ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

5月なのに39.5度

2019-05-27 21:25:38 | Weblog




 5月27日

 なんてぇ日だ!
 まだ5月だというのに、40℃近い気温だなんて。
 網走近くの佐呂間町で39.5℃、十勝管内の帯広で38.8℃、私の家の温度計でも37.5℃。
 この日の全国の最高気温ベスト10は、すべて北海道で、いずれも38℃以上。
 そのうちのほとんどが、5月としてはというより、今までの年間最高気温の記録を更新し、さらに言えば、この日の全国の最高気温の記録は、32位までが北海道内の観測地点であり、33位になってやっと福島県の35.9℃が出てくるというありさまだったのだ。ちなみに沖縄の那覇は、晴れていたのに28.4℃。

 昨日は朝から20℃近くもあって、まるで真夏の朝のような空気感だったのだが、昼前に36℃を超える頃から、外に出ると、何というか体全体が暑い空気に包まれているようで、その自分の体温を超える気温の不思議な感じを、久しぶりに味わったのだ。
 というのも、今までに何度かここでも書いたことがあるけれども、若き日のオースラリア旅行で、たびたび体験した砂漠の中での40℃超えの気温、その時以来の暑さのだったからだ。
 私が九州にいた時も、家は山間部にあるから、38℃はおろか、むし暑さがあるといってもても、35℃まで上がることはなく、さらにはこの北海道にいるときでも、35℃を超える体験をしたことはなかったのだが、それも真夏のころならともかく、まだ5月の季節は春だというのに・・・これは、もしかして自然界からの警告の声、終わりの始まりを告げる声ではないのかと思ってしまうほどだったのだ。

 人間というものの、自然に対する罪深さは、確かに地獄の業火に焼かれるに値する、悪逆非道のふるまいの数々の行いにあり、もうそれは取り返しのつかない、ブラックホールへの入り口にまで来ているのかもしれないが。
 今ならまだ、踏みとどまることはできるかもしれないのに・・・。

 『聖書』「ヨハネ黙示録』第3章より

 ”すなはち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。だから、あなたがどのようにして受けたか、また聞いたかを思い起こして、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。”

 人間たちの、自分たち自身を滅ぼすことになるかもしれない、愚かな行いの中で、それでも、他の生き物たちは自分たちの生のままに生きていくのだ、草も樹も、虫も鳥も。

 私が北海道に戻って来てから、1か月がたった。
 それは、ようやく草の若芽が伸び始めたころであり、枯れ木色だった樹々のあちこちから新緑の芽吹きが始まっていたころであり、今や、その鮮やかな萌黄(もえぎ)色の新緑は、少しずつ濃い緑への色合いを増して、辺りに広がっている。(写真上、左カラマツ、右シラカバ・ミズナラ・ナナカマド)

 林のへりには、チゴユリの小さな花が咲き始め、林の中では、ツマトリソウの白い花や、薄紅色のベニバナイチヤクソウが咲き始め、日当たりの良い所では、スズランも咲き始め、庭の植え込みの所では、ツツジの第2弾としてのエゾヤマツツジが咲き始めたかと思うと、この暑さで一気に満開になってしまった。(写真下)




 前回あげた山菜のコゴミは、今や南国のシダのように巨大化した葉だけになってしまい、ウドも葉が茂り、さらにはフキがそのカサを広げて伸びてきている。

 こうした記録づくめの暑さになる前は、あちこちの草取りに励んでいた。
 際限なく黄色い花を咲かせる、あの外来種でもあるセイヨウタンポポの抜き取り作業がそれだ。(といっても、日本のタンポポのほとんどはこのセイヨウタンポポであり、在来種の二ホンタンポポにお目にかかれることはめったにないのだが。)
 有名な歌に歌われるほどに、どんなことにもめげずに咲き続けるタンポポの花は、見ている分には鮮やかな黄色できれいなのだが、一つの花で数十数百もの種を綿毛に乗せて運び散らかしていく、その繁殖力は驚異的であり、ほおっておけばすぐに、あたりはタンポポ畑になってしまい、他の植物の侵入を許さないほどだ。
 引き抜くときも、根を残すと、翌年そこからまた葉や茎を伸ばし花を咲かせるし、根ごと引き抜いてもそのままにしておけば、根や葉は枯れていくにしても、花の部分だけは生き続け、そのまま花から綿毛を作るまでの行程を続けていくのだ。
 さらには、もう一つのやっかいな外来種である、あのセイタカアワダチソウがあちこちに侵入してきていて、これは秋の黄色い花が種になって増えるだけでなく、引き抜いても残った地下茎で増えていくという根性ものだから、手に負えない。

