ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

反魂草とAKB

2014-08-25 22:35:12 | Weblog



8月25日

 数日前に、北海道に戻ってきた。
 気温22度。確かにここには、北海道のあのさわやかな空気がある。
 一ヵ月前と比べれば、周りの畑の色合いが、少し変わっていた。
 黄金色になりつつあった小麦畑は、もうとっくに刈り取られていて、切り株が残るか、すぐに耕やされて新たに別の種がまかれ、若い緑の芽が育ってきていた。
 さらには、もうジャガイモの収穫が始まっている所もあった。

 戻ってきた家の周囲は、さもありなん。繁る草の波に囲まれていた。
 真夏の時期に、長い間手入れもせずに放っておけば家の周りはどうなるのかという、良い見本のようなものである。
 思えば私は、真夏に一ヵ月もの間、腰の治療のために、わざわざ暑い九州へ行っていたようなものだ。

 そして、あたりの光景は、伸び放題の草の上に、秋を思わせる花々が咲いていた。
 毎年、鮮やかな緋色で華やかな秋の始まりを彩るあのオニユリは(’12.8.26の項参照)、しかし今年は花が少なく、それだけに元気なく見えた。
 ただし、あの秋の定番でもある、アラゲハンゴンソウ(写真上)とオオハンゴンソウ(写真下)の大きな黄色い群れは、庭から林にかけての長い区切りになって見えていた。

 

 北海道には、三つのハンゴンソウがある。
 普通に反魂草(はんごんそう)と書く、昔から日本にあるハンゴンソウは、家から少し行った所のあちこちに咲いているが、そこまでわざわざ写真を撮りに行く元気はないので、今回はここにはあげないが、山の上でよく見るミヤマアキノキリンソウ(コガネギク)やキオンなどによく似ていて、一つ一つの花が小さく、葉の形が手のひらを広げたようで、そのことから死者の魂を呼び戻すとして、反魂草と名付けられたのだともいわれている。
 他にも、中国は漢の武帝が、亡き妃を忍んでこの花を香としてたいたことから、魂を反(かえ)す草花、反魂草と名付けられたのだという説もあるとのことだが、とすれば、いつもは母とミャオのための供花(お供え花)にはしているのだが、たまにはその花を摘んで乾燥させてすりつぶし、その仏前に香としてたくのもいいのかもしれない。 

 ともかくこの三つのハンゴンソウは、北海道では普通によく見られる花であり、特にオオハンゴンソウは線路や道路沿いなどで大群落を作っていて、あのドラマ『北の国から』で、口べたな正吉が幼なじみでもある蛍(ほたる)に求婚しようと、言葉の代わりに、このどこにでもあるオオハンゴンソウを花束にして渡すというベタなシーンがあって、それでもバックに流れるあの加藤登紀子の『百万本のバラ』の歌声とともに、胸にせつなく思い出されるのだ。

 とはいえ、現実的な話に戻れば、この北米原産のオオハンゴンソウは、前にも書いたことのあるセイタカアワダチソウなどとともに特定外来生物に指定されていて、在来種に大きな影響を与えるからと、駆除することが求められているのだ。
 あの植生豊かな自然公園でもある函館山でも、このオオハンゴンソウが見つかり、先日200本余りを引き抜き処分したとのニュースが流れていた。
 
 わが家でも、こうしてオオハンゴンソウと、さらに少しばかりのアラゲハンゴンソウが繁殖していて、観賞用にとそのままにしているのだが、幸いにもその勢力範囲は広がることもなく、現状維持の状態だ。 
 むしろ、問題なのは、前にも書いたことのあるセイタカアワダチソウの方であり、道周りや庭のものは見つけ次第引き抜いているのだが、それ以外の畑や林縁部などに押し寄せてきているものは、せいぜい刈り払うだけであり、毎年残った根からまた伸びて増えてくるという厄介な状態になっているのだ。

 話は変わるけれども、今やグローバル化している世界では、異文化、異人種との混合融合した理想社会が求められているけれども、現実的には、その根底にはどうしても理解し合えない、文化的、宗教的、人種的な壁が立ちはだかっていて、いまだに絶えない地域紛争の火種になっているのだ。

 同じように考えられなくもない、生物界、植物界における日本在来種と外来種との争いもまた、その行く末とともに考えさせられてしまう。
 このまま放置しておいてもいいのか、あるいは断固遮断するべきなのか、それはできるのか・・・さらに、併せて、この夏の、本当の梅雨明けの日がなかったかのような空模様と、日本各地での異常気象や、過去にない被害を起こした短時間集中豪雨などへと思いは及んでしまう。

 そうしたことについて、何もできない年寄りの私が心配したところで”せんなきこと”、あるいは若ぶって若者たちと行動を共にしたところで、”年寄りの冷や水”になるのがおちだ。
 そういえば、最近ある特定難病救援に関しての、有名人による”バケツ氷水浴び”がブームになっているようだが、それでは、他にも幾つもある数々の難病に対しての援助はどうなっているのかと心配にもなる。
 ともかく有名人でもない、年寄りの私には、要請が来るはずもなく、来たとしても”年寄りの冷や水”などとてもできないことだし、それよりも、私は、今の腰痛を治すことの方が先決問題なのだ。
 
