ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

西の空のかなた

2015-01-26 23:52:02 | Weblog

 1月26日

 雨が降っている。真冬だというのに。
 いつもの寒い真冬のころには、ほとんどが雪の日ばかりなのに、今年は天気が崩れると雪ではなく雨が降るのだ。 
 
 最近は、まるで春先のような晴れて温かい日が続いて、その後に少し雨が降ってという繰り返しで、それはいつもの春になってからのことなのだが。 
 というのも、この九州の山の中にあるわが家にいて、これほど雪のない暖かい1月を過ごしたことは記憶にないほどなのだ。
 冬の季節が好きで、雪景色が大好きな私にとっては、冬に雨を見るのはさびしくもあり、また一方では老いたる体にはありがたいことだとも思ってはいるのだが。
 
 天気の良い早朝や夕方には、近くを散歩をする。
 太陽が昇り始め、また沈んでいく時の、あたりを赤く染めていく景色が好きなのだ。
 ただし、わが家があるのは、周りを山に囲まれた所だから、すっきりと開けたところでの朝焼け、夕焼けの眺めというわけにはいかないのだ。
 何と言っても、朝焼け夕焼けと言えば、あの北海道の周囲が開けた大平原の中にある、わが家のあたりからの眺めを思い出さずにはいられない。

 それでも、今見える夕焼けがある。私は、歩いて行って、西の空の山の端(は)を眺める。(写真上)
 青空といくつかの雲が流れていった一日は、今やたそがれどきになっていて、その輝く西の空は、明るい昼間の光が、次第に色あせて闇へと変わっていく。
 それは、一つの終末へと向かうお告げの色なのだろうか、それとも、さらに西に向かえば、決して暮れゆくことのない輝きに満ちた、西方浄土の世界があることを指し示しているのだろうか。
 あの光り輝き沈んでゆく山の端、山の頂のあたりには、私たちが死んで行くかなたの世界を指し示しているのだ・・・と昔の人々が考えたとしても、それもむべなるかなとは思う。

 どこからでも周りの山が見えるほどの、狭い国土に住んできた私たち日本人は、はっきりとした過酷なまでの四季の変化と、繰り返される自然の暴威を受けながらも、それらを受け入れて、その教訓を学び取りながら生きてきたのだ。
 その中で、わずかな光明のように、日々繰り返される輝かしき夕方の光景は、いつしか人々の明日への救いの思いにも重なったのだろう。
 いくら苦しい日々が続いていても、死んだ後にその魂は空に舞い上がり、あの輝かしき山の端あたりをさまよい、さらには西に向かい、西方浄土(さいほうじょうど)の世界にたどりつくはずだと・・・。

 私は、死後の世界、魂の世界などを信じるような人間ではないのだけれども、そこに導き連れていかれることを望む人々の気持ちは分かるような気がする、というよりは、一つの世界観として信じたい気持ちもあるからだ。
 古代の日本人たちが、自然に対して常に畏怖(いふ)の気持ちを覚え、何の疑いもなく八百万(やおよろず)神の存在を信じていたように、それが今に続く日本神道(しんとう)の流れとしてあるように、さらにはその後流入してきた仏教の教えである、地獄・極楽・現世に分けられた因果は廻る世界観にも対応して、互いに駆逐し合うことなく、受け入れあいながら、一つの大きな信仰の心として、日本人の心の中で形づくられていったのだろう。
 そうした、日本人の考え方の背景にあるものを、前回に続いて、それは何も”日本人論”として大げさに構えてみるものではなく、あくまでも今いる自分の考え方の一つとして、ここに書いてみたくなったのだ。

 実は、前々回、前回と続けて取り上げてきた、正月番組NHK・Eテレの『100分de日本人論』に触発(しょくはつ)されたところもあって、そうした”日本人論”に関する本を数冊だけぱらぱらと読み直してみたのだが、とはいっても、”日本人論”に関しての書籍は、恐らくは数十否数百冊にものぼるほどにあるのだろうから、私がほんの数冊だけを読んでいたぐらいでは、何の参考にもならないのだが、そこはそれ、厚顔無恥(こうがんむち)な浅学の徒(せんがくのと)の、素人の厚かましさで、自分になりに考えてみたのだ。
 それは、後述する最近見た二本のドキュメンタリー番組に、自分の人生を振り返り見るべくある種の感慨を覚えたからでもある。
 
 さて私は前回、この座談会番組で、まして結論的な意味合いを込めて提示された一冊、あの河合隼雄氏の『中空構造の日本の深層』だけでは、決して”日本人論”としては満足できないものがあると書いたのだが、そこで思い返して書棚を調べてみて、気づいたのは、あの宗教学者の山折哲雄氏(1931~)の『日本の心、日本人の心』(上下)である。
 これは、NHKラジオ第2の”カルチャーアワー”で放送されていた(2003年10月~2004年3月)ものをまとめたブックレットであり、それはたまたま、クルマのラジオで聞いていて納得することが多く、あらためて本を買い入れたものである。 
 これは、ラジオで山折氏が話されていたように、分かりやすい平易な言葉で書かれていて、その他の山折氏の本のような難しいところはなく、今までに読んできた各論的なものは別として、総合的な”日本人論”としてはかなりの所で納得できたものの一つだった。

 ここでは、この本の内容のすべてに詳しくふれていく余裕はないが、今までの有名な”日本人論”を書いてきた人々、例えば寺田寅彦や和辻哲郎、さらにあの山本七平などだけでなく、まさしく日本人として生きてきた有名な人々、例えば良寛(りょうかん)から森鴎外(もりおうがい)、美空ひばり(いずれも私も好きな人たちばかりではあるが)などに至るまでの人々を取り上げていて、そこで彼の宗教学的、民俗学的視点からの、日本人として在(あ)るものを論点として浮かび上がらせていく語り口は、私のような門外漢(もんがいかん)にも分かりやすく聞くことができ、また本として興味深く読むことができたのだ。
 その話の要旨を簡単にまとめることは、まずは26回にも分かれて話し継がれてきた、それぞれの人物の各論を要約していくことから始める必要があり、ここではそれほどまでにしてこの本を評論しようという意図などはないから、私の考えている”日本人論”に関わるところだけを私なりに解釈してみると、以下のようになるのだが。

 ”ユダヤ教にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ、すべてはその源を一にして、砂漠と乏しい緑野の接するイスラエル付近で生まれたものであり、そんな厳しい環境の砂漠のかなたに求めるものは、必然的に他の神を許さない一神教へと結びついたのではないのか。”

 ”そのイスラエルの荒涼たる砂漠に住む民と違い、日本人は、緑濃い野山や水清き川や海の恵みを受けて暮らしていただけに、そこからいただくすべてのものに感謝しては、そこに宿る八百万(やおよろず)の神々をあがめることにより、いわゆる多神教な信仰が芽生え、一方では、数多くの天変地異(てんぺんちい)による環境の支配を受けて、国民的無常観とでもいうべき感情が作られていったのではないのか。”

 ”その日本人の、神道的信仰と仏教的信仰が合わさって”神仏習合(しんぶつしゅうごう)”の信仰が生み出されることになり、それはまた神道と仏教の”棲(す)み分け”を意味していて、世界に誇るべき”平和共存の宗教”ということもできるだろう。”
 
 この本は、今から10年以上も前に書かれたものではあるが、今回また読み直してみて、その後に起きたあの東日本大震災や、今日での中近東におけるあの狂信的なイスラム原理主義集団の台頭などを、預言し警告していたのではないのかと思うほどだった。

