ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

今日にあわましものか

2021-01-20 22:06:26 | Weblog



 1月20日

 またもや、1か月の間が空いてしまった。
 何をか言わんや。 
 ぐうたらが習慣化すると、それが常態化され新たな日常となる。
 かくして、人は己の不始末をなかったごときにもみ消して、どこ吹く風で、いままでの続きのごとくに、今日からの新しいノートの1ページ目を開くのだ。
 もちろん私は、若いころから、駄文であるにせよ文章を書くことは嫌いではなかったし、むしろ自分の思いを託して書き連ねていくことが、ある種の心のうさのはらしどころになっていたのではあるのだが。

 今はというと、こうして書いているのは、年寄りのずるがしこさを内懐(ふところ)に持っての、まあ何というか体裁をつけて言えば、自分の知的修養のために、悪く言えば年寄りのボケ防止用に、認知症予防にと企(たく)らんでいるところの、”問わず語り”ではありますが。
 まずは、あのじいさんはどうしているだろうかと、このブログを開いて見てくれている辛抱強い皆様方に感謝いたします。
 こうしてブログに掲載して誰かが読んでくれていると思うと、やはりいい加減なことは書けなくなるし、第三者の厳しい目があることこそが、自分への戒めとなるからでもあります。
 と書いてくると、何やら儀式めいた訣別の時が近づいているからのような気もするが、なあに長時間欠席の苦し紛れの言い訳のあいさつではあります。

 さて去年の暮れから、新年を迎えて今に至るまで、毎日は同じように過ぎていき、一週間に一度の食品等の買い出しの他は、おとなしく家にいて、一月に二三回は往復二時間ほどの山の坂道歩きをして、夕焼けの時には集落外れの見晴らしの良い所まで、片道10分くらいの散歩に出かけるくらいで、十分に”不要不急”な外出を控えていることになるのだろう。
 といえば聞こえはいいが、元来”引きこもり老人”の気がある私には、山の中の小さな集落に住んでいても、食料に本にテレビとパソコンに音楽CDがあれば、何か月でも十分に心地よく暮らしていけるし、それは、新型コロナ対策というお上の指示に従ってというわけでもないのだが。

 それにしても、一年前にはこれほどまでになると誰も想像できなかった新型感染症が、こうして全世界に広がるさまを見て、前にも書いたように、私は何の宗教にも帰依(きえ)してはいないが、そこには何かしらの大きな神の意志、つまり地球や自然の意志といったものが働いていて、人間に強く反省をうながし示唆(しさ)しているようにも思えるのだが。
 というのも、人類が科学の発展とともに築き上げてきた世界が、実は危うい生身の体である人間の寄せ集めからなっていたにすぎないことを、私たちに見せつけてくれているように思えるからだ。
 それは、歯止めのきかない都市集中化、全世界に商圏が広がり増え続けるグローバル化の波、とどまるところを知らない高齢化社会などへの、アンチテーゼ(反対理論)として響いてはこないだろうか。
 ほどほどの発展の中だったら、神様も見過ごしてくれただろうに。
 
 もちろんこれは、思えば6千数百万年前の地質時代に、あの恐竜が絶滅し他の多くの生きものたちも犠牲になった、大隕石落下ほどの出来事にはならないだろうし、人間史上最悪といわれた過去の疫病、ペストやスペイン風邪でさえしのいできたのだから、それと比べればこのコロナ禍は、時間がかかるにしろ、やがては今の現代医学の力で収束されることになるのだろうが、いっぽうで心の傷痕は残り続け、人間のDNAとして受け継がれていくことにもなるだろう。
 もう、そんな先まで私たち年寄りは生きてはいないし、これから先のことには年寄りは口出しをせずに、君たちの時代である若い人たちが決めて行けばいいだけの話だ。

 さて、去年の暮れ、そして今年の初めにと強い寒波が襲ってきて、雪が15㎝ほど積もり(写真上:隣の家との間に段差があり、そこに吹き寄せられた雪が山で見るような雪庇(せっぴ)を作っていたし、最低気温も-8℃まで下がり、日中もマイナスのままで真冬日になってしまった。
 ところが寒波襲来の二日目に、ついうっかり水を出すのを忘れていて(凍結防止のために一日3,4回少し水を流すことにしているのだが。北海道なら家の中の蛇口のそばに凍結防止のための止水栓があるのだが)、お湯管を凍らせてしまった。
 もともと地下から立ち上げている、吹きさらしの所だから、ウレタンテープを巻いた上に保温パイプなどで保護していたのだが、-8℃で風が吹きつけていれば-10℃以下になっていただろうし、凍結したのも仕方ないことだ。

