ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

アセビの花とヒヨドリ

2016-03-28 21:58:47 | Weblog

3月28日

 このところ、寒の戻りというべきか、少し肌寒い日が続いている。
 朝は、まだマイナスにまで下がっていて、日中でも10度を少し超えるくらいの気温だけれども、ほとんど毎日、気持ちの良い青空が広がっていて、それだけでも良い春の日だと思えるのに、そこにウグイスが一声、二声、まったくおあつらえ向きの春の光景だ。
 庭の梅の花は、もうほとんど散ってしまったが、この後しっかりと肥料をやっておけば、初夏のころには、また枝いっぱいの梅を実らせてくれることだろう。

 私は、もともとめったに風邪をひくことはないのだが、それは、もちろん生まれつきの頭の悪さ、つまり年相応のいくらかの知識はあっても、本質的なバカさ加減は変わらないから、”バカはかぜをひかない”ということであり、さらに近年とみに増して脳天気な性格になりつつあることもあって、それは認知症と区別はつきかねるけれど、もう頭の中はいつも春のヨイヨイ状態で、風邪のウイルスさえ近寄れないのだろう。
 ただ最近は、寄る年波を感じて、体力は年ごとに衰えていく一方であり、それだけにいやでも健康維持について関心が行くのは当然のことなのだが、まあとはいっても、煮ても焼いても食えないこのぐうたらじじいのこと、他人から体にはあれがいいこれがいいと言われても、話半分上の空に聞いてるふうで、実は耳はダンボ状態になって聞き逃すまいと、必死こいているのが本当のところでありまして。
 まあ、年を取れば誰でもがそうなように、それは、周りに迷惑をかけたくないという、昔の人間、年寄りの健気(けなげ)さとでもいうべきものでしょうが。
 
 それでも、いつの間にか自分の習慣、ルーティンとしているものが一つだけあって、それは例の”五郎丸ポーズ”で手を組んで祈った後、梅の木の根元に”シッコ”をかけては、梅の実の豊作を祈るというもの・・・まあそれは冗談だが、ともかく花が終わった後には、木の根元にたっぷりの肥料をやって、初夏のころにはその梅の実を一週間ほどかけて収穫し、そして三日三晩も続く”ウメジャムづくり”の大仕事、そしてようやくウメジャムの瓶詰めが10ビンほども出来上がり(’15.7.13の項参照)、それを毎朝、トーストに塗って一年中食べているものだから・・・ほーれ、ほれほれ、この元気。
 ”八丈島のきょん!” (昔の漫画『こまわりくん』の意味のないかけ声。)

 こうして、周りには何の役にもたたない、カラ元気を振りまいているじじいなのだが、とは言っても、今月初めの八甲田山以降、山には登っていないし、そろそろどこかの山に登らなければと思っているのだが、これが雪国ならば、これからは、あちこちの残雪の山へと計画を立てられるころなのに、九州には残念ながらそんな残雪の山自体がないのだ。
 山肌を一面に彩(いろど)る、ミヤマキリシマの花は5月の下旬からだし、ツクシシャクナゲやアケボノツツジなども5月の連休以降だし、樹々の新緑もそのころからだし、雪がなくても冷え込む今頃は、登山道が霜柱で溶けてぐちゃぐちゃになるし、山登りには、あまり良い時期だとは言えないのだ。
 それでもこれからは、山の林の中でそこだけが明るくなって、枝先に点々と小さな黄色い花を咲かせる、マンサクやクロモジ(シロモジ)やミツマタなどの木があり、さらに草原性の所では、2mほどの高さにもなって、その大株いっぱいに鈴なりの小さな花をつける、アセビを見に行くこともできるのだが。(’11.4.15の項参照)
 そういえば家の庭にも、中株のものが一つと、もう一つ勝手に芽が出て育ってきた小さなアセビの株があって、それは運悪く日当たりのよくない生垣のそばだったものだから、なかなか大きくならずに、花も咲かずに苦労していたのだが、この春、何とついに三房(みふさ)の花をつけていたのだ。(写真上) 

 あんたは、えらい!
 自分で選り好んで根づいた場所でもないのに、文句ひとつ言わないで、与えられた場所で、自分になりに精いっぱい生きていて・・・ああ、それに引き換え、この九州と北海道を行き来するぜいたくをしながら、北海道に行けば、”井戸水が涸れる、水が使えず五右衛門風呂を沸かせない、ぽっとん式トイレが外で不便だ”とかぼやいてばかり、九州は九州で、”雪山時期が短すぎるし、その割には古い家の中は寒くて外に出る時と同じくらいの厚着だし、道路に塩カルまきすぎでクルマはさびるし”、とあれやこれやと文句を言ってばかりで、それなのに、見てみろ、こうして日陰でも咲いているアセビの花があるんだぞ!・・・はい、もうただただ、”反省”するほかはありません。
 ”ぼくは、死にまっせーん”。

 もうわれながら、何を書こうとしているのかわからなくなってきたが、ここでさらに深刻な生の現実の話を一つ・・・。
 数日前のこと、久しぶりに春に備えての庭掃除をして、枯れ葉枯れ枝などを集めて燃やしたのだが、そういえば、さびしがり屋で寒がりだったミャオは、私がこうして夕暮れ時にたき火をしていると、家の中にいても庭に降りてきて、ニャーと鳴いて私の顔を見上げては、たき火のそばに座ったまま長い間じっと温まっていたものだ。
 それはまるで、亡き老妻とともに過ごしたひと時の思い出のようによみがえってきて、今でも炎に照らし出された、ミャオの毛並みが見えるかのようだ。
 もっとも、今回はミャオのことについてではなく、そのたき火の時のことなのだが、途中で物置小屋に戻るためにそばを通った生け垣の所で、ばたばたとしている鳥が一羽いて、そのままばたついて向こう側に行ったので大して気にも留めていなかったのだが、たき火を終えて、周りに水をまいて火の始末をした後、家に戻ろうとしたところ、 外にある蛇口の所に水をためた小さな手洗い桶があるのだが、そのそばに先ほどの鳥がいて、あわててバタつきながら逃げ出したのだ。
 ほんの2m足らずしか離れていない、ツツジの植え込みの所まで行って、そこでじっとしていた。ヒヨドリだった。

 不思議には思ったが、そのまま家に戻って、翌日また庭に出てみると、そのヒヨドリはまだそのあたりにいて、どうもけがをしていて飛び回れないらしく、そこで写真を撮ってよく見てみると、何と翼の風切り部分と尾羽の所が大きく欠損していた。(写真下)



 最近、あちこちで春の野焼きをやっているが、その炎に翼を焼かれるなどということは考えられれないし、とすればカラスやワシ・タカ類に襲われたか、それにしては欠損部分が大きすぎるし、イタチ・テンの類にやられたか、それともノラネコにやられたのか。(前にミャオがあの大きなキジバトを捕まえてきて、私の目の前で食べたことがあった。’08.3.9の項参照)
 しかし、これほどの翼の傷を負っていれば、たとえ命に別状はなくても、もう鳥として自然界で生きていくことはできないだろう。
 それでも、見逃すわけにはいかない。何の助けにもならないだろうが、ほんのひと時の間でもと、私はミカンを輪切りにして、近くの枝に差しておいてやった。
 しばらくして行って見ると、半分以上を食べていた。
 翌日は、はちみつを小皿に入れて出してやった。

 そして今日、もうあのヒヨドリはいなかった。
 今までいたものが、いなくなること、その空白感を感じ取ることは、自分が生きているこその実感であり、また逆に、生きることの空しさを感じる時でもあるのだ。 
 三日ほど前の、新聞の書籍広告欄に、あのベストセラー『バカの壁』(新潮社)で有名な養老孟司(ようろうたけし)さんの新刊本の案内が載っていた。
 ”『老人の壁』 南伸坊、養老孟司対談集 壁を越えたら自分がいました。人生百年時代、明るく考えるコツ。 毎日新聞出版社” 
 そして、お二人の立ち姿の写真から、漫画風な吹き出しのセリフが出ていて、それぞれに、”もう楽しいことをあとまわしにしなくていいんですね”と、そして”楽しいことだけやればいいんです”と書いてあった。
 