 先日、九州の家を出て、バス、飛行機と乗り継ぎ、さらに乗り換えて飛行機に、そして自分のクルマにと、座席に座っての合計5時間余りの旅、さらにロビーでの待ち時間も併せれば、都合8時間も椅子に座っていることになり(立っているより座っている方が腰に1.5倍の負担がかかるとのことで)、それが、ひどい腰痛からやっと回復しつつある私に耐えられるか心配だったのだが、何とか痛み出すこともなく、家に帰り着くことができたのだ。
 それには、ある一つの出来事も、影響していると思うのだが。

 東京は羽田空港のロビーで、乗り換え便を待っている時に、何と偶然にも、同じ便で帰るという北海道の友達一家に出会ったのだ。
 久しぶりに会ったその親子4人の明るい笑顔に、歓談のひと時に、私は、腰のことなど忘れてしまっていたのだ。
 ”病は気から”というたとえがあるように、その逆に”病気が治るのも気分から”というたとえが成り立つのかもしれない。周りの明るい笑顔は何よりのありがたいお薬になるのだ。

 まして、九州の家でひとり、鬱々(うつうつ)と腰の痛みに耐えていた私にとっては。
 
 しかし、快方に向かっている腰ではあるが、無理はできない。
 昨日までの二日間、早速草刈り鎌による手作業で、草を刈りを始めた。まずは砂利道の全部に生えている草を、腰に負担をかけないように、ひざをついて四つんばいになり、鎌を振り払っていく。
 あいにく、その二日間とも気温は何と29度までも上がり、汗だくの状態で作業を続けたが、午前中2時間、夕方前に1時間(それで道の3分の2くらい)、と無理をしないようにした。

 その後で、時間のかかる五右衛門風呂を沸かす元気はないから、お湯を沸かして体をふくだけだったが、それでも何といってもあの九州のじっとりとした湿気はないから、さっぱりとした気分になって、買ってきていた直径30㎝近くもある大きなスイカ(800円)を四つ割にして、その一つにかぶりついて、あとはAKBの録画でも見て、いい気分になって布団に横になり、ぐっすりと寝るのだ。
 他に何の、楽しみが必要であろうか、”すべからく天下の楽しみは、働き食い寝ることにあり”とうそぶいては・・・脳天気なジジイは、カンラカラカラとひとり笑うのでした。

 私を、心穏やかにしてくれるAKBについて、またしても若干の感想を。
 九州の家で、録画していた歌番組をブルーレイにダビングして、ここで見たのだが、それは8月17日にフジテレビ系列で 放送された『FNSうたの夏まつり2014』であり、半日にわたる長時間番組で、もちろんはなから全部見るつもりもなく、ただAKBグループがいつ出るかわからないので、ともかく夕方から終わりまでの4時間くらいを録画して、あとで編集し部分消去して、わずか15分くらいにしたものを見ただけであり、とても番組全体の評価などできはしないのだが、去年もこの番組で、様々な歌手たちが一緒に(コラボして)歌う場面があり、そこでは昔のアイドルたちの、生マイクゆえの歌唱力のなさが露呈されていて、聞くに堪えないものがあったことを憶えている。
 
 で今回はと言えば、最初から通して見る気はなくて、ただAKBグループが出ているところだけをいくつか見たことになるのだが、生演奏に合わせての生マイクの歌では、踊りながら歌うのは難しく、やはりAKB以外のSKE,NMB,HKTの時には、場数の経験や年齢ゆえの拙(つたな)さが見え隠れしていた。
 ただ、その短い編集番組の中で私が感心したのは、卒業した大島優子に代わって、あの『ヘビーローテーション』でセンターをつとめた川栄”りっちゃん”の生き生きとした踊りと歌である。
 まったく見事に、さまになっていた。この曲のセンターは、”渡辺まゆゆ”にも”指原さっしー”にもあまり合っているとは言えないし、それだからと、今の選抜メンバーの中では最下位でしかない川栄だが、あの悲惨な事件を乗り越えて戻ってきた彼女を選び、センターに抜擢(ばってき)した周りのスタッフの慧眼(けいがん)にはさすがだと感心する。

 もう一つは、他の歌手とのいわゆるコラボによるもので、彼女たちが生まれる前の昔の歌であるが、今でも古さを感じさせない『ダンシング・ヒーロー』について。
 久しぶりに見た荻野目(おぎのめ)洋子・・・彼女たちの母親の年代である40代半ばになるというのに、昔と変わらぬ若々しい姿で、私は思わず涙ぐみそうになった。
 それは、彼女が、私の一番最初の彼女とよく似ていて、当時から気になっていたこともあり、ましてノリのいいこの曲は、当時から彼女の歌う姿と声質にぴったりと合っていたからでもある。

 若い私は、何と自分勝手な男だったことだろう。彼女を、不幸にしてしまったのだ。
 彼女の泣いてやつれた姿を見て、さすがの私も良心がとがめたのだが・・・後年、東京でのすべてを捨て、北海道でひとり家を建てていた私の心に、何かにつけ思い出されたのは、あの時の、私にだけ向けられていた一途な彼女の思いだった・・・すべては、遅すぎたし、思えばすべては、情けない私の仕打ちによるものだったのだ。
 
 それはともかく、荻野目洋子とAKBの高橋みなみ”たかみな”にHKTの”さっしー” の三人がそれぞれに黒、赤、白の革ジャンを着て一列目で歌い踊り、バック・コーラスとバック・ダンサーには、黒い革ジャンでそろえたSKEの主力メンバーたち。(写真、YouTube参照)

 