 それに気づいたのが夕方で、その日はまだ風が吹きつけていて寒くてあきらめ、次の日になって、まず家の内側の蛇口にタオルを巻いてお湯をかけてみたがダメで、次に外側の保温パイプなどを取りはずして鉛管を少しだけ露出させて、そこにお湯をかけて見たがやはりダメで、その日もあきらめて、その部分に3枚ものカイロを貼った古着を巻いて、それ以上凍らないように応急手当てをしておいた。
 翌日、気温も上がり風も弱まっていたし、今日は一日かけても何とかせねばと、まず家の内側の蛇口に、昨日と同じようにお湯をかけてみたがダメで、次に外に出て、曲がった鉛管部分を含めての上部をすっかりむき出しにして、タオルを巻いてその上から何度もお湯をかけてみたが、やはりダメであきらめ半分になり、ともかく昼になってしまったので、いつものラーメンを作って食べテレビ・ニュースを見た後、風呂場から音がするので行ってみると、蛇口から水が勢いよく流れている。万歳!
 こういう時、日本人はどうしても万歳と叫びたくなるのだ。
 その日の夜、二日間入れなかった風呂にいい気分で浸かることができた。ああ極楽、極楽! 
 風呂が大好きで、毎日でも入りたい私にとって、何ともかけがえのない喜びだった。

 そこで考えてみた。
 誰でも、想定外の悪い出来事が起きた時は、その困難な問題を何とか解決すべくいろいろと対処するから、それが解決すれば、今までの鬱積(うっせき)された不安が一気に喜びに代わり、感情が爆発するのだろう。
 それは、毎日蛇口をひねって水やお湯が出ていたことを当たり前だと思っていた時には、とても考えられないものだった。”君子豹変(ひょうへん)す。”

 今までで、もっともありがたかった風呂は、もうずいぶん昔のことだが、南アルプスの主稜線を北岳から聖岳(ひじりだけ)まで、雨での停滞2日を含めて8日間もかけて縦走した時に、最後の日に聖岳から便(たより)ガ島に下りて、歩けば数時間かかるところを(ヒッチハイクするつもりではいたのだが)運よくすぐに村の公用車に乗せてもらい、その南信濃村の宿を紹介されて、そこで8日ぶりに入った風呂の、身に染みる心地よさが忘れられない。

 南アルプスといえば、去年暮れにBSフジの再放送テレビ番組で、山のツアーガイドや山岳パトロール隊員や森林調査員などをやっている20代後半ぐらいの山好きな仲間の3人が、南アルプスの悪沢岳(わるさわだけ)から聖岳までをテント泊縦走する番組があって、好天気が続く中(天気がいいのが一番)、まわりの山々の展望をじっくりと映し出しながら、3人の若者たちの仕事や山に対する想いなどの部分も入れて、登る人たちの心模様などを織り込みながら、あらためて登山することの意味を考えさせられるドキュメンタリー番組になっていた。(もともと山の番組はすべてドキュメンタリーなのだが。)

 もちろん、あのNHK・BSの「にっぽん百名山」などの山のガイド番組は、山案内として他にない有意義なものであり、例えば先日放送された、秋の中央アルプス空木(うつぎ)岳への、檜尾(ひのきお)尾根からの周遊コースは、実に見ごたえのある素晴らしい眺めが続き、テレビでも十分に楽しむことができたのだが。 
 というのも、私もその昔、夏に木曽駒ヶ岳から縦走して空木岳にも登っているのだが、その時、頂上はガスに包まれていて十分な展望が得られずに、私としては登ってない山と同じことなのだが、もうこの年ではあきらめざるを得ないし、そう思って見ていただけに、当時の他の思い出と併せて感慨ひとしおだったのだ。

