ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

こよなく晴れた青空を

2014-07-28 19:59:58 | Weblog

 7月28日

 「こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ・・・」

 (『長崎の鐘』 昭和26年 藤山一郎歌 サトウハチロー作詞 古関裕而作曲)

日、ようやく、北陸から東北にかけての梅雨明けの発表があった。 

 この時期に合わせて、私はいつもの夏山遠征に出かけるつもりだった。 
 先週、東海、関東甲信越の梅雨明け発表があったのだけれども、目的の北アルプス地域では、北陸地方の梅雨明けを待ってからでないと、長い縦走の間を通しての安定した天気は望めない。 
 そして、先週の天気は、確かに晴れた日もあったのだが、雨になった日もあって、やはり行かなくてもよかったのだと、自分に言い聞かせていたのだ。

 ところが週変わりの今日、それまで日本全国の多くの所で、35度を超える猛暑にあえいでいたのに、北からの高気圧が来て乾いた涼しい空気に入れ替わり、さわやかな夏の暑さになっていたのだ。
 私の家は山の中にあり、平地よりは幾らかは涼しいのだが、それまでの蒸し暑い30度を超える日々から一転、朝は20度以下に下がり、すがすがしい青空が広がっていたのだ。

 やっと北の山々を含めての梅雨明けになり、今日から計画していた山に登るつもりだったのに、私は家にいて、”こよなく晴れた青空を、何とも哀しい思いで”見上げていたのだ。
 前回少し書いていたように、痛めた腰の具合がよくないのだ、というよりは悪くなってしまったのだ。
 
 私が、腰を初めて痛めたのは、まだ若いころ北海道で丸太作りの家を建てている時だった。
 100㎏もあるようなカラマツ丸太をひとりで抱えて、持ち上げていたものだから、ついには無理がたたって、工事半ばでひどい”ぎっくり腰”になってしまい、何とかクルマに乗って、当時借りていた家賃3500円の、古い公営住宅の部屋にまでは戻ったのだが、そのまま動けずに寝込んでしまった。

 その時は、病院にも行かず安静にしてじっと寝ていたので、一週間で何とか治ったのだが、その後も二度三度と繰り返し、そのたびごとに二日三日と休んでは何とか回復して工事を続けられるようにはなっていた。

 それからも、今に至るまで度々腰が痛くなることはあったが、何日も動けなくなるほどではなく、幾らか安心していたのだが、たとえば少し腰が痛い時でも山に行ってしまえば、その痛みが軽くなるか、なくなってしまうことさえあったのだ。
 前回の、大雪山登山の時も少し腰は痛かったのだが、帰ってくる時はその痛みを忘れていたぐらいだったのに。
 今回、この九州に戻る前からまた痛くなり、それは今までの痛みとは違って、神経をするりと逆なでするような痛みで、歩く時などに起り、少し気になってはいたのだが、先日のウメジャム作りでの、前かがみ長時間立ち続けで決定的に悪くなったのだ。

 その後は、少しおとなしくしていたのだが、山に行くべき時期が近づいてくるとじっとしていられずに、三日前、痛みを押して、ともかく歩いてみることにしたのだ。
 時々トレーニングもかねてよく歩いている坂道を
家から往復し、休みなく一時間歩きとおしたのだ。
 歩き始めの痛みは、いつしか忘れてしまい、ただその日は暑くて30度を超えていたから 、むしろ噴き出す汗や熱中症のほうが気になったぐらいだったのだが、ともかく一番の高みの所まで30分ほどで歩き、これなら山登りも無理じゃないと思っていたのに、下りになって、急な一歩一歩が腰に響き、さらにはから足を踏んだ時には、もう飛び上がりたいほどの痛さだった。
 結局、確かにいい運動にはなったが、腰にはまた無理な負担を与えたことになったのかもしれない。
 
 しかし、何とか腰を治していつもの夏山に行きたい。
 今度は、ネットで公開されている幾つかの”腰痛体操”をやってみた。結果は、惨たんたるありさまだった。
 しばらくして、腰全体が痛くなり立っていられないほどで、そのままベッドに倒れこんでしまったのだ。
 寝込んだ後いつしか眠ってしまい
2時間ほどもたっていて、ようやくその激痛は収まったものの、”ジャムづくり”以降続く、痛みは今も変わらない。 

 ネットで調べてみる。
 症状からして、脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)か、あるいは黄色靭帯骨化症(おうしょくじんたいこっかしょう)なのだろうが、前者は、それで友達の一人が長い距離は歩けなくなっていたのだが、病院での治療を受けて、最近は山登りにも出かけているまでに回復しているし、後者はあの楽天の星野監督が、これもまた治療を受けて元気にベンチに復帰しているのだ。 
 病院に行けばいいのだが、生来の病院嫌いに加えて、長期の治療を考えると、今ここで病院通いするわけにはいかないし、それならば北海道に戻って病院に行くとしても、もう冬にはまた九州に戻らなければいけないし・・・。
 全く好き勝手に、九州・北海道と行き来して、わがままし放題の生活をしているようだが、こうしてどこかの歯車の一つが狂うと、全体がおかしくなり、すべて今までどおりにはいかなくなってくる。
 何事も、その事にのぞんで初めて気づくものなのだ・・・情けないことに。

 ともかく、今年はもう予定していた北アルプスや東北の山々をあきらめるしかない。
 さらに悪く考えれば、もうこれから山には登れなくなるほどの重症なのかもしれないし、腰だけでなく背後に大きな病が隠れているかもしれないし・・・。
 えーい、その時はその時のことだ。ありがたいことに私には、今まで登ってきた山々の素晴らしい思い出が幾つもあるし、これで私の山登りが終わることになったとしても、お迎えの時が近づいていたとしても、それはすべて、大自然なる神様のおぼしめすままであり、その時までは・・・。
 今こそ、振り返ろう・・・あの青空の下にあった山々の姿を・・・夏山の思い出を。

 北アルプス (2013.8.16~26の項) 

 南アルプス (2012.7.31~8.16の項)

 屋久島  (2011.6.17~25の項)

 飯豊山  (2010.7.28~8.14の項) などなど・・・。

 考えててみれば、こうした遠征の夏山の思い出が今年は何もないということになるのだろうが。

 冒頭にあげた、『長崎の鐘』は、もちろんこの歌が流行(はや)っていたころはまだ子供で、憶えているはずもなく、NHKの”思い出のメロディー”か何かで、まだ元気なころの藤山一郎が歌うのを聞いて、さらにそれが原爆で妻を失った永井博士の実話に基づく歌だと知って、さらに心打たれた思いになったのだが、特に二番の、「召されて妻は天国へ・・・」にかかるあたりから、私は涙を抑えきれなくなる。
 同じように歌で泣かされるのは、あの有名な逗子開成中学の生徒12名の、ボート転覆(てんぷく)による海難死事件に基づいて書かれた歌『七里ヶ浜哀歌』、別名『ま白き富士の嶺(根)』(明治43年)であり、これまた”思い出のメロディー”か何かで聞いたのだが、二番の、「・・・力もつきはて 呼ぶ名は父母・・・」、だめだ、また涙があふれてくる。 

