ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ヒオウギアヤメと虹

2012-06-24 17:53:33 | Weblog
 

 6月24日

 相変わらず、うっとおしい小雨模様の曇り空の日々が続いている。
 それは、いわゆる北海道からいえば内地になる、九州、四国、本州で降り続いている梅雨の大雨のように、災害をもたらすほどの雨ではなくて、ただ朝夕の霧雨が続いているだけなのだが、朝の気温は毎日10度以下で、ストーヴに火をつけることが多いのだ。
 
 ということで、ここ十勝地方での農作物の生育が気がかりだが、かといって家の周りの植物たちはいつも通りの適度なお湿りを受けて、まさしく繁茂(はんも)の季節を迎えているのだ。
 植物たちにとって、日光以上に重要なものが水であることを、私は去年の屋久島登山(’11.6・17,21,27の項参照)で思い知らされたのだが、今、この家の周りの草花にとっても、たまに差し込む薄日だけで、あとは地下から水と栄養分を吸い上げて、もうそれだけで生き生きと枝葉を伸ばすことができるのだ。

 「一緒では苦しすぎるが、ひとりでは生きていけない。」

 これは、あのフランソワ・トリュフォー監督の名作『隣の女(1981年)』での、女(ファニー・アルダン)のひたむきな思いを伝える言葉なのだが、植物たちの水に対する思いがあるとすれば、同じように言うのかもしれない。
 そして、人間による地球環境悪化の昨今では、植物たちは自分の思いを貫き通すために、水に対して自然に対して、映画の時のようにピストルを手にしてその決意を示すのだろうか。

 それにしても、ああ世の中で、げに恐ろしきは一途なる人の思いよ。
 そう大げさに考えないで、あきらめなさい、あきらめなさい。何事にも期待しなければ、ほーら、気持ちが軽くなるから・・・。

 さて家の周りでは、相変わらずいろいろな草花が咲いている。玄関先では、まだあの大振りで鮮やかなレンゲツツジの花が、オレンジ色の花の株から、次には黄色の株の花も満開を迎えている。大きな花びらは、見た目にも華やかであり、可愛げがないという人もいるけれど、この重たい曇り空の下、幾らかは私の気晴らしにもなってくれている。
 あのYouTubeは、”JWOW”のハナ・ミンクスおねえさんを見ているようなものだ。見るだけでも楽しくなるものがあってもいいじゃないか。

 ところで他にも、庭の端からは甘い香りがしている。ついに、あのハマナスの赤い花があちこちに咲き始めたのだ。そしてこれから、寒さが忍び寄る秋まで、私の目を楽しませてくれるのだ。
 一方、家の周りでは、前回書いたように、もう終わりに近いとはいえスズランの甘い香りが漂っているし、何よりこの雨模様の空に力を得たように、ヒオウギアヤメの紫の花が周りの緑の草々に映えて美しい。(写真)

 内地の梅雨の季節といえば、アジサイの花の他に、どうしてもアヤメ、カキツバタ、ハナショウブの花を思い出す。しかし調べてみると、アヤメとカキツバタは5月に咲く花であり、ハナショウブだけが梅雨の最中に咲く花だったのだ。
 それぞれの花の区別はといえば、花びらの下部が虎縞模様になっているのがアヤメであり、白いのがカキツバタ、黄色いのがハナショウブだということだが、最近では、ジャーマン・アイリスという色鮮やかな栽培品種もあちこちに植えられていて、さらに区別を難しくする。

 「いずれがアヤメかカキツバタ」という言葉は、たとえば、歌麿(うたまろ)の描く浮世絵『寛政三美人図』に描かれた美女たちのようなことを言うのかと思っていたのだが、ウェブで調べていて、実はその他に区別がつきにくいという意味もあるのだと初めて知った。

 ところで、家の周りに咲いているのは、ヒオウギアヤメであり、北海道のいたる所で見られるのだが(特に霧の中で見た霧多布(きりたっぷ)付近のあやめが原の群生は見事だった)、しかし内地では高山湿地帯だけに見られる花なのだ。
 そしてヒオウギという名前は、檜扇(ひおうぎ)つまり、扇子(せんす)を広げる下の部分に薄いヒノキの板を使った特別仕上げのものがあって、このアヤメの葉の重なり生えているところが似ているので名づけられたということだ。
 ともかく、日本の草花の名前のつけられ方には面白いものが多い。たとえば、オオイヌノフグリなど。

 アヤメは植物ラテン語名では、Irisつまりアイリスであり、ギリシア語ではイーリスと呼ばれ、ギリシア神話に出てくる虹の女神、イーリスであり、神の伝令となる女神ともされていた。
 あの旧約聖書に出てくる、神との契約のしるしとしての虹は、このギリシア神話の話に遠因しているのかもしれない。

 「すなはち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(『創世記』第9章)

 そこで思い出すのは、広い北海道で見た虹だ。若き日のバイク旅行の途中で見たのは、道北は音威子府(おといねっぷ)付近での鮮やかな虹、そしてこれはできすぎた話だが、根釧(こんせん)原野の地平線が見える虹別(にじべつ)付近で見た虹であり、当時私は東京から北海道への移住を考えていて、この大空からの神の啓示に、胸が熱くなる思いがしたものだ。
 もちろんここでも、雨上がりの後に、彼方に広がる十勝平原に大きな虹がかかっているのを見たことがある。そして、あの虹もまた私がここに住めるようにと、神がその約束を守った証しでもあったのだろうか。

