三つ。
 ”まゆゆ”渡辺麻友が、4月からゴールデン帯のドラマに主演するのが決まったとか。さすがAKBトップの顔の進む道。
 次に、何とあの明治座で、HKTの”さっしー”指原莉乃が座長になって、一か月公演をやるとのこと。総選挙2位でタレント性抜群の彼女ならではの企画。
 そして総選挙3位の”ゆきりん”柏木由紀は、今度の新曲で、卒業間近とされる”こじはる”小嶋陽菜と二人での、初めてのセンターに。論功行賞。
 以上、AKBグループすべての歌の作詞家としてだけでなく、プロデューサーとしての秋元康(とスタッフ)の、面目躍如(めんもくやくじょ)たる力。

 AKB”萌(も)えー”のじいさんとしては、はい、可愛い孫娘たちの行く末が気がかりで、まだまだ目が離せないのです・・・はい。 
 
(今回は、他にも書くことがいろいろとあったのだが、山の話からいつものAKBの話で終わってしまった。自分に都合のいい、簡単なことしか書かなくなってきた年寄りのわがままからだ。
 さらには、ニュースで言っていたが、ひとりで暮らしている年寄りは、同居している人がいる場合と比べて、認知症にかかる割合が3割も高くなるとか・・・てやんでー、ということは、残りの7割の人は、認知症にもかからずに元気に暮らしていることになるんじゃねえのかい。計算の仕方がおかしいが。
 もっとも、ひとり暮らしだから、自分が認知症にかかっていても、誰も気づかなかったりして・・・ああ、ちょうちょうが飛んでいる、あか、しろ、きいろ。
 AKBの”かわえい”と”ゆりあ”が言えない、七の段の掛け算・・・7x6=42,7x7=49,7x8=56,7x9=63・・・あーよかった。まだポンにはなっていない。) 


深い霧、聞こえてくる音楽

2015-02-16 21:09:48 | Weblog



 2月16日

 上の写真は、十数年前の同じ時期に、扇ヶ鼻(1698m)から見た九重主峰群(右から久住山、中岳、天狗ヶ城、星生崎)の眺めである。
 それは、風雪が吹き荒れた翌日の、見事な青空が広がった一日だった。
 当時はまだデジタル・カメラではなく、中判フィルム・カメラを愛用していて、それだけに手当たり次第にシャッターを押すわけにもいかず、フィルム枚数を気にしては、ここだと自分の気に入った所だけで、落ち着いて一場面2,3枚ずつ撮っていたものだった。
 それで、昔の方が上手に写真を撮れていたとかいう話ではなく、相変わらず写真には向いていないと言われる真昼間の順光の中で写真を撮っていたし、それでも今にしてみれば、それぞれの場所での写真が、かなりの時間距離を隔てて撮られているから、ここぞと思った時にだけシャッターを押していたのがよくわかる。
 それはもちろん、写真の出来の良し悪しではなく、その時の自分の思いが伝わってきて、なるほどと思うだけのことだ。

 写真は、やはりいいよなあ。
 もちろん、写真だけで、その時のすべてを写し取れるものではないが、その時の一部だけを大きく映し出し、さらには周りの環境や思い出さえもよみがえらせてくれるからだ。 
 この後、私は足跡もない急斜面をひとりラッセルして、星生崎(ほっしょうざき、1720m)に上がり、そこから久住山(1787m)の姿を撮った。
 (その写真を、今回の記事の末尾に入れておくことにする。)

 どうして、こんな十数年前の九重の山の写真を取り上げたかというと、もしかして今年の冬の九重のシーズンは、もう終わりになるかもしれないと思ったからである。
 毎回書いていることだが、今週も雪の降った後の晴れの天気が土日に重なった。
 もう毎週ごとにお見事と、ほほ笑むしかないほどの天気のめぐりあわせだったが、そういうこともあるものだよという、神の片寄りのない采配(さいはい)のようにも思えた。
 ”おまえは、今まで、もうたっぷりと冬の九重の素晴らしさを味わってきたのだから、これからは若い人たちに譲りなさい。”と・・・。
 私は、けなげにも手を組み合わせ、空を仰ぎ見ては答えるのだ。”はい、御心のままに。” 
 
 てなこと書かれてその気になって、こんなクソじじいの言うことなど信用しちゃあきまへんで。
 どだい腹黒のタヌキジジイのこと、たんに自分がぐうたらになって、動きたくないから行かなかっただけの話で。
 特に土曜日など、おそらくこの冬一番の終日快晴の日で、山々もくっきりと見えるような日だったのだから、何としてでも行くべきだったのに、本人は家にいて、”ひねもすのたりのたりかな”だもの。
 ま要するに、”何事も当人の熱意次第ですな” と少し突き放して様子見をする、目上の人たちの言葉は、その意味でも正しいと思えるのだ。
 
 そして昨日から、暖かくなり始めて、気温は12度にまで上がり、庭の日蔭に残っていた雪も溶けてしまい、さらに今日は朝から5度近くもある暖かさで、真冬には見られないような深い霧に包まれていた。少し離れた木々が、まるで白い影に覆い隠されたようにかすんでいる。
 こんな濃い霧は、暖かい空気と冷たい空気がせめぎ合う春先ならいざ知らず、2月半ばの今頃からもう春のきざしを感じるなんて。
 そういえば、先日行った大きな街の郊外では、すでにもう黄色い菜の花が満開になって咲いていたくらいだから、確かに春は近いのだろう。
 ということは、厳しい冬の景観を見せてくれる、今年の九重の冬山シーズンは、もう終わってしまったのではないのだろうか。
 つまり今年は、先月と今月初めに1回ずつ、それも半日の雪山を楽しんだだけになると考えて、今までに行った九重の雪山の写真を見返していたというわけなのだ。
 さらにちょうど、例のごとく昔のフィルムのスキャン作業をしていたこともあって、年寄りらしく昔は良かったと感慨にふけったりもしていたのだ。

 年寄りである私たちは、未来にはそう多くのことは望めないとしても、こうしていつでも呼び戻せる、過去の思い出の引き出しを幾つも持っているのだ。
 もちろんそこには、美しく楽しい思い出ばかりではなく、前回に書いた子供の時の思い出のようにイヤなものもあり、そうした哀しいつらい思い出も含めての、様々な記憶が蓄えられているのだ。

