ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

奥羽山脈縦断

2019-04-29 21:28:46 | Weblog




 4月29日

 数日前に、北海道に戻って来た。
 その後、雪も降ったりして寒かったが、何よりも久しぶりに白い日高山脈の山々を見ることができてうれしかったし、いつもの山菜取りにも行ってきたし、書くべきことはいろいろとあるのだが、まずは日を追って順に書いていくことにしたいと思うので、今回は、いつもの私の愉しみである、飛行機からの眺めについてのひとくさりを。

 この10連休の飛行機の空席状況は、その前後を含めて絶望的に混んでいて、どうしてもその期間は外して行くしかないし、ただしそうすれば連休の前には、ガラガラといえるほどに空いている便に乗ることができるはずだし、さらには、ありがたく窓側の席に座ることもできるだろう。

 ただし、天気はそれまで続いてきた晴れの日も終わり、明日からは全国的に下り坂に向かうという日だったので、あまり大きな期待はしてはいなかったのだが、つまり曇り空で下界が見えなくても、大気圏から上はいつも晴れているわけだから、その濃い群青(ぐんじょう)色の青空と、その下に広がる雲を見ているだけでもいいと思っていたのだが。

 そして、当日の東京に向かう便は、小雨が降り始めていた飛行場を飛び立って、すぐに雲の中に入って、やがて上空1万m前後の巡航高度に達して、水平飛行になっても、依然として雲の中を飛び続けていた。
 それは、この時、九州の西から寒気を伴った前線が近づいてきていて、暖気が吹き込んで上昇気流が起き、積乱雲が発達して1万mを超えるほどになっていたということなのだろう。
 しかし、関西を過ぎると飛行機は雲の中を抜けて、上にはあの大気圏外の紺色の青空が広がり、下には高層雲が広がっていたのだが、残念なことに、この高層雲が下界の景色を隠していて、北アルプスや南アルプスなどの山々を眺めることはできなかった。
 
 これでは、もう次の東京から北海道へと向かう乗り換え便での、東北の山々の眺めに期待するしかないと思っていた。
 ところが、静岡上空に来たころ、突然高層雲の雲が途切れて、何と富士山がその姿を見せてくれたのだ。(写真上)  
 今まで手持ち無沙汰にカメラを持っていたのだが、この時はここを先途とばかりに、その富士山の姿を撮りまくった。
 全国的に言われているように、今年の冬は雪が少なかったのだということが、その富士山の姿からもうかがい知ることができたのだ。
 もともと雪の少ない南側斜面の、こちら側に大きな口を開いた宝永山火口が見え、その上部の火口壁の所は雪が溶けて、黒々と見えるし、南面とはいえ、今の時期にもう、須走(すばしり)口や富士宮口からの上部は雪が溶けていて、尾根部分が黒々と見えていた。
 これなら5合目からでも、あまり雪の斜面を歩かずに、あの砂礫の登山道をたどれるかもしれないと思ってしまうほどだった。
 富士山の山開きまでまだ2か月もあるというのに、今年の雪の少なさはなんというべきか。

 東京羽田での待ち合わせ時間の後、午後の帯広行きの便に乗り込むが、座席はガラガラで5割もないほどで、他人ごとではあるものの、まわりまわって私たち利用客にも、悪い意味で反映されることになりはしないのかと、余計な心配までしてしまう。
 ともかく、飛び立った飛行機はもやに覆われた関東平野上空を進み、その平野部が終わるころ日光の山々が見えてきた。
 まず最初に見えてくる山々の中で、握りこぶしのような山体が目立つ山は、言わずと知れた男体山(2486m)だが、ここも山頂部に雪が残るものの明らかに雪が少なかった。
  
 東京にいた学生時代のころ、連休の時に一人でこの男体山に登ったことがあるが、5合目から上は深い雪で、疲れ果てて頂上にたどり着いたのだが、この時のまわりの雪の山々の姿にすっかり魅了されてしまい、その後は雪山が私の大きな登山目標の一つになったのだ。
 ちなみに、連休のさなかの5月5日のこの時、他の登山者には誰も出会わなかった。古き良き時代だったというべきか。

 さてその男体山を中心とする日光の山々が見え、奥には北関東の盟主、日光白根山(2578m)が白く浮かび上がり,さらにその後ろには谷川連峰が連なっていたが、さらに奥の方はもやがかかっていて視界が余り効かずに、かろうじて越後三山の姿を確認しただけだった。
 しかし、足元の眼下には、雪山の中に火山による茶色の山肌をむき出しにした茶臼岳(1915㎡)と、それに続く那須連峰の山々が見えていた。 
 そしてそこから続く、まだ雪をたっぷりと残した東北の山々の眺めは、飛行機展望マニアの私にはたまらないものだった。

