ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(102)

2010-05-30 20:14:15 | Weblog



5月30日

 拝啓 ミャオ様

 青空が広がり、彼方には、まだ残雪豊かな日高山脈の山々が立ち並んでいる。家の周りは、萌え出づる新緑に被われ、さわやかな風が吹き渡っている。
 色鮮やかなチューリップやシバザクラの花が、庭のあちこちにいろどりを添え、スモモの花も、咲き始めた。
 林の中から、鈴を転がすようなキビタキのさえずりの声が聞こえてくる。気温17度、なんというすがすがしい日なのだろうか。
 皆が元気に生きている、その声に満ち溢れた北国の春なのだ。

 しかし、その前の一週間は、春とは思えないほどに、暗くて寒い日が続き、気温は10度にも満たず、薪(まき)ストーヴに火をつける毎日だった。
 ようやく、全道的に晴れマークが出た昨日、私は、待ち望んでいた山登りに出かけた。前回と同じように(5月16日の項)、またしても土曜日になり、人出が多くなる日を避けたい私には、少しためらいがないでもなかったが、そんなぜいたくを言っている場合ではない。
 晴れた日には、山に登って、美しい山々の姿を楽しむこと。まさに単純な、私の人生のテーマである。生きている間にできることはそう多くはない、余計な理屈を考えずに、実行していくだけのことだ。

 しかし、年のせいかグウタラと支度をして、またしても出かけるのが遅くなり、十勝三股の林道入り口に着いたのは、7時過ぎだった(今頃の北海道の日の出は4時前)。
 そこから、十六の沢林道に入って行く。前回の林道の時と同じように、今年は雪が多いから、まだ林道には残雪が残っていて、恐らくは終点の杉沢出合いまでは行けないだろう。
 それでも、かなり入った所で、車が一台路肩に停まっていた。私もその先で停める。

 プラスチック・ブーツをはいて、身支度を整え、林道を歩いて行く。そこには、まだ新しい大型四駆のタイヤ跡が続いていたが、先のほうの土場(伐採集積地)跡に、その車も停まっていた。
 その先は、50cmほどもある残雪が道いっぱいにあって、そこに登山靴の足跡がついている。前回と同じように、その跡をたどって行けるので幾らかは楽なのだが、誰もいない道をたどる、小さな冒険心の楽しみは薄れることになる。
 谷間の林の上に見事な青空が広がり、白い山なみが見えてきた。ニペソツ山群の北端にある、小天狗(1681m)である。今回目指すのは、その後にある1618mピークである。

 今回、なぜこの無名の山を目指したかというと、第一の目的は、東大雪の名峰、ニペソツ山(2013m)の姿を眺めるためである。
 ずいぶん昔のことになるが、まだ私が、北海道に憧れ、北海道の山々に登りたいと思っていたころ、是非とも登らなければならない山の一つが、ニペソツ山であった。
 おおらかな広がりはあるけれども、アルペン的な山容の山が少ない北海道の山々の中にあって、日高山脈の幾つかの峰々と、このニペソツ山、石狩岳、利尻山などは、写真で見ると、北アルプスのような峻険(しゅんけん)な岩稜に縁取られた見事な姿で、日ごとに私の思いをかきたてたのである。

 そのニペソツ山には、その後、誰もが感動するあの前天狗からの初対面をして以来、春、夏、秋と、4度ほど登っている。そして、そのたびごとに、前天狗のコルからの、颯爽(さっそう)としたニペソツ山の眺めに、見とれるばかりだったのだが、さらに他にも、少し離れた所からその姿を眺めてみたいと思っていた。
 西側の、大雪、十勝岳連峰から見る、その侵食された山ひだの西面の姿も悪くはないのだが、あのニペソツ山の東壁が隠されてしまい、長い頂稜とあいまって、どうしても今ひとつの感を否めない。

 とすれば、東側、あるいは南北側からの眺めである。東に相対する山は、クマネシリ山群の山々(1635mの西クマネシリ岳など)であるが、それらの山からニペソツの東壁は望めても、南北に続く頂上稜線が少し間延びして見える。
 東側からの迫力ある東壁を望むのは、もっと近くから少し振り仰ぐ姿になるが、下の糠平(ぬかびら)湖岸、糠平ダム堰堤(えんてい)、あるいはホロカ山(1166m)辺りからの方が良いと思う。

 そして、南北方向からだが、実はこの方向からの方が、東壁は多少隠されるけれども、長い頂稜が引き締まった形になり、東壁に落ちる山頂が鋭くとがって見えるのだ。
 まずは、南側のウペペサンケ山(1836m)からだが、東壁も見え、確かに山稜も引き締まるが、あの北アルプスの白馬鑓ヶ岳(しろうまやり)に似た感じで、むしろ重厚な山体になり、今ひとつ鋭さにかける。
 ただしそのまま、ウペペから西に山稜をたどり、東丸山(1688m)辺りに来ると、西側山腹に、火山の山らしい裾野の広がりが見えてくる。
 その優美な山すその広がりは、その北にある丸山(1692m)の頂に立った時に、最高の姿となる。様々に変化する、ニペソツ山の姿の一つである。

 最後に北側では、石狩、音更連峰からの眺めになるが、その稜線にあるニペの耳(1895m)や石狩岳(1966m)などからは、鋭さはあるのだが、今ひとつ形がまとまらない。むしろ音更山(おとふけやま、1937m)まで下がるか、さらに言えば、石狩岳へのシュナイダー・コース途中からの、天を突くような姿の方が素晴らしい。
 さらに離れた十石峠(じゅっこくとうげ、1576m)、ユニ石狩岳(1756m)方面からは、裾野を引く火山系山体の上に乗った、天狗岳(1868m)とニペソツ山という姿になるが、その鋭い山頂の形も悪くはない。
 今回は、その十石峠方面からいつも眺めて目をつけていた、方角的に延長上にある、小天狗北のコブ、1618m標高点を目指すことにしたのである。新たなニペソツの姿を見つけるために。

 先行者の足跡をたどり、樹林帯を登り、ハイマツの尾根に出る。見晴らしが開けて、青空の下、正面に天狗岳、左にまだたっぷりと雪をつけたウペペサンケ山が見える。
 小天狗へと続く雪堤(せきてい)の途中から、先行者の足跡は左へトラヴァースして、天狗、ニペソツ方面に向かっている。ここからは、足跡のない、すっきりと広がる雪面を歩いて行けるのだ。
 ひと登りで、小天狗の山頂に着く。一気に西側の展望が開けて、石狩連峰から、トムラウシ山、十勝岳連峰の姿が素晴らしい。しかし、ニペソツ山は、南側に立ちはだかる天狗岳の後になってまだ見えない。

 一休みした後、山頂から1618mピークへと続く尾根へと降りようとするが、所々出ているハイマツと雪に足を取られて一苦労する。やがて、低いダケカンバの斜面になって、雪質も落ちつき、さらに下ると、すっきりと広がり続く雪堤が、1618mピークへと続いている。
 誰もいない、ただひとりの雪の回廊(かいろう)を、さくさくと足音だけを立てて歩いて行く。正面に盛り上がる1618の山頂、その右に石狩連峰が連なり、三国峠へと続いている(写真)。その下には、十勝三股の樹海が広がってる。空は晴れて、やさしい風が吹いていた。

