ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

北の山 春

2017-05-30 22:29:42 | Weblog



 5月30日  

 数日の間、曇りや小雨の日が続いた。
 その暗い天気の中、時折、エゾハルゼミが一匹、二匹と鳴いていた。 
 しかし、昨日今日と見事に晴れ渡り、気温は27度までも上がり、家の林は、いつものエゾハルゼミたちの大合唱となった。
 
 私も、山に行ってきた。 
 今の時期ならではの、まだ分厚く残る残雪にステップを刻みながら、爽快な春山を楽しみたいと思っていた。 
 しかし、調べてみると、去年の四度にも及ぶ、北海道を襲った台風の被害がここかしこに及んでいて、あの道央と道東を日勝峠で結ぶ、大動脈の国道38号線がいまだに復旧していないように、なおさらのこと、営林署管轄の山間部の林道にまで修復が及ぶはずもなく、日高山脈はこの十勝側だけでも、芽室岳、伏見岳、十勝幌尻岳、ペテガリ岳東尾根、楽古岳など名だたる山々への林道が通行止めになっていて、さらには夏山にかけての、伏見岳からピパイロ岳、幌尻岳などのルートや、札内岳、エサオマントッタベツ岳などへのルートも当分使えなくなるということだろう。
 
 今回も、伏見岳か芽室岳に行くつもりだったのだが、どうしても登りたいのなら、林道を長時間歩くという手もあるのだろうが、今の私にはそれだけの元気もなく、こうして林道が通行止めだらけの現状ではいかんともしがたいのだ。 
 残されたのは、北部日高の低山か、前衛の山々になってしまう。
 そこで、もう何度も登ってはいるが、林道を走ることもなく舗装された町道からすぐ山に取りつくことのできる、剣山(1205m)に行くことにした。

 快晴の空の下、中部以南の山々には少し雲がかかているところもあるが、天気分布予報では、昼までにはほとんど雲も取れるだろうとのことだった。
 清水町に入ったあたりで、いつも写真を撮る場所なのだが、ビート(砂糖大根)畑のなだらかな斜面の向こうに、目指す剣山が見えていた。(写真上)
 思った以上に、残雪が少なくて、残念な気もするが、ともかく天気がいいことだけでも良しとしよう。
 もっとも、同じ快晴でも、空気が澄み渡った日には、反対側に遠くニペソツ山、ウペペサンケ山などが見えるのだが、空は晴れていても、もやでかすんでいて東大雪方面は全く見えなかった。
 その上にもう一つ気になるのは、気圧配置が南高北低となっていて、少しその等高線が混んでいることであり、上空にはレンズ雲も出ていて、風が強いことを示していた。

 登山口の剣山神社に着くと、他にクルマが2台停まっていた。 
 日の出の早いこの時期には、昔だったら、薄明るくなった4時前くらいのには家を出ていたものだが、今では、年寄りの余裕というよりは、年寄りのぐうたらさで、ゆっくりと朝食をすませてから家を出るので、いざ登山口を出発した時には、もう7時にもなっていた。

 登山道を歩きだしたすぐの所から、もう薄紫のシラネアオイや赤いオオサクラソウの花が咲いていて、山に来た喜びを感じる。 
 ゆるやかに続く尾根道には、青空を背景にして、新緑のミズナラの若葉が風に揺れている。
 道の所々には、信仰の山として開かれたこの剣山の昔を示すかのように、不動明王(ふどうみょうおう)や千手観音(せんじゅかんのん)、薬師如来(やくしにょらい)などが彫り込まれた祠(ほこら)が置かれていて、足元の道の両側には、家の林でも咲き始めている、チゴユリの小さい白い花や、キスミレなどが点々と咲いていた。 
 さてこの後は、急な山腹の登りになり、途中で後ろから鈴を鳴らして登ってきた来た人に抜かれ、しばらくしてまた鈴の音が聞こえてその一人にも抜かれてしまったが、最近では当たり前のようにそれが気にならなくなってきた。
 さらには、こうして皆が鈴をつけて登っているので大丈夫だろうと考えて、私は持ってきていた鈴は取り出さずに、いつものようにストックの石突き部分で音を立てながら登って行った。

 やがて、上の方でいくらか明るくなったミズナラの林の尾根に出て、道には白っぽい岩が出てくる。
 というのも、この剣山を含めて日高山脈北部の東のふちは花崗(かこう)岩脈が通っていて、この剣山や隣の久山岳(1412m)ではそうした花崗岩が顕著である。 

 ようやくのことで、一の森(906m)の小さな台地に着いた。 
 ここまででも、コースタイムの1時間半以上の時間がかかり、久しぶりの登山で疲れ果てて、さらには時々強風が吹きつけてきては不安をかき立てて、もう引き返そうかと思ったほどだったが、一休みして、周りに咲く鮮やかな赤紫色のエゾムラサキツツジの花と青空を見ていたら、また元気も出てきた。 
 すぐそばにある大きな花崗岩の周りは、ちょっとした砂ザクの道になっている。 
 思い出すのは、北アルプス燕岳(つばくろだけ、2763m)から北燕岳に及ぶ広範囲な砂ザク斜面であり、その先の孤峰、唐沢岳(からさわだけ、2632m)の花崗岩の静かな山頂も忘れ難い。 
 さらには南アルプスは甲斐駒ヶ岳(2967m)の摩利支天(まりしてん)付近や、鳳凰三山(2840m)の砂ザク道もあるし。 

 この一の森から、さわやかなダケカンバの中の道を少し下ると、行く手にようやく残雪の斜面が見えてきた。(写真下)



 しかし、”これこれ”と喜んだのもつかの間、道は右に山腹のジグザグへとたどる。 
 多少がっかりしながらも、足元に咲く花々を見ながら登って行くと、道の真ん中にある石の周りに、キスミレが見事に並んで咲いていた。(写真下) 
 これは、初めて見たものではなく、前にも同じ所で写真に撮った記憶があるし、この先の岩の割れ目に沿って咲いているヒダカイワザクラも、前にも同じ所で見ているから、そうしたなじみの花と再び出会う楽しみもあるのだ。



 ロープ付きの急な裂け目を登って、二の森の鞍部に着き、そこからは稜線に連なる岩峰群を右に巻いて登って行く道になり、やがて再び三の森への急な登りになる。 
 しばらく前に、この辺りでヒグマに遭(あ)ったことがあり(’08.11.14の項参照)、どうしても思い出してしまって、ひときわストックの音を立てて登って行く。
 そして、稜線の鞍部に着いてからは、さらに岩を回り込んで一登りをすると、絶壁の崖の上に突き出した一枚岩の展望テラスのある所に着く。 
 危険だからとロープが張ってあるが、何しろ唯一の山頂を遠望できる場所でもあるし、いつものように恐る恐る岩盤の上を這って写真を撮る。(写真下)