 曲調はもとより、すべてのメンバーたちの歌と踊りが見事に合っていて、もっと見たいもっと聞き続けていたいとさえ思ったほどだった。
 その中で、他のみんながブーツなどで踊っていたのに、”さっしー”ひとりだけ、赤いハイヒールで踊っていた。
 それは踊り慣れているアメリカのミュージカル・ダンサーなどと比べれば、少しぎこちなさも見られたが、何とかみんなに合わせて見事に踊りきったのだ。
 ロックに赤いヒール、それはあの日本ロック界の大御所、内田裕也と一緒に歌った新しい曲『シェイキナベイビー』 から続く、彼女のロックミュージックに対する思いだったのかもしれない。

 この時の組み合わせで、あのアン・ルイスの名曲『六本木心中』(湯川れい子の詩)を聞いてみたいと思うのは、私だけだろうか。
 
 ともかく、この曲はAKBの可能性を知らされた一シーンだった。
 他にも、NHK・BSの『AKB48SHOW』で度々やっているショートコントや小芝居の数々は、なかでも横山と川栄の組み合わせなど、下手なお笑い芸人よりも、はるかに確かなものを持っているようにも思えるほどだ。
 とすると、AKBグループの将来は、新しい形の短いミュージカルや、コミカル・コント・ショーなどへと幅を広げることもできるのではとも思うが。

 ただこのところ、AKBのことをネットで調べていて気になるのは、自分の気に入った”おしメン”(推しメンバー)以外の子たちを、悪しざまにののしっている心ないファンが目につくことである。
 彼らは、結局、AKBが好きなのではなく、その中のアイドルである一人の子だけが一途に好きなだけであり、もちろんそれはそれでいいのだが、かと言って・・・。
 私は、今年のAKB総選挙時の放送を録画していて、繰り返し見ているのだが、彼女たち一人一人が、それぞれに順位ごとに名前を呼ばれてマイクの前に立ち、涙ながらに精いっぱいのコメントをするのを聞いていて、その度ごとに胸打たれる思いになるのだ。(おじさんは若い娘たちの涙には弱いのだ。)

 そんな娘たちは、あこがれのAKBに入ることができて、今はAKBのメンバーであることに感謝し誇りを持っていて、その中で若い日の自分のすべてをかけて一生懸命やっているのに・・・そんな彼女たち一人一人を、誰が悪く言うことなどできるだろうか。

 今は、AKBの運営母体に不安はあるにせよ、少数の不動のメンバーからなる他のアイドル・グループと違い、AKBグループという枠の中で、団結と競争が求められ常に次世代が噂される流動性こそ、それは、あの宝塚とは比較にならぬゆるさと甘さがあるにせよ、そこには常に変わり行くこのグループの将来への道筋が感じられるのだ。 

 また別の機会に、今一度なぜにAKBの歌に心ひかれるようになったかを、自分なりに考えてみたいと思う。一つには、歌の中にある、きらりと光る詩の一節にあるのだろうが・・・。
   


もう一つの黒部五郎岳

2014-08-18 21:40:07 | Weblog

 



 8月18日


 家の近くの道の傍に、薄桃色のムクゲの花が咲いていた。
 もともとムクゲは家の庭にもあったのだが、それを切ってクチナシに植え替えたことは前々回にも書いた通りだが、やはりこうして一日花であるムクゲのすがすがしい色合いを見ていると、夏のまだ涼しい朝方の空気までも伝えてくれるかのようだ。
 家にあったのは、清純な白いムクゲだったから、花が落ちた後の姿が余計に痛々しく思えたのだが、こうして色がついた花を見ていると、白い花の落下ほどには目立たないものだと思った。
 
 さらにどこだったか、しばらく前に赤い八重の花ビラのムクゲを見たことがあったが、それはたぶん園芸品種として作られたものだろうが、とても同じムクゲとは思えないような豪奢(ごうしゃ)な姿だった。
 たとえて言えば、今人気の朝ドラ『花子とアン』のあの”白蓮”(蓮子様)と花(花子)の違いのように。

 さて、まるで古い映画の一シーンのように、日めくりカレンダーの日にちが次々とめくられていき、思えば九州のこの家に戻ってきて、はや一か月が過ぎてしまったのだ。
 私はどこから来て、今どこにいるのだろう。

 一週間か十日くらい滞在して、用事をすませて、恒例の遠征登山に出かけるつもりだったのに、私は腰痛に倒れて、ひとり病床の日々を過ごすことになったのだ。 
 しかし、それを以て私の残り少ない人生の日々を無駄に過ごしたとは思わない。 

 前回も書いたように、その代わりに、得たものもあったからだが、もし計画通りに山に行っていれば、それとは比べ物にならない感動を得ただろうにとも思わない。こうすればこうなったはずだなどと言うのは、あくまでもその時の憶測でしかない。過ぎ去った時に、推測の情景を写して嘆くことなど無駄なことだ。
 それならば、むしろ確かな情景として残る過去を思い返した方がいい。今から十数年以上も前のこと、すでに中年のただ中にあった私は、それでも体力的には絶頂の時を迎えていて、年間30日以上もの山での日々を過ごしていた。
 7月中下旬、梅雨明けの北アルプスを狙って、南北に数本は数えられる縦走ルートの一つをたどることにした。
 それは、北アルプスの西側に位置する山々をたどる縦走路、立山から笠ヶ岳に至るルートである。小屋泊まりとはいえ、朝早く出ていつも昼過ぎの1時ころには小屋に着くというペースで私は余裕をもって三泊四日でそのコースを踏破した。
 まあ、元気な人なら誰でもそのぐらいのペースでは歩けるのだが、体力の弱った今の自分ならば、少なくとももう一二泊は余分にみなければならないだろう。
 天気は、最初の日の立山ー五色ヶ原間は少し雲が多かったものの(山は全部見えていた)、次の日の五色ヶ原ー太郎兵衛平、三日目の双六小屋、最後の日の笠ヶ岳経由新穂高までと、すべて快晴の朝を迎えて歩き始め、雲が大きく広がる前に目的地に着くことができたのだ。