 考えてみると、確かにあのドイツ生まれのスイスの作家ヘルマン・ヘッセが言うように、樹や草花野菜などを育てていくことの愉(たの)しみ、いわゆる”庭仕事の愉しみ”があるからこそ、際限なく続くその庭仕事も苦にはならないのだ。
 しかし、いったんその作業をしていた人が不在になれば、今まで矯正発育をさせられていた植物たちが、それぞれの本能のままに、勢力発展を図り、やがては、人間から見れば”荒れ果てた庭”に自然の原っぱや林へと、変わっていくだけのことなのだろうが、つまり庭や畑は、その管理する人間がいる間だけの、彼らの遊びの庭でしかないのだ。

 人間の生も、また然(しか)り。
 すべての物事は、私たちが生きている間だけの、私たちの認識の中だけに作り上げられた楼閣(ろうかく)であり、私という存在が、亡くなってしまえば、まさしく”砂上の楼閣(ろうかく)”のごとく消え去って行くものなのだろう。
 今までにも、何度となく取り上げてきたあの『方丈記』からの一節。

 ”ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
 ・・・。朝(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知(知らず)、生まれ死ぬる人、いずかたより来たりて、いずかたへか去る。また不知、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主(あるじ)と栖と、無常を争ふさま、いわばあさがほの露に異ならず。・・・。”

 (『方丈記』鴨長明 市古貞次校注 岩波文庫)

 それでも、人は生きていき、草や木は茂り、虫は這い鳥は鳴く。
 猛暑日の昨日、朝から林全体で鳴いていたエゾハルゼミの声、私はその声で日が昇る前に目をさましたのだが、日中にかけてその勢いが弱まり、昼時にはもう数えるほどになり、ある時ぴたりとやんでしまったが、再び夕方に向かって鳴き始め、陽が沈んで薄暗くなるころもまだ鳴いていた。
 エゾハルゼミは、大体において、日が差してきて鳴き始め、夕方陽が沈む前まで鳴き続けていて、日中でも日が雲でさえぎられるとぴたりと鳴き声が止んでいたものだから、てっきり陽の光や気温に連動して鳴くものだと思っていたので、今回のように、セミの鳴き声を左右するものが温度であるにしても、暑すぎてもダメだとは知らなかった。
 それは、昨日のあまりにも異常な気温の中でのことだから、とも思うのだが。

 鳥たちについていえば、特にこの1週間ほどはキビタキがやって来て、ホイピリリとすんだきれいな声を聞かせてくれていたのだが、やがてエゾハルゼミの声が圧倒するようになり、二三日前にはツツドリの声が聞こえ、今日は、いつもよりずっと早く、カッコウの声が聞こえていた。

 今日も、昨日からの暑さを引きずっていて、32℃まで上がり、真夏の暑さだった。
 しかし、ありがたいことに家は丸太小屋だから、断熱効果が効いていて、窓を閉め切っておけば気温は20℃くらいで、場所によってはフリースを着たくなるほどだ。
 しかし、ロフトの2階はムレムレの暑さになるが、夜になって窓を開けておけば、冷たい空気が入ってきてくれて、朝の気温は15℃くらいと快適この上ない。
 私は、夏があまり好きではないけれども、この北海道の朝のさらっとした空気感だけは、何物にも代えがたいと思っている。
 
 相変わらず快晴の暑い日が続く毎日で、雨は降らずに、井戸は干上がったままで、もらい水で何とかしのいでいるが、洗い物にも不便して、庭のまき水さえできずに、大好きな風呂も三日に一度くらいで・・・。 
 まあ、何事にもすべて満足できることなどありえないことだし、ともかくは、この大好きな北海道に居られる事だけでも良しとしよう。