 まず猪苗代湖の北岸には磐梯山(ばんだいさん、1819m)がそびえ立ち(隣の山肌に作られた何本ものスキー・コースが少し痛々しいが)、さらに小さなコニーデ型噴火口を見せる吾妻小富士が目印になる吾妻連峰(2035m)、そして、今回改めてその火山地形に見入ってしまった蔵王山(1841m)が見えてくる。(写真下)



 5年前の冬に、わざわざあの樹氷を見に出かけて行った時のことがよみがえってくる。(’14.3.3,10の項参照)
 もっとも、春になった今の時期には、もうその樹氷のほとんどは崩れ落ちていることだろうが。

 しかし、今回まるで初めて見た時のように気づいたのだが、それは南蔵王の不忘山(1705m)火口壁の見事さであり、さらにその右に続くもう一つの火口壁、屏風岳(びょうぶだけ、1825m)の地形であり、まるで古い時代の氷河地形カール(圏谷)が崩れた後のようにも見えるのだ。(写真の左側)
 できることなら、スキーツアーコースにもなっているという、あの稜線を歩いてみたかったが。
 そして、この写真の右上には最高峰の熊野岳(1841m)がありその下には、小さなお椀のようにお釜が見えていた。

 次に見えてきたのは世間的にはあまり知られていない、船形山(ふながたやま、1500m)であり、古い火山でなだらかな山だが、ちょうどその時、おそらく1000m位下方を同じコースを行き来する下りの便の飛行機が飛んできて、その一瞬を写したものである。(写真下)





 この先は、去年の秋に登った栗駒山や焼石岳なども見えてきたのだが、いずれもかすんだ空気の中で、はっきりと眺めることはできなかった。 
 そして最後の見ものは、早池峰山(はやちねさん、1917m)であった。(写真下)



 東北の多くの山々が(飯豊連峰、朝日連峰に白神山地を除いて)、火山性の地形であるのと比べて、奥羽山脈からはひとり離れた北上山地にある、古生層という古い地質時代の山であり、その豪壮な山容の魅力以上に、あの有名な日本産エーデルワイスであるハヤチネウスユキソウが咲いていることで知られていて、私も一度は行ってみたいと思うのだが、その季節には、登山口から山頂にまで登山者の列が並ぶということで、いまだに二の足を踏んで出かける気にはならないのだ。

 そして、飛行機は、まだ津波の爪痕が残る三陸沿岸を離れて、太平洋に出て、やがて北海道の山々が見えてくるはずだったのだが、あいにくの曇り空で、雪の日高山脈の山々を見られなかったのは残念だった。
 しかし、今回の飛行機からの眺めは、この季節だけの、東北の雪山の幾つかを見ることができて、飛行機からの山岳展望マニアの、私の思いは十分に満たされたのだ。ありがとう。
 
 飛行機はいったん北側に回り込み、今度は南風に向かって飛行場へと機首を下げて行った。
 十勝平野のます目状に区切られた農地では、トラクターの畑おこし作業が始まっていて、その後には、鮮やかな土色の線が描かれていた。
 北海道の、十勝平野の春なのだ。


そして、外に出るのだ

2019-04-22 20:56:12 | Weblog




 4月22日

 相変わらず、晴れた日が続いている。 
 三日間ずっと快晴の日が続いたとしても、もう驚かなくなってしまった。 
 この冬は、雪が降った日が少なかったし、さらに続いて今日にいたるまで、雨さえもあまり降っていないのだ。
 “お天気屋”の私としては、実に喜ばしいことであり、気温も25℃の夏日を超えることが度々で、頭も浮かれてヨイヨイヨイ状態になってしまうのだが。

 庭のツクシシャクナゲは、次々に大ぶりの花を咲かせて、今では満開からすでに花が散り始めているほどだ。
 しかし、このシャクナゲの花は、ツボミの真紅色のころから、少しづつ赤みが薄れていき、最後には白い大ぶりの花がまとまって咲き、それはまさに豪華な花衣装と呼ぶのにふさわしいのだが、できればその中に、まだ花が咲く前の、薄赤色のツボミが混じっているころが、一番いいと思う。(写真上)

 7月、額に汗して、あの北アルプスの縦走路を歩いていると、その尾根筋のコル(鞍部)あたりで、ハイマツの緑の中に、白くあるいは薄赤色に咲くハクサンシャクナゲの花を見ることがあって、いつもその花の明るさにどれほど励まされてきたことか。
 あるいは、北海道の大雪山の所々に、一大群落を作るキバナシャクナゲの花の集まり・・・私は、そこで立ち止まり、その景観を写真に撮るのだが。 
 さらにその後でも、またその青空の下の花々を見ては、周りの山々を眺めなおしたりしていると、ついでに傍らの岩の上に腰を下ろしてしまい、とうとうそこでひと時を過ごしてしまうのだ。
 盛夏の、名高き大雪の山々とは言え、行き交う人は少なく、風の音と、少し離れた所で鳴くギンザンマシコの声だけが聞こえている。
 日ごろから、いくら静かな田舎の家に住んでいるとは言え、家の中でぐうたらに過ごしていては、とても味わえない、山の上ならではのひと時だ。

