ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

山のあなたの空遠く

2019-07-29 21:30:43 | Weblog




 7月29日

 まだ、行方定まらず、九州の家でだらだらと暮らしている。
 当初の計画では、例年通りならば、もう10日余りも前には梅雨が明けていて、今頃は夏の遠征登山の旅を終えて、北海道の涼しい家で、その山の写真をモニター画面に映して眺めながら、ニヒニヒとひとり薄笑いを浮かべて(気持ちわりー)楽しんでいるだろうに。

 何と言っても、天気が問題である。
 九州から東海地方までの梅雨明けは宣言されていて、暑い夏空が広がっているのだが、それ以北の東北地方までは(私の計画している所は)、いまだにぐずついた天気のままで、さらには不安定な暑い空気が流れ込んでいて、午後からは毎日、雷雨が起きているというありさまなのだ。
 そのうえ、各地に向かう飛行機の便は、夏の繁忙期に入り、空席を見つけるのが難しくなってきているのだ。
 これでは、今年もまた夏の遠征登山は無理かもしれない、何と4年連続で。

 こうなってしまえば、もう考え方を変えるしかない。
 つまり、これは神様が私のことを思って、出かけないように押しとどめてくれているのかもしれない、と自分の都合のいいように考えてみる。
 ”おまえは、もう年寄りなんだから、無理をせずに、山なんかには登らず、自分の家で悠々自適の隠居暮らしをしていたらどうかね”と。

 確かに、もうそう思うしかないほどに、今回の九州への帰郷には失望されることが多かったのだ。
 まず何と言っても、いつものウメの実の収穫ができなくて(わずか数粒なっていただけで)、初めてジャムを作らなかったことであり、もっともそれによって、あの汗だくで何時間もかかってジャムを作る作業からは解放されたわけだが。
 そして、この梅雨が明けないから、予定した山にも行けなくなって、その他もろもろのこともあって、この暑い九州の家で、空しい日々を過ごすほかはなかったのだ。

 しかし、物は考えようで、こうしてこの家に長くいたおかげで、北海道の小屋にいた時と比べれば、水は自由に使えるし、トイレは水洗だし、風呂は毎日は入れて残り湯で洗濯はできるし、あとになって思い返せば、そうした毎日が”黄金の日々”だったと思うのかもしれないのだが。
 さらに小さなことだが、前々回にも書いたあのクチナシの花が、今を盛りにと次から次に花開いて、あたり一面にかぐわしいか香りが漂ってくる。
 確かに、良い香りは、人の心まで包み込みいやしてくれるのだ。

 山に行けないぐらいで、それがどうだっていうんだ。
 体はいたって元気でいたのだから、何はなくとも、元気が一番、それだけでいいじゃないかと考えてみるのだが。
 先日、ふとテレビを見ていたら、田舎の家で夫102歳、妻101歳で、二人で元気に生活されていて、何か秘訣はと聞かれて、”何も考えてはいないよ、ただ毎日毎日が流れて行けばいい、命のかぎりあるまで。”と答えていた。
 世の中には、心身に障害を負い、早くにして死んでしまう子供や若者たちがいるのだし、考えてみれば、私は、まさに奇跡的にここまで生き延び生きながらえてきたのだから、それだけでも幸せなことだし、感謝こそすれ、恨んだり後悔したりするというのは、とんだお門(かど)違いということになるだろう。
 子どもは子供なりに遊びまわり、若者は若者なりに冒険をして、大人は大人なりに家庭を守り、年寄りは年寄りなりに穏やかに暮らし、それらのことはいたって平凡なことではあるが、”らしく”生きるということは、生きていく上での一つの”神髄(しんずい)”になるものではないのか、とさえ思うのだ。

 今回の『ポツンと一軒家』は、温暖な瀬戸内に面した香川県の山の中に住む、首都圏から移住してきたという若い30代の夫婦と、北海道から移住してきたという20代の夫婦、それぞれに子供が一人いて、それぞれの3人家族のポツンと一軒家での話しである。
 神奈川県出身の38歳になるという彼は、平飼いのニワトリを育てていて、毎日90個ほどになる卵を下の町の店におろして、何とかそれで生活しているという、北海道出身の28歳になる彼の方は、罠(わな)かけ猟師として、イノシシやシカを獲り、精肉しておろしているとのことであり、野菜などは自分で植えていて、できるだけ自給自足の生活ができるように目指しているとのことだった。
 この『ポツンと一軒家』では、今までは過疎地の山奥に住む老夫婦の話しが主であって、まるで昔話を聞くような面白さがあって、それはそれでいいのだが、一方では、こうして現代に生きる若者たちの、新しい移住という形での生活を見ていると、それが過疎化する日本の山村への、一つの解決策を教えているのではないのかと思うし、またこの番組自体が、日本の山村の新たな村おこし事業を担っているのではないかとさえ考えて、これが、この番組の目指す一つの良い方向になるのではないのかと思うのだが。
 若者は若者なりに、こうして自分の冒険への一歩を、まず踏み出していくのだ。

 都会の中で誰かを恨みながら暮らしていくより、田舎に出て行って山の中で一人で暮らしていく方が、いかにつらくていかにやりがいのある仕事になることか。
 すべては自分の責任であり、しかしその自分のための仕事は、じかにその成果を見ることができるようになるのだし。
 他人を恨みねたみ嫉妬したり、他人をうらやんでばかりいることが、いったい何なるというのだ。
 他人は他人、自分は自分だから、他人と比較してうらやましく思ったところでどうなるというのか、そんな無駄な思いをするくらいならば、まずは自分でできる領分だけに狭めて、すぐに動き回ったほうが話は早い。 
 夢は大きく、いつまでも持ち続けているよりは、その大きな夢はあきらめ時期が肝心で、早ければ早いほどやり直しができるから、夢は少し小さく狭めて、とりあえず自分のできる仕事に取り掛かかっていけば、その成果はすぐに見えてくるし、さらなる自分への励みにもなる。
 前回の『ポツンと一軒家』で、愛知県の山の中に住むおじさんが言っていたように、だれにも頼れないこんな山の中で、うじうじ悩んでいるよりは、何とか自分で工夫してみることが第一”なのだ。田舎で一人で生きていくことは、さらなる自立心と工夫を生み出してくれるのだ。

