ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ロープウェイ登山

2020-06-14 21:32:54 | Weblog



 6月14日

 ”梅雨入り”だという通りに、この4日間、雨模様と曇り空の日々が続いている。
 シトシトと降り続く雨、周りの樹々や家の屋根に叩きつけるように降る雨、そして重たい曇り空から、生温かい風が吹きつけてくる。
 それだからこそ、その前の5月から6月初旬まで続いた、晴れの日をありがたく思えるし、そのころの青空と山々の姿がよみがえってくるのだ。そして出かけなくても、家のベランダの揺り椅子を小さく揺らしながら見ていた、庭の新緑の樹々と青空のことも。
 とは言っても、前回の記事からは何と3週間近くも間が空いたことになり、その間のことをこの一回の記事で穴埋めしようというのは、土台無理な話だが、それでも要約という形で、今書き留めておくほかはないだろう。

 まずは、”他府県をまたぐ旅行の自粛要請”に従って、相変わらず身動きができないのだが、もっとも飛行機の減便だけでなくバス便の運休などもあって、まずは空港まで行けないし、今では北海道は遠い世界になってしまった。
 もっとも北海道の家に帰っても、水は出ないし風呂にも入れず、外トイレで不便だし、ヘビはうじゃうじゃいるし、周りの友達知り合いにも、気楽に会いに出かけることはできないし、今まで通りに一刻も早く帰りたいとはとても言えないのだ。
 それなら、水、風呂、トイレとそろったこの家にいたほうが、このぐうたら年寄には気が楽なのだ。
 長い私の人生の中で、大切な一つの目的でもあった北海道が、今や遠くにかすんでいくような・・・昔、函館から青森に渡る連絡船で、その白い航跡の彼方に、遠ざかっていく函館山の島影を見ていた時のように・・・。

 もっとも今回のこの”コロナ禍”によって、良かったと思えることもあったのだ。
 時間に余裕をもって病院に通うことができるようになり、気がかりだった体の変調のうちの二つは、薬による治療を受けてすっかり収まってしまったし、そして何よりも、年寄りの私にとって深刻な問題であった、視力低下についても、手術を受けてそれもほぼも半年かかったのだが、前よりずっと良くなって回復したのだ。
 その劇的な変化は、今までにも書いてきたとおりで、すべてのものが明るく輝いて見えるようになって、少し大げさかもしれないが、この自分の新しい眼で、もっともっと日本の山々を、様々な四季の風景を見るために、長生きしたいとさえ思うようになったのだ。
 病院嫌いの私が、医学の進歩のありがたさに、今さらのように気がついて・・・お恥ずかしい限りですが。

 ともかくそうした期間を含んでいたのだから、コロナ禍による自粛の時間が、私にとってあながち無駄な時間だったとは言えないのだ。
 体裁をつけて言えば、次なる出発を目指す、再生のための時間だったのだと思いたいのだ。
 自分にとってのこれからの残された時間は、もう長くはないが、こうしてほんのひと時だけでも、新たな世界を見ることができたことを、良しとすべきだと思う。
 人生にあたえられた時間は、もちろん各人各様なのだが、子供のうちに自分の人生が終わってしまう人もいれば、百歳をゆうに超えてまだまだ余裕かくしゃくたる人もいる。

 もちろん、人生の長さでその人の価値は決められるべきではないし、ましては生きているうちに成し遂げてきた仕事や業績で、その人のすべてが推し量られるべきものでもないと思っている。(自分が何も遺さなかったからの言い訳からでもあるが。)
 つまり、個人の人生の価値は他人から評価されるべきものではないし、唯一自分だけが判断を下せるものであると思うのだ。
 それだから、良かったのか悪かったのかと、物事をその時点で短兵急に判断するのではなく、最悪に見えるものでも、それがあったからこそ、反対に助かったし良かったものもあるはずだと、すなわちすべての行動や出来事が、”生きる”という枠の中で関連付けられているものだから、そして、すべての人のために同じように時は流れて行くものだから、そうした中での出来事だったのだと思えば、自分の人生に悔いは起きないはずだ。
 つまり、すべての人にとって人生は良いこともあり悪いこともあるものだし、あらゆるものは時の押出しの流れの中に、平等に消え去って行くものなのだから。

 さらに言えば、物事を悲観的に見れば負の連鎖になってしまうし、だからこそ過度な期待や希望は持たずに、自分への疑いの心を持ちながらも、行く末を楽観的に考え、あとは時の流れに身を任せていたほうがいいのかもしれない。
 確かに若い時には、抗(あらが)う気持ちを持つことは大切なことであり、そのことが学習になり体験として身につくものだが、そんな経験を積み重ねてきた年寄りたちは、その成否はともかく、物事はいつしかその収められた場所に収まってしまうものだ、と理解するようになるのだ。
 そして、結局はなるようにしかならないのだから、額に青筋立てるよりは、”おつむてんてん”と、”脳天気(能天気ではない)”でいたほうがいいのだ、と残り少ない人生についてこのじいさんは考えるのでした・・・。