 さて数日前、前回登ってきたばかりの、自宅裏の山にまた行ってきた。
 さすがに2週間もたてば、大きな株いっぱいに咲くアセビの花は、もうどこでも満開になっていたが(写真下)、ミヤマキリシマのツツジの花はまだ小さなツボミだけで、わずかに足元にキスミレが一輪咲いていただけだった。



 
 今回の目的は、もちろんん山歩きを楽しむことなのだが、前回、急斜面の下りでヒザを痛めてしまい、それが回復の見込みのないほどひどいものかどうか、同じ下り坂で試してみたかったからである。 
 前回よりは時間をかけて、ゆっくりとなるべくジグザグを切って下りて行くようにして、3時間ほどの山歩きを終えたその結果、ヒザはほとんど痛むことはなかったのだ。 
 ありがたい。
 これで、自分の年相応の能力で歩いて行けば、まだまだ山歩きが続けられるということだから。 

 前にも、このブログで取り上げたことのある、あのイギリスのロマン派時代の田園詩人、ウィリアム・ワーズワース (1770~1850) の詩の中から、「発想の転換をこそ(The Tables Turned) 」という一編を。

” ・・・。
 自然は、人間の精神と心象を浄(きよ)める
 無限の富を貯(たくわ)えた宝庫なのだ。
 その健康な姿を通して、知恵が脈々と迸(ほとばし)り出、 
 その快活な姿を通して、真理が脈々と迸り出ている。

 春の森の一瞥(いちべつ)がもたらす感動は、
 すべての賢者以上に、人間について、
 人間の善と悪という論理の問題について、
 我々にさまざまなことを教えてくれる。

 自然が与えてくれる教訓は、快(こころよ)く胸をうつ。
 我々の小賢(こざか)しい知性ときたら、
 事物の美しい姿を台なしにしてしまうだけだ。━━
 人間は分析せんとして対象を扼殺(やくさつ)している。

 科学も学問ももうたくさん、といいたい。
 それらの不毛の書物を閉じるがいい。
 そして、外に出るのだ、万象(ばんしょう)を見、万象に感動する
 心を抱いて、外に出てくるのだ。”

(『イギリス名詩選』平井正穂編 岩波文庫より、この一編は「ワーズワース詩集』田部重治選訳、ならびに『ワーズワース詩集』山内久明編(いずれも岩波文庫)には未掲載のものである。)


住めば都(みやこ)

2019-04-15 21:43:35 | Weblog




 4月15日

 このところ、おそらくは最後の”寒の戻り”だろうという日々が続いていて、最低気温がマイナスになる日もあって、まだ朝夕のストーヴが欠かせない。
 しかし、先週は初夏を思わせるほどに気温が上がって、花々は一気にツボミから花開き、木々の芽吹きも始まって、もうこの”春本番”への流れは変わらないだろう。
 数日前、満開の桜の花の下で、赤桃色のツクシシャクナゲのツボミがひときわ鮮やかだった。(写真上)
 今では、庭一面にサクラの花ビラが散り敷いていて、シャクナゲはその赤いツボミから変わった、白桃色の花びらを咲かせている。
 寒い時期の、ユスラウメの白い花から始まった、わが家の春の”花暦(はなごよみ)”は、サザンカ、ブンゴウメ、ジンチョウゲ、コブシ、ツバキ、ヤマザクラそして、今が盛りのツクシシャクナゲと続き、見あきることはない。

" わが宿の 花見せむとて 待つ人の 去りにし後ぞ 恋しかるべき ”

 これは、もちろんあの『古今集』に出てくる凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の、有名な歌 ”我がやどの 花みがてらにくる人は ちりなむ後ぞ こいしかるべき” を下手にまねて作ってみたものである。 

 歌の巧拙は論外だとしても、ただ単純に、家の花が咲くのを楽しみに待っていた、亡き母のことを思い出して、口ずさんでみただけのことであるが。
 もう15年も前のことになる。ウメの花が咲いて、次に桜の花が咲こうかという頃だった。

 それはさらに、あの西行法師の辞世の句と言われる歌も思い出すことになるし、年ごとにその思いが迫ってくるように感じるのだが。 

” 願わくば 花の下にて 春死なむ その望月(もちづき)の 如月(きさらぎ)のころ” 

 あまりにも有名な歌だから、さらにはこのブログでも何度も引き合いに出した歌だから、またも同じようにと気が引けるけれども、やはりこうして年寄りになって、春の花のころになると、今は亡き人たちのことが思い出されてきて、それとともにこの西行の歌を、ふとつぶやいてしまうのだ。