 私は、この広告文を見ただけで、お二人には悪いけれども、もうその本を読んだような気分になってしまった。
 確かに、その通りだと私も思うからである。
 それにはもう一つ伏線があって、一二週間前にふと見たテレビで、確かNHKの”爆笑問題”のバラエティー番組だったと思うが、東京大学医学部解剖学科名誉教授でもある養老先生の別荘を太田と田中の二人が訪ねていくのだが、その家は一棟丸ごとが、養老先生の昆虫標本館になっていて、世界中の昆虫たちの標本がきちんとまとめられ陳列収納してあるのだ。
 今年78歳になられるという、養老先生の若々しさと、昆虫少年だったころから変わらない好奇心いっぱいに、補虫網をもって草むらをのぞき込む姿に、むしろある種の感動を覚えたほどである。

 そのテレビ番組を見ていたこともあって、今度の『老人の壁』の新刊本の案内広告を見て、私はなるほどと合点がいったような気がしたのだ。
 もっとも、”楽しいことだけやればいいんです”という言葉は、”功成り名遂げて”、地位も財産もある人達の余裕ある言葉だと言えなくもないのだが・・・世の中には、”若年貧困層”があるように、”老人貧困層”もあって、多くの老人たちが”生活保護給付”を受けているというのも、これまた現実の話なのだ。

 もっとも、様々な問題にはいつもピンからキリまでの例があり、すべてを公平平等に取り扱うことなどできないし、とりあえずここで私は、”年寄りは、自分の楽しいことだけをやって”という言葉に、自分のこととしても感応したわけだから、その言葉について、少しだけふれてみることにする。
 ”自分の好きなことだけをやる”というのは、単なる自分勝手なわがままであり、周りの人にも迷惑をかけるし、さらには公序良俗にも反するものが含まれていればなおさらのこと、一般的には許されるものではないだろう。
 しかし許されうる場合の条件が満たされば、それはそれで個人の自由であり、好きなようにやればいいということになるのだろう。
 つまり、定年退職や子育て終了などで、様々な責任から解放されて、初めて自分の時間を持つことができるようになった人たちが、いざ自分の趣味へとのめりこんでいくのは、他人がとやかく言うべき問題ではなく、残りの人生と照らし合わせた、彼らなりのもう一つの人生の始まりとして、むしろ祝福されるべきものなのだろう。
 いまだに、少年のような目で昆虫を見る、あの養老先生の顔は、はたから見ていても楽しくなるほどだ。

 もちろん人間は様々であり、他に趣味はないし、仕事を辞めたくないし、死ぬまで働いていたいという人もいるだろうし、その場合は仕事が彼にとっての生きがい趣味にもなるのだろうし、また一方では、周りの友人知人仲間たちとの関わり合いこそが生きがいだという人たちもいるだろう。 
 だからこそ、今までの責任からとりあえず解放された年寄りたちは、初めて自分で自由に使える時間を持てたのだから、それはただ自分の好きなようにやればいいということなのだろう。八甲田の山スキー・ツァーに来ていた人たちを思い出す。(3月14日の項参照)
 しかし、いつまでも周りのきずなを引きずって、どっちつかずのままの関係を続けてストレスをため込んでいけば、自分のためにも周りの人のためにもよくないことだし。
 それだからこそ、年寄りになり、残り少ない人生だと自覚すれば、他人に迷惑をかけない範囲内で、自分の好きなように生きていくことが、自分の人生の最後を飾る大切なひと時になるだろうことがわかってくるのだ。
 何のために生きてきたのか、そもそも人生に意味などあるのかといった、様々な問いかけにさえ、残り少ない日々の時間がキラキラと輝いて答えてくれるだろう。
 老人よ、時を数えるよりは、今、その胸に楽しみを抱け、と。

 年を取ることは、決して哀しいことなんかじゃない。
 若き日に見たものとはまた違った姿で・・・見えてくる景色の、今さらながらの鮮やかさに、喜びを感じるほどだ。
 それだからこそ、仮面をつけて、自意識過剰にポーズをとって粋がっていた、あの気難しい若者時代になんか戻りたくはないのだ。

 そもそも、時間をさかのぼって若い日に戻るなんてことができるはずもないのに、どうしてさもありがちなこととして言われるのか・・・。
 時の一回性、不可逆性・・・それでいいじゃないか。

 
 仮面で思い出したのだが、話は突然変わる。今年の、AKB総選挙の立候補は締め切られたそうだが、あの”にゃんにゃん仮面”の立候補は認められるのだろうか。
 ともかく、会場に来て、”こじはる(小嶋陽菜)”の持ち歌の中から一曲でも歌ってほしい。”にゃんにゃん仮面”をつけたままで。

 
 


苔のむすまで

2016-03-21 22:10:45 | Weblog



 3月21日

 日本各地から、桜の開花の便りが聞かれるころ、わが家の庭にある、遅咲きのブンゴウメの花がようやく今になって満開になった。
 青空に映え、点々と咲くウメの花、ここまでの一年と、これからまた次の一年へとつなげて、命ある限り、花は咲き続けていくのだろう。 
 仕事に追われ、そのことだけの一年であったにせよ、煩雑(はんざつ)にして濃密(のうみつ)な、人間関係の一年であったにせよ、あるいはただ何事もなく、同じような一日を過ごしてきただけの一年であったにせよ、あるいはまた、一人の殻(から)の中で、うずくまっているような一年であったにせよ・・・すべての人にとって、さらには地球上のすべての生き物たちにとっても、何の分け隔てもなく、時は流れ来て、通り過ぎていくのだ。

 何と見事に、そこに在りながらも、今ここにとらえることはできない、厳然たる時間の真実。
 ただ私たちはいつも、その先にあるだろう時にあこがれ、そしてまた、後になって、自分が無駄に過ごしてきた時の残滓(ざんし)に気がつくだけだ。 
 今という時間にいる時、ただ私たちは目の前にあることに対応しているだけで、何もわかってはいないのかもしれない・・・。

 かぐわしい香りとともに咲いていた、満開の梅の花は、その後から散り始めて、数日たった今では、もう半分ほども残ってはいない。
 そして、下の苔(こけ)むした庭石の上に。そのウメの花びらが散り敷いている。(写真上)
 私たちが、梅の花の盛りが終わったのを知るのは、振り仰ぐ枝先の寂しくなった花びらたちを見るだけではなく、こうして下に目をやった時の、幾つもの舞い落ちてきた花びらを目にした時でもある。 
 ましてそれが、緑の苔の上ならば、その鮮やかさはなおさらのこと。

 しかし不思議に思うのは、その隣の庭石にはあまり苔がついていないのに、この庭石にだけ苔がついるのはなぜだろう。
 この石だけが、”苔のむすまで”の長い時間を経てきたというわけではないはずだし。
 家の庭を造った時に、同じように近くから運ばれてきた石なのに、それぞれの岩石としての出自(しゅつじ)と、さらにはわずかな日当たり日陰の差が、その違いを生んだとしか思えないのだが。
 もっとも、その石たちにとっては、ただ与えられた条件・環境の中で、そのまま在り続けただけのことなのだろうが。

 よく見ると、その苔の中に、小さく伸びたハコベが一つ、その茎の先には、さらに小さな花さえもつけている。
 何もこんな所に、と思うほどの所に、それでも与えられた自分の生の開始点に根づいては、それなりの花さえも咲かせているのだ。
 生きることとは、あれこれ下手な理屈で考え上げるよりは、こうして、ただそのままに、ひたむきに生きることなのだろうと思う。