 アメリカの古き良き時代のころに作られた、『オズの魔法使』(’39)というミュージカル仕立ての童話風な映画があった。主役はジュディ・ガーランド(1922~69)であり、そこで彼女が歌った『虹の彼方に』は大ヒット曲となり、今でもスタンダード名曲としてよく知られている。
 私はこの映画を何度か見ているのだが、当然のことながら若い時と、中年になった時以降とでは、映画の見方や評価も違ってくるのだが、数年ほど前に見たとき、私は映画の中で彼女の歌う姿に、思わず涙ぐんでしまったものだった。
 彼女は当時まだ17歳であり、これからの彼女の人生がどうなっていくのかも知らぬまま、若い娘が胸いっぱいの未来への思いこめて歌う姿に、私はいつしか自分の青春を重ね合わせていたのかもしれない。

 ジュディはこの『オズの魔法使』の大ヒットで、ハリウッドの大スターとなり、以後『若草の頃』(’44)や『イースター・パレード』(’48)で絶頂の時を迎えたが、その反面、私生活は荒廃していき、その後復活したかに見えた『スター誕生』(’54)の数年後には、銀幕から引退してしまい、長年の奔放(ほんぽう)な性生活に薬物、アルコール中毒などが重なり、わずか47歳でこの世を去っている。
 まさにハリウッドの栄光と悲惨を体現したような、スター女優だったのだ。あのライザ・ミネリは映画監督ビンセント・ミネリとの間にできた子であり、名作『キャバレー』(’72)での熱演熱唱ぶりは、母を超えたといっても過言ではない。

 そういった事情を知ったうえで、17歳のジュディが歌う姿を見ていると、何か万感あふれるものが湧き上がってくるのだ。生きていくということはと・・・。
 さらにこれも他人事だから、私ごとき年寄りが心配することはないのだろうが、前回書いたスズランの花について、その時にもう一つ書き加えたいとも思っていたことなのだが、ずいぶん前に、NHKで昔の北海道を描いた『すずらん』という朝ドラが放送されていて、そこでは清楚(せいそ)な顔立ちの、いかにもふさわしいと思われる若い女優がヒロイン役を演じていた。
 しかし、最近見たバラエティー番組で、今や妖気漂う女といわれる彼女は、何人もの男と付き合っていると公言し、さらに毎日一本の焼酎(しょうちゅう)を空けるのだと話していた。
 独身であり、芸能界で働く彼女だから、自分の思うように生きていけばいいのだろうが・・・。人それぞれの人生なのだ。


 さて今までここに何度も書いてきたことだが、この春に大切な家族でもあったミャオを失ってしまい、さすがの私もかなり気落ちしてしまった。それから私は、そのミャオの墓のある九州の家から離れて、北海道に戻ってきたのだ。
 そして、近くの友達たちに会ってるうちに、大分気持ちも癒(いや)されてきたが、まだ十分ではなかった。いつもは喜んで出かけていた山にも、あまり行く気がしなくなっていたからだ。
 ところが数日前のこと、遠くに住む友達夫婦が、こちらに戻ってきてもう1か月以上になるというのに顔を出さない私を心配して、家に来てくれたのだ。

 『朋(とも)遠方より来る(有り)、亦(また)楽しからずや』(『論語』「学而編」より)

 そして、二人と一緒に昼食を伴にしながら1時間ほどの間、普通にいろんな話をして、そのあと彼らはスズランを摘んで帰って行った。
 電話で話すより、メールをもらうより、何よりお互いの顔を見て話すことの大切さ、ありがたさ・・・。
 私たちはこうして、何事もないような日々の語らいの中で、生きていく気力を養っていくのだろう。二人が元気にしているのだから、まだ私も負けずにがんばらなければと。
 九州にいる時は、その相手がミャオだったのだが、そのミャオはもういないのだ。そのことを繰り返し自分に言い聞かせながら、これからも、生きていく道筋をしっかりと見据えていかなければと思ったのだ。

 今、この年になって初めて、じっくりとものを見ることができるようになり、いろいろと物事がわかるようになってきた。老年へと向かう今だからこそ、周りの世界は大きく広がってきたのだ。
 何と人生は面白く、楽しい喜びに満ち溢れていることか、時にはそれに匹敵する悲しみ苦しみがあるにしても・・・。私は、自分で道を決めて歩んで行くだろう。

 窓の外いっぱいに見える、新緑の木々、草花にありがとう。夕方になって、西の空から薄日が差してきた。



スズランと十勝海岸の波

2012-06-17 18:40:39 | Weblog
 

 6月17日

 今日は、久しぶりに朝から雨が降っている。
 このところ、朝夕は霧がかかり、日中も低い雲が残ったままで、いまだにストーヴをつける肌寒い日が続いている。ただ、雨になることはなかったから、今日のまとまった雨は、木々や草花にとってはいい恵みの雨になるだろう。
 もっとも梅雨のない北海道と比べて、今梅雨に入ったばかりの内地(本州、四国、九州)では、もう大雨の被害が出ているとのことであり、雨が降るということ一つとっても、時と場所によっては明暗が分かれてしまう。