 笠ヶ岳をのぞけば、いずれも初めての山々ではなかったのだが、それでも五色ヶ原から次第に近づいて行く薬師岳(2926m)の壮大な姿に・・・(この時のフィルムに誤って光が入ってしまい、その多くのシーンが失われてしまったのがかえすがえすも残念ではあったのだが)、さらに言うまでもない黒部五郎岳(2840m)のカール周辺と、最後の日の抜戸岳(ぬけどだけ、2813m)から少しずつ大きく見えてくる笠ヶ岳(2897m)の雄姿に・・・さらに最後のフィナーレを飾った花々咲き乱れる杓子平(しゃくしだいら)の素晴らしさ・・・。 あの同じコースを、あれほど天気のいい日に、縦走できることはもうないのかもしれないと思うと、過去のその思い出がまた光り輝いて見えるのだ。

 年寄りのいつもの口ぐせ、”昔は良かった”というセリフは、昔という時代を懐かしむのではなく、こういう時の思い出のために使いたいものだ。若い人よりは、年を取っている分、それだけの歳月の思い出が詰まった引き出しを、幾つも持っているということだ。
 そこには、無駄だとしか思えないような思い出もあるのだろうが、それらのすべてが、結局は今ある自分のためになったのだから・・・。

 さて、この時のコースは初日こそ距離が短かったものの、続く三日はいずれもコースタイムが11時間余りもあったのだが、大体8時間位で歩き終え、小屋でゆっくりと休むことができたのだ。
 それだけ早く歩いたということは、計画通りに歩こうと思って、途中の花々などをゆっくりと眺めもせずに速足で通り過ぎ、ただ景色を記録写真として撮っていただけで、今にして思えば、あれほどの天気の中もったいない事をしたものだと思う。
 今の私ならば足が衰えた分、きれいなものへの執着があるから、山々の姿をじっくりと眺め、写真に収めていくのと同じように、花々の傍で足を止めこれまた写真に撮って行くことだろう。

 さて立山から笠ヶ岳へと向かう
山旅は、三日目になっていて、私の脚は快調であり、さわやかな朝の陽ざしの中、上ノ岳を越えてついに黒部五郎の山頂にたどり着き、北アルプスの他の山々の眺めを楽しみ、カールへと下りて行った。

 時期的にも7月中下旬だったから、カール壁の残雪量もまだ豊かに残っていて、アルペン的な景観を見せていた。(写真下、カラープリントからの複写。カメラはニコンFM2、以下同じ)
 ただし、
去年の黒部五郎岳と比べればだが(’13.8.23の項参照)、あの壮大に広がっていたコバイケイソウの花はまだ少なく、黄色のミヤマキンポウゲやシナノキンバンの花の方が目立っていた。



 そして、去年も同じ所で休んだのだが、あのカール壁下の雪渓が溶けて水場になった所ほど、厳粛(げんしゅく)な山の静謐(せいひつ)なたたずまいを感じさせる所はないと思う。
 私が、去年裏銀座のコースをたどって行き、最後の槍ヶ岳への道を選ばなかったのは、もうすでに何度もその頂きに立っている槍ヶ岳よりは、十数年前のあの厳粛な聖堂の姿をもう一度見たかったからでもある。
 それはさらに、白いコバイケイソウの大群落という、思っても見ない一大景観という自然界からの贈り物が添えられていて・・・。

 さらに、この時の黒部五郎の思い出として付け加えたいものは、他にもう二つもある。
 小川の流れるカールの中をゆるやかに下って、黒部五郎小屋に着き、そこから北に細い道をたどると、まるで絵葉書写真かと思うような見事な
池塘(ちとう)群があるのだ。それも黒部五郎岳のカールを背景にして。(写真下、カラープリントからの複写)

 ところが去年の山行では、その時にも書いた通りに、立ち入り禁止になっていたのだ。
 あれほどの光景を、おそらく北アルプスでも五本の指に入るような絶景の地を、おそらくは高山植物保護のためだろうが、何とかロープを張ってでも公開してほしいものだ。
 去年、黒部五郎の小屋に着き、期待に胸をふくらませてさて歩き出そうとして、その立札を見てぼうぜんと立ち尽くしてしまった。
 黒部五郎岳に登る目的は、あのカール壁と
この池塘の風景をデジタル写真で撮りなおすことにあったのに、その目的の一つがあえなく崩れ去ったからだ。
 もっとも、そのことで尾根コースを選ぶ気になったし、なによりあのコバイケイソウの一大群落が、その失望感をすべて帳消しにしてくれたのだが。
 
つくづく、人生、いいことも悪いことも何があるかわからないと思った。
 
 そしてこの十数年前の、黒部五郎岳の思い出は、もう一つある。
 小屋から、すぐに三俣蓮華岳へと向かう急な樹林灌木帯の登りが始まり、しばらくすると展望が開けてきて、振り返った目の前に、今しがたたどって来たばかりの黒部五郎岳が、あちこちに豊かな残雪のカールを広げて、ひとり青空を背景にそびえ立っていたのである。(写真下、カラープリントからの複写写真)