 ” 時おり郊外などで、労働者が自分で手に入れた材料で、暇を見て少しずつ家を建てているのを見ることがある。宮殿と言えども、これほど幸福を与えはしないだろう。・・・人間はだれでも、きわめて単調ではあるが人の命令に従った労働よりも、自分で作り上げ、自分の意志でまちがえることもある困難な労働のほうを選ぶだろう。”

(アラン『幸福論』より「幸福な農夫」の項 白井健三郎訳 集英社文庫)

 もうずいぶん前から、時々、特別番組として放送されることのある、あの日テレ系の人気番組『はじめてのおつかい』では、いつも幼い子供との家族愛に泣かされるが、大人たちは誰でもそれを見て、その時子供たちは大きな勉強をしたはずだと思うことだろう。
 そして、子供の時の私たちがいつもそうであったように、今の子供たちもできるだけおつかいに出すべきだし、大きくなった生徒たちには、遠い土地への一人旅をさせるべきだと思う。
 ぞろぞろと団体で観光旅行をするだけの、修学旅行なら、成人としての第一歩を自分の力だけでやり遂げるという、一人旅の”成人旅行”をさせてやるべきだと思うのだが。

 ”山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う”(カール・ブッセ作、上田敏訳)


富士の高嶺に降る雪も

2019-07-22 21:13:48 | Weblog




 7月22日

 冒頭に、初冬の北アルプスは燕岳(つばくろだけ、2763m)からの、早暁(そうぎょう)の雲海に浮かぶ富士山(3776m)の写真(右側は南アルプス甲斐駒ヶ岳 2967m)を載せたのには、理由がある。

 今、九州では雨が降っている。
 今日は、晴れている沖縄と北海道を除いて、全国的に雨模様になるという天気予報が出ている。
 梅雨が明けた沖縄・奄美と梅雨のない北海道以外の、九州・四国・本州の四国の梅雨明けが遅れいて、特に私の夏の遠征登山をで目指している、東北地方などは来週でさえ、はっきりしない天気予報になっているのだ。
 もう今ごろは、山の上にいる予定だったのに。
 最近は、自分の体調不良(ひざを痛めていたり、脚をけがしたり)や、こうした天気不順で、この3年は夏の遠征登山には行っていないのだ。
 思うに、それはこうした夏の遠征登山の最後となった、数年前の北アルプスは後立山(うしろたてやま)連峰縦走の山旅(2015.8.4~17の項参照)と、その3年前の11月に行った(上の写真の時の)北アルプス燕岳から大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)への山旅(2012.11.8~19の項参照)、この二つの山行が、特筆するに値する素晴らしいものであっただけに、その反動としてあるもではないのかと。
 つまり、いつもの私のものの見方である、”物事はすべて五分五分だ”という理論から言えば、それらの良かった分の埋め合わせとして、この数年は神様が差配して、誰にでも平等であるようにと、私が予定した時に都合が悪かったり、天気の悪い日が続くようにしているのだろうと。

 もっともそれは思うに、今まで山登りをする時には、なるべく晴れた日ばかりを選んでいい思いをしてきたから、これは”調子に乗んじゃねえぞ”という、私へのきついお叱りのお仕置きかもしれないのだ。
 漫画「がきデカ」で、網タイツ姿のこまわりくんが、しばられてアレーっと声をあげているような、確かそんなワン・シーンがあったような。
 それだから、今年もまた夏の遠征登山には、行くことができなくなるかもしれないと、半ばあきらめてはいるのだが。(というのも、8月にかけては夏休みの繁忙期に入り、飛行機の便は満席なることが多くなり、北海道に帰ることさえ苦労することになるからだ。)

 そこで、ふと山のことを思ったのだ、それもわずらわしいい俗世の塵埃(じんあい)からはひとり離れて、いさぎよくすっくとそびえ立つ、富士山のことを思い浮かべたのだ。
 あの有名な、『万葉集』の第三巻に収められている、山部赤人(やまべのあかひと)の一句、" 田子の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりつつ " があり、その前に置かれた長歌の一首。

” 天地(あまつち)の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴(とうと)き 駿河(するが)なる 富士の高嶺を 天(あま)の原 降り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ(時となくいつも)雪は降りける 語り告(つ)げ 言い継ぎいかむ 富士の高嶺は "

 さらに、もう一つの長句もあるのだが、長くなるので前半部は省略するが、最後の一節には。

” 大和の国の 鎮(しず)めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも ”

 この『万葉集』は、多くの恋にまつわる歌が収められていて、恋人や夫婦、家族の間での愛に満ちた歌の一大集成なのだが、しかしその中には、極めて数が少ないながらも、”叙景歌”とも呼ぶべき風景描写の歌があり、この山部赤人こそは、その叙景歌の道を拓いたとも言うべき歌人である。

 そこで、あまりにも有名なこの富士山の歌をあげてみたのだが、その前後する長歌を合わせて読んでみれば、富士山が、いつまで見ていてもあきない山であり、万人に語り継ぎ言い継いでいくべき山であると、念を押すように言っているのだ。
 これは、現代の山好きな人々にも通じる思いであり、こうして、山を見るのが好きな人が昔からいたということだ。
 もし、この山部赤人を、当時は人跡まれな秘境の地であっただろう上高地に連れて行って、梓川の清流の彼方にそびえる穂高連峰を見せたら、どういう短歌を作ったであろうか。

 たとえば、当時も街道や平地から眺めることのできた3000m峰である、あの北アルプスは立山連峰の、剱岳(つるぎだけ、2998m)を詠んだ歌がある。
 前にも何度かこのブログでも書いたたことがあるのだが、同じ『万葉集』の第十七巻に収められた大伴家持の「立山の賦(ふ)」と名付けられた歌一首(長歌)と短歌があり、ここではその短歌一首を。