 ある人にとっては嫌な不快なことが、ある人にとっては楽しく心地よいことにさえなるし、またある人にとっては、悲しくて涙を流すほどのことなのに、ある人にとっては、それがうれしくて笑い出してしまうことかもしれない。
 そんな異なった状況にある人と人とが意見を言い合えば、争いになるだろう。ことほどさように、様々な感情を持った人々の間で生きていくことは難しいことだ。そこではただ、みんなと争いにならないように、適当に折り合って生きていく他はないのだ。

 つまり、争いによりいやな思いをするくらいなら、がまんをして今ある小さな幸せを守るほうがまだましなのだ。そう意識すること、つまり「中庸(ちゅうよう)は徳の至れるなり」という孔子の言葉は、あの争いに明け暮れていた古代の中国にあったからこそ生まれた思いなのかもしれないが、考えてみれば、本来、集団の中で生きていくしかない人々は、いつもそうして自分の我を抑え、巧みに自分の個をいかしながら生きてきたのだ。

 そんな集団生活に耐えきれない人は、未知の領域へと冒険の旅に出るしかなかったのだ。自らの手で望みのものを勝ち取り、人生を享受すべく突き進んだ人々。
 しかし、その彼らのほとんどは旅半ばでむなしく倒れてしまい、ほんのわずかの人々が生き残ったにすぎない。しかし、その試練を乗り越えた彼らによって、そのあくことなき欲望によって、結果的には新しい歴史が作られ、未来への扉が開かれていったのだ。現在の文明社会は、そうした異端者たちによって築かれてきたのだ。

 一方、彼らと同じように集団から離れていったもう一つの異端者たちがいた。彼らには、冒険者たちほどの無謀な勇気と欲望はなく、ただ本能的に争いを避けるために、集団から離れ隠者として生きていく他はなかったのだ。そして、常に人間としての自らに対峙(たいじ)しては問いかけたのだ。生とは何か死とは何かと。
 しかし、そうした彼らは異端者でありながらも、実は内にこもる人生享受派たちだったのだ。何という両極端な生の姿だろう。
 
 99%の社会集団派の人々と、1%の二つの異端者たち。私は、そのいずれにも属さず、そのいずれにもほんの少しずつかかわってきた。だからこそ、今にして思うのだ。すべてに良しとすることなどありえないと。
 何でも、他人と同じようにある必要はないのだ。どこに属していなくても、どこにいようとも、どのように生きていようとも、他人の迷惑にならないならば、自分で苦しみ楽しむのならそれでいいじゃないかと。
 ミャオと同じように、ただ自分が今いるところを受け入れて、納得して生きていけばいいのだ。一人でいることは、もともと一人の小さな個性ある人間でしかないの私には、まさに相ふさわしいことなのだ。

 年寄りになっていくということは、自分の力の及ばないことを認め、つまりあきらめの領域が広がっていくことであり、そこでできないことを悔やむよりは、一転、開き直って考えてみれば、今あることだけで十分ではないかと気づくのだ。
 そうか、これでいいのだ・・・、ボンボン、バカボン、バーカボンボンとくらあ。

 ここまで、なぜにどうでもいいような意味のないことをぐだぐだ書いてきたかというと、二日前には、前日からの予報通りに、全北海道的に晴天の素晴らしい天気になったのに、私は山に行かなかったからだ。朝少し遅く起きて、のんびりと午前中を過ごし、午後になってからようやく、その山の埋め合わせにと、海を見に行ってきたからだ。
 その自分への言い訳は、今の時期に登りたい北海道の山にはもうほとんど登っているし、ぐうたらになった今では、自分の体力を考えあわせてどうしても行きたいほどの山はないのだ。
 さらには、もう一つの別の楽しみがあるからだ。私は今、例のフィルム・スキャン作業に夢中になっているのだ。

 スキャナーを使ってフィルムをデジタル・データに変換して、それをパソコンの画面に大きく伸ばして見る。あの時の山の思い出が、写真の鮮やかさとともによみがえってくるのだ・・・、作業時間はかかるけれど。
 若き日に撮った古い35mmネガフィルムもそれなりに見られるし、まして645の中判フィルムには、デジタルにはない温かい色の鮮やかさがあって、うー、たまらん。

 それにしても、今取りかかっている、12年前の春先から今の時期までの山行記録フィルムを見ると、我ながらに感心するほどだ。

 4月24日 日高山脈 野塚岳西峰(トンネル口から直接尾根に取りつき冬山と変わらない雪庇の稜線へ)
 4月30日 日高山脈 広尾岳(雪の尾根をたどり6時間かけて登る)
 5月17~18日 日高山脈 芽室岳、1726峰、ルベシベ山(雪の尾根をたどり1726峰にテント張る)
 5月25~26日 日高山脈 十勝幌尻岳、1710m南尾根(雪の頂上にテントを張り雪稜をたどる)
 5月30日 石狩・音更連峰 十石峠、1680m点(十勝三股側から雪面を登り音更山途中まで)
 6月12日 日高山脈 ニシュオマナイ岳 (沢登りから残雪の谷をつめて)
 6月17日 ニペソツ・ウペペ山群 丸山 (簡単な沢登りから尾根の踏み跡をたどる)

