8月25日
数日前に、北海道に戻ってきた。
気温22度。確かにここには、北海道のあのさわやかな空気がある。
一ヵ月前と比べれば、周りの畑の色合いが、少し変わっていた。
黄金色になりつつあった小麦畑は、もうとっくに刈り取られていて、切り株が残るか、すぐに耕やされて新たに別の種がまかれ、若い緑の芽が育ってきていた。
さらには、もうジャガイモの収穫が始まっている所もあった。
戻ってきた家の周囲は、さもありなん。繁る草の波に囲まれていた。
真夏の時期に、長い間手入れもせずに放っておけば家の周りはどうなるのかという、良い見本のようなものである。
思えば私は、真夏に一ヵ月もの間、腰の治療のために、わざわざ暑い九州へ行っていたようなものだ。
そして、あたりの光景は、伸び放題の草の上に、秋を思わせる花々が咲いていた。
毎年、鮮やかな緋色で華やかな秋の始まりを彩るあのオニユリは(’12.8.26の項参照)、しかし今年は花が少なく、それだけに元気なく見えた。
ただし、あの秋の定番でもある、アラゲハンゴンソウ(写真上)とオオハンゴンソウ(写真下)の大きな黄色い群れは、庭から林にかけての長い区切りになって見えていた。
北海道には、三つのハンゴンソウがある。
普通に反魂草(はんごんそう)と書く、昔から日本にあるハンゴンソウは、家から少し行った所のあちこちに咲いているが、そこまでわざわざ写真を撮りに行く元気はないので、今回はここにはあげないが、山の上でよく見るミヤマアキノキリンソウ(コガネギク)やキオンなどによく似ていて、一つ一つの花が小さく、葉の形が手のひらを広げたようで、そのことから死者の魂を呼び戻すとして、反魂草と名付けられたのだともいわれている。
他にも、中国は漢の武帝が、亡き妃を忍んでこの花を香としてたいたことから、魂を反(かえ)す草花、反魂草と名付けられたのだという説もあるとのことだが、とすれば、いつもは母とミャオのための供花(お供え花)にはしているのだが、たまにはその花を摘んで乾燥させてすりつぶし、その仏前に香としてたくのもいいのかもしれない。
ともかくこの三つのハンゴンソウは、北海道では普通によく見られる花であり、特にオオハンゴンソウは線路や道路沿いなどで大群落を作っていて、あのドラマ『北の国から』で、口べたな正吉が幼なじみでもある蛍(ほたる)に求婚しようと、言葉の代わりに、このどこにでもあるオオハンゴンソウを花束にして渡すというベタなシーンがあって、それでもバックに流れるあの加藤登紀子の『百万本のバラ』の歌声とともに、胸にせつなく思い出されるのだ。
とはいえ、現実的な話に戻れば、この北米原産のオオハンゴンソウは、前にも書いたことのあるセイタカアワダチソウなどとともに特定外来生物に指定されていて、在来種に大きな影響を与えるからと、駆除することが求められているのだ。
あの植生豊かな自然公園でもある函館山でも、このオオハンゴンソウが見つかり、先日200本余りを引き抜き処分したとのニュースが流れていた。
わが家でも、こうしてオオハンゴンソウと、さらに少しばかりのアラゲハンゴンソウが繁殖していて、観賞用にとそのままにしているのだが、幸いにもその勢力範囲は広がることもなく、現状維持の状態だ。
むしろ、問題なのは、前にも書いたことのあるセイタカアワダチソウの方であり、道周りや庭のものは見つけ次第引き抜いているのだが、それ以外の畑や林縁部などに押し寄せてきているものは、せいぜい刈り払うだけであり、毎年残った根からまた伸びて増えてくるという厄介な状態になっているのだ。
話は変わるけれども、今やグローバル化している世界では、異文化、異人種との混合融合した理想社会が求められているけれども、現実的には、その根底にはどうしても理解し合えない、文化的、宗教的、人種的な壁が立ちはだかっていて、いまだに絶えない地域紛争の火種になっているのだ。
同じように考えられなくもない、生物界、植物界における日本在来種と外来種との争いもまた、その行く末とともに考えさせられてしまう。
このまま放置しておいてもいいのか、あるいは断固遮断するべきなのか、それはできるのか・・・さらに、併せて、この夏の、本当の梅雨明けの日がなかったかのような空模様と、日本各地での異常気象や、過去にない被害を起こした短時間集中豪雨などへと思いは及んでしまう。