「私たち老人が、追憶の絵本を、体験したものの宝庫を持たなければ、私たちは何であろうか? どんなにつまらなく、、みじめであろうか。
 しかし私たちは豊かであり、使い古された身体を、終末と忘却に向かって進んでいくだけでなく、私たちが呼吸している間は、生きて輝いているあの宝の担い手(にないて)であるのだ。」 

(『人は成熟するにつれて若くなる』 ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 草思社文庫) 

 そうした思い出の数々は、何かをきっかけにふと思い出されることもある。
 あの子供時代の辛い思い出が、前回書いたように、アイドルグループ”乃木坂46”が歌う歌、「君の名は希望」を聞いていて鮮烈によみがえってきたように。
 私は最近では、こうしたAKBグループの女の子たちの歌う歌ばかりを聞くようになってきたが、それでも長年聞いてきた他の音楽を全く聞かなくなったわけではない。
 特に、数十年にわたって聴き続けてきて、ある時は私が生きていくうえでの大きな支えの一つにもなっていたほどの、クラッシック音楽への愛着心がそう簡単に失われるわけではないのだ。
 例え方は悪いが、長年連れ添ってきた古女房の良さは、ちょっとした気の迷いで手を出してしまった若い女の子たちぐらいには、かなうはずもないということか。

 というのも最近相次いで、私の気になるクラッシック音楽のコンサートがテレビで放映されたからだ。
 まずは、いつものNHK・Eテレ「クラッシック倶楽部」から、室内楽特集とでもいうべきシリーズがあって、その中でも、あのゲヴァントハウス弦楽四重奏団による、CDなどで組み合わされることの多い弦楽四重奏曲の定番曲である、ハイドンの「皇帝」とモーツァルトの「不協和音」の演奏。
 私がレコードで聞いていた時代の、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団のメンバーとは顔ぶれが大きく異なってはいるが、あの伝統あるライプツィヒ・ゲヴァントハウスの重厚な響きを残しているかのように、安心して聴くことができた。
 もう一つは、弦楽四重奏ではなく、ピアノを交えたカルテットのフォーレ四重奏団の演奏会から、ブラームスの「ピアノ四重奏曲ト短調」。
 名前は知っていても初めて聴く、フォーレ四重奏団。ドイツ人演奏家たちによる、フランス人音楽家フォーレの名をいただいた、珍しい常設のピアノ四重奏団、それもリーダーたるべきヴァイオリンが女性奏者でと、様々な興味深い思いを抱きながら聴いたのだが、これが予想以上に素晴らしかったのだ。

 普通ピアノ三重奏、四重奏、五重奏などというと、普通の弦楽四重奏団のメンバーと、外から招いたピアノの名手との組み合わせが多く、演奏の良し悪しは、多くの場合ピアノの出来いかんに負うところが多かったのだが、ここでのピアノは、あまり大きく前に出ることもなく、四重奏団としての枠の中での旋律を支えており、むしろヴァイオリンの彼女が情感豊かに曲調を作っているようにも思えた。
 本来は、クラッシック音楽の中でも特に室内楽が好きな私としては、今度CDショップに立ち寄った時には、このフォーレ四重奏団演奏の、ブラームスとモーツアルトのCDを買いたいものだと思っている。

 そして次なる二つは、昨日から今日にかけて放送されたもので、まだ録画して編集のために早送りで見ただけなのだが、久しぶりにわくわく気分になってすぐにでも見たいほどなのだ。
 それは、ドレスデン管弦楽団の演奏会、去年の年末に”ジルヴェスター・コンサート”として公演された、演奏会形式のオペレッタ「チャールダーシュの女王」であり、ティーレマンの指揮のもと、あのソプラノのネトレプコとテノールのフローレス他の組み合わせによる舞台・・・それがちゃんとしたオペレッタの舞台であろうがなかろうが、この組み合わせで悪かろうはずがない・・・キャイーン、ワンワン、と雪降る庭を駆け回るイヌの気分なのだ。
 そして後半は、前に放送されたティーレマンとドレスデンによる”ブラームス・ツィクルス”第3弾としての、今やピアノの巨匠たるポリーニの「ピアノ協奏曲第2番」と、「交響曲第2番」なのだ。
 さらにもう一つは、最近話題のブレーメン、ドイツ・カンマー・フィルによる、パーヴォ・ヤルヴィ指揮の「交響曲第1番」と「ピアノ協奏曲第1番」というブラームスづくしでまとめられているのだが、これらは折を見て一つずつ聴いていくつもりだ。

 ということで、最近放送されたクラッシック音楽のテレビ番組について書いてきたのだが、いつもならこのあたりで、去年一年で私が買い入れたクラッシックCDの、ベスト10なるものを書いていたのだが、今では次第に購入枚数が減ってきていて、ベスト10がベスト5になり、ついにはベスト3や2にまでなってしまい(’13.1.28、’14.2.3の項参照)、今年ここであげる対象になるCDはと言えば、わずか2点だけ。
 もう”ベスト”などと言えるはずもなく、ただそのCDの名前だけをあげておくことにする。

 1: バッハ 「ゴールドベルク変奏曲」「平均律クラヴィーア曲集」 グレン・グールド SONY MUSIC (5CD) 2090円 
  (もちろんこれは、伝説のピアニスト、グールドを代表するCDであり、すでに古い国内盤を持っていたのだが、余りの値段の安さに買い替えることにしたのだ。)

 2: フォーレ 「室内楽全集」 カプソン兄弟、ダルベルト他 WARNER ERATO (5CD) 1990円 
  (このフォーレの室内楽全集は名盤が多く、ユボー他のERATO盤、コラール他のEMI盤と持っているのだが、日本レコード・アカデミー賞を受けているのにこの値段というのに驚いて、買い入れてしまったのだが、演奏は素晴らしく、私としてはこれからはユボー盤とどちらか迷うほどになるだろう。) 
 
 こうして、クラッシック分野では、何とも情けない購入数になってはしまったが、今までに買い集めたCDはゆうに数百枚はあり、考えてみればこの年寄りに、それらすべてを聞きなおすだけの時間が残されているかどうかも分からないのに。
 もっとも、それ以外にも去年購入したCDがあるのだ。
 恥ずかしながら、御存じのとおり、あのAKBの中古CD3点であります、はい。 「BEGINNER」「UZA」「SO LONG」、その購入については、去年の11月24日の項参照。

