ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

サザンカとツバキ

2017-03-27 21:34:35 | Weblog

 3月27日

 他に咲く花とてない冬の時期に、少しずつ咲き続けてくれた、サザンカの花が終わりを迎え、代わってツバキの花の時期になった。
 母が家のそばに植えていた、絞(しぼ)り八重咲のツバキの花が咲き始めた。(写真上)

 昨日、屋根や雨樋(あまどい)にたまった落ち葉の様子を見ようと、はしごをかけて屋根に上った時に、上の写真の光景を見た。
 このツバキの木の下のほうでは、花数も少なく、形も小さかったのだが、日差しあふれる屋根の上まで枝葉を伸ばした先には、その日の光の恵みを受けて、鈴なりにあふれんばかりの花が咲いていたのだ。
 屋根に上がらなければわからなかった、花の咲き具合。
 毎年、このツバキの花は見ていたし、色も淡く弱々しい気がしていたのだが、上のほうで、これほどあでやかな色の花が咲いていたとは。

 ここに何度も書くことだが、物事にはいろいろな側面があるのに、私たちはただその時に自分が見た、ただ一つの方向だけから、唯一の判断の結果として決めつけているのではないのか。
 さらに、屋根に上ったことで、もう一つ見つけたのは、前回書いたウメの花のことなのだが、なんと屋根の上からやや俯瞰(ふかん)する形になって、初めて満開のウメの花の広がりを知ることができたのだ。(写真下)
 初夏のころには、この木にたくさんのウメの実がなって、それをジャムにして、私の一年分の健康食品になるのだ。

 よく高齢のお年寄りが、幾つになっても学ぶことがあってと、話されているのを聞くことがあるけれども、若いころには生意気にも、”もう後がないクソジジイが今さら学んで何になる”と内心思っていたものだが、自分がその年寄りへの道を歩み出し始めると、今さらながらに、世界はまだまだ不思議に満ちあふれていて、これから先もなお、いろいろなことについて知りたいと思っていることに気づくのだ。”三つ子の魂(たましい)百までも”。

 ところで、わが家の庭にある、このツバキとサザンカの違いについて、私は大まかにいって、冬に咲くサザンカと春に咲くツバキの差であり、さらにサザンカは花弁が一枚ずつ散るのに対して、ツバキは花ごと落ちるから、”落首(らくしゅ)”と言って、生け花には使われないぐらいのことしか知らなかったのだが、その両者ともに上の写真にあげたように様々な栽培種があって、区別つけがたいものもあるのだが、今回ネットなどで調べてみて、恥ずかしながら初めて、葉の形や葉脈などによって、ツバキとサザンカのはっきりした違いがあることを知ったのだ。
 そこで、私たちのようなおじさん世代の、昭和歌謡に慣れ親しんだ人間たちにとっては 、ツバキやサザンカについて思い出すのは、あの小林幸子の”花は越後の雪つばきー”と歌う「雪椿」(星野哲郎作詞・遠藤実作曲、1987年)であり、また大川栄策が”咲いて寂しいさざんかのやどー”と歌う「さざんかの宿」(吉岡治作詞・市川昭介作曲、1982年)であり、その前の歌詞の流れから、その描かれた花の哀感を知ることができるのだ。

 こうしてウメやツバキの花のことを書いていると、それでは家のヤマザクラはと見てみるが、まだまだツボミは小さく、さらには今日のようなぐずつき気味の寒い日が続いているから、まだまだずっと先のことだろう。
 
 そこで最近、その時々の感興のおもむくままに、万葉集や古今和歌集、西行歌集などの歌をここにあげているのだが、確かに歌それぞれには今も昔も変わらぬ、人々の思いのたけが吐露(とろ)されていて、その一首を詠(よ)んで、その感想を書き立てていくだけでも、それは今の自分には十分に意味のあることなのだが、一日一首だとしても、万葉集だけでも約4千5百首もの歌があり、とても私の手に負えるものではなく、こうして思いつくままに書いていくほかはないのだが。

 今回は、”万葉集”の第十三巻、長歌を多く集めた巻でもあり、その中の”挽歌”(ばんか、亡くなった人をしのんで詠んだ歌)の項の中からの一首である。(その全文をあげると長くなるので中略している。)

”隠口(こもりく、枕詞)の 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 鵜(う)を八頭(やつ)潜(かづ)け 下(しも)つ瀬に 鵜を八頭潜け 上つ瀬の鮎(あゆ)を食はしめ 下つ瀬の鮎を食はしめ 麗(くは)し妹に 鮎を惜しみ・・・遠離(とおざか)り居て 思うそら 安けなくに 嘆くそら・・・玉こそは 緒の絶えぬれば 括(くく)りつつ またも合うと言え また逢わぬものは 妻にしありけり”(3330)

(『万葉集』(三)第十三巻 中西進訳注 講談社文庫、以下同)
 
 私なりに大まかに訳すれば、”泊瀬川の上の瀬のほうに、八羽の鵜を潜(もぐ)らせ、下の瀬のほうにも八羽の鵜を潜らせて、それぞれに鮎を飲み込ませて捕まえて、愛しい人に食べさせてやっていたのに、今は遠く離れた空のかなたにいて、ひと時も心安らかな時はなく、空を見ては嘆くばかりで、(破れた着物はつくろえばその裂けたところが重なり戻るし)、穴の開いた玉を通すひもが切れても、また新しいひもでくくれば、隣の玉と並んだ形に戻るのに、もう二度と会えないのは、死んでしまった私の妻なのだ。” 