” 立山に 降り置ける雪を 常夏(とこなつ)に 見れども飽かず 神(かむ)からならし "
 
 何度も書くことになるが、”神様のおいでになる雰囲気に満ちた所”や、”いかにも神様がいるらしいところ”という意味で使われた、この”神さびて”や”神からならし”という言葉が、その音の響きはもとより、古代人たちの山に対する畏敬の念をあらわしていて、現代人のわれわれにも響くなんとこころよい言葉だろうと思う。
 昔から、悪魔が棲(す)むと恐れられていたヨーロッパ・アルプスと比べて、一方では、神様が棲むと畏(おそ)れられた、日本人の山に対する想いが良く表現されている言葉だと思う。

 そこで先週書こうと思っていて、書けなかった先々週の『ポツンと一軒家』の話になるが、愛知県の山奥で先祖代々の家屋敷と田んぼや畑を受け継いで、一人で奮闘し、半ば楽しんでいる66歳になるというおじさんの話しだ。 
 彼は、高校受験でこの地を離れて以来、大学を卒業後は大手保険会社に勤めていて、支店長までも歴任していたが、一人でこの地に住んでいた母親と、手入れされていない田畑や山林のことなどが気になって、35年務めた会社を早期退職してこの地に帰ってきたのだ。
 しかし、母親はその4年後に他界してしまい、一時は1時間半かかる下の町にある家で暮らしていたが、やはりこの地のことが気になって、町の家には妻とその親たちがいて彼女は手が離せないから、今はひとりでこの家に来ていて、時々下の町に下りて行くぐらいだとのことである。

 その田畑では、兄の家族との二軒分だけの米野菜を作り、あとは周りの木々の間伐や手入れをしていて、草刈りが欠かせないという。
 そこで取材スタッフの一人が、自然の中で住むということは、その自然のままに茂るままにまかせて住む、ということではないかと問いかけると、彼はがぜん反論してきて、”里山文化論”とでも言うべき話をしたのだ。
 つまり、”里山に住む”ということは”、人間が周りの自然を手入れしてやって、人家のあるところと山林との間の緩衝地(かんしょうち)を作り、そこで、自分が使わせてもらっている自然と上手に付き合っていくことが必要でありであり、そのためにも周りの手入れは欠かせないのだ。

 特にこの辺りはイノシシの被害が大きいからと、大型の重機を操って杭を打ち、周りを囲む高い柵を作り、害獣が入り込まないようにしているのだ。
 彼は言う、田舎に住む人間は他人に頼っていてはだめだ、田舎だから仕方ないといじけているよりは、自分で何とか工夫し生み出すべきだと。
 家の周りの山の斜面には、ホソバシャクナゲ、ヤマツツジにヤマシャクヤクそれになんとアツモリソウまでが咲いていたのだ。
 一方で沢から引いた新鮮な水でアマゴを養殖して、それが手に負えないほど大きくなったからと、その丸々と太ったアマゴを取材陣に食べさせていた。
 彼の目標は、これから高床式の丸太小屋を建てて、露天ぶろを作り、発電設備も作るつもりだと言っていた。
 いかに先祖から受け継いだ土地であるとはいえ、ただ一人で、なんでも工夫して作り上げていくその姿には、アメリカやカナダでの開拓者たちが行ってきた、フロンティア・スピリット(開拓者魂)とでも言うべき創意と工夫に満ちていた。

 彼の旺盛な、やる気に満ちた生き方から言えば、私の北海道での生活などとるに足りないものかもしれない、これでいいのだと、いつも小さな自分の領地の中だけで満足しているのだから。

 さて、このところ実はこのブログのテーマとなるべき、テレビ番組が幾つもあって、しかし、書ききれずにたまっていってしまうばかりで、ここにその幾つかだけでもと書いておくことにする。

 いつものNHKの『ブラタモリ』で、今回は釧路湿原がテーマだったのだが、三四回は行っている私でさえ、高層湿原や水系の話、摩周湖にまで及ぶ霧の話しなど興味深く見せてもらった。
 同じNHKの『ダーウィンが来た』で、ネコの島として有名な福岡県の小島、相ノ島での、ネコたちのファミリー形成の話は、新たに知らされたこともあり、興味深いものだったが、それにしても思い出すのは、わが家の飼い猫だったミャオ、子供のころに避妊手術を受けさせられていて、家族を持てなかったこと・・・ごめんね。
 これも、NHKの再放送時代劇ドラマから『雲霧仁左衛門』、原作が池波正太郎と筋立てがしっかり作られていて、中井貴一のお頭以下の配役陣が素晴らしく、撮影もかなり意識して撮られていたし、言葉づかいを現代風にして迎合するのではなく、なるべく昔風に話させていたことなど、このNHKの時代劇の作り方は、民放での時代劇が激減している中ではより責任重大であり、その伝統を守っていってほしいものだ。
 NHKのBS映画劇場から、1998年のアメリカ映画、あのロバート・レッドフォード監督の作品で、当時見た時もアメリカの素晴らしい自然と人間の生き方を感じたものだが、大きなゆるやかな川の流れの中でフライ・フィッシング(疑似餌釣り)をする映像が何とも美しく、本気になって魚釣りを始めようかと思ったぐらいだった。
 NHK・Eテレ『100分で名著』、日本の古典「平家物語」を、あの宝生流(ほうしょうりゅう)能楽師である、安田登が琵琶の音に合わせて語っていくさまが素晴らしく、全巻この語りで録音してくれれば、私も買って聞きたいと思うほどだった。
 番組中で解説する彼の話もなかなかに面白かったが、数年前の彼の著作物「日本人の身体」(ちくま新書)を読んだ時も感じてはいたのだが、多少、牽強付会(けんきょうふかい)とまでは言わないにしても、漢字の成り立ちに結び付けて断定してしまうところがあり、多少気になるところもあったが、繰り返すが、琵琶の音色に合わせての彼の語りは絶品だった。