 (いずれも単独行であり、当時は登山道がないかほとんどは雪で埋まっていた。すべて天気は晴れ。)

 それが今では寄る年波には勝てず、加えて元来のグウタラな性格ゆえに、山には1か月に一度行くくらいになってしまった。
 その分、こうしてパソコン画面で昔の山をしのびつつ、それでもやはりどこかには行きたいからと、山がだめなら海を見に行けばいいと、久しぶりに海に行ってきたのだ。

 今まで何度も書いてきたように、海か山かと言われれば、絶対的な山派である私だが、もちろん海が嫌いなわけではなく、泳ぐのは得意であり、九州の海の沖合2、3キロくらいは平気で泳いでいたほどである。
 たださすがにこの北海道の海で泳いだことはないのだが、若いころのバイクやクルマによる北海道旅行で、その海岸線のほとんどを見て回っているから、北海道の海の良さを幾らかは知っているつもりだ。
 その中でも特に印象に残っている所をあげれば、まず海を隔て利尻山が見える礼文島の海岸線、次に稚内(わっかない)から浜頓別(はまとんべつ)にかけての北国の寂寥(せきりょう)感漂う海岸線、さらに流氷に埋め尽くされる知床の宇登呂(うとろ)側と知床連山の眺めが素晴らしい羅臼(らうす)側の海岸線、そして積丹(しゃこたん)半島の鮮やかな海の色などだが、最後にあげたいのは、数十キロにも及ぶここ十勝の海岸線の景観である。
 
 この海岸線は、南の広尾から始まる十勝ドーバー海岸とでも呼びたい海岸段丘の連なりが、延々と北の昆布刈石の先まで続いていて、その間の切れ目となる所々には、時々海とつながる湖沼群の長節(ちょうぶし)沼、湧洞(ゆうどう)沼、生花苗(おいかまなえ)沼、ホロカヤントーなどがあり、あわせて海からの海霧が吹きつける冷涼な環境から、高山植物を含む原生花園がいたるところに見られる。
 草花や野鳥を見るために、そして海を見るために、私は年に二三度はこの十勝の海岸に向かうのだ。
 
 海から風が吹きつけていたが、いい天気だった。海岸線の伸びて行く先のほうに、日高山脈南部の山々が淡いシルエットになって見えていた。
 手入れされていない原生花園は、雑草の侵入が激しくもう昔のお花畑は見る影もない。
 赤いハマナスの花や黄色いエゾカンゾウの花は、やっと咲き始めたばかりで、昔あれほどの群落を作っていたヒオウギアヤメの花も、ほんの幾つかを見ただけだった。
 砂の橋から段丘の原野に上がると、そこにはガンコウランのカーペットが広がり、眼下に白い波が洗う海岸線を見渡すことができる(写真下)。
 誰もいなかった。夏毛のキタキツネが一匹、近づいてきて、私を見てまた離れて行った。

 さらに、向こう側に広がる湿原湖沼まで歩いて行った。沼の周りのアシ原をかき分けて行くと、ノビタキやセッカが飛び出してきてしきりに鳴いていた。近くの巣には、抱卵(ほうらん)中の卵かヒナがいるのだろう。
 それにしても、やはり花の季節には少し早すぎたのだ。
 しかし、その時、あたりからいい香りがしてきた。足元を見るとスズランが咲いていた、それも他の草との間にまぎれて群生していたのだ。

 このスズランは、今の時期の北海道ではいたるところに咲いていて、私の家の周りにもたくさん群生しているし(写真上)、先日その花を幾つかを採ってきて花ビンに挿している。北海道ならではのぜいたくだ。
 この原生花園では花を見るには少し早すぎたけれど、家の周りは今、一年で一番花の多い季節を迎えているのだ。庭のチゴユリや豪華なレンゲツツジにライラック、林のふちに咲くスズランやヒオウギアヤメ、エゾカンゾウ、林の中のベニバナイチヤクソウやツマトリソウなどである。しかし、私はそれらの花々を最近は見逃していたのだ。
 というのも、今の時期に私は、ミャオに会うために九州に戻っていて、さらにもう一つの目的でもあった九重の山のミヤマキリシマ(’09.6.10、14,17の項参照)を見に行っていたからだ。つまり、ここでいいものを見ることができれば、そのために他のものは見られなくなるということだ。

 さて、帰りは、大きな波が打ち寄せる段丘下の砂浜沿いに歩いて行った。
 火山灰の黒い砂浜に、波の泡が毎回違う白い模様を作っている。私は、しばらく立ち尽くしたまま、寄せては返す波を見続けていた。
 沖からうねりが高まり、波となって浜辺で砕け落ち、その泡が勢いのまま白い模様となって波打ち際を駆け上がり、届いたところで勢いを失い一気に引いていく。
 その時に、輝く引き波の後から浜辺の湿った砂が順次に乾いていく、その瞬時の模様の、格調ある美しさ。