 数年前、私は屋久島で、広大な苔に覆われた林床(りんしょう)を目のあたりにして、ぼう然と立ち尽くしたことがあった。(’11,6.17~25の項参照)
 その時、私は南の黒味岳(1831m)から縦走して宮之浦岳(1935m)に、そして縄文杉を見て大杉谷へと下るコースを取ったのだが、山道のあちこちで気がついたのは、極端に言えば水筒を持って行かなくてもいいほどに、周りの至る所からから水が豊かにあふれ出ていたことである。
 そして、この山域全体は、乏しい栄養分しかない石灰岩質という悪条件の土壌にもかかわらず、豊かな雨による水量によって、屋久杉をはじめとする木々が繁茂していて、広大な森を作り、それがまた湿り気の高い林内環境となって、そこに苔が繁茂し、その苔を着床帯にして、そこにまた屋久杉などの小さな苗が成長していくという、見事な循環構造になったのだろうし、そのことは言われるまでもなく、行った人ならばおそらく誰でもが気づくことだろう。

 私は、頂上に至る山登りが好きなだけの、いわゆる”山や”でしかないのだが、あの屋久島への山行で、山の一番上の環境を作る、背の低い草のようなヤクザサの茂る稜線と、そのところどころに配置されているかのような、巨大な花崗岩との組み合わせが、それまでの国内の山では見たことがないような風景だっただけに、ひときわ強い印象となって残っているのだ。さらには、山影のあちこちに色鮮やかに咲いていた、あのヤクシマシャクナゲの満開の時期と重なっていたものだから、なおさらのこと。
 そうした楽しい山旅を続けていた私が、その稜線での縦走以上に、もうひとつの忘れられない光景として今も思い出すのは、山を下り始めた展望もない暗い林の中で見たもの、それは立ち並んでいた巨大な屋久杉たちであり、その林床を一面に覆っていた苔たちの姿である。
 その苔の上に、大小さまざまの木々たちの苗を根づかせながら。

 さらに思いはめぐる。あの北八ヶ岳の湖沼群を結ぶ、広い森と林床を覆う苔、さらには苔むした倒木がそのままになった静かな奥秩父の縦走路、人の少ない南アルプス南部の深い樹林帯・・・ そういえば、前にも書いたことのある、仙丈ケ岳(3033m)から間ノ岳(3190m)あるいはそのまま塩見岳までに至る仙塩尾根、通称”馬鹿尾根”の風景を思い出す。
 仙丈、間ノ岳周辺の高山環境での展望は優れているが、後は樹林帯の尾根道になり、わずかに露岩が出て展望のきく所が二三か所あるだけで、展望派の私としては、いささか物足りない縦走路ではあるが、何しろあのシダが下草になっているシラビソ樹林帯の静けさ、涼しさ、そして中間点にある両俣小屋の川のせせらぎの音・・・毎年何匹ものネコを連れて来ていた小屋のおかあさんは、まだ元気でいるだろうか。
 山の思い出はいつもやさしく、私をあのころの風景のもとへと連れて行ってくれるのだ。
 
 もちろん、もう一つの私の地元でもある、北海道の原生林の樹林帯は、言うまでもなく内地の山々のそれ以上に、春夏秋冬ごとに広大な自然を感じさせてはくれるのだが、そこをいつも一人で歩いている私には、心のどこかに不安な思いを抱いたままの山行であり、それがいつも、小さな心のわだかまりとしてあることも確かなのだ。
 それは、今までに何度も出会ったことのあるヒグマの存在であり、もう何十年も北海道の山の中を歩いている私でさえ、ましてその山行のほとんどが単独行であるだけに、いつまでたっても幾らかの心配は消えないのだ。
 もちろん、内地の山でも、ツキノワグマによる被害が出ていることは承知しているけれども、何といってもヒグマはその4倍ほどもあり、そもそもの体の大きさが違うのだから。

 とは言っても、今までいつもひとりで、あの奥深い日高山脈の山々に、時には沢登りで、時には残雪期の雪をたどって(冬山に登る時だけが安心だが)、そうしては幾度となく登ってきたわけであり、そのためには、ヒグマの性質や食生活さらにはその行動パターンなどをあらかじめ学んでおいて、いつもヒグマが人間のほうを避けているのだからという認識をもって、こちらから音を立てて知らせてやれば、むやみにヒグマを恐れる必要はないのだと、自分に言い聞かせながら登ってきたのだ。
 それだけに、この20年余りは、私が昔、東京にいたころ登っていた北や南のアルプスの山々に、今になってしきりに回帰しているというのも、一つにはクマの心配なく登れる山々だから、ということでもあるのだ。

 前回、八甲田の樹氷群のことを書いて、今週は一転、緑豊かな屋久島の山やクマのことについて書いてきてしまったのだが、それは、前日の家の庭で撮った写真があるだけで、この朝までこのブログで何を書くかも決めていなかったし、ただそれからの行き当たりばったりの筆まかせの話になって、そのためにすっかりまとまりのつかない文章になってしまったのだ。
 まあ、これもぐうたらで脳天気なじじいのわがままだと、どうか見逃しておくれやす、と関西弁になったところで、はいはい、お察しのとおり、NHKの朝ドラ『あさが来た』の話です。

 久しぶりに、朝ドラを通して見た。もっとも何回かは見逃してしまったのだが、筋がわからなくなるほどではなく、まあ大体は見てきたのだが、実在の人物をモデルにして作った割には、そう大きな破たんもなく、よくまとめ上げられている脚本だと思うし、何より主人公だけでなく脇役陣の芸達者たちの面々が素晴らしく、特に大番頭とお付き女中の梅(友近)との間の、大人の淡い想いが行き交うようなシーンなんざあー、まったくあのベストセラーにもなったイギリス映画『日の名残り』(1994年)や、フランス映画『仕立て屋の恋』(1992年)の情景を一瞬思わせるほどで、それだけでも十分に見ごたえのあるドラマだった。
 
 そして、前にも書いたことだが、わがAKBの歌っている主題歌「365日の紙飛行機」が大ヒットし続けているというのもうれしい話だが、実は前から気になってはいたことがあり、それは、リードボーカルで歌う大阪NMBの山本彩(さやか)の歌声が素晴らしいのは認めるとしても、少し耳ざわりなのは、語尾のオがオゥとなったり、ラ行が巻き舌になったりするような、最近の若い歌手たちにありがちな歌い方なのだ。
 そんなことは、前のNHKの朝ドラの歌でもあって、気になっていたのだが、それは2年前の『花子とアン』で、その主題歌「にじいろ」を絢香(あやか)が歌っていて、そのリズム感に満ちた見事な曲と歌声は、一緒に口ずさみたくなるほどだったのだが、惜しいかな、途中の歌詞が何を言っているのかわからないところがいくつかあったのだ。
 こうした、英語なまりの日本語風に歌う、オをオゥと言ったり、ラ行を巻き舌で歌う歌い方は、古くは吉川晃司のデビューのころから聞かれるようになったものだとも思うのだが、古い人間の私はいささか不快に思っていたことなのだが。
 それに比べて、前にも書いたことのある、あの『のどじまんTHEワールド』での外国人たちが、何ときれいな日本語で歌っていたことだろう。(’15.10.5の項参照)

 そう考えてくると、この歌は大阪が舞台なだけに、地元NMBの山本彩の歌になったということなのだろうが、むしろこの歌でリードボーカルの後を続いて歌っている、渡辺麻友(まゆゆ、総選挙3位)と高橋みなみ(前総監督)のストレートな声のほうが、きれいに聞こえてくるのだ。
 つまり、この歌のリードボーカルは、あのAKBのエースの”まゆゆ”として言うのではなく、単にこの歌が彼女の声にあっているという理由だけで、”まゆゆ”に歌ってほしかったという思いがあるのだ。
 2年ほど前に、確かあのNHK・BSの『AKB48SHOW』で、彼女の総選挙1位記念の回だったと思うが、彼女がソロで「軟体恋愛クラゲっ娘」という不気味な題名の曲を歌っているのを聞いたことがあるが、作詞した秋元康にしてはと思うくらいの歌詞だが、それでも彼女は、一歩間違えばゲテモノふうになりかねないこの歌を、まったく見事な清純アイドル・ソングとして歌っていて、私はその時彼女の実力のほどを知って感心したくらいなのだ。

