ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

心貧しき者とは

2015-10-26 22:15:04 | Weblog



 10月26日

 昨日、北海道の多くの地点で初雪が観測された、とのニュース映像が流れていた。
 いつも雪の遅い、道東太平洋側の釧路、帯広でも雪が降ったとのことだが、それが夜だったのか、私は気づかなかった。
 ただ、確かに日ごとに気温が下がっていくのは感じられるし、今の時期には見えていることが多い、日高山脈の主稜線はすっかり白くなっていて、もうこの山々の雪は根雪になって消えることはないだろう。

 毎年のことだが、家の林の紅葉も、今や盛りの時を迎えようとしている。(写真上)
 それも、毎日続く青空を背景にしているので、ひときわ色鮮やかに見える。
 赤いハウチワカエデとヤマモミジに、黄色いイタヤカエデにミズナラなどが、秋のひと時の色彩の饗宴(きょうえん)を繰り広げている。
 私は毎日のように、この小さな林の周りを歩き回り、何枚もの写真をカメラに収めては、ただただ感心するばかりで・・・。
 生きているということは、生きていくということは、そしてなんのために生きるのかということは、簡単に言い換えれば、この一年に一度の、わずか二週間ほどの、紅葉の光景を見るためなのではないのか、とさえ思ってしまうのだ。
 もちろんそれは、秋の紅葉だけではない、厳冬期の雪に覆われた山々の姿も、そして萌えいずる新緑の木々が山裾に続く眺めも、さらに夏山の稜線を彩る高山植物の群落も、こうした野山の植物たちの織りなす景観こそが、今を生きる私と伴にあるということ、それもその時だけに見ることのできる、ひと時の証(あかし)として。

 さらに、そうした私の好きなものは、もちろん野山の四季の景観だけではなく、そこに住む、生き物たちとの出会いや、それらを包み込む大空と雲が織りなす景観や、夜空にきらめくあまたの星々たちもそうであるし、さらにはたまにしか見ないけれども、青空に輝き揺らめく茫洋(ぼうよう)たる海の眺めも、また同じように心に残るものだ。
 好きなものは自然界だけではない、家の中にいても、その時々の思いに従って、自分の好きな本を読むことができるし、いつでも映像を見ることができて、また好みの音楽を聞くこともできる。
 つまり、私の身の回りにも、いつも私が所有してる私の好きなものがあるからこそ、それらを自然の景観と併せて、私の心の大切な引き出しとして、取り出し眺めては、生きていくための励ましにしているのかもしれない。

 ただし、自然の景観などは、本来そこに在(あ)るだけのものであり、個人的な働きかけで得られるものではなく、誰でも自由にいつも見知ることのできるものなのだから、そのことと比べれば、私たちが現代文明の利点として享受し所有しているものとでは、大きな差異があって、極論すれば、持つ者と持たざる者、富めるものと貧しき者との差が、誰でも同じように持つことはできないという格差が、いつの時代にも厳然として存在しているということだ。
 この人間誕生以来の、社会闘争と格差という大きな問題については、とてもこんな所で取り上げるべきものではないし、ましてや浅学の徒(せんがくのと)に過ぎない私などの手におえるものではない。

 ただここで問題にしたかったのは、私たちに持つことの喜びを与えてくれる私的所有物ではなく、私たちに心のいやしを与えてくれる、自然界の景観についてである。
 私たちは誰でも、自由に自然の中に入り込み、いつでもその景観やたたずまいにじかに触れることができる。
 そして、それが、自然からの恵みである収穫物や獲物を目的にする場合はともかくとして、ただ自然の内ふところに抱かれていたいという思いで足を踏み入れる時には、人は誰でも、まるで母なる自然からの呼び声にこたえるかのような気持ちになっているのではないのか。
 母の声のする方に、子供が歩いて行くように・・・。何の利益利害関係もない、ただ本能の呼びかける声に導かれるままに、無心な気持ちで。

 そこで前回少し触れた、あの有名な聖書の一節が浮かんできたのだ。

 「こころの貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである。」(新約聖書 マタイによる福音書第五章第三節より)

 この”こころの貧しい人”という言葉を、若いころには、”強欲で心豊かな生活を送る人”と対句になる、”身の丈(たけ)に合ったものだけで満足して、余分な欲を持っていない人”というふうに解釈していたのだが、その後に、”神の教えが必要なこころ貧しき人”という意味だとも教えられ、それなりに納得していたのに、最近、ある本を読んで、この言葉は、私が思う以上に、さらに厳しい哲学的観念を持つ言葉だと知ったのだ。
 
 それは、『エックハルト説教集(田島照久 編訳、岩波文庫)』である。
 中世ドイツの神秘主義の宗教家でもあった、エックハルト(1260~1328)の名前は知っていたのだが、彼の説教伝記的著作物 を読むのは初めてであり、そこで、文学的哲学的にも、ある種の暗黒時代だとも言われることの多い中世ヨーロッパの時代に、これほどまでに神の教えと人の関わり合いを真剣に考え論じた人がいたこと、それ故に教会聖職者たちの反感をかって宗教裁判にかけられ処刑されてしまったのだが、彼の思いが、後にエラスムス(1466~1536)やトマス・モア(1472~1533)らによる当時の堕落した教会批判につながり、ついにはあのマルチン・ルター(1483~1546)などに受け継がれて、やがてルネッサンスの宗教改革の大きなうねりとなっていったのだろうと、改めて考えさせられたのだ。

 さてこの本の中に、「三つの内なる貧しさ(マタイによる福音書第五章第三節)についての説教」という項目があり、そこで彼は、貧しさを二つに分けて、まずキリストへの愛から自らが引き受けた善きものとしての”外なる貧しさ”があり、そしてもう一つは、『マタイによる福音書』の中で”こころの貧しい人”と言われているような、”内なる貧しさ”があるとしている。
 その”内なる貧しさ”には”三つの貧しさ”があって、それぞれについて詳しく述べていくと難しくなるので、彼があげた三つの項目としてだけ書いていくことにすると。
 その一つは、”なにものも意志することのない人” であり、それは彼の痛烈な批判の矛先(ほこさき)が、神の意志を自らが代わりに実行しようとする聖者に対してさえ向けられていることが分かる。
 二つめは、”なにも知ることのない人”として、神が心のうちにあるままに、何も知らずに純粋でいなければならないとして、三つめに、”なにも持たない人”として、神がその人の中で自由に動くことができるように、内外すべてのものにとらわれてはいけないとしたのだ。

 つまりすべての束縛から解き放たれて自由であること、それは彼によって”離脱”と名づけられて、むしろ中国の”老荘の思想”や仏教の世界、そして今まで何度も取り上げてきた鴨長明(『方丈記』)や吉田兼好(『徒然草』)などの、日本の中世の隠者たちの考え方にさえ近しいものを感じるのだ。

 紅葉に彩られた林を眺め、やがて日高山脈のかなたに日が沈んでゆき(写真下)、そして満天の星空になる時、私はただそれらを眺めてここにいるだけであり、何も変えたいとは思はないし、何も詳しく知りたいとは思わないし、余分なものを付け加えたいとも思わない。そのままそこにあることが、私の生きることなのかもしれない。