 まず、この長歌の中では、何度か同じ言葉が繰り返されていて、その語調を整える言葉の連なりが心地よいし、着物が破れ玉の緒が切れても、大抵のものは再び元に戻るのに、緒が切れた魂(たま)は戻っては来ない、死んだ妻はもう再びは戻ってはこないのだと嘆く、夫の哀しみが、日常の漁の仕事の中につづられていて、今の時代に生きる私たちの心にも、痛切に伝わってくる。
 まるで、目の前に流れる川で、鵜飼いの漁をしている、その人の顔の表情が大写しになるかのように。
 この歌だけで、一編の映画が作れるような情景描写、情感描写になっていると思うのだが、まるで冥界(めいかい)に亡き妻を求めて下りて行く、あの『オルフェウスとエウリディーチェ』の物語のように、一筋の清らかな川の流れに彼の思いに重なっているようだ。
 これは、名前も記されていない”詠み人知らず”の人の歌一首であり、なんという時代だったのだろうと思ってしまう、千数百年も前の天平・飛鳥の奈良時代とは。
 
 実は昔、通して万葉集を読んだ時に私が印をつけていたのは、この二つ後の歌だったのだが、今回その歌について書こうと思っていたのに、その二つ前のこの長歌を再び読んでみて、改めて深く感じ入ってしまったのだ。
 ということで、この長歌の挽歌の後に、続いて載せられている歌(3331)は、上の長歌とは枕詞と地名以外はあまり関係はないようにも思われるが、”隠口(こもりく)の 長谷(はつせ、泊瀬)の山 青幡 (あおはた)の 忍坂(おさか)の山は・・・”と、万葉集では数少ない、山の姿かたちを詠んでいる歌であり、また別な機会に、この歌の意味も考えてみたいところだが、今回あげるのは上に書いたように、その次に置かれた歌である。

 ” 高山と 海こそは 山ながら かくも現(うつ)しく 海ながら 然(しか)真(まさ)ならめ 人は花物(はなもの)そ うつせみの世人”
 これは、伊藤博訳注による角川文庫版では、少しその表記が異なっていて、特に最後の一節が、” ・・・うつせみと人と”になっているのは、少し気にはなるが、それでも全体の歌の意味が変わるほどではなく、これも自分なりに解釈してみると。

 ”高い山と海を見てみると、山はこのように目の前に厳然としてそびえ立ち、海もまた本当に豊かに目の前に広がっている。しかし人間は、咲いては散る花と同じようなものだ。セミの抜け殻のように移り変わるこの世の中に、はかなく生きているだけで。” 

 なんという、自然の景観、現実の情景を前にしての無常観だろうか。
 もっともそれだけに、高い山の姿や大きな海の広がりが目の前に見えるようでもあるのだが。 
 こうして、私のような浅学の徒が、思いつきのままの言葉を並べるのは気がひけるのだが、あくまでもこれは私の日常の思いをつづっただけの、個人的な日記としてのブログ記事なのだから、ともかく感じたことを書いておくことにする。

 今まで言われているように、”日本の無常観”は、何も平安後期から鎌倉時代前期の”隠者文学”などに端を発したわけではなく、さらには仏教伝来以後の日本の仏教的無常観としてはぐくまれてきたわけでもなく、もののあわれ、はかなさは、昔の人々でさえも普通に感じていた、人間の持つ普遍的な感性の一つではなかったのだろうかということである。 
 時代は変われども、泰然自若(たいぜんじじゃく)としてそびえ立ち、広大に広がる変わらぬ大自然と、ここを盛りに今だけ咲いては散ってしまう、人間のはかない生の営みはと、誰しも感じていたのではないだろうか。

 そこで私が、数十年もの長きに及んで山に登り続けているというのは、つまり、相変わらず今もなお、私だけの山岳信仰のただ中に居続けているということであり、私自身が”人は花物そ”という意識を強く持っているが故に、その”アンチ・テーゼ”(反命題)として、ゆるぎない自然に心服しているということになるのだろうか。
 そう考えれば、この弱い存在としての私が、自分ならではの思いのまま、確かな存在としての山に通い詰めることになったのだと理解できるのだが。
 と言って、今、もう一月以上も山には行っていない。雪はないし、花はないし。 

 栃木県那須では、冬山登山研修中の高校生たちが、雪崩によって大量遭難してしまったとのことだが。
 せっかくの山好きな子供たちが・・・まだまだこれからいくらでも、素晴らしい山の世界を知ることができただろうに・・・あの若さで・・・。

 庭の満開のウメの花が、散り始めた。

  


散りなむ後ぞ

2017-03-20 21:38:56 | Weblog



 3月20日

 暖かい春の日差しあふれる天気の日が続いて、庭のウメの花は、一気に花開いた。
 前回の写真(3月13日の項参照)と比べてみても、一目瞭然(いちもくりょうぜん)の華やかさだ。
 春は、ここにあり。
 その昔、白鳳・奈良の万葉の時代には、今では日本のサクラの多くを占めるソメイヨシノなどがまだなかったころであり、サクラは、里山の他の樹々の中で咲いていたヤマザクラのことを指していたのだろうから、今ほどにもてはやされずに、歌に詠われることもウメに比べれば多くはなかったのだろう。
 ちなみに、万葉集では、サクラが詠み込まれた歌は40首ほどで、一方ウメの花が詠まれた歌はその4倍にもなるとのことである。

 それはつまり、当時はウメのほうが人里に多く植えられていて、他のまだ冬枝のまま樹々の中で、一足早く花を開かせ、待ちわびた春の到来を告げるものだったから、春といえばまずウメの花を歌に詠みこんだというのは、今の時代にいる私たちから見てもよくわかるところだ。
 当時、花といえば、まずは春の最初に咲く、ウメの花のことだったのだ。