 そういえば、最近AKBの情報サイトを見ていて知ったのだが、あるミュージカルの舞台をやることが決まっていた監督が、その時一緒にいたAKBグループの博多HKTの指原(さしはら、去年の総選挙1位)に、AKBで歌のうまい子は誰かと尋ねたところ、指原は即座に”まゆゆ”の名前をあげて、監督もそれを受けて出演させようと決めたのだという話が載っていた。
 AKB内は、いつもライバルたちとの戦いであるように見えて、実はメンバー同士互いに相手のことを考えていて、さらには、この自分たちの好きなAKBを、これからもずっと続くように一緒になって盛り上げていきたいと思っているのだ。

 さらに先週の『AKB48SHOW』では、あの名物コーナー”たかみな総監督のお説教部屋”の最終回として、名古屋SKEの異端児と呼ばれる”かおたん”松村香織が呼ばれていた。
 普通には、小学生や中学生のころから、このAKBグループに応募するのだそうだが、松村は20歳になってからあちこちのグループに応募してまわり、後で週刊誌ネタになった記事によれば、なんと新宿歌舞伎町のキャバクラ嬢として働いていたこともあるそうで、その時は松村自身のキャラとしてその暴露話も受け流す余裕があったそうだが、それでなくとも、歌踊り容姿ともにいまいちの彼女が、長い研究生時代を経て一生昇格できない”終身名誉研究生”に任命されて、それでも一昨年の総選挙では選抜メンバー一歩手前にまでランクインされて、その時の彼女の他の研究生仲間たちのことを思って言ったスピーチは見事なものだったし、自身の昇格後の去年の総選挙では、まさかの”選抜”入りの13位にまで上がったのだ。

 AKBのファンにとっては、ただ顔がきれい、スタイルがいい、歌や踊りや話しがうまいなど様々な自分の好みから、それぞれのメンバーを応援しているのだろうが、そこが単純な美人ランキングなどとは違うわけだし、そうしたところが予測不能で面白いとも言えるのだ。
 たびたびドキュメンタリーなどにも登場する、ある一人の子だけを応援する、いわゆる”推しメン”の”おたく”ファンたちの、総選挙にかける意気込みはものすごく、彼らは、風俗店で遊ぶときのように何かの見返りを求めて女たちに金を払うのではなく、ただAKBグループ・メンバーの彼女だけのために、投票券付きのCDをたくさん買って投票してやることで、その順位が上がって喜ぶ彼女の顔を見たいだけという、実に涙ぐましくひたむきな純情さがあるだけなのだ。

 そう考えてくると、私には、一般のミュージシャンたちの音楽CDとは、まったく意味合いの違う、投票券付きや握手券付きCDの販売というものが、批判はあるにせよ、彼らが自分の強いファン気質を見せるために、直接参加して彼女を応援できる場として、唯一おおやけに開かれている彼らの”AKB甲子園”なのだと、理解できなくもないのだ。
 私も今まで、AKB総選挙には公正な第三者機関が介在しているわけではないし、正しい票数なのかどうか確かめようもないし、さらには音楽CDに、握手券投票券写メ会などの特典を付加して抱き合わせ販売していることなどに、かなりの疑問点を持っていたのだが、そうした運営サイドの情報はともかく、ネットの情報サイトでの、ファンたちの発言などで知ることのできる分においてだが、もちろんそこには、ただ他のメンバーの子を攻撃するだけの熱くなるファンもいるけれども、大多数のファンたちは、まじめにひたむきに”推しメン”の子を守りたいと思っているだけであって、それは誤解を恐れずに言えば、現実ではない、アニメのキャラクターの女の子たちに入れ込んでいるよりは、いくらかはましに思えてくるのだ。
 いずれにしても、こうしたファン気質(かたぎ)というものは、夢を求める単純で哀れな生き物たちの、哀しい性(さが)なのかもしれない。じじいの私めも含めて・・・。


 (また今回も、他のキーに触れて字体が変わってしまった、別に他意はなくそのまま続けるが、それにしてもなぜ変わるのだろうか。) 

 もっともそれだけの、AKBファンとして注ぎ込めるお金があったら、被災地の援助に回したらどうだという声も聞こえてきそうだが、それを言っちゃおしまいよ。
 人間誰でも、自分だけの趣味遊びのためにお金を使ったり、どうしても必要ではないところでまったくの無駄づかいをしているのだから。

 ちなみに去年の総選挙で、熱心なファンたちの力によって、”かおたん”は13位になって”選抜”入りを果たし、総選挙後の”選抜曲”である「ハロウィン・ナイト」では、16人選抜のメンバーとしてあちこちのテレビやステージで歌っていたのだが、その後のAKBの選抜曲である、「唇にBe My Baby」でも、「君はメロディー」でも、運営側の選んだ選抜の一員として呼ばれることはなかったし、”かおたん”のファンたちも一年に一回、何とか”かおたん”を”選抜”に上げてやって、彼女を喜ばせたいし、彼女が歌っているところを見たいと思っているだけなのだろう。
 ”かおたん”推しの彼らファンたち達のように、そうして、300名ものAKBグループのメンバーの女の子たちのそれぞれに、多かれ少なかれ熱心なファンがついていることだろう。
 こうしてAKBを見てくると、まさに壮大な無駄づかいの仕組みを作り上げたというべきか、どこかに希望の光を求めていた人々に確かな目的の少女像を与えてくれたというべきか、または日本芸能業界に実に巧みな利益循環機構を作り上げたというべきか・・・。

 さらに、AKB10周年記念の新曲「君はメロディー」が、先日あのJポップ最大の歌番組”ミュージック・ステーション”で披露され、AKBの歴史を飾る、前田敦子、大島優子、篠田麻里子、板野友美といった面々も参加していて、さすがにこれがAKBだという顔見世になっていたのだが、それはとてもあの”かおたん”が参加できる場などではないし、また先週の『AKB48SHOW』でも「君はメロディー」が歌われていたが、そこに選ばれてメンバーたちには、AKBの若手たちが多く、ロングスカートの落ち着いた娘さんスタイルの衣装とともに、歌の雰囲気に気持ちよくあっていた。
 残念ながら、ここでもあの”かおたん”の出番はないし、それで当然だと思う。私たちファンが考えている以上に、運営側はバランスをとりながら将来を見据えたメンバーたちの起用法に、日々頭を悩ませているのだろう。
 どんなグループにも、どんなメンバーたちにも、その数だけそれぞれの思いがあり、すべてがうまくいくことなどあり得ないし、それだからこそ日々上を目指し、あるいは踏みとどまろうと必死にがんばる子たちがいて、そしてやめていく子たちがいて、それはAKBというよりは、見事な現代社会の縮図になっているのかもしれない。

 と言ってこの私は、一人だけ蚊帳(かや)の外ならぬ、波風の立たぬ穴倉の中にいて、金を使うこともなくただテレビを見ては、あるいはネット情報を見ては、へらへらと笑みを浮かべ続けているだけの・・・まったくハシにも棒にもかからない、ただのくそじじいではありますが。
 
 今回は、最近気になったテレビで見たことや読んだ本など、あれこれ書こうとは思っていたのですが、ついAKBの話になると、夢中になってしまって、まったくいい年をしてとは思うのですが・・・。

 昨日今日と連休に合わせたかのように、快晴の日が続き、気温もその割にはあまり上がらず、その少し冷たい空気で、山々もまた終日くっきりと見えていたし、まさに絶好の山日和(やまびより)だったのだが、私は行楽客でにぎわう外には出かけたくなくて、ずっと家にいて、洗濯をして、布団を干し、掃除をしていつものように三食を作って食べ、そして、このブログを書いていた。
 そうして、穏やかに日が過ぎて行けば、それでいいのだから。

 ウメの花が散り始めた庭の片隅には、母が好きだったジンチョウゲの花も咲いていて、あたり一面にかぐわしい香りを漂わせていた。(写真下)
 そうして、日が暮れていった。