 あの北アルプスの剱岳(2998m)こそは、日本一の名峰であると私は思っているが、そんな名山とは比較するべくもないが、今眼前にある、まるで剣の剣先のようなこの姿は、剣山という名前にこそふさわしいものだ。
 左に遠く残雪に覆われた十勝幌尻岳(とかちぽろしりだけ、1846m)も見えている。
 まだ若いころには、残雪期の山と言えば、まずこの十勝幌尻岳を目指しては、そこからの日高山脈随一の大展望に酔いしれたものだが、年寄りになった今では、もうすっかり足が遠のいてしまったが、残雪期から紅葉、初冬の時期まで、併せて20回近くは登っているだろうし、何といっても、この十勝幌尻岳こそが私の日高山脈なのだ。

 再び岩峰山稜の西側に回り込んで行くと、もう戻って来る人に一人、また一人と出会い、さらに少しの登り下りをした後、ようやく頂上直下のハシゴ場に出る。
 昔はこんな絶壁ではなかったし、こんな長いアルミのハシゴもかけられてはいなかった。
 手製の木のハシゴが二つかけられていただけで、それですぐに頂上の岩の上に出られたのだが、おそらくはこの一枚岩のスラブの半分ほどまでついていた、土の斜面が崩れ落ちてしまい、この岩の途中からハシゴに取り付いて登るしかないというルートになったのだろう。
 ここでは巻き道を作るのもむつかしく、出来るならハシゴの手前から右下に大きく下る巻き道を作って、西尾根に出て頂上へと登る道を開削(かいさく)する他はないのだろうが。
 あの北アルプスは槍ヶ岳(3014m)の頂上直下の鉄製のハシゴ場ほどではないにせよ、私でさえかなり緊張したくらいだから、もうこの剣山は、初心者向きの山とは言えないのかもしれない。 
 むしろ、安全な登山道が続く隣の久山岳(きゅうさんだけ、1412m)のほうが、似たような展望ながら、より主稜線に近づいての展望を得ることができるし、余り知られていないこの山の方が、むしろ初心者向きなのかもしれない。(ただし、途中の道での、去年の台風の被害にもよるのだが。)

 そして、3段に分かれたハシゴを登り切って、岩峰と斜めになった岩盤でできた頂上に着いた。コースタイム3時間の所を、30分以上も余計にかかっていた。
 しかし、ちょうど、誰もいなかった。風も思ったほど強くはなく、山々の一部には少し雲もあったが、まずは申し分のない展望だった。 
 早速、カメラを構えて写真を撮る。 
 まずは、なだらかな北部日高の低山部分から、ひとりくっきりとした山頂部を持ち上げた芽室岳(1754m)の姿が美しく、そこから東に伸びる尾根が久山岳からこの剣山へと高度を落としながら続いているのがよくわかる。(写真下)


 
 この芽室岳からの主稜線は、南下しながら1726m峰へと続き、さらにルベシベ山(1740m)へと至り(その間には遠くチロロ岳も見えるが)、もちろん道はないのだが、その昔この残雪期に、芽室岳からの往復という形で縦走したことがある。

 そして、このルベシベ山からからさらに続いて、ピパイロ岳の西の肩へと上がるが、その右には日高山脈第3の高峰である1967m峰(かつてヌカビラ岳を経由して縦走)がそびえ立っている。
 さらに、ピパイロの西の肩から主稜線を離れて東に続く尾根は、ピパイロ岳本峰(1917m)から伏見岳(1792m)、妙敷山(おしきやま、1782m)へと伸びている。(写真下、右から1967m峰、ピパイロ、伏見、妙敷、手前の濃い緑の山はトムラウシ山でピパイロと伏見の展望台である。)



 そして、主稜線はここからは見えなくなるが、北戸蔦別岳(1912m)を経由して戸蔦別岳(とったべつだけ、1959m)に至り、日高山脈最高峰の日高幌尻岳(2053m)はその主稜線から西に離れた支稜線上の山になる。
 戸蔦別岳からさらに連なる主稜線は、折れ曲がって、日高幌尻岳の最高の展望台である1760m峰('09.5.21の項参照)からカムイ岳(1756m)そして、カール壁が見事なエサオマントッタベツ岳(1902m、’09.5.19の項参照)からさらに南下して、あの日高山脈第2の高峰、カムイエクウチカウシ山(1979m)へと続くのだが、そのカムイエクはこの剣山からは見えない。
 一方、エサオマンから東に大きく張り出した支脈は、JP(ジャンクション・ピーク、1869m)から札内岳(1896m)へと連なり、そして最後に、十勝平野に大きく張り出した、十勝の父なる山、十勝幌尻岳(1846m)になるのだ。

 ここまで長々と書いてきた山々の眺めにつては、まさにこれらのすべての山々に登ったことのある、私だけの思い出にあふれた山々であり、誰のためにでもない、まさに自分のためだけに書いたものである。
 あーあ、楽しかった。こうして書いている時も、思い出す時も。

 頂上に着いて15分くらいたったころ、ひとりそしてもう一人と登ってきて、それぞれに別な岩の上に腰を下ろして山々の景色を眺めていた。
 風もだいぶ収まってきて、静かだった。
 さらに後で、下り始めたところで女の人が一人登ってくるのに会ったが、今日出会った、7人の人すべてが、単独行者であり、時折鈴の音が聞こえるだけの、大声での話声一つ聞こえない静かな山だった。皆、山が好きなのだ。
 そしてかなり下ってきた下の方で、なんと5人連れの若い男女が登ってきたが、山で身に着けてはいけない(伸縮性に劣り吸湿性の高い綿製品の)ぴちぴちのジーパン姿の上に、時間も昼過ぎだし、今から登って大丈夫だろうかとも思ったが、もっとも私が今日出会ったのはいずれも中高年の人たちたちばかりだったので、こうして山に登る若者たちがいるということは、うれしく頼もしいことでもあるのだが。

 後は、風の吹きすさぶ音と、下の林の方ではイカルやヒガラにアオジ、そしてツツドリの声が聞こえていただけだった。
 しかし、下り道は悲惨だった。
 疲れ果てて、足先が、太ももが、ヒザが痛くて、やっとの思いで一歩一歩と下りていき、咲いている花たちを写真に撮るべく休みながら(写真下シラネアオイ)、やっとの思いで、コースタイムの下り2時間の所を、たびたびの休みを入れて3時間もかかってしまった。
 そして、ようやくクルマに乗って近くの国民宿舎に行き、風呂(安い!)に入って、お湯の中でていねいに脚全体のマッサージを繰り返した。
 風呂から上がり、普通は見ることのできない、わが身を大きな鏡に写して見た。

 あぶら汗がタラーリ、タラーリ。
 ”四六のガマは、四方鏡の箱に入れられて、醜(みにく)おのが姿に、思わずあぶら汗がタラーリ、タラーリとしたたり落ちて、それを三日三晩煮詰めて煎じたものが、この霊山剣山のガマの油だ。さあ、お立会い、ひとたびこのガマの油を塗れば、どんな悩みも心配事も、たちまちのうちに、山のあなたの空遠く、山のあな、あな・・・と消え果てて、ただ後はおつむてんてん・・・チョウチョウがヒラヒラと舞う頭の中になりまする。”