 わが家のウメの木は、もう50年にはなろうかというもので、四方に十メートル以上もの枝を広げる大きな木になって、その上にすぐそばにサクラやツバキの木などがあり、重なっているところも多くて、とても全景写真としては撮れずに、上にあげたような一枝だけの写真になってしまうのだが、それでも花の多さがよくわかる。
 そこに、何羽かの群れをなして、チーチーと鳴いてメジロがやってくる。
 それぞれにあわただしく、ウメの花のミツを吸っている。
 同じ時期に咲き始めるツバキの花もあるから、今の時期にしか、家の庭にやってこない小鳥でもある。
 もっとも、少し前まではベランダのエサ台にミカンなどを置いておくと、よく来ていたのだが、体の大きなヒヨドリやツグミの仲間たちもやってくるから、なかなかエサ台に近づけないでいた
 何より、メジロから見れば巨大な鳥である、カラスが来るようになってからは、年老いた猫ミャオのこともあって、もうエサ台ごと取り外してしまったのだが、そうすると、今では春先のこの時期だけの、メジロ観察になってしまったのだ。
 
 大体、野鳥というものは小さいからかわいいのであって、メジロ(全長11.5㎝)の何倍もあるカラス(ハシブトガラス56.5㎝)をかわいいと思う人はあまりいないだろうし、さらには海辺でよく見かけるカモメでも、(オオ)セグロカモメは60㎝もあり、遠くから見れば色は白いし優雅に見えるかもしれないけれど、近くで見れば意外に大きな鳥であることに気づくし、何よりあの目つきが、私にはあまり好きにはなれないのだが。
 ともかく、小さな鳥たちはかわいい。
 エナガ(シマエナガ)も体長はメジロよりも大きい13.5㎝だが、尾羽が長いから、体の大きさは同じくらいで、ジュリジュリと群れで鳴きながらやってきて、枝の虫などを上になり下になりして探し動き回る姿もかわいい。
 他にも夏山では、その姿を見ることよりは、鳴き声ですぐにそれとわかるミソサザイ(10.5㎝)も、かわいい小鳥であり、こげ茶の体に白い眉班(びはん)線だけがはっきりとして、尻尾を立ててさえずる姿を見れば誰でも好きになってしまうだろう。

 しかし、小さな鳥たちの中でやはり一番なのは、おそらくは誰でもが同意するに違いないだろうが、あのキクイタダキ(10㎝)である。
 まだエサ台があったころに、ミカンの輪切りにつられてやってきたことが何度かあったが、何しろメジロが大きく見えるほどの、日本では一番小さな鳥なのだ。
 その小さな姿の大きな特徴は、メジロをさらに小さくした姿だといえなくもないが、まずメジロと同じように、目の周りに白い縁取りがついていてかわいいし、体の色は全体的に見れば、ウグイス色なのだが。
 メジロは、のどから胸にかけての黄色が目立っている。もっともそれは、キビタキほどの黄色ではないし、また黄色と黒の取り合わせがシックな感じのミャマホオジロほどに目立つわけではないけれども。
 一方のキクイタダキは、何よりもその名前の由来になったように、頭央(とうおう)線、つまり頭の頂きにある黄色い王冠が何ともいえず、一点豪華主義的に見栄えがするのだ。
 まして、オスのほうには、さらにその頭頂の最上部だけが赤く縁どられていて、それがさらなる見ごたえにもなる。

(以上、参考文献:『日本の野鳥』高野伸二著 小学館)
 
 しかし、上に書いたように、エサ台を外してからはもう何年も、キクイタダキを見てはいない。
 エサ台を外したのは、カラスが来るためでもあったのだが、もう一つにはミャオのことが心配になったからでもあり、というのもミャオが元気な時は、そのエサ台にくる子鳥たちを狙ってよくジャンプしていたものだが、ミャオの晩年は、エサ台にくる鳥たちにも興味を示さず、ただ日がな一日ベランダで寝ていて、むしろカラスの襲撃にあいはしないかと心配だったこともあって、思い切って長年のエサ台を外してしまったのだ。

 家のウメの木にやってくる、メジロの話から、ついつい小鳥たちの話になってしまったのだが、実はこうしてウメの花の時期にしか見られない、メジロのことを考えていて、ふと思いついた歌があって、それに例えて書いておこうと思ったからでもある。
 それは『古今和歌集』にある、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の有名な歌である。
 
「我がやどの 花みがてらに くる人は ちりなむ後ぞ こいしかるべき」 (『古今和歌集』67 佐伯梅友校注 岩波文庫)
 
 この歌を、貧しい言葉づかいながら、自分なりの言葉で読み替えてみた。
「わが庭の 花蜜吸いに くる鳥は 花散る後に 思い出すかも」

 などと勝手に自己流に楽しんだところで、前回の書き足りなかったことについて、ここで再び少し書き加えておきたいと思う。
 あのトマス・インモース氏が「生をゆっくりと楽しむ。」と書いた言葉の前には、さらに興味深い前文があって、それは以前にも書いたことのある、”臨死体験”からの死の持つ意味と重なっていたからでもある。

 彼は、あの学生紛争時代のさ中に、学生たちに長時間詰問(きつもん)され、心筋梗塞になって救急車で病院に運ばれ、そこで様々な幻影に出会った後・・・。

「やがて私は、暗い洞穴の前に立っていた。突然その洞穴から大きな光があふれ、ある文字があらわれて私の前にとどまった。それはヘブライ語でユダヤ教の神を意味する”ヤーヴェ”という文字であった。静かだった。私は安らかに眠ることができた。」
「生命が危機的状況に落ちると、血液の中に薬物様のものがつくりだされて(注:ドーパミン)、そのために夢・幻を経験するということであるらしい。」