 さあて、夕暮れも近づいてきて、日も傾いて、気温も下がってきたことだし、外に出て、暮れなずむ空を見上げ草や木を眺めながら、ほおっーと一息ついて、人力放水でもするか。 
 それを見たキタキツネが、キャーンと一声あげて走り去っていく。イエス ウィ キャーン。


ひむがしの野に

2019-05-20 22:34:15 | Weblog




 5月20日

 近くの町に買い物に行って、ついでに風呂にも入りいい気分になって、暮れなずむ平原の中の道をクルマで走って行く。
 少し開けた車の窓から、田園の匂いのする風が入ってくる。
 何という幸せなひと時だろう。
 西の空には、太陽が日高山脈の稜線に落ちていき(写真上)、反対側の暗くなってきた東の空からは、大きな満月が昇ってきている。

 そうした時には、いつもあのいにしえの歌を思い出し、ひとりつぶやいてしまうのだ。

 ”東(ひむがし)の野に かぎろひ(曙の光)の立つ見えて かえり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ”
(『万葉集』巻一 48 柿本人麻呂 伊藤博校注 角川文庫)

 今までも、このブログで何度も取り上げたことがあるのだが、この歌は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の代表的な一首だとも言われていて、何よりその歌に先立つ長歌には、軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)とともに、早朝狩りに向かう時の、勇み立つ思いに満ち溢れていて、昇る朝日を軽皇子になぞらえ、沈みゆく月を過去になぞらえて作られたともされているが、そういう背景を知らずに、さらにはこの長歌に続く短歌三首の並びとも切り離して、この歌だけを単体として見たとしても、そこには、壮大な宇宙を思い浮かべさせるようなスケール感が感じられるのだ。
 まるであのスタンリー・キューブリック監督の不朽の名作『2001年宇宙の旅』(1968年、アメリカ)での1シーンが切り取られているかのような。
 もちろん、この和歌は、昔の野原の朝の光景を詠ったものなのだから、今、私の目の前にある田園風景とは異なっていて、さらには状況が朝とは逆の、夕べの光景ではあるとしても、今も昔も変わらぬ無窮(むきゅう)の天空の中で、朝な夕なに繰り返されている、大自然の風景の一つであることに変わりはないのだ。
(ちなみに、新元号の”令和”が、この『万葉集』の第五巻の中の”梅花の歌三十一首併せて序”の中の序文からとられているということだが、そこに至る経過については、浅学の徒たる私があれこれ言うべきことではないのだが、ただこれを機会に、日本文学の最高の古典に日の目が当てられて、多くの人が『万葉集』に興味を持つようになってくれたことだけでも、実に喜ばしいことだと思う。)

 ところで話を元に戻して考えてみれば、夕焼けの一瞬の光景の中にみる、自分だけで感じる小さな幸せな思いが、いくつも積み重ねられていって、それがこうして、北海道にいることの喜びになるのだろう。
 この歳になるまで生きてこられてよかったと思い、今生きていることができて幸せだと思うこと。
 若い時には、それほどまでに感じなかった、自然というものへの感謝の思いは、年を重ねていくごとに、年輪のように重なり増えていくものなのだろう。
 草も樹もも、虫も鳥も、一緒に生きている仲間として。

 先々週に放送された、いつもの『ポツンと一軒家』で、その前に放送された熊本県の山奥の、一軒家ごとに五軒もあった”ポツンと一軒家”の回の他にも、まだ一軒家があるということで、今回取材班が訪れた山奥の家には、89歳と83歳になるという老夫婦が住んでいて、おじいさんの方は、脳梗塞で倒れた後遺症から、運転免許は返納したというが、今は孫たちのクルマで送り迎えしてもらっていて、子供たちからは下で一緒に生活したらと言われているそうだが、おばあさんが言うには、”町は騒がしくて住みたくない。ここに居れば静かで、鳥の声で目が覚め、今はウグイスの声が聞こえてくるし、街で生活したいとは思わない。そして毎日、下の集落から友人知人たちが寂しいだろうからと訪ねてきてくれるから。と” 
 もう一本は、同じ山奥の一軒家だが、下の町から上がって来て、一時やめていた体験農家民宿の準備をしているという68歳のおばさんの話だった。
 宿泊者は、山菜を食べて五右衛門風呂を沸かして入るという体験に大喜びだそうで、私の不便な生活とあまり変わらないことなのだが。