 確かに大鏡に映った、わが醜き姿は、テレビコマーシャルに出てくるダイエット療法前の、Beforeの姿そのものであり、つまりは山に弱くなったというのも、10年ほど前のまだ旺盛に新しい山々を目指して登っていたころと比べて、10kgも増えた体重にあることは、一目瞭然なのだ。
 ただでさえ登山回数が減ったうえに、余分な10kgのお肉を背負って登っているようなものだから、普通のコースタイムで登れなくなったのは当たり前のことなのだ。
 確か、ダイエットの方法のうちに、食事や運動療法以外に、毎日、鏡に自分の姿を映しては体重計に乗るだけ、というものもあったと思うけれども、それは確かに納得できるし、今の私には、そんなあぶら汗をかくことが必要なのだろうが。
 食後、長々と寝そべって、テレビでAKBを見ながらまんじゅう食っているようでは、とても本気で山に登りたいようには思えないし。

 ”おまえは、何がしたいのだ。”
 ”おまえは、なぜそうしたいのだ。”
 ”おまえは、本気でそうしたいのか。”




  


北の国から 春

2017-05-22 18:36:56 | Weblog



 5月22日

 数日前に、北海道に戻って来た。
 すべてが、緑に満ち溢れていた。
 ”芸術は爆発だ”といったあの岡本太郎氏の言葉を借りるまでもなく、そこは まさに北国の春の”爆発”だった。

 まずは、近くの高みに上がって、私の北の山々たちと対面する。
 北は芽室岳(1754m)から、南は楽古岳(1472m)に至るまでの、日高山脈主峰群が、いまだに白い残雪に覆われた姿で立ち並んでいる。
 今までに、私はいつもひとりで、これらの山々の頂きを目指して、幾度となく登ってきた。 
 それは、日高山脈の登山の記録に残るものとか、他人に誇るべき山行だとか言えるようなものは何一つなく、ただ”山好き”な男が、この日高山脈にあこがれて、それらの山々に登り続けただけにすぎない。
 そうして、私は多くの時間を山にあててきて、そのために自分の人生の中で、いくつかのものを失い、そしてまたいくつかのものを手に入れることができなかった。

 しかし、それでよかったのだと思っている。
 自分のためだけの、艱難辛苦(かんなんしんく)のひと時と、歓喜陶酔のひと時を味わい、今でも、そうしたあの時の思い出に満ちあふれた山々が、変わらずにいつもそこにいてくれるからだ。
 (写真上) 左からピラミッド峰(1853m)カムイエクウチカウシ山(1979m)、1903峰、1917峰、春別岳(1855m)。


 さて、わが家の庭に戻ってくると、すでに春の盛りの繁茂期を迎えた草花たちであふれていた。
 まず最初に取りかかった仕事は、”タンポポ抜き”である。
 もちろん、タンポポは春を教えてくれる大切な花であり、野原や道端を黄色一色で染めあげては、いつもの穏やかな田園風景を見せてくれるのだが、そのまま見過ごしていると、その勢力範囲がまさに爆発的に増えてしまうのだ。
 晴れた日の、一面のタンポポの原っぱは、確かに見ていて気持ちがいいものだが、それがいつしか花が終わり、白い綿毛に変わって種が四方に飛んで行くと、後にはしっかりと根付いた葉だけが、そのまま群れ集まって残っていることになり、他の草花や畑の作物にとっては、全くやっかいな植物になってしまうのだ。
 それも、今や希少種になった二ホンタンポポならば、何とかこのままにしておいてあげようとも思うのだが、しかし今では、日本のタンポポのほとんどが、花の付け根のガクが反り返った外来種のセイヨウタンポポだから、余計に何としてもこれ以上繁殖させないようにと、抜き取りにかかるのだ。

 それも、種を作る花だけを摘み取ったところで、また次々に茎の所から新しい花芽が出てくるし、それを防ぐためには、なるべく深く張った根ごと抜き取るしかない。
 さらに注意しないといけないのは、そのタンポポのたくましさであり、ただ一心に子孫を残そうとする花の根性には驚かされるのだ。
 抜き取ったタンポポをそのまま放置していると、本体はしぼみ枯れていっても、花の部分はしっかりと生きていて、そのまま花から綿毛に変わっていくし、まだ花になっていない花芽だったとしても、その後花になり、綿毛になるまで生きているというど根性の植物なのだ。
 自分が死ぬ間際まで、次の世代へとつなごうとする、生命力あふれたタンポポを見ていると、もはや枯れ果てたじじいだからとあきらめ、半ば達観しては、世の中を斜めに見ている自分が恥ずかしくさえ思われるのだ。

 そして、庭に咲く花々は、早春の花、フクジュソウやクロッカスなどはとっくに咲き終わり散ってしまい、その痕跡すらないけれども、チューリップは今が盛りの大きな花弁を開いているし、シバザクラもいっぱいに咲いている。 
 さらには家の林のふちには、あの北海道の春の野の花として代表的な、オオバナノエンレイソウが、その白い清楚(せいそ)な花を咲かせていた。(写真下)




 さらに、林の中には、もうツマトリソウやベニバナイチヤクソウが咲き始めていたが、気になるのは、先ほどのオオバナノエンレイソウの写真の左上にも少し映っている、あの北海道の春の山菜の代表でもあるアイヌネギ(ギョウジャニンニク)である。
 写真に写っているように、もう葉が大きくなりすぎていて、もともと地上に出ている茎から上の部分だけを採るのだが(球根が一番いいところだがそこまで採るともう来年以降は生えてこなくなる)、ともかく食べるにはもう遅すぎるくらいなのだが、それでも採りに行きたいし、なにはともあれ、それは急を要することなのだ。 
 そこで、こちらに戻って来た翌日には、いつもの裏山の沢へと出かけて行った。 
 そして、その通いなれた沢沿いの斜面には、たっぷりのアイヌネギの群落があった。
 確かに時期的に遅く、若葉のころの新鮮な葉からは成長していて、すでにみんな大きくなってはいたが、そのぶん茎の部分も大きくなっていて、食べごたえはあるのだが。
 ここは、相当に入り組んだ山の中だから、他に来る人とてなくて、もう何十年も私一人がとっているだけである。 
 このアイヌネギは、北海道全域に分布しているから、北海道の山野のいたるところで見ることができるし、まして私は、沢登りなどで山に登っている時に、何度もその大群落に出くわしたことがある。

 もちろん、そんな道なき山の沢沿いに歩いて行くわけだから、ダニにやられることは覚悟しなければならない。 
 途中で気づいて払い落としたものと、家に戻ってきて、つなぎの服を脱いでダニを探してつぶしたりして、合計7匹、さらに翌日になって、体のわきに食いついているダニを見つけたが、時すでに遅く、脂ぎったこのおやじの体の肉身に深く食い込んでいて、後は、その痛みを感じたまま、ダニが血をいっぱい吸って、自然に自らポトリと落ちてくるのを待つしかないのだ。 
 
