ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

羊の詩

2016-12-26 23:14:25 | Weblog



 12月26日

 あられが降り、雪が降るような、体の芯まで冷える寒い日が続いたかと思うと、一転、気温が20度を超える、生暖かい春のような日があったりと、めぐり来る季節はどこへ行くのだろうか。
 春先に鳴き始めるはずの、ホオジロが一羽、野原でさえずり鳴いていた。
 町に行くと、クリスマス飾りがきらびやかに輝き、一方で店には正月用品があふれていた。

 しかし、こうした田舎の家にひとりでいると、何ごともなく、何ごとかの日でもなく、朝に明るくなり、夕方には日が沈んでいくだけのことだ。
 私を包む、静かな時の流れ・・・年寄りにこそふさわしい、この静寂の今に、ただただ感謝するばかりだ。

 人が死におもむく時には、まず目が見えなくなってきて、意識が遠のき、それでも耳は聞こえ感覚は残っているそうだから・・・実際、母の死の床のそばにいてそのことを感じたからなのだが、私のその時は、どうか静かなる自然の中であってほしいと思う。 

 「おお神さま、
 わたしがあなたのところへ参ります日には、
 周りに木々が並び立ち、風がそよそよと吹き渡るような日にしてください。
 あるいは、冬に、雪がしんしんと降りしきる中でもかまいません。 

 そして、わたしの心の貧しさと貧乏さを
 無窮(むきゅう)の愛に映した大空のもとへ
 わたしを解き放ってください。」
 
 (『ジャム詩集』 「驢馬(ろば)と連れ立って天国へ行くための祈り」 堀口大学訳 新潮文庫 に基づいて)

 出だしから、少し重たい話になってしまったのだが、それは、いつものように、クリスマスの日に聴いた音楽のせいなのかもしれない。
 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の「クリスマス・オラトリオ」。
 初めのころ、私はこのキリスト生誕とされる日(今では別な日という異説もあるが)には、「マタイ受難曲」を聞くのを常としていた。
 しかし、それは確かに、バッハの音楽を代表する一曲といっても差し支えないほどの名曲であり、私の好きな曲の一つでもあったからだが、しかし考えてみれば、それはイエス生誕のお祝いの曲ではなく、その後のイエスの受難に至るまでの様子を描いた曲なのだから、この日には、あまりふさわしくはないように思われて、以後はずっと、このキリスト生誕の日のために構成された、「クリスマス・オラトリオ」を聞くようにしているのだ。

 つまり、上に構成されたと書いたのは、他のバッハの宗教音楽の大曲である、「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ロ短調ミサ曲」などが、その名の通りに、一連の物語、式典の曲として描かれているのに比べれば、この「クリスマス・オラトリオ」は、教会でクリスマスの日の前後に演奏される、6曲の”教会カンタータ”の曲を集めたものであり、その内容に一貫性があるわけではないし、他の宗教曲大曲とは意味合いが違うけれども、もちろん、すべてバッハ自身がこの祝祭日前後を含めた日のために作ったものだから、そこには日を続けての関連性があり、あまり違和感はなく通して聴くことができるのだ。

 最初に始まりのドラムが打ち鳴らされる、第一部の「いざ祝え、この良き日を」の冒頭から、いかにも祝祭的な喜びにあふれていて、クリスマスの日にふさわしいものだ。
 その後も、ほかのカンタータから転用された旋律がいくつも出てくるのだが、第二部の天使によるまさに天国的なパストラル・シンフォニー(田園交響楽)の響き、第四部のソプラノ独奏とそれにこたえるエコーとの掛け合いがなんと美しいことか、などなどと3時間近くの演奏時間も、バッハの曲だからこそのことだろうが、決して長くは感じないし、もう一度繰り返し聴きたくなるほどだ。(以上参照、『名曲大辞典』音楽の友・別冊 音楽之友社)

 そして、今もこうして、キーボードを叩いて記事を書いている私の後ろには、この「クリスマス・オラトリオ」を小さく流しているくらいなのだ、
 レコード時代には、あのカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団(独Archiv)で聴いていたのだが、CDの時代になっては、そのレコードのものをCDに買い替え、さらには新しく、鈴木雅明指揮日本バッハ・コレギュウム盤(スウェーデンBIS)を買い、さらには廉価盤のクルト・トーマス(旧東独盤、独edel)や、ルネ・ヤーコブス(独harumonia mundi)のもの、さらには、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮コレギュウム・ヴォカーレ (英Virgin、写真上)なども買ったのだが、最近は、すべての点で一応納得できる、このヘレヴェッヘ盤ばかりを聴いている。(つけくわえれば、彼の「ロ短調ミサ曲」も素晴らしい。)

 私はキリスト教信者ではないし、キリスト教についていくらか学んだけに過ぎないのだが、若き日に、実地にヨーロッパの国々を訪れ、その教会で演奏されていた、バッハなどの教会音楽を聴いてきたこともあって、そして今もなお、繰り返しCDで教会音楽を聴き続けてきて思うのは、ヨーロッパという連合独立国家群が、その長い歴史の中で、良かれ悪(あ)しかれ、キリスト教会と深く結びつき、形成してきた、広範囲に及ぶ文化遺産についてである。
 巨大な教会の伽藍(がらん)群、彫刻、絵画、文学、そして今ここに聴く音楽などなど・・・今日では、教会に足を運ぶ人が少なくなり、いかに信者の数が減ったとしても、彼らヨーロッパ人の心の底流にあるのは、長い伝統により脈々と受け継がれてきた、古き良き時代の、素朴な原始共同体的な神のいる世界ではないのだろうか。