 こうして、生命の息吹あふれる様々な花々のツボミや、新緑の葉が芽吹いていく様を見ていると、多くの人が、やはり季節は春に勝るものはないというのも、道理だと思ってしまうのだ・・・それでも私は、小声で冬山の雪景色の姿が好きとは言ってみるのだが。

 本来ならば、今頃はもう北海道に戻っているころなのだが、去年のように脚のケガで動けなかった場合などはともかく、どうも年ごとに北海道に帰るのだという、ときめきが少なくなってきたように思うのだが。
 もちろん、その原因は自分ではよくわかっている。
 その頃は、まだまだ登るべき日高山脈の山々があり、特に春の残雪期にその雪渓(せっけい)や雪堤(せきてい)をたどって登って行く、季節限定のルートが、私の好きな登り方だったから、余計のことだったのだが、他にも丸太小屋を仕上げるための仕事がまだまだいくらでもあったし、さらには私を待ってくれる人がいたし・・・。

 そんな大切な私の基地でもあった北海道の家なのに、今では、何匹ものヘビが巣くうだけの、水も出ない、トイレにも不自由するような所になっていて、今ではそんな状態に二の足を踏んでいて、すぐに出かけたいという気にはならないのだが、かと言って自分が好きで住みついた土地を、家をほおっておくわけにはいかないし・・・。

 なあに、気に病むことはない。

” 時は流れ、私は残る”(アポリネール「ミラボー橋」)ものだし、”時は偉大な作家だ、いつも完璧なラストを書き上げてくれる”(チャップリン「ライムライト」)だろうし、今は”川の流れのように“(作詞 秋元康)、なるがままにLet it be (ビートルズ)と身を任せていればいいのかもしれない。

 今日は、ようやく肌寒い日々が過ぎ去って、さわやかな風が吹き渡り、見事な青空が一面に広がっていて、その下に花々が咲いている。
 ベランダに置いたゆり椅子に座って、何も考えないで、ぼんやりと時を過ごすことが、どれほど素晴らしいことか。
 つまりこうしていることは、貴重な時間の無駄使いではなく、むしろ今、私に与えられている貴重な時間を十分い味わっていることであり、生きていることのありがたさを感じることのできる時間なのである。

 今ちょうど、NHK・Eテレの「100分で名著」の番組で放送されている、あの『自省録』からの言葉を併せて思い出したのだが。
 著者のマルクス・アウレーリウス(121~180)は言わずと知れたあのローマ帝国の皇帝でありながら、多くの思索の言葉を残して、”哲人皇帝”とまで呼ばれている歴史上の偉人である。 
 このブログでは前にも何度か、彼の言葉を取り上げたことがあるが、他の哲学者や倫理思想家などと違って、あの巨大ローマ帝国の支配者として、幾つもの戦いに出陣し、政治的な差配をしていく毎日の激務の中で、彼が書き留めておいたある種の随想録であり、体系的に書かれたものではないけれども、そこには、他の思想家たちの思いつきと比べれば、常に実践的であったその時々の言葉の重みがあるし、まして彼の立場を思うと納得させられることが多いのだ。

” すべては主観に過ぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。
 するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪(なぎ)と全き静けさと、波もなき入り江。”

(『自省録』マルクス・アウレーリウス 神谷美恵子訳 岩波文庫)

 毎週、例の『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系)の話ばかり書いているけれども、謎解きとそれぞれの身の上話が合わさった新な展開が面白くて、どうしても見てしまうことになる。
 この番組は、相変わらず視聴率も高く、今まで同時間帯の名物番組だった『世界の果てまでイッテQ!』(日テレ系)を抜くほどまでになったそうだが、この二つの番組の視聴者が全く見事な対照をなしているのが面白い。
 つまり、『ポツン』ファンたちの特徴は、そのキーワードとして、"田舎、今都会に住んでいるがその出自(しゅつじ)を田舎に持つ人々、中高年”というのに比べて、『イッテQ』ファンの方は、”都会や地方都市に住む人々、若者から中年”というふうに、そこには際立った差異が見られるということだし。 
 私はと言えば、それまで『イッテQ』は、海外登山特集の時に何度か見たことはあったが、この時間帯には野球(北海道日本ハムファイターズ)を見たりしていることが多かったから、もともと年に何回かの特別番組だった『ポツン』が、レギュラー番組として始まったのが半年前であり、野球中継もない時期だったから、いつしか私にとっての定番番組になっていったのだろうが。
 もっとも、番組スポンサーの立場から言えば、物を買ってくれる年代層の多い『イッテQ』のほうが、対宣伝効果が高いのだろうし、その分制作費用もかかってはいるのだろう。
 一方の『ポツン』のほうが低予算のロケだけで、制作費用があまりかからないだろうことはすぐにわかるのだが。