 今、家の周りでは山菜のコゴミが大量に伸びてきていて、葉が開く前に、ぜんまいの形がまだあるうちにと、毎日食べてはいるのだが、何しろ一面に生えていて、それも毎年増えてきていて、その勢いは周りの圧倒的なササの勢力範囲の中に侵入するほどで、まさに一石二鳥のありがたい山菜なのだ。(写真下)




 このコゴミは、山菜野菜の中でも屈指の量のポルフェノールが含まれているということで、前回書いたアイヌネギ(ギョウジャニンニク)とともに、毎年私が冷凍保存することにしている二大山菜の一つなのだ。
 しかし、前から書いているように、今、家の井戸は枯渇していてもらい水の状態で、とても洗ったり煮たりするには大量の水が必要だから、それを抑えて水を使うとしても、平年の半分くらいしか保存できないだろうから、とても秋まではもたないだろうが、もっともここ十勝は農業王国であり、都会のスーパーで買うよりははるかに安い値段で、旬(しゅん)の野菜を手に入れることができるのだから、それほど悲観することもないのだが。 
 もっとも、こうして毎年、自分で作るよりは店で買って調達した方が、手間もかからずなおかつ安上がりにすむからと、わが家のネコのひたいほどの畑は、さらに年毎に小さくなってゆき、今ではキャベツの一畝とミニトマトの一畝、さらに前から作り続けている小さなイチゴ畑だけになってしまった。

 それにしても、思えば九州でもそうだったのだが、この北海道に来ても、今年はなんと天気のいい日が多いのだろう。
 青空大好きの”お天気屋”の私からすれば、これほどありがたい年はないのだが。
 つまり、山登りに夢中だったころなら、喜び勇んで毎週欠かさず山に向かったことだろうが、今では、そのころと比べれば、見る影もなく老いぼれてしまって、”フンドシひらひら”とさせながらよろよろと歩くじじいには、もうそんな元気があるはずもなく、その割に口だけは達者になって、経験者めかしてあれこれと言いたくなるのだ。
 例えば今回のあの屋久島豪雨で、幸いにも大きな被害者が出なかったからいいようなものの、集団のツアー登山については、いつも金銭的日程スケデュールの都合がついて回り、問題が起きると、あの夏のトムラウシ山(2141m)での大量遭難死のように、いつでも悲劇的な事件になりうることを肝に銘じておくべきだろう。
 今回、山中に取り残された登山者300人の救出劇にも、自衛隊などのレスキュー隊が出動していて、何か冒険ドラマ仕立てのように紹介されていたが、実は一歩間違えば同じような大量遭難の危険をはらんでいたのだ。

 もう8年も前のことになるが、私も屋久島に行ってきた。
 そのしばらく前から天気予報を見ていて、長い予備日を設けて、何とかその中で晴れの日を選んで、その計画に従って、屋久島の山を南北に縦走して宮之浦岳(1936m)に登ったのだが、それでも梅雨のさなかの青空は二日と続かず、本来2泊の所を1泊にしたぐらいで、二日目は小雨の中ずっと歩き続けるだけで、長くつらかったが、それでも”1か月に35日雨が降る”という、水の豊富な屋久島の、良くも悪くも現実の顔を見せつけられた思いがした。
 ただ最初の日に、半日の間でも青空の下の山を歩くことができて、念願のヤクシマシャクナゲを見て、ヤクシカやヤクザルにもあうことができたし、さらには、他に誰もいない私と縄文杉だけのひと時を過ごすことができたし、それは私の望む完全な青空の下の山ではなかったけれども、十分に満足することができたのだ。あのころだからできた、幸せな山旅だったのだ。(2011.6.17~25の項参照)