  

 私はこの姿を見ただけでも、黒部五郎を北アルプスの山々の”ベスト5”の一つにいれたいくらいなのだ。
 去年も、この山の姿をデジタル写真に撮りなおすことを、目的の一つにしていたのだが、行きも帰りも少し雲がかかっていて、前回のような完璧な姿を望むことはできなかった。
 それは確かに、残念なことではあったが、何度も引き合いに出すことになるが、あのコバイケイソウの群落ですべての埋め合わせはついたと思っている。 
 つまり、十数年前と、去年の思い出を合わせて、合わせ技の一本になり、だから私はもう夏の黒部五郎岳には登らなくてもいいと思っているのだ。
 もっとも、まだ知らない秋の季節や残雪期の姿は、一度見てみたい気もするが・・・。

 こうして私は、この夏、北アルプスに行けなかったので、自分の山の思い出の引出しの中から、一つを取り出しては、ひとりねちねちと楽しんでみたのだ。
 腰痛で寝ている間にも、最近の山ブームのおかげか、幾つもの登山案内番組があり(NHK、民放のいずれもBS放送)、楽しく拝見させてもらったが、見ていればまた行きたくなるし、これ以上腰が悪くなり山に登れなくなった時には、こうした録画番組を見ればいいと、今や私の録画コレクションは膨大なものになりつつあるのだ。墓場まで持ってはいけないぞと、誰かの声がするが。 
 他にも、横になっていて、幾つもの興味ある番組を見た。
 
 8月3日(以下も同日)、NHK『東日本大震災 証言記録』。ずっと続いているシリーズだが、NHKだからできるドキュメンタリーだと思う。数多くの死者を出し大きな被害を受けた小さな町の歯科医師の証言。遺体の損傷が激しく、歯列の照合でしか遺体の身元確認ができない中、何百もの遺体と対面していくことになるのだ・・・。

 NHK『ダーウィンが来た』 。アフリカはボツワナのオカバンゴ湿原、そこに群れから離れて、一匹だけで暮らしているメスのリカオンがいた。犬の仲間であるリカオンはいつもは十数匹の群れで行動するのだが、その一匹だけは、おそらく他の仲間が襲われていなくなり自分だけ生き残ったらしく、研究取材者たちから”ソロ”と呼ばれていた。
 ある時ソロは子供たち数匹を連れた同じ犬の仲間のジャッカル夫婦を見つけて、自分の方が体の大きいソロはその親たちを威嚇(いかく)して追い払い、自分が親になって巣穴の子供たちにエサを運んでいた。

 しかしその後、体の大きなハイエナがやって来て子供たちを狙っていたが、その時、まだ周りにいた本来の親の2匹と一緒になって、ハイエナと闘い追い払ったのだ。それからは親たちとソロは一緒になって暮らし、3匹が連携しての狩りにも成功して、異種間のリカオンとジャッカルなのに、すっかり一つの群れになっていた。
 しばらくして、近くを、仲間のリカオンの群れが通ったのだが、ソロは姿を隠して彼らが去って行くのを待ち、再びジャッカル夫婦と子供たちの群れのもとに戻ったのだ。 
 南アフリカ放送局の制作であり、全く見事な動物ドキュメンタリーだった。

 NHK『知床ヒグマ 運命の旅』 、知床の宇登呂側の海岸は、秋に川をさかのぼるサケやマスを狙ってヒグマが集まることで有名だが、この番組では、そんなヒグマ親子を4年にわたって追い続け記録していて、これまた日本の優れた動物ドキュメンタリーだった。
 まだ一歳の子グマ兄弟を連れた母グマとの出会いに始まって、やがて母グマの態度が一変した子離れの時以降、兄弟グマはそれぞれひとりで生きていくことになり、4年後、彼らはそれぞれに別な場所で、哀れな姿となって見つかるのだ・・・。
 私も北海道に住み、ヒグマの怖さが分かっているだけに、人間側による駆除の方針も理解できるのだが、それではヒグマも哀れだし・・・何とかそこでクマをはじめとした動植物だけのだけが暮らす、人間が立ち入れない本当の自然保護区を作れないものだろうか・・・。

 8月10日、NHK『十勝が教えてくれた3つのこと』。高校卒業旅行の中に、北海道での農業体験が組み入れてあり、それに参加した高校生たちの作業体験の記録である。
 それは、
畑作農家や酪農家へのわずか1泊2日の実習体験ではあるけれど、生徒たちは確実に何事かを学んで帰っていくのだ。涙を流して互いに別れを告げる、生徒たちと受け入れ農家の家族たち。
 次世代を担う子供たちへの期待は、
学校側と地元受け入れ農家側との連携があってからこそのこと。
 何はともあれ、若いうちに、自分のいる環境とは違う所ににある職業や、仕事の成り立ちを知ることはいいことだ。
  

 そして他には、AKBの出ている番組を見たのは当然のことだが、さらには、あの『笑っていいとも!』が終わって、代わりに見る番組がないと思っていたら、民放TBS系の『ひるおび!』でのお天気コーナーで、森気象予報士の天気についての解説等が興味深く、司会者恵(めぐみ)とのユーモラスな掛け合いもあって、なかなか見せるコーナーではある。
 その後の時間で、
時々『花子とアン』を見ることもあるのだが、それは、始まったばかりのころ、あの『赤毛のアン』訳者村岡花子と情熱の歌人、柳沢白蓮が同級生だと知って驚き、それから時々見るようになったのだが。