 さらに山菜は、すべてが今が出盛りになっていて、ワラビ、コゴミ、ウド、フキなどといった具合で、さらには、いつもそのてんぷらが絶品なあのタラノメが、なんと遅すぎて、というよりは例年よりははるかに早く芽が出て葉が開いてしまっていて、食べられるタラノメは、わずかにその小さな脇芽を二つ三つ採っただけなのだ。 
 私がこの北海道に戻って来た時から、すでに気温が高く、その時からずっと27度から30度にもなる、快晴の日々が続いていて、ようやく曇り空になった今日から、平年並みの15度くらいの気温になってくれてはいるのだが、このふり幅が15度にも及ぶような気温の日較差、変化の激しさこそが、この北海道は十勝地方の特徴ではあるとわかってはいても、どうしても思ってしまうのはこれが世界規模の、地球温暖化の前触れの一つでなければと・・・。

 ともかく、こうして北海道に戻ってくると、春の盛りになったからこその仕事がいろいろとあるうえに、冬の間そのままにしていて、すぐに片づけなければならない仕事もあって。 
 その一つが、去年三度も襲ってきた台風による、自宅林の被害であり、そのほとんどは九州に戻る前までには、伐木し整理してはいたのだが(’16.10.3,10の項参照)、まだ傾いたままの木もあり、そのうちの一つは、隣の農家の畑に少しかかっていて、これは早急に処理してしまわなければならない。
 町のガソリンスタンドに行って、ガソリンを買ってきて混合燃料を作り、それをチェーンソーに給油しては、その大きなカラマツの倒木を切っていく。 
 林の中は、風が吹き抜けて少しは涼しいけれども、この日の気温は30度くらいもあって、切り倒した後は大体一間(180cm)くらいの長さに切り分けて、汗まみれになっては奥まで運び並べる。 
 一本終わっただけで、のどはカラカラに疲れ果てて、家に戻って一休み。 ありがたいことに、外は30度あっても丸太づくりの家の中は涼しく20度以下くらいで寒いくらいだ。
 一休みして、もう一本も切ってしまうが、やはりのどが乾いて疲れ果て、再び家に戻って、ノンアルコール・ビールを一杯飲む。

 ああ、うまい。生きててよかった。

 さらに昨日は、私の髪の毛のように、薄くなりハゲちらかしていて、部分的にふさふさの、形ばかりになっている芝生を、まずは草苅りガマによる粗(あら)刈りをして、その後で電気芝刈り機で刈り込んで、そのほかの草刈りと併せて、夕方までには、終えることができた。
 ただし、芝地とシバザクラの境目をきちんと作っておかなかったために、両者が入り乱れて、芝刈り機が使いにくくなっていて、そんなところに、早くもミヤマカラスアゲハがやってきては、その小さなシバザクラの花の蜜を吸っていた。(写真下)
 3年前に同じミヤマカラスアゲハを撮った時には、シベリアザクラの花を背景に、そしてシバザクラの所では二匹並んできれいだったのだが。(’14.5.19の項参照)

 さて、今日は朝から曇り空で、気温も15度くらいの平年並みの気温に戻って、このブログ書きもあって、一段落ついての一休みの日になったのだ。
 それまでは毎日、仕事が終わり夕食の後、テレビを見ていると、もう9時くらいには眠たくなり、すぐにバタンキューというありさまで眠り込んでしまい、そのぶん朝5時には目が覚めて、極めて正しい田舎のおやじの一日を送っているのだ。
 九州にいた時は、ぐうたらに過ごしては、万葉集だ古今集だとのめり込んでいたのに、労働が前面に出たこちらに来ると、もうそうした”万葉の時代の時間の流れ”など、遠い昔のことのようで。
 九州にいた時には、あんなに水に不自由して、風呂にも入れず、溜め込み式の外トイレしかない北海道の家になんか、できれば行きたくはないと思っていたのに、いざ来てみると、やはりここは、自分で決めて、自分一人で家を建て、ずっと住み続けようと思っただけのことはある、素晴らしい所だったのだと考え直すばかりで。

 かつて、”不倫は文化だ”とうそぶいて、ひんしゅくをかった芸能人がいて、私も当時は、二人の女を愛するなんて何と嘆かわしい言葉だと思っていたが、もちろん対象となる意味こそ違え、こうして今、二つの家の間を行き来している私には、この違う土地をそれぞれに愛することが、どちらか一つに決めてしまうのではない、ゆるやかに連環する二つの地元愛にも思えてきたのだ。
 ”ぜいたく”だとか”優柔不断”とか言われ続けようとも、いよいよ体が動かなくなるその時まで、私はこの二つの家の間を行き来し続けたいと思う。 

 姉妹である二人の女を愛した男と、二人の男友達を愛した女の、それぞれの物語、私の敬愛するフランスの映画監督、フランソワ・トリュフォー(1932~1984)の『恋のエチュード』(1971年、原題『大陸の二人の淑女』)と『突然炎のごとく』(1961年、原題『ジュールとジム』の話が、今にして少しはわかってくるような。

 
 


春から夏へと

2017-05-15 21:46:52 | Weblog



 5月15日

 数日前に、またいつもの裏山に登ってきた。
 そして、いつものように、誰にも会わない静かな春の山だった。 
 この冬から春にかけて、数回は登ったことになる。 
 そのぶん、クルマで出かけて行って、他の山に登ることが少なくなったということでもあるが。 
 家から歩いて2時間半ほどで頂上に立てるが、少し楽をしたい時は、一応の登山口になる所まで車で行けば、30分ほどの短縮にはなる。 
 最近、とみに”じじい化”しつつある私には、全くおあつらえ向きの、私の都合に合わせてくれる山ではある。
 意味は違えども、あの早逝(そうせい)した名歌人、石川啄木(いしかわたくぼく、1886~1912)の、余りにも有名な歌を思い出す。

「ふるさとの山に向かいて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」 

 確かにこの歌は、他の啄木の有名な歌と同じように、この一つだけを取り上げても、十分に理解できる歌ではあるが、やはりこれは詩集『一握(いちあく)の砂』の中の一編、”煙”と題された連作歌集の中の一首として、見るべきものだろうと思うのだが。
 その”煙”の中の、(二)として分けられた連作歌集の冒頭に掲げられているのは、これまた良く知られた歌である。

「ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」

 そして、この歌の後に、(二)としての五十数首の連作の歌が続き、最後に冒頭の”ふるさとの山”で、締めくくられることになっているのだ。

 この連作の歌の中には、有名な・・・「やわらかに 柳あおめる 北上の 岸辺(きしべ)目に見ゆ 泣けとごとくに」のような歌もあるのだが、他には、例えば・・・「田も畑も 売りて酒のみ ほろびゆく ふるさと人に 心寄する日」などのように、多くは故郷、渋民村(しぶたみむら)の今と昔の哀感を歌ったものが多く、それがまた連作歌集としての物語性を強くしているところもあって、そうしたことから、どうしても同じ岩手は花巻の、詩人童話作家でもあった宮沢賢治(みやざわけんじ、1896~1933)のことを併せて考えてしまうのだ。
 その宮沢賢治については、前にもここで何度か取り上げたことがあるのだが、また別の機会に書いてみたいと思っている。

