ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

紅葉年々歳々

2016-10-31 20:51:30 | Weblog



 10月31日

 ”年々歳々 花相似たり 歳々年々 人同じからず”

 あの『唐詩選』(岩波文庫)よりの、劉希夷の有名な「白頭を悲しむ翁に代わる」からの一節である。
 この秋、九重(くじゅう)の山に登っている間、私はずっとそのことを考えていた。 
 いかようにも解釈できる、永遠なる自然へのあこがれの思いと、限りある命なるがゆえの嘆息のひと時・・・。
 もっとも、そう感じることのできる今を、私は、生きているのだが・・・。

 このたび、いつもの年よりはずっと早く、北海道から九州に戻ってきたのだが、その理由の一つは前回書いたように、私が最も親しんでよく登っている九重の山の紅葉を見るためであった。
 数えたことはないけれども、九重の山に登るのは、雪氷を見るための冬の時期と、シャクナゲにミヤマキリシマツツジを見るための、春から初夏にかけての時期が最も多く、それぞれ数十回は行っているのだが、夏山の記憶は若いころに三度ほどあり、近年では、二度ほど初歩的な沢登りを楽しんだことがあるだけで、さらに秋山に至っては、それも紅葉の盛りを過ぎたころに、これまた三度ほど行っただけなのである。
 それだから、冬の九重と花の時期の九重については、今までだけでも、十分に堪能(たんのう)することができたとは思っているのだが、いかんせん暑い盛りの九州の夏山はともかく、この色彩あふれる紅葉の時期の九重に登っていないのは、”四季の山を愛する”などと日ごろからうそぶいている私にとっては、どこか後ろめたい気がするままに、残されていた大きな課題の一つだったのだ。
 それも、”じじいへの道”を歩み始めた、この年になって初めて、何よりも先に登るべき山だ気づいたのだ。
  
 人は、自分の命に限りがあることを知ってから、その残りの時間の間に自分ができることを、と考えるようになるものなのだ。
 前に何度も書いたことのある、ドイツの哲学者、ハイデッガー(1889~1976)がその著書『存在と時間』の中で言った言葉が、重く胸に響いてくるのだ。
 それは、私なりの勝手な解釈ではあるが、”死を意識することで、本来の時間を知り、初めて生きている意味がわかるようになる”、のだと自分なりに理解している。 

 しかし、こうしたこむずかしいことを、山の中を歩きながらずっと考えているわけではない。
 ただ、そうした命題の一つがふと頭の中に浮かんでは、ほんのひと時の間、自問自答を繰り返しただけというのが本当のところだ。
 思えば、山にいるときのほとんどの時間は、周りの景色に対する反応と、歩き続けるだけの体力的疲労を感じつつ、いつもこの道の先に続く、次なる場所への思いをはせているだけなのだ。
 もっともそうした、自然の中にいる一匹になることが、昔の人間も感じていただろう、そんな先祖返り的な、まさに動物的に行動するという。心地よさを含んでいるものなのかもしれない。 

 さて、その日は、風も弱く、終日快晴の素晴らしい天気の日だった。
 こちらに戻ってきてから、すぐにでも、翌日にでも山に行く気ではいたのだが、あいにく三日ほど雨降りの日が続いて、じれったい思いでいたのだが、前日の天気予報でも全九州的に晴れのマークがついていて、朝起きてみれば、もう見まごう事なき快晴の空で、喜び勇んで家を出たのだった。
 道の途中の光景はもちろん、色づき始めた木々が少しあるくらいで、秋のはじめを感じさせるだけだったが、牧ノ戸峠に上がっていく道の左右には、ところどころに紅葉している木々があった。
 5月の大地震による被害を受けて、まだ道の復旧作業が行われていて、片側通行による車列ができたが、ほどなく峠の駐車場(1330m)に着いた。
 さすがに、もう数十台の車が停まってはいたが、いい具合に空きがあってすぐに車を入れられた。

 朝の光線のことを考えれば、朝日や夕日に染まる紅葉も悪くはないのだろうが、単純平凡な色彩感覚しかない私は、紅葉は、昼間の順光や逆光で、何よりも青空を背景に見られれば、それが一番だと思っているので、朝早くから山に行く気はなかったのだ。
 7時半過ぎに、舗装された遊歩道を登って行く。
 この沓掛山(くつかけやま、1503m)北面の林の木々でさえ様々で、色づき始めたものから、もう葉を落としたものまであり、路面に散り敷いた紅葉もまたきれいだった。
 私はふと、ミャオのことを思い出した。

 いつもは11月下旬ぐらいに帰ってきて、そこでノラネコ同然にしていたミャオに再会し、それから再び二人だけの暮らしが始まり、そして夕方前には、二人で散歩に出かけていた。
 ネコの中でも、シャムネコの系統はイヌに近い気質もあって、ミャオは私と一緒に散歩に出かけるのを楽しみにしていたのだ。
 ああ、余りにも多すぎるミャオとの思い出を書き始めればきりがないし、かと言って、このブログに書いているミャオの話をたどるのもつらくてできないことだし・・・。
 というのも、15歳という年で、ミャオ死なせてしまったのは、私の責任であり、普通のネコたちの飼い主のように、ちゃんと私が家にいて、ミャオと一緒にいたならば、もっとミャオは長生きできただろうにと、今でも思っているからだ。
 
 そんなミャオが元気でいたころの姿を、この沓掛山に登る遊歩道に散り敷いていた紅葉で思い出したのだ。
 一枚の写真、ミャオ・・・。
 (前回書いたように、WiFiの速度が電話接続以下の遅さで、その時のブログ写真を見つけられないので、月替わりの明日でも探すつもりだ。→2008.11.24の項参照)

 さて、沓掛山前峰からは、北に遠く由布岳の姿が見え、明るい南側には、久住高原から阿蘇カルデラに続いて雲海に覆われていて、その雲の上に阿蘇山(1592m)が大きく見え、先日噴火したばかりの中岳からは噴煙が上がっていた。
 ドウダンツツジの紅葉が、所々に見られる稜線をたどって、沓掛山本峰に着くと、そこからはいつものおなじみの、縦走路越しの三俣山(みまたやま、1745m)の姿が見え、尾根道の紅葉の色合いは今一つだったが、何とか秋山らしい一枚の写真を撮ることができた。(写真上) 
 
 ゆるやかな高原状の、尾根道の登りが続く。
 昨日までの雨で、所々にぬかるみもあったが、思ったほどではなく、ほどなく右手に誰もが立ち止まるような、鮮やかな深紅のモミジが、ナベ谷源頭部を彩(いろど)っていた。
 そして、左手には、これから扇ヶ鼻分岐までの間、星生山(ほっしょうざん、1762m)西面の紅葉を楽しめるはずなのだが、あいにく色合いが今一つなうえに、午前中の斜光線で、すでに枯れ落ちた灌木の灰色の帯だけが目立っていた。
 しかし、反対側の扇ヶ鼻(おうぎがはな、1698m)の稜線下あたりには、色づきは今一つながらも紅葉の灌木の群落が見えていた。
 それを見て、私は今日の行く先を決めた。
 