 私は、何度も立ち止まっては、その景色を眺めた。この1キロ余りの雪堤の道こそ、まさに”天国への1マイル”と呼ぶにふさわしかった。
 西行法師の有名な歌にあやかって、私もつぶやいてみる。
  『願わくば、雪の上にて春死なん、その山々の皐月(さつき)のころ』 

 最後の雪堤の登りが終わると、意外に広い1618mの頂上に着いた。4時間ほどの行程だった。
 期待したニペソツ山の展望は、ここからだと、手前の天狗岳の連なりと並んだ形になり、その鋭い形の片鱗(へんりん)はうかがえるものの、今ひとつ抜きん出て屹立(きつりつ)するほどの姿にはなっていなかった。
 しかしそれ以上に、私を満足させたのは、やはり十勝三股の樹海の上に、さえぎることなく続く石狩連峰の眺めであった。

 40分ほど頂上にいたが、南側に少し雲が広がってきて、戻ることにした。雪堤を下り、振り返り山々を眺めながら、”下界への1マイル”を歩いて行った。
 ニペソツ山の、期待の展望は十分にはかなえられなかったが、それでも、あの”天国への1マイル”への道をたどれたことは幸せだった。
 1週間もの、暗い日々が続いた後、それは私の前に開けた、幸運なめぐり逢いのひと時だったのだ。ありがとう、1618mピーク。
 
 これからは、何と今までとは逆に、1週間もの山登り日和の晴れた日が続くとの予報だが、残念ながら、私は北海道を離れなければならない。ミャオが待っている九州へ、戻らなければならない。
 こうして、私が良い思いをした後は、今度はミャオが良い思いをする番なのだ。ミャオ、もうすぐすると、毎日、あの生魚を食べられるようになるからね。待ってておくれ。

                      飼い主より 敬具
  


飼い主よりミャオへ(101)

2010-05-24 21:55:51 | Weblog



5月24日

 写真は、家の林の中にあるコゴミの群落である。コゴミはシダの一種で、クサソテツとも呼ばれ、若葉の時に山菜として食べられる。ワラビほどアクが強くなく、適当なヌメリがあり、ポリフェノールの含有量が高いと言われている。
 そのコゴミを、いつも夕方になるとハサミを持って行って、何本かを切り取ってくる。軽く湯通しして水にさらし、カツオブシをかけておひたしとして食べる。熱いご飯に、これだけでもう十分なくらいだ。

 元来、私は、貧しい子供時代を送ったせいか、食べ物に関しては、それほど執着はしない。まずは、十分に食べられるだけの量があれば、それだけで十分であり、おごちそう様でしたと感謝する気持ちになる。
 ここ北海道にいても、ミャオと一緒に九州にいる時でも、殆んど外食はしない。かといって、自分で料理を作るのが好きだというわけでもない。
 つまり、あり合わせの物で、例えばサカナの干物と、野菜一皿があればそれで十分だ。

 今の時代の、食べることにこだわりを持った人々と比べれば、まさしく食の貧者と呼ばれても仕方がない。おいしいラーメン屋があるからとか、おいしいどんぶり屋さんがあるからと行って出かけたり、まして幾つ星かのついたレストランになどは、これからも決して行くことはないだろう。

 そこで、ミャオ、プッと吹き出すんじゃない。確かに、私が背広姿でかしこまって、ナイフとフォークを使っている姿なんか想像すれば、恐ろしくておかしくて、とんだ場違いに映るだろうだろう。
 今ではもう、あの”北の国から”の五郎さんのような風体をしている私、こと鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)にとっては、そこいらの山菜でも取って食べているほうが、ずっと様になっているのだ。

 しかしこんな私でも、かつての若き日に、あの東京にいたころには、ちゃんとスーツを着て、銀座のレストランで、偉い先生方と食事をしたりしていたものなのに。
 ああ、なんという落ちぶれようだ・・・親が見たならば、さぞや、せつない涙に暮れるだろうに、今やその親もなく、ただひとりの身内のミャオは遠く離れた九州に、思えば何の因果(いんが)か因縁(いんねん)か、草を食(は)んでは野に叫ぶ、野人の意気を我は知ると、ひとりいきまく浅ましさ。
 と、なにやらどこかの歌の寄せ集めのようになってしまったが、言うほどには、深刻に考えているわけではない。
 むしろ、ノーテンキに毎日を送り、天気の良い日に山登りを繰り返している、ただのぐうたらオヤジに過ぎないのだ。

 ただし、そんな男でも、この山菜のとれる時期には、あのどんぐり眼(まなこ)が星の輝きを映したように、キラリと光るのだ。
 沢沿いの斜面に目を走らせては、目ざとくアイヌネギ(ギョウジャニンニク)を見つけ、枯れたササの間に伸びてきた、若いウドを根元から切り取り、枯れ木のようなタラの木の先に、タラの芽を見つけては手を伸ばす。

 先日、それらのアイヌネギ、タラの芽、ヨモギなどを、天ぷらにして食べた。私は、キャビアもフォアグラも、北京ダックも食べたことがない。しかし毎年、味わうことのできるこれらの山菜をおかずにして、北海道の米、”おぼろづき”の温かいご飯にのせて食べれば、もう他に何をかいわんやである。
 田舎での、貧しい生活を送ることの幸せ、金持ちになれなかったことの幸せを、心から感じることのできるひと時なのだ。幸福とは、そういうものなのだろうと思う。


 このところ、曇りがちの天気が続いている。昨日も今日も海側からの冷たい空気が流れ込み、霧雨が降っている。気温は8度くらいまでしか上がらず、まだまだ、薪ストーヴを燃やしている。

 そこで録画していたテレビ番組の幾つかを見た。まずは、22日の深夜にNHK・BSで放送された『ハムレット』である。
 余りにも有名なこのシェイクスピア(1564~1616)の作品を、伝統あるあのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの劇団が、いかに演じているか、期待していたのだが、冒頭から、もう戸惑うことになってしまった。
 古い建物をロケ地にして、ドラマ仕立てにしたことには、何の異論もないのだが、またしても、最近流行(はやり)の背広姿の現代劇化された舞台なのだ。
 例えば、あの亡霊として現れる、ハムレットの父、先王の姿が、古い時代の武具をまとった姿であることには、逆に違和感があるし、さらに、あの清純無垢なイメージのオフィーリアが、兄の旅立ちのカバンの中にコンドームを見つけて、兄をとがめるシーンなど見たくもなかった。

 もし現代劇にするのなら、背広姿だけではなく、セリフも今の時代に合うように書き改めて、すべて今様に演技するべきだろう。
 日本でも良く知られていて、評価の高い演出家であるというグレゴリー・ドーランの演出方法には、私はむしろ、今の時代にありがちな陳腐ささえも感じていた。(オペラの現代劇化については、3月18日の項、参照。)

 さらに配役のすべての人間がそれほどまでに、善悪はっきりと分けて描かれているわけではなかった。つまり、今の時代にいるような、上流階級の中の悪意を隠した穏やかな人たちに見えたのだ。
 それだから、主役ハムレットの激情的な演技が、ひとり浮き上がって見えた。。
 さらに、あのハムレットの愛するオフィーリア役の女優も、イギリスのどこにでもいそうな娘にしか見えなかった。
 誰かが言った言葉だが、「ひとりの美しい娘と、ひとりの若者がいれば、ロマンスが生まれる」と、つまり、誰でもそこで一幕の愛のドラマを見たいのだ。
 やはり私の脳裏には、舞台ではないが、あのローレンス・オリビエと美しさの盛りにいたジーン・シモンズの共演による、1948年の映画が思い浮かんでくる。(ローレンス・オリビエのシェイクスピア映画については、4月19日の項参照。)