 波は、白波を立てた絶頂の時、その一瞬だけが美しいのではない。その波が消え去るつかの間に、砂浜に残した一瞬のきらめきの中にも美しさはあるのだ。
 二度とは見ることができない、その時だけの紋様の数々。誰に記憶されることなく続いていく、時の流れ。今生きている私たちから見れば永遠と呼ぶにふさわしい、自然の中での繰り返しが続いているのだ。

 なあに、みーんな、ちいせえ、ちいせえことだ。私たちの悩みなど、あの泡ひとつにも値しない、つまらないことにすぎないのだ。ミャオ、私はまだ元気で生きているぞ。



ヒダカイワザクラと剣山

2012-06-10 18:58:13 | Weblog
 

 6月10日

  天気が良くなれば、太陽の光があふれて気温が一気に上がり、林の中のエゾハルゼミたちが耳を聾(ろう)せんばかりに鳴きたてて、いかにも初夏の北海道らしい感じになるのだが、このところ肌寒い曇り空が続いていて、今日は日中でも12度くらいまでしか上がらず、6月半ばになるというのに、薪(まき)ストーヴに火をつけるほどだった。
 別にそのことで、余分な燃料代がかかるわけではないし、お湯も沸かせるから、それはいいのだけれども、ただこうも天気が悪くて、朝夕の霧雨状態のまま終日湿っていては、あまり外での仕事はできないから、お天気屋な気分の私は身を持て余してしまうのだ。

 「小人(しょうにん)閑居(かんきょ)して悪をなす」ほどではないにしても、根がグウタラな私は、こんな時には、ぬれ落ち葉みたいにまとわりつく相手もいないからいいようなものの、トドのごとき巨体をこっちにゴロゴロあっちにゴロゴロとして、全く情けない姿ではある。
 あの昔のサーカスの悲しげな曲が流れてきて、番台に座った弁士が語り始める。・・・「あーあ、親の因果が子に報い、哀れこの子はこの年にして、食っちゃ寝、食っちゃ寝の毎日で、いつしか体はダルマさん、風に吹かれて、あっちにフラフラこっちにフラフラ、行方(いくえ)定めぬ旅の空、いつかは切れる凧(たこ)の糸、明日の命をたれが知る。」

 こんなことではいかんと心に言い聞かせて、まずは体からさっぱりとするべく風呂を沸かそう考えた。ここに戻ってきて初めて、自宅の五右衛門風呂(ごえもんぶろ)に火をつけたのだ。
 今は、街に買い物に出たついでに銭湯に行っているのだが、元来風呂好きな私は、九州の家にいた時には毎日入っていたのに、すべてに金をかけていないこのボロ家では、そう簡単に風呂には入れないのだ。
 いつも干上がるのを気にしている浅井戸から水を入れ、それも冷たいので二、三日前から入れておき、そして夕方前から薪に火をつけ、1時間以上かかってやっとぬるめのお湯に湧き上がるというあんばいだ。

 しかし、そうして苦労してお湯を沸かしてこの五右衛門風呂に入る時ほど、幸せに思うことはないのだ。
 窓を開け放った風呂小屋から見ると、あたりを新緑の木々の緑が包み、ボロイけれどもしかし私のお城たるべき家があり、その前には今が盛りのレンゲツツジの花が咲いている。

 とその時、家のほうから、「おまえさん、お湯のかげんはいかがですか」と声が聞こえる。そして浴衣姿に白いえりあしを見せて、小股(こまた)の切れ上がったいい女が近づいてくる。
 「おう、ありがとよ。背中でも流してくれるかい。」と答えて・・・。

 あー、たまらんと思った瞬間、キャオーンと鳴いて、頭に木の葉を乗せたキツネが一匹、林の中へと走って行った。

 現実は、狭い風呂釜の中にひとり、もう四日も風呂に入っていなかった汗臭いオヤジが、くたびれた顔をしてぼんやり外を見ていただけの話だ。まあ、とても人様にお見せできるような姿でないことだけは確かだ。
 それでも、と気を取り直して私は考えた。この自然の風景があるからこそ、私はここまで生きてこられたのだ。数日前、私は久しぶりに山登りに行ってきた。


 それは、日高山脈の前衛峰の一つである剣山(1205m)である。この山は、東京での仕事を辞めて北海道に移り住み、ここに一人で家を建てて、さてこれからはと思い、最初に登った山だったのだ。
 この春先の長い登山ブランクの間を経て、私は憧れの日高山脈の原点である山に帰ってきたのだ。

 日高山脈の山々は、登山口に着くまでには、長い砂利道の林道を走らなければならないことが多いが、この山は、佐幌岳(1060m)、ペケレベツ岳(1532m)、アポイ岳(810m)などとともに、舗装道路を走って登山口の駐車場まで行くことのできる山でもある。
 これらの山に共通するのは、標高が低い上に短い時間で気楽に山歩きを楽しむことができるので、人気のある山だということだ。事実、この時には、平日であるにもかかわらず私は8人もの登山者に会ったのだ。
 ただ忘れてはならないのは、ヒグマの存在である。前回、4年前にこの山に登った時、私はそのヒグマに遇(あ)っている。(詳しくは’08.11.14の項参照。)