 ところで、家の林の紅葉を眺める時に、林の中をあちこち歩き回り、ついでに木々の手入れなどをすることが多いのだが、その時にこの林の周囲の木々に、群れになって鳴き騒ぐ鳥たちがいて、それは別に珍しくもない、ヒヨドリたちなのだが。
 九州の家の、ベランダに置いてあるエサ台に来て、いつも占領していたのもヒヨドリであり、そこでは一年中いる留鳥(りゅうちょう)なのだが、今来ているヒヨドリたちは、渡りの途中に立ち寄った今の時期だけの渡り鳥なのだ。
 彼らは、庭の小さな木になったリンゴに、そしてキタコブシやハマナスの実などをついばんでは、体力をつけて、さらなる南の地へと飛んでいくのだろう。
 さらにうれしいことが一つ、全く久しぶりに、あのクマゲラが家の林の中をあちこち飛び回っていたのだ。写真に撮ることはできなかったが、あの黒い大きな体で木に垂直に止まっていた。
 今では、すっかり針葉樹・広葉樹の混交林(こんこうりん)になってきた、家の小さな林にまで飛んできたということは、それだけ周囲に広葉樹の林がなくなってきたということだろうし、逆にクマゲラの生活環境の現状を考えれば、憂うべきことでもあるのだが。

 さらに、前に書いたクマゲラではないキツツキが空けた屋根裏の穴(10月5日の項参照)は、ちゃんとふさいでいたのだが、なんとまたそこから少し離れた所に、さらに大きな穴を開けていたのだ。
 そのアカゲラが連続ノックしての工事音に、家の中にいる私が気がつかないことはあり得ないから、多分、半日がかりで街まで買い物に出ていたスキに、しっかりと空けたものだろうが、全く油断もスキもあったものではない。
 そこで今回は、街のホームセンター出かけて行って、屋根材として並べてあった90cmほどのアスファルト下地材(280円)を買ってきて、少し広めに張ってねじ止めした。
 翌日の昼前に、また家の北側の屋根の方から、例のノック音が聞こえてきた。しかし小さく低く、すぐに終わってしまった。
 いつものアカゲラは、これはくちばしが効かないとあきらめて、家から離れたのだろう。
 私は家の中にいて、小さなガッツポーズを一つ。

 しかし、うまくいかないこともある。
 チェーンソーが、スターターからの始動はしても、相変わらずすぐに止まってしまうのだ。
 燃料供給系のキャブレター関係か、それをつなぐパイプか何かだろうけれども、なかなか分解するまでの勇気が出ないし、これはあきらめて店で修理してもらうしかないのだろうか。
 林内倒木の最低限必要な箇所は、仕方なく手引きノコで切ったけれども、切り分けるにはどうしてもチェーンソーが必要だし、それでもこのままにしておいて、春になってから切ってもいいのだけれども。
 
 そうして思い通りにならない時には、気分転換にと録画していたAKB関連の番組を見るのだが、二日前にはいつものNHK・BSでの”AKB48SHOW”の時間帯で、同じ姉妹グループである”乃木坂46SHOW”が放送されていた。
 そこでは、前回も書いていたように、新曲「今、話したい誰かがいる」がフル・バージョンで歌われていて、それで秋元康によって書かれた歌詞の最後までが分かって、ちゃんと曲の全容を知ることができたのだ。
 普通の民放テレビ局の歌番組での演奏曲は、大体が縮めたショート・バージョンで歌われる場合がほとんどで、いつも残念に思ってはいたのだが、さすが年寄りにやさしいNHKだと、ありがたく聞かせてもらった。

 今の乃木坂46には、少し前までのAKBにもあったアイドルらしい初々しさがまだ残っていて、衣装もロングスカートや制服姿が多くて、さらにはアイドルらしいきれいな容姿のメンバーが多くて、その点では他のAKBグループのどこもかなわないというべきか、他の4グループとは違った、結成当時からの上品なアイドルグループの姿を維持し続けているといえるだろう。
 しかし、ここでも世代交代の時期は迫ってきているようにも見えるし、絶対的な看板娘である白石麻衣も23歳になって、アイドルとしては先が見えてきてやがては卒業していくのだろうが、その後、乃木坂はどういうふうに変わっていくのだろうか。
 それはさておき、今度の新曲も、歌詞作曲ともに相変わらずいい曲であり、このグループに合った名曲がよく続くものだと思う。逆に言えば変わり映えのしない似たような曲とも言えるのだろうが、それでも、大きく変化することを望まないアイドル・ファン、乃木坂ファンには好意を持って迎えられることだろう。
 創立メンバーの一人である白石麻衣がせつに望んでいる紅白初出場は、ファンならずとも誰の目にも明らかなことだろう。
 
 他に、先週見たテレビ番組から、山関係ばかりになるけれども、まずはNHKの『ブラタモリ・富士山編』の第2弾で、今回は宝永山火口の話であり、私が3年前に初めて富士山に登った時(’12.9.2、9の項参照)も、頂上お鉢一周での展望を除けば、一番良かったと思った場所がこの宝永火口だったので、実に興味深く見ることができたし、その時には知らなかった割れ目火口の溶岩列を、もう一度見に行きたくなったほどだ。
 そしてこれもNHKの番組だが、『新日本風土記・上高地』にも見入ってしまった。
 白黒テレビの昔から続く、ローカル色豊かな原日本的な風景とそこに住む人々を描く番組で、今回も上高地界隈(かいわい)で働く人々に焦点を当てていて、その中には私が知っている人も二三人いたが、改めてその仕事ぶりなどが紹介されていて、なるほどと今さらながらに思った。
 映像の中に映し出された、上高地や涸沢などの様々な景観を見ながら、私は、やはりここは日本の山岳景観の中で、まず最初に名前を挙げる場所であり、私の最も好きな場所の一つであることを、再確認させられたのだった。
 今までに、何回となく通い、槍・穂高だけでなく、徳本峠(とくごうとうげ)に霞沢(かすみざわ)岳、あるいは常念山脈へと、それぞれの山に向かい、そして下りてきた時にたどったのが、この清流梓川(あずさがわ)沿いに続く上高地への道だったのだ。 
 
 もし死に場所を自由に選べるのなら、あの梓川の明るい玉砂利の河原で、正面に明神から前穂高の岩壁を見ながら横になり、"何も意志せず、何も知らず、何も持たずに”、そのまま静かに息を引き取りたいと思うほどで・・・。
 年をとればとるほど、男はロマンティックな思いにふけるものでありまして・・・。

 芭蕉の有名な一句、「旅に病(や)んで 夢は枯れ野をかけめぐる」にちなんで・・・。

 私としては、「旅に病み 夢は山河をかけめぐる」、となるのでありましょうか。

 