 それでも私は、3時間余りのその舞台(映画)を見続けた。それは、こうした現代劇化の目的を、探ってみたかったからでもある。
 そして、配役の面々を見ていて納得できたのだ。あの、メトロポリタンでのロッシーニのオペラ、『シンデレラ(チェネレントラ)』を見た時に感じたように・・・。それ以上は言うことはできないのだが。

 さらにもう一つ、現代劇化とは関係のないことだが、最後の場面になって、私は、眼からウロコのシーンを見つけたのだ。
 それは、毒を塗った剣で切られて死を迎えるハムレットが、ホレイショーの腕に抱かれて、今はの際(きわ)で話した最後の一言である。それは、今まで私が読んで知っていた訳文では、次のように書かれていた。

 『・・・もう、何も言わぬ。(ハムレットは死ぬ)』
 しかし、今回の日本語訳として流れた字幕には、
 『・・・もう、沈黙だけが。』、とあった。

 私が戯曲として読んでいた訳文が、間違っているとは思わない。それは、死の間際のハムレットの言葉の流れからの、適宜(てきぎ)な選択、意訳だったのだろう。
 しかし、私たちが死を考える時、生の果てにある死の世界が、沈黙であろうことは、容易に想像できるし、まして、前回(5月20日の項で)、静寂と沈黙について、少し書いたばかりだったから、私には、今回の訳語に、素直に反応したのである。

 言葉は、お互いの理解の基であるが、またお互いの誤解の元にもなる。あのサン=テクジュペリの『星の王子さま』の中で、キツネが王子さまに言うのだ。
 『すべての誤解は、話すことから生まれてくるんだ。』

 さてその他にも、今月は、またしてもNHK・BSで、メトロポリタン・オペラの2007~2008シリーズの再放送があって、なかなかに魅力的なラインアップだった。
 まだ全部は見ていないのだが、今回のシェイクスピアの関係付けで言えば、あの『アヴェ・マリア』で有名なフランスの作曲家、グノー(1816~1893)による『ロミオとジュリエット』は、私には初めてだったのだが、何しろ、ロミオが当たり役のあのロベルト・アラーニャと、ジュリエットのアンナ・ネトレプコの二人に文句があろうはずもない(若くはないけれども)。その上に指揮は、何とプラシド・ドミンゴである。
 さらに、舞台中央の回り舞台はともかく、衣装にセットと、時代を十分に意識して作られたものだから、安心して見ることができた。
 この『ロミオとジュリエット』を、原作、舞台、映画、オペラとそれぞれの視点で考えてみたいと思うが、それはまた別の機会にしたい。

 ミャオ・ジュリエット、ごろにゃん、もうすぐしたらオマエの、クマみたいなロミオ様が会いに行くからね。まあ、お互い年寄りの、”じじお”と”ばばえ”の対面なんて、絵にもならないだろうがね。


                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(100)

2010-05-20 18:23:35 | Weblog



5月20日

 今日は、雨の一日になったけれども、それまでは天気の良い日が続いて、気温も毎日、20度前後まで上がっていた。

 そして、一気に、北国の春が押し寄せてきた。
 見る間に、庭の芝生が、全面の緑に被われ、シバザクラが点々と花をつけ、チューリップの花がいっせいに咲き始めた。
 エゾヤマザクラが開花して、キタコブシの白い花も開き始めた。周りの林の木々の枝先は、緑や赤みがかった若葉でいっぱいになり、見上げると、カラマツの並木はいつの間にか、すっかり緑色になっていた。
 朝日が差し込み始めた林の中から、鳥たちの声が聞こえていた。

 日が十分に高くなったころ、外に出て、畑仕事に取りかかる。スコップで土起こしをしていた所に、枯葉や生ゴミなどで作っておいた堆肥(たいひ)を入れ、さらに肥料などを入れて、畝(うね)作りをしていく。
 そこに、ジャガイモのタネイモを入れ、キャベツの苗を植えていく。トマトの苗は、まだ霜が心配だから、来月になってからでもいいだろう。
 毎年出てくるアスパラの根元に肥料をやり、越年のイチゴの苗を植えかえる。

 というと、たいした仕事に思えるが、一人で食べるだけだからということもあり、さらに本来のグウタラな性格もあって、土地は広くあるのに、わずか猫の額(ひたい)ほどの広さしか耕していないから、簡単に終わる仕事なのだ。
 ああ、ミャオ、それはオマエの額と比べて言ったのではないよ。あくまでもたとえだから。

 一息ついたところで、家の林の中を歩き回る。木々や草花の芽吹きなどを見るためだ。その中でもすぐに目につくのが、あのオオバナノエンレイソウだ(写真)。
 毎年毎年、写真に撮っているのだが(’08.5.18、’09.5.13)、あきることはない。大きな葉の上に、そのさえざえとした白い花がついている。そしてかすかに、風に揺れている。
 前にも書いたように、この十勝地方には、オオバナノエンレイソウの群生地が、幾つもある。家の林の中に咲いているのは、ほんの少しだけれども、毎年咲いてくれるその姿を見るだけでも、心洗われる気がする。

 林の間から、日高山脈の山々が見える。しかし、気温が高いために、春がすみのように、かすんでいる。
 恐らくは、この気温の高い数日の間に、一気に雪解けが進み、山は冬の姿から、残雪の山の姿へと変わっていることだろう。やはり、私が登ったあの日だけが、空気も澄んでいて、ベストの時だったのだ。ありがとう、山々たち。

 ところで今日は、一日中、雨が降り続いていて、気温は朝から殆んど上がらず、8度という肌寒さで、家の中ではストーヴを燃やしている。しかし、久しぶりのこの雨は、広く地面に染み渡り、木々や草花をうるおすだろう。
 窓の外に見える、新緑の木々の枝先や、緑の草花たちが雨にぬれて、かすかに動いている。朝のうちのあれほど鳴いていた、小鳥たちの声も聞こえない。雨の音が聞こえるだけの、静かな、午後だ。

 私は思う。私は、つまるところ、この静けさを求めて生きてきたのではないのかと。自分の望まないイヤな音を聞かないために、余分な音に満ち溢れた所から離れるために。
 それは、人間であることの、小さなわがままなのかもしれない。その自由な思いを貫くために、私は、幾つもの不自由さに耐えてきたのだ。
 そして、今ではもうその静けさの中で暮らすことに、慣れてしまった。けれども、それは、静けさに厭きてしまったということではない。静けさの中にいることが、当たり前のことになってしまったのだ。
 その静けさは、いつの日にか訪れるだろう、大いなる静寂、沈黙の世界へとつながっているのかもしれない。今のうちから、その沈黙の世界に、慣れておくということではないのだけれども。

 5月6日の項で少し触れた、あのドイツの哲学者、ショーペンハウアー(またはショーペンハウエル、1788~1860)の言葉を、さらにもう少したどってみたい。

 「われわれの境遇がなるべく簡素であれば、いや生活様式が単調だとというだけでも、そのために生活そのものの意識、ひいては生活に本質的に伴う負担の意識が最も少ないのだから、それが退屈を生じない限り、われわれは幸福になるわけである。
 このような生活は、波も立てず渦も巻かず、小川のごとく流れていく生活である。」
 「だから『幸福は自己に満足する人のものである。』というアリストテレスの言葉を、何度でも繰り返してみるがよい。」