 私にとって、他にどんな理由があるにせよ、天気が悪いとわかっていて、山に登るということは考えられないのだ。
 ともかく、晴れた日にしか山に登らないというという私の思いは、これからも変わらないし、日時を自由に選んで山に行くというぜいたくさは、それは、私が青空をお金で買っていることになるのかもしれないが、ただそれが年寄りのわがままだと開き直り、このぜいたくな山行だけは押し通したいのだ。
 残り少ない人生の日々、大好きな山とともに過ごす時間は、大好きな青空の下でこそ初めて成就(じょうじゅ)されるものだからだ。

 さて、十勝地方のわが家に戻って来て、もはや1か月近くになるが、雨が降ったのは、にわか雨程度のものが、夜中に2回あっただけで、最初から干上がっていたわが家の井戸は、もうお手上げ状態であり、よほどの豪雨にならない限り、普通に井戸水を使えることはないのだろう。
 明日ようやく、一日中雨の予報が出ているが、まあ畑の植え付けや芝生の手入れぐらいは、何とかできるようになるのだろうが。

 それにしても、またも山に登るのが1か月以上も空いてしまった。
 夏の遠征登山などは、もう無理なのだろうか。
 厳冬期以外のシーズンには、毎日富士山を2往復しているという、今年74歳のおじいさんもいるのに。

 あの有名なフランドルの画家ピーテル・ブリュ-ゲル(1525~69)の、「怠け者の天国」に描かれている3人の若者姿は、とりもなおさず、私の今の姿を暗示しているのかもしれない。
 この春から夏にかけて、東京ではこの”ブリューゲル展”に”フェルメール展”さらには”クリムト展”と、見たい絵画展が目白押しの賑わいなのに、私はその混雑を恐れて、行く気にもならないのだ。
 山といい、絵画といい、コンサートといい、映画といい、もう今では、私の中の過去の思い出としてしか、楽しめなくなっているのだろうか。
 くそっ、こんなところでくたばってたまるか。
 




百花繚乱

2019-05-13 21:09:26 | Weblog



 5月13日

 青空、日高山脈、そよ風、鳥の声、そして百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のごとくに咲き乱れる花々。
 何をか言わんや。
 西行法師は、辞世の句として、あの有名な歌、 ”願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎ(如月)の 望月のころ”を詠んだと言われているが、私には、こうして白雪の連嶺が眺められ、樹々や草花がいっせいに咲き出す今の時期こそが、望むべきふさわしい、末期の舞台にも思えるのだが、と言いつつ、厳冬の時期の凛(りん)とした寒さの中にも憧れを残しつつ・・・はてさて雲のゆくえと人の定めは、お釈迦様でもご存じあるまいに・・・。

 上にあげた写真は、前回書いたように先月の終わりに雪が降った後、二日後の近くの丘の上から撮った写真であるが、稜線のところどころの溶け始めていた部分が、再び雪に覆われて、冬の時期と変わらない山々の姿を見せていた。
 左から1823峰(後年測量1826m)、ピラミッド峰(1853m)、前回”ヒグマ遭難事件”で取り上げたカムイエクウチカウシ山(1979m)、1903峰、後ろに1917峰である。
 前景に映っている木々やカラマツ林は、まだ冬枯れの色のままであるが、あれから2週間、今ではすべての木々の芽吹き新緑が始まっていて、すっかり若緑色の林になっているし、山の稜線も雪解けが進んでいるのか、所々黒く見え始めている。

 地上に目を移せば、北国の春は、まさしく”春色特急”といえるほどに、辺りの草木のすべてをあわただしく花開かせていくのだ。
 4月の終わりにこちらに戻って来て、まず最初に目にしたのは、前回書いたように、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)を採りに行ったときに目にした、ミズバショウにフクジュソウやエゾノリュウキンカぐらいのものだったのだが、今は丘向こうに出かけなくとも、家の林のふちにはオオバナノエンレイソウ(写真下)が咲いているし、庭ではシバザクラとチューリップがあでやかに咲きほこっている。
 