 私は、原則ドラマは見ないけれども、いまはさらにもう一本、あの山岳作家とも言われる新田次郎原作のNHKの『芙蓉の人』だけは、どうしても見てしまうのだ。

 このお盆休みでの、北アルプスの遭難事故はあまりにも痛ましい。会社勤めでもなく、
自由に時間を使える私が言えた立場ではないが、天気の悪い日には山に登らないようにすれば・・・と思ってしまうのだ。

 人のことよりは自分のことだが、腰痛は大分よくなったものの、まだ完全ではない。むしろ内科で調べてもらうべきなのだろうが、それにしても長期療養になればと考えると・・・ともかく一度北海道に帰って、いろいろと整理しておかなければならないし。 


病床で考えたこと

2014-08-11 21:17:48 | Weblog



 8月11日

 台風は過ぎ去った。
 今日は、台風一過とは言えない曇り空だったが(午後から日も差してきたが)、ありがたいことに、気温25度にもならないような、涼しい日々の名残りがまだ続いていて、朝のうちは、長そでシャツを着て靴下をはきたいほどだった。

 というのも、九州では台風が東寄りにそれたおかげで、北寄りの風が吹き、冷たい空気が流れ込んできていたからだろう。
 台風が来る前までは、30度前後の蒸し暑い日が続き、とてもクーラーなしでは眠れないほどだったのに。
 台風による強風や河川の氾濫などで、大きな被害を受けた各地の皆様には申し訳ないが、ここでも確かに雨風が強かったものの、何の被害もなく、むしろ台風によって呼びこまれた涼しさがありがたいくらいだったのだ。

 いつも思うことだが、物事は自分の身に起きて初めて、事の大きさに気づくものなのだ。
 もちろん、そうした災害下の人々の境遇を哀れに思い、同じ地域の人間ならば手助けに駆けつけることもあるのだろうが、遠く離れた所にいる私たちにとって、実際に自分の身にふりかかったものではないから、彼らの日々の不便さやこれからの不安にまで深く思いやることはないのが、本当のところだ。
 いつもこのブログで書いているように、ライオンに襲われた一頭のヌーを仲間のヌーたちが遠巻きにして見ているようなものだ。あー自分でなくてよかったと。
 それは冷酷なようにも思えるが、それでも生き残った自分たちには、これからも生きていく日常があるからだ。
 それを、身勝手だとは言えない。話を広げれば、生きとし生きるものはすべて、ひとりで生まれてきて、周りに家族がいるにせよ仲間がいるにせよ、結局はひとりで生きていき、ひとりで死んでゆく他はないのだから。

 前回、九州でのことを書いてから、もう2週間が過ぎてしまった。
 腰痛がひどくなり、私はただ寝ている他はなかったのだ。
 トイレに行く時と、簡単な三度の食事の用意をする時だけは、仕方なく起き上がって、そろりそろりとトイレや台所の所まで歩いて行く。
 それ以外は、一日中、じっと寝ているしかなかった。寝ていても寝返りを打つ時には痛いし、ただ昼間から本を読み、時々テレビを見ては、一日を過ごした。

 思い返せば、最後の日の母は、顔にあぶら汗を浮かべそれでも声を上げずに痛みをこらえていて、私は救急車が来るまでの間ただあたふたとして、体をさすってやることしかできなかった。
 ミャオは、
よろよろとふらつく足で何度も立ち止りながら、雨の降る中、外に出て行こうとした。それは決して死に行くためではなく、ひとりで病をいやしに行くために、生きるための本能がさせたことだ。(2年3か月前のことだが、いまだにとても冷静にその時のブログ記事を読み返す気にはならない。)
 私にも、いずれそうした日が来るのだろうが、二人のようにしっかりと、その時を受け入れることができるのだろうか。

 そういったことを、じっと寝ている間に考えていた。
 そして思ったのは、今のこの状況はそれほど深刻でもないし、ましてあの北海道の家をひとりで建てていた時に、初めて襲ってきた突然の腰の痛みよりは、
まだましな方だということだ
 あの時は、数日間立ち上がることもできずに、四つんばいになって、のろのろと家の中を這いずりまわっていたくらいだから。 

 同じように、今回も一週間ほど寝ていて、あの神経をつるりと撫でているような、いわゆる”ぎっくり腰”の症状は何とか治まり、こうしてパソコンの椅子に座ることもできるようになったのだが、もう一つある腰の重たい痛みと少しひねっただけで走る鋭い痛みはまだ残っており、とても完治したとは言えない状態にある。(坐骨すべり症もあるのだろうか。)

 どのみち、台風が来ているし、さらにはお盆休みの帰省ラッシュで、とても飛行機には乗れないだろうからと、私は覚悟を決めて、しばらくこの家でこのまま療養することにした。
 当初の計画では、一週間ほどでここでの用事をすませて、すぐにでも北アルプスか東北の山旅に行くつもりだったのに、それがなすこともなく一か月も過ごすことになるとは。
 しかし、悪いことばかりではないはずだと、脳天気な私は考える。
 こうして夏の盛りに、この九州の家にいたことでわかったこと、見えてきたものもあったのだからだ。