 同じように、私たち日本人が、いかに仏教信仰の道から外れていて、儀式の中でしか従うことのない、仏教信徒であるとしても、その心の奥に共通してあるのは、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)などと思わず唱える、諸行無常の世界からの、あるかもしれない、来るべき浄土の世界へのかすかな思いではないのだろうか。
 いかに、現代のそれぞれの宗教における信仰心が薄れてきたとしても、人は人だけを信じて生きてはいけないものだから、時には神に頼り、時にはそれが狂信的なものになったりするけれども、さらには、人は同じ過ちを時を隔てて繰り返すものであり、他の生き物たちと同じように、己の利と欲に生きる動物なのだから、己の罪に気づいた時に神に救いを求めるのであり、そうしたことで、私たちから、何らかの形での宗教心がなくなることはないのだろうが。
 今、私たちすべての迷える子羊たちは・・・生贄(いけにえ)たるべく運命づけられた、神の御使いなる神の子羊の後について行くべきなのだろうか、はたして、その使わされた神の子羊が、この現代に・・・。

「・・・イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のいない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教え始められた。・・・」

(「マルコによる福音書」第6章より)

 何事も、神のみ心のままに。

 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。
 
 そういえば、あの加藤周一(1919~2008)が書いた『羊の歌』(岩波新書)という本があった。
 戦前戦後を生きた、医学博士であり著名な評論家でもあった彼の、”迷える子羊”の一匹としての魂の叫びとでも呼べる、優れた自伝的随想録であったが、ふと思い出してしまった。
 さらには、惜しみて余りある、わずか30歳という若さでこの世を去った、詩人中原中也(1907~37)に、『山羊(やぎ)の歌』という初期詩集があり、その中の一編に「羊の歌」という詩がある。
 それは、ここに引用するするには長すぎるので割愛するが、キリスト教徒ではなかった彼が、それでも多くのフランス詩人たちの影響もあってか、キリスト教的世界観が見えるような詩も多くあり、ここに書かれている”羊”とは、当時の苦しみ迷う彼の姿であり、”迷える子羊”たる自分自身のことだったのかもしれない。
 あまりにも有名な中也の詩の中から二編。

「 けがれちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 けがれちまった悲しみに
 今日も風さえ吹きすぎる
 ・・・。 」

(「汚れちまった悲しみに・・・」より) 


「 ・・・
 屋外は真っ闇(くら) 闇の闇
 夜は劫々(こうこう)と更けまする
 落下傘(らっかさん)めのノスタルジア
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 」

(「サーカス」より)

(日本文学全集51 三好達治・中原中也・伊藤静雄 集英社刊、青空文庫参照) 

 


バラッドの詩

2016-12-19 22:06:08 | Weblog



 12月19日

 数日前、朝起きてみると、外は一面真っ白になっていた。
 冬になったのだ。
 雪は、夜中に降ったのだろう。
 できれば、その降っているところを見たくもあったのだが。
 積雪は1~2㎝で、昼過ぎにはあらかた溶けてしまった。
 雪の後の週末は、土日と晴れ渡り、今シーズン初めての、九重の雪山を見に行くには絶好に日和だった。
 しかし、予想するまでもなく、ライブカメラで見る牧ノ戸峠の駐車場は、朝早くから満杯になっていた。
 やはり、この雪山を待ちかねていた人は多いのだ。
 
 土日には出かけないことにしている私だが、この雪が降った後の山には未練があった。
 その日は、たまたま用事があって、少し遠出をした。
 その帰り道の途中、湯布院の”道の駅”の辺りで、ちょうど夕日が沈むころだった。
 しばらく待って、雪の由布岳が赤く染まっていく姿を写真に撮った。(写真上)
 この、見事な夕映えの山を見ただけでも、今日の山に行けなかった物足りない思いが、夕映え色の中で満たされていくようだった。

 こうした山の姿を見ることが、私の幸せなひと時であり、確かに今を生きているのだと思うひと時でもある。
 そして、あと何回見られるかどうかはわからないけれども・・・。
 先日、北海道の友達からの電話で、近くに住む人が亡くなったいう話を聞いた。
 年寄りになっていけば、どうしても周りの人々が、それはずっと年上の人たちだったり、たまには同年配の人たちが、次々に亡くなっていくのを聞くことになる。
 すべて、人の世は順送りなのだから、当然といえば当然なのだが、その時、電話口の友達と思わず口にしてうなづいたのだが、それは、こうした話をできるのは、”俺たちが生きているからこそだよな” ということであり、これまた当然のことではあるが。
 
 先日、ふと見たテレビだが、日テレ系の”秘密のケンミンショー”という番組で、取材スタッフがたまたま通りかかった年寄りのおやじさんにインタビューしていて、ふとおやじさんのはいているジャージーのズボンの前が破けて穴が開いているのを見て、注意してあげたのだが、おやじさんが言うには、”このズボンには、前に出し入れするところがついていなかったから、自分ではさみで切ったんだ。”

 それは誰が見てもわかるように、破れたのではなく、あそこの部分のためだけにある穴であり、おやじさんは農作業中にシッコがしたくなったときに、ズボンを引きずりおろしてするのが面倒だからと開けたのだろう。
 それは、私も、北海道の家の林で仕事をしていた時などに、経験することだからよくわかるけれども、私はむしろ手袋を外して、前のボタンを開けるのが面倒だから、むしろ作業着を下に引きずりおろして、用足しをするほうなのだが。
 それにしても、前のほうが大きく破れたようなズボンをはいて、何食わぬ顔をして田舎道を歩くおやじさんの姿・・・しばらくは私も笑っていたが、ふと考えてみた。

 田舎に住んでいれば、ほとんど人に会うこともなく、会う人は知り合いばかりだから、いつものような野良着で歩き回っていたところで、何の問題もないのだが、都会から来た人たちにとっては、日ごろからちゃんとした衣服を着て外出したり、仕事をしている人たちにとっては、それは全く異次元の世界の光景であり、都会ではホームレスの人たちぐらいしか見ることのない、ぼろ着のズボンをはいて、それも気にすることなく歩いている人を見て、思わず笑ってしまったのだろうが。
 つまり、外見を気にせず、気楽に、しかし自分が住んでいるその地区のしきたりや決め事には縛られ、それでも助け合いながら、生きていく田舎の暮らしと、いつも知らない他人の眼を気にしながら、しかし自分の好きなように、厳しくも自由に生きていける都会の生活との違いなのだろう。
 それは、どちらがいいとかいう話ではなく、自分の思いに合った生き方を選べばいいだけの話だが。