そうしたことについて、何もできない年寄りの私が心配したところで”せんなきこと”、あるいは若ぶって若者たちと行動を共にしたところで、”年寄りの冷や水”になるのがおちだ。
そういえば、最近ある特定難病救援に関しての、有名人による”バケツ氷水浴び”がブームになっているようだが、それでは、他にも幾つもある数々の難病に対しての援助はどうなっているのかと心配にもなる。
ともかく有名人でもない、年寄りの私には、要請が来るはずもなく、来たとしても”年寄りの冷や水”などとてもできないことだし、それよりも、私は、今の腰痛を治すことの方が先決問題なのだ。
先日、九州の家を出て、バス、飛行機と乗り継ぎ、さらに乗り換えて飛行機に、そして自分のクルマにと、座席に座っての合計5時間余りの旅、さらにロビーでの待ち時間も併せれば、都合8時間も椅子に座っていることになり(立っているより座っている方が腰に1.5倍の負担がかかるとのことで)、それが、ひどい腰痛からやっと回復しつつある私に耐えられるか心配だったのだが、何とか痛み出すこともなく、家に帰り着くことができたのだ。
それには、ある一つの出来事も、影響していると思うのだが。
東京は羽田空港のロビーで、乗り換え便を待っている時に、何と偶然にも、同じ便で帰るという北海道の友達一家に出会ったのだ。
久しぶりに会ったその親子4人の明るい笑顔に、歓談のひと時に、私は、腰のことなど忘れてしまっていたのだ。
”病は気から”というたとえがあるように、その逆に”病気が治るのも気分から”というたとえが成り立つのかもしれない。周りの明るい笑顔は何よりのありがたいお薬になるのだ。
まして、九州の家でひとり、鬱々(うつうつ)と腰の痛みに耐えていた私にとっては。
しかし、快方に向かっている腰ではあるが、無理はできない。
昨日までの二日間、早速草刈り鎌による手作業で、草を刈りを始めた。まずは砂利道の全部に生えている草を、腰に負担をかけないように、ひざをついて四つんばいになり、鎌を振り払っていく。
あいにく、その二日間とも気温は何と29度までも上がり、汗だくの状態で作業を続けたが、午前中2時間、夕方前に1時間(それで道の3分の2くらい)、と無理をしないようにした。
その後で、時間のかかる五右衛門風呂を沸かす元気はないから、お湯を沸かして体をふくだけだったが、それでも何といってもあの九州のじっとりとした湿気はないから、さっぱりとした気分になって、買ってきていた直径30㎝近くもある大きなスイカ(800円)を四つ割にして、その一つにかぶりついて、あとはAKBの録画でも見て、いい気分になって布団に横になり、ぐっすりと寝るのだ。
他に何の、楽しみが必要であろうか、”すべからく天下の楽しみは、働き食い寝ることにあり”とうそぶいては・・・脳天気なジジイは、カンラカラカラとひとり笑うのでした。
私を、心穏やかにしてくれるAKBについて、またしても若干の感想を。
九州の家で、録画していた歌番組をブルーレイにダビングして、ここで見たのだが、それは8月17日にフジテレビ系列で 放送された『FNSうたの夏まつり2014』であり、半日にわたる長時間番組で、もちろんはなから全部見るつもりもなく、ただAKBグループがいつ出るかわからないので、ともかく夕方から終わりまでの4時間くらいを録画して、あとで編集し部分消去して、わずか15分くらいにしたものを見ただけであり、とても番組全体の評価などできはしないのだが、去年もこの番組で、様々な歌手たちが一緒に(コラボして)歌う場面があり、そこでは昔のアイドルたちの、生マイクゆえの歌唱力のなさが露呈されていて、聞くに堪えないものがあったことを憶えている。
で今回はと言えば、最初から通して見る気はなくて、ただAKBグループが出ているところだけをいくつか見たことになるのだが、生演奏に合わせての生マイクの歌では、踊りながら歌うのは難しく、やはりAKB以外のSKE,NMB,HKTの時には、場数の経験や年齢ゆえの拙(つたな)さが見え隠れしていた。
ただ、その短い編集番組の中で私が感心したのは、卒業した大島優子に代わって、あの『ヘビーローテーション』でセンターをつとめた川栄”りっちゃん”の生き生きとした踊りと歌である。
