ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(156)

2010-08-31 20:06:28 | Weblog



8月31日

 ここまで夏の暑さが続くと、もう年寄りネコのワタシは、何もする気力がなくなり、ただ少しでも涼しい場所を見つけては、ひたすらに寝るだけだ。

 じっと寝ていれば、体力を使わないから、あまり食べなくなる。食欲がないから、何もしたくないという悪循環だ。飼い主から聞いた話によれば、今年の暑さで、何百人もの人たちが熱中症で死んでいて、その中には、ワタシのような年寄りも多かったそうだ。

 飼い主が出してくれる小さなアジを、夕方の食事の時に食べる他は、後はほんの二三回、皿に入れてあるミルクをなめるくらいのものだ。何もない時はともかく、あんなうまくもないキャットフードなど食べる気もしない。
 もっとも、飼い主は余り食べないワタシを心配しているふうでもなく、サカナを食べているワタシの傍らで、何やら話していた。

 「昔、江戸時代に、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)という偉い儒学者(じゅがくしゃ)の先生がいて、当時の健康法についての指南書とでも言える本を書いている。その『養生訓(ようじょうくん)』、という本には、『老人は特に飲食の量をつつしめ。好きなものを少し食べよ。』と、書いてある。
 だから、今、オマエがあまり食べないのも、それなりの道理があってのことだろう。しかし、もう少し涼しくなったら、しっかり食べて、一緒に散歩に行こうね。」


 「幸いにも私はミャオと違って、三食きちんと食べていて、体重は変わらない。相変わらずの、メタボ体形を維持したままだ。
 というのも、このところ毎日、朝の涼しいうちに、2時間ほど庭仕事をして汗を流しているからだ。庭木の刈り込みと草取りである。
 もちろん、北海道の土地ほどに広くはないけれど、山の中の家だから、街の中の家と比べれば、たっぷりととれる庭がある。緑に囲まれて涼しく落ち着けるけれども、その分、手入れするのも大変というわけだ。

 脚立(きゃたつ)に上がって、剪定(せんてい)バサミで、カイズカイブキやピラカンサ、ツツジなどの植え込みを刈り込んでいく。
 いくら朝早くとはいえ、日が当たってくれば暑くなり、すぐに体は汗まみれになる。しばらくがんばって、今日はここまでと区切りをつけて、家に入る。
 風呂の残り湯は生ぬるい程度だが、熱い体にはちょうど良い。さっぱりと汗を流し、その残り湯で洗濯して、ベランダに干す。
 そして、クーラーをつけた部屋で、ノン・アルコールのビールをぐいと飲み干す。あーあ、やっぱし、夏は、風呂に入れて、洗濯できて、クーラーのあるこの九州の家が一番だ。北海道は、暑すぎる。
 と、もう自分でも、南にいるのか北にいるのかわからなくなってきた。それほどまでに、今年は全国的に暑いということだ。今日の、北海道は帯広の最高気温、31.6度。ゲッ、ここよりも高い。

 そんなクーラーのきいた部屋で、録画していた番組を見る。数日前に、NHK・教育で放送された、文楽(ぶんらく)の『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』である。(写真)
 この文楽、つまり人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は、歌舞伎でも有名な演目であり、その舞台は、全五段通しで演じれば、9時間ほどにもなるという大作であるが、もちろんここで放送されたのは、その中でも最も有名な三段目の、『太宰館の段』と『妹山背山の段』、世に言う『山の段』である。

 全段通じてのあらすじは、長くなるので簡単に言えば、7世紀半ば、あの奈良時代の大化の改新(645年)前の権力争いの時代、天皇家と結びつき、権力をほしいままにしていた蘇我蝦夷(そがのえみし)、入鹿(いるか)親子が、誅伐(ちゅうばつ)されるにいたるまでの話であり、当時の浄瑠璃作家、近松半次他が、時代を越えての話として作りあげた一大物語絵巻である(初演1771年)。
 この三段目の話は、吉野川を境にして、領地をめぐり相対立していた両家の、一方の嫡子(ちゃくし)、久我之助と相手方の娘、雛鳥(ひなどり)が愛し合う仲になり、そこに蘇我入鹿の無理難題の命令を言いつけられ、それぞれの親は、お上の命の義理と人情のはざまで、仕方なく子供を殺してしまうことになるのだ。
 まさしく、江戸版、『ロミオとジュリエット』の話なのだが、ちなみに書かれたのは、シェイクスピアの方が古く、1595~6年であるが、はたして、その話を彼らが知っていたかどうか。

 ともかく、この文楽の舞台には、人間国宝の語り太夫(たゆう)、三味線、人形遣いの重鎮のお歴々が立ち並び、その舞台が悪かろうはずもなく、人間以上に感情豊かな、雛鳥と久我之助のやりとりには、思わずほろりとさせられた。
 マペットをはじめとして、世界中には様々な人形芝居があって、私もそのうちのいくつかは知っているが、この日本の伝統芸能である人形浄瑠璃(文楽)ほど、語り、三味線、人形が一体となって作り上げる見事な人形劇を他に知らない。

 歌舞伎演目としての舞台も素晴らしいが、あらためて、この文楽の芸に酔ったひと時だった。わざわざ大阪、東京の劇場まで足を運ばなくても、それは確かに生舞台の臨場感には及ぶべくもないが、前にも書いたように(7月10日の項)、こうしてテレビで、それも白黒画面にカラーの時代から、今や液晶デジタル、ハイビジョンの時代になって見られるなんて、ああ、ありがたや、ありがたや。

 それにしても、江戸から明治時代までのころの、物語、小説にはどうしてこうも、がんじがらめの義理人情に身をさいなまれ、悲劇へと向かう話しが多いのだろう。     
 私が、例えば、尾崎紅葉(おざきこうよう)などの小説を好んで読み、さらにこうした文楽や歌舞伎の舞台にひかれ、涙を浮かべるまでにのめり込むのは、考えてみるとやはり、あの死ぬかと思うほどの山登り(8月20日、7月30日の項)が好きなことと関係して、自虐(じぎゃく)趣味、マゾヒストの性分がどこかにあるからだろうか。

 満月の月の明かりに涙しては、ひとり吠えるのだ。ワオーン・・・。(念のためこれはイオン・カードではありません。)


ワタシはネコである(155)

2010-08-27 20:05:38 | Weblog



8月27日

 晴れて暑い日が続いている。ワタシは、飼い主の洗濯物が干された、ベランダで寝ている。洗濯物との間で半日陰になるここは、風が吹き抜けて涼しく居心地がいい。昼ごろには、それでもこのベランダの照り返しが熱くなり、他の場所にうつるのだが。

 飼い主は、三日前に帰ってきた。夕方、日も落ちて、昼間の暑さもやわらいだころ、家から離れた所で涼んでいたワタシは、何か家の方から物音がするのに気づいた。
 ゆっくりと、起き上がって家の方に向かう。ベランダに上がってみると、何とあの固く閉まったままだったドアが開いている。物音がして、足音が聞こえる。ニャーオ、ニャーオと、夕闇の中で呼びかける。
 飼い主も、鳴き交わしてワタシの名を呼び、近づいてくる。離れた所で、飼い主かどうかを確かめて、体をなでさせた。

 そしてすぐに、冷凍してあったらしいサカナを持ってきてくれるが、それにはほんの少し口をつけただけで、それより嬉しかったのは、久しぶりに飲む牛乳の味だ。皿にいれてもらった牛乳はすぐに飲んでしまった。うーん、たまらん。もう一杯と、飼い主にお代りを催促する。
 しかし、まだ落ち着かない。ベランダの方の夜の闇が気になる。しかし、飼い主は帰ってきて家にいるし、と出たり入ったりを繰り返したが、結局、安全な家のソファの上で寝ることにした。

 翌朝、朝早く起きてきた飼い主に、ニャーオとあいさつする。こうして、呼びかける相手がいることは、嬉しいものだ。ワタシもこれでやっと、ネコなみの暮らしが送れるというものだ。


 「三日前の夕方、家に着いたとき、ミャオの名前を呼んでみたのだが、何の返事もなく、後で探しに行かなければと思っていた。無理もない、二ヵ月もの間、ほったらかしにしておいたのだから。おそらくは、またあのエサを頼んでおいたおじさんの家の近くにでもいるのだろう。
 途中で買ってきた弁当の夕食をすませて、さてと腰を上げたところ、ベランダの方から鳴き声が聞こえてきた。あーよかった、ミャオは元気でいてくれたのだ。
 いつも帰るたびに、もうミャオは歳だから、15歳、つまり人間でいえば85歳くらいにもなるのだから、ひょっとして死んでしまってはいないだろうかと、もしものことを考えてしまうのだ。

 久しぶりに見る、ミャオは、夏場だから、毛も短い夏毛に代わっていることもあって、冬に私と一緒にいる時のあの太り方からすれば、見る影もない変わり方であった。
 たとえて言えば、あのお笑いトリオの森三中の肉付きの良い彼女たちから、まるでやせて髪の毛も薄い、あのモト冬樹に変わったくらいの違いがあるのだ。
 前回、夏の初めに帰った時もそうだったから(6月6日の項)、そうは驚かないのだが、それにしても年齢から言えば心配になる。

 翌日の朝、おじさんに会って話を聞くと、ミャオは近くまでは来ていたそうだが、他のネコたちもいるしクルマも通るから、なかなかおじさんの家にまでは行けずにいたらしい。
 それでおじさんは、毎朝、私の家まで来て、直接ミャオにエサをやっていたとのことだった。ありがたいことだ。
 他の人たちも、お宅のネコちゃんがいたよとか教えてくれることもあり、そうしてミャオは生かされているのであり、飼い主である私もいろいろとお世話になっているのだ。
 ミャオも私も、一人では生きていけないのだ。
 