 しかし、今年何よりもうれしかったのは、庭のコブシの花がいっぱいに咲いてくれたことだ。
 それはもう、20年近くも前に帯広の植木市で買ってきた苗から、ここまで大きく育ってきてくれた木なのだが、そのわりにはなかなか花を咲かせてはくれずに、この木は花の少ない木なのだとあきらめかけていた時に、あの3年前の湿った大雪で、枝の何本かが折れてしまい、ますます期待が持てなくなってしまっていたのだ。
 そして、一昨年去年と、まあ何とか数えるほどの花を咲かせて回復していたから、これだけでも十分だと思っていたのだが、今年は何と、一気に木全体に白いコブシの花を咲かせてくれたのだ。(写真下)


 
 それは、九州のわが家の庭にあるコブシの木とは比較にならないほどに大きくて、花数も多くて、ようやく他所で見るコブシの木と変わらないものになってくれたのだ。まずはふつうの花の多いコブシの木だったことに一安心して、眺めるたびにその喜びが湧き上がってくるのだ。
 それは、長年一緒に暮らしてきた子供の成長ぶりを見るようで、年寄りたちが草花や樹々たちに手をかけてその成長に目を細めるように、それが園芸の一つの愉しみなのかもしれない。

 ”木は私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなしているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。・・・。
 しかし木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、その命の全力をもってただひとつのことだけを成就(じょうじゅ)しようとしている。それは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分自らを表現することだ。・・・。
 一本の美しく頑丈(がんじょう)な木ほど神聖で、模範的なものはない。・・・。
 ある木は語る。「私の力は信頼だ。私は自分の父祖のことは何も知らない。私は年ごとに私から生まれる幾千のもの子供たちのことも何も知らない。私は自分の種子の秘密を最後まで生きぬく。それ以外のことは何も私の関心ごとではない.私は神が私の中に存在することを信じる。この信頼に基づいて私は生きている。」

(『庭仕事の愉しみ』ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 草思社)

 他にも、庭の周辺には、サトザクラとシベリアザクラ(花モモの一種)があり、さらには白い花の咲くスモモの木が三本あり、林の中には数本のエドヤマザクラがあるのだが、それぞれに小さいながらも今年も咲いてくれて、これまた毎年の春の愉しみである。

 さらに私を驚かせたものがある。 
 それは、家のカラマツ林の中にあるミズキである。
 これもまた花数が少ないものの、林間の木漏れ日を浴びて、毎年同じように10輪ほどの花を咲かせてくれていたのだが、今年はなんと、これまた木いっぱいになるほどに白い花を咲かせてくれて、まるでその木の所だけがスポットライトを浴びているかのようだった。(写真下)




 木々や草花たちは、私たち人間のように無駄に年をとってはいないのだ。
 いつも、たゆまざる自己向上心をもって、次の世代に届けるべきしるしを、自らの体に刻み付けては遺していくのだ。
 それは、自然界の永遠に向かっての、何という見事なたくらみなのだろうか・・・。

 それに引きかえ、お天気屋でぐうたらで日和見(ひよりみ)的なこのじじいは、昔大好きだった残雪の山に登りに行くこともなく、家でゴロゴロしているばかりで、この情けない”ていたらく“ぶりを、何というべきか。
 ”八丈島のきょん!”(漫画「がきデカ」こまわりくんの意味のない感嘆詞)

 昨日今日と朝は0度近くまで冷え込んで、昨日は霜が降りていたが、日中は16℃くらいまで上がって、ちょうどいい春の穏やかな気温になっている。 
 九州や本州では、30度超えの真夏日が続いているというのに、夏が苦手な私には、この青空の下の心地良い涼しさが何にもましてありがたい。
 しかし、晴れた日が続く分、家の井戸は相変わらず干上がったままで、相変わらずもらい水と市販天然水で何とかやりくりしているところだ。
 去年と同じように、井戸の水が使えないことは覚悟するとしても、せめて雨が降って、その雨水で一般生活用水だけでもまかなえればと思うのだが・・・大山祇大神(オオヤマツミノオオカミ)、高龗神(タカオカミノカミ)、八大竜王、なにとぞ雨降らせ給え・・・。




