ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

生きるよすが

2019-06-24 21:40:12 | Weblog




 6月24日

 10日ほど前に大雪山黒岳に登った時のことは、前回あげた記事と写真の通りなのだが、どうにも何かが足りない気がする。
 というのも、その後も、その時の写真をスライドショーにしてモニター画面に映し出し、ひとりニヒニヒと薄笑いを浮かべながら(気持ちわりー)楽しんでいるからだ。
 やはり、自分の登山記録としては、百数十枚もの写真があるのだから、その中の数枚だけでは物足りないということなのだろう。
 そこで、新たに数枚を追加することにした。
 ただし今回は、山登り以外のことについて他にも書きたいことがあるので、まずは前回分に追加する写真についての説明だけを先にしておくことにする。

 冒頭の写真(上)から順に、1枚目は7合目付近の雪の斜面で、30度以上の勾配があるし、こうした斜面に生えるダケカンバの、”負けてたまるか”精神の成長ぶりがよくわかる。



 以下2枚目は、黒岳山頂からの、上川岳(1884m)への岩稜尾根であり、昔から気になっていて、いつかは行ってみたいと思っていたが、道がなく国立公園区域での登山道以外の踏み入れは禁止されているので、あとは積雪期に行くしかないのだが、それにしても、斜面から下のくぼ地の辺りが、北アルプスの涸沢(からさわ)などの、氷蝕(ひょうしょく)地形であるカールに似ていて(大雪山は氷河期以降の火山でカールはないのだが)、その岩稜尾根は北アルプス奥穂から西穂への稜線にも似ていて、何ともアルペン的な光景であり、大雪山で私が足を踏み入れていない数少ない地域の一つでもある。


 3枚目は、咲き始めたイワウメであるが、雪の融けた日当たりの良い南斜面のあちこちで見ることができた。



 4枚目は、ロ-プウエイ駅舎展望台からの黒岳と烏帽子岳であるが、黒岳北東斜面の雪の付き具合がよくわかるし、今の時期は、その雪の斜面をたどるようにトレース(踏み跡)がつけられていた。




 さて、本題に移ろう。 
 少し前の話になるが、いつもの『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系)の6月9日分の放送からなのだが、最近熊本とともに取り上げられることの多い、宮崎県の山奥の一軒家の話である。
 いつものような細い山奥の道をたどって、取材班がたどり着いたのは、目的地の手前にある一軒家の小さな神社だったのだが、そこでの話も興味深かった。

 飛鳥時代に創建されたという格式を持つ、その狭上稲荷(さえいなり)神社は、今でも御朱印を求めて人がくるほどの、知る人ぞ知る秘境の神社なのだが、現在の50歳になる神主で何と71代にもなるというから恐れ入る。 
 5年前に先代が病で亡くなり、下の町で働いていた息子が戻って来て神主を受け継ぎ、今は74歳になる母親と二人で暮らしているということだが、その母親も病に倒れて、昔のように家の仕事をすることができなくなって、炊事から掃除、洗濯まで息子の世話になってと涙ぐむその母親は、何とか息子が結婚して、その子供がこの神社の跡を継いでくれればと言っていた。 

 そのおばあちゃんが、この家に嫁に来たのは52年前の22歳の時であり、途中まで貸し切りバスで親類縁者ともに上がって来て、残りは1時間のけもの道を歩いて、やっとこの家にたどり着き、あまりの山奥に驚いたと言っていた。
 それから17年たって、やっとクルマの通る道が作られるまで、それまでは買い出しに行くにはそのけもの道を行き来するしかなく、背負子(しょいこ、前回参照)に20㎏もの肥料袋を背負って(私ですら最近では12㎏くらいまでしかザックに背負えないのに)、この家まで登ってきたのだそうだが、その小柄な体でと苦労がしのばれる。

 今ではどんな山奥の山小屋でも、ヘリコプターによる物資輸送が普通になっているが、ただ尾瀬の山小屋などでは背負子姿の若いボッカたちに荷揚げを頼っているそうだが、確かに3,40年前には、そんな背負子姿の人たちによく出会っていたものだが、思えばそうした営業小屋ではなく、当時の交通不便な山奥の人たちも、背負子姿で生活物資を運ぶということが当たり前のことだったのだろう。

 そして、その家のさらに奥にある、もともと取材班が目指していた一軒家の話になるが、荒れ果てた道の先に、確かに一軒の民家があり、そこに、81歳になるという明るいおばあちゃんが一人で暮らしていたのだ。
 ご主人は4年前に脳梗塞で倒れて、半身不随になり、ちょうどそのころ、彼女も山仕事をしていて圧迫骨折で3か月入院することになり、ご主人は下の町の介護施設で面倒を見てもらうことになって、今では一月に一度おばあさんが会いに行っているそうだ。