 まだまだ他にも、テレビを見た中に含まれていた、いわゆる”金言・格言”はいくつもあったのだが、もう年寄りの記憶は、右から左へとすぐに流れ去ってしまい、少し前に見た雲の形でさえ、とても思い出せないしまつです、はい。

(参考文献:『万葉集』一~四 伊藤博 訳注 角川文庫、『万葉開眼』土橋寛 NHKブックス)

 


”まして”の翁

2019-07-15 21:16:33 | Weblog




 7月15日

 わが家の庭に咲く、梅雨時の花は、クチナシである。(写真上)
 人によって、好き嫌いはあるのだろうが、春先のジンチョウゲの花の香りとともに、このクチナシのあたりに漂う香りの風情は、何とも言い難い。
 初めこの場所にあったのは、花の色が夏にふさわしい涼しげな白い色だからと、ムクゲを植えていて、それはそれでよかったのだが、確かに母が言うように、散り際があまりにも汚く、見た目にも悪いので、このクチナシに植え替えたのだが、香りはいいし、刈込みにも耐えて、毎年こうして咲いてくれて、今では、わが家の庭でのかけがえのない花の一つになっているのだ。

 しかし、他の所に植え替えたそのムクゲの木は、やはり土が合わなかったのか、ほどなく枯れてしまった。
 今でも、このクチナシの花が咲くころになると、同じ時期に咲いていたあのムクゲの花を思い出す。
 申し訳ないという、多少の悔恨(かいこん)の情を含めて。
 人生の中で、誰にでもあるような、功罪(こうざい)相半(あいなか)ばする思い出の一つとして。

 今日は、午前中から日が差していて、三日ぶりに洗濯をして、外に干すことができた。
 若い人たちの中には、洗濯が嫌いという人もいるようだが、昔のように、洗濯板でごしごしこすって洗っていた時代と比べれば、今では洗濯機まかせで洗ってくれるのだから、後はただ外に干して乾いたら取り込むだけの仕事なのに。
 それは、むしろこの外に干して、きれいになった洗濯物が並んでいる姿を見ることが、何とも言えないさわやかな満足感になるというのに。
 小さな満たされた気持ちというのは、コンビニで買ってきたものを食べながら、スマホをいじったり、ゲームしたりすることのなかだけにあるのではなく、日常の小さな家事の中にも、いくつもあるのだけれども。

 そこで、思い出したのは、あの「方丈記(ほうじょうき)」を書いた鴨長明(かものちょうめい、1155~1217?)の「発心集(ほっしんしゅう)」からの一節である。
 仏心を起こしたり出家したりすることを言う、”発心”という本の題名からもわかるように、この本は仏教説話集の形をとっていて、その少し前の時代に書かれた日本最大の説話集であるあの「今昔物語(こんじゃくものがたり)」(全4部31巻からなる大冊であるが、私が読んだのは、そのうちの本朝世俗部の第4部だけでしかない)や、さらにその前の時代に書かれた「日本霊異記(りょういき)」、などの流れを受けて書かれた、その時代ならではの分かりやすい法話集でもあるのだ。

 この仏教説話集の流れは、以後も仏教だけではなく、儒教的な教えをも含んだ説話集や、昔話や小説などとなって、日本文学の系譜の中で連綿(れんめん)と受け継がれていくのだ。
 それは、あの江戸時代後期の上田秋成の「雨月物語(うげつものがたり」や、明治時代の泉鏡花の「高野聖(こうやひじり)」などの一連の物語小説をあげるまでもないだろうが。
 そこで余談にはなるが、どうしても現代的な表現の形としての映像美の世界、映画からも見てみたくなるのだが、こうした日本的な古典に題材をとった名作と言えば、何と言っても、黒澤明監督のリアリスティックな名作「羅生門(らしょうもん)」(1950年)と溝口健二監督の映像美あふれる「雨月物語」(1953年)がすぐに思い出されるし、私の日本映画の二大古典と言ってもいいほどであるが。

 もちろん、様々な芸術作品に対する評価は、その人のそれぞれの時代において、様々な好みが変わるように変化していくものであるから、私がここに書いている作品などは、あくまでも”じじい”になりつつある私の今の時点における評価であって、例えばそれが20代のころの私であったならば、全く別な評価を下していたであろうが。
 つまり、物事には、絶対的な評価などありえないのだ。時間によって、人々のその時その時の感じ方によって、さまざまに変化していくものであるということを、心得ておくことが必要なのだろう。

 さて前置きがすっかり長くなってしまったが、この鴨長明の「発心集」の中に、”「まして」の翁(おきな)”という一節がある。
 原文でも、それほど長くはないのだが、わかりやすいように私なりに現代語訳で書いてみるとすれば、以下のようになる。

” 近江の国に、乞食(こつじき)をして家々を訪ね歩く年寄りがいた。
 彼には、修行僧のようなさしたる徳があるようには見えなかったが、親しみやすく話しかけてくるので、人々も彼を憎めずに、施しものを与えてやっていた。
 ただ彼には口ぐせがあって、ものを見たり人の話を聞いていて、いつも”まして”というくせがあって、そこで人々が、彼を”ましての翁”と呼ぶようになったという。
 一方、大和の国にいたある修行僧が、夢枕のもとで、この年寄りは、必ずや往生(おうじょう)を遂げるほどの人物だ、とのお告げを受けて、彼は近江の国に出かけて行って、その年寄りが住むみすぼらしい庵(いおり)を訪ねた。
 しかし、その年寄りとはずっと一緒にいたが、夜になっても、修行らしいことはしなかった。
 そこで、思い切って、どんな行(ぎょう)をなさるのですかと尋ねると、その年寄りは、別に何もしませんと答えた。
 修行僧は、それではここまで私が訪ねてきた意味がない、実は夢枕にあなたのことを告げられて、どのような修行をなされる方かと知りたかったのです、隠さないで教えてくださいと言った。
 そこで、初めてその年寄りは、彼に向かって話し出したのだ。

