6月24日
10日ほど前に大雪山黒岳に登った時のことは、前回あげた記事と写真の通りなのだが、どうにも何かが足りない気がする。
というのも、その後も、その時の写真をスライドショーにしてモニター画面に映し出し、ひとりニヒニヒと薄笑いを浮かべながら(気持ちわりー)楽しんでいるからだ。
やはり、自分の登山記録としては、百数十枚もの写真があるのだから、その中の数枚だけでは物足りないということなのだろう。
そこで、新たに数枚を追加することにした。
ただし今回は、山登り以外のことについて他にも書きたいことがあるので、まずは前回分に追加する写真についての説明だけを先にしておくことにする。
冒頭の写真(上)から順に、1枚目は7合目付近の雪の斜面で、30度以上の勾配があるし、こうした斜面に生えるダケカンバの、”負けてたまるか”精神の成長ぶりがよくわかる。
以下2枚目は、黒岳山頂からの、上川岳(1884m)への岩稜尾根であり、昔から気になっていて、いつかは行ってみたいと思っていたが、道がなく国立公園区域での登山道以外の踏み入れは禁止されているので、あとは積雪期に行くしかないのだが、それにしても、斜面から下のくぼ地の辺りが、北アルプスの涸沢(からさわ)などの、氷蝕(ひょうしょく)地形であるカールに似ていて(大雪山は氷河期以降の火山でカールはないのだが)、その岩稜尾根は北アルプス奥穂から西穂への稜線にも似ていて、何ともアルペン的な光景であり、大雪山で私が足を踏み入れていない数少ない地域の一つでもある。
3枚目は、咲き始めたイワウメであるが、雪の融けた日当たりの良い南斜面のあちこちで見ることができた。
4枚目は、ロ-プウエイ駅舎展望台からの黒岳と烏帽子岳であるが、黒岳北東斜面の雪の付き具合がよくわかるし、今の時期は、その雪の斜面をたどるようにトレース(踏み跡)がつけられていた。
さて、本題に移ろう。
少し前の話になるが、いつもの『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系)の6月9日分の放送からなのだが、最近熊本とともに取り上げられることの多い、宮崎県の山奥の一軒家の話である。
いつものような細い山奥の道をたどって、取材班がたどり着いたのは、目的地の手前にある一軒家の小さな神社だったのだが、そこでの話も興味深かった。
飛鳥時代に創建されたという格式を持つ、その狭上稲荷(さえいなり)神社は、今でも御朱印を求めて人がくるほどの、知る人ぞ知る秘境の神社なのだが、現在の50歳になる神主で何と71代にもなるというから恐れ入る。
5年前に先代が病で亡くなり、下の町で働いていた息子が戻って来て神主を受け継ぎ、今は74歳になる母親と二人で暮らしているということだが、その母親も病に倒れて、昔のように家の仕事をすることができなくなって、炊事から掃除、洗濯まで息子の世話になってと涙ぐむその母親は、何とか息子が結婚して、その子供がこの神社の跡を継いでくれればと言っていた。
そのおばあちゃんが、この家に嫁に来たのは52年前の22歳の時であり、途中まで貸し切りバスで親類縁者ともに上がって来て、残りは1時間のけもの道を歩いて、やっとこの家にたどり着き、あまりの山奥に驚いたと言っていた。
それから17年たって、やっとクルマの通る道が作られるまで、それまでは買い出しに行くにはそのけもの道を行き来するしかなく、背負子(しょいこ、前回参照)に20㎏もの肥料袋を背負って(私ですら最近では12㎏くらいまでしかザックに背負えないのに)、この家まで登ってきたのだそうだが、その小柄な体でと苦労がしのばれる。
今ではどんな山奥の山小屋でも、ヘリコプターによる物資輸送が普通になっているが、ただ尾瀬の山小屋などでは背負子姿の若いボッカたちに荷揚げを頼っているそうだが、確かに3,40年前には、そんな背負子姿の人たちによく出会っていたものだが、思えばそうした営業小屋ではなく、当時の交通不便な山奥の人たちも、背負子姿で生活物資を運ぶということが当たり前のことだったのだろう。