秋の山歩き

2015-10-19 21:46:13 | Weblog



 10月19日

 天気の良い日が続いている。
 最低気温がマイナスに近づき、毎朝霜が降りていて、一気に秋が深まっていく。
 家の林の紅葉も、見るまに赤みを増してきた。

 そうして、晴れの日が続く最初の日の朝、全道的に晴れ渡り、目の前には稜線に雪が来たばかりの日高山脈が立ち並び、遠く大雪、十勝岳連峰の連なりも白くなっていた。
 それはまさに、絶好の山登り日和(びより)だったのに、それも、前日から天気予報で知っていたのに、私は重い腰を上げることができなかった。
 朝早く、と言ってもまだ暗いうちから起きて出かけることも、あるいは前回の登山のように(9月21日の項参照)、前日に家を出てふもとの民宿に泊まることも、そんなにまでして山に登りたいとは思わなくなってきたのだ。
 理由はいくつかある。
 まずあげるべきは、生来の”ぐうたらさ”に輪をかけて、年寄りの”ものぐさ”さが加わったものだから、もうこれは、てこでも動かぬ”石の地蔵"になってしまったということだ。
 さらに若い時には、多少無茶な行程でも、何としても登りたい、景色を見たいという思いで、元気に出かける気になっていたのだが、今ではそれらの山には、すでに四季折々に何度も登っていて、そうした経験や思い出がいくつもあるから、年寄りになった今、それ以上のものに出会えるかどうかもわからないのに、どうしても行きたいとは思わなくなってきたのだ。
 つまり、盆栽いじりや庭いじりに、楽しみを見出す他のじいさんたちと同じように、家にいて穏やかに過ごすことのほうが、心穏やかに楽しく過ごせるのだと思えるようになってきたからだ。
 今までここでも何度もあげてきた、あのドイツの文豪ヘルマン・ヘッセのエッセイ集、『庭仕事の愉(たの)しみ』(草思社)に書いてあることが、一つ一つうなずけるようになってきたというべきか。

 中学生のころから、絶えることなく数十年近くも続けてきた、私の山登りは、長い最盛期のころには、ただ山へのひたすらな情熱に駆られていたのだが、今やそれは、秋の枯葉のように一枚一枚と色あせて、失われつつあるようにも思えるのだが。
 いや、そうではない。数は少なくなったといえども、一か月に一度は山に行かなければという習慣的な思いがあり、それは、なぜか自分に課した義務感のようなものであって、さらに言えば、山の中にいたいという思いは、もう自分の生来の性質の一つのようにもなっているのだ。
 だから、終日快晴だったこの日も、とても家にじっとしてはいられなかった。
 よし、山を見にいこう、とカメラを持って家を出た。
 十勝平野の全域、どこからでも日高山脈を見ることはできるが、北海道らしい広大な畑を前景にして、バランスよく日高山脈を眺めるには、中札内村や更別村辺りから眺めるのがよく、そこからは遠景として、日高山脈が連なる全景を見ることができる。
 しかし、それぞれの山をもっと近づいて眺めるには、前衛の低い山で隠されないように近づいて、見えてくるポイントを探さなければならない。
 
 まず一番に見たい山は、カムイエクウチカウシ山(1979m)である。
 この山は、日高山脈第2位の山であり、アイヌ語で”クマが転げ落ちる山”という意味からも(諸説あるが)分かるように、鋭いピークが印象的であり、北海道でも私の一番好きな山でもある。
 しかし、この山を平地から近づいて見られるポイントは、どこからでもというわけにはいかない。中札内や更別の山側に近づいた辺りか(写真上、左側のとがった頂きがカムイエク、さらに左に見えるのがピラミッド峰で、カムイエクの右には1903m峰,1917m峰と春別岳が並ぶ)、あるいはさらに近づいた帯広の岩内仙境の先辺りから見るのがよい。

 まずは更別方面に行って山々を眺め、さらに山側に近づいて岩内近くでいつもの構図の写真を撮り、そして久しぶりに紅葉名所として有名な岩内仙境の園地に行ってみることにした。
 ”紅葉祭り”が終わった後で、広い駐車場には他にクルマが二、三台あるだけ。吊り橋を渡り、紅葉が残る静かな園内をしばらく歩いて行くと、右手に道が分かれて”金竜山登山口”の標識がある。

 この金竜山(466m)には、今までに何度か登っていて、それほど登山価値のある山とは言えないが、この岩内仙境の東側の入り口にある岩内神社の背後にある山であり、日高山脈が十勝平野に接する、そのヘリのところに目立っように盛り上っている。
 その山頂からは十勝平野側の展望は良いのだが、肝心の日高山脈側は、木々の間にわずかに見えるだけである。
 むしろ日高山脈の山々を見るのなら、中札内村の林道終点から歩いてわずか10分ほどの、立派な展望台のある一本山(355m)のほうがいいだろう。
 他にも、芽室町の新嵐山スキー場の丘(旧名雨山)からも、十勝幌尻岳(1846m)や札内岳(1895m)を間近に見ることができる。
 少し遠くなって、日高山脈全体を見ることになるが、幕別町忠類地区の丸山(271m)や白銀台スキー場(335m)から見ても悪くはない。

 ともかく、途中でもうカムイエクの写真は撮ったし、後は紅葉の山歩きを楽しみたかったので、スニーカーでも歩いていける、この岩内の金竜山に登ることにしたのだ。
 広い林道跡の山道は、とは言っても結構な傾斜があり、この日は暖かいこともあってすっかり汗をかいてしまった。
 しかし、何といっても誰もいない山道を一人歩いていくことの心地よさと、道の両側に続いているモミジ、カエデの紅葉や黄葉が素晴らしかった。(写真下)


  

 ただし、シラカバやミズナラなどの葉は、もう落ちたりこげ茶色に変色したりしていて、最後の鮮やかな赤い色の紅葉の木々だけが残っているという感じだった。
 そして何よりも、背景に、すべての景色を引き立たせてくれる青空があるということ。

 気楽に何度も立ち止まっては、写真を撮っては登って行き、下の駐車場からは40分足らずで頂上に着いた。ひと汗かくくらいの、ちょうどよいハイキング・コースだった。
 東側に十勝平野が広がり、西側の木々の間にカムイエクや十勝幌尻岳が見えていた。
 帰りには、少し日の当たる位置が変わっていて、さらにきれいに見える紅葉を眺めながら、いい気分になって、AKBの歌でも口ずさみながら下りて行った。
 山道では誰にも会わなかったが、園地の散策路には数人の人たちがそぞろ歩きを楽しんでいた。
 往復1時間余り、登山というのには気が引けるけれども、天気のいい日に初雪の山に行けなかった代わりに、その行き場のないぐうたらな自分を慰めるためにも、前回にも書いた、いつも用意してある代わりになる引き出しを開けて、山の写真を撮りに行き、さらに少しばかりの山歩きをすることによって、いくらかは補うことができたのだと思う。
 こうして、年寄りは、年寄りらしくあれこれ考えることで、自分をわきまえた年寄りになっていくのだろう。
 クルマに乗って表通りの道に出ると、まだ雲一つない青空を背景に、今登ってきたばかり金竜山が秋の日に輝いていた。(写真下)