 それにしても、いつも思うのは、こうした天才作家たちのあまりにも早すぎる死である。
 石川啄木26歳、宮沢賢治37歳。
 いずれも、昔は”不治の病”とされた、結核にかかわる病気で吐血(とけつ)を繰り返し、亡くなっているのだ。
 私の母のすぐ上の兄、つまり私にとっての伯父(おじ)も結核で亡くなっている。
 その叔父の死の前後のことは、少しだけだが母の口から聞いていて、その時の様子が目に浮かんでくるようだった。
 離れの馬小屋の一隅に隔離された、まだ20代だった兄と、そこに食事を運んでやっていた妹の母、ランプの明かりのもと・・・。
 今に生きる私たちが、昔のことを書いた小説や、古い映画の中でしか見たことのないような、静かで悲惨な、しかし小さな安らぎのある光景・・・。

 人生に、運不運はつきものだとしても、こうした早逝の天才たちが、いかに数多くいたことか。
 同じ文芸の世界でも、樋口一葉の24歳、中原中也の30歳などはあまりのも痛ましい。
 さらに世界を見てみれば、イギリスのブロンテ姉妹(『ジェーン・エア』『嵐が丘』)の30歳29歳というのも哀しいし、ましてや音楽、絵画などの分野にも目を向ければ、せめてもう10年生きていればと思うほどの、才能あふれた多くの若者たちがいたことに気づいて、今さらながらにため息をついてしまうのだ。

 かと言えば、一方では、悲しいかな、無芸大食のまま、いたずらに馬齢(ばれい)を重ね、彼らに倍する人生をだらだらと生きてきただけの、私のような人間もいるのだから。
 しかし、そのことが、自分を卑下(ひげ)することにつながってはならない。
 確かに人は生まれながらにして不平等であり、その後も不公平な差配を受けて生きていく他はないのだが、問題はそこからであり、いかにして自分なりの一歩を踏み出すかなのだろう。
 努力することもなく、いつまでもかなうはずのない夢を追いかけて、ただ成功した人をうらやんだり、愚(ぐち)をこぼしたりしているだけの人生がいかに空しいものか。
 それ相応の努力をして、今の地位ある人や、あるいは財をなした人とを、何もしていない自分と比べて、一体何になるというのだ。

 そうした時に、本当に自分にとって必要なものは、”金の斧(おの)”でも”銀の斧”でもなくて、鍛え作られたしっかりした”鉄の斧”なのだと気づくことなのだろうが。
 そして、その”鉄の斧”を、これから切り開く森の仕事で、ずっと使えるように、さびつかないように、いつも鋭い切れ味が落ちないようにと、絶えず研いでおくことが大切なのだ。

 私は、人に誇れるべきものは何も持ってはいない。
 ただ、こうして自分に与えられた古い斧を頼りに、森の中にか細い自分の踏み跡を残しながら、ここまで歩いてきたのだろう。
 もう残り少ないかもしれない、ゆく手のことを考え悩むよりは、今はただ、この静かな林の中にひとりあることを、愉(たの)しんでいたいと思う。
 幸いにも、木々の間からは、高く青空が広がっているのが見えるのだから。 

 話が横にそれてしまったが、今、私はこうして、春の山道をひとり登っているのだ。
 そして、こうも足しげく故郷の裏山に通っていると、そこにいつもあるこの山のことが、今さらながらにありがたく思われて、ふと啄木の歌を思い出してしまったというわけなのだ。
 
 林の中を行く道は、もうすべての樹々に新緑の葉が芽吹いていて、そのために、葉を落とした木々がたち並ぶ冬の時よりは、ずっと陰影が強く、まぶしく輝いて見えた。
 やがて、いつものひんやりとした静かな杉林の中に入り、一登りして、枯れ沢を渡り、上の林に上がり、その先で一面が開けて、カヤトの明るい山腹に出た。
 一休みした後、山腹を大きなジグザグに切って作られた道を登って行く。
 振り返ると、新緑の赤い葉を出したアセビの小さな株の彼方に、新緑の林が広がっていた。(写真上)

 西の尾根に上がり、ゆるやかに続く道を歩いて行くが、まだミヤマキリシマの花の時期には早く、ほとんどがツボミの状態だった。 
 そして、ほどなく頂上に着いたが、大陸からの黄砂の影響もあってか、晴れてはいたがあまり遠くの山までの見通しはきかなかった。 
 さらには、この後、午後にかけて街に出かけていく用があったので、頂上には一休みしただけで、下りて行くことにした。
 気になるのは、尾根よりは花が咲くのが早い、山の南面にあるミヤマキリシマである。
 ただしこの南尾根の道は、前にも書いていたように、下部の所が高いササヤブに覆われていて道が見えずに、一部廃道化しているのだが、それを承知で下りて行くことにした。

 そして、やはり花は咲き始めていた。
 九重のような大株のものはないけれども、カヤやススキの覆う山肌に点々と、小さなミヤマキリシマが咲いているさまは、またこれはこれでいいものだと思う。
 
 

 もちろん、これでもまだ早すぎるのだが。
 
 山に登った時から数日たった今日は、午前中は晴れていて、風が吹いて、空気も澄み渡り、気温も上がっていたから、あの時にツボミだったミヤマキリシマも、今頃はあちこちで数多くの花が咲いていることだろう。 
 山のすぐそばにいても、さらには日を選んで登ったとしても、必ず花を見たり、遠くの山々の景色が見えるとは限らないのだ。
 
 それでも、と考える。 
 あの尾根の所ではツボミだけだったのだから、こちら側に回ってまで下りて来て、花を見ることができてよかったのだ。
 そして、この青空のもと、さわやかな春の風が吹き渡っていて、他に何を言うことがあるだろう。 
 林の中に入り一度ゆるやかになった後、再び急斜面になって、そこを下ると、あの背丈を越すササの”やぶこぎ”が待っているのだ。 
 
 と思っていたのに、行く手は意外なほどに明かるかった。
 何と、ササが刈り払われていたのだ。
 しかし、それは登山道の手入れというよりは、所々に測量杭が打たれている所を見ると、おそらくは境界測量がされていたものと思われ、先の方では、その刈り分け道が登山道からは離れて下りていた。 
 その距離は、わずか500m足らずのものだったろうが、何しろ一番ひどい所が、刈り払われていて、まさに期待してもいなかった望外の喜びになったのだ。 
 そして、その登山道の出口あたりの沢沿いには、今を盛りにと、薄紫のフジの花が群れて垂れ下がっていた。
 ”終わり良ければすべてて良し”、自分で最初から高い期待値を掲げていなければ、少しだけの良き異変でも満足できるものになるのだ。

 さらに、家まで下りて行く途中の、民家の庭先の植え込みに、目を奪うかのごとき豪華な色彩の、大ぶりなツツジの花が咲いていた。(写真下)
 数種類の花の色がまじりあって咲いていて、極彩色のパレットの絵の具のようだった。
 家の庭には、これほどまでに見事なツツジの株はない。
 山の上にも、小さなミヤマキリシマがいくつか咲いているだけだったし。
 それでも、私の家の庭にも欲しいとは思わなかったし、山の上で見たいとも思わなかった。
 あくまでも、他人の家の庭に咲くツツジなのだから。
 
 三日前に、ひとしきり雨が降った後、今日まで天気のいい日が続き、さらにこの天気は数日も続くとのこと。 
 気温も毎日、25度近くまで上がり、吹く風にはまだ春のさわやかさが残ってはいるが、季節は確かに、春から夏へと・・・。