 

  


聖者の行進

2016-03-14 21:55:34 | Weblog



 3月14日

 もう10日余りも前のことなのに、写真を見て、こうしてあの時のことを思い出していると、そこにあるべき時間の感覚がなくなってしまい、昨日のことのようでもあり、1時間前のことのようでもあり・・・。
 それは、ある遠い北国での、ある冬の日のお話です・・・。

 前にも、このブログ記事で取り上げたことのある、あのチャイコフスキーの交響曲第1番ト短調”冬の日の幻想”の、冒頭のメロディーが聞こえてくるようで・・・白い雪原の中を走るそりの鈴の音・・・。 

 今まで周りが、白い雪原とも、樹氷群とも、あるいは流れ行く雲の中にいるとも、いずれとも区別がつかぬまま、雪原の小さなくぼみの中で腰を下ろしていた私は、ふと次の瞬間、目の前のただ白一色に塗り込められていた、全面の大スクリーンに、何か明るい影が走ったように思えて、顔を上げた。
 切れ切れの雲の間にのぞく、青いきざはし・・・見る間に、それは確かな青空になって広がってきた。
 自分でも、わからない声を上げて立ち上がり、私はカメラを構えてシャッターを押し続けた・・・。
 
 待ち望んでいた、白い聖者たちの行進・・・それぞれの白い衣装のままに、物言わず静かに、青空の彼方を目指して、厳(おごそ)かに歩み続ける一群・・・。
 私は、あの堀口大学のフランス訳詩集、”月下の一群”のことを思い出していた。
 もしできることなら、晴れた穏やかな夜に、月に照らし出されたこの樹氷群を見てみたいものだと。
 青白い月の光を浴びた、白い聖者たちの行進・・・何処(いずこ)に向かって・・・。

 私は、カメラを下ろし、ただ見つめるばかりだった。
 そこには確かに、この八甲田の山とアオモリトドマツと冬の季節が作り上げた、”雪氷芸術”である樹氷が幾つも立ち並んでいたのだ。
 それまでの、心の中にわだかまっていたくやしい思いが、そのつかの間の青空で一瞬のうちに吹き払われてしまい、もう何とも言えない、幸せな気分になっていた。

 そういうことなのだ、と思う。
 もちろん、最初からから晴れ渡っていて、目の前にずっとこの光輝く景色が広がっていていれば、それに越したことはないのだが。
 しかし、物事の大半は、いつも自分の意に染まぬまま、否応なく進んでいくものだから、それに合わせていくか、あるいはずっと耐え忍び、我慢していく他はないのだ。
 だからこそ、それまでの思い通りにならない鬱積(うっせき)した思いを払うかのような、この乾坤一擲(けんこんいってき)の僥倖(ぎょうこう)とでもいうべき青空によって、それだけにまた、喜びもひとしおのものになるのだ。
 それは、まるで今回の冬の八甲田の山旅を象徴するような、ひと時だった。 

 前回にも少し触れたように、私は2年前の冬の蔵王への山旅(’14.3.3~10の項参照)以来の、念願でもあった冬の八甲田へとやって来たのだ。
 飛行機を乗り継いで降り立った青森は、まだ小雪混じりの曇り空だった。
 しかし、明日明後日と晴れの天気予報が出ていた。
 冬は、天気の悪い風雪混じりの日が続く、青森は八甲田の山々にも、それでも天気の良い日がないわけではない。
 1か月前から、私は青森の天気予報をうかがっていたのだ。
 しかし、晴れの予報が出ていたその前の日曜日には、ライブカメラで見ると、その通りに青空が広がっていて、樹氷群も見えていた。
 くやしい気持ちもあったが、休日は飛行機もクルマも宿もロープウエイも、混み合うのがわかっているから、とても出かける気にはならないのだ。(もっとも多くの人は、働いていて休日に行くしかないのだろうし、そうした人々には申し訳ないが、定年退職後には好きに行くことができるようになるから、と言ってあげるしかないのだが。)

 空港から乗った格安運賃の乗り合いタクシーは、私一人だけで申し訳ない気もしたが、同年代の運転手のおやじさんと、同じ時代を生きてきた”あるある”話で盛り上がってしまった。
 日本中どこであれ、いや世界中そうなのかもしれないけれども、人間は長い間生きてきた分、親兄弟、家族、友人、知人達と様々な関わり合いをもっていき、少しずつやさしく賢くなっていき、また少しずつイヤミなずるがしこい人間になっていくのだろう。
 降り立った宿の前の道は、今年は雪が少ないとはいえまだ2m近くもあった。

 スキー客用の6人部屋で、私は明らかに異端の人だった。
 スキーで有名な八甲田に、冬用の革製山靴を履いて、ザックにピッケル背負って来たのだから。
 
 私の今回の八甲田への山旅の目的は、もちろんあの蔵王以来の有名な樹氷群を見ることであるが、さらにアイゼンをつけたまま、その先の赤倉岳(1548m)、井戸岳(1550m)、そして大岳(1585m)にまで足をのばして、また同じ道を戻ってくるつもりでいた。
 それは2年前に、同じ目的で行った蔵王の縦走の山旅が、余りにも素晴らしかったものだから、そして同じような東北の火山地形の山だから、この八甲田でも同じような縦走の冬山歩きができると思っていたのだ。
 つまり、普通に下から登る冬山ならば、樹林帯は深い雪に覆われていて、山スキーかスノーシューをはいてラッセルしながら、稜線まで上がって行くしかないのだが、若いころならともかく年寄りになった今ではそんな元気はないし、ただロープウエイを利用できる所なら、ラッセルをしなくて一気に雪の少ない吹きさらしの稜線部分にまで上がれるし、そこからはあの蔵王での稜線歩きと同じように、小砂利が見えるほどの吹きさらしがあったり、あるいは固く締まり凍った雪の上を歩いて行くから、アイゼンとピッケルの世界になるのだ。
 この冬の八甲田で、それと同じ山の上の世界を考えていた私は、それでも雪の深い部分のことも考えて、宿でスノーシューを借りていくつもりでいたのだが、その私の話を聞いていた同じ部屋のベテランのスキーヤーたちはいっせいに首を振った。

 ”雪が深くて無理だ”と言うのだ。
 確かに、私には少し考えが甘い所もあった。
 つまり、赤倉岳への登りの上部までは雪が深い個所もあるだろうが、これほど有名な山だから、私と同じようにスキーではなくて山登りが目的の人もいるだろうから、トレース跡もついているだろうしと考えていたのだが、彼らが言うには。山スキーでも赤倉へ向かう人はいないとのことだった。
 確かに赤倉から先は、おそらくずっと吹きさらしの稜線だろうから、あまりスキーも使えないだろうし。
 もちろん以上の、私の予定はあくまでも晴れていることが条件であり、それ以外の曇り空や山に雲がかかっている場合などは、最初から登るつもりはなかった。

 しかし、何日も滞在している彼らからの、山の雪の情報と忠告はありがたかった。
 彼らは、それぞれに、毎日行われている山スキーのツアー・コースに参加しているとのことだった。
 つまり、私が根っからの”やまや”であるのに対して、彼らはゲレンデ・スキーではない、山の上から整地されていない森林帯や春先の雪渓などを滑る、”山スキー”に特化したスキーヤーたちだったのだ。
 そして、彼らが口をそろえて言うのは、この八甲田ほど雪質が良くて多くの山スキー用のコースが開かれているところはなく、何度来てもあきないし、それに前後にガイドのスキーヤーがついていて安心だし、十数人前後の一般参加の人たちと一緒に滑っていくのは楽しいものだよ、とのことだった。
 後でもらった八甲田のパンフレット地図には、ロープウェイのスキー・コース2本とゲレンデ・コース1本の他に、この八甲田の山々をめぐって、細かく分ければ9本もの山スキー・コースが設けられているのだ。
 長野県の白馬などで、ゲレンデ外での禁止された所で山スキーを試みて、遭難したり補導されたりする人たちのニュースをよく耳にするけれども、こうして山スキーのコースをあらかじめ設けておいて、ガイド付きのスキーツアーをやるというのが、正しい方向なのだろう。
 ちなみに、国内のスキー場が外国人に人気になり、その数が増えてきているとのことだが、この八甲田もあの北海道のニセコのように、やがては外国人が大半の人気スキー場になるかもしれない。 