 そこで私としては、このCDを含めて、テレビ番組も入れて、去年から今年にかけて最も多く聞いたAKB系の曲のベスト3をぜひとも書いておきたいと思ったのだ。
 
 1: CD付属のミューシック・ビデオによる「UZA」
  (今のAKBではできないだろう、AKBとしては異質な先鋭的音楽づくり、振り付け、映像、すべてにいまだにしびれるほどで、私にとってのAKBベスト1だ。去年の11月24日の項参照)

 2: 去年、夏のテレビ”FNSうたの夏まつり” での「ダンシング・ヒーロー」
   (荻野目洋子、AKBの高橋みなみ、HKTの指原莉乃による歌とSKEメンバーによるバックコーラスとダンス、全く何度繰り返し見ても一緒に踊りたくなるほどだが、じいさんには無理か。去年の8月25日の項参照。)

 3: 去年4月のNHK”乃木坂46SHOW”の中での一曲、「君の名は希望」
  (このところ、毎日一回はあのピアノの出だしを聞きたくなるのだ。5分に及ぶフルコーラスであの秋元康の歌詞を聞きたいし、やはり胸が熱くなる哀しくやさしい曲だ。YouTubeでの生田絵梨花のピアノ弾き語りにもひかれるが、ネットのLTE接続では消費量が多くて、たまにしか見られないのが残念だ。あの名曲「でもでもの涙」でも同じことが言えるのだが。前回2月9日の項参照)

 こうして、じいさんのさすらいの音楽の旅は続くのでした。
 ”八丈島のきょん!”(意味のない”こまわりくん”のかけあい言葉。)

 とはいっても最後に、やはり最初に書いていた通りに、私の好きな冬の九重、その久住山の写真を一枚。


 

  

  


雪の回廊

2015-02-09 22:35:50 | Weblog



 2月9日
 
 数日前に、ようやく20㎝程の雪が積もり、この冬初めてのまともな雪かき作業になった。(雪国の人たちには申し訳ないが。)
 表の道まで2時間近くの作業で、すっかり汗をかいて家に戻ると、いつもは寒い部屋なのに暑く感じられるほどだった。
 下着を着換えながら、テレビで天気予報を見ていると、この後はさらに晴れてきて、明日の午前中くらいまではもつだろうとのことだった。 
 その通りに、今まで曇っていた空にも青空が広がってきた。
 
 前回にも書いたように、この冬の九州北部の山の天気は、雪が降った後の晴れた日がほとんど土日に重なっていて、多くの普通の平日勤務の人たちにとっては、今年は雪山を味わうには最高の年だったことだろう。
 今回もその例にもれず、明日は休日でさらに天気も晴れの予報だった。
 しかし、人のいない山に登りたいから、原則的には休日には出かけたくないという、変態的登山愛好家である私には、どうにも満足の出来ない冬山シーズンになりそうである。
 そこで、思いついたのだ。手塚治虫の漫画に出てくる、アセチレン・ランプの頭の上のローソクに、ぽっと灯がともったように。
 それならば、天気も回復してくるという昼過ぎに出かけて、夕日が沈む光景を山の上で見て戻ってくればいいじゃないかと。

 ウェブのライブカメラで見ると、峠の駐車場にはこの雪の中、数台の車が止まっているのが見えるし、背後の山の上には青空も少し見えている。
 よし、行こう。 
 家で昼食をすませた後、車に乗って家を出る。
 昨夜から早朝にかけて、水分(みずわけ)峠を越える国道では、雪のために100台を超える車が動けなくなり、長時間並んでいたというニュースもあり、それ以上の山道ではと心配していたが、さすがに九州だ、道は半分以上で雪が消えていた。
 もちろん、まだ圧雪アイスバーンの部分も多いから、慎重に走って行くが、なにぶんこの雪で車の通行量が少ないのがありがたい。
 牧ノ戸峠の駐車場には、それでもこうして雪山の好きな人たちの車が10数台は停まっていた。
 
 登山口から歩き始めたころには、もうかなり青空が広がってきていて、周りのノリウツギやハンノキの林が一面の白い霧氷に輝いていた。 山は、やっぱりいいなあ。
 またしても前回の登山からは、1か月も間が空いてしまったが、時々立ち止まっては写真を撮りながら行くので、そう体にきついわけでもない。 
 周りの山々も何とか見えてはいるが、湿度が高いのだろうかそれとも大気が濁っているのか、いつもほどくっきりとは見えていないのが少し気になる。

 もう何度も通う、おなじみの牧ノ戸峠(1330m)ー沓掛山(1503m)ー九重本峰群へとたどる道ではあるが、いつも来るたびに異なった姿を見せてくれる、この九重の冬の雪氷景観は見あきることがない。
 まずは、沓掛山稜線の霧氷回廊を抜けて、左手雪の草原のかなたに三俣山(1745m)が見える風景も絵になるし、さらにゆるやかな尾根道が続き、その途中から見た、ナベ谷の霧氷に覆われた木々の姿も印象的だった。(写真上)
 このナベ谷は夏に、ずっと下流の方から沢登りで遡行してきたことはあるが、秋の紅葉時期にはいつも北海道の方だから、まともに九重の紅葉を見たことがなく、いつかはしっかりと紅葉を見たいものだと思っているのだが。
 
 そして、今はもう午後遅く、行き交う人はまれになり、人気のない静かな山になってきたのはいいのだが、相変わらず西から流れてくる雲の多さだけが気がかりだった。
 扇ヶ鼻(1698m)の分岐の手前あたりから、風紋やシュカブラの雪氷芸術が見られるようになってくる。(写真)



 そこで、青空が広がり日が差し込んできた時に、すぐに写真が撮れるようにと身構えていた。
 そうしていつも、三脚も使わず多くは手持ちで、ブレが気になる時は持っているストックを一脚代わりにして、場当たり的に撮っているだけだから、私の写真がうまくならないのは自分でも分かってはいるのだが。
 ともかく若い頃は特に、何としても頂上に早く着きたいし、そこからの景色を早く見たいと思いながらの展望目的登山だったし、写真はあくまでも、その山登りの時の思い出として撮っているにすぎなかったのだ。
 しかし、今では、写真を撮ることの方がより大きな目的になっていて、登る時間にはこだわらなくなり、ただ自分が好む山の景観をカメラに収められればいいと思うようになっているのだ。と言いながらも、時間が気になり次の所に早くというクセは。今になってもまだ続いているが。
 