 さてここで、先ほど少しふれた二本のドキュメンタリー番組についてであるが、それは録画した後で見た順番と前後するが、まずは1月24日、NHK・Eテレ放送の『戦後史証言プロジェクト・日本人は何をめざしてきたのか』シリーズの一編、「三島由紀夫」である。
 あの事件の時、同時中継でテレビの画面に映し出された映像を見て、とても現実とは思えない三島由紀夫の姿に、ぼうぜんとした思いになったのは、私だけではないだろう。
 事件後、当時の私たち学生仲間数人は、誰から言うこともなく自然に集まり、言葉少なにうまくもない酒を酌(く)み交わしたのだ。
 当時の、文学かぶれの青二才にすぎなかった私たちにとって、三島由紀夫という存在は、同時代にいることが信じられないほどの、まだ老成していない今を生きる巨匠作家であり、私たちの誰でもがそうであったように、三島作品のほとんどは読んでいたほどだった。
 それは、今の時代の村上春樹の存在と比べるべくもなく、遥かなる高みにあったのだ。

 彼の政治的な思想はともかく、彼の描く知的な虚無感をたたえた孤高の美的感覚は、私たちの生きるひとつ前の世代の舞台ではあっても、嫉妬することさえできないほどの有無を言わさぬ美的修辞学に裏打ちされていて、それはまた一方で、確かな日本文学の流れも受け継いでいて、まさに唯一無比の偉大な作家に他ならなかったのだ。
 それだけに、テレビの映像の中で起きている事実が、とても理解できなかったし、その日集まった仲間との話でも、何の結論も出せなかったのだが、考えてみれば、もう40年も過ぎた今の時点でさえ、あの偉大な作家、三島由紀夫の事件に対する思いは、いまだ複雑な感情のまま残されているだけだ。
 
 番組では、当時の三島を知る人々にインタヴューをしていた。
 もちろん、そこに新たな驚くべき事実が語られるわけではなく、それらのほとんどのことは、後日出版された雑誌の特集号や、評論本などの何冊かですでに知っていたことが殆どだったのだが、あれから40年、関係者のみんなも同じように年を取っていて、つまり彼らは、年寄りの、冷静な目で、落ち着いた表情であの時のことを語っていたのだ。
 その中で気になった言葉が一つ。当時の三島の年下の友人でもあった、詩人の高橋睦郎氏の言葉である・・・「大虚無ですよ、あの人は。」

 その時、私の脳裏をよぎったのは、いずれも天才と呼ばれながら、自ら命を絶ってしまった作家たち・・・芥川龍之介、太宰治そしてこの三島由紀夫。

 芥川龍之介(1892~1927)・・・有名な遺書の言葉、「ぼんやりとした不安」。
 太宰治(1909~1948)・・・「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」と書き遺していたが、自身の病気や子供の障害が原因だとする説もあるとのこと。
 三島由紀夫(1925~1970)・・・辞世の句が幾つか残されてはいるが、上にあげた言葉、「大きな虚無」が彼の何かを思わせる。
 
 何とも惜しまれても余りある、文学の才能に恵まれた人たちの死・・・。
 この番組を見て思ったのは、世にいう”三島由紀夫事件”の、今更ながらのてんまつについてではなく、偉大な作家たちの心の中でふくれあがっていった、大きな虚空の空間である。
 ここで、別な意味であの言葉が浮かび上がってくる・・・”中空構造の日本人の深層”。 

 さてもう一本のドキュメンタリー番組は、1月15日放送のNHK・BS、『堀口大學 遠き恋人に関する調査』である。これはまだ私がハイビジョン対応のテレビを持っていなかった2007年に制作されていて、ありがたいことに、そのハイビジョン特集が今になって再放送されたのだ。
 それは、このブログでも何度も取り上げている、私の好きなフランス訳詩集『月下の一群』や『ジャム詩集』で有名な訳詩家であり、詩人の堀口大學についての、ドラマ仕立てのドキュメンタリーでだったのだが、現代の日本の編集者が堀口大學の取材でフランスに行き、そこであの有名な女流画家マリー・ローランサンとの間にできた彼の娘らしき女と知り合うという、多分に憶測めいたドラマが織り込まれていた。

 しかしそれは、上にあげた三島由紀夫のドキュメンタリーが、当時の彼に関する映像と現存する人々へのインタヴュー、そしてナレーターのアナウンサーの声だけで構成されていて、私はその1時間半もの間続く緊迫感で、テレビの前を離れることすらできなかったのに比べて、ここでは何と見え透いた粋(いき)を装ったドラマが織り込まれ作り上げられていたことか。
 2時間近い放送時間の間、私は何度も立ち上がりテレビの前を離れ、もう見るのをやめようかと思ったほどだが、あの敬愛する堀口大學を知るためだからと、時々見せられるドラマの続きをがまんして見続けたのだ。
 ”隠し子”だという、そんな事実かどうかも分からないことを挿入ドラマとして見せるよりは、はっきりとドキュメンタリーとして映像をつなげて、あとはナレーターの声だけでも十分に見ることのできる内容だったのに、冗漫(じょうまん)な芸術気取りの映像を見せられることほど、哀しいものはないのだ。
 むしろあのマリー・ローランサンとの交遊も、事実の映像だけをつなげていくことで、見る方に様々な憶測の思いが生まれるようにしていくべきであって、映像芸術とはこれ見よがしに自分の思いを、観客に押しつけるものではなく、作品を相手に預け渡して、その映像の流れの中で考え感じさせるものであってほしいのだ。

(追加:さらにこの番組には、大きな欠陥がもう一つ。番組の最初と最後に流れる、男性歌手が甘く歌うアメリカ・スタンダード曲。聞いたことはあるが題名は思い出せない。昔のアメリカのラブ・ロマンス映画をまねたのかもしれないが、ここでの舞台はフランスであり、むしろ当時流行っていたシャンソンの名曲を流すべきだったのに・・・映像作品における音楽の重要性は、作品の価値を左右するほどのものなのに。)

 以上、私にしてはかなりの手厳しい意見を書いてきたが、それはもう8年も前のテレビ番組に対するものだし、もう時効になってもいいものとしての評価となのだが。
 それにしても、あの堀口大學についてのこうした詳しい伝記が、まさか映像として見られるとは思っていなかっただけに、ドラマ挿入部分は気にはなるものの、これもまたちゃんと録画して保存することにしたのだ。
 
 今回のここまで書いてきたことも、毎回、当日になってからの、行き当たりばったりのキーボードまかせの記事だから、ようやく気が乗ってきたのは夜になってからのことで、こうしてすっかり夜遅くなってしまった。
 もう年寄りなのだから、夜更かしするのは体にもよくないし、変な所にこだわって何とか今日中に終わらせようとするのは私の悪いクセで、それならばこのブログに書くことはやめてしまえばいいのだが、それでは何もせずにますます頭がヨイヨイの状態に近づくだけだし、それならば1か月に2回ぐらいの記事にすればいいのだろうが・・・。
 アー疲れた。書きたいことの半分も書いていないのに、年だわ。 

 


  


訓­・・・昔の人の教え

2015-01-19 21:45:25 | Weblog

 1月19日
 
 前にも書いたように、元日と二日に雪が降り、10㎝程積もって、これ幸いに近くの山に登ったけれども、その雪もすぐに溶けてしまい、そのままもう2週間余りも、真冬にしては暖かいい日が続き、さらに今週も雨が降ることはあっても、雪が積もることはないとの予報である。
 ということは、あの年末寒波の雪の時に、やはり諸事情があったにせよ、九重の山に行くべきだったのか・・・。
 
 つまりは、今年に入ってからは、明らかに雪の日が少なく、やや暖冬気味だとも言える毎日なのだ。 
 人それぞれの冬に対する思いはあるのだろうが、どのみち家の中にいても、厚着をして暖房器具も使うことにかわりはないのだから(家の造りが悪くて)、それならば銀世界になるほどの雪が降ってくれれば、そのほうが冬が好きな私の肌合いにはぴったりくるのだが。
 