 さて、”青空のうち続く、秋の日は、暮れずともよし”と言いたくなるほどに、穏やかな毎日だが、それは何もせずに家にいて、だらだらとした一日を送ってもいいし、あるいはやるべき仕事の幾つかに取りかかるにもいい日よりなのだ。
 今まで書いてきた、一か月もの間涸れていた家の井戸は、今ではちゃんと水が出ていてくれて、大量に使わない限りは何とか使っていけそうであり、とりあえずの心配がなくなったのだが。
 次の問題は、この前の台風で倒れたカラマツの木が3本もあり(10月5日の項参照)、さらにいつものストーヴ用の薪(まき)作りのためにと、たまっている丸太が小山になるくらいあって、まだまだひと仕事もふた仕事も残っているのだ。
 そこで、1年以上使っていなかったチェーンソーを出してきたのだが。というのも、今までは、ほとんどは家のそばで使う電気チェーンソーだけで間に合っていたからなのだが、林内の仕事ではそういうわけにはいかない。

 しかし、エンジンがかからない。そこで、何度もスターターのひもを引いたから(それだけで汗だくになるし)、どうもエンジンが”かぶって”しまったようで、カバーを外してみると、やはりスパーク・プラグが濡れている。
 それも10年以上も前に買ったチェーンソーで、プラグは一回も変えていなかったのだ。
 とりあえずプラグの交換しなければと、街のいつものディーラー取扱店に行ってみると、なんと店ごとなくなっていて、それならば他の店にと思うが、知っているところはないし、ホームセンターなどには外国メーカーに適合するものは置いていないし、先にネットで帯広十勝管内の取扱店を調べていればよかったのだが、知らなければ探しようがない。
 そこで公衆電話の電話帳で調べてみようと思ったけれど、今ではもうその公衆電話さえ見あたらないのだ。

 やっと何軒目かの大型スーパーの中に、その緑の電話があってホッとする。しかし、その電話機の下に置いてある電話帳で探してみたけれど、まずチェーンソーの検索用語がわからないし、狭い地域の薄いハローページだから、もちろんチェーンソーなんて項目はないし、電動工具でもないし、発電機でもないし、農機具でもないし、結局探しあぐねてあきらめ、ついでに必要な他の買い物をしただけで、プラグを手に入れられずに戻ってきた。
 そして、家に帰ってネットで調べてみると、ちゃんとそのディーラー店の移転先が乗っていたし、ハローページで調べるときには、林業器具という項目にあるのだということも分かった。
 ただ、こうした年寄りのアナログ的な苦労も、いつでもスマートフォンを持っているのが常識の、ほとんどの人たちから見れば、すぐに調べることができるのに、ばかばかしいことだと一笑(いっしょう)に付されるだけだろうし、ただただ古い時代の認識のまま、調べるには電話帳だと思い込んでいる私が悪いのだ。
 古いものにしがみついていても、自分が苦労するだけなのだが・・・”こんなことを申し上げる私も、やっぱり古い人間でござんしょうかね”(藤田まさと作詞「傷だらけの人生」より)。 

 ということで、再び街まで出かけて行って、無事に新しいプラグを手に入れることはできたのだが、始動の瞬間だけ爆発回転音は聞こえるのだが、すぐに停まってしまう。
 さらに、前にも掃除したエア・クリーナーを再びきれいにして、さらにマフラー部分のこびりついたカーボンなどもきれいにしたのだが、やはり始動はしても停まってしまう。
 回転数を上げるための調整は、その加減が難しいし、となれば、基本的なことだが、ガソリンが古くなっているからではないか、というところまで来たのだが。ここまでに、なんと1週間もかかってしまったのだ。

 最初にネットで店を調べて、修理に出していたら、今頃はもう気持ちよく動いて使えていただろうに。
 もっとも、その分しこたま修理代がかかってはいただろうが。
 しかし、ケチでなるべく金をかけたくはない”ごうつくばり”じじいの言い訳も、ここで聞いておこう。

 こんな田舎の一軒家で、何か起きた時に、手間暇かかっても自分で何とかするという習慣をつけておかないと、なんでもすぐ人に頼っていては、どうしても安楽な方向へ、金で何とかなるという方向へと進んでしまうことになる。
 この家を一人で建てた時から、一人で物事をやっていくのがいかに大変なことかは、肌身にしみてわかっているはずなのだが。
 抱え上げることもできない大きな丸太を、いかにして一人で上に持ち上げるか、考えて工夫すること。丸太を積んだ上の高い所にいて、そこで鉛筆や工具を落とした時に、それを拾ってくれる人はいないから、そのたびごとに一人で下に降りて行かなければならない。
 つまり一人っきりでやる時には、余分な時間が、二人の時の、2倍どころか3倍も4倍もかかるということだ。
 それを承知で、一人でやり通すことに果たして、どんな意味があるのか・・・。

 答えは簡単だ、そこに深い意味も、人生での教訓となるような意義もないのだ。
 簡単に言ってしまえば、それは人の性分だからということなのだろうが、ただひとつだけ言えるのは、困難に対して、がまん強くなるということはあるかもしれないが。
 もちろん、そのことで、自分を責めたり悪くは思わないし、ましてや他人にも迷惑をかけてはいないのだから。
 こうして自分で納得できる結論を作れば、後にひかないし大きなストレスも残さない。そして最後にAKBの歌でも聞いて寝れば、朝までぐっすり眠れるだろうし。
 もっとも年寄りだから、寝ぼけまなこで夜中にトイレには起きるけれど。

 ところで話は変わるけれども、81歳になるあの評論家の田原総一郎さん、彼はなんとAKBのファンであり、今度のあの秋葉原のAKB劇場での公演で、若手主体(ベテランもまじえて)の出演メンバーとセット・リストの曲目も自ら選んで、つまりそれまで各チームごとに行われていた公演を、自分で選んだ特別公演として立案し、プロデュースしたのだ。
 彼がAKBのファンになったのは、以前から親しくしていた、AKBの生みの親でありプロデューサーであり作詞家でもある秋元康に連れられて、劇場公演を見て、すっかりAKBにはまってしまったとのことだが、その第一の理由に、若い娘たちが一生懸命に歌い踊っているさまと観客たちの興奮に、あの甲子園の高校野球と同じ熱気を感じたからだと言っていたが、それは、テレビで見るだけの私でも、なるほどと思わされる言葉だった。

 さて、この特別公演は、それまでにも、同じAKBファンである元サッカー選手の岩本輝雄や落語家の春風亭小朝のプロデュースによるものが公開されていて、さらにはあのニューヨーク・ヤンキースの田中将大投手プロデュースも予定されているとのことだ。
 劇場公演やコンサート、握手会などにも一切行ったことのない私には、その楽しいだろう舞台のありさまを、ただネットのAKB情報サイトで知るだけであるが、それでも、普段とは違うメンバーたちの意気込みと、なるべくいろいろな方向へと変わろうとしている運営側の強い思いが伝わってくるようだ。