 今回は、星生山(1762m)に登って、そこからの夕日の眺めを楽しみたいと思っていたのだが、まだ夕日になるまでの時間はあるし、ともかくはいつもの久住山の姿を見たいと、星生分岐からそのまま西千里浜の平たん地の道をたどって行った。
  雪は30㎝程で、多くの人が通った跡がトレースとしてついているから歩きやすいが、一歩外れると歩きにくくなるから、足跡のついていない星生山の登りは苦労することになるだろう。
 そして前方に、流れゆく雲に洗われながら、あの久住本峰(1787m)の姿が見えてきた。
 本当は、ここから見える久住山の姿を背景に、前面に夕日に染まるシュカブラ風紋の雪氷紋様を入れての眺めを見てみたいのだが、残念ながら冬場の夕日は、その前に手前の肥前ヶ城(1685m)の山陰に隠れてしまい、夕日が当たる前に色あせてしまうのだ。
 だから今のうちに、日陰になる前に写真を撮りたかったので、そこでしばらく待つことにした。
 
 相変わらず雲の流れが速く、青空と山は隠れたり現われたりで、全部が太陽の光に照らし出されてというチャンスはなかなか訪れなかった。
 ただ、夕方に近いこの時間、歩いている人はもう誰もいなくて、この広がり見える山の中には私ひとりだけだと思えるのが、いい気分だった。
 そして、風紋もシュカブラの発達も今一つだったが、ともかく青空が広がった一瞬にいつもの久住の鋭鋒の姿を写すことができた。(写真)

 

 しかしそれもほんの一瞬だけで、再び頂きには雲がまとわりつき、周りの星生山や扇ヶ鼻方面も雲に隠れてしまった。
 これではとても、星生からの夕日など無理な話だとあきらめて、とりあえず少し先の星生崎下のコブ(1660m)のポイントまで行ってみることにした。 
 岩塊帯の斜面につけられたトレースをたどり、その縦走路から離れて、足跡のない雪面に足をもぐらせてコブの高みの所まで行ってみた。
 そこからは、天気のいい日なら、眼前に久住本峰の姿と対峙(たいじ)して、その右手遠くには祖母山(1756m)や阿蘇山(1592m)の姿を見て、左手には中岳(1791m)と天狗ヶ城(1780m)、さらにその奥には平治岳(1643m)の姿も見ることのできる、私の好きな場所なのだが、相変わらず雲の行き来が早く、山々には雲がまとわりついたままだった。
 風も吹きつけていて、先ほど雪で少し濡らしたズボンの一部がもうパリパリに凍りついていたし、顔が痛いほどの寒さだった。依然として山々には厚い雲が下りたままだし、6時前の日没にはまだ時間があり、雲が取れてくる可能性もないわけではなかったが、私はあきらめて戻ることにした。
 今日、これだけ雪山の景色を見られただけでも十分じゃないかと、自分に言い聞かせながら。

 帰りの雪道の下りは、早い。
 雪のない時の登山道での、つまづくような石ころもなく下に埋もれ、踏み固められたサラサラの雪の上を、なめらかに歩いて行けるのだ。
 そして、歌を口ずさみながら。今回の雪山ハイキングで、ずっと私の口をついて出ていた歌は、何とあのAKBの公式ライバルと言われている、”乃木坂(のぎざか)46”の「君の名は希望」だったのだ。
 移り気な私のこと、早くもその心はAKBグループから離れて、ついに”乃木坂”に移ってしまったのか。
 この少女趣味の”変態じじい”めが、と言われれば、返す言葉もない。
 ”はい、私が変なじいさんです、だから、変なじいさん。だっふんだー。” 

 まあ言い訳をさせてもらえれば、それは単純に今一番気になっている歌が、山を登る時のリズムとして、とっさに口をついて出ただけの話なのだが、というのも、実は私がずっと見続けているあのNHK・BSの”AKB48SHOW”は、ちょうど私がAKBのファンになったころから始まっていて、夜遅い番組なので(最近は朝に再放送)、録画して見ていたのだが、そのいくつかは録画したままになっていて、最近それを見返して気づいたのだ。
 それは”AKB48SHOW別冊”として放送されていた、”乃木坂46SHOW”であり、当時AKB以外にあまり関心のなかった私は、乃木坂はもとよりSKEもNMBも、さらには当時あまりにも子供じみて見えるHKTでさえ、番組の中身を編集して、AKB以外はカットしていたのだが、そういえばこの1年前の乃木坂の番組を消去せずに残していたのは、その中の歌の一つが気になっていたからだと、今回見直して気がついたのだ。
 そして、その歌こそが、「君の名は希望」だったのだ。
 あの単純なしかし心に響く、ピアノ・ソロのイントロに始まり、繰り返されるやさしいメロディー、そしていつもの秋元康による歌詞に、またしても私は泣かされてしまったのだ。周りに人がいなくてよかった。
 
 それは、学校で”透明人間”と呼ばれるくらいに、存在感がなく仲間はずれにされていた男の子が、やさしく自分を見つめてくれるある女の子の視線に気づいて、初めて人を好きになり、明日に希望を持つようになったという話なのだが、最後の”君の名は希望と今、知った”という一言が素晴らしい。
 ああ私はここまで書いてきただけでもう、まぶたがうるっときてしまった。
 小学校低学年のころ、私は、遠く離れた大きな町でひとり働く母親から離れて、親戚の家に預けられ、大きな町の学校から田舎の学校へと二度の転校をした。
 言葉が違うことで、さらには今の背の高い私とは違い、当時は体も小さく少し太っていたこともあって、イヤなあだ名をつけられていじめられ、学校に行くのがつらかった時もあった。
 何とかわいそうな、7歳のころの私。 