 まずは、もし北海道の家にいる時に腰を痛めていたら、トイレは外で、風呂なし、洗濯できずという境遇がどれほどつらかったことかと思う。 (食べ物はいつも2、3週間分くらいの蓄えはあるし、米さえあれば何とか食べていけるものだ。)
 次に、庭に植えていたトマトの苗が大きく育って実がついていて、合わせて十数個は収穫することができた。(一週間でこの家を後にしていれば、三つくらい食べただけだろう。)
 そして、これは前回にも書いたことだが、あのかぐわしいクチナシの花がいっぱいに咲いた盛りの時に、ここにいられたこと。
 さらに、これも書いたことだが、ヤマモモの実がいっぱいになっている時
(写真上)、めぐり合わせて取ることができ、何とか大ビン一個ほどのジャムを作れたことだ。
 (もっともこのジャムづくりは、まだ腰が痛い時だったから、手早く仕上げようとして、固めるもとになる酸味を入れ忘れて、濃いジュースにしかならず、三日ほどおいて腰がだいぶ良くなってから、またやり直して、酸味の代わりに例のウメジュースを少し加えて、やっとジャムに作り直したのだ。やれやれ。) 

 もちろん、山に行っていればそれが一番良かったのだが、そういいことばかりが続くものではないのだ。
 去年の北アルプスは、黒部五郎岳での光景が、余りにも鮮烈に残っているから・・・青空、残雪、清らかに流れる小川、斜面を埋め尽くす白いコバイケイソウの群落、私ひとりがいるだけで・・・今思い返しても、涙ぐみそうになるようなひと時だった。(’13.8.23の項参照)
 だから私は、もう二度と、夏の黒部五郎岳には行かないだろう。

 何も言わずに瞳を輝かせて私を見上げていたひと・・・目を閉じて口元にかすかなほほえみを浮かべて私の腕の中にいたひと・・・次から次にこぼれる涙をぬぐおうともせずに私を見つめていたひと・・・思い出は、あの時のそのままにしておいた方が良い。もう二度と戻っては来ないものだから。

 去年の北アルプス裏銀座の山旅が、それほどまでに良かったものだから、同じように良いことは続かないものだと思えばいい。
 それだから、こうして山に行けない時もあるわけであり、ましてもう山に登れなくなるかもしれないと思えば、さらにいや増して、あの黒部五郎岳は、あの時の光景以上の姿となって、私の思い出の中で光り輝くことになるのだ。
 一つ良いことがあれば、一つ悪いことがあり、そのことで、前の良いことがさらにその価値を高めてくれることになるし、次の良いことへの大きな足がかりにもなるのだ。そう思えばいい。

 さらにもうひとつ、ずっと寝ていたために何冊かの本を読むことができたのだが、それらのほとんどは哲学に関するものだった。
 あえて先に言っておくが、私は哲学書を読むことが、何も自分の知性を高めることになるなどとは、はなから思っていないし、ましてやそれをもとに誰かと真理について議論をしようとか考えたこともないし、そもそもが私自身、哲学の何たるかを十分には分かっていないのだから、到底無理なことでもあるのだが。
 ただ思うのは、古代ギリシアの時代から、人々はあるべき人間の姿を、またあるべき社会の姿を追い求めてきたわけであり、そうした様々な哲学者たちの様々なものの考え方が興味深くて、幾つかの哲学書を読み進めて行ったわけであり、そこで学んだことが、あくまでも自分の中だけでの、わがままな私の生き方を支えるなんらかの礎(いしずえ)になってくれればと思っていただけである。 

 そして、それらの哲学者の著作物を読みかじってはみたものの、私ごときの浅学の徒(せんがくのと)にはしょせん歯が立つはずもなく、あのハイデッガーの『存在と時間』のように、最初の部分からそれ以上は進まずに、そうして
いまだに読み終えていないものが他にもある。

 だから今回読んだのは、新書版や文庫本などの、いわゆる哲学史に登場する人々たちの流れをたどった本が多かった。 
 こうした、簡略本、入門書の面白さに目覚めたのは、去年のあの黒部五郎岳をはじめとする北アルプスの山旅を終え、東京に戻って、飛行機で北海道に帰るつもりだったのが、もうお盆休みの帰省ラッシュに差し掛かっていて、羽田空港で空席待ちのために8時間も待たされることになり、その時に買った哲学入門の本が面白くて、一気に読み終えたほどだったからである。(’13.8.26の項参照)
 今回は、その本も含めて前に読んでいたものばかりだったのだが、もうずいぶん年数がたっているものもあり、改めて新鮮な感じで接することができた。 

 そうして、読み終えたばかりの西洋哲学の流れについては、古代ギリシアの時代の哲学者たちから、ローマ時代、中世のスコラ哲学を経て、近世哲学の端緒を切り開いたデカルトに始まり、カント、ヘーゲル、ハイデッガーへと続くドイツ哲学の巨大な流れがあり、さらには現象学、構造主義、ポスト・モダン、フランス現代思想などに至っているし、またそれぞれの哲学者たちの視点が自然科学、論理学、宗教、人文科学、言語学などから見た、絶対的真理の
追及や、主観と客観の区分、すべてのものの存在証明など多岐に分かれており、とても哲学という枠でひとくくりに簡単にまとめあげることなど、とても不可能なことに思えてしまう。
 まして、私ごとき、興味半分のえせ知識人の輩(やから)には、まさに”猫に小判”、”豚に真珠”的な別世界であり、到底私の理解の及ぶ所ではない。