 しかしそうして、ちゃんとエサをもらっているのに、どうしてミャオはやせているのか。次の日に合点がいった。
 まず一つには、ベランダの手すりの下に幾つも落ちていたフンと、すぐ傍の柿の木にとまって鳴いていたヤツ、間違いなくそのカラスのせいだ。
 つまり、ミャオは、エサ皿にいっぱいに入れられたエサを、一度に食べることはなく、何回かに分けて食べるから、それを見たカラスが、残りを食べてしまっていたのだ。
 さらにもう一つ。次の日の朝、ミャオのエサ皿、ミルク皿がすっかり空になっていた。前の夜、ミャオが落ち着かず何度も出入りしていたから、ドアを少し開けたままにしておいたのだが、恐らくは他のノラネコがやって来て、食べてしまったのだろう。

 それらを防ぐ手立ては、一つしかない。近づかせないこと、つまり相手をもう行きたくないと思わせるほどに、驚かせることだ。
 そうして、カラスは何とか撃退したが、真夜中に来るノラネコは始末に困る。早寝早起きの、私に、そんな時間に起きていろというのは無理な話。
 そりゃ、鬼瓦(おにがわら)顔の私が、夜中に下からライトを当てて、ベランダにいれば、ネコどころか、人間でさえ、化け物屋敷と間違うだろうし、効果のほどは疑いなしだが、自分で想像しても恐ろしい光景だ。

 しかし、できないとなるとどうするか。当然、ドアを閉めていればいいだけの話だが、物事はそう簡単には運ばない。
 つまり私がいる間はいいが、いなくなれば、そのノラネコは、ミャオの残りエサを狙ってまたやってくるだろう。もしかしたら、春のサカリの季節の時にやってきたネコかもしれないのだが、あのネコは石を投げて追い払っていたはずなのに。
 ともかくミャオが元気でいられるためには、何とかしなければと思うのだが。

 ミャオはその後、殆ど家にいる。私の傍にいたいのだ。昔のように、連れ立って遠くまで散歩に出かけることもなくなった。ただ半日ベランダで寝て、時々私に体をなでてもらい、時間になると生ザカナを食べ、夜少し外にいて、後はソファで寝るだけだ。
 しかし、ミャオはそれでいいのかもしれない。自分が年老いたことを知り、また飼い主のいない不安な日々を送ってきただけに、そうしていることが、ミャオの安らぎなのかもしれない。
 そして、それは飼い主でもある私の、日常の思いでもあるのだ。

 「少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいてもらいたい。」
 (尾崎一雄著『虫も樹も』より)
 

 天気の良い日が続いて、さすがに日中は暑く、30度を超えるけれども、九州とはいえ山の中だから、朝夕は涼しいし、何より暑ければすぐにクーラーのスイッチを押せばよい。つまりは、クーラーのない北海道での、耐えられない蒸し暑さよりは、よほどしのぎやすいのだ。
 その上、毎日、風呂に入れるし、洗濯はできるし、トイレはちゃんと家の中にあるし、ベランダにはミャオが寝ているし、夏は九州で過ごす方が良いのかもしれない。つまりそうすると、北海道は、私の好きな冬にいるべき所なのだろう。
 もちろん、ミャオがいる以上、冬、北海道にいるのは、今のところ無理なのだが。

 ところで、この一週間、ミャオが元気でいてくれたことも嬉しかったのだが、もう一つ良いことがあった。
 いつものNHK・BSの深夜の映画劇場で、何と先日、映画の話の所で書いたばかり(8月16日の項)の、ギリシアの巨匠テオ・アンゲロプロス(1935~)の作品が、この4日間、連日で放映されたのだ。
 『シテール島への船出』(’83)、『霧の中の風景』(’88)、『永遠と一日』(’98)、『エレニの旅』(’04)の作品群であり、これに『旅芸人の記録』(’75)などの数本をくわえれば、それでアンゲロプロスの大まかな映画芸術の集大成になるだろう。
 すべて録画しただけで、まだ見てはいないが、特に『エレニの旅』は、私は初めて見る作品なだけに、楽しみにしている。

 それにしても、NHKはいつも、内外の芸術文化のあちこちに目を配り、適宜(てきぎ)に放送してくれる。春の、イングマール・ベルイマンの作品特集といい、他の民放、あるいは有料放送のどこがやってくれるというのだ。
 NHKは本当に、文化芸術における、「我らが神は固き砦」(バッハのカンタータ第80番)、と讃えたいくらいである。

 何としても、今後とも、これらの名作映画、オペラ、歌舞伎、ドキュメンタリーを見るためにも、不肖、鬼瓦権三、しぶとく生き抜いていきたいのであります。」


飼い主よりミャオへ(116)

2010-08-22 17:45:26 | Weblog



8月22日

 拝啓 ミャオ様

 前回からの続きで、沢から上がった稜線でヒグマに出遭い、すっかり気が動転してしまったが、ひたすら歩いて野塚岳西峰(1331m)にたどり着く。そのまま、本峰との鞍部(あんぶ)へと降りて行き、途中の見晴らしの良い涼しい所で、やっとゆっくり腰を下ろして休んだ。

 一気に水を飲んで乾いたのどをうるおして、簡単な昼食をとった。様々な反省点を含めて、考えに一区切りがつくと、気持ちも落ち着いてきた。
 見下ろす南側の斜面から、さわやかな風が吹き上げてくる。遥か下に、野塚岳への日高側からの登路でもある、ニオベツ川の沢筋が白く光って見えている。
 そこからの高度差、900mほどでせり上がるオムシャヌプリ(1379m)の双耳峰(そうじほう)と、その後ろに控える楽古岳(1472m)と十勝岳(1457m)の姿は、見慣れた光景だけれども、いつも見入ってしまう。(写真)
 2000m前後の、日高中央部の主峰群と比べれば、ずいぶんと高度を下げた南日高の山々だけれども、すっきりと伸びる尾根や谷筋は、やはり日高山脈らしい感じだ。

 この日高の山々は、土日をはずせば、めったに人に会うこともなく、静かな山歩きが楽しめるのだが、それは反面で、今日のような目に会うことにもなるのだ。
 しかし、何といっても、私は、この山々に登るために、この山々の見える十勝平野に住むために、都会の生活を捨ててやってきたのだから。
 長い歳月の間には、自分の最初の目的を忘れてしまい、今の生活に小さな不平不満を抱くようになるが、考えてみるがいい、最初の目的である、北海道に家を建て、住むという、単純な願いは、もうずっと前に達成されていることなのだから、何を今さら文句を言うことがあるだろう。

 今の家の、水まわりやトイレなどが不便だとか、将来ひとりでの老後はどうなるのだろうかとか、余計な心配はしないことだ。それは、家を建てた時から覚悟していたことだ。
 同じように、この日高山脈に多くのヒグマがいて、道もなくひとりで歩き回るには危険なことなど、最初から分かっていたことだ。

 だから、もう二度と同じ失敗を繰り返さないように、以後注意することは言うまでもないが、つい先ほど逃げていったヒグマのことを、いつまでも思い悩んでいても仕方のないことだ。
 すぐ下の鞍部、野塚平からの沢筋に下るルートは、3年前にもたどったことがあり、問題はない。あのヒグマがいたから、この辺りは彼の縄張りだろうし、もう他のヒグマに出遭う心配もないだろう。

 私は立ち上がり、さらにその尾根道を下り、すぐに野塚平に着いた。エゾシカの足跡が散乱するその裸地は、年毎に広がっているような気がした。
 北海道の山々の上から、平地の耕作地は言うに及ばず、我が家の庭にいたるまで、エゾシカの食害は大きな問題になっているのだ。
 
 さてここからは、あと20分足らずで野塚岳に登れるのだが、もう何度もその頂上には立っているし、何より、登る沢を間違えてすっかり時間がかかってしまった。ここはそのまま降りて行くことにしよう。
 カール状に開けた谷に向かって、背丈ほどのササをかき分けて降りて行く。ササは下向きの順目に生えているから楽だし、時にはその上を尻すべりしたりする。
 源流部のチョロチョロの流れが一度途絶えて、下のほうではっきりした流れとなって出て来ている。伏流水の水で、これなら安心して飲める。(北海道の川の水は、エキノコックス症の危険があり、むやみに飲んではいけないのだ。)
 そして、その辺りからの沢は先ほど登ってきた狭い沢と違って、左右がゆったりと開けて、草地の斜面には低いダケカンバの木が生えていて、その谷あいを細いしっかりとした流れが下っていた。

 水の流れの中を気持ちよく歩いて行くと、水辺には紫色のヒダカトリカブトや小さな白いダイモンジソウに、黄色のミヤマアキノキリンソウの花などが咲いている。
 私は、何度となく、立ち止まり腰を下ろしては、その沢沿いの光景を楽しんだ。
 先には、5mほどの小さな滝や溝状の滝などがあり、その水しぶきの中を降りて行けないこともなかったが、無理をしないで巻き道をして下って行った。
 そして、行きに間違えた分流点らしきところに来た。信じられないことだ。それは普通に沢を歩いていれば、まず間違えるはずもない所だったからだ。
 ただあの時、私が河畔林(かはんりん)の中の踏み跡がなくなったにもかかわらず、流れに出ずに、そのままヤブの平地をたどっていたからだ。そういえば、そこから沢に降りるときは、急な斜面だった。
 さらに、前に登ったことのある沢だから、迷うことのないやさしい沢だからと、たかをくくり、慢心(まんしん)していたからでもある。まったく、長い間沢登りをやっていて、情けないことである。

 思い返してみると、もうずいぶん昔のことだが、母が元気な頃、夏に九州の家に戻り、祖母山系のウルシワ谷に入り、同じようなミスをして、最後は岩稜の尾根に出て苦労したことがあった。
 沢登りの時は、常に地図と見比べて現在の場所を確認し、注意深く登っていくべきなのだ、当たり前のことだけれど。 