「実は、一つの行をしています。
 それは”まして”という、くちぐせがそうです。
 つまり、食べ物がなくて飢えている時は、それ以上にひどい死んだ後の餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちた時のことを思い、寒い時や暑い時には、それ以上の寒熱地獄のことを思い、たまたまおいしいものをいただいた時には、天上でいただく甘露(かんろ)な食べ物は、おそらくこれ以上に美味しいはずだと思い、今食べている物には執着しないようにして、さらに、美しい着物の色や、きれいな管弦声や声にも惑わされないようにして、すべては極楽浄土(ごくらくじょうど)に勝るものはないはずだからと、自分に言い聞かせては、この世の今だけの楽しみにひきこまれないようにしているのです。」

 それを聞いた修行僧は、はらはらと涙を流し、その年寄りに手を合わせ拝(おが)んでは、帰って行ったという。
 この年寄りは、別に厳しい修行をして、極楽浄土への思いにたどり着いたわけではないけれども、日ごろからの考え方で、物事の理(ことわり)を知り、極楽往生するべき所を知ったのではないのだろうか。”

 この話を読んだ後には、さらに思い出される言葉がある。
 この後の時代に、親鸞(しんらん)の弟子の一人であると言われている、唯円(ゆいえん、1221~1289?)によって書かれたとされる、師親鸞の言葉をまとめた本「歎異抄(たんにしょう)」があり、その中にあるあの有名な言葉が思い浮かんでくる。


” 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや”

 もちろん、ここで親鸞の言っていることは、阿弥陀仏の前では誰でも罪を犯した悪人であり、すべての人間が悪人であるとしても、念仏を唱えれば往生を遂げることができるということなのだ。
 さらにこのことは、神の御前では、すべての人が罪人(つみびと)であるのだからという、あのキリスト教の教えにもつながってはいないだろうか。

 今回は、いつもの私の理屈っぽい考え方と、宗教倫理観がいつしか相重なって、わけのわからない話になってしまったが、そう考えてしまうようになったのには訳がある。
 例のごとく、九州への旅の行き帰りで、いつもの遠征の山旅を考えていたのだが、来るときには南九州が大雨だったりと天候が今一つで、飛行機が運休にならないかと心配したほどだったのに、今度は、北海道に戻る時になって、梅雨前線が居座りいつ梅雨が開けるともわからない状態で、これ以上遅れると夏休みに入り、飛行機は大混雑して乗れなくなる恐れもあるし。
 ただこの間、一度チャンスはあったのだが、つまり東北日本海側には三日間続いて晴れマークが出ていて、実際山の天気も良かったとのことなのだ。
 しかし、それは戻ってきてすぐのことで、こちらでの用事がまだ残っていて、とても出かけることはできなかったし。
 かくして、私は、せっかくの好天の機会をむざむざと見逃してしまったのだ。
 だと言って、そのことをいつまでも悔やんでいても仕方ないと、そこであの”ましての翁”の話を思い出したというわけである。

 何か大きな過ちを犯したわけではなく、たまたま山に登る機会を逃したということだけなのだから、代わりに洗濯する喜びを味わうことができているし、水が自由に使えるこの家での、食器の水洗いは楽だし、水を多く使う冷やし中華が作れるし、トイレは水洗でいつでも使えるし、汗ばんだ体は毎日風呂に入って流せるし、これ以上何をかいわんやの、幸せな状態なのに、山に行きそびれたぐらいで、自分に腹を立てたところで、何になるというのだ。

 いつものように、”頭の中は、ちょうちょうが飛んで、おつむてんてん。これでいいのだ”。

 昨日の『ポツンと一軒家』の話について、ひとこと書いておきたいと思っていたのだが、すっかり駄文を書き連ねて、ここまで長くなってしまったので、次回にまわすことにする。

(参考文献:「方丈記 発心集 歎異抄」三木紀人訳注 學燈社)


 



 


雲の中の風景

2019-07-08 21:38:13 | Weblog




 7月8日

 数日前に、九州に戻ってきた。
 飛行機では、何とか窓側の席に座ることはできたのだが、北海道から九州に至る長い時間の間、私の好きな山々の姿を見ることはできなかった。
 東京羽田まではでは、びっしりと敷きつめられた雲の上で、そこから九州までは何も見えない雲の中で、山々の眺めはもとよりのこと、地上の景観をもほとんど見ることはできなかった。

 若い人の言葉で言えば、”めっちゃ最悪ー”ということなのだろうが、考えてみれば、もっと悪いことなどいくらでもあるのだから、このぐらいのことで文句を言っている場合ではないのだ。
 昔は(年寄りの良く言うセリフだが)3日がかりで、鉄道に乗って往復していたころもあったのだから。
 もっとも、飛行機に乗っても、窓から離れた中央列の席では外を見ることができない上に、両側が私のような汗くさい大きな男たちにでも挟まれたひにゃ、もうただただ修行僧のごとく目を閉じて眠るしかなく、えてしてそういう時には目はさえて、通路を行き来する客室乗務員のおねえさんたちに注目するしかなく、その時には無念無想とはいかず、ただ”夢は荒れ野を駆けめぐる”だけで・・・。

 まあそういうような、修行のひと時を送ったわけではなく、少なくとも窓の外には、成層圏の青空が広がり、地上を覆いつくす乱層雲の広大な風景を見ていたのだ。
 白い雲の嶺は、高く低く果てしなく続いていた。(写真上)
 それは遠い昔、若かりし頃のヨーロッパ旅行への途上で、南回りの航空機は台湾山脈の上を通り、東南アジアの緑の熱帯雨林の上を通り、インド大陸に差しかかるころ、その右手遥かに雪に覆われた8000m級の山々が立ち並ぶ、ヒマラヤ山脈が見えていて、その時のことを思い出していたのだ。
 地球の円周は4万キロにも及ぶと言われているが、今回は、その中の日本国内だけのわずか2千キロほどの航空路の旅だったのだが、いつものように地球と成層圏のはざまにある広がりを、十分に楽しむことはできたのだから、それだけでもよしとしなければ。