 というわけで、相変わらず毎日ぐうたらに暮らしているのだが、ということはゴロ寝してAKBの録画でも見ているのだろうと・・・ご推察の通りなのだが、前回書いたように、この正月にかけてAKBの特別番組などがなかったので、毎週末のNHK・BSの”AKB48SHOW”を見るのだけが楽しみだったのだが、先週はそれに加えて、例の日テレ系放送の”ミュージック・ステーション”の特番があって、しっかりと録画して後で見たのだが、今回はその選抜メンバーに大きな異変があって、HKTやMNBからの選抜メンバーたちが入っていなかったのだ。
 まあそれはそれで、本来のAKB主体のメンバーたちだからそれでもいいし、新鮮味もあったのだが、3曲も歌われたのだから、やはりAKBグループの粋を集めた全選抜メンバーで華やかに歌ってほしかったという思いもあった。 
 ネットで調べてみると、HKTは香港公演があり、MNBは仕事の都合とかで、それは仕方のないことだとしても、そのことに関連してのツイッターなどの書き込みのひどいこと・・・自分の好きな”オシメン”(推薦メンバー)の子はべたぼめして、一方年上の子たちや、他の不在選抜メンバーたちについては、悪口雑言(あっこうぞうごん)の限りを尽くしての書き込み・・・全くただの子供たちの、ののしり合いをいい大人たちがしているようなもので、もうあきれるよりはそれを通り越して憐みを覚えたくらいだった。

 彼らは、そういう所にしか、日ごろの不満やうさの捨て場がない哀れな人たちではないのかと・・・
、それよりも、まずそうして人の悪口を言っている自分自身が、後で思い返してイヤにはならないのだろうか。
 誰でも、怒りに駆られて激高(げきこう)すれば、心拍数が上がり血圧が上がり、その怒りの言葉を吐いた時には、確かにその場限りですっきりはするだろうが、ネット上での目に見えない多くの相手が反論してくれば、怒りはいや増して、そのストレスは自分の体の中にいつまでも残るだろうに。

 (私事ながら、このブログ記事はいつもかなりの人に読んでいただいているようだが、コメントなどの反応は一切なく、それがどれほどありがたいことか、もう少しこのまま好きに泳がせて下され、老い先短い年寄りのこととて。)

 ともかくそういうふうにして、AKBグループのある特定の子だけに肩入れして、他の子を認めないどころか忌み嫌うほどにまでなれば、その自分のひいきの子が嫌いな子と一緒に出ているだけで、もうその番組を見ているのもイヤになるだろうし、恐らくは、AKBのすべての番組を心安らかに楽しく見ることさえできなくなるだろうし、心からかわいそうな人たちだと思ってしまう。
 もっともその中には、アンチ何々で有名な、名のある評論家論客の先生もいるというのだから・・・もう何をか言わんやである。
 つまりそんな彼らは、AKB全体として見る歌や踊りが好きというのではなく、自分の中での一番のアイドルであるその子や、その他にも自分の眼鏡にかなう子たちだけの何人かが好きなだけのファンであり、さらにできることなら嫌いな子たちは、このAKBからは排除したいとさえ思っているのだ。
 (私は、そのおおもとにあるもの、つまり彼らの選民意識に気づいてはいるのだが、こんなのののしり合いに加担したくはないから、口はつぐんでおくことにした。)

 しかし、彼らのこうして自分の好きな子を嫌いな子と一緒にしたくはないという思いはまた、自分と考え方の合わない者や嫌いな者は受け入れないという思いとして、大きくふくれ上がっていきはしないかと心配もするのだが。
 人間だから、誰にでも好き嫌いがあって当たり前だが、それにはいつも物事をわきまえた限度があるものだし、
そのイライラしてふくれ上がったストレスの大きな塊が、あちこちでまた大きなもめ事を起こすことになりはしないかと・・・思えばそれが、今の世界中を覆う”不寛容”という度し難き(どしがたき)風潮にさえなっているような気もするのだが。

 ただ言えるのは、とりあえずは大きく手を広げて、もっと楽な気持ちで対応し、互いにすべてを受け入れるだけの度量を示してみればいいのに、ということなのだが。
 あーチョウチョウが飛んでいる・・・おつむてんてん・・・になればいいのに。自ら好んでアホになることで得られる、安らぎもあるということ・・・。
 しかし、”生き馬の目を抜くような”あわただしい現代社会、若者は歯止めのきかない激情に駆られて動き回り、年寄りは年寄りの頑固さでそれぞれに自分の主張を変えようとはしないのだから、そうしたわれ先に的な考え方の齟齬(そご)がいつも繰り返されているのであり、それが人類の歴史始まって以来続いてきた争いの現実そのものなのかもしれない。

 私は、前にも書いたように、アイドル個人としてのAKBの誰かを好きになったわけではない。
 まずは彼女たちの歌う歌に、秋元康が書いた歌詞と、それによく合う明るい日本ポップス・メロディーの曲調が好きになったのだ。(『UZA』という私好みの例外はあるが。)
 それは、最初に好きになった曲が『上からマリコ』であり、その歌詞や曲調にひかれてからではあったが、もっとも包み隠さずに言えば、それは歌だけではなく、恥ずかしながらこのじじいめが、あの”マリコさま”に淡い恋心を抱いたからでもある。
 ただし、その”マリコさま”篠田麻里子も、私がAKBを好きになってファンになってから、わずか1年もたたないうちに卒業して、AKBからいなくなってしまったのだ。
 しかし、私は個人としての篠田麻里子というアイドルだけに夢中だったわけではなく、彼女がいなくなってもAKBは変わらずにあるのだから、つまりAKBそのものが好きなのだから、それで私のAKB熱は冷めるどころか、今では彼女たちの歌番組にバラエティー番組までも録画して、あげくの果てには、中古のDVDつきのCDを買うハメにまでなったということだ。(’14.11.24の項参照)
 もっとも、いつも新譜CDを買ったりコンサートにまで出かけたいとまでは思わないが。 

 ともかく、私はテレビで見る、AKBだけでなく、SKE,MNB,HKTのグループ・メンバーすべての子たちをそれぞれに可愛いと思っているし、彼女たちの歌だけでなく、踊りも可愛いし、多少歌のヘタな子や、踊りを間違える子、さらにはアイドルらしからぬスキャンダルを起こしたりしても、あれほどファンの前で涙を流し謝っていれば、許してあげてもいいじゃないかと思ってしまうのだ。(思えば私の若いころ、私は別れた彼女たちの親御さんたちの前で、一度たりとも謝ったことはなかったのだが・・・。)
 私は、ただ若い元気な娘たちが、明るい笑顔で歌い踊っている姿を見るだけで、もうそれだけで心楽しくなってしまうのだ。
 それは例えば、目の前にいる、集まってきた白い仔羊たちをよく見れば、それぞれに個性がある羊たちではあるが、それを単なる小さな外見の差だけで、選別し除外することなどできないということだ・・・みんな可愛い羊なのだ。

 暮れに放送されていた、お笑いバラエティー番組で、あるグラビア・アイドルの”お天気おねえさん”をやっている子が出演していて、(見た目の可愛さの割には20代後半ということだが)、趣味は裁判の傍聴(ぼうちょう)ですと答えてみんなを驚かせ、さらに外食はしないで自分で作って食べているから、みんながレストランで食べるような料理は食べたことがないし、”宅配ピザ”なども知らないと言って、周りにいた10人余りのお笑い女芸人たちから、驚きの声をあげられていた。
 後で、ネットで調べてみると、彼女の愛読書は『万葉集』とのことだ。素晴らしい。
 もっとも、テレビ・タレントが番組で自分を目立たせるために言うことだから、すべてそのままだとは信じられないが、話し半分に聞いても、今時こんな女の子がいるなんてと思ったくらいだ。
 それにしても、こうした場合は笑い話ですむのだろうが、様々な世界で同じような生活をしている仲間の中に、そうした変わり者がいれば、倦厭(けんえん)されるだけではなく、いつかは排除されていくことにもなるのだろう。
 
 そこで、前回も書いた、NHK・BS『100分de日本人論』での、精神科医でもある斉藤環があげた河合隼雄著の『中空構造の日本人の深層』について、ここでもまたあげてみたい。
 それは、ごく大まかに言えば、日本の古代神話の中に、名前はあっても、その役割や正体のわからない神々がいて、それらを併せての日本の神々であったことから、そうした伝統的な考え方が、”中空構造”として日本人の心の中にあるのではないのかということなのだが、それは相反するものと対立する構造ではなく、ともにそのまま在(あ)ろうとする、すべてを含みうる余地のある、それだけに矛盾をはらんだままの、日本人が形づくってきた精神の”中空構造”であるというのだ。