 さて、下流の方に降りてくると、川幅も広くなり、水の流れも多いから、余り川の中は歩いて行けなくなる。それで、川岸に続く河畔林の中の踏み跡を探して行くことになる。もっとも下りだから、そこでは、他の沢に入り込む心配はないからいいのだが。
 途中、川の真ん中にある平たい岩の上でゆっくりと休んだ。周りには激しい水の流れの音がしていたが、涼しくて実に静かだった。上流の方を見ると、遥か上の方に、野塚岳から続く稜線の一部が見えていた。
 あの出来事は、ずいぶん前のことのように思われた。しかし、なによりも、無事に戻って来れたことに感謝したい気持ちだった。

 結局、下りの沢のあちこちでのんびりしたために、野塚平の鞍部から3時間半近くもかかってしまい、余分な稜線歩きとあわせて、当初の予定からは2時間も遅くなっていた。
 空を見上げると、山の上に少し雲があるだけで、一日晴れの良い天気だった。前半、自分のミスで、危険な目にあったけれど、下りには、涼しい沢登りの楽しさしさを、十分に味わうことができた。

 沢を間違い、ヒグマに遭い、もう危険な山登りはこれで最後にしようと思ったのに、下に無事にたどり着けば、またいつか沢登りに行こうとも思う。
 人は、『喉もと過ぎれば熱さを忘れ』の諺(ことわざ)どうりに、どうしてこうも、懲(こ)りずに、次を目指す気になるのだろう。しかし、考えてみれば、それが生きていこうとする意志なのかもしれない。

 昨日、深夜から朝にかけて、何とあのドイツのバイロイト祝祭劇場からの、NHKハイビジョン衛星放送生中継による、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』の第一夜(二日目)になる『ワルキューレ』の舞台が放送されていた。
 しっかりと録画はしたけれども、6時間にも及ぶ番組だから、まだ見てはいない。ただ、思うのは、何という良い時代になったことかということだ。
 私たちの予想以上に、科学文化は進歩していく。今まで不可能だったものが、たやすく可能になる時代なのだ。しかし、どれほど人間社会が変わろうとも、地球自然という観点から見れば、殆んど変わらないものもある。

 生きていくことは、変わることであり、その流れの中にいることでもある。しかし、変わらないものの中に身を置き続けるということは、その反対に、生きてはいないこと、つまり生物としての死の世界にいることになるのか。それとも、変わらないこと、つまり永遠の中にいるということになるのか・・・。

 そんなことを考えながら、日々を生きていき、またミャオの家へと帰るのだ。ずっと猛暑日が続いている九州で、ミャオは元気にいてくれるだろうか。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(115)

2010-08-20 21:37:23 | Weblog



8月20日

 拝啓 ミャオ様

 家の前から、日高山脈の山なみが見えている。山の見える天気の日が三日も続くなんて、夏には珍しいことだ。そんな日に、山に登らないわけにはいかないだろう。

 前回の飯豊(いいで)連峰縦走から、もう3週間も間があいてしまった。いつものように、8月の初めには、この夏、二度目の大雪山のお花畑を見に行くつもりだった。
 もちろん、もう夏の花は終わり、秋の花の時期なのだが、楽しみは、雪渓が溶けた後に咲く、エゾコザクラやチングルマ、エゾノツガザクラなどの群落である。
 しかし、今年の夏は余りにも暑く、天気も一日すっきりと晴れてくれることはなかなかなくて、あの飯豊山での熱中症寸前のトラウマもあって、とても山登りに出かける気にはならなかった。
 そうして、暑さにまいりながらぐうたらに過ごしているうちに、早くも、お盆も過ぎて、そろそろミャオのいる九州に戻らなければならない日も近づいてきた。
 そこで、今の時期に最適な沢登りへと出かけたのである。

 しかし、それまでの二、三日は、雨が降っていて、街に出かけたときに見た、日高山脈の山々の水を集める札内川の水位は、いつもと比べればずっと多かった。(ちなみに、札内川はアイヌ語のサツナイから来た言葉で、その意味は、水量の少ない乾いた川である。)
 前日にはあの、日高山脈中ノ川での東京の大学生たちの鉄砲水による3名もの遭難死が伝えられたばかりであった。(あの若さで、と思うといたたまれない気持ちになる、本人はもとより家族にとっても。)

 そこで、水量が増えていても、このぐうたらなオヤジでも比較的楽に登れる沢はというと、まず思いつくのは、日高山脈は野塚岳(1353m)の豊似川支流ポン三の沢からの北面の沢である。
 沢登りを楽しむだけなら、まだいろいろと美しい沢もあるのだが、私は、そうした沢から沢へとその上り下りを楽しむような、いわゆる沢屋(沢登り専門の人たち)ではないし、山岳展望を第一と考えているから、どうしても沢詰めをして山頂に至りたいのだ。
 つまり夏の暑い尾根歩きを避けて、涼しい沢から頂上にたどり着くという、まさしく一石二鳥の夏の登山方法なのだ。
 そしてこの、日高山脈の山々には、いわゆる登山道が整備された山が少なく、この夏の沢登りか、冬から春の積雪期の尾根ルートで登るしかない山々が数多くあるのだ。

 私も、そうした沢登りによって初めて頂に立った山が幾つもあり、野塚岳もその一つである。いわゆる天馬街道(てんまかいどう)と呼ばれる、十勝と日高を結ぶ国道の開通以来、一気に南日高の山々へのアクセスが便利になり、いろいろなルートを選ぶことができるようになったのだ。
 特にこの野塚岳は、南北のトンネル出口傍からすぐに取り付けることもあって、夏の時期、雪の時期を含めて何度も繰り返し登っている山でもある。(前回は、春に野塚岳近くの尾根を登っている。4月28日の項参照。)

 その野塚岳の沢登りによるルートは、トンネルの南、北からのものと、東面の広尾の野塚川からのものがあるが、最もよく登られているのは、適度な滝や、ナメ(河床が滑らかな一枚岩ふうなところ)がある日高側、つまりトンネル南側のニオベツ川直登沢からのものである。
 そのうちの、十勝側、北面からの沢は、小さな滝が幾つかあるだけで、ザイルがいるほどの困難な所もなく、いわゆる熟練の沢屋などには、取るに足りない沢だろうし、下り用として利用されるほどなのだ。
 
 しかし、体力の衰えを感じる今の私にとっては、まさにうってつけの沢でもある。あーあ、その昔は、とある北アルプスの山小屋のオヤジさんに、岩塊帯を巧みにに歩いて行く様を見られて、「ただものじゃない」とまで言われたことがあるのに、この今の、ぐうたらなメタボおやじのていたらくは、情けないばかりだ。

 ともかく、久しぶりの沢登りだ。家を出てしばらく走り、野塚トンネル北の、他に車もいない駐車場にクルマを停め、ウェディング・シューズ(底がフェルト地の沢靴)にはきかえて出発する。7時だった。  
 気になっていた沢の水は、激しく水しぶきを上げて流れていて、いつもの夏の時期はもとより、雪解けの時期よりも多い水量だった。
 普通ならなら、水の中を行けるのだが、流れの勢いが強く、川岸や河畔林の踏み跡をたどりながら行く。
 その踏み跡道の上に、ヒグマのフンがあった。数センチはあるその直径から見て、かなりの大物らしかった。形が崩れていないということは、雨の降ったのが三日前だから、昨日か一昨日かのものだろう。余りいい気分はしない。

 沢の流れの音の中で、鈴を鳴らしながら歩く。先で踏み跡が分からなくなったが、そのまま山すそ沿いに行って、先のところで、再び沢に降りた。流れが、いくらか狭くなり、小さな滝が幾つか出てきたが、ともかく水量が多い。
 明るく開けた二股に出た。しかし、途中でも少し気になっていたのだが、何かが少し違うように思えた。高度計と地図で確かめる。
 なんと、これはたどるべき本流の沢ではない。しかし、間違えたあの分岐点からは、1時間近くも登ってきている。戻るのも時間がかかるし、それほど難しい沢ではないだろうからと、登って行くことにした。地図を見ると、野塚岳西峰の北1260m標高点に出るようだ。

 しかし、問題はそう簡単ではなかった。滝は小さいのだが、滑りやすいうえに水量が多いから、その中をシャワー・クライムだと登って行くわけにはいかない。それは、今日は簡単な沢登りだからと、デイパックの防水対策を十分にしてこなったからでもある。
 その滝を登らなければ、巻く(両側の斜面に回り込む)しかなく、そうすれば斜面の低い木々やササのブッシュをかき分けて行かねばならず、余分な体力を使う。

 とは言っても、明るい沢で、行く手には常に青空が見えているし、水しぶきと、吹き上がる風で涼しく、沢登りの爽快さが十分に味わえるのだ(写真)。水辺には、ヒダカトリカブトの鮮やかな紫色の花と、白い大の字の形をしたダイモンジソウの花が咲いている。
 やがて、ふかふかのコケに被われた流れの先からは、水が少なくなり、ついに背丈を越すササのヤブの中に入って行く。しかし所々、下の方には、エゾシカの踏み跡もある。頭上が明るくなって、ハイマツが見え、稜線に出た。

 地図上の1252m点手前の所だった。ハイマツをかき分けて、その1252m点の高みに着く。3時間以上かかっていた。
 空に少し雲が出ていたが、よく晴れていた。南に続く稜線の先に、双耳峰(そうじほう)の形で、野塚岳とその西峰が並び立ち、その間から、楽古岳も見えていた。
 一休みした後、稜線をたどって行く。雪に被われている時期に、何度か歩いたことはあるが、夏の時期は初めてだ。ハイマツやミヤマハンノキなどの低い木々がうるさく、かき分けていくと、少し下の南西斜面側には、人とシカなどが作った踏み跡があり、それをたどって行く。

 とその時、右斜め後の方で、ガサガサと大きい音がして、振り返ると。かなり大きなヒグマが一頭、体の肉を震わせて、その下にある低いダケカンバの林に向かって、逃げ去っていく所だった。
 私は、呆然として、その姿を見ていた。その距離、わずか50m足らず。