 またもや余分な話を書いてしまったが、先週の『ポツンと一軒家』の話に戻ろう。
 今回は四国の話で、一つ目は定年退職後の60代の兄弟が、山奥の実家を二人で修理補修しながら、通いで田舎暮らしを楽しんでいるという話で、もう一つは78歳になるというおじいさんとまだまだ元気な72歳のおばあさんが住んでいる家で、脚を悪くしたおじいさんは昔ほどに仕事はできなくなったが、そのぶんおばあさんが他の仕事は引き受けていて、おじいさんが五右衛門風呂を沸かしてくれるだけでもありがたいと言っていた。おじいさんは、その昔、父親と二人で建てた家だから放り出していくわけにはいかないと言っていたし、おばあさんはうなづいて”住めば都”ですからと言っていた。
 このおばあさんの一言で、私は上に書いたマルクス・アウレーリウスの言葉を思い出したのだ。

 考え方ひとつで、”全き静けさと、波もなき入り江”に憩(いこ)うことができるのだと。


年寄りの鑑

2019-04-08 21:06:55 | Weblog




 4月8日

 まさしく、春になった。
 快晴の日が、数日も続いている。
 それも時間のめぐり合わせで、夜の間に小雨が降り、日中は連日、青空の下で、気温は20℃前後にまで上がり、家のヤマザクラの花も咲き、木々の新緑の葉も芽吹いてきた。

 あ、ヨイヨイヨイヨイと・・・ご承知の通りの”お天気や”のこのじいさんのこと、今にも踊り出さんばかりで・・・いやあ、春はいいよな春は、とつぶやくのでした。
 あれほど、冬には、雪景色になる冬が一番好きだとほざいていたのに、この冬はその雪がさっぱり降らなくて、雪景色の九重の山を歩いたのもわずか2回だけだという情けなさ・・・ということもあってか、そのどこか中途半端な冬が終わり、春になればやはり春が一番だと、小躍りしては喜ぶというありさまで、”手のひら返しの変わりよう”というべきか、すぐに周りに迎合(げいごう)するタヌキおやじの”豹変(ひょうへん)”ぶりには、われながらいささか後ろめたい気もしないのではないのだが。
 冬の間には、よほど穏やかな日以外にはベランダに置いてある椅子に座ろうとも思わないのだが、この春の盛りの時期、何かとベランダに出ては椅子に腰を下ろして時を過ごすことになるのだ。 
 まずは周りの樹々を眺める、コブシの白い花、赤いヤエツバキの花、見上げる上に白いヤマザクラの花、そして芽吹き始めたばかりの、モミジやカツラの小さな葉(写真下)など、青空を背景にした樹々が視界のうちに入ってくる。



 
 そこで、新聞や本を読んだりするのだが、すぐに眠たくなってしまい、そのまま目を閉じてうつらうつらとして・・・ああ、このままあの世とやらに行くことになるのではないのかとも思ってしまうのだが、まあそれはそれでいいし、一方では、せっかくの残り少ない人生を無駄に過ごしているのではと、考えないわけでもないのだが、それは、こうしてあの世とこの世のはざまにいるようなひと時を感じることこそ、ある種の死への穏やかなリハーサルになっているのかもしれないのだと。
 前回書いたモンテーニュの言葉のように。

 ”もっとも単純に自然に身を任せることは、もっとも賢明な任せかたである。ああ、無知と単純とは、よくできた頭を休めるのには、何と柔らかく快い、健康な枕であろう。” 
 ”自分のおめでたさに満足し、最後まで気づかないでいられるなら、狂人と言われ、馬鹿とさげすまされても、賢いためにイライラしているよりはましだ。(ホラティウス、紀元前古代ローマ時代の詩人)"
(『世界文学全集11』「エセー」モンテーニュ 原二郎訳 筑摩書房)

 つまり、幸せな気持ちでいられるためには、自らが馬鹿になることが大切であり、そのためには、いつも頭の中に”チョウチョが飛んでいる状態を作れるようににすべきなのだろう。

 そうした馬鹿になるべく、数日前に、久しぶりに山に行ってきた。
 とはいっても、九重などの山に行ってきたのではなくて、いつものこの集落の裏山を歩き回ってきただけのことなのだが。
 少し前までは、標識もない登山口というか山道が始まる所まで、家から1時間ほどもかかって歩いて来ていたのだが、最近はすっかり横着でぐうたらになってしまい、そのわずかな距離さえもクルマで行くようになってしまったのだ。
 さてそこから、いつものコナラやヒメシャラの、まだ冬枯れの林の中をゆるやかに登って行くのだが、休日以外にはめったに人に会うこともなく、細い木々の枝の間に青空がのぞいている中を歩いていると、いつも自分が今、自然のただ中にいるのだと実感するのだ。
 やがて、薄暗い静まり返ったスギ林の中を登って行き、枯れ沢に下って、再び雑木林の小尾根の斜面をたどり、そこを抜けると視界が開けて、カヤトの斜面からなだらかな尾根へと続いている。
 風があったけれども、汗ばんだ体には心地よいほどだ。 
 所々にアセビの大きな株があって、ちょうど花が咲き始めたところだった。
 まだ十分に開いてはいなかったが、鈴なりに咲く、白や、薄桃色に黄金色も交えた株が点々と連なるさまは、山の春を告げるにふさわしい眺めだった。(冒頭の写真)

