ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(38)

2008-03-30 17:13:04 | Weblog
3月30日 一日中、雨が降っている。気温は5度までしか上がらず、肌寒い。九重の山では雪になっているのかもしれない。
 この家のある所が、標高620m位だから、九重の山々との差は1100m程ある。気温の逓減率(高さが100m上がるごとに、気温は-0.6度下がる)からいえば、今、山の上はマイナスの寒さで、雪になっていてもおかしくないのだ。
 寒い雨の降る日、ストーヴの前でワタシはひたすらに寝ている。ものの本によれば、こうしてネコが寝てばかりいるのは、他にやることがないから、暇だからということだが、全く人間は、科学的に物事を検証しているからとか言いながら、ある意味では、その科学的データだけをまるで神のごとくに信じてしまう単純な所がある。
 それはつまり、昔の人たちが作り上げた宗教を非科学的だと批判して、決別したはずなのに、いつしか新たな絶対神である科学という名の宗教を再び作り上げて、自分たちはそのことに気づいていないのだ。
 のっけから少し難しい話になったが、それはワタシが考えるネコであるからだ。ワタシには別に、都会に住むお嬢様ネコちゃんたちみたいに、ネコ百合女子短大とかいった学歴もないけれど、この十二年の間、しっかりと学んできたのだ。ノラと飼い猫の間で、様々な経験をつみ、辛酸もなめてきた。そしてそうした環境こそが、ワタシが生きていく上での、時にはやさしく、時には無慈悲なまでの、人生、いや猫生の師になったのだ。
 こうして寝ている時でも、ずっとノンレム睡眠でぐっすり眠り込んでいるわけではなく、レム睡眠の中で夢を見たり、目が覚めて、じっと考え事をしたりしているのだ。人間だって、眠ってはいないけれど、布団の中で横になったまま考え事をしてる時があるはずだ。
 飼い主がぐっすりと眠り込んだ丑三つ時(うしみつどき)に、なぜかお寺の鐘がゴーンとなり、ネコの影が窓に映り、なにやら紙をめくる音がして、いちまーい、にまーい・・・怪談、番町皿屋敷の一節ではない。実は、昼間寝ていて考えたことを、飼い主に悟られぬよう、夜中になってひそかに本棚から本を引き出して、ページをめくり、調べているのだ。
 ネコが本を読むなんてと思うかもしれないが、前にも紹介したことのあるキルバーンのネコ・カレンダー、1981年3月のページでは、あのネコちゃんが本を広げて楽しそうに読んでいるのだ。
 ワタシも昔は、ノン・フィクションの冒険ものなどが好きだったのだが、最近は年取ったこともあって、日本の古典などをよく読むようになった。そこで、飼い主も好んで読んでいる「徒然草」からの一節を。
 徒然草、第八十九段 「奥山に猫またというものありて、人を食らふなる」と、人の言ひけるに・・・以下原文のまま書くと長くなるので要約すると・・・「山奥には恐ろしく年を取った猫が、猫またに化けて、人を食べるという噂が立ち、さらに山奥だけでなく街中にもでると噂されるようになったある日のこと、連歌の集まりで夜遅くなったあるお坊さんが、暗い夜道を恐る恐る歩いていた所、突然、獣の気配がして、そのまま飛びかかってきた。お坊さんは驚いて腰を抜かし、『猫またが出た。助けてくれー。』と、大声で助けを呼んだ。近くの人たちが何事かと駆け寄ると、青ざめ震えるお坊さんの近くに、そのお坊さんの飼っている猫が一匹。」
 今の時代にだって似たような話はあるだろう。つまり、それほど人間は、何を作り上げたか知らないけれど、単純でバカなところがあるということだ。ワタシたちネコ族を見下してはいけない。寝てばかりいるように見えるお宅のネコちゃんも、実は、薄目を開けて何かを考えているところだったりして・・・風もないのにカーテンがゆれ、はっと見上げる天井に、ネコの影が、ヒュードロドロドロ・・・どひゃー、たたりだー・・・とならぬよう、しっかり可愛がりますと家の飼い主も申しております、はい。


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