 今回の登山は、あの6月下旬に大雪山緑岳に登ってひざを痛めて以来の、実に4か月もの空白期間をおいての登山だったから、第一歩目からひざのことが気になっていて、もともと今日は、30分くらいで行ける沓掛山だけで、ひざが痛ければすぐに戻ろうとも思っていたから、扇ヶ鼻までというのは、実に願ったりかなったりの、ちょうどよいハイキング距離になったのだ。
 登山客は、平日だったこともあってさほど多くはなく、あまり気になることはなかった。 
 分岐からは、急坂を上がって東の肩に着く。
 その見晴らしのきく所からの、九重主峰群と、久住高原から続く雲海のかなたに並ぶ祖母山(1756m)・傾山連峰の眺めが素晴らしかったのだが、残念ながら数年前に見た、ここからの肥前ヶ城(1685m)をめぐる岩壁を彩っていた紅葉が、今年はさっぱりで、色合いも悪く何とも見栄えがしなかった。
 近くで三脚を構えて写真撮っていた男の人が、携帯電話で相手に話していて、”全くダメで、去年の十分の一もないわ” と嘆いていた。

 それでも私は、縦走路から見上げたあの扇ヶ鼻北側斜面の紅葉をあてにして、頂上本峰の岩峰を目指してゆるやかに登って行った。
 頂上には、数人がいたが、私はより紅葉の灌木が多い西側の端まで行って、さらにそこから岩井川岳(1522m)方面へと道を下る。
 この道は、沢登りで扇ヶ鼻に登って、帰り道として二度ほど下ったことがある。
 しかし、岩井川岳まで下ると確か周りは草原で、紅葉はあまりないはずだからと、手前にある紅葉の灌木におおわれた、岩が出た小さなコブのほうに踏み跡をたどって行った。
 
 そこは、岩の上で展望がきいて、紅葉のドウダンツツジやナナカマドなどの灌木帯を前に、九重主峰群が並んでいた。(写真下)


 
 右から、久住山、中岳、天狗ヶ城、星生崎、(そして星生山)。
 確かに紅葉の色合いとしては、むしろ橙色(だいだいいろ)がちであり、おそらくは先ほどの彼が話していたように、今年は夏の酷暑と秋の台風の影響で、確かに紅葉の色が良くない年であったのかもしれないが、初めてここからの紅葉の山を見た私としては、この秋初めての,全くいうことのない秋山の光景に思えたのだ。

 より多くの体験をしていることが幸せでもなければ、一度っきりの体験で不幸せだということもない。
 私としては、この小さな登山で、今年の九重の山の紅葉風景に、十分に満足することができたのだ。
 右手には相変わらずの雲海の上に、阿蘇山が見えていて、岩の上で、暖かい日差しを浴びながら、ひとりきりで簡単な昼食をとった。
 誰も来なかった。
 鳥の声も聞こえなかった。
 私は山の中にいた。
 幸せな気分だった。
 
 扇ヶ鼻山頂に戻ると、人が増えて十人余りがいて、まだまだ登ってくる人もいた。
 分岐に戻って、斜面の所々に見える紅葉を目指して、星生山に登ろうかとも思ったが、まだ痛くはないがひざのことも考えて、今日はおとなしく戻ることにした。
 そして、この帰り道で、ちょうど光線の位置が良くなり、(写真家が嫌うベタな直射光だが)、行きには寒々しい色合いだった星生山西斜面の紅葉が、確かに色鮮やかではなく時期的にもずれていたかもしれないが、私にとっては初めて見る光景に近く、少し歩いては立ち止まりを繰り返しては、何枚も写真を撮った。(写真下)

 
 
 さらに反対側の、今見てきたばかりの、扇ヶ鼻北斜面の橙色の紅葉も、行きに見た時よりはずっときれいに見えた。
 そして最後の見ものは、ナベ谷源頭部の深紅のモミジだった。(写真下)

 ゆるやかな尾根道をたどり、沓掛山に登り返し、遊歩道を下りて行った。
 変わらずに、快晴の青空が続いていた。
 何とかひざが痛むこともなく、5時間ほどの軽いハイキングの山歩きを終えることができた。
 昼過ぎではあったが、峠の駐車場はもとより、両方面の道脇には路上駐車の列が続いていた。(休日にはどうなるのだろう。)
 
 翌日、軽い筋肉疲労と少しばかりのひざの違和感があったが、6月の緑岳登山ほどの痛みの恐れはなかった。
 これならばと、私は次なる九重の山の紅葉を見に行きたいと思った。
 大船山、三俣山、黒岳とある中からせめてもう一か所には行きたいと思った。
 
 三日後、天気予報とは異なって、朝から快晴の空が広がっていた。
 私はあわてて支度をして、再び九重の山に向かった。

 今年は、紅葉があまりよくない年であったとしても、私としては、扇ヶ鼻で初めて見るに等しい素晴らしい光景に出会えたから、もう一つと機会をうかがっていたのだ。
 そこで、冒頭にあげた漢詩の言葉を変えて、つぶやいてみた。

 ”年々歳々 人相似たり 歳々年々 秋同じからず”

 以下詳しくは、次回へ。


  


地理学入門

2016-10-25 23:54:55 | Weblog



 10月25日

 数日前に、九州に戻ってきた。
 いつもの年と比べれば、一か月以上も早い。
 理由は、いくつかある。
 まず、必要な事務的な手続きが、二つ三つとあり、次に、九州の山の紅葉を見たかったこと、最後に、先週末に放送された、NHK・BSの”AKB48FES2016”を見たかったからでもある。

 最初の事務的な仕事は、単純に処理作業をして終わらせることができて、次は九州の山の紅葉であるが、何とよく考えてみれば、私は長年、というより何十年にわたって、九州の山々の紅葉が盛りのころに、九州にいたことはなかったのだ。
 若者風に言えば、これは”ヤバイ”ことだ。
 思い返してみても、九州の山の紅葉の思い出があまり残っていないのだ。
 十数年前に一度だけ、10月下旬に帰ってきたことがあって、その時はもう終わりに近かったが、それでも何とか九重の山の紅葉をかいま見ることはできたのだが、それ以外のほとんどの場合は、早い時でも、11月の初旬頃であって、もうその頃は山麓の紅葉しか残っていなかった。(それでも、数年前の九重は黒岳周遊の晩秋のトレッキングは素晴らしかったが。2011.11.20の項参照) 

 というように思い返していたところで、気がついたのだ。そういえば、九州の山の盛り頃の紅葉を見ていないと。
 ほとんど毎年のように、今の時期は北海道にいて、大雪山だけではなく、道内のなだたる山々の紅葉を求めては、あちこち出かけていたのに、そしてこれからは、まだ少しか見ていない東北の山々の紅葉を見にいこう、と思って計画していたのだが、ある時ふと気づいたのだ、何たることだ!私の本来の地元でもある、九州の山々の紅葉をほとんど見ていないとは。
 いい年になった、じじいの私が、いつ死ぬともわからない身なのに、まして”山登りだけの人生だ”と公言してはばからないこの私が、四季折々の姿が美しい九州の山々で、冬と春にだけ力点を置いて、最も彩(いろどり)鮮やかな季節である、秋の紅葉の時期を見逃していたとは。
 今までに、もう十分すぎるほど見てきた北海道の山々の紅葉はともかく、東北や北アルプスなどの本州の山々の紅葉もさておいて、さらにはヨーロッパ・アルプスやヒマラヤの山々を見ること以上に、まずは自分の足元の、地元の山々の紅葉を知らなくて、どうして”山好き”などと言えるだろうか。
 このたびの早めの帰郷は、第一にこの九州の山の紅葉を見ることにあったのだ。