 名著『意思と表象としての世界』で、世界の本質は「生きようとする意志の力」であるとした彼の思想は、生の哲学であり、その後の実存主義哲学の先駆でもあるといわれている。しかし一方では、彼は無心論者でもあり、近代厭世(えんせい)哲学、ペシミストであるとも言われている。
 つまり、生の哲学と厭世哲学という相反する彼の評価こそが、上にあげた消極的幸福論とでもいえる言葉に、つながっているのかもしれない。ショーペンハウアーの本を読む時、私はいつも、日本人として、あの兼好法師の書いた『徒然草(つれづれぐさ)』を思わずにはいられないのだが。

 ちなみに彼は、33歳の時、早くも大学講師の職を辞し、43歳の時には田舎に隠棲(いんせい)し、生涯を独身ですごしたとのことだ。

 そういえば、ミャオも無神論者だし、母親が傍にいた子猫のときを除けば、生涯独り身だったし・・・。

                      飼い主より 敬具

参考文献: 『幸福についてー人生論ー ショーペンハウアー』(橋本文夫訳 新潮文庫)、ウィキペディア他。 
 


飼い主よりミャオへ(99)

2010-05-16 19:43:09 | Weblog



5月16日

 拝啓 ミャオ様

 まだまだ、朝夕は寒くて、ストーヴの薪を燃やす毎日である。二三日前までは、最高気温が8度位までしか上がらない日々が続き、そのうちの一日は、朝のうちにミゾレが降り続いて、辺りが白くなったほどだ。
 そういえば大分前のことだが、近くの農家のおじいさんから、今頃の季節についての話を聞いたことがある。
 「山がまだ白いうちは、安心できない。雪が降ったり、霜が降りたりすることもあるからな。」

 その山々、十勝平野から見る日高山脈は、あの三日前に降った雪で、さらに白く輝いている。いつもの連休の頃の、雪山の景色である。

 昨日の朝、起きてみると、辺りは一面の深い霧の中だった。天気予報では、高気圧が張り出してきて、全道的にお日様マークがついている。登山者も増える土曜日だけれども、こんな日に山に行かない手はない。
 クルマに乗って家を出て、霧の中を、ゆっくりと走って行く。しかしその霧も、山すそに近づく辺りから、次第に取れ始めて、青空の中に、山々の鮮やかな白い頂が見えてきた。
 林道に入ると、道の脇に少しだけ雪が残っていたが、橋を渡り、大きなカーブを曲がると、もう道いっぱいに雪が残っていて、そこには新しいタイヤのあとがついていた。
 タイヤの大きさから見れば、大型の四駆(よんく)のクルマだろう。同じ四駆とはいえ、私の中型車ではとてもムリだ。道端にクルマを停めて、そこから歩き始めた。

 家を出るのが少し遅かった上に、これでは余分な林道歩きの時間がかかってしまい、天気の良いうちに、頂上まで行けるかと心配になってきた。しかし、今は快晴の空が広がり、木々の上に、白い伏見岳(1792m)と妙敷山(おしきやま、1731m)が並んで見えている。何としても登りたいと思う。
 15分ほど歩いた所に、大型四駆のクルマが二台停まっていた。その先の道は、もう道路いっぱいに厚い雪が残っていて、そこから、幾つかの登山靴の跡がついてる。
 その跡をたどって行くと、さらに15分ほどで、広い沢を横切るカーブの所に来た。今までに何度も通っているから、地形は良く分かっているし、妙敷山に登るならば、ここからだ。

 この二つ並んだ伏見岳と妙敷山は、いずれも日高山脈主峰群の眺めが素晴らしく、伏見岳の方には夏道がつけられていて、登山口までの取り付きも簡単であり、人気のある山である。
 一方の、妙敷山には道はなく、沢登りで行くか、あるいは雪のある時に登る他はない。
 伏見岳の方には何回も登っているし、妙敷山にも、雪の時期に三回登っているが、今回のコースも、下りに利用したことがある。

 出発前の計画では、以前にたどったように、伏見に登って、妙敷へと縦走して、この沢へと降りてくるつもりだった。しかし、伏見への登山口へはさらに、ここからまだ25分くらいはかかるだろう。つまり、普通の今の時期なら、雪が消えていて、登山口までクルマで行けるのに、それができずに、結局1時間近くの、林道歩きの往復をしなければならないのだ。
 それで、今回はここから上がって、妙敷山だけを目指すことにした。

 100mほど沢をたどり、左から降りてきた林道跡に上がる。しかしその道は、斜面と一緒になって雪に埋もれている。それならと、浅い沢状になった急斜面を登って行くことにする。
 残雪期の山へ取り付くには、なるべく日の当たらない沢状のところを詰めて行くのが普通だ。雪崩の恐れさえなければ、雪が固く締まって歩きやすいからだ。去年のカムイ岳への取り付きもそうだった(’09.5.17,19,21の項)。

 アイゼンをつけて、標高差300mの急斜面を登ってい行く。ヒグマはもとより、シカの足跡さえない。ガシガシというアイゼンのツメ音と、私の息づかいの音だけだ。
 振り返ると、木々の間に、青空を背景にして白い伏見岳の姿が美しい。
 やがて、あえぎながらやっとのことで、妙敷山の北尾根に出た。さて、ここからは、長々と伸びる雪堤(せきてい、せっぴが発達して、堤状に連続するもの)が、標高差800mほどの頂上へと続いている。
 その雪の上に、私は何と、左側から来て頂上へと向かう、まだ新しい足跡を見つけた。

 アイゼンをつけていない、ビブラム(イタリア有名ゴム社)底の登山靴で、その大きさと歩幅から見れば、私よりは少し背が低いくらいで、若くはない男の単独行者らしかった。
 それにしても、どこから登ってきたのだろう。クルマはどこに置いているのだろう。どのくらい先にいるのだろう。
 もっとも、この時期に、余り有名でもないこの山に、滅多に利用されないこのルートをたどって、ひとりで登るくらいの人だから、それは私とて同じことなのだが、本当に山が好きな人だろうと思った。

 日本においては、単独行の登山は、公には建前上、なるべく一人で行かないようにと勧告される。もし一人きりで遭難した場合の、死の危険性と、遭難したことによる関係各位への莫大な迷惑を考え合わせての、事前予防ということで、警告されるのだ。
 しかし、このことについては、決して一致することのない賛否両論がある。無謀な行動をあらかじめ止めてくれ、心配する親心に応えるべきだと賛同する意見と、個人の感性・行動にまで立ち入るべきではない、と反対する意見に分かれるだろう。

 そこで、ある話を一つ。若き日のオーストラリア旅行で、アデレード近郊の切り立った海岸を見に行った時、その岬に向かう道には立て札があって、そこには、『危険、行くならリスクを覚悟で』と書いてあった。
 もし、日本の同じような所なら、恐らく、『危険、立ち入り禁止』と書いてあることだろう。

 あの名著『単独行』で有名な、加藤文太郎は、植村直己と伴に日本最強の単独行登山家であるが、彼は『単独行について』という短い文章の中で、次のように述べている。
 「もし登山が自然から色々の知識を得て、それによって自然の中から慰安が求められるものとするならば、単独行こそ最も多くの知識を得ることができ、最も強い慰安が求めえられるのではなかろうか。
 なぜなら、友と伴に山に行く時は時折山を見ることを忘れるであろうが、ひとりで山や谷をさすらう時は一木一石にも心を惹かれないものはないのである。」(『日本の名随筆 山』 北杜夫編 作品社)