 それなのに、実に些細なことだが、たかがAKBファン同士の低次元なののしり合いが、ネット上とはいえなぜにこうも横行しているのか。
 私は、それをあえて強引に言えば、それはすべては望むと望まざるにかかわらず、二度にわたる日本人の精神変革の荒波の影響を受けたせいでは、とまで思っているのだが。
 その一つは、幕府”お上”が崩壊してすべては地方出身者による明治政府のもとに刷新されたことであり、二つめは”皇国”日本の敗戦ですべては否定され、十字軍意識盛んなるアメリカの占領下施策による一大変革を受けたことである。

 江戸の時代まで続いてきた、日本人論の確かなものの多くは、この二つの荒波の中に飲み込まれていってしまったのではないだろうか。
 それだからと結論を急げば、多分に牽強付会(けんきょうふかい)的な考え方にはなるのだが、特に戦後の”アメリカ文化”の流入による影響は大きく、たとえば端的な例を言えば、かの地での考え方”イエスとノーをはっきり言う”ことが、今や日本人同士の間でもでも少しずつ根づいて来ているようにも思えるのだ。
 だから最近、昔なら小さな言い争いですんでたことが、今や当事者だけではなく、地区や地域を巻き込んでの大きな問題にさえなってきているのだ。
 もっとも、イエス・ノーをはっきり言うことは、国際的にも通じる人間を育てるうえでも重要な考え方であるのかもしれないが、一方では、今までの日本人の特質の一つであった、周りの人たちすべてのことを考えに入れて、結論をすぐには出さずにあいまいな形で残すことによって、相手を深く傷つけもしないし、もう一方も大喜びはさせない、”中庸(ちゅうよう)の美徳”、つまり”O-MO-I-YA-RI”、思いやりの気持ちを心の奥に持ち続けてきたのではなかったのかと。

 狭い国土にひしきめきあう人々、それが”向こう三軒両隣8りょうどなり)”に暮らす人々の、したたかな知恵、倫理観でもあったのだ。
 しかし時代は変わった。AKBファン同士が勝手にののしり合う時代になってしまったのだ。(キャンディーズのファンたちが三人の誰が嫌いだとわめき合っただろうか。宝塚ファンもまたしかり。)
 だから私は、
これからは彼らの悪口の言い合いに巻き込まれないように、自分の心までもが荒れすさんでいくことのないように、そうしたののしり合いの書き込みが掲載されたツイッター画面などを見るのはやめようと思うし、ただ今までどおりに、ひとりだけで楽しい気分で、AKBの娘たちを眺めていけばいいだけのことなのだ。 

 そこでこうした年寄りからの一言だが、前にも何度かあげたことのある(’11.10.22の項参照)、あの貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓・和俗童子訓』(岩波文庫・写真上)からの言葉を一編、それも有名『養生訓(ようじょうくん)』からではなく、子供向けの教育指導書として書かれた『和俗童子訓(
わぞくどうじくん)』からにしたのは、これらネット上での子供じみた言い争いをしている彼らを、それは昔、母が私に言った”稚気(ちけ)まわして”いる状態にある彼らを、年寄りとして諌(いさ)めるにはふさわしいと思ったからなのだ・・・”上からマリコ”ならぬ、”上からじじい”目線ではあるが。 

「人のほめ・そしりには、道理に 違えること多し。ことごとく信ずべからず。
 おろかなる人は、聞くにまかせて信ず。人の言うこと、わが思うこと、必ず理(ことわり)違(たが)うこと多し。
 ことに少年の人は、知恵暗し。人の言えることをことごとく信じ、わが見ることをことごとく正しとして、みだりに人をほめ・そしるべからず。」 

 今でこそ年寄りになって、この本で言っていることはよく分かるのだが、はたして私も若いころには、彼らと同じように感情に流れやすく、ある時は人をほめちぎり心酔して、またある時には憎々しげに悪口を言っていたのではないのか。
 だからこの言葉は、若き日の自分への、余りにも遅すぎた教訓の言葉でもあるのだが。

 ここまで書いてきたことは、そうした年寄りの小言(こごと)じみた説教でしかないのだが、ただこの年寄りの言葉を聞き入れてはくれなくても、そのうち年を取っていけば、おいおいに年寄りの話も耳に入るようになり、やがてはこうした先人たちが心血を注いで書きあげてきた、われら日本人の心の遺産でもある書物の数々を、手に取り読んでくれるようになるのではと思うのだが。
 もっともそれは、もう無理な話だろう。今は、大学生でさえ、一冊の本も読まない時代だもの。
 恐らくは、私たちの少し後の世代までで、本の時代、印刷されたものの時代は終わるのかもしれない。
 これからは、すべてが音声で聞き、映像で見る時代になり、若者は一行の短いメール一本で、自分の感情を自由に伝えることができるようになり、また受け取る時にもその相手の短いメールだけで十分に理解できるようになるのだろう。こうして若者たちは相互伝達の技術にたけるようになり、書物の時代とは違う新たなコミュニケーション文化の世界を切り開いていくことになるのだろう。

 そこで思い出したのだが、またもやAKBがらみの話なのだが、半年ほど前、”まゆゆ”こと渡辺麻友がAKB総選挙で1位になり、彼女がセンターになって与えられた新曲が「心のプラカード」だったのだが、その新曲初披露の時に、司会者から初めてこの曲を聞かされた時の印象はと聞かれて、”昭和のディスコ調のゆったりとしたテンポで”と答えていて、その時テレビで見ていた私は、”何言ってんだろうこの子は” と思ったのだが。
 後になって、分かっていないのは私の方だと気がついた。私はもちろん昭和生まれであり、まだ昭和の時代が続いている感覚でいたのだが、時は平成の時代それも平成26年にもなっていて、その時20歳だった”まゆゆ”は当然のこと昭和の時代のことは知らないし、ただテレビを見たりCDを聞いたりして知っているだけの時代だったのだ。

 昔よく、エライ年寄りたちが、”明治大正昭和の三時代を生きてこられた何々さん”と紹介されていて、若い私は、まあよくそんなに長く生きてきたものだと感心していたのだが、普通に考えてみれば、私だってそうなる可能性があるのだ。
 今やその自分も、三つの時代をまたいで生きてきた”レジェンド(伝説の人)”ならぬ、頭は”がらんど”の人、クソじじいになりつつあるということだ。
 お後がよろしいようで・・・チャンチャン。

  


雪の道を歩いて行くこと

2015-01-12 22:57:16 | Weblog



 1月12日

 上の写真は、冬の間も北海道にいたころのこと・・・今からもう10年も前のことになるが・・・朝日が昇ってくる写真を撮ろうと外に出たのだが、その時、朝日が昇る反対側には、満月の月がまだ輝きを残して、西の空に沈んでいこうとしていた。
 それは、冬のさなか、1月半ばの早朝のことであり、あの有名な、与謝蕪村(よさぶそん)の名句、「菜の花や 月は東に 日は西に」を思い浮かべるような、もっとも菜の花が盛りの季節には比べるべくもないが、あたりはしんと静まって、ただ雪の道が一つ続いているだけだった。
 昼間はたまにクルマも通る道だが、夜明け前の、ピンと張りつめた寒さの中で、その時、私はひとりで雪を踏みしめながら歩いていた。
 何処へ、何のために・・・歩いている私には、問うまでもないことだ。

 それにくらべて、この九州は何と暖かいことだろう。
 それまで積もっていた雪は、先週初めの雨で溶けてしまい、その後は晴れて、気温が10度を超える日が続いていた。
 (と言いつつ今日はまた寒くなって雪もちらつき、最高気温はわずか3度までしか上がらず、まだまだ、冬は高い空の上にいるのだ。)
 ともかく、そんな暖かい日が続いていたある一日、私は揺り椅子をベランダに出して、日差しを浴びながら、雑誌を読んでいた。