 私は、ヒグマが林の中に入り姿が見えなくなった後も、そのまま鈴を鳴らしながら、稜線を歩き続けた。時々後を振り返りながら、ともかく西峰の頂にたどり着かなければと。
 暑い日差しに照りつけられ、喉はからからになりながら、ただひたすらに、斜面からハイマツの稜線に上がり、頂上を目指した。1252m点から、1時間近くかかりようやく、ハイマツに囲まれた野塚岳西峰(1331m)に着いた。

 ヒグマの入って行ったダケカンバの斜面は、そこからは見えなった。しかし、まだ気になるし、そのうえに風がさえぎられていて暑かった。
 すぐに立ち上がり、その頂からハイマツの中の踏み跡をたどり、野塚岳との鞍部(あんぶ)へと下って行った。途中の風が吹き渡る小さなコブの所で、ようやくゆっくりと腰を下ろした。
 正面には、堂々たる野塚岳の姿が見え、その右手には、オムシャヌプリ(1379m)の双耳峰と十勝岳(1457m)、楽古岳(1472m)が見えている。

 見たばかりのヒグマのことが、頭から離れなかった。危なかった。ただ、幸運なだけだったのだ。
 まず第一に、人の入らないような沢に、入り込んだのが初歩的なミスであり、戻らなかったのがさらに大きな間違いだった。もし何かあったとしても、誰かに助けを呼ぶことさえできない無名の沢なのに。
 思えば、若い頃からこの年になるまで、殆んどひとりだけの単独行の登山を続けてきて、よく数々の危い所を切り抜けてきたものだと思う。まして、殆んど人と会うことのない日高の沢を、何度となく、たったひとりで登ってきたのだから。今にして、その無謀と紙一重の山行の幾つかがが思い出される。

 ヒグマに出遭(であ)ったのも、私が悪い。夏の道もない稜線を歩く人間などいないから、ヒグマは、安心して風の当たる草の斜面にいたのに。
 ただ、聞ききなれない鈴の音と、大きな身振りで歩く人の姿を見て驚いたのだ。
 もし鈴の音も鳴らさずに、私が歩いていたら、風上側のヒグマのほうからは、私の足音などは聞こえにくく、もっと近い距離で出遭っていたかもしれない。
 そうすると、隠れる場所も木さえないこの稜線で、私と同じくらいの身長があり、体重も百数十キロ以上はありそうな、あのヒグマが反撃のために襲ってきたかもしれない・・・。

 北海道のヒグマによる登山者殺害事件は、あの有名な、日高山脈はカムイエクウチカウシ山(1979m)での、福岡大学ワンゲル部の3人の犠牲者が出て以来、もう40年もの間起きていない。
 毎年のようにニュースになる、ヒグマ殺傷事件の多くは、春や秋の、山菜採りやキノコ採りなどによるものが殆んどである。
 しかし、伝えられる事件の他に、登山などで山に入って、いまだに行方不明という事案が幾つもあることも確かなのだ。

 今回のことは、大きな意味で言えば、ヒグマが悪いわけではない。無警戒に彼らの生活圏に入り込んで驚かせた私が、明らかに悪かったのだ。そしてすぐに逃げてくれて、運よく私が襲われなかっただけのことだ。
 一昨年の、晩秋の日高山脈の剣山(つるぎさん、1205m)でも、ヒグマに遭っているのに。(’08.11.14の項)

 ただただ、私が幸運なだけだったのだ。母さん、ミャオ、お二人のご加護の下、生かされております。ありがたく感謝するばかりです。

 この沢登りの項は、次回へと続く。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(114)

2010-08-16 18:34:26 | Weblog
 

8月16日

 拝啓 ミャオ様

 昨日は、朝からの雨が降り続いて、気温も22度くらいと涼しい一日だったのに、何も仕事はできなかった。最近よくかかるようになった、鼻風邪で頭が痛かったからだ。

 この頭痛は、風邪薬を飲めばがすぐにおさまるのだが、寄る年波のことを考えて、なるべく薬を飲まずに済ませたいと思っている。
 もう一年前くらいのことだが、最近流行の免疫療法(めんえきりょうほう)なんぞの本を、本屋で立ち読みしてみると、「風邪をなおしたければ薬は飲むな」などという、過激なことが書いてあるが、それも読み進めばなるほどと思えたのだ。

 ともかく、今まで飲んでいた市販の風邪薬をやめてみた。しかし、相手は薬を飲みたいと思うほどに、ガマンできない頭痛だ、あー痛いと言いながら耐えられるものではない。
 自分でできるツボを押さえたり、ネギを鼻に突っ込んでみたり、ぬるま湯で鼻うがいしたり、蜂蜜プロポリスをうがい飲みしたりしたけれど、効果はない。
 そこで、さらに思い出したのは、体を温めればよいといった類のことがその本に書いてあったことだ。

 まず押入れから、冬用の小さい貼るカイロを取り出した。このカイロは、秋から冬、春先にかけて、寒い山で写真を撮る時に、カメラのバッテリーを温めるためにいつも常備してあるものだ。そのカイロをタオルに貼って、首筋やうなじに当たるようにして巻きつける。ついでに、日本手ぬぐいで頭に強めにハチマキをする。
 自分で鏡を見ないから、分からないけれども、鬼瓦(おにがわら)顔にタオルのマフラーと鉢巻の姿。知らない人が見たならば、あの品川は鈴ヶ森処刑場のさらし首かと、見間違えたに違いない。
 ちょうどお盆時だし、母のお盆供養のためにつけてある、くるくる回る常夜灯(じょうやとう)に照らし出されて、我ながら、ああ、恐ろしや。
 
 このスタイルを思いついたのは、昔の時代劇で、病気の殿様が長めの鉢巻(ハチマキ)をして、「あーゴホゴホ、九太夫、そちのよきにはからえ。」と言って再び床に伏せ、それをよいことに悪だくみを働こうとする、悪家老九太夫が不気味に笑うシーンなどを覚えていたからだ。
 しかし、このカイロとハチマキが効くのだ。少しずつだが、その頭痛が治まってゆき、夕方までには直ってしまう。もちろん、これは私の体質に合うというだけのことで、誰にでも効くということではないだろうが、ともかく私には安上がりの治療法なのだ。

 思えば、その前の日に、少し外での片付け仕事をして汗をかき、久しぶりにゴエモン風呂をわかして入ったりして、その後パンツ一枚姿(ああ見たくもない)でいたからだろうか。
 あの日は、晴れて少し暑くなったけれども、風がさわやかで、外に出て仕事をしたくなったのだ。

 庭の隅には、いつもより1ヶ月ほども早く、2m近くにも伸びたオニユリが咲き始め(’09.9.16の項参照)、そこにはキアゲハ(写真)やカラスアゲハが集まってきていた。その他にも、あのキベリタテハも日陰になった所を飛び回っていた。
 この家の庭には、ジャノメチョウ科やタテハチョウ科の蝶が多いのだが、このキベリタテハを見たのは久しぶりで、しみじみと見入ってしまった。(写真は撮ったが、ピントがシャープに合っていなかったので、割愛する。)
 それにしても、あの黒に近い濃い赤紫の地色の羽の端に、コバルトブルーの斑点を並べ、その外側に名前の由来でもある、黄色で縁取られた色合いを見ると、私はいつも、まるで帝政ロシア時代の貴婦人が着ているかのようなビロードの上着や、あるいはさらに大きな、舞台やスクリ-ン前にに引かれた緞帳(どんちょう)を思い出すのだ。
 
 前回、私は、自分の思うままに、素人(しろうと)批評家の勝手さで映画批評をひとくさりしたけれども、それはあくまでも映画を芸術作品として意識したものについてであり、映画の様々なジャンルまでをも包括して言ったわけではない。
 それは例えば、私は見ないけれども、ハリウッド式のスペクタクルやアクション、ホラー映画には大衆受けする面白さがあるだろうし、ミュージカルには音楽映画としての楽しさがあり、ドキュメンタリー・タッチの映画には記録としての貴重さがあるだろう。
 つまり、映画は、個々人がその多様な楽しみを、作品ごとに選び取ればいいだけのことだ。

 それでも、私は、あのルミエール兄弟の世界始めての『列車到着』(1895年)映像フィルム以来、映画が目指してきたものは、一つには確かに、最近のコンピューター・グラフィックスや3D技術などによる最新映像表現の面白さにあるのだろうが、それ以上に、人々が得た新しい映像媒体による芸術表現であると信じている。
 それは、映画を見ては、ゲラゲラ、シクシク、ドキドキ、ウットリなどと、笑い泣き叫び夢見るような、直接に人間の感情に訴えかけてくるものと、難しいテーマを提示され、自らの考え判断を迫られるような映画との違いである。一過性の感覚の楽しみと、後々まで考え続けることになる楽しみとの違い。
 
 前回にも書いたように、そんな映画芸術として常に私の念頭にあるのは、例えば生と死などの重い主題を、絵画的に構築された背景の中で描いたイングマール・ベルイマン(1918~2007、『叫びとささやき』などの作品があり、それらの多くは心理描写に徹底した舞台劇的作品でもある)や、アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986、『ノスタルジア』他)、テオ・アンゲロプロス(1935~、『旅芸人の記録』他)などが作る作品である。
 さらに、普通の人々の日常の一断面を切り取って、劇的な人生の真実を描いた、フランソワ・トリュフォー(1932~1986、『隣の女』など)やエリック・ロメール(1920~2010、『緑の光線』)などの、フランスの監督たちの作り出した映画も、深く人生を考えさせられる。
 つまり、これらの映画は、面白いから当たるからとして作られた作品ではなく、自分の映画における芸術的信念として作られているのだ。