 以上のことは、あの立花隆氏の『臨死体験』(文春文庫)の中でいくつも同じ体験として語られていた事例と見事に一致するものだったのだ。
 そして、さらに彼は言う。
「私には、たったひとつの願いだけがのこされた。私の残された生を、できるだけ意識的に経験し、そして楽しむことである。」

 (以上、『死ぬための生き方』「最後に残された願い」:トマス・インモース」より 新潮45編 新潮文庫)

 さらに付け加えて、このブログの2014.9.22の項で書いたことの中から、大きな二つのポイントを改めてあげておくことにすると。

 ”脳神経科学的に言えば、つまり、死とは”膨大な神経網がつながらなくなり、心も消える”ことである。”
 ”しかし、もう一つの希望的な側面から見れば、死とは、死と神秘と夢が隣り合わせのボーダーラインにくることである。死は苦しいものではない。だから、今はいい夢を見ようという思いで死んでいける。”

 私がこうして繰り返して、”死ぬための生き方”について書いているのは、まさしく自分を励ましてくれる人生の先達(せんだつ)者たちの言葉として、今の時点での心構えとして、自分の日記として書いているだけのことであり、他意はない。
 死は、命あるものすべてに等しく訪れるものであり、そして決して同じものではない、その人だけの、そのものだけの、それぞれに違った死があるということなのだろう。

 あの芭蕉(ばしょう)晩年の(辞世の句ともされる)有名な一句。

「 旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」

 私も、今までに登ってきた山々のことを思い浮かべながら、最後のその時を迎えるのだろうか。
 それは、それでよい。すべての山々が、美しかったのだから。

 しかし、この年になっても、まだまだしぶとくあがきながら、命ある限りと、まだまだ登りたい山々があるのだ。

 さらに芭蕉の句をもう一つ、年寄りになってくると、あの有名な「閑(しず)けさや岩にしみいる蝉(せみ)の声」よりは、よほど心にしみてくる一句なのだが・・・。

「やがて死ぬけしきは見えず蝉(せみ)の声」 


それぞれの日の趣(おもむき)

2017-03-13 22:43:21 | Weblog



 3月13日

 三日間も、快晴の日が続いた。
 昨日は、風もなく、午後には薄雲が広がったものの、気温は15度くらいにまで上がった。
 例年よりはずっと早く、一週間前にちらほらと咲き始めたウメの花が、ここにきて一気に花開いた。(写真上)
 かすかに漂うウメの香り、そして何よりも、あたり一面を冬から春へと変えてくれる、心はずむような花々の明るい眺め。
 ”春はいいよなあ、春はいい”と言いながら、テレビ画面に出てくる、あの”変なおじさん”が浮かれ出す気持ちも、わかるというものだ。

 こんなに天気が続けば、山歩きには、もってこいの日々だったのだが、どこにも行かなかった。
 特に最初の快晴の日は、その二日前に雪が降っていて、このシーズン最後の雪景色になるだろうから、とも思ったのだが、その雪が降った次の日は、午後からようやく少しずつ晴れてはきたが、まだ雲も多くて行く気にはならず、その翌日の、朝から快晴になった日には、ネットのライブカメラの映像で見ると、それまでの雪が半ば溶けてしまっていて、その上に週末と重なって、とてもあの雪解けの後のぬかるみの縦走路を、他の登山者たちとともに、行列をなして歩いて行くなどとてもできないと思ったのだ。

 しかし、こんな天気が続く日に、家に閉じこもってはいられない。
 それは町に住む人が、休日の天気の良い日に、家にじっとしていられずに、街中に出かけていくのとは少し意味が違う気もする。
 つまり、田舎に住む私は、町に出かけたくなるのではなく、ただやみくもに、目の前の坂道を登って行きたくなるのだ・・・周りの木々や山々を眺めながら、青空の下を歩きたくなるのだ。

 思えばその昔、二足歩行になった人間は、いつしか時とともに、そのこざかしい知恵を働かせては様々な器具を作り出し、狩猟採集の食糧調達の日常労務から少しずつ解放されるようになり、楽することを覚えては、歩くことの必要性も次第になくなってきて、今では、それまでの歩きのほとんどを、何らかの交通機関に頼るようになってきているのだが、それでも、そんな人たちにでも体の本能が呼びかけてくるのだ、もっと歩きたくはないかと。
 そんな人間の一人である私は、その晴れた日に、はたしてむっくりと起き上がり、のっそりと外に出ては、家からの道を歩き始めたのだ。
 いかにも、原始時代のDNAを受け継いだであろうと思われる、少し恐ろしくいかめしい顔つきと、胴長短足の大きな体を動かしながら・・・。
 はい、いつもの往復1時間はかかる、坂道歩きに行ってきたというだけのことではありますが。

 気持ちの良い青空の下、そんな長歩きの途中で、まだ冬木立のままの樹々や遠くの山々を眺めながら、ふと思ったのだ。
 今こうして、つらいながらも、自分の足で坂道歩きができるという幸せに、そして、こんなどうでもいいような、じじい一人を生かしてくれる、すべてのものにただ感謝する他はないと。
 その時、下のほうから町役場のサイレンの音が聞こえてきた。
 長く鳴り続くその音のまま、私は頭を垂れていた。
 2万人近くの人々が、あの一瞬の大地震と大津波と火災によって亡くなってしまったのだ。
 それぞれの人々の未来が、その時の時間のまま一瞬にして、断ち切られた瞬間だったのだ。

 もちろん、そうした自然災害だけでなく、日々絶えることなく、人の命は失われている。
 病死、事故死それぞれに、無念の時が無慈悲に終わりを告げるのだ。
 さらには、自ら自分の命を終わらせてしまう人もいて、その中には多くの高齢者たちもいる。