 (以下、またしても意図しないキーボードのタッチで、字体大きさともに変わってしまったが、面倒でそのまま続けていくが、別に他意はない、悪しからず。)

 翌日、午後から晴れるとの天気予報通りに、晴れてはいたが、まだ山の上には雲も出ていた。ロープウエイの始発は9時なのだが、部屋のスキーヤーたちは今日は天気も良くて混むからと、1時間前には宿を出て行った。
 私も後を追って行くと、乗り場前にはもうすでに20人余りいて、さらに20分前に乗車券を買いに下の窓口に行った時にはもう階段下までの行列ができていて、9時始発の100人定員のゴンドラは、もうぎゅうぎゅう詰めの状態だった。

 しかし降り立った山頂公園駅の外には、青空の下、輝かしい樹氷群が立ち並んでいた。やったぜ!
 私ひとり、登山靴ににアイゼンをつけて、樹氷の中に立つている凍り付いた電波塔付近の高みを目指して、歩いて行く。
 スキーを肩にしたツアー客の列が、樹氷の写真を撮っている私を追い越して行く。

 山頂駅からゆるやかに10分ほど登った所が、田茂萢(たもやち)岳と呼ばれるこのあたりの最高点(1326m)なのだが、最近の地図には、そこから南東に1㎞足らず離れたなだらかな盛り上がりのほうに田茂萢岳(1324m)と記入してある。
 ツアー・スキーヤーたちは、高みの所からそれぞれの方向へと滑り下りて行った。
 確かに初めのほうは、彼らの踏み跡もあって、アイゼンで良かったが、やはりその先のスキー跡だけでは、足が潜り込んでしまい歩きにくい。
 その上にあっという間に雲が押し寄せてきて、周りが見えなくなってしまい、ともかく一息つくこともあって、ザックの上に腰を下ろして、そこでスノーシューに履き替えた。

 スノーシュー・ツアーの人が数人と、他に一人二人スノーシュー歩きの人がいただけで、後は皆、スキー・ツアーやスノーボーダーの人たちばかりが何十人も滑って行った。
 スキー跡に導かれるように、ゆるやかな雪の斜面を下って行く。
 時々山斜面が見えたりはするが、方角がわからなくなるほどの深い霧の中にいるようになったりと、天気が良くなる気配もないが、ただ雪の状態を見ておきたいと思って、赤倉岳の登り始めの所まで行って見た。
 雪は固い所とはまり込むような深い所があって、苦労はするだろうが、登れないほどひどい雪ではなかった。


 それでも、この天気ではいかんともしがたい。あきらめて時々見える山裾の写真を撮りながら歩き回り、なだらかな丘陵の田茂萢岳へと登って行った。
 先ほど出会ったスノーシュー歩きの人のものだろう跡が山頂まで続いていた。

 風はそれほど強くはなかったが、相変わらずのすべてが白い世界たった。
 樹氷群がある西斜面のほうへと下って行くと、こちらは足跡もなかったが、雪の表面がクラストしていて、もぐり込むこともなかった。
 そこで一休みしていた時に、上の写真にあるような、青空の晴れ間がのぞいたのだ。


 その後は、再び雲に包まれ、しかし時々青空がのぞきという繰り返しで、少し雲がかかりながらも、赤倉岳、井戸岳、大岳と並んで見える東側に行ったり、その晴れ間の合間合間に、樹氷の写真を撮りまくった。
 山に登れなかった代わりにと、ここぞとばかりに300枚以上もの写真を撮ってしまった。





 結局、この田茂萢岳周辺に3時間半近くもいたことになる。
 他に一人に会っただけで、静かな雪原の樹氷光景を、ただひとりだけで存分に味わうことができたし、本格的に山に登れなかったことは心残りではあるが、それは、少なくとも、何事も半分をもって十分だとする、私の思いにはかなうものだったということなのだ。

 ゆるやかに頂上から下りて行き、振り返りながら見ると、まだ頂上付近に雲をまとわりつかせながら、赤倉岳のスロープがこちらへと延びてきている。
 それを見ていると、あの山だけにでも登りたかったのにと思ってしまう。(写真下)




 ゆるやかに、電波塔頂上へと登り返して着くと、あたりには写真同好会のツアーらしい人々が十数人、それぞれにカメラを構えていた。
 山頂駅の手前からもう一度、山々の眺めを振り返ると、午後遅い光を受けながら、なだらかな田茂萢岳が見えていた。(写真文章下、左側に私たちが行き来したスノーシュー跡が続いている。)
 できることなら、白い山々が夕日に赤く染まるころまでいたいのだけれども、ロープウエイの最終便は4時半だった。
 それならば、下でスキーを借りてきて、夕日が沈んだ後ゆっくりとスキーで降りてくればいいのだが、若いころならともかく、この年寄りにはそれさえもがおっくうになっているのだ。

 あーあ、年を取るといろいろとモノが見えてきて、良いこともあるのだが、半面こうして、何かにつけて腰が重くなる傾向があるようで、はいはい、良いこと悪いこと、半分半分。
 ということで、例の写真ツアーの連中たちと一緒に、楽に席に座って、最終便のゴンドラで降りてきた。

 部屋に戻ると、皆が、山なんぞに登ると言っていた私の帰りが遅いことを心配していてくれた。ありがたいものだ。
 夕食は今日もタップリの具材がある鍋料理で、満腹になったし、一泊二食付きの宿泊料金も安く、登れなかった山々のこともあり、またもう一度来たいと思うほどだった。
 私には、やはり冬がベストなのだけれども、部屋の皆が口をそろえて言う、秋の季節にでももう一度訪れたいものだ。

 そんな彼らに、AKBのことを話題に出してみたものの、やはりというべきか、誰も私のようなファンはいなかった。
 ただ、何人かのメンバーの名前をうろ覚えに知っているだけで、それがAKBの一般に対する評価だと思うし、私も2年前にたまたま耳にした「上からマリコ」の秋元康による歌詞が気になって、それからずっと彼女たちの歌を聞くようになってしまったのだが、その偶然の出会いがなければ、私も彼らと同じように、近頃のアイドル・グループなんてと馬鹿にして、テレビでさえろくに見なかっただろうから、今そうしてAKBなんかに興味はないと言う彼らの気持ちがわからないではないのだ。
 
 ネットのAKB情報サイトでは、投稿するAKBオタクの彼らが、自分たちのことをよくわかって言うのだろうが、自分たちAKBファンたちの集まりのことを称して、よく”村内”という言葉を使っているのだが、それはまことに”言い得て妙(みょう)”だと思う。
 それは、自分たちファンの集まりであるコミュニティーの、影響力の限界を、一言で見事に表しているからだ。

 もっともそうした意味で言えば、私たちもまたそれぞれにいくつかの”村内”に属していることにもなるのだが。
 一番身近なところで言えば、家族、親戚などのひとくくりがあり、友人知人のひとくくりがあり、学校や会社といった普通に所属するひとくくりがあり、そうして趣味サークル仲間などのひとくくりがある、ということになるのだろう。

 例えば、私が今回宿で出会った人たちは、もう十分に山スキーの楽しさを熟知したベテラン・スキーヤーたちであり、いつもこの季節になるとここで顔を合わせているというし、もう顔なじみ以上の関係だから、これから先も、お互いの技術、用具の紹介などでさらに彼らの絆は深まっていくことになるのだろう。
 思えば、そうした意味でも私は”異端”の存在であると思う。
 山登りが好きだけれども、それはいつでも単独行だし、カメラが好きだと言っても、”下手(へた)の横好き”のままいつまでたっても上達しない、”ばかちょん”式の撮り方でしかないし、AKBのことでも誰かと話し合うわけではないし、クラッシク音楽を聞くのもひとりだけだし、誰かと映画の話をすることもないし、思えば私は、様々にある”村内”にすら入らずに、何事も自分の内だけで囲い込み、ささやかな楽しみを見つけ楽しんでいるだけの、いやなじじいになってしまったのかもしれない。
 