 もちろんそこには、フランスなどのように、国が自国文化の保護に熱心であり、映画の制作費を補助するなどの場合と、アメリカのように、商業資本によって、新たなお金を生み出すために作られた映画との差があり、基本的な出発点が違うのだから、議論の争点にはならないのかもしれないが。
 日本映画は、残念ながら、アメリカ映画に近い立場にあり、まずは最大の観客層である若者向きに考えられ、興業的に成功することが求められている。だから、若者が見ようともしない芸術的に意図されて深く考えさせるような映画は、作られにくいのだ。
 もちろん、私は日本映画の例えば、黒澤明、溝口健二、小津安二郎などの作品群を高く評価している。しかし最近の日本映画で、感動したものは残念ながら一作品もない。余り、見ることはないし、期待はずれになるから、また見なくなるという悪循環だ。
 ただ、あの河瀬直美監督の『殯(もがり)の森』(2007年)は、日本的な茶畑のシーンなどが美しく、将来の作品をも期待させるものだったが。
 
 私が映画に求めるもの、それは単純なことだ。映画を見ていて、疑念をさしはさませないもの、つまり、ここはおかしいとか、変だとか思わせないものであれば良いのだ。
 なぜなら、疑問を感じた瞬間、その映画を十分には楽しめなくなってしまうからだ。

 ここで、畏(おそ)れ多くもあの黒澤明監督の名作、『羅生門』(1950年)について言えば、(繰り返すけれども、この作品はあの『七人の侍』(1954年)と伴に日本映画の1、2位を争うものだと信じている。)しかし、せっかくの主役三人による、見事な幻想劇の後に、再び雨の羅生門に戻っての、僧や男たちの余分な教訓話は要らなかった。
 とは言っても、印象に残る名シーンは多い。例えば、盗賊の男が女を手ごめにするシーンで、下になった女が見上げる木もれ日のきらめきの美しさ。
 これは、後年、あのイギリスの名匠デイヴィッド・リーンは、『ライアンの娘』(1970年)の中の不倫の恋の逢引のシーンで、同じような美しい枝葉のきらめきのカットを入れていたことを思い出すし、逆に、白砂のお裁きの場に引き出された女のシーンでは、あのカール・ドライヤーの名作『裁かるるジャンヌ』(1928年)を思い浮かべずにいられない。

 ここまで書いてきて思うのは、私のベスト5の映画として(それは何も上にあげた監督たちの作品ばかりではないのだが)、心に残る一作、あのシェンゲラーヤ監督の『ピロスマニ』(1969年)を、何とかしてもう一度見たいということだ。
 有名な『百万本のバラ』の歌の主人公でもある、薄幸のグルジア人画家、ピロスマニ(1862~1918)の半生を描いた映画であり、そのセリフの少ない、静寂さをたたえた絵画的映像に、私は深く打ちのめされ、感動した記憶があるからだ。
 今、DVDは売り切れ絶版だし、中古で買うには余りにも法外な値段だし、ここはNHK・BS放送に何とかお願いするしかないのだが。

 長々と映画のことについて書いてきたが、とてもこのくらいでおさまりきれるはずもない。私の人生における、偉大なる師でもある映画については、恐らくここで一年かかっても、書き尽くせることはあるまい。
 良き映画の前では、私はいつまでも、尊敬する師の前にいる、思い悩むただの一生徒でしかないからだ、幾つになっても。

 今日は晴れ後曇りで、日中は30度まで上がったが、家の中は、クーラーなしでも24度と涼しかった。内地では、猛暑日になるほどの灼熱の太陽が照りつけているという。ミャオは元気でいてくれるだろうか。

                       飼い主より 敬具

 


飼い主よりミャオへ(113)

2010-08-12 18:21:27 | Weblog



8月12日

 拝啓 ミャオ様
 
 前回書いたように、暑い日が続いた後、一昨日の30度をはさんで、曇り空や今日のような雨の日もあって、24度くらいの涼しさになってきた。これでよしと。
 特に三日前は、急に涼しくなって、午前中でも21度くらいまでしか上がらず、2時間ほどかけて、残りの草刈の仕事をやり終えた。十日もかかったが、ようやくすっきりとして気分がいい。

 そのことを、近くにいる友達に話したら、「たかが草刈に、時間かけすぎだぁ。もう草生えてるわ。」と笑われた。確かに、10日前に最初に草刈を始めた所は、さすがに夏草の勢いで、もう気になるほどに伸びていた。
 しかし、たとえ一日二日でこの仕事を終わらせることができるとしても、あのエンジン刈り払い機を買ってきて、草刈をしたいとは思わない。時間の無駄、労力の無駄とわかってはいても、今までどおりに、やり続けなければならないこともあるのだ。

 それは、考えてみれば、理屈ではなく、自分の意地でもあって、いわゆる年寄りの頑固さ偏屈(へんくつ)さは、こんな所から始まるのかもしれない。
 さらに付け加えれば、草刈の苦労に耐えた彼方にあるはずの、ささやかな達成感を求めて、つまり、タイツ姿の女王様にムチで叩かれる喜びとかいう、そんな自虐的な体を痛めつけるマゾ的な傾向があるという訳ではなく、ただ苦痛から解放された後に、その自分の成し遂げた成果を、眺めることのできる喜びからだということなのだ。
 それは、あの飯豊山(いいでさん)は足の松尾根での、長い苦痛から、いつしか意識を失う寸前にまでなった状態の後、ようやく山々の展望を得た時の喜びと似ている(7月30日の項)。

 ともかく、当面の草刈作業を終えて、さらに涼しくなったこともあって、録画していた番組のいくつかを見た。(この前の暑い時には、部屋でテレビを見るのさえイヤだった。テレビからの放熱で、部屋がさらに暑くなるからだ。)
 
  その録画番組の一つが、『劔岳(つるぎだけ) 点の記』(2008年 木村大作監督)である。
 明治時代に、当時の陸軍参謀(さんぼう)本部に属していた陸地測量部が、まだ空白地として残っていた、前人未到の剣岳への登頂を命じられ、日本山岳会との初登頂争いもからんで、ついにはその測量登山を成し遂げるという話である。
 この映画は、その公開前から、華々しく宣伝されており、私ならずとも、山好きな人ならぜひとも見たいと思っていた作品なのである。

 山岳文学の第一人者であった、新田次郎の数ある小説の中では、『孤高の人』と伴に、1、2位を争う作品だけに、ましてその背景になる剣岳(つるぎだけ、劒は旧字)の姿を思うと、すぐにでも映画館に行きたくなるほどだったのだが、生来の出不精と、何か気になるところがあって、いつかテレビで放映されるだろうからと、見ないままだった。
 そして先日、民放で放送されたものを録画して、11箇所ものCM部分を削除、編集して、ようやく前編を通してゆっくりと見ることができた。

 本来、公開時の139分のものが、テレビ用に124分に短縮されていたから、正当な評価はできないのだが、それでもやはりこの映画については、若干の批評をしたくなる。
 まず、第一にスクリーンに映し出された、剣岳他の山岳風景に関しては、その雄大なスケール感にただただ圧倒されるばかりだった。惜しむらくは、山々の姿をぐるりと映し出すシーンで、キャメラを早く移動させすぎであり、できることならそこには、写真鑑賞的な長めな時間がほしかった。
 それにしても、室堂(むろどう)、立山(たてやま)、別山(べっさん)、剣御前(つるぎごぜん)から、さらに馬場島(ばんばじま)や裏剣(うらつるぎ)の仙人池などからの、剣岳の姿をとらえた映像には、そのたびごとに感嘆の声をあげるほどだった。
 
 日本の山の中から、一つだけを選べといわれれば、ランドマーク(目印)としての富士山や槍ヶ岳と、他にも南北アルプスの山々や北海道の山々の間で、思い迷うことになるだろうけれども、好きな山を二つだけといわれれば、即座に返答できる。この剣岳(裏剣から小窓、大窓などを含む)と、穂高連峰(西穂から北穂までを含む)である。
 それほどに私の好きな山であるから、もちろん登ったこともあるし、それらのほとんどの方向からも眺めている。
 私の剣岳の思い出の一つは、まず登った時のことよりも、あの仙人池周辺から眺めた八ッ峰の姿である。ずいぶん前の話だが、まだ小屋のオヤジさんが元気でヘリコプターで来ていた頃で、その時の小屋のかあさんの笑顔と、地元富山コシヒカリのご飯の味がが忘れられない。

 そしてもう一つは、三年前の、あの晩秋の立山連峰周遊の山旅だ。
 どうしても、晩秋(初冬)の雪に被われた剣岳(2998m)の姿を見たかったのだが、ああ果たせるかな、天は私の願いを聞いてくれて、四日間の室堂滞在の間、三日間も続く快晴の空で迎え入れてくれたのだ。(いつもの、2ヶ月前予約のバーゲン飛行機切符でやって来たのに。)
 一日目は、午後から雲が取れ始めた立山の雄山(3003m)に登り、二日目には快晴の空の下、剣御前(2776m)と別山(2874m)から心ゆくまで、新雪の剣岳を眺め(写真)、三日目には、さらに続く快晴の天気の中、浄土山(2831m)、龍王山(2872m)、立山(雄山、大汝山、富士ノ折立)、真砂岳(2861m)へと縦走し、四日目にその立山を離れた。

 雪は稜線の吹き溜まりで1mくらいだったが、多少ピッケルを使うところがあっただけで、青空の下の立山、剣岳の姿を眺めながらの山上漫歩(まんぽ)を楽しむことができた。
 殆んど人に会うこともない、静かな雪山歩きの丸三日間、何と言う幸せなひと時だったことだろう。それは、私の長い山行歴の中でも、恐らくは五本の指に入るだろう思い出深い山旅だった。

 映画では、その岩を張りめぐらしたような、厳しい剣岳の表情が、春夏秋冬それぞれの姿でよくとらえられていた。
 さらに、遠くからのロング・ショットで、豆粒のように見える測量隊一行が稜線や雪渓を歩いて行く姿には、大自然に挑む人間たちとの対比が見事に描き出されていた。
 あの弥陀ヶ原の南、立山カルデラ内にあった旧立山温泉を拠点にして、測量隊の一行が、馬場島に室堂に剣沢にと幕営(ばくえい)地点を移して行動するさまも、よく見て取れた。