 さて、と言った年寄りのたわごとは置いといて、前回からの三週間余りもの日々が、まず”ミヤマキリシマDAYS”とでも呼びたいほどの”、楽しい山歩きの日々であったこと、というのも、今が盛りの山のツツジを見るために、10日ほどの間に3回もの登山に出かけたからだ。
 最初に行ったのは、前回の記事のすぐ後の5月下旬、別府郊外の山の鶴見岳であり、まずはその時の模様から。

 五月晴れの日が続いていて、朝の澄んだ空気の中、途中の湯布院の狭霧台から眺める由布岳(ゆふだけ、1583m)の姿がすがすがしく、いかにも新緑の時期を思わせた。(冒頭の写真)
 こうして、条件の良い時に眺めるから言うのではないが、今までもこのブログでたびたび書いているが、由布岳はどこから眺めてもすぐにそれとわかるほどのきれいな双耳峰であり、これほど顕著な二つ耳のピーク持つ山は、北アルプスの鹿島槍ヶ岳、頚城(くびき)山群の雨飾山(あまかざりやま)、上越国境の谷川岳、尾瀬の燧ヶ岳などの山々が良く知られているけれども、それらの山に勝るとも劣らない、いやこの山こそが一番均衡のとれた形だと思っていて、やはり天下の名山と呼ぶにふさわしいと思う。
 九州の山の中から三つを選ぶとすれば、九重山群と屋久島山群の二つは絶対に外せないが、三つ目の山としては、あの姿の美しい霧島の高千穂峰(1574m)と、この由布岳との間で迷うことになるだろう。
 私が九州の山で一番多く登っているのは、九重山群であり、数えてはいないが、各コースがあるから併せて数十回は超えているだろうし、次いで多いのが由布岳であり、こうした新緑ミヤマキリシマの時期や紅葉の時期もいいけれど、九重と同じく、何と言っても冬の雪や霧氷がついた時が素晴らしく、十数回は登っているはずだ。

 今回行くのは、その由布岳の東隣に並んでいる鶴見山群の中の主峰、鶴見岳(つるみだけ、1375m)である。
 観光地別府の山として有名であり、山頂下まで行くロープウェイがあって、四季を通じて観光客でにぎわっている山である。
 今までにも二度ほど、母や友達と一緒にそのロープウェイに乗ったことはあるのだが、登山目的で乗ったことはなかった。
 つまり登山道のある、南登山口や西登山口から、併せて数回は登山として登っているのだが、今回は運休していたロープウェイが再開されたというニュースを見て、さらには山頂付近のミヤマキリシマが見ごろを迎えているというニュースも重なって、翌日は快晴の天気予報が出ていて、”もう行くしかない”とじいさんは、”あーえらいやっちゃえらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ”と小踊りして喜ぶのでした。
 つまり足腰の弱ったこのじいさんは、苦しい登りをロープウェイに乗って楽をし、下りを別なルートの登山路で山の景色を楽しみながら歩いて下ろうと考えたのだ。

 いつもはこの100人乗りのロープウェイは、今の花の時期なら満員になるほどなのに、この始発便に乗客は作業員の二人を含めても10人で、コロナ禍のさ中らしく全員マスク着用。
 天気がいいので展望も素晴らしく、山腹はヤマボウシの白い花に彩られ、頂上付近にはミヤマキリシマの赤い色も見えている。
 山頂駅から、鶴見岳山頂までは遊歩道を歩いて15分ほどだが、もう駅舎を出た所から、ミヤマキリシマの花が素晴らしく、別府湾を背景に(写真下)、さらには九重連山を背景に(写真下)、由布岳を背景にと絵になる風景ばかりだった。





 中には三脚にフィルムカメラという専門家の人もいたが、私はあたりかまわずデジタルカメラのシャッターを押しまくっては、その音の数だけでも満足するのだ。(”下手な鉄砲でも数打ちゃ当たる”というわけでもないが。)
 そして、頂上の大きなテレビ中継鉄塔のそばから、西側に登山道を下りて行く。

 リョウブやノリウツギなどの低い木々の林をジグザグに下り、抜けると目の前に鞍ヶ戸(くらがと、1344m)から内山(1276m)、伽藍岳(がらんだけ、1045m)へと続くいわゆる”別府アルプス”の稜線が見えていて、その後ろには由布岳の姿が大きい。(写真下)

 観光客たちはもうここまでは下りてこないし、ルリビタキの鳴き声を聞きながら、そばの岩に腰を下ろした。
 頭の中で、”何も深く考えることはないのだよ”という声が聞こえてくるような、この青空と山とミヤマキリシマの花と・・・。

 それにしても、目の前の鞍ヶ戸の山体崩壊の跡が、ひときわ目を引く。
 4年前、最大震度7の熊本地震で(家でも震度5の揺れがあったが)、その時にこの稜線のあちこちで崖崩れが起きていて、その中でも最大のものが、目の前の鞍ヶ戸の東側斜面で、登山道ごと消えてしまったのだ。(登山者がいなくてよかったが。)
 今ではもちろん、その手前の鞍部の馬の背に通行禁止の立て札があるが、ネット情報によれば、その上部には長い固定ロープが取り付けられていて、通過できないこともないということだが、もちろんまだ崩壊の恐れがあり、危険を覚悟でのルートだということなのだろう。
 私もかつてこの稜線を二度ほど(一度は途中から)たどったことがあるが、クルマを停めた所に戻るしかなく、いささか交通の便が悪いし、途中の上り下りがきついが、展望に恵まれた花の稜線であり、何とか安全な道を整備してほしいものだ。