 それまでに、実に4か月もの登山空白期間が続いていた。
 6月終わりの、大雪山緑岳登山の時に、片方の足のひざの”じん帯”を痛めてしまい、3か月ほどは階段の上り下りにも苦労するほどだったのだが、最近ようやくその違和感も薄れてきて、とりあえず低い山に登ってみようと、今月の初めに北海道は然別(しかりべつ)の山に、紅葉見物がてらに行く計画を立てていた。
 しかし、その日は晴れてはいたが、いつもは眼前に並んでいるはずの日高山脈の姿でさえ定かではないほどに、空気がよどみかすんでいて、山の見えない登山など私にとって価値無きに等しいものであり、いかに快晴の空が広がっていたとしてもと、思い切って行くのをやめてしまったのだ。

 もっともそれは、自分への言い訳の一つであり、多分に”ぐうたら”グセがついていたからと言ったほうが正しいだろう。
 とはいっても、確かに今年は早く帰るつもりでいた九州の山のことを頭に入れていて、今、然別の山に登らなくても、もっとらくに展望のきく稜線にまで上がれて、年寄りにやさしい山である、あの九重に行けばいい、それもどうしても見たいと思っていた紅葉を見ることもできるし。
 そう自分に説明してはみたのだが、そうすると、今年の北海道の山は、何とあの6月緑岳の1回だけという、北海道に移って来て以来、初めての惨憺(さんたん)たる登山結果になってしまったのだが、何はともあれ、”桐、一葉(きりひとは)”の例え通りに、ひざ痛に端を発して、こうして山登りから遠のきがちになっている、自分の体力と気力を思ってしまうのだ。
 ”じじいへの道”をまっしぐらに。

 そして、昨日、九重の山に登ってきた。そのためにこのブログ記事を書く時間がなくなって、さらにはネット接続の不都合も重なって(ドコモ、WiFi接続のデータ消費量が異常で、追加2Gがわずか1時間ほどでなくなって、再び通信速度が極端に遅くなってしまったからだ)、そういうことで、一日遅れの今回の記事になってしまったのだ。
 その九重の紅葉の話は、来週に回すとして、今回は、例のごとく、北海道から九州への飛行機の旅、その窓から見た景色についていくつかのことを書いておきたい。

 一週間ほど前の、その日の朝は、ちょうど前線の通過と相まって、雨まじりの風が吹き荒れて、一便前の飛行機は離陸時間が大幅に遅れ、あまり広くはない待合室は乗客たちでいっぱいになっていた。
 あのNHKの定点観測ドキュメンタリー番組ではないけれども、こうして待っている人たちにはそれぞれの理由があって、東京に向かうのだろうし、その理由をインタヴューで聞いてみたら、おそらくは様々な光と影の交錯する、彼らの人生が見えてくることだろう。

 そこで、私にインタヴューされたら、最初の事務的な用事があってというのは、あまり面白くないし、それでは紅葉の山を見に行くためにというのも、いかにもヒマな山好きじいさんの話になるし、それならば、番組的に面白い受け答えになるだろうと思うのは、AKBの番組を見るために、ということだ。
 しかし、考えてみれば、テレビ・インタヴューというのは、そこにいつも”もろ刃の剣”としての、真実と誤りを含んだ、実に危うい大衆伝達への危険性も含んでいるのだ。
 つまり、短いインタヴューによって、より多くの人の話を聞くことができて、短時間のうちに大多数の意見をまとめ上げ、彼らの言う真実をくみ上げることができるだろうが、一方では、そんな一言二言しか話さないインタヴューの時間内で、その人は自分の思っていることのすべてを話せるだろうか、さらにまたその短い答えで、インタヴューアーは、自分の思うような答えを聞きたがっているのではないのかと。
 とかく、この世は難しい。
 それでも私は、誰一人として知り合いのいない乗客たちの中にいるのが、なぜか心地よかった。

 機内はそれほど混んではいなくて、何とか窓側の席に腰を下ろすことができた。
 ただ、朝から、そんな天気だったから、眼下の展望は時折、十勝平野が見えるくらいで、山々の姿を見ることはできなかった。
 日高山脈はもとより、もう白雪におおわれているだろう、大雪山や十勝連峰も、すっかり盛り上がった積乱雲の広がりの下に隠れていた。
 しかし、その上の数千メートルの上空は、いつものように濃い藍色(あいいろ)の天空に覆われていた。

 地上ではどんな天気になっていようとも、1万メートルの成層圏に近づけば、こうして全くの陰りのない蒼穹(そうきゅう)が広がっているのだ。
 もし私が死んだら、土のチリに戻るとも、あるいは海の藻屑(もくず)と消えるとも、どうなったところでもう私の知ったことではないのだが、できることなら、あの宮沢賢治の『よだかの星』のように、限りなく上空に向かって飛び続けて、最後はもう自分がどうなっているのかもわからないまま、小さな火の玉となって宇宙の果てに吸い込まれていく・・・。
 まあ年寄りは、自分が年寄りになったと気づいた時から、なにかこう、ロマンティストなファンタジスタになるものだろう。

 飛行機は、長い間海上を飛んだ後、今度は東北地方を縦断するように南下してゆき、ここでも山々は雲に覆われていたが、平野部はよく見えていて、刈り取りが終わった明るい枯草色と、まだ刈り取り前の暗い黄金色の田んぼの差が、はっきりと見て取れた。
 それも、平野部から山間部という位置的な差ではなく、植えつけ時期や収穫時期のずらしなど、それぞれの農家の考える刈り取り時期の差のように思われた。

 それ以上に、興味深いのが、耕作地の広がりかたである。
 例えば今見てきた十勝平野は、耕作できる平地だけを、広い四方形に区切ったます目状にして、それぞれに豆類、イモ類、ビート(甜菜)、トウモロコシ、牧草地などの輪作地として耕作し、それがパッチ・ワーク状にも見えるのだが、東北地方に入ると、それがちょうど米どころの宮城県のあたりだったから余計にそうだったのだろうが、単一栽培の水田利用地だけが目につき、それも耕作できない山々の部分をまるでアメーバ状に残して、どんな細い谷にも、水田耕作地が広がっているのだ。
 緑一色の春から夏にかけてはわからなかった、山間部の耕作地の形が見えていて、実に興味深い光景だった。
 
 次に、羽田で乗り換えて、福岡に向かう。
 こちらも混んではいなくて、窓側に座れたのだが、いつものようにどちら側に座るかで悩むところなのだ。
 左側は、富士山、右側は、南アルプスをはじめとした日本アルプスの山々が見える。
 しかし今年は、気温の高い日が続いていて、おそらく3000mそこそこの日本アルプスが雪に覆われていることはないだろうが、富士山ならば、頂上部だけが粉をかけたように新雪に覆われているかもしれないと、私は左側の座席に座った。

 箱根の山、芦ノ湖が見え、そして富士山が近づいてくる。
 しかし、今回の飛行ルートはいつもより北に離れていて、富士山が一回り小さく見えているし、逆光線で山体はただ黒々と見えるだけだった。
 そして、真横の位置から少し後ろに見えるあたり、大沢崩れが見えてきたあたりで、その火山特有の優美な山体の中腹が、ぐるりとカラマツの黄葉に彩られているのが見えてきた。
 飛行機から、黄葉の富士山を見たのは初めてだった。(写真上、富士山の向こうには伊豆半島、天城の山々も見えている。)