 しかし、今でも思い出すのは、そんな私を気にして、やさしくしてくれた担任の女の先生だった。(あの映画『二十四の瞳』の高峰秀子演じる大石先生の姿と重なる。)
 その時、子供の私は、彼女に母の面影を見ていたのかもしれない。
 彼女がいてくれたことは、クラスの友達からからかわれいじめられていた私の、学校での唯一の逃げ場であり、明日へと続く希望のもとになったのだ。
 だから、私はこの”乃木坂”が歌う「君の名は希望」をまた改めて聞いた時に、あの子供のころの思いがよみがえってきて、不覚にも小さく嗚咽(おえつ)してしまったのだ。
 年寄りになると、いろんな体験をしてきているから、ものがよく見えるようになるのだが、一方で、長く生きてきて余りにも思い出が多すぎて、少しの感情に心揺さぶられることが多くなるものなのだ。年寄りは涙もろくなる、というたとえのとおりに・・・。 

 ネットで調べてみると、この「君の名は希望」には、乃木坂メンバー内でのいろんな組み合わせのバージョンがあって、それらをYouTubeで見たのだが、もちろん私が見た”乃木坂46SHOW”での、ピアノ、ヴァイオリンにリズムセクションをバックにしての、16人選抜メンバーによる歌声が、都会的清純派”乃木坂”のイメージに合ってよかったのだが、音大系の高校に通うというメンバーの一人、生田絵梨花のピアノ伴奏で選抜メンバーが歌っているものもいいし、あるいは生田自身の弾き語りによるものも、ピアノも歌声も決して最高にうまいとは言えないが、曲の内容にこれほどふさわしい声はないと思えるくらいだ。・・・歌は技術だけではなく、歌う人の声質にあり、いかに歌の心にふさわしいかだというのがよくわかる。
 この「君の名は希望」には他にも、生田のピアノにあのAKBのエース”まゆゆ”渡辺麻友が歌うという、夢の組み合わせがあるのだが、いかんせん”まゆゆ”の歌がうますぎるし声に透明感がありすぎて、暗い中に頼りなげに見え隠れする思いが十分には表現できていないような気がするのだ。
 ”まゆゆ”は間違いなく、AKBを代表する”顔”であるし、公演などで歌うソロ曲はみんな素晴らしいし、ソロのアイドル歌手として十分にやって行けるほどの実力も兼ね備えているのだが、やはり彼女が歌うものには合うものと合わないものがあるのだろう。

 そこで思い出したのだが、AKBの名曲として歌い継がれている「でもでもの涙」である。
 この歌は悲しい片思いに涙する少女の姿を切なく描いていて、これもYouTubeで見ると、様々なメンバーたちによる二十組以上もの組み合わせで歌われていて、彼女たちにとっても自分たちが歌いたいと思うほどのいい曲なのだろう。
 最初に歌われたという”ゆきりん”柏木由紀と、私は知らない佐伯美香による、いわゆる”本家もの”に始まって、”ゆきりん”と”まゆゆ”の同期生コンビ、さらに今は見れない”ツインタワー”のお姉さま美女コンビ”マリコさま”篠田麻里子と”にゃんにゃん”小嶋陽菜によるもの、そして最近のHKTの若いけれどお姉さまキャラの二人松岡、森保コンビによるものなどなど、いろいろあるが、言えるのは、本家であるあの”ゆきりん”のやさしくはかなげな感じの歌声がこの曲にぴったり合っていて、数種類ある彼女との組み合わせのものはどれもいいのだが、ここでも”まゆゆ”とのものは、やはり”まゆゆ”の明るい声質が、この曲には今一つあっていない気がする。
 さらにもう一つのポイントは、見た目であり、比較的背の高い美女が並んで悲しい失恋の歌を歌うという状況が、昔の少女漫画風に舞台映えするのは言うまでもない。
 そこで、YouTubeなどで見たあくまでも私の好みでしかないが、”ゆきりん”の声は外せないし、二人並んだ見た目と哀しげな表情から、SKEの松井玲奈と歌ったものに心ひかれるのだが、曲自体が素晴らしいだけに、どの二人の組み合わせでも、十分に聴きごたえがあると言えるだろう。

 以上あくまでも、余り音楽的素養もない私個人の勝手な好みから、「君の名は希望」での組み合わせをあげてみただけのことであり、AKBファンたちの声や、CD売上数からいえば全く当を得ていないことになるかもしれないが、そこは余命少ないじじいの勝手な好みと、御理解いただければ幸いなのだが。
 ともかく、もう1年半も”AKB48SHOW”を楽しみに見ていて、そこで最初のうちは見る気にもなれなかった、他のSKEやNMBにHKT、さらには乃木坂46までも見るようになってしまったのだ。

 それ以前は、クラッシック音楽だけを聴いていて、ブラームスの2番はあの演奏のものがいい、マーラーの9番はこの演奏に限る、ルネッサンス古楽演奏ではどこのアンサンブルが最高だとか、ヴェルディのオペラではプッチーニのオペラでは、どの歌手の声がふさわしいなどと考えていた私が、今ではもうたまにしかクラッシック音楽を聴かなくなり、ほとんど毎日一回はAKBの歌を聞きたくなるという、老人的多発性AKB痴呆症候群という病気にかかってしまい、何とかしなければと思うのだが、まあ誰かに迷惑かけるわけでもなく、ましてAKBのことで他に金を使うわけではなく、一時の気の迷いだと思ってはいるのだが。

 そして次なるAKBの新曲が、何と私の敬愛するフランスの映画監督、エリック・ロメール(1920~2010)のあのヌーヴェルバーグ時代を思わせる名作『緑の光線』(1985年)の題名から採られたという、「グリーン・フラッシュ」という曲名であり、曲中にはラップ調で歌われているところもあるというし、さらに最後かもしれない”ゆきりん”と”にゃんにゃん”の”ツー・トップ”というのも気になるし、早く聞いてみたいものだ。
 はい、このじじいめは、AKBの興味だけで細々と余命をつないでいるのでありまして、なにとぞこのわがままに書き散らしている年寄りに、お目こぼしをたまわりますように。