そして、その家のさらに奥にある、もともと取材班が目指していた一軒家の話になるが、荒れ果てた道の先に、確かに一軒の民家があり、そこに、81歳になるという明るいおばあちゃんが一人で暮らしていたのだ。
ご主人は4年前に脳梗塞で倒れて、半身不随になり、ちょうどそのころ、彼女も山仕事をしていて圧迫骨折で3か月入院することになり、ご主人は下の町の介護施設で面倒を見てもらうことになって、今では一月に一度おばあさんが会いに行っているそうだ。
彼女は29歳の時に、1歳年下の御主人と結婚して、山向こうの熊本県は球磨郡からここに嫁いできたそうで、ご主人とは見合いの時に会ったきりで、山奥のこの家での結婚式の時が二度目の対面だったとのことだ。
下の神社のおばあちゃんの場合と同じように、下までクルマで来て、その後は親せきの人たちと一緒に、1時間のけもの道を歩いてきたということで、初めて見た山奥の家に驚いたと言っていた。
ご主人は、まじめな働き手で、本来の農林業の他に、育成牛の子牛を飼っていたし、シイタケ栽培までもしていたが、口癖のように、若い時に一生懸命働いて老後はその分、楽に暮らすのだと言っていたのに、その矢先に倒れたとのことだった。
取材班が訪れた2日後に、施設からおじいさんが一時帰宅するということで、再びその日に取材班が行ってみると、施設のクルマに乗って、車いすのおじいさんがって帰ってきたが、おばあさんが作った料理をみんな食べてしまい、おじいさんは言葉に不自由していたが、楽しそうに二人で顔を見合わせながら話していた。
57年間の結婚生活、三人の子供を育て上げてきた、二人の人生。
初めて取材班が、このおばあちゃんのもとへと訪ねて来た時、彼らが、いつも笑顔のおばあちゃんに、”こんな山奥に一人で寂しくないですか”と尋ねかけると、おばあちゃんは即座に”寂しくない”と答えて、”この家に来てよかった、今は別に何も不自由しないし”、なんでも前向きに考えて、”これでいいのだ”と思うようにしていると言っていた。
”これでいいのだ”とは、あの赤塚不二夫の漫画”天才バカボン”のパパの、あまりにも有名な言葉だが、さらには最近の”yahoo!ニュース”で、あの「笑点」でおなじみの林家木久扇師匠が、”バカが少なくなって”と嘆いていると伝えていたのだが。
私は今回の、このおばあさんの言葉を聞いて、ある種のいわく言い難い感慨にとらわれたのだ。
彼女は、29歳という当時では遅すぎる結婚で、こんなクルマも通れない山奥の村に嫁いできて、そこには言うに言われぬ艱難辛苦(かんなんしんく)日々があっただろうに、そこはさらりとかわして、”ここに来てよかった今は幸せ”だと言いきる、その前向きな気持ちの持ち方に。
果たして、古代ギリシャ・ローマの時代から、さらには中国の孔子、老荘の時代から、倫理学者や哲学者たちが考え創り上げてきた、金言・警句の数々とはいったい何だったのだろうか。
それは”砂上の楼閣(ろうかく)”のごとくに、もろくすぐに崩れやすい、細かい言葉の粒子から創り上げられていただけのものにすぎなかったのではないのか。
”言うは易(やす)く、行うは難(かた)し”とも言われているように。
彼女は、おそらく哲学的な難しい言葉などは知らないのだろうが、それがどうしたというのだ。
つまり、彼女はある時、マンガの流行の言葉に、人生の真実の匂いをかぎ取り、それを自分の人生の”生きるよすが”にして、つぶやきながら生きてきたのではないのか。
”それでいいのだ。”
今、小さな自分の家があり、そこから、大きな空の下に日高山脈の山なみが見え、鳥の鳴き声が聞こえてきて、今日、赤いハマナスの花が、三輪咲いていた・・・静かだ。
それだけで、いいのかもしれない。