 人間は、距離と時間を超えて飛行機で旅することができるようになって、それまでは不可能だとされていた遠く離れた人々との関係性をより密なものとして、新たな関係性を築きあげては、多くのものを得てはきたのだろうが、それによって新たに創り上げられて発展していった環境によって、逆にそれまで旧社会の中で長年守られていた、多くの良きものをも失うことになったのだ。
 物事にはいつも、見える表と見えない裏があるものなのだ。

 さて、東京羽田を飛び立った飛行機は、行く手にチラリと富士山斜面の陰を見せただけで、あとは雲の中に突入して行った。
 それは、積乱雲などの上昇気流が起きていて、機体が大きく揺れる不安定な気流の中ではなく、1万m以上にまで達する薄雲、巻層雲(けんそううん)や高層雲の中を飛び続けているような感じで、巡航高度で青空の下を飛んでいる時のような、揺れのない安定した飛行になっていた。
 もちろんどんな飛行機にもレーダーが備えつけられていて、航路上での不安はないのだろうが、例えば私たちが霧の中をクルマで走っている時のように、周囲が何も見えないことへの小さな不安感につつまれるのだ。
 何も見えない”雲の中の風景”は、心の中に乳白色の不安を映し出す。

 今までに何度かあったことだが、ひとりで山に登って霧に包まれた山稜を歩いていて、常に抱き続ける不安は、一人でいることの不安ではなく、周りの見えない景色に自分との距離を測りかねて抱く不安なのだ。
 それゆえに、今までの白濁色の空の中に一瞬の青い陰りを見つけて、それがたちまちのうちに広大な青空となって、広がりゆくときの喜びはいかばかりのものか。

 飛行機は下降を始めて、陸地が見えてきて、滑走路に滑り降りた。
 この度は、南九州で豪雨が続く中、私は無事に九州に戻ってくることができたのだ。
 つまり、この旅の第一の目的は、様々な用事を片付けるために九州の家に帰ることであり、それができればいいのだ。いつもの飛行機からの景色を眺められなかったとしても。

 しかし、これまではいつも、見通しのきく青空の大気圏を飛んでいたのに、あの何も見えない乳白色だけの空間での長い時間は、私にある映画を思い出させたのだ。
 1988年制作の、テオ・アンゲロプロス(1935~2012)監督による「霧の中の風景」である。
 このギリシア出身の巨匠、テオ・アンゲロプロスの名前を注目するようになったのは、あの有名な「旅芸人の記録」(1975年)を初めて見た時からである。
 まずは、その絵画のような静寂な映像美に打ちのめされ、心のうちに燃ゆる思いを秘めながら、あくまでも静謐(せいひつ)な絵画のように、長尺のワンカットでつなげられていく映画に、われを忘れて見入ってしまったのだ。

 ギリシアと言えば、あの明るい地中海に囲まれた有名な観光地であり、古代ギリシア文明やギリシア神話の舞台として知られているのだが、私たち年寄り世代がまず思い出すのは、昔のジュールズ・ダッシン監督メルナ・メルクーリ主演の「日曜日はだめよ」(1961年)に見られるような明るい現代ギリシア庶民たちの日常なのだが、このテオ・アンゲロプロスの映画では、暗い空の下で、延々と続けられる旅芸人一座の、その行動記録映画であって、そこには私たちの知らない、悲惨な現代ギリシアの歴史があったことに気づかされるのだ。

 その後の「アレクサンダー大王」(1980年)で、彼の名は巨匠として確かなものになり、さらに「シテール島への船出(1984年)」「霧の中の風景」(1988年)「ユリシーズの瞳」(1995年)「永遠と一日」(1998年)などの名作を世に送り出していたが、その後の三部作に至る作品から私は見ていないけれども、その三部作が完成する前に彼は亡くなってしまった。
 あのイングマール・ベルイマン(1918~2007)やエリック・ロメール(1920~2010)などとともに、その全作品を見たくなるほどの、私の敬愛する映画監督の一人である。

 彼の他の映画作品については、また別の機会に書くとして、今回は、飛行機での”雲の中の光景”の体験によって、私がふと思い出した、このアンゲロプロスの「霧の中の風景」という映画について、少しだけ書いておくことにする。

 あるギリシアの町で、母親一人の手によって育てられた二人の姉弟、少女と幼い弟の話である。
 二人は、ドイツに働きに出ていると聞かされていた父親に会うために、ギリシアからマケドニア、旧ユーゴスラビアを経由して、ドイツにたどり着くことになるのだが、途中で会った伯父さんに、父親がドイツにいるというのは母親の作り話で、二人は私生児だとわかるのだが、一路北へと目指すその姉弟の気持ちは変わらない。 

 その途中で、(あの映画「旅芸人の記録」を思わせる)一座の人々と出会い、彼女はその中の若者に淡い恋心を抱いたりもするのだが、その後親切にしてくれた長距離トラックの運転手に乱暴されてしまうことにもなる、それでもめげずにドイツを目指し、国境を超えた霧の彼方の丘の上に見たのは、一本の大きな白樺の大木だった。
 このラストの映像が心に残る。
 これは、あまりにつらく切なくなる、それでも生きていく子供たちの、現代の童話だったのだ。

 今の私の”霧の中の風景”の先には、何が見えるのだろうか。

 ところで家に戻ってきて、まずありがたいことは、蛇口を回せば水が出ることであり、炊事が楽になり、水洗トイレが使えて、毎日風呂に入れて、晴れている限り毎日洗濯できることである。 
 それまでの、北海道での小屋暮らしのあまりに不便な生活と比べれば、ここでの暮らしは別天地のようにさえ思えるのだ。 
 ただし、多くの庭仕事や家の中の仕事、あちこちへの支払いや、通知なども済ませてしまわなければならないし、こうして途中で一度この九州の家に戻ることは、どうしても必要なことなのだが、果たしていつまで続けられることやら。