 はい、実は鬼のような顔をした男ほど、外見に似合わず、その裏でひとり泣いているものでございます。
 
 今、庭に、クチナシの花が咲いている。(写真)
 外に出た時ははもちろんのこと、家の中にいても窓辺から、そのささやかな甘い香りが漂ってくる。
 もともとは、ムクゲを植えていたのだが、母が花の散り際がべたついていやだと言って、クチナシに植え替えたものである。
 ただ屋根の軒下近くにあり、今年の冬の大雪で幾つも枝先が折れて心配していたのだが、今年も十分に花数があり、もうしばらくはここでその花の香りを楽しむことができるだろう。
 腰を痛めて、山に行けなくなったおかげで家にいて良かったこともあるのだ。

 それはもう一つ、上に書いた坂道ウォーキングに出かけた時に、枝いっぱいにたわわに実がなっているヤマモモの木を見つけたのだが、じつはもう大分前のことになるが、その木の実を採ってジャムにしたことがあり、後で出直して袋いっぱいの実を採ってきたのだが、悲しいかなこの腰の状態で、まだそのヤマモモの実のジャムづくりができていないのだ。
 
 一つの喜びを失っても、その気になれば、またどこかにもう一つの別の喜びを見つけることもできるし、一つの悲しみの後には、その悲しみを過ぎたという安らぎがあるものなのだ、また次の悲しみが来るまでの間だとしても・・・。

 腰が痛く、パソコンの前の椅子に座るのは、このくらい書いただけでもう限度である。
 何とか長時間、飛行機の座席に座り続けられるようにならないと・・・山どころか、北海道にさえ帰れないのだが・・・。 


梅雨の晴れ間に

2014-07-21 18:28:34 | Weblog



 7月21日

 一週間ほど前に九州の家に戻ってきた。
 内外の用事など、やるべきことが山積しており、数日間はめまぐるしいほどの忙しさだった。
 そのためか、あるいは
庭仕事に精を出し、全身汗まみれになるほどに働いていたためか、体重が2㎏も減っていた。
 それは、メタボ気味の私には喜ばしいことでもあるのだが、思えばそれまでいかにぐうたらな日々を過ごしていたかということにもなるのだ。

 さらに、年のせいもあって、夜中に一度はトイレに起きていたのに、この九州に帰って来てからは、朝まで起きることもなくぐっすりと寝ているのだ。
 つまり、年寄りの限度を考えても、大汗をかくほどによく働くことが、いかにわが身のためになるかということなのだろう。

 それは洋の東西を問わず昔から言われてきたことだ。

 「よく仕事をする人は、いよいよ不死なるものたちに愛される。」

 (ヘーシオドス 『仕事と日』  松平千秋訳 岩波文庫)

 「人の身は労働すべし。労働すれば穀気(こくき)きえて、血脈流通す。」 

 (貝原益軒著 『養生訓』 岩波文庫)
より、中国後漢時代の医師、華佗(かだ、?~208)の言葉。

 まさに日々、安穏(あんのん)に暮らし、易(やす)きに流れるわが身への、教訓の一言でもあるのだ。

 ところで、一週間前のその梅雨のさなかに、飛行機に乗って帰って来たのだが、ましてそれは午後にかけての便であり、窓からの展望はあまり期待していなかったのだが、そのとおりに、北海道も平野部は晴れていたものの、日高山脈、大雪などの山々は雲に覆われていて、さらに東北地方も同じような状態で、すべての山の頂が雲に隠れていた。
 ただでさえ雲の多い梅雨の時期、さらには夏の雲がわきやすいお昼前後に、窓の外の眺めを期待することのほうが無理なのだ。
 そして、最後のはかない望みは、北海道・東北の山よりは
標高が1000mも高い、中部山岳の山々である。もしかしたら、雲を突き抜けて・・・。

 進行方向左側の窓に顔を押しつけて、その時を待っていた。
 相模(さがみ)の平野部から箱根の山にかかり、しかし相変わらずに雲に隠れている。その雲の広がりは、見事に伊豆半島の形になって続いていて、ただ太平洋の青い海原が見えるばかりだった。
 それでももしかしてと、顔を窓に押しつけて見ていた私の視界に、白い雲の上に黒い影が・・・富士山だ。
 もし周りに誰もいなかったら、私が一人乗りの飛行機のパイロットだったら、おそらくは大声を上げて飛び上がったことだろう。
 そのくらいに、夏の午後に飛行機から山の姿を見るのは難しいことなのだ。まして、まだ梅雨が明けていないのに。
 
 私は沸き立つ雲の間から、ひとり高く悠然とその姿を見せている富士山の姿を何枚も写真に撮った。(写真上)

 高度1万メートルにはなっていない、その北側からの眺めは、中央に剣ヶ峰(3776m)が突き上げていて、幾つもの涸れ沢を縁取るかのように、残雪の色が鮮やかだった。
 やがて、その頂きも周りの雲の中に隠れてしまった。
 しかし、お楽しみはまだまだ終わらない。もしかして、南アルプスも・・・。
 駆け寄った、右側の窓から見えたのは・・・まぎれもない、南アルプス3000mの稜線が続く、白根(しらね)三山の姿だった。(写真)


 私は、今まで何度となくこの夏の時期に、同じルートで飛行機からの景色を見てきているのだが、夏の南アルプスの姿をはっきりと見るのは初めてだった。

 森林やハイマツ帯を越えて、岩礫砂礫がむき出しになった稜線部が続き、写真中央部のまばらに雪がついているのが間ノ岳(3190m)であり、その頂上付近の広い雪田(せつでん)は夏遅くまでも残っている。
 その下のほうに西農鳥岳(3051m)から農鳥岳へと続く白根山脈の稜線が続き、上の方へは、東半分をバットレスに削られたあの北岳(3193m)の高みがあり、左上には仙丈ヶ岳(3033m)がひとり
大きな山体を見せている。
 さらに身を乗り出すように真下をのぞき込むと、何とか塩見岳(3052m)までは確認することができた。
 残りの南半分、荒川、悪沢(わるさわ)、赤石、聖(ひじり)などの3000m級のの山々は、また戻って反対側の窓から見る他はないのだが、まだまだこの窓辺からは離れられなかった。 
 それは伊那谷を隔てて、中央アルプスの山々が現われてきて、おまけに何ということか、その上には北アルプスの山々まで見えてきたからだ。