 日本の人口統計を見て分かるのは、三大都市圏だけで日本の65%以上を占めている中で、さらなる都会への転入と農漁村部からの転出が続いていて、地方の過疎化がすすむばかりなのだが、それに札幌、仙台、広島、福岡などの大都市や地方中核都市、そして市街地が形成されている小さな市町村部分を除いた、集落からなる純農村部の人口がどのくらいになるのかはわからないけれども、おそらくは1%にも満たないのだろうか。
 逆に、そんな農村部の面積は、日本の90%を超えることにもなるのだろうが。
 つまり今、本当の田舎に住む人たち、それもおじいさんおばあさんたちは、都会の人たちから見れば、おそらくは”絶滅危惧種の日本人”になるのではないのだろうか、いい意味につけても悪い意味につけても。
 はい、そして私もまたその”変なおじさん”ならぬ、”変な絶滅危惧種の一人”なのであります。
 そして、私は、はさみで穴をあけたズボンは、はいてませーん。
 ただ、ズボンを下げて、相変わらず立木に生の肥料を注ぎかけてはおりますが。
 
 さて、前置きに書いたつもりの田舎の話がすっかり長くなってしまったが、今回は、少し前に、その詩の一節に触れたあのワーズワースについて書いてみたいと思う。
 私たちの若いころ、友達の下宿先の部屋を訪れると、まずまっ先に目に入るのは本棚の本であった。
 とはいっても、狭い三畳や四畳半の部屋やあるいは二段ベッドの寮の狭いコーナーには、本棚くらいしか置けなかったのだが。
 そしてそこには、彼が専攻する専門書のほかに、いくつかの文芸書が並んでいて、その端の文庫本が並んだところには、必ず詩人のものが一二冊は並んでいたものである。
 日本で言えば、高村光太郎(1883~1956)、北原白秋(1885~1942)、萩原朔太郎(1886~1942)、中原中也(1907~37)、宮沢賢治(1896~1933)などであり、外国で言えば、バイロン(1788~1824)、ハイネ(1797~1856)、マラルメ(1842~98)、ヴェルレーヌ(1844~96)、ランボー(1854~91)、アポリネール(1880~1918)などであった。 

 私は、中でも朔太郎や中也の詩に衝撃を受け、ランボーやアポリネールの世界にあこがれていた。
 しかし、当時から今に至るまで、私が最も深く心打たれ繰り返し読んできたのは、今までにもこのブログで何度も上げたことのある、あのフランシス・ジャム(1868~1938)であり、その詩については、以前に書いたとおりであるが、当時は、また別な意味でもう一人、気になる詩人がいた。

 イギリスの田園詩人と呼ばれるウィリアム・ワーズワース(1770~1850)である。
 いっぽうでは、私はもちろん当時から山が好きで、山の本も読んでいたのだが、昔の日本山岳会の偉大なる先達(せんだつ)たちが書いていた山の本の中で、たびたびこのイギリスの詩人ワーズワースのことが触れられていて、それは田部重治(たなべじゅうじ、1884~1972)の山の随筆集か何かだったのかも知れないが、そのこともあって、あの新潮文庫の『ワーズワース詩集』を読むことになったのだ。訳者は、旧文語体(半分は現代文体)が印象的な、その田部重治だった。
 しかしその時の印象は、田園詩人といわれているわりには、そのままの自然について書いている詩は少なく、むしろ田園抒情歌とでも呼ぶべき、イギリス伝統の”バラッド”(バラード、昔の悲しい物語歌など)の詩の流れをくむものが多く目についたのだ。
 
 話は飛ぶけれども、後年出版関係の会社に入り、音楽、映画などの担当になって、新譜レコードなどは、サンプル(テスト)盤などで早めに聞くか、あるいは社員割引で安く買うことができて、確かに恵まれた音楽環境にはいたのだが、その時に聞いた一枚が、あの『明日に架ける橋』や『サウンド・オブ・サイレンス』『スカボロフェア』などで有名な、二人組の”サイモンとガーファンクル”のもう一人のほう、アート・ガーファンクルによる初めてのソロ・アルバム『エンジェル・クレア』であった。
 その中でも、「悲しみのウィロー・ガーデン」とともに、私が強く惹かれたのは、古いスコットランド民謡からとられたという「バーバラ・アレンの伝説」であり、終わりの歌詞にある、”そして、もう二度と離れないように、二人の墓にバラのツルが巻きついていた”というくだりには、今でも泣かされるくらいだ。
 悲しみの「ウィロー・ガーデン」のほうも、アメリカのカントリー・ウェスタンの古い曲だということだし、あのオリビア・ニュートン・ジョンの出世作「バンク・オブ・オハイオ」もそうなのだろうが、イギリス移民たちがアメリカに持ち込んだ、あの”バラッド”の流れをそこに見て取ることができる。

 日本で、”バラッド”調の歌といえば、どうしても、昔の琵琶法師の語り謡(うた)いによる、あの「平家物語」のことを思ってしまうのだが、時代が下ると、”能”や”人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)などのように、演じる芝居のほうに力点が置かれるようになり、物語歌は”民謡”や”浪曲(浪花節)”のほうへと変化していったのだろうが、今では、民謡での、あの村田文三による、源平の戦いを歌った長編小説のごとく続く、「相川音頭(あいかわおんど)」なども、地元の盆踊りは別にして、テレビなどで全部通して歌われることはないし、私が子供のころには、まだラジオから流れていた浪曲も、今はNHKの伝統芸能紹介の一部でしかない。
 しかし、日本の歌の中では、今日でもまだ、演歌の中にかなり色濃く物語歌の要素が残されていて、その意味では、あの星野哲郎(作詞)船村徹(作曲)の名コンビによる、北島三郎の「風雪ながれ旅」や、吉岡治(作詞)弦哲也(作曲)による、石川さゆりの「天城越え」などは、詩人が書いた見事な日本の”バラッド”歌物語だと思っているのだが。