 朝、家を出たのが遅かったのだが、それは夜中眠っている時になぜか足がつって、半分眠ったままでその足を伸ばそうと痛い思いをしたが、朝になっても、まだふくらはぎにその痛みが残っていて、とても山に行くのは無理だったからだ。
 しかし、前にも書いたように、衛星写真で見ると、十勝平野は広い雲に埋まっていたが日高山脈は黒くなって見えている。つまり、山の上では晴れているということだ。
 ここで前回と同じように、またいろいろと注文を付けていては山には行けなくなってしまう。幸いにも足の痛みも大分おさまってきて、出かけることにした。
 もともと、今の時期ならもっと高い日高山脈の主峰群に登るのだが、何しろ、ちゃんとした山登りにはもう何か月も行っていない。冬の間九州にいた間に登った山は、前回のハイキング登山(5月13日の項)も含めていずれも楽なものばかりだったから、とりあえずは、日高山脈の簡単に登れる山にしたのだ。

 登山口に着いた頃には、もう8時にもなっていた。日の出は4時前だから、ずいぶん遅い出発になる。他にクルマが二台停まっていて、登る途中の上のほうで、それぞれにもう下りてくる彼らに出会った。
 ともあれ、誰もいない静かな登山道を、キビタキやルリビタキのさえずりを聞きながらゆるやかに登って行く。新緑のヤチダモやミズナラの林が美しい。足元には、今の時期には他の日高山脈の山々でも見られるオオサクラソウが点々と咲いていたし、何とシラネアオイの群落さえ見られたのだ。
 そういえばこの山に登るのは、雪が来る初冬の頃か、春先にまだ残雪がたっぷりある頃かで、今まで花の時期に来たことはなかったのだ。
 このオオサクラソウとシラネアオイは、かなり上のほうまで見ることができたし、さらに上にはミヤマキスミレも咲いていた。そして林の下には、咲き始めたミヤマツツジの鮮やかな赤色が目を引き、さらには頂上間近の岩稜帯の岩場では、私の好きなヒダカイワザクラを見ることができた。
 花は、いつもの場所に咲く花に会えるのもうれしいが、やはり予期しない所で出会う花のほうが喜びは大きい。

 『北海道の高山植物』(梅沢俊 北海道新聞社)によると、分布は日高、胆振(いぶり)地方の尾根や沢沿いの岩地となっているが、あの有名なアポイ岳はともかく、私が見たヒダカイワザクラの多くは、このように日高山脈の十勝側の山々であり、かなり高い主稜線にも咲いていた。
 だからこそ、その鮮やかな桜色に出会うとうれしいのだ。

 サクラソウの仲間は、数多くあり、高山植物として有名なのは、雪渓の溶けた跡に咲くハクサンコザクラであり、その名の通り白山や北アルプス白馬大池付近で大規模な群落を見たことがある。同じような北海道種では、あのエゾコザクラがあり、特に大雪山の至る所でその群落に出会うことができる(’11.8.12の項参照)。
 他にはユキワリソウやユウバリコザクラなどの近縁種もあり、さらに大ぶりな(エゾ)オオサクラソウやクリンソウ、そして一般種としてのサクラソウに、栽培種としての西洋サクラソウ(プリムラ)などがある。

 ヒダカイワザクラは、そんな様々なサクラソウの仲間の中でも、茎の長さが短く、花びらが比較的に大きいから、まるで岩の間に張り付いた鮮やかな紋章のように見えるのだ。沢登りをしていた時に、あるいは稜線のハイマツをかき分けた時に目についた、あの桜色は忘れることができない。
 
 亡くなった母が好きだったサクラソウの花は、その栽培種が九州の家の庭の片隅に植えてある。そして、ミャオの墓にもその花を供えた(5月7日の項)。さらに、今までこのブログで何度も取り上げてきた、私の大好きなフランスの詩人、フランシス・ジャムには『桜草の喪』という詩集がある(同じく5月7日の項)。


 さて、この日の天気は快晴だった。久しぶりに十勝地方が晴れ渡り、山の上からも平野部の大きな広がりを見渡すことができた。その分暑く、さらに久しぶりの山登りで、やっとの思いで頂上にたどり着いた。若いころには2時間余りで登ることができたのに、その日はコース・タイムの3時間いっぱいかかってしまった。
 しかし、岩塊がむき出しになった頂上からは、北の佐幌岳から南の広尾岳までの日高山脈の山々を眺めることができたし、北側には、少しかすんできた十勝岳連峰と大雪山の白い山並みも見えていた。今年の冬は雪が多かったというのに、途中の登山道はもとより周りの高い山々の残雪も少ないように思えた。

 西に見える芽室岳(1754m)から、東に派生した尾根上にある手前の久山岳(1412m。’11.6.2の項)を含めて、この三つの山のうちで、最も多くの山々を見ることができるのは、最東端にあるこの剣山である。
 それらの山の中でも、特にエサオマントッタベツ岳(1902m)の二つのカール(氷河時代の名残りの圏谷)の眺めが素晴らしい。(写真下、北カールとジャンクション・ピークとの間の東カールの両方に、残雪模様によって堆石帯モレーンの形がわかる。左は札内岳。)
 