 そこで話を、その南アルプス縦走の若者たちの話に戻して、自分の立場で思い返してみると。
 思えば彼らの年齢のころ、私は東京で出版編集社に勤めていて、一月残業200時間を超える時があったくらいで、今では考えられないほどの仕事に携わっていたのだが。
 もちろんそれは、音楽や映画という私の好きなジャンルが担当であったからできた仕事なのだが、ついにある日それも限界にきて、それまでに何度か訪れたことのある、北海道の風景が、山々の姿が頭の中いっぱいに広がってきたのだ。
 私は仕事を辞めて、北海道に移り住むことにした。
 もう、40代の年齢が目の前に見えはじめたころだ。
 その後のことについて、苦楽併せて書くべきことはいくらでもあるが、つまり平穏な老後を送る今では、すべての物事がここに至るまでのマイルストーン(里程標)としての羅列でしかないように思われてきた。
 大切なのは、今という時ではないのかと。

 今日は、それまでの寒さもゆるんできて、快晴の空の下、春先を思わせる日差しが降り注いでいる。
 朝の気温は-5℃近くまで下がり冷え込んだが、日中は10℃くらいにまで上がっていた。
 そういえば、去年の12月は暖かい日が多く、いつもなら早くても1月末に咲き始めるユスラウメの花が、もう年末に咲いていた。(写真下12月30日)



 しかしその後、上に書いたように水道管が凍結するほどの寒波が来たのだが、その寒さを乗り越えて、残りのツボミが再び開き始めたのだ。なんという我慢強い生きる力だろう。

 洗濯物を干し終わり、ゆり椅子に座り、目を閉じていると、遠くでイカルの鳴く声が聞こえてきた。
 春が来たとでも思ったのだろうか・・・ああ神様、もし私が天国に逝(い)けるとするならば、こんな穏やかな日差しの中で、揺り椅子に腰を下ろし、いつしか意識が遠のいていって、先に逝っていたミャオに導かれて、母の待つ天国へ逝けるようにしてください(フランシス・ジャムの詩のように)。

 しかし、今がその時ではない。
 欲深い私には、まだまだやるべきことが幾つも残っているのだ。
 私には、まだ這いつくばってでも登りたい山が幾つかあり、その一つや二つにはと思っているのだが・・・。
 さらに私には、今読んでいる日本の古典文学の続きがあり、まだ数多くが残されていて、一冊でも多くと・・・。
 さらにはもっと音楽を、絵画を、映画を、写真をと・・・。

 つまり死というものを、上にあげたジャム的な宗教的な天国観からは遠く隔たった、生物的な死ととらえるならば、確かに、伊藤栄樹元検事総長の言った有名な言葉、”人は死ねばゴミになる”(小学館文庫)という即物的な表現が正しいのだろうし、そうだとすれば、死は人間の感覚、思考、行動、記憶などすべての遮断(しゃだん)であり、あとは腐食し滅びゆく肉体だけが残るということになり、一瞬のうちに明から暗への幕引きが行われるということだろう。
 ただ、その死の時も、あのキューブラー・ロス(「死ぬ瞬間」中公文庫)や立花隆(「臨死体験」文春文庫)の著作で語られているように、死の痛みを消し去るホルモンが分泌されて、後はトンネルを抜けて天国に向かう明るい花園への幻想の道筋があるだけで、怖れることなど何もないのだ。
 それゆえに、むしろ大切なことは、死を考え恐れることではなく、生ある今を生きることであり、それは自分の感覚を愉(たの)しみ、思考を愉しみ、行動を愉しみ、記憶を愉しむことにあるのではないのだろうか。もちろん今の社会に住むうえでの規範は守りながらということだが。

 ここで、何度も上げたことのある『養生訓(ようじょうくん)』からの言葉を一つ。

”年老いては、わが心の楽しみの外、万端、心にさしはさむべからず。時にしたがい、自ら楽しむべし。自ら楽しむは、世俗の楽しみに非ず。只、心にもとよりある楽を楽しみ、胸中に一物・一事の煩いなく、天地四時、山川の好景、草木の欣栄(きんえい)、これまた楽しむべし。

(『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)

 さらに「古今和歌集」(佐伯梅友校註 岩波文庫)からの歌を一つ。

”老いぬとて などかわが身を せめぎけん 老いずは 今日に あわましものか”  としゆきの朝臣(あそん)

(自分なりに訳すれば:殿上人の仲間たちとともに、御酒をいただき管弦の遊びに打ち興じて、一首作ってみた・・・これまで年取ったと嘆くことが多かったが、思えば、歳をとらなければ今日のような楽しい時には会えなかったのだ。)