 最近の歌の中では、残念ながら日常恋愛の話し言葉ばかりで、心に残る物語詩を書けるような人は、つまり本当の詩人はあまりいないように思えるし、しかしそうした中で、作詞家として、AKB乃木坂グループのために現代の短編物語詩を書き続けている、秋元康は貴重な存在であり、私がAKB・乃木坂グループを好きなのは、そこに大きな理由の一つがあるからだ。
 もちろん、若い人たちに聞いてもらえるような、今どきの言葉で、ダンスのノリで作る歌が主になるのは仕方がないところだが、それでもかつては、あの乃木坂の名曲「君の名は希望」や、AKBの柏木由紀がデュオで歌う「でもでもの涙」などのように、情景が目に浮かんでくるような名曲もあったのだ。
 まあ好みは人それぞれで、そんな”辛気臭い”歌はイヤだ、今歌っている「ハイ・テンション」のようなノリノリの曲のほうが、アイドルたちの歌にふさわしいというファンたちがほとんどなのだろうが。

 AKB・乃木坂グループを含めた今年の歌の中で、この秋発売され歌われたSKEの「金の愛 銀の愛」は私の好きな歌だったのだが、現実的にはAKBの新曲の100万枚超えはもちろんのこと、乃木坂や欅坂(けやきざか)の新曲の数十万枚にも遥かに及ばない数字だったとかで、W(だぶる)松井として盤石(ばんじゃく)だったSKEが、その一人の松井玲奈(乃木坂兼任が良くなかった)の卒業で、こうも勢いが弱くなっていくものかと、じいさんは名古屋SKEの孫娘たちのことを心配しているのだが。
 まあ、上位メンバーたちがそれぞれ20代半ばになってきている、AKBや乃木坂でさえ、変革するべき時は迫ってきているし、今はどうしても、若くてかわいいし歌もうまくてダンスも踊れて、というまだ15歳の平手友梨奈(ひらてゆりな)がセンターに立つ、欅坂46に勢いがあるのは確かだし、それならば、今後のAKB乃木坂グループはどうすべきなのか・・・。
 はたして、秋元先生の次なる一手はどうなるのかと、このじじいは、すべての孫娘たちの将来をば、ただただ案じるばかりなのですが。

 あちゃー、ワーズワースのことについて書くつもりが、横道にそれてしまい、ついには最近書いていなかったAKBの話へと、つい勢い込んでしまって、すっかりまとまりのない、訳のわからない回になってしまった。
 もっとも、こうした分裂気質的な思考回路こそ、誰にでももちろんこうして私にもあることであり、一筋縄ではいかない人間というもののいい加減さというべきか、凡人の考える所はそんなものであり、ついでにアホとかバカとかにまで落ち込んでいって、さらに進めば一周回って天才に?・・・そんなこたあー、ないない。
 バカはバカなりに、一人でチョウチョウを追っているのが、よろしいようで。

 そんなわけで時間切れ、ワーズワースについてはまた次回以降に。失礼いたしました。 

   


サザンカの垣根

2016-12-12 22:47:35 | Weblog



 12月12日

 日に日に、寒くなってくる。
 昨日の朝は、気温が-4度まで下がり、日中も10度を超えることはなかった。
 もっとも、北海道の日本海側では90cmもの雪が積もり、一方で、冬場は晴れて、雪が少ない代わりに寒さが厳しい、わが十勝地方では、マイナス10数度まで下がり、日中もマイナスのままの真冬日になったとのこと。 
 十勝に住む人々にとっては、1月下旬前後のマイナス20数度までにもなる、冬本番の時と比べれば、まだまだ寒さもこれからなのだろうが、こうして内地の本州四国九州に暮らす人々にとっては、その数字を寒さとして実感することはできないだろう。
 しかし、すきま風が多く、断熱効果が乏しいわが家では、ポータブルの石油ストーヴに電気ストーヴそしてコタツと、部屋ごとに部分的に体を温めるしかなく、北海道の家での、家じゅうを温める薪(まき)ストーヴの、いつまでも続く温かさを思わないではいられない。

 というふうにグチったところで、仕方のないことで、それならば全身を温めるためにというわけでもないのだが、”たきびだ たきびだ おちばたき・・・”(童謡『たきび』 巽聖歌作詞、渡辺茂作詞)と、これでもうこの秋三度目になる”落ち葉焚き”をした。
 前回書いたように、わが家のあまり広くもない庭は、広葉樹はもとより針葉樹を含めての、落ち葉に埋め尽くされており、そのうちの一部はたい肥を作るために埋めて置き、一部は”たき火”で燃やしてしまい、ただ大半のものは雨や地面からの湿気で、いわゆる”ぬれ落ち葉”状態になっており、そのまま地面の肥やしにするほかはないのだが。
 庭を掃き集めて、大きな小山ほどにもなった枯葉の山に、火をつけて燃やしていく。
 他にも一緒に枯れ枝などを燃やしていくから、結構な火の勢いになり、風の弱い日を選んで、事前に周りに燃え広がらないように水をまき、燃えている間はそばで見守っていなければならない。
 ものの30分くらいなのだが、体中が温められてというか、汗が出るほどまでに熱くなり、ミャオがいつもこのたき火のそばに寄ってきていたのを思い出すし、時には母もやってきて、アルミホイールに包んだサツマイモを投げ入れたりしていたものだった。
 前にも書いたことで繰り返してしまうが、”年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず”(『唐詩選』 劉希夷「代悲白頭翁」より)。

 たき火の近くにある、サザンカの花が散り始めていた。
 童謡『たきび』の二番には、サザンカが出てくる。
 ”さざんか さざんか さいたみち・・・”