 ただ今回、読み直したことで、自分なりに受け取り考え、納得できたこともある。

 私の気になる哲学者は3人いる。(いつかそれぞれに、私なりにじっくりと考えてみたいものだが。)
 一人は、あの偉大なヘーゲル(1770~1831)の社会観に対するかのごとくに、個人の目で社会の成り立ちを見つめ、実存主義に至る道筋を考えたキルケゴール(1813~55)であり、次の一人は、今までの西洋中心の哲学思索から離れて、世界の未開辺境の地にも野生の思考があり、現代科学に劣るものではないということを、現地でのフィールド・ワークを通じて証明し、新たな視点を見つけたレヴィ=ストロース(1908~2009)、そして
時代は前後するが、三人目の哲学者は、これが今回の読書での一番大きな収穫にもなったことでもあるのだが、「哲学のなしうることは、結局のところ、言語の実際の用法を記述することにすぎないのだ。」と決めつけて、哲学そのものを断罪したヴィトゲンシュタイン(1889~1951)である

 それは、誰もがうすうす感じていたように、哲学の持つ複雑多岐にわたって構築された論理の数々が、いずれも同じ礎石の上にない自分だけの言語ゲームに過ぎないことを証明しようとして、哲学に対してのある種の最終宣告をしたようにも思えるのだ。

 哲学は、これまで一体何の役に立ってきたのかということ。(そもそも哲学自体が、他の分野の学問のように、実利的なものとして考えられてきたわけではないのだが。)
 たとえば、哲人皇帝と呼ばれた、あのローマ時代のマルクス・アウレーリウス(121~180)でさえ、その著作集『自省録』の中で述べている通りに
いつも理想と現実のはざまで悩み苦しみ、ついに哲人による理想の社会を作り上げることなどできなかったのだ。
 さらに時代を経た、同じ名前のマルクス(1818~83)による壮大な共産主義社会の実験提示が、大方の失敗に終わったことは誰もが知っている通りだ。
 こうして、私みたいな部外者の浅学の徒が、たやすく言うべきではないのかもしれないが、哲学とはあくまでも、ものの考え方の切り口を提示するだけのものであり、決して人の道を指し示したり、理想を掲げて実行するべく考えられたものではないということだ。 

 私は、ずっと寝ていた間に、そうして本を読んでいたのだが、と同時にあのAKBのTV録画しておいたものを繰り返し見てもいて、それがいかに無聊(ぶりょう)の慰めになったことか。
 もちろん、こうしたチャラチャラしたアイドル・グループが嫌いな人も多いだろうし、そうした彼らは、いまだに東日本大震災の被災地訪問無料コンサートを続けているAKBを、それでも売名行為だ人気取りだと揶揄(やゆ)しているかもしれないが、ほとんどの人が被災地救援から離れてしまっている中で、あの震災の二か月後から今まで(後ろにそう指示している人たちがいるにせよ)、現地に行っては小さな舞台で歌い続けている彼女たちと、そのAKBを見て喜ぶ子どもたちや、被災者の大人たちの感謝する言葉を聞けば、何が大事なことかは分かるはずなのだが。

 つまり、それを素直に受け取ればいいだけのことだ。彼女たちの華やかな踊りが、ただそれだけで、被災地の子供や親たちのある種の気晴らしや励ましになっているということ、そしてそれがひと時のものであるにせよだ。

 母が亡くなった後、私は、誰とも会わずに、ミャオと二人で家にいて、何かにつけては母を思い出し涙を流していた。
 ある時
私は決断して家から出て、毎日のように近くの山に登り、ある時は小さな沢登りを繰り返していた。
 家に戻って、そばにいるミャオの体をなでてやり、またテレビでお笑い番組を見ては、ようやく笑い声をあげることができるようになったのだ。 

 苦しみの中で、難しい哲学者の言葉がどれほどの助けになるだろうか。私はその時、そうした本を読む気にさえならなかった。
 助けになるのは、一緒に泣いてくれる人か、一緒に笑ってくれる人なのだ。
 今の私にとっても、こうした哲学史上に残る人々の言葉よりは、
実はAKBの歌の一つのほうが、どれほどありがたい心のいやしの時間になっていることかと思う。 

 AKBだけでなく、姉妹グループの、名古屋のSKE、大阪のNMB、博多のHKTと、それぞれに個性ある少女歌舞集団であり 、私はそんな女子高の校長先生のような気持で、娘たちの成長ぶりを見守っているのだ。
 「ラブラドール・レトリバー」に続く新曲「心のプラカード」。
今度の総選挙による”まゆゆ”のセンター以下による選抜メンバーが順位通りに並んだステージで新しい歌と踊りを見せてくれて、いつものように心楽しい気持ちになった。

 別な見方をすれば、いつも脳天気で、実は頭の悪いじいさんが、掛け算の九々も言えないおバカキャラの子もいるAKBファンになったのも、わかる気がする。

 ちなみに、私は他の少女アイドルたち(たとえば”ももクロ”や”Kポップ”など)には興味はなく、もう今どきの日本の歌はAKBだけで手いっぱいであり、他には今までどおりにクラッシック音楽を聴いているだけである。

 (参考文献: 『現象学入門』 竹田青嗣著 NHKブックス、『現代思想の冒険』 竹田青嗣著 ちくま学芸文庫、
 『一日で学び直す哲学』 甲田純生著 光文社新書、『哲学は図でよく分かる』 白取春彦監修 青春新書、『自省録』 マルクス・アウレーリウス 神谷美恵子訳 岩波文庫、『論理哲学論考』 ヴィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳 岩波文庫、『レヴィ=ストロース入門』 小田亮著 ちくま新書他)