まったく見事に、さまになっていた。この曲のセンターは、”渡辺まゆゆ”にも”指原さっしー”にもあまり合っているとは言えないし、それだからと、今の選抜メンバーの中では最下位でしかない川栄だが、あの悲惨な事件を乗り越えて戻ってきた彼女を選び、センターに抜擢(ばってき)した周りのスタッフの慧眼(けいがん)にはさすがだと感心する。
もう一つは、他の歌手とのいわゆるコラボによるもので、彼女たちが生まれる前の昔の歌であるが、今でも古さを感じさせない『ダンシング・ヒーロー』について。
久しぶりに見た荻野目(おぎのめ)洋子・・・彼女たちの母親の年代である40代半ばになるというのに、昔と変わらぬ若々しい姿で、私は思わず涙ぐみそうになった。
それは、彼女が、私の一番最初の彼女とよく似ていて、当時から気になっていたこともあり、ましてノリのいいこの曲は、当時から彼女の歌う姿と声質にぴったりと合っていたからでもある。
若い私は、何と自分勝手な男だったことだろう。彼女を、不幸にしてしまったのだ。
彼女の泣いてやつれた姿を見て、さすがの私も良心がとがめたのだが・・・後年、東京でのすべてを捨て、北海道でひとり家を建てていた私の心に、何かにつけ思い出されたのは、あの時の、私にだけ向けられていた一途な彼女の思いだった・・・すべては、遅すぎたし、思えばすべては、情けない私の仕打ちによるものだったのだ。
それはともかく、荻野目洋子とAKBの高橋みなみ”たかみな”にHKTの”さっしー” の三人がそれぞれに黒、赤、白の革ジャンを着て一列目で歌い踊り、バック・コーラスとバック・ダンサーには、黒い革ジャンでそろえたSKEの主力メンバーたち。(写真、YouTube参照)
曲調はもとより、すべてのメンバーたちの歌と踊りが見事に合っていて、もっと見たいもっと聞き続けていたいとさえ思ったほどだった。
その中で、他のみんながブーツなどで踊っていたのに、”さっしー”ひとりだけ、赤いハイヒールで踊っていた。
それは踊り慣れているアメリカのミュージカル・ダンサーなどと比べれば、少しぎこちなさも見られたが、何とかみんなに合わせて見事に踊りきったのだ。
ロックに赤いヒール、それはあの日本ロック界の大御所、内田裕也と一緒に歌った新しい曲『シェイキナベイビー』 から続く、彼女のロックミュージックに対する思いだったのかもしれない。
この時の組み合わせで、あのアン・ルイスの名曲『六本木心中』(湯川れい子の詩)を聞いてみたいと思うのは、私だけだろうか。
ともかく、この曲はAKBの可能性を知らされた一シーンだった。
他にも、NHK・BSの『AKB48SHOW』で度々やっているショートコントや小芝居の数々は、なかでも横山と川栄の組み合わせなど、下手なお笑い芸人よりも、はるかに確かなものを持っているようにも思えるほどだ。
とすると、AKBグループの将来は、新しい形の短いミュージカルや、コミカル・コント・ショーなどへと幅を広げることもできるのではとも思うが。
ただこのところ、AKBのことをネットで調べていて気になるのは、自分の気に入った”おしメン”(推しメンバー)以外の子たちを、悪しざまにののしっている心ないファンが目につくことである。
彼らは、結局、AKBが好きなのではなく、その中のアイドルである一人の子だけが一途に好きなだけであり、もちろんそれはそれでいいのだが、かと言って・・・。
私は、今年のAKB総選挙時の放送を録画していて、繰り返し見ているのだが、彼女たち一人一人が、それぞれに順位ごとに名前を呼ばれてマイクの前に立ち、涙ながらに精いっぱいのコメントをするのを聞いていて、その度ごとに胸打たれる思いになるのだ。(おじさんは若い娘たちの涙には弱いのだ。)
そんな娘たちは、あこがれのAKBに入ることができて、今はAKBのメンバーであることに感謝し誇りを持っていて、その中で若い日の自分のすべてをかけて一生懸命やっているのに・・・そんな彼女たち一人一人を、誰が悪く言うことなどできるだろうか。
今は、AKBの運営母体に不安はあるにせよ、少数の不動のメンバーからなる他のアイドル・グループと違い、AKBグループという枠の中で、団結と競争が求められ常に次世代が噂される流動性こそ、それは、あの宝塚とは比較にならぬゆるさと甘さがあるにせよ、そこには常に変わり行くこのグループの将来への道筋が感じられるのだ。
また別の機会に、今一度なぜにAKBの歌に心ひかれるようになったかを、自分なりに考えてみたいと思う。一つには、歌の中にある、きらりと光る詩の一節にあるのだろうが・・・。