 何より、今から百年も前の明治時代末期に、長次郎を初めとする山案内人たちが、脚絆(きゃはん)にワラジ、蓑(みの)笠姿で、十貫目(約37kg)前後もの荷物を担いで、よく山に登ったものだと感心するが、そのスタイルを忠実に追って、実写撮影していったこの映画のスタッフたちの苦労が思いやられる。
 その年の日本アカデミー賞などでの、数々の受賞は、そんな彼らスタッフへの、努力賞としての意味合いが大きかったのではないだろうか。

 つまり、厳しく言えば、彼らの努力は分かるけれども、映画としての、完成度については、私は、やはりそうだったのかと軽い失望感を抱いたのだ。
 今も手元にある、新田次郎の原作本を詳しく読み直す余裕はないけれども、確かにこの映画は、その原作に沿ってかなり忠実に描かれているとは思う。しかし、これは、その史実をドキュメンタリー・タッチで描いたものでもなければ、小説の完全映画化でもない。
 つまり、小説の概要をまとめた、ドラマでしかないという点だ。さらに厳しく言えば、日本映画にありがちな余分なセリフ、感情過多な表現に、どうしても私は、日本の大衆芸能の臭いを感じてしまうのだ。
 もちろん、私は歌舞伎や人形浄瑠璃(じょうるり)をはじめとする古典芸能を見るのが好きだし(7月10日の項)、講談、浪花節、落語にいたるまでの大衆芸能を、しばしばテレビなどで見ては聞いては、楽しんでいる。
 それらは、私たち日本人の心の琴線(きんせん)に触れる芸能の系譜でもあるし、重要な文化遺産でもあるからだ。

 しかし、私は映画による映像は、現実に目の前で展開される芝居演劇とは、まったく別の表現世界だと思っている。
 時間と同時進行の中で、偶然性をも取り込んで一過性として進行する舞台劇と比べれば、映画は、はっきりと作者の意図を映像化するために、何度もその効果を考えて作り直すことができるし、最終的に時間空間を越えて、自分の表現する唯一の世界を作り出していく、ひとつの動く映像芸術なのだ。
 それはまた、絵画や文学などの芸術世界に近いというよりは、ある映画監督が言っていたことだが、むしろクラッシック音楽の世界に似ているとも思う。

 考えてみれば、私の愛するヨーロッパ映画などでは、そのことをはっきりと意識していて、自分の信じる芸術世界だけをひたすらに表現していくか、あるいは観客側の反応や感情を巧みに利用して、自己の芸術世界に引き込むかといった、明確な自己主張に溢れているものが多い。
 しかるに、日本の場合、それは歌舞伎や浄瑠璃以下の演芸に見られるように、筋立てと盛り上がりの場面での、ある種のミエをきることが重要であり、誰にも分かりやすいようにと、親切にもその愁嘆(しゅうたん)場を指し示してくれるのだ。
 そのスタイルをそのまま、映像世界に持ちこみ、映画化したところで、単なる舞台の映像化にしかならないのだ。もちろんそれはそれで、記録的にも大いに価値のあることではあるが。

 多大の顰蹙(ひんしゅく)をかうことを覚悟で言えば、この映画『劔岳 点の記』におけるセリフの半分以上を削除したいし、彼らや彼らの妻たちがが涙を流すのは、できるなら一場面くらいにして、他はすべてカットしたい。感動は、役者たちの涙から生まれるものではないからだ。
 例えばそのラストシーンは、私ならこうしたいと考える。
 
 前人未到と思われていた剣岳山頂で、錆び付いた剣と錫丈(しゃくじょう)の頭を発見した時に、彼らは、その昔、様々な艱難困苦(かんなんこんく)を排して、一人で登ったであろう、信心深く勇猛果敢な行者のことを思い、長次郎他の山案内人たちは、その場で笠を脱ぎ、はちまきの手ぬぐいを取り、ひざまずいて手を合わせ、測量官柴崎の目には一筋の涙が流れる。
 頂上にいる彼らの姿が薄れていき、やがて重なるように、巨大な剣岳の姿が画面いっぱいに広がり、そこにテロップ(字幕)として、彼等のその後の経過が流れる。・・・一行が登った雪渓の谷は、その後、長次郎谷と名づけられ、柴崎がその頂上の4等三角点で測量した剣岳の高さは、近年GPSで測量された数字とさしたる違いがないほどに、正確なものだった。・・・そして終わりの文字が映し出される。

 何も原作どおりに、総花的にすべてを描き出そうとするのが、映画の本質ではない。映画とは、映像フィクションとしての確固たる一分野を画する芸術なのだ。絵画や音楽がそうであるように。
 何も、出演者にすべてを語らせることがドラマではない。沈黙の時間は、その中にこそ、それぞれの人の思いが錯綜(さくそう)する、重要なひと時なのだ。

 そこで、ある映画のことを思い出した。映画全体としてみれば、さほど名作と呼べるほどの作品ではなかったのだが、あのロミー・シュナイダーとジャン・ルイ・トランティニアンが演じた『離愁』(1973年、原題は『列車』)のラストシーンほど忘れられないものはない。
 戦時下のフランス。ドイツ軍進行から逃げるための列車の中で、ある女とゆきずりの一夜を伴にした男が、3年後にゲシュタポに捕らえられたその女に面通しをされる。そんな男は知らないとシラを切るレジスタンスのユダヤ人女に、男は自らの危険を顧(かえり)みずに、彼女をその腕に抱くのだ。

 その時の、相手役ロミーー・シュナイダーの表情・・・。
 映画はそこで終わる。彼らが引っ立てられて、銃殺になる所までを、映し出す必要はないのだ。
 なぜなら、この映画の伝えたいことが、究極の状況にある時、人はどうするのか、相手が昔の恋人だとしたら、という重い愛のテーマだったからだ。

 私は、昔の恋人に対する自分の不実さと合わせて、このシーンを見ながら涙を止めることができなかった。後悔するほどの人生ではなかったが、私には、余りにも懺悔(ざんげ)するに値するほどの心変わりが多すぎたのだ。
 それらのすべての報いを受けて、こうしてひとりでいるのだ。やがては、ひとりで死んでゆくために。
 ただその時のために、自分だけのためにも、これからも強くあらねばならない。
 
 雨が降っている。木々の枝葉のしずくを受けて、音が聞こえる。もうずっと、変わることなく、静かに雨が降り続いている。
 雨は晴れた空を憧れ、青空は雨粒を思うだろう。

 ミャオ、オマエのことは決して忘れていないからね。暑くてつらいだろうがもう少し、辛抱しておくれ。

                      飼い主より 敬具  


飼い主よりミャオへ(112)

2010-08-08 17:51:24 | Weblog



8月8日

 拝啓 ミャオ様

 夏の盛りに、当たり前のことを言いたくはないのだけれども、ただただ、毎日暑いのだ。
 8月4日から最高気温は、32度、35度、35度、そして今日31度と続き、さらに夜になっても27度前後までしか下がらず、最低気温も20度から25度と、殆んど内地(北海道以外の日本)の気温と変わらない。
 さらに、つらいことには、北海道の殆んどの家にはクーラーがないように、我が家にもそんなものがあるはずもなく、小さな扇風機が一台あるだけだから、まさしく熱帯夜の中で汗を流して、寝ている始末だ。
 暑さに弱い私だから、この北海道に来ているというのに。
 
 遠い昔の話、東京に住み始めたばかりの頃、私はアパートの一室に住んでいた。まだその頃は、クーラーは一般家庭には普及しておらず、デパートなどの大規模店舗か、映画館やパチンコ店などにあるばかりだった。
 そのおかげで、私はさらに映画が好きになり、今に至るまでの映画ファンになったのだが、一方、パチンコ店へは、なんの見返りもない多くの投資をしてしまい、結論として、賭け事の何たるかを思い知らされたのであり、その後二度と店に立ち入ることはない。
 そして暑くて汗だらけになるから、毎日欠かさず、近くの銭湯に通うことになり、子供時代からを通じて、それらの銭湯で、周りの大人たちとの付き合いの中から、数多くのことを学んだのである。ある人たちが、幼稚園の砂場で多くのことを学ぶように。
 さらに、当時、そんな暑い扇風機しかない部屋に、訪ねてきてくれる彼女もいたのだ。夜の暑さをもしのぐ、若い熱い心で。

 そうして考えてくると、あながち暑かったことが、悪い思い出ばかりではなかったような気もする。
 それは、前回まで書いてきたあの飯豊山(いいでさん)での、熱中症にかかるほどだったひどい暑さと、この4日間の耐え切れないほどの暑さが、私の悪い思い出ばかりにはならなかったように。

 この4日もの間、相変わらず続く、朝早いうちの1時間ほどの草刈をした後は、動く気にもならず、ただぐうたらに昼寝して、本を読んだり、テレビを見たりしていただけだ。
 最初の30度を超えた日は、まだ余裕があった。外は32度でも、丸太作りの家の中は、締め切っておけば、26度くらいで過ごしやすかったからだ。
 しかし、次の日から、さらに気温が上がり猛暑日なると、さすがの丸太小屋の中でも28度くらいにまでなって、それにもまして、北海道とは思えないぐらいに湿度が高く、むしむしとした熱気がこもっていた。まったく、あの内地の蒸し暑い夏そのものだったのだ。

 前回に書いたように、いつもの北海道なら、日中にいくら30度を越えても、からっとした暑さであり、日陰では爽やかな感じで、そして夕方からは涼しくなり、朝方は夏ブトンにくるまるほどに寒くなるのに。あの、爽やかな北海道の夏はどこへ行ったのだろう。
 ちなみにと思い、去年の同じ頃に、30度まで上がった前後の日の最高気温を調べてみる。2009年8月8日~11日、25度、27度、31度、21度であり、最低気温は、15度から18度である。