 ただ、残念なことには、いつものウメの実が、お話にならないほど少ないことであり、今見えるだけでもわずか数個ほどである。(写真下)
 去年も少なかったのだが、ジャムを作ることはできた。しかし今年は、とてもじゃないが、ほんの一口食べる分だけだろう。
 このウメの木は数十年以上にはなるのだが、こんなに実がならないようになってしまうものだろうか。(ネットで調べると、花は咲き続けてもウメの実は二三十年で減少していくとのこと。)

 最近は、小さな事故があり、せっかくの飛行機からの景色も見られず、ウメの実もならずにと、あまり良くないことばかりが続いているが、次には何かいいことが待っているのだろうか、そして”これでいいのだ”ろうか。


               

 


蝮のからみあい

2019-07-01 21:17:47 | Weblog




 7月1日

 強い香りを辺りに漂わせながら、ハマナスの花が咲いている。(写真上)

 バラ科の花であるハマナスは、咲いているのは一日二日で、すぐにしおれて花びらが散ってしまうのだが、この香りの強さは、その花の命の短さゆえのものなのだろうか。
 秋になるころまで、この庭の生垣のどこかで花を咲かせてくれていて、さらにその花の後には、赤いルビーのような実をつけてくれる。
 とげだらけで、手入れするにはやっかいな灌木だが、色鮮やかな花の色と、その香りは、手入れが行き届かない私の庭での、数少ない見ものの一つなのだ。

 それにしても、何という肌寒さだ。
 ストーヴの薪(まき)に火をつけるほどではないにせよ、下着を長袖長ズボンにして、足元を温める電気ストーヴをつけるほどだ。
 天気はこの数日、霧や低い雲が覆う日が続いていて、朝の気温は10℃くらいで日中でも15℃前後くらいまでしか上がらない。
 しかし、一週間ほど前には、二日続いての晴れた日があって、気温が27℃まで上がり、さすがに夏が来たなと思っていたところだけに、一気に十数度も下がるこの寒暖差には戸惑ってしまう。
 もっとも、こうした夏の涼しさこそが、今までに何度も言っているように、私が北海道を好きな理由の一つでもあるのだが。

 さて、最近気になっている事どもについて、その一つ二つを。
 もう2か月ほどにもなるのだけれども、ある音楽にはまり込んでしまって、一日に一度は聞きたくなってしまうほどだった。
 もっとも、今では二三日に一度くらいの頻度(ひんど)になってしまったのだが、まあそれも、例えばかつてAKBや乃木坂の歌にうつつを抜かしていた時期もあったのに、今ではめったに聞かなくなってしまったから、まあ私のあきっぽい性格からきているのかもしれないのだが。

 それは、フランスのバロック時代の音楽家、ジャン=フィリップ・ラモーのオペラ・バレー「優雅なインドの国々」からの一節である。
 このラモーの有名な曲といえば、「クラヴサン曲集」に室内楽の「コンセールによるクラヴサン曲集」や、オペラに準ずるものとして、「カストールとポリュックス」(ギリシャ神話にもとづく王妃レダ(白鳥座)から生まれたふたごのカストールとポリュックスによる冒険譚で最後にはふたご座の星になるが、ヨーロッパ・アルプスにはその名前を付けられた二つ並んだ山がある)や「ピグマリオン」(ギリシア神話からの彫像に恋をした男の話)などがあり、さらにはオペラ・バレーとして有名なのが、今回とりあげる「優雅なインド国々」である。(インドとは今のインドのことを示すのではなくヨーロッパ以外の未開の地すべてを示す言葉でもあった。)

 これらの曲はレコードやCDで聞いて知ってはいたのだが、その中でもこの「優雅なインドの国々」は、所々に歌が挟まれた完全版ではなく、歌以外の管弦楽曲の抜粋版だったのである。 
 いまだに手元に置いてあるレコードは、あのコレギウム・アウレウム(ハルモニアムンディ盤)によるものとパイヤール室内管弦楽団(エラート盤)の演奏によるもので、調べてみれば今からもう数十年前の録音のものだから、演奏楽器や演奏法も異なっていて、古臭い現代演奏という感が免れないが、このyoutubeで探した演奏を聞いてみて、私はその音色響きにすっかり引き込まれてしまったのだ。

 なぜ今頃になって、この曲の演奏を聴いたのかというと、それは、あの現代きってのカウンターテナーで有名なアンドレアス・ショルの歌う、バッハの「マタイ受難曲」の一節が聞きたくなって(CDは九州の家にあるので)、ネット上でのyoutube で検索して聞いたのだが、それを検索したことによって、次回からyoutube の推薦欄に、今回取り上げたこの「 優雅なインドの国々」がリストアップされていたのだ。

 まずは、タイトル静止画の演奏だけのものを聞いたのだが、それはゆったりとしたテンポと雅(みやび)な楽器の響きで、私の心に心地良く伝わってきたのだ。

 つまり、同じ系列としてリストされていた、あの有名なウィリアム・クリスティー指揮のレザール・フロリサン演奏のものや、フィリップ・へレヴェッヘ指揮のシャペル・ロワイヤル演奏の様な、少しテンポが早めの現代のバロック音楽演奏などとは異なった、ゆったりとした垢抜けないテンポで演奏されていて、むしろそののどやかな雰囲気こそが、当時の宮廷などでの演奏風景を思わせるものだったからだ。

 さらにそこには他に、このオペラ・バレー演奏の舞台そのままを記録した動画もあげられていて、いかにも昔の舞台衣装らしい飾り物をつけた、原住民たちの群舞によるシーンに思わず見入ってしまった。
 まるで、子供たちの素人舞台におけるような、ありがちな単純な動作の踊りで、見方によっては余りのつたなさに笑ってしまうようなものだったのだが、私にはむしろその時代にふさわしいものではないのかと、深く胸打たれたのだ。
(この舞台で演奏している、”Ispirazione barroco"という演奏団体のDVDやCDを探してみたのだが、どこにもなく、今はこのyoutube で見るしかないのだが、それでも出会えただけでも良しとしよう。)