 紅葉が終わって、色彩に乏しいこの季節、さらには春先近くまで、それぞれの木が花を咲かせてくれる、このサザンカは実にありがたい木である。
 冬場の今が盛りのサザンカの花は、家の近くに高い生垣にしてある所があって、毎年見事な花のカーテン模様を見せてくれる。(写真上)
 こうした季節ごとの”見もの”があるからこそ、年寄りは、日々の散歩を止められないのだろう。
 世の中や、人々のうわさ話を聞くよりは、こうした樹々や草花たちの、”叫びとささやき”の声を聞いていたほうが、どれほどましなことか。
 こうして、日々、年寄りは自分で年寄りになっていくのだろう。

 一日前にあった番組を録画して、昨日見た。
 2時間15分(実質2時間足らず)の番組だったが、久しぶりに長時間番組をそのまま通して見た。
 テレビ朝日の”古館伊知郎『忠臣蔵』吉良邸討ち入り実況中継”である。
 
 題名からもわかるように、問題はいろいろとあるが、新しい史実によって、その時の状況が明らかにされていき、その分では実に興味深く面白い番組だった。
 つまり、私たちが子供のころから通して、映画やテレビ・ドラマや歌舞伎として見てきた『忠臣蔵』が、実際はその事件の後で、いかにしてさまざまに喧伝(けんでん)され、脚色されて伝えられてきたかが、よくわかるのだ。
 私たちは、当然のこととして、今までに、誰もが共感できるように面白く脚色された、ドラマとしての『忠臣蔵』を見てきたわけであり、今回、史実として解明されたことが多々あったとしても、私たちの娯楽作品としての『忠臣蔵』像が変わることはなく、むしろこの”赤穂浪士吉良邸討ち入り事件”には、さらなる事実がいろいろとあるやも知れず、おそらく多くのことは謎のまま残されることにもなるのだろうが。

 思えば、今まで伝えられてきた日本のそして世界の歴史のすべては、その出来事を見たあるいは聞いた一部の人たちによって、あるいは命じられて事実をゆがめたりして、書き残されてきたものだろうから、様々な視点から見られるべき事実が、いつも一部の側面だけからしか、見られていないということになるのかも知れない。
 そこで、この事件に付帯する人情話などを洗い流していけば、確かな真実として残るのは、”浅野家藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松の廊下で高家筆頭(こうけひっとう)吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけて、取り押さえられ、切腹を命じられて、浅野家は断絶し、その二年後に浅野家元家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする浅野家浪士四十七士が、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首をとり、その後彼らは全員切腹を命じられた” ということだけであり、その途中の様々な出来事は、中には真実もあったろうが、ほとんどは背びれ尾びれをつけて、面白く語り継がれてきたものなのだろう。

 しかし、それが一つの創作劇として、芸術作品として作り上げられていれば、それはそれで十分に価値あるものであり、子供のころいつも正月に見ていた『忠臣蔵』の映画が、近年になって映画とは違う新しい事実が出てきたからといって、あの豪華俳優陣によって楽しませてくれた、映画『忠臣蔵』の価値に変わることはないし、もちろん日本の伝統古典芸能として、営々と続けられてきた歌舞伎『忠臣蔵』としての価値が変わることなど、いささかもないのだ。
 ただ、この番組を見て言えるのは、様々にあふれる現代の情報社会に住む私たちが、いかにさらなる情報を求めているかということであり、つまり、高度に発達した研究機関やマスメディアがある現代だからこその、ドキュメンタリー番組隆盛の時であり、その裏には真実追及の好奇心旺盛なる人々の需要があるからということなのだろう。

 そうした意味で、この番組で明らかにされた幾つかの新事実はまさに興味深いことであったし、さらには、あのNHK・BSの”英雄たちの選択”でおなじみの歴史学者、磯田通史氏の解説があったことで、タレント・ゲストだけの安売り企画とは一線を画していたことにもなるのだ。
 さらに付け加えれば、番組中同時進行する、緒方直人扮する大石内蔵助以下の、浪士たちの討ち入りのドラマの模様を、実況する古館伊知郎とは別に、状況を説明する影のナレーターがいて、それは何と、あの元NHKの美人語りべアナウンサーの平野啓子さんだったのだ。
 古典物のナレーターとしては、この平野アナウンサーと女優の檀ふみの二人が双璧(そうへき)だと思うのだが、もっと優れた古典ものの番組での、語りべの声を聴きたいものだ。

 ただし、私たち年寄りには、あの時代の現場に、現代人たる古館アナウンサーが入って行って、実況中継するなどという、奇想天外な設定には違和感を覚えてしまうし、そうして時代を飛び越えたり、体が入れ替わったりという設定は、現代のありうるかもしれないという、仮想空間になじんでいる若い人たちの発想だからできることであり、この番組企画にかかわったプロデューサーたちもまた、若い人たちに占められているということなのだろうが。
 つまり、赤穂浪士の討ち入りという、新しい史実を加えたドキュメンタリーの劇中劇の中に、ネクタイを締めた現代人のアナウンサーがいるということを、何の違和感もなく受け入れられる、若い人々の世界になったということなのだろう。

 ちなみに、日本だけでなく全世界で評判の、あのアニメ映画『君の名は』を、私は見ていないし、すすんで見に行く気もしない。
 都会に住む男の子と地方に住む女の子の、体が入れ替わるという設定に、まず私はついていけないのだ。
 現代科学の進歩で、世界や宇宙のことが微細な事実まで明らかになっていき、今や人間自体の生成過程にまで及ぼうかという時代だからこそ、近未来にはありうるかもしれないという、仮想設定が受け入れられるのかもしれないが、20世紀からの、プラグマティズム(実用主義、実際主義)や即物主義思想の流れの中で、生きてきた私たち年寄り世代にとっては、あまりにも現実からかけ離れた仮想世界には、そう簡単にはなじめないのだ。