 そんな暑さだから、1日中ぐうたらに過ごし、まして暑さのこもる屋根裏部屋に置いてある、パソコンの傍には行きたくもなかった。
 こんな暑さなら、むしろ九州のミャオの傍にいたほうがいいと思えるくらいだ。あの家には、少し古くはなったけれどクーラーが置いてあるし、風呂にだって毎日入れる。

 そうなのだ、ここでは離れた掘っ立て小屋に、ゴエモン風呂はあるが、とてもこの暑さの中では、薪(まき)を燃やす気にはならない。朝、草刈の後の汗びっしょりの体を、行水で洗い流し、夜さらに体がべたついて寝られないから、体を吹くという毎日なのだ。
 あーあ、クーラーのきいた部屋で、ミャオをなでながら、ゆっくりと本でも読んでいたかったのに。
 
 しかし、思えば、人様が働いている時に山旅を楽しんでだりして、キリギリスの生活をしていた私への、それ相応の報いなのだろう。良いことの後には、何か良くないことがあるものなのだ。

 そんなある日、家の裏側にある窓辺に、暑い日差しを避けるように、一匹の蝶が止まっていた。エルタテハである(写真)。内地では高山蝶だけれども、北海道では平地から見られて、それほど珍しい蝶ではない。
 しかし、よく見ると、もともと大きく波打った形の、特徴ある羽がさらに少し磨り減っていた。彼は、その残り少ない命を、大切にするかのように、真昼の暑い日の光を避けて、日陰に休んでいたのだ。

 暑い時には、無理をしないことだ。そんな時には、何もしなくていい。ただ、時が過ぎるのを待つことだ。それもまた、生きていることなのだから。神に与えられた、小さな自分の命を守ること・・・。
 毎日の暑い、つらい日々が続く中で、あの一匹のエルタテハが、私に教えてくれたこと。

 「死は、われわれにとって何ものでもないと正しく認識するなら、死すべきものであるこの生を楽しいものにしてくれるが、それは、この生に無限の時間を付け加えることによってではなく、不死への空しい憧れを取り除くことによってそうするのである。(エピクロス)」
 (『ギリシア哲学者列伝(下)』 ラエルティオス著・加来彰俊訳 岩波文庫)

 ミャオ、全身毛皮のオマエは、さらにつらい夏だろうが、何とかガマンして耐えしのいでおくれ、必ず涼しい風の吹く日はやってくるのだから。

 夕方になって、霧がかかりそうな曇り空になり、ひんやりとした冷たい風が吹いてきた。ありがたい。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(111)

2010-08-04 18:40:27 | Weblog



8月4日

 拝啓 ミャオ様

 それまでは毎日蒸し暑かったのだが、昨日の朝の気温は15度と、Tシャツだけでは寒いくらいの涼しさで、暑さの苦手な私は、北海道にいる喜びをしみじみと感じていた。もっとも、朝から暑くなくて涼しければ、すぐにでもやらなければならない仕事があるのだが。

 草刈である。草刈鎌(かま)一丁で、車の通る道に茂る草を刈っていく。日が差し込んでくる前の、早朝の1時間ほどの間、アブや蚊を追い払いつぶしては、流れる汗をぬぐいながら、ひたすらに草を刈っていく。北海道の言葉で言えば、数日もかかるゆるくない(楽ではない)仕事だ。
 作業している間は、ただ単純動作を繰り返すだけで、余り余計なことは考えない。一息ついて振り返ると、自分のやってきた成果の、刈り払われた道がすっきりとして続いている。
 それはどこかしら、山登りでの運動にも似ているところがある。ともかく、その一仕事を終えて、家の中に戻る。汗まみれのシャツとズボンを脱ぐ。たちまちのうちに、汗は乾き、肌はさらっとした感じに戻る。そこが本州の夏の暑さと違うところであり、私が北海道を好きな理由の一つでもある。

 それにしても、あの飯豊山(いいでさん)遠征第一日目の登りで、熱中症でフラフラになるほどの暑さ(7月30日の項)の中歩いたことは、今にしても思い出したくもないことだった。
 もう2週間もたつのに、いまだに、さて大雪の山にでも行こうかという気にならないくらいだ。かといって、飯豊山の思い出が悪かったというわけではない。むしろ、あの雄大な山容、豊富な残雪、数多くの花々が散在するお花畑に・・・もう一度行かなければと思うほどなのだから。

 飯豊山の花の印象は、と言われれば、とにかくいたる所に咲いていた黄色いニッコウキスゲの大群と、1800mくらいからの稜線の道の傍に、あちこちに群れ咲いていた、白い綿毛に被われたヒナウスユキソウ(いわゆるエーデルワイスの一種)である。

 それに数は少なかったが、この辺りの山だけに生育するというヒメサユリも、何箇所かで見た。それは、群生していても、わずか数本くらいのものであったが、あの上品な薄桃色の花びらは、辺りの空気が変わるほどにすがすがしい感じがした。
 同じユリ科のものとして、飯豊山では、圧倒的な数のニッコウキスゲの他にも、クルマユリと稀少種のヤマスカシユリ、そしてこのヒメサユリの4種もの花を見ることができた。
 写真は、杁差(えぶりさし)岳周辺で写したヒメサユリである。わずか一輪だけだが、二つの花が夕暮れの影の中から浮かび上がり、寄り添うように咲いていた。
 私は、あらためてこの写真を見て、この山旅の終わりでの出来事を思い出した。

 前回からの続きにもなるが、私は、4日に及ぶ山での疲れをいやすために、その日は登山口の小さな集落の民宿に泊った。明日から登るという客が5人と、山から降りてきた私の6人だった。
 その民宿には、かつて、この飯豊山登山整備に尽力したという80代半ばの老夫婦がいたけれども、殆んどの仕事を50代くらいのおかみさんが一人で取り仕切っていた。

 話を聞くと、ご主人はこの春に突然の病気で寝たきりになり、病院に入院していて、6人もの子供たちは、冬の大雪でこの集落は閉鎖されるために、遠く離れた町で暮らしているとのこと。
 夏場だけこの民宿をやるために、その町から、おじいちゃんおばあちゃんを連れてきて面倒を見ては、さらに朝4時に出発する客の送迎から、買出し、民宿の料理から掃除にいたるまでのいっさいを一人でやっているのだ。
 ただやっていくしかないからと、明るく笑う彼女に、私は、一人だけで余りにも好き勝手に暮らしている、自分を情けなく思った。

 翌日、一日に二往復だけのバスに揺られて街に出て、ローカル線の駅から電車に乗り、さらに終点で、同じ2両編成の電車にもう一度乗り換えた。
 温泉で有名な駅から、私の座る4名向かいあわせの席に、二人のおばさんが乗ってきた。都会風な身なりで、地元の言葉とは違う都会の言葉で、一緒に来た仲間の一人の話しをし、さらに夏休みの別荘での家族の集まりや、外国にいる夫のことなどが、切れ切れに聞こえてきた。
 私は、ただ窓の外の景色に目をやっていた。夏の熱気で霞む山々、緑の稲が揺れる田んぼ、照り返しの道を走る車・・・。

 ある小さな無人駅に、子供と若い母親が手をつないで立っていた。ドアが開くと、母親の方だけが乗ってきて、小学生くらいの子供は、「じゃーね、バイバイ」と言って、手を振った。
 ドアが閉まり、電車が動き出した。するとその、ビーチサンダルにランニングシャツ姿の子供は、手を大きく振りながら走り出した。最後は全速力で、電車に並ぶかのように・・・。すぐに、子供の姿は見えなくなった。母親は、入り口のドアのところに立ったまま、遠ざかっていく駅の方を見つめていた。

 私の胸の中に、一挙に、子供の頃の思い出がよみがえってきた。遠い田舎の親戚の家に預けられていて、街で働いていた母が、一ヵ月に一度、私に会いに来て、そしてまた別れて行く時・・・。
 あの走り出した子供の姿は、まさしく私の子供時代の姿そのままだったのだ。

 私は、こみ上げてくる思いのままに泣きたかった。しかし、隣からは途切れることなく二人の話し声が聞こえていた。私は、手のひらで頬杖(ほおづえ)をついて、必死に涙をこらえた。年をとった私に、もう母はいないのだ
 窓の外に、景色が流れていった。山あいの風景の中に、一つの大きな風力発電の風車が回っていた。私と同じように、彼女もそちらを向いて風車を見つめていた。

 回る、回る、風車は回る。時はめぐり、時代もめぐる・・・。

 他に座る場所があったにもかかわらず、その若い母親は、ドアのそばの手すりを握ったまま、終点の大きな街に着くまで立ち続けていた。
 
 私は、この親子の姿を見て、その事の次第を考えていた。
 彼女は、離婚して一人で子供を育てているのだ。その子供が夏休みになって、彼女は、田舎に住む自分の両親の元に、子供を預けに行ったに違いない。彼女は、夜から始まる仕事に合わせて、街に戻らなければならないのだ。何としてもあの子が、大きくなるまでは、がんばらなければと思いながら。

 電車が着くと、彼女の姿は人ごみにまぎれて見えなくなった。私は、その駅で乗換えて、新幹線のホームに上がった。乗降口を示す線の前に、今風な若い娘が立っていた。
 ショートパンツからすらりと伸びた足先には、ペディキュアされた足指がきらめき、その色に似合うサンダルをはいていた。反対側を走り抜けて行く新幹線の風に、亜麻色の髪をなびかせて、しきりにケイタイに指を走らせていた。
 
 二階建ての電車がホームに入ってきてドアが開くと、彼女は下の階に降りて行った。私は、二階の方に上がって、窓の外を眺めた。しかし、景色を見るには、余りにも速度が速すぎた。遠くに見える、里山の姿が、次々に流れていった。
 私は、一日で余りにも多くの人々に会いすぎて、疲れていた。その時、ふと私は、あの夕暮れの杁差岳に咲いていた、二つの花をつけたヒメサユリの姿を思い出した・・・。


 ミャオ、九州での暑い夏を何とかしのいでおくれ、もうしばらくしたら会いに行くからね。ごめんね、ミャオ。

                      飼い主より  敬具


飼い主よりミャオへ(110)