 さてと私も腰をあげて、すぐ下の鞍部まで下り、そこから急斜面をジグザグに下りて行って、西の窪(くぼ)に着き、そこから平坦な林の中の道をたどり、右手の小尾根に取り付いて、小さなこぶを二つ越えて最後の一登りで南平台(なんぺいだい、1216m)に着く。
 途中で3人の単独行者に抜かれ、ここでも何人かがいたがすぐに下りて行ってしまい、いつものように私だけの展望台になった。
 もちろん、目の前にさえぎることなくそびえる由布岳が素晴らしいし(写真下)、九重連山も見えている。
 ここも、こうしてミヤマキリシマの咲いている時期がベストなのだろうが、あまり人に会わない紅葉の時期や冬の雪のある時期こそが素晴らしいのだが。



 一休みした後、鶴見岳の山体との境になる小さな沢筋に下りて行き、あとは印などを頼りに鶴見岳の山腹を東の方に回り込んで行き、南側の正面登山口から来た道に出合う。
 やれやれと思ったのもつかの間、今度は右ひざが痛くなり、登山口の由緒(ゆいしょ)ある火男火売(ほのおほのめ)神社の長い石段では、手すりにつかまらないと下りられないほどで、そんな私をしり目に若い人たちが別々に3人、それぞれに私に挨拶して登って行った。
 しかし、その先のロープウェイ駐車場まではまだ距離があって、ほとんど5分おきに腰を下ろして膝を休ませて、時間をかけてやっとの思いで下りてきた。
 頂上からのコースタイムは2時間足らずなのに、休みを入れたとしても何と倍以上の時間がかかっていた。

 思うに、行きの登りで足をならさずに、あとはずっと下りばかりだったから、ひざが耐えきれなくなったということなのだろうが。
 思えば若いころ、スイスアルプスのトレッキングで、外国人の年寄りたちが、歩いて登り下りにリフトなどで降りてきていたのを見て、逆だろうと思っていたのだが、今になってようやく腑(ふ)におちた。
 下りでひざを痛めたのは、あの5年前の北アルプスの鹿島槍と五竜の縦走(’15.8.4~17の項参照)の時がきっかけになり、その次の年の大雪山緑岳(’16.7.11の項参照)でもう決定的な痛みになったのだが、ただ今ではもうすっかり治っているものだと思っていたから、余計に衝撃的で、将来の山登りへの不安が黒雲のように広がり、暗澹(あんたん)たる思いにもなってしまった。
 しかし、これでもう山に登れなくなったとしても、今日のこの天気のもとで見た花と山の姿は、一点の曇りもなく素晴らしいものだったし、もしこれが最後の登山となっても、ロープウェイなどを使って山の上まで行くことはできるのだし、どこに後悔することがあろうかと思い直した。

 さて、書き始めると、長くなってしまうのが私の悪い癖であり、あとは簡単に、この期間に見たテレビ番組の中から幾つかをまとめて書いておくことにする。
 いつもの『ポツンと一軒家』も去年の再放送だったが、あの94歳のおばあちゃんと68歳の娘さんが営む山梨県の身延山(みのぶさん)七面山の休憩所のその後も、コロナ禍で客足が減ったものの元気二人でやっているという話だった。
 あのおばあちゃんが自分の脚でこの参道を登ってくるという話には、全く感心するばかりで、私もひざの痛みぐらいで、弱音を吐いてはいられないのだ。
 そして『日本人のおなまえっ!』も再放送で、埼玉県皆野町の話しだが、出牛(でうし)という名前が地形から来ているという説と、さらに隠れキリシタンの里に近く、デウスから来ているのではないのかという話、まさに慄然(りつぜん)とするミステリー仕立てになっていて、何と言っても、このころのテーマは面白かったのだ。
 ミステリーと言えば、NHKEテレの『日曜美術館』とNHK・BSスペシャルの『4人のモナ・リザ』も、繰り返し論議されるモナ・リザの謎が、相変わらず興味深かった。

 もっとも、私たち自身のそれぞれの出自(しゅつじ)と終末そのものが謎であり、ましてや過去を思い出しつつ、毎日を奇跡的に生きていること自体が、人としての謎ではないのだろうか。
 いつものように、和歌を一首。

”夜もすがら 昔のことを見つるかな 語るようつつ ありし世や夢”  大江匡衡朝臣(おおえのただひらあそん)

(夜中にずっと昔のことの夢を見ていて、亡くなった相手と話していたのは、その時のことだったのか、それともまさしく夢だったのか。)

(『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)

 次回は早めに、残りの二つの、ミヤマキリシマ登山について書くつもりだが・・・。