 何はともあれ、山が好きであるから、山に登るのであり、一人で行くのは、たまたまの状況から始まった習慣でもあり、もともと心にあった山の静かな自然の中にひとりいたいという気持ちとが、入り混じってそうなったのかも知れない。

 目の前には、尾根の東側に張り出した雪堤がゆるやかに続いていて、上部で急傾斜になり、妙敷山頂上稜線につながっている。
 この尾根の木々の間から、西側には白い三角形の伏見岳が見えている。振り返ると、登ってきた雪堤の彼方に、木々に被われ岩稜(がんりょう)が連なる剣山(1205m)が見え、その左手には、芽室岳(1754m)の白い二つのピークが見える。
 上空には、雲ひとつない青空が広がり、下の林の方から、ルリビタキやウソの鳴く声が谷間にこだましていた。

 急傾斜になる所で、先行者に追いついた。私よりは若いが、笑顔がいっぱいの中年の男だった。
 下に停めてあった、二台のクルマの一つが彼のクルマであり、たまたまそこで追いついた、もう一台のクルマの三人は、伏見岳の方に向かったとのことだった。
 彼がこの尾根へ取り付いたのは、私が入ったもう一つ手前の小沢とのことで、これですべての疑問は解消した。

 さて私は、相変わらず重たいカメラを首から提げて、時々写真を撮るので、そのまま彼の後から、少し間を開けて、登って行くことにした。そうして、先行する彼のステップを利用させてもらうことにもなり、ありがたく礼を言った。
 雪の表面は、気温が上がりグズグズになって潜り込みやすく、先を行けば、その分疲れるのだが、そのかわり、前方に広がる足跡一つない雪面を見て行くことができる。
 写真を撮る私としては、先を行きたかったが、彼よりは年寄りのグウタラな私だから、結局は後の方で良かったのだ。

 頂上からの稜線に出て、最後の斜面を登って行く。左手には十勝幌尻岳(1846m)から始まって、札内岳(1895m)とエサオマントッタベツ岳(1902m)が相並んでいる(写真)。その後ろには少し雲が出ていたが、山々にかかるほどではなかった。
 斜面の木々が途切れて、30cmほどの新たな雪が降り積もった、白い山稜を登ると(写真下)、頂上だった。車を降りてから、6時間近くもかかっていた。

 見慣れてはいるが、それでも見飽きることのない、日高山脈核心部の大展望だった。エサオマンの右手には、去年登ったカムイ岳(1756m)と1780m峰、そして日高幌尻岳(2052m)、戸蔦別岳(1959m)、北戸蔦別岳(1912m)、1967m峰、ピパイロ岳(1917m)の主峰群が並び、さらに北へとチロロ岳(1880m)、1726m峰、芽室岳などが続き、それらの山々の後には、あの十勝岳連峰、大雪連峰、ニペソツ、ウペペサンケなどが見え、遠く東方には阿寒の山がかすんでいる。
 何よりもこの快晴の天気が、頂上に着くまで、さらにこの一日中続いてくれたことがありがたい。
 
 彼をそのまま残して、厚い雪に被われた山頂から、少し東側に降りたハイマツの斜面で、温かい日差しを浴びながら、横になって、日高の山々を眺めていた。殆んどが、私の登った山々だった。
 風もなく、遠くでかすかに鳥の鳴く声が聞こえていた。晴れ渡った空が続くのに、心任せて、1時間半ほども頂上にいた。

 さてと立ち上がり、頂上に戻り、後はただひたすらに下るだけだった。時々深くはまり込むことがあっても、大またで雪の斜面をずんずんと下り、時には尻セード(お尻をついてすべる)で滑り降り、あっという間に尾根末端に、そして古い林道をたどり、クルマの所に戻り着いた。
 下りは、わずか、1時間半ほどだった。

 近くの国民宿舎の風呂に入り、さっぱリとした気分になって、シルエットになって暮れなずむ日高山脈を眺めながら、家へと帰って行く。
 良い天気の日に、良い山に登れたことは、なんという幸せだろう。北海道に戻ってきての、前回前々回の登山が、十分な展望の成果を得られなかっただけに、今回はなおさらに、心地よい満足感に満たされているのだ。

 ああ、生きていて良かった。ありがとう、かあさん。そして、ありがとね、ミャオ。


                                          飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(98)

2010-05-10 18:46:49 | Weblog



5月10日

 拝啓 ミャオ様

 連休の頃、20度を越える暖かい日が三日ほどあったけれども、その他の日は10度から15度位までしか上がらず、朝はまだストーヴで薪を燃やしている。
 とはいっても、季節は明らかに進んでいく。二日前の雨の後、庭の芝生の緑が一気に広がり、枯れた色のままだったカラマツの枝先に、淡い緑色が見えてきた。
 そして、一際鮮やかな花の色の、エゾムラサキツツジも開き始めている。家の北側の軒下に、しぶとく残る雪も、もう一塊ほどになってしまった。
 林の中からは、ウグイスやセンダイムシクイの鳴く声が聞こえてきて、前の広い牧草地では、あわただしくヒバリがさえずり、その高い空の上からは、風きり音をたてながら、オオジシギが急降下してくる。
 北国の、春なのだ。

 一週間ほど前に、家の近くにある湿原に行ってきた時には、もうミズバショウの花が点々と咲いていた。そして、昨日、そろそろ良い頃合いだと思って、出かけた。
 牧草地の脇を通り、カラマツ林を抜けて、トドマツの植林地の斜面を降りて行く。沢水の音が聞こえて、すぐ目の下のところに、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)の、黄色い花に縁取られた沢が流れている。
 長靴を履いたまま、沢に降り、水の中を歩き、時には左右の小さな河原を歩いて行く。雪解け水でできた小さな沢や湿地には、ヤチブキの花が群れて咲いている。(写真)
 しばらく行ったいつもの所に、やはり今年もいっぱいに緑の葉を出している。アイヌネギ(ギョウジャニンニクと呼ばれるニラの仲間)である。

 そこで、ナイフを取り出し、三つ四つと一所から出ているもののうち、双葉のものを一つだけ、地面の茎の所から切り取る。こうしておけば、地下の球根は、また来年、しっかりと大きな葉を出してくれるからだ。
 ここは、私の他には誰も来ない。他の人たちが来る場所のように、取り尽されることはないから、毎年同じだけの野草の恵みに預かれるのだ。そんな群生地のいくつかを、歩いて周り、30分ほどで袋がいっぱいになった。
 帰りには、まだつぼみのヤチブキやオオバナノエンレイソウを、二つ三つ切り取って持っていく。花瓶に入れて、母の仏壇の前に飾るためだ。

 家に戻って、水を張ったタライにアイヌネギを入れて、軽く洗い、仕分けをして袋に詰める。幾つかは、楽しみに待っている友達にあげ、残りは冷凍しておけば、長い間、食べ続けることができる。
 ヤチブキは、もうおひたしにして食べたし、さらにこれから一ヶ月ほどの間は、ウド、タラノメ、フキ、コゴミ、ワラビ等が相次いで出てきて、山野歩きに忙しい時期となる。