世の中は空しきものと

2017-05-08 23:55:33 | Weblog



 5月8日

 ゴールデン・ウイークの前半は、これでもかというばかりの晴れの日が続いたが、後半に入ると雲の多い日が続き、一日だけだが雨も降り、最終日の昨日の午後になって、ようやく快晴の空になった。
 しかし、と思うのもつかの間で、今度は大陸からの黄砂の襲来で、朝晴れていた空も、いつものうす曇りとは違う、鈍い色の空になってきた。
 九州の高い山では、シャクナゲやアケボノツツジが咲き始め、新緑を迎えたばかりの木々もまぶしいばかりに見えるだろうから、山に行くにはいい季節なのだが、この黄砂の空を見ると行く気もしなくなってしまう。

 そこで、庭の樹々や周りの木立などを眺めているのだが、いつもよりは早く、庭のツツジの花が咲き始めた。(写真上)
 今までは、4月半ばくらいには、北海道の家に戻っていたから、わが家のツツジの花を見られないことが多くて、まだ母が家で元気に暮らしていたころには、この庭のツツジが咲きそろった頃の写真を撮っておいてくれていたものだった。
 そんな写真を見ていたものだから、その盛りの美しさは知ってはいたのだが、やはり実際にこうして目の前で見るにこしたことはない。

 家の庭には、普通のツツジと上の写真に写っているクルメツツジとがあるのだが、クルメツツジは、わかりやすく言えば、あの九重などの高い山々で一大群落として咲く、ミヤマキリシマの園芸用栽培品種なのだが、その間にキリシマツツジと呼ばれるものもあって、私はそれぞれの種類を厳密には区別できないけれども、普通にツツジと呼ばれている園芸用植栽品種とは明らかに花の大きさが違っていて、その点では誰でも簡単に見分けることができる。

 もっとも、同じく花が大きいツツジの仲間にはサツキもあって、それは花の時期(サツキが遅い)と、ヤマザクラとソメイヨシノのように、葉が先(サツキ)か、花が先(ツツジ)かの違いがあるのだが、ともかくいろいろなかけ合わせの栽培種の多いツツジの分類は、うかつには断定できないところもあるのだ。
 東京で働いていたころ、いつも今頃になると、道に沿ってあるいは会社などの敷地の生垣として植えこまれていて、鮮やかな色合いを見せていたのだが、今でも、あのツツジの植え込みを思い出すのだ・・・私も若かったし。

 この連休の間、いつもの家の周りの散歩はしたけれども、どこにも行かなかったが、やるべき日常の仕事などがいろいろとあって、ずっと家にいても退屈することはなく、のんびりとぐうたらにそれらを消化していって、いつもと同じ日々が続くだけの連休の10日間だった。 
 それでいいのだ。
 私が、望んでいるものが、”静かな生活”だけなのだから、そうした環境の中にいられるだけでも、十分にぜいたくなことなのだから、他に今さら何を望むというのか。

 そこで、近頃は、すっかり”万葉集かぶれ”になった、このじじいめの歌を一つ。
 元歌は、あの山上憶良(やまのうえのおくら)の有名な一首。

 ”銀(しろがね)も 金(くがね)も玉(たま)も 何にせむ まされる宝 子にしかめやも” より。

 ”ディズニーも ハワイもバリも 何になる 勝れる宝は 静けさなのに”
 
 と、風にそよぐ樹々を眺めながら、一人、じじいはうそぶくのであります。

 そこに、ジャージャージャーとセミの声。悪声で有名なハルゼミの鳴き声だ。
 北海道の家の林で、5月の終わりころから鳴き始める、あのエゾハルゼミとは違う別種のセミであり、有名なミンミンゼミ、クマゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ以外のセミ名前は、まぎらわしいものが多く、私もいまだによくは区別できないでいる。
 それは、このハルゼミとエゾハルゼミの他にも、ヒメハルゼミがいて、エゾゼミの他にも、コエゾゼミとアカエゾゼミがいたりするから、余計にむつかしくなるのだ。

 さて今回は、上にあげた山上憶良について書きたいと思うのだが、”きら星輝くばかり”にいる万葉集の代表的歌人たちの中でも、私にとって最も興味深いで歌人の一人であり、万葉集に収められた80首近くもの彼の歌については、そのすべてを紹介していきたいくらいなのだが、浅学の部外者にしかすぎない私の手に負えるわけでもなく、折に触れては、一つ二つと取りあげていきたいと思っている。
 山上憶良(660~733)は、後年、奈良時代と呼ばれるようになった、奈良平城京に遷都(せんと)された(710年)前後に生きた、下級官僚の一人にしか過ぎないのだが、疑いもなく万葉集を代表する歌人の一人であり、四期に区分される万葉集の歌人たちの中では、第三期の歌人として、万葉集第5巻の掉尾(とうび)を飾って、彼の歌の多くががまとめて載せられている。

 しかし、今回ここで取り上げるのは、彼が67歳にもなって、九州は筑前の国守(こくしゅ、朝廷から派遣された地方長官、今でいう知事)に任命され、当地に赴任していた2年後に、当時、外国である中国朝鮮に面と向き合う、九州方面の外交防衛の拠点として設置されていた大宰府(だざいふ)の、その太宰帥(だざいのそち、国の長官、今でいえば国務大臣・沖縄北方担当大臣のようなもの)として、名門家系の大伴旅人(おおとものたびと、665~735、万葉集編纂者の一人大伴家持の父)がやってきたことに始まる。

 名門出身の名歌人の長官が赴任してきたことで、同じように朝廷から任命され赴任していた、歌に心得のある下級官僚の役人たちが喜んだのは言うまでもないことだろう。
 そこで、この大伴旅人に山上憶良、さらには前にもその歌をあげたことのある(’16.5.23の項参照)、あの沙弥満誓( しゃみまんせい、しゃみのまんぜい)や小野老(おののおゆ)などのそうそうたる顔ぶれがそろい、後年言われるようになる、いわゆる”筑紫歌壇”が形成されたのである。
 大伴旅人の歌は、あの「酒を讃(ほ)める歌十三首で」の中からの、特に有名な一首をあげておくが、他の歌についてもいつかはここで取り上げたいものだと思っている。

「験(しるし)なき 物を思わずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒をのむべくあるらし」

 私なりに訳すれば、”どうにもならないことを思い悩むよりは、今はともかく、一杯の酒を飲んだほうがいいようだ”(注:昔の酒は白濁した”どぶろく”だった)ということになるのだが、それにしても古今東西変わらぬ、”飲んべえ”たちの気持ちは、確かに、この一首に見事に代表されているだろう。
 
 ただし、大伴旅人には、悲しい出来事も待っていた。
 昔としては高齢にあたる、63歳の時に太宰帥(だざいのそち)に任命され、都からの長い旅についてきた同じく高齢の妻、大伴郎女(おおとものいらつめ)が、着いたばかりの大宰府の地で病に伏せて、やがては亡くなってしまい、悲嘆にくれているところに、さらに追い打ちをかけるように、都から、弟である大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)の訃報(ふほう)の知らせを受けることになったのだ。
 そして、その二人のことを思い大伴旅人が詠んだ挽歌(ばんか)が、”万葉集第五巻”の冒頭を飾る次の有名な一首である。