 定期的に読み続けている雑誌や週刊誌の類はないのだが、この正月新年号だけはその付録欲しさに、いつもの3冊をネット通販で注文している。
 これはもう長年続けている、私の正月の愉(たの)しみにもなっているのだが。
 まず、そのうちの一冊は『レコード芸術』であり、これは東京で働いていた時から、毎号かかさずに読んでいたクラッシック専門誌なのだが、北海道に移り住んでからも変わらずに買っていた。しかし、それも10年ほど前から、ついに途切れがちになり、今では、この新年号掲載の”日本レコード・アカデミー賞”発表記事と、付録の『レコード・イヤーブック2015』を目当に買っていて、今ではそれによって、かろうじてその年のクラッシック音楽界をうかがい知るだけになっているのだが。

 さらには、毎年買い求めていたかなりの額になるレコードやCDも、次第にその購買数が少なくなってきて、去年はついに箱セットもの三点だけになってしまったのだ。 
 無理もない、若い時からさんざんクラッシック・レコードやCDにお金をつぎ込んできて、それがたまりにたまってレコード・CD棚はいっぱいになり、これからは、何とかそのほとんどを処分していきたいとは思っているのだが、こうして新年巻頭の雑誌を読み、クラッシック音楽界の新しい動向を知ると、またその新しく録音されたCDを聞いてみたくもなるのだ。
 年は取っても、まだまだ新しいものへの貪欲な思いは失われてはいないと言うべきか、”ごうつくばり”じじいというべきか。
 

 次は、山登りの人たちのための雑誌、『山と渓谷』であるが、これはその時々の特集記事によっては、一年のうち何度か買い求めることもあり、 ただ何と言ってもこの新年号の付録、”山の便利帳(Mountaineer's Data Book)"は、全国の山小屋や関係機関、登山用品店などが記載されていて、それは毎年変わるものだから、どうしても年ごとのものを買っておかなければならない。 
 雑誌そのものの内容は、ライバル誌の『岳人』が、主に上級者向けであるのに対して、上級者から初心者までを対象にしていて、いささかごった煮の感は否めないが、それでも今では中級登山者のじじいでしかない私には、何かしらのヒントやニュースを伝えてくれる大切な情報源の一つにはなっている。

 最近テレビでは、BSでのNHK民放合わせて三本もの定期的山番組があり、さすがに映像で見るその情報量は圧倒的であり、やがてはこの雑誌もまた新年号だけの購読になるのかもしれない。
 つまりこれからは、もうこれ以上の新しい情報を得て新たな山に向かうよりは、体力気力が衰えてきたぶん山に行かずに家にいて、今まで登ってきた山々をひとり思い返しては楽しんでいきたいと思う。
 と言うのも、今までにフィルム時代に写してきた、おびただしい量の写真があるわけだから、それらのすべては無理にしても、最盛期のころに登った山々の姿を収めたフィルムだけでも、何とかデジタル化して、大きなモニター画面に映し出し、ひとりニヒニヒとほくそ笑み楽しみたいと思っているのだが。

 そして最後の一冊は、『アサヒカメラ』であるが、実は昔からこうしたカメラ雑誌を買う方ではなかったのだが、それはつまり私が芸術的な写真に余り興味がなく、ただカメラは旅の記録として風景や人物を写すものであればいいと思っていたからである。
 とはいえ、長い間使っていたマニュアル一眼レフから、山々をより詳細に映してくれる中判カメラが欲しくなり、結局それは3台も買い替えるほどまでに使うことになったのだが、そのころから度々カメラ雑誌を買うようになり、その後カメラ機材は、より緻密な画像をたやすく得られるデジタル機器へと移行してしまったが、ともかく今では、この新年号とたまに特集記事にひかれて買うことがあるくらいである。 
 ただ、この『アサヒカメラ』新年号だけを欠かさずに買うのは、もちろん、あの岩合光昭さんの”猫にまた旅カレンダー”が付録についているからだ。 
 そしてそれは、
今ではもういないミャオが、わが家の飼い猫になったころからのことであり、私はそれまでの”犬好き”から、併せて”猫好き”にもなってしまったのだ。

 今、私は、猫も犬も飼ってはいない。
 私は、ひとりで弱虫だから、もう二度と、あのミャオの死のような場面に立ち会いたくはないのだ。
 ミャオが死んでもうすぐで、3年にもなる。しかしその時のことを思い出したくもないから、このブログに書いたミャオの死の前後の記事も、また読み返したくはないのだ。
 ただ、元気なころのミャオをしのんで、さらには猫のかわいらしさとその気ままな行動をなつかしんで、この”猫にまた旅カレンダー”の猫たちを見たり、あるいはNHK・BSの『岩合光昭の世界ネコ歩き』の猫たちを見ては、心いやされているのだ。
 もちろん動く映像の方が、見ていて面白いのは確かだけれど、スナップ写真として、その一瞬が切り取られた画像もまた素晴らしい。
 今年のカレンダーも毎ページ見事なのだが、あげるとすれば二点・・・。

 一つは表紙になっている、ハワイ島のとある家の前での一枚。ベランダの入り口の両脇に椅子が置かれていて、一つには日系3世だというおばあさんが座っていて、顔を少し斜めに向けているが、通りを歩く人でも見ているのだろうか。
 もう一つの椅子には、珍しい三毛猫が座っていて、じっとこちら側のカメラを構えた人の方を見ている。
 素晴らしい一瞬だ。シンメトリー(対称的)であり、かつ同一の時間にいる二人・・・人生や猫生に限らず、生きていることの確かさに感動さえも覚える一瞬だ。
 
 もう一枚は、10月の項だ。南米のウルグアイの赤土の砂利の河原に、ノラネコたちが十数匹、それぞれに微妙な距離を空けて、座ったり寝たり立ったりしている光景。
 その猫たちの影が、それぞれに少し長く伸びている所を見ると、午後遅くなのだろうか、それにしても、猫の集会は、大体夜中に決まっているのに・・・。
 しかしそんな理由よりも、私が感心したのは、見覚えのあるその構図なのだ。
 それは、3年前に私がDVDを購入してまで見たかった映画、アラン・レネの『去年マリエンバートで』(’60)の一シーンを思い出させたからである。(’12.1.22の項参照)
 動画では動き出すかもしれない猫たちが作り出した構図を、一瞬の形として切り取った写真の見事さに、思わず見とれてしまったのだ。
 
 今年もどうにか生きながらえて、こうして”善(よ)きものたち”に巡り合えるということ、それが生きている喜びの一つになるのだ。
 自分だけは、ライオンという不運に襲われずに、生き延びたと思っている・・・あのヌーたちのように。

 さて話は変わって、いつものように、年始年末の番組から。
 しかし、何と言っても残念だったのは、あの国民的アイドル・グループと言われているわりには、AKBの特番が一本もなかったことだ。
 つまり、年またぎのTBS系の『CDTV(カウントダウンティービー)』に、AKBグループの全部が出ていて、それを録画編集して20分の番組にしたものを、仕方なく正月の間繰り返し見ていたのだが、ようやく一昨日、いつものNHK・BSの『AKB48SHOW』があって、それは紅白でのAKBグループとその裏舞台をまとめた番組になっていたのだが、それでいささかではあるがAKBを見たいという渇きはいやされたのだ。ともかくこの正月の間、AKBファンは少なからず悔しい思いをしたのではないだろうか。

 もっとも、有料放送のスカパーなどでは、AKBコンサートなどの特番を何本も流していたようだが、全く持つものと持たざるものの階級差別化はここにまで及んでいるのかと、少し悲しい気持ちにもなるのだが。
 もっともそれは、余分な金と時間まで使って、いい年をしたじいさんが、孫娘のようなアイドル・グループにこれ以上はまるなという、ありがたい警告なのかもしれない。
 ここで抑えていれば、いつしかそのほとぼりも冷めて、AKBからは離れられるようになるかもしれないと。
 