 注意すべきは、ヒグマとダニである。まあ、ヒグマの方は、ひとりジュークボックス状態で、何か下手な歌うか口笛を吹き続けていれば、良いけれども、ダニは防ぎようがない。家に戻って、着ていた服を脱ぎ丹念に調べて、見つける他はない。
 しかし、髪の毛につくとやっかいだ。二三日は頭のあちこちがもぞもぞとして、髪の毛をかきむしるがどうにもならない。頭を洗っても、しぶとくて流れ落ちない。
 余りのことに、掃除機のホースを頭に当てて、吸い取ろうとする。しかしただでさえ薄い髪の毛が、ごっそりと吸い取られるのではという心配と、しかしいつまでも、このもぞもぞ状態には耐えられないという思いで、ためらいながらも、頭に吸い口を当てる。

 ばきゅーん・・・、あへー、気持ちいい、しかし毛が、毛が吸い取られるー、山火事の跡のようなわが頭になったらと思うと、恐ろしい、しかしやめられない。
 まったく、人が見ていたらなんと言うだろうか。で、結果としては、それぐらいでは、髪の毛にしがみついた、わずか1、2mmほどの大きさのダニを取ることはできないのである。
 そしてさらに一日二日して、全身の肌が敏感になっていた所に、頭にいたダニがそろそろと、私のまだかろうじて若さの残る、やわ肌に噛み付くべく、首筋辺りに下りてくるのだ。
 キターッ!。
 私は、それをつかみ取り、簡単につぶしはしない。セロテープで完全密封の状態にして、敵の正体をしげしげと見るのだ。そうしてできた、ダニの標本が、毎年、毎年増えていくだに。
 昔、母が元気な頃、この私の家に来て、野山を歩き回り、その後、二三日して、近くの温泉に入りに行った時に、ダニが体について膨れ上がっているのを見つけて、恐怖の叫び声をあげ、その声が風呂場全体にこだましたと、同行していた、叔母さんが話てくれた。

 都会にいれば、もうほとんど見られなくなったハエや蚊も、ここでは行列のできる家になるしまつだし、ダニの他にもアブや蚊と、人間の血を吸いに来る昆虫は多いのだ。
 都会で、暴れまわっている血気盛んな若者たちには、少し血抜きをしてもらうために、こんな田舎にでも来て、飢える昆虫たちのために、私の代わりのボランティア活動をしてほしいものだ。

 話は変わるけれども、同じ若者たちでも、真面目に勉学に取り組む者たちもいる。NHK教育TVで日曜日に放送されている、アメリカの名門、ハーバード大学の講義中継番組、『ハーバード白熱教室』、その大講堂で、教授の話を熱心に聴いている若者たちである。
 日本の大学のいい加減な講義風景とは、なんと違っていることだろう。恐らくはこの学生たちの中から、いつかアメリカを、世界を導いていくほどの人材が生み出されていくのかもしれない。

 今年の4月から放送されている、この『Justice(正義)』がテーマの、シリーズ番組のすべてを見たわけではないのだが、政治哲学講師の、マイケル・サンデル教授の語り口が、日本語字幕の翻訳者の力もあるのだろうが、わかりやすく、一時間もの間、退屈することもなく聞いて見ることができた。
 昨日は、特にドイツの哲学者、カント(1724~1804)の思想をもとに卑近な例を挙げながら、あの名著『純粋理性批判』の考え方の核心部分を捉えていく。学生たちとの、質疑応答を交えながらの話は、私にさえ、なるほどと思わせるものだった。
 こんな解説をしてくれる講師がいたのなら、若き日の私も、途中でカントの本を読むのをあきらめることはなかっただろうに。
 これからも数回続く予定の、彼の話が楽しみである。

 もう一つ、この番組の前の日に、NHK・BShi で『ショパン生誕200年記念ガラ・コンサート』の演奏会の模様が放映された。5年に一度の、あの有名なショパン・コンクールが開かれる、ポーランドはワルシャワ・フィルハーモニー・ホールでの、今年の2月29日の公演である。
 曲目は、ショパン(1810~1849)のピアノ協奏曲第1番ホ短調を、デミジェンコのピアノで、そして第2番ヘ短調の方は、あのキーシンのピアノで、オーケストラはいずれも、ワルシャワ・フィルである。

 有名な第1番の方を弾いたデミジェンコも悪くはなかった。しかし、なんといっても見所は、もう一つの方の第2番を弾いた、あの名手キーシンのピアノ・テクニックであり、まさしく脱帽する他はなかった。
 それは作曲したショパンの手を離れて、まさしくキーシンのピアノ協奏曲になっていたのかもしれない。彼の思うショパンの激情と叙情とが、鮮やかなコントラストとなって、描き出されていたからだ。
 演奏後、聴衆が熱狂の歓声を上げたのもうなずける。私でさえ、1番と比べれば余り演奏されることもなく、それまで強く意識して聴いたこともなかった、第2番ヘ短調の曲の認識が変わるほどの衝撃を受けたのだ。
 作曲者、楽譜、演奏者の関係を、再び考えさせられた。誰が正しいとかという問題ではなく。音楽は生きているし、時代と伴に変わり得るものなのだ。

 いつも言うことだが、良い時代になったと思う。わずか2ヶ月ほど前の外国でのコンサートを、鮮やかな画面のハイビジョン放送で見ることができるのだから。そこでは、キーシンの細かな表情はもとより、その演奏ぶり、鍵盤に叩きつける彼の運指法まで、はっきりと見て取ることができるのだ。
 さらにその数日前から、私はテレビの音楽番組の時に特に気になっていた、劣悪なスピーカーの音に、とうとうガマンできなくなり、とりあえず、まず簡単に安上がりに良い音に変えること、すなわち、イヤホーン端子にパソコン用の安いアンプ内臓の小型スピーカーを取り付けて、聞いていたからだ。
 それだけでも、もう音は、一聴瞭然(いっちょうりょうぜん)の違いだったのだ。

 あの神童と呼ばれ、年少の頃からの超絶技巧をもてはやされていたキーシンも、もはや39歳になっていたのだ。奇しくもショパンは、同じ歳にこの世を去っている。
 アンコールで弾かれた、ワルツの2曲はともかく、エチュードの『革命』の、凄(すさ)まじい演奏は、遠く離れた地に居て、他国に支配された故国を思う、ショパンの怒りと熱情に満ちた激烈な感情を、キーシンはそれ以上の、溢れる音の響きで表現していたのだ。
 作曲者の意図したもの、その解釈の良し悪しを越えて、演奏される音楽が作り上げていく、人間の思いとは・・・。

 ミャオへの私の思いを、どうしたら伝えられるのだろうか・・・。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(97)

2010-05-06 20:51:08 | Weblog



5月6日

 拝啓 ミャオ様

 連休の間、全国的に良い天気が続いて、気温も上がり、各地の行楽地は観光客でにぎわったとのことだ。
 九州にいるミャオにとっても、それはもう寒さを心配しなくて良い、過ごしやすい季節になったということだろう。しかし一方では、この休みの間、そんな山の中にも、恐らくは田舎の景色を求めて、多くの人々がやって来たことだろう。
 知らない人を怖がるオマエにとっては、それは、心休まらない毎日だったに違いない。それまでのように、私と一緒に家に居られれば、そんな心配もなかったのに・・・、ごめんね、ミャオ。

 私も、この連休の間、ほとんど家に居たのだが、昨日は山登りに行ってきた。それまでは、晴れていても山がかすんでいたり、風が強かったりと、満足できる登山日和だとはいえなかったのだが、昨日はようやく山が見える天気になり、この後は天気の悪い日が続くという予報もあって、とりあえず、今の季節にしかできない山歩きをしたいという思いで、出かけてきたのである。