「世の中は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり」

 現代語に訳する必要もない、単純な悲しい歌だが、それだけに若いころには、この歌があまりにも単純すぎて、誰でも悲しい時にはそう思うことだからと、あまり評価する気にもならなかったのだが、こうして時代背景や相次いだ近親者の死という状況を知り、自分が高齢者になりつつあるという身を考えれば、確かに他人ごとではない、年寄りの悲しみとして、今さらながらに、心に深く響いてきたのだ。
 さらに注目すべきは、この歌の後に、山上憶良の作とされる、万葉集では数少ない、漢詩文で書かれた追悼文が付与されていることである。
 ここで、この長い詩文の全部を掲載することはできないが、その一部分だけでも・・・。 

「・・・四生(ししょう、生物の生のあり方)の起き滅ぶることは、夢の皆(みな)空しきがごとく、三界(さんがい、世の中のあり方)の漂い流るることは、環(たまき、腕輪の飾り玉)の止まぬがごとし。・・・。ああ痛ましきかも。紅顔(こうがん)は三従(さんじゅう、父夫子に従う)ととこしえに逝(ゆ)き、素質(白地)は四徳(婦徳など)ととこしえに滅ぶ。なんぞ図(はか)らむ、偕老(かいろう、おたがいに年老い)の要期に違(たが)い、独飛(どくひ、ひとり飛んで)して半路 (はんろ、人生半ば)に生きむことを。・・・腸を断つ哀しみいよいよ痛く、枕頭(ちんとう)の明鏡(めいきょう)空しくかかりて、染えん(竹の皮を染める)の涙いよよ落つ。泉門(せんもん、あの世の門)ひとたび覆われて、また見るによしなし。嗚呼、哀しきかも。
 愛河の波浪はすでに滅(き)え、苦海の煩悩(ぼんのう)もまた結ばるることなし。従来(むかし)よりこの穢土(えど、けがれたこの世)を厭離(えんり)す。本願をもちて、生をかの浄刹(じょうせつ、清らかな寺)に託(よ)せむ。」

 遣唐使の一人として、唐に二年滞在したとはいえ、当時としては優れた漢詩文の才能を持った山上憶良が、名門の学芸に秀でた大伴旅人に、上司としてだけではなく、深い敬愛の念を抱いていただろうから。
 その上司の妻の死に、衝撃を受けたのは、山上憶良にとっても同じことで、わが身のことのように思われるその悲しみの気持ちを、漢詩文の形をとって書き上げては、敬愛する上司大伴旅人に献呈したものなのだろう。
 60代半ばを過ぎていた二人の、相手を深く思いやる心に、私は胸打たれるのだ。
 年を取ってから失う、身内肉親の死ほどつらいものはないのだ。

 万葉集の中では、異端として、あるいは理屈が多すぎると敬遠されることの多い山上憶良だが、大伴旅人とともに60代になってからの歌が、この万葉集には多く収められていて、私は、同じ世代にあるからこその、思いや考え方をこれらの歌から学び取っていきたいと思っている。
 上にあげた、漢詩文をここに書き出し、注釈をつけるのにすっかり手間取り、他の歌や漢詩文をあげることができなくなってしまったが、この山上憶良については、また次回以降に、ことあるごとに取りあげていきたいと思っている。 

 その昔、母が山の中から取ってきては、庭に植えていたエビネランが、今年も半日陰の中で、いっぱいに花を咲かせてくれた。(写真下)
 思えば、家の草花庭木の多くは、母が一人で植えこんでいたものであり、その当時の母の年になった私が、今、その草花や樹々を見ているのだ。

(参考文献:「万葉集」(一~四)中西進訳注 講談社文庫、「万葉集」佐々木幸綱 NHK出版、古語辞典 旺文社、他)


 

  


密やかな愉しみ

2017-05-01 21:19:47 | Weblog



 5月1日

 連休には、いつも家にいることにしている。
 町も、野山も人であふれているからだ。
 そんなところに出て行くくらいならば、家のベランダの揺り椅子に座って、風に吹かれてきらめく、新緑の庭木を見ていたほうがいい。
 もちろんできるならば、この季節の野山の樹々を見ていたいのだが。
 その連休に入る前の日、朝から快晴の空が広がり、空気は澄んで遠くの山もよく見えていた。
 これは、まさに”渡りに舟”の例え通り、山に行くしかない、おあつらえ向きの日だったのだ。
(もっともその日以降、今日に至るまで快晴の天気が続き、さらには明日もまた快晴の予報なのだが。)

 この”渡りに舟”とは、行かなければならない時に、ちょうど、向こう岸に渡るための船が待ってくれているようなもので、それはまた、やがて私にも最後の時が来て、三途(さんず)の川の河原に下りて、それが三つの試練の場の、どこに振り分けられるかはわからないけれども、ともかくそこで目の前に、あの世へと向かうべく、渡し舟が待ってくれているようなものであり、”ああいい人生だった”と観念して、乗り込むことができればいいのだが。

 さてこのところ、家の周りの山にばかり行っているので、久しぶりにクルマで遠出してみようと思い、九重に行くことも考えたが、そういえば去年の秋に、紅葉の木々に囲まれてひと時を過ごした(’16.11.21の項参照)あの山の、新緑を見てみたいと思ったのだ。
 いざ、とクルマで出かけたのだが、やはり外に出れば気分はいいし、行く途中の、山々の新緑風景も、青空の下ひときわ鮮やかに照り映えていて、どうしても写真に撮りたくなってしまう。(写真上)

 登山口に着いた時には、もう9時半にもなっていたが、もっとも、新緑や紅葉の時期は、朝夕よりは日中のほうが、光に照り映えてきれいだから、絵葉書写真を撮りたい私にとっては、ちょうどよい時間でもあったのだが。
 林道をしばらく歩いて、いよいよ、涸れ沢沿いの登山道を登って行く。 
 もう、ほとんどすべての木が芽吹いていて、薄黄緑から萌黄色(もえぎいろ)が多いのだが、やはりヤマザクラやモミジ、カシの仲間の樹々のような、薄紅色やみかん色などの新緑の葉が混じっていると、その対比模様がきれいで、青空の下の春の山の季節をより鮮やかに実感することができる。

 沢沿いの道から、急斜面の山腹の道になるが、一歩ごとに新しくの木々の形が変わり、あきることはない。
 いったん、台地上の所に出て、そこから白い凝灰岩(ぎょうかいがん)の道を、ジグザグに十曲がりして林を抜け、草地になった稜線の鞍部(あんぶ)に出る。
 汗をかいた体に、心地よい風が吹きつけてくる。
 遠く、九重の山並みが見えている。まあ、どこの山を選んだとしても、今日のこの雲一つない青空の下では、何も言うことはないだろう。
 空と山と、そして私がいて・・・。
 