 そうしたことはよくあることだ。
 子供のころ、当時はやっていたフラフープが欲しかったが、貧乏家庭ゆえに買ってもらえなかった。しかし、ブームはあっという間に過ぎ去ってしまい、やがてだれも見向きもしなくなったのだ。
 私は、そのころ置き忘れられていたフラフープを手にして、回してみようとしたが、うまく回らなかった。やがて私も、誰もやっていないフラフープなどどうでもよくなって、やがて忘れてしまった。
 大人になってからも、欲しい本やレコードが見つけられなくて、そのまま時は過ぎ、いつしかそのことも忘れてしまっていたのだが、ある時気がついても、もうその本もレコードも、それほど欲しいとは思わなくなっていたのだ。
 
 つまり、このことは、すべての欲しいものに当てはまることなのだが、自分がどうしても欲しいと思った時に、いろいろ手を尽くしてやっとの思いで手に入れたものほど、大きな喜びと満足を与えてくれるものだということ。あの安いAKBの『UZA(うざ)』を手に入れた時のように。(’14.11.24の項参照)
 そうして今までにあったことは・・・探していた本やレコードを手に入れた時、どうしても見たかった映画や絵画を見た時、何としても登りたかった山の頂きに立った時、行かなければならなかったオーストラリアの砂漠のただ中にいた時、さらには憧れのヨーロッパの建築群を目の前に見た時、ずっと好きだった彼女と初めて一緒になれた時・・・キャイーン、ワオーン、ワンワン・・・あーあ、若き日の思い出たちよ・・・”増えるシワ、若さは遠くなりにけり”ってか。
 
 話はそれてしまったが、初めに書いた年末年始の番組に戻れば、AKBについてだけではないのだが、今回はあまり見るべき番組がなかったように思えるのだ。 
 映画も興味を引くようなものは一本もなく、たまたま高倉健追悼の意味を込めてか、『君よ憤怒(ふんぬ)の河を渉(わた)れ』(’76)が放映されていて、とりあえず録画して後で見たのだが、とても見続けることができずに、早送りで一応ストーリだけは確かめて、即座に消去してしまった。
 それは、子どものころに見たアメリカの連続テレビ・ドラマ『逃亡者』の二番煎(せん)じのような物語に、昔の日本活動映画のつくりそのままの拙(つたな)さで、それ以上に劇伴音楽の何とも場違いな響きにあったからである。
 というのも、あの名作『第三の男』に似たようなギターのメロディーがうるさく響き、さらには当時のテレビドラマ『七人の刑事』を思わせるような男声のスキャットも余計に思えたからだ。
 明らかに、その程度でしかない音楽が映画の流れを壊していた。映画の出来が、いかにそこに流れる音に、音楽に左右されるかの良い証左(しょうさ)にもなるだろう。
 私は映画好きだから、余りそれぞれの映画に悪い評価はつけたくはないのだが・・・。

 そして、オペラに至っては一本も放映されなかった。
 恒例のウィーン・フィルの”ニューイヤーコンサート”はズービン・メータだったが、若き日のメータとウィーン・フィルとの相性の良かったころと比べると、なぜか今一つ速いテンポで、響きの豊かさは変わらないものの、私には今ひとつ音の流れがつかえがちに聞こえたのだが。
 
 歌舞伎は年末の京都南座での、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』からあの有名な「祇園一力茶屋」の場で、仁左衛門、七之助、勘九郎の組合わせだったが、仁左衛門を除けばいささか小粒に見えてしまうし、もう一つの『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』からの「新口村の場」では、梅玉に我当、秀太郎という組み合わせだったが、これはむしろ梅玉を当てた役に、少し違和感を覚えてしまった。
 さらに正月二日の、”こいつぁ、春から”の新春大歌舞伎中継では、たしかに華やかな顔ぶれで、舞台もきれいでなかなかに興味深い演目もあったのだが、やはりほんの短い間だけの予告編でしかなく、やはり一幕だけでもじっくりと見たいのに、ただテレビで見るだけの歌舞伎ファンには、致し方ないことかとあきらめるしかなかった。
 
 しかし一方で、ドキュメンタリーや対談番組では、興味深い番組が幾つかあった。期せずして正月2日の日に放送されたものばかりだったのだが、半分は録画して後で見たものだ。
 まずは、NHKでの『日本列島誕生』だが、ただでさえ上空からの眺めが好きな私は、さらには地理的地学的な番組にも興味があり、今回のドローン(無線操縦超小型ヘリコプター)や無人機による撮影は実に目新しくて、楽しく見ることができた。
 ドローンそのものは、あの『グレートトラバース 日本百名山一筆書き踏破』 の番組の中でも何度も登場撮影していたし、最近の山番組でも度々使われていて、その有用性は十分に感じていたのだが、いまだに火山噴火溶岩によって拡大しつつある、あの太平洋の新島”西之島”の最新の映像などは、その一部でかろうじてアホウドリが生息していることなども分かって
、瞬時たりとも眼を放すことができない映像が、新鮮な楽しみにもなっていた。

 ともかくこれらの映像を見ていると、地学的には、プレート同士の衝突で日本列島が生まれ、その時の付加体(ふかたい)が伊豆半島となってぶつかったものであり、そのサンゴなどでできた石灰岩の付加体の一部は、南アルプスの頂上付近にまで押し上げられているのだと、今まで本で知っていた通りの事実を再確認させてくれて、まるで実地での地学授業をうけているようだった。

 さらに前回書いたように、再放送の『女たちのシベリア抑留』については、心痛む過去の記憶に胸ふさがれる思いになった。
 次いでは、NHK・Eテレでの『100分de日本人論』は、同じように1年前に放送された『100分de名著 幸せについて考えよう』と同じように4人の識者に、参考となる本をあげてもらって、そのテーマについて語り合うというスタイルが今回も踏襲(とうしゅう)されていて、評論家の松岡正剛による九鬼周造著の『いきの構造』、作家の赤坂真理による折口信夫著の『死者の者』、精神分析医の斉藤環による河合隼雄著の『中空構造の日本の深層』、そして民族学者の中沢新一による鈴木大拙著の『日本的霊性』があげられて説明されていたが、それぞれの思いが微妙に食い違い、もともと多面的なテーマである”日本人論”を、共同で話し合いまとめあげること自体が難しいことなのだが、結局は中空構造にある日本人の不安定さということで収まりは着いたように見えるのだが、やはり日本人論はひとりひとりの著者そのものの考え方を、その一冊の本で読んでいくことの方が、区切りのつくことであり、多面的な日本人論ということでわかりやすいとは思うのだが、とりあえずは、それぞれの識者たちの話を聞いているだけでも、なるほどと思える100分間にはなっていた。
 
 そして最後に、これは途中から見て番組名は分からなかったのだが、あの青色発光ダイオードでノーベル科学賞を受賞した、赤崎名誉教授がインタビューに答えて話されていた言葉だが。

「世の中に失敗なんてものはない。
 失敗には必ず理由がある。
 次にはそうでない形でやってみる。
 その積み重ねであり、失敗が多いほどその人は何かつかんでいるはずだ。」

 これはまさに、実証主義の科学者らしい論理的な応答であり、さらには世の中の誰でもがそうであるように、失敗を経験してきた人々に伝える、不屈の魂のメッセージなのだ。
 
 今日のテレビ・ニュースでは、あのフランスの狂信的なイスラム教徒によるテロ事件に対して、抗議のデモがフランス各地で行われていて、パリだけでも160万人とも言われる人々が集まりつどう姿が映し出されていた。
 その行列の先頭に立って、肩を並べて歩いて行く
世界各国の首脳たち・・・特にフランスのオランド大統領とドイツのメルケル首相が相並んで、胸を張り行進していく姿・・・第1次と第2次大戦だけでなく、歴史上、数限りなくお互いの国を攻め合い殺し合いをしてきた隣国同士が、今やかけがえのない友人として、ともに未来を見据えて歩いているのだ・・・。
 ヨーロッパの不屈のメッセージ・・・。
 それに引きかえ、幾つかの遠いどこかの国のことを、思わずにはいられなかった。
 