 繰り返し言うことになるが、これは所により大雨注意報が出されていた梅雨のさなかに、それも午後の運航便であることを考えると、もうこれだけの梅雨の晴れ間は奇跡的としか言いようがなかった。
 私のような、”飛行機からの展望マニア”からすれば、まさに狂喜乱舞したいほどのひと時だったのだ。
 もっとも、そういうマニアがいるかどうか私は今まで飛行機に乗った中で、同じように写真を撮りまくっている人を見たことがないのだが、もっとも最上の展望を見ようとするのなら、空気の澄んだ朝早くの便にすることだろうから、いつも昼前後の便に乗ることになる私が、滅多にお目にかかれないのも当然のことかもしれない。 

 もし、私に長くは残されていない命の期限が分かった時には、それは真冬の快晴の朝を選んで、ということは天気予報を見極めての前日窓側予約で、割引運賃も使えず割高な普通運賃を使うことになるが(死ぬ間際までケチって情けない)、日本の山々の上空を飛ぶ便に乗って 、心ゆくまで、名残りの山々の姿を見てみたいと思う。
 あれが槍、穂高、剣、鹿島槍、富士山そして飯豊、朝日、鳥海、そして慣れ親しんだ日高山脈と
大雪の一つ一つの山々に別れを告げたい。


 それで、座席でこと切れてしまえば本望なのだが・・・さあ、周りは騒然となって、飛行中に下ろすわけにはいかず、空港に着いて救急車、病院と多大な迷惑をかけることになるのだろうが・・・。
 少し下ネタめいた話になるが、昔、男は腹上死(ふくじょうし)するのが一番だとか言われていた時代があったのだが、私にしてみれば、大好きな山の上で死ぬのが一番とは思うが、本人はともかく、山の上から降ろすのに周りの人に大きな迷惑をかけることになるし、それならこの機上死というのは、まだ手間がかからないほうではないのか(あのアガサ・クリスティの推理小説『機上の死』のように仕組まれたものではないとしても)・・・
 いやダメだ、前回の”雪中棺桶(かんおけ)”といい、最近どうもこんなふうに死ぬ時のことばかり考えるようになってしまって。 

 話がすっかりそれてしまった、元に戻ろう。
 機上からの眺めは、南アルプスに続き中央アルプスが同じように縦位置で見えてくるが、木曽駒ヶ岳(2956m)からの主稜線が空木岳(2864m)、南駒ヶ岳(2841m)へと続いている様子がよく分かる。
 さらにその上には、北アルプスがまだ残雪多く、雲の間に見えている。

 しかし、それらの山々がだいたい槍・穂高方面や裏銀座方面、立山方面というのは分かるのだが、明確に山々を見定めることはできなかった。
 (その後、家のパソコンに取り込んで拡大してみると、それぞれの山々の特徴ある姿が確認できたのだが。)
 最後には、去年登ったばかりの(’13.7.16~22の項参照)あの木曽の御嶽山(3067m)が、南面に噴火の後の溶岩火山灰斜面を広げては大きく見えていた。

 夏の午後の飛行機からのこれほどの展望にめぐり会えるとは・・・人間にとって、どこに不幸が待ち構えているのか分からないのと同じように、どこに幸運が転がっているかもまた分からないものなのだ。
 今はただ、この素晴らしきひと時に感謝するばかり。

 戻ってきた九州の家は、蒸し暑い熱気の中にあった。
 まして北海道から来たばかりの私には、そのじっとしていてもにじみ出るような暑さに、夜はとてもクーラーなしでは寝られなかった。
 しかしその暑さの中で、上に書いたように、やるべき仕事は幾つもあって、大汗をかきながら一つ一つすませていった。
 それでも、こんな暑さの中、戻ってくるのを楽しみにしていたものもある。
 家のブンゴウメ、その実のなり具合である。そしてそれに続く一仕事、暑い中で
の恒例行事である、ジャムづくりである。

 今年の実も、ゴルフ・ボールよりも大きいくらいの粒ぞろいの上に、去年に比べて実の付き具合も多く、朝になると毎日数十個ほど落ちていて、さらに昼間にもいくつか落ちていて、完熟落下だからすぐに加工しないと傷んでしまうが、とても時間のかかる仕事で、そんな毎日はできないから、結局多くは、傷み具合が進んでいて捨てることになり、それでも三分の一ぐらいは、ジャムやジュースにすることができた。これで、二年ぐらいは風邪をひかなくてすむだろう。

 まずその黄色く色づいたウメの実を洗い、傷がついたり痛んだところはナイフで切り取って、大なべに入れてやわらかくなるまで煮て、水気を切り、裏ごしにして細かい果肉だけを取るが、その時に皮も豊富な栄養素があるので、大きな種と切り離して取り分け果肉と一緒にして混ぜる。(果肉だけにすれば上品な製品ジャムになる。)
 そこで、量が多いので二度に分けてホーロー鍋に入れ、砂糖を加えて(少ないとカビるし、多いと甘すぎる)少し煮詰め、片方でビン容器を煮沸(しゃふつ)消毒させ、それぞれが熱いうちに詰め込んでフタをして、作成日時を書いたラベルを張りようやく終了というわけだ。

 台所の換気扇を回しているだけだから、ガスの熱気で汗だらだらになってしまうし、2,3時間は立ちっぱなしで手を外せない。
 それを二日間続けて作り、それまでまた少し痛めていた腰がすっかりひどくなってしまった。まったく健康食品を作っているのに、自分の健康を損なってしまうという結果になってしまい、それでもまあよかったというべきか、無理するべきではなかったというべきか。

  ただし、去年の倍はある、大小合わせて13個ものビン詰ジャムを並べて見ていると(半分くらいは人にやるのだが)、内心ふつふつと喜びが湧き上がってくる。金持ちの喜びとは、こうしたものなのかもしれない・・・13個もの金の延べ棒を前に、ニタニタと笑うおやじのように。
 しかし、その後もまだ、数は少なくなったものの、毎朝20個余りのウメの実が落ちてくる。 
 そのままにしていると、腐ってきて小バエがたかるから、すぐに拾い集めなければならない。
 腰は痛いし、もうこれ以上のジャムはいらないし、もったいないし仕方ないから、ウメの実に砂糖を加えてそのまま一週間ほどおいて、少し火にかけたただけの、梅ジュースにするしかないのだが。 
 写真は、その時のウメの実と、作ったウメ・ジャムのビンである。(写真下)