 目的は、去年果たせなかった、札内川右岸、トムラウシ沢源頭にある1278m峰である。4年前には、そのトムラウシ沢を挟んで反対側にある1263m峰に登って、そこから中部日高の山々を眺めることができたのだが、いかんせん余りにも回りに木々が多いヤブ山で、すっきりとは見えなかったのである。
 しかし、その時反対側に見えた1278m峰の頂は、前回(4月28日の項)の1151mコブの頂のように、木々を越えて雪の丸い盛り上がりが見えていた。あそこなら、最高の展望台になるはずだと思ったのだ。

 しかし、今日の天気は、午後から雲が広がるということだった。とすれば、なるべく早く登る必要があったのだが、このところの山がかすんでもやったような天気から、今日も無理だろうと準備もしていなかった。
 いつものように、朝日の昇る5時に起きると、窓の外には、山が見えていた。急いで朝食をすませて、準備をしてクルマに乗ると、もう6時に近かった。
 行く手には、日高山脈の白銀の峰々が立ち並んでいる。何度見ても心躍るひと時である。この山々たちとなら、いつまでも一緒に生きていけると・・・。

 札内川に沿って走って行くと、ところが、今年はもうピョウタンの滝先のゲートところで、通行止めになっていた。いつもなら、4kmほど先の札内ダムまで行けるのに。
 仕方なく少し戻って、ピョウタン園地の駐車場にクルマを停めて、そこから歩いて行く。しかし、足元は、雪山のためのプラスティック・ブーツだから、舗装道路では歩きにくい。
 30分ほどで、トムラウシ沢下降点につき、そこでアイゼンをつけて、雪の河原を歩いて行く。このところ初夏のような天気が続いていたから、朝なのにもう雪面は緩んでいて歩きにくかった。
 しばらく歩いて、川の反対側に渡り、尾根に取り付かなければならない。しかし、雪解け水で溢れる川を渡るのは大変だ。靴を脱ぐ手間をかけたくはない。何とか倒れた樹を利用して渡り、小さな沢から尾根に取り付こうとしたところ、目の前にヒグマの足跡があった。

 写真でも分かるように、ストックや私の足跡と比べてもかなり大きな足跡だ。それも私が向かう同じ方向を目指して、点々とついている。ツメの跡までが分かるから、比較的新しく、少なくとも昨日から、今日の未明の頃のものだろう。
 ヒグマはそう簡単に人を襲うことはないし、まして冬眠明けの体力が十分ではない時のヒグマだから、そうおびえることはないのかもしれない。
しかしこの足跡から見ても、相当の大物だし、これから尾根伝いで登るとはいえ、こちらはひとりきりだし、気になってしまう。(ヒグマに関しては、’08.11.14の項参照)

 さらに、これから登ろうとする道の尾根も心配だった。地図で見ても写真で見ても、上部での雪の乗った急勾配のやせ尾根は、このルートでの最大の難関にも思えた。
 さらに出発が遅れ、ゲートが手前で閉まっていて、余分な歩きで時間を取られたこと、天気も午前中までだということ・・・私は、あきらめるための理由を、自分に幾つも言い聞かせた。

 雪の沢を戻り、舗装道路を歩いて、私は駐車場に戻ってきた。1時間半ほどが過ぎていた。しかし、せっかくの天気の日に、このまま帰るわけにはいかない。
 そこで、前にガイド・ブックで見たことのある、このピョウタン園地(380m)からすぐに取り付くことのできる山、南札内岳(825m)に登ることにした。雪山の時期にこんな低い山では、せっかく出てきたのにもったいない気もするが、どこにも行かずに家に戻るよりは良い。

 案内板を見て、橋のたもとにクルマを停め、歩き出す。入り口には標識もなく、ただ工事現場のように、赤いテープが上部に向かって、幾つもつけられているだけだ。道は、茂るササに被われていて良く分からないが、右斜面に雪が残っているので、そこをたどって行く。
 所々雪が切れて、木々にテープがついている尾根通しに上がると、確かにササ刈りの跡があって、道がつけられていたことが分かる。しかしこの激しいササの勢いからすれば、もうほとんど廃道といってもいいくらいだった。
 再び戻って急な雪の斜面を登りきると、細い尾根になりササが途切れて、所々岩も出てくる。やがて、右側山腹からの、古い造材道跡らしい雪面と一緒になる。そこからは、はっきりとした2m幅ほどの雪堤が続き、歩きやすくなる。そして、ずっと下から続いている、シカの足跡もあった。
 この日は、下の帯広でも23度にまで上がるほどの暖かさで、溶け始めた柔らかい雪に足を取られて、途中で何度も腰を下ろして休んだ。
 静かなダケカンバの林が続く尾根の向こうから、もうルリビタキの声が聞こえている。この声を聞くと、もう初夏の山なのだと思う。

 ひと登りした尾根の途中が、南札内岳(825m)の山頂らしかった。赤テープが周りの木々に巻かれていて、測量ポールが雪面から出ていた。展望は、木々の間から低い山々が見えるだけで、これではつまらない。
 さらにその先に続く、尾根をたどって行くことにする。そこからは、人の足跡はもとより、もう赤いテープもなかった。ゆるやかに登ると、880m点の高みに着き、それまで見えなかった西側が開けて、木々の間から、白い山々の姿が見えた。
 良かった、ここまで来てようやく主稜線の山々を見ることができたのだ。右手のピラトコミ山(1587m)から続いて、1823m峰、1643m峰、コイカクシュサツナイ岳(1721m)、そしてヤオロマップ岳(1794m)である。

 ザックを雪の上に置いて、そこに腰を下ろした。11時15分、下から2時間半程かかっているが、前回と同じように、余りにも簡単な私の春山登山だった。
 今までの自分の、山行歴からすれば、いささか物足りなくも思えるが、そのような楽な登山に決めたのは、私自身であり、つまり妥協のなせる業でもある。冒険しないこと、余り疲れないこと、そしてそこそこに楽しめること。つまりいずれも若者ではない、年寄りの性向の表れなのかもしれない。
 それは、自分で恥じ入るべきことでもないし、自分の衰えを悲しむことでもない。大切なことは、自分なりにと意識して、自分なりにと実行するだけのことである。

 思い出したのは、あのドイツの哲学者、ショーペンハウアー(1788~1860)の言葉である。
 「すべて物事を局限するのが幸福になるゆえんである。我々の限界、活動範囲、接触範囲が狭ければ、それだけ我々は幸福であり、それが広ければ、苦しめられ不安な気持ちにさせられることもそれだけ多い。」(新潮文庫 「ショウペンハウアー 幸福について・人生論」 橋本文夫訳 )

 もっともこの言葉に批判がないわけではない、現代社会の、個別化、個家族化を予言しただけの、消極的幸福論に過ぎないという人もいるし、それもその通りではあるが、ここで立場を、普通の社会の枠から一歩外へ、自分だけの枠組みへと踏み出した人たちのために考えれば、それは、彼らへの救いの言葉になるのかもしれない。
 つまり、人は生きていく上で、いつも、自分で納得できる言葉の保障を求めているのかもしれない。

 下りは雪の斜面だから、早い。1時間ほどで降りてきた。空には、もう雲が広がっていた。私は、汗にぬれた衣類を、Tシャツに着替えた。クルマに乗って窓を開け、ゆっくりしたスピードで、川沿いの道を走って行った。
 平野の方には、まだ青空が広がっていた。それはこの連休の間の、私の、日高山脈への小さな雪山登山だった。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(96)