 なぜ、そうした自殺者たちについて考えるようになったかというと、このブログでも、たびたび書いてきたように、私は若いころに、多少ともに行動主義と呼ばれる文学の世界にひかれ、特にあのアンドレ・マルローの哲学的な死生観にかぶれていた時期があって、さらにはミーハー的にも映画『アラビアのロレンス』にひかれていたこともあって、ついにはオーストラリアの砂漠をバイクで走るということまでも企て実行したのだが、すべては若き日のただ狂熱的な思いからであって、今にして思えば、まさに”若気の至り”というべき無分別な若者の思いつきにすぎないのにと、振り返ることができるのだが。
 ただ、その時を含めて、さらには子供のころに川でおぼれたり、その他様々な死のふちに立たされた思いをしてきて、それらによって、より一層に生きているありがたさを感じてきたのだが、それだけに、この新聞記事にあるような、生きていることの対極にある自殺者のことを考えてしまうのだ。
 それも自分が年を取ってきて、死ぬことが現実味を帯びてくると、余計に今生きているありがたさを、”存在と時間”として意識され、それでもいつかは来る、終局の時を考えないわけにはいかないのだ。
 
 そこで、十日くらい前のことだが、ふと目をとめた新聞の日曜版の記事が、その後もずっと気になっていたのだ。
 それは、”高齢者の犯罪が社会的孤立を背景に急増”という見出しだった。
 もちろんその犯罪は、窃盗などの微罪のものがほとんどだということだが、併せて高齢者の犯罪件数そのものが増えているということだった。
 そのことはともかく、私が気になったのは、昔の新聞連載漫画から当時の世相を解説していくという、その欄の趣旨からの、高齢者犯罪の前置きとして、当時の敬老の日の問題として、その社会面が載せていた二つの記事についてである。

「78歳の女性が、孤独から家出し、故郷の山中で自殺した」
「68歳男性は、当時の厚生大臣あての手紙で訴えた。老後保障がなく自由も楽しみもない生活では、罪を犯す可能性もあり、死ぬより道がありません、と」
(このガス自殺した男性の枕元には、以上の厚生大臣あての手紙が残され、さらには福祉施設へ送ってほしいと、当時の一万円の聖徳太子のお札二枚が同封されていたとのこと。)

 今から50年も前のことで、今の社会情勢と比較すれば大きく違う点も多いのだろうが、いずれの場合も、身につまされることの多いあまりにもつらい出来事である。
 私はもちろん社会学者ではないし、それほどの分析できるだけの知識も持ち合わせてはいないから、細かく言及することは差し控えたいが、いずれの事件についても、私が考えたのは、前回少し触れたように、”死ぬための生き方”についてである。

 まず、故郷の山中で自殺したとされる高齢女性については、余りにも胸の痛む事件ではあるが、死ぬ時のことを思えば、私にも共感できる部分はあるのだが。
 それは、周りの人に迷惑をかけずに、故郷の土に還(かえる)ことであり、前回、その事件をさらに発展させる形で考えて書いてみたのが、誰にも見つからず雪の山中で死ぬことは、その点では彼女の思いと重なる部分があり、まさに”間際になっておびえて死ぬ”よりはという、”今を生きるための死に方”であるといえるのかもしれない。
 さらに言えば、昔の甲州地方の貧しい山村では、冬を迎えるころ、食いぶちを減らすために、高齢に達した肉親を山に担ぎ上げては置き去りにしたという、あの”楢山(ならやま)まいり”と呼ばれる”姨捨(おばすて)”伝説があったとのことで、この事件は、そのことを思い出してしまうのだが。
 (詳しくは木下恵介監督による1968年の映画『楢山節考(ならやまぶしこう)』参考のこと。この映画では、老母役の田中絹代と息子役の高橋貞二の演技に泣かされる。舞台は信州の姨捨山と誤解されているが、実際は原作者、深沢七郎の故郷、甲州山梨県の口承伝説だとのこと。)

 次に、68歳の男の人の自殺の場合は、自分が次第に老いてゆくのに伴い、行く末の悲惨な環境が思いやられてと書き残しているが、それはまさに信義を重んじた儒教道徳に基づく、”サムライ”としての死、つまり今の時代にはあり得ない”自決”ではなかったのかと、思ってしまうのだが。

 もちろん、私はこの二つの死を、心情的には理解できても、積極的に理解することはできない。
 そこには、50年前という時代背景があったにせよ、もっと他に、”いつかは来る死のために、積極的に生きる生き方”があったのではないかと思うからだ。
 そんな希望の存在があることを、私に再認識させてくれたのが、ここまでたびたびその名前をあげてきた、『死ぬための生き方』(新潮45編 新潮文庫)の中の一編からの、スイスの宗教哲学者・ドイツ文学者でもあり、日本の上智大学教授も務めた、トマス・インモース(1918~)の言葉である。
 
「美しき宇宙万物、文学・美術・音楽といった人間文化の価値を感得させてくれた私の生命を、私は愛する。その生を、ゆっくりと楽しむ。死の時まで少しも急ぐつもりはない。死は明日、突然訪れるかもしれぬ。それも構わない。今の今、生を存分に経験し、楽しんでおれば、死を怖れる必要はなかろう。」

 今から二十数年前、この一文を見つけた時から、数ある人生の先達(せんだつ)者の一人の言葉として、それは私の心に深く刻み込まれてきた。
 私は、彼の愛した分野のどの一つにおいても、足元にも及ばない理解と知識しかないし、ただ無芸のまま、駄馬(だば)の大食で、いたずらに馬齢(ばれい)を重ねてきただけに過ぎないが、しかし逆に言えば、一芸に秀でることができなかったために、様々な分野に手を伸ばし、わずかながらでも、それぞれの世界をかいま見ることができたのも確かだ。
 それだから、年を取ってきた今、もちろんそれまでに私が失ったものも多いが、変わらずに残っているものも数多くある。
 それは、彼が上にあげたものと重複する分野のものばかりで、そこに人生の先達者の言葉としての、これから先の私の人生の、ある種の光明になりうるものかもしれない。
 