 梅雨明けは遅れているし、腰は痛いし、今年の夏山遠征は無理かもしれない。

 それでも、今年もちゃんと家の周りの手入れをなんとかすませて、いつものジャムづくりもできたし、あの飛行機の上からの眺めも満喫できたし・・・と思って、年寄りなりのあきらめをつけるのも大切なことなのだ。
 

 


オオウバユリとハマナス

2014-07-14 19:39:45 | Weblog



 7月14日

 台風一過の後、確かに青空が広がったけれど、ついでに夏本番の暑さもやって来た。
 内地の35度を超えるような猛暑日にはならないけれども、もう25度くらいからでも暑いと思う。
 幸いにも丸太づくりの家の中は涼しいので、外での仕事はしたくなくて、そのまま家の中にいることになる。
 かといって、何か特別な仕事をするわけではなく、やるべきことはいろいろとあるのだが、大体はぐうたらに過ごして、毎日のこまごまとした雑用の他は、テレビ、録画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだりしていると、すぐに昼食や夕食の時間になり、簡単なものを作って食べ、ニュースやバラエティなどを少し見ては、9時過ぎには寝てしまい、あっという間に一日が過ぎてしまう。

 そうした毎日の過ごし方は、はたから見れば、何といい加減に好き勝手に、もったいない時間の使い方をしていることかと思うかもしれない。
 しかし、私は今では開き直って、それでいいのだと思っている。
 今さら、”少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず。”といったところで、こちらはもう老いてしまったわけだし、今さら勉学に励んだところでたかがしれているし、もう近くなってきたあの世に行って 、いったい誰を相手に討論しようというのだ。

 今はまだ、様々な分野に興味があって、相変わらず本を買っては読み続けてはいるが、それは目の前にある興味深い出来事を知りたいためであって、パソコンで検索してはあのAKBの細かい情報を知って喜ぶみたいなもので、それ以上に深入りをするつもりはないのだ。
 つまり、自分の知識が及ぶところまでの、”知の世界”を楽しめばいいと思っているだけだ。
 誰かへの義務があるわけでもなく、また誰かに迷惑をかけるわけでもないから、功利を突き抜けたところにある自分だけの世界にいれば、何もわずらわしい出来事は起きないということだ。

 社会の中で生きていくために必要なものを、できる限り払い落としてしまい、現代病と言われるストレスを感じることもなく、わがままし放題に、自分だけの太平天国の中で暮らしていけばいいのではないか、周りの人に迷惑をかけないという最低限度のルールだけは守って。

 もちろん、年齢とともに体も衰え、やがて一人では生きていけないようになる時が来るのだろうが、その時の覚悟については、今少しずつ考えてはいる。
 周りの友達や知り合いたちにも話しているのは、冬の寒い時に、これまでだと悟って、あらかじめ外に出しておいた棺桶(かんおけ)の中に入って、最後の時を迎えることである。
 話を聞いて皆は、笑っていたが・・・。
 確かに、しんしんと雪の降る中、倒れてはいずりまわり、何かをつかもうと手を伸ばし、老いた私の顔がアップになって、そこに終わりの文字が重なるという、映画のシーンをまねたような最後の瞬間を思い描いていることからして、もうすでにあの黒沢明監督の名作「生きる」(1948年)のラストシーンを演じているわけであり、大阪のおっちゃんおばはんが聞いたら、即座に「しょーもないこと言うて、あほちゃうか」とつっこまれることだろう。
 確かに、実行できるかどうか、大いに疑問なことではあるのだが。

 というのも、私はできることなら、年寄りになって介護なんぞを受けたくはないし、もちろん病院で死ぬのもイヤだからだ。
 去年読んだ本の中で、最も面白く興味深く読んだのは、例の近藤誠医師によるベストセラーにもなった『医者に殺されない47の心得』(アスコムBOOKS)であり、題名からしていかにもセンセーショナルな話かと思いきや、その一つ一つの内容は、私たちが日ごろから思っている現代医療の現状に警鐘を鳴らすものであり、なるほどそうかと思いながらあっという間に読み終えてしまった。
 ただし、彼の言う、「ガンは原則として放置したままの方がいい。」などという言葉は、最後の頼みとしてましてこれから手術を受けようとする人たちには、にわかに信じがたいことだし、今さら何を言っているのかと思うだろうし、現に外科手術などの治療を受けて、今も元気に生きている有名無名の人々も数多くいるわけだし。

 だから、すべての年寄りたちにあてはまるわけではないのだが、ただそこから受け取るべきなのは、私たち人間が避けることのできない命の終わりを、その終末をどうして迎えるかを、改めて考えさせる大きな問題提起になっているということなのだ。

 さらに、その前の年に読んでいた、これも同じ医療関係本のベストセラーになった、あの中村仁一医師による『大往生したけりゃ医療と関わるな』(幻冬新書)で、終末期医療のより人間的な方向性があることを知らされていたから(’12.3,31の項参照)、なおのことであったのかもしれないが、この二冊の本から、私は、死の時を語りながら、その裏に強い生への賛歌が流れているのを感じていた・・・。

 その二人が同じように言っていたことは(『中村仁一、近藤誠対談』という形で、ネット上にも公開されている)・・・「進行性のガンはそのまま放置して、次第にものが食べられなくなり、衰弱していき、苦しむことなく穏やかに餓死していくのがいい。昔のいわゆる自然死や老衰死は、こうしたガンによるものだったのだろう」。 

 その昔の日本には、あの平安時代の『大和物語』や近世の柳田國男の『遠野物語』などにも書かれているように、”棄老(きろう)伝説”があって、その一つでもある、今の長野県の姨捨山(おばすてやま、別名冠着山、1252m)周辺で語り伝えられていた話をもとに、深沢七郎が『楢山節考(ならやまぶしこう)』という作品として発表し、大きな話題となったが、それは1958年に木下恵介監督作品として映画化され、さらに1983年に今村昌平監督によって再映画化されカンヌ映画祭受賞していた。

 その貧しいでは、”楢山参り”と言って、食いぶち減らしのために、70歳を過ぎた老人たちは山に捨ててくるという習わしがあって、その掟に従い、長男は老いた母を背負って、姨捨山に登って行く。そして、涙ながらに母を山に残して、下りて行くと雪が降ってくる・・・。
 何とも心打たれる、その家族愛と、老人たちに課せられた残酷な結末のつけ方ではあったのだが。
 (老人だけではなく、生まれたばかりの嬰児(みどりご)でさえ、食いぶち減らしの間引きとして、川に流されていたという悲惨な時代だったのだ・・・あの『おしん』の母が身ごもった体で冷たい川につかるシーンを思い起こさせる。)