神の沈黙

2015-02-02 23:10:28 | Weblog



 2月2日

 ようやく、積もるほどの雪が降った。
 積雪10㎝。しかしそれは、春先に降るような湿った重たい雪だった。
 
 私は、様々な理由をつけて山には行かなかった。
 一つには、こうしてただあまり風もなく降り積もった雪は、九州の山では、それなりに山の地形に合わせて、”白たえの衣”をまとったようできれいではあるが、もう一つ峻烈(しゅんれつ)な冬山の姿を見せてくれるわけではない。
 望むらくは、強い冬型の気圧配置になり、吹きつけてきた雪で山々が覆われた次の日、風もいくらか収まり一面に青空が広がる日に山に行きたい。そこでは至る所で、風雪が高い山で作り上げた雪氷芸術を見ることができるからだ。(’14.1.27,2.17の項参照)
 そうした、シュカブラやエビノシッポの立ち並ぶ冬の山々を、私は何度も見てきたからだ。
 だから私の頭の中は、そうした最上の状態での、山々の雪景色の記憶にあふれていて、ちょっとやそっとの雪山ぐらいでは気持ちが動かないほどに、ふてぶてしくなっているのだ。
 (今、猛烈な吹雪に閉ざされている、北海道の羅臼をはじめとする根室釧路地方の人々には申し訳ないが。)

 そうして理由をこじつけたりするのは、最近とみにぐうたらになり、外に出かけるのがおっくうになってしまった、年寄りの哀しい言い訳のせいなのかもしれない。
 さらに、もう一つの理由もある。それは、またしても休日に重なったからだ。
 そんなふうに、雪が降った後に晴れて雪山日和(びより)なるのが、このところいつも休日と重なっているのだ。まじめに働いている勤労者諸君にとっては、願ってもない僥倖(ぎょうこう)にめぐりあえるわけで、結構なことだとは思うのだが。
 九州では、雪が降ったすぐ後に山に行けば、本州の冬山と同じような感じの雪山歩きができるから、みんなも虎視眈々(こしたんたん)とそんな条件の日をねらっていて、ましてそれが土日と重なれば、一番人気の九重の山々は人々の歓声であふれ、駐車場からはみ出した車が、路肩に長々と並ぶありさまだ。
 普通の山好きな人たちから見れば、誰もいない一人歩きを好む私などは、多分に変態的登山愛好家になるだろうが、そんな私が、人々で賑わう時に、のこのこと出かけていくはずもないのだ。 
 
 たとえ話としては、少し違うかもしれないが、”食べログ”などのネットで人気の、行列ができるラーメン店の前で並ぶくらいなら、そのそばにある薄汚いガラガラの中華料理店で、どんぶりに指を突っ込んで出された、普通の味のラーメンを食べたほうがましと思う人間なのだ、私は。
 もっともそれは、用事があって出かけて外で食事をする時の話であって、できることなら家にいて、5個入り400円位のインスタントラーメン”うまかっちゃん”を自分で作って、”じゃこ天”一枚とネギをたっぷり入れて、昼のニュースでも見ながら食べたほうがいい。
 それは、倹約家でお金にうるさかった母親のもとで育てられ、子供のころから貧乏生活の体験をしてきた私は、老いぼれの年寄りになっても、根っからの貧乏根性が染みついていて、たとえお金があってもぜいたくな買い物や食事などはできないし、しかし今にして思えば、そうしたぎりぎりの清貧の環境にあったことが、こうして金はなくても豊かな気持ちで暮らしていけるという、今ある日常の生活感覚のもとになったのだとも思うのだが。
 ぜいたくな暮らしに慣れていれば、少し収入が下がっただけでも不満に思うことだろうし、最初から食うや食わずの体験をしてきていれば、まずはおなかいっぱい食べられるだけで、もうそれだけで満足できるのだ。

 だからテレビに映し出される、お金持ちの豪華な部屋や持ち物や食事にすら、心を動かされることはない。
 生まれ変わっても、金持ちなんぞには金輪際(こんりんざい)なりたいとは思わない。
 それは、やせガマンでもカッコつけでもない。足りないところでの工夫の楽しみと、次にほんの少しだけでも良いものを手に入れた時の喜びを知っているからだ。
 長い間の登山経験からいえば、山登りではいつも腹を満たせるだけの簡単な食事しか用意できないし、まして長期のテント泊山行になれば、自分でザックをかついで持って行ける食料は限られるから、そうしたガツガツの食事をしていれば、それこそ下に降りた時に町で食べる一杯のラーメンでさえどれほどおいしいことか、たとえそれがどんぶりに指を突っ込まれて差し出されたものでもだ。

 だから私は、あの昔の経団連会長だった土光さんが当時も、メザシ(小イワシの干物)だけの一汁一菜(いちじゅういっさい)の夕食だったとか、さらには前にも書いたことがあるが、若いころのヨーロッパ旅行で出会ったアイルランドの娘が、外食を一切せずに、手持ちのパンとジャムですませていたことなどが、どれほど私の貧乏根性の思いを勇気づけてくれたことだろう。
 自ら貧しくあることの、心の持ち方・・・。
 もちろん若者にとっては、将来へと続く夢は高く持って、野心をふくらませて事に当たるべきだが、一方で、現実はいつも低く抑えることに慣れておいた方がいいとも思うのだ。
 といって、私は何も、貧乏であることをすすめているわけではないが。

 最近問題になっているように、高収入の家庭に育った子供が、高学歴で大会社に就職して高収入という循環を生み、低収入の家庭に育った子供が、低学歴で非正社員就職して低収入の循環を繰り返すだけだという指摘がなされていて、そうした誰でもがうすうす感じていたことを、世界的な規模の経済統計の実例を挙げてこれからの提言をした、フランス人経済学者トマ・ピケティ氏が書いた、『21世紀の資本』が世界的なベストセラーになっているとのことである。
 そこで彼の言う、すべての階級に富を分配すべく累進課税(るいしんかぜい)の仕組みを作るべきだという話は、確かにそれだけで、十字軍的な輝かしい理想に満ち溢れてはいるのだが、しょせん社会を作って生活していく人間にとって、あのサル社会の序列ではないのだけれども、一つの集団としての規律を作るために、階級化されるのは当然の成り行きであるし、さらに言えば資本について、お金そのものの第一義でもあるのが、広く薄く集めれば巨大な資本になるけれど、薄く広く分配すれば、はした金、小銭しかならないという現実があるということだ。
 ただし、それらはもちろん、貧富の差の限度問題ではあるのだが。(今日のNHKクローズアップ現代でも、来日中のピケッティ氏との対談という形で紹介されていた。)