 ともかく、頂きの所まで行って周りの山々の眺めを楽しみ、帰りは旧道の急斜面が続く道を降りてきた。
 この道は一時荒れ放題になっていて、歩くのもままならないほどだったがが、その後測量のための刈り払いなどが入って、今ではまた普通に歩けるようになっているのだが、やはりこちらから登る人は少ないようだ。
 もっとも、昔の話をすれば、道が荒れるまでは最短のこの道を往復することが多かったのだが、雪の時には、両側のササが倒れ掛かってきていて、そこを抜けるまでが一苦労だった。
 さて、その道をたどると、頂上から1時間ほどで降りてくることができるのが、思いもしないことが起きてしまった。
 下りでのヒザの痛みである。3年前に大雪山は緑岳から下りで、ヒザを痛めてしまい、歩くのがやっとという状態で登山口の高原温泉にたどり着いたのだが、その時は往復7時間ほどの歩きだったのだが、今回はほんの3時間ほどにしかならない山歩きの下りで、ヒザ痛が起きてしまったのだ。
 もともと、最近気になっていたのは左ヒザだけだったのに、今回は残り15分くらいの所で、それまでかばって下りてきていた左ヒザだけではなく、右側も痛みはじめて、一歩歩くたびに声をあげたいほどで、やっとのことでクルマを停めていた所まで戻ってきたのだが。
 確かに思い当たる節はあって、最近ではぐうたらさに輪をかけて外に出るのも面倒になって、すっかりものぐさじじいになってしまい、今話題になっている”引きこもり中高年”問題をからめて言えば、そこで思わず下手な川柳(せんりゅう)を一句、あの有名な明治時代の”ギヨエテとはおれのことかとゲーテいい”にちなんで、”引きこもりおれのことかと隠居爺”・・・しーん。

 ともかく、そうして登山回数がめっきり減っていたこともあって、厳しい生き物としてのおきてを知らされた気がしたのだ。
 それは、私が歳をとったということであり、いつものように山に登るなら、もっと日ごろから坂道の上り下りなどの訓練をしておかなければならないということであり、年齢の分の歳相応の鍛錬が必要なのだということなのだ。
 ”老人よ大志を抱け”、そのためには、毎日鉛の靴を履いて20㎏のザックを担いで歩いている、あの”三浦雄一郎さんを見よ”というべきか、あの年寄りの鑑(かがみ)でもある85歳の登山家のことを思うのだ。

 今回の、もう思い出したくもないような下山時のヒザの痛みは、私の山登りへの、行くかとどまるかを示唆する大きな警告だったのだ。
 まだまだ登りたい山はいくつもあるし、ここであきらめて、ふんどしヨレヨレ姿のじじいになってはあまりにも情けない。
 私は、少年漫画のように、キッと顔をあげまなじりをあげて、輝く瞳で、山を見つめながら思うのだ。”きっとくるーきっとくるー。
 と言った口先の乾かぬうちから、いつものように、テレビの前で横になって、鼻をほじりながら、屁を一発こいて、馬鹿なお笑い番組を見ては、ひとりニヒニヒと笑っている、まあ薄気味悪い”クソじじい”ではありますが・・・はい私がその”空想じじい”ですと、おちまでつけて。
 
 今回も、例の『ポツンと一軒家』の話で、毎回ごとにはなるが、やはり気になる話だからここに書いておきたい。
 長野県は諏訪大社近くの山の中の一軒家の話で、先祖は近くにあった戦国時代の山城の武士だったというが、戦に負けて近くの山里に降りてきて、そこで山伏の一つである法印(ほういん、祈祷師、あの清水次郎長一家の法印大五郎など)の仕事を受け継いで、今は6代目になるという69歳のご主人と奥さんに、93歳なるというおばあちゃんの三人暮らしで、もちろん法印などは過去の仕事であり、今は棚田で米を作っているとのことだった。
 その棚田で作った米を3人で美味しくいただきながら、脚の悪くなったというおばあちゃんが言うのだった。
 ”なんぼ貧乏であっても、家族が健康であったら、億万長者より幸せです。貧乏人は強いけんのう。”