 頂上では、一人っきりで1時間以上過ごすことができた。そして一人が登ってきて、さらに下る途中で一人、さらに頂上下のハシゴの点検に行くという二人、さらに下でこれから登るという御夫婦らしい二人にも出会った。休日の混雑を避けて山登りする私だが、平日の日高山脈の山でこれほどの人に会ったのも珍しい。
 それほどこの山は、地元の人々に親しまれている山だということができるだろう。

 往復、5時間余りの行程であるが、登山復帰した私にはがんばれる精いっぱいの距離だった。つった足の痛みもひどくはならなかったし、ともかく、久しぶりに日高山脈の山並みを間近かに見ることができてうれしかった。
 しかし、たったこれだけの登山で、その後二日間も筋肉痛になってしまった。もう年だというよりは、登山も日ごろから登り続けることが大事であり、日々のトレーニングを意識することがいかに重要であるかいうことを、今更ながらに思い知ったのである。

 今年は、内地遠征の山の計画が三つもある。無理をせずに歩き通すためにも、しっかりと準備をしておかなければならない。誰でも、山で死ぬことは、人が言うほどには決して本望なんかではないはずだ。
 山に行くのは、広大な自然の中を歩くことにあり、そこからの景色を楽しむためにある。生きているからこそ、元気に歩くことができるからこそ、楽しむことのできる山なのだ。


 

 



 

チューリップと「老年について」

2012-06-03 17:59:42 | Weblog
 

 6月3日

 朝夕は霧に包まれ、日中も低い雲に覆われていて、暦の上での夏とは思えない寒さである。気温は、昨日今日と朝は5度まで下がり、日中でも10度にも達しないないほどだ。
 それでも暑いよりは寒いほうが好きな私だから、そのくらいでは気にならないし、むしろこんな天気だからこそ薪(まき)ストーヴでお湯を沸かすことができて、高いプロパンガス代を節約できるというものだ。

 それで、煮物料理を作った。友達からもらっていたジャガイモと、家の周りにいくらでもあるフキを採ってきて、それぞれを煮るのには、ストーヴで沸かしたお湯を使う。しかしストーヴは、シチューなどをことこと煮込むのにはいいが、煮物を早く仕上げるのには向いていない。
 そこでこの時は、ガスコンロで数分間煮込んで、火を止めた後に鍋を下におろし布にくるんで1時間ほど放っておくと、ジャガイモもフキもやわらかく煮えている。後はさつま揚げやワカメなどを小さく切って入れ、しょうゆや砂糖などで味付けして、ひと煮立ちすれば出来上がりというわけだ。これで数日間の夕食のおかずになる。
 他には、家の周りにあるコゴミでおひたしを作って、その上にカツオブシをたっぷりとかけ、北海道のおいしいお米、”ゆめぴりか”の熱いご飯で食べる。
 ひとり暮らしで、無精者の私にできる数少ない料理の一つであり、この時期限定の料理でもある。それはグルメなどとは縁遠い、私の貧しく幸せな夕餉(ゆうげ)のひと時なのだ。そして、ミャオがそばにいれば、もっとよかったのに・・・。

 それまでは、晴れて暖かい日が続いていた。気温は毎日20度以上までも上がり、外で草取りなどの仕事をしていると、すっかり汗をかいてしまうほどだった。
 家の庭は、人様にお見せできるほど意匠(いしょう)をこらしているわけではなく、まともな手入れもしていないから、ただの広がりのある庭にすぎないのだが、晴れた日には、そこに咲くチューリップやシバザクラが美しい。
 しかしシバザクラは、最初からはっきりとした境を作って植え込まなかったものだから、芝生と混じってそれぞれ相競うありさまだし、チューリップも、花の後、球根を掘り上げているわけでもなく、植えっぱなしだからよくはないのだが、それでも毎年、あちこちで100本近い花を咲かせてくれる。
 ただ私がチューリップにしているのは、花ビラが広がりもう花期が終わりになったころに、花ごと花房を切り取っているくらいのことだ。放っておけば花房で種が作られてしまい、来年花を咲かせる球根の栄養分が少なくなってしまうからだ。
 自然のままにしておくことと、次の季節のことを考えること、いずれも同じ生き続けることなのだが、それぞれに意味するところは大きく違うのだ。次世代のために考えること、それは人間の社会とて同じことだ。

 このところ何度も話にあげてきた(3月31日の項など)、中村医師の『大往生したけりゃ医療とかかわるな』の中でも言われていたことだが、人々は老年に達したならば、次の世代に道を譲ることなどを考えなければならない。つまりそれは、いわば「次の世代に役立つように木を植える」ことや、自らの来たるべき死をもって教えるべきことなどを、おいおい考えていかなければならないということだ。
 私は、母の死とミャオの死でいかに多くのことを学んだことか。
 もちろん、それは老人無用論とかいうのではなく、むしろ豊かな経験を持つ老人こそが、青春の悩みの最中にいる若者たちに、幾らかの生きるためのヒントを与え、また示唆(しさ)することもできるということだ。