 この宿で知り合った、彼らベテランの山スキーヤーたちに話を聞かせてもらい、さらにそのスキー・ツアーの見事な動画までも見せてもらい、思わず引き込まれて、自分もやってみたいとさえ思ったのだが、しかし、考えてみれば、山岳鑑賞派の私は、景色を眺めるよりは滑り優先の、団体行動なんぞについて行けるはずもないのだ。
 つまり爽快なスポーツ感を味わう山スキー派たち”すべりや”と、かたやマゾ体質で、ただ汗水たらして山に登り、”山岳鑑賞派”だとうそぶいている”やまや”の私とが相容れることはないのかもしれない。

 ともかく、そんな”異端”の私ではあるが、それでも、いつも傲然(ごうぜん)と頭(こうべ)をあげて、もう今は変えることもできない、自分だけの道を歩いて行きたいと思う。
 ”一寸の虫にも五分の魂”。
 そうして、すべての生き物は、かく生きるべく命を与えられたのだから、その命が尽きる日まで。
 その時には、聖者の行進の列に加えられることはないだろうが、せめて母とミャオの後について・・・。
 


 


 

 


北の空に向かい

2016-03-07 22:32:28 | Weblog


 3月7日

 "雪解け 間近の 北の空に向かい・・・”

 あの山口百恵(ももえ)ちゃんのヒット曲、「いい日旅立ち」を口ずさみながら、瞳に憂いを含んだ少女は、ひとり北国へと旅立つのでありました・・・と書いてゆけば、何とか様(さま)になる情景も思い浮かんでくるのだが、現実は、白髪混じりの強面(こわもて)のじじいが、どこか違和感のある山登りの格好をして、ひとり北国の雪を求めて旅立っただけの話でありまして。
 数日前に、あの2年前の蔵王の山旅(’14. 3.3,10の項参照)以来、どうしても行きたいと思っていた、青森は八甲田(はっこうだ)の山へと向かったのだが、その山での話は次回に書くとして、今回は上の写真にあるように、遠い旅に出る時の、私のもう一つ楽しみである、飛行機から眺める山々の光景について、まずは書いておきたいと思う。

 もちろん、今の時期に八甲田に行くということは、蔵王で見てすっかりその魅力に取りつかれてしまった、あの樹氷を、また別な山で見たいという思いからであり、そのためにこの一月余り、ずっと東北地方の天気予報を見続けてはいたのだが、なかなか平日に二日続けての天気の日はなく、今年は無理なのかもと思っていたのだが、ありがたいことに先週末にかけて、二日続けての晴れの天気の予報が出て、そこで年寄りの一念が通じたのかと思い、行くことを決めて、さすがのぐうたらおやじもこの時ばかりはと、そさくさと予約準備をすませて、ようやく飛行機に乗り込んだという次第なのだ。

 日本の上空は、西側から移動してきた高気圧に覆われていて、西日本から関東にかけては晴れの予報が出ていたのに、途中の瀬戸内海から関西にかけては、幾つもの部分的な雲が浮かんでいて、どうなることかと心配したのだが、しかしその先の、飛行機展望の核心部である中部地方にかけては、見事な快晴の空が広がっていた。
 青くかすんだ中部地方の大地の上に、真っ白な三角の頂を持った富士山が見えてきて、その手前には、白い列島状に浮かぶ南アルプスの山々の連なり・・・。
 逆の羽田‐福岡便の航路は、南アルプスの真上を飛んで行くことになり、今までに何度もそのレリーフ(朔像)的な姿を見ていたのだが、今回は福岡‐羽田便の遠州灘上空からの眺めであり、いつものように、富士山も南アルプスもやや離れた距離から見ることになるのだが、この日は昼に近い時間にもかかわらず、まだ空気が澄んでいて、見事な南アルプスの連なりを見ることができたのだ。

 最初はほぼ縦位置に、それが次第に斜めに長く連なる形になって、南アルプス3000mの高峰群の一つ一つを指摘できるようになる。(写真上)
 左下(南側)から、聖岳(3013m)赤石岳(3121m)荒川中岳(3064m)悪沢岳(3141m)塩見岳(3047m)、少し左に離れて仙丈ヶ岳(3033m)、そして間ノ岳(3190m)農鳥岳(3051m)が手前に重なり、そこから北岳(3193m)の姿がひときわ高くせりあがっていて、その後ろに甲斐駒ケ岳(2967m)と鳳凰三山(2841m)が並んでいる、この南アルプス全山の姿は、山岳鑑賞マニアの私には、何ともこたえられない眺めだった。
 それは、日本一連覇のソフトバンク・ホークスの強力打線ラインナップとは違うし、またサッカー日本代表の本田、香川などが並ぶ顔ぶれとも違うし、もちろん大相撲の横綱大関陣の顔ぶれとも違うし、はいはい、お察しのとおり、わがAKBの選抜メンバーがずらりと並んだような豪華さ(実際に生で見たことはないけれども)でありまして、もうただただうっとりと見つめるばかりなのであります。

 しかし、その南アルプスを見つめるよりもずっと前から、左手遠くに小さく見えていた白い三角形は、今や駿河湾の海の青を区切って伸びる三保の松原の先に、すそ野を大きく広げた巨大な山の姿となって、周囲を圧倒していたのだ。(写真下)



 富士山は、この一つの山域だけで、あの南アルプスのスター軍団に対抗できるほどの、大きさと華やかさを持った山であり、こうして旅客機の巡航高度である、高度8000m~10000mの高さにおいて見ると、さらに富士山の偉大なる大きさが目につくのだ。(もっとも一方では、ヒマラヤのエヴェレストの8848mという高さが、いかに信じられないほどの高みにあるかも、よくわかるのだが。)
 
 ということで、南アルプスの高峰群を無理やりAKBスター軍団だと強引にこじつけて考えれば、この富士山は誰になるのだろうか。
 このCD不況時代に、新曲ごとに100万枚の売り上げを記録して、300人もの大集団からなるAKBグループに、たった一人で匹敵するような歌手はいるのだろうか。
 もちろん今の日本に、それに値するような実力人気を兼ね備えた歌手がいるはずもない。いるとすれば、時代を超えて伝説にさえなっている、あの美空ひばり(1937~1989)おいて他にないだろう。
 もっとも、それはひばりファンからすれば、AKBなど子供の学芸会レベルの歌と踊りでしかなく、話にもならないと一笑に付されることだろが。

 ただ、私は昔、映画や音楽の担当で企画編集に携わっていた経験があり、日本の古い時代の歌から今に至るまでの歌を聞いてきたうえでのこととして言わせてもらえば、日本の歌手の中で一人を挙げるとすれば、それは美空ひばりを置いて他にはなく、それに次ぐ二番手が誰かさえ思いつかないくらいに、突出した存在であるということだ。
 彼女の歌声の、音域の広さ、音程の確かさ、日本語の発音のきれいさ、感情を込めた歌い回し、演歌としてのこぶし回し、裏声への無理のない移行など、他の歌手たちから抜きん出た技巧があり、もちろんそこに至るまでの彼女の努力もあったのだろうが、まさしく”天才”とか”不世出(ふせいしゅつ)”のと呼ぶにふさわしい歌手だったと思う。