 ただそうしたことすべてを含んで、清濁(せいだく)併せ飲んでの現実の今があり、その問題点を見事についた、きわめて人間的博愛に満ちた考え方だというべきなのだろうか。
 ここで思い出すのは、かつて取り上げたことのある、あのアマゾン原住民の研究から考えを組み立てていって、野生の思考が現代文明の思考に劣るものではないとしたあのレヴィ=ストロースの、構造主義に至る思想である。
 彼もまた、フランス人であり、さらには最近のイスラム過激派による新聞社襲撃の惨劇の後、パリだけでも100万に近い人々が、そしてフランス全土では370万という人々がデモ行進をしたということを思い合わせて・・・フランス人たちの善かれ悪しかれ、”自由・平等・博愛”なるものへの意識について考えてしまうのだが・・・。

 ここまで長々と余分なことを書いてきてしまったが、要するに山登りに行かなかっただけのことで、あれこれ理屈をこねまわして本題がすっかり横道にそれてしまった。
 さて、山の話に戻ろう。
 混雑する山に行けないのなら、夕方に山に行けばいい、もう登山者も帰ってしまって少なくなったころだろうし、久しぶりに夕焼けに染まる山を見に行こうということで、カメラを持ってクルマに乗った。
 同じように離れていてそれなりに時間はかかるが、九重にするか由布岳にするかで迷ったが、クルマを停めて余り歩かないで大きく山の姿を見られる所はと考えて、由布院の町に向かうことにした。
 町を抜けてすぐに、旧やまなみハイウエイと呼ばれる山岳道路を走り、途中何か所かの撮影ポイントがあるが、その中でも一番多く来ている所でクルマを停めて、夕日が沈むのを待った。
 山に行く時と同じように、ハード・シェルのジャケットなどを着込んできたが、風もなく、穏やかな日の入りの光景を見ることができた。しかし、日が沈む西の方には照り返す雲もなく、残念ながらあまり赤くは染まらなかった。

 それでも、山腹に一本だけ生えているカシワの木を前景に、草原状の飯盛ヶ城(いもりがじょう、1067m)があり、その上に高く二つの耳をそろえてそびえ立つ由布岳(1583m)の姿は、やはり天下一品の趣(おもむき)があった。(写真)
 いつも言うことだが、私の名山の基準は、当然ながら見た目の外観にその大部分の価値があると思うから、そうした意味からも、日本の山の中でもこれほど見事な双耳峰、猫の耳(ああ、ミャオを思い出す)をそろえた山は他にはないから、自分だけの百名山としてだけでなく、九州の山としてもまず一番目にあげたいくらいの山なのだ。
 ベストの登山時期は、この真冬の雪が降り積もった時であり、一部アイゼンが必要であり初心者には危険な所もあるが、雪氷に覆われた旧火口をめぐるお鉢一周のコースをたどれば、東西両峰にも併せて登ることができる。(’09.2.3の項参照)
 さて今は、その頂上に向かうこともなく、目の前に一本のカシワの木をはさんで、ひとり高くそびえ立つ由布岳の姿を見ているだけだが、やがて日は沈んでしまい山肌は、その薄赤い肌色の輝きを失い、色あせて死に行く人の肌のように変わってしまった。毎日繰り返される、自然界の理(ことわり)・・・。

 今回書きたかった主題は、その死にまつわる話である。
 実は長い間待ち望んでいた、あのイングマール・ベルイマン監督の名作『第七の封印』(1957年)のDVDが、ようやく再発売されることになり、その当日に合わせてネットで注文して手に入れたのだが、久しぶりに見て感じたのは、その余りにも重たいテーマを、しかし明るい情景をはさんで一つの作品に仕上げた監督としての力量を再確認したことであり、これはどうしてもここで取り上げたいと思っていたのだが、二日前、気になっていたテレビのドキュメンタリー番組を見て、深く考えさせられることになり、それがまたベルイマンの映画のテーマと重なるところもあって、先にこのドキュメンタリー番組について書いておくべきだと思ったのだ。
 
 それは1月31日に放送されたNHKアーカイブス『戦後70年・人間の闇』シリーズからの、「アウシュビッツと音楽家たち・死の国の旋律」である。
 最初に放送されたのは2004年、当然まだわが家にはハイビジョン・テレビなどなくて見られなかったのだが、その後も何度か再放送されていて、今回ようやくめぐり会い見ることができたのだ。
 その番組の1時間15分の間、さらに本編後この番組について自分の経験もまじえて話してくれたあの報道記録写真家の大石芳野さんの言葉もまた重いものだった。

 前回取り上げた二つのドキュメンタリー番組、特にあの詩人堀口大學についての番組は、作り上げたラブ・ロマンスに片寄っていて論外だとしても、私が食い入るように見続けたあの三島由紀夫を取り上げたドキュメンタリーよりも、これはさらに深く、遥かな高みから私に様々なことを考えさせてくれたのだ。
 ドキュメンタリー番組好きの私が、さまざまに見てきたものの中でも、おそらくは5本の指に入れたいくらいのものだった。
 それは当然、今の年齢の時点におけるというただし書きをつけてだけれども。というのも、若いころに見ていれば、そう深く感じることはなかっただろうと思うからだ。年を取れば見えてくるものも、多くなるのだろうから・・・。

 ポーランド南部の古都、クラクフ。(昔はクラカフと呼んでいたように憶えているが、若き日のヨーロッパ旅行の時には、ワルシャワに二泊しただけで、クラクフには行かなかった。)
 その町の集合住宅の一部屋に、身寄りもなくひとりで住むゾフィアさん(80歳)。
 彼女は、今まであまり人にも話すことのなかったあのアウシュビッツでのことを、日本から来たインタヴューアーの質問に答えて、白髪の頭を傾け、腕には収容所でつけられたイレズミが痛々しく今も残されていて、初めは視線を下に落としながら話してくれたのだ。 