 学ぶことは、いくつの時からでも、いくつになってからでも、早すぎる遅すぎるということはなく、それがどれだけ広く浅くて、ただ触れただけのものであっても、年寄りになってからの、感興を引き出す”よすが”の一つとなりうるものなのだと、今にして思うのだ。
 もちろんできるならば、一芸に秀で、世の中に名を残す人たるべく”功成り名遂げた”ほうが望ましいことは当然のことだが、そうではなかったその他大勢の一人であったとしても、何も後悔することはないのだ。
 そのために、かくも広大な、自分だけの世界を持つことができたのだから。

 と、あくまでも”能天気”ではなく、ひとりよがりな”脳天気”なままにと、私は考えてみるのだった。
 とかく、世の中も自分自身も、なるようにしかならないのだから。
 "Que Sera Sera ,Whatever will be,will be・・・”と明るく歌う、あのドリス・デイの歌声が聞こえてきそうだった。
(1956年のヒッチコックの映画『知りすぎた男』の主題歌で「ケ・セラ・セラ」(なるようになるさ)として歌われて大ヒットしたものである。) 
 
(この後に続いて、昔よく聞いたドリス・デイの歌、彼女がスィングバンドの専属歌手だったころの大ヒット曲「センチメンタル・ジャーニー」や その後の映画主題歌ヒット曲などを書き並べた後、同じように「ジャニー・ギター」が大ヒットしたペギー・リーのことについても、ジャズ・歌手として「ブラック・コーヒー」などの名盤を残しているなどと、昔を懐かしんでひとくさり書いていたのだが、その1時間余りの文章を私のキーボードのタッチ・ミスから一瞬にして消してしまった。もう、こんな遅い時間に書き直す気力はない。ドリス・デイやペギー・リーの話はいつかまた別な時に思い出したら書くことにしよう。)

 一昨日は、見事な十三夜の月が、明るく庭の木々を照らし出していたし、昨日は薄雲が広がるの中での、見事なおぼろ月夜だった。
 そして今日は、一日雨模様だったが、久しぶりに雨の音を聞いた気がする。
 それぞれの日に、それぞれの夜に、何かしらの趣(おもむき)があるものなのだ。 

 


反芻する山々

2017-03-06 22:55:52 | Weblog



 3月6日

 晴れた日には、暖かい日差しに満ち溢れていて、ああさすがに3月の春になったのだと思うし、それでもこの二三日のように、曇り空で気温が上がらずに、ストーヴをつけている部屋から、窓の外の冬木立を眺めていると、まだ早春なのだとも思う。
 週に一度、買い物に出かける以外は、どこにも出かけずに家にいて、たまに散歩をしたり、少し庭仕事をしたりするだけの日々だが、それでもやりたい机仕事はいくらでもあって、とても退屈するどころではない。
 ただ山には行きたいのだが、さすがに九州の3月の山では、淡雪の山や霧氷の樹々を見ることはできても、この冬2回しか行くことのできなかった、あの九重の雪山ような雪景色(1月30日、2月6日、2月14日の項参照)を楽しむことは、もう難しくなっているのだ。
 かと言って、新緑が始まるまでにはまだひと月以上もあるし、それまでの相変わらずの冬枯れの木立があるだけの山には、あまり行きたいとも思わはないのだ。

 そこで、この年寄りの得意にするところだが、昔行った思い出の登山をと、写真を見ながら回想してみることにした。
 以下は、10年以上も前のことだが、冬も北海道で過ごしていたころ、ちょうど今の時期に、日高山脈は野塚岳西峰(1331m)の南西尾根にひとり挑んだ時の記録である。

 北海道の中央部には、あの有名な大雪山や十勝連峰に石狩連峰などの山々があるが、日高山脈はその中央高地とは離れて、北海道の下半分をまるで背骨のように分けている一大山脈である。
 150㎞にも及ぶその長さは、北アルプスや南アルプスにも匹敵し、標高は1000mほど低くはなるが、高緯度にあるために厳しい高山環境の中にあって、過去の氷河遺跡ともいえるあのカール(氷蝕崖)地形をいくつも見ることができる。
 そうした一大山脈の中には、名山と呼べる山がいくつもあるのに、交通の便が悪く、アプローチに余分な時間がかかるだけでなく、登山道が整備された山が少なく(それでも多くなったほうだが)、手軽に登ることはできない中上級者向きの山も多く、その上に、北海道全域でもそうなのだが、この山域にも、体長2m体重200㎏以上にもなるヒグマが数多く生息していて、その姿を見ることもまれではないし、それら様々な要因が重なって、一般的な山登りの対象としては敬遠されてきたのだ。

 さらには、あの有名な深田久弥氏選定の”日本百名山”には、わずか日高幌尻岳(ぽろしりだけ、2052m)の一座だけが選ばれているだけで(私としては、他に数座の山をあげたいところだが)・・・しかしそれらのことが、逆に言えば、この日高山脈を、あの世界遺産である知床連峰以上の、知る人ぞ知る秘境の山域にしてくれたのである。
 私が、北海道に住みつきたいと思ったのは、その自然環境や景観もさることながら、この原始性あふれる日高山脈の山々を日々眺め、さらにはそれらの山々に登りたいと思ったからだ。
 日高山脈について書いていけば、一冊の本になるくらい書きたいことはいろいろとあるのだが、今のじじいの私には、せめて時に触れてあの時の山をと、思い出すだけでも十分なのだ。