春色特急

2019-05-06 21:25:38 | Weblog




 5月6日

 何という、慌ただしく、目まぐるしく、変わり続けた春の日だったことだろう。
 ”月日は流れ、私は残る。”(アポリネール「ミラボー橋」)

 そして、この長い連休の間、近くの小さなスーパーに買い物に行くか風呂入りに行く以外、私はずっと家に居た。
 いくら天気が良くて外出日和(びより)でも、山でも街でも、人が多い所には、あまり行きたくはなかった。
 もっとも、こうして九州から北海道の家に戻って来たこと自体が、長期に及ぶ旅のようなものだし、この度の長い連休は、私にとってはまだ続いている旅であり・・・ありがたいような、困ったことのような・・・。

 というのも、そのありがたいことは、この北海道の春にあり、山野の眺めにあるのだが、その困ったことは、相変わらず続く、この北海道の家での、ライフラインの未整備により欠陥があることなのだ。 
 こちらに戻って来て、まず最初にやるべきことは、冬の間凍り付いかないようにと外して家の中に入れていた、井戸ポンプの再設置だったのだが。
 果たして、いや期待するまでもなく、水は出なかった。
 周りの農家の人たちからも言われていたのだ・・・今年は雪が少なく、さらにはいつもよりは早く、一か月以上も前に畑の雪が溶けて、雨も少なく、カラカラの状態だから、井戸水は無理だろう、と。

 その後、何と雪が降ったり、そして一度だけのにわか雨が降ったりしたことはあったのだが、とても乾燥した土地を潤すほどのものではなかった。
 そして、今も、去年と同じように、市販品の飲み水と、隣の農家や友達の家からの、もらい水に頼る日々が続いている。(ちなみに、帯広を中心とする十勝平野中央部の町や村の水道は、日高山脈の水を集めて流れる札内川ダムの豊かな水の恩恵を受けている。)

 一方で、何といってもうれしいのは、去年の秋以来の再会になる、日高山脈と広大に広がる十勝平野の山野の眺めである。
 この家に関する様々な不便があっても、私をこの地に引きとどめているのは、この魅力に満ち溢れた広大な自然の眺めにあるのだが、いつものことながらそのことを、この豊かな春の色彩の中で実感するのだ。

 十日ほど前に戻って来てから、すぐに家の中や小屋や庭の片づけを終わらせ、まず最初に私が足を運んだのは、丘の向こうにある、湿地帯である。 
 まさしく、今の時期だったのだ。
 一つは、この湿地帯に散在するミズバショウの花(冒頭の写真)やザゼンソウを見ることと、もう一つはおそらくは今が出始めたばかりだろう、北海道の山菜アイヌネギ(ギョウジャニンニク)を採るためである。
 群生地としては、それほど多く出ているわけではなく、もっとも私が食べる分だけだから、それほど大量に欲しいわけでもなく、こうしてひっそりと生えてくれているものを採るだけで十分なのだ。(写真下)





 その中から、採るのは全体の三分の一から四分の一くらいなもので、さらに地下に埋まっている球根の部分までは採らないで、地上に出ている部分だけをハサミやナイフで切り取るようにしている。
 内地の山野に自生するノビルなどがそうであるように、根ごと引き抜いて酢みそあえにして食べればおいしいのだろうが、そうすると見る間に群生地での数は減って行ってしまうから、植生の保護というよりは、自分のために毎年食べる分だけを、いただくようにすればいいだけのことなのだが。

 そうして、レジ袋にいっぱい採ってきたアイヌネギを、水洗い整理して、小分けにして数袋を冷凍庫に入れて保管しておくのだが、これではこちらにいる間の、半年分として時々食べるにはもちろんまだ足りないから、私の知ってる数か所の群生地のうちの、別の場所でもう少し採り足さなければならないだろう。
 もちろん、人里離れた山野に分け入るのだから、そして北海道にはどこにでもヒグマはいるものだから、山に登る時以外にも、こうした丘陵や低地でも、足跡やフンの類は何度も見たことがあるし、わが家の小さな畑にも足跡がついていたことがあったくらいだから、まして山菜取りにはいつも一人で行くのだから、その時は鳴り物を用意したりと注意はしているのだが。