 ともかく、そのころの若い私は、そんな小説を読み映画を見ても、ただの昔話で他人ごととしてしか受け止めていなかったのだが、老人の世界が近づいてきつつある今、思えばまさに我が身として考えなければならない問題になってきたということなのだ。

 (物事はいつもそうなのだ、当事者になって初めて気づくものであり、それまではいつも傍観者でしかないのだ。) 

 もちろん今も元気な私は、これからもまだまだ、大好きな自然の風景を季節ごとに眺めて生きていきたいし、”知の世界”への興味が続くかぎりはその新たな世界を知りたいと思うし、一匹の生物として、生の本能のままにしぶとく生き抜きたいと思うが、一方では、その生きることへの意欲と同じように、死ぬことへの準備もしておかなければならないと思っているのだ。

 上にあげた、”雪中の棺桶”は、そんな私が自分に向けて考えた、一つの笑い話にも似た、おぼつかない提案でもあるのだが・・・。
 もちろん、事はそう簡単には運ばないだろうし、急に倒れて、脳卒中(のうそっちゅう)や心筋梗塞(しんきんこうそく)などで病院に運ばれ、長い治療の後、結局は病院で死ぬことになるのかもしれない。
 そうした姿になっても、家族としては何とか生きててほしいと思うのだろうが、私は、そうなってまでは・・・と思うのだ。
 もちろん個人個人によって、様々な事情があり一概には言えないのだろうが、私は、人間には、強い生きる権利があると同時に、強い死ぬ権利があるものだと思っている。
 (こうした私の思いは、若いころに夢中になって読んだあのアンドレ・マルローなどの小説に、その生と死の意識に裏付けられた、行動主義的な考え方に、大きな影響を受けていることは確かだろうが。)

 今回、このブログの話題としてはあまりふさわしくもない、辛気臭(しんきくさ)い死ぬ時についての話をあえて書いたのは、それまでにもずっと考えていたことであり、その時を迎えるにあたって、それが不意の病であれ、長期の病であれ、あるいは有無を言わせぬ事故であれ、そんな時のために自分なりの心構えとして、自分自身に言い聞かせておきたいと思ったからである。
 それを、どうして今回のブログとして書く気になったのか・・・数日前、私は久しぶりに林の中に入ってみた。
 下草のササが伸び始めていて、それを刈っていくためでもあったのだが。
 林に入るまでもなく、その前から辺りに少し甘い香りが漂っていた。
 
 顔を上げると、曇り空の暗い林の中に、まるで白い卒塔婆(そとうば)が立っているかのように、あちこちに点々とオオウバユリの花が咲いていた。 
 ほの暗い林の中に、高く茎を伸ばし、青白い花を十数本もつけて咲いている。
 他のユリ科の花が、大きく開きあでやかに咲くのと比べれば、細長い花房を伸ばした先の方だけが遠慮がちに開いている。
 九州などでも、同じような林のふちに咲いているのを見かけることがあるが、こちらは少し丈が低く、ウバユリと呼ばれている。

 そもそも、どうしてウバユリ(姥百合)と呼ばれているのか、調べて見ると、花が散った後、下草のような大きな葉が枯れてゆき、それを歯の抜けた老婆に見立てたという、例のごとくに今にしてはみれば奇妙な名前のつけ方ではあるのだが。(葉は一部分枯れたりはするが、すべて枯れ果ててしまうわけではない。)

 そのオオウバユリの名前から、各地に残る山や平原の地名としての”姥ヶ原”を思い出し、さらには”姥捨て山”へとつながってという次第である。
 それにしても、暗い林の下に咲く甘い香りするこの花を、オオウバユリとは到底解(げ)せぬ名前だ。
 前に白山に登った時(’09.7.29~8.4の項参照)、その山旅の終わりで出会ったのも、このオオウバユリだった。
 やっと下りてきたという安心感で、子供が母の胸のうちに戻ってきた時のような、若き日の母のほのかな香りのようで・・・むしろ、ハハユリとでも名づけたいほどだった。
 だから私は、その日の薄暗い中ではなく、次の日の晴れた日の光が差し込んでいる中で、若々しいオオウバユリの写真を撮ることにしたのだ。それが上の写真である。

 そして、今、庭の生垣(いけがき)からも、もっと強い甘い香りが漂ってくる。
 ハマナスの花が、今を盛りと、その鮮やかな色を見せつけるかのように咲いているのだ。(写真下)
 バラ科の、ほんの二三日しか持たない花が、今開いたばかりのものから、もう花弁がバラバラになったものまで、その数二十余り、ここぞとばかりの赤い色とそのむせ返るような匂い・・・。

 二日前、テレビの音楽番組で、”まゆゆ”センターの新体制になった、AKB選抜メンバーによる新曲が披露(ひろう)されていた。
 みんなそれぞれに、自分の個性を持った、これからの若々しい花たちであり、見ていてこちらも楽しくなってくる。
 (メドレー曲の最後には、去年の「フォーチュン・クッキー」が、その他のグループ・メンバー全員で歌われていたが、やはりこの曲は、みんなを明るくさせる名曲だと思う。)

 一方、昨日このブログを書いていた合間の休みに、テレビを見たのだが、それは、あの三年前の東北大津波による大火災の惨状を記録した映像と、消火救助作業にあたった消防団の人たちや、生き残った人たちによる話などを交えて作られていたドキュメンタリー番組だった。
 最初から全部見たわけではないけれども、こうした大震災のドキュメンタリーは今までも何度も見てきたのだが、今回も当時を語る人々の言葉に聞き入り、思わず引き込まれて最後まで見てしまったのだ。

 ある消防団員の言葉。

 「火災が収まった翌日、がれきの中、焼け落ちた家々の被害者たちを捜索していた時、ある家の中で、すべてが焼けて白骨化した小さな子供を抱いた母親らしい遺体がありました・・・。」

 前回、あの老子に関連する言葉としてあげた一節、”苦と楽、陰と陽すべてが相半ばして・・・”、いずれも現実の姿なのだ。


 


青空、残雪、花(2)

2014-07-08 20:43:42 | Weblog

 

 7月8日

 7月とは思えない肌寒い日が続いている。(注:7月6日現在)
 終日低い雲が空を覆い、朝の最低気温は10度を切り、最高気温でも15度くらいにしかならない。 
 昨日など、思わず小さなポータブル・ストーヴをつけたくらいだ。
 もっともそれは、ついでにお湯を沸かすためでもあったのだが。