2010-08-01 18:38:52 | Weblog


8月1日

 拝啓 ミャオ様

 前回からの、飯豊(いいで)山登山についての続きを書くことにしよう。
 杁差(えぶりさし)岳避難小屋に泊った翌朝、今日は御西(おにし)小屋まで行くという若者は、早く起きて、4時過ぎの日の出のころには、一人で出て行った。
 外は、快晴の空だった。赤く染まった東の空の彼方に、朝日連峰や蔵王の山々がシルエットになって見えていた。もちろん、目の前の飯豊主稜線の山々も、昨日の夕方と同じ姿で、くっきりと見えていた。
 何よりも心配だった自分の体だが、足腰の筋肉痛もなく、朝の食欲も十分にあった。ということは、昨日のあのバテ方は、やはり熱中症になりかかっていたからなのだろう。

 5時過ぎに小屋を後にする。鉾立(ほこたて)峰を越えて、昨日登って来た、足の松尾根の分岐である大石山(1567m)に登り返す。振り返ると、見事な青空の下に、わずか1636mの山とは思えない堂々とした姿で、杁差岳が鎮座している。
 しかし、そこでの思い出に長く浸っているヒマはなかった。そこから南にたどる、たおやかに広がる稜線上のあちらこちらに、あのニッコウキスゲなどのお花畑が散在していたからだ。
 行きかう人も稀にしかいない道で、何度も立ち止まり、景色を見続けた。青空、くっきりと見える山々、お花畑、その誰もいないひと時の、何という幸せな時間だろう。

 少し登った先にある、水の豊富な頼母木(たもぎ)小屋で一息ついた後、地神山(じがみやま、1850m)に登るころから、早くも雲が広がり始め、次の門内(もんない)岳へと稜線をたどる頃には、もうガス(霧)の中を行く有様だった。
 しかし、今日の最後の北股岳(きたまただけ、2025m)へと向かう頃には再び、その雲が取れて、辺りの景色を眺めることができた。さらにその道の途中では、あのイイデリンドウやヒナウスユキソウなどの花々に、何度も会うことができた。

 梅花皮(かいらぎ)小屋に着いたのは、1時前だった。しかし辺りはすっかりガスに閉ざされていて、何も見えなかった。御西小屋まで行けないこともないだろうが、景色の見えない中、歩いて行くのはいやだった。まだ先もあるし、予定通りに、そこに泊ることにした。
 昨日の小屋と比べれば、それぞれの登山コースのポイントにもなる小屋だから、十数名のツアー客を含めて、二十数名が泊っていた。(それでも少ないそうだが。)
 
 翌朝、強風とガスの中、そのツアーの一行は、5時には出て行った。私は、この4日間の飯豊登山の計画に、二日間の予備日を用意していた。
 だから何も急ぐ必要はないのだが、天気予報は、二日後には崩れるとのことだから、ここで待つわけにはいかないのだ。仕方なく、私も吹きつけるガスの中、5時半には出発した。
 穏やかな稜線の下をたどる道は、幾つものお花畑や雪渓を横切って行き、晴れていれば左に飯豊本山(2105m)、右に大日岳(2128m)の雄峰を眺めながらのコースなのにと、ただただ残念ではあった。

 4時間ほどで、御西小屋に着く。今日の予定はここから、この飯豊連峰の最高峰である、大日岳を往復するだけなのであるが、展望のない道を歩いただけの登山をしたくない私は、そのまま小屋の中で休んでいた。
 しかし、昼過ぎになって、白一色の空が幾分明るくなり、晴れてくるかもと思い、一応、サブザックにカメラなどを入れて、歩き始めた。霧が流れていても、所々にお花畑が見える緩やかな丘陵状の道は、気持ちが良かった。
 時々、さーっと霧が晴れて、ニッコウキスゲの斜面の下に、残雪の谷が見えていた。最後の30分ほどの登りで、大日岳の頂上に着く。頂上標識だけが立っていて、ただ強い風が吹きつけ、白いガスが辺りを取り囲んでいた。

 そこで1時間近く待ってみた。しかし霧は晴れなかった。
 若い頃の話だが、晩秋の妙高に登るべく、高谷池の小屋に泊り、悪天候のままそこで二日を過ごし、次の日の朝、まだ雲の中にある新雪の火打山(2464m)に登り、そこで3時間近く待ったことがある。
 しかし、晴れてはくれなかった。あきらめて下り、妙高山(2454m)の登りにさしかかった頃から、白い空の一点に青い色が見えたかと思うと、見る見るうちに青空が広がり、頂上に着く頃には、快晴の空になっていた。
 大きな岩の上に上がり、そこから、鮮やかな新雪に彩(いろど)られた北アルプスの峰々を眺めた。そして、ふもとの赤倉温泉に下るまでの間、ただ一人の登山者にも出会わなかった。
 
 そんなことを思いながら、大日岳で待っていると、一人の若い女の人が登ってきた。挨拶して少し話すと、何と彼女は北海道出身であり、夫の転勤で、今は北関東の町に住んでいるとのことだった。
 しかし、それ以上に驚いたのは、彼女の健脚ぶりである。今朝、福島県側の川入(かわいり)、御沢(おさわ)口から登り始め、飯豊本山からこの大日を往復して、私と同じ御西小屋に泊るというのだ。
 コースタイムで言えば、15時間ほど、つまり今ではそのコースタイムどおりの時間がかかる、中高年の私にとっては、ちょうど二日分に当たる距離だった。
 北海道にいた頃、山岳会で活動したということだが、その足の速さには驚くばかりだ。私は、思わず、”エゾシカねえさん”と呼んでしまった。

 その夜、御西小屋に泊ったのは、二人連れの他は彼女を入れて単独行者が4人、それぞれに10時間以上かかる長いコースを登ってきた人たちばかりだった。大きな図体で、恐ろしい鬼瓦(おにがわら)顔の私は、今日わずか7時間ほど歩いただけだった。
 だからといって、体を小さくしなくても、彼らと山の話をしているのは楽しかった。さらに、夏期だけの管理人である、この小屋のオヤジさんとの話も面白かった。
 明日天気が良くないとしても、もう下るだけだし、この飯豊の山の良さは分かったのだから、山が逃げる前に(7月28日の項)、もう一度登りに来ればいいのだ。

 翌朝、風は弱まったものの、依然ガスがかかったままだった。5時過ぎに小屋を出て、なだらかなお花畑の道を歩いていると、突然霧がとれて青空が見えた。そこには、残雪に彩られた雄大な、飯豊山の光景が広がっていた。
 その後再び、ガスに包まれての繰り返しだったが、十分にその眺めを楽しむことができた。飯豊本山の山頂で、後から出て私に追いついたあの”エゾシカねえさん”は、先に下って行って、すぐに見えなくなった。
 北海道の大自然の林の中で、走り去っていくエゾシカのように、爽やかな一陣の風を残して。

 頂上から下る途中、地元の催しの集団登山である、数十人もの行列に出会った。明日、日曜日の天気はどうだろうか。
 草履塚(ぞうりづか、1908m)の登りから振り返ると、お花畑の斜面の向こうには、頂上が雲に隠れた大日岳があり(写真)、さらに飯豊本山の残雪に彩られた稜線も見えていた。

 種蒔山(たねまきやま、1791m)、三国岳(1644m)、剣が峰の岩場と、またしてもの暑い日差しに照らされながら、ひたすらに下り続ける。さらに、ブナの大木の続く尾根を下りきると、ようやく、御沢の登山口にたどり着いた。
 そこには、大白布沢の流れがあって、私は辺りに誰もいないのを幸いに、洋服をすべて脱ぎ捨てて、川に入った。
 冷たい。しかし、気持ちいい。頭ごと水に入って、四日分の汗を流した。パンツもそのまま水洗いをして、はきなおす。下からきゅんと、体も引き締まるのだ。
 
 後は、キャンプ場、駐車場から、再び夏の日差しに照らされながら、川入の集落へと歩いた。まだ2時半だったが、一日2本のバスには間に合わなかったし、かといってタクシーにまで乗って先を急ぐ必要もないので、そこの民宿のひとつに泊ることにした。
 
 一日目の、熱中症気味のバテバテぶりからすれば心配だったが、ともかく計画の予定通りに歩いて、無事に下まで降りられたことに感謝したい。ありがとう、母さん、ミャオ。お二人の、御加護(ごかご)のおかげです。
 飯豊山は、期待以上に素晴らしい山だった。そこに咲く花々については、イイデリンドウ、ヒナウスユキソウ、ニッコウキスゲ、ヒメサユリなどの他にも数多くあり、それだけで長い話になってしまうので割愛するが、なんといっても残念だったのは、後半の天気が良くなかったことであり、一、二年のうちに(山が逃げていかないうちに)、ぜひ、あの霧で見えなかった部分を歩き直さなければならない。私の正当な、飯豊山の評価のためにも。
 そして、あのフランスの詩人、フランシス・ジャムふうな私の祈り・・・。

 「神様、この、哀れな年寄りのために、その時のために、今一度の力をお与えください。
 大きな体と態度の鬼瓦顔ではありますが、常日頃から自然の中の木々に囲まれて暮らし、その木々や草花たち、そして生き物たちを愛しておりますれば、時々、邪魔になる草や木を引き抜き、蚊やアブを叩くことくらいは、それは、私が生きていく上でのことと、お見逃しください。

 御告げの鐘がなりますれば、私はいつでもあなたのもとへと行く覚悟でおりますが、今、少し時間をお与えくだされば、あなたの下にある、自然界のことを、さらによく理解することができると思うのです。

 私は、これまでの自分の人生を、良くも悪くも、運命だとも決めつけたことはありません。これからも、時の流れに沿って、その流れがいつか消えることを十分に分かった上で、生きていきたいと思っております。
 何事も、御心のままに。」

 次回は、飯豊遠征登山の余話について。 

                       飼い主より 敬具