 彼女は19歳の時、ユダヤ人ということで母親とともに捕えられて、同じポーランド南部にあるアウシュビッツ収容所に送られたが、間もなく母親は病気で亡くなり、彼女は運よくヴァイオリンが弾けたことで囚人オーケストラ(音楽隊)の一員に選ばれて、あの劣悪な環境で詰め込まれていた他の収容者たちとは違って、特別な待遇を受けることができたのだ。
 しかし毎日、貨車に乗ってさらに新たな収容者たちが運ばれてきて、その収容所に引き込まれた線路の傍に立って、彼女たちは明るく楽しい曲を演奏するように命じられたのだ。
 貨車に乗ってきた人々たちの間からは、笑顔さえも見られたという、この後ガス室送りになるとも知らずに。
 彼女は涙を流しながら、その明るい曲を演奏し続けたのだ。心の中で、”神様あなたはなぜに沈黙しているのですか”と問いかけながら。

 彼女はそうした毎日の辛い思いに耐えきれず、看守長のヘスラーに申し出たのだ、”どこかに配置換えをしてください”と。しかし、看守長の答えは、”このままオーケストラの団員として演奏し続けるか、懲罰(ちょうばつ)労働に行くかどちらかだ”という答えだった。
 彼女に生きるための選択余地はなかったのだ、ガス室送りの仲間たちへの負い目を感じながらも。

 しかし1944年、ナチスは崩壊してドイツは戦いに敗れ、このアウシュビッツの囚人たちもようやく解放されることになったのだが、それまでに三つの収容所に分けて送り込まれた人は120万人ほどにもなり、生きて解放された人々はすべてあわせてもわずか5万人ほどだったと記録されている。
 解放されたゾフィアは、母の故郷でもあった町へ行き、そこで事務職に就いたのだが、たまたま軍服姿の人を見たことで、当時の悪夢がよみがえり彼女は卒倒してしまったのだ。
 当然のように仕事を辞めるしかなく,他の人たちからも孤立していくことになり、さらに自責の念が長い間彼女を苦しめて、森や林の中を何時間も歩いたことがあったという。
 こうして長い間苦しむくらいなら、むしろ銃殺されて一瞬のうち死んだ方がましだとさえ思ったのだ。
 さらに、自分の好きな音楽に戻ろうとしてラジオから流れ来る音楽に耳を傾けていたが、その時に収容所時代に自分が演奏していた曲が流れてきて、彼女は倒れこんでしまった。
 その後、男の人と一緒に暮らしたこともあったが、彼女の苦しみを理解できずに、彼は去って行った。

 そして解放されてから13年たった1958年、35歳になった彼女は意を決して、亡くなった人々に謝罪する思いでアウシュビッツを訪ねてみることにした。
 そこでは、よみがえるつらい思い出に足がすくむほどだったが、一方でまた自分と同じようにここを訪れている人たちがいて、その歩き回りひざまづき横になったりしている人たちを見て、なぜか妙な安らぎを覚えて、少し力が湧いてくるのを感じたという。
 収容所には、人間の心の深い闇を抱えた人と、人間の尊厳を持って生きていこうとした人たちがいた。
 忘れられないのは、あの頃、その収容所内にいた助産婦のことで、彼女は、看守から生まれた子供はすぐに水につけて始末するようにと命令されていたにもかかわらず、遅かれ早かれ死ぬ運命にあるその赤ちゃんを、せめて一度だけでもお湯を使わせてあげようと、重たいお湯のバケツを下げて行き来していたその姿を、今でも思い出すという。彼女の名前は、確か”マリア”だった。

 その後、ゾフィアはラジオで好きな音楽を聞けるようになり、周りの人たちとも少しずつなじんでいって、今では一週間に一度、同じ収容所の音楽隊にいた仲間の一人が訪ねて来てくれているのだが、その時に今受けているインタヴューの流れで、その友達の彼女があなたの収容所での思いではと聞かれて、思わず彼女は下を向いてしまい、固い顔でもうこれ以上話すことはできませんと答えていた。
 ゾフィアの左の薬指には結婚指輪がなかったけれども、彼女よりはずっと年上なのに若く見えるその友達の指には、古い結婚指輪がはめられていた。

 ゾフィアは、最後にインタヴューに答えて言った。
 私の人生や、この世界にどれだけの意味があるのか、人間が生まれてくることにどんな価値があるのかと思い悩んだけれども、今言えることは、私はここまで生きてきたおかげで、人生そのものやこの世界を深く見る力が与えられたように思うし、また人生には何かの意味があるはずだと思いたい・・・と。

 さらにこの番組を見終っての、写真家大石芳野さんの話から・・・このホロコースト(民族虐殺)は、このナチスによるものだけでなく、さらにカンボジアにおけるポルポト派による大虐殺や、あのコソボでの事件からの旧ユーゴスラビア内での民族浄化の戦争、アフリカはルアンダ、スーダンでの虐殺戦争と続いている。 
 今の時代は、民族的ナショナリズムの暴発を、理性と教養でかろうじて押さえているが、いつまた起きないとも限らない。
 しかし一方で、そうした事件を引き起こした側からいえば、まして末端にいる兵士たちのように命令を受けて実行する立場に立たされていたら、命令に従わないと自分が殺されることになるから、その恐怖から逃れるためには、仲間でさえも殺すことになるだろうし。あなたはどうしますそんな立場に立たされたら・・・と。

 神の沈黙。
 生きるために生きること。 

 これらの解決しがたいテーマはまた、あのイングマール・ベルイマンの映画の世界へとつながっていくのだ。

 ここまで書いてきて余りにも辛いテーマばかりで、さすがの私もイヤになってきた。私にはとても荷が重すぎる問題ばかりだからだ。
 もっともそれほどまでに、このドキュメンタリー番組を見た時の衝撃が大きかったということだろう。
 今までにこのアウシュビッツでのホロコーストについては、あの生々しいドキュメンタリー映画『夜と霧』(1955年)や、他のドキュメンタリー番組などでたびたび見ていたのだが、この番組ではそうした残酷な事実の映像よりは、彼女の良心にさいなまれる心の軌跡をたどっていて、今回私が強く感じたのは、そう考えたくはないけれども、確かに在るであろう人それぞれの運命と、その運命に抗(あらが)おうとする人それぞれの対応にあったのだ。

 あーいやだいやだ。年寄りにはあまりにも深い問題ばかりで、すっかり夜遅くまでかかり、疲れてしまった。
 もうこんな話は終わりにして、来週は好きなAKBの話を書くことにしよう。

 待望の新曲が、”ゆきりん”と”にゃんにゃん”の二人のおねえさんがセンターだということだし・・・楽しみだ。