 さらに言えば、この番組では、民放としてのコマーシャルの時間を挟まなければならない宿命なのか、その前後に同じ映像を繰り返す(最近のバラエティ番組にありがちな)、二重説明になっていて、そのくどくどしさにはうんざりしてしまう 。
 そして、現代の東京から時代をさかのぼる説明としての、スライド映像の数々も、余分な説明だし、むしろ、当時の広重に北斎などの浮世絵があるのだから、それらの絵をスライドふうに流したほうが良かったのになど、番組としての構成の単純さにも、不満な点が多かった。

 さらには、番組の結論として、「これは単純な”勧善懲悪(かんぜんちょうあく)”の世界を描いたものではなく、結局は殺し合いの世界だし、本当はどちらの側にも言い分があるわけだから」、と司会者に語らせてはいたが、これもいかにも取って付けたような結論であり、そう思うなら、相手の吉良側の劇中劇を加えるべきだったと思うし、もっとも、わずか2時間ほどで語りつくせるほどの物語ではないのも事実なのだが。
 この討ち入り事件後、50年近くもたって、ようやく人形浄瑠璃(じょうるり)”仮名手本(かなでほん)忠臣蔵”として上演され、その時ですでに全十一段に分けての長大な物語として演じられているくらいであり、史実とは別の話が書き加えられているとはいえ、とても2時間ほどの番組で説明するというのが、土台無理な話なのだろうが。

 ただ、最後に一つ、スタジオのセットは、あの浪士たちの菩提寺(ぼだいじ)である泉岳寺に模して作られていて、あの日のように薄く雪が積もっている感じになっていて、その参道の両側は低く刈り込まれたサザンカの植え込みであり、そのサザンカの花の上にも雪が積もっていた。
 討ち入りは、元禄15年(1703年)の12月14日(現在の西洋暦で言うと1月30日)のことである。 


 同じ謎めいた話ならば、事実を積み重ねていき、最後の真実にたどり着く、謎解き物語のほうが面白い。
 これも10日ほど前に、NHK・BSで再放送された番組なのだが。
 ”スリーパー、眠れる名画を探せ~イギリス美術界のシャーロック・ホームズ~”(1時間55分、2004年制作)
 まだ40代の若い美術商フィリップ・モウルドが、長い間、世の中に埋もれたままになっていた名画、いわゆる”スリーパー”を探し当てていく、その過程を追ったドキュメンタリー番組である。
 
 世界中のオークションに出される予定のパンフレットにある、出自不明の絵の中から、これはもしかしたら有名画家の名画の一つではないのかと、あたりをつけて調べていき、確信を持ったところで、そのオークションで競り落とし、名コンビともいえる修復画家に依頼して、特殊な光を当てて、その絵の上塗りされた状態を探り当て、後になって書き加えられた部分を洗い流し、さらには継ぎ足されたキャンバス画像を、元の大きさに戻し修復して、本来の肖像画の姿に戻していくのだが、その出来上がった絵は、そのオークションの時の元値の、何十倍何百倍の値段がつけられるようになるのだ。
 例えば、”大陸系の画家が描いた肖像画”として不明なまま売りに出されていた絵が、有名な肖像画家トーマス・ローレンス(1769~1830)の筆によるものだとわかったり、今まで一枚もないとされていた、ヘンリー7世の長男であり、若くして死んだアーサー皇太子(1486~1502)の肖像画が、継ぎ足され、背景を塗りつぶされていた状態だったことが判明した時、さらには”ロード・ストレンジ”と呼ばれていた熱血漢の国会議員ジェイムズ・スタンリーを描いた、トーマス・ハドソン(1701~1779)による肖像画が、さらにもう一枚あるとわかったことなど、その謎解きドキュメンタリー・ドラマから目が離せなくなる2時間だった。

 そして、背景にある、イギリス貴族社会の、現代に続く秩序あり品位あるたたずまい。
 若いころのヨーロッパ旅行で、訪ねたイギリスの友達がその貴族階級の一人であったことなどと併せて、もっともこの番組で見たのは、私の知らないはるかに高いクラスの人たちの世界ではあったが、実に興味深く見ることができた。
 そして、NHKの共同制作と記載されていたが、BBCの制作だと思わせるほどに、しっかりとした構成になっていて、何の違和感もなく最後まで見続けることができた。

 こうした、思いがけない見つけものに出会えるからこそ、年寄りになりつつある今でもまだ、もう少しだけでも生きていたいと思うのだ。
 まして、過分な欲や余分な執着心が取れてきた今だからこそ、多くの物事がいろいろと見えてくるようになるし、今のじじいの時代こそが、実は人生の中で一番良い時なのかもしれないと思っているから、なおさらのことなのだが。
 誰が言ったかは忘れたけれども、確かに”人間とは好奇心の生き物である”。

 夕方少し歩いた見晴らしの良い所から、赤く染まる山々を眺めた後、中空を見ると、日が落ちて青ざめてきた景色の中で、さえざえとした月が輝いていた。葉を落として、天空に枝を伸ばす木のそばで。(写真下)
 あのアンリ・ルソー(1844~1910)の『カーニヴァルの夕べ』の絵のように。


 


黄葉(もみち)

2016-12-05 22:05:16 | Weblog



 12月5日

 晴れた日が続き、雨の日があって、また晴れた日が続き、少し寒くなって、穏やかな秋の日から、穏やかな冬の日へと続いていく。
 それでいいのだ。何事も起きないことが、私の望みなのだから・・・。

 10日ほど前のこと、ふと見たテレビを、最後まで見てしまった。
 それは、”足元の小宇宙”と題された、NHKのドキュメンタリー番組だった。
 京都は北のはずれにある嵯峨野(さがの)、その観光地の名所などからは少し外れた農村地帯・・・広く畑が続く田園風景の中に、麦わら帽子をかぶったおばあさんが一人、あぜ道のそばに座り込んでは、手元だけを動かしている。
 周りの草花を、写生しているのだ。
 何時間も、その場所に座り込んだまま、画用紙に草花の姿を写しとっていく。
 時々、草花たちに、まるで小さな子供たちと遊んでいるかのように、話しかけ、時には親しみを込めて、少し乱暴な口もきく。
 それも、その相手はといえば、だれも見向きもしないような雑草たちである。
 おばあさんは、日がな一日をそこで過ごし、夕方になると、写生したスケッチブックを抱えて、家に戻って行く。