 この日高山脈の、雪山については、単独行の私では、とてもテントを担いでの核心部の主峰群などは無理な話で、せいぜい、ゴールデン・ウイーク前後の雪が安定し、温かくなったころのテント山行が関の山なのだ。(もっとも、日高山脈冬季全山単独踏破の記録は、今までに数回残されているが、いずれの冬山熟達者たちによるものである。)

 さて、3月上旬のこの時期に、野塚岳西峰(1331m)の南西尾根を選んだのは、それなりの理由がある。
 20年ほど前に、十勝地方と日高地方を最短距離でつなぐ”天馬街道(てんまかいどう)”と呼ばれる国道が完成し、その最深部にある山脈直下を通る野塚トンネルができたおかげで(自然破壊の声も上がってはいたが)、その南北の出口から、日高山脈主稜線上の南日高の山々に取り付くのが飛躍的に楽になったのだ。
 つまり、北にはトヨニ岳(1531m)を経てピリカヌプリ(1631m)やソエマツ岳(1625m)に、南には野塚岳(1353m)を経てオムシャヌプリ(1379m)や十勝岳(1457m)さらには楽古岳(1472m)へと、それまでの長い林道歩きを省いて、縦走することもできるようになったのだ。
 それらはいずれも、雪が安定してきた4月から5月にかけての時期が一番歩きやすいのだが、夏期にも稜線上の藪が多いながらも踏み跡は続いていて、苦労はするが縦走することもできる。
 もちろん夏は沢登りによって山頂を目指すのが普通であり、北側のトヨニ岳、南側の野塚岳、オムシャヌプリ、十勝岳へと十分に日帰りで楽しむことができる。

 しかし、冬の積雪期では状況が全く変わってしまう。
 日帰りだから、自由に登る日を選べる私は、もちろん天気が続く時を選べばいいのだが、それ以上に重要なことは、雪の状態が安定しているかどうか、さらには気温の上昇による雪崩の危険などを頭に入れて、ルートを考えなければならないないことである。
 そこで、2万5千分の1の地図を見ては、登れそうな尾根のルートを探すのだ。
 もちろん人気のルートには新旧の足跡がついていることもあるが、私はそれまでに見たことのある尾根などをさらに地図で確かめて、直接出かけて行ってみることが多かったのだが。
 もちろんその時は、名のある山の頂上にこだわる気はなく、尾根上部の見晴らしのきく所まで上がれば十分であり、取りつきが楽で雪崩の起きにくい尾根であれば(そのぶん稜線上の雪庇”せっぴ”に注意が必要だが)、そんな尾根はないかといつも地図を見ては楽しみながら探していたのだ。

 そして、この時のルートはそうして自分で見つけたのだが、野塚トンネル南側出口からすぐに取りつく支尾根で、そのまま西に向かって上がり、野塚岳西峰の南西尾根とこの支尾根都の分岐点になる1120m標高点から、さらに西に南西尾根をたどり1192m点へ、そして雪の状態が良ければさらにその雪尾根をたどって、この付近の前衛の山々の中での最高点である、1233m標高点まで行くことができるのではと考えたのだ。
 ともかく、この1120m標高点から1233m点までの長い尾根のそれぞれのピークからは、十勝側に住む私にとっては、あまり見ることのできない日高側からの眺めであり、おそらくは日高山脈南部の神威岳から楽古岳までが見えるはずなのだ。
 ちなみに、日高側からの日高山脈の眺めは、やはりあのピセナイ山(1028m)からの大展望に勝るものはないだろう。
 他にも、イドンナップ岳(1752m)からの中部日高主峰群の眺めも素晴らしいが、高山植物で有名なアポイ岳(811m)からの日高山脈は、少し高度が低すぎて前衛の山々がじゃまになり、今一つすっきりとは見えない。
 
 さてその日の朝、快晴の空と日高山脈の山々を確認して、家を出た。
 まずは大樹(たいき)の町を過ぎたあたりから見える楽古岳と十勝岳の姿だが、何度見てもこの辺りで写真を撮ってしまいたくなるのだ。(写真上)
 この十勝岳の先、この主稜線の右手にオムシャヌプリという山があるのだが、その双子山(ふたごやま)を意味するアイヌ語の山名は、当時、この楽古岳と十勝岳が相並んでいる姿を指して言ったものだともいわれている。

 マイナス10度ほどの気温の中、天馬街道の山間部を上がって行く、道はもちろん全線圧雪アイスバーン状態だが、道南から道東を結ぶ幹線国道だから、時々大型トラックなどの対向車もやってくる。
 長い野塚トンネルを出て、すぐの所にある駐車場にクルマを停め、登り始めたのは9時過ぎだった。

 取り付きの急斜面は、ひざ下までの雪がゆるんでいて、時々はまり込みながらもジグザグにステップを切って登って行く。
 手には登山用ストックを持ちザックにはピッケルを差してはいたが、靴は冬山用のプラスティック・ブーツにアイゼンをつけただけだ。
 この日高山脈の雪山では、何度かスノーシューを試してみたのだが、ゆるやかな勾配では確かに有効だが、急斜面ではかえって足の抜き差しに苦労してしまい、結局、足の下の地面を確実にとらえるアイゼンのほうが、厳冬期の尾根の柔らかい雪にも、もちろん凍り付いた尾根の雪にも対応できるからと、もっぱらアイゼンだけで対応してきたのだが。
 もっとも、北海道の冬山に登る人たちは、スノーシューや山スキーのほうが効率的だという人がほとんどなのだろうが、ともかく私は山スキーはおろかスノーシューでさえ、ザックにつけて歩くあの邪魔くささと重さには耐えられなくて、だから当然、軽いザックでの日帰り雪山登山になってしまうのだが。