 そのまま眼下を見ていると、身延(みのぶ)山塊が現れてきて、続いて南アルプス南部の山々が見えてきた。
 最南部の3000m峰、聖岳(ひじりだけ、3013m)が窓ガラスに顔をつけてようやく眼下に見えるのだが、写真には撮れない。
 しかし、それに代わって、さらに南に位置する山々の姿が見事だった、
 手前に、大井川源流の堰止湖(せきとめこ)である、畑薙(はたなぎ)湖、奥に井川(いがわ)湖が見え、その間に伸びる急峻な尾根の稜線は、小無間山(しょうむげんやま、2150m)から大無間山(だいむげんやま、2329m)にかけての見事な山稜である。(写真下)
 まるで地学の教科書にあった、壮年期の山の見本のような、細かく浸食された谷がなんと美しいことか。
 南北と中央の日本アルプスに、北海道の日高山脈で目にすることの多い、急峻な浸食谷を持った壮年期の山岳地形を、こうして上空から見ることのできる喜び。

 十勝平野のパッチワーク畑作の耕作地模様と、東北地方の山間部にまで入り込む水田耕作地模様、そして火山である富士山中腹を彩るカラマツ黄葉と、南アルプス南部の褶曲(しゅうきょく)断層山脈による壮年期地形と、今回は、まさに地理学、地学入門のためのようなフライトだったのだ。

 そういえば、AKBの番組を目当てに帰ってきたといったのだが、先週末に放送されたその『AKB48FES2016』は、AKBグループ総出演の名曲メドレーで、AKBファンとしてはたまらない番組だったのだが、同じ時間帯のNHK地デジのほうでは『ブラタモリ』の「富士山樹海編」があり、これまた地学マニアにはこたええられない番組だったし、さらにもう一つわが北海道日本ハム・ファイターズの日本シリーズ初戦が重なってしまって(結果的には負けてしまったが)、AKBとブラタモリはしっかり録画して、見直しては十分に楽しませてもらった。
 まだまだ、じじいになっても楽しみは多くあり、そうして生きながらえていることに感謝したいのだ、日々をありがとうと。

 ここまで書いてきて、時々、日本シリーズ第3戦を見ていたのだが、わが日ハムは・・・やったぜ、大谷のサヨナラ・ヒット。
 広島が、”男気・黒田”をチームの柱として、良くまとまっているのはわかるけれど、わがファイターズも、謙虚な天才、大谷を柱としての若いチームとしてのまとまりで、ここまで来たのだから。
 来週このブログを書いているころには、その日本シリーズも終わっているだろうし、どちらが勝つにせよ、今年のプロ野球も終わってしまい寂しいような・・・。
 今日の野球が終わってから、さらに書いていたので遅くなってしまった。もう12時にもなる。いつもは10時には寝てるというのに。


 

 
  

 


ジャーク

2016-10-17 21:26:56 | Weblog



  10月17日

 久しく、小鳥の声を聞くことがなかった林の方から、何やらにぎやかな声が聞こえてくる。
 渡り鳥である、ツグミの群れがやってきたのだ。
 シベリヤの方から南下してきた、ツグミたちは、まだ秋色さ中の北海道に降り立ち、さらに少しずつ距離を伸ばしては、本州の方へとさらなる旅を続けるのだろう。
 渡り鳥であるがゆえの、いくつもの困難さを乗り越えて、それでも彼らは毎年、生きている限りは続く渡り鳥としての本能のままに、同じ旅を繰り返すのだ。
 そこには、海峡を越えての長距離飛行があり、自分が今まで暮らしていた場所とは違う所での、休息や採餌(さいじ)に際しては、危険な外敵へのさらなる注意が必要であり、そうした数々の困難を乗り越えていかなければならない。

 確か、二三年前のNHKのドキュメンタリー番組だったと思うが、北海道最南端の松前町は白神岬辺りから、本州最北端の竜飛(たっぴ)岬へと渡って行く、ヒヨドリやツグミたちの群れの姿がテレビ画面に映し出されいて、私はそれを見ながら思わず手を握りしめていた。
 海のそばの林の中で、それまでの旅の疲れをいやした後、天候を待って風向きを確かめて、いざ飛び立ちの時になる・・・風の抵抗が少なくて揚力(ようりょく)を得られる、海上すれすれの所を、群れになって、互いに鳴きかわしながら飛んで行く。
 やっとの思いで、竜飛岬が近づいてきたころ、疲れた渡り鳥たちの群れをねらって、猛禽(もうきん)類のワシやタカなどが襲ってくるのだ。

 それは、ヒヨドリやツグミたちにとって、自分たちの種族が強く生き残るために、自らに課した”渡り鳥”としての危険な試練の場であり、一方で、彼らを捕食しようとするワシやタカたちにとっても、決していつも成功するとは限らない、日々の食のための危険と隣り合わせのやむにやまれぬ行為なのだ。
 両者に共通するのは、ただ生きるということ。
 人間たちのように、フロイトだアドラーだなどと考え、ニーチェだハイデッガーなどと悩んでいるヒマなどないのだ。
 
 昨日、家のそばにある小さな花壇の花に、少し翅(はね)がすり切れたモンキチョウが止まっていた。(写真上)
 秋になって、最後の花を咲かせている花があり、一方では、自分の体力が弱ってきていても、それだからこそ最後の秋の花を探し求めて、蜜を吸おうとするチョウがいる。
 そして、暖かい秋の日差しの中、初雪の日が近いことを知らせるように、白い綿毛に覆われた小さな雪虫(ゆきむし)が、二匹三匹と辺りを飛んでいた。
 
 暖かい日が多くて、家の林の紅葉も遅れていたが、この数日の霜が降りるほどの冷え込みで、はっきりとわかるほどに色づいてきた。
 それに合わせて、私の一カ月余りも続いた、林内伐採(ばっさい)作業とその後の片づけ整理作業も、ようやく終えることができた。
 伐採作業については、今まで詳しく書いてきたので繰り返さないが、計画伐採ではない、林内での風倒木(ふうとうぼく)の択伐(たくばつ)作業が、危険なものであったことは言うまでもない。
 しかしその後の、散らばった丸太や枝葉の片づけ作業も、これまた”ゆるくはない”(意外に大変な)仕事だったのだ。
 
 、一般的な林業作業としての、計画皆伐(かいばつ)にして、林内のすべてを切り払ってしまえば、事は簡単なのだが、 私はたかだか一町歩(3000坪)足らずの自宅林の中で、もともとそこに植えられていた、カラマツの木を間伐(かんばつ)していって、ストーヴの薪(まき)として利用するだけではなく、そこに自然に生えていた、シラカバ、カシワ、ミズナラ、ミズキ、モミジ、カエデなどの落葉広葉樹を、そのまま育てていって、他にもここに生えている針葉樹の、エゾマツ、イチイなどとともに、そうしたさまざまな木が生えている、明るい混交林(こんこうりん)にしたいと思っていたのだ。