 彼女は29歳の時に、1歳年下の御主人と結婚して、山向こうの熊本県は球磨郡からここに嫁いできたそうで、ご主人とは見合いの時に会ったきりで、山奥のこの家での結婚式の時が二度目の対面だったとのことだ。
 下の神社のおばあちゃんの場合と同じように、下までクルマで来て、その後は親せきの人たちと一緒に、1時間のけもの道を歩いてきたということで、初めて見た山奥の家に驚いたと言っていた。
 ご主人は、まじめな働き手で、本来の農林業の他に、育成牛の子牛を飼っていたし、シイタケ栽培までもしていたが、口癖のように、若い時に一生懸命働いて老後はその分、楽に暮らすのだと言っていたのに、その矢先に倒れたとのことだった。
 
 取材班が訪れた2日後に、施設からおじいさんが一時帰宅するということで、再びその日に取材班が行ってみると、施設のクルマに乗って、車いすのおじいさんがって帰ってきたが、おばあさんが作った料理をみんな食べてしまい、おじいさんは言葉に不自由していたが、楽しそうに二人で顔を見合わせながら話していた。
 57年間の結婚生活、三人の子供を育て上げてきた、二人の人生。

 初めて取材班が、このおばあちゃんのもとへと訪ねて来た時、彼らが、いつも笑顔のおばあちゃんに、”こんな山奥に一人で寂しくないですか”と尋ねかけると、おばあちゃんは即座に”寂しくない”と答えて、”この家に来てよかった、今は別に何も不自由しないし”、なんでも前向きに考えて、”これでいいのだ”と思うようにしていると言っていた。

 ”これでいいのだ”とは、あの赤塚不二夫の漫画”天才バカボン”のパパの、あまりにも有名な言葉だが、さらには最近の”yahoo!ニュース”で、あの「笑点」でおなじみの林家木久扇師匠が、”バカが少なくなって”と嘆いていると伝えていたのだが。

 私は今回の、このおばあさんの言葉を聞いて、ある種のいわく言い難い感慨にとらわれたのだ。
 彼女は、29歳という当時では遅すぎる結婚で、こんなクルマも通れない山奥の村に嫁いできて、そこには言うに言われぬ艱難辛苦(かんなんしんく)日々があっただろうに、そこはさらりとかわして、”ここに来てよかった今は幸せ”だと言いきる、その前向きな気持ちの持ち方に。
 果たして、古代ギリシャ・ローマの時代から、さらには中国の孔子、老荘の時代から、倫理学者や哲学者たちが考え創り上げてきた、金言・警句の数々とはいったい何だったのだろうか。
 それは”砂上の楼閣(ろうかく)”のごとくに、もろくすぐに崩れやすい、細かい言葉の粒子から創り上げられていただけのものにすぎなかったのではないのか。
 ”言うは易(やす)く、行うは難(かた)し”とも言われているように。

 彼女は、おそらく哲学的な難しい言葉などは知らないのだろうが、それがどうしたというのだ。
 つまり、彼女はある時、マンガの流行の言葉に、人生の真実の匂いをかぎ取り、それを自分の人生の”生きるよすが”にして、つぶやきながら生きてきたのではないのか。

 ”それでいいのだ。”

 今、小さな自分の家があり、そこから、大きな空の下に日高山脈の山なみが見え、鳥の鳴き声が聞こえてきて、今日、赤いハマナスの花が、三輪咲いていた・・・静かだ。
 それだけで、いいのかもしれない。

 


青空と雪と

2019-06-17 21:21:30 | Weblog




 6月17日

 数日前に、久しぶりに山に行ってきた。
 青空と雪と、新緑の樹々と咲き始めた花々と、その中で過ごすことのできた、素晴らしい一日だった。
 だから、生きていることは、ありがたいことだと思う。

 しかし、前日、明日山に行こうと、はっきりと決めてはいなかった。
 天気が良ければ、できれば大雪山に登るために、表側の旭川側からか(それは途中にある亡くなった知人の家へのあいさつも兼ねてのことだが)、あるいは、家からはいくらかは近くなる、裏側の層雲峡側から行くことにするかと考えたのだが、いずれもクルマで行くには登山口まで3時間以上もかかってしまう。
 つまり、若い時にはそれほど苦には思わなかったことが、年寄りになると大きな負担に感じてしまうからだ。 

 それでは、近くの岩内の金竜山(466m)への足慣らしハイキングにするかと思い、眠りについたのが、翌朝、いつもはぐうたらに5時過ぎに起きていたのだが(日の出は3時半)、何と4時には目が覚めてしまった。
 ネットで天気予報を見ても晴れる予報だし、大雪山のライブカメラを見ても、少し雲はあるものの青空が広がっている。
 これは、千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスだと、大慌てで支度をしてクルマに乗って家を出た。
 
 十勝平野はすべて重たい曇り空の下にあったが、糠平(ぬかびら)の山間部に入るあたりから、切れ切れに雲が取れてきて、ウペペサンケ山(1835m)や二ペソツ山(2013m)も見えてきて、三股の広大な盆地に入るころには、西側半分以上に青空が広がっていた。 
 そして、三国峠のトンネルを抜けると、青空の下に残雪豊かな大雪山の山々が横たわっているのが見えていた。 
 何十回通っていても、この山の姿には、いつも思わず声をあげてしまう。  
 そして、高原温泉分岐手前の高原大橋は、それまでの架橋からもう新しい橋に架け替えられていたが、この橋のたもとから見る緑岳(2016m)から赤岳(2078m)に至る長々と伸びた山体が、まるで背伸びしている猫のようなやわらかさな線を描いていて、どうしてもクルマを停めて見てしまいたくなる。

 そして、黒岳の登山口になる層雲峡ロープウェイ駅に着く。
 紅葉時には、この広い駐車場が満車になり、他の第二第三の駐車場に回されるほどになるのに、まだ夏のシーズンにもなっていないためか、クルマは数台だけで、8時前のロープウエイには、観光客が二人と営林署のおじさん二人が乗っているだけだった。
 車窓からは、新緑の山麓斜面と残雪の黒岳(1984m)から桂月岳(けいげつだけ、1938m)、凌雲岳(りょううんだけ、2125m)、上川岳(1884m)に至る山なみが、青空の下に見えていた。 
 さらにリフトに乗り換えて(写真上、リフト乗り場付近からの黒岳)、青空とダケカンバなどの新緑の樹々を見ながら上がって行くのだが、朝のすがすがしい空気の中、久しぶりに山に来たという実感が湧いてくる。
 リフトの下の刈り分け斜面には、栽培された白いチングルマや赤いエゾコザクラの花々が咲ている。

 そして、いよいよ6合目の登山口から歩きだすのたが、すぐに雪道になる。
 ジグザグに登る夏道は雪に隠されていて、雪上の足跡は、そのまま雪の斜面を直上していた。
 雪渓大好きの私としては、願ってもない雪の道になるが、これが5月のころだと、凍りついた斜面になっていて、アイゼンとピッケルは必携になるのだが、今の時期だと雪がゆるみ始めていて、雪に慣れていない初心者には危険だが、キックステップでしっかり蹴り込んでいけば、かなりの急斜面でも登り下りができるが、やはりそこはそれ、足取りおぼつかないこの年寄りにはと、用意してきていた6本爪の軽アイゼンを取り付けて、冬用ストックを手にして登って行く。

 振り返る向こうには、天塩岳(1558m)から、いつもの層雲峡を隔ててのニセイカウシュペ山(1879m、写真下)、平山(1771m)、さらに支湧別岳(1688m)からニセイチャロマップ岳(1760m)、屏風岳(1792m)、武利岳(1876m)、武華山(1759m)、そしてクマネシリ山群なども見えている。



 とは言っても、久しぶりの登山の上に、この雪の急斜面ですぐに息切れして、立ち止まるのもたびたびだった。
 ただありがたいのは、登山者が少ないことで、本来の山の静寂を味わえることだった。
 出会ったのは、上からもう戻って来ていたロープウエイの調査員の女の子と、若い外国人、それに下から私を抜いていった若い男の子だけであり、あとはウグイスの声と、意外に多かったルリビタキのさえずりの声が聞こえてくるだけだった。 
 いつもは、今頃は高原温泉から緑岳へ行くことが多く、その最初の登りのところで、このルリビタキの鳴き声を聞いては、ああ初夏なのだと実感していたのだが、この黒岳斜面の方が数としても多いくらいだった。

 雪の急斜面の直登とトラヴァース(横断)を繰り返して、マネキ岩の見える9合目辺りから夏道が見えてきて、ショウジョウバカマやイワハタザオにエゾイチゲなどの花が咲いていたが、最後に一つ、40度ぐらいにもなる雪の急斜面の直登があり、はるか下までその斜面は続いていて、少しビビる所だが、夏スキーにはもってこいの斜面かもしれない。(帰りにロープウエイ駅まで戻ってきた時、これから行くのかスキーを担いでいる人がいたが、白鳥千鳥の雪渓がある北鎮岳まで行くのは遅いから、あの斜面で滑るつもりだったのかもしれない。)

 さてそこを登り切って、あとは雪の融けた夏道のジグザグの後、石の階段を上がって、やっとのことで黒岳の山頂に着いたのだが、何と2時間10分もかかっていた。
 ネットで見ると、夏スキーに来た人が55分で登ったというから、もう話にならない体力の差を感じてしまう、年だわ!
 頂上での風は強かったが、青空と残雪の大雪山主峰群の眺めは素晴らしかった。
 そこで10分ほど休んで、石室(いしむろ)小屋に向かって下りて行くと、その南西斜面には、もうイワウメやミヤマキンバイ、ミネズオウ(写真下)などの花が咲き始めていた。



 そこで、後ろから来た背負子(しょいこ)に大きな荷物をくくり付けたボッカ(荷揚げ)の3人の若者たちが、元気に私を抜いて行った。
 そして、ポン黒岳から降りたコルのその先は、広く一面の雪原になっていて、まだ春遠しという感じだった。(写真下)左から北海岳(2148m)間宮岳(2185m)北鎮岳(2244m)。




 石室小屋の前で、小屋明けの準備に来たという先ほどの若者たちと言葉を交わし、私はそのまま桂月岳へと登って行った。
 去年の秋にも登ったくらいで(2018.9.17,24の項参照)、今の私には無理しなくてよい距離の所にある山なのだ。
 途中の斜面の道のあちこちには、キバナシャクナゲが咲いていた。(写真下)



 その桂月岳の岩頭の頂上で休み、昼食をとって15分ほどいて下りて行き、小屋の前を通って雪原からポン黒岳への登り返しで、先ほどからやっとの思いで歩いていた私の体は、もう限界になっていた。
 息が苦しくて胸が痛くなり、20歩ほど歩いては岩の上に腰を下ろすことを繰り返していたが、わずか1分ほど休むと息苦しさは治まり、また歩き出しまた休むという始末だった。

 今までに、これほどまでに苦しくなったことはなかったのだが、症状から疑われるのは狭心症だろうが、今回はさらに他のことも重なったからであり、つまり、登山間隔があいていて2か月ぶりの登山だったこと、ぐうたらな年寄りになって体重が増えていたこと、明らかに年寄りになって体力が落ちていたことなどが、積み重なって、”あわや”と思わせる状況にまでなったのではないか。
 こんな体では、これから予定している内地の山への遠征登山など、到底無理であり、やめるべきではとも思うのだが、一方では、あの憧れの山の姿や花々が見られるのなら、そこでぽっくり逝(い)ってもいいのではないのかとも思うし、そうなれば多くの人に迷惑をかけることにもなるし、私の心は千々(ちぢ)に乱れるばかりで。
 山々の上空には、風の強い時に現れるレンズ雲が幾つか見えていたが、まだ十分に晴れていて、ひと時この誰もいない黒岳からの眺めを楽しんだ。

 そして、何といっても下りは楽だし、急斜面の所では緊張することもあったが、十分にステップの跡が刻まれていて、そこをなぞって行けばいいだけだし、余裕ができると尻セードで滑り降りて行ったりもした。
 さらに、時々景色を楽しんでは座り込み、アイゼンの締め直しなどをして、ゆっくりと下って行き、1時間半かかってリフト乗り場に降りてきた。

 そこでは、にぎやかな声の中国語が飛び交い、観光客たちが雪景色や山々にスマホカメラを向けていた。
 リフト、ロープウエイと乗り継いで、駐車場に戻ってくると、さすがにもう数十台のクルマが並んでいた。
 今日は、途中で胸が痛くなるという異変あったにせよ、青空の下で残雪の山々と咲き始めた花々を見ることができたし、その雪のおかげでヒザが痛くなることもなく、無事に下りてくることができたし、生きている間の大切な一日を、こうして満足して過ごすことができて、何という幸せなことだろうかと思う。
 
 さて、まだまだ家までの長い距離が残っているが、途中で、久しぶりに友達の家を訪ねて、家族のみんなとも話すことができて、さらに満ち足りた気持ちになって、家路を急いだ。
 長い間、会っていなくても、目の前でお互いの顔を見て話していれば、それぞれの時はつながり埋まって行くものなのだろう。 

 前にも取り上げたことのある、フランスの哲学者アラン(1868~1951)の言葉より。

” 悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する。”

” わたしたちはなにもしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸をつくることになるから・・・退屈が何よりの証拠である。”

(『幸福論』アラン 白井健三郎訳 集英社文庫より)

 


寒い6月

2019-06-10 21:36:30 | Weblog




 6月10日

 この数日は、いつもの曇り空が続いていて、朝は10℃前後しかなく、思わず電気ストーブを出してきて、足元だけでもと温めているほどだ。
 さらに今日は、日中でも14℃までしか上がっていない。
 
 わずか二週間前までは、38℃近くにもなって、扇風機までつけていたというのに。
 かと言って、私は、この寒さが嫌いなわけではない。
 何よりも、日本の夏の、じとじとした湿度の高い暑さが苦手なのだから、この北海道の初夏の、曇った日の冷たい空気を含んだ、20℃前後の気温というのは、私にとってはちょうどいいころ合いの温度なのだ。
 庭では、あのチゴユリの花がまだ咲いているし、もともとユリ科の花は長持ちする上に、この涼しさもあるからだろうが。(写真上)

 体感的には少し寒いぐらいの方が、外に出て庭仕事をするときにも、あのうるさい蚊やサシバエもいないし・・・。
 ただし、この心地良い温度も、周りの農家にとっては、作物の生育に影響する大きな問題であり、時々低温注意報が出されることもあるくらいなのだ。
 その低温に加えて、曇り空の多い日が続くことで、作物の生育が阻害され、極端な不作になる冷害に見舞われることになるかもしれないのだ。

 曇り空の多い原因は、いつものオホーツク海高気圧が、舌が伸びてくるような形で、北から張り出してきて、その周りをまわって吹いてくる、海側からの冷たい風が霧となり雲となって、この十勝平野に入り込んでくるからなのだ。
 今の時期に、日高山脈の山々や大雪山などに登ると、その山の上は晴れていて、この広大な十勝平野に、羊たちが群がりひしめき合っているように、雲の波で埋められているのを見ることができるだろう。 
 というのも、冬場には西高東低の冬型気圧配置になって、日本海側からの北西風に乗って雪雲が吹きつけてきて、札幌などの道央方面は、雪が多く天気の悪い日が続くことになるのだが、その雪雲も日高山脈や大雪山の山々が押しとどめてくれて、十勝地方をいわゆる”十勝晴れ”の毎日にしてくれるのだ。
 しかし、夏場にはそれが逆転して、オホーツク海や太平洋側からの雲や霧を、日高山脈などの山々が、十勝平野までに押しとどめるため池の堤の役目をはたすことになるのだ。
 それだから、夏は、十勝・釧路などのいわゆる道東地方は、雲に覆われることが多く、一方で、冬には雪も多く天気の悪い日が続く、あの札幌などの道央方面の方は、晴れていることが多いのだ。

 それでも、私が東京を離れて十勝地方を選んだのは、日本の中で夏にあまり暑くならない北海道が、まずその選択の前提条件にあるとしても、その中でも年間を通じて総合的に見れば、あの北見地方と十勝帯広地方が、飛びぬけて晴天率が高かったからであり、生来のお天気屋である私には、まさにうってつけの場所だったのだ。
 そのうえ、何しろ目の前には、私の敬愛する日高山脈の山々が立ち並んでいたのだから。

 しかし、何度も言うことになるが、この夏場には、天気が悪いだけでなく、時には恐ろしい天気状況にもなる。
 視界が50m以下にもなる、深い深い霧だ。
 数日前に、近くの大きな町まで買い物に行って、風呂にも入り、いい気分で戻る時、郊外の田園地帯の中をクルマで走って行く時に、夕方になるにつれて次第に霧が濃くなってきて、すぐ前の所が見えず、数10m前の所で対向車線から来た車のライトが見えて、やっと気づくほどで、スピードを落としてのろのろ走って行くことになるのだが、特に信号機のない交差点を横切る時など、行くと決めたら急いで渡りきるしかなく、ハラハラドキドキしながらもようやく家に帰りついた時には、大げさに言えば助かったと思ったほどだった。
 若い時には、同じ夜の道を霧が出ていてもいつものスピードで走っていて、よく事故を起きなかったものだと思う。

 人生は、ともかくもあとになって気づくけれども、偶然の連なりなのだろう。
 幸運も不運も、すべては運まかせで、”わたしは今日まで生きてみました”(吉田拓郎の歌「今日までそして明日から」より)ということなのだろうが、しかし、そこに多くの努力と刻苦勉励(こっくべんれい)の時があり、または怠惰(たいだ)な日々を送るだけであったにせよ、そうしたことに関係なく、運不運のめぐりあわせは、いつも偶然なのだ。
 あのベートーヴェンが、第5番交響曲の冒頭の有名な4音の意味を問われて、”このように運命は扉を叩くのだ"と言ったというが、幸運や不運は、何の予告もないままに始まりやってくるのだ。

 そして、人生の途上でたびたび現れる、その運命の”重い扉をこじ開けて、その先をめげずに歩いて行った”としても、はたしてそこで見る"知らなかった世界”(NHK朝ドラ『なつぞら』主題歌から)とは、本当に希望溢れる世界だったのか、それとも重い閉塞感に満ちた”神の沈黙”(スウェーデンの名監督イングマール・ベルイマンの映画のテーマの一つ)の世界だったのか。

 もちろんそうした判断は、外側から見た、あくまでも第三者としての見解なのであって、実際に真正面から受け止めるしかない当の本人にすれば、それは自分の考え方ひとつで、多少とも良くも悪くも変えることのできるものであり、さらに極論すれば、幸運にも不運にもすることのできるものかもしれないのだ。

 こうしたことをくどくどと書いてきたのは、やはり前回書いた”安楽死”の問題に触発されていて、いまだにその問題意識が頭から離れないからでもある。
 そこで、自分なりにたどり着いた思いの一つは、すべてにおいて他人と比較するのではなく、自己の内なる自由の思いのままに、今ある所をすべて認めて安住することこそが、自分の満足感となるのではないのかということ、そう考えること自体が、わがままな頑固爺(がんこじじい)になるべく歩みゆく道でもあるのだが・・・。

 つまりそれは、私が今までここで書き綴ってきたことに通じており、年寄りになれば、他人に迷惑をかけないとしても、物事はむつかしく考えないで、自分の都合のいいように理解して、すべては”良きもの”と理解すること、”おつむてんてん、チョウチョウひらひら”と馬鹿になることこそが、幸せな気持ちへと向かう道なのではないのだろうか。

 ”耶蘇(やそ)「我笛吹けども、汝等(なんじら)踊らず」
  彼等「我等踊れども、汝足らず」

(『侏儒(しゅじゅ)の言葉』芥川龍之介著 ネット上の”青空文庫”より、手元に書籍がないので)

 一行目の言葉は『聖書』の「マタイ伝」十一章に書かれているものであるが、芥川龍之介は、それを受けて、当意即妙(とういそくみょう)に切り返しの言葉を続けたのだ。
 いつの時代にも、見る側と見られる側の、それぞれの思いがあるものなのだ。

 そういえば、数日前、いつも出入りする時に気になっていた玄関の上を見ると、やはりというべきか、またもヘビがいた。 
 玄関の棟木の上に、体をくねらせて、その太り張りつめた体を見せて、右側にはしっぽと白い頭の部分が見えている。(写真下)
 こうして、写真まで撮ったのには訳がある。
 おそらくは同じ蛇だとは思うのだが、その数日前に、玄関の方で何やらやわらかいものがドタリと落ちた音がしたので行ってみると、1mあまりもあるヘビがいた。 
 いつもの、アオダイショウだ。

 毒蛇ではなく、家のネズミなどを食べてくれるので、昔から言われている”家の守り神”のヘビなのだが、なかにはかわいいからと家の中でペットとして飼っている人もいるということだが、私は、あのヌメりついた長い体つきを好きにはなれない。
 ストーヴで使う火バサミで捕まえて、100mほど先にある、道向こうの牧草地に放り投げてきた。
 もっともこうしたことは今までに何回もあったことであり、そのたびごとにそのヘビは、わが家に戻って来ていたのだが、なんという帰趨(きすう)本能だろうか。
 今回もまた数日たった後に、こうして戻って来ていたのだ、多分同じヘビだとは思うのだが。 
 今年も春先に戻って来てから、家の中の粘着シートのネズミ捕りに、二匹のヒメネズミがかかったほどだから、そのネズミを丸呑みにしてくれるヘビはありがたいのだが、ある時などは目の前で、ドタリと落ちてきたことがあり、私の体の上から落ちてきたらと考えると、ぞっとしてしまうし、玄関の出入りには、いつもその”おヘビ様”がいないかと注意しているのだが。 

 蛇 長すぎる。

(『博物誌』ルナール 岸田国士訳 新潮文庫)




最期のことば

2019-06-03 21:40:55 | Weblog




 6月3日

 先週、晴れた日の最高気温が、37℃、32℃と続いた後、曇り空になって、一転18℃、さらに15℃にまで下がってしまった。
 わずか二三日で、一気に20度も上下する北海道の気温の変化が、それでも好き、八丈島のきょん!(意味のない感嘆詞)
 それは、どんなに暑い日があっても、夜には、そして日中でも、二三日すればいつもの涼しい平年並みの気温に、北海道のさわやかな初夏に戻るということだ。

 今の時期、青空が広がり、気温も20度前後、そよ風が吹き、外で仕事をするにはちょうど良い日々が続いている。
 タンポポやセイタカアワダチソウの、引き抜き作業が続く。
 毎年、同じ作業をしているということは、いくら引き抜いても、毎年同じ量が増えているということだろう。
 さらに庭では、すっかりおなじみのスイバ(スカンポ)が、あちこちにうんざりするほどに伸びてきていて、これも引き抜いていくのだが、残った地下茎だけでなく、すでに穂先についている種からも増えていくから、こちらも根絶やしにすることなどは不可能であり、ただただ、今の時期に生えているものだけでを引き抜いていくほかはないのだが。
 私がいなくなれば、これらの雑草たちは、”時は来たり”と、それぞれの勢力範囲を爆発的に増やしていくことだろう。
 つまり、植物たちから見れば、そこは、ひと時の間、侵入してきた人間たちの領域になっていて、彼らのつかの間の”庭仕事の愉(たの)しみ”の場になるのだろうが。

 クルマでしばらく行ったところに、今年も輪作の位置を代えて、ナタネ畑が広がっている。(写真上)
 青空、残雪の日高山脈、カラマツの防風林、ナタネ畑、小麦畑と色を変えて広がる、十勝平野の春の風景だ。

 さらに、家の周りのあちこちには、小さなスズランの群生地があって(写真下)、風の向きによっては、そのかぐわしい香りが家の中にまで匂ってくる。



 そんな中で、エゾハルゼミの”蝉時雨(せみしぐれ)”や、時々聞こえるキビタキ、アオジ、カッコーの鳴き声を聞きながら、ひたすら庭の雑草を取っていく。
 無駄とも思える、自分だけの仕事に夢中になって、自分の時間を費やすこと、つまり、自分の頭を何も考えない”ポン”の状態にすること、”あほちゃいまんねんぱーでんねん”になる時間が、人間には必要なのだろう。
 もっとも、日ごろから”ふんどしひらひら”させて、”チョウチョウが飛んでいるとつぶやいている私には、そんな状態が日常になっていて、改めて言うまでもないが、実際のところ、私は本当の”ばか”になっているのかもしれないが。
 年寄りは、昔の自己回想から、次第に”幼児がえり”をするようになり、はては”嬰児(えいじ)がえり”に及び、ついには無なる所へと戻っていくのかもしれない。
 というのも、昨日見たテレビ番組の一つが、いまだに頭から離れないからだ。

 6月2日、NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」、という約50分のドキュメンタリー番組である。
 去年、スイスのある安楽死認定の施設病院で、51歳になる女の人が、所定の取り決めの中で、自らの意志で、点滴薬を注入させて、眠るように息を引き取った。
 大学卒業後、韓国語の通訳として働いていた彼女は、その3年前に、多系統萎縮症という神経系の難病を宣告されていて、それは有効な治療法がなく、ただ時間とともに少しずつ全身の機能が衰えていくというものだった。
 彼女は、医師の紹介で同じ患者の進行中の症状を見ることができたのだが、それは人口呼吸器と胃ろうの器具を取り付けられて、わずかに目や指が動かせるだけのまことに痛ましい姿だった。

 そうした自分の病気の行きつくところを知った彼女は、何度も自殺しようとするが、果たせずにいて、今ではさらに病状が進行していて、何とか体は動かせるものの、言葉が不自由になり、一人でできることも限られるようになっていた。
 それだけに彼女は、自分の意志がしっかりと示せる今のうちにと、スイスにある公認の安楽死幇助(ほうじょ)団体に連絡を取って、認定してもらうように依頼していた。
 しかし、子供のころから親代わりになって彼女の面倒を見てきた二人の姉は、もちろん反対していたし、下の妹はどんな形でも生きていてほしいと頼んでいたのだが、彼女は自分の体が自分の意志にならないまま、悲惨な介護治療を受けるようになることに、そして姉妹に迷惑をかけることになることに耐えられなかったのだ。
 つまり、日本では認められていない安楽死を選ぶということは、死ぬという自分の権利を実行することであり、彼女自身の人間の尊厳を守ることだったのだ。

 彼女は二人の姉に付き添われてスイスに向かい、そこで担当の女医と対面して、最後の確認問診を受け、さらに二日間の再考慮の時を与えられて、三人は前日まで眠らずに話し合ったのだが、彼女の強い意志は変わらなかった。
 当日、彼女は最後のベッドで横になり、安楽死のための薬品の入った点滴のセットをつけられて、あとはその担当女医に、作動する手順を教わり、彼女は自らそれを押し下げて作動させたのだ。
 彼女のベッドのそばで、その一部始終を見守っていた二人の姉の涙が止まらない・・・それをやさしく微笑みながら見ていた彼女は、姉とお互いに何度も、”あなたがいてくれたから、ありがとう”と感謝の言葉を交わしながら、やがて、彼女は、ただ眠りに落ちていくように死んでいったのだ。

 一方で、上に書いたあの呼吸維持装置をつけた女の人は、最小限の意思表示である、目の動きだけで自分の意思を伝えることはできていたが、家族の運転するクルマに乗せられて、自分の町の近くの桜並木を見に行ったのだが、そのうるんだ瞳が万感の思いを語っていた。
 彼女の一人娘は言っていた。姿があるかないかというだけでも大きいし、母にはどんな形でも生きていてほしいと。

 安楽死の問題は、本質的な人間の生と死の意義づけにもかかわることだし、とても、今の時点での短絡的な考えや感情的な意見だけを、ここに書きつけていくつもりはない。
 それは人間が生きている限り、死んでいく側にも残される側にも、いつも問いかけられる問題であり、さらに言えば、個人個人のそれぞれの状況があり、周囲の人との問題でもあるが、最終的には、まさに自分だけの問題でしかないのだ。

 さらに、この番組について言えば、今さらながらに、NHKの優れた企画力、交渉力を思い知らされた気がして、とてもほかの民放テレビ局が立ち入ることのできない、見事な番組構成になっていたのだ。
 特に、安楽死が認められているスイスにまで出かけて行って、自ら死を選んだこの女の人はもとより、二人の姉とさらにはひとりの妹も写真だけではあったが、モザイクをかけることもなく、彼女の死の瞬間までの実写映像として映し出されていた。
 それは、匿名(とくめい)性の強い今の世の中で、こうしたまさにドキュメンタリーの本質とでもいえる影像を見るとによって、私たちは、より確かな真実性と、崇高な生の厳粛さまでをも感じてしまうことになるし、さらに言えば、そこからは、死んでいった彼女だけでなく、二人の姉や他の関係者たちの強い問題提起があり、その社会啓発への思いを受け取ることにもなるのだ。

 ここまで書いてきて、日ごろからぐうたらに暮らしている、半ボケ老人の私としては、とてもこうだと言い切れる結論に達することもできず、自分の手には負えない問題だけに、子供並みの知恵熱が出て、すっかりぼーっとして疲れてしまった。
 当初は、最近の他のテレビ番組や、Youtubeなどの影像音楽について書くつもりでいたのだが。
 とりあえず、それらの中から一つだけ書いておくとすれば、今回の『ポツンと一軒家』は、今までの高齢者夫婦だけの、”日本の故郷回想篇”的な番組ではなく、これからの新しい時代を生きていく移住組による”山村の若い世代篇”とでも呼ぶべき、番組になっていて、今までの、あの山林保全もかねて山奥に作られた”焼酎蒸留所篇”や、若い夫婦による”炭焼きガマ篇”と並ぶ、ある意味、アメリカン・カントリーライフ的な番組になっていて、今後のこの番組の方向性も感じさせる興味深い構成になっていた。

 カメラマン上がりの44歳の彼は、東京圏で二軒の写真スタジオを経営していて、今は愛媛県の山奥に土地を買い求めて、そこに丸太小屋の住居棟を作ろうとしていて、仕事はインターネットがつながるここでもできるからと、妻の実家のある千葉とこの地を往復しているとのことだった。
 小型ながらも重機もあって、今は丸太作りの車庫を作っている最中だと言っていたが、何より基礎から自分一人で(ミキサー車の運転手に手伝ってもらったとのことだが)作り、丸太も一本一本を自分の林で切り倒してきた木を運んできて、皮むきからノッチ(丸太組み合わせ部)加工まですべてを、一人でやっているとのことだった。

 そして、それらのことはすべてYoutubeから学んだというのも、インターネット時代の今らしくて、なるほどと感心したものだが、比べて私の場合には、ほとんど内外の本から学ぶしかなかったのだ。
 もちろん、ひとりで家を建てることの苦労は、私もよくわかっているだけに、心配なところもあるが、何といっても、こんな細い道が一本あるだけの山奥に、土地を買い求め、実行に移していくという、その心意気が何ともうれしいではないか。
 都会に仕事を残しつつ、田舎に住むという、ずいぶん前から言われている生き方の一つが、ここにはあったのだ。
 もちろんそうした意味では、今回の”ポツンと一軒家”だけでなく、田舎に移住して都会との二重生活を楽しんでいる人はいくらでもいるのだろうが。

 もっとも圧倒的大多数の人たちは、便利な都会での生活を望んでいるのだろうし、一方ではごく少数ながら、田舎に住み続ける人や田舎を求めて移住してくる人もいて、さらには、その両者の過渡的な生きかたとして、都会と田舎を行き来している人もいるというわけであり、生き方も様々なのだ。
 何が正しい生き方だとかいうのではなく、自分の思った方向へ進んでいくことが、たとえ失敗したとしても、それがより良き道への勉強の時だったと思えば、その人にとっての正しい生き方になるのだろう。
 人生も同じことだ。すべては自分が決めることだし、決めたからには、たとえいろいろな紆余曲折(うよきょくせつ)があったとしても、すべては、自分にとって正しいと思うその道につながっていたのだと思えばいいのだ。

 イギリスの女流詩人 アリス・メネル(1847~1922)の最期のことばより。

 ”これは悲劇的ではないわ。わたしは幸せよ。”

(『最期のことば』ジョナサン・グリーン編 刈田元司・植松靖夫訳 現代教養文庫 社会思想社より) 

 庭の二色のレンゲツツジが、平年よりずっと早く、満開になって咲いていて、古びたこの家の前が場違いな華やかさになった。
 ”馬子にも衣裳”(写真下)