 むろん、それが差し出がましいお説教なっては若者の反発を招くだけだし、と言って若さのゆえの独断的な激情に身を任せて、己の道を誤るような若者を放ってはおけない。そうした時に、冷静に考え直させる機会を与えることができるのは、落ち着いた老人たちの言葉なのだ。
 見て見ぬふりこそは、まさに保護者遺棄の罪に他ならないことだ。古来、老人たちは、そうした奔馬(ほんば)のごとき若者たちのたけり狂う思いを鎮めるために、語り聞かせてきたのだ、己の豊かな経験をもとに。

 古代ローマ時代に生きた政治家であり哲学者でもあったキケロー(BC106~BC43)は、自分の少し前の時代に生きた名政治家であり著名な文人でもあった大カトー(BC234~BC149)が、次の世代を担うべき若者たちの問いに答えて語る対話編の形をとって、『老年について』(原題『大カトー』)という一文を書き上げたのである。

 「人生の各部分にはそれぞれの時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気(はき)、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ。」

 「私とほぼ同年の男が常日頃からなんということで嘆いていたことか。いわく、快楽がなくなったとか、・・・。ところが私は不平のない老年を送る人をたくさん知っている。そういう人は欲望の鎖から解き放たれたことを喜びとしている・・・。すべてのその類の不幸は性格のせいであって、年齢のせいではない。」

 「農事の楽しみは山ほど数え上げることができるが、・・・老人にとって、これほど心地よく陽だまりや火の周りで暖をとれる所があろうか。あるいは逆に、これほど爽快(そうかい)に木陰や流れで体を冷やせる所があろうか。」

 「だから若者は、武器を馬を槍を、木刀とボールを、狩りと競争をわがこととするがよい。・・・われわれ老人には、そんなものがなくても老年は幸せでいられるのだから。」

 「しかし留意しておいてほしいのは、青年期の基礎の上に打ち立てられた老年だということだ。」

 「死というものは、もし魂をすっかり消滅させるものならば無視してよいし、魂が永遠にあり続けるところへと導いてくれるものならば、待ち望みさえすべきだ。」

 「やはり人間はそれぞれふさわしい時に消え去るのが望ましい。自然は他のあらゆるものと同様、生きるということについても限度を持っているのだから。」

 (以上、『老年について』キケロー 中務哲郎訳 岩波文庫より)

 若いころに一度読んだはずの本(『老境について』岩波文庫)だが、この年になって読み返して初めて読むように気づいたのだ。なんという見事な死生観だろうと。それも2100年も前に生きていた人の言葉なのだ。
 私がこれまで、このブログの中で取り上げてきた偉人たちの言葉と何ら変わることなく、それよりははるか以前に考えられていた言葉なのだ。
 私は前にも、近代や現代の偉人たちの言葉は、すべてギリシヤ・ローマ時代、もしくは古代中国、古代インドの時代に語られていた言葉であると書いたことがあるが、ここではまさしくその一端を見る思いがしたのだ。
 私が老年に至るまでにはまだ間があるとしても、いたずらに死を恐れぬ老年を送るためにも心に留めておきたい言葉の数々である。

 もう一つ、このキケローと共に語られることの多いセネカについては、その著作物が多くあることも含めてここで簡単に取り上げるわけにもいかず、また機会を改めて少し書いてみたいと思う。
 ギリシヤ時代のストア学派、対極にあると思われていたエピクロス学派、そしてこのローマ時代のキケローとセネカ(BC4頃~65)、古代中国の老子と荘子、さらに古代インドのブッダの言葉など、まだまだ学びなおすべきことは余りにも多く残されているのだ。
 上にあげた『老年について』の中で、ソローン(~BC560)が言った言葉として書かれているように、これからも私たちは「毎日何かを学び加えつつ老いていく」のだろう。


 こうした倫理学的な話をした後で、現代文明にはまり込んだ現実的な自分のことを書くのは気が引けるのだが、数日前に、私は大枚をはたいて新しいパソコンを買った。
 それまではXPのパソコンを5年間使っていたのだが、少し挙動不審なところが見えてきて、壊れる前にと新しいパソコンを買ったのだ。
 それにしても、素晴らしい。CPUにメモリー、HD容量などの数字は望みうる最高に近く、なんと軽快に動くことか、いやそれ以上に、IPSパネルによるモニター画面の鮮やかさ・・・、今までのデジタル・カメラの写真がまるで新しく鮮やかになったように見えるのだ。
 もちろん、プロの写真関係の方々やハイ・アマチュアの人々にとっては、パソコン画面とは別の高性能のモニター画面は、デジタル写真編集用として当然の必需品だったのだろうが、いつも時代遅れで新しい物事に気がつく私にとって、それは最近初めて見たiPadのような驚きだったのだ。
 ともかくこれでまた、昔の山の写真をひとりニヒニヒと薄笑いを浮かべながら見直すことができるかと思うと、たまりません。あーあ、生きててよかった。


 今日も一日中、寒い曇り空だった。しかし、気象衛星写真で見ると平野部は白い雲に覆われているが、山脈・山地の部分は黒くあるいは残雪の白ではっきりと浮かび上がっているのだ。
 つまり山の上は、快晴の空が広がっているはずだ。うー、山に行きたい。