 それだから、カラマツの間伐の時にしろ、今回のような風倒木処理の時にしろ、切り倒した木は、ストーヴの薪としてだけでなく、一部は掘っ立て小屋を作る時の、柱や棟木(むねき)として利用するから、そのまま放置して腐らせるわけにはいかないし、それらの木々についていた枝葉もそのままにしておくと、下草の花々(ベニバナイチヤクソウ、ツマトリソウ、クゲヌマラン、ウバユリなど)のためにも良くないので、取り除いておかなければならないのだ。
 枝葉は簡単に片づけられるが、問題は、重機などが入れない林の中での人力作業にあり、それも、一人では持ち上げられないような丸太の移動をどうしてやるかだ。
 中径木くらいまでは、何とか抱え上げて運び一緒にまとめて積み上げられるが、問題は100kg、200kgもある大径木の場合だ。
 切り倒した所から転がして行くことができれば楽なのだが、先に書いたように、混交林の林を目指していて、他にもたくさんの小さい広葉樹があるから、すぐにどこかが引っかかってはそれ以上動かせなくなる。

 となると残りは、”尺取虫式運搬法”しかない。
 まず、丸太の両端のどちらかがわを持ち上げ、さらにそのまま何とか腹のあたりまで上げて、そこでグイと腹を出してつっかい棒のように止め、呼吸を整えて、そのまま頭の上まで持ち上げる。危険ではあるが、そう、あの重量挙げの時の、ジャークの姿勢のように。
 時には頭で次のつっかい棒代わりにして受け止め、さらにもう一呼吸入れて全力で頭と両腕をあげて、丸太を垂直にまで立てると、急に楽になり、反対側に倒せばいい。
 ただし、一回の持ち上げ作業で全身の力を使うため、丸太を立ち上げ倒したところで、息が続かないで、ゼイゼイあえぐくらいの仕事になって、とても続けてすぐにまた持ち上げるというわけにはいかない。

 そうした”尺取り虫法”で、一回にその丸太の長さの1.8mくらいの距離を動かすことができるが、それも遠くにまでは運べないから、林内の10か所余りに設けた集積所、と言っても簡単に小さな丸太を枕に10本余りを並べているだけにすぎないが(前回の写真参照)、そこまで運んでいって、そこで皮をむいて二三年乾燥させれば、材として使うことができるし、皮をむかないでそのままにして同じように二三年置いて、その後で短く切り分けていけば、薪として利用できるようになるが、それを過ぎると、後は腐って行くだけで使い物にならなくなるし、実際の所、そうして間伐してきたわが家のカラマツ林の木の半分は、そのまま使いきれずに腐らせてしまい、朽ち果てるままになっているのだ。
 欲しい人がいれば、あげてもいいのだが、(実際のところ、周りの農家のおやじさんが、孫の鯉のぼり用のポールにと二本ほど持って行っただけで)、ともかく人力で運び出す他はないし、薪として使用するには、ヤニが多すぎてストーヴで燃やすには余り適していないし(それでも仕方なく薪にして使ってはいるが)、また家具などの材としては、乾燥途中でのねじれや狂いが大きくて、実用的ではないし、全く”使えない”材ではあるが、乾燥させてしまえば水には強く、その昔、石炭採掘盛んなりしころには、坑内の支え丸太として使われたというのもうなづけるところだ。

 とは言っても、そんなカラマツの木が、私は好きだ。
 何のためらいもなく、まっすぐに上に向かって伸びていく様(さま)がいい。
 幼木として植えても、すぐに大きくなっていく、その成長の早さが小気味いい。
 針葉樹としては珍しく、秋になるといっせいに黄葉し、いっせいに散って行くそのいさぎよさがいい。
 晩秋の十勝平野の、その青空を背景に、立ち並んだ黄葉のカラマツの木々ほどに素晴らしい眺めはない。

 山にあるカラマツ林もいい。
 北海道の山にあるカラマツの木は、ほとんどが植林であり、本州の杉の植林地と同じように、区画的分布になっていてあまり面白味はないが、原種である長野県の山々の山裾を彩るカラマツの黄葉は素晴らしい。
 上高地の道を、梓川(あずさがわ)沿いに横尾へとたどって行く時に見えるカラマツの大木たち、対岸には初雪に彩られた前穂高岳(3090m)がそびえ立ち、その山裾をめぐるように鮮やかなカラマツの黄色い帯。
 燕岳への、合戦(かっせん)尾根の急な登りを慰めてくれるかのようなカラマツ林。その彼方に白雪の大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)が見えてくる。
 浅間山(2560m)から籠ノ登山(かごのとやま、2227m)、四阿山(あずまやさん、2333m)と続く上信国境火山群の山裾に続く、カラマツ林。

 ああ、山に登りたい。
 6月の終わりに、大雪山は緑岳に登った(7月4日、11日の項参照)のを最後に、もう4カ月近くも山に登っていない。
 あの登山で一気に悪化した、ヒザのケガのためだとはいえ、東京で働いていた時、忙しくて山に行くどころではなかったあのころが、もう何十年前のことになるのやら、その時以来のことだ。
 
 しかし考えて見れば、次はいつどの山に登るかということだけを考えていた私が、なすすべもなく、ただ欝々と(うつうつ)と日を過ごし、生来のぐうたらさに溺れて、ひたすら”出不精”(この場合”デブ症”の意味もある)になっていっただけなのだが、そこに台風がやってきて、神様の一声が聞こえたのだ、”人間、働かなあかん”。
 そして折よくと言うべきか、風倒木処理の緊急事態が発生し、仕事をせざるを得なくなったのだが、まさしく”災い転じて福となす”の例え通りに、今では、仕事をやり終えた満足感に浸っているほどなのだ。
 毎日の神経を張りつめた仕事の中で、大汗をかいて仕事をして、その仕事をしただけの成果を見て、ある意味これがまた、登山することに代わる喜びにもなったのだ。
 もちろん世の中には、日々、生きるために働いている人たちが殆んどであることは言うまでもないことだが、ここに書いていることは、年老いたじじいの、ぜいたくな”労働と日々(仕事と日)”のつぶやきにすぎないことと、ご了承頂きたい。

 ともかくこの一カ月で、多くの木を切ったが、しかしこの自宅林内にはまだ百本以上ものカラマツの木が生えていて、とても私が生きている間に間伐や風倒木として、全部を伐採してしまうことなどできないだろうし。
 それらの中には、直径40cmを超える大木も何本かあり、その威風堂々(いふうどうどう)としたたたずまいは、見ているだけでも気宇壮大(きうそうだい)な気分になれるが、ただ私が生きている間はもちろんのことだが、私が死んだ後でも、そのまま生き残ってほしいものだ・・・。
 
 そこで思い出したのは、前にも何度かこのブログでも引用したことのある、あのヘルマン・ヘッセ(1877~1962)の『庭仕事の愉しみ』(V・ミヒェルス編 内田朝雄訳 草思社)からの一節である。
 
 「木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。
 木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。
 木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。
 そのような木は、孤独な人間に似ている。
 ・・・。
 しかし木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、その命の全力をもってただひとつのことだけを成就(じょうじゅ)しようとしている。
 それは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分みずからを表現することだ。

 一本の美しく頑丈(がんじょう)な木ほど、神聖で模範的なものはない。」

 毎日、天気の日が続いている。
 毎日、夕日が、シルエットになった日高山脈の向こうに沈んでゆく。(写真下)