 ところが、若いころ、外国映画のきれいなおねえさんたちや、外国の美人歌手たちにうつつを抜かしていた私には、日本の歌は今の言葉で言えば”ダサい” 歌にしか思えなくて、美空ひばりなどむしろ嫌いなほうだったのだが、会社に入って音楽関係の部署に回されたことから、日本の歌も聞くようになり、さらには自分も少しずつ年を取ってきて、物事のいくらかがわかるようになってきて、ようやく日本人の心を歌う、美空ひばりの歌の素晴らしさが、その偉大さがわかってきたのだ。
 今でも時々テレビでは、長時間にわたる美空ひばり特集番組が放送されるくらいであり、やはり私たち中高年世代にとっては、彼女の瑕疵(かし)のない見事な歌声に聞きほれながら、さらにはその歌によって当時のまだ子供だった自分を思い偲(しの)んだりもするのだ。

 そんな彼女の膨大に残された歌(レコーディング1500曲のうちオリジナル曲517曲)の中から、たちどころに10曲くらいはあげられるけれども、1曲だけを選べと言われれば、考えたあげく、歌曲としての素晴らしさはもとより、彼女の歌い方の神髄(しんずい)を聞くことができる、あの「リンゴ追分」(小沢不二夫作詞米山正夫作曲、1952年)と「ひばりの佐渡情話」(西沢爽作詞船村徹作曲、1962年)の間でまた迷うことだろう。

 AKBファンである私が言うのも何だけれど、AKBの中の誰かが特別に歌がうまいというわけではなく、ダンスが際立ってうまいというわけでもなく、ただ今どきの様々な個性を持った、かわいい女の子たちの大集団であることと、秋元康による作詞とプロデュースでもっているようなものだから、そんなAKBが束になってかかってきたところで、とてもあの美空ひばりにかなうわけもないのだ。
 (ちなみに、美空ひばりのレコード総売り上げ枚数は出荷枚数8000万枚で、実売6500万枚と言われているとのことであり、一方で、握手券・投票券付きのAKBのCD総売り上げ枚数は、3500万枚を超えていると言われているが。このことを調べていて、何と、他の歌手たちに被害を及ぼすからという”AKB撲滅運動”と呼ばれるネット・サイトがあることを初めて知った。)

 今回のテーマ、飛行機からの眺めとは、話がすっかりそれてしまった上に、例え話としてはあまりそぐわない、AKBと美空ひばりを南アルプスと富士山の例えにしたものだから、それだけでも、私のミーハー趣味的な世俗まみれの感覚が露呈してしまったかとも思うが、まあそんなところが、わがままな年寄りの自分勝手な楽しみにもなっているのだし。
 AKBが好き、美空ひばりが好き、オペラが好き、歌舞伎が好き・・・山が好き・・・八丈島のきょん!(昔の漫画「こまわりくん」の意味のないかけ声。

 さて羽田から青森への便では、楽しみにしていたのに、東北地方全体が雲に覆われていて、山の姿は見ることができず、ただ白い雪に覆われた市街地や郊外の田畑が見えるくらいだった。
 そのまま山麓の宿に行って泊まり、翌日雪の八甲田へとロープウエイで上がり、一日中、雪山を楽しんできて、もう一晩宿に泊まって、翌朝青森空港に戻った。
 その日は全くの快晴の空が広がっていて、むしろこの日に山に登ればよかったのにと思えるほどの天気であり、空港の建物からも八甲田(1584m)の山々がよく見えていた。
 今度は逆方向の青森から羽田への便となり、山に登れなかった分、空からの眺めを楽しむことができると思うと、期待が高まった。

 飛行機は、南北に位置して作られた滑走路を、進行方向とは逆の北に向かって舞い上がり、すぐに大きく左旋回して、窓からはあの津軽の名山、岩木山(1625m)の姿が大きく見えてきた。(写真下)



 若いころ、北海道へのバイク旅行のついでに、ふもとの岳(だけ)温泉に泊まり、岩木山に登った思い出があるが、冬の岩木山は、白い雪に覆われた津軽平野のただ中に、ひとり大きくそびえ立っていて、これは、掛け値なしの天下の名山だと思った。
 岩木山の標高は、1625mであり、日本の山々の中では決して高いほうではないのだが、すそ野が広がったふもとの標高100mほどの平野部から、徐々にせりあがってそびえているから、標高以上の高さに見えるのだろう。
 
 それと比べて、あの北アルプスは上高地への入り口に、まるでランドマークのようにいつも見える山、周りの中で唯一の活火山として煙を上げている、焼岳(2455m)のことを思い出すのだが、周囲を3000m級の北アルプスの名山たちに囲まれている上に、上高地自体の高さも1500mくらいはあるから、その標高差は900m余りしかなく、とても岩木山よりは800mも高い山とは思えないし、私は登ったことがないので正確な判断は下しかねるが、周りの巨峰群を見れば名山として推すには無理があるようにも思えるのだ。
 つまりそれほどまでに、津軽平野の中央部にひとり大きく盛り上がっている岩木山は、十分に名山としての風格を備えていると言えるだろう。 
 
 ただ一つ残念なことは、この日は暖かい空気を持った高気圧のために、気温が上がり、空気がかすんでいたことである。それは、この先に行くにつれてさらにひどくモヤ状になっていて、山々の姿がくっきりとは見えなくなっていたからだ。
 飛行機は、そのまま東北地方の中央部を縦断するように飛んで行くのだが、座席の左右で見える山と見えない山が出てくることになる。
 今回、より多くの山が見える右側の座席を選んだために、八甲田の山から岩手山(2038m)に早池峰山(1917m)の山々が見えなかったし、真下の位置になって、森吉山(1454m)や蔵王(1841m)なども見えにくかった。
 山に登る時と同じで、飛行機からの山岳鑑賞を楽しむためには、天気は当然のこと、どの空路の便でどちら側の座席を選ぶかで、その眺めが大きく変わってくることを頭に入れておかなければならない。
 
 とすると、あのディケンズの『クリスマス・キャロル』に出てくる、強欲のスクルージじいさんが金貨を数えるように、自分の残り少ない寿命を数えながら、それに値する飛行機便に乗り、また”値千金”の眺めの山を選んで登る必要があるのだろう。
 まったく最近、ますます自分のことしか考えない、ごうつくばりのじじいになってきたような気がするが、しかし、周りに大きな迷惑をかけていなければ、”引きこもり老人”になっていくのは悪いことではないとも思うのだが。 
 
 さて岩木山が後方に見えなくなっていき、代わって少し離れて、穏やかな山の盛り上がりとなる白神山地(1235m)の山々が見え、大舘(おおだて)の盆地を隔てて今度は秋田近郊の名山、太平山(1170m)の山波が、意外に彫りの深い山稜となって続いている。
 そして、秋田の平野部を過ぎて、右手に大きな白い塊になった鳥海山(2236m)が見えてくる。春霞の中でふくよかに笑う人のような広がりで。
 さらに新庄の盆地を隔てて、月山(1984m)がたおやかに横たわっていて、手前には火山の噴火口跡のような葉山(1462m)があり、遠くには朝日連峰(1878m)が障壁のように連なっていた。(写真下)



 真下には蔵王(1841m)の山々があり、吾妻山(2035m)から安達太良山(1709m)、磐梯山(1819m)と続き、関東の平野部は雲が覆っていて、その雲の上に那須岳(1915m)連峰と日光白根山(2578m)が見えていた。
 東北の名山たちを、北から南に見下ろすことのできた、なかなかに良いフライトだった。

 そして、今までに何度となく乗ってきたおなじみの羽田‐福岡便。
 右側窓の席が取れて、南アルプス中央アルプスなどのいつもの山波が見えるのを楽しみにしていたのに、悲しいかな、全部の稜線覆うように雲がかかっていて、山々を見ることができなかった。
 それならば反対側の富士山を見たいと思ったのだが、ほぼ満席状態で移動することもままならず、あきらめて窓の下を雲を眺めている他はなかった。
 何事も、幸せ半分。いいこともあれば悪いこともある、と納得すれば、自分の心の内も丸く収まるというわけだ。
 
 それでも、上空には、大気圏外の深い紺色の青空が、高く高く続いていた。
 
 「目指したのは、蒼(あお)い、蒼い、あの空・・・。」 

 (作詞作曲 水野良樹、’15.10.5の項参照)