 今まで私は、現在のヨーロッパでのオペラ上演が、このバロック時代に作曲されたものですら、すっかり近現代の時代に置き換えられた、演劇ものになっていていることに、大きな不満を抱いているのだが、それは例えば、日本の誇るべき歌舞伎が現代風に背広とスカートで演じられたならば、それはもう歌舞伎とは呼べずに、歌舞伎の脚本をもとにした現代劇の舞台だというべきものだろうが、古い歴史を誇るヨーロッパ・オペラなのだから、そのいにしえの伝統を守って上演してほしいと思うのだが、もう私が生きている間に、その復古調のオペラ・ルネッサンスがやって来て、その当時に近い舞台上演形式で、日の目を見ることなどありえないことなのだろうか・・・。

 そうした私のひそやかな思いを、youtubeで見たラモーのオペラ・バレー「優雅なインドの国々」が、その一端を垣間見せてくれたのである。
 そしてこれもまた思っていたことなのだが、バロック時代の音楽の楽章小節は当時のダンスのテンポで書かれていて、例えばmenuet(メヌエット)やgavote(ガボット)rondeau(ロンド)などのように指示されているのに、それをすべて現代バロック演奏の様な、快速感覚で演奏していいものだろうかと思っていたのだ。
 それだからこそ、この稚拙(ちせつ)さを感じさせるような舞台と踊りと演奏さえもが、そうした昔の上演風景など知るはずもない上に、音楽に関しては保守的な私の胸には、どこか懐かしく響いてきたのだ。

 もちろん、こうした見方はあくまでも私の独断と偏見によるものであり、現代の演奏家たちからは一笑(いっしょう)に付されるだけの、しろうとの”たわごと”にしか聞こえないのだろうが。
 そこでこうして、私は自分のブログで憂さを晴らして、年寄り特有の頑固さで、この独断と偏見の自分の道を進んでいくのだ。
 ”これでいいのだ”と。

 さらに、このyoutubeは、私に別な愉(たの)しみと喜びも与えてくれたのだ。
 それは、最初にアンドレアス・ショルの演奏音声を探した時に、リストアップされたものの中にヴィヴァルディの「カンタータ集」の一つがあり、その歌声も素晴らしかったのだが、そこにあげられていたジャケット写真がピエトロ・ロータリ(1707~1762)の描いた「本を持つ少女」だったのである。 

 かつてどこかで見たことのある絵が、それを今ここで見たことで、記憶としてよみがえってきたのだ。
 バロック後期のカラヴァッジョの劇的な世界から、やがて来たるべきロマン派絵画の時代への萌芽も含んでいた時代に、主に王侯貴族の肖像画家として活躍し、各地を流浪したあげく、ロシアのサンクト・ペテルブルクで50数年の生涯を閉じた画家であり、彼の名前は絵画史に残るほどのものではなかったかもしれないけれど、どんな画家でもそうであるように、誰にでもおそらく”私の一点”とでもいうべき作品があるものであり、そんなロータリの一点こそが、この「本を持つ少女」ではないのかと思うのだが。

 ベージュのドレスを着て、濃紺の帽子をかぶった少女の上半身像である。彼女は上目遣いにこちらを見て、その口元を手に持って広げた本で隠している。(この絵は、著作権の関係でここにはあげられないが、画家の名前で検索すればネット上で見ることができる。)

 これは、若い娘のいわくありげな表情の一瞬をとらえた、写真で言うスナップショットの一枚である。
 特に、彼女の目の細密描写には、思わずひきこまれてしまう。
 一般的に言えば、女性のポートレイト写真を撮る時には、浅い被写界深度で目にピントを合わせることが大切だとされているが、ここでもその写真のいろはを改めて教えられる気がする。(この絵では全体にピントがあっていて、彼にはそこまでの意識はなったのかもしれないが、例えば後年のルノアールの女性の肖像画には、目にだけ焦点を当てた印象的な手法で、対象人物を見事に描写している。)

 さて絵について書いていくときりがなくなるので、この辺で一旦終わりとして、今回もう一つ書きたかった、題名にあるテーマについてのことなのだが。
 少し前の6月10日の項で写真にあげた、家の玄関の棟木の辺りに住んでいるアオダイショウのことであるが、先日、いつものように外に出る時は、上からヘビが落ちてきやしまいかと見上げて通るのが、そこで何と二匹のアオダイショウがからみあって垂れ下がっているのを見たのだ。           

 その二匹がからみあった姿は、どう見ても気持ちのいいものではなく、写真にも撮っているのだが、グロテスクすぎてここにのせる気にはならなかった。
 ネットで調べると、ヘビのからみあいは雄と雌の繁殖行動であり、いったんからみあうと数日間はそのままのからみあった姿でいるとのことだった。

 ということは、うすうす感じてはいたが、家にはつがいのヘビがいて、さらにはその卵から子供が孵(かえ)り、私がいなくなった後もこの家がある限り、子孫代々、このアオダイショウの一族が住み続けることになるのだろう。
 それで私に害があるわけではなく、何度か捕まえて道路向こうの牧草地に放り投げたのだが、そのたびごとにこうして戻って来ているし、むしろネズミなどを駆除してくれることにもなるのだから、見た目に気持ちが悪いとしても、お互いに無視して共棲していくほかはないのだ。
 ”これでいいのだ”と。

 若いころに読んだことのある小説で、フランスの作家、フランソワ・モーリアックが書いた「蝮(まむし)のからみあい」という小説があったことを思い出したのだ。 
 内容はほとんど忘れてしまったが、ある年寄りが自分の死んだ後のことを考えて、妻子や親類縁者たちに疑心暗鬼となり、その心の様をヘビである蝮(まむし)のからみあいに例えて、題名にしていたと思うのだが。 
 彼にはもう一つ「テレーズ・ディスケルウ」という、夫を殺そうとした女性を主人公にした心理小説もあって、それも読んだとは思うのだが、もうその内容のことまでは覚えていない。 
 それにしても、若いころには勢いに任せてでも、本は読んでおくべきなのだろうが、今となっては、読まずに本棚に並んでいるだけの本が、いかに多くあることかと気づいて、思わず愕然(がくぜん)とするのだ。
 
 ”少年老い易く、学成り難し。”