 それにしても、この北海道に棲むヒグマは、内地のツキノワグマと比べれば、大人と子供ほどの違いがあり、立ち上がると2mほどにもなり、体重200㎏を超えるというから、偶然にそのヒグマに出遭うのが一番怖いのだが、もちろん当のヒグマの方も用心深く、めったに人を襲うことはないといわれているのだが。
 過去には、例の日高山脈カムイエクウチカウシ山(1979m)の札内川八ノ沢で、九州の大学ワンゲル部の学生5人がヒグマ襲われて、3人が死亡するという、登山史上まれにみる悲惨な事件が起きていて、それを先日、民放テレビで再現ドラマ化していたが、何とあれからもう50年近い歳月がたっているのだ。
 この再現ドラマには、ロケの場所や人物などなど、もう少し調べて検討してほしかったと思うが、それでも普通にこのドラマを見た人には、その恐ろしさが十分に伝わったことだろう。

 私も、このカムイエクに登るために、この八ノ沢ルートを三回往復しているが、いつものように一人で、八ノ沢カールと山頂直下にテントを張って泊まったことがあるが、とても眠れたものではなかった。
 そうした寝不足の日が続いたものの、山々は、カムイ(神威)と呼ばれるヒグマたちが生息するにふさわしい、自然豊かな豪壮な山岳景観を見せてくれたのだ。

 もし、北海道の山の中から五つを選べと言われれば、その山の姿かたち、頂上からの眺め、その行程での途中の植生景観などが、私にとっての名山選定基準なのだが、そこに間違いなく入るのが、この日高山脈のカムイエクウチカウシ山と日高幌尻岳(ひだかぽろしりだけ、2052m)であり、そして本谷雪渓ルートからの芦別岳(1727m)に、大雪山からは、白雲岳(2230m)とトムラウシ山(2141m)を入れたいのだが、ただ利尻島の利尻岳(1719m)は一般登山ルートからしか登っていないので、冬季バリエーション・ルートからの判断はできないが、画像映像で見る限りでは、もし私が若き冒険心あふれるクライマーであったならば、何はさておきこの利尻を第一に挙げたことだろうが。
 こうして、昔登った山々や憧れのまま登っていない山々を含めて、ひと時を山に想いを馳せてみるのもいいことだ。

「ミャオと連れ立って天国に行くための祈り」

”おお神様、私があなたのところへまいります日は、どうかこうした山々が青空の下に見えているような日にしてください。もし、それらの山々以外でも構いませんが、出来ることなら、あの何度もの大縦走を繰り返した北アルプスや南アルプスに、さらには私の故郷の山でもある九重の山々でもいいのですが。私は、ひざの上で寝ているミャオをなでながら、山々を眺めては、微笑みを浮かべて、静かに息を引き取ることができるだろうと思うのです。”

(「驢馬と連れ立って天国に行くための祈り」フランシス・ジャム 堀口大學訳 新潮文庫 による)

 と思っているうちに、夕方から急に冷えてきて、何と夜には雪が降り始めて、26日の朝には7㎝ほど積もっていて、春なのに一面の銀世界になっていた。(写真下、屋根の軒先から積もった雪がせり出してきている。)



 しかし、連休のころに雪が降るのは、北海道では、別に珍しいことでもないし、5月いっぱいはまだ雪には注意しなければならないのだ。
 ただし、クルマも夏タイヤのままだし、これでは外に出かけられないと心配していたのだが、やはりそこは春の雪で、その日のうちにはだいぶん溶けて、翌日までにはあらかた雪はなくなってしまった。
 その次の日には、”凱風快晴(がいふうかいせい、葛飾北斎の富嶽三十六景の一枚)”のような素晴らしい青空の下、目の前には、白雪の日高山脈の山々がずらりと並んでいた。

 以下は次回に書くことにするが、北海道に戻ってきて以来、この北国の春は目まぐるしく変わっていき、まるで春色特急列車に乗っているようで、いろいろと書き記しておくべきことが多くて、前回から順送りに一週間遅れの話になってしまったが、まあそこは、老い先短い年寄りのわがままな話として・・・。