 その白髪のおばあさんは、まだ足腰もしっかりしていて、話し言葉も若々しかった。
 彼女、甲斐信枝さんは85歳。今までに、こうした草花の絵本を30冊以上も出している、有名な絵本作家であり、そのうちの一つ『雑草の暮らし』は、30年も続くロングセラーになっているという。
 私も、その名前を聞いたことがあり、絵本も手に取ったことはあるのだけれども、それ以上の詳しいことは、まして嵯峨野でこうした生活を送られていることなど、知らないことばかりだった。
 彼女が出したそうした絵本の数々は、観察や科学的事実に基づくもので、”科学絵本”と呼ばれているとのことである。

 彼女は、広島の出身で、ご結婚された後、家族とともに東京に住んでいたのだけれども、その後、この京都の嵯峨野に移り住んできたとのことである。
 東京にいたころ、いろいろなことに悩み苦しんでいた時に、こうした雑草たちの生き方を観察しているうちに、人生観が変わってきて、これらの雑草たちが素晴らしい財産だと思えるようになってきたという。
 毎日の町の暮らしの中で、グズグズと悩んでいることが、いかに小さなことかと、そこで一番大切なことは、雑草たちのようにそこに”安住(あんじゅう)”することだ、と思えるようになったというのだ。
 私は、テレビ画面に向かって、思わずうなずいてしまった。 

 確かに、ある一つのことを求めて、努力することは必要だけれども、”あれもしたいしこれもしたい、あれも欲しいしこれも欲しい”などと、すべての自分の思いをかなえようとすることなど、土台無理な話であり、そんなことは夢と呼べるものではなく、身の程知らずの欲張りなだけで、結局は何一つ得ることができなくなって、そんな自分がつらくなるだけなのだ。
 私たち年寄りは、こうした若いころの経験から、余分な期待はしないようになり、多大な労力をかけて失敗するよりは、今のままでいたほうが良いと思うようになるのだ。
 無駄な欲望をぎりぎりに削って行けば、つまるところは、すべての執着を脱ぎ捨てていって、とにかく生きているだけでもありがたいと思えるようになり、さらにもう一つ加えるならば、なんの代わり映えもしない”毎日の静かな暮らし”があれば良いし、それらが保たれている今こそが、一番幸せな時だと思えるのかもしれない。
 もちろん私にも、まだまだ年寄りとしての艱難辛苦(かんなんしんく)の時が待ち構えているのだろうが、例え自分の周りから様々なものが失われていったとしても、大げさに言えば、人間の尊厳を保ちながら生きてさえいればいいし、そして、それが生から死への”静けさ”の中に続いていけば、それだけで十分だと思ってはいるのだが。

 しかし、そこが矛盾の多い人間の難しいところであって、様々に頭をよぎる煩悩(ぼんのう)の世界からは、そう簡単には離れることはできないだろうし、その時がくれば、その辛さに耐えきれずひとり泣き叫び、とんだ醜態(しゅうたい)をさらすことになるのかもしれないが、たとえそうした苦行(くぎょう)の時が待ちかまえているとしても、すべての物事に執着することなく、まずは”生きている今を”と心に念じるように思ってはいるのだが。

 ともかく、この番組を見て、そして彼女から、私は、生きる意味を知る先達(せんだつ)の言葉として、ありがたくいただき、そうあるべく受け止めたのだった。
 自分の心のうちに、”安住する”こと・・・。 


 ところで、話は変わるけれども、前々回の山歩きで、この秋の私の紅葉登山は終わったのだが、今では里の紅葉も終わりを迎えていて、里の秋の最後の一大ページェントでもある、イチョウの大木の黄葉が華やかな見ものになっていて、その根元には黄金色のカーペットが敷き詰められているかのようだ。
 やせた山地の斜面にある、わが家の庭には栄養分が乏しいためか、母が植えていたイチョウの木は、いつまでたっても大きくはならない。
 前回も書いたように、今わが家の庭の最後の紅葉は、コナラとドウダンツツジの残り葉だけである。それでは、他の常緑樹は紅葉(黄葉)し落葉しないのかというと、すべての木は、いっせいに色を変え落葉するか、あるいは少しずつ色を変え落葉していくかの違いがあるにせよ、すべての木は落葉樹なのである.
 マツやスギなどの針葉樹も、そしてちょうど今が時期であるヒノキも、細かい黄色や茶色の葉を大量に落としているし、いつも濃い緑の葉をつけている、ツバキやサザンカなども時々葉を落としているし、中でもシャクナゲの葉は、その幾つかが鮮やかな黄色になって、見方にもよるが、これもまたなかなかに良い秋の黄葉風景ではある。(写真上)
 
 そこで思い出したのはあの”万葉集”の時代である。
 この古代の歌集の中におさめられた歌の中で、最も多いものは、秋の歌ということになっているらしいが、私たち現代人からすれば、秋すなわち”紅葉”と思い浮かべる所だが、この万葉集の中では、紅葉の美しさをたたえるような歌はそれほど多くはなく、むしろ今の都会生活ではなかなか見ることのできない、里山の植物である、ハギやススキ、オミナエシなどをうたったったものが目につくし、それも自分の思いや相手の気持ちにかけて読み込んだ、叙情歌が多く、単純な風景の叙景歌としてうたわれたものはそう多くはない。
 その中でも、私が気になる歌を一首。

” 一年(ひととせ)に ふたたび行かぬ 秋山を 心に飽かず 過ぐしつるかも”

(『万葉集』 巻第十「秋雑歌」 2218)