 NMBの”さや姉”(山本彩)が中心になって歌っている、NHK朝ドラ『あさが来た』の主題歌は、朝にふさわしくさわやかな歌声だし、ドラマもいまだに時代劇を作り続けているNHKらしくしっかりしたものだし、これまでの若者だけのドラマと比べて、何と私たち年寄りが素直に見られることだろうか。
 その”さや姉”が率いるNMBの新曲「Must Be Now」 は、今までのAKBグループには見られなかった(唯一「UZA」を除いて)、ダンスの切れ味とリズム感あふれる曲と詩であり、これまた秋元康と運営サイドの、自分たちに言い聞かせる熱意が伝わってくるようだ。
 色合いは違えども、姉妹グループの乃木坂46の新曲「今、話したい誰かがいる」も、いつものことながらにいい曲であり、来週のNHK・BSの”AKB48SHOW”ならぬ”乃木坂46SHOW”での、フル・バージョンの歌を聞けることを楽しみにしている。
 
 こんな”じじい”にとって、AKB熱は冷めるどころか、今は大切な私の引き出しの一つになっているのでありまして・・・。 

    


黄金色の雲

2015-10-12 23:04:26 | Weblog



 10月12日

 西風が強く吹いている。窓の外を見ると、まだ緑色のままの木の葉から、黄色や橙(だいだい)色に変わりつつある葉まで、それぞれが一枚一枚、日の光を浴びて、風にヒラヒラと揺れている・・・やがてそのうちに、一枚二枚と枝先から離れて、舞い落ちていく・・・。
 暖かい日差しと、冷たい風の中で、秋が深まってゆくのだ。

 こうして秋になると、天気の良い日が多くなり、夕焼け空を見ることができるようになる。
 数日前、小さな冬型の気圧配置になり、西風が強く、十勝平野を区切る日高山脈に沿って、雲が並び連なっていた。
 さらに、そこから青空をはさんで、平野部の上には、風の強い時にできる、平らな底面の大きな雲が並行するように横たわっていた。
 それは、やがて夕日の照り返しを受けて、黄金色(こがねいろ)に輝いていた。(写真上)

 その空いっぱいに広がる雲を、じっと見ていると、いつしか、私がそこに立って見上げているのかどうかも、疑わしく思われてきた。
 私は今、夕闇迫る地上界から、逆さまになって、天上界の黄金色の雲に向かっているのではないのかと・・・。
 不思議な感覚だった。
 周りには、もちろん人影もなく、走る車の音も聞こえず、風の音だけが梢(こずえ)を揺らしていて、そうした中に私がひとりでいたからこそ、地上界と天上界の区別もつかなくなり、つまり生きているのか、それとも死んで天上界に向かっているのかさえも分からないような・・・。

 「 よだかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼっていきました。
  ・・・。
  もうよだかは、落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。
  ・・・。
  それからしばらくたって、よだかははっきりとまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
  すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
  そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
  今でもまだ燃えています。」

(『宝島別冊 宮沢賢治』 「よだかの星」より 宝島社) 

 この宮沢賢治の「よだかの星」の一節は、前にもこのブログで引き合いに出したことがあるのだが、何度読み返しても他人事ではなく、身につまされるような話である。
 キリスト教信者でもあった宮沢賢治の思いは、この世に生きる弱い者や心貧しき者に対する憐(あわれ)みだけではなく、彼らが行くであろう幸いなるかなたの世界をも、示唆(しさ)していたのだろう。

 あの”山上の垂訓(すいくん)”でも有名な、『マタイ伝』からの言葉が思い出される。

 「こころの貧しい人たちは、さいわい(幸い)である。天国は彼らのものである。
  ・・・。
  悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
  ・・・。
  あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるだろう。」

 (『新約聖書』マタイ書 第5章より)

  その後、黄金色の雲は次第に赤みを増して茜(あかね)色に染まり(写真下)、やがては、すべてが色褪(あ)せて、暗闇の黄泉(よみ)の世界の中に沈んでいった。

 

 その一部始終を、私は見ていた。
 なんという、劇的な天空のドラマの一シーンだったことだろう。
 こうしたことを、家の周囲で、いつも見られることのありがたさ。
 それは、この広い十勝平野のただ中に、私が立っているからであり、それも街中にではなく、不便な田舎の一軒家に住んでいるからであり、それも都会を離れて広い所へ、自然の中で暮らしていきたいと思ったからであり、それまでのすべてを棄ててでも、そこには、それを補うに余りある大切なものがあると思っていたからである。
 もちろん、あのまま都会に住み続けていれば、それなりに努力してそれなりの生活を送れていたのだろうが、どう考えても、常に周りに聞こえるあの都会の喧騒(けんそう)と雑踏には耐えられそうにもなかったからだ。

 人には、街中がいい人と、田舎がいい人とがいて、その割合は、大都市や中小都市を含む市街地に住む人と、田舎の散村的な集落や離れ家に住む人たちの数を調べて見ればわかるように、9対1どころか、おそらくはコンマ以下の、比較にならないほどの比率にしかならないだろう。
 少し飛躍するけれども、かろうじて今の時代にも残る原始生活の中で生きる人々、あのアマゾン原住民の生態を見てもわかるように、私たち現代人からすれば不便極まりないと思える、あの何もないジャングルの中こそが、彼らが最も安心して暮らしていける場所であり、彼らはジャングルを離れて現代文明の中ではとても暮らしていけないだろうし、そのまま大自然の中の小さな共同体として、その一部族として、一緒に固まって生活していくことが、住み慣れた最善の生活環境ということになるのだろう。

 最近たびたび書いていることだけれども、ここでは井戸が枯れて飲み水にさえ苦労するし、風呂どころか日常の洗い物にさえケチって水を使わなければならず、さらに簡便に作った外のトイレだから、季節の変化や日々の天気にさえ使用する際の不便さを感じてしまう。
 裏の林では、前回書いたように大風で倒れる木もあって、日ごろから周りの林の木々の手入れをしなければならないし、蚊、ハエ、アブ、スズメバチなどの害虫たちとも折り合いをつけて暮らしていかなければならないし。
 そうした不便なことは多くても、ここにいれば、それ以上に私を喜ばせてくれる様々なよいことがあるのだ。
 ビルの一室の中に暮らしていては気づかない、萌えいずる春の新緑、そして夏のあふれる緑から秋の紅葉へ、冬の白一色の世界へと、鮮やかな四季の移り変わりを目にすることができるし、春の山菜、秋のキノコ、野原の草花など、周りの自然から多くの恵みを受け取ることもできる。
 そしてこの、壮大に繰り広げられる、朝夕の天空の舞台・・・。

 そういうことなのだと思う。いつの時代でも、どこにいても、誰であっても、自分の思う幸せのすべてを手に入れることはできない。
 そのためにも、どのあたりで、自分のあいまいな満足の境界線を引けるかであり、その思いを持って、いかにぶれずに生きていけるかなのだろう。
 ただそのためにも、それまでに、どれほど多くの選択の引き出しを開けて学んだことがあるかどうか、これがだめなら、もう一つの別な方向へ行けばいいのだという、経験から学んだものがあるかどうか・・・。
 そうして、自分の人生を振り返ってみた時に、この世に生まれ落ちた時から、子供時代を経て、多感な青春時代を送り、やがては独り立ちして生きていき、こうして老年期を迎えようとする今、すべてのことは自分にとって有意義なものだったと思えること、つまりこれまでの人生の中で、様々な引き出しを開けてみたことは、決して無駄ではなかったと思えること・・・。
 この世では何の役にも立たなかった、一匹の虫けらのごとき人生だとしても、穏やかな老境の果てに、黄金色の雲の天上の世界があるのだと思うことで、それでいいのではないのかと、自分に言い聞かせているのだ。