 一休みをした後、山頂へと向かう。
 最初は左に山稜をたどって、もう二つ向こうの山にまで行くつもりだったのだが、下の登山口にも、そしてこの先に続く尾根の入り口にも、通行できない旨の警告表示が掲げられていて、今ここでその前に立って見たのだが、山頂部からの東面の山体崩壊がひどく、反対側の西斜面も急勾配なだけに、とてもすぐに新たに道を開くことはできないだろうから、もう二度と登れない山になるのかもしれない。
 私は、今までに、冬と春先に二度、縦走したことはあるのだが。
 ともかく、行くことのできる方向にある山への道をたどることにしたのだ。

 花が咲くのは、まだ一カ月先になるミヤマキリシマや、ヤシャブシなどの灌木の間を抜けて、頂上に着く。
 そこには、反対側から登ってきただろうに二三人がいた。
 ちょうど12時になるころで、一休みしただけで、登って来た同じ道を下りて行った。
 この道は、いつも人に会うことの少ない静かなコースなのだ。樹林帯に入り、山腹斜面から、涸れ沢沿いの道を下りて行く。
 もう午後にもなるのに、ルリビタキやコルリの明るいさえずりの声が聞こえていた。
 そして去年、紅葉の木々の中でひと時を過ごした(’16.11.21の項参照)あの場所に戻ってきた。
 朝通った時には、まだ暗い影になった部分もあったが、今の時間帯になると林の中全体に光があふれていて、新緑の林というにふさわしい光景になっていた。(写真下)




 まさに、”・・・もえいづる春になりにけるかも”(『万葉集』1418 志貴皇子)といった光景だった。
 ここで、去年の秋の時と同じように、鳥の鳴き声とともにひと時を過ごし、さらに周囲に点在するヤマザクラを見るために、何度か道を外れて、山腹斜面を上り下りしては、新たな景色を楽しみ、その幾つかを写真に収めた。(写真下)
 ”思い出は心のフィルムに焼き付けて”という、賢者(けんじゃ)の言葉が繰り返し言われているけれども、いかんせん、私は、そんな美辞麗句(びじれいく)が何十年先までも続くものではなく、非現実的なものだと知っているからこそ、私は目の前のきれいな風景を、いつも私だけにわかる絵葉書写真として、撮り残しておきたいと思うのだ。




 こうした人目に触れないような、山中の景観こそが、最近、特に私が好むようになってきたものであり、まさに”木を見ずして森を見る”という鑑賞法から、次第に”森を見ずして木を見る”方向へと変わってきているのかもしれない。
 じじい好みの、ものの見かたや考え方が悪いというわけではないが、人は年相応に、自分の環境の中で、満足できるものを見出そうとするものなのだろう。
 さしずめ、今の私の好みは、”じじいだけの密(ひそ)やかな愉(たの)しみ”になっているのかもしれない。
 
 そういえば、あのルイス・ブニュエルの映画で『ブルジョワジーの秘(ひそ)やかな愉しみ』(1972年、仏・スペイン)という映画があった。
 晩餐(ばんさん)会に招かれた6人の紳士淑女が、何かの手違いでなかなか食事にありつけず、夢の中での舞台などが入り混じり、司教が殺人者の庭師の告解を聞いて、銃の引き金を引いたりと、同じスペインの画家ゴヤの描いた絵のように、空虚な貴族社会の一断面を描きながら、さらには宗教の本質までをも暴(あば)き、暗い笑いに満ちた、極彩色の混濁といった映画だったが、もっともブニュエル自身が、本来はシュールレアリスト(超現実主義者)としての映画作家であり、あの衝撃的な『アンダルシアの犬』(1928年、画家ダリとの共同脚本)から出発したことからもわかるように、彼の映画監督歴を見れば、まさにブニュエルらしい作品だともいえるものなのだが、今の制作資本主義の映画界では決して作られない映画だろうし、この映画が作られたころまでは、20世紀初頭からの、あのシュールなそしてアナーキー(無政府主義的)な芸術風潮が、まだ生き残っていた時代だったのだ。

 そして、さらに翌年、マルコ・フェレーリ監督による映画『最後の晩餐』(1973年、仏・イタリア)が公開されたが、それは食道楽の趣味で結ばれた中年男の4人が、食欲・性欲のかぎりをつくし、嘔吐(おうと)排せつ物の中で死んでいくという、まさに荒唐無稽(こうとうむけい)で退廃的な話の、日本では考えられないような映画であり、もう二度と見たくはない映画でもあるが、しかし、私が食道楽、グルメではなく、毎日をありあわせのものだけですませる粗食を旨(むね)として、質素な生活を送っているのは、一つには、反面教師としてのこうした映画を見たからなのかもしれない。
 ただ映画としての作りは悪くはないし、さらに唯一救いになったのは、豪華な演技派俳優陣の組み合わせだった。
 マルチェロ・マストロヤンニ(『ひまわり』『甘い生活』)、ウーゴ・トニヤッティ(『女王蜂』『豚小屋』)、ミシェル・ピコリ(『昼顔』『美しき諍い女』)、フィリップ・ノワレ(『地下鉄のザジ』『ニュー・シネマ・パラダイス』)。
 
 私は、今のコンピューター・グラフィックス作画による大作映画などは見たくないし、ただありがたいことに、これまでに作られた数多くの名作映画があり、そんな昔の映画を見ていれば、今でも時を越えて、映画芸術の世界を十分に堪能(たんのう)できると思っている。
 それは、文学の世界においても、私が新しい小説は読まずに、古典の世界にだけはまり込んでいるのと同じことなのかもしれない。
 
 そして音楽は、もちろんクラッシック音楽なのだが、数年前から、そこにAKB・乃木坂の音楽が入り込んできていて、それはどう説明すればいいのだろうか。
 もっとも、そのAKB・乃木坂に関する思いは、一時と比べれば、明らかに少し冷めてきたというべきか。
 それは最初から、孫娘のようなメンバーの娘たちがかわいいからというよりは、秋元康の作詞と彼が選んだ作曲家による歌が気に入ったからだったのに、最近の歌は、とても前のように録画して、何度も聞きたいとは思わなくなってきたのだ。

 はっきり言えば、秋元康による曲作りに、新鮮さが感じられなくなったということだ。
 AKBの歌の頂点は、もう何度も言っていることだが、まだ私がAKBを好きになる前の、つまり後になってテレビで見ては聞いた曲なのだが、『UZA(ウザ)』をおいて他にない。
 もちろん、その後に広い世代から受け入れられた、あの『恋するフォーチュンクッキー』や『365日の紙飛行機』のような国民歌があるとしてもだ。
 乃木坂も、後で知った『君の名は希望』から、『バレッタ』『何度目の青空か』そして2年半前の『命は美しい』辺りまでが、今でもクルマの中で聞いている曲なのだ。
 まあそうして、AKB・乃木坂の歌も、私の頭の中では、昔の歌だけを”古典”として聞き続けていることになるのだろうか。

 またしても、本題の新緑・ヤマザクラの話から、すっかりわき道にそれて、久しぶりにAKBの話にまで行ってしまったが、それもじじいの気まぐれゆえと、お許し願い、最後に、新緑の風景に戻ることにして・・・先ほどの場所の林の中で、目で木を追っていて、真上を振り仰いで見た時の光景を一枚。(写真下)
 名残(なご)りのヤマザクラと新緑の樹々・・・。ありがとう。