 私は、沈む月に向かって、ひとり雪の道を歩いて行く。
 ・・・この記事の初めに戻る。
 
  


雪山逍遥(しょうよう)

2015-01-05 22:02:54 | Weblog

 

 1月5日

 二日前に山に登ってきた。
 前回の登山がそうであったように、またしても山に行く間が長く空いてしまった。昔のように、一か月に二三回などというペースは、もうできるはずもないのだが。
 それでも、久しぶりに山に登ることのできる喜び、それも大好きな雪の中を歩いて行ける楽しさ・・・これこそ、生きているということなのだ思ってしまう。
 
 暮れから正月にかけて、この九州でも雪が降り、都合10㎝程の雪が積もった。
 そして、その後、冬型の気圧配置がゆるみ、西から高気圧が張り出してきて、見事な冬の晴れ間になったのだ。
 どんなに雪の日が多い所でも、こうしてまれに穏やかな晴れの日になることがある。
 だから冬の山に登る人たちは、すべからくこうした絶好の天気の日を選べばいいのだが、もちろんほとんどの人は働いているのだから、そう自分勝手に仕事を休んで山に行くことはできないし、休みの日に登るとしても、それがうまく好天の日にめぐりあえるとは限らないし、無理をすれば遭難という事態をも引き起こしかねない。

 だから、こうして天気の良い日にだけ出かけて雪山を楽しめるのは、私のような引退じじいだけの特権なのかも知れない。まあ老い先短い年寄りなのだから、許して下され。
 と自己弁護したうえで、さて雪の山に向かうことにした。
 できることなら、九重の山に行きたかったが、まだ正月休みだということを考えると人が多いだろうし、牧ノ戸峠他の駐車場もいっぱいだろうし、とても行く気にはならなかった。
 そこで、家から歩いて行くことのできるいつもの山に登ることにした。

 気温-8度、雪も上に行くにつれて多くなり15㎝程はある。道のクルマのわだちの跡が、テカテカと光って凍り付いている。
 登山口に着くまでの間に、度々息が切れてしまった。年寄りになったものだ。若いころは息を整えながら一気に上がって来れたのに、もうここまでに小一時間ほどもかかっている。 
 しかし車道が終わり、登山道が始まるところから、素晴らしい景色が待っていた。 
 道の両側は、あまり高くはない広葉樹の林で、それはコナラやリョウブ、ヒメシャラなどの葉を落とした木々なのだが、その幹から枝に雪がついていて、まさにおとぎ話に出てくるような、”冬の不思議の国”に入っていく道のようにだった。(写真上)

 久しぶりの山に、それもこの雪景色に、私は何度も立ち止ってはカメラを構えた。
 山はいいなあ。まして雪の山は、もっといいなあ。
 私は、ただ獣たちの足跡が入り乱れてついているだけの、林道跡の白い道をゆるやかに登って行った。
 
 それほどまでに山が好きなのに、どうして一か月半もの時間を空けたのか、もっと何度も山に行けばいいのに。
 それは、いつもここに書いているように、年齢からくる気力と体力の衰えにあり、さらには何事にもすぐに面倒だと思い、それが、ぐうたらさに浸りきった日々の生活態度にあることは疑いのないところだ。
 若いころには、一つのことを思いつめてそれを実行することだけに集中できたのだが、年を取ってくると、それを行動に移すに際して、付随するさまざまなことを考えてしまい、あれこれ理屈をつけては、自分の中で出かけるのを思いとどまらせようとするのだ。
 もちろんそれぞれには、たとえばそれが若き日の無謀さにつながることになり、あるいは逆に年寄りの慎重さが、事前の事故予防にもなるのかもしれないのだが。
 つまりは、年相応の時点での、良さ悪さというものがあるということなのだろうが。

 思えば、私の長い山行歴の中で、会社での仕事が忙しく、山に全く行かなかった2年間とその前後の数年間は別にして、山が好きになった若いころと同じように、またしっかりと山に行くようになってからでも、もう30年以上にもなるのだが、その中でも去年一年は、極めて登山の成果に乏しい年になってしまった。
 回数的には、かろうじて一か月に一回のペースになってはいるが、全国にはまだ登りたい山が数多くあるというのに、ついに一つも新しい頂を踏むことはなかったし、例年の南北アルプス遠征もなかったし、ただあの2月の蔵王だけが素晴らしくて、私の登山歴の中でも特筆すべき山行の一つにはなったのだが。(’14.3.3,10の項参照)
 もちろんその原因は、何と言っても、夏に九州に戻った時に腰を痛めて1か月余りを無駄に過ごしたことにあり、その後も再発を恐れて、思い切った遠征の山旅にも出られなかったのだ。
 それだけに今年は、何とか遠征登山を実行できるようにと心に期してはいるのだが、最大の問題は、腰の再発や体力というよりは、ぐうたらさからの脱却と決断力にあるのだろうが。

 さて、道は暗い杉林の中に入って行く。そのぶん下は雪が少なくて歩きやすくはあるのだが、しかし間伐などで切られた木がそのまま放置してあって道をふさぎ、先の方では分からなくなっていた。
 この山には一応周回コースが作られてはいるが、登る人が少ないうえにほとんど手入れされてはいないから、こうした雪の時などは道の見分けがつかなくなることがある。
 ただ何度も登っている山だし、その地形も頭に入っているし、この天気で周りの方角も間違いはないと、本来は浅い沢状の所を渡って左側に回り込むのだが、そのまま一気に山腹斜面を登って行くことにした。

 下から続いている広葉樹の林は、それほど密ではなく、葉が落ちているうえに周りの雪で明るくて、道がなくても心配なく登って行けた。
 それでも勾配はあるから、時々は立ち止まり息をつくことになるが、その時に振り仰いだ上には、木々の枝先が白く輝いて見えていた。霧氷だ。
 それはさらに登って行くにつれて、青空を透かして見えるはっきりとしたレース模様になって、頭上を覆っていた。
 何と言う、予期せぬ景観だったことだろう。
 雪山が好きで、それでもこの冬ずっと登れずにいた私が、さらに道を間違えてそのまま樹林帯の斜面を登ってきたことで、偶然にも出会ったこの見事な眺め・・・。(写真下)

  

 辺りには、風の音や鳥の声すらなく、静けさの中、私の頭の中では小さな耳鳴りだけが聞こえていた。
 幸せな思いがあふれてきた。 
 それは、このままここで死んでも構わないとかいう、センチメンタルな気持ちではなく、むしろ元気にこうして山に登ることができて、さらにはこうした景色を見ることもできてという、感謝の思いからくる幸福感だった。
 それだからこそ、長く休んでいたいとは思わなかった。急斜面をあえぎながら登り、すぐに立ち止まっては上を仰ぎ見て写真を撮るという繰り返しだった。
 
 やがて樹林帯が終わり、枯れたカヤの斜面に出て展望も開けてきた。
 そこは予期した西尾根の先端部分ではなく、その手前の稜線へと上がる小尾根の斜面だった。
 立ち枯れたカヤの上に積もった腰までの雪を払いのけながら、ようやくのことで頂上からつながり降りてくる稜線に出た。
 もちろん、そこには誰の足跡もついていなかった。ただ獣たちの足跡だけが、幾つもの方向に乱れ続いているだけだった。
 シカ、イノシシ、キツネ、ウサギ、テン・・・。

 南の方には薄雲が広がっていたが、大部分はさわやかな青空で、風もほとんどなかった。人影も見えなかった。
 遠く、九重の山や由布岳などが見えていた。
 私は、楽しい気分になって、白く続く尾根道をたどって行った。
 道は、吹き溜まりでは50㎝位はあったが、大体は15㎝程で、歩きにくいというほどでもなかった。
 時々足を止めては、写真を撮って行った。ミヤマキリシマなどの灌木には、
エビノシッポがびっしりとついていて、これもまた冬山での、見ものの一つだった。(写真下)

 