 今日は北を通過した低気圧の影響で、やや暖かい強い西風が吹いていた。
 明日からは、西高東低の気圧配置になり、北海道の日本海側や山間部では雪の予報が出ている。今年の初雪になるだろう。
 この十勝地方では、日高山脈が障壁となって、雪雲を押しとどめ、ただ冷たい北西の風が吹き降りてくるだけだ。
 それでも私は早めに、車のタイヤを冬タイヤに変えてしまった。できれば近いうちに雪の峠を上がって、このシーズン初めての雪山歩きを楽しみたいとも思っているからだが。
 今日の暖かい西風は、そうした冬の前触れの風であり、これからは、日増しに冷たい北西の風の吹く日が多くなってくるだろう。
 
 そういえば、西風で思い出したのは、ギリシア神話に出てくる西風の神”ゼフィロス”のことだ。
 あのルネッサンスの画家、ボッティチェルリ(1445~1510)の描いた大作『ヴィーナスの誕生』は、貝殻の上に立つ女神ヴィーナスが、西風の神ゼフィロスが吹きつける風と、花の女神フローラのやさしい吐息によって、今まさに春の岸辺へとたどり着こうとする、その時を描いた夢のような絵画であるが、もしここで今吹いている西風が、やがて冷たい北西の風に変わり、冬の女神が雪氷の海を渡り、白い北海道にたどり着くところを『雪の女王の誕生』という絵にしたら、どうなるのだろうかと想像をふくらませてみる。(もちろんこれはディズニー・アニメの『アナと雪の女王』などとは全く別な、芸術絵画の世界としてだが。)
 これは、時代を超えての話だと断ったうえで、暖かいイタリアに住んでいたボッティチェルリに、そんな雪国の絵が描けるはずはない。
 そこで、依頼して描いてもらうとすれば、あの『氷の海(難破した希望号)』を描いた、ロマン派の画家カスパール・フリードリッヒ(1774~1840)か、『死の島』で有名な象徴主義の画家ベックリン(1827~1901)か、ということになるのだろうが、彼らの画風からして、とても『ヴィーナスの誕生』と対になるような明るい華やかな絵にはならないだろうし、どのみち題材からして暗い冬の絵画だから、それならばむしろ日本画として、『焔(えん)』で壮絶な狂女の姿を描いた上村松園(1875~1949)あたりに依頼すれば、どうなるのだろうか・・・と、ヒマな年寄りは一人、空想の世界を楽しむのであります。はい。

 こんな余分なことをだらだらと書き綴ってきたのは、二つのスポーツの試合の結果を見てのことなのだが。
 まずは、朝のニュースで、日本チームがラグビー・ワールド・カップで、最終戦のアメリカに勝ったことだ。それも、予選ながらも世界を相手に、通算3勝1敗という信じられないほどの成績を収めるような時代が来るなんてと、ひとり喜んでいたのだが、それは、ささやかながらも高校時代にラグビーにかかわったことのある身として思えばなおさらのことだ。
(勝因はジョーンズ監督、選手個人個人、さらには日本らしいチームプレイといろいろあるのだろうが、まず昔と比べて言えることは、昔の全日本の選手たちとは比べ物にならないほど立派に向上した、今回の選手たちの体格にある。もちろん、大きな外国選手に立ち向かうためにと、筋肉の塊のような身体を作るために、ひたむきにつらいトレーニングに耐えてきた選手たちの努力の結果でもあるのだが。)
 もう一つのゲーム結果は、パリーグのクライマックス・シリーズで、わが北海道日本ハム・ファイターズが、4時間近い長い試合を闘い(そのためにこのブログを書き上げるのが遅くなってしまったが)、何度ものチャンスを逃して1点差で負けてしまったことにあり、ラグビーでの勝利の喜びも吹き飛んでしまうくらいに悔しい思いになって、そのはけぐちにと、自分の持っている他の引き出しを開けて、このブログの記事として書きまくっては、気をまぎらそうとしたからである。
 つまり、様々な引き出しとは、日常のちょっとしたストレスをすぐに転嫁できるようにするために、自分で用意した自分のためだけの小さな楽しみの数々のことなのだ。

 こうしてブログを書くのも、テレビでAKBの歌を聞いたり見たりするのも、乃木坂46の新曲がいつものようになかなかいい曲だと思うのも、テレビで放送されるクラッシック番組を思わず引き込まれて見続けてしまうのも、 さらにはあのタモリと宮沢りえとの大人の会話の『ヨルタモリ』が終了してしまい、残念に思っていたところ、昨日のNHKでいつも見ている『ブラタモリ』があって、今回のテーマは富士山で、地理学、地形学ファンの私には、さらにたまらない番組になっていたこと、さらに二年ほど前にも特集が組まれていたが、今回も単発の特集番組があって、久しぶりに、あのアメリカ人の日本文学研究者ドナルド・キーンさんの話を聞けたこと。
 東日本大震災と原発事故の後、彼はその時期に、あえて日本に永住するために日本国籍を取ったのだ。多くの外国人が日本から去って行ったのに抗議するかのように・・・なんという、日本を愛する心を持った人だろうと思う。
 彼は言うのだ・・・まずは冗談交じりに”私は日本文学の伝道師です。”と言って、外国人の彼が,日本人の私たちに日本について話しかけるのだ。
 ”日本は戦後、いい道を選んできたと思いますが、しかし残念なのは、自分の国の伝統に興味を持たないという弱点を持っていることです。過去のものの良さを知ることは大切なことです。伝統は見えないけれども、流れとなって続いているのです。”

 私たちは、日本人にとって一番大切なことを、外国人である彼から教えてもらっている。
 93歳の今も彼は、あの名著『百代の過客』の続々編としての、日本文学作家たちの日記の研究と執筆に、余念のない毎日を送っているのだ。

 生きるということ、自分の大切な引き出しがあるということ・・・。 

  


ノック、ノック、ノック・・・

2015-10-05 21:12:03 | Weblog



 10月5日

 朝の最低気温が一けたになり、日中の最高気温も20度を超えることはなくなってきた。
 家の林の木々も、あちこちで色づき始めている。
 はっきりと、秋になったのだ。

 今年は、いろいろと実り豊かな秋になった。
 まだ林の中には、ラクヨウタケが出ているほどで、1か月以上にわたって、今までに最高の収穫量だった。
 さらに畑のミニトマトに、庭木に植えていたリンゴの木にも、小さな実がびっしりとなっているし、生け垣のハマナスの花はさすがに終わったが、赤い実が点々と見えている。
 そして今日、これも庭木として植えているキタコブシの木に、今まで見たこともないほどいっぱいに実がなっていて、それが赤く色づき始めていた。(写真上)
 この房になった実のさわやかな赤い色は、本当の実ではなく、やがてこの外側は土色に枯れて、中からミカン色の種が出てくるようになるのだが。
 ともかくこれまでに、このキタコブシの木に二房、三房の実がなっているのは見たことがあったのだが、今年のこの爆発的な実のなり具合、房数の多さは、どうだろう。