 あの西の空の向こうには、ただ同じように夕日が沈みゆく、同じような国があるだけのことだ。
 糸車の中を回るハツカネズミのように・・・繰り返し同じ光景を見ているだけのことだ。
 しかし、そのハツカネズミが、自分の手足を使って回っている今こそが、息を切らし必死になって回り続けている今こそが、彼だけに分かる、生きている大切な時間なのだ、と思う。
 
 昨日今日と、この時期にしては気温が高く、20度前後にまで上がっていた。
 風もない、暖かい空気の中、今日はまた、何匹もの雪虫が飛んでいた。
 まるで、ふわふわと漂う、小さな雪のひとひらように・・・。



 
  


 

  


ツタウルシ

2016-10-10 22:10:53 | Weblog

 

 10月10日

 最低気温が5度前後にまで下がってくると、さすがに暖かい丸太小屋とはいえ、室温も15度にまで下がってきて、ついに薪(まき)ストーヴに火を入れることになった。
 そして、春先以来久しぶりに、ストーヴの中で薪の燃える音が聞こえてきて、じんわりとした心地よい温かさが周りに広がってゆく。
 それまで、長年使っていたステンレス製の煙突に、もう掃除しても取れないほどにタールがこびりついていて、燃え方も悪くなっていたから、先日、耐熱塗装済みの煙突に取り換えていて、それで今は、もう気持ちがいいくらいによく燃えてくれているのだ。
 そこにやかんや鍋を乗せておけば、時間はかかるけれども、お湯を沸かすこともできるし、コトコトとシチューなどを煮込むこともできる。
 ケチな話をするようだが、それで高いプロパン・ガス代の節約にもなるというものだ。

 それは秋が来たというよりは、明らかに今までの、夏季(夏のシーズン)から冬季(冬のシーズン)へと変わる境目の日だったのだ。
 もちろん1年というものは、それぞれの四季によって区切られてはいるが、北国の四季は、内地のように、4か月単位で区切られるほどに、単純なものではない。
 北海道内でも、各地によって大きな差はあるが、早い所では初雪の降る今頃から冬の時期が始まり、そこから雪のある時期が半年近く続き、そうしてようやく暖かくなり、花が咲き乱れる春になったと思うのは、4月の終わりから5月に入ってのことである。
 そんな6月半ばごろまで続く春の季節から、北海道でも暑い日のある7月、8月の夏があり、わが家の周辺では、9月には穫り入れ時の秋になり、紅葉の時期も10月いっぱいで終わりになる。
 つまり、雪のある間と雪のない間とに大きく分ければ、1年を冬と夏の二つに大別できるということなのだ。

 だから、冬の間は暖かい九州にいて、ちょうどいい季節になってから北海道に戻って来る私のことを、周りの農家の人たちは言うのだ。”夏の間だけここにいて、結構な身分だわ”。
 もっとも、私には私の言い分もあって、日ごろから切り詰めた生活をしていて、そうした貧乏生活をしてまでも、私はこの北海道にいたいのであり、実際は、冬の北部九州の山の中にある古い家はすきま風が多く、暖房も不十分で、薪ストーヴのある北海道の家にいるより寒いくらいだし、夏の北海道の暮らしにしても、いつも書いているように、井戸水が干上がることもあって、いつも生活水には気をつけなければいけないし、家の中にトイレもなく(外の小屋の非衛生的ぽっとんトイレだけで)、風呂にも入れず(外に五右衛門風呂はあるが、井戸水が十分ある時に数回沸かすだけ)の上に、洗濯できない(水不足と排水問題)などと、年寄りになってきた今では、何ともつらい事情がいろいろとあるのだ。

 何事でもそうだが、私たちは自分の目で見えるものだけで判断し、自分の理解できる範囲内でしか評価できないものだから、もちろんそうしたことがつきものの人間の社会だからと、細かく考えずに鷹揚(おうよう)に構えて、周りに迷惑だけはかけないようにと心がけ、後はただ年寄りのぐうたらさだけで、のんべんだらりと、心穏やかに、生きていけばいいだけのことだ、と思っているのだが。
 もちろん、それはやるべき日々の仕事をきちんとやったうえでのことではあるが、それにしても、人は振り返ることのできる歳月がたってから、ようやくいろいろなことがあったことに気づくのだろう。
 東京を離れたことも、この丸太小屋をたった一人で建てたことも、決して間違いではなかったし、すべては私が生きていく上で必要なことだったし、今はすべてのことに感謝したいと思っているほどだが。

 そして最近、このブログに毎回書いている、カラマツ林の台風被害倒木等の、後片付けのための伐採(ばっさい)作業も、思えば今の私には最もふさわしいやるべき仕事だったのだと思っている。
 足のヒザの負傷もあって、山にも行くこともできずに、蚊やアブが多くていやだと理屈をこねて庭仕事もせずに、荒れ放題の庭はそのままにして、ただ日々ぐうたらに過ごしていた私に、天から私への一喝(いっかつ)の声があったのだ。
 「何してんねん。人間働かなあかん。」 
 それは、前回書いた、あのヘーシオドスの『仕事と日(労働と日々)』にある警句のように、聞こえてきたのだ。

 私は老いた体にムチを当て(あへー、女王様お許しを、と身もだえしながら・・・てなことはないが)、それから1か月近くを、カラマツ伐採と後片付けに精を出してきたのだ。
 それでようやく、倒木や傾いた木の多くを切り倒し、大体1.8m寸法の大きさに切り分けてきたのだが、まだあと数本傾いた木が残ってはいるが、それはすぐに枯れるわけではないから、来年に回して、予定していたカラマツの木の二十数本は切り終えたのだ。
 この林の中での択伐(たくばつ)作業には、危険が伴い、短い時間ながら気持ちが張り詰めて、ひどく疲れる仕事ではあったが、ともかく一番危険な仕事を何とか無事に終えて、今はほっとしているところだ。
 しかしまだ、その切り分けた丸太が散らばる、林内の後片付けをしてしまわなければならない。 
 林の中で作業できる重機もないし、すべては自分一人の力で、何とか100kg200kgもある丸太を動かし、ひと所に集め片付けていかなければならない。
 これが非常に体力を要する仕事で、寒い風が吹いている中でも大汗をかいてしまうほどだし、腰を痛める心配もあるし、1時間程立ち働けばもうぐったりとしてしまう。 
 そうして、丸太と枝葉に分けて、一たまりの場所に積んでいくのだが(写真上)、まだ太い丸太を含めて数十本分は残っていて、数日かけての仕事になるだろう。

 そんな仕事の中で、何とかぎっくり腰が再発することもなく、ここまで順調にやってこられて一安心ではあるのだが、実は数日前からやっかいなことになってしまった。

 主に両腕の所に、他にもわき腹などに、ひどいかぶれが起きて、赤い斑点から水ぶくれ状に腫れて、かゆくて夜中に目が覚めるほどになっている。
 おそらくは、ツタウルシによるかぶれなのだろうが、ここまでひどい状態になったのは、記憶にある限り、子供のころ以来のことであり、それはハゼの実の収穫作業手伝いに行っていた母についていって、そこでかぶれて顔中がはれ上がったのだ。
 今回の原因も、分かっている。