 とは言っても、寒さに強く暑さに弱い私には、そのくらいがちょうどいい。
 そして、夏の間続く草刈り作業の時でも、うるさいカやアブが、低温のためにあまり出てこなくなるだけでもありがたい。
 ただ一番やっかいな、サシバエだけは始末に負えない。忙しく草刈りガマを振り続ける私のすきを狙って、腕の裏側に張り付いて血を吸うからだ。
 そうして、私なんぞの年寄りの血が吸われるのは構わないが、それで自然界の生物の一匹が生き延び、種族を残していけるようになるのなら、けっこうなことなのだが、問題なのは、そのあとのかゆみであり、数日後までも腕をかきむしることになるからだ。

 しかし、考えてみると、この自分の体をかきむしる行為は、実はかゆくなった部位をかきむしることによって得られる、ある種の快感を期待していて、その原因が病的症状によって引き起こされる場合を除いて、しごく妥当な人間の生きていることの生態反応だということだ。
 もちろんかゆくなるのは、人間だけではないが。
 
 ミャオが元気で私のそばにいたころ、突然上半身を起こして、後ろ足で自分の首筋辺りをかき始める。
 一度やめて、まだかゆいのかまたかき始める。私が手を伸ばして、5本の指でその首筋をかいてやる。
 ミャオは、目を細めてされるがままになり、そのうち私の手を首筋に当てたままにして、ごろんと横になり、私を見ては、ニャーオと鳴く。

 ある大阪の芸人タレントが、背中を柱などにこすりつけて言う一発ギャグ・・・かいーの。 
 それを見て私たちは笑うけれども、背中がかゆいときに、手元に孫の手も、定規(じょうぎ)もハエ叩きの長い柄もない時には、おそらくそうするであろう、まさに自分の姿でもあるのだ。

 ここで、なぜにそうした当たり前のことをわざわざ書いたかというと、山登りもまた同じように、こうした自分の生態反応を楽しんでいるのではないのかと思ったからである。
 それが、自ら作り出した原因 、つまり山登りという苦行(くぎょう)を自らに与えて、区切りとしての時々の休息による解放感や、頂上に着いた時の喜びを期待しては、その長きにわたる苦痛に耐えたあげくに満足感にひたるという、手の込んだサディズムというスタイルをとっているのではないのかと・・・。
 つまり誰でも、実は女王様のムチを期待しているのではないのか・・・最近、はたと見えなくなった、あの女芸人タレントの網タイツ女王様キャラの出し物をもう一度見たいものだ。
 (ちなみに誤解を招かないように、ここで言っておくけれども、私にそんなSMの気は全くないのだが、ギャグとして見るのは好きなのだ。タイツ姿になった”こまわりくん”の”八丈島のキョン”みたいなものだ。)

 さてこのようにして、苦しみと喜びが見事なバランスで相半ばする山登りに限らず、人は、いつも対価として与えられるものを期待しているからこそ、日々の苦しい労働に励み、厳しい鍛錬(たんれん)のための運動にも耐えることができるのだろう。
 それは、人が生きていくそのものの形なのかもしれない・・・苦と楽、陰と陽すべてが相半ばして、うまく収まるようになっている・・・。
 そこで、あの老子の言葉を思い出した。

 「有と無はたがいに生まれ、難しさと易(やさ)しさはたがいに補(おぎな)いあい、長と短は明らかにしあい、高いものと下(ひく)いものはたがいに限定しあい、音と声はたがいに調和を保ち、前と後ろはたがいに順序をもつ・・・」

 (『世界の名著』4 老子 小川環樹訳 中央公論社)

 そして、私は何かを補うために調和を保つために、山に登る。 
 前回からの続きである。

 6月の下旬、大雪山は高原温泉口から緑岳へと登った私は、日ごろからの運動不足がたたって、その上に年齢のせいでもあろうが、やっとの思いで白雲岳避難小屋にたどり着き、そこで一夜を過ごした。
 
 山小屋で眠れないのは、日ごろから全く静かな所でひとり、惰眠(だみん)をむさぼっている私への報いでもあるのだが、それでも数時間余りも眠れずにただ寝返りを繰り返しているのはつらい・・・しかしそんな私も、ひと時の間、ほんの一二時間の間、あの怪獣たちのうなり声も聞こえなくなり、いつしか眠っていたのだろうか、誰かが起きてガサゴソさせる音で目が覚めた。
 時計を見ると、3時前だった。

 日の出前後の光景を期待するのは、太陽が昇ってくる御来光(ごらいこう)の時だけでなく、その前後の漆黒(しっこく)の闇から、いつしか鮮やかな色彩に彩られ、さらには朝の陰影ある風景へと変化していく過程を、つぶさに見られることにあり、それが山に泊まる時の大きな楽しみの一つでもあるからなのだ。
 この小屋には今まで十数回も泊まっていても、その度ごとに違った日の出の光景を見てきていて、それでもあきることはなく、今回も私は、またあらたな早暁(そうぎょう)の光に染められた、山の姿を見たいと、夜明け前に起きたのだ。

 外はすでに大分白み始めていて、目の前に白雲岳の山影が大きく黒々と立ちはだかり、反対側の緑岳にかけての稜線もはっきりと見えていた。快晴の朝だ。
 ずっと先の方で、先行者のヘッドランプの明かりが動いていた。
 雪渓をたどる時は、ほの白い雪の白さでまだ足元が確かめられるからいいが、ハイマツの中につけられた道では、さすがに明かりがないと足元が見えないほどで、まだ辺りは夜明け前の暗がりの中にあった。
 最後にゆるやかに道をたどって、白雲岳分岐の十字路に着く。
 北側が大きく開けて、北鎮(ほくちん)、凌雲(りょううん)、烏帽子(えぼし)、黒岳などの山々が、暁の赤い色に縁どられシルエットになって見えていた。

 そこからは左手に曲がり、ゆるやかな傾斜地をたどって白雲岳へと向かう。
 もう、山頂での御来光には間に合わないのは分かっていたが、今までに何度も見てきているし、むしろ今回は、東側になだらかに盛り上がる、小泉岳から昇ってくる朝日を見たいと思っていたのだ。

 白雲岳火口原に入る手前の所で、御来光の時を待った。
 そしてその通りに、小泉岳のゆるやかな山頂(2158m)にあるケルンのそばから、少しよどんだ空気を赤く染めながら、その上の雲に投影させ照り輝かせながら、朝日が昇ってきた。(写真上)

 山の端が南にゆるやかに下るあたりから、武利(むりい)岳と武華(むか)山のがのぞき、そこから石狩山地に至るまでの大雪湖から続く広い盆地は、雲海に覆われて白い湖のようだった。