 そういえば、今年の春先に、湿った重たい雪が降っていて、いつもより遅く5月になって九州から戻ってきた私は、あちこちの倒木や枝折れの被害にぼう然としたのだが、まあ家にまで倒れかからなかっただけでも幸いだったのだが・・・。(5月18日の項参照)
 その時に、このキタコブシの木も、大きな枝が何本も折れていて、その部分を取り除くために、それらをノコギリで切り落としたのだが、その後夏にかけては、残った枝から葉がいっぱい出てきて、前と同じように茂ってくれたから、安心していたのだ。
 つまり、植物たちは大まかに言えば、自分たちが弱ったり枯れたりする前に、その危険を察知して、自分の子孫を残すために、いっぱいの種を含んだ実をつけたり、根元から新たな芽を出したりするものだから、今になって、たくさんの実をつけたこのキタコブシに、何かが起きているのではないかと心配になったのだ。
 もしそれが、私のたんなる杞憂(きゆう)であって、このキタコブシが、今自分の精力の盛りにあるということであるのならばよいのだが。

 さらにもう一つ。数日前に、あの台風並みに発達した低気圧が北上して、北海道中に暴風が吹き荒れて、日本海側では40m/sを超えたところもあったということで、この十勝地方でも25m/sくらいにまでなるほどの強い風だった。
 その二日に渡る大風の後に家の外に出てみると、飛んできた枝葉が散乱していて、それを片づけるのも一仕事だったが、それ以上に、林の中のカラマツの木が3本も倒れていたのだ。
 それも、風が直接吹きつけてきた西側の端の木ではなく、林の中にある木が根元から折れていたのだ。(写真下)



 なぜだろうと思ったが、すぐに納得がいった。
 つまり、林のへりにある木は、いつも何かと風にさらされることが多くて、そのために根張りも強くなっているだろうけれども、林の中にある木は、日ごろから周りの木とともに、風当たりがいくらかは弱められるから、さらに逆に言えば、周りに競争しなければならない木があるから、その分、この40年ほどにもなる木としてはあまり太くなってはいないし(他には大きいもので直径40cmくらいあるのに、この木は20cmほどで)、根の張り方も弱いのだろうし、さらに折れた根元を見て分かったのだけれども、それまでは気がつかなかった根元の部分が、少し傷んだりしていたのだ。
 まあ、自分のいいように解釈すれば、このカラマツ林の間伐(かんばつ)を兼ねて、毎年ストーヴの薪(まき)づくりのために、いつも危険な思いをしてチェーンソーで切り倒しているのだが、今年はその手間が省けたということになるのだろう。

 そして木にまつわる話と言えば、これも毎年のことなのだが、今年も秋になると、わが家に来て、ノックする者がいる。
 トン、トン、トン・・・というだけでは終わらなくて、さらに続けて、トン、トン、トン、トン、トン、トンとその音は止まらない。
 キツツキのアカゲラが、今年もやって来たのだ。
 丸太づくりのわが家の壁面ではなく、屋根の裏側軒先(のきさき)の板張りの所か、あるいは丸太小屋を建てた時に、ついでに余った丸太で建てた隣のマキ小屋の壁か、どちらかなのだが・・・。
 マキ小屋の丸太は、この家を建てる時に、長い間空き地に野ざらしに置いていて、多少”ふけって” (痛んで)いたものが多かったから、そこに虫が巣くって、それを狙って、アカゲラが穴を開けたのだろうが、まあその穴くらいで小屋がどうこうなるわけでもないからと放っておいて、あちこち穴だらけのままなのだが、家の方の屋根の軒先はそういうわけにもいかない。
 見上げると、直径10cmほどもあって、十分にアカゲラが出入りできる大きさだ。(写真下)

 

 どうしてこんな所に、アカゲラは穴を空けたのか。
 卵を産んで、ヒナを育てる、営巣(えいそう)の時期はとっくに過ぎているのに、なぜ今頃、毎年同じように秋やってきて、軒先に穴を空けて回るのか。
 これは私の推測でしかないのだが、中にいる虫を捕るためだろうと思っている。
 元をたどれば、建築経験もなかった私が、何冊かの本を頼りに、分からないところは人に教えてもらって、何とか建てたこの家だから、今にして思えば、予算が十分ではなくて、安上がりに仕上げようとして、不十分になった所がいろいろとあるのだ。
 その中の一つで、屋根の軒先の裏側の板張りで、本来ならば、ちゃんとした床板と同じような、”合いじゃくり”の板(板の両端を一部欠き取って、すき間なく組み合わせられるように加工したもの)を使うところなのに、ただ普通の”ぬき板”を並べて打ちつけただけだから、当然、時間がたてば板の収縮で隙間ができるようになり、その隙間から虫が入り込み、よい隠れ場になっているのだろう。
 さらにここは、周りに牛を飼っている農家があることもあって、日ごろからハエが多いのだが、そのハエたちがいつも今の時期にになると、寒さから逃れては(北海道のハエも越冬する)、家の中に侵入してくるのだが、まずは家の軒裏の板の隙間から入ってきて、そのうちに家の中に入り、じっとして冬を越すつもりなのだろう。

 ただ、そうした虫たちがいることを知っているアカゲラも大したものだ、と感心してばかりいるわけにはいかない。ともかく穴をふさがないと。
 そこで、ハシゴをかけて、軒裏のその部分の板を切り取り、防腐剤を塗った新しい板に取り換え打ちつけて、さらに他にも、小さな隙間を空けている所があって、そこはコーキング剤を充填(じゅうてん)してふさいでしまった。
 その後、今のところ、例のノックする音は聞こえない。

 先日の満月の夜、月が最も大きく見えるという、”フルムーン”を見るために、外に出た。
 ライトがいらないほどの明るさだった。 

 「月夜であります。
  月夜であります。
  月夜である。
  ”神父さん。” トントン。
  ”神父さん。” トントン。
  ・・・。
  ”しっ。”
  ”しっ。”
  ・・・。
  そうした声がするようで、
  じつはしませぬ。牛舎です。
  暗さは暗し、静かです。
  ・・・。」 

(『日本の詩歌9・北原白秋』 「トラピストの牛」より 中央公論社)

 実は、今、毎日のように、私の頭の中を流れ来る歌がある。
 それは、一週間ほど前に、テレビで聞いた歌であり、私はその時に、年甲斐もなくまぶたをうるませてしまったのだ。
 その歌番組は、日本テレビで毎年放送されている『のどじまんTHEワールド』であり、今までにも何度か見たことがあって、そのたびごとに世界各国から集まった日本の歌が好きな、外国人のしろうと歌手たちに、感動させられ感心させらることがあったのだが、今回はその中でも、さらに記憶に残る印象的な回になった。