2010-05-02 18:52:34 | Weblog



5月2日

 拝啓 ミャオ様

 今日は、予報どおりに朝から暖かく、南風が吹き込んで、気温がぐんぐんと上がり、18度位にまでなった。ようやくここでも、北国の春を感じることができるようになったのだ。
 庭では、私が帰ってきた頃の、あの雪解けの頃に唯一咲いていた、クロッカスの花が終わり、代わりに、そこかしこにあるフキノトウが大きく開き、フクジュソウの黄色い花が咲き、オオバナノエンレイソウやアイヌネギ(ギョウジャニンニク)の、鮮やかな緑の葉が、枯れた地面から顔をのぞかせていた。道の向こうの、雪の溶けた大地には、濃い緑の小麦畑と若草色の牧草地が広がっている。
 それまでの、白い雪と枯れた色だけの冬景色を、鮮やかな緑色が見る間に塗り替えていく、その景色こそ、まさしく北国の春なのだ。

 今日の天気は、薄雲が広がった後に晴れてきたが、風もあり、日高山脈の山も、霞んでやっと見えているだけだ。これは、私が山に行く天気ではない。
 まして、今は連休だから、あえて混雑する外に出かけて行くことはない。食べるものさえしっかりあれば、この山の中の静かな家に、こもっていた方がいい。

 「黄金の行楽週間何にせむ まされる宝 家にしかめやも」
 (元歌 「しろがねもくがねも玉も何にせむ まされる宝 子にしかめやも」 『万葉集』より)

 とひとり、うそぶいたところで、差し迫ってやるべきこともなく、このところ録画したテレビ番組のいくつかを見た。その中でも、先月NHK・BS hi で放送された『歌舞伎座クライマックス』の4回シリーズは、きわめて興味深いものだったのだが、長くなるので、また先の話にして、今回は、ルネッサンス時代の画家レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の絵について少し書いてみたい。
 というのは、昨日の夕方、NHK・BS hi でシリーズ、『巨匠たちの肖像 レオナルド・ダ・ヴィンチ』の再放送があったからだ。去年の11月の放送の時には、半分ほどしか見ていなくて、今回は通してしっかり見ることができた。
 そして、前に見た時以上に、興奮して画面に引き込まれてしまった。それは、科学の進歩によってもたらされた、古く色あせた絵画の素晴らしい修復画像を、目の当たりにすることができたからだ。
 日ごろは、自然に囲まれた中で生活していて、科学の発達をある意味では、望まない鬼子扱いすることの多い私だけれども、とは言っても、このパソコンにしろ、大画面の液晶テレビにしろ、随所で新しい科学の進歩の恩恵に浴しているのだが、今回はそれをさらに思い知らされることになった。

 それは、フランスのルミエール・テクノロジー(この名前も、映画における革新的開発者である、あのルミエール兄弟の名前にもとづくものだろうが)という会社が開発した、マルチスペクトル・カメラ(紫外線や赤外線を含む、13種の光の波長で、2億4千万画素の画像を撮影できる)を使って、レオナルドの絵を撮影し、500年前のその絵が書かれた時代の画像に復元しようという試みだった。
 
 まして、その絵が、まだ私の見ていない、それも長い間見てみたいと思い続けていた一点、『白貂(はくてん)を抱く貴婦人』(写真・原画)だったからである。
 十数点しかないレオナルドの絵の、有名なものは、その昔のヨーロッパ旅行の時に、パリのルーヴル、ロンドンのナショナル・ギャラリー、フィレンツェのウフツィ、レニングラード(当時)のエルミタージュなどで見ているのだが、このポーランドの古都クラクフにある絵だけは、まだ見ていなかった。
 しかしこの絵は、実は8年ほど前に日本にも来ていたのだが、その時は見に行くことができなかった。つまりずっと、ただ手元にある画集で見るだけだったのだ。

 しかし今回テレビで、その修復撮影された画像を見て、私の長年の思いが、瞬時に満たされたようにさえ感じた。そのマルチスペクトル・カメラとハイヴィジョンの大画面テレビによって、私はようやく、そこに描かれていた、1483年頃のイタリアはミラノの、チェチーリア・ガッレラーニに会うことができたのだ。
 画集で見ていた、やや神秘的な思いを秘めているような彼女とは違って、修復された絵は、黄ばんだニスや加筆修正されたものなど、余分なものが拭い去られていて、書かれた当時そのままの、若い娘の明るい肖像画だった。
 やや上気した若々しい白い肌が美しく、理知的な眼差しと控えめに閉じられた口元が、彼女の品性を表し、優しい手でテンを抱きかかえている。
 彼女は、当時のミラノの統治者、ルドヴィコ・イル・モーロ(通称)の愛人だったとされているが、お抱え絵師であったレオナルドは、その彼女の境遇にかかわらず、高い品性を持つ一人の女性として、見事に描ききっているのだ。
 彼女が抱くテンは、あの佐渡のトキを襲ったことでも知られるように、小さいながら獰猛(どうもう)な肉食の獣であり、とても愛玩動物として抱けるわけはないのだ。とすると、あのテンはルドヴィゴの寓意(ぐうい)なのだろうか。

 実は、この絵に私が惹(ひ)かれるようになったのは、もうずいぶん前のことで、それまで住んでいた東京を離れて、北海道に家を建てた頃のことである。
 私には、その頃つき合っていた女の子がいた。彼女は東京に住んでいた。私はある時、彼女の女友達を紹介され、その子を好きになってしまった。しかし、私は、今の彼女を傷つけてまで、新しい恋に踏み切ることはできなかった。
 とはいっても、思いはつのる。ある日、私は決意して、その女友達と二人だけで会い、食事をして普通の話をした。そして、駅まで二人で歩いて行った。そこで、それぞれ別の路線に乗って、別れるところだった。
 彼女は、待ってと言って、券売機の所へ行った。私は、もう会うまいと思っていた彼女に、別れを言うのが辛かった。彼女の姿を見ないまま、私の向かうべきホームへ歩いて行った。電車が来て乗り、私はつり革につかまって、ホームの人並みが流れていくのを見ていた。

 私は、その時初めて気がついた。彼女は、自分の定期券を持っていたはず。すると、乗車券を買ったのは・・・。私は、走り出した電車の中で、戻れるはずもないのに、思わず後を振り返ってみた。
 次の駅に着いた時、しかし、私は降りなかった。これでいいのだ。今つき合っている彼女を、苦しめるようなことにはならなかったのだから。

 一年後、私は結局、そのつき合っていた彼女と別れた。そして、彼女の女友達も、しばらくして結婚したと聞いた。そのころ、私が、たった一人で建てていた北海道の家が、ようやく出来上がった。

 私は東京を忘れ、大きな満足に浸りながらその家に住み始めた。ある日のこと、たまたまレオナルド・ダ・ヴィンチの画集を見ていて、思い出が膨れ上がるようによみがえってきた。
 その絵に描かれたチェチ-リアの眼差しが、あの何も告げることができずに、別れた彼女に、なんと似ていることか・・・それは、今思い返してもつらい、青春の一つの思い出である。みんな、私が悪いのだ・・・。

 ミャオ、元気でいるだろうか。ひとりでいると、色々なことを思い出してしまうのだ。ニャオーン・・・。


                      飼い主より 敬具