 私がこの歌を初めて知ったのは、注解がついただけの全二巻の角川文庫で、自分なりに解釈して、”すぐに盛りの時が終わってしまう、紅葉の秋山には、そう何度も行くことはないのだから、今が盛りのこの眺めを、心ゆくまでゆっくりと楽しんでいこう”、というふうに理解していた。
 それは、まるで前々回に書いたように、あの時の秋山の紅葉風景に、思わず座り込んでいた自分と重なるようなもので、古代の人も同じような気持ちでいたのかと、今も昔も変わらぬ、自然を愛する人の気持ちに思いをはせていたものだった。

 しかし、その後再び、万葉集の歌を通読することがあって、手持ちの現代語訳の文庫本(『万葉集』 一~四 伊藤博訳注 角川文庫)の他にもう一つ別の文庫本(『万葉集』 一~四 中西進訳注 講談社文庫)も手に入れて、この歌の解説の所を読んでみたのだが、いずれも同じような訳の意味だった。
 すなわち、”一年に二度とはめぐってこない秋山(の風情)なのに、満足することなく過ごしてしまったことだよ(心ゆくまで賞美しないまま過ごしてしまった)”
 
 つまりこの歌の意味は、この秋に私が計画していた、東北の秋山への遠征を(ヒザの痛みで)あきらめた時のような気持ちを歌ったものであり、その代わりにと、早めに九州に戻ってきて、九州の秋山の紅葉風景の中で、穏やかなひと時を過ごした時のような、満ち足りた気持ちをうたったものではないということなのだ。
 こうした、高名な万葉集学者のお二人が解釈なされたことが、正しいことはわかっていても、一方では、私が自分勝手に解釈したような、秋の光景の中にいる思いとしても、考えてみたいのだ。
 前々回に書いたように、青空の下、明るい緑から深紅の紅葉の木々に囲まれて、ただ一人で30分余りも過ごした、あのひと時のことが忘れられないからでもあるが。
 
 この歌は、詠(よ)み人知らずの、雑歌(ぞうか)の中におさめられた一首に過ぎないのだけれども、さらには、さしたる技巧も感じさせないさらりと詠まれた歌のようにも見えるから、あまり注目されることはないのだけれども、恋い慕いの叙情歌が多い万葉集の中では、少数派の叙景歌であるこの歌に私がひかれたのは、自分の年齢がそう感じさせたのかもしれない。
 ちなみに、この歌は、〝黄葉(もみち)を詠む”というくくりの中にいられた41首のうちの最後の一首であり、巻頭に載せられた二首は、この万葉集での最重要歌人の一人である柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)の歌である。その項の中の一首をあげておくと。

”朝露に においそめたる あきやまに しぐれな降りそ ありわたるがね”

(自分なりに訳すれば、”朝露にきらめき、いろどられはじめた秋山に、時雨が降りかかってこの眺めを隠してしまわないように。このままの姿を見せていてほしい”ということになるだろうか。)
 それにしても、先にあげた、”詠み人知らず”の歌と比べれば、その歌の巧みな差は歴然としているのがわかる。それでも私は、あの詠み人知らず”の歌が好きなのだ。八丈島のキョン(昔のマンガ『こまわり君』に出てくる意味のない感嘆詞)。
 さらに、当時は紅葉よりも黄葉のほうが多く賛美されていたらしく、黄葉と書いて”もみち”と呼んでいたとのことである。(旺文社 古語辞典より)

 ついでに秋の情景を描いた歌で、私が最も心惹かれるのは、あまりにも有名すぎてここにあげるのは気がひけるけれども、『百人一首』にも選ばれている、あの『古今集』の在原業平(ありわらのなりひら)の一首。
 
”ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 竜田川(たつたがわ) からくれないに 水くくるとは”

(『古典名歌集』 窪田空穂編 「古今集」 巻第五 秋の歌下 294 河出書房)

( 私なりに意訳すれば、”荒々しい風が吹き渡っていた、遠い昔の神々の時代のことでもないのに、今、この竜田川の水面を、韓紅(からくれない)色の紅葉が渦巻き流れているのだ”。”ちはやぶる”は神代の枕詞(まくらことば)であり、韓紅とは当時渡来したばかりの新色だとのことであり、さらに水にくくるとは、着物を染める時に、一部分を絞りに結んで川の水に浸していたとのことである。)

 この歌は、一度聞いたら忘れられない、古文名調子の一つだし、何より、眼前に見えるかのように、幾つもの鮮やかなモミジ葉が流れていく、情景の記述が素晴らしい。


 ところで、黄色い黄葉の話のついでに、私は昨日、黄色い柿の皮をむいて、干し柿にするために軒下に吊るした。(写真下)
 ビニール一袋に、かなり大きなシブ柿が19個入っていて、980円だった。
つまり一個あたり、50円にもなるから、最盛期の富有柿(ふゆうがき)の一番安い時と、たいして値段は変わらない。
 そんなシブ柿を、手間ひまかけて干し柿にするのは、余分な年寄りの遊びのようにも見えるだろうが、それは長年続いている、わが家の年中行事の一つになっていたからでもある。

 母が元気なころは、二人で一緒に出かけて行って、近くの誰も取らないシブ柿を取ってきては、母が皮をむいて一つ一つをひもに通して、軒下にずらりと並べて下げていたものだった。
 しかし母がなくなってからは、一人で行くのも面倒になり、自宅の木になる小さなシブ柿や、それに買ってきたものを加えて、数本くらいの干し柿を作っては、母の仏壇に供えていたのだが、年々面倒になってきて、今回はたまたまスーパーの店頭に置いてあって、思わず買ってきてしまったのだ。
 年を取れば、次第にいろいろなことをやっていくのが、おっくうに思えてくるようになる。
 しかし、長年続けてきた、四季折々の行事や習わしを繰り返していくことは、何も、日本人としての自分の在りようを知るためだとかいうような、こむずかしい理屈はつけなくても、ただだそれが、自分の習慣であり、そのことで、今年もまだ生きていると思えるだけでも十分なのだ。

 あのビートルズの名曲、「THE LONG AND WINDING ROAD」がポールの歌声で聞こえてくるような・・・。