 日の出の後、私は、足早になって平坦地の火口原を歩き、稜線下の雪渓を回り込んで白雲岳の頂上(2230m)に着いた。
 そこには、誰もが大雪山随一と思うだろう、その大展望が広がっていた。
 それも何とか間に合って、赤く染まった旭岳(2290m)の姿を見ることができたのだ。(写真)

 

 できる事なら、もっと全体が赤く染まる姿を、手前の間宮岳斜面の残雪紋様までが赤く染まるのを見たいのだが、それは今見るように、日の出の位置からして無理であり、ほとんどが白雲岳自身の影に覆われてしまうのだ。
 だから夏至(げし)とは逆の冬至(とうじ)、つまり厳冬期に登るしかないのだが、そのころはもちろん縞(しま)紋様はなくなり、山全体が真っ白になっているし。
 
 山頂には、私より先に着いていた同じ小屋泊まりの二人連れがいたが、あいさつを交わして天気を喜び合っただけで、お互いに周囲に広がる光景に向かい、カメラを構えてシャッターを押すことに夢中になっていた。

 それにしても、何という見事な景観だろう。
 目の前に、数キロの距離を置いてそびえたつ旭岳が、左手に後旭岳(うしろあさひ、2216m)の丸い頂を抱えて、右手には熊ヶ岳のギザギザの頂を従え、さらには間宮岳から北海岳に至る、お鉢噴火口の残雪縞紋様のすそ野を前景にして、フレームの中におさまる姿は、やはり天下一品と呼ぶにふさわしかった。

 思うに、名山と呼ばれる山は、それに値する品格風格を備えた姿をしていて、そのベストの姿を求めて、様々な方向から見てみたくなるものである。

 この旭岳の場合、下から見るには旭川郊外のいずれから見ても爆裂火口を開けた姿が印象的であり、もっと近づいたロープウエイ姿見駅方面や当麻乗越(とうまのっこし)、天人峡滝見台などから見れば、さらにスケール感が増して見事である。
 同じ大雪山系の山では、この白雲岳から見るのが一番だとしても、他のそれぞれの山の頂からも、最も高いこの旭岳の姿を見ることができるし、それぞれに見どころがある。
 ただし、これは雪のついた冬季限定になるが、隣の後旭岳から見た姿・・・シュカブラの雪原の彼方に、あくまでも白くすっきりとそびえ立っていた旭岳の姿が忘れられない・・・。 
 
 さらに、この白雲岳からの展望は、南に遠くトムラウシ山(2141m)が薄いピンク色に輝き、さらに離れて十勝岳連峰が続き、富良野盆地を挟んで芦別岳、夕張岳も見えている。
 トムラウシの左手には、残念ながら今日は少し雲があって日高山脈は見えていないが、昨日と同じように、ニペソツ山から石狩岳そして武利岳などの東大雪の山々が並び、その間の雲海の上に阿寒の山々も見えている。
 はるか遠くの利尻や知床、日高山脈南端までもが見えるほどの空気が澄んだ天気ではないにせよ、上空に雲一つない快晴の日の展望に、何の文句があるだろうか。

 やがて二人は、あいさつして先に下りて行った。
 もう1時間近くたっていたが、微風快晴の頂上から私は、そう簡単に立ち去る気にはならなかった。さらに同じ小屋泊まりの、若い男がひとり登ってきて、お互いに笑顔であいさつして、しばらく山の話をして、昔の山に思いを馳(は)せた。
 そして私は、1時間半もいた頂上を後にして、それでもあちこちで写真を撮りながら下りて行き、分岐点に戻った。
 
 そして今度はそこから左側に、北海平方面へと下りて行った。 
 その先にある、雄滝の沢源頭部左岸にできる、巨大な雪庇(せっぴ)を見たかったからである。
 しかし、昨日見たあの高根ヶ原の雪庇と同じように、今年はどうも雪が少なかったようで、例年の迫力ある姿にはなっていなかった。それでも青空と、鮮やかな雪渓の連なりの光景は、いつものように今の時期のさわやかな山の姿を感じさせてくれた。

 何よりその手前の草原の光景・・・右手には烏帽子岳方面を背景に点々とキバナシャクナゲが咲いていて、左手の白雲岳斜面側には、エゾコザクラの群落があり、その上のキバナシャクナゲとともに、緑の草、白い残雪、それらが青空に映えて、すぐには立ち去り難い思いだった。(写真)



 まだ朝早く、行きかう人すらない、静かな山道だった。

 再び分岐に戻り、今度は小屋へと下りて行く。 
 斜面を覆う残雪の向こうに、トムラウシと十勝連峰が見えている。
 今までに何度となく撮っている光景だが、またあきることなくカメラを構えた。(写真)



 そして、小屋に着いて、ガランとした部屋でひとり簡単な朝食を作り食べた後、荷物をまとめて外に出た。
 この青空のもと、まだ若い私だったら、あの若いオランダ人の二人のように、トムラウシまで行っていただろうに。
 
 行きにたどったコースを戻ることにして、小屋から少し下り雪渓を横切って、次にお花畑の斜面を登り返して、緑岳分岐に着いた。 
 そこにザックを置いて、身軽なサブザック姿で、小泉岳へと登り返して行く。
 ここからの尾根道に咲いている花々を見ては、広大な展望を眺め、そしてもしかして、あの高山蝶に出会えるかもしれないという期待もあって。

 そして歩き始めたが、チングルマよりは大きいチョウノスケソウの白い花や、るり色のホソバウルップソウなども、確かに咲いてはいたが、まだ咲き始めで数が少なく、今までずっと見てきた白い小さな花の集まりであるイワウメと、黄色い花のミヤマキンバイ、さらに少しばかりのエゾオヤマノエンドウの紫色が目立つくらいだった。

 しかし1週間もすれば、この花の分布もすっかり変わってしまうことだろう。チョウノスケソウやホソバウルップソウが盛りを迎え、さらに一際目を引く赤いエゾツツジが咲き始め、コマクサ、イワブクロ、キバナシオガマ、タカネスミレ、クモマユキノシタなどがいっせいに花開き・・・そして8月半ばのクモイリンドウに至るまで、私たち登山者の目を楽しませてくれるのだ。

 とその時 、一匹の蝶が私の目の前を横切って行き、近くの砂利の上に止まった。ウスバキチョウだ。(写真下の上)
 先ほども、飛び回る姿を見かけてはいたのだが、私のカメラは標準ズームレンズをつけたままで、望遠レンズなど持っていないから、こうした蝶や生き物を撮る時には、偶然出会うことを期待するしかないのだ。
 蝶マニアでもなく野生動物マニアでもない私には、ただダテに長い登山歴があるから、その中で様々な蝶や動物たちに出会ってきたことがあるというだけのことだ。