 もともとこの林内には、カラマツなどに巻き付いて登ってゆくツタウルシが多くあるのは分かってはいたが(写真下)、紅葉の時などには、林内を彩(いろど)ってきれいなので、むしろそのまま生えるがままにしておいたのだ。
 しかし、今回の台風倒木で、そんなツタウルシの巻き付いたカラマツの木が何本も倒れていて、それをチェーンソーで切って寸法に切り分け、その丸太何本かを動かし運んだのだが、その時、もちろん手にはゴム引き手袋をはめて、上には長袖ジャージーを着て作業をしていたのだが、汗だくになって、上着を脱いでTシャツ一枚になり、その時ツタウルシが巻き付いたままの丸太を抱え上げ、腕がチクチクしたのを覚えているが、翌日からその両腕内側に、みみずばれができていて、日ごとにかゆくなっていったのだ。

 幸いにも子供の時にできたような、顔にまで腫れはできていないからいいが、ただでさえ”こわもて”の顔だと恐れられている私の顔が、このウルシかぶれで腫れあがっていたなら、それはもうふた目と見られない恐怖のゾンビ顔になっていて、周囲の皆様方に、多大なるご迷惑をおかけすることになったのだろうが、せめてもの、いつものじじい顔のままで、思わずほっとして鏡の自分に、にっと笑って見せるのだが、もっともこっちのほうが気持ち悪いのかも。

 ともかくとりあえずはと、手持ちの市販薬塗り薬を塗ったが、その時はいいが、しばらくたてばまたかゆくなってしまうし、ネットで調べてみると、治るまでには一二週間かるというし・・・まあこれは一体、神様の何というお告げなのかと考えてみるが、思えば、危険なチェーンソー作業で、ここまで事故一つ起こさずに、二十数本もの木を切り倒すことができたのだから、このぐらいのウルシかぶれで文句言ってる場合かとも思う。
 しかし、それにしても”かゆーいの”(間寛平の古いギャグ)。

 こうしたやっかいな皮膚病にかかったとしても、やはり今回の林内伐採作業は、どうしてもやってしまわなければならない仕事だったから、後悔することはないのだが、むしろ久しぶりに身の入った仕事で、体の方でも、その無心に動くことの悦びを覚えていたくらいだ。
 仕事をすることについては、前回もあのヘーシオドスの『仕事と日(労働と日々)』からの言葉をあげていたが、今回は、これもこのブログで参考にあげることの多い、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中からの言葉を載せておく。

 「家に居て、時々わが体力の辛苦せざる程の労働をすべし。・・・。」(『養生訓』 貝原益軒著 伊藤友信訳 講談社学術文庫より以下同、「総論下」二)

 「華佗(かだ、昔の中国の医者)が言に、人の身は労働すべし。労働すれば殺気(さっき)きえて、血脈流通すといえり。
 およそ人の身、欲をすくなくし、時々身を動かし、手足をはたらかし、歩行して久しく安座せざれば、血気めぐりて、滞(とどこお)らず、養生の要務なり。」(「総論下」三)

 「山中の人は多くはいのちながし。古書にも山気は寿(じゅ)多しという。又、寒気は寿(いのちながし)ともいえり。
 山中はさむくして、人身の元気をとじかためて、内にたもちてもらさず。ゆえに命ながし。・・・又、山中の人は人のまじわりすくなく、しずかにして元気をへらさず、万(よろず)ともしく不自由なるゆえ、おのずから欲すくなし。・・・。」(「総論下」二十)

 これは、当時としては、84歳もの長寿を全うしたともいえる、益軒先生の”長生きの心得”ともいうべき書であるが、最近のテレビ『(ためして)ガッテン』他の健康番組で、正しい健康方法などがたびたび放送されているように、現代の医学常識、研究成果の実例から言えば、到底受け入れがたい、非科学的な事例も数多く見受けられるけれども、一方では、現代に生きる私たちが、これを”昔の長生きのための書”としてではなく、昔の人の随筆として、『方丈記』や『徒然草』を読むときのように読んでいけば、この書の中には、長生きという目的を離れて、人間の生き方として素直に心に入ってくる言葉も多くあり、そこに、同じ日本人としての”和の心”とでもいうべき、血脈の連なりを感じてしまうのだが・・・。

 それは、若いころには、深く考えもしなかったことだが、年寄りになるということは、こうして様々なものが見えてくるようになるということでもあり、そしてこれは本心からの思いだが、年寄りになっていくということは、実にありがたいことでもあるのだ。
 10歳には10歳なりの、20歳には20歳なりの、40歳には40歳なりの、80歳には80歳なりの、その時々の哀しみと愉(たの)しみがあるものなのだと・・・。



  


山あれば山を観る

2016-10-03 21:42:50 | Weblog

 10月3日

 この週末の3日間、空は見事に晴れていた。
 北海道最高峰の、大雪山旭岳(2290m)の初冠雪のニュースが流れ、さらには、高原大橋の架橋ができて、帯広方面から裏大雪に向かう、三国峠経由のルートが復旧したことも伝えられ、またちょうど大雪山中腹辺りの紅葉が盛りだということもあって、おそらくは多くの登山者や観光客でにぎわったことだろう。

 私はひとり、ずっと家にいて、林内の木を切っていた。
 山に行かなくても、正確にはヒザの痛みで山に行けなくなっても、やらなければならない仕事があり、それでも一日一日と、その仕事の成果が目に見えてわかる、ささやかな満足感も味わってはいたのだが。
 そのうえに、こうした天気の良い日の朝夕には、えんえんと続く日高山脈の山々をずっと眺めていることができた。
 上の写真は、三日ほど前に、近くの丘から見た日高山脈のペテガリ岳(1736m)とルベツネ山(1727m)の姿である。
 秋色濃い山肌をさらに朝日が染め、十勝平野には朝霧がたなびいていた。
 
 そういうことなのだと思う。目の前の景色を、いつも自分なりに感じることができればいいだけのことだ。
 そこで思い出した、山頭火(さんとうか、1882~1940)の小さな詩の一編。

 「 山あれば山を観(み)る

   雨の日は雨を聴く

   春夏秋冬
 
 あした(朝)もよろし

 ゆうべもよろし 」 

 (『草木塔』 ”山行水行” 種田山頭火 八雲書林、ダイソー近代日本文学館)

 今日は、久しぶりに雨が降っている。
 林内の伐採作業はお休みで、このブログを書いている。こうした一日も、また悪くはない。
 人それぞれの人生の中には、さまざまな出来事があり、様々な自分なりの生き方がある。
 前回書いた、あのニーチェの一言のように、それはいつも”偶然”の出来事の連続であり、それは決して運命などと呼ばれるものではなく、幸運でもなく不運でもない。
 運命、そんなものは、いつも後になって、自分勝手に名づけるだけのものだ。
 問題は、その多くの”偶然”を、どう受け取りどう対処していくかだけであり、結果はいかようにも、自分の思いのままに結論づければいいだけの話だ。

 そんなふうに考えてみたのは、もちろん、日ごろからそうした思いがあるからでもあるが、最近ふと見た大阪朝日放送のドキュメンタリー・バラエティー番組、『こんなところに日本人』を見て、またより一層に、その思いを強くしたからでもある。
 この番組をいつも見ているわけではないが、たまに見た時には、その僻地(へきち)への旅の行程と、そこにいる当の日本人への興味から、思わず旅の成り行きにひきこまれて、最後まで見てしまうことが多いのだ。