 残念なことは、こうしたおばあちゃんの言った言葉の意味が、若い時には決してわからないということだ。
 様々な経験をしてきて、やっと年寄りになって、しみじみと分かってくるものなのだろうが・・・。

 下の写真は、近くにあるベニシダレザクラである。
 やはり、春はサクラよ、青空よ。


 


いやしけよごと

2019-04-01 22:05:48 | Weblog




 4月1日

「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)」

 言うまでもないことだが、あの『万葉集』全二十巻は、その編者でもあった大伴家持(おおとものやかもち、718~785)の、この一首を最後として閉じられている。
 しかし、今はもう”年の初めの初春”と呼べる時期を、とうに過ぎてしまったし、今ここでは雪も降ってはいないけれど、伝統的に続けられてきた日本の年号が変わるということで、何かとあわただしい世の中を見ていて、ふとこの歌のことを思い出したのだ。

 ”新年になった今日から、降り続いている雪だけれども、その雪が降り積もるごとに、良いことも重なり増えていきますように”
 大伴家持は、なんのてらいも他意もなく、素直な気持ちで、降り積もる雪を見て思ったのだろう、これからも人々によいことが続くような、平和な大和の国でありますようにと、併せて私たち歌人の歌が、今までこうして雪のように降り積もり、『万葉集』としてまとめらるほどになったように、これからも同じように歌人たちの歌が詠み継がれていきますようにと。

 それまで、気温が20℃ほどにもなるような日が続き、春本番を思わせるような陽気になっていたのに、一転、昨日から強風が吹き荒れて、気温も一気に下がって、今日は朝の気温1℃で、日中も7℃くらいまでしか上がらなかったし、東北や北陸地方も雪になり、中国・九州地方の山沿いでも雪が舞うだろうとの予報が出ていた。
 満ちてくる潮にも、寄せ波と引き波があるように、まだまだ季節は小さく出入りを繰り返しながら、それでも確実に移り変わっていくのだろうが。

 今回もまた、例の『ポツンと一軒家』を見て、いろいろと思うことがあって、どうしてもここに書きたくなってしまったのだ。
 特に今回は2時間半もの番組だっただけに、今までと同じような高齢者たちの住人の話であったとしても、そこにはそれぞれの人生模様が刻みこまれていて、そのおじいさんおばあさんたちの言葉が、深い意味をもって私の胸に響いてきたからだ。
 
 その中の一つ、四国の山奥に住む高齢者夫婦の場合。もともと兼業農家だったが、ご主人は若いころ、あの有名な別子(べっし)銅山へと働きに出ていたのだが、なんとこの家から片道2時間もかかる道を歩いて往復し、毎日通勤していたとのことだった、今元気でいられるのもそのころの山道通勤のおかげだと笑っていたが。
 銅山が廃止になった後は、林業作業の手伝いに出て、そのころから、庭づくりや樹々の剪定(せんてい)作業に興味をもつようになって、今ではこんな山奥の家なのに、独力で600坪ほどもある立派な日本庭園を作り上げていたのだ。
 さらには、木の切り株などを加工して作った見事な手工芸品の置物などがあって、小屋いっぱいになるほどに置いてあった。
 そんな自分だけの趣味に没頭するご主人を見て、結婚60年になるというおばあさんは、まじめな人ですからと黙って見守り、午前と午後それぞれのおやつの時間にお茶を運んでいって、二人で庭の景色を見ながら過ごすのが楽しみだと言っていた。

 これほど立派な庭なのに、もしおじいちゃんがいなくなった後はどうなるんですかと、取材スタッフが尋ねると、おじいさんは当たり前のことのように答えた。
 ”子どもたちは下の町でそれぞれに暮らしているし、親が持っていたものを守らなければならないということはない、好きにしていいと言ってある。
 わしが死んだ後のことなんか知らん。わしは生きとる間はこうして庭を作っていればいい。”

 さらに今回は、九州は熊本の山奥にある一軒家を探す旅がメインになっていて、それも目指すところには、それぞれに2㎞ぐらい離れた一軒家が5軒もある地区があって、それぞれに70代から90代までのご高齢のご夫婦や、一人暮らしのおばあちゃんたちが元気に暮らしていたのだ。
 そのうちの二人のおばあちゃんは、見合いをして他所から嫁いできたそうで、嫁入りの時には、下の家で嫁入り支度をしてカツラをつけ着物を着て、2㎞の山道を歩いて、2時間もかかって、当時電気も来ていなかったランプだけのこの家に来たというのだ、昭和の30年代の話しだそうだが。
 普通に考えれば、いまだにやっと小型車が通れるだけの細い道しかない、こんな不便な所にと思うのだが、おばあちゃんたちが言うには、祖先が苦労して切り開いた土地を放ってはおけないし、体が元気なうちはこの家にいたい、何より気兼ねなく一人でいられて、ここは天国ですと、明るく答えるのだった。