 もっとも、山中であの巨大なヒグマに、30メートルほどの距離で出会った時には、とてもカメラを構える余裕もなかったし、その後も何度かヒグマに遭遇したことはあるが、いずれの場合もまずは自分の身を守ることだと、写真どころの話ではなかったのだ。
 私の、第一の目的は、ただ山の姿を見ることにあり、あえて言えば、花も蝶も鳥も動物たちも、目の前にいれば、その時のにわか仕立てのファンになるだけの、底の浅い知識しか持っていないというのが本当のところだ。

 そうして、にわか蝶ファンになった私は、そのウスバキチョウの姿を写真に収めて、さらにもっといい位置でと体を動かしたとたん、蝶は飛び去ってしまった。
 それでも、花が少なかった代わりに、こうしてウスバキチョウに出会えたことで、私は満足し、歌でも歌いたい気分だった。

 「ラブラドール走って、波打ちぎわへ・・・」、だめだ、ここは海ではないし、似合わない。

 「丘を越え行こうよ、口笛吹きつーつ、空は澄み青空・・・」 、古っ、と言われそう。

 ともかく足取りも軽く登って行き、振り返ると、なだらかな砂礫地の尾根が続く向こうに、緑岳の頂があり、その遥か彼方にトムラウシ山が見えていた。
 昨日ほどの雲はなかったが、それでも山々の上には小さな雲が二つ三つと出てきていた。
 もうここから、すぐ先の頂上までは、あまり花もないからと引き返すことにした。
 花を見るだけならば、同じ道を引き返しても悪くはない。見逃していた花を見つけることがあるからだ。
 
 ふとすぐ先で、何かが動いたようで見ると・・・何と、あのダイセツタカネヒカゲが、二匹つながってじっとしていた。(写真下の下)
 私は、すぐにカメラのシャッターを押して写真に撮ってから、安心してその二匹をじっと観察した。
 大きさの違いによる雄雌の差は分からなったが、後ろばねの紋様の差はあきらかだった。
 それ以上に、例えば北アルプスで見かける、タカネヒカゲとの差と言われれば、もうお手上げになる、その時だけの蝶ファンなのだ。 

 しかし私は、彼らの神聖な種の保存の行為を前に、これ以上の長居は無用だと思った。
 静かににその場を離れて、さらに下って行き、ザックを置いていた分岐に戻った。
 そして、周氷河地形でもある条線砂礫(じょうせんされき)に沿って、縞紋様に咲いているイワウメなどの花を見ながら、緑岳(2020m)へと登り返した。

 昨日ほどには雲は広がっていなくて、ほとんどは青空の下だった。昨日の曇り空の下の写真の取り直しだとばかりに、さらに何枚もの写真を撮った。
 こうして枚数を気にしなくて、シャッターを押せること・・・フィルム写真の時代を知っている私たちには、このデジタル・カメラがどれほどありがたいことか。さらにその後も、手間とお金をかけて現像、プリントをしてもらう必要もなく、パソコンやテレビに取り込んで、より大きな画面で楽しむことができるのだから。
 
 自然の中にいることが好きな私は、どちらかと言えば、科学の進歩を、すべて肯定的にはとらえていないのだが、デジタル・カメラと、CDあるいはデジタル・プレイヤーの出現は、私にとってまさにエポック・メイキング(革新的)なものであり、パソコンとともに、今の私にはなくてはならぬものになってしまったのだ。

 それに比べれば、家電製品やクルマなどの乗り物にしても、それほどの劇的な変化を遂げたとまではいえないようにも思えるのだ。
 大多数の人が命の次に大事なものと答える、スマホを私は持っていないし、やむを得ず所有しているケータイも、常時電源オフの移動公衆電話の意味しかない。
 科学の進歩のどこまでついて行けばいいのか、地球環境の破壊や、日々の利便性と合わせて難しい問題ではあるのだが。 

 話がそれてしまった。山の話に戻ろう。
 緑岳山頂を後にして、岩塊帯の斜面を降りて行く。
 しかし、あまり風がなくて暑い上に(この日、旭川は29度)、もう太ももが十分に上がらなくて、途中で二度も休んだが、それでもこの斜面を登ってくる人たちもいる。
 あえぎながら汗を光らせて。本当に、ご苦労様と声をかけたくなるほどだった。
 ハイマツ帯を抜け、ようやく広々と続く雪田に出て、ザックを下に座り込む。
 涼しい風が吹き、目の前に東大雪の山々が並んでいる。少し雲はあるが、青空の色が心地よい。疲れというよりは、ここを離れたくないという思いだった。

 長いさわやかな雪田歩きが終わり、少し蒸し暑くなった森林帯に入り、のろのろと急坂を下って行き、やっとのことで登山口に着いた。
 12時過ぎだったが、今日は3時起きで歩き出したから、9時間以上も行動していることになる、もっとも白雲頂上に1時間半もいたからでもあるが。

 クルマに乗って砂利道の林道から大雪国道に出て、両側に広がる原生林の中を走って行く。いつ通っても、北海道らしい素晴らしい道だ。 ただ問題は、昨夜の睡眠不足によって襲ってくる睡魔(すいま)だ。一瞬、うとうととしてハンドルから手がずり落ちそうになった。
 今までこうして大雪の山に登った後は、民宿に泊まってぐっすりと寝た後、翌日にのんびりと家に帰っていたのに。
 年寄りになったからこそ、お金も時間もかけて、余裕をもって山に行くべきなのだ。
 数年前にはこの道で、大きなエゾシカにぶつかったこともあり、本当に何が起きるかわからない、ひやりとした一瞬だった。
 もって、肝(きも)に銘(めい)ずべし!
 
 青空、残雪、花、蝶、大雪国道・・・また一つ、残り少ない日々の、きらめく思い出が・・・。

(追記):昨日、自分のミスで半分ほどの記事が消去されてしまい、気を取り直して書き直したものが、今度はネットがつながらなくて消去され、怒髪(どはつ)天を衝(つ)く怒りで、パソコンを前に悪づいたのだが、一晩寝て、その怒りもすべては自分のせいだと悟って、ようやく今日書き終えた次第だが、内容はその度ごとに幾らか変わってしまったが、思えばこのブログ記事は、まさしく、自分による、自分のための、自分に向けての修練の場でもあるのだから・・・まだまだ修行が足らん。喝(かつ)!
 さらに、冒頭に書いたような寒い日が続いていていたのは、三日前までのことで、今は台風の押し上げで、一気に10度以上も気温が上がり暑くなって、今日の十勝地方はあちこちで30度を超えていた。日記風な記述は、こうしてタイミングを逃すと、少し間の抜けたものになってしまうのだ。反省!