 尾根は先のほうで少しはゆるやかになり、まばらに生えたダケカンバやミズナラなどの気持ちの良い登りになる。(写真下)


 雪は、ひざ下まで埋まり、自分が登るだけだから、ラッセルというほどではなくいわゆる”つぼ足”と呼ばれる登り方なのだが、何度も立ち止まり息を整える。
 そして目の前に、広い雪の急斜面が現れた。
 数十メートルの間、木が一本も生えていない。
 もちろんそれは、単なる土壌流出斜面なのかもしれないが、または、よく雪崩の起きる斜面だからということもありうる。
 少しは木の残っている、斜面の右側をキックステップで靴を蹴りこんで登って行く。
 途中の木のそばで、足場をならし腰を下ろせる場所を作って、何度目かの休みを取った。
 もう登り始めて3時間余り、12時を過ぎていた。
 登ってきた、尾根の斜面の向こうに、十勝岳が見え、その右手にはアポイ岳方面と日高側の海が見えていた。
 しかし背後の空は、くっきりとした青空ではなく、気温が上がってきたためか少しかすんでしまっていた。

 こんな誰も登らないような山の、まして記録としても残っていないような雪山の尾根で、もし何かが起きて、転落や雪崩に巻き込まれたとしても、助けを呼べる手立てもなく、ただひとり気づかれることもなく、ここで死んでしまうのかもしれない。
 雪が溶けて、私の遺体は、やがて鳥や獣(けもの)たちのエサになって、骨だけが残り、やがて長い時を経て上に着ていた衣類もボロボロになり、枯葉に埋もれ、いつしかただの山の斜面の一部となってしまうことだろう。
 しかし、そんな後のことまでは、私の知ったことではない。
 意識のある生きている間までが、私の生きた時間なのだから。
 私は、いつ来るともわからない死に、恐れおびえているわけではない。
 ただ生きている間の時間を、しっかりと意識して過ごしたいだけなのだ。
 
「神さま、
 あなたは私を人界に呼び出しなされた。
 それで私は参りました。
 私は苦しみ、私は愛します。
 ・・・。
 私は私の道を行きます。
 子供たちに冷笑されながら、
 頭を下げて重荷を背負った驢馬(ろば)のように。
 あなたのご都合の良い時
 私はあなたのみ心のままの所へ参ります。

 寺の鐘が鳴りまする。 」

(『ジャム詩集』 堀口大学訳 新潮文庫)

 私は、目的地点に到達できないまま山を下りることにした。
 トンネル出口の クルマを停めた所が540mで、今いる1000m余りの所まで3時間もかかっているし、少なくとも1120m点まではまだ1時間はかかるだろう。 
 さらに晴れてはいるが、このかすんだような空模様では、おそらくは遠くの見通しはきかないだろうし。
 ただ、雪山をひとり登って行く楽しさは十分に味わったことだし、今日は、もう一度このルートで登るための、偵察のためだったと思えばいいのだ。
 
 ”帰心矢の如し”の例え通りに、帰りは一度立ち止まっただけで、なんと1時間余りで駐車場まで戻ってきた。
 こうなると時間に余裕がある。
 戻って行く道とは反対側の、日高側の翠明(すいめい)橋のパーキングまでクルマで下りて行って、そこから、双耳峰(そうじほう)の野塚岳本峰と西峰が並んでいる姿を写真に撮った。(写真下)
 
 

 このパーキング場所は、実は周りの山への良い起点になるのだ。
 つまり、ここから南側の目の前にある西尾根に取り付けば、十勝岳への冬期登山ルートになるし、さらに沢を少し行って左の尾根に取り付けば、これまたオムシャヌプリへの冬期のルートになるし、夏にはそのオムシャヌプリや十勝岳への沢登りの入渓点にもなる。(野塚岳への沢登りは、先ほどのトンネル出口から、すぐ下の沢に降りればいい。)

 再び戻ってトンネルを抜け、天馬街道を走り、途中の温泉でゆっくりと冷えた体を温めて、家に戻った。
 その日の登山は、目的のピークにもたどり着けず、明らかな失敗登山だったが、私の気持ちは、それでも久しぶりの雪山を楽しめたし、何よりあの温泉の温かさで、すべてが包まれ心穏やかになり、その日をいい気分で終えることができたのだ。
 
 この日から1か月半ほどたった4月中旬、私は再びこのルートをたどり、最初の目的であった、野塚岳西峰の南西尾根の途中分岐点である、1120mピークにたどり着くことができたのだ。
 そこからの、十勝岳の眺めたるや・・・また同じ時期になったら、年寄りの昔話の愉(たの)しみとして、ウシやラクダが後で二度噛みして食べるようにように、反芻(はんすう)する登山シリーズの続きとして、ここでとりあげたいと思う。
 
 今回はこの山の話から、あの『死ぬための生き方』(新潮45編 新潮文庫)の中の一編を取り上げて、二三日前の新聞に載っていた高齢者の犯罪と自殺について考えてみたいと思ったのだが、いつものように話が横道にそれて、とうとう最後まで書くことはできなかった。どのみちなんらかの形で、対処していかなければならない問題ではあるが。

 それよりも、何という衝撃的なニュースだろう・・・あの北アルプスなどの山岳救助でも有名な、長野県防災ヘリコプターの墜落で、乗っていた全員の9人が死亡したというニュース。
 あの2年半前の木曾御嶽山(きそおんたけさん)噴火遭難事件とともに、なんともやりきれない思いになってしまう。
 わがままに生きている私が、こうしたじじいになっても生き延びて、不思議にも生かされていて・・・。
 
「寺の鐘が鳴りまする。」