 きらびやかな都会の景観の中で、自分の子供を虐待(ぎゃくたい)してはその果てに殺してしまう親がいて、同僚の女の子の部屋に忍び込んで殺してしまう男がいて、ネット上の書き込みだけで知り合い殺されてしまう娘がいて、外国にアジトを構えてそこから”オレオレ詐欺”の電話をかけて9000万円ものお金をだまし取っていた若者たちの集団がいて、さらに日々刻刻、似たような都会型の犯罪は増えていき・・・、そうした都会の暮らしとは別に、周りにコンビニ一軒すらない不便な僻地の山奥での暮らし、介護施設に世話になることもなく、自分の力だけで毎日を生活していき、狭い自分の世界の中だけで、自分の“今を生きる”お年寄りたちがいて・・・。

 それは、私ごとき隠居老人がとやかく言う問題ではないのかもしれない。それぞれに、自分が選んだ人生なのだからとは思うのだが。
 しかし、自分の父親に虐待を受けて死んでいった子供の場合は、あまりにもつらい気持ちになってしまう。 
 大人になれば、それからの人生は自分の決断対応次第なのだろうが、しかし、親の保護のもとに育っていく子供の場合、すべてをゆだねて守ってもらっていた自分の親が、一転自分を攻撃してくる者になれば、子供はどこに逃げればいいというのだ。 
 子どもは、親を選んで生まれてくることはできないのだ。
 父親に虐待され、母親にも見放された子供・・・その娘はひとり風呂場で水をかけられて死んでいったのだ。
 誰にすがるすべもなく、やせ細った自分の体を抱いて。
 
 私は幼い時に父親と別れて、母親一人の手で育てられた。 
 死に物狂いで働き、私を育ててくれた母親の苦労もよくわかっている。
 まだ小学生になったばかりの私の手を引いて、田舎の誇りまみれの道を歩いていた母が、その小さな橋の上で立ち止まり、”死のうか”と私に言った言葉を今も憶えている。

 今日から始まった,NHKの朝ドラ『なつぞら』は、舞台が私のもう一つのふるさとである北海道は十勝地方の話であり、あまりドラマを見ることのない私が、最初から見ることに決めていたドラマなのだが。
 第一回目から、東京の空襲で母親を亡くした少女の話しであり、亡き父の戦友のおじさんの家に預けられることになり、不安な思いのままその家に行って、やさしい言葉をかけられて、思わず緊張が解けて、その家のお母さんの胸に飛び込んで泣き出すシーンがあり、私も同じ年頃のころ一人伯父さんの家に預けられていて、その思い出がよみがえり、思わず涙してしまったのだ。

 その母も今はなく、私はこの年まで生きてきた。
 そして、自分自身の胸に手を当てて、よく考えてみる。 
 多くの人の手助けと、数多くの幸運と不運、そして良かれ悪しかれ、これまた数多くの偶然によって、ここまで生きてこられた私の人生に、ただただ感謝するほかはない。
 さすれば、そうして生きながらえてきた私の人生を、最後まで自分の思いに沿うべく、このまま、わがまま気ままにまっとうしてみたくなる。
 ということは、外界世間の様々な出来事などに、いちいち気をまわすべきではないのかもしれない。
 より狭い自分のいる場所だけに目を配って、外の世界の話に一喜一憂しないことが、何よりも自分の気持ちを穏やかな状態に保つことなのかもしれない。

 前にもここで何度も上げている、あの江戸時代の医学者であり儒学者でもあった、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中からの一節。

 ”老いの身は、余命久しからざる事を思い、心を用いる事わかき時に代わるべし。心しずかに事少なくて、人に交わる事もまれならんこそ、あいにあい(相似合い)てよろしかるべけれ。是も亦(これもまた)、老人の気を養う道なり。”

 ”世の中のひとのありさま、わが心にかなわずとも、凡人ならばさこそあらめと思い、天命をやすんじて、うれうべからず、つねに楽しみて日を送るべし。人をうらみ、いかり、身をうれいなげきて、心をくるしめ 楽しまずして、はかなく年月を過ぎなん事、おしむべし。”

(『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)

 今回は、『ポツンと一軒家』の話しから、別のことについて書いていこうと思ったのだが、ちょうど今日から始まったNHK朝ドラ『なつぞら』の第一回を見て、思わず幼き日の私の姿にダブって、ついついお涙ちょうだい的な話の展開になってしまったのだが、これは当初の本意ではないものの、考えてみれば、こうした哀しい経験こそが、良くも悪くも今の私を作っているのだからと、勢いのまま書いておくことにしたのだ。

 冒頭の写真は、庭のコブシの花、七分咲。
 それにしても、人生は長い話の連続ながら、ひと瞬(またた)きの間に、通り過ぎていくものだと、白髪まじりの老人はひとりうなずき思うのでした。