 今回はその時の四つの話の全てを見たのだが、最初は72歳になるという、全く日本語の話せないロシアに住む女性の話だが、中国は旧満州で生まれ、終戦の年の1945年にロシア軍が侵攻してきて、当時軍医だった父親と母親は、”生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず”と自害して果て、その両親のそばでひとり泣いていた、まだ幼児だった彼女がひとりだけ助けられ、その後ロシアの孤児施設に引き取られてそこで育ったが、顔の傷と敵国日本人の子供だという負い目から、とうとう一度も結婚することなく、親類縁者誰一人としていない中、同じ孤児施設で育ったロシア人友達との、日々の付き合いだけを心のよりどころにして、今でも一人で暮らしているということだった。

 そして次に、南米はアルゼンチンの首都であるブエノスアイレスで、今のアルゼンチン人の夫に出会い、そこから1000キロも離れた、アンデス山脈の山麓にある夫の故郷でもある町で、彼と伴に日本料理もあるレストランを経営するようになった、という女の人の話。(一方では最近、カナダへの語学留学の30代の女性が殺害されたニュースがあったばかりだが。)

 三つ目は、有名企業を定年退職後、心機一転して、カンボジアの首都プノンペンから数百キロも遠く離れた、ビルマとの国境付近の寒村で、それまでの主要栽培であった衰退する葉タバコ栽培からの転作を推し進めて、地元に人たちとともに新しくコショウなどの栽培に励む男の人の話だったが、そのことはともかく、何よりもそこにたどり着くまでの泥濘(でいねい)の道のりは、もし私の古い4WDのクルマでさえ、これ以上は行きたくないと思うほどのひどさだった。
 最後は、アフリカ大陸から少し離れインド洋にある大きな島国、マダガスカル島の首都タナナリブから、バスを乗り継いでの数百キロ先の彼方、島の反対側の西海岸にある町に住み、海外青年協力隊の保健婦として働いている、まだ20代の若い女性の話だったが、しかし最新衛生技術の普及という彼女の理想と、今までの古い方式をかたくなに守り続ける、現地人病院スタッフとの埋められないギャップがあり、それもまた厳しい現実なのだろうが。

 彼女彼らの人生は、それぞれに深く重いけれども、そのいずれもが、決して運命ではなく、幸運でも不運でもなく、ただ自分の目の前にある道を、あるいは自分で決断してきた道を、ただ一途にひたすらに生きているというだけのことなのだろうが、私たちが今はもう失ってしまった、あの意志の力、ひたむきな一途さに気づかされるのだ。
 つまり、自分が歩んできた道のりを、すべて不運だった、悲惨な運命だったと思うよりは、(そう思ったところで今さらどうなるわけでもないのだから)、むしろ、そうしたことがあったからこそ今の自分がここにいるのだと、今ここに生きているのだと考えた方が、心穏やかになれることは確かだろう。

 しかし、こうしたニーチェの提示した”偶然”というテーマは、その背後にニーチェ的”ニヒリズム(虚無主義)”を含んでいて、その思いを受け継ぎながらも、その混とん世界を振り払うべく、”超人”思想実現のために自分をかけたのが、私の敬愛する作家の一人でもある、フランスのアンドレ・マルロー(1901~1978)である。
 彼は、若き日に南アジア冒険行に挑み(『王道』)、中国革命の現状の一端に触れて(『征服者たち』『人間の条件』)などを書き、スペイン内乱では共和国軍に加入し(『希望』)、さらに自国では対独レジスタンスに加入して(『アルテンブルグのクルミの木』)などを書いた後、革命的活動からは離れて、ドゴール内閣の文化相を長年務めたように、最後に到達した世界は、人間の希求の理性ある表現でもある、美術の世界(『東西美術論』など)だったのだ。

 人それぞれの”生き方”の話が、いつしかマルローの話になってしまったのだが、このマルローについては、今までにもこのブログで事あるごとに書いてきたのだが、さらに改めて、彼の著作物をたどってゆき、その行動の意図するところをもう一度考えてみたいという思いもあるが、最後にたどり着いた所が美術の世界だということは、もちろん、そんな彼が考えたほどの深い意味はないのだが、私にも思い当たる所があるような気がするのだ。
 つまり、行動が伴わなくなってきた年寄りの私としては、もちろん以前からあった、絵画や映画にクラッシック音楽の他に、山に登れなくなってきた代わりに、写真芸術としての作品を手元で鑑賞する楽しみが増えてきたことにもなるし、もしかしたら、AKBの娘たちが歌い踊るさまをテレビで見ることも、言葉を変えて言えば、人間の理性ある希求表現を、芸術作品として見ることの愉(たの)しみからくるものなのかもしれない。

 そうした思いの一方で、”与作は木を切る”という、人間の動物的行動の充足による満足感もまた捨てがたいものなのだ。
 この一週間で、さらに十数本の木を切り倒し、枝払いをして、大体の寸法に切り分けていった。
 と書くと、簡単な造林作業のようだが、これまでも書いてきたように、いつも危険と隣り合わせの、集中力を切らすことのできない作業であり、年寄りの私には、とても3時間以上は続けられない仕事ではある。
 林内で、すべての木を計画的に順を追って切っていくことのできる皆伐(かいばつ)ではなく、ある意味での択伐(たくばつ、木を選んで切っていく )作業なだけに、それも強風によってそれぞれに勝手な方向に倒れている木だけに、その処理は始末に負えないものになるのだ。

 下の写真は、1m50cmぐらいの所でへし折れた木の上に、他の木が二本折り重なって倒れていて(手前の二本も倒木で)、どこから切ればどう倒れ落ちてくるだろうと推測しながら、神経を使って、この三本すべてを処理したのだが、他に引っかかっているミズナラやカエデなどの木はなるべく切りたくないから、それらをよけて切っていくには手間がかかるし、途中でまたチェーンソーのバーが木の間に挟まったりで、それを取るのに一苦労して、ともかく2時間余りかかってしまった。
 さらに危険なのは、前にも書いた、急速回転する刃が木に食い込まずに、反発して起きるキックバックであり、一度チェーンソーのスロットルを握ったまま、つまりチェーンソーが動いているままの状態で、転んでしまった。
 とっさに、そのチェーンソーを放り投げて倒れたからよかったものの、まさにひやりとした一瞬だった。

 切り倒しておくべき木は、あと数本だから、二三日もあれば何とか片がつくだろうが、またその後には、100kg以上もある切り分けた木の寄せ集め作業があり、今度はぎっくり腰の再発が心配になるし、枝払いで散らばっている木の枝もまとめ集めておかなければならない(来春花開く植物たちのためにも)。
 今年は、去年よりは、ずっと早めに九州に帰るつもりだから、とても全部の作業を終えることはできないだろうし、ただこれからも、自分の年を考えて、労働が小さな楽しみとなるように、働いていけたらいいのだが・・・。

 「時を誤(あやま)らず、しかるべき手順を整えて、働く気を起こさなければならぬ。」

 「また働くことで、いっそう神々に愛されもする。」

 「労働は決して恥ではない。働かぬことこそ恥なのだ。」
 
 「お前がどのような運に生まれているにせよ、働くに如(し)くはない・・・。」

(『仕事と日』 ヘーシオドス 松平千秋訳 岩波文庫より)