 時には、審査員の評価が、私たち視聴者との評価とは合わぬことも多くて、不満に思うことも多かったのだが、今回は決勝に至るまで極めて妥当な評価であり、そうした満足感も付加価値ではあるが、歌への好印象を強くしたと思う。
 ともかく、さすがに世界各国で選ばれて日本に来ただけあって、日本の本家の「NHKのど自慢・チャンピオン大会」にさえも勝るとも劣らぬ、聴きごたえのある歌ばかりだった。
 これは、出場していた歌手たちのすべてに言えることだが、日本での”のど自慢”的な番組で歌われる歌が、元歌の歌手の歌まねであることが多いのにくらべて、この『のどじまんTHEワールド』に出ている外国の歌い手たちのすべてが、全く元歌とは違う歌になっていること、つまりそれは、その曲自体を理解したうえで、自分の歌として歌っているからであり、そのことに感心するばかりではなく、大げさに言えば、日本と外国の文化芸術意識の差すら感じてしまうのだ。
(間違いを恐れずに言えば、模倣(もほう)文化としての成り立ちと、独自個性主張の文化の差とでもいうか。)
 
 そんな歌い方の中でも、白眉(はくび)と言えるのは、毎回の常連であるアメリカのニコラスの歌だった。何とサザン桑田佳祐の「涙のキッス」を、ハイ・テノールのきれいな高音を持つニコラスが、あのバリトンのクセのある節回しで歌う桑田佳祐の歌を選んだのだ。
 それは全く、あのサザンの歌ではなかった。ニコラスの、歌だったのだ。
 歌としてみれば、決勝の二人には遠く及ばない歌であり、あれほどの実力があるのに選曲ミスだと言われるのかもしれないけれど、楽譜に書かれた音符の歌い方や解釈の仕方に、これほどのふり幅があるのかと驚かされたのだ。
(もっとも、クラシック音楽の演奏では、指揮者による、オーケストラによる、ソリストによる演奏の違いが様々に表れて、それがクラシック音楽を聞く楽しみにもなるのだが。) 

 さて決勝で、高得点で争った、二人の女性の歌は・・・もう、それぞれが意味合いの違う感動的な歌であり、まさに甲乙つけがたい感じだった。
 優勝したインドネシアの女子大学生、ファティマが歌ったのは、アニメ『NARUTO ナルト 疾風伝』の冒頭に流れる曲だとのことだが、世界では評判の日本の漫画文化にきわめてうとい私は、初めて聞く曲だった。
 それなのに・・・もう、まぶたを熱くしてしまった。

「飛翔(はばた)いたら、戻らないといって。
 目指したのは、蒼(あお)い、蒼いあの空・・・。」

(作詞作曲 水野良樹。この歌は、女の子のボーカルと楽器の男性二人によるユニット”いきものがかり”のもので、作詞作曲の水野はそのリーダーでもあるのだが、彼らの歌が、NHK朝ドラ『ありがとう』で使われたように、年寄りの私にも納得できる内容のある歌詞と曲であり、安心して聞くことができた。)

 それにしても、ファティマの歌声は、なんというきれいな聞きやすい日本語だろう。
 それもイスラム教徒のヒジャブ(スカーフ)で髪を隠した、インドネシアの娘が歌っているのだ。
 見事なリズム感に乗って・・・。
 中間部の、「堕(お)ちていくと・・・」というところから、「・・・追い続けていくよ」へと移っていくところの、歌詞を十分に理解していなければできない、歌い方、感情の変化の見事さ。
 さらに、無理なく低音から高音への音が伸びる、やわらかなビロード・タッチの声質。その昔、「Automatic」でデビューしたばかりの、あの宇多田ヒカルの声、さらに言えば、これはほめすぎになるだろうが、デビュー時のころのソプラノ歌手キャスリーン・バトル(YouTubeの「オン・ブ・ラ・マイフ」)の声さえも思い起こさせるほどだった。
 あと望むらくは、彼女が、あのイスラム教徒のヒジャブをつけたままでも、インドネシアという国を超えて、日本の歌の数々を歌ってくれるようになることを祈るばかりなのだが・・・。
 (この『のどじまんTHEワールド』から、日本で歌手デビューを果たしたアメリカ人、クリス・ハートの例もあることだし。)
 
 さて、この決勝で彼女と高得点の争いを繰り広げたのが、可愛い赤ちゃんのいる母でもある、フランスから来たのフロラである。
 フロラが歌ったのは、あの鬼塚ちひろ作詞作曲 による、彼女の畢竟(ひっきょう)の名曲『月光』。
 しかし、本当のことを言えば、これがいい歌であることだと分かっていても、私にはどこか引っ掛かりを感じる歌だったのだ。
 それは、少し厳しく言えば、「この腐敗した世界に堕(お)とされた」という冒頭の歌詞からも感じ取れるように、今の世代の一部の若者にありがちな、自分が悪いのではなく周りのせい社会のせいだという、責任転嫁(てんか)論の臭いが感じられて、古い人間である私などは、いささか違和感を覚えてしまうのだ。
 (小さなことを言うようだが、堕ちるとは、自分から落ちていく場合に使うのであって、他人から落とされる場合には使わないのでは。)

 ともかく、ここで歌われたフランス人の彼女の歌は、元歌である鬼塚ちひろの、ほとんど”うらみ節”に聞こえる歌とは、大きくへだったっていて、私にはむしろ、”原罪に悩む天使の声”に聞こえてきて、それが多分にも彼女のクラッシック声楽の素養からくるものだろうが、無理なく声量豊かに伸びる声と相まって、思わず涙がこみ上げてきたほどだ。
 そして、フランス語が母国語の彼女にとっては、難しいはずなのに、何というきれいな日本語で歌うことだろう。
 最近の、と言ってももうずいぶん前からだが、変に英語なまりの日本語風に巻き舌で歌う日本人の歌手たちが多い中で、この外国人二人の女性の歌によって、日本語のきれいな響きの歌を、改めて知らされたような気がしたのだ。
 
 結果的に、インドネシアのファティマが優勝して、フランスのフロラは次点だったのだが、それは私も妥当な結果だと思うけれども、ともかく今度の大会では、彼女たち二人の歌声が傑出(けっしゅつ)していたことだけは確かである。
 私はテレビを見ていて、途中からこれは録画しておかなければと思って、ちょうど決勝のところを録画できて、後で二人の歌の部分だけに編集して、今はほとんど毎日のように聞いては、やはり胸がいっぱいになってくるのだ。(YouTubeでも見ることができる。)
 
 何かしら良いことに出会えること・・・それが生きていることの、大切な意味の一つなのかもしれない。
 
 この秋、東北の山の紅葉を見に行こうと思っていたが、平年よりも一週間も早いとのことで、その期を逃してしまった。
 それなら、北か南のアルプスへと考えないわけでもなかったが、決断するほどの勇気が、もうこのじじいになってしまった私にはないのだ。
 そして、今、せめて雪が来たばかりの、北海道の山の一つくらいはと思っているのだが、果たして、このぐうたらに過ごすことに慣れた中では、それも・・・。