 もちろん、それは九重などとは比べるべくもなく、ましてや去年のあの蔵王の樹氷群とは比較するまでもない、いたって小さな雪氷芸術でしかないのだが、こうして1000mそこそこの山でも、雪が降った後に行けば、十分に雪山を楽しむことができるということなのだ。
 九州の山は(屋久島を除いて)、一番高い九重連山でもたかだか1800m足らずの山々でしかないが、火山だけに樹林植生限界が低く、ちょっとした高山雰囲気を持っていて、冬型気圧配置の寒波が押し寄せてきて雪を降らした後には、一時的にこうした冬山景観を見せてくれるのだ。
 もちろん北海道や日本アルプスの山々などのように、本当の厳しい冬山の姿ではないけれども、その分比較的手軽に雪山の姿を味わうことができるし、まさしく、私のような、体力が落ちてきたじじい向きの雪山なのだ。
 もちろんそれはいつも言うように、晴天日登山という条件のもとにおいてだが。
 
 ことほどさように、冬山、雪山一つとっても、ラッセルや岩稜氷壁を伴う北アルプスの山々などから、こうした南の九州の低山の雪山歩きに至るまで、冬の山登りにはいろいろなパターンがあるということなのだ。
 一つの言葉には、一つの物事には、いつもそれが普通に意味する面だけではなく、他にも様々な意味を持った側面を併せ持っているということ。
 そこで思い出したのは、三日ほど前にあったNHKの再放送の番組だ。

 『女たちのシベリア抑留』。夏に放送されたのだが、腰を痛めて寝ていた時で、つい見損なってしまっていたのだが、今回録画してしっかり見ることができた。
 先の第二次大戦で日本が敗戦して、その時にロシア軍が侵入してきて、満州国に残っていた軍関係の人々(軍人、軍属、民間人)約60万人が捕虜としてとらえられ、極寒のロシア・シベリアなどに送られて、粗末な宿舎でぼろ布ような衣類にひどい食物しかない中で、強制労働を強いられて、そこで飢えや寒さなどで6万人もの人たちが亡くなったという(国際法違反のそしりをまぬかれない)、いわゆる”日本人のシベリア抑留” であるが、その中に若い従軍看護婦たちなどもいて、同じように捕虜としてシベリアに送られていたということは、あまり知られていなかった。

 そこで苦節数年を生き延びて、ふたたび日本に戻ってきた彼女たちは、ようやく人並みの暮らしに戻ることができたのだが、あのシベリアでのつらい思い出だけは余り語ろうとはしなかったのだ。
 しかし戦後70年、今や90歳前後になる彼女たちは、今回その重い口を開いて、シベリアでの過酷な思い出の幾つかを話してくれたのだ。
 それでも、時々言いよどんでは、天を仰いでいた・・・哀しい遠い昔を見ているかのように・・・。
 ここでは、彼女たちがこの番組の中で語った、残酷でつらい出来事の一つ一つを書いていこうとは思わない。
 彼女たちが話している様子を見ることに勝るものはないからだ。何よりも、またいつかは再放送されるだろうこのドキュメンタリーの番組を見てもらうにこしたことはない。
 私の母は、満州にいたことがあり、敗戦の少し前に日本に戻って来ていて、あのまま満州にいたなら、彼女たちと同じ運命をたどっていたかもしれないし、その後私が生まれることもなかったわけだからと・・・とても他人ごとではない思いで、今は亡き母からあまり聞くこともなかった、満州での出来事の一端にでも触れたような気がしたのだ。

 私は前にも書いたように、運命という人生の定めなるものがあるとは、あまり信じたくはないし、特に若いころはその運命などは逆に自分から生み出すもの、変えていくものだと信じていたから、こうして実際に極限の状況下で、抗(あらが)うことのできない運命の前に立たされれば、誰でもただ、運不運に振り分けられるだけなのかとも思ってしまうのだ。 

 ともかく今ここでは、私にはそんな大きな問題を取り扱うだけの知力も余裕もないから、これ以上深入りすることはできないのだが、ただそんなシベリアに抑留された彼女たちのことを、今この雪山を歩きながらふと考えてみたのだ。
 私は常日頃から、冬が好きだ、雪山の景観が好きだと、事あるごとに吹聴(ふいちょう)しているが、まさにそんなことを勝手にほざくのも、この平和な国に生まれ育ち、何ごともなくここまで生きてこられたおかげであり、まさに幸運の連鎖によって今があるだけのことなのだと。
 私が憧れる冬景色など、彼女たちにとっては忌(いま)まわしい過去の思い出でしかなく、-40度にもなる烈風吹きすさぶブリザード舞い上がる光景は、まさしく”死の舞踏(ぶとう)”を思い起こさせるものでしかなかっただろう。
 
 人の考えなど、愚かなものだとも思う。いつも、自分の頭の中で考えているだけのものだし、それが確かなものかどうか、揺れ動く心の持ち主である本人にしても、分からぬことばかりなのに。
 それは、いつも自分の家族のことや、群れの仲間のことを考えているだけの、あのアフリカのヌーたちにしても、自分の群れの一頭がライオンに襲われて食べられているのを見れば、自分は助かったのだと思い、今はまだ自分は生きているのだと知るのだろう。
 つまり人は、いつも様々な立場にある人のことなどすべてを頭に入れて、考えることなどできないということだ。
 私のように雪景色が好きだと言っても、同じ気持ちになる人よりは、むしろ反対の思いを抱く人たちのほうが圧倒的に多いだろうし。
 単純に冬は寒いからいやだとか、雪は商売に困るから降ってほしくないとか、災害を引き起こすから困るとか、さらには彼女たちのように、忌まわしい過去の思い出につながるから見たくもないという人たちさえいるのだから。

 などと考え反省しつつも、やはり今ただひとり、こうして誰もいない雪の山を歩いて行くのは、私にとっては楽しいものなのだ。
 青空と白い雪の造形だけなのに、そこにいるだけで幸せな気持ちになれる。
 もしかして、私は、”アホと雪の王様”なのだろうか。”ありのままのーアホでいてぇー”。

 さらに途中からわきの尾根に入り込んで、その斜面にある霧氷の木々に向かって、何度もカメラのシャッターを押した。
 再び稜線に戻り、頂上にたどり着いたのは、もう12時に近かった。
家から4時間近くもかかっている。
 若いころなら、このくらいの雪の時でも2時間ほどで、さらには最近でも3時間くらいでは登っていたのだが、道に迷い別ルートで登ったにせよ、途中で写真を撮るためにあちこちで寄り道をしたにせよ、倍近い時間がかかってしまったのだ。
 まあ別に時間に縛られているわけでもなく、天気もまだ薄曇りになっただけで見通しもいいし、なにぶん雪山を楽しむべくやってきたのだから、これでいいのではあるが。

 帰りは周回ルートになる別の尾根を通って下ってきたのだが、道が手入れされていなくて、さらに両側のササに雪が覆いかぶさっていて、払いのけながらの滑りやすい雪の道だった。
 それでも下りはさすがに早く、2時間足らずで降りてきた。合計6時間ほどの程よい雪山歩きだった。
 
 この年末から正月にかけて何本かのテレビ番組を見て、さらには長年待ち続けていた映画のDVDが年末になってようやく発売されて、この年になってまたあらためてしっかりと見なおすことができた。
 そのことを含めて考えたのだが、このブログはあくまでも私的に、自分のためだけに書いているものであり、書くことによって更なる自己啓発をなどという大それた思いはなく、またそれほどの才能もないのだが、ただこれからは今まで私が登ってきた幾つもの山々や、あるいはこれまで読んできた何冊もの本、さらには多くの映画や音楽や絵画などについて、おりにふれて、今でも強く心に残っているものだけを選んでここに書いていきたいと思う
 
 それは、あとどれほど残されているかわからない私の人生の時間を、私の好きだったもので埋め尽くしたいというわがままな思いからだ・・・ただ善きものたちだけに囲まれた、天国につながる私だけの王国へ・・・。
 たとえば、日高山脈の『カムイエクウチカウシ山』、マルローの『王道』、ベルイマンの『第七の封印』、バッハの『平均律』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